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愚痴って、こぼしてはいけないのかな。今日、友人達と夕食を食べに出掛けた。その場で、ある友人が職場の愚痴をこぼした。私が以前勤めていたことのある会社でもあるので、人間関係、背景がなんとなくわかるから、「それは酷い!」と、当時の不満も戻りつつ、話を聞いていた。すると、もう一人の別の友人が愚痴をこぼした友人を軽く叱った。最初にこぼしていた友人も私も、何も明日会社に文句を言いに行くわけではない。ただ、なんとなくある不満を口にしたらすっきりするってこと、私達にはあることで、叱った彼女にはないのかもしれないが、だからといって、ない自分を基準にして考えるのも難しい。何故なら、不満を持つなと言って気が済むタイプとそうでない人との差があるから。私は愚痴をこぼしてすっきりするならそれで良いとおもっている。愚痴を我慢して、その結果他で歪んでしまったらどうしようもない。話してすっきりするなら話した方が良い。
2005.10.31
23歳で亡くなってしまったオカマチャン。私の母方の従姉妹(肉体的には従兄弟だな)で、私達の血筋とはおもえないくらいのベビーフェイスで可愛い顔をしていた。誰とでもオホホホーとオカマの王道の笑い方で場を和ませていた。7年前になるが、彼が23歳の初夏の頃、自室のベットの上で息絶えていたところを母親に発見された。彼が20歳のとき、彼の父親が癌で亡くなった。叔父のご霊前で私とオカマチャンの二人きり、1時間近く語らっていた。「琴母ちゃんにだけは言うけどね」と、あらたまるから何事かとおもっていたら、「僕ね、同性愛者なんだ」と、多分親戚一同、殆どの人が気付いていたのにあえて言うからちょっと可笑しかった。「ホモとかでもないんだよね、僕は“オカマ”なんだろうね」と言って、その後しばらくはオカマの定義で話が盛り上がった。「自分がこう(オカマ)だってこと、お父さんにだけは最後まで言えなかったの…」と、それだけが心残りなのだと言っていた。「大丈夫だよ、叔父さんは今はもう超人の世界にいるんだもん、気付いているし、見守っているよ」と言ったのだが、叱られてもいいから直接言いたかったと惜しんでいた。その彼が、誰にも予測の出来なかった速さで天国へと旅立ってしまった。いわゆる突然死なのだそうだ。大卒で新入社員として働き始めたばかりの頃で、職場でちょっと具合が悪いからと早退し、自宅の自分の部屋で休むと母親に伝えたまま、そのまま彼は逝ってしまった。私の実母と実弟がオカマチャンの訃報を受け、家に駆けつけたところ、警察の現場検証がまだだなので遺体は亡くなったときのまま、ベットの上で苦しみもがいている姿のまま死後硬直をしていて、その苦しそうな形相を見たと言っていた。私はオカマチャンから手紙を貰っていたこともあるし、いつの日かオカマバーを経営したいと言っていたときに、私も手伝うと約束していたことや、私の旦那が好みだとか、当時のオカマチャンの片想いに相談を受けていたことなんかがあるから、すぐにでも駆けつけたかったのだが、旦那の仕事の関係で出掛けていたので、それが叶わなかった。私の大好きな従姉妹だった。自慢の従姉妹だった。気が付けば、オカマチャンが天国に逝ってから7年経つ。彼がいた頃のままの私がまだそこ等中にいるというのに、彼だけがいなくなっている。私の中で、オカマチャンは23歳のままで、いつでも「琴母ちゃん!」と笑いかけてきてくれるけど、それは全て思い出なのだ。先日、3年ぶりに叔父とオカマチャンのお墓参りに出掛けた。叔母さんが足繁く通っていることがすぐにわかる。供えられた花の枯れ具合、水の腐り具合、敷地の汚れ具合のどれをとっても、1ヶ月も経っていないように感じられた。叔父さんには申し訳ないことを言うが、叔父さんだけが眠っていたら、叔母さんもここまで頻繁には通わないだろう。やっぱり叔母さんはオカマチャンの世話をしたくって、今でもあの日のままなのだろう。オカマチャン、天国でもオカマなのかな?またオカマの定義付けで盛り上がろうよ。夢の中でも語ろうよ。そのときにさ、よかったら琴子を連れてきてよ。
2005.10.30
友人から電話がきた。「私の友人夫婦のお子さんが亡くなったと報せがあった」私はこの言葉を聞いて、凍り付いてしまった。この亡くなってしまったお子さんは2歳くらいになるそうなのに、寝ている間に掛け布団で窒息死してしまったそうだ。そんなことがあるなんて…生まれて9ヶ月経つリンズだって、今では自分の布団を避けることが出来る。暑ければ布団をはらったりしている。2歳ともなれば、こういう死とはかなり無縁になっている頃ではないかと、勝手にそう思っていてしまった。でもこういうことが事実に起こってしまっていたのだ。「どういう風に接したらいいのかわからなくて、相談したい」と言われ、私は相談に答えるもなにも、ただ2003年の8/31以降の自分の日々を思い返すばかりだった。同時に、涙が溢れてきた。「すぐに行ってあげたらいいとおもうよ、そして出来ればずっと一緒にいてあげて、もしお子さんのビデオとかがあれば、一緒に見てあげて、そして何も否定せずに話を聞いてあげて欲しい」琴子との思い出には楽しいビデオはない。私の大きなお腹の写真が1枚あるくらい。私の感じ方とその友人夫婦の感じ方にはずれもあるだろうし、全く違うこともあるかもしれない。だからあくまでも私なりの答えなんだけど…「私は友人が来てくれることも嬉しかったけど、反面、その人達が帰っていくときの背中を見送るのが辛かった。あぁ、この人たちにはこの家から一歩外に出たら、違う世界が待っていてくれるんだとおもってしまって、その差が辛くて悲しかった」という事実も伝えた。それでも駆けつけてくれる気持ちは嬉しかったし、今でもそういう人には感謝しているので、友人にも是非そうして欲しいと頼んだ。友人は共通の仲間たちと来月になったら一緒に行くことを計画していたらしい。「でもそれも辛いんだよ。皆が打ち合わせをしてくることも辛いし、何よりもそうやって距離や時間を置けるという日常が辛いんだよ。“とにかく来た”っていうのが一番だよ、だから一人でも何回でも行ってあげたらいいとおもう」と伝え、そして必ずのように強調したのが「悲しんでいる方の話は否定しないで欲しい。もしその人たちが『自分たちは死ぬまで子供のことを想って泣いて生きていく』と言ったとしたら、それはその家族の生き方なんだから、私は誰にも否定できることではないとおもう」ということ。今、私の知らないある夫婦がお子さんを突然亡くされて悲しい時を過ごしている。電気が灯されていても暗い部屋というのは存在する。きっと暗い部屋の真ん中で泣いている。さっきまで元気で生きていた子供の姿を求めて、どこで何が違ってしまったのか、心の真ん中で泣いている人がいる。他人事として片付けたくない。せめて、お子さんが今は素晴らしいところにいて、そこから私達を眺め、そして楽しいことだけをしているのだと祈りたい。琴子、お友達は迷わずに天国に辿り着いたかな?お友達はお父さんとお母さんと離れたばかりだから、淋しくないか、もう2歳になるんだもん、お姉ちゃんらしく、優しく面倒をみてあげてね。合掌
2005.10.28
まいっちんぐさん、つかささん、ぽやさんのブログを読んで…私が琴子を妊娠して、そして琴子が逆子になって、以来、妊娠中に手にした参考本の全ての『逆子』に関する頁には目を通したのだけど、悲しいかな、本当に目にするべき情報が扱われた本やサイトには出会えなかった。当時、目にした情報の中に、臨月になって、実際に逆子のままでお産に至るのは2%程度とあった。その数字は自分とは無縁だと語っているようだった。そんなはずはないのに。でも皆、多くの方々はどこかで「自分は大丈夫」っておもっていないかな。どんな問題でも、大体がそうではないだろうか。昔はやった「うちの子に限って」もあるくらいだから、それがことさら自分のことであれば、より強くおもえてしまうんじゃないだろうか。いかに自分にはきちんとした説明をされていなかったのか、こんな貧弱な説明で、どの統計を身に置き換えるべきか、全く正しいことをされていなかったと強く感じる。子供の死も母親(自分)の死も夫の死も、常に自分にはいつでも起こり得ることと切なくおもう。そして、自分の死以外は有り得ないこととおもっていたい自分もいる。琴子を出産して、そして死んでしまって、つくづく思う-『私は常に低い確率の中にも所属している』。
2005.10.27
裁判に向けて弁護士さんと話して、私達夫婦は真実の証明でもあるビデオを見る必要が出てきた。琴子を分娩中、琴子の生まれてくる場面を撮りたくて、産声を何度も聞けるように、大きくなった琴子にも聞かせられるようにと、ビデオを購入して、H助産所のあの一室に設置して録画していた。あの日以来、ビデオのテープは仕舞ったままで、旦那も私も見たいとおもったことは一度もないし、今でも見たいとは思わない。「ビデオを見てみます」と私が言ったら、弁護士さんが「辛い作業だと思うけど…」と言ってくれた。「覚悟しています」と私は言ったのだけど、心の半分は「まだやめといた方がいいよ」って言っている。見れば辛くなるに決まっているし、あのビデオを何度見ても、ラストは決まっている、そう、琴子は死んでしまうのだ。うちにはたくさんビデオテープがあるのに、あの1本だけは特別な存在で、私が死んだら棺桶に一緒に入れてくれと頼んである、そのくらいに大事な1本。琴子、こんな記録しかなくてごめんね…
2005.10.26
被告側からの準備書面を読んで、旦那とあまりにも酷い内容に悲しくなった。なんだかバカにされている。ここまで嘘を並べて、一体、琴子をなんだとおもっているんだ?「申し訳ない」「争うつもりはない」なんて言っていて、それで嘘をつくか?保険屋の入魂もあるのだろうから、Hが何処まで語っているのかはわからないけど、もし本当に申し訳ないとおもっていたら、もっと違う内容になっていただろうし。計測したっていう嘘だけは前からなんだよね。身長(前回の“慎重”は誤字です)、体重、胸囲に頭まで測ったってある。うーん…どうしてこんなにもばれやすい嘘をいうかなぁ。沐浴?いやぁ、あんまりにも凄い嘘の羅列なので、本当ならここで全文紹介してしまいたいくらいなのだけど、裁判中だしまだまだ準備中だし、公にする気になれないので、控えます。心配してくださっている皆さんには申し訳ないです。話せる範囲で話していきますので、お許しください。今まで保管していたモノを弁護士さんに見せるために引っ張り出したり、探し出したりしていた。琴子の引出しを開ける機会が増え、その度に水分の抜けた琴子の亡骸の写真を目にした。リンズにちょっと似ているかな。生まれたての琴子はふっくらしていた。それに比べると、リンズはちょっと引き締まっていたかな?姉妹でもあまり似ていない感じだったんだけど、亡骸の琴子と生きているリンズが重なる。不思議だな。そして、亡骸の琴子の写真を見れば見るほど、悔しさも増す。この子は生きていたんだって、本当ならばこの子は生きて元気で、今は2歳になって、おしゃべりも上手になってきて、こうやって引き出しの中を一緒に見て、そして探していたのはもしかしたら“琴子が今日着たい服”だったのかもしれない。助産師の方達が信頼の回復をと、前にどなたかが仰っていたけど、どうなんでしょうかね、私には遠退くばかりに感じます。
2005.10.24
10/19に第一回口頭弁論が行われました。相手側の弁論も前日にはじめて提出されたということで、やっと相手側の姿勢が見えました。姿勢は『嘘ばかり』でした。私達夫婦はHに強く病院で産むように言われたそうです。Hは琴子を沐浴し、慎重も体重も胸囲も計測したそうです。産後、私に何かあったら電話をしなさいと言ったそうです。産後、2度もうちに電話をしたけど、そのたびに無言できられたそうです。ぜーんぶ嘘。正直な感想>凄いな、裁判所に嘘をこうやって言っちゃうんだ、どうするんだろう。今日はまだ実家にいます。帰宅したらゆっくりと日記に書きます。励ましの声、皆さんの気持ち、とっても嬉しいです。ありがとう!
2005.10.22
明日10/19にいよいよ裁判が始まります。明日、そのまま午後から実家に帰省し、旦那の週末の仕事のために実家で待機することになりました。実家にもパソコンがあるので、実家で裁判の内容の報告を出来たらしたいとおもっています。明日を迎えるにあたって、ここ数日、仕事で忙しかったり、新居を買った他県の友人の家にお祝いで出掛けたりして、琴子の計らいかしら、頭の中でモヤモヤとすることもなく、さっぱりとした気持ちで過ごせました。それと、弁護士から明日は「これでお終い?」とおもうくらいの内容だからと聞いていたので、まだ裁判の入り口に立っただけなんだっておもいました。入り口に立ったからには出口まで行かなくてはいけません。引き返すつもりなんて毛頭もなく、ただひたすらに前に進むだけです。私の気持ちを心配してメールをくださった方達に、この場をお借りしてお礼を申し上げます。メールでまた後で返事を出しますが、今日は無理でしたので、お許しください。明日は琴子の写真を持って行きます。
2005.10.18
旦那の仕事の都合で、来週までPCにゆっくりと向かうことができなくなってしまいました。リンズも私も旦那も元気です。レスも訪問も出来ない日々が続きますが、またゆっくり伺いますので、お許しください。ではまた。
2005.10.14
昨日が“言われて不快”な方だったので、今日は“言われて嬉しかった”ことを思い出していきます。先にお断りしておきますが、言われて嬉しかった方には何故か宗教色が濃いのが多くありますが、私は特別に強く信心している、特定の宗教・宗派は無く、ただ、昔から仏教には興味があったので、基本は仏教となるとおもいます。今日の日記で伝えたいことは、決して宗教の選択ではなくて、琴子を亡くした後、琴子のことで“言われて嬉しかった”ことがどんな言葉だったのかです。『天国では皆、苦しみもなく、幸せに過ごしていると私は聞きました』これは琴子のことで出会った女性に言われました。クリスチャンだそうです。初めてお会いして、それも少し対峙するような立場の方だったのに。私も天国があると、人間は死んだら天国か地獄か、とにかく魂はあり続けると信じていたので、琴子に未来(天国)があると自然に言ってくれたのことにはとても喜びがありました。『般若心経を読んでもいいかな?』私達夫婦が仕事でお世話になっていた先生夫妻、私達からの報せを受け、すぐに駆けつけてくれました。まだ私達の身内も来ない頃で、先生は仏教の勉強をされていて、上記のように言ってくださり、その場で般若心経を読経してくれました。『まるでお地蔵さんだね、凄く素敵な顔をしている』これは上記の先生夫妻の奥さんが言ってくれました。私は奥さんに「抱いてやってください」と、自分にとってはひたすらに可愛いだけの琴子だったので、深く考えずにそう言ってしまったんです。奥さんは嫌な顔一つせず、琴子を抱いてくれました。『私も毎日、琴子ちゃんのことを祈ります』私の友人夫婦が遠方から来てくれて、帰り際に言ってくれた言葉。彼女もクリスチャン。自分以外の人が毎日琴子を想ってくれるなんて、とっても嬉しかった。『私の信心している神様に、毎日琴子ちゃんのことを祈らせてください』これは義兄の実家が電話をくれて、言ってくれた言葉。これまたある宗教を信仰している。どんな宗教でも神様でも、琴子のことを祈ってくれることにはひたすら感謝している。この気持ちはいまでも変わらない。『うんうん、天国は楽しいって言っているよ』友人の子供(当時確か小学2年生の男児)が琴子の写真を耳にあて、言ってくれた言葉。凄く嬉しかった。『これで琴子ちゃんに靴を買ってあげるよ!』琴子を見送ってから1年ほど経った頃、甥っ子(当時6歳)が小さいお財布を大事にしているのを見て、「オバチャンに何か買ってよ」と言ったら上記の言葉を返してくれた。どうして靴かというと、それ以前に私が甥っ子に「琴子には靴を持たせてあげられなかったから、靴をあげたいんだ」と言ったのを覚えていてくれたから。お財布の中には100円にも満たない小銭だけが入っていたのだけど、甥っ子の琴子への気持ちが熱くて嬉しかった。甥っ子は私に琴子の話をすると喜ぶとわかっていて、身内の中、唯一琴子の話をしてくれる存在だった。不思議だね、リンズが生まれたら琴子の話をしてこなくなった。流れを、子供ながらに持っているんだろうな。『泣いた顔も見たかったし、目を開けたらどんな感じだったのか、知りたかったよね』普段はあまり会うことのなかった友人だったのだが、琴子の後、外へ出られるようにと誘ってくれて、買い物に連れて行ってくれた。道中、私が『思い出がないだけマシと言われることが辛い』と、この友人がどう返事をしてくるか怖かったけど、堪えきれなくて言ってしまったら、私の気持ちを理解してくれていたことがわかった。『子供だって、親の幸せを祈っているんだよ』先に出た先生の奥さん。『琴子ちゃんに会いに行くよ』遠方から友人が来てくれると電話があり、もう琴子はお骨になってしまっていたんだけど、“琴子に会う”という表現がとにかく嬉しかった。人として扱ってもらえることは、無条件に感謝していた。言葉だけじゃないです。私の家に来てくれる度に、今でも友人達はお線香をくれたり、ときにはお土産をくれたりして、琴子は寂しくないんだなぁと、羨ましく感じることさえあります。うちに来る度に「琴ちゃ~ん」と、琴子の位牌に手を合わせてくれる友人。お盆や命日に、親以外にいまでも手を合わせてくれる人がいること、とっても感謝しています。ありがとう。まだまだ素敵な言葉、励ましてくれた言葉、癒してくれた話などは他にもあります。また機会をみて、紹介していきたいです。
2005.10.10
『まだ泣いているの?』これは2003年9月の中旬、同町内に住む女性の知人が我が家に来て、泣いていた私にくれた言葉。ちなみに琴子を亡くしたのは2003年8月31日。『どういう顔をして行ったらいいのかわからないよねー』これは2003年11月の頃、仕事関係の友人たちが集まった時(私達は当然欠席)、ある友人が笑いながら言っていたと、別の居合わせた友人から聞いた。「そう言って心配していたよ」と言われたけど、そうは感じられなかった。『思い出がないだけマシ』これは比較的多くの人から言われた。それと、こういう発言の前には大概、ある程度育ってから亡くなった子どもの話がある。これはどちらにも失礼な発言だとおもう。『うちも去年、犬が死んだ』琴子と犬は同じなのかなぁと、なんともやりきれない気持ちになった。犬だからって殺されていいわけないし、飼っていた犬が死んでしまったことは悲しいことだとわかる。でも、私も過去に犬を飼っていて亡くしたことはあるけど、全く同じ悲しみだとはおもわない。命に甲乙をつけるのは間違っているのかもしれないけど、友人がもし子供を亡くしたとして、琴子の経験が無くても私は犬の話をすることはなかっただろう。『よかったー、泣いてなくて』2003年11月、友人から電話がきたとき、私が電話に出たら開口一番に言われたのがこの言葉。『A君たち(20年近く会っていない人たち)が会いたいって言ってるんだけど、遊びに連れて行っても構わない?』A君たちを連れてこようとしたのは、私の高校時代の友人で、手紙で琴子のことを報せてあった。他県に住んでいるので、この友人とも滅多に会えないし、このときは琴子の死後、初めて連絡をくれたときで、A君たちと前の晩からドライブで楽しんでいた中、電話をよこした。勿論、断った。『その話はしなくていいから』2004年の2月。琴子を産むまではちょくちょく会っていた友人夫婦の奥さんから「久しぶりに夕食でも一緒に」と電話がきた。まだ琴子のことで泣くことも多くあったし、琴子の死後、全く会っていなかったから、『娘の話をするのが辛い』と言ったら、上記のことを言われた。人によってはこの友人は私に気遣いをしてくれたとおもうだろうけど、私は不愉快だった。『じゃぁ仕方が無いね』助産院で出産して琴子が亡くなったとの説明をした際に言われた言葉。『私も去年、子宮筋腫の手術をしてね、そろそろ子供が欲しいんだ』2003年9月に遠方に住む知人から献花が届き、そのお礼に旦那が電話をした際の会話から。旦那は「頑張ってね」とだけ言っていたが、意味がわからない。どうしてこういう場面で私達に言うのか、私達夫婦になんと言って欲しいのか。『俺は自分の家族以外が殺されてもなんともおもわない』オーストラリア出身の同じ年の友人(今は絶縁だから元友人)。日本人女性と結婚し、子供も一人いる。酒の席の上とはいえ、許せなかった。琴子のことが無くても、人を不快にさせる発言。これを読んで、私に理解を求める人もいるかもしれない。だとしたら、だからこの世は変わらないんだとおもう。
2005.10.09
助産師Hからは過去、2回だけ詫び状が届いた。最初の1通には、私達が支払ってきた分娩代が丸々入っていて、「申し訳ないことをしました」というような内容が書いてあった。これはどうして送られてきたかというと、前に話したことのあるYという助産師(当時の県の支部長)がHに電話をして「母子揃って帰せないお産のときは頂くべきではないのではないか」と言ったからだった。註:だからといって、Yが素晴らしい人格者だとはおもえません。Yについても以前にこの日記にて書いています次の1通は「あれ以来、琴子ちゃんのことをおもうと辛くなる」「もう助産業はやめます」というような内容が書いてあった。これはどうして送られてきたかというと、日本助産師会の安全対策室の方たちがHのところまで出向き、私が改善を心掛けるようにしてくれと訴えていることなどを伝えたことで、Hがそういう判断をくだしたのだろう。「そこまで意地悪な見方をしなくても」と言いたい方もいるかもしれないが、どちらの詫び状も、私からしたら『人に背中を押されて出しました』。こんな詫び状にどんな意味があるのだろうと、ずっと考えていた。案の定、琴子のことを祈る日々を送るために廃業すると言っていたけど、廃業する気がなくなったのか、人に頼まれたからと言う理由で助産業を続行し、昨年の夏には逆子直しも扱っていたそうだ。逆子の分娩を扱わなければましか?そんなわけがない。全く反省していない証拠でしょ。祈る日々ってどういう日々なの?廃業に関しては、H自身の夫の体調不良も理由の半分に入っていたから、殆どそんな気、なかったんだろうね。今年の5月に助産師会の人たちが廃業届を出すように言いに行って、その場に居合わせたHの次女が「廃業届を出していないなんて!」ってHを怒っていたっていうけどさ、これも演技じゃないかって感じてしまう。だって、次女ってきっと同居していた人でしょ?だったら知っていたでしょう、Hが助産業を続けていたことを。琴子をおもえば辛くなるっていうのは、きっとこういう風に人から責められるようになってしまったことを指しているのでしょう。私にはそうとしかおもえない。
2005.10.06
琴子は死んでしまったけど、何処かにきっと琴子はいると、少しずつ日常を取り戻していく中で、私の琴子探しも日常化していった。あるとき、何気なくテレビから流れてきた歌の歌詞に私は耳も心も奪われた。特別にファンでもなかったんだけど、ポルノグラフティの『愛が呼ぶほうへ』。「あぁ、琴子だ、琴子からだ」と即座に感じた。あの頃はよく本屋にも通った。元々、私は本が好きだったから、本屋に通うことはそんなに珍しいことではなかったのだけど、手にする本に救いを求めていたので、本屋には琴子を探しに行っていたようなものだった。ポルノグラフティの曲を聴いた後に本屋でたまたま手にした本、タイトルもすっかり忘れてしまったのだけど、確か天使の世界の話しで、天使の階級とかが図になっていた。その本を手にしてパッと開いたページ、いきなり目に入ってきたのが『歌は天使からのメッセージ』。「うわ、もうこれは絶対に琴子からだ!」しばらく胸の鼓動が早くなっていたのを記憶している。こんなにまではっきりと琴子の意思を感じられるなんて…私と琴子はやっぱり繋がっているんだ!その足で、ポルノグラフティの『愛が呼ぶほうへ』のCDを購入した。私が耳にしていたのはサビの部分くらいだったのだけど、購入したCDを早速聴いてみたら、ほらね、やっぱりこれは琴子からのメッセージなんだと強く感じられることが出来た。そして、それからしばらくはこのCDばかりを聴いていた。琴子からのメッセージを受けられるなんて、なんて幸せなことなんだっておもえて嬉しいんだけど、嬉しいのは一瞬で、この頃はすぐに寂しくもなった。だって、生きていたら、琴子を探さなくても目の前にいるのが当たり前なのに。最近、このCDを久々に聴いてみたんだけど、辛くて悲しくて、そして温かかった。それまではクリスマスって特別な日なんかじゃなかったんだけど、死んでしまった娘にプレゼントを買ってあげる機会ってなかなかなくて、クリスマスプレゼントを買ってあげることにした。何故だか琴子はブタが好きなような気がして、ブタのぬいぐるみにした。プレゼント用の包装をしてもらい、12月25日の朝に開けてあげた。「ほら、ブタのぬいぐるみだよ!」って、琴子の仏前で箱を開けてあげたんだけど、琴子の遺影が笑い顔に変わるわけでもないし、結局いつものように、旦那と私が泣きながらお線香をあげるだけだった。それでも一応、親らしくしてあげられたっておもえて、思い出が一つ増えたことを喜んだ。ブタのキーホルダーをみつけたときも、迷わず購入し、肌身離さず持ち歩いている。偶然なんだろうけど、最近になってリンズにブタのぬいぐるみを見せたら、とても嬉しそうな顔をした。それは多分、ブタのぬいぐるみの向こうに琴子が見えたのだろうって、そう感じられたから嬉しかった。琴子が生きていれば2歳。2歳の姉なら、妹を十分に可愛がってくれている頃だっただろう。どこかで琴子を感じるたびに、自分がまだ琴子と繋がっていることに嬉しくて、琴子も私を忘れていないんだって嬉しくて、嬉しくて嬉しくてたまらなくなる。ただ、琴子の姿だけが見えない。どんなにシンクロしても、琴子の姿は見ることが出来ない。贅沢を言ってはいけないよね、琴子とシンクロ出来るだけでも感謝しなくちゃだよね。明日、また久しぶりに琴子からの曲を聴いてみよう。
2005.10.05
※私は2006年末にて、件名の会を退会しました。その身でこの内容をどうしようかとおもったのですが、書き込んで頂いている皆さんからのご意見を削除することはしたくないとおもい、件名のみ残すこととしました。(2007.9月記)
2005.10.04
リンズは県下、一番大きくて設備の整ったS会病院で生まれました。琴子のときの経験から、私達は最初から総合病院での分娩を決めていました。リンズは吸引分娩です。臍の緒が二重に絡まっていたそうです。リンズは会陰切開です。頭が大きかったとかで、5センチほど切りました。このお産には何も不満がありません。何故なら、リンズが無事に生まれてくれたからです。先日、旦那に私のこの日記を読んでもらいました。最近、パソコンで一生懸命に何かやっているから、何をしているのかと聞かれました。何をしてるって、琴子の話をしているんだよと。旦那は日記を一日分だけ読んだきり、それ以上読むことは出来なかったようです。夫婦でも癒し方は別です。私は今、こうやって気持ちを表側に出すことで、少しずつ痛いけど、少しずつ癒しています。荒療治。旦那は今、言葉には出さないけど、毎朝お線香をあげて、お水をかえて、心の中でメッセージをおくっているようです。リンズを産むまでの妊娠期間中、旦那は私と一緒に辛い気持ちを味わっていました。私の場合は『今度は上手に息めるか』(註:琴子が亡くなった時、H助産師に『息むのが下手だった』と言われた)に関したこと。夫の場合はお腹の子の命と、私の命。琴子のくれたご縁により、奥さんを亡くされた方にも数名、出会いました。原因が様々な上、私の経験に重なる方はいませんでしたが、まさかとおもった結果を得た経験上、まさかと楽観視できることがなくなってしまいましたから。旦那の中では琴子は別格だそうです。私とリンズとは全く別の位置にいるそうです。私も同じです。でも何かが違うのです。琴子のことを想う気持ちは同じなんだけど、違うんです。琴子の2歳の誕生日に向けて、プレゼントを買おうと出掛けたときも、意見が別でした。私は2歳なら外で遊ぶだろうから、砂場で使える子供用のシャベルのセットを選ぼうとしました。旦那は「女の子!」というイメージの強いものが良いと言って、ぬいぐるみを探していました。ぬいぐるみはたくさんあるからという説得で、旦那が折れてくれました。夫婦それぞれなんだけど、琴子への想いは同じです。琴子には生きて欲しかった。でもそれが叶わない結果の日々を迎えている今は、せめて天国で笑顔の日々を送って欲しい。琴子、そちらも秋になりましたか?
2005.10.03
助産師の皆さん、特に開業助産師の方へ。もし、そこに『逆子だけど、どうしても助産院で産みたい!』という人がきたら、是非、私の話をその方に聞かせてください。それまでに裁判でもっとはっきりとした結論が得られていると良いのだけど、お産は毎日、どこかで行われていることなので、今でももしかしたらどこかで助産院にて危険なお産を扱ってしまった人がいるかもしれない。意外と誤解している人、多くいらっしゃるとおもいます。助産院で逆子を扱ってはいけないと、私の周りの人は殆どが驚いていました。逆子を治すのも、最近の助産師は出来なくても、昔の人なら上手なんじゃないかって妙な誤解をされていたり。他にもお願いしたいことはあるのですが、今日はここまでにします。また是非、ご覧ください。
2005.10.01
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