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《西尾氏は、現実から乖離(かいり)した戦後左翼知識人の「教養主義」の空虚さを批判しているが、「死んだ文字」の集積体から「生き生きした自然な人間性」を引き出そうとしている点では、彼の方がはるかに教養主義的である。彼が自分のエクリチュールに内包する矛盾を自覚していないとすれば、彼こそが、日本における、西欧的な音声中心主義の最大の継承者だと言っても過言ではないだろう》(仲正昌樹『「不自由」論 』(ちくま新書)、 p. 152 )
西尾氏は、戦後左翼知識人自体の虚妄さを指摘しているのであって、〈教養主義〉を批判しているわけではない。したがって、西尾氏の方が教養主義的か否かは当座の問題ではない。
《問題なのは、西欧的な「教養」概念を無自覚的に受け入れてしまっているうちに、それが“自然な在り方”だと思い込んでしまうことである。
キケロの「人間性」も、ルソーの「自然人」も、バーバマスの「市民」も、西欧世界の中の特定の歴史的文脈の中で形成されてきた特殊な概念であり、誰にでも当てはまるようなものではない。自覚しないままに、そうした特殊な概念を、自然で普遍的なものとして使用すれば、「悪意のない押し付けがましさ」が生じてくる。
「教育」の場では、それが特に著しい。「子供の主体性」「個性」「生きる力」「真の学力」「ゆとり」「生徒のニーズ」「共に生きる喜び」「公共心」……など、文脈を限定しないとほとんど意味をなさないような漠然とした言葉が、様々な意図を持った人によって悪意的に使われている。もとの「文脈」が限定されていないので、批判しようにも、暖簾(のれん)に腕押しになるような状況が続いている》(同、 pp. 158f )
かつて本居宣長は、「抑(そもそも)、意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、皆相称へる物にして、上つ代は意も事も言も上つ代」(古事記伝)と言った。その言葉が、どのような時、どのような場所、どのような場面で用いられたのかが分からなければ、言葉の真意は分からないということだ。詰まり、〈主体性〉などという言葉が、時と処と位が限定されずに独り歩きしていることが問題だということである。
ところで西尾氏は、
《歴史を2つに分けて、日清・日露までは正しく、昭和になって間違えた、というような便利な考えをもてあそぶのは、利口ぶった人間のしがちなことなのである》(西尾幹二編『国民の歴史』(産経新聞社)、 p. 616 )
と司馬史観を批判する。
《かつて福田恒存は、自分は「大東亜戦争否定論の否定論者」だという名文句を吐いたことがある。あの戦争を肯定するとか、否定するとか、そういうことはことごとくおこがましい限りだという意味である。肯定するも否定するもない、人はあの戦争を運命として受けとめ、生きたのである。そのむかし小林秀雄が、戦争の終わった時点で反省論者がいっぱい現れ出たので、「利口なやつはたんと反省するがいいさ。俺は反省なんかしないよ」と言ってのけたという名台詞と、どこか一脈つながっている。
しかし利口な人間は後を絶たない》(同)
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