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《日本人が、1つの国民としてこの核時代を生きぬくためには、絶対平和主義の超歴史的な原理だけでは足りないのである。平和主義は、それがいかに困難であろうとも、われわれ国民の政治原理とならなければならない。これがわたしの思索における新たな到達点である。それがそうなるためには、それは同時に歴史原理でなければならない。それが歴史原理であるためには、われわれのたたかった大東亜戦争は、単純な理性原理によって否定されてはならない》(大熊信行「占領政策と戦後日本」:『戦後の思想と社会』、 pp. 5f )
平和をただ唱えているだけでは駄目だ。平和は、政治において実践的に追求されねばならない。そのためには、平和とはどのような状態なのかが歴史においてしっかり位置付けられねばならない。大東亜戦争をただの「悪」として否定する単純な理性は否定されねばならない、ということだ。
《われわれはあの戦争を、むしろ免れようのなかった歴史的必然として、すなわち日本民族の1つの宿命として、受けいれてゆく立場を確定しなければならない》(同、 p. 6 )
日本は、大東亜・太平洋戦争を戦った。その事実は、今更否定しようもない。この事実を黒歴史として歴史から消し去ろうとすることは、歴史に対する冒瀆(ぼうとく)であろう。歴史は、自分たちの都合の良い史実を人工的に繋ぎ合わせたものであってはならない。それは「偽史」である。事実が捻じ曲がった歴史は、人々を誤解させる。
事実をありのままに記述してこその「歴史」である。そのような「歴史」であればこそ、我々は「歴史」から学ぶことが出来るのだ。
勿論、出来事を史実としてどのように記すのかは一律ではない。歴史解釈は千差万別だ。が、出来事自体から目を背け、それがあたかも無かったかのように歴史から抹消してしまっては、もはや民族の備忘録としての価値はない。継ぎ接(は)ぎだらけの「歴史」からは、何も学べない。何の教訓も得られない。
《個人の行動においては、過失とよばれるものがあり、しばしば訂正や取消しが可能である。悪行とよばれるものもあり、処罰も処断も可能で、そしてそれにはいずれ終結がある。しかし国際関係のダイナミズムにおける諸民族の政治行動は、それ自体が歴史を創造するのであって、これは世界政治史の見地から評価することを廃絶してはならない。しかも、われわれが緊急に必要としているのは、独立の一国民としての主体性における現代史観である》(同、 p. 6 )
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