一も二もなく同意です。まあ、しかし、この決意が挫けそうになることもしばしばで。

>なにごとも、問題の所在を認識しているのならまだいいのですが、

はい。問題はここですね。私の先ほどの不信表明はここに関わってくるのですが、この「問題の所在の認識」がなかなかに難しく「語りえぬもの」なんだと考えているんですね。問題意識が同じなら表現に用いられる言葉もだいたい同じところを指し示しますから、相互理解はさほど難しくないのですが、問題意識が共有できていないと、「議論」はたいてい不毛に終わるようです。

そういう時にはやはり「対話」でないと、というのが私の考えですが、ここで問題意識が共有できているかどうかは、はなはだ心許ないです。 (2008.05.11 17:40:36)

遠方からの手紙

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カテゴリ: ネット論

 恥を忍んで告白すると、実は先日某所で 「上から目線」 と言われてしまったのである。もちろん、こちらにはそんなつもりはまったくなかったのだが (とはいえ、そういう言葉が返ってくるかも、という予感はあったのだが)。

 ことのきっかけは、あるひとがあるブログ記事につけていた、「私は権力は批判しますが 一般市民は批判しません! 」 という言葉について、いささか批判的なことを書いて送ったことにある。

 それが誰の言葉であるかなどは、どうでもよいことなのでここでは言及しない。問題なのは、そのような言葉がなにを意味するのかということである。ところが、その人はなにをどう勘違いしたのか、これは 「上から目線だ!」、「自分の存在を否定するな!」 というような言葉で吼えまくってきたのである。

 で、こちらとしては、ただもう、あぜーん、ぽかーんとするしかなかったのであった。

 そもそも、その最初の言葉は、「権力」 ではなく 「一般市民」(ブロガー)に対する批判的な言及と考察を続けている人 (参照) への明らかなあてつけであった。だから、そういう考え方はおかしいのではないかということを、指摘したにすぎないのである。

 つまり、そこには、その発言をした人個人に対する攻撃のようなものは、いっさい含まれていないのだ (と自分では思っているのだが、どうもその人やその周辺にとってはそうではなかったらしい)。

 人の感じ方というのはむろんそれぞれであるから、こればっかりはしょうがない。だが、そのような人が、日頃から他人への 「思いやり」 だとか、「やさしさ」 みたいなものを大事にしているというのだから、当方としては目が点になる。

 どうやら、そのような人にとっては、「寛容」 とか 「優しさ」 とかいうものは、相手から自分に対して一方的に与えられるべきものなのであって、自分から相手に与えるというものではないようである。

 「多様な価値観の尊重」 だとか 「多様な意見の尊重」 だとかいう言葉にしても同じことだ。

 そういった言葉を日頃から掲げている人たちは、であるなら、お仲間どうしでの似たり寄ったりの言葉ではなく、自分たちとは違う視点や問題意識によって発言を続けている外部の人の言葉をこそ尊重すべきだろう。でなければ、「意見の多様性」 などという、ご立派な言葉をわざわざ言い立てる意味があるまい。

 どれも同じようなことを書いた記事を仲間内でトラックバックしあい、「うんうん、私もそう思う」 とか、「××さん、がんばって」、「××さん、負けないで」 というような 「中学生の応援団長でも滅多に口にしない、歯の浮くようなこと」 (「連赤」 事件の報を聞いた重信房子がアラブから寄せた 「隊伍を整えなさい」 という文章を評して、吉本隆明が言った言葉) を互いに言い合っていることに、いったいどれだけの意味があるのか。

 いささか 「上から目線」 で言わせてもらえば、よりよい社会を目指して、「政治批判」 を主題にした言論を続けるというのなら、まずそのようなお互いのもたれあいや馴れ合い、ちょっと批判を受けるとすぐに 「上から目線」 だのと言って喚きだす惰弱な精神、さらには議論すること自体を嫌う怠惰な心性を克服し、「政治批判」 をする主体としての自己を確立することのほうが先ではないのか。

 たとえば、正月の 「水伝」 騒動で、いったんは 「××に連帯します」だの 「××と共闘します」 だのというカッコいいスローガンをぶちあげた一部の 「政治」 ブロガー諸氏は、その後、形勢が不利になったとみるや、いっさい口をつぐんで知らんふりをし、まるで何事もなかったかのような顔をして、日々、新たな記事の更新に勤しんでいる。これが、いったい 「頽廃」 であり 「不実」 でなくてなんなのだろうか。 (参照)

 そういう 「政治」 ブロガー諸氏の中身のない空疎な言動は、見ている人はちゃんと見ているのであり、そのような無節操な彼らの行動こそが、その言動に対する一般からの信頼を損ねているのではないか。いつの世にも、真の 「敗北」 というものは、他者や対立する相手などからではなく、みずからの思想と行動が招くものなのだ。

 「寛容」 とか 「優しさ」 などという言葉をふだんは口にしながら、いったん他者から批判的な言及をされるや、頭に血が上り、見当違いのつまらぬ罵倒しかできぬような人らのいったいどこが 「寛容」 であり、「優しい」 のか。いささか狭量な人間である小生には、まったく理解できぬのである。

 そもそも耳に心地よい言葉ばかりを言う人と、耳に痛い言葉を言う人と、どちらが信頼に値する人なのか。子供でもないのに、そんな簡単なことも分からない人が大勢いるということは、なんというかとても悲しいことである。

 「多様な価値観」 とか 「意見はひとそれぞれ」 というような言葉で、たがいに議論しあうことを回避し、あるいは議論を封殺しようとする人たち。

 また他人に対する「批判」は、相手を傷つけるからよくないなどと言っている人たち(本当は自分が傷つくのが怖いだけではないのか)。

 こういう怯惰な精神は、結局は、議論をつうじて困難な問題を解決するという人間の能力と理性に対する不信を表明しているのと同じことではないのだろうか。






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Last updated  2008.05.11 02:49:36
コメント(12) | コメントを書く


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歴史は終焉する  
nagonagu さん
かつさん、日記で何名かの方とやりとりをして、「多様な価値観の尊重」の濫用は、歴史を終焉させるという仮説に辿りついてしまいました。
かつさん(おそらく私も含まれている)の言説に対して「上から目線」と批判する方々の政治批判は、実は現状を固定化し歴史を終焉させる役割を担っている。…う~ん、いささか疲れているので、今日はもう酒飲んで寝ます(笑)。 (2008.05.10 23:31:02)

Re:歴史は終焉する(05/10)  
かつ7416  さん
nagonaguさん
思想的には、ポストモダニズム的相対主義(でいいのかな)、「優しさ」や「共感」指向のニューエイジ、過去の苦い経験による素朴実感主義への退化、それになにより日本古来のゆかしき伝統である「和」の精神、とまあこういったところでしょうか。

「多様な価値観の尊重」→私の価値観を尊重して→私の考えは変えないわよ!

まったくそのとおり
(2008.05.11 02:34:57)

価値観  
南郷力丸 さん
 多様な価値観の尊重は大切ですよ。問題は価値観の相違じゃなく、事実認識の「相違」や論理の「相違」なのに価値観の相違っていうヒトが多くて。価値観がどう違うのかにも辿り着けないケースが多いものでして。
 ちなみに「批判」という言葉も、ヒトによって解釈が違うということに最近、気付きました。 (2008.05.11 06:44:00)

不信を表明します(笑)  
愚樵 さん
かつさん、こんにちは。

>結局は、議論をつうじて困難な問題を解決するという人間の能力と理性に対する不信を表明しているのと同じことではないのだろうか。

タイトルの通りです。冗談ではなく。

この「議論」ってやつがどこまでを指すかってのが今ひとつはっきりしませんが、「語りえるもの」だけを取り上げた議論では問題を解決することは不可能だ、と考えていることは表明しておきます。

http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-133.html (2008.05.11 09:16:25)

対談と紙上での議論  
まろ0301  さん
 対談で面白いのは、相手を持ち上げたりご機嫌を伺ったりする種類のものではなく丁々発止のやり取りであります。意見が食い違って火花の散るような。でもあれは、活字になる段階で編集されるんだ、と聞いたこともあります。
 ブログでの意見のぶつかり合いは、双方が「自分たちは何を議論の中心にすえているのか」という自覚を強く持ち、自制心を働かせないとたいていの場合、罵倒に終始し不毛に終わります。
 自らの間違いを認め、相手から学ぶという姿勢も欠かせません。
 「多様な価値観の尊重」ということと、「議論・批判を回避する」事とはイコールではありません。
 一つだけ例を挙げますと、「児童ポルノいいじゃないか」と主張している人が、批判に対して「多様な価値観の尊重」を看板に掲げていて、驚倒した事があります。
 「愛国心はならず者が逃げ込む場所」という言葉がありますが、「多様な価値観の尊重」は、一歩間違うとそれに近くなりかねない危うさを持っています。
 ちなみに、身長175cmのワタクシは、身長160cmの妻から、「あなたは私に対して常に上から目線だ」と言われております。 (2008.05.11 10:29:15)

Re:価値観(05/10)  
かつ7416  さん
南郷力丸さん
言葉の「定義」というのは難しいものです。
同じ言葉を使っていても、じつは互いに意味しているものが違う。
少なくともその言葉を使っている本人が明確にその意味を意識しているのならともかく、それすら明瞭でない場合も多いので、さらに話が通じません。場面場面によって、同じ言葉の意味が変ることすらあるわけで。

> ちなみに「批判」という言葉も、ヒトによって解釈が違うということに最近、気付きました。

ええ、「批判」という言葉は、どうもそれだけで反発を呼び起こすネガティブなイメージがあるようですね。
「批判」とは「攻撃」を意味するものではないということは、再三指摘しているのですけど。
(2008.05.11 12:44:20)

Re:不信を表明します(笑)(05/10)  
かつ7416  さん
愚樵さん
「議論をつうじて困難な問題を解決するという人間の能力と理性」

これは、いうまでもないことですが選択であり決意なのです。
当然、話し合いですべてが解決できるなら、世の中争いもなにもないはずで、そうはいかぬというのも現実であります。

なにごとも、問題の所在を認識しているのならまだいいのですが、やっかいなのは自分がなにを言っているのか、自分の言葉がなにを意味するのか、そのことをじゅうぶんに自覚していない人が多いということです。
自覚は「歯止め」になりますが、無自覚は歯止めになりませんから。

そちらはあとで訪問します。
その前に、瀬戸さんのほうも読んでおかないと。
(2008.05.11 13:17:56)

Re:対談と紙上での議論(05/10)  
かつ7416  さん
まろ0301さん
どんな立派な言葉もただの「スローガン」化すると、反対の意味を有するようになります。
これは、いつの時代にも繰り返されてきたことですね。

> 「愛国心はならず者が逃げ込む場所」という言葉がありますが、「多様な価値観の尊重」は、一歩間違うとそれに近くなりかねない危うさを持っています。

「対話」や「議論」の拒否、私のことはほっといてよーということですね。

> ちなみに、身長175cmのワタクシは、身長160cmの妻から、「あなたは私に対して常に上から目線だ」と言われております。
-----
おお、お二人とも世代的には結構大柄なのですね。
うちはどちらももっと低めです。
(2008.05.11 13:28:57)

隊伍を整えなさい  
ケン さん


「引用」が時として有効であり必要不可欠であることは当然です。それは説得したり証明したり、楽しませたり飾り立てることも出来ますから。論者が自説を中断して退き、より偉大な著名な他の論者に発言してもらえば、自説がたしかに権威づけられる。しかし反面こういったやり方には不純な面も現れやすくなります。論を文学的装飾で、論そのものの弱点を援助してしまうやり方、つまり引用を狡猾な武器として使ってしまう、という弱点を。
今回の「引用」の問題点は水伝騒動という小世界に、68~72年のスガ秀美が言うところの、情勢としての世界革命情況の、あるリアルな「革命家」の発言をを覆い被せたところにあると思います。両者の関連づけられる問題の質の幅が大きくずれていると思いますが。
(2008.05.11 15:40:05)

Re:隊伍を整えなさい(05/10)  
かつ7416  さん
ケンさん
どうもこんにちは
直接引用したのは、重信の文を批評した吉本の言葉であります。
重信の文章自体は直接ここの問題には関係ないので別頁に記載しておきました。連合赤軍の話もいろいろと話題になっておりますので、吉本の言葉の文脈も示しておいた方がよいかなと思いまして。

>今回の「引用」の問題点は水伝騒動という小世界に、68~72年のスガ秀美が言うところの、情勢としての世界革命情況の、あるリアルな「革命家」の発言をを覆い被せたところにあると思います。両者の関連づけられる問題の質の幅が大きくずれていると思いますが。
-----
スガ秀美という人は名前しか知らないのでなんですが、「情勢としての世界革命情況」というのがそもそも大きな勘違いであり、そのような妄想的情況認識が「連赤」の悲劇を生んだ要因の一つだったのではないでしょうか。
(2008.05.11 16:16:05)

決意ということなら  
愚樵 さん

Re:決意ということなら(05/10)  
かつ7416  さん
愚樵さん
「信頼する」ということは、つねに「選択」に基づく意志的行為なのです。
数学の公式や定理を信頼する人はいません。なぜなら、それらは論理的に証明された「真理」だからです。
それに対し、人間の理性の力というものは、証明されるものではありません。
なので、そのような「信頼」とは、ある意味で同時に「不信」の可能性をも含むものということは言えると思います。
(2008.05.11 23:33:17)

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