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石段を登り、神社を詣で、源泉までゆくと露天風呂があった。六月に工事が入るらしいが、間に合った。老若、賑やかだ。
May 29, 2018
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関所の配置をみると中之条は囲まれた位置にある。中之条の医師団の支援で沢渡温泉、伊勢町の次に潜伏したのが赤岩の医家と長英逃亡で読んだ。その舘だ現存しているとは。170年以上になろうかと思う。村の説明書きによると、大火があって、防火上、土壁にしたらしい。 長英は二階の部屋に潜んでいたとのことで、三階は、後世に養蚕が盛んになった時に増築されたらしい。富岡製糸工場にでも卸していたのだろうか。豊かな村落であったらしい。村では重要文化財にしているようだが、荒れた屋敷をみるとなんとも物悲しくなった。 さらに、発覚を逃れて、暮坂峠に向かう途中の炭焼小屋に移り潜むことになったようだ。暮坂峠への現在の道は、まずつづら折りののぼりを詰めた後は、ほどなくゆるやかになり、なんとも豊かな森と清流が続き、峠へとつながっていた。今では、庭園施設がつくられ、花も綺麗に咲いていた。 峠を超えると急な下りとなり、おりきって一息ついた後は、川沿いに緩やかにくだっていけた。眼前にひとり突き出た有笠山が垂直の岸壁を晒していた。 ここから、越後まで峠をいくつか超えて山塊を抜けて行くことを想像すると、旅人を迎えるような沢渡温泉のたたづまいが、尚更、柔和なものに見えてきた。昔は、草津のつよい湯の後、ここの湯で体に優しくしてから帰路についたらしい。長英にはそのいとまはなかったと思うが。
May 29, 2018
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大迫力の土木造営域から少し分け入るように渓流脇を上ると、林と渓流の脇に遠慮がちに、かど半旅館があった。ぬるく、長く、まんじりと過ごせた。心地よい。旅籠のような木造もきれいに手入れすれば、ひろい廊下と長い縁側と朝日のぬくもりにくつろげた。
May 29, 2018
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May 20, 2018
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南会津の最深部と思う。塩原を抜け、穏やかな会津西街道を経由して、野岩鉄道を見ながら、湯の花温泉、木賊温泉経由でたどり着いた。木賊から峠越えで檜枝岐に入ろうとしたが、そこだけはまだ開通しておらず、残雪と落石が峠道を覆っていた。 旅館ひのえまたの湯は、透明で滑らかで優しく、肌が若返ったかのような気分になれる。共同湯の駒の湯の露天風呂からは、雪解けの勢いよい渓流と、白樺、新緑の尾根が眼前に広がり、気分が開放されるようだった。湯船に何処からともなく、桜の花びらが舞い降りてきて春がかぐわしかった。 宿の料理は山の幸満載で、地こごみ、山菜ゼンマイ、孟宗竹、ふきのとう、岩魚、檜枝岐の月の輪熊肉、天然サンショウウオなど堪能できた。旬の春野菜、新芽の旨さは格別だ。 檜枝岐歌舞伎の舞台と石段席が大切に披露され、freewifiも完備され、旅行者への気遣いが村にあふれていた。登山客、温泉客、スキー客、皆に配慮した村の営みだ。心地良い。
May 7, 2018
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桜田門外の変の実行部隊の指揮者、関鉄之介は、成就後の召し捕りの幕府令に追われ、水戸藩内を転々とし、八溝山を超えて、那須、越後に入り、湯沢でとらえられたと、吉村昭の小説にあった。 大子は、斉昭の軍事訓練の演習地でもあり、袋田村は、鉄之介が殖産振興に勤め、支援者を得た地でもあったと読んだ。そして、変後には、追ってを逃れ潜伏した地でもあったと。 変後、四年して、天狗勢が、筑波山で挙兵し、日光の占拠をめざして行軍するも、各藩の警備増強にかなわぬと諦めた後、太平山に駐屯したとあった。 その後、この地で焼き討ち暴虐をはたらいた田中愿蔵隊を除名して軍紀を整え、鎮圧に派遣された幕府軍に対しては各地で戦闘に勝利した後、本格的に隊形を整え、京の慶喜を慕って攘夷に発つのが、大子の地とあった。 除名された田中隊は、八溝山に立て籠ることを企てるも、食料難のために山頂の神社で解隊、離散し、各地の天狗狩りで捕縛され、処刑されたとあった。 四月に訪れた大子は、花が咲き、清流が輝くのどかな田園地帯が長く続いていたが、さらに奥まった先の山塊の頂点に八溝山は位置する。今では、山頂まで道路が整備され、車で登れたが、急峻な道は長い。百五十年前の山道は、さぞかし細く、険しかったことと思う。 山頂からは、日光方面も遠望でき、この地に籠ろうとしたのが、わかる位置だった。 天狗勢本体は、大子村から明神峠を越えて奥州街道に至る経路をとったとあったが、途中の南方村は、今でも森深く、林業が営まれていた。遊び心溢れる木彫りフクロウが迎えてくれた。
May 6, 2018
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1945年七尾湾で伊四〇〇のパナマ運河攻撃の最終訓練がなされたと、ジョン・F・ゲヘーゲンの「伊四〇〇型潜水艦 最後の航海」にあった。東、北、西のどの海域でなされたのかわからないが、発出、揚収、潜航の慣熟、練度向上がはかられたらしい。 ワシントンへの潜水空母艦隊による爆撃を断念して、パナマ運河のガトゥーン閘門へ特別攻撃して使用不能にし、東からの増援の流入を阻害する作戦に変更したことによる訓練とあった。 搭載機は、愛知航空機の晴嵐で800kgの模擬爆弾を抱えてカタパルト射出されていたらしい。 著者は、弾道ミサイル搭載潜水艦の戦略上の祖型こそ、伊四〇〇型にほかならないと。艦対地ミサイル、レギュラスは、伊四〇〇型に一部ヒントを得たとの米少将の言も紹介されていた。 同書のエピローグでは、「勇気と忍耐と言うだけでは語りつくせない高潔の物語を、心から理解するのは容易ではない。さらに、有泉(第一潜水隊司令)や南部(旗艦艦長)、そして伊四〇〇型の乗員の献身をもってしても、戦略と運用における帝国海軍上級司令部の無能を乗り越えることはできなかった。」「第一潜水隊をめぐる物語とは、圧倒的な不利に遭遇しながら、なおも立ち向かおうとする決意の物語なのだ。」と。 前世紀、死闘の時代があったことを思うと、穏やかな湾と和倉温泉の絶えることなく湧出する恵みがひときわ有難い。
May 6, 2018
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