浜松中納言物語 0
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「武夷山探訪21」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。予定では先に大紅袍景区へ行く段取りでガイドは私を連れてバス乗り継ぎ地点へ来た。だが私の空腹な思いを察してか、それとも空腹のまま山道を歩かせるのはガイドとして取るべき行動ではないと思ったのか?先に昼食を取ってより景区へ入る事になった。ガイド曰く、団体のガイドならば自由が利かないが、一人のガイドなら変更してもさほど問題ではないと反対側のバス停へ向かった。バスで一度外へ出てガイド仲間に聞いたというレストランまでタクシーで行った。出口から5分ほどの道のりだったが、歩けば20分以上かかってしまう。ガイドもはじめて来たというレストランの名前は土楼家宴と福建土楼に由来している。ガイドが何故私を土楼家宴へ連れて来たのかは定かではないが何となく高そうな雰囲気だった。
2011.01.21
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「武夷山探訪20」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の中に入り乗り継ぎ停留所で、昼食を取ろうかどうか迷った。なぜならば出発を遅らせたものの返って起床が遅くなり朝食も取らずに慌ててホテルを出てしまったからだった。また昨夜ホテルの店でチョコレート類を買ったもののホテルを出るときにバッグに入れるのを忘れて来てしまった。食べるものがなくても普段は気にならないが無いと思うとバッグの中を探したりポケットの中を、まさぐったりした。いつもなら食べかけのビスケットの袋が丸めてバッグのポケットに入っていたが今日は影も形も見られなかった。ガイドが、そんな私の行動を見て取り何か忘れ物ですかと尋ねてきた。チョコレートやビスケットの話も出来なくただ何となく腹が減った事だけを伝えた。写真は玉女峰で、外に見える岩肌が美しいく、美女にたとえられこの名前が付いた。その玉女峰の前には九曲渓の二曲付近を筏下りをする旅行客を撮影した。この時ガイドは友人に電話を掛けていたが、レストランの場所を聞いているようだった。
2011.01.20
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「武夷山探訪19」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山も三日目になると疲れが出る。二日間毎朝8時に待ち合わせをしていた。だがガイドと話し合い今朝は11時にホテルロビーにて待ち合わせた。ホテル前よりタクシーを拾い、武夷山の南口ゲートまで行った。ホテルからは15分ほどと遠くはない。武夷山南ゲートより周遊バスに乗り、乗り継ぎ地点へ着いた頃は昼頃だった。列車風自動車が目の前を通り過ぎて行き、その光景を撮影したが列車をアップで撮った画像もあったが列車が小さく映っている画像を更新した。乗り継ぎ地点に立っているバス停の標識。メイン通りから奥へは中型バスで行った。もうそろそろ昼食を取りたかったが、ガイドからこの辺りでは食堂が少ないのでゲートの外で食べれば良かったと小声で話す。
2011.01.19
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「武夷山探訪18」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の中を運行する周遊バスのバス停まで来たがバスのほかに列車型バスも運行している。天游峰は武夷山第一の景勝地であり、一番先に登ったが上から望む九曲渓は、登る疲れを吹き飛ばしてくれた。舟棺という四曲辺りから斜め上の洞窟を見上げると古代の棺が置かれている。一線天や竹筏の埠頭行きなどバスで連れて行ってくれるがルートをまず覚えそれから利用しないと問題が起こりそうだ。大木をくり抜き舟の形に見える棺を撮影しようとして偶然カメラが壊れた。武夷山に来てすぐ目にするのが大王峰である。九曲渓の入口にそびえており快晴時は息を飲む。 九曲渓の二曲を下った所に玉女峰が見えてくる。武夷山というより福建省の象徴的存在であり、福建省の絵葉書でも紹介されている。武夷山の中でまだ回り切れていないものの武夷山の四大景勝地は今日の大紅袍で回り終わる。
2011.01.18
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「武夷山探訪17」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。昨夜は武夷山のガイドと一緒に、ホテル近くの焼肉屋で夜中まで飲んだ。高級な焼肉屋でもない感じだったが、日本円で2万5千円ほど支払った。上海辺りでも2人で6千円ほどなので、何となく騙された気分で朝を迎えた。多分私の行動をガイドが詳細にチェックしお金を取れると踏んで料理屋に打診し自分へのバックマージンを取ったのではと疑ったりしたが、一度疑えばきりがなくなる。中国の一般の作業員の1か月の給料は、日本円で2万5千円ほどである。内陸部へ行けば1万5千円ほどであり、ガイドと行った焼肉屋の勘定が2人で2万5千円の請求を受け、支払ったものの何となく騙されている感じを拭えなかった。だが一人で旅行しておりガイドを付けてもらい、自由な行動をしていればガイドにとっては、絶好のカモであり少々は仕方がないと思った。別れ際には、明日またよろしくと握手をし、100元のチップを握らせている愚かな自分がいた。写真は武夷山南口入口であるが人が少ない。
2011.01.17
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「武夷山探訪16」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の南入口で3日間有効の入場券を、買ってより武夷山へ入った。武夷山での周遊バスは何回乗っても無料、だが主要な観光名所には1回しか入れない。私は二日で3か所を見て回ったが、残す所は明日来る事にしてホテルへ戻った。ホテルに帰ってより、ガイドと共に、カメラ店へ行ったが1軒目では一眼レフの修理は出来ないとの事で2軒目に行った。2軒目では修理は可能だが技術者が出掛けており、いつ修理が出来るか分からなかった。それでも何とか修理をと故障の症状を紙に書き、修理の手付金として200元置いてきた。その後、烏龍茶をガイドの友人宅で飲むため歩いて15分ほどの道のりをガイドと行った。幻の烏龍茶を飲んだが普通の烏龍茶と変わらない味と感じたが、一般の烏龍茶と飲み比べてみると、その差は歴然だった。夕方食事の前にガイドの知り合いのマッサージ店で体をほぐしてもらったが、観光地のマッサージ店は気を付けないと高い料金を請求されるので、注意が必要であるが私は割安にしてもらった。
2011.01.16
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「武夷山探訪15」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山は烏龍茶の里としても知られる。武夷山の岩山の狭い茶畑で取れるお茶は、烏龍茶のなかでも秀でて高級品である。武夷山岩茶は自然が生み出したもので、銘茶の産地として古くから知られている。武夷山の烏龍茶の中でも高級品になると、100グラム2万円を超えるような高級茶が、売られているが中々お目にかかれない。春先の新茶の中でも最上級のお茶に手を加え、作られ1年の内、一時期しか取れない。写真は茶畑に立てられた警告表示で、茶畑に入るべからずと上手ではない字で書かれており、入った者は5元の罰金。
2011.01.15
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「武夷山探訪14」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の南側を流れる九曲渓筏下りの、途中で突然のカメラ内部ミラーが落下した。旅先でのカメラのアクシデントは、突然にやって来るもので、そのために、予備のカメラを用意して持ち歩いている。だが、筏下りで川の中へカメラを、落としてしまう人もありガイドが気を遣い、予備カメラとレンズ類を預けておいた。カメラのミラーは、交換レンズを外すと、直ぐにカメラ内部に見えるミラーのことで、外部からの光を取り込む役目をしている。シャッター連写時には1秒間で5コマの、動きをするがミラーも同時に動く。10万枚の撮影に耐えれるが、ミラーの裏側を確認してみると接着作業に問題があると思った。再度接着剤でミラーを接着できたら撮影する度にレンズを外し定位置にセットし、また撮影するとミラーが外れるという事から開放されるのではと思ったが接着剤など持ち合わせてはいなかった。川下りの最終場面の30ショットほどは手作業で、ミラーを戻すという結構危ない事をやった。レンズをカメラにセットしシャッターを押すと、ミラーはレンズとカメラの空間で踊って落下。その落下するときに15万円ほどのレンズを、傷付けてしまう場合もあり、かなり慎重に行った。終点船着場でガイドが手を振って迎えてくれたが、筏の上から私も思わず手を振っており可笑しかった。ガイドに訳を話し、すぐに予備の一眼レフに、レンズを付け撮影を続けたがカメラが違うので、慣れるまでに、少し違和感があった。写真は、一線天で寄り添った巨岩の僅かな空間から、もれる光が細い一本の線に見える洞窟の画像。洞窟の入り口から登ってゆくが途中から体を、横向けないと登れないほど狭い空間もあった。
2011.01.14
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「武夷山探訪13」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山九曲渓の四曲を過ぎてより、船頭が船を漕ぐのを止めて写真の方を、指差し説明をしてくれた。昔、風葬が行われていた洞窟だとか、遺体を風にさらし風化を待つ葬事で、今はもちろん行われていない。私は船頭の話を聞きながらも画像の洞窟へ、レンズを向けシャッターを切っていたが、突然パリンという金属音のような、ミラーのガラス音のような音が聞こえた。私は一瞬、レンズを洞窟へ向けたので、霊が撮影を出来なくしてしまったとも思った。 気を取り直し、非科学的な考えはやめ、カメラの内部が壊れた事は間違いないと思った。どう考えても明らかにミラーに何かトラブル。私はモニターに撮影した画像を映し出したが、上のように画面は真っ黒になっていた。シャッターを押しても、カメラ内で何かが、引っ掛かってシャッターを押しても動かない。私は、慎重にレンズを取り外し中を見ると、ミラーが定位置になく、はずれていた。メーカーの説明では、10万回の耐久試験にも、耐えられると思い出したが、新しいカメラは、まだ2万回のシャッターも押していなかった。予備のカメラはガイドに渡してあったので、どうすればよいか考えた末に、シャッターを、切る度にパリンとミラーが外れた。何も撮影しないよりはと一枚撮影する毎に、レンズを外しミラーを定位置にセットし撮影を、続けるという気の遠くなる撮影を繰り返した。40万ものカメラがこのような欠陥品などと、思いながらも気を取り直し撮影した。
2011.01.13
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「武夷山探訪12」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山九曲渓の筏下りも半分ほど過ぎた。自然保護区に指定されているだけあって、九曲渓は神秘的な美しさがあった。船頭が一生懸命九曲渓のポイントが来ると、船を漕ぐ手を止めて説明してくれた。中国の人達は船頭に質問をしながら楽しい、会話をしながら、筏下りを過ごしていた。私は船頭が話すポイントが来ると、レンズを向けシャッターを切っていたが、ポイントの紹介説明はその時は、覚えているが時間が経つと、忘れてしまっていた。ただ船頭の説明の中で、奇岩や山の形を動物に、譬えて説明をしてくれたが、撮影している間に、奇岩を見るタイミングを逃してしまい一体何処が、その動物に似ているのかと首をひねった。星村碼頭を出発した筏から水面を見ると、山がきれいに映る時があるとの事だった。最初の湾曲を過ぎた所で青蛙石などが見える。流れが急になりかけると双乳峰が近くに見え、渓流沿いには上下水亀などの奇岩が見える。中国の小学生の女の子は、想像力を働かせ、船頭の言う岩に、別のものに見えると、自分で楽しそうに名前を付けていた。写真は五曲・小九曲・金鶏洞・四曲などと、彫られた岩の画像であるが、快晴なので鮮明に撮れている。
2011.01.12
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「武夷山探訪11」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。私達6人が筏に乗ると同時に船頭さん2人も、直ぐに乗り込み、約10キロの筏下りを、2時間程楽しんで頂きますと岸を離れた。観光客は6人ずつ乗せないと出発しないので、9人グループなどの場合、6人と3人に分かれて、筏下りをしなければならないが、写真のように、筏は次から次へと出て確認できる。筏の上には竹で作られた椅子が6脚作られており、椅子と椅子の間も20センチほど離れている。救命胴衣の着用は義務付けられており、着用するまで筏を出してはくれない。冬でもあり厚着をしていたので救命胴衣の、着用に手間取っていると船頭さんが、後ろから手を添えてくれたので助かった。ガイドからカメラバッグなど不必要なものは、私が預かりますからと言われ、交換レンズのみ、出したのち、予備のカメラと2本の交換レンズの入ったバッグを手渡すと、重たいですね~と笑った。お客さんの中には一眼レフのカメラを川の中へ落としてしまった人や筏下りの途中で不安定な姿勢のとき、筏が揺れカメラは水の中へポチャリ。カメラと思い出のデータは戻らなかったとの事。ストラップは首から提げておいた方が良い。写真は七曲付近を通過で、下の岩山が天游峰である。
2011.01.11
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「武夷山探訪10」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山九曲渓の筏下りを堪能した。ガイドが筏を待つ行列の中に入り込み、5人家族の旅行者が居ないか聞いて回った。行列の中間程の5人家族と交渉成立し、私は5人の家族と共に筏下りを楽しんだ。中国人5人は祖父母と父母と娘の5人だった。私は35歳ほどの父親と握手を交わした。すると奥さんや祖父母まで手を出し握手を、求められたので、何となく歓迎されている気分で、手を上下に振り強く握手をすると小学生の娘も、私日本人と握手するのは初めてと笑顔を見せた。筏には14センチ程の太い竹が16本程、横につなぎ合わされ、幅は2m20cm程。トヨタのランクルで2mないがそれより幅が広い。また長さに関しては、5m50cmほどあるが、実際のランクルでは1m20cmほど長い。家でも同じ事が言える。家の基礎の段階では、こんなに小さな家なのかと思っていても実際に、家が建ってみると基礎の段階で思った小さな、家から結構広いと思うのと同じである。以外に小さい筏と感じていた時、足に冷たさを、感じたが、それとほぼ同時に、私の横に、座った少女の父が、運動靴が水の中に・・と。筏の座席の足を置く所は、竹で一段高く作ってあり、その竹の上に足を乗せればスニーカーの水没は、防げたと思いながらもカメラの設定に、気を取られていたと笑ってみせた。写真は筏に乗りながら撮影した九曲と、岩に彫られた光景を撮影した。
2011.01.10
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「武夷山探訪9」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。朱熹は南宋の哲学者で1130年から1200年の70年間を生き、71歳になった時他界した。 朱熹は朱子学の創始者で朱子の名で知られる。福建省建州に生まれで18歳で科挙進士に合格。宋代の新しい儒学をまとめ上げ朱子学を、完成させた事でも知られている。朱熹の死後、朱子学は徳川幕府の官学として、明治維新までわが国思想の背景をなした。中国漢詩の偶成には、 少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んず可からず・・・若者は年をとり易く、学問は成就しにくい。ゆえ少しの時間でも軽々しくしてはならない。上記の漢詩を思い描きながら、誰も居ない武夷精舎の教室の椅子に、腰を下ろし、机に膝をつき思いにふけった。5分もしないうちに、ガヤガヤと、中国女性達の声が聞こえて来たので、机を、バン!と音がするほどに手を付き立ち上がった。外に出ると日差しが目に眩しいほどに感じた。ガイドから、次は筏に乗りましょうかと言われ、ガイドは乗らないので船着き場で待っていますと、筏乗り場まで案内してくれた。
2011.01.09
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「武夷山探訪8」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。隠屏峰の南麓の石段を上り、更に、南側へ進むと朱熹が建てた武夷精舎の、学校跡が資料館のように残されていた。朱熹が12世紀後半に開いた学校とのこと。初めは何の建物か分からなかった。朱熹の名は目にした事があったものの、朱熹が朱子学をまとめた事は知らなかった。朱子学は儒学であり身分制度の尊重や、君子権の重要性を説いており、朱子学は、13世紀には朝鮮に伝わり、朝鮮王朝の統治理念として用いられた。朝鮮は高麗の国教であった仏教を排し朱子学を、唯一の学問としたが、韓流時代ドラマでも、身分制度など如実に描かれている。武夷精舎は九曲渓の五曲にあり、朱熹が、54歳のときに築造した勉学の場であり、朱熹はここで5年間講学したとされる。南宋末に拡張されて紫陽書院となり、明代に朱熹から8代の孫の朱洵と朱?が、改建して朱文公祠と改称した。近年まで清朝初に再建された武夷精舎の、残址と石碑が残るのみであったが、2001年再建され現在に至る。武夷精舎の中の様子は次のページで更新。朱子は1130年に福建省で生まれ父より、学問を教わって論語や孟子の経典に親しんだ。
2011.01.08
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「武夷山探訪7」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の茶洞から峰の登山道を、登って行くと隠屏峰にたどり着ける。隠屏峰の隠屏とは、峰が連なり、見え隠れする光景が屏風のように、見える事から隠屏の名がついたとの事。登山道の前方を見上げると天游峰の頂上を、目指して絶壁を登る人々が小さく見える。 そこを通り過ぎると巨大な一枚岩の、屏風のように切り立った隠屏峰が見えてくる。峰の西側には接笋峰があり、広場には、樹齢1000年以上はあろうかと思われる樹木が、ぽつりぽつりと立ち並んでいた。私一人に24歳のガイドがついてくれたが、案内をするより、仕事の愚痴をこぼす方が、多いように感じたが、私は黙って聞いていた。武夷山のガイドは急な石段が多く、登るたびに疲れが翌日まで残ってしまうと言う。特に36人ほどの団体ツアーのガイドなどになると、早く登りたい人やゆっくり上りたい人、また体の不調を訴える人など気の休まる時がないと言う。私は、笑いながらも、それが仕事なのだから、一生懸命にガイドの仕事をするしかないのではと、話すと、この狭い所でこのままガイドをして、時間だけがむやみに過ぎていく。中国全土を自由に行けれるガイドになるための、ガイドの資格免許をとりたいと話していたが、若いと言う事だけで羨む自分の心にハッとした。
2011.01.07
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「武夷山探訪6」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山の登山道は急傾斜の石段だった。中国人の登山客の中には、急な石段を、眺めただけで、登らずに引き返す人もある。私はカメラ機材だけで8キロほどあるバッグを、肩から提げているので、思いの外きつかった。天游峰の険しい登山道から、九曲渓へ下る途中、茶洞と記した石碑に、ピントを合わせてシャッターを切った。武夷山では烏龍茶の茶畑が有名である。茶洞と書かれているので洞窟かと思った。だが実際には大きな一枚岩どうしに挟まれ、洞窟のような狭い場所に茶の樹が、植えてあるから茶洞と呼ばれる由縁。九曲渓の河原へ下りてきたが水の流れる、せせらぎが聞こえるほど静かだった。筏下りの船頭の持つ太い竹竿が、川底を突き、水を切る音が心地よかった。写真は、九曲渓の河原から間近を、通り過ぎて行く筏下りの光景を撮影した。
2011.01.06
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「武夷山探訪5」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。写真は天游峰の上から望遠で撮影。武夷山へ来た目的は天游峰登りと、九曲渓のイカダ下りであるが、武夷山景区でも一番人気は天游峰である。旅行に出発する前に考えることは、山登りをしてより平野を旅するか、先に平野の観光地を観てより山登りをと、迷うことが多いが今回は後の方へ山を入れた。今までにも経験していることではあるが、先に登山をしてのち平野を観光すると、運動不足の場合、必ず足の筋肉痛になる。バスで移動し目的地に到着し下車。だが第一歩が痛くて気合を入れないと、痛くて大変だが、中国人も同じようだ。経験をもとに登山を後に持って来ると、それまでの観光で疲れが溜まってしまい、登山途中で何度も休憩をしないと登れない。私は普段から5キロほど歩いているため、余程のことがない限り大丈夫だが、中国人の中には、ぐったりし籠に乗り、移動する人も見かけるが、登山の途中から、ギブアップする人の場合厄介である。写真は、九曲渓の筏下りであるが、筏には6人しか乗ることができなく、私一人なのでガイドに5人グループを、探してもらい、筏下りをすることになるが、思いもよらないアクシデントに見舞われる。
2011.01.05
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「武夷山探訪4」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山は36の峰から構成された山で、そのほとんどが一枚岩からできている。海底が隆起した岩は圧巻であり、渓谷は全長60キロの九曲渓が有名である。武夷山で最も高い峰は天游峰と呼び、標高400メートル以上ある。天游峰の山頂の天游観に登るためには、幅の狭い急な石段を1時間以上掛けて登る。途中何度も休憩をしながら登り、普段いかに運動不足かを思い知らされる。冬なのだが背中に汗をかいているのが分かる。休憩をした後は、冷やされた冷たい汗が、背中に感じられ気持ち悪いと感じ背筋を伸ばす。だが、天游峰を登り出し少し経つと、その気持ち悪い感触も吹き飛んでしまう。天游峰を登って休憩をするたびに、下の九曲渓を望んでしまうが疲れも吹っ飛ぶ。また高い位置からの眺めは低い位置より、絶景であり、登っているときは、もう下山しようと何度も思った。そう思うものの九曲渓を見るたび、一歩でも高い位置から眺めたいという衝動に、かられているから不思議である。
2011.01.04
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「武夷山探訪3」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。昨夜は武夷山のホテルで食事をした。蛇のから揚げ料理が出たが久しぶりの、蛇料理はコリコリして美味かった。広東省で生活していたころは、よく蛇料理を食べに行ったものだった。大きな店に行くと白い綿の生地の袋に、蛇を入れて私の横へ持ってきて、今から料理する蛇の太さを見せてくれる。蛇を袋から出して「これで良いか」と、店に持って来るが、あまり感じの、良いものではないが習慣なので仕方ない。武夷山にも蛇料理はあるが、蛇をさばき、調理をして持って来るまでに時間が掛かり、肉や野菜の炒めものが多くなる。 蛇のしゃぶしゃぶも美味い。蛇を皿の上にきれいに並べ、赤味の肉を、網じゃくしに入れ、沸騰している湯に、暫く浸けたあと食べるが、これもまた美味い。蛇の肉をさばいた後に残った蛇の骨を、から揚げにしてもらうののまた美味しい。だが、時間が限られる山歩きでの食事は、やはり山菜料理が早くて美味しいのかも知れない。
2011.01.03
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「武夷山探訪2」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。武夷山は江西省と福建省の境界に、またがっており、武夷山の近くには、武夷山空港があり各都市から直接入れる。武夷山の主峰である黄崗山の海抜は、2158メートルあるが、これから入る武夷山は、海抜はそれほど高くはなく1000mほどである。黄崗山を中心にした武夷山風景区が世界遺産に、登録されたのはまだ12年ほど前の事である。武夷山の中に入ると自然の岩肌に、多くの文字が彫られている光景を目にする。どこの山の風景ともよく似ているが、茶畑が多いのも目にする事が出来る。また比較的低い丘陵や山が広がるが、赤く切り立った崖や柱のような峰が多く、その間をめぐる渓谷なども「武夷仙境」や、「奇秀甲東南」と呼ばれている。気候は、亜熱帯気候に属するため、冬でも比較的暖かいと感じた。羽毛ジャケットを持って行ったが汗ばむ、場面も多くあったが羽毛を脱ぐと、冬でもあり直ぐに寒さが襲ってきた。武夷山の降雨量は比較的多く、その雨が山を削り、雲を生み、美しい九極渓を作り出している。
2011.01.02
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「武夷山探訪1」 「中国写真ライフ」では、福建「武夷山」の写真を公開しています。新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。アモイ空港から武夷山空港まで飛び、空港まで旅行社の人に迎えに来て頂いた。私一人武夷山へ来たが、ガイドを一人、付けてくれるとのことで武夷山へ行った。写真は武夷山ゲート付近の風景。武夷山は福建省にある黄崗山を、中心とする山の総称で、黄山、桂林と並び、中国人が人生一度は訪れてみたい場所だ。山水の名勝として有名で、世界遺産に登録。ガイドと待ち合わせしていたが私の名前を、書いたカードを持った人が現れずヤキモキした。約束の待ち合わせ場所で15分ほど待っていると、「すみません、日本人の・・さんですか」と、中国語で声を掛けてきた青年が近寄ってきた。私の名前を書いたカードを忘れてきてしまい、同じところでず~っと待っていたという。握手をしてからチケットを買いに行くと言うので、段取りが悪いが大丈夫かなどと思ってみたりした。
2011.01.01
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「永定土楼探訪14」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。客家土楼を探索中に遊んでいる子供に、出会って、彼女たちと会話した。初めは警戒心たっぷりの表情で、「あかんべえ」をされたが何度も、レンズを向けても恥ずかしいのか、表情は硬いまま、心を開いてくれなかった。観光客は、こんな中まで入って来ないのか、私がいる間、誰も入っては来なかった。子供たちにレンズを向けると目をとじたり、白目をむいたりするので、おかしくもあった。私のカメラの液晶モニターに映し出した画像を、見せると目を丸くして見つめていた。そして彼女たちの目をとじた写真や白目の、写真の画像を見せると声を上げて笑った。その後に撮影した彼女たちの写真だが、閉ざしていた心を開いてくれたように感じた。カメラバッグからチョコレートを出し彼女達へ、手渡したが、あまり良い事ではないような、感じがして少し後悔をしていると携帯が鳴った。 「永定土楼探訪15」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省の永定土楼にて撮影を続けていたが携帯電話が、私を呼んでいるのに気付き電話に出るとガイドから、「今どこにいるのですか」とあわてた様子の声。「予定より30分早く出発する事になったから出来るだけ、早くバスまで戻るよう」との内容電話だったが、時計を確認すると集合時間までには、まだ1時間ほどあった。私は「まだ3分の1ほど見ていないから予定通りの時間にバスへ戻ります」と伝え電話を切ったが、少し心配だった。地元の人に入り口まで歩いてどれ程か聞いてみたところ、早歩きで20分程との事で今自分自身が立っている位置がどの辺りか聞くべきだったと思いながらも奥へと歩いた。歩いていると、また携帯電話が私を呼ぶので出てみると、ガイドだった。日本語の話せる中国人に替わるからと、携帯を持ち替える雑音の後「もしもし」と女の声。「出発するので早く帰って来て下さい」と話す。私はわざと早口の日本語で話すと、もう少しゆっくりと、話して下さいと言うので、中国語で話しましょうと、中国語を話しだすと、「あなた一人のために皆さんが、迷惑するので、できるだけ早く帰って来て下さい」と、話した後ガイドに替わった。私はどうして予定通りの行動をさせてくれないのかと、ガイドに文句を言った後、引き返す事にしたものの、あちらこちらへと行ったので帰り道が分からなかった。客家地元の青年に10元でバス駐車場まで乗せもらい、バス駐車場に辿り着いたが、中国人は35人中7人ほどしか集まっていなかったので更にガイドに文句を言うと、こんなに早く戻って来るとは思わなかったと、馬鹿正直な私を申し訳なさそうに笑った。結局、予定時間を30分過ぎた頃にバスは出発し、私が慌ててバスへ戻ってから1時間15分あとだった。ガイドは、中国人は約束の時間を守りませんから、あなたも同じだろうと思って電話で催促したとの事。それを聞いてより余計に腹が立ったが、4時間の帰り道がアモイへ着く頃には気分も晴れていた。今日は12月31日大晦日、よいお年をお迎え下さい。
2010.12.31
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「永定土楼探訪13」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。土楼にも当然ではあるが大小があり大きな、土楼では、四重の囲屋に囲まれた土楼がある。土楼は4階建てで高さが13メートルある。円楼の1階部分だけで70部屋ほどあり、4階あわせて部屋数は280室ある。二階建ての円楼でも各階44部屋で88部屋となる。平屋の小さな円楼でも部屋数は36室ある。客家(はっか)が使う言葉は、他の方言に比べ、客家語には、中華文化の発祥地である中原の、河南省一帯古語の方言が多く残っている。中国語方言も大きく分けて八方言ある。北京語、上海語、呉語、?南語、潮州語と、湘語、客家語、広東語の8方言だ。細かく言えば56民族それぞれに方言があり、更には20キロ離れると聞き取り難い言葉になる。日本においても方言はあり何を言っているのか、分からない場合があるが、中国の場合は、日本の比ではなく、全く通じない。中国では20年ほど前から、少数民族や広東語を、使う香港などでも、学校の授業では普通語を、使い休憩時間でも共通語で話している。だが年配の人達は、テレビで普通語が多いとはいえ、普通語を聞くことは出来るが話せない人も多い。普通語とは、共通語であり現代中国語の標準語の事。
2010.12.30
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「永定土楼探訪12」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。アモイを朝8時に出発し昼ごろに、福建土楼に着いたので4時間ほどの道のり。客家土楼駐車場には2時間半後に集合して、午後3時に出発する予定を聞き、土楼文化村の中へ入って行った。永定土楼からアモイまでの帰り道も、4時間掛かったとして夕方7時頃に着く予定。アモイからの現地日帰りツアーで参加したが、日本人専用ツアーも多く組まれているとの事。日本からのパッケージツアーならば、初めから組まれているので問題はないようだ。写真は円楼ではないが、3階まで上がってより、2階の生活空間や中庭の風景を撮影した。土楼には水道が通っていなく、井戸のみである。だがモーターを使って汲み上げ鉄管を通り、中庭の壁を鉄管が伝い蛇口を捻れば水が出る。各土楼には2・3つの井戸が彫ってあり井戸の、周りでは話しに花が咲き、異部族の侵入により、移動を繰り返すような運命であったが、各土楼を、見て来て一族が暮らして来た空間が見えたようだった。
2010.12.30
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「永定土楼探訪11」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省永定土楼の中の見学をしている。アモイ地元の中国人ツアーに混じって、ツアーに参加したが、撮影をしている間に、自分のツアーガイドたちとはぐれてしまった。やっとアモイからのツアーの小旗を持ったガイドを、見つけついて行ったが、私のバスのガイドと違い、観光をしている中国人たちの顔も見たことがない。待ち合わせ時間は聞いており、心配する事をやめ、土楼の中の庭へ入り込み撮影を続けた。庭の真ん中には井戸があり、その横では、女性がひとりで洗い物をしていた。片隅に置かれた台の上に花が置かれていた。植物が鉢植えされていたが、名前がわからない。ただ、南天の実という事だけは分かった。だが、上の花は何という名前か分からない。ネット友人の雪桃さんやさなちゃんなら、何の花の名前かがすぐに分かるだろうと思った。下の写真の両手首から広げた手のひらの置物。中には直径3センチほどの筒が置いてあった。花瓶のようでもあったが、中は乾ききっており、花を生けたような跡はなかった。そんな折、アモイから同じバスで来たという人に声を、掛けられたが、その二人の女性たちもガイドから、はぐれてしまっているとのことだった。
2010.12.29
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「永定土楼探訪10」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建土楼の福裕楼は永定土楼の中でも、代表に、その名前を連ねている。1880年から建設が始まり3年の歳月を、費やし敷地面積は2100坪以上ある。写真は福裕楼の入り口付近だが、何かの祝い事があったのか爆竹の跡が残り、火薬の匂いがあたり一面漂っていた。中国では爆竹の使用は一時禁止されたが、庶民は我慢できず、いつの間にか、夜中でも朝方でも爆竹を鳴らしている。下の写真は、もうすぐ60歳を迎えると、話してくれ、生まれた時から土楼で育ち、二人の子供が授かったが、一人は村を飛出し、娘はこの村の青年に嫁いで、孫がいるとの事。初め許可を得ず、上の画像を撮影していたが、段々近づいて来て、レンズを指さすので、てっきり怒られるのかと思っていた。だが、どこから来たのかとか、カメラマンかとか、矢継ぎ早に質問攻めにあったが安心した。そして北京から来たと話すと北京へは一度だが、行ったことがあるよと、私はこれ以上話すと、言葉に詰まり、ばれてしまうとその場を去った。
2010.12.28
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「永定土楼探訪9」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建土楼の福興楼に来たが、この土楼は、円楼ではなく方楼の長方形の形をしている。1820年頃の清の時代に建てられた土楼で、門は1箇所にしかなく不便なようだが、攻め込まれた場合には返って、守り易いのかも知れない。福興楼は3階建てになっており階段は、4箇所にあったが上がらなかった。190年ほど経った古い土楼で壁が、ひび割れた個所が多く見受けられたものの、土を盛りあげ、手入れは行き届いている。写真は赤いテーブルを父親と共に、運んでいるところだろうが、子供が父親の、腰に手を当て、ヨイショ!ヨイショ!と、掛け声を掛けている光景は微笑ましかった。福興楼の売店の前に来たが、小売部と、書かれた奥にはジュース類や洗剤などが置かれ、手前には、お茶葉っぱで、ゆで卵を長時間ゆで、ゆで卵の中が茶色っぽくなった卵を売っていた。下の客桟と書かれた宿泊所の前に来た。食事が出来るほかに20元(280円)だせば、宿泊できる所謂、簡易ホテルである。夜露を避けるためには良いが、泊まろうと思えば、かなり勇気を振り絞らないとならないと思う。
2010.12.27
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「永定土楼探訪8」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建土楼では客家の部屋を見学できる。自由に部屋の中を見て、生活空間を、感じ取ることができる。部屋の中に入ると床は土間になっていたり、真新しい材木で床が敷かれている。各部屋にはベッドが置かれており、子供たちのランドセルがベッドの上に、無造作に置かれていた。さらに階段を上って上の階へ行こうと、思ったものの階段の上り口の壁には、「請注意防火」と木片に書かれていた。日本でいうところの「火の用心」だが、中国の人は見学をしながら平気で、タバコを吸う人も多く、また火のついたまま、至る所にポイ捨てする人も少なくはない。中国国内旅行であっても、旅をしている人は、中流階級と思っている人が多いが、その人達でさえマナーの悪い人も多い。注意が書かれた下には「立ち入り禁止」と、真新しい木片に書かれた注意事項があり、プライベート空間のために立ち入りを、禁止しているのか聞いてみた。建物の老朽化で、一度に大勢の人の重みで、事故が起きては困るので禁止にしているとの事。
2010.12.26
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「永定土楼探訪7」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省の土楼の中には共同井戸が、掘ってあり生活用水として一族が使う。だが、飲み水として飲む場合は、現地の人でもお湯を飲んでいる。20年以上前日本人が中国へ行って、不注意に飲んでしまうのが水道水だった。井戸水も火を通さずに飲むと、おなかの調子を悪くしてしまう人もいた。25年ほど前、中国を旅行した折に、旅行社の人から、生水は飲まないようにと、何度も注意を受けたことを思い出す。注意を受けても、いい加減に受け答えしていたが中国へ行ってからは注意して市販されている、ミネラルウォーターを買っては飲んでいた。旅行ではなく中国へ居住するようになって、中国の人達から、中国の水道水を直接、飲んではいけないと何度も言われた。まだ一度も生水は飲んでいないが、夏などに、喫茶店で氷を入れてある場合は、注意をしないと、氷が水道の水で作られている可能性があり、それが原因で肝炎になった人もいる。日本は軟水で世界の中でも最もきれいな水が、飲めれる国として自慢できるが、他の国では、硬水なので、体の弱っているときなどに、生水を飲んでしまった場合、肝炎になり易い。
2010.12.25
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「永定土楼探訪6」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。アモイから直通バスで4時間西側へ、走ったところに永定土楼はある。永定土楼の中の土産物売り場では、木の根っ子を利用して顔を彫り、根はひげとしてそのまま利用していた。原木で、その土地にまつわる人形を彫って、土産物として販売しているのはよく見かけた。だが、写真のように器用に木の一部分を彫り、販売している土産物は少ない。確かに、雲南のシーサンバンナや江西省では、弥勒菩薩などを、木の根を利用して彫られ、販売されているのは見たことはある。だが、客家の人々が彫ったと聞かされ、工房には案内されなかったものの、その受け継がれた技法にシャッターを押した。
2010.12.24
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「永定土楼探訪5」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省永定土楼の散策をしているが、ここに住む人々を客家と呼んでいる。私が広東省に5年ほど住んでいた時、客家の人とよく食事をしたものだった。彼の故郷は福建省だったが詳しい住所までは、聞いていたと思うが忘れて気にも留めなかった。彼はマレーシアに住み、よく中国へ来ていた。その16年前に客家とは中国国籍を持ち外国に、住んでいる中国人だと理解していた。だが、その思いはごく一部分の事であることと、中国国内に住む客家が断然多いことに気付いた。中国国内客家出身で有名な人は、中華民国の総統である孫中山で日本では孫文の名で知られる。また孫中山の妻であり後に中国の国母の、宋慶齢も客家の出身であり、蒋介石の妻の、宋美齢も当然だが客家出身である。後に国民党と共産党の戦争の狭間で宋慶齢と、宋美齢の姉妹は永遠に会う事はなかった。また新儒教である朱子学の創始者の朱子は、福建省で生まれ、晩年は福建省で没している。その他、中国共産党初代元帥の朱徳や中国の、改革開放政策で知られるトウ小平も客家である。中国の周恩来が養子にし首相までなった李鵬など、他にも沢山の歴史に残る人物を輩出している。よそ者の意味をもつのが客家だが戦争難民として、南下して来た名門の出身であり皇帝からの贈り物が、伝わってる客家の家も有ると言うから驚く。
2010.12.23
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「永定土楼探訪4」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。客家とは、中国の民族名で漢民族の一種で、客家の呼び方は、日本語でハッカと読む。紀元4世紀の初めから12世紀の初めにかけ、黄河流域から徐々に南方に移住した漢民族で、現在では広東省や福建省また広西省などの、地域に広く居住するようになり客家方言を話す。客家は何故、土楼という建物文化を築いたのか。客家は長年続く戦乱から逃れるため南方へ、民族大移動をしたが、王朝が変わるたびに、土地を追われ南下を繰り返した。 モンゴル王国の元が南方征伐で、南宋の皇帝が、浙江省から広東省まで避難した時代に客家も、皇帝に従い広東や福建の山奥に暮らすようになる。清朝の時代になると経済の発展につれて客家の人口が急増した事により移り住んだ土着民の間で、争いが繰り返され、さらに客家の一部は、湖南や、広西、四川などに移住することになる。移動したのは一部の客家だったが土着民との接触が、多い永定県の客家は、集団で暮らすようになった。集団で暮らすために住む家を繋げて集団住宅が誕生。写真は客家の生活の為のルールが書かれた祭壇。
2010.12.22
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「永定土楼探訪3」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建土楼の永定土楼の中でガイドが、中国人ツアー客達に土楼の説明をしていた。その時間に私は土楼内の土産物売り場に、積み上げられた土楼の土産物を撮影した。土楼とは、日本の土壁のように土にワラを混ぜ、補強した土壁を、杉の木を使い建てた円楼に、厚く塗って作った集合住宅で共同生活をする。私が今居る土楼は振成楼と呼ぶ丸い円楼だが、円楼以外にも方楼や多角楼など色々な形がある。土楼には多くの家族が共同生活し、その人数も、300にんから400人以上の人がおり、まるで小さな村といった感じである。昔は角楼も建てられたが、時代とともに、角楼より円楼の方が建築材料の節約になると、円楼を多く建てるようになったという。また円楼に変化したのは風の抵抗が少なく、台風などの強い風からも土楼を守ってくれる。円楼であると全ての部屋が同じ大きさで、共産主義の根本の平等を表しているという。だが共産主義が生み出したものは平等ではなく、貧富の差が広がり、ちょっとした切っ掛けで、暴動が共産主義政府に向くのではと全ての、都合の悪い情報に蓋をし庶民に知らせていない。
2010.12.21
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「永定土楼探訪2」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。1912年に建設された永定土楼民族文化村は、永定県湖坑郷洪坑村にあり、アモイから、西部方面へ直通バスで4時間ほどの道のり。写真は振成土楼は永定土楼文化村のゲートを、入りほどなく見えて来た水車を撮影したが、この水車は観光用だが、地元の人も水車の、回転動力を利用して脱穀や製粉をするとの事。永定土楼民族文化村の事はNHKのBS放送で、見たことがあり、アモイへ行ったときに、何としても行ってみたいところだった。テレビでは、世界建築模型展覧会での説明では、万里の長城や雍和宮に並び中国の三大建築として、有名になったとナレーターが話していた。旅行社のガイドが引率したが、私は撮影に夢中で、いつの間にかツアーの列から外れてしまった事を、知らずに、そのまま撮影を続けていた。写真の振成楼の内には224室の部屋があり、今でも4百人以上の人々が生活している。 振成楼は永定県でも最も優れた円形土楼の代表で、部屋に宿泊も可能とのことであった。私は、三角の旗を持つガイドが私たちのガイドと、思い込み、そのツアー客たちについて行った。だが、そのガイドやツアー客たちは、広東省からの、バスツアーで、勘違いしたことに気付くのは、まだまだ先の事になるが、言葉の違いも、分からないほど撮影に没頭していた。
2010.12.20
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n 「永定土楼探訪1」 「中国写真ライフ」では、福建「永定土楼」の写真を公開しています。福建省アモイ市内のホテルフロントで、永定土楼への行き方について説明を受けた。フロントの女性はバスを利用したことがなく、ホテルの誰かに連絡を入れていた。暫くして年の頃40歳ほどの中国人男性が、私が待つロビーへ来て永定土楼ツアーの、パンフレットを差し出し説明をし出した。路線バスの場合にはアモイから龍岩まで行き、龍岩で土楼民族文化村行きバスに乗り換える。アモイから龍岩までは直通バスが30分毎に、運行しており3時間ほどで着くとのこと。龍岩から土楼民族文化村への直通小型バスが、出ており2時間丁度で着き、アモイから5時間程の、時間がかかりチケット代は往復150元とのこと。私よりアモイから土楼民族文化村までの直通で、行くバスがないか聞いてみたが直通はないとの事。面倒ですねと言うと日帰りツアーのパンフレットを、テーブルの上に置きバス料金と土楼民族文化村の、チケット代などすべて含んで350元との説明。バスも直通なので4時間ほどで着くので、往復、2時間以上の時間の節約ができる。ということで、350元(4900円)を支払いホテルを出て、アモイ市内の繁華街まで出掛け食事をした。中国人の日帰りツアーなので350元だが日本人の為の、日本語ガイド付なら1300元ほどだから安いのかも。写真は土楼民族文化村のゲート付近である。
2010.12.19
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「アモイ旅情46」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ植物園の出口付近に造られた噴水で、噴水の噴き出す水を止めた映し方や、流れるような映し方を画像にアップしている。同じ場面を2枚ずつ撮影し、上側の画像は、水の動きが止まった画像と下側の画像は、水が流れるような写真を撮影した。時間に余裕があるときなどの撮影では、マニュアル露出でシャッタースピードや、露出などを調整しながら撮影している。だが、普段の撮影は露出優先にしてあり、ピントを合わせる半押し状態にしたとき、自動でシャッタースピードが設定される。背景がボケる撮影は露出優先AEを使用するが、明るい大口径レンズを使い露出開放で撮影。大口径レンズは20万円ほどするので、よく考えて購入しないと後悔をしたりする。本題に戻ると水しぶきを止めた画像では、シャッター速度優先AEモードにして、速度調整だけで撮影する。シャッター速度優先AEで4000/1と早くすると、水しぶきが水玉のように止まった写真になる。逆にシャッタースピードを遅くすると、水が流れるような写真にすることができる。だが、シャッタースピードを遅くすると、露出がオーバー気味になり白トビをおこすので、ファインダーをのぞき適正なスピードを選ぶ。私は時間のあるときにはマニュアルで撮影するが、露出補正を設定しながら撮影できいい画像ができる。撮影対象に合わせてシャッター速度と露出を、任意に決定することができるので面白い。だがスローシャッターに設定すると手ブレが、起こり易く脇をしめてカメラブレを抑える事が大切。帰りは路線バスを乗り継ぎホテル近くまで行ったが、最終バス停からタクシーに乗りホテルまで帰った。
2010.12.18
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「アモイ旅情45」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。福建省厦門万石山公園はAAAAランクの公園で、山肌から岩がむき出しになったところが多い。岩に刻まれた「石林」の文字を見て雲南省の世界自然遺産「石林」が思い浮かんだ。石林は、海底が隆起し、剣のように尖った岩が、織り成す造形美で、その岩には中華民国のころ、多くの文字が刻まれていた。雲南省石林アモイ万石植物園の散策も終わりが近づいてきた。帰り道は、どんどん広くなり、一時はどうなるか、少し不安な思いも抱いたが、今はゆったりと歩いた。植物園の通りには、南国らしいシュロの木や、椰子の木がきれいに手入れされ、その幹は、まっすぐ育っており気持ちを和ませてくれた。肩に提げたカメラバッグが、ずっしりと重たかった。カメラバッグには、旅先で何かあってはと思い、予備のカメラを入れており、3本のレンズも、全体の重さを増していた。カメラバッグだけで2キロあり、初めはそれほど、重さを感じないが6キロほどだが辛く感じる。また首から提げたメインのカメラとレンズも、2.5キロほどあり、これに三脚を持って歩く時など、普段からの体力づくりが大切になってくる。最近はできるだけ身軽にして行動している。
2010.12.17
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「アモイ旅情44」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。写真はアモイ園林植物園にある万石蓮寺の中。中国内一般の禅寺より小さい万石蓮寺だが、大雄宝殿の中には仏像が安置してある。日本の仏像も同じなのだろうが、中国でも、仏像の撮影は1990年頃から撮影禁止の寺が増えた。何故仏像は撮影禁止にしている寺が多いのか?主な理由として何点か挙げられる。1)撮影の対象物ではなく信仰の対象物なので、撮影を禁止している寺が多い。だが、外国人は、撮影している人が多い。2)心から信じ手を合わせている人の迷惑になり、堂内は撮影禁止にしている。3)写真を多く撮られ、その写真が世に出回り、仏像のありがたみが薄れるために撮影禁止。4)脚立や三脚を持ち込んで撮影している人が、堂内の保存ガラスを割ったりしたこともあり、文化財保護の観点から禁止にしている。5)礼拝場所は、狭く撮影する人が立っていると、参拝に来た人が入れなく迷惑になるためと、寺にとっては回転が悪くなるため。6)寺の境内で仏像の絵葉書を販売しており、仏像の直接撮影を禁止している寺もある。7)堂内は薄暗いのでフラッシュ撮影する人も多く、参拝に来られた人の心を乱すから禁止している。以上のような理由が挙げられるが、敦煌などでは、入り口でカメラ持ち込み禁止と預けなければならず、コンデジを持ち込み撮影した場合、最悪罰金になる。撮影禁止の寺が多いが撮影許可を取れば、参拝客の、少なくなった時に素早く撮影して下さいと、堂内の、僧侶に撮影を許可た事を伝える所もある。堂内撮影は基本的に禁止になっており、外に出て、望遠レンズで撮影する場合には問題は少ない。世の中の宗教は仏教だけではなく色々な宗教があり、仏像を只の芸術品として理解する人も多いので、外国人にとって撮影禁止を理解できない人も多い。
2010.12.16
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「アモイ旅情43」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ万石植物園のなかにある万石蓮寺は、小高い丘の上にあり石段を上ると見えてきた。万石蓮寺は、1984年に寄付を受け新しく、建て直した寺は規模こそ大きくないが、新しい禅寺の仏教寺院の姿を見せていた。私が着いたときに、この寺への観光客は、誰もいなく、私一人だけだった。寺には大雄宝殿もあり、中を撮影しているときに、後ろから大きな声で、撮影はダメと言われ驚くが、年配の中国人女性で、中の仏像は撮影しては、ダメだから、先に注意しときますよと歩いて行った。私は彼女を呼び止め、寺の外観の撮影は問題ないかと、聞くと、外観は何枚撮影しても良いですよと去った。私は彼女が去るのを待って石段を上がり本堂の中へ入ったところで被写体にレンズを向け撮影しようと、シャッターに指を掛けた瞬間、本堂の隅から、撮影してはダメだよと、おばさんがメガホンで、叫ぶので思わずシャッターを押してしまった。液晶モニターを開け撮影した画像を見ると、案の定、一瞬声に驚きシャッターを押したため、画像の両脇がブレていたので、その画像を、まだメガホンを持ったままの女性に見せた。苦笑いを浮かべながらも、ここは私の持ち場だから、撮影してもらっては困りますと早口で言った。私から、何故仏像の写真を撮ってはダメなのか、分かりますか?と聞くと何故だか分からないと言う。私から彼女に撮影禁止の訳を話すと身動きせず、真剣に聞き入っているので、おかしくもあった。私の説明は次のページで書くとして、大雄宝殿の裏側には功徳林や念仏堂もあり前の石段には、沢山の精巧に作られた龍の浮彫もあった。下の写真は釈迦三尊の釈迦と文殊菩薩、普賢菩薩。仏法の事は分からないが、釈迦の過去世と現在世、右側が未来世の姿と理解してもよいのでは・・?
2010.12.15
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「アモイ旅情42」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。太平岩寺から少し下ると道は段々広くなった。その道の両側の岩には文字が刻まれており、その刻まれた時代や意味を思い描くのも楽しい。広い通りには多くの観光客も歩いており、自分一人で旅する時には思い込みで行動し、今回の旅も逆行して不安になったものだ。安堵した気持ちで、広い道なりに歩いていると、道の右方向の小高い丘の上に寺が見えた。予備知識もなく、その寺の方へ歩いて行った。万石蓮寺と書かれた寺は唐代に建てられている。明末に増築され、修築を繰り返して来た。万石蓮寺の門を潜り、道なりに登るって行くと、大きな岩に「歩入雲宵」と刻まれた文字が目に入る。歩入雲宵の意味は、歩いて行くと天までとの意だが、そのまま歩いて石段を登って行くと寺は高台に、建てられており、そこから下の景色を見ると、それは例えると空から見るような絶景なのかも。
2010.12.14
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「アモイ旅情41」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。万石山と万石山植物園はアモイのグランユに、位置しており自然により出来た光景が見られる。写真は獅山の主峰に位置し岩奇と石怪で、旧8景に数えられる太平石笑を撮影した。写真からは見え難いが、石笑と彫られた岩に、斜めに二つの岩が寄りかかっている。一枚目の写真では状況が分かり辛いので、新しく写真をアップしたが分かるだろうか?二つの岩の下を潜り抜ける時に上を見ると、二つの岩の間が開いており、その光景は、石が口を開いて大笑いをしているように見える。後から分かった事だが、中国のガイドブックにも、詳しく掲載されておらず、私は表門から入らず、裏門から入ってしまったようだった。逆行しているとは思ってもいなかったが、表門から入っていれば、また違う印象を、受けたのかも知れない。植物園の裏から山を登り細い道を歩きながらも、シーズンオフとは言え観光客とは出会わなかった。太平岩寺の裏門を見た時は感じなかったが、後から思うと、裏門から細い道を通り植物園へ、抜ける人は、それほど多くはないと感じた。石笑の文字が刻まれている所で鄭成功が、時間のあるとき読書をしていたとのことだった。
2010.12.13
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「アモイ旅情40」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ万石植物園の小高い丘を越えると、道教の寺へ出て来てシャッターを切った。どうやら私は正門から入らず裏門から、入って来てしまったようだった。ガイドも付けない一人旅ではよくある事。明代末から清朝の初期にかけて造られた寺で、中には天帝を祭っているが釈迦とは違う。生命の死や再生を通して命によって豊穣を、得られるという古代中国の祭祀の最高神が、天帝と言うことだったが難しい。道教の寺には、鄭成功も祀られている。太平岩寺の正殿の両脇で天帝の天壇を祭っている。清朝の嘉慶通宝の古銭でも知られる嘉慶年間に、太平岩寺の修理が行われたが、45年後の1862年、仏堂から出火し全焼してしまった。太平岩寺の仏堂の再修復のため募金を募った。だが貧困に喘いでいた当時では仮仏堂を建てるのが、やっとの事で中華民国に入ってからも仮堂だった。中華民国の1934年に、豪商や在家の信徒募金により、仮正殿を建てたが、消失以前の華やかさはなかった。抗日戦争も終結したが、中国内戦状態で貧困状態。資金も集めることが困難になっていった。共産党が勝利を収めたが、人民解放軍による駐屯地に、万石山が選ばれ、駐屯拠点に太平岩寺が使われた。1965年末、駐屯軍は防備を撤収して解放された。アモイ市の仏教協会に交渉し協会から生活物資などの、供給を受けるようになり落ち着きを見せ始めた。だが、文化大革命が始まると、寺に居住する人たちは、寺を追われ、太平岩寺は深刻な打撃を被ることになった。仏堂の天帝も破壊されるのではと隠すため地域の人達と、民家に安置して文化大革命を乗り切ったが中国各地の、状況は皆同じで、小さな仏像は壁の中に埋め込み守った。文化大革命も終結し正式に太平岩寺に対する使用権を回復。25年後に資金を集め、太平岩寺は今の姿になった。
2010.12.12
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「アモイ旅情39」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ植物園の浅い人工池の周りには、所々コンクリートのベンチが置かれており、家族連れや若いカップルが腰かけていた。その中を通り抜け、小高い山道に入った。山道を上りながら、両脇や曲がり角に、置かれた岩に刻まれた人の名前や文字から、受ける意味を感じながら撮影した。上の写真は「鄭延平郡王」と彫られている。鄭延平とは鄭成功の別名であり、鄭成功の、功績を賛えアモイグランユに立っている。台湾を占領していたオランダ軍を駆逐した功績を、賛えられ高さ20mもある像が立っている。「長寿峡」や「寿」と彫られた岩の前では、シャッターを切ってからも暫く眺めていた。また岩に刻まれた年代が彫られていたが、30年前とまだ最近のことのようでもある。今や長寿国と言われる日本だが、中国にも、125歳の人たちも多く、貧困のため病院に、行くことも出来ず亡くなっていく人も多い。中国もこれから医学の普及と貧富の格差が、減るに従い、平均寿命も日本に追いつき、いつの日か追い越される時が来るだろう。だが閉鎖的な中国、言論の自由を束縛される中国、ノーベル平和賞の事柄の事実を知っている人は、一握りの中国人しかいないことにも憤りを感じる。
2010.12.11
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「アモイ旅情38」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ植物園は1960年造園されたが他の都市の、植物園も1956年から1965年ほどである。中国の北から南までの植物園開園は1959年前後で、1949年10月中華民国から中華人民共和国になり、中国内が落ち着き、国民の心に余裕が出てきた頃に、花や観葉植物を観賞しようとの気運が高まったころ。アモイ植物園は、万石山植物園とも呼んでおり、人工の浅い池には低い橋がセメントで作られており、その上を歩きながら池の中や対岸の岩に詩が彫られ、その文字を写真に収めながら、のんびりと歩いた。春から秋にかけての時期には、四季折々の植物が、観光客を迎えてくれるとの事だが、冬が近づくと、木々の紅葉も枯れ落ち、岩肌が目立つようになる。岩に「天風難肆」と彫ってあるが、その意味は、何か分からない。何となく空吹く風さえも、勝手気ままに吹くことは難しいようだとの意?「天朗気清」と彫られた岩も見掛けたが、空が晴れわたり空気がすがすがしいとの意味かな。万石山植物園には岩が多く、文字が刻まれており、立ち止まり、その文字が語りかける意味を、考えながらの散策もまた楽しいものである。
2010.12.10
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「アモイ旅情37」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。 アモイの植物園を散策中に小鳥が休憩しており、慌ててバッグより望遠ズームを取出しカメラに、取り付け撮影をした一枚の画像。小鳥の名前はハッキリしないが、ヒヨドリ・・?ヒヨドリの体の色はグレー系なので写真の小鳥は、ヒヨドリとは違うのかも知れないけれど、ヘアースタイルが、それらしいと思った。アモイ植物園は1960年に造園され一般公開された。中国の植物園の歴史を紐解くとまだ浅い歴史だ。 私が訪れた植物園ばかりの話になってしまうが、雲南省シーサンパンナ熱帯植物園は、メコン川の、支流である羅梭江の中洲に位置しており、1959年に一般公開されており熱帯植物の栽培に恵まれた土地だ。北京植物園は1956年に作られ桃の花祭りが有名だが、日本からの旅行では、中国まで来て植物園でもないと、ツアーにも組み込んでいない旅行社も多い。 上海植物園は1954年に今の前身が出来、1974年に、上海植物園と改称して1978年正式に公開している。私は地元でもあり、休みの日はよく行っていた。 広東省華南植物園は広州市の東北郊外にあり、中国最大の南亜熱帯植物園である。1956年に造られ、1968年に一般に公開されているた。杭州植物園は西湖の北にあり、東は玉泉山森林公園に、接している。1956年に造られ、1961年に一般公開。アモイの植物園には、万石山の麓に造られており、自然の岩がむき出しになっており、岩には文字が彫られ、その中を一人で歩いていると道教の世界感が体を、包み込んでいるような錯覚を受ける。
2010.12.09
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「アモイ旅情36」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。 アモイ園林植物園は万石山植物園と呼ばれており、豊富な水があり、様々な植物が貯水池を取り囲み、植物園の案内では、園林には、松杉?、シュロ園、バラ園、薬用植物園など20数種類以上の、植物区が順繰りに配置されている。写真はブーゲンビリアの花だろうか?一面に咲き、下は香港行政特別区の花の紫荊花である。広東省を代表する花で、冬でも咲いている。香港の旗のデザインにもなっている。 植物園には熱帯植物や亜熱帯植物など、多くの種類が栽培され、スギや銀杏また、世界五大庭園樹木の中国金銭松や日本金松、面洋杉の他沢山植樹されており、サボテン類も、見ることができるが、私は行っていない。だが少しサボテン園の話をするとサボテン園には、養殖して28年になる「エキノカクタス」という名の、球サボテンがあり、そのサボテンは直径が72センチ、50年にただ一度だけ花を咲かせるという事だった。花が咲くまでにはまだ22年も待たなければとも思った。
2010.12.08
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「アモイ旅情35」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。福建省アモイの万石山植物園へ来ている。朝8時過ぎホテルを出発して、フロントで、教えてもらった通りに市バスを乗り継ぎ来た。植物園の入口でまわり方を聞いたところ、面倒くさそうに植物園の案内板を指差す方向へ、歩いて行き、案内板の内容を簡単にメモした。だが、案内板では道順を分かったように思っても、実際に中に入り夢中で写真などを撮りだすと、全く違う方向へ歩き出してしまっている。熟知した所ならば、少々道に迷っても、方向修正出来るが、初めて来た所では方向が、正しいのか間違っているのかすら分からなくなる。そんな時に「トウ小平」のクスノキの植樹の、記念碑の所へ出て、撮影をしたのち案内板を見つけ、メモと照らし合わせたが、1か所飛ばして来ていた。1984年2月にトウ小平はアモイなどの経済特別区の、視察を重点に置き行動をしていた。2月10日午前、長雨が降り続く中、万石山でクスノキの植樹をした。福建省の政府幹部は、予定していた植樹活動を、中止にするよう提案していたが、トウ小平は笑って、頭を横に振り、植樹は最大の活動であると、降りしきる雨を押して、植樹したとの事だった。トウ小平は三回失脚、一回目は江西ソビエト時代に、毛沢東派の一人として失脚。二回目は文化大革命で、三回目は第一次天安門事件で失脚したが、復活する。トウ小平は1997年7月の香港返還を見ることなく、パーキンソン病ににより、1997年2月に亡くなった。トウ小平は遺体の献体を望んだが、身内の反対で、角膜移植に寄付するに留まり、遺灰は親族により、中華人民共和国の領海にまかれた。
2010.12.07
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「アモイ旅情34」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。 広東省の省境を超え福建省アモイ近郊まで、戻って来たが230キロほどの道のりの殆どを、高速道路を走って来たので3時間ほどで着いた。アモイ市内に入り暫しの間ウトウトしていたが、バスは私の宿泊しているホテルまで着いた。ホテルへ着いたという事でバスを降りたが、道路を挟んで反対側へ降ろされたこともあり、近くの陸橋まで歩き大回りをしてホテルへ着いた。大ざっぱなところも中国かと思いながらホテルの、中へ入って行ったが、バスを降りてより20分ほど、過ぎていた。フロントで明日行きたいところの、道順を聞いて部屋に入った。 私が行きたかった所は、アモイ園林植物園だった。園林植物園は万石山植物園とも呼び、園内には、寺もあるとガイドブックに記述してあった。万石山植物園チケット売り場横の案内板には、高読琴洞、太平笑石、天界暁鐘、石蓮寺や、甘露寺など国家級の名勝と書かれてあった。アモイ園林植物園は、アモイ市の万石山にあり、園内には小高い山があり、岩肌には文字が、彫られており、彫られた溝に色が塗られていた。写真は、梅林園の中に咲いた梅の画像だが、よくよく見ると造花が梅林園を埋め尽くしていた。
2010.12.06
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「潮州旅情29」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。写真は、潮州市にある開元寺の大雄宝殿の中に、安置されている釈迦如来像の画像である。潮州は広東省東部に位置する地方行政市である。広東省の省都は広州で、香港に近くには深センや珠海、中山など知られる所も多い。また珠海からマカオまでも車で30分ほどの距離、私が広州に住んでいた頃に車を運転して香港やマカオの境界まで2時間ほどで行っていた。 話しが逸れたが、潮州は1800年のの古い歴史があり、今までにも多くの華僑を輩出している事でも知られる。中華民国時代は潮安県だったが、解放後1953年に、潮州市となり広東省の省轄市となった。開元寺と名のつく寺は河北省石家庄市、江蘇省蘇州市、浙江省台州市、福建省福州市、福建省泉州市と、広東省潮州市の6箇所にあり建立年も同じ時期である。台湾にも開元寺あるが、1680年建立の寺であり、殆ど同時期、中国内に建立された寺を対象に調べた。 調べると言っても中国内6か所の開元寺の面積を、語るならば、この潮州が一番広く12万平方mある。次に泉州の7万平方mで、一番狭かったのは福州だった。写真の大雄宝殿の本尊には大きな釈迦如来像が安置され、脇師は左脇侍が文殊菩薩、右脇侍が普賢菩薩が立つ。十大弟子の舎利弗・阿難・迦葉らの像が釈迦を見守り、釈迦如来像の裏側には、龍の子供の上に乗っている、観世音菩薩の素晴らしい魅了される彫り物がある。中国禅宗の大乗仏教寺院の造りは殆ど同じである。この日、潮州よりアモイ方面の万石山公園へ移動した。
2010.12.05
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「潮州旅情28」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。 写真は、開元寺大雄宝殿前にて長い線香を両手に、捧げ持ち祈る女性の姿は日本では見られない姿だ。中国は元々儒教の国であったが、仏教が伝わり、五世紀頃より道教の教えが浸透しはじめた。儒教・仏教・道教の三つの思想が庶民の間を、独り歩きし、中国は各時代に仏教と道教が対立。各時代の権力者は仏教と道教を儒教に取り込み、思想の統一を図ろうとしたが上手くは行かなかった。唐の時代は儒教と道教と仏教とが中国に存在していた。儒教と仏教とは、主張する内容に違いがあり、儒教か、仏教かの何れを信じるかが、人々の間で問題となった。 人々には儒教と仏教の両方取り入れ生活する事が困難で、儒教の人生を生きるか、仏教の人生を生きるかの選択を、迫られたが唐の時代は、仏教の勢力が盛大だった。儒教は父親家系の秩序を重視した俗世道徳であるのに、対して、仏教はこの世の本質を苦とし、その煩悩から、解脱することを目的とした教えである。道教は徳があれば教育しなくとも人は教化されるので、宇宙のあり方に従って自然のままであることを教えた。儒教は礼儀を重んじる道徳で、仏教は釈迦の教えを、修行し成仏を得る教えで、道教は自らの道を探求。中国は孔子の説いた儒教を重んじてきた国であり、礼儀に対しては何処の国より浸透自覚していた。だが儒教を否定し孔子を徹底的に破壊した文化大革命。古い文化を破壊し新しい文化を築き上げる思想が、中国内を駆け巡った10年間に仏教も道教も破壊された。人々の心にも、また礼儀や人に対しても壁を作った。現在の若者は礼儀を重んじる心が戻りつつある。中国13億人と戸籍のない中国人2億人の15億人もいる。礼儀作法のかけらもない人が居るのは当たり前である。中国は都合が悪くなると発展途上国と論点をはぐらかすが、意外と中国トップクラスの中に礼儀の無い人が居るのかも。だが一般庶民はあまり関心がなく政府間の問題と割り切る。
2010.12.04
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