全9件 (9件中 1-9件目)
1

布佐の対岸の布川に町営の資料館があった。 松岡國男として、明治二十年、西暦1887年、十三歳から二年ほど過ごしたところで、兄が開業している布川の小川家の跡らしい。この医家一族が集めた書籍を土蔵で読み漁ったそうだ。その中に赤松宗旦の「利根川図志」があり、本に誘われ銚子への徒歩旅行を試みたと解説があった。 16才で進学のために上京し、次兄に森鷗外を紹介され、鷗外からかわいがられたとあった。長兄は、松岡医院を布川から布佐に移転し、國男は、田山花袋や島崎藤村などの友人を連れて布佐を訪れたそうだ。 布佐は、江戸時代、銚子や九十九里の魚を江戸に運び込む中継の川港で、ここで陸揚げして松戸まで陸送し、再び、江戸川で舟運したと聞く。その道はなま街道と。いつ頃まで盛んであったのかわからないが、経由地として栄えたらしい。主要河川の流域は、流通路としてさぞかし賑やかだったのであろう。 布川の丘から見下ろした利根川を白帆をあげた船が遡上してくるのを見てみたいものだ。
Oct 28, 2018
コメント(0)

小貝川の脇に生家と記念館とお墓があった。館内の作成した地図は見事なものでした。先日、林蔵の師の伊能忠敬の記念館を訪れ、林蔵が忠敬のかわりに北海道の測量を補っていたことをしり、同館の図録には、忠敬から間宮倫宗(林蔵の本名)あての送辞があった。「贈間宮倫宗序」との題で、1811年、忠敬は九州に測量に行き、代わりに林蔵が未完成の北海道の測量に行く時に忠敬が贈ったものとのこと。 この二人の間で登場する人物の関係も興味深いものがある。 吉村昭の「間宮林蔵」によると、世間は、シーボルトと天文方の高橋佐左衛門を林蔵が密告したと、林蔵を白眼視し、蘭学者達も非難し、林蔵は孤立したとあった。 この高橋佐左衛門は、高橋景保と言い、伊能忠敬が家業を隠居後に弟子入りした30才も年下の師、高橋至時の長男とのこと。 景保は、捕らえられ、「忠敬の地図を写し、林蔵の作成した蝦夷、千島、樺太の地図もシーボルトの求めに応じて贈った」と供述して、獄死したと「間宮林蔵」にあった。 林蔵は、師の師の長男と、袋小路のような関係に追い込まれたことになるかと思う。隠密として公儀につくした林蔵の静かな姿が重なる。 伊能忠敬記念館の図録の解説によると、忠敬の西国への測量隊に弟子入りした箱田良助から、「酒や遊びはせず、役立たねば解雇、測量先で病死すれば現地埋葬」と覚悟させた誓約書を、忠敬はとったとあった。この箱田良助は、後に榎本家の養子となり、榎本圓兵衛と名乗り、あの五稜郭で戦った榎本武揚の実父とも。将軍家斉、家慶の御付だったと佐々木譲の「武揚伝」にあった。 同じ弟子でも林蔵の隠密とは、随分異なる人生だが、晩年、林蔵も徳川斉昭に重用され、川路聖謨からは先生とされていたと「間宮林蔵」にあるから、日本の中枢にあったことに違いはないと思う。 密かに国外に地図を持ち出したシーボルトは、秘境、間宮海峡をヨーロッパに披露し、日本関係書物で名声をえたようだが、吉村昭の「海の祭礼」によると、アメリカに自分を顧問として売り込み、その高慢な態度にペリーに相手にされず、次に、ロシアに売り込み、採用され、プチャーチンの訪日に助言したとあった。 そのプチャーチンは、林蔵を先生と呼んでいた川路聖謨と、樺太の国境交渉を下田でしたそうだが、樺太は、幕命のもと、林蔵が45年前に踏破しており、聖謨は、ロシア不在は明らかで日本領を主張したと、吉村昭の「落日の宴」にあった。 こうしてみると伊能図、北海道をめぐる人の繋がりは、つくづく深い。江戸時代も、技師は日本の中枢を支えていたと言うことになる。まさに技士だ。 榎本武揚は、明治政府でロシアと交渉し、樺太千島列島交換条約で国境問題を解決したと聞く。 二十一世紀に入り、アメリカの議会図書館で伊能図の写しが発見されている。明治の火災で原本消失、大正の震災で伊能家寄贈の副本を消失していたが、国土地理院の前身の参謀本部陸地測量部が写したものらしい。 これを忠敬の残っている下絵などと比較すると違いがあり、伊能図の北海道は、林蔵が補ったのではなく、林蔵が測量し直したものであるとする研究者が近年出てきたらしい。 二百年を超える、日、欧、露、米にまたがる技士たちの物語で、伊能忠敬関係資料はまさに国宝だ。
Oct 25, 2018
コメント(0)

香取市の佐原にある伊能忠敬記念館。商家に婿養子に入って家産を何倍にもして隠居後、江戸に出て年下の師に学び、地球の大きさを求めるために測量を始めたそうだ。私財を使い、成果を披露し、遂には身分を超えて測量の幕命を受け、偉業を成し遂げるなんとも計り知れない偉人だった。導きだされた緯度1度の距離は、欧州の天文学での計算とほぼ一致するひけをとらぬ水準に達していたそうだ。残された二千強の資料は、国宝になり、没後200年の今年、図録をまとめたと。素晴らしい。御用の旗は、測量の時に掲げていたものを模したもののようです。測量方とあります。橋の向いが商いをしていた旧宅。ブラタモリの酒田編にでてきた風待ちの飛島に向かって、忠敬は各地から方位を合わせていたみたいです。象潟の形が残っているとは。芭蕉や、浅草の象潟で話になるが、正確な潟の絵図があったとは。測量した二年後には隆起により消滅したそうだ。凄い記録だ。この鳥海山も先の震災時には1M近く頂が移動したと読んだ気がする。日本列島は動き続けるということか。
Oct 22, 2018
コメント(2)

戦中に建設され、戦後竣工できたダムだった。ここに着く前に通った沼沢湖から只見川に降りたあたりのトンネルは、地中深く潜り込み、底から再び這いあがるようなトンネルで、底からは、直角方向の暗闇の高くに明るい穴が見えた。縦横に開削したのだろう。揚水型の発電所工事のなごりの道なのかなとも思いつつ、脇を走る只見線のトンネル内は、これほどの勾配はあるはずはないなと思ったりした。 高熱隧道、闇を裂く道を思いだし、只見川の電源開発の歴史を思った。画像クリックで別窓表示。
Oct 20, 2018
コメント(0)

茨城県猿島境町にある天然温泉施設とのことで、大きさにおどろきました。ショッピングセンターの躯体をそのままに温泉施設に転用され、昔ながらの舞台も設け、一座が時代劇を演じてました。湯は、深くから動力揚湯したもので、天然に違いありませんで硫黄の香はありました。 千葉と茨城と埼玉の境で、侍や明治人が河川改修に格闘した地域にあるわけで、風呂と演芸を昔ながらに楽しむ場が大規模に再現されたところでした。画像クリックで別窓表示。
Oct 14, 2018
コメント(0)

9年振りに深い大きな岩風呂に浸れました。昔、少々ぬるいとの印象があったのですが、適温で心地よいいいお湯でした。甲子トンネルも補修工事に入っているようで、前来た時は新道でしたが、トンネルの傷みに年月を思います。 お湯もお宿も変わりなく、なによりでした。
Oct 12, 2018
コメント(0)

台風25号が日本海を通過した後にお世話に。400号沿いで野尻川に面したコンクリート四階建て、玄関が三階、湯舟が一階のお宿。 ナトリウム 炭酸水素塩・塩化物・硫酸塩泉だそうで、勢いよく注がれ、威勢が良いですが、しっとり感のある肌ざわりでした。 11年前の秘湯案内をみていたせいか、宿の風情は、新しく変化してました。料理は、すこぶる旨く、山の幸満載で堪能し、やっぱり、会津は豊かと再確認。地酒ももちろん。湯上りに見ると「いじくりまわしてはいけません」と言われているような気に。画像クリックで別窓表示。
Oct 9, 2018
コメント(0)

画像クリックで別窓表示。画の右奥に田子倉ダム。造営の迫力に息をのむ。ドンドンと鈍い音がし続け、遥か下の水面は、底から渦が湧き上がって見えた。電力は、こうして生まれ、基盤が創られてきたと、先人達をひとしおに思う。画像クリックで別窓表示上部に只見ダム
Oct 9, 2018
コメント(0)

只見の電源開発の迫力と鉄路の営々をみて、東北の産業基盤に感心した後、運転に疲れて立寄ってみましたところ、ナトリウム塩化物泉だそうで、滑らかさは極上でした。 温度も高く、湯の華も舞い、川の瀬音にくつろぎながら、とんぼを目で追う露天は極上でした。最近確認した湯岐温泉、与一温泉の肌触りに勝るとも劣らぬ湯に浸れました。 昔、手に入れた宿のバンフに「刻と遊び やすらぎと旅する」とありまして、まさにその気分になれました。写真クリックで別開窓
Oct 9, 2018
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1