全6件 (6件中 1-6件目)
1

ここに逗留していた高村光太郎を智恵子が訪ねるくだりを竹下景子の朗読で聴いた。 30年前に行ったことがあり、その時の記憶は鮮烈で、湯舟に入りながら日の出を待ち、あたかも岩礁の影に隠れていたかのように、まばゆい一条の鋭い光が真正面から水平に射し込んだのを覚えている。その時は、湯舟が海面に近いイメージがあったのだが、だいぶ昔なので記憶は、怪しい。 今回、浸かってみたら、浴室は海面を見下ろす位置にあり、潮と日の出を水平に浴びるような感じと言うより、少々高見からの絶景だった。 小さな露天もあり、夕陽と、幾重にも繰り返す白波と、湧き上がる白い潮けむりの輝きは、見飽きることなく、長湯になってしまう。名の通り、潮騒の湯に違いない。丘の中腹の建物の角が露天で、灯台、砂浜が東西に見られる。沖を行き交う大型船や、白波をたてる高速漁船も、見飽きない。画像クリックで別画面1800ピクセルの潮
Nov 26, 2018
コメント(0)
朗読会「智恵子飛ぶ」出演:竹下景子会場:ゆいの森あらかわ1階ゆいの森ホール 14:15から16:30 その一生のひたむきさ、可憐さに姿を思い描きながら聞き入り、最後は、胸に迫り、朗読者もこみあげるものを押しとどめながらの熱読でした。 朗読会ながら、さすがな女優の和服姿にほけました。
Nov 24, 2018
コメント(0)

縄文時代から、漁労や採取で豊かな地であったらしい。 古墳時代には、発見された埋葬品の先進性、絢爛さから穏やかな内海に恵まれた丘陵地で繁栄していたらしい。二万数千年まえから現代まで、くらしがここにあったことを見せてもらえた。 展示をみてから、あらためて、霞ヶ浦をみると豊かな恵みの海に見えてきた。帆引き舟が網をひく漁の様子をぜひ見てみたいものだ。白い帆が湖面をはしる様はさぞきれいなものなのだろう。 浦の南対岸に牛久大仏がかすかに確認できた。
Nov 18, 2018
コメント(0)

国指定名勝高梨氏庭園で、多くは昭和初期のものだが、長屋門、書院、蔵などは、江戸時代のものが残ったらしい。 江戸の名主の邸だが、醤油の製造場であり、古い醸造用具の数々が保存されていた。ここから、舟運で一日で江戸に搬入でき、丁度よい頃合いの醤油を幕府に献上していたらしい。 天保の飢饉のおり、地域に開放した籾倉も現存していた。名主は、地域民に責任を負うていたことがわかる。江戸川に舟で出るための船着き場 江戸時代のもの。江戸川で大船に乗り換えたと。画像クリックで別窓表示長屋門の屋根裏に保存されていた虎綱。金町と松戸の間に掛けられた船橋を曳いた綱らしい。もともと小金牧の鹿狩りに将軍が四回ほど訪れており、船橋の架設を松伏の石川家と野田の高梨家に担わせ、船橋を曳く綱は、上方から高梨家が手配したらしい。葛飾区の歴史コーナーで紹介されていた。舟運のためもあるのか、江戸川を水路として開閉可能とする橋を将軍用に設けるとは、その機動力に驚く。江戸の治水、用水の事績は、つくづく凄いものだ。
Nov 11, 2018
コメント(0)
山口昭男元岩波書店社長による「編集者から見た吉村昭・津村節子」との副題の講演があった。会場には、津村節子、加賀乙彦も見えた。 講演に先立っての津村節子の挨拶の中では、記念館の相談を持ち掛けられた吉村が、辞退しつつも地域の図書館の一画にでもあればとの希望を述べたことが触れられ、津村自身もこの施設を気に入っていると語られていた。吉村の作品は、多すぎるので全部はとても読めず、自身はそれほどよんでないと。戦艦武蔵と高熱隧道は読んだと。明るく、元気で感謝のこもったご挨拶で幸せが満ちてくるような話だった。 講演では、編集者として吉村とやりとりした逸話が数多く語られ、あの作品群をつくりだした人柄がとてもよくわかり、楽しく聴け、偲ばれた。津村節子は、前列で講演者を見ながらヘッドホンを使って聞かれていた。 吉村の確かな事跡に基づく考証と、考証にもとづく事績の描写、事実と事象の中から描き出される人間像、これらで揺らぐことのない迫真な小説の数々はなりたっていると思うが、基点は取材と聞く。この講演でもその様子が披露された。 ご本人は、取材と言わず、調査と呼び、一人で自由に動くことを重んじて取材費はいらぬと。旅行ではないと、旅程も二泊が限度で、終われば即、帰宅されていたと。夜は、取材先の人々と一献かたむけるのが常だったらしい。 よい店の見分け方として、「カウンターが五、六、テーブルが二つくらい、カウンターに男がひとりで飲んでいれば、間違いない。」と言われていたそうだ。 岩波の津村節子の「ふたり旅」の紹介にある著者のあとがきに、ひとり旅の様子がわかるものがあった。 岩波の津村節子の「ふたり旅」の紹介にある著者のあとがき 講演では、遺稿となる「一人旅」執筆時の肉筆faxが映像で披露された。原稿依頼に対しての応諾文、原稿送付時の送付文、完成後の礼状、いずれも、人柄が偲ばれる簡潔で誠実なものだった。「四月十七日、7.5枚のエッセイお受けします。数日前Faxでお送りします。」「相変わらず早めですみません。書きましたのでお目通しください。ゲラをお送りください。」「このエッセイを受けてよかったと思います。退院早々でどうしようかと迷ったのですが、書いて元気が出ました。体調が少しづつですがもどっております。ありがとうございました。」 今年は、13回忌だそうだ。読めば読むほど、かけがえのない思いになる。
Nov 5, 2018
コメント(0)

古地図を目当てに、筑波の広い平原に建つ国土地理院の敷地内にある展示施設に行って見たら、いろいろ工夫が凝らされていて殊の外面白かった。 理科の勉強に子供らも大勢来ていて、なんだか未来があるような気になれた。伊能図の中図を陸軍が写していた版をまじまじと見られた。 東京の明治10年と現代の地図を壁いっぱいに対比して展示してあり、昔は、広くゆったりした都市であったのが、うらめしい。 伊能忠敬は、基準となる地点を自宅にし、そこを基準点にして測量したとの説明があった。深川の黒江らしいが、今の門前仲町あたりと思う。全国の測量の旅立ちの際に、富岡八幡に参っていたらしい。 江戸の探求心と工夫が現代に続いていると感じられる展示の数々だった。江戸時代、文明開花していた科学者がいたとよくわかった。 勝海舟作の地図もあったが、シーボルトが日本から密かに持ち出して、日本に逆輸入され、勝がそれをもとにつくったらしいと。なんともはや。 昔、山に行く時、五万分の一の地図にご厄介になったが、あれは、様々な烏口などを用いた手書きによるものであったとは、驚いた。地図は、職人技の工芸品と、感じいった。 画像クリックで別窓表示
Nov 3, 2018
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1