照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2025.01.17
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テーマ: 教育問題(406)
カテゴリ: 教育について

西尾氏は、「歴史は文字に始まるものではない」と言う。

《文字以前の歴史がある。文字と言語は同じではない。言語と行為も同じではない。文字は言語に及ばない。そして言語は行為に及ばない。

 行為の一回性の深さと多様性の広さに比べれば、言語は不完全で、恣意(しい)的で、浮遊的である。が、言語の一回性の重さと多様性の複雑さに比べれば、文字はさらにあまりに不完全であり、表面的である。文字は言語世界を正確に伝える力を持たない。まして行為世界に文字の力はほとんど及ばない。文字は記号であり、符牒(ふちょう)であるにすぎない》(西尾幹二編『国民の歴史』(産経新聞社)、 p. 115

 無文字時代の「歴史」を蔑(ないがし)ろにする今の歴史学への反発である。

《わが日本列島の歴史の場合は――7世紀以前には日本という国号はまだなかったなどという愚にもつかぬ唯名論を振りかざすなかれ――古代中国文明の索引をもってしては推測も想像もおぼつかない、中国語とは違う言語生活をしていた無文字の時間が数千年以上にも、ひょっとすると1万年余にも及んでいるのだ。どうしてそれが歴史でなかったといえるであろう。

 ところが現代日本の古代史家たちは、中国の史書に倭国に関する文字記述のあったときをもって、この列島の歴史の始まりとし、それ以前は考古学的時代として封印して、顧みない。ここにはきわめてあさはかな合理主義がある。目に見えるものだけを信じる、知性の衰弱がある》(同)

と西尾氏は現代日本の古代史家たちの姿勢を批判するのである。

《精神は運動であり、文字はそれを停止させ、化石にしてしまう。人間は文字を使うことで自分を失う。魂を死滅させる。ケルト人が秘儀の伝授に文字使用を禁止し、「文字は知を辱める」とか、「知を殺害する」と言ったのとほぼ同じ不安と抵抗が、前1世紀から後8世紀頃までの日本にもあったのではないだろうか。

 精神の生成と運動の静止に対する不安と抵抗である。古代日本の歌人たちや、稗田阿礼(ひえだのあれ)のような伝承の口述者に、どうして内心の抵抗がなかったといえるであろう。どうして歴史家はそこを問題にしないのだろうか。どうしてつねに文明の側から過去を描くという惰性に従って、恬(てん)として恥じないのだろう》(同、 p. 145

 が、言葉を文字にすることへの抵抗があったことを根拠付けるものは何もなく、これはそうであってほしいという西尾氏の憧憬(しょうけい)でしかない。






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Last updated  2025.01.17 19:00:12
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