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ここのところ、寒い日が続いている。花冷えだろうか。今日も雨。山の上半分は、見えない。意識の力が増しているように感じる。意識が肉体や物質に与える影響力の増大。地球の波動が上がっているので、物質が意識の影響を受けやすくなっているようだ。そうなると・・・現実が自分の望み通りになっていく。自分の望む現実を速(すみ)やかに実現できる。これまでよりも現実創造のペースがアップしている。望みのままに現実を創造できるようになってきている。現実創造の際に重要なポイントが一つある。それは、私利私欲でイメージングしないこと。無私であれば、言うことなし。みんなのためによかれと思ってやれば、より速く実現していく。自分のためだけの現実創造は、スピードが遅くなる。世のため人のためであれば、速やかに実現していく。私利私欲を捨てることだろうか。それが、これからの時代のポイントになっていく。自分のためであってもいい。しかし、自分さえよければいいというのは、もう時代遅れ。それでは、行き詰る。自分も生き、みんなも生きるような方向性が必要。そういう方向性で生きれば、物事はスムーズに実現していく。自分も周りも、みんな幸せになる方向。共にハッピーになる方向。そういう方向で現実創造をしていくことだろうか。時代の波動は、これからますますアップしていく。現実化のスピードは、増す一方。特にみんなのためであれば、より速やかに実現する。無私が、最も生きやすい。私利私欲で生きる時代は終わった。自分さえよければいいという時代ではない。共に生きる時代。一緒に幸せになる時代。そういう方向で現実創造をすることだろうか。そういう方向で生きることだろうか。自分のなかで方向性を明確にすれば、望む現実が実現する。望みのままの現実が実現していく。『現実を 創り出す時 大切な ことはみんなの ための創造』『自分さえ よければいいと 思う時 孤独地獄が 待っているだけ』『それぞれの 幸せ願い 現実を 創造すれば 実現速い』『それぞれの 意向を共に 尊重し みな幸せの 世界創造』これが日記を書き始めて1550日目の心境。
2009.03.31
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WBCの野球の日韓対決では、日本が勝った。フィギュアスケートの日韓対決では、韓国の金妍児(キム・ヨナ)が優勝した。バランスが取れて、ちょうどよかったのかもしれない。二連覇が期待された浅田真央は、調子がイマイチだった。昨日は、大相撲でも白鵬が全勝優勝した。今場所の白鵬は、心技体とも充実していた。内なる気迫が満ちていた。いろいろな要素が揃わないと、全勝優勝は難しい。体のリズム、感情のリズム、精神のリズム・・・技術的なもの、心理的なもの、他者との関係。天の時、地の利、人の和。たくさんのリズムがあるので、それらが調和するのはなかなか難しい。いくら技術に優れていても、体調が悪くてはどうにもならない。体調が良くても、精神が不安定では良い結果は出ない。いくら努力を積み重ねても、タイミングが合わないと望む結果は得られない。すべてのタイミングが揃った時、思わぬ結果が出る。初めてのオリンピックで金メダルを取る人もいる。誰も予想しなかった結果に、本人も驚く。それは、すべてのタイミングが揃った結果。ちょうど大会の時にピークが重なったということ。いくら努力しても報われない人は、タイミングが合わないということ。世界選手権では何度も優勝できても、オリンピックでは金メダルを取れない人もいる。努力だけではどうにもならないこともある。天の時、地の利、人の和が一つにならないと、すばらしい結果は出ない。人にできることは、全力を尽くすことだけ。結果は、後から付いてくる。心身を充実させること。気を心身に満たすこと。心身が充実すれば、結果も自然と付いてくる。特に勝負事は、いかに心身を充実させるかにかかっている。充実している方が、勝つ。静かに心身に気を満たすことだろうか。それはスポーツや勝負事に限らず、日常生活についても言える。心身に気が満ちている人は、存在感がある。傍にいるだけでも影響を受ける。心身から気が発散されている。心身に気を充実させるためには、静かな努力が必要。地道な積み重ね。こまやかで繊細な注意の継続。投げたり、自暴自棄になったりしないこと。静かに持続していけば、ゆっくりと気が熟してくる。気は、機。気の充実が、機会をもたらす。充実した心身が、チャンスを呼び込む。気は、木。木は、天と地の気を繋ぐもの。大きな木には、大きな気が流れている。大きな木の傍にいると、天地の気がもらえる。気が充実する時、機が熟す。心身の気を充実させることだろうか。それは、静かな努力の継続。地道な努力の積み重ね。静かに気が充実する時、閃きもやって来る。気を浪費していたら、気が充実することはない。感情的になって心身が揺れ動いては、気が充実することはない。心静かに過ごすことだろうか。静かに静かに高めていく。心身に気を満たす。やがて、気が満ちる。機が熟す。その時、結果は自然に付いてくる。結果を求めないで、心身を満たすことだろうか。静かに注意深く生きることだろうか。それは、すべてについて言えること。『毎日を 心静かに 真剣に 生きればやがて 気が満ちてくる』『諦めて 投げだす時に 気が抜ける 静かに深く 注意継続』『感情に 振り回されて 乱れれば 気も散乱し 充実しない』『静けさの なかで心身 充実し 不動のものが 内より満ちる』これが日記を書き始めて1549日目の心境。
2009.03.30
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録画してあったテレビ番組を見た。タイトルは、「落日燃ゆ」。城山三郎の小説をドラマ化したもの。テレビ朝日の開局50周年記念ドラマ。内容は、A級戦犯であった元首相、廣田弘毅の生き様。彼は、極東軍事裁判において、文官としてただ一人死刑になった。戦争の拡大に反対したにもかかわらず、首相や外相であった責任を問われた。その際、一切の弁解をしなかった。軍部が台頭する難局において、総理大臣を打診される。火中の栗を拾う人はいない。しかし、彼はそれを引き受ける。次のように語って。「人は、与えられた役目のために生きるもの。」今の政治家は、自分から総理大臣になりたがる。しかし、与えられた役割を果たすという心境の総理大臣もいたということ。なかなか立派な生き様だった。生きるとは、天命を果たすこと。天命とは、役割。自分に与えられた役目。自分の為すべきこと。神々は、○○の命(みこと)と呼ばれる。それは、天命を意味している。天から命じられた役割。それが、神々の為すべきこと。唯一絶対神は、ひとつ。ひとつでは、何も始まらない。すべてがあるけれども、何もない世界。そこから、神々が誕生する。その神々は、それぞれ天命を帯びている。天命とは、天の唯一絶対神からの命令。つまり、この宇宙での役割。その役割を冠して○○の命(みこと)と呼ばれる。神々と言っても、大神、中神、子神と多種多様。大神が中神を産み、中神が子神を産む。それぞれに役割がある。その神々の下に、人がいる。人は、神々の子。神々の命を受けた神々の子。人もまた、この宇宙での役割がある。一人一人が、神々と同じように役割を担っている。天命と言うと、命じられたようなニュアンスがある。しかし、実際は、総合的な見地から決められる。それまでの地球での経験を踏まえて、今生で為すべきことを決めていく。それは、魂次元の出来事。人は、魂から地球に派遣されているようなもの。魂の代表。実は、魂もグループソウルから派遣されているようなもの。構造は、同じ。唯一絶対神から八百万(やおよろず)の神々が分かれているのも同じ構造。基本構造は、すべて同じ。それが、多層多次元に渡っているだけ。人も、その末端を担っているということ。そういう意味で、「人は、与えられた役目のために生きるもの。」という廣田弘毅の発言は間違ってはいない。それぞれが、唯一絶対神の一旦を担っている。但し、あまりにも遠く離れているので、その自覚はない。肉体に入って物質化しているために、真実がわからなくなっている。人の心の奥には、天命が宿っている。今生で果たすべき使命がある。それは、生まれてくる前に魂次元で決めてきたこと。宇宙の流れから、今為すべきことを合意してきたもの。しかし、この世に生れてしまえば、そういうことは忘れてしまう。微(かす)かに心の奥底に残っているのみ。そういうことよりも、まずはこの世で生き残ることが最優先の課題となる。この世を生きる術(すべ)を学ぶうちに、天命のことは完全に忘却される。肉体の快に溺れ、肉体の安全を求め、自己保存に汲々とする。それが、大多数の人の一生。天命を忘れ、肉体人間として終始する人生。人生の本質を理解しないままに、いたずらに輪廻転生を繰り返す。しかし、そういう時代も終わりに近づこうとしている。これまでの人類史が、ひっくり返ろうとしている。地球での試行錯誤の時期は終わった。準備体操は終了。これから本番。天命を全うする時。自己の真実に目覚める時。己の使命=命(みこと)を実行する時。一人一人に、それぞれの天命がある。それは、自分も合意しているもの。自分が納得して選んできたもの。天命の高低、貴賎はない。それぞれにとって必要なこと。この地球にとって必要なもの。今の宇宙にとって必要なこと。単なる役割分担。肉体には、頭があり手足があり胴体がある。脳髄があり筋肉があり骨格がある。心臓があり膵臓があり肝臓がある。血液がありリンパがあり神経がある。どれが偉いということはない。どれも必要。小指の爪さえ、なければ困る。それぞれが、それぞれの役割分担。そのすべては、繋がっている。肉体の構造は、宇宙の構造のミニチュア版。人の意識構造も、似たようなもの。すべての人は、神の細胞。八百万(やおよろず)の神々も人も、色の世界の存在。唯一絶対神だけが、空の世界の存在。しかし、色と空は、ひとつの表と裏。唯一絶対神と八百万の神々や人は、別々のものではない。動の状態が、色。静の状態が、空。分離しているように見えるのが、色。分離のない状態が、空。すべて、ひとつのものの表と裏。多様性と統合性。統合された多様性。在るのは、ひとつのみ。ひとつのダイナミズム。ひとつの多様性。ひとつのいきもの。ひとつのいのち。『絶対神(かみ)の子が 神々なれば 神々の 子供が人(霊止)と いうことになる』『魂と 呼ぶこともある 神々と 呼ぶこともある みな分け御霊』『人はみな 地上に降りた 神なれば 己(おの)が天命 果たすが勤め』これが日記を書き始めて1547日目の心境。
2009.03.28
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今日は、新月。新たな始まり。録画してあった「道(タオ)」というテレビ番組を見た。老子の教えをわかりやすく解説したものだった。長野県の伊那谷に住む加島祥造さんが訳された老子がベースになっていた。加島祥造さんは、83歳。以前は、大学で英米文学を教えていたらしい。いくつかの翻訳本や詩集も出版されている。ここ20年ほどは伊那谷に住み、老子の翻訳と独特の絵に専念している。その老子の翻訳は、とてもわかりやすい。現代人にもわかるように訳されている。中国語からではなく、英訳版をベースに訳したとか。美しい伊那谷の風景をバックに、わかりやすく老子が語られていた。しかし、残念なことに今一つエネルギーが伝わってこない。道(タオ)の躍動感が伝わらない。なぜ?無理もない。老子は、2500年前の人。しかも、翻訳。生きている道(タオ)ではない。訳としては、考えられる最上のものかもしれない。現代の状況に即して、やさしく訳されていた。しかし・・・しかしなのだ。テレビで放映された内容は、ほとんどこの日記に書かれてあることだった。こちらは、老子を直に読んだことはない。しかし、本質的なことは、既にこの日記にすべて書いてあった。しかも、老子よりも何倍もわかりやすく。なぜ?なぜ老子よりもわかりやすく書かれているのだろうか。それは、人類2500年の経験が加味されているからだろうか。いや、そうではなくて・・・・それは、今、生きている道(タオ)だから。2500年前の教えではなくて、今ここの真理だから。躍動している目の前の真実だから。真理が生きているから。老子に言わせれば、「道(タオ)」。この日記では、「ひとつ」。同じものの別の表現。すべての元の元。その道(タオ)=ひとつを体得した人が、神。正確に言えば、神人。生きている道(タオ)そのもの。だから、老子を読まなくても老子がわかる。自然と共に生きる。宇宙と共に生きる。いのちの循環と共に生きる。ひとつを生きる。真理は、道(タオ)に極まる。真理は、ひとつに極まる。極まったものは、分かつのが道理。この日記を本にする時期が近づいている。加島祥造さんが訳された老子も売れているらしい。新聞の広告を見た記憶がある。老子が売れる時代になったということだろうか。時代が本物を求めているということだろうか。今ここの生きている道(タオ)を世に出す。2500年前の道(タオ)ではなく、今ここの道(タオ)。2500年前の仏陀の教えではなく、今生きている真理。それが、これから為すべきこと。『道(タオ)という 真理を説いて 人類の 生き方示す 老子の教え』『今ここに 道(タオ)も真理も 生きて在る 本読まずとも 真理は一つ』『今ここの 生きてる真理 世に出して 新たな時代 開く新月』これが日記を書き始めて1546日目の心境。☆ 「1545日目 - 統合」も同時にアップしました。
2009.03.27
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知り合いに不思議な家族がいる。お母さんは、エリート。お父さんは、イマイチ。子供は、ボロボロ。お母さんは、有名人。ある県で最初に女性の管理職になった人。どこに出しても恥ずかしくない風貌。講演も引っ張りだこ。才色兼備。人間性も豊かで、すぐにグループのリーダに祭り上げられる。非の打ちどころがない。一方、お父さんは・・・一応、職人。しかし、世間的には認められていない。社会的地位は、お母さんとは比べものにならない。風貌も、なんとなくパッとしない。しかし、人間的には憎めない。小市民なのだが、悪い人ではない。むしろ、近寄りやすい。お母さんが立派すぎるということ。そういう両親の下に生まれた子供は・・・心身が、ボロボロ。なぜ?なぜだろう?そのボロボロの状態は、どちらかというとお父さんに似ている。お父さんというより、お父さんの系列。お父さんに代表される人類のアーキタイプ(原型)。もちろん、お母さんに似ているところもある。それは、キャパシティの大きさ。心身は、ボロボロ。これだけボロボロの人も珍しい。その状態が何十年も続いている。普通であれば、生きていられないような状態。精神的にも肉体的にも最悪。精神の闇が、肉体に現われている。これだけ重たい人は、そんなにはいない。しかし、それだけのものを背負って、まだ生きている。生きているだけではなく、先祖を供養し、縁のある人たちを助けてもいる。自分はボロボロになりながらも、多くの人の力になっている。それは、天性のもの。今は、自分のなかの闇を光に転換しようとしている。光に向かって再生しようとしている。それは、なかなか厳しい道。しかし、たぶん達成するだろう。世間的に見ると、極めてアンバランスな両親。しかし、これは彼女自身の象徴。お母さんは、彼女の過去世の栄光の歴史。非の打ちどころのない最高の人生経験の現れ。多くの人の役に立ち、多くの人の尊敬を集めた。徳を極め、正義を貫いた。そういう人生も数多(あまた)あったということ。それが、今のやさしさとキャパシティに現われている。一方、お父さんは、彼女の闇の部分の象徴。自己中心、自分勝手、支配、征服・・・人生の闇の部分を生きた現れ。体がボロボロなのも、自然の法則に反した生き方の結果。それは、彼女の過去世の生き方の一部であり、先祖の生き方の一部でもある。いや、実は、それは人類の生き方の一部でもある。人類史の光と闇が、象徴的に現われているだけ。それは、何を意味しているのだろうか。それは、父性と母性の統合。光と闇の統合を意味している。そのために、それに相応しい両親を選び、環境を選んで生まれてきている。人類の光と闇の統合のために・・・もちろん、彼女一人でできることではない。一人一人が、それぞれその一端を担っている。自分のなかの光の部分と闇の部分の統合。そのために、これまでその両方を経験してきた。これからは、その経験を活かし、それらを統合する時期。自分のなかの光と自分のなかの闇。それこそが、まさに人類史そのもの。人類は、これまで光と闇のシーソーゲームを繰り広げてきた。人類は今、その光と闇を統合し、更なる光の次元へシフトしようとしている。そのためには、一人一人が自分のなかで光と闇を統合する必要がある。これまでの人生のすべての闇に光を当てる。闇を光に転換する。これまでの人生は、過去世の集大成。その光と闇を統合することによって、地球での人生が完結する。闇が止揚され、光に転換される。闇が単なるエネルギーとなり、大いなる光に変わる。光と闇のすべての経験が、光へと変容する。人生経験のすべてが、キャパシティに還元される。地上での経験が、すべて光化される。それが、新しい時代。人は、一人に非ず。一人一人が、人類の代表。人類史の変革に大きく関係している。今まさに、その時。人類が、新しく生まれ変わる時。新しい時代が開く時。光と闇を統合する時。新しく生き始める時。『父方と 母方すべて 引き受けて 光に変える 転換の時期(とき)』『人類の 光と闇を 統合し 新たな地平 開く潮時』これが日記を書き始めて1545日目の心境。
2009.03.26
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知り合いからメールが届いた。絶食絶水していたら、脳のシナプスが繋がったとのこと。これまで断絶していたシナプスが、回復しつつあるとの報告。めでたいことではある。脳のシナプスは、刺激によって発達していく。いろいろ関係づけられることによって、広がっていく。しかし、精神が不安定になると、健全に発達しにくくなる。特に幼少期の不安定な家庭環境は、脳のシナプスの発達を妨げる。それを復活させるのは、なかなか骨が折れる。不可能ではないが、簡単でもない。それほど、幼少期というのは影響力甚大。胎内にいる時は、更に強い影響を受ける。幼児は、家庭環境のなかで育っていく。両親が喧嘩をしたり不和になったりすれば、幼児の精神は混乱する。それが、脳のシナプスを断絶させる。一人ぼっちにされる不安も、脳の健全な発達を阻害する。子供は、両親の深い愛情のなかで育つのが理想。健全な成長のためには、あたたかい家庭が必要。それが満たされないと、いろんなところに歪みが生じる。その歪みは、成長した後の人生に多大な影響を及ぼす。基本的なシナプスは、幼少期に形成される。老化するにつれて、だんだんと切断されていく。最後は、脳軟化状態となる。そのシナプスを再結合させるには・・・断食するのも一つの方法。断食することによって危機的状況となり、生命力が格段に高まる。その結果、幼児期のようにシナプスが繋がることもある。しかし、年中断食しているわけにもいかない。シナプスを繋げる別の方法は、自分自身を見つめること。自分の意識状態を見守る。脳のなかを深く感じてみる。違和感のある部分と共にいる。そういう作業を続けていると、脳は再活性化を始める。脳は動き出し、軟化することはない。頭を使わないから、軟化する。頭を使うと共に、頭のなかを感じること。脳は、生きている。生きている限り、変化する。エネルギーを注ぎさえすれば、動き出す。エネルギーが足りないから、退化していく。脳を感じ、脳にエネルギーを注ぐことだろうか。そうすれば、脳は再活性化する。脳は、甦る。それは、自分自身の体験から断言できる。クリシュナムルティを学び始める前の脳と、学び始めた後の脳では、脳の状態がぜんぜん違っている。クリシュナムルティを学ぶとは、自分自身を見つめること。自分自身を見つめることによって、脳は活性化する。自分の意識状態を見つめれば、意識にエネルギーが注がれる。エネルギーが満ちると、脳も活性化する。やがて、脳は動き出す。本来の状態に戻ろうとする。潜在する可能性を発揮しようとする。脳は、進化し続ける。特にこれからの時代は、脳の進化は加速される。人類は、まだ脳の3%しか使っていないと言われている。これから、脳はどんどん進化していく。歳を取っても諦めないことだろうか。諦めたら、そこですべてが終わってしまう。諦めない限り、いつまでも進化し続ける。それが、生体というもの。いのちとは、無限の存在。自己限定している意識が、無限のいのちを有限にしているだけ。人は、無限の存在。無限の可能性を持つもの。死ぬまで進化し続ける。死んだ後も進化し続ける。存在する限り進化し続ける。永遠に進化し続ける。それが、人という存在。神の子という存在。神は、無限の進化。人も、無限の進化。『脳内に 意識を向けて エネルギー 届けば脳は 活性化する』『不可能と 思い込むから せっかくの 無限の力 発揮できない』『自(みずか)らの 自己限定を 外す時 人は無限の 存在となる』『進化する 無限の動(色)と 進化せぬ 無限の静(空)が 宇宙の原理』これが日記を書き始めて1544日目の心境。☆ 「1543日目 - 教育」も同時にアップしました。
2009.03.25
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コメント欄に次のような書き込みがあった。「クルシュナムーティスクールでは、教師が生徒達との信頼関係を築くことを通じて、生徒が愛情豊かな人間関係を学ぶ事を第一とし、学業はその為の材料や手段としての第二義的な意味に過ぎないらしい。が、学業でも優秀な人材が育ってゆくと言う。社会問題の大半が人間関係の軋轢に原因があることを考えてみると、子供にとっても社会にとっても、教育とは何なのか改めて考えてみてもいいかと思う。」クリシュナムルティスクールは、イギリス、インド、アメリカにある。全寮制の私立校で、そこで学んだ日本人もかなりいる。クリシュナムルティが語ったことをベースに運営されている。インドではエリート校であり、進学校としても知られている。クリシュナムルティスクールの実情は、各国によって異なる。すべてが理想通りにいっているわけでもないらしい。しかし、その基本的な考え方は、すばらしい。愛情第一、学業第二。それが学校教育の大原則だろう。いくら優秀な子供を育てても、自分勝手で我儘な子供では誰も幸せにはならない。むしろ、そんなに優秀ではなくても人間性豊かな方が、本人も周囲も幸せになる。大切なことは、心豊かな子供を育てること。知性だけを重視すれば、人間としてのバランスが壊れてしまう。知情意。知育、体育、徳育。最も大切なことは、愛情豊かに育てること。愛情に包まれて育てば、愛情豊かな子供に育つ。自分を大切にし、周りも大切にする。その愛情のなかで、内在していた可能性が芽を出す。それは、自然に大きく成長していく。幼い時から知性だけに偏った教育をすれば、歪んだ人間になってしまう。愛情豊かに、人間関係を大切にすることが何よりも重要。それが、すべてのベース。それなしでは、すべては砂上の楼閣となってしまう。いくら知性が発達しても、それを自己中心的に使えば社会のためにはならない。むしろ社会に害をもたらす。知性や科学は、使い方しだい。使う人間を豊かに育てないと・・・愛をベースに教育をする。それが、基本の基本。その土台の上に知育や体育や徳育をおこなう。徳育は、特に押しつけにならないように要注意。あくまで話し合い。話し合って理解を促す。お互いに話し合いながら学ぶ。教師も生徒と話し合う必要がある。教師が一方的に教えるスタイルは、もう古い。教師も未熟。話し合うなかで生徒から学ぶことがある。お互いがお互いから学ぶ。学校とは、学ぶところ。お互いがお互いから学べばいい。教師といえども常に学ぶスタンスが必要。それなしでは、今を生きる教師とは言えない。その常に学ぶ姿勢が、自然に生徒に伝わる。それが、真の教育というもの。学校とは、すべてから学ぶことを体得する場所。学ぶ姿勢を身に付けるところ。教えることは、必要最小限でいい。必要なのは、自分で学ぶ姿勢を身に付けること。それさえあれば、何でも自分で学べる。それが、一生の宝となる。新しい時代には、新しい教育が必要。真の意味での学びの教育。愛と学びを両輪とした教育。そうでないと、新しい時代は開かない。実は、それは学校だけに限らない。愛と学びが必要なのは、家庭や社会も同じ。愛をベースに、すべてから学ぶ姿勢で生きる時、世界が変わる。その変化をもたらすものは、この日記を読んでいる一人一人。教育だけを変えることはできない。この日記を読んでいる一人一人が変わることが、すべての変革に通じる。愛をベースに、すべてから学ぶ姿勢で生きる。それが、生き方の基本。『未知のこと 知るよろこびを 体得し 自ら学ぶ 子供育てる』『お互いに 学ぶ姿勢で 生きる時 上下関係 自然に消える』『押し付けず 互いに学ぶ スタンスが 次の時代の 学校教育』『愛情を ベースに据えて すべてから 学ぶ姿勢が 生きるスタンス』『学校も 家庭も社会も みな同じ 愛をベースに 学びの姿勢』『今ここで 注意しながら 学びつつ 日々を生きれば 歳は取らない』『愛ベース 学び重ねて 二重奏 共に歌えば 瞳輝く』これが日記を書き始めて1543日目の心境。
2009.03.24
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昨日の朝は、嵐のような天気だった。そのため、飛行機が二便欠航した。11時35分発の飛行機で帰る予定だったお客さんは、帰れなくなった。急遽、船に変更。しかし、三連休の最終日で高速船も満員。空いていたのは、フェリーだけ。やむなく、四時間かかるフェリーで帰ることに。屋久島では珍しいことではないが・・・飛行機が欠航すると、たいへんな騒ぎになる。次の便が空いていればいいが、欠航が出るとすぐに満席となる。高速船も予約が取れなくなり、困ってしまう。嵐や台風の度に、そういう事態が起きる。こちらは何度も経験しているので、慌てることはない。しかし、お客さんは初めてなので、どうしたらいいのかわからなくなる。屋久島の飛行機は、よく欠航する。何とかならないものだろうか・・・12時のフェリーでお客さんを送り出して、帰路に就く。帰り道、春分の日にオープンしたドラッグストアーに行く。屋久島では、一番大きな店。店内も目を見張るほど美しかった。品揃えも多く、まるで都会にいるような感じ。屋久島には珍しく、たくさんの人が来ていた。この三連休で、屋久島中の人が来たのではないだろうか。総人口一万四千人弱の島の大半の人が来たに違いない。しかし、商品そのものは、そんなに安くはなかった。ただ広告の品は、格別安かった。それほどほしいものもなく、山積みになっていた格安のものだけを少し購入した。その店内で・・・多くの幼児を見かけた。こんなに屋久島には小さな子がいたの?と思うくらい、たくさんの子供がいた。ちょうど日曜日だったので、家族連れで来ていた。その子供たちのきれいなこと!お肌はもちろん、エネルギーもピュアー。見ているだけで、気持ちがいい。男の子も女の子も、みんな可愛い。これだけきれいな子供たちが生まれていれば、地球は大丈夫だろう。そう思った。この子たちが大人になる頃には、地球も大きく変わっているだろう。新しい時代に生きる子供たち。子供たちは、希望の星。見ているだけで未来が明るくなる。店内の商品を見るより、子供たちの方に気持ちが向く。ただ見ているだけで幸せ。子供は、いい。邪気がなくて、いい。抱きしめたくなるぐらい、いい。自然に近寄りたくなる。『新しい 時代を担う 子供たち きれいなままで 真っ直ぐ育て』これが日記を書き始めて1542日目の心境。
2009.03.23
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屋久島の旅の二日目は、木霊の森へ行った。今回の六人のうち四人は、整骨院をやっているとか。そのうちの一人は、昨年の9月にもガイドをした人。彼の紹介で、他の人たちは来ることになった。彼らは、木霊がわかるらしい。森のなかで、時々、瞑想の時間を取った。それぞれが気に入った場所で、座ったり立ったりしていた。そうすると・・・「今、木霊が手の上に乗っていませんでした?」「来てたね」という感じの話をしている。どうも木霊が見えたり感じたりするらしい。よく木霊の写真が撮れるところでも、木霊の気配がすると言う。たまにこのような人たちが、やって来る。そうすると、木霊がいるところを教えてくれる。しかし、それは既にこちらが知っているところ。こちらは、木霊が見えたりはしない。しかし、六年間、何百回も通っているので、どこに木霊がいるのかはわかっている。木霊の写真も数えきれないほど撮っている。お客さんも数知れないぐらいの木霊の写真を撮った。この森は、すばらしい。いつ行っても、さわやか。人が来ていないので、自然のまま。屋久島でも特殊なところ。こういうところを独占的にガイドできるのが、不思議と言えば不思議。過去世で屋久島と深い縁があったということだろうか。屋久島に二百人からのガイドがいるが、独自のフィールドを持っているガイドは、そうそういないだろう。ガイドするのは、縄文杉、宮之浦岳、白谷雲水峡・・・ガイドブックに載っているところが、ほとんど。誰もいないところを専門にしているガイドというのは、まだ聞いたことがない。なかなか恵まれている。ありがたいことではある。四時間ほど歩いて、帰路に就く。まだ時間があったので、まず抹茶のソフトクリームを食べる。それから、木霊のストラップを作っている木工所へ行く。ここでは、昨年の11月に女の子が生まれた。名前は、さくらちゃん。赤いほっぺが、落っこちそうな赤ちゃん。お客さんたちがストラップを見ている間、こちらはさくらちゃんと遊んでいた。可愛いモミジの手でしっかり握ってくれて、感激!こちらが「ネコのお巡りさん」を歌うと、楽しそうに手足をばたつかせた。わかるのだろうか。黒い瞳が、真っ直ぐに見つめる。赤ちゃんは、みんな真っ直ぐに見つめる。学校に行く前の子供は、概(おおむ)ね真っ直ぐに見つめるもの。しかし、成長するにつれて目を逸らすようになる。心が傷つくことによって、恐怖心が生じるからだろうか。悲しいことではある。お互いがまっすぐに見つめ合える世の中にする必要がある。これから、そのような世の中になっていくだろう。しかし、その前にやることがある。それは、恐怖心の構造を理解すること。恐怖心の成り立ちを理解して、恐怖心を超える必要がある。それなしでは、人を真っ直ぐに見つめることはできない。自分を守ることだけに意識が向くと、人を直視できない。自分を守ることも必要だが、それ以上に必要なものがある。それは、自分自身を理解し、人を理解すること。理解することによって、真っ直ぐに生きることができる。元々、人は真っ直ぐに生きるもの。それは、赤ちゃんを見れば一目瞭然。恐怖心に負けないことだろうか。過去の再現に怯えないことだろうか。必要以上に過去を増幅しないことだろうか。むやみに暗い未来を想像しないことだろうか。本能と思考が合体することによって、恐怖心が生まれる。その構造を理解し、注意深く生きる。必要以上に恐怖心を増幅させない。しっかりグランディングしながら、一歩一歩進む。今ここをベースに生きる。過去にも未来にも振り回されない。今ここを直視し、注意深く生きる。それしか生きる道はない。『恐怖心 理解と共に 乗り超える 今ここベース 注意しながら』これが日記を書き始めて1541日目の心境。
2009.03.22
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昨日は、11時10分に空港に迎えに行った。お客さんは、6人。いつもより人数が多いので、車2台に分乗。天気は、初夏のように暖かかった。まず昼食のオニギリを買って、永田いなか浜へ向かう。途中で、布引の滝に寄る。珍しく水量が多く、山の高いところから水が流れ落ちていた。しばらく滝のミストを浴びる。まず滝で浄化されて、屋久島の旅が始まった感じ。永田いなか浜では、裸足になって波打ち際を歩く。海水は、まだ冷たかった。しかし、波打ち際は最高に気持よかった。誰もいないところまで歩いて、砂浜の上で横になる。足と手を砂に埋める。目をつぶって、しばらくリラックス。全身がジンジンしてくる。全身に生命エネルギーが充電される感じ。波打ち際を裸足で歩くことによって、冬の間に溜まっていたものが一掃される。一掃されたところで砂浜に横になると、全身に充電される。それが、なんとも心地よい。まるで生き返るような感じ。たまには砂浜に来るものだと、つくづく思った。冬の間は寒いので、なかなか来れない。しかし、これからは海も楽しくなる。昼食を済ませて、西部林道へ向かう。シカやサルが、たくさん現れた。途中下車して、人の住んでいないさわやかな空気を味わう。それから、水を汲んで喉を潤す。西部林道を抜けると、立神岩が現れる。珍しくジャンボタクシーが止まっており、かなりの見学者がいた。それから、大川の滝へ。こちらは、駐車場が満杯状態。三連休で、たくさんの人が屋久島に来ているのだろう。ここ数日来の雨で、大川の滝も迫力があった。滝壺が見える岩に登ると、滝の飛沫に虹が架かっていた。くっきりとした鮮やかな虹。しばらく滝と虹を楽しんで、サンゴを拾いに行く。こちらは、ほぼ貸し切り状態。海を見ながらサンゴを拾う。美しいサンゴがあった。それから、海辺の湯泊温泉と平内海中温泉に行く。湯泊温泉の方は、かなり人が入っていた。平内海中温泉の方も、少し人が入っていた。十分入れる温かさだったが、入るのは夜にする。4時半頃に、いわさきホテルに到着。飛行機の乗り継ぎでお疲れなので、早めに休んでもらう。まずは、屋久島三分の二周。翌日は、木霊の森が待っている。帰宅した後も、永田いなか浜で充電されたエネルギーが活性化していた。自然のすばらしさを再確認。自然は人の疲れを癒し、元気にしてくれる。すばらしきかな屋久島の大自然。『砂浜に 横たわる時 ジンジンと 体のなかに エネルギー満つ』『心身の 疲れを癒し 充電し 自然は人を 甦(よみがえ)らせる』これが日記を書き始めて1540日目の心境。
2009.03.21
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心の状態と病気の関係について書かれた本を見せてくれた人がいた。パラパラと読んでいると、出版社の小さな図書目録が出てきた。そのなかに、「なぜ笑うと便秘が治るの?」というタイトルがあった。そのタイトルを見て、笑ってしまった。その内容については、何も書かれていなかった。ただタイトルだけが出ていた。しかし、ユニークなタイトルだと思った。本を読まなくても、なぜ治るのかわかる気がした。便秘というのは、所有。自分のなかに仕舞い込んでおくこと。手放さないこと。笑いとは・・・その逆。解放。手放すこと。心を開くこと。声高らかに笑う時、心は晴れ晴れとしている。心に含むものがある時は、声高らかには笑えない。「ハッハッハッ」と笑う時、人は心の底から息を出している。腹のなかにあるものを全部出している。腹のなかにあるものを全部出せば・・・便秘をすることはなくなる。便秘をするということは、解放していないということ。秘密があるということ。人に知られたくないものがある?心を全開できない訳がある?秘めたる何かがある?たかが便秘だが、なかなか奥が深い。そういうものを一掃してリラックスすれば、便秘は治る。手放すこと。笑い飛ばすこと。心を全開にすること。心と病気の関係も、いろいろあるようだ。あまり詳しいことは、わからない。しかし、必要があれば、自分自身をよく観察すればわかる気がする。本を参考にしながら、自分で確認することだろうか。笑いの波動は、明るい。溜め込まないで、解放するエネルギー。開放すれば、自然に必要なものは入ってくる。閉じていれば、入りたくても入れない。「カラカラカラ」と笑うのは、空空空ということ。何もない空っぽの時、心から笑える。それは、健康の元。何もない時が、一番気分が軽い。心身共に軽い状態が、健康。病気の時は、心身共に重たい。所有すればするほど、重たくなる。手放せば手放すほど、軽くなる。軽いことが、健康の元。必要以上に所有することは、不健康の元。すべて手放せば、心身共に軽くなる。笑いは、溜まっていたものの解放。カラカラと笑って、楽しく生きることだろうか。心を全開にして、明るく生きることだろうか。溜め込めば、病気。手放せば、健康が待っている。『溜め込めば 便秘するだけ 手放せば 笑いと共に 健康になる』『気に病めば 病気になるし 気晴らしを すれば病気も 飛んで退散』『リラックス すれば便秘も 飛んでいく 緊張すれば 便秘始まる』『カラカラ(空々)と 笑い飛ばせば 心身の 詰まりも飛んで 体は空(から)だ』『カラカラ(空々)と 笑えば光 飛び散って 周りの空気 光に満ちる』『カラカラ(空々)と 笑い飛ばせば 何もない ただ青空が カラッと広がる』これが日記を書き始めて1539日目の心境。
2009.03.20
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今日の屋久島は、朝から激しい雨が降っている。窓の外を見ると、鳥が物干し竿に止まっている。雨に濡れて寒そう。それでも、毛づくろいをしている。遠くで別の鳥の声がしている。春になって、たくさんの鳥の声が聞こえる。新緑も、そこここに見える。新しい息吹の季節が始まっている。昨日は、久しぶりにヤクスギランドへ行った。道中、新緑の緑が鮮やかだった。これから一段と美しくなっていくだろう。屋久島の山々も春へと向かっている。あまり時間がなかったので、80分コースを歩く。途中で河原に降りる。数日雨が降っていなかったので、川の水は青く澄んでいた。触ってみると、とても冷たかった。気温も低く、空気がひんやりとして気持ちよかった。ゆっくり歩いて、それから平内海中温泉へ向かう。ちょうど干潮の時間で、温泉に入れる状態だった。しかし、真昼間なので、さすがに入浴はしなかった。誰もいない海の温泉で、ゆっくり足湯を楽しむ。四ヶ所の湯船があり、湯の温度が違っている。それぞれが気に入った湯船で足湯。極楽、極楽・・・曇り空で、暑くもなく寒くもなく、ちょうどよい天気。海は美しく、なんとも良い気分。たまには、のんびり海の温泉に浸かるのもいい。最後に、胃腸によいという温泉水を飲んで帰路に就く。お客さんたちは、豪華客船で屋久島へ来ている。船内の催物の講師の先生たち。屋久島の次は、奄美大島へ行くとか。船旅なので、山や温泉がよかった様子。仕事で自然の中に入ると、あまり日記を書きたい気分ではなくなる。肉体的に疲れるということもある。しかし、それだけでなく、頭が働かない感じ。働く必要がないというか・・・頭は、空っぽ。何もない。だから、書くことも思いつかない。何も問題がなくなる感じ。別に普段でも問題があるわけではない。しかし、自然の中に入ると、本当に何もなくなる。だから、文章を書きたいという気分にはならない。ただ空っぽ。自然は、煩わしさを一掃してくれる。こまかいことを忘れさせてくれる。ただいのちの息吹を感じさせてくれるだけ。すべての問題が、遠く霞(かす)んでいく。元々、問題などというものはない。それは、自分がつくっているだけ。自分が、問題にしているだけ。そのようなよけいな思考が、自然の中では薄らいでいく。これから、屋久島は山桜が美しくなる。今、ちょうど里から山の方へ咲き上がろうとしているところ。低い山に山桜のピンクが目立ち始めた。これから、どんどんピンクが山登りをしていく。『山肌を ピンクの花が 咲き上(のぼ)る 山桜咲く 春の屋久島』これが日記を書き始めて1538日目の心境。
2009.03.19
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長い永い間・・・この世のものは、すべて有限。色の世界は、すべて有限。と、人類は思い込んできた。自己限定。自己制限。自縄自縛。短絡思考。それが、これまでの人類の生き方。思い込み人生。自己規制人生。ところが・・・本当に、有限だろうか。この世は、有限?色の世界は、有限?いのちは、有限?実は、よく観察すると・・・そうでもない。一概に有限とは言えない。むしろ、無限と言った方が正しい。確かに、目に見えるものは永続しない。刻々に変化する。そういう意味では、有限かもしれない。しかし・・・次々に変化していく。次々に・・・限りなく変化していく。宇宙は、無限に変化していく。どこまでもどこまでも変化していく。限りなく変化し続ける色は、有限だろうか。無限に変化する色は、実は無限ではないだろうか。無限が無限に変化しているだけではないだろうか。色即是空。空即是色。色と空は、異ならない。無限のものの無限の現れ。無限創造。無限循環。元々無限のものが、無限に現われているだけ。あるのは、無限のみ。有限というのは、幻想。思い込み。思考が想像した幻。事実ではない。無限のものが、無限に変化している。ひととき同じ形を留める。しかし、それも厳密に見れば、微妙に変化している。一定不変のものはない。変化変滅が、宇宙の法。無限循環が、宇宙の法則。無限のものが、無限に循環している。姿形を変えて循環している。この世は、無限の世界。けっして有限ではない。もちろん、人も有限ではない。無限の存在。個々の形は、有限。変化変滅する姿は、有限。しかし、変化変滅自体は無限。無限のものの無限の循環。ひとつのものの、無限の現れ。ひとつのものの、めくるめく表現。オーロラのような刻々の無限の変化。それが、いのちというもの。人が有限という自己限定を外す時、人は無限の豊かさを手にする。それは、今ここにある。目の前にある。手の届くところにある。それを拒んでいるものは、有限という自己限定。限りあるものという思い込み。それを手放せば、即座にこの世は無限となる。無限のものの無限の変化。人類が無限に目覚める時、人類はフリーエネルギーを手に入れる。宇宙は、無限。宇宙は、無限のエネルギーに満ち満ちている。人もまた、無限の存在。有限から無限へ。無限創造。無限の生を生きる。無限への旅立ち。『有限の 色は無限に 変化して 実は無限の 空の現れ』『有限に 見える宇宙は 限りなく 変化変滅 無限の宇宙』『限りある ものと映ずる 現象も 尽きることなき 無限循環』『限りなき 循環宇宙の 一コマが 今目の前に あるだけのこと』『有限と 思っていたのは 思い込み 無限が無限に 変化するのみ』『限りある ものと思えば 限りない ものは無限の 循環やめる』『思い込む ことが無限を 有限に 制限のある 世界に変える』『人がみな この限りない 真実に 目覚める時に 地球は変わる』『有限の 自己限定を 外す時 無限創造 無限循環』『思い込み 外せば即座 目の前に 無限宇宙が 息づいている』『目の前の 宇宙と共に 息づけば 人は宇宙に 溶け込んでいく』『ひとときの 仮の姿が 有限で 真の姿は 無限そのもの』これが日記を書き始めて1536日目の心境。
2009.03.17
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今日の屋久島は、ほぼ快晴。青空のなかに愛子岳の白い山頂が際立つ。山桜が咲き出している。春本番という感じ。この世界は、色と空だけ。ただその二種類だけ。色は、無限の変化。空は、その外。目に見えるものは、すべて色。変化するものは、すべて色。存在するものは、すべて色。この世のものは、すべて色。存在しないものだけが、空。現象化していないものが、空。あるようでないようなものが、空。掴みどころのないものが、空。すべての現象は、色。変化変滅する宇宙は、色。あらゆる出来事は、色。どの次元であれ、すべて色。肉体も、魂も、神々も、すべて色。個別に存在しているものは、すべて色。個別化していないものだけが、空。全体だけが、空。原理は、極めて単純。極めてシンプル。しかし、現実は極めて複雑。無限の多様性。多様性こそ豊かさ。その多様性に囚われないことだろうか。豊かさに囚われれば、貧しくなる。豊かさを愛でるだけであれば、この上なく豊か。貪欲。貪(むさぼ)り。過度の執着。過ぎたるを、過ちと言う。ただ愛でていればいいものを、いつまでも自分のものにしておきたいと思う。過ぎゆくものを、止(とど)めようとする。そこから苦しみが始まる。流れるままに、流しておく。変えたいものは、変える。しかし、それにも囚われない。サラサラと変えればいい。望みのままに創り出せばいい。ただ創り出すだけであれば、問題は起きない。創り上げたものに執着すれば、問題が起きる。取り合いや奪い合いとなる。過ぎたる所有は、妬みを生む。所有のアンバランスは、社会を不安にさせる。過ぎたる所有は、巡り巡って身を滅ぼす。ほどほどに。バランスよく。みんなが、幸せであるように。そういう意識のベースがないと、真の幸せにはなれない。自分だけの幸せなどあり得ない。それは、幻想以外の何ものでもない。個の幻想。個という思い込みからくる幻想。思考の未熟。思考の短絡。もっと深く現実を見つめれば、その奥にあるものが見えてくる。表面だけを見ていては、本質が見えない。奥の奥の自分の本質を見つめることだろうか。そうすれば、個という幻想は消える。個という形を取ってはいる。しかし、それがすべてではない。個でもあるが、全体でもある。意識は、限りなく拡大する。ゆったりと自然と共に生きることだろうか。自然は、大きい。宇宙も大きい。しかし、人は宇宙よりも大きい。『色だけに 偏る時に バランスが 崩れて人は 路頭に迷う』『個であると 思い込む時 全体を 忘れて不幸 身近に迫る』『囚われる ことで豊かさ 見失う 愛でるだけなら 尽きぬよろこび』『全体の 流れバランス 見極めて 自然と共に 自然に生きる』これが日記を書き始めて1535日目の心境。
2009.03.16
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『昼間かと 見紛(みまご)うほどに 降り注ぐ 満ちたる月の 光眩(まぶ)しき』『喧騒の 巷(ちまた)離れて 静けさの 森に入れば 意識浄まる』『ひたすらに 自然のなかに 浸る時 心身共に 自然に還る』『スピリチュアル だけでは何か 不安定 地に足付けて 生きる必要』『魂と 自然ベースに 生きないと 地上の生を 全うできない』『魂と 自然と共に 生きる時 地球に生きる 意味が完結』これが日記を書き始めて1533日目の心境。
2009.03.14
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今日の屋久島は、ものすごい強風が吹いている。雨はたいしたことはないが、風は外に出るのを躊躇するぐらい。春の嵐?もうすっかり春という感じ。魚座の水晶祭りは、昨日で全員受付が終わった。今日からは、リクエストがなかったものは先着順となる。今回は数が多かったので、まだ半分ぐらいは行き先が決まらない。ステキなものが、たくさん残っている。海と川で浄化し、二度、月光浴をさせた。浄化と月光浴で、見違えるようにきれいになった。水晶たちは、旅立ちが近づくと美しくなる。それにしても、驚くほど美しい。今回の一番人気は、No.1のライトニングレムリアンだった。今回唯一の大型水晶。しかも、昨年のkimi宅を支えたもの。雷で光化された抜群の安定感のあるポイント。実は、この水晶は巫女見習いもリクエストしていた。ところが・・・残念なことに、巫女見習いは外れてしまった。彼女がリクエストした時、彼女に行くのかなと思った。しかし、蓋を開けてみると、別の人のところへ行くことになった。巫女見習いよりも、この水晶と合っていた人がいた。それは、魚座の人だった。今回は、魚座の人のリクエストが多かった。たとえ巫女見習いでも、特別扱いはない。それは、秘書でも知り合いでも変わらない。どんな人も平等に扱われる。ただ水晶と合うかどうかだけ。どんなに倍率が高くても、合えば初めての人のところへでも行く。合わなければ、常連でも外れてしまう。まったく依怙贔屓(えこひいき)はない。厳正中立。水晶の行き先を恣意(しい)的に決めると、何かが狂ってしまう。まるでボタンを掛け違えたような・・・無私でやると、行くべきところへ行く。まるでジグゾーパズルが、ぴったしと決まるように。恣意とは、自我。恣意でやれば、宇宙のバランスが壊れる。行くべきところへ行かないで、別のところへ行ってしまう。それは宇宙の秩序ではなく、自我の混乱。自我とは、自分勝手。自分好み。自分の気に入ったところに、人気のあるものをやろうとする。しかし、それをやりだすと、すべてがおかしくなる。「私」とは、混乱の元。自分本位。自分さえよければいい。全体のことは考えていない。そういう自我ベースで生きると、世の中は混乱する。競争による予定調和は、幻想。現実は、競争による弱肉強食。幸せよりも悲しみの方が多い。自我の生は、混乱の生。全体を忘れた自分勝手。自分さえよければいいというのは、近視眼。結局は、回り回って自分の首を絞めることになる。人類も、そろそろ自我の生を卒業する時。もう十分に体験した。体験から学ばなければ、体験の意味がない。これまでは、物質次元を学ぶための体験期。これからは、その体験を活かして真に豊かな世界を創る時。いつまでも試行錯誤を繰り返していてもしかたがない。もう目覚める時。気づく時。新しい生き方を始める時。自我から脱皮する時。青虫から蝶になる時。それには・・・まず蛹(さなぎ)になる必要がある。蛹とは、静かに自分を見つめる時期。自分を理解する時。深く理解した時、蛹は蝶に変身する。蝶は、地を這う青虫ではない。全体を見渡しながら、ヒラヒラと自由に舞う。全体が見えるために、自己中心的にはならない。もう自分勝手な生ではない。全体と共に生きる生。全体の調和を図る生。全体を見ながら、個を生きる生。個であり全体である生。『恣意的に 生きればすべて 混乱し 苦しみ悲しみ 尽きることなし』『全体の 調和を図る 心から すべての人の 幸せ生まれる』『自分さえ よければいいと 思うのは 目先のことしか 頭にないから』『長い目で 見ればみんなの 幸せが 自分にとっても 幸せとなる』『皆のため 生きれば皆が 幸せに なるだけのこと 難しくない』『人類の 意識成熟 する時に 互いのために 互いに生きる』『これまでは 体験学習 予備調査 これから本番 地球創造』『これまでの 地球体験 活かしつつ みんなで笑う 世界を創る』『これまでは 本能ベース 肉体に 翻弄されて 生きていただけ』『これからは 魂ベース 本来の 神の世界を 地上に創る』『神なれば 叶わぬことは 何もない 望みのままに 現実創造』『神の世を この世に創る だけのこと 単純明快 生きる方針』これが日記を書き始めて1532日目の心境。
2009.03.13
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昨夜は、満月が美しかった。深夜になって、煌々と輝き始めた。水晶祭りに出ている水晶たちは、一昨夜に続いて二度目の月光浴。高い高い満月だった。今日は、朝から部屋の整理をした。電話機の位置を移し、水晶の場所も変えた。実は、昨日も衣類の整理をした。小さな家なのに、整理に事欠かない。できるだけシンプルに生きる。極力、所有しない。物も記憶も・・・必要なものだけ。体も必要以上に体重が増えると、何をするにも気が重くなる。食べ過ぎれば、気が滞る。スッスッと動けなくなる。ほどほどでないと、身軽に動けない。何でも、ほどほど。過ぎたるは及ばざるが如し。物が多過ぎると、何がどこにあるのかわからなくなる。必要な時に、すぐに出てこない。それでは、何のために物を持っているのかわからない。必要な時に、すぐに出てきてこそ役に立つ。そのためには、常に整理整頓が欠かせない。よけいな物を持ち過ぎないことだろうか。それは、すべてについて言える。精神的にもプライドが高いと、心が動揺しやすくなる。思い込みが多いと、現実との間で常に軋轢が生じる。何もないのが、一番気楽。人がどう思おうと、思う人の勝手。こちらがよけいなものを持っていなければ、傷つけられることもない。何を言われても、言う人の自由。それを言わせないようにしようとするのは、横暴。柳に風折れなし。自分のなかで抵抗するものがなければ、トラブルもない。思い込みを極力外す。そうすれば、楽に生きられる。思い込みが強い人は、頭が緊張している。その結果、体も固くなる。カチンカチンと周りに当たる。当たれば、双方とも痛い。手放して、しなやかに生きればいいのに。そんなにこだわることもないのに。聞き流しておけばいいのに。柳のように。自我とは、所有。思い込みの大量所有。それが多いと、波風も多くなる。自我と自我が、角突き合わせる。整理整頓。シンプルライフ。柳のように風に吹かれながら生きる。そうすれば、ポッキリ折れることもない。無理に目立とうとすれば、風当たりが強くなる。地道にマイペースで生きる。シンプルに、囚われなく生きる。それが、一番楽な生き方。『シンプルに ただ単純に あっさりと 生きれば何も 抵抗はない』『カラカラ(空々)と 笑っていれば 物事は 軽々進む 軋(きし)むことなく』『何もかも 持っているから 重たくて 身動きできず 不自由暮らし』『手放せば 何もなくても 生きられる 意外と楽に 生きられるもの』『何もない フリーハンドが ほしいもの すぐに手にする 最善の道』『古いもの 握っていれば 新しい ものを手にする ことはできない』『必要な 時に手にする だけでいい 普段は何も 持たぬが気楽』『目の前に あるものすべて 楽しんで 楽しみ抜いて 所有はしない』これが日記を書き始めて1531日目の心境。
2009.03.12
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今日の屋久島は、曇っている。夕方からは、晴の予報。なんとか満月が見れそう。満月が出たら、水晶たちは月光浴。今日から「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPでは、魚座の水晶祭りが始まっている。魚座らしい24組の水晶たちが登場している。じつは、今日はもう一つ記念日がある。それは・・・屋久島へ来て、今日で満6年が経過した。2003年3月11日に、屋久島に引っ越してきた。それから、はや6年。速い!ワゴン車一台に積めるだけの荷物を持って、屋久島へやって来た。来た時には、住む場所も仕事も決まっていなかった。貯金が100万円ぐらいはあっただろうか。もうあまり覚えていない。しばらく民宿に泊まって、住むところを探した。結局、今のところに落ち着いた。住めば都!今は、ここがとても気に入っている。最初の1~2年は、ガイドの仕事もそれほどなかった。知り合いが、少し来てくれた程度。どこにも所属しないで、HPだけを頼りにスタートした。HPには、かなり情熱を注いだ。そのせいか、だんだんお客さんが増えていった。今では、なんとか食べるのには困らなくなっている。それだけでなく、水晶を買う余裕もある。屋久島へ来て増えたのは、水晶だけ。家が狭いので、何かを買ったら何かを処分しなければならない。物の絶対量が限られる。それも悪くはない。そんなにたくさん持ってなくても、暮らしには困らない。2005年の誕生日(1月2日)から、ブログで日記を書き始めた。ちょうど生活が安定した頃だろうか。それから、日記を書くのがメインの仕事となった。ガイドよりも日記を書く方が、今の自分の為すべきこと。日記を書くことによって、精神は整理された。屋久島に来た当初とは、精神状態がまったく異なる。2009年の誕生日を期して、とうとう神様になってしまった。これは、半分は冗談・・・しかし、半分は本当。だから、神人。神と人が半分ずつ。見習いの神様=新人。新人は、新人類。新しくリニューアル。アクエリアスバージョン。神でもあり人でもある。これまでのパーソナリティは、残っている。だから、人としての継続性もある。断絶はしていない。しかし・・・これまでとは、明らかに異なる。個であり全体。全体優先。それが、個を活かす道。個が真に活き活きとするのは、全体と共にある時。全体のために生きる時。個が個のためだけに生きるのは、自我。それは、これまでの古いパターン。もうそれは、時代遅れ。自分さえよければいいというのは、地獄的な生き方。一見楽そうに見えるが、最も苦しい生き方。悲苦への一本道。これからは、できるだけ持ちものを減らして、軽やかに生きる時代。それは物質的なものに限らず、精神的なものも同じ。心身共に軽くなる。重たいものを、いつまでも引きずらない。今、今で、完了させる。今、今で整理整頓。いつまでも引っ張らない。あっさりと手放す。いつも身軽。いつもゼロ地点。何もないのが、最も楽な生き方。鼻歌でも歌いながら手ぶらで歩けばいい。屋久島へ来て、自然と共に生きるようになった。ガイドという仕事柄、いつも自然のなかに入っている。森に親しみ、滝のミストを浴び、熱帯魚と遊ぶ。日々、山と海と滝を眺めて暮らしている。夜には、満天の星々。広々とした野原からは、たくさんの虫の音。雨の後には、虹。もう何も言うことはない。ほとんど不満はない。ほぼすべて満たされている。最近は、ネコもいる。スリスリしてきて、とても可愛い。当分は、屋久島暮らしが続きそう。先のことは、わからない。しかし、今のところ引っ越す予定はない。ここで満足している。先の保証はない。それは、この世に限ったことではない。宇宙全体が、何の保証もないところ。必要なものは、自分でクリエイトする世界。保証は、自分で創り出すもの。自分が、自分に保証するもの。他の人は、何も保証してくれない。自分だけが、自分に対して保証できる。その保証とは、自分の人生は自分でクリエイトするという気持ち。そういう生き方が、自分にとっての最大の保証。それ以外に確かなものはない。それ以上に確かなものはない。自分の望む人生を自分でクリエイトする。それは単なる個としての望みではなく、全体と共に生きる個としての望み。全体のために生きることが、自分自身にとっての幸せ。それ以上の幸せはない。そのことが真にわかることが、神になること。そのように生きることが、神人。個であり全体。全体と共に個を生きる。『何本の 虹を見たのか 屋久島で 自我を理解し 神となるまで』『全体と 共に生きれば 心配も 不安も消えて ただ満たされる』これが日記を書き始めて1530日目の心境。
2009.03.11
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今日は、久しぶりの青空。ここのところ雨続きで、洗濯ものが溜まっていた。まず洗濯をする。それから、水晶の浄化に行く。海は大潮で、ずいぶんと引いていた。川は昨夜の雨で、思ったより増水していた。かなり流れが激しい。これまでで一番激しい浄化かも・・・これだけ水量があると、水晶を入れたザルが流されそうになる。しかし、水量があるため、浄化に時間はかからない。これまでで一番短時間で終わる。量も少なかった。最近は、あまり水晶を買っていない。シーズンオフで、お金がないからというのもある。しかし、それ以上に買いたい水晶がない。いくらお金がなくても、本当に買いたかったらカードで購入する。しかし、ここのところ無理してカードで購入したいと思うものがない。本当に質の良いものがない。アメリカのツーソンのミネラルショーで仕入れたものが出始めている。それでも、あまり魅力的なものがない。もうずいぶん買ってきたからだろうか。目が肥えてしまった?よほどのものでない限り購入したいとは思わない。そんなにお腹が減っていないということ?お腹が空けば、食べたくなる。しかし、満腹では目の前を獲物が歩いていてもライオンは襲わない。そういうもの。相対的なもの。物珍しい時期は、何でも欲しがる。しかし、ある程度すれば、慣れてしまう。鮮度が落ちる。そうなると、そんなにも欲しない。それは、何についても言える。オモチャも恋人も同じ。熱くなる時期があれば、冷める時期もある。物も人も変わりはない。飽きたら、鮮度のいいものに乗り換える。知らないところへ旅をする。人生は、旅から旅。未知のものとの出会い。関心のあるものに出会い、しばらく一緒にいる。それに飽きたら、また別のところへ移る。趣味にしても、仕事にしても、人間関係にしても・・・みんな同じ。時間と共に関心や興味は変化する。それに応じた出会いがある。出会いがあれば、別れもある。出会と別れの繰り返し。水晶も同じ。しばらく一緒にいて、もう十分と感じたら手放す。来た当初はあんなに魅力的だったのに・・・長く一緒にいれば、新鮮味は落ちてしまう。自分にとっては鮮度が落ちたものも、別の人にとっては新鮮。新しい出会いは、常に新鮮。新しいものと出会うことにより、何かが目覚める。自分のなかの何かが覚醒する。物との出会い、人との出会い、仕事との出会い、自然との出会い・・・いろんな出会いがある。出会う度に内在していたものが刺激される。内なる無限の可能性が芽生える。人は、無限の旅人。内在する神の可能性を花開かせる役目。いろんな出会いを通して、神が花開く。人は神の子、神の種。明日から水晶祭り。今回は、魚座の水晶祭り。24組の水晶たちが登場する。海と川の浄化が終われば、後は満月による月光浴。今夜か明日の晩に月光浴をさせる。それで準備万端整う。後は、旅立ちを待つだけ。そこには、新しい出会いが待っている。『美しさ ますます増して 水晶は 旅立ちを待つ 出会い求めて』『旅に出る 水晶たちは 美しい 姿を見せて 別れを告げる』これが日記を書き始めて1529日目の心境。
2009.03.10
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コメント欄に次のような質問がありました。「いつもありがとうございます♪質問ですが。。霊能者の方で、甘いもの好きな人やたくさん食べて太っている方が割と多いように思うのですが、 そういう方が持つ感度と、kimiさんがいつも書いてくださっている透明な意識や繊細さとは関係性ってあるのでしょうか。。?一概に霊的なものを感じると言っても、いろんな次元があるのかな。。? 」一口に霊能者と言っても、ピンからキリまでありますよね。それぞれに繋がっている次元が異なるでしょう。ですから、太っている人もいれば痩せている人もいるでしょう。一概には言えませんね。霊的なものは、あまり陽性では入って来れないでしょう。霊性というのは、物質次元に比べれば陰性の世界ですから。肉や魚ばかり食べている霊能者というのは、少ないでしょう。どちらかと言えば、菜食の霊能者の方が多いでしょう。霊能と言っても、幽霊や魑魅魍魎の次元から神仏の次元まであります。どこと繋がれるかによって、精度が違ってきます。低次元であればあるほど、物質的な予言になります。この世的な御利益を言うのは、低次元の霊能ですね。高次元になればなるほど、精神的になります。直接的な御利益はありません。精神性を高めることによって、結果的に幸せになるということです。幸せになるためには何かをしなさいということはありません。マントラやお経を唱えろというのも、それほど高い次元とは言えないでしょう。お題目さえ唱えれば救われるというのも、次元は低いですね。それは、まだ大衆の知性が発達していない時代に、方便として説かれた方法です。それは、その時代には役に立ったのですが・・・ご利益宗教というのは、低次元です。神仏にすがって救われたいとか、ご利益を得たいというのは、もう時代遅れです。今の時代には合いません。今は、何かにすがって救われる時代ではないのです。宇宙人からの情報もたくさん流されています。しかし、宇宙人と一口に言っても千差万別です。意識のレベルもピンキリです。ですから、宇宙からの情報であれば何でも正しいとは限りません。霊能者が言うことも正しいという保証はまったくありません。教祖様も同じ。本に書いてあることも同じです。キリストや仏陀が語ったことでさえ、真実であるという保証はありません。なぜなら、長い間に聖書やお経も改竄(かいざん)されているからです。結局、何も信用できるものはないのです。少なくとも精神世界に関しては、自分自身で確かめるしかありません。自分自身を拠りどころにする以外にはないのです。実際は、食べるものも、着るものも、住むところも・・・・この世的なものですら、自分自身で確かめるしかありません。学校で習ったことが正しいという保証は、どこにもないのです。学校で教えていることは、極めて表面的なことに過ぎません。科学的なことでさえ、時代と共に変わっていきます。栄養学など、その最たるものです。以前はカロリー万能だったものが、今ではカロリー過多に注意するように指導しています。学校の教科書も、どんどん変わっていくのです。人は地上に生まれ出て、自分自身で何が真実かを身をもって体験していくしかありません。物質的なことも精神的なことも、すべて試行錯誤です。自分自身で体験して学んでいくのです。それが、この世というところです。しかし、その学びは、やがて宇宙に通じます。理解は、宇宙全体に及ぶのです。物質の次元を超え、やがてまた物質次元に収斂されていきます。今ここに、すべてが結集してくるのです。霊能者がどうとか気にしてもしかたがないでしょう。霊能者が語ることは、自分が潜在的にわかっていることを再確認させてくれるだけです。そのように活用すれば、霊能者も役に立つかもしれません。しかし、霊能者に頼るのは危険です。自分自身で理解していく。それが、人生の基本です。いろいろなことをわかっていくことは、楽しいことです。真理の探究というのは、楽しいことなのですよ。それは、科学者のスタンスと異なりません。身の周りのすべてのことを、もう一度見直すことですね。身の周りは、未知のことだらけ。不思議がいっぱいです。そういうものを自分自身で理解していく。ただ単に本で理解するのではなくて、実生活を通して理解していくのですね。それは、楽しいことです。人生の醍醐味の一つです。霊能者には、レベルがあります。どんな次元とコンタクトしているかによって、霊能の精度も異なります。しかし、それは普通の人にも言えることです。一人一人、生きている次元は異なります。実は・・・その一人一人も、刻々に波動が異なるのです。食事中と入浴中と瞑想中では、それぞれ波動が違います。人は、今、刻々に存在しているだけなのです。今を真剣に生きることですよ。今を自分にとっての真実で生きる。誠心誠意生きることですね。今ここに、すべてがあるのですから。『思い込み 外してみれば 人生は 不思議いっぱい ワクワクコース』『頼らない 自分自身が 拠りどころ 自分通して すべてを学ぶ』『人生は いろんなことを 体験し 理解しながら 楽しむところ』これが日記を書き始めて1528日目の心境。
2009.03.09
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今日は、久しぶりの仕事。12月から2月まで、十二分にシーズンオフを楽しんだ。そのため、三ヶ月ぶりの仕事。2009年のシーズンの仕事始め。本格的に観光客が増えるのは、3月20日の春分の日から。それまでは、そんなに多くはない。今日のお客さんは、若い女性2人。今年は春から縁起がいいやッ!滝に行きたいとのことで、落(おとす)の滝へ向かう。ここ数日来の雨で、滝はすごい迫力だった。しかし、滝壺はどこまでも青く、とても美しかった。久しぶりの滝は、すばらしいの一言!最初に滝へ行ったのは、正解だったかもしれない。まずは、心身を浄める。それから、すべてを始める。今シーズンのスタートのためのお祓い?滝の飛沫がすごくて、あまり長い時間はいられなかった。それに、まだ水も冷たかった。早目に下りて、木霊の森へ行く。白谷雲水峡の駐車場は、そこそこ混んでいた。途中で何頭ものヤクジカに会いながら、木霊の森へ向かう。今年初めての木霊の森。三ヶ月ぶりだが、何の違和感もなかった。むしろ、これまでになくスピリチュアルな感じがした。ここが自分のホームグラウンド。ここが、自分のベース。自分がグランディングしているところ。まさに自分の森という感じ。お客さんたちがお昼寝している間、こちらは瞑想。アクビが、たくさん出た。三ヶ月分の溜まっていたものが、解放されている感じ。なかなか心地よい。木霊の森を終って、巨大な屋久杉に会う。それから、楠川温泉で温まる。森は少し寒かったので、温泉は気持ちよかった。宿に送り届けて、初仕事無事終了。森で瞑想した頃から、眼が痛み出す。帰宅したら、激痛。これまで溜まっていたものが、解放され始めた様子。三ヵ月間酷使したので、激痛があってもおかしくはない。シーズン中は定期的に森へ行くので、自動的に眼のケアーもされる。ところが、シーズンオフは自宅に籠っている。しかも、かなりの時間をパソコンの前で過ごす。目が疲れない方が、おかしい。この激痛も、明日ぐらいにはスッキリするに違いない。森は、いい。心身を自然に調整してくれる。これぞ、まさにナチュラルヒーリング。お客さん以前に、自分自身が癒されている。自然は最高のヒーラー。心身を本来の健全な状態に戻してくれる。地球人のベース。ガイドという仕事は、なかなか辞められないかもしれない。お客さんには喜ばれるし、自分の身心のケアーにもなる。その上、生活費も稼げる。至れり尽くせり。但し、少し疲れる。特に今日は久しぶりに歩いたので、肉体はお疲れぎみ。森にいる時はまったく感じなかったが、帰宅してみると少し疲れていた。いつもは木霊の森だけなのに、落の滝までサービスしてしまったからだろうか。これまでは、家に引き籠っていた。これからは、自然のなかに入ることになる。どちらもいい。どちらも楽しめる。自宅でのんびりするのもいい。ゆっくり日記が書ける。しかし、自然のなかに入るのもいい。心身共に健康になる。ただ、肉体的に疲れるため、日記を書くのは少し大変になる。それでも、できるだけ日記を書いていきたいと思っている。そんなに仕事が続くことはない。ほどほど・・・そんなに仕事ばかりしていてもしかたがない。日記を書くのが、あくまでメイン。ガイドと日記が調和するように心がけよう。今日は、新しいシーズンがスタートした。『春になり ガイドの仕事 始まって 自然と共に 生きる生活』『舞い上がる 滝の飛沫は 真っ直ぐに 体貫き 身魂浄める』これが日記を書き始めて1526日目の心境。
2009.03.07
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今日は、朝から雨になっている。たまに太陽も顔を出すが・・・山の方は、雲がかかっている。これでは、水を汲みには行けない。肉体を光化しようとしている。肉体を光化するとは?肉体の波動を、より繊細にすること。夜、横になって・・・肉体を光化しようとする。それは、肉体を意識の光で包む感じだろうか。その途端、肉体の波動は精妙になる。しかし、それは持続しない。朝になれば、肉体レベルに戻っている。それでも、少しずつは光化されている。ほんの少しずつ肉体は繊細になりつつある。そんなことをやりながら気がついたことがある。思い込みがいっぱい詰まった頭は、まるで暗い曇り空。まったくスッキリしない。波動は荒く、とても重たい。思い込みが外れるにつれて、頭はスッキリしていく。思い込みが極端に減少すれば、頭はクリアーになる。頭脳明晰という感じ。曇がない。スッキリさわやか。しかし、それでも肉体の限界はある。肉体から抜けた時のクリアーさに比べれば、その明晰度は格段に落ちる。どうしても肉体の制約がある。いくら頭脳明晰と言っても、肉体から抜けた状態とは比較にならない。肉体から抜けた状態では、頭脳明晰などというレベルではない。クリアーそのもの。まったく曇がない。意識は透き通っている。明澄そのものであり、意識は研ぎ澄まされている。一点の曇もない。それは、肉体の波動の制約外にある。まるで大気圏外にいるようなもの。大気圏内は、重力の支配下。どんなに思い込みが少なくても、肉体の波動の制限を受ける。霊的な脳の働きは、肉体の脳によって制約される。この世の制約。その制限をできるだけ少なくするために、肉体の波動を上げようとしている。つまり、肉体を光化しようとしている。そうすれば、この世的な制限をできるだけ少なくすることができる。もっとも、あまり波動を上げ過ぎると、肉体が消えてしまう。それでは、この世では生きれない。ほどほどということだろうか。まだこの世にいる必要がある。少しずつアップすればいい。自我で生きている人の波動は、荒い。何でも自分の思うようにしたいと思っている人の波動は、荒々しい。支配という意識状態は、とても荒い波動。よく感じてみると、隙間だらけ。意識が精妙な人の波動は、隙間がない。まるで霧(きり)のように、こまやかな意識状態。自我で生きている人は、雨のような意識。自我我欲だけの人は、霰(あられ)のような状態だろうか。意識が精妙な人は、霧、つまり気体の状態。平均的な普通の人は、雨、つまり液体の状態。自分勝手な人は、霰(あられ)、つまり個体の状態。人の意識状態に応じて、波動の形態が異なる。意識が精妙であればあるほど、意識の状態は緻密になる。しなやかで流動性に富む。意識が粗雑になればなるほど、意識の状態は隙間だらけ。しなやかさがなくなり、固定化していく。思い込みが強ければ、頭は固くなる。頑固オヤジとは、物質化している頭脳のこと。物質化とは、過度の肉体との自己同一化。自分を強く肉体と思い込んでいること。この世限り。肉体がすべて。物質オンリー。お金がすべて。そのように思い込んでいると、意識は物質化する。荒々しく、固くなってしまう。波動は遅くなり、しなやかさや自由さをなくす。どこまでも地を這う青虫のまま。波動が精妙にならない限り、蝶になることはできない。遅くて重たい波動では、空を舞うなど望むべくもない。精神の波動を高めるだけではなく、肉体の波動も高める必要がある。思い込みを外すだけではなく、肉体を精妙化する必要がある。動物性のものをたくさん食べていると、波動は荒くなる。植物性のものに切り替えると、波動は穏やかになっていく。動物性のものを食べると元気になったように錯覚する。しかし、それは波動が荒々しくなっただけ。その状態には、精妙さの欠片(かけら)もない。植物性のものにすることによって、肉体はより精妙になる。波動も上がる。食べる絶対量を減らせば、波動は更に上がっていく。できるだけ新鮮な空気を肉体に吸わせる。特に山の気は、心身を軽くする。仙人は霞を食べて生きているとか。生気に満ちた深山幽谷の空気は、心身を精妙にしてくれる。それから、意識で肉体を光化する。精妙な意識で肉体を包み込む。そうやって肉体の波動を上げていく。そうすることによって、頭脳は一段とクリアーになる。スピリチュアルな意識は、透き通るように透明。その意識を肉体のなかで体現するためには、肉体の波動も上げる必要がある。そうすれば、肉体に居ながらにして天上の意識で過ごせるようになる。魂の意識が、ダイレクトに肉体レベルまで浸透する。意識の浄化は、思い込みを外すこと。肉体の浄化は、食べもの、呼吸、体を動かすこと・・・心身共に浄化することによって、軽やかなアクエリアスバージョンの心身となる。時代と共に浄化され、限りなく波動は上がっていく。『思い込み 外すと共に 肉体の 波動を上げて 意識広げる』『固まって 重たくなった 心身を 光によって 甦(よみがえ)らせる』『この日記 読むことにより 心身は 光化されて 明るさを増す』『個体より 液体よりも 気体より 更に軽やか 光バージョン』『新しい アクエリアスの 時代には 光バージョン 最も似合う』これが日記を書き始めて1524日目の心境。
2009.03.05
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最近のニュースは、不景気な話題ばかり。この世の流れは、恐慌に向かっているかのように見える。経済システムの崩壊。その先には、国家の崩壊さえ垣間見える。耳に入る話題は、リストラと派遣切り。屋久島にも、契約社員の期限切れで都会から帰って来た人がいる。再雇用してもらえなかったらしい。こんな離島にもリストラの波は押し寄せている。しかし、リストラされたからといって嘆くこともない。何が吉と出るかわからない。リストラされた方が、かえって新しい人生が開くかもしれない。少なくとも、その可能性はある。いつまでも会社にしがみついていてもしかたがない。リストラされたら、それを活かせばいいだけ。何でも状況を活かして生きるしか道はない。活用すれば、意外と新しい世界が開けるもの。どうしてホームレスになってまで都会に執着するのだろうか。都会に何の夢があるというのだろうか。あんなゴミゴミしたところに、どうしてこだわるのか理解できない。もっと人間的な暮らしをすればいいのに。いなかには、たくさんの土地が余っている。多くの遊休農地がある。日本全国どこへ行っても、いなかの土地は荒れている。そういうところへ、どうして戻らないのだろうか。落ちぶれた姿を知り合いに見られたくないのだろうか。それもわからないではない。それなら、見ず知らずの土地に行けばいい。もう一度ゼロからやり直せばいい。これからの流れは、会社員などではない。自然と共に生きること。自給自足に近い暮らしが、これからの流れ。自然と共に生きるのが、最も自然なこと。リストラされても、何も嘆くことはない。会社に残るよりも、遥かに豊かな暮らしが待っているかもしれない。確かに金銭的には、大幅な収入減になるだろう。しかし、金銭には変えられないものがある。豊かな自然は、金銭では買えない。ゆったりした時間は、金銭の比ではない。自然と共に人間らしく生きればいい。経済至上主義で命を擦り減らす方が、どうかしている。今の社会の価値観は、極めて表層的なもの。見せかけだけの社会。どこにも真(まこと)がない。そんな社会に属して、何の意味があるのだろうか。食べものにしても、まともなものはほとんどない。スーパーに並んでいるものは、農薬と化学肥料でできたもの。合成着色料や合成保存料でカモフラージュされているものばかり。美味しくもなんともない味気ないもの。見栄えだけ、形優先の産物。住む家も化学物質を発散している。空気は排気ガスで汚され、衣服も化学合成品が大半を占める。電化製品や車も、多くの部分がプラスチック等の化学物質でできている。パソコンも携帯電話も、電磁波の垂れ流し。石油や原子力によって、地球は汚染されまくっている。化学合成された医薬品が氾濫し、原因不明の病気は増える一方。環境ホルモンの影響によって、男性の精子は減少の一途を辿っている。このままいけば、人類滅亡へ向けて一直線。そんな社会システムに、いつまで加担するのだろうか。利益最優先がもたらした地球の現状。このままでは崩壊するしかない。利益最優先の社会に何の潤いがあるだろうか。見栄えがいいのは、表面だけ。見てくれだけの張りぼて社会。まったく内実がない。こんな社会からリストラされても、何も嘆くことはない。自分で新しいシステムを創り出せばいい。古いシステムは、もう金属疲労状態。再生は、不可能。古いものは壊して、新しく創り直すしかない。いつまでも古いシステムにこだわっていると、新しい時代に乗り遅れる。古いものは、崩壊する。もうどうにもならないところまできている。あっさりと古いシステムから抜け出すことだろうか。まったく異なる価値観で生きることだろうか。外側ではなくて、内なる価値観で生きることだろうか。新しい酒は、新しい革袋に入れなければならない。リストラされても、何も嘆くことはない。新しい生き方を後押しされていると思えばいいだけ。天の恵み以外の何ものでもない。喜んで新しい事態を受け入れればいいだけ。何も頼るものがなくても、人は生きていける。拠り所がなくても、人は生きていけるもの。人生は、注意深く山道を登るようなもの。不注意では、足を踏み外してしまう。注意深く一歩一歩登っていけば、やがて頂上に辿り着く。頂上の景色は、格別。澄み渡る青空の下、遥か彼方まで見渡せる。吹く風は、さわやか。時代の流れは、自然と共に生きる方向にある。地球と共に生きる。みんなと共に生きる。生きとし生けるものと一緒に生きる。利益最優先は、過去の遺物。経済至上主義は、時代遅れの価値観。自分さえよければいいという生き方は、もう通用しない。共に生きるという意識でないと、これからは生きていけない。時代の流れが、大きく転換しようとしている。古いシステムは、すべて崩壊する。古い価値観を、すべて手放すことだろうか。まったく新しく生き直すことだろうか。『生き方を 変えないならば 人類は このまま行けば 全滅の道』『体裁や 見栄を張ってる 人生は 見せかけだけの 砂上の楼閣』『リストラに 遭ったらリストラ 活用し 新たな人生 始めればいい』『これまでの 物質的な 価値観を すべて手放し 新たに生きる』『見せかけの 繁栄すべて 崩壊し 真実だけの 世のなかとなる』これが日記を書き始めて1523日目の心境。
2009.03.04
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自宅から見える落(おとす)の滝が、大きく膨らんでいる。それほど雨が降ったようにも思わなかったが・・・山の方は降ったのだろうか。朝日が当たって、滝の白さが際立っている。最近は、これまでのネコに加えて、もう一匹野良ネコが餌を食べに来る。すぐ目の前の森に住んでいる様子。これまでのネコよりも一回り小さい。このネコが初めて来た時の大きさぐらいだろうか。黄色系の縞々模様。鳴き声は、なかなか可愛い。もう撫で撫でさせてくれる。でも、まだ家のなかには警戒して入って来ない。オスかメスか、定かではない。どうもオスらしいが・・・自宅のネコが嫌がらないので、もしかしたらメス?メスなら妊娠しているはずなのだが・・・まだビクビクしている新顔のネコ。今いるネコの最初の頃を思い出す。最初はこんな感じだったのに、今では何の警戒心もない。信頼しきっている感じ。毎朝、明るくなると入口の前で鳴き出す。朝ごはんの時間だよーッ!その声で無理やり起こされる。朝食の後は、水を飲むために家のなかに入って来る。その水は、なんと山の水。以前は水道水だったが、この頃はこちらと同じ山の水。やはり山の水は美味しいらしく、水を飲む量が増えた。違いがわかるネコ?水を飲み終わると、しばらく室内でくつろぐ。こちらがパソコンをしていると、突然、鳴き出す。入口を開けると、出て行く。出て行かない時は・・・体を撫でろという合図。頭や耳や首を、しばらく撫でてやる。グーグー鳴いて上機嫌。そのうちに、ゴロンと横になる。足を大きく広げて、お腹を掻けという合図。神様に指図するネコ!いったい何様?ニャンコ大明神!?時々は、いなくなることもある。どうしたのかなぁーと思っていると・・・何もなかったかのように朝帰りして来る。オイオイ、夜遊びか。ネコは、可愛い。すごく甘えてくる。しかし、間違えて足を踏んだりすると、ものすごい声を出す。百年の恋も冷めてしまうような声。どこからそんな声が出るの?という感じだが、すぐに忘れてしまう。ケロッとしている。あまり記憶力は持続しないらしい。よく言えば、根に持たないタイプ?忘れることも悪いことばかりではない。嫌なことはみんな忘れてしまえば、どうということもない。いつまでも覚えているから、いろいろ苦しくなる。必要のないものは、さっさと忘れる。必要のあるものだけ、覚えておく。ネコの真似をすればいいだけ。人は、ネコにも劣るのだろうか。嫌なことだけをいーっぱい覚えている人がいる。ほとんど自虐的としか言いようがない。マゾヒスト?ネガティブ人生の極み。心のなかは、恨み辛みで一杯。憎しみと怒りの坩堝(るつぼ)。暗い炎がメラメラと燃え上っている。どうしてそのようになるのだろうか。それは、自意識過剰だからだろうか。それとも、自分を守ろうとするあまりだろうか。過度の防衛本能だろうか。あるいは、恐れだろうか。完全なネガティブパターン。そういうパターンが、意識のなかに組み込まれてしまっている。しかし、それは単なる受け止め方のパターンに過ぎない。それが嫌だったら、改めればいいだけ。もし本当に変更したかったら、心から変更すると決めることだろうか。そして、実際に自分のネガティブパターンに気づくことだろうか。気づいたら、即座に手放す。その場で改める。それを繰り返すしかない。ネガティブパターンに気づいて、即、ニュートラルに戻す。ただの事実関係のみに整理し直す。ネガティブな意味づけを外す。ただ事実のみを見る。最初の事実認識の時点で、ネガティブな認定をしない。ネガティブに憶測しない。ネガティブに推測しない。ひたすら事実のみを見つめる。それ以上に思考を働かせない。勝手にネガティブに思い込まない。事実に止(とど)める。自分のネガティブパターンに気づくためには、自分自身を見守っている必要がある。不注意であれば、自分のネガティブな発想に気づけない。無意識にネガティブに認識してしまう。いつものように物事を自分勝手にネガティブに解釈する。解釈しない。事実のみを見る。いつもニュートラル。一切よけいな脚色をしない。ネガティブパターンは偏っている。しかし、ポジティブパターンも偏っている。無理にポジティブに振る舞う必要はない。それでは、地に足が着いた生き方にはならない。プラスでもマイナスでもなく、ニュートラル。事実ベース。プラスマイナス、ゼロベース。何も前提がない、空ベース。淡々と事実と共に生きる。殊更にポジティブにこだわることもない。ポジティブでもネガティブでもなければ、自然に前向きになる。意識的に努力しなくても、真っ直ぐ前を向いて生きるようになる。自分のなかの偏りに気づく。気づいたら、手放す。即座に改める。ただそれだけのこと。その繰り返しのなかで、見守る意識が育っていく。囚われが外れ、ネガティブな反応が減っていく。静かに事実ベースで生きられるようになる。ネコのように、あっさりと生きることだろうか。『嫌なこと 忘れてしまう あっさりと いつまでも持つ 必要はない』『忘れると 決めてしまえば それでいい 後はそのまま そっとしておく』『嫌という 認識自体 見直せば 嫌が嫌では なくなるはずた』『好き嫌い 良いも悪いも 自我ベース 自分の都合で 決めているだけ』『事実だけ 見つめていけば 殊更(ことさら)に 心乱れる ことはなくなる』『あっさりと 囚われないで 生きる時 不要なものは さっさと忘れる』『忘れても 別に人生 減りはせぬ 身軽になって 楽に生きれる』『必要の ないもの忘れ 軽やかに ネコを見習い 身軽に生きる』これが日記を書き始めて1522日目の心境。
2009.03.03
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肉体は、循環システムのなかで存在している。呼吸は、吐いて吸う。食べたものは、排泄する。血液は、全身を回っている。肉体に限らず、自然は循環システムのなかにある。地球は、太陽の周りを回っている。太陽は、銀河系を回っている。月は、地球を回っている。雨が降り、川となり、海に流れる。海水は太陽の熱によって水蒸気となり、雲となる。雲は雨となり、地上を潤す。すべて循環している。食物連鎖も然り。宇宙全体が、循環システムで存在している。その循環こそが、あたかもいのちであるかのように。いのちが、姿を変えて回っているだけなのかもしれない。種から芽が出て、双葉となり、花が開き、実を付ける。それが、延々と繰り返されている。その過程で、新たな新種が生まれたりもする。多種多様、限りなし。人は、そういう循環システムのなかで生きている。自然の循環と共に生きている。ところが・・・人は、何でも自分の思う通りにしたがる。それが、自然のシステムを破壊する。体を壊し、心を壊し、地球を壊す。無理を通せば、道理が引っ込む。自然の循環システムを無視すれば、不自然な現実が生まれる。何でも自分の思う通りにしたいと思っていると、まず体が言うことをきかなくなる。体は、自然に属している。人の支配下にはない。肉体は、自然のシステムと共に生きている。肉体を酷使し続ければ、やがて壊れる。休ませることを知らないと、健全に機能しない。食べるだけで排泄しなければ、肉体は病む。肉体の生理を無視すれば、肉体の循環システムが機能しなくなる。地球は、太陽の周りを回っている。それを太陽が地球の周りを回るようにはできない。そういうふうにはなっていない。それが太陽系のシステム。何でも自分の望み通りにはならない。自然のシステムと共に生きるしかない。自然の流れのなかで、自分のやるべきことをやる。自分の夢を叶える。自然のシステムや時代の流れを無視して、自分だけで生きることはできない。自分さえよければいいということは、通用しない。そういうふうに生きることはできない。基本的にそのようにできている。宇宙のすべてが、有機的に関連している。無関係なことは、一つとしてない。すべてが連動している。自分だけが孤立していることはない。すべてが繋がっているのであれば、すべてと共に生きるしかない。宇宙全体と共に生きる。それが、人としての基本的な生き方。自分さえよければいいというのは、小さな自我の妄想。自分さえよければいい。自分の思い通りにしたい。そういう生き方は、結果的に心身の不調をもたらす。全体と共に生きる時に、心身は健全に生きることができる。常に宇宙と共に生きる。時代の流れと共に生きる。銀河系と生き、太陽系と生きる。地球と共に生きる。自然と共に生き、肉体と共に生きる。自然や肉体のシステムと共に生きる。我を通そうとすれば、自分が苦しむだけ。全体と共に生きない限り、真の幸せはない。ゆったりと自然と共に生きることだろうか。のびのびと肉体と共に生きることだろうか。心から魂と共に生きることだろうか。宇宙の流れと共に今を生きることだろうか。『循環が すべてのいのち 生かす道 いのちが姿 変えているだけ』『循環の 流れと共に 生きるのが 自然と共に 生きる生き方』『ゆったりと 自然と共に 生きてゆく 我を通さずに 自然に生きる』これが日記を書き始めて1521日目の心境。
2009.03.02
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今日から三月。朝方は曇っていたが、青空が出てきた。これから、天気は回復傾向。気温も上昇している。もう春。今年の冬は、あまり寒くなかった。何度か雪も降ったが、それほどでもなかった。年々寒くなくなっている気がする。南の方への移住話は、立ち消えになっている。あまり寒く感じなかったことと・・・やはり、独りでないと日記が書けないということが大きい。今、自分が最もやるべきことは、日記を書くこと。それが、何にも増して最優先事項。そのためには、独りでいる必要がある。それに、今住んでいるkimi神社の波動もすばらしい。他では得難いものがある。日記を書いている時が、一番充実している。顕在意識と潜在意識が一つになっている。三次元の意識と他の次元の意識が統合されている。今ここに、すべてが結集されている。他にも楽しいことは、いろいろある。美味しいものを食べるのも楽しい。水晶を眺めるのも楽しい。しかし・・・自分のなかのすべてが喜ぶのは、日記を書いている時。人格も魂も、それ以上の意識体も、すべてが喜んでいる。すべてが、活き活きとしている。すべてが、今ここに統合されている。それが、魂の願い。この世に生れてきた目的。今生の役割。自分が今やるべきこと。今ここの三次元に、すべての意識が統合される。表面意識だけではなく、深い深い潜在意識も。宇宙の全次元が、今ここにフォーカスされる。今こことは、それほどのところ。ところが・・・実は・・・不満足そうな意識体もある。それは・・・肉体の意識だろうか。あるいは、インナーチャイルドだろうか。いずれにしても、高いスピリチュアルなエネルギーに耐えられない。すぐに甘いものを欲しがる。甘いものを食べて波動を下げようとする。高い波動に耐えきれない。インナーチャイルドにしても肉体にしても、高過ぎる波動はきつい。すぐに気分転換を求める。しかし、そうそうそれらの希望を聞いている訳にもいかない。日記を書くのが、今のメインの仕事。これが、今の自分にとっては生きること。そのために生れて来たのだから。日記を書くには、相当のエネルギーがいる。集中力もいれば、リラックスも必要。文章を書くには集中する必要がある。しかし、集中だけでは閃きはやって来ない。インスピレーションは、リラックスと共にある。ゆったりと構えていながら、しかも今ここにフォーカスしている必要がある。つまり、個であり全体である必要がある。個だけでも日記は書けるが、それではただの個人的な日記になってしまう。全体的な日記にするためには、個を超えた深いリラックスが必要となる。瞑想状態に近いものが要求される。しかし、それはパソコンを前にすると難しいものがある。書いたものをプリントアウトして読む時に、そういう状態になれる。短歌は、パソコンの前ではあまりできない。プリントアウトして最初の校正が終わってからになる。あるいは、夜明け頃に布団のなかで作る。短歌は、集中状態ではできない。短歌は、瞑想状態に近くないとできない。リラックスしていないと難しい。今ここでも、個であり全体でありということを実践する必要がある。そうでないと、スピリチュアルな日記は書けない。思考で日記や短歌を作ることもできる。しかし、そういうものはインパクトが弱い。響かない。深く入っていかない。やはり、深い瞑想状態を必要とする。それと同時に、明晰な頭脳も必要。そうでないと論理的な文章にはならない。感覚的な文章では、理解されにくい。思考による論理だけの文章では、潤いがない。感性だけでは、客観性に欠ける。感性と論理の両方がいる。そうでないと、広く理解されることはない。感覚も感情も思考も、それ以上の意識も必要。すべてが今ここに統合される必要がある。その時に初めてトータルなものができあがる。それは、文章を書くことだけに限らない。すべてについて言える。トータルであるためには、すべてを活性化させる必要がある。肉体も頭脳も感性も・・・インスピレーションも気づきも必要。叡智も愛も必要。全宇宙を結集する必要がある。そのためには、食べることから寝ることまで気を配る必要がある。生活全般について注意する必要がある。健全な肉体の維持。健全な精神の維持。自然とのふれあい。多次元との接触。いろいろなものが統合されて、今ここができあがっている。チャネリングや超能力を用いて簡単に事が済むなどというのは、幻想。現実は、一つ一つに細かく気を配る必要がある。一つ一つのことを疎かにしないで、真剣に生きる必要がある。そういうことの集大成として、統合ということが起きる。それは、簡単なことではない。この肉体にすべてを統合する。全宇宙を統合するのは、それはそれは・・・しかし、時代の流れは統合へ向かっている。これまでは、個別化=多様化の方向だった。それが、統合=ひとつへ向かい始めている。宇宙の流れが変わった。そういう流れのなかで、このような日記が書かれている。書いている本人も、その流れに沿って実践しつつ書いている。実践の裏付けのないことは、書けない。それは、ほとんど人体実験に近い。試行錯誤のなかで、気づきが起きる。実践するなかで、理解が深まる。書くことで、更に明確になる。それを日々繰り返している。自分自身を通して体現する。それを文章に書き表す。それが時代に影響を与える。それが、今の自分にとっての生きるということ。『感性と 論理が共に ある時に バランス取れた 文章となる』『様々な 意識をすべて 調和させ 統合させて 生きる今ここ』『今ここに すべての次元 結集し 新たな時代 宇宙が開く』 これが日記を書き始めて1520日目の心境。
2009.03.01
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