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先日も仙台市図書館で2冊の本を借りてきたのだが、二冊とも最初の5、6ページ、中ごろの数ページを読んだきりで返却しに行った。本が悪いわけではないのでタイトルは書かないが、まったく面白くないのである。読書の守備範囲が狭くて手の打ちようがない、そんな状況に手を焼いている。
それで、自分の本棚から一冊を選んで読み始めた。付箋がいっぱい貼られたままの本なのだが、確かな記憶がない。ジョルジョ・アガンベンの『言葉と死』(上村忠男訳、筑摩書房、2009年)である。読み始めて付箋のついている個所に進んでも、なぜ付箋を貼ったのか、よく思い出せない。たぶん、あまり理解していなかったのだろう。
本はタイトル通りに次のようなハイデガーの文の引用で始まる。
死ぬ運命にある者たちとは、死を死として経験できる者たちのことである。動物はこのことをなしえない。しかしまた動物はことばを話すこともできない。死と言語活動とのあいだには本質的な関係の存在することが一瞬閃き出ているが、なおも思考されていない。
いかにもハイデガーらしい考えであるが、人間を動物から峻別して絶対視するような西洋哲学の大動脈たるヒューマニズム(人間中心主義)にはいささか辟易する気分だが、その辺りはジャック・デリダの『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(マリ=ルイーズ・マレ編、鵜飼哲訳、筑摩書房、2014年)がデリダらしくねちっこく論評していて、私としてこちらの本ではだいぶ楽しませてもらった。
せっかく読み始めた『言葉と死』だが、すっと腑に落ちるような話ではない。哲学といっても形而上学はどうも相性が悪い。そういう部分が多いのだ。ただ、人間が発する〈声〉は言述行為の中で言葉になる、という記述はよく理解できる。
例えば、「わたし」や「これ」という代名詞はこの言葉自体では何(誰)を指し示しているかわからない。「わたし」は私が発話(記述)行為の中で使うことではじめてこの私を指し示す意味を獲得する。
このことを「言葉は言述行為によってはじめて意味を獲得する」と一般化しても問題ないように思う。ハイデガー風に言えば、言述行為によって言葉を言葉として使用しうる存在こそが現存在(人間)である、ということになろう。
ただし、現実には公の席で「幅広く募っているが、募集はしていない」と声高に発する人間がいる。一見言述行為らしくは見えるのだが、〈声〉が言葉の意味を獲得していない。ただの音である。さすれば、人間のように見える彼は「現存在」ではない、と結論するしかない。
一冊のアガンベンの読書が、こんなささやかな皮肉にしか結果しないというのは、いかにもつまらないのだが………。
勾当台公園から一番町へ。(2020/1/31 18:17~18:45)
勾当台公園に向かう道がしっかりと濡れている。降ってはいないのだが、歩道の一部に水たまりができているところもある。雨の降ったことにまったく気づかなかった。
野外音楽堂に着くと屋根のあるステージの上で集会が始まっていた。ベンチが濡れていることもあったが、そのころになるとだいぶ冷え込みが始まっていた。わずかな風が吹いても頬のあたりがとても冷たく感じるのだった。
集会の写真を1、2枚撮ったらもうデモに出発する時間となった。25人のデモは表小路を一番町に向かった。
一番町に入ってすぐ、旧知の人がデモの列に加わった。5年ほど前に仕事の関係で仙台を離れた人である。
「ちょっと時間が空いて、デモに出られると思って……」
仙台在住のころ東日本大震災の被害地でボランティア活動を立ち上げ、後を継いだ若い人も最近仙台を離れたが、たまたま時間が合って明日一緒にその被災地を訪れるというのである。
一番町。(2020/1/31 18:46~18:57)
広島高裁によって伊方原発3号機の運転差し止めの決定を受けた四国電力は、ほんとうに原発を運転できる能力があるのか、そんな強い疑念を抱かせるニュースが続いている。
伊方原発3号機は12月26日から運転を止めた状態で二週間の定期点検に入っていた(運転差し止め決定で運転休止状態は続いている)。その定期点検作業中に考えられないほどの重大な作業ミスを犯している。
第1の重大ミスは、1月12日、四国電力は定期検査中の伊方原発3号機(同県伊方町)で、MOX燃料を含む核燃料を引き抜く際に制御棒1体を誤って引き抜いたと発表した( 1月12日付け毎日新聞電子版
)。しかも、核燃料体と一緒に制御棒を引き上げてしまったことをセンサーでは検出できず、引き抜いてから7時間ほど後に目視で発見したというのである。
中性子をよく吸収する制御棒は、核分裂の連鎖反応をコントロールする重要な役割を果たす。原爆と原発の違いは、制御棒のあるなしだけと言っても過言ではない。自発的に核分裂の連鎖反応が生じてしまう核燃料物質(ウラニウムやプルトニウム)の量を臨界量という。臨界量以上の核物質を臨界量以下のいくつかに分離しておき、瞬間的に一か所に集めると核分裂の連鎖反応が爆発的に生じる。これが原爆である。連鎖反応を引き起こす中性子を吸収する制御棒を臨界量以上の核燃料体の中に入れておけば連鎖反応は抑えられる。この制御棒を少しずつ引き抜いて臨界ギリギリの状態を維持するのが原発である。したがって、この制御棒が間違って引き抜かれてしまえば、物理的には原発は原爆と変わらない状態となる。
もちろん、原子炉は多数の核燃料体とそれに見合う多数の制御棒から成っていて、制御棒1体を引き抜いてもただちに暴走するわけではない。しかし、1体の制御棒が引き抜かれたことを検出できないシステムがもっと多数の制御棒が引き抜かれたことを検出できる保証はない。誤って引き抜かれた制御棒の数によっては、目視で発見する7時間の間に連鎖反応の臨界を超えてしまう可能性がある。その先に何が起きるかは、想像するだに恐ろしい。
第2の重大ミスは、1月20日に起きた。やはり、使用済み燃料プールから燃料集合体をクレーンでつり上げて点検用ラックに挿入する際、誤ってラックの枠に接触させてしまったのである( 1月20日付け毎日新聞電子版
)。そのとき、燃料集合体が落下を検出したという誤った信号が発せられたという。
一見、結果オーライのようだが、第1のミスと同様重要な問題をはらんでいる。機会や装置を設計するとき、「フールプルーフ」という考え方をする。無知(フール)な人間が操作を間違えても、危険が生じないように設計するという考えである。また「フェールセーフ」という設計原則もある。人間の誤操作ばかりではなく、装置自体の誤作動が発生しても常に安全側に制御できるようにしておくという考えである。
上の二つの重大事故はともに人間のミスで発生した。ところが、ミスが発生したとき安全性を確保するために設計されたはずのセンサーが働かない(第1の事故)、あるいは逆の信号を発した(第2の事故)のである。人間のミスと装置のミスが二重に発生していて、伊方原発3号機は「フールプルーフ」や「フェールセーフ」が実現されておらず、じつに危険なシステムと言わざるを得ない。
第3の重大事故は、一時的な全電源喪失事故である( 1月26日付け中日新聞電子
版)。東電1F事故が全電源喪失で生じたことを考えれば、どれほど深刻な事故であるかが分かるだろう。東電1Fでは補助電源も津波で使えなくなっていたが、さいわい伊方原発では補助電源が働いたので短時間で回復した。何よりも定期点検中であったことも幸いした。
この事故も、補助電源が働いたのだから安全性は十分というわけにはいかない。本来、原発は電源喪失を避けるため複数の送電系統から受電するようになっている。一系統からの受電ができなくても、残りの電源が働くはずのものである。じっさいに伊方原発は3系統から受電しているにもかかわらず、その内の18万7千V系統からの受電ができなかっただけで全停電が生じてしまったのだ。あきらかに3系統から受電した後の伊方原発内の電力システムに致命的な欠点があると考えられるのである。
伊方原発は、これらの1月中の事故だけでもでスリーアウトである。それに加えて、広島高裁による運転差し止めの決定が出され、こちらはもうレッドカードと言っていい。いい加減に諦めた方が身のためだ、と思うのは私のギリギリの親切心である。
青葉通り。(2020/1/31 19:02~19:06)
一番町でデモに加わった知人か挨拶されたとき、ちょっとの間、顔が分からなくて戸惑った。暗くなった時ばかりではなく陽が射す日中も出会った人が誰か分からない時がある。右目に白内障が出てきたのである。その右目が利き目らしく、見えにくい目で見ようとしていると、眼鏡屋さんが教えてくれた。
1年ほど前から症状は出ていたが、軽度なので放っておいた。かろうじて免許更新はクリアしたが、もう限度だろうと3月に手術をすることにした。そう決めてしまうと、もう今は手術後が楽しみなのである。
きっと、世界はもっと美しく見え出すだろうし、ファインダーを覗く眼も確かなものになるだろう、なんてね………。
「3月17日 脱原発みやぎ金曜デモ」 学術… 2023.03.18 コメント(5)
「2月17日 脱原発みやぎ金曜デモ」 規制… 2023.02.17 コメント(6)
「1月20日 脱原発みやぎ金曜デモ」 法理… 2023.01.20 コメント(6)