山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

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2016.07.15
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テーマ: 街歩き(651)
カテゴリ: 街歩き

「すべての日本人が選挙前にそのことを理解することができれば、少なくとも福島事故をめぐる政治的問題は一挙に解決するのだが、ずっと目を閉じ、声を聴かないままでいたいと思っている人間も多いのだろう。状況の閉塞感(というよりも激しい後退感)に気づいていない人々が……。」

 福島の放射能汚染と被曝のことを考えていて、先週のブログは上のような言葉で締めくくった。その参議院選挙が終わった。野党統一候補の擁立が成功して、大敗した先の参議院選挙に比べれば野党側が大きく盛り返したが、それでも与党は3分の2近い議席を占めることになった。先週の私の書いた言葉は、そのとおりに私の心に残ったままである。
 事前予測もあって全体の選挙結果にはそんなに驚きも落胆もしなかったが、沖縄と福島で野党統一候補が勝利し、自公政権の現役大臣を倒したということはきわめて象徴的な〈事件〉だと受け止めた。
 福島は、東電第一原発事故の放射能によって汚染された郷土や県民の被爆に対する政府の施策は「棄民政策」と呼ぶに等しいものであり、沖縄は日本の安全保障政策として強制された基地の犠牲者となるべくこちらは歴史的に「棄民政策」の対象であり続けた。
 政府も自らの棄民政策の意味を自覚しているがゆえに、その無能さにもかかわらず沖縄、福島の改選議員を閣僚に任命し、優位に選挙戦を戦えるようにしたはずなのである。しかし、沖縄と福島の人びとには、そんな政権の意図を凌駕するように政府権力を拒否する以外の選択肢がなかったのだ。
 新潟を含めて東北、北海道にかぎって選挙結果を見れば、10議席中8議席を野党が占めた。この結果もまた、歴史的にはアウタルキー(自給自足)経済のための植民地代わりの食糧生産地だけの〈辺境〉としてのみ中央政府から扱われてきた
[1] にもかかわらず、政府の進めるTPPがその食糧生産地の意味をも奪い取ろうとしていることへの反抗として顕現したものだろう。
 このように地域を限って選挙結果を見れば、全体の結果と大きく異なってしまうのは、文字通り、政治的・経済的地域格差そのものを直接的に象徴しているに違いない。こうした事態への選挙民の自覚がどのように変化して行くのか、私には予想しかねるが、まったく反対の結果となった西日本では地域格差、政治格差は東北・沖縄とは異なるだろうが、経済格差そのものはまったく同じように拡大しているはずだ。子どもの貧困、保育所問題(労働環境の性差)、高齢者の困窮化などから逃れられている地域はない。彼らは何を見、そしてどこへ行くのだろう。

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nnk172-4集会@元鍛冶丁公園。(2016/7/15 18:36~19:05)

 梅雨らしい日が続いているが、今日は何とか持ちこたえている。選挙が終わって人が戻ってきたせいか、元鍛冶丁公園への集まりは順調のように見える。
 先週は公園入口の車止めのカギを借り忘れて、脱原発カーは公園の外で待機していたが、今日は無事に公園内に入っている。

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nnk172-7フリー・スピーチ。(2016/7/15 18:36~19:05)

 挨拶に立った主催者が鹿児島知事選挙の結果に触れたとたんに大拍手である。原発推進派の現職知事を倒して、原発慎重派の三反園訓さんが当選した。「私は原発のない社会をつくろうと一貫して訴えている。(川内)原発をいったん停止して再検査し、活断層の調査をすべきだ」(7月11日付朝日新聞)と主張していて、期待をこめて見まもることにしよう。

 「女性ネットみやぎ 4周年のつどい」の告知からフリー・スピーチは始まった。7月24日(日)13:30~16:00に、仙台弁護士会館4Fホールで『原発事故、チェルノブイリ30年、福島5年の真実』と題する独協医科大学准教授・木村真三さんの講演会が開催される。
 福島原発事故に対する原発メーカー三社の製造者責任を求める訴訟の判決公判(7月13日)の傍聴報告もあった。国内外の3800人あまりの原告が「原発事故の賠償責任を電力会社のみに負わせている今の制度は原発のメーカーを不当に守るものだ」と東芝と日立、GEの3社に賠償を求める訴えに対して、東京地裁は「立法の裁量内のことで、電力会社のみに賠償責任を求める制度は合理的」として訴えを退けた。企業の社会的責任まったく問題視しない判決で、当然ながら原告側は控訴するとしている。
 また、「脱原発」のカーステッカーを大いに利用しましょうという呼びかけもあった。

 いつもより参加者が多いと感じていた(55人が集まっていた)が、なかには川越市から南三陸町へ漁業ボランティアに向かうご夫妻がたまたま公園前を通りかかって参加されたと挨拶に立たれた。川越の地元では数か月に一度という割合で脱原発デモが開かれているという。「帰ったら仙台では毎週デモをやっていると報告したい」と話をしめくくられた。
 また、明日、明後日の二日間開催される「大MAGROCK vol.9」に参加されるため大阪から青森県大間に向かっているという二人の女性も挨拶された。

 最後に「みやぎ脱原発・風の会」が主催する8回目の公開学習会の案内があった。

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 最近、集会の時間が余りそうになると司会者が放射能に関する質問を私に振るのでそれなりに答えていたら、それをまとめてやってほしいと先々週のデモの時に話があって、先週には日時が決まり、今週には内容が決まっているととんとんと進んでしまい、つまりは私が講師役である。
 たしかに、私は原子核工学科に修士課程まで在籍していたし、放射線取扱主任者(第1種)の資格もあって一時は職場の放射線作業の安全管理業務を引き受けていたこともある。しかし、金デモに参加していていつも思っていたことは、参加者の多くが原発問題をとてもよく勉強されていて、今さら私が何か言わなければならないことなどまったくないなあ、ということだった。一生懸命デモに専念していればいいのだと、うかつにも安心しきっていたのだが、こういうことになってしまった。
 さて、退職後ほとんど使うことのなかったノートパソコンを引っ張り出すことから始めなければならない。

 最後の最後、また司会者に呼び出されて「ベクレル」の定義について話した。ついでだったので、放射性物質が飛散する際の形態、サイズなどの話をして、原発事故後にマスコミで流された「プルトニウムやウラニウムは重い原子なので遠くまで飛ばない」というのは科学的無知のなせる嘘っぱちであることまで話した(これはとくに聞かれなかったのだが)。

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nnk172-10元鍛冶丁公園からから一番町へ。(2016/7/15 17:09~11)

 元鍛冶丁公園から一番町へ向かう時はいつものことだが、国分町や稲荷小路の夜の飲食店街(歓楽街というほど淫靡ではない)の雰囲気とデモの雰囲気を重ね合わせた写真を撮りたいと思うのだが、いつも「思い」だけで終わる。
 『深夜食堂』というテレビドラマがあって、そのタイトルバックはJR高架の下を通って新宿歌舞伎町の光り輝くようなネオンの街並みを流れるように車上から撮影しているのだが、その露出オーバー気味の歓楽街の風景がとても気に入っていた。 ところが、自分で撮った写真ではややアンダー気味の方がよく見えてしまって、混乱している。動画と静止画の違いがあるのかもしれない。

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nnk172-14一番町に出て広瀬通りへ。(2016/7/15 19:12~14)

nnk172-15広瀬通り交差点前後。(2016/7/15 19:18)

 参院選の結果は、SNS上の多くの知人、友人を落胆させたようだが、多くの人はめげずに先を見ているようで「諦めない。未来は変えられる」というような意味のことを発信する人が多かった。
 投票日の夜、テレビを消して開票速報は見ないで過ごした。台所の小さなワンセグテレビの情報を妻がときどき伝えてくれるが、私は本を読んで時間をやり過ごしていた。スラヴォイ・ジジェクの『事件!』
[2] を読み終えたばかりだったが、ラカン派のジジェクが歴史における〈事件〉をラカン流の精神分析を引き合いに出して論じている部分は少し面倒くさくて斜めに読み飛ばしていたのだが、正確に言えば、その部分の読み直しをしたのだ。
 本は丁寧に読むべきである。その部分に「未来は変えられる」ではなく「過去の事件は変えられる」と主張されていた。そうだ。歴史とはそういうものだ。過去に起きた事実は変えられないけれど、それがどんな〈事件〉であったかは未来が決めるのだ。

アルゼンチンの作家ホルへ・ルイス・ボルへスは、カフカとその先行者たち(古代中国の作家からロバート・ブラウニングまで)との関係について的確にこう述べている。「カフカの特異性は、程度の差はあれ、これらの著作すべてに見られる。だがもしカフカが書かなかったら、われわれはそれに気づかないだろう。つまり、それは存在しなかっただろう。〔……〕すべての作家は先行者を創造する。彼の作品はわれわれの過去の概念を変え、同様に未来を変える」 (ボルヘス『続審問』、中村健二訳、岩波文庫、二〇〇九、一九一~二頁)   (pp. 151) 

 つまり、こうだ。今日この日から先の未来に向けて、誰かが(あるいは大勢が)行動を起こし、ある政治的な事実を生み出すだろう。その未来の事実が、この参院選の結果の歴史的〈事件〉性を決定する。
 沖縄と福島で自公政権を拒否しえたことが歴史の〈事件〉だったのか、東北、北海道の「辺境」で野党が8勝2敗だったことが〈事件〉だったのか、それとも安部政権が両院において3分の2の勢力を手に入れたことが歴史的〈事件〉だったのか。それは未来が決定するのだ。
 もう少し七面倒くさい哲学風にこのようにも述べている。

 しかし、この過去そのものを(再)構成する身ぶりの遡及性はどうだろうか。本物の行為とは何かについての最も簡潔な定義はこうだ――われわれは日常的な活動においては、自分のアイデンティティの(ヴァーチャルで幻想的な)座標に従っているだけだが、本来の行為は、現実の運動がヴァーチャルなものそれ自体、つまりその担い手の存在の「超越的な」座標を(遡及的に)変えるという逆説である。フロイトに従えば、それは世界の現実性を変えるだけでなく、「その地下をも動かす」。われわれはいわば反射的に、「条件を、それが条件であった所与の物に戻す」。純粋な過去はわれわれの行為の超越的条件であるが、われわれの行為は新たな現実を生み出すだけでなく、遡及的にこの条件それ自体を変える。弁証法的発展の中で事物は「それ自体になる」というヘーゲルの言葉はそのように解釈すべきだ。たんに時間的展開が、あらかじめ存在した前存在的・無時間的な概念構造を現実化するにすぎないというのではない。この無時間的な概念構造それ自体が、偶然的な時間的決定の結果なのである。   (pp. 153-4)

 だからこそ、次のようなイラン革命の不思議を理解できようというものだ。

独裁政権がその最後の危機・崩壊を迎えようとしているとき、たいていは次のような二つの段階を辿る。実際の放下に先立って、不思議な分裂が起きる。突然、人びとはゲームが終わったことに気づく。彼らはもう恐れない。政権がその合法性を失っただけでなく、その権力行使そのものが狼狽した無能な反応に見えてくる。一九七九年のイラン革命の古典的な解説である『シャーの中のシャー』で、リュザルド・カプチンスキーはこの革命が起きた正確な瞬間を突き止めている。テヘランのある交差点で、ひとりでデモンストレーションをしていた男が、警官に立ち退けと怒鳴られたにもかかわらず、動こうとしなかったので、警官は黙って引き下がった。この話はほんの 一、二時間のうちにテヘラン全市に伝わり、その後数週間にわたって市街戦が続いたものの、すでに決着がついたことを誰もが知っていた 。  (pp. 158-9)

 福島と沖縄における自公政権の拒絶がテヘランの「一人でデモンストレーションをしていた男」の拒絶と同等の〈事件〉となるかどうかは、私たちの行動の未来が決定するのだ。

 ジジェクを見直した。面白いけれども哲学的饒舌を持て余していたのだが、これからは歴史・政治・哲学をめぐる彼の論説をいくらかはわが身の行動と思考に重ね合わせて読むことできるかもしれない。そんなことを、投票日の日付が変わった頃に思っていた。

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nnk172-17一番町を青葉通りへ。(2016/7/15 19:23、24)

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nnk172-20青葉通り(一番町、国道4号、仙都会館前)。(2016/7/15 19:25~19:33)

 ここ数日、仙台の夕方は涼しい。半そでシャツではいくぶん寒いのではないかと思えるほどである。歩いていても汗をかくほどではなく、夜だけれども「デモ日和」と呼びたいほどである。もう少し湿度は低ければ完璧である。

 40人のデモが55人になると、写真の「写しごたえ」がどっと上がる。どんな写真を撮っても、写しきれていないという余剰感がぐっと増えるのだ。楽しみが増えるといってもいい。

[1] 赤坂憲雄、小熊英二(編著)『辺境から始まる 東京/東北論』(明石書店、2012年)。[2] スラヴォイ・ジジェク(鈴木晶訳)『事件! ――哲学とは何か』(河出書房新社、2015年)。

読書や絵画鑑賞のブログ かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)

小野寺秀也のホームページ
ブリコラージュ@川内川前叢茅辺





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Last updated  2017.04.08 20:42:56
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