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福澤諭吉は、権威、権力という言葉に代え、「至尊の位」、「至強の力」という言い方をしている。
《純然たる獨裁(どくさい)の政府又は神政府と稱(しょう)する者は、君主の尊き由緣を一に天與(てんよ)に歸(き)して、至尊の位と至强の力とを一に合して人間の交際を支配し、深く人心の內部を犯してその方向を定るものなれば、この政治の下に居る者は、思想の向う所、必ず一方に偏し、胸中に餘地(よち)を遺(のこ)さずして、その心事常に單一ならざるを得ず》(「文明論之概略」巻之1 第2章 西洋の文明を目的とする事:『福澤諭吉全集第 4 巻』(岩波書店)、 pp. 23f )
「独裁」は、「至尊の位」と「至强の力」、つまり、「権威」と「権力」を一手に掌握する。結果、思想は単一に統制される。
《心事繁多ならず 故(ゆえ)に世に事變(じへん)ありて聊(いささ)かにてもこの交際の仕組を破るものあれば、事柄の良否に拘(かか)わらず、その結果は必ず人心に自由の風を生ずべし》(同、 p. 24 )
が、一旦非常事態や騒乱など「事変」が起これば、統制は乱れ、抑圧から解放され、自由が萌(きざ)す。
《孔孟の敎(おしえ)は暴君の働(はたらき)を妨(さまたげ)るに足らざるものなり。
然(しか)り而(しか)して秦皇が特に當時(とうじ)の異說爭論を惡(にくみ)て之を禁じたるは何ぞや。その衆口の喧(かまびす)しくして特に己が專制を害するを以てなり。 專制を害するものとあれば他に非ず、この異說爭論の間に生じたるものは必ず自由の元素たりしこと明に證(しょう)すべし。
故に單一の說を守れば、その說の性質は假令(たと)ひ純精善良なるも、之に由(より)て決して自由の氣を生ずべからず。自由の氣風は唯多事爭論の間に在て存するものと知るべし》(同)
<異説争論>あるところに<自由>はある。如何に意見が多様であるかは、自由度を測る1つの物差しであるのだ。
《秦皇一度(ひとた)びこの多事爭論の源を塞(ふさ)ぎ、その後は天下復(ま)た合して永く獨裁の一政治に歸し、政府の家は屡(しばしば)交代すと雖(いえ)ども、人間交際の趣(おもむき)は改ることなく、至尊の位と至强の力とを一に合して世間を支配し、その仕組に最も便利なるがために獨(ひと)り孔孟の敎のみを世に傳(つた)えたることなり》(同、pp. 24f)
権力と権威を独り占めにし、この政治の仕組みを肯定するために孔子・孟子の教えが使われた。それは、謂わば「支配者道徳」なのだ。例えば、儒教における「仁義」や「忠孝」といった観念は、支配者が人民を統(す)べるのに好都合だったということだ。
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