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《教育社会学者の苅谷剛彦氏(1955- )は、「生きる力」を重視する「新しい学力」観のもとで「教育目標」と「学習活動」の結び付きが曖昧になり、これまで以上に「教えない教師」が増えてきたことを指摘している。「教師」が「教えない」というのは、明らかに撞着語法であるが、苅谷氏に言わせれば、可能な限り「生徒の自主的学習活動に任せること」が教師の“役割”であると自覚し、積極的に「教える」ということをためらってしまう教師が増えてきたというのである。
そうした人たちは、教師が「教育」を主導するのは、「子供の自主性」と反すると考えているので、子供たちに明確な目標を与えず、「自由放任」にしてしまう傾向がある。苅谷氏は、そうした極端な自主性尊重論者は、決められた「知識」を伝達することだけが教師の役割だという態度の人と実は同類で、いずれも「教える」ことが分かっていないとしている》(仲正昌樹『「不自由」論 』(ちくま新書)、pp. 161f)
ここでは教師が積極的に生徒を指導するということをもって〈教える〉としておこう。だから、授業中にビデオを見せるだけとか、演習問題プリントをやらせるだけといった作業だけでは教えたことにはならないということだ。
さて、「アクティブ・ラーニング」が言われるようになって、教師が教えすぎないことをよしとする風潮が出て来たように思われる。私の経験を少し話せば、「教育センター」から現場へと視察に来られた方が、授業見学後、教師が話している時間が長すぎ、もっと生徒が活動する時間を増やすように改善案を述べられた。中身の問題ではない。時間配分だけが問題視されたのだ。
「アクティブ・ラーニング」によって、学力が低下するであろうことは明らかであり、ただ生徒に主体的に活動させればさせるほどよいという考え方は間違っているのではないかと私は反対を試みたが、「アクティブ・ラーニング」によって生徒の主体性を育むなどといった雲を掴むような話が罷(まか)り通っているのが現実なのだ。教師は、基本的に、お上の言うことに従わざるを得ない。だから甚(はなは)だ疑問に思いながらも、グループ学習やプレゼンテーションに授業の比重を置かなければならなくなってしまっている。
《「教える」という営みは、「教室」という特定の状況(文脈)を人為的に創出し、その中で設定された(練習)問題を「解決」するよう、生徒を誘導することである。それは、外の社会での「問題解決」の基礎になる一定の「型」を身に付けさせ、それを通して様々な側面から「主体化」していくということである――「主体それ自体」を形成するということではない》(同、 p. 162
)
と仲正氏は言うのであるが…
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