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七詩さんComments
恥を忍んで告白すると、実は先日某所で 「上から目線」 と言われてしまったのである。もちろん、こちらにはそんなつもりはまったくなかったのだが (とはいえ、そういう言葉が返ってくるかも、という予感はあったのだが)。
ことのきっかけは、あるひとがあるブログ記事につけていた、「私は権力は批判しますが 一般市民は批判しません! 」 という言葉について、いささか批判的なことを書いて送ったことにある。
それが誰の言葉であるかなどは、どうでもよいことなのでここでは言及しない。問題なのは、そのような言葉がなにを意味するのかということである。ところが、その人はなにをどう勘違いしたのか、これは 「上から目線だ!」、「自分の存在を否定するな!」 というような言葉で吼えまくってきたのである。
で、こちらとしては、ただもう、あぜーん、ぽかーんとするしかなかったのであった。
そもそも、その最初の言葉は、「権力」 ではなく 「一般市民」(ブロガー)に対する批判的な言及と考察を続けている人 (参照)
への明らかなあてつけであった。だから、そういう考え方はおかしいのではないかということを、指摘したにすぎないのである。
つまり、そこには、その発言をした人個人に対する攻撃のようなものは、いっさい含まれていないのだ (と自分では思っているのだが、どうもその人やその周辺にとってはそうではなかったらしい)。
人の感じ方というのはむろんそれぞれであるから、こればっかりはしょうがない。だが、そのような人が、日頃から他人への 「思いやり」 だとか、「やさしさ」 みたいなものを大事にしているというのだから、当方としては目が点になる。
どうやら、そのような人にとっては、「寛容」 とか 「優しさ」 とかいうものは、相手から自分に対して一方的に与えられるべきものなのであって、自分から相手に与えるというものではないようである。
「多様な価値観の尊重」 だとか 「多様な意見の尊重」 だとかいう言葉にしても同じことだ。
そういった言葉を日頃から掲げている人たちは、であるなら、お仲間どうしでの似たり寄ったりの言葉ではなく、自分たちとは違う視点や問題意識によって発言を続けている外部の人の言葉をこそ尊重すべきだろう。でなければ、「意見の多様性」 などという、ご立派な言葉をわざわざ言い立てる意味があるまい。
どれも同じようなことを書いた記事を仲間内でトラックバックしあい、「うんうん、私もそう思う」 とか、「××さん、がんばって」、「××さん、負けないで」 というような 「中学生の応援団長でも滅多に口にしない、歯の浮くようなこと」 「隊伍を整えなさい」 という文章を評して、吉本隆明が言った言葉) を互いに言い合っていることに、いったいどれだけの意味があるのか。
いささか 「上から目線」 で言わせてもらえば、よりよい社会を目指して、「政治批判」 を主題にした言論を続けるというのなら、まずそのようなお互いのもたれあいや馴れ合い、ちょっと批判を受けるとすぐに 「上から目線」 だのと言って喚きだす惰弱な精神、さらには議論すること自体を嫌う怠惰な心性を克服し、「政治批判」 をする主体としての自己を確立することのほうが先ではないのか。
たとえば、正月の 「水伝」 騒動で、いったんは 「××に連帯します」だの 「××と共闘します」 だのというカッコいいスローガンをぶちあげた一部の 「政治」 ブロガー諸氏は、その後、形勢が不利になったとみるや、いっさい口をつぐんで知らんふりをし、まるで何事もなかったかのような顔をして、日々、新たな記事の更新に勤しんでいる。これが、いったい 「頽廃」 であり 「不実」 でなくてなんなのだろうか。 (参照)
そういう 「政治」 ブロガー諸氏の中身のない空疎な言動は、見ている人はちゃんと見ているのであり、そのような無節操な彼らの行動こそが、その言動に対する一般からの信頼を損ねているのではないか。いつの世にも、真の 「敗北」 というものは、他者や対立する相手などからではなく、みずからの思想と行動が招くものなのだ。
「寛容」 とか 「優しさ」 などという言葉をふだんは口にしながら、いったん他者から批判的な言及をされるや、頭に血が上り、見当違いのつまらぬ罵倒しかできぬような人らのいったいどこが 「寛容」 であり、「優しい」 のか。いささか狭量な人間である小生には、まったく理解できぬのである。
そもそも耳に心地よい言葉ばかりを言う人と、耳に痛い言葉を言う人と、どちらが信頼に値する人なのか。子供でもないのに、そんな簡単なことも分からない人が大勢いるということは、なんというかとても悲しいことである。
「多様な価値観」 とか 「意見はひとそれぞれ」 というような言葉で、たがいに議論しあうことを回避し、あるいは議論を封殺しようとする人たち。
また他人に対する「批判」は、相手を傷つけるからよくないなどと言っている人たち(本当は自分が傷つくのが怖いだけではないのか)。
こういう怯惰な精神は、結局は、議論をつうじて困難な問題を解決するという人間の能力と理性に対する不信を表明しているのと同じことではないのだろうか。
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