浜松中納言物語 0
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「潮州旅情27」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。 写真は、開元寺大雄宝殿の屋根に置いた魔除け。龍の絶妙な魔除けの飾りが施してあった。空海の話に戻ると空海は遣唐使船団と共に、目的地である蘇州には向かえず暴風雨により、船団を離脱し荒波の中、漂流していた。空海の乗った船は1か月間漂流したのち温州から、南へ50キロ離れた海岸へ辿り着いたが、元々の、目的地の蘇州からは850キロも離れていた。漂着した船には大使の藤原葛野麻呂が同船しており、220キロほど離れた福州の観察役所へ向かった。福州では、一行が国書や身分を証明するものがなく、罪人扱いのまま上陸を許されず、船も閉め出され、海岸の砂上にゴザを敷いた上に留め置かれる。この苦境を救ったのが、留学生の空海であった。大使に代わり書き上げた上申書の文章が取り上げられ、福州に上陸し、福州開元寺へ入る事が出来た。空海とは平安時代初期の僧で弘法大師の名で知られる。
2010.12.03
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「潮州旅情26」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。開元寺の大雄宝殿前の香炉付近にて撮影。この開元という名の由来は、日本で言う処の、昭和・平成ように中国唐代の開元に由来する。唐代の年号の開元は713年~741年の28年間を、開元と呼び、第6代皇帝玄宗の時代であった。第6代皇帝玄宗と言われてもピンと来なかったが、楊貴妃をこよなく愛した皇帝と聞かされ理解できた。玄宗皇帝の在位は712年~756年の44年間だが、なぜ713年~741年の28年間で残りの16年間は、何と呼ぶ年号なのかと疑問に思った。712年~713年までの年号を先天と呼び玄宗皇帝の、第5代皇帝の父の睿宗の時代で、742年~756年は、天宝と呼ぶ年号で玄宗の治世後半の年号を呼んだ。楊貴妃との出会いは天宝3年に始まり、楊貴妃に溺れ、反乱が起こり、楊貴妃は絞殺され、玄宗は退位した。第6代皇帝玄宗は開元年間の治世で混乱を平定し、政治家や役人の規律や風紀を正し農業の振興や、辺境の防備に努め、文化的にも唐の最盛期を成した。その開元年間に多くの開元寺の建立を指示した。楊貴妃と知り合う7年前の738年玄宗が勅により各州に、建立された寺で、その時の年号が開元という事である。政治家や役人の風紀を正した皇帝自ら、楊貴妃に出会い、自分自身が退位に追い込まれてしまった。
2010.12.02
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「潮州旅情25」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州の開元寺へ着いたのが午後2時半過ぎだった。禅宗の僧侶の人たちによる托鉢が見たかったが、午前中にしか托鉢は行わず見れなかった。禅寺では規定や作法も厳しく決められており、托鉢は仏道修行の一端ではあるが、乞食とは違う。確かに在家から食などを受けるので、その姿は、首から托鉢セットを掛けて100人ほどの列で行動。私も蘇州で出会った事があり、首から提げた箱に、次から次へと赤い袋に入れた寸志を入れていく。僧侶はお経を唱えながら、在家の人が素早く投げ込む、寸志袋を受け取り、直ぐに次の僧侶が続いていく。観光客の人たちも入れていたが、何となく寸志袋を、入れる人は初めから決められた人のような感じだ。また托鉢は午前中に限ることとのルールがあるようだ。また托鉢は、生命を支えるに足るだけを受け、それ以上を乞食してはならないと決められている。当たり前の事ではあるが、在家に迷惑を掛けてはならない。托鉢は、午前中に行うとの取り決めは、僧侶の修行で、座禅などの修行に午後の時間を費やす為との事であった。托鉢は、手に持つ食器は寺で認められた私物とのこと。私が見たのは僧侶の衣装に合わせた色の箱を首から、提げて托鉢をしていたように覚えている。日本では、ご飯茶碗を手に持つシーンをドラマで見た事が、あるが実際の所は分からない。茶碗の材料は、木製の茶碗は、外道の持つものと禁じられ、また石の食器は仏陀の、持ち物に限られており持ってはならない。写真は、潮州開元寺の境内の香炉と線香と香炉の竜。
2010.12.01
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「潮州旅情24」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。写真は天王殿に安置されている四大天王像。日本の四天王像と中国の四天王像とでは、日本の方が相当厳粛な表情をしている。広目天は西方を護る守護神左側に安置され、ヘビを右腕に巻きつけ、左は握り拳をつくる。神話では帝釈天の配下で、後に仏教の守護神となる。上の写真は多聞天で、甲冑に身を固めて両手で、宝塔を捧げ持つ姿の像が一般的で、毘沙門天と、呼ぶ人もあり元々財宝神だったが、だが中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれた。下の写真は増長天で、南方を護る守護神である。天王殿では釈迦牟尼世尊が安置される本尊に、向かって左手前に安置するのが原則である。増長天は右手に刀や剣のを持っている場合が多い。写真は右胸の前で右手に剣を持ち、左手は、拳にして右腰に置く姿で描かれる。下の写真は持国天像で東方を護る守護神である。本尊に向かって、右手の後ろ側に、安置されるのが一般的である。元々足下に邪鬼を踏みつけ、振り上げた右手には、刀を持ち仏敵を威嚇する姿の像だが、中国の民間信仰では琵琶を抱え持った姿で表される。四天王を安置する天王殿は、釈迦牟尼世尊を、安置する大雄宝殿の建物の手前に建てられている。
2010.11.30
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「潮州旅情23」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州の開元寺は、738年に建てられたが、中国に現存する4大開元寺のひとつである。唐代に蓮華寺と呼ばれていたが、元代には、万寿禅寺と改名し、更に明代に開元鎮国禅寺と、改名し現在に至っている。福州の開元寺は、548年に建てられており、写真の潮州の開元寺より190年も早い。だが、当初は大雲寺と名づけられ、唐代初期には、竜興寺と改名され、738年に玄宗により、現在の開元寺と改名されたという事である。泉州の開元寺は、686年の創建され真言密教の、開祖である空海が福州と共に留学で立ち寄った。元々、空海は蘇州の舘山寺へ留学するため、遣唐使船団で蘇州を目指していたが、暴風雨に、舵をとられてしまい、400キロ以上離れた違う所へ、漂着してしまったという。蘇州にも開元寺があるが、今は報恩寺と改名され、その寺は蘇州北寺塔と有名な寺になっている。写真は長い線香を手に持ち祈りを捧げている人々。
2010.11.29
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「潮州旅情22」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。開元寺の雰囲気といっても中国の、仏教寺院は禅宗の寺がほとんどであり、どこの省の寺に行っても、寺の中の配置は、土地の大小や寺が建った時代により違うが、基本的に四天王と釈迦牟尼世尊等は同じである。日本へ仏教が伝わったのは、1400年ほど前だが、歴史の中で、思想の違いにより新興宗教が、乱立した時代を経て、大乗仏教も多義に分かれた。写真の開元寺は潮州にあるが、真言宗の空海は、唐の時代遣唐使の一行で福州近くの海岸に、漂着し、暫くは福州の役所預かりとなった。経緯はまた後で書くとして、藤原葛野麻呂と、空海たちは海賊の容疑がはれ、遣唐使の、一員という事が分かり、福州の開元寺に入った。福州の開元寺と潮州の開元寺の中に入ると、造りも類似しているが、福州は福建省の省都で、賑わいの度合いは、やはり福州の方が賑わう。
2010.11.28
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「潮州旅情21」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州の広済橋や広済門、広済楼を観た後、市内まで戻り、少し遅めの昼食を取った。昼食まで海鮮料理が出たので満足した。だが、歩いてバスの停めてある所まで行き次の、観光目的地の開元寺へ向うのに時間が掛かった。昼食のために交通量が多く渋滞した市内を、往復50分ほどの時間を掛けて行ったことに、不満を抱く声が中国人から上がっていた。なぜならば、広済門から5分ほどの所に料理店も、建ち並び、また目的地の開元寺までは歩いて、7分ほどの所にあり、不満が出ても致し方ない。唐の第6代皇帝の玄宗は開元年号の738年ごろに、各州毎に大きな寺を建てるよう指示した。唐の玄宗皇帝と言えば、治世の前半は開元の治で、善い政治を治め唐の絶頂期を迎えたが、楊貴妃と、出会った事で政治を怠り、安史の乱の原因を作った。開元寺は元々官立寺院で人民に対する仏教思想の、浸透を目的としており、現在残る開元大寺は、福建省の福州や泉州、広東省潮州などが有名である。空海のちの弘法大使が唐に渡って最初に入った寺が、開元寺で寺は福州市にあり、最古の仏教寺院。
2010.11.27
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「潮州旅情20」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州の広済橋の写真も最終となった。写真は昨夜ライトアップされた城壁の、写真を撮影しておいたものを公開したい。上の写真は、対岸の車の中から広済橋を、撮影したものだが夜のため望遠側を使い、何枚も手ブレ画像になってしまった。広済橋の姿は望遠で撮っても小さくなったが、雰囲気だけは感じ取れるのではないかと思う。下の写真は城壁のライトアップ姿で1050年には、潮州の城が出来上がっていたが300年後に、全面的に修築され、高さ28m、幅34mほどである。現存するのは韓江に面した全長2キロの間に、建つ上水、竹木、広済、下水の4つの城門のみ。700年ほど前には4キロの渡り城壁があった。現在4つの城門の中でも最も美しいとされるのが、広済橋に面して立つ広済楼でライトアップすると、その広済門の城壁は、更に美しく際立つ。夜7時過ぎより、広東省潮州料理を市中心地まで、食べに行ったが、新鮮な魚介類を蒸した海鮮料理や、フカヒレのスープは久しぶりに美味いと感じた。明日より、広東省や福建省でも有名な禅宗の、仏教寺院の開元寺の写真を公開していきたい。
2010.11.26
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「潮州旅情19」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州の広済橋の建造され始めた宋代以前には、520mの川幅を渡し船を利用していた。1170年より広済橋の建造が始まったが、当初56年という歳月を掛け、どうにか、3分の1の橋脚が出来上がった。当初は3分の1の木造の橋脚で橋を造り、残りの3分の2の川幅に85隻以上の渡し船を、繋ぎ浮き橋としたが、洪水の度に流された。1450年頃になり、東西の岸より橋脚を造り、残りの100mほどを渡し船を利用し浮き橋とした。下の写真は、2003年から橋脚をコンクリートで、造り直した時点の浮き橋の空間風景で、この時には、昔、85隻だった渡し船の数が18隻と長さが縮まる。広済橋は広東省東部最大の塩の集積地でもあり、潮州城内と韓江東側を結ぶ主要交通路として活躍。下の写真は遊覧船が通り抜けようとするところ、だが大きな船の場合、橋の下を航行できないので、渡し船の浮き橋を開放するとの事。だが、その時には事前に管理局へ連絡し、観光客の通行規制をするとの事だったが、今まで数えるほどしかないとの事だった。橋脚の上に望楼が造ってあり遠くから見ても、美しく見えるが、古代の広東地方特有の構造で、開閉式の浮き橋としては中国最古になるとの事。何とか約束の時間に帰って来れたが、待ち合わせの場所にツアーの人たちは居なく、辺りを探していると、約束した待ち合わせ場所とは全く違うところから、大きな声で「日本人!日本人!ここ!」と呼ぶので、何とも、気恥ずかしい思いで歩いて行った。
2010.11.25
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「潮州旅情18」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州市にある広済橋の全長は520mほどあり、上の写真は橋を渡り終え、対岸の入口を、撮影したが、ここまで40分ほどの時間が掛かった。各望楼の前で立ち止まり、観光客が多いので、出来るだけ人の波が途切れるのを待って、シャッターを切っているので時間が掛かった。私は向こう岸には何があるのだろうと思い来たが、散策をすれば、集合時間に間に合わなくなると、広済橋の来た道を引き返すことにした。広済橋が掛かる韓江は、広東省東部を流れ、南シナ海に注ぐ大きな川で掲陽市、汕頭市や、潮州市、および梅州市をはぐくむ川である。韓江の川幅は広い所で960mあり全長は410キロ。揚子江の6300キロとは比べものにならないが、江西省南部、福建省西部、広東省東部を交わる。韓江の上流には広東省河源市から流れる梅江と、福建省西部の寧化県に発する汀江と梅潭河がある。三支流は140キロから310キロあり合流し韓江となり、潮州市より先で三角州を形成し汕頭市で海に入る。韓江は、唐代の詩人・政治家の韓愈が、土木工事を、行い奴隷を解放するなど多くの貢献をし民衆が、韓愈のその名を記念して韓江と名づけた。
2010.11.24
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「潮州旅情16」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省潮州市にある広済橋に着いて直ぐ、広済橋の橋の名前をアップで撮った。ツアー客たちやガイドと離れては、また探すのに大変な思いをすると思い、何時に何処へ集合かを決めて下さいと提案。すでに先へ進んでしまった中国人女性が、居たもののガイドから伝えると1時間半後に、広済橋の入口横で再開することとなった。広済橋は全長520mほどで、往復1040mほど。ただ、ゆっくりと歩くだけであれば20分位だが、撮影をしながら進んでも1時間あれば十分だ。広済橋は南宋時代の1170年に建造が始まったが、韓河の流れが急なため橋を造るのに困難を極めた。その困難さは半分9脚の橋脚を造るのに56年掛かり、残り半分の9脚の橋脚に15年の歳月を費やした。東西の河岸からそれぞれ9脚づつ造るのに、気の遠くなる長い年月を費やした。橋の建造は中間の約100mの部分の水流が激しく、また900年以上前の橋を造る技術は現在ほど、優れてはいなかったため断念してしまった。結局、100m間は橋がなく渡し舟で間にあわせた。300年以上過ぎた明代に橋の修築が行われ、西側と東側の橋脚はそれぞれ増やしたが、中間の部分をつなげることはできなかった。 「潮州旅情17」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省潮州市を流れる韓江に架かる広済橋。500年ほど前より幾度か修復が行われた。だが橋脚自体木造であり、補強しても、木材は腐り、洪水に耐えられなくなった。広済橋は2003年から4年の歳月を掛けて、橋脚から全てを鉄筋コンクリートで修復した。2007年6月に広済橋の修復作業は完了し、内外より著名人を招待し記念式典もが行われた。補強や復元する前の広済橋にあった望楼などは、全て腐り影も形もなくなっていた。明代に橋脚の上に建てられていた楼閣の古い、図面を頼りに花崗岩とコンクリートで復元された。現在、遠くを見渡すための望楼で多くの、観光客が立ち止まり遠くを眺めている。
2010.11.23
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「潮州旅情15」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省潮州の土産物屋を見て回ったあと、皆でワイワイ言いながら歩き広済橋まで来た。広済橋は南宋の1171年に船を繋いだだけで、その上を渡る橋として利用され現在に至る。広済橋まで来る途中、日本でいう鳥居のような、アーチ形の建造物がある通りを歩いてきた。街の名勝の地などに建てられる装飾用や、記念用のアーチ形の建造物で牌坊などという。アーチ形の建造物には「状元」と書かれている。状元とは科挙の進士に合格した者が受ける試験。合格すれば皇帝の下で働くことができる。科挙試験は今は廃止されているが、清朝までは、科挙試験が行われており、童試から始まり、郷試・挙人履試・会試・会試履試、そして、状元である殿試まであるが、毎年試験はない。3年に一度の試験しかなく、落第すれば、次の試験までに3年間の期間が必要になる。また晩年は会試・会試履試・状元の殿試は、西安や北京まで集合して試験が行われていた。歩く事40分ほどで、広済橋まで着いた。広済橋ははじめ、広を健康の康をつけて、康済橋と呼んでいたが、大改修を行った後、康済橋から広済橋と呼ぶ名前に変え現在に至る。
2010.11.22
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「潮州旅情14」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省東部に流れる韓江を船で遊覧。写真は明代初めの1370年の年に大規模に、改築された広済橋に面した潮州城東門である。中国で開閉式浮き橋は河北省の趙州橋、福建省泉州洛陽橋と盧溝橋事件で世に、知られた盧溝橋と並び中国四大古橋と言われる。下の写真は高台に建つ天后宮の下に建つ、玄天閣で、道教の神が祀ってある。船を降りた私たちが向かった先は、またまた土産物店だが、お茶の専門店である。広東省といっても、福建省に近い潮州なので、福建省安渓の鉄観音が所狭しと並べてある。私は14年ほど前に広東省広州に住んでおり、鉄観音を真空パックにしたお茶を土産として、友人や近所の人に渡したものである。近所の奥さんから私の妻に、中国のお茶って、結構苦いですねと言われ中国までメールが来た。仕事も忙しく、いつの間にかメールの事を、忘れていたところへ妻から電話が入った。いきなり「どうしてメールの返事くれないのよ」もう1か月以上過ぎていたので初めは何のことか?少し怒ったような口調で、お茶が苦いって言われた事を、気にかけての電話だったが、私は、そんな事ぐらいで、国際電話しなくてもと言い、今晩メール送るからと、電話を切ったが、お茶の入れ方を中国人に聞いた。あまり沸騰したお湯は使わず、お湯を入れてより、そのお湯を一度捨て、再度入れ直すとの事だった。そして、1杯目は苦いが、その苦みを味わい、2杯目のお茶は、とても美味しく、5杯まで飲めれると、そのまま、メールに認め送ったが、それより14年経った。その後、妻から近所の奥さんのとコミュニケーションが、うまく保たれているのか、何の感想ももらっていない。
2010.11.21
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「潮州旅情13」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省潮州市の湘子橋に着いた。昨夜は潮州市内の四つ星ホテルに泊まった。三つ星ホテルでも問題ないのだが、三つ星ホテルでは浴槽が付いておらず、シャワーだけでは何となく物足らないからだ。だが、四つ星の浴槽でもスリッパの跡が、ベッタリと付いているときには石鹸で、ゴシゴシ洗っている自分がいる。昨日と同じバスが中国人達を乗せて最後に、ホテルまで迎えに来てくれた。バスに乗ると、中国風のキツイ嫌味を言われた。中国人はこの上なくプライドが高い。日本人は、直ぐに差をつけようとするんだから、私たちと同じホテルにしておけば、わざわざ、時間を掛けて迎えに来る必要もないのに・・!ガイドは困惑した様子で、三つ星のホテルは今、すべてシャワーだけしかなく、その点、四つ星のホテルには浴槽を備えている所が多く、日本人は浴槽に入らないと風呂に入った気がしないようで、旅行社から予約したので皆と場所が違うと話す。このように援護をしてくれたが、中国人からは、入郷随俗という中国語を知っていると質問される。入郷随俗とは、郷に入れば郷に従えの意味である。いやはや、何とも先が思いやられそう・・・。写真は、中国第一の開閉式浮き橋を船から撮影。10隻以上の船をつなぎ、その上に板を置き、人が川を渡れるように工夫してある。
2010.11.20
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「潮州旅情11」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省潮州の澹浮院入口に建つ大きな、鳥居型の門を潜った所を右に曲がると、中国の歴代の書道の碑林があると聞いた。引き返したい気持ちに駆られたが、すでに15分以上私が来るのを待つバスの、中国人ツアーの事や集合時間が迫り、後ろ髪を引かれる思いで前を急いだ。途中、樹齢1000年ほどかと思うほどの、素晴らしい大木に出会い撮影した。いつのまにか急ぎ足になっていたが、やっと、バスの待つ駐車場が見えてきた。来るときには見かけなかった景色が、帰るときには目に入って来たので、レンズを向けながら歩いた。その広場に孔子の像が建っておりその孔子の後ろ姿を撮影した。やっとバスまで20mほどの所まで来たが、洋紫荊と呼ぶ香港行政区の花が目に入り、暫くの間、花を撮影した。だが、この日は風が強くシャッター速度を、早くしても花が揺れ画像はブレた。バスからガイドが、早くして下さいよと、不満げな大きな声に時計を見ると、出発予定時間を5分ほど過ぎていた。 「潮州旅情12」 潮州の澹浮院のバス専用駐車場のバスから、写真なんか撮っている場合じゃないよ!皆、かれこれ30分は待っているんですよ!などと、中国人から大きな声で文句を言われた。私は時計を見ながら集合時間より10分間、遅れているだけで、そんなに大きな声で、文句を言わないようにと言ったところ・・・。中国人にとっては国内旅行なのだが、ある程度、裕福な家庭の人が多い。しかし、言う事は、私が知る中国語の中で、一番下品な表現だ。日本人は、中国人のツアーには参加できないのよ!ガイドに聞いたけれど、流暢な中国語を話すので、旅行会社が許可したらしいけれど、あなたの中国語は、上品過ぎて、こちらが疲れてしまうのよね!と・・。ここでは、文章にできないが、私が分からないと、思っているのか、下品な言葉を話している。ガイドが中国人に、聞こえたら不味いからと、制していだが、うっ憤を晴らすかのように話す。私も下品な中国語を話せるが、話してしまったら、雰囲気が壊れてしまうので、違う言い方をした。私は集合時間は、ガイドが決め皆に伝達する。私たちは、決められた集合時間までに集合する。この事は十分承知しており、観光地が面白くないと、早く帰って来たからと言って、少し遅れて来た人に、文句を言うものではないと思いますよと言い、更に、今回は私が10分間遅れたので、謝罪しますと話し、貴女方は30分遅れても、何も謝罪をしないと思ったが、言葉には出さず、思った言葉を飲み込んだ。写真は、貔貅(ひきゅう)で伝説上の猛獣の名前だが、この貔貅の置物やストラップの販売店へ連れて行かれた。中国人は幾つも買っていたが、私は、この為に、急いでいたのかと思うと、半ば興ざめしていた。
2010.11.19
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「潮州旅情10」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。交泰殿の「泰」とは、安らかとか穏やかとの、意味で、交流をする中で安泰に心穏やかにとの意。集合時間が迫ってきており、ガイドからも、私の携帯電話へ連絡が入り、もう10分前に、バスで待っていますよとの内容電話。私はバスを降りる時に集合時間を聞かなかったが、途中で会った同じ現地ツアーに参加した中国人から、集合時間を聞いたが、まだ20分以上あると抗議。ガイドからは、中国人の皆さんは面白くないと、早く帰って来ましたが、日本人の貴方がまだ、帰って来ていないので、出発出来ないでいるとの事。北京故宮の交泰殿北京故宮の交泰殿私は出来るだけ早く帰るからと電話を切ったところ、直ぐに電話が掛かってきて、どうして切っちゃうのと、不服そうな声のトーンに、今度は何ですかと応対。今、何処に居るのですかとの問いかけに、交泰殿に入る所だと言うと、そんな所に入ったら、30分以上掛かるから、直ぐに帰って来て下さいと、今度はガイドから電話を切り、ツーツーと侘しい音。交泰殿の人に、大型バスの駐車場までの時間を聞いた。交泰殿から15分ほどというので、今から帰って、丁度、集合時間になると、交泰殿の外観のみ撮影し、中に入る事は、控えたが、何とも残念な思いだった。交泰殿の中では、中国各地の書道の大家の作品が、展示されており、広州付近の硯などの展示販売を、行っているとの事だった。
2010.11.18
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「潮州旅情9」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。中国とタイの文化交流が目的で潮州に建てた、澹浮院の中には、タイ寺院を連想する像がある。はじめ澹浮院は中国の寺院と勝手に思っていた。だが、中へ入ってみると、異様な光景に驚く。正面に置かれた金箔の釈迦像を、撮影したのち、振り返ると、中国初代皇帝の始皇帝の兵馬俑の、兵士の像が置かれており、一体何を目的に、建てられたものだろうと思いながら見て回る。釈迦牟尼世尊の仏教はインドから中国へ、伝来したが、中国の皇帝ではじめて仏教を、信奉したのは後漢の桓帝である。西暦60年ごろに皇帝から悠久の時間を掛け、中国国内に伝わったが、文化大革命の10年間で、仏教思想を語る者さえいなくなってしまった。中国は10年間の文化大革命で世界から孤立し、人々の思想まで変え、その当時子育てをし、頑張っていた人たちは中国古来の礼儀作法さえ、忘れ去って、人が良い事をしても良いと、言えない国民性に変わってしまったようだ。だが、文化革命時代に育った人々の子供たちが、現在中国の4・50代になり、子供のころに受けた、教育が悪い事だと知っているものの変えられない。今後の中国を大きく変えようとしている子供達、それが今の中学・高校・大学生・青年である。教育で人の思想は変えられて行くのは歴史が語る。中国でも四川大地震では日本の救援隊に対し、国民の多くが感謝の念を抱き日本人の心を見た。だが、数年で今度は日本国旗を焼き捨てるまでに、中国の人の心が変わってしまったが、これも、洗脳されてしまったが故に起こってしまった。写真の像はタイ文化を象徴したもの。ワットプラケオ(エメラルド寺院)
2010.11.17
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「潮州旅情8」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。澹浮院の中へ入ると直ぐ目に入るのが、金箔に包まれた釈迦牟尼世尊像である。その釈迦牟尼世尊像の写真は、下のページ汕頭潮州旅情28のとおりである。釈迦像を見て振り返ると写真のような、秦始皇兵馬俑の兵士の像が目に入る。澹浮院を建てた意味は中タイ文化交流で、中国史初の皇帝であった秦始皇の墓を、守る兵馬俑が交流に最適と思ったのか?秦始皇は紀元前221年に史上初めて中国を、統一し中国史上はじめて皇帝となった。中国の黄河・長江文明の7000年前の、歴史からみれば秦の時代は2230年ほどと、歴史は新しいが、現存する兵馬俑の事実を考えれば、中国の文化を象徴するものである。ゆえに、中泰文化交流の場である澹浮院に、保管するものとして秦の始皇帝の兵馬俑が、最適なのではないかと思った。
2010.11.16
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「潮州旅情7」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州に建つ澹浮院は、中国とタイの、文化交流が目的であり、両国の文化財が並ぶ。中国とタイの両方の歴史文化が備わっており、中国各地に在る寺院とは趣きが違う。別段、中国の文化を誇張するわけでもなく、タイの文化を誇張させているわけでもない。強いて言えば、澹浮院の中に入った瞬間、西安にある秦始皇兵馬俑のレプリカが目に入る。澹浮院の中の係員に、異様な雰囲気を例えて、この寺院には焼香する場所が無いし、線香の匂いもしないですねと聞いてみた。係員からは、澹浮院は寺ではなく博物館の類と、聞かされたものの、外に置かれた香炉を指差し、外では線香を焚く事が出来るのですねと質問。係員からは、澹浮院では他の寺院のように、線香は売っていませんので、線香を焚く人は、ほとんどいらっしゃいませんとの返事だった。写真は金箔の釈迦牟尼世尊像、亀が振り向いた姿、龍の彫刻が施され香炉のなど、次のページより、秦始皇兵馬俑のレプリカの写真などを紹介したい。
2010.11.15
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「潮州旅情6」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州に建つ中国とタイの文化交流の澹浮院で、出会った人民解放軍の軍人たちと行動を共にした。彼らから、中国語が上手いですねとか、何処で、中国語を習ったのですか、中国は何年程ですかなど、質問攻めになったが、彼らのグループが二分して、歩くような形になり、私が返って気を使う感じになった。私は、自由に撮影がしたいので、先に行って下さいと、彼らに告げ握手をして別れたが、もう一方の軍人達に、手を出しても、日本人を嫌って握手を拒否した3人は、また同じように、無視をして歩いていた。私は脇道へ逸れ、自分のペースで歩き出しホッとした。少し歩くと1匹のスピッツに出会い写真を撮った。何となく「花咲か爺さん」の「しろ」の事を思い出した。「ここ掘れワンワン」ではないが、暫く眺めていた。スピッツは人懐っこく尻尾を振りながら、私の周りを、行ったり来たり、ビスケットをカバンから出し、食べさせたが、もっと食べたいと私の方を見つめていた。私は膝を折り曲げ、犬の目線まで、しゃがみこんで、日本語で、お座り、お手などと言っても首を傾げていた。いきなり、ワンワンと吠え走り出し、見ていると、また私の所へ戻って来てワンワンと吠えるので犬が走る方へ、20mほど着いていくと、急に地面を掘り出した。急ぎシャッターを押したが、その様子は上下の写真で、分かる通り、とにかく一心不乱で土を掘っている。見る間に掘る穴が大きくなったが、何も出て来なかった。犬が土を掘るのは、食べ物を隠す為とか只遊んでいるだけ、ストレス解消のために掘っているとの説などいろいろ。ストレス解消ならば、突然私と出会ったからだろうか?
2010.11.14
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「潮州旅情5」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。人民解放軍の軍人の見守る中、カメラからフィルムを出し、空回りさせると動いたので、新しいフィルムを入れ、シャッターを切ると巻き上げる音を確認した。彼らに、写真の大部分は助かっているが、フィルムには、光が入っているからカメラ店に訳を話して下さいと手渡した。軍人の一人がメモを渡してくれ、そこには、中国人民解放軍第〇集団軍、〇類集団軍、第〇自動化歩兵師団と書かれていた。皆からは、あなた日本人でしょう?と聞かれ、日本人だと、答えたのち、握手をしたが、何故だか3人は握手を嫌がった。自分で現像や焼き付けしていた時があり役に立ったと思った。だが、人民解放軍の彼らから感謝の握手を受けたものの、彼らと共に、会話をしながら進む事には違和感を覚えた。中国から日本への圧力が気になるのではなく、やはり、中国にて、事ある毎に言われ続けた南京大虐殺問題だ。南京虐殺の誇張した映画も巷に溢れており、いくら私が、南京問題は捏造されたと立て分けて話しても信じない。戦争に参加してないとはいえ解放軍の彼らにとっては、私より、もっと身近に感じる事だろうし、中には相当、恨んでいる人が居るのでは思うと余計に辛かった。中国人と食事に行くと最後には必ず戦争の文句を言われる。私は中国へ日本を代表して来ているのではないと言うと、いや!君に文句を言っているのではないと言うが、中には、ビール瓶を持ち上げ、殴りかかろうとした中国人もいた。それを、最後に政治的な問題だから気にしないで、もっと楽しく飲みましょうよと言われても割り切れない。なまじっか中国語を得意げに話すものではないと後悔もした。写真は、雄雌の獅子像と下はキリンビールの商標の麒麟。
2010.11.13
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「潮州旅情3」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省潮州郊外に建つ澹浮院の中を写真を、撮りながら歩いていると現地ツアーのガイドや、中国人たちとも、はぐれてしまった。集合時間を聞かずにバスを降りてしまったため、撮影をしながら歩いていても不安がよぎった。そんな不安な気持ちを打ち消すかのように、弦楽器の奏でる軽快なJAZZサウンドが聞こえてきた。私は癒し系のサウンドを奏でる女子十二楽坊を、イメージして急ぎ足で行ってみると、おじさん達だった。急ぎシャッターを切り、ガイドを探すため先を急いだ。何となく振り返ると中国人民解放軍の軍人たちが、休暇を利用して、潮州に遊びに来ていた。私がレンズを向けてシャッターを切った時に、こちらを向いている青年が手招きして私を呼んだ。はじめは私の後ろ側に、彼らの同僚が居るのかと、振り返ってみたが、後ろには誰も居ないので、私は、自分の顔を指差すように、私?と・・。さらに手招きをするので、何か悪い事をしたのかと、彼らの方へゆっくりと歩いて行った。彼らの所へ行ってみると、彼らが持っているカメラを、見せられ、このカメラが急に動かなくなったので、見てほしいとのことで、ひとまずは安心した。 「潮州旅情4」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。潮州の澹浮院の敷地内にある道を歩いていて、心を和ませてくれるような弦楽器が奏でるJAZZの、サウンドに誘われて小走りに道を急いだ。振り向きざまに人民解放軍の軍人にレンズを向け、自然に指が動きシャッターを押してしまっていた。私を見ていた解放軍の軍人から手招きされ、驚いたが、カメラが動かなくなったから見てほしいという事だった。カメラは、フィルムと単三乾電池を入れて撮影する古い、タイプのものだったが、まず彼らから状況を聞いた。今までシャッターが切れていたものが、突然異音がして、シャッターが切れなくなったとの事で、まず乾電池が、消耗してしまったと思い、新しい電池を入れてみた。思った通り、乾電池を取り換えたが動かなかった。また撮影枚数を見ても、まだ半分ほどであったので、フィルムが巻き込んだと思い、彼らに3・4枚の、写した写真がダメになっても良いか確認した。OK後、私のカメラバッグから別のカメラやレンズを、取り出し、彼らのカメラを入れて、雨降り時用のカバーを、掛けたのち、出来るだけ光が入らないようにした。バッグに両手を突っ込み、カメラの裏蓋を開けた。フィルム送り用の穴からギヤが外れていないか、手探りで確認するとフィルムの穴が破れフィルムが、送れない状態になっていた。フィルムを少し多めに引きずり出しボックスに送り込み、カメラを取出し、爪切りを出し、フィルムに切れ目を入れ、そこから引き裂いたが、軍人たちは驚いた顔をしていた。
2010.11.12
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「潮州旅情2」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。リンクスが今月11月末で終了してしまいますね。楽天としては、メリットがあまりないと終了を、決定したのかもしれませんね。楽天リンクスサービス終了事実、私自身も殆んどと言ってよいほど、リンクスは利用していなかったし他の人も、スパムメールに悩む人もいたが解決できなかった。楽天リンク友人数が3900以上ある人から、メールが入って来ていたので行ってみた。しかし、その人はリンク終了の悔しさのあまり、すでに楽天リンクスページを削除されていました。必死にリンクの友人数を増やしている人に、とっては何とも残念な思いだけでは、済まないのかも知れませんね。私は自分で削除せず、自然に任せたいと思う。ただ愛犬の写真が消えてしまうのでブログの、プロフィールへ私の写真と入れ替えようかと思う・・。潮州の「澹浮院」の敷地内を歩いて行くと奇妙な、建造物が見えてきたので広角と中望遠で撮影した。一見、タイのワット・プラケオ(エメラルド寺院)で、見かけた仏塔を支えているヤックに似ている。写真の建造物は仏塔ではないし、支えているのも、ヤックではなく、なんとなく獅子に似ているような。4匹の獅子が一生懸命支えているようにも見える。支えている4匹の獅子、物凄く踏ん張っている様子ではなく、なんとなく楽しんでいるようにも見える。獅子かどうかは分からないし、ご利益が有るのかどうか、観光客が手で頭を撫ぜているのか、触ったあとが、光ってブロンズの地金が見えている。
2010.11.11
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「汕頭旅情21」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。東山湖温泉リゾート裏側の風景を見るだけのつもりが、時間の経つのは早く腕時計を見ると、いつのまにか、3時間があっという間に過ぎようとしていた。先を急いでいるのに、きれいな光景を見ると、つい、止まってしまいレンズを被写体に向けてしまっている。池の中に咲いた睡蓮の花はとても美しく目に留まった。写真の花は睡蓮(スイレン)だと思うが、どうだろうか?私知っている睡蓮は、もう少し花弁が小さかったような。蓮の葉は円周がつながっていて、睡蓮はゲームの、パックマンのように、口が開いている葉だと覚えた。上の写真を見ると、葉がパックマンの口状態になっている。だから睡蓮だと思うが、こんなに大きな睡蓮を見たのは、初めてであり、いろんな方角から何枚もシャッターを切った。時計を見ると、約束の待ち合わせの時間を5分過ぎており、慌てて小走り状態で、待ち合わせ場所の玄関へ行った。だが、いくら探しても待ち合わせ場所に中国人は居なく、仕方なく撮影した写真を液晶モニターで眺めていると、大分待ちましたか?と中国人の皆さんが現れたが、時計を見ると約束の時間を30分もオーバーしていた。 「潮州旅情1」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。東山湖温泉リゾートで温泉に入った女性に、温泉はどうでしたか?と意味有り気に質問した。女性の1人からは、とても気持ち良かったですよと、他の女性たちに賛同を求めるかのように、声のトーンを上げて私に言った。他の中国人女性が、あなたは、どうでしたか?と、聞いてきたので、私は温泉に入りませんでしたと答えた。あれっ!あなたは入泉料を支払って中に入られたのでは?脱衣場までは行ったのですがね~・・・ そこで、この日本人は入らなかったとガイドが口を挟んだ。さすがに、素っ裸になり温泉に入ろうとしたものの従業員に、温泉の扉を開ける前に制止された事を言えずにいた。そんな時、ガイドから日本では水着を着け温泉に入るような、習慣がなく、水着がなかったので入らったと答えてくれた。それで諦めて温泉には入らず、敷地内の写真を撮って、来たそうよと、また助け船を出してくれた。だが、女性達からは、だったら素っ裸で入れば良かったのにと、後部座席に座る私を、からかうかのように見ながら言った。私が、気まずいようにしていると、ガイドから助け舟の声。温泉の決め事で、必ず水着着用のルールで仕方ないのよ・・。そんな会話が延々と続き、中国人中年女性のパワーを感じた。写真は、潮州の澹浮院で本堂にはタイ寺院の雰囲気がした。
2010.11.10
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「汕頭旅情20」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。東山湖温泉リゾートへ来た目的は温泉に、入るためだったが、私は訳あって温泉を、目の前にして入らなかった。そして、3時間後に正門で待ち合わせを、約束をし、その間に広い庭園を散策したり、少し離れた丘の上へも行った。そこには、驚くほど美しく彫られた石像に、出会い感動さえ覚え、その石を彫った菩薩を、時間の経つのも忘れて眺めていた。来た道を急ぎ引き返してきたが、綺麗に咲いた花に出会い、その胡蝶蘭の、花を見て時間もないのに立ち止まり撮影した。駆け足で引き返す道にも、観光客の姿は、見当たらず、なんとなく場違いな所へ、来ているような錯覚まで覚えた。帰り道、丘の中腹辺りに大きな岩の、山肌がたくさんに見えた。写真は、その岩肌に彫られている、「龍之道」と書かれた文字。もう待ち合わせ時間が近づいて来ているので、長居はせず、まだ舗装されていない、砂利道を急ぎ歩いていた。
2010.11.09
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「汕頭旅情19」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。花崗岩は御影石ともいうがその肌は絶妙に美しい。石菩薩が美しい以前に花崗岩の存在自体が光る。下の写真は、日本でいうところの子安観音だろうか、日本にいるときに見たことがあるが、母親が、子供を抱えている姿に何とも言えぬ感動さえ覚えた。だが、私が大きくなってより観音とは女ではなく、男であると教えてもらった時は、またまた驚きだった。私が見た空間に置かれた石像の殆どが花崗岩だった。花崗岩は風化しにくいので、野外に置くには適している。中国での採石場で名が知られている福建省泉州や福州、北は黒竜江省、山西省、山東省などが有名である。世界遺産に指定された山などでの採石は禁じられており、中国も山が多い反面、最近では採石場も限られる。切り出された石材は採石場から各方面へ輸送される。着いた先で大きめに削り、電動工具で彫って行く。1体を彫り上げるのに4日から1週間ほど必要で、やはり、1体1体手で彫っていくため表情が微妙に違う。
2010.11.08
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「汕頭旅情18」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。整然と置いてある石像を触ってみると滑々している。タガネで叩いて彫っただけであるならばザラザラ感が、残ってしまうだろうし、ピカピカと光はしない。写真の石像は花崗岩だろうと思うが、かなり硬い素材で、一般のタガネだけでは彫れないだろうと思う。弥勒菩薩の柔らかい曲線を上手く出している。中国の街角では、よく石の印鑑である篆刻が、売られており、30分ほどの時間で彫ってくれる。日本からのお客様のご所望により篆刻を頼んだので、その篆刻を職人さんが彫る所を見ていた。なんとなく、小学校時代に彫刻刀を使ったことを、思い出したりもしたが、いとも簡単に彫り進み驚いた。少しだけでも彫らしてほしかったが、その時は諦め、お客様の待つホテルへと急いだが、彫らしてもらう事が、3か月後に実現する日が訪れることとなった。中国人の友人の兄が篆刻を商売をしており、篆刻の、頭の獅子なども何も彫っていない石を下さり友人の兄の、家で彫ったが、技術以前に滑っても彫れなかった。版画では、結構上手だと言われた時もあったが、木と石では全く違うと思ったので、近くに置いてある、花崗岩を石で叩いてみたが、その硬さには閉口した。
2010.11.07
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「汕頭旅情17」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。東山湖温泉リゾートの裏側の道を道なりに、歩いて行くと石切り場から切ってきたままの、大き目の石が乱雑に置かれた所へ出た。人影がないので、その中へ入っていくと、何体もの石像が整然と置かれていた。入口の祠のような中にはブロンズの釈迦像が、置かれており、石仏を彫る前に祈る場所かもと、思いながらシャッターを押したが、その釈迦像の、左側には、三国志の関羽のブロンズ像が置かれていた。小高い丘の30平方mの広さの場所には石像が、周りから囲むように置かれており、その中には、菩薩の座像が碁盤の目のように置かれていた。私が居た30分ほどの間に人が誰も入って来なかった。ふと、東山湖温泉リゾートの所有物ではなく個人が、所有しており、石像を販売しているのかもと思った。一見して花崗岩のように見える石像を見ていて、一体どのように彫っているのだろうかとの疑問に変わった。同じ敷地内に大きなハンマーやタガネが置いてあった。まさか、このようなもので硬い石を彫っているのかと、思ったが、もしそうならばその技術は素晴らしい。だが、それは可能ではないと思った。
2010.11.06
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「汕頭旅情16」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。東山湖温泉リゾートの敷地は広く、まだ完全に施設内の整備が完成されていない。写真は敷地内にある野外バーベキュー場で、夕方6時ごろからホテル以外のお客さんも、使用料を支払い焼肉パーティをするとの事。焼肉というと一般には牛肉のことをいうが、中国では肉というと豚肉のことをさす。中国でも、元の時代には羊の肉が多く食べられた。元といえばモンゴルであるが、モンゴルは草原を、イメージし草原といえば、やはり羊が思い浮かぶ。だが今の中国人は羊肉は、おいしくないので、豚肉を食べたいというが、豚肉より牛肉の方が美味いと、牛肉を食べに行こうと誘うと、嫌な顔をしている。中国の一般家庭では牛肉はほとんどと言ってよいほど、食べることはないし豚肉止まりであろう。広東省では犬や猫の肉は食べるが、牛肉は食べない。宗教上の理由からかと思っても違うようである。中国の農家の結婚式に行ったことがあるが、そこでは、一頭の豚を披露宴が始まる2時間ほど前に殺し、集まった多くの人たちに豚肉料理を振る舞う。閉口したのは、豚の頭が蒸されて大きな皿に乗せられ、目の前に出されて時で、さすがにナイフで切る気がせず、中国人に切ってもらったが、食べる気がしなかった。日本でも昔は有ったようではあるが、今は見かけない。
2010.11.05
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「汕頭旅情15」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。「癒される」という言葉は知っていても、何によって癒されるかは、人それぞれである。心が落ち着くっていうことを癒されるともいう。お金がたくさんあるから、ゆとりがあるから、癒されるのだろうか?でも明日をも知れない重い病気で、いくら、お金が何十億と有ったとしても心落ち着かない。お金も人により、とらえ方が違う。人より倍以上の給料が有ったとしても、満足せず、不満な気持ちが渦巻いている人。給料は少く貯金などできないが、何とか、生活ができていて、ボランティア活動を、笑顔で頑張っている人・・。人が癒されたと感じるときはどんな時だろう。人には仕事があり、憩いの時間もあり、誰かと一緒に過ごせる時間があるとき、ふと囁かれた言葉や、出会った光景に癒しを、感じるのではないだろうか?先日、久しぶりにマッサージへ行ってきた。揉みほぐされた体と熟睡したあとの快いだるさ。帰りがけ足も軽く、心も軽くなったような、肉体の快さが、癒しをももたらしてくれるのだろうか。
2010.11.04
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「汕頭旅情14」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省東部にある東山湖温泉リゾートの裏側を、さらに歩いていくと沢山のダリアが咲いていた。花の名前に無知な私でもダリアぐらいは知っている。だがダリアが、メキシコの国花とは知らなかった。ダリアの花言葉は「華麗」「優雅」「威厳」とか、「移り気」「不安定」「感謝」「栄華」など。ダリアが日本へ持って来られたのは、1842年に、オランダ人によってということであった。オランダといえばチューリップであるが、何故に、オランダなのかと思ったら、メキシコからスペインに、渡り、スペインからヨーロッパを横断しオランダへ。オランダへ持ち込まれたダリアは、鎖国状態の日本の、長崎貿易を介してオランダ医学とともに伝わった。
2010.11.03
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「汕頭旅情13」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。東山湖温泉度假村の「度假村」の意味は、日本語では「休暇村」と訳し保養地である。景色や環境の良いところに、滞在型の、バカンスを楽しめるように設置されている。撮影を続けながらも、今夜の宿は、久しぶりに豪華なリゾートホテルと思った。だが、実際には車で40分ほど行った所の、潮州の街の安宿に泊まることになった。とにかく時間は2時間半と、たっぷりあるので、このリゾート地の隅々まで見てみようと思った。写真は、リゾートホテルの裏側に置かれた石像。たくさんの石像を見ながら、一体どのように、彫るのだろうかなどと思いながら歩いた。学生時代、木の彫りものに興味があり、長さ15センチ×8センチほどの木材を時間を掛け、ノミや彫刻刀で彫ったが、顔の描写と手の表現が、難しく3体とも未完成のままで終わってしまった。石を彫るのはもっと難しいのだろうし、同じような、表現に仕上げるためにはパソコンを導入して、彫って行くのだろうかなどと思った。今、湖南省永州市では秦の兵馬俑を超える規模の、5千体の古代石像群が発見されたと発表されたが、時間とお金があれば、見に行ってみたい。
2010.11.02
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「汕頭旅情11」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省汕頭から35キロほど車で行った所に、東山湖温泉リゾートはあり、潮州市が管轄し、中国でのAAAAクラスの観光スポットである。2005年10月に東山湖温泉リゾートが、オープンされて、福建省や広東省広州や、深センからの観光客も多く賑わっている。1400年以上前の隋代に潮州となった都市より、20キロほど離れた所に2001年より、開発され4年半の歳月を費やした。 マルコ・ポーロ旅行記によると、800年前、南宋の首都の杭州に、ヴェネチアから旅して来たマルコ・ポーロは、一度に100人が入浴できる大きな浴場が、多くあったと記している。また大きな浴場には、召使が大勢控えており、男女を問わず、客が入るとその沐浴の世話をし、人々は、入浴する習慣がついているので、体を洗ってより食事する習慣になったと記している。私も中国各地を旅したり、出張に行ったりして、大きな浴場にも入った事はあるが、現在では、そのほとんどが、サウナとして利用されている。中国の一般家庭や一般のマンションには、浴槽は設置されておらず、シャワーのみである。私は1万元ほどの費用で浴槽を設置して、肩までお湯に浸かれるようにし癒していた。 「汕頭旅情12」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省潮州と汕頭と掲陽三市の中心に、東山湖温泉度假村があり、私は温泉で服を、脱いだものの温泉には入らず、温泉の外の風景を散策していた。写真の植物は何という名だろうか?インド原産の「デイゴ」という花だろうか?まだ蕾だが、これから花が咲くのだろうか?花の名前は、無知に近いほど知らない。代表的な花の名前と花の姿は一致するが、分からない方が多過ぎるが中々覚えられない。上の写真は「ソテツ」であるが、日本には1200年前に、中国より入って来たものということだった。ソテツの種子や茎幹には、中毒作用を起こさせる成分が、含まれており、嘔吐やケイレン、肝不全や腎不全、最悪の場合は死亡に至るとのことであった。私は、ソテツをまだ食べたことはなかったが、小さいころに、毒キノコを間違って食べ、2日間、嘔吐と発熱に悩まされたことがあった。山へキノコ狩りに行って、麓でキノコを洗って、焼肉を食べながらキノコを焼き食べた。どうやら、その中に毒キノコが混ざっていたようだった。そんなに多くは食べなかったが、私と同級生の、 Aくんも同じ症状で学校を2日間休んだようだった。
2010.10.31
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「汕頭旅情10」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。汕頭から50キロほど離れた所にある温泉へ向かった。着いた先は、潮州市潮安にある?山湖温泉度假村。今回の現地ツアーは、男の私と女性3人の4人と男女2人、あとはガイド、運転手の合計8人であった。温泉に行く事は、アモイのホテルを出発する時より、知っていたが、水着持参という事を聞き逃してしまった。また男女2人は温泉には入らないという事と、運転手と、ガイドは控え室で待っているとの事で、私は男湯で、3人の女性は当然の如く女湯ゲートに入っていった。入浴料140元(2000円)を支払い中に入ったが、温泉で水着の、着用が義務付けられているとも知らない私は久しぶりの温泉に、素早く服を脱ぎ捨て、素っ裸になり中に入ろうとした。係員が慌てて中に入ろうとする私を制止し早口で水着をと話す。これから入ろうとする人がいて、その姿はロング海水パンツ。タオルも何も持っていない私は思わず手で前を押えるのが、やっとであり、何とも惨めな思いをしてしまった。20元で水着を貸すと言われたものの、誰が穿いたか分からない、水着を穿く気持ちになれず、支配人に付き添ってもらい、お金を返してもらいに行ったが、なんとも情けなかった。さらに控え室に居るという運転手とガイドを探して頂いたら、男女2人もガイドたちと一緒にいたが、恥を忍んで訳を話し、温泉の入浴はあきらめて、外回りの写真撮影をすると伝えた。ガイドからは、温泉に入りますかって聞いた時、入るとの事で、ホテルで聞いて水着を持参しているものと思っていましたよと、申し訳なさそうに話すが、運転手は笑っていた。その後、温泉の玄関前の駐車場での待ち合わせ時間を聞いた。3時間後に落ち合いましょうとの事を言われ、運転手と一緒に、車まで行き、カメラ取り出し一礼をして外へ向かった。外に出て、何気なくシャッターを押しながらも、温泉の事が、浮かんでは消えていったが、私も今までに水着を着て温泉に、入るという事は聞いたことはあったが、私自身経験はなかった。上海の高級サウナは勿論こと、街の銭湯でも水着を着けて、入った事は一度もなかったし、日本では全く無かった。確かに、プールでは水着を着けるのは当たり前でるが、ある日本の温泉場の露天風呂では水着着用と聞いた事がある。実際には、入った事もないし水着を着ての入浴にかんしては、さっぱり感に欠けるのではないかと思ったりもした。
2010.10.30
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「汕頭旅情8」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。福建省で思い浮かべるのはウーロン茶である。次に連れて行かれたのは、お茶の専門販売店。だが、店の中を見渡しても烏龍茶コーナーは、小さなスペースしか取っていなく、雲南省の、お茶が所狭しと並んでおりおかしかった。雲南省へ旅した折に購入したプーアル茶は、紅茶味で砂糖を少々入れると美味しく飲めた。普?茶をプーアル茶と読み、中国元代以後の明代に、雲南が領有され、中国でも知られるようになった。清代ではプーアル茶が雲南からの献上品に指定され、朝廷で愛飲され、貴族たちにも多く愛飲された。だが、文化大革命で、手間の掛る製造方法が、文化大革命の大躍進主義に反すると否定された。因って、多くのプーアル茶が香港、台湾に持ち出され、現在では雲南のプーアル茶より台湾の方が知られる。 「汕頭旅情9」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。写真は、お茶販売店の裏庭に通されて撮影した。中国で三千年の歴史のある苦丁茶はダイエット上手。私は10年ほど前に苦丁茶を中国上海地元のスーパーで、購入して半年ほど飲んだ事があり、その折に体重が、普通に生活していて苦丁茶を飲み、3キロ痩せた。だが、苦丁茶の苦さに着いていけれず飲む事をやめた。その後、2ヶ月で元の体重に戻り3ヵ月後リバウンド。そのリバウンドは止まらず、苦丁茶を飲み始めた頃より、4キロも太ってしまった苦い経験がある。最近、苦丁茶が健康に良いと静かなブームになっている。苦丁茶は四川省で作られており、日本の商社が入って、苦丁茶を輸入しているが、四川省の生産地では、苦丁茶の値上がりにより、販売価格が値上がりした。庭には殆どが鉢植えで育てられている「お茶の木」だった。だが、庭の片隅の鉢には立派な「ザクロ」が置いてあった。ザクロの実が、はじけるまでには少し間があるようだが、なぜ、お茶の鉢の間にザクロの木があるのかと思った。その答えは、ザクロ茶を作るための見本の鉢植えだという。私はザクロ茶は初めて聞いた言葉だったので、店にある、ザクロ茶を飲ませてもらったところ、甘酸っぱい感じだった。ザクロ茶には女性ホルモンが多量に含まれているとのことで、女性ホルモンのエストロゲンが作用することにより美肌や、更年期障害、生理不順、冷え性などに効果があると言われたが、私に当てはまるのは冷え症ぐらいかななどと思いながら飲んだ。
2010.10.29
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「汕頭旅情7」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。第二次アヘン戦争をアロー戦争と呼んでいる。1857年~1860年にかけて清とイギリス軍や、フランス連合軍との戦いが行われた。アヘン戦争が終結したものの、イギリスとの戦いが、続くという形で第二次アヘン戦争と呼ぶことも多い。第一次アヘン戦争後、国内での反英運動により、イギリスは期待した商業利益を上げれず、再び戦争を、起こし条約の改正をとの意見が強くなってきた。そんな折、絶好の口実ととなったのがアロー号事件である。1856年10月、清の海上警察はイギリス船籍のアロー号に、臨検を行い船員12名を拘束、うち3人を逮捕した。イギリス船籍に対する清警察の臨検は不当であると主張し、イギリスに対する侮辱であり、3人を釈放しろと抗議した。だが清国は交渉に応じようとはせず事実上決裂した。これが引き金となり第二次アヘン戦争が勃発してしまった。今の尖閣諸島問題に似ているが、日本は直に釈放した。イギリスと中国の衝突により第二次アヘン戦争が勃発した事は、理解できるが、なぜフランス軍までが参戦したかというと、フランスの宣教師が逮捕斬首された事を口実として出兵した。戦争の引き金となるのは、いつの時代も戦争を起こしたいが、きっかけがなく出来ずにいる。しかし、ちょっとした事が、縁になり戦争につながっていることが多いようである。だが、香港がイギリスより返還され、マカオもポルトガルより、返還された今、中国政府は日本に強硬な態度で接している。日本が侵略したのは歴史の通りだが、いくら中国共産党中央を、守る為でも、歴史教科書の日本の侵略戦争に関する内容を、毛沢東やトウ小平時代の教科書内容に戻してほしいと願う。n
2010.10.28
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「汕頭旅情6」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。アヘン戦争は第一次と第二次の2回勃発している。1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して、香港割譲などの要求を出すが清政府はこれを拒否した。18411月、イギリス艦隊は攻撃を開始し虎門の戦いでは、イギリス側は完全に制海権を握り、勝利を収めた。1841年5月、広州に上陸したイギリス軍は略奪や、暴行事件を起こして民衆の怒りを買っていた。清国も手が出せず、周辺の一万余の民衆が決起し、「平英団」を名乗り、イギリス軍を包囲して攻撃した。天が味方したのか豪雨降り続き、イギリス軍は火器が、使用できず、刀や矛で襲いかかる住民の攻撃に対して、銃剣で防戦するも、英軍は全滅し何とか脱出した。だが、兵器に優れたイギリス軍が勝利を収め1842年8月、両国は南京条約に調印し、阿片戦争は事実上終結した。清は多額の賠償金と香港の一部をイギリスに譲渡した。また清は広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めた。イギリスと清との不平等条約に他の列強諸国も便乗し、アメリカ合衆国やフランスとも条約などが結ばれた。日本との戦争以前に、清国は煮え湯を飲まされたが、まだこれは第一次アヘン戦争で、第二次では更に悲惨だった。
2010.10.27
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「汕頭旅情5」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。第一次アヘン戦争は1840年から2年半ほど続いた。清国は国内に蔓延するアヘンに対し厳しく対処し、アヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年、イギリス商人が持つアヘン1400トンを、没収し焼却処分しアヘン商人たちを港から退去させた。39年11月、林則徐による貿易拒否の返答を口実に、イギリス軍は戦火を開き、清国船団を壊滅させた。イギリス議会では「麻薬の密輸拒否」の開戦理由に対し、反発が強く、野党保守党(現自由党)は猛反対した。理由としては、本国イギリスでも法律に触れるほどに、人を害すアヘンの輸入を断られたと言って開戦するとは、「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声。だが、清に出兵する予算案は賛成271票、反対262票の、僅か9票差で承認されイギリス東洋艦隊を編成し派遣した。イギリス艦隊は、広東省や福建省へは出撃せず天津沖に出現。清国は急ぎ林則徐を解任しイギリスに対し弱腰になった。
2010.10.26
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「汕頭旅情4」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省汕頭市中心から海岸沿いに走ると、清朝乾隆年間に造られた石砲台が見えてくる。堀に架かる橋には清朝皇帝を象徴するかのような、黄色の旗が橋の欄干の上に掲げられていた。中国で、象徴する色は、貨幣を象徴する色の、黄色であり、黄色は黄金の色でもある。中国で、黄色といえば皇帝にのみ使用が、許される特権的な色である。中国文化の影響により朝鮮や台湾の王も、黄色の服を着ており、深い黄色の服を、正装として着用するようになった。中国の僧やインドの僧も、黄色は仏教の、僧の衣に使われる聖なる色とされている。その反面、ポルノの事を「黄色」と言うなど、中国語で「黄」のつく言葉には悪い意味の、言葉に使われるようになって行った。はじめ「黄色片」と中国人から言われても、何の事かピンと来なかった事があるが、どうして黄色片と呼ぶのか意味は分からない。
2010.10.25
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「汕頭旅情3」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。アモイよりバスに揺られること3時間余りで、スワトウ刺繍でも知られる汕頭へ着いた。最初の目的地であるアヘン戦争時代に、造られたという石砲台である。アモイの胡里山砲台とはまた違い、小規模なコロシアムと言った感じだろうか。入場ゲートを潜り中へと入っていったが、石砲台前は、ちょっとした広場になっており、ローラースケートなどできそうな感じがした。200年は経っているのではと思われるが、保存状態は、それほど崩れてなく良いと思った。中国の皇帝の使う黄色の旗に龍の絵柄が、描いてあり、3m間隔で立ててあり、旗に目が行き、石砲台の影が薄かった。写真は石砲台に入って行く前に、花越しに、石砲台の一部を切り取ったが、花にピントを、合わせた一枚と石砲台の壁にピントを合わせた。堀の上に架かる鉄筋コンクリートで作られた橋を、渡って石砲台の中へと入っていったが、円形状に造られた石砲台の通気口の設備も、考えて造られており中は息苦しくは感じなかった。
2010.10.24
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「汕頭旅情2」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。アモイより3時間ちょっとで汕頭へ着いた。遼寧省瀋陽から広東省湛江を通り越し海南島への、フェリー乗り場の海安まで高速で行けれる。全長5千キロ以上で、日本が2つ入る長さの道路も、今では舗装された幅の広い道路が続いており、マカオで高速に入り汕頭までの単調な道であった。ほとんど仮眠状態だったが無事に来れた。単調な高速を降りて、市街地へと入った。道路事情や車の性能も良くなったものの、運転をする中国人のクラクションを、鳴らし続ける癖は直らず、交差点辺りは煩い。最近は少なくなったが、少し前は交差点の、ど真ん中であっても、車から降りて、つかみ合いの喧嘩をしており、それが始め二人が、いつの間にか6人で殴り合いをしている事もあった。目的地を間近にしてトイレ休憩で停車した所には、24時間営業のスーパーがあった。中国で24時間営業が広まりだしたのはコンビニの、進出が大きく影響をしているが、まだ10年ほど前の事。アメリカ資本のコンビニが中国大都市に出店し出したのが、15年前の事で、私が生活していた広東省広州でも、街角に海外資本のローソンなどが姿を現した。現在の中国の繁華街では、200m間隔にコンビニがある。勿論、内陸部の農村地帯には、その光景を見る事はない。北京や上海、広州や深センなどの繁華街でのコンビニの、進出はこの5年ほどで急成長したと言えよう。写真は、目的地近くなので、港の風景であるが、船に、コンテナを載せ終わったところで、クレーンが沢山、設置されており、広東省東口の貿易港の一コマ。これより第一目的地の清の康熙年間に沙汕頭砲台として、造られた石砲台公園へ向け走り出した。
2010.10.23
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「汕頭旅情1」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。アモイは福建省の南側に位置し、汕頭は広東省の、東側に位置していおり、距離にして250キロほど、離れているに過ぎず、高速で2時間半ほどで着く。朝6時にアモイを出発し、福建省と広東省の省境の、サービスステーションでトイレ休憩をとった。目的地へ着いた時刻は9時過ぎであった。道路案内の看板には、広東省と福建省へと、矢印で示されており、省境と言うこともうなずける。先にトイレを済ませた後、10分間の休憩の間、運転手に呼ばれるまで、辺りの撮影を続けていた。撮影をしている間に脳裏をよぎった事柄は、昔の中国のトイレ事情だった。私が25年ほど前に中国へ旅行した折に、良い感じがしなかった事柄は、トイレのプライバシー侵害と道路事情だった。道路と言えば、高速道路であっても、工事中の箇所が多く、高速を降りて脇道を、通ったら、舗装もしていなく車両の重みで道路が、凸凹になっており、気分の悪くなる人もみられた。先輩に聞いてみたところ、日本では50年前でも、道路の極端な凸凹は見られなかったと言う。トイレともなると、中国へ来る前にガイドブックで、読んだにもかかわらず、思っていた事とまるで違っていた。トイレには、隣りとの仕切りもなく、当然扉もなかった。一度、腹の調子の悪い時に、用を足したくトイレに入った。だが、ズボンを下ろそうとベルトを緩めたときに、前の人が頑張っている姿を見ながら、尻から物が落ちるのを、見たときに思わず後ろを振り返ると、やはり頑張っている。私も後ろから見られるのかと思うと、腹の痛みも、和らぎ用を足さなずにホテルへ着くまで我慢した。これは、女子トイレも同じ作りだったが、中国人に聞いても、それが当たり前なので、なんとも思わないようであった。水は溝へ流れるが、前から水が流れ、自分の股の下を、前の人の物が順に流れてくる光景は目を覆いたくなる。写真の「?歸」と書かれた「母が子供を抱えた像」だが、福建省から広東省へ、また広東省から福建省へと、働きに来ている子どもたちも多く、帰りを待ち望むという、意味の言葉が、母子像の下に書かれている。「?歸」の「?」は望むという意味で、「歸」は、帰りをとの意味になり、一つの標語なのだろう。やはり中国でも母が子供を抱く姿は微笑ましい。
2010.10.22
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「アモイ旅情33」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島の「海天堂構」では東洋と西洋の、良いところを取り入れ、まとめた建物だった。2階の観音像が安置してあるところでは、観音像の高さに合わせて天井が高くしてあった。7mほどあろうかと思うほど背丈の高い観音像。手には航行の安全を願う舵を持ち海へ向かっていた。観音というと男性なのだが、後ろ姿は女性で、しとやかな仕草が観音像から伺えた。隣りの部屋も見たいと言うと係りの人が案内してくれた。ガイドは下に降りているからと私と係員だけだった。写真の楽器は南曲に使われたもので、宋や元時代以降、南方系の戯曲に用いられた曲調つまりメロディの総称。中国の南方系の歌曲を主体とする演劇を、北方系の北曲に対して南曲と呼んだものである。元々南曲は浙江省の温州が発祥の地といわれる。明日からの旅の写真は、アモイから250キロほど離れた、広東省仙頭から潮州の方の写真を公開していきたい。
2010.10.21
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「アモイ旅情32」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島の「海天堂構」の中に入ると、先に通されたのが人形劇の舞台がある大広間。その「海天堂構」の人形劇その途中抜け出し、人形の保管してある所を、ひとり見て回ったが、その後私を探すのに、ガイドさんが相当苦労したようだった。その人形が保管してある人形たち写真はガイドさんが苦労して私を探し出してくれ、その後、2階の各部屋を見に行ったが、皆は、帰った後だったので、私一人の為に照明を点けてくれた。壁には中国の歴史上の人物の名前が書かれていた。中国へ来た当時は、中国歴史上の人物のホームページを、作るのに大変な思いをしていた時だった。その中国歴史上の人物のページは下をクリックすれば、見れるので時間・興味のある人は行って見て下さい。楽天とエンコードが違うので、EUCに変更して下さい。画面上のページ(P)→エンコード(G)→日本語(自動選択)「中国歴史上の人物」「中国歴史上の人物A~R」
2010.10.20
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「アモイ旅情31」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島の「海天堂構」の門の前に辿り着いた。門を潜り中へ入ってより、振り返りまた門の外へ出た。門の上に取り付けられた「守り瓦」のデザインを、撮影したものの日本の鬼瓦とは趣きが違うようだ。守り瓦の周りには「炎」がデザインされていた。日本の瓦のような素焼き風ではなく、石を彫ったような感じにみえた。軒の彫刻も素晴らしく暫しの間眺めていた。彫刻というと木材を彫ったようだが、画像の門の軒は石のような感じだった。門を潜り中へ入り、門の裏側を撮影した。「鹿礁千頂」と書かれていたが意味は不明。私が見つからないので、ガイドが呼びに来た。ガイドと中に入り、門の方を振り向き撮影した。ガイドより「5人の人が待っていますよ」と言われ、先を急いだが「海天堂構」の正面を撮影した。1921年に建てられた3棟の建物からなる別荘だったが、10年前に2年の歳月を掛け修復工事を終えた海天堂構は、フィリピンの華僑の人の所有だという。
2010.10.19
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「アモイ旅情30」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島で1900年ごろ建てられた各国の旧領事館脇の、大通りを徒歩にて、目的地の「海天堂構」まで向かった。旧領事館の洋館建ての傍らには清朝末期であるが、西洋の照明灯が設置され、人が住んでいるのか、吊るされた鉢に花が植えられていた。コロンス島は1900年以後共同租界地に定められた。各国の領事館や商社なども次々と建てられていった。また学校や寺院が建設されていったが、現在は建築物が、多く残る地域で観光化してホテルなどに変貌している。また、歩きながら思った事は、どこの通りを見ても、コロンス島には車の往来が極端に少ない。電気自動車でも、コロンス自治区で許可された車しか走行禁止である。今、中国では反日感情が露にデモにつながり破壊行為が続く。中国中央政府の権力争いを、このデモにより中央指導部の、失脚を狙ったものだと噂されているが嘘ではないようだ。四川成都でのデモから西安など大きな都市でデモが続いた。次の土日には、更に大きなデモを予定しているとか。以前の北京や上海や広州での大掛かりなデモでも日本料理店が、破壊されたことは記憶に新しいが、四川大地震で日本救援隊の、功績などで日本人の心を知った筈の中国人だったが、なぜ、デマメールに踊らされてしまうのか腹立たしい。
2010.10.18
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「アモイ旅情29」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ港から見えるコロンス島の150年のあゆみは、アヘン戦争により1844年アモイにイギリス租界の開設を、認めさせイギリス人が住むようになり領事館も出来る。その後、国際管理地域となりドイツやアメリカまた、旧日本政府などもコロンス島に領事館を建てて行った。写真の旧日本領事館は1897年頃からコロンス島にある。他の国の領事館は観光ホテルなどに改築されているが、旧日本領事館誰も住んでいないような感じがした。コロンス島の人口は1930年には外国人600人ほど中国人、2万人ほどだったが、1937年蘆溝橋事件をきっかけに、旧日本軍は次々と中国各地を占領していった。1938年にアモイも占領されるとコロンス島の租界には、多くの難民が殺到し「安全地帯」が治安の悪化をたどった。 旧日本軍も真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発すると、コロンス島にも上陸してイギリス人やアメリカ人を、拘束したが、1945年の敗戦の2年前に旧日本軍は、共同租界を返還し消滅してしまった。戦争前は、外人専用の居留地に、中国人は入れなかった。当時の旧日本領事館に設置されていた監獄跡には、「旧日本帝国主義厦門領事館警察署地下監獄」と、書かれた石碑があったが、かなり重圧を感じた。コロンス島の観光は中国人が全体の90%を占めており、旧日本の生々しい石碑が、中国人の心を逆撫ぜしているようで、心苦しく、反日思想が、ここを見て更に広がるのではと思った。幸いなことに旧日本領事館は、少し奥まったところにあり、興味ある中国人しか目に触れず、一般の中国人は、知らずに通り過ぎて、中国人ガイドも触れなかった。今、中国西安やその他の都市でも反日デモが激しく、日本と関係のある運動具店や料理店などの破壊が続いている。
2010.10.17
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「アモイ旅情28」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島のみやげ物屋さんの通りを歩くと、同じようなみやげ物を売る店が並んで建っていた。お茶を売る店や貝の飾り物や鞄や靴など、同じように集まって商売をしていた。その店の傍らに赤提灯が吊るされており、赤提灯には大吉大利と書かれている。大吉大利の意味は、万事好都合に運ぶ。また赤提灯には、よく使われる万事如意の文字。この意味も、万事が思い通りに運ぶとの意。少し歩くと風車が売られており、時折吹く風に、喜ぶかのように風車が音を立てて回っていた。みやげ物屋で唯一買ったものが福建省のお茶。下の写真のお茶は、ジャスミン茶類である。茉莉花茶や牡丹秀球、龍珠王や七仙女など。このお茶は、ブランデーグラスに丸めた珠を入れ、お湯を注ぎ込むと、花のように徐々に開く。ジャスミン茶の香りには、鎮静作用があり、心のバランスを整えてくれ、気持ちを和らげる作用がある。牡丹茶と呼ばれるものも、作り方は同じで、緑茶や黄茶を何枚も束ねて牡丹の花のように、作り上げたもので、ジャスミン茶よりも大きな花が開く。だが、私が買ったお茶は、烏龍茶で上海に戻ってより、烏龍茶を飲んだものの旅先で飲んだ香りの良い味はしなかった。やはり、雰囲気とお茶の入れ方やお湯の温度なども、関係しているのかとも思ったが、どのようにしても酷があり、それでいて甘さの残るお茶の味は思い出の中に残った。
2010.10.16
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「アモイ旅情27」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ港からフェリーで5・6分の所にあるコロンス島。みやげ物屋さんが建ち並ぶ通りでは貝殻の首飾りや、装飾品として多く売られていた。風が吹くと吊るされた貝殻の打ち鳴らす音が響き、さわやかな音が心を清々しくしてくれた。通りには多くの貝殻が吊るされる店が連なり、貝殻の鳴り響く光景がいつまでも続いていた。アルバイト料が幾らなのかは分からないが、海岸で貝殻を拾い、錐で穴を開けタコ糸で、つなぎあわせるのも根気の要る仕事である。貝殻をつなぎ合わせるのは島民の、アルバイトでまかなわれているとのこと。みやげ物屋さんの店の隅には、花売り娘たちの、こけし人形が売られていたが、手に取って見ても、手間が掛けられ作られていた。だが現在では、写真のコケシのような花売り娘は、ほとんど見ることが出来ない。日本人形とは趣が違うが見ていても飽きない。
2010.10.15
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「アモイ旅情26」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。旅に出る前夜は中々寝付かれなく時間ばかりが、どんどん過ぎて行き、いつも旅行当日は睡眠不足。前夜に忘れ物はないかと考えてみるが、床についてから、思い出すものの翌朝にバッグへ入れればよいと動かない。特に冬の寒い夜は布団から出たくなく、そのままになり、朝6時出発という事もあり、慌しく部屋を出て忘れてしまう。今までに何回ともなく旅に出ているが、毎回持って行く物を、同じようにチェックしているから自分でも、おかしくなる。普段旅には三脚は重たいので持参しないが、今回の旅には、一脚を持参したものの全てを自由行動にしないと少人数の、現地ツアーでも決められた時間での行動には限界ある。土産物屋では女性用の布袋を買い、その中に一脚を入れた。肩から提げる布袋は定価60元(900円)を28元(420円)で買った。写真は土産物屋の店先で売られていた操り人形だが、福建省泉州や?州、広東省の潮州また台湾で人形劇として、現代に伝わっており、布袋人形劇で使われる操り糸人形だ。1750年ごろから布袋劇が巷に流行しており、人形の頭部や、手足部は木製で出来ており、身体部は布製の衣服を着せた。元々、手を人形衣装の中に入れて操作するが、操り糸を、巧みに操り劇を演出して行ったが、布製の袋を使って、劇をしていったので、布袋劇という名前がつけられた。福建省?州は昔から、生活が不安定で、災難に見舞われ、天を敬い巫女を尊ぶという風習が盛んであったので神秘的な、人形劇が民間でひろく流行していた。清朝や中華民国時代には、人形劇を演じる小屋も多くあり、娯楽の少ない時代の中にあっても、相当盛況であった。中国では人形劇に関する記述が非常に多く、紀元前900年頃、西域の人形使いが王朝に芸人を連れて人形劇を行った。 福建省の泉州の指人形劇では、人形は手で直接操られる。 指で直接人形を操る方法も盛んに行われていたという。 長い歴史の中で人形芸術は次第に豊富になっていった。またより完全なものを求めて、操作方法も多くなって行った。現在においても、人形劇は各地で行われているが操作方法は、場所や劇団により、糸で操る人形や手を入れて操る方法、また棒で操る人形や指人形などと種類も多くなっている。糸で操る人形は、全長30センチ前後のものが多く関節も動き、そのため、関節など動く部分には、操るための糸がつけてある。一つの人形に20本以上の糸がつき、すべての糸は操るための、板に繋がれており、操る人は板をつかみながら、糸を操作する。京劇の人形などの動きは複雑で操る糸の数も多くなっている。
2010.10.14
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