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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2012.01.11
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 僧良寛は、僧侶でありながら寺に住まず、経をよまず、弟子をとらず、野山で庶民の子らと手毬つきやかくれんぼをして、妻子もなく孤独な詩作三昧の暮らしぶりであったといいます。

 ”良寛を歩く ”(1990年12月 集英社刊 水上 勉著)を読みました。

 子どもらと戯れ、詩作三昧に暮らし、一所不在行雲流水を生きた良寛の足跡を歩く文学紀行です。

 水上 勉さんは、1919年に福井県大飯郡本郷村で生まれ、旧制花園中学校を卒業し、1937年に立命館大学文学部国文科を中退しました。

 9歳の時に京都の臨済宗寺院相国寺塔頭、瑞春院に小僧として修行に出され厳しさのため出奔しましたが、その後、連れ戻されて等持院に移り、10代で禅寺を出たのち、様々な職業を遍歴しながら小説を書いたり会社経営をしたりしました。

 会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚など、家庭的にも恵まれないことが多かったようです。

 2004年に肺炎の為、長野県東御市で亡くなりました。

 本書は、禅僧として雲水を生きた良寛ゆかりの地、木崎、分水町、出雲崎、備中玉島、京都、寺泊、郷本、野積、和島村に良寛和尚の足跡をたずねて歩いたときの記録ですが、最初は、群馬県新田町の木崎宿から始まっています。

 新田町は、新田義貞が鎌倉幕府倒幕のために挙兵した生品神社のある町で、木崎は中山道の宿場町です。



 その没年から数えると、娘たちは幼いときに良寛様とまりつきをして遊んだ童女たちであった可能性があると考えられるそうです。

 娘たちの平均死亡年齢は数え年20歳そこそこで、一番若い娘は12歳でした。

 幼いころ、越後で良寛と手毬唄を歌い、遊んだ娘もいたかもしれません。

 遥かな故郷を思い、良寛と遊んだ日々を思い、涙してこの地で果てていったのはないでしょうか。

 そこで、娘たちの里である地蔵堂町、いまの分水町を訪ねます。

 そして、良寛のひととなりを知ろうと、生まれてから22歳まで育った出雲崎を訪ね、次に、得度剃髪して良寛と称し修行した備中玉島円通寺を訪ね、次に、諸国行脚ののち、父以南が桂川で入水し77日法要を行った京都を訪ね、次に、38歳で越後に戻り糸魚川の円明院で病臥したあと、39歳で仮住まいした郷本を訪ね、次に、40歳から住んだ国上山五合庵を訪ね、次に、59歳から住んだ杉木立の乙子神社庵を訪ね、46歳のとき一時住んだ詩人たちの里、野積村の西生寺を訪ね、次に、墨書で乞食した分水町に戻り、次に、遷化の地である和島村島崎の木村元右衛門家を訪ね、最後に、74歳で亡くなり埋葬された隆泉寺木村家の墓を訪ねています。

 うらを見せおもてをみせてちるもみぢ






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Last updated  2012.01.11 19:20:33
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