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宮台真司氏は、共著『学校が自由になる日』で、日本の論壇は左も右も「共同体主義者」によって占拠されていると言う。
《「右」は「崇高に精神共同体」を掲げ、「左」は「温かい世俗共同体」との一体感を尊がっている…戦後日本の「学校」をめぐる左右の対立も、結局は、「共同体」としての「学校」を守っていこうとする共同体主義者同士の争いで、前近代的なレベルにとどまっている。誰も、その「共同体」の枠を外して、全てを各人の「自己決定」に委ねるというリベラリズムの原則に徹しようとはしていない》(仲正昌樹『「不自由」論 』(ちくま新書)、 pp. 141f )
要は、宮台氏は、戦後日本の学校教育は、「個人」を蔑(ないがし)ろにしてきたと言いたいのであろう。
《リベラリストは、一方で「政治的自由」すなわち政治に参加する自由を主張し、他方で「市民的自由」すなわち政治からの自由――政治不参加の自由――をも強調します。ただし、リベラリスト本人は、そういうリベラルな社会体制に価値的にコミットし、いま述べた「政治的自由」を行使して、そういう価値的コミットをする人を増やそうとします。その意味で、リベラリストにとって、教育はきわめて重要な戦略拠点になります。(中略)
リベラリストが教育を重視するのも、1つには、自由な社会を支えようという「政治的な動機づけの養成」が不可欠だと考えるからであり、もう1つには、リスクを取る者が多くを受け取り(ただし失敗した者には再チャレンジの機会が保障される)、リスクを取ろうとしない者は多くを受け取れないという経済制度の下で、ちゃんとリスクティカーになってもらえる「経済的な動機づけ」の養成が不可欠だと考えるからです》(宮台真司・藤井誠二・内藤朝雄『学校が自由になる日』(雲母書房)、 pp. 256f )
これに対し仲正氏は、
《これは、「リベラリズム」という特定の「文脈」にコミットする人間を、「教育」を通してリクルートし続け、それによってリベラリズムを継承していこうとする発想であり、そこには明らかに、リベラリスト同士の“共同体”が想定されている。そうした“共同体”を維持していこうとする積極的な「動機」付けのための「教育」が不可欠だというのであれば、それは、「主体性を学ぶ大切な場としての学校共同体」を守ろうとする左右の“共同体主義”の教育と決定的に異なると言えるのだろうか》(仲正、同、 pp. 143f )
と疑義を呈する。
人は、何某かの「共同体」に属し生きている。「共同体」のない社会など考えられない。したがって、批判されるべきは、「共同体」そのものではない。
宮台氏は、「リベラリズム」の普遍性を信じているのだろう。が、果たしてこの西欧概念が日本においても通用するのか否か。日本にリベラリズムが根付かないのは、必ずしも日本が前近代的だからというわけではないだろう。個人主義的な西欧と集団主義的な日本とでは事情が異なるのである。
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