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《最初に自然科学の“客観的”な例を出して、それを自分のよく知っている文系の専門領域に引き付け、それなりに学問的に承認されている議論を展開したうえで、日常的に身近な例をそれで説明し、実践的な帰結を引き出すという構成は、筆者くらいまでの年代の大学人にはかなり御馴染みのパターンである。つまり、左翼啓蒙主義のエクリチュールによく見られる標準的なパターンである。特に、伝統的な左翼ルソー主義的な教育学は、教育学の中で最も自然科学的な発達心理学や、実証性が高いと思われている人類学の成果を最初に突き出して、それを思想的に「解釈」して、アクチュアルな教育問題への提言へとまとめていく、というパターンを大事にする。当然、そういうのは「自然科学」そのものではなく、自然科学をめぐるエクリチュールである。さらに言えば、ルソー主義的な「フマニタス=教養」主義である》(仲正昌樹『「不自由」論 』(ちくま新書)、pp. 148f)
前日の林道義氏の議論に引き戻せば、ゴリラの父性に関する知見を根拠に、ゴリラから派生した人間も同じ遺伝子を有するはずだと演繹(えんえき)し、人間にも父性が必要だとするのであるが、このような議論展開がどれほど学術的であり、説得力を有(も)つものなのかについては別途検討の余地があると言わざるを得ない。
話は「自由主義史観」に移る。
《「ナショナリズム nationalism 」は、19世紀のヨーロッパにおいて、フランス革命の拡大に反発する形で生まれてきた思想である。その基盤になる、言語・文化共同体としての「国民 nation 」という概念も、当然、西欧産である。その意味で、日本人が「健全なナショナリズム」を打ち立てようと主張することには、そもそも矛盾がある。「自由主義史観」の「教育」を打ち立てようとするのは、なおさらへンである》(同、 pp. 150f )
私の認識では、フランス革命とは、「旧体制」を壊し、新たな「国民国家」を樹立するものであり、その際、人民を統合するために唱えられたのが「ナショナリズム」だった。これは、仲正氏のものとは異なるが、話が逸れてしまうのでここでは深入りすることは避ける。
《筆者は、「自由主義史観」という言い方は、二重の意味で矛盾していると思う。第1に、自由主義史観を名乗っている人は、アメリカの占領政策や左翼によって植え付けられた「自虐史観」から“自由”になり、日本というネーションに合った“自然な”文脈で「歴史」を語るという意味で「自由」と言っているが、その「ネーションにとって自然な」という発想自体がそもそも西欧産である》(仲正昌樹『「不自由」論 』(ちくま新書)、 p. 151 )
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