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《第1に問題なのは、「大東亜戦争」そのものを単純に倫理的に否定することにおいて、戦後日本の知識層が、大きく一致しているという点である》(大熊信行「占領政策と戦後日本 ―いわゆる“戦後思想”の虚妄について―」:神奈川大学創立35周年記念論文集『戦後の思想と社会』(神奈川大学):国立国会図書館デジタルコレクション、 p. 5 )
戦争を倫理的に否定するなど愚の骨頂だ。例えば、相手国に攻め込まれ、自存自衛が求められても、戦争は「悪」だからと交戦することなく白旗を上げ、相手国に隷属するなどということが、倫理的に「善」であるなどと考えるのだとしたら大馬鹿者と言うしかない。が、戦後日本の知識人には、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」よろしく、このような愚かな意見を堂々開陳するものが少なくなかった。
《第2に問題なのは、戦後日本の平和思想の形成が、「大東亜戦争」の否定と表裏一体の関係に、結びついているということである。――戦後における戦争責任論の流行が、占領軍による追放措置や、極東軍事裁判と切りはなしては、もともと説明しにくいものであり、それが不毛の論議であったことは、今日ではすでに明瞭である。それもまた例の戦後的な、平和思想というにあたいしないような平和思想と、表裏一体の関係にあったのである》(同)
<戦後日本の平和思想の形成が、「大東亜戦争」の否定と表裏一体の関係に、結びついている>という指摘はその通りであろう。日本が戦争をしなければ世の中は「平和」になるということで憲法9条「戦争放棄」が定められた。が、日本が戦争をしなくても、世の中は紛争と戦争に明け暮れたのが戦後の世界であった。少なくとも日本は「平和」だったではないかと言う人もいるのだろう。が、それは9条ではなく在日米軍が睨(にら)みを利かせてくれていたお陰だ。
《ところで、わたしがここにあらゆる誤解をおそれずに提起しなければならないのは、そのような「大東亜戦争」の倫理的否定の否定である。
日本国民がこの核時代を生きぬくためには、独立の一国民としての主体的な立場における現代史観がなければならず、そのような国民的史観においては、「大東亜戦争」を単純な倫理主義をもって律することはゆるされない。
また、そのような否定の態度からは、原理性・行動性をもった真の平和思想の骨骼(こっかく)が、国民主義的な規模において形成されるということも、絶望だといわなければならない。この小論に重大な指摘があるとすれば、そのひとつはこの1点にかかるはずである》(同)
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