照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2024.02.27
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テーマ: 大東亜戦争(220)
カテゴリ: 思想・哲学

《或(ある)人の說に、支那は獨裁(どくさい)政府と雖(いえ)ども尙(なお)政府の變革(へんかく)あり、日本は一系萬代の風なればその人民の心も自から固陋(ころう)ならざるべからずと云う者あれども、この說は唯外形の名義に拘泥(こうでい)して事實を察せざるものなり。よく事實の在る所を詳(つまびらか)にすれば果して反對(はんたい)を見るべし。

その次第は、我日本にても古(いにしえ)は神政府の旨(むね)を以(もっ)て一世を支配し、人民の心單一にして、至尊の位は至强の力に合するものとして之を信じて疑わざる者なれば、その心事の一方に偏すること固(もと)より支那人に異なるべからず。

然(しか)るに中古武家の代に至り漸(ようや)く交際の仕組を破て、至尊必ずしも至强ならず、至强必ずしも至尊ならざるの勢と爲(な)り、民心に感ずる所にて至尊の考と至强の考とは自から別にして、恰(あたか)も胸中に2物を容れてその運動を許したるが如し》(「文明論之概略」巻之1 第2章:『福澤諭吉全集第4巻』(岩波書店)、 p. 25

 日本においても、古代は混淆(こんこう)していた「至尊」(権威)と「至強」(権力)が、中世になって区別され、分離されるようになった。

《既(すで)に2物を容(い)れてその運動を許すときは、その間に又一片の道理を雜(まじ)へざるべからず。故に神政尊祟の考と武力壓制(あっせい)の考と之に雜るに道理の考とを以てして、3者各强弱ありと雖(いえ)ども一としてその權力を專(もっぱら)にするを得ず。之を專にするを得ざればその際に自から自由の氣風を生ぜざるべからず》(同)

 至尊の位と至強の力を分離し、これらを上手く機能させるためには、至尊の位と至強の力を平衡させるための、諭吉が言うところの「道理」が必要だ。例えば、権威を顧みず、権力が過剰となってしまっては、「権威無き権力」のようなことになって、圧政や暴政を招きかねない。だから、権威と権力がどちらか一方に偏り過ぎないための「平衡感覚」が必要となる。それが「伝統」だ。

《曲芸師が一本の綱の上で平衡を保とうとするときおびただしい緊張と活力が彼の心身をつらぬいているのとちょうど同じように、保守思想は変化の種類を見極めその度合を測定する作業に、いわば静かに熱狂しているのだ。中庸を保つことにおいてのみ人知れず熱狂する、それが保守思想の根本姿勢だといってもよい。そして綱渡りにおいて曲芸師が手にする一本の平衡棒とちょうど同じような何の変哲もないもの、しかし人間社会の命綱ともなる大切なもの、それが伝統なのである》(西部邁『思想の英雄たち』(文藝春秋)、 p. 33






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Last updated  2024.02.27 20:00:12
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