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下に挙げる二つの絵画は似ている。 何をきっかけにしてこれらの類似に気付いたのか、全く記憶にない。海老原喜之助「姉妹ねむる」1927 東京国立近代美術館 2016年05月10日(火)撮影ペーテル・パウル・ルーベンス「眠る二人の子供」1612-1613頃国立西洋美術館2016年09月27日(火)撮影
2016.09.28
アンスティチュ・フランセ東京にてR.先生の講義。ロラン・バルトRoland Barthes『表徴の帝国 L'empire des signes』。9回シリーズの第6回。◆このメモをご覧になる方へ◆ 講義や作品に直接関係のないメモも時折含まれます。あまり参考にしない方が良いかもしれません。 10番目の断片「Sans adresses 住所なし」11番目の断片「La gare 駅」12番目の断片「Les paquets 包み」が題材となる。R.先生の解説によれば、上記の3断片では、日本の“遠心”性が強調されているようだ。自分なりに要約してみる。・「Sans adresses 住所なし」;日本の番地表記、特に東京のそれは、世界の主要都市にあるような一定の法則に従っていない。・「La gare 駅」;日本では、主要な駅に大型商業施設が隣接し市街の中心となる。アクセスしやすい、外に向かって開かれた構造である。一方で西洋の都市は、市街の中心部と駅とがお互いの目的を固持して独立しており、内向的である。・「Les paquets 包み」;日本の包みは、意味を持たされている。時として内容物以上の意味を負う。さらに包みだけが意味を持つ場合さえある。 第6回の講義を終えて、物事の表皮を鋭利な刃物を使いながら薄く薄く剥ぎ取っていくような、そんな印象を強く受ける次第。
2015.05.27
アンスティチュ・フランセ東京にてR.先生の講義。ロラン・バルトRoland Barthes『表徴の帝国 L'empire des signes』。9回シリーズの第5回。◆このメモをご覧になる方へ◆ 講義や作品に直接関係のないメモも時折含まれます。あまり参考にしない方が良いかもしれません。 この日は、5番目の断片「Baguettes お箸」と6番目の断片「La nourriture decentree 非中心型の食べ物」7番目の断片「L'interstice 隙間」が題材となる。前週に引き続き、日本料理のことを記している。各断片それぞれに、米食、すき焼き、天ぷら、とテーマらしきものが見られる。 相変わらず難しい…しかし、何となくロラン・バルトの記述=エクリチュール ecriture の意義が把握できてきたような感触がある。その感触自体をうまく説明できないのがもどかしいところだが、ロラン・バルトと対極とも言えそうな、ある人物とその著書を比較対象にすれば、足がかりになりそうだ。 手もとに、日本のフランス料理研究家・辻静雄が著した『ヨーロッパ一等旅行』がある。1984年の新潮文庫版だが、元は1977年に出版された書籍だったらしい。 辻はフランス料理に精通しており、それを細かく描写して日本人へ伝達しようとしている。材料、調理方法、料理人、さらにサービスの仕方など、料理に関するあらゆる歴史的根源を追って、膨大な外国語の文献を自ら読み解いてもいるようだ。 一方で、『表徴の~』のロラン・バルトは…。訪日の経験は一切なく、予備知識も完全にゼロ。目の前に出てきた日本の料理から受けた感覚を、サラリと書き留めている。
2015.05.21
C.C.さんによる『RAKUGOを世界へ』。全5回シリーズの第3回。テーマは「RAKUGO世界から来た日常生活の日本語」。【要点メモ】 前回=第2回の補足で二葉亭四迷について。続いて落語の用語について。「真打・二ツ目・前座」「寄席」「高座」「色物」などについて解説。【所感】 外国人のC.C.さんから日本の近代文学や落語に関する解説。それを拝聴する我々日本人。逆輸入とは、まさにこのことか。
2015.05.21
アンスティチュ・フランセ東京にてR.先生の講義。ロラン・バルトRoland Barthes『表徴の帝国 L'empire des signes』。9回シリーズの第4回。◆このメモをご覧になる方へ◆ 講義や作品に直接関係のないメモも時折含まれます。あまり参考にしない方が良いかもしれません。 『表徴の~』を読むことは、かなり難しい。恐らく、R.先生の解説がなければ、全く理解できないだろうと思われる。 この日は、3番目の断片「Sans paroles 言葉を発せず」と4番目の断片「L'eau et le flocon 水とかけら」が題材となる。前者は、日本人同士のコミュニケーションにおいて“しぐさ”が大きなウエイトを占めていることに言及しているようだ。後者は、日本料理の“お膳”には、多数の細かい料理が並んでいて、そこから自由に選択をして好きな順番で食べる…という形式について述べているらしい。 次回以降も難しいのだろう…
2015.05.13
C.C.さんによる『RAKUGOを世界へ』。全5回シリーズの第2回。テーマは「RAKUGOと日本近代文学~二葉亭四迷の言文一致運動への影響~」。【要点メモ】 今日の私たちが“落語”としているのは、もともとは口承の“はなし(=咄・噺)”であった(井原西鶴の『武道伝来記』に“おとしばなし”が初出)。明治時代の和製漢語ブームで発生した“落語”という言葉に落ち着いた。 遡れば、“はなし”は説話文学として古くから存在しており、『沙石集』や『今昔物語集』のように落語の源泉になっているものもある。最も代表的な例は、中国の明代の説話集『剪灯新話』を下敷きにした、三遊亭圓朝の『怪談牡丹灯籠』であろう。 この圓朝の『怪談牡丹灯籠』は、田鎖綱紀が確立した日本語の速記術によって文字化され、出版された。そこへ目を付けたのが、坪内逍遙や二葉亭四迷であった。四迷の小説『浮雲』には、圓朝の『怪談牡丹灯籠』の強い影響が見られる。
2015.05.07
アンスティチュ・フランセ東京にてR.先生の講義。ロラン・バルトRoland Barthes『表徴の帝国 L'empire des signes』。9回シリーズの第3回。◆このメモをご覧になる方へ◆ 講義や作品に直接関係のないメモも時折含まれます。あまり参考にしない方が良いかもしれません。 R.先生の解説に「脱構築 deconstruction」という言葉が何度か出てきた。『表徴の~』を読み解くために、重要なのだろうと感じた。浅学な自分に、「脱構築」を理解できるだろうか?はなはだ不安ではある。とはいえ、強引に解釈してみよう。 言語の持つ論理性・社会性・知性により、我々の社会には規範が芽生える。言語の積み重ねは、権威を持ち、社会を統治・支配する。 しかし、その規範と統治・支配は、時として罠にもなりうる。実際、人間は常に絶対的な進化をしているわけではない。例えば、我々は20世紀に2度の世界大戦を経験している。積み重ねた言葉のもとでも、過ちは起こりうるのだ。そこからの脱却が、必要ではなかろうか。 …どうだろう?今後も良く考えてみよう。恐らくは、バルトの記号学と密接な関わりがあるだろうから。
2015.04.29
アンスティチュ・フランセ東京にてR.先生の講義。ロラン・バルトRoland Barthes『表徴の帝国 L'empire des signes』。9回シリーズの第2回。◆このメモをご覧になる方へ◆ 講義や作品に直接関係のないメモも時折含まれます。あまり参考にしない方が良いかもしれません。 『表徴の帝国』を、私たち日本人が理解することは、可能なのだろうか。 バルトは来日時、日本のことを何も知らなかったそうである。『表徴の~』は、旅行記ではない。初見の印象をバルトの“記号論”でまとめたもので、日本人向けにも書かれていない。 日本人が介在しない環境で書かれた日本に関する書物を、私たち日本人が読む。私たちは、そこに誤りを少なからず見付けるだろう。「これは違う。この人は日本を知らない。」そう言って見識のないことを指摘し、満足するかもしれない。 しかしながら、書物の筆者は、誤りかもしれないが一つの認識を持ったのは確かなのである。その認識は、何なのだろうか?こう考えられるだけの、言わば知的余裕が、私たちにあるだろうか。 堀田善衛の書いた『インドで考えたこと』という本を読んだことがある。インドに滞在した際のことを記しているのだが、少なくとも旅行記ではなかったはずだ。 もしかすると『表徴の~』に近いものがあるのでは?と思い、自宅の本棚を探してみた。ない。どこかへ行ってしまったようだ。
2015.04.21
明治大学リバティアカデミー中野キャンパス講座。C.C.さんによる『RAKUGOを世界へ』。全5回シリーズの第1回。 C.C.さんの自己紹介からスタートし、フランスのアヴィニョン演劇祭での口演に関する話など。 C.C.さんは、フランス国立東洋言語文化研究所(Institut national des langues et civilisations orientales 略称:INALCO=イナルコ)ご出身。ご在学中のイナルコでは、フランソワ・ミッテラン大統領の日本語通訳も務めたジャン・ジャック・オリガスや、川端康成の仏訳で知られた藤森文吉らが教鞭を執っていた。 自分自身は落語のことをほとんど知らない。この機会に、少し勉強できればと思う。 C.C.さんが所有している落語に関する研究書籍『La parole comme art』について調べているうちに、著者のアンヌ・バイヤール・坂井という人を知る。2009年に講談社主催の野間文芸翻訳賞を受賞しているようだ。 講義の中で、民俗学のことが出てきた。C.C.さんと一緒に仏語落語を行なっているS.F.さんは、コント conte(=口承説話文学)の研究者とのこと。ふと柳田国男『遠野物語』を思い出した。
2015.04.20
アンスティチュ・フランセ東京にてR.先生の講義。ロラン・バルト Roland Barthes『表徴の帝国 L'empire des signes』第1回。 講義で使用するテキストは『L'empire des signes』Editions du Seuil 2005, 2007 pour la presente edition。◆このメモをご覧になる方へ◆ 講義や作品に直接関係のないメモも時折含まれます。あまり参考にしない方が良いかもしれません。 ロラン・バルトは、1960年代後半に3回に亘り来日している。『表徴の帝国』は、その際の印象をまとめた随想録のようだ。バルトの来日には、モーリス・パンゲが深く関係している。パンゲは、東京大学の教授や東京日仏学院の院長も務めた人物である。 『表徴の~』の初版は1970年。スキラ社の「創造の小道 Les sentiers de la creation」シリーズの一巻であった。 仏語の原題『L'empier des signes』は、1976年に公開となった大島渚監督の映画『愛のコリーダ』の仏語タイトル『L'empire des sens 官能の帝国』にも影響しているらしい。
2015.04.15
辻静雄『ヨーロッパの旅』1965年 保育社カラーブックス87 2015年04月07日(火)。都内の古書店で購入。 保育社カラーブックスは、結構好きなシリーズだ。 しかし、かなり粗雑な書籍群である。誤字・脱字は、必ずある。同一の固有名詞の表記が、一冊の中でまちまちだったりする。カラー写真の多用は良いのだが、写真内容とキャプションが合致していないことがある。また、再読したくなるような読みごたえも、ほとんど感じられないと言える。印刷物が売り手市場だった時代のグラフィック誌、くらいに考えれば良いのだろう。 この『ヨーロッパの旅』にも、粗雑さはある。1933年生まれの辻静雄は、発刊時の1965年で32歳。海外旅行がまだまだ少なかった時代としては、珍しい体験をしている人物だったのだろうが、旅行経験自体はそれほど豊富でないはずである。 巻末のあとがきで、辻自身が書いている。 私もいくらか歩いてみて私なりにヨーロッパ旅行の楽しさは 満喫してきたつもりだったが、なにぶん私は食べ物のことしか 興味がないので、かえって型通りの観光旅行をする人よりも、 ものを知らないことに気がついた。私は思いきって、あるとこ ろではこまかいことがらまで書いてみたり、またあるところで は、そうした資料を一切捨てて、私の感じたことだけを書いて みることにした。 (p.153) とはいえ、その粗雑さの裏に荒削りな魅力も隠れている。 ある大学教授の二先生が、ローマで入ったバーで、シャンパン をあっという間に五本も抜かれ、二人で六〇〇ドルも請求され、 ヨーロッパ旅行のスタートで、つまずいて、あと、どこへも行 かずにローマから日本へ引き返した話も有名だが、どうしても こうした人たちは、割りに勇ましい感じがする。 (p.136~p.137) なかなかのエピソードの披露である。その2教授は、一体誰なのだろう。また、事の真偽も気になるところだ。だが、仮に単なる噂だったにしても、面白い話であることには変わりない。 書中に明記されていないが、使用写真はすべて辻自身が撮影したと思われる。旅行者らしいスナップで、好感が持てる。 実は、この本は読みごたえがあるのかもしれない。
2015.04.08
ヨコハマトリエンナーレ2014。最終日に観覧。 前職で当該展覧会に少々関わったことがある。それゆえに親しみを感じる。 ピエール・モリニエ Pierre Molinier の作品群を見た。美醜が混在している。気持ち悪い。しかし憧憬を禁じえないものがある。
2014.11.06
草野心平『わが青春の記』オリオン社 1965年 言ってみればもっと、縁の遠い人を訪ねたことがある。訪ねたというよりは拉致されたのである。大森駅近くの造花の花の咲いているミルクホール兼ビアホールみたいなところで独り飲んでいると、前から飲んでいた年輩の人に、君はなかなかいいとかなんとかおだてられたあげく、これから自分の家に一緒に行こうということになった。雪がふっていた。雪のなかを二台の人力車に分乗して出掛けたわけだが、どこへ行くのか私には見当もつかない。火の見櫓の近くで前のくるまが止まり、近くの酒屋からビールの箱をつめこみ、またくるまは歩きだした。着いた先はガランと大きいアトリエだった。机の上に「佐藤朝山様」という封書があったので、ああそうか、とわかったが、改めてききも名乗りもせずに、すぐビールにとりかかった。どの位すぎたか、もう夜ふけという時間はとっくに過ぎていた。電話で呼んでくれた人力車に乗って私は佐藤家を辞したが、まだ飲もうと言って朝山氏は雪のなかにとびだして来た。間もなくシーンとなったのは、さすがの酒豪も自分の家にもどったものらしかった。 (上掲書 p.168)
2014.05.02
自宅近くの小さな乾物屋さんへ時々行く。職場で使う食品を調達するためである。 毎回数百円程度の買い物である。 私の財布には紙幣だけ入っていることが多い。小銭ができると職場のレジに回してしまうからだ。 しばらく前のある日のこと。その乾物屋さんで例によって買い物をした。500円の品が1点。1万円札しか持ち合わせがなかった。 「すみません。大きいのしかないのですけれど。」 と申し出た。すると店のおばさんがこう返答してきた。 「ウチは商売ですからおつりは用意してあります。」 かなり高齢のおばさんである。 私は「ウチは商売ですから…」という言い方が気になった。“これだから若い人は”のようなニュアンスがあった。 こちらだって弱小ながら商売に身を投じているのである。それくらいわかっているぞ。だから何なのだ。黙っておつりを渡してくれれば済むのに。 つり銭 私は光太郎の注文で、ときおり本や薬などを買って持っていった。 光太郎は私からその金額を聞くと、いつでも必ずきちんとその金額を ととのえて出した。たとえば、はしたが何円というようなこまかな金 額でも、きちんとこしらえて出した。私の方からつり銭を出さなけれ ばならないような、そんな金の出し方は決してしなかった。 これは金銭に対してもおろそかにしない、光太郎の礼儀正しい一面 を示したものだと思う。光太郎は私から本や薬を買ったのではない、 私に用をたのんだのだ。だから私からつり銭を出させるようなことは 非礼だと考えていたのであろう。だからいつの場合でも、きちんとこ まかい金まで用意して出した。例外は一度もなかった。 (奥平英雄『晩年の高村光太郎』瑠璃書房/三彩社 1976 p.180) 過日購入し読了した書籍からの抜粋。 なるほど。私はこれを読んであのおばさんを思い出した。 先日また乾物屋さんへ買い物に行った。おばさんはいなかった。ご子息なのだろう。初老の男性がお店にいた。 いつも買っている品は500円から600円に値上がりしていた。私は黙って財布から1万円札を出した。 「はーい。ありがとーぅ。9,400円お返し。」
2014.04.10
小泉武夫『発酵 ミクロの巨人たちの神秘』中公新書939 1989年 人間は感情にともなった技法を確実に持った動物であるがゆえに、他の哺乳動物の乳を横取りして飲み、そして加工して食べる唯一の哺乳動物である。 (上掲書 p.113)
2014.03.07
もう10年ほど前だろうか。東京日仏学院の図書室で建物の写真を収めた書籍を眺めていた。アールデコ調の変わった形のホテルがあった。場所はフランス-スペイン国境近くの都市・ペルピニャンあたり。海のすぐ近くと記憶していた。 このホテルの外観が忘れられず時々思い付いてPCで検索してみた。「ペルピニャン ホテル アールデコ」「ホテル 歴史的建造物 ペルピニャン」…各種試した。日本語・仏語・英語。全くそれらしいものは見付からない。 もう消滅してしまったのだろうか?などと考えながら暇になるとまたPCに向かってボンヤリ検索してみる。相変わらず見付からない。 つい最近のことである。Googleマップでペルピニャン周辺を細かく見てみた。海岸線に沿ってストリートビューや写真をチェックする。 あ。あのホテルだ!あの特徴ある姿が出てきた。 ホテルは「Hôtel Belvédère du Rayon vert」という名前だ。日本語では「緑閃亭ホテル」とでも言えば良いのだろうか。何と現存しているらしい。 場所はセルベール。スペインと隣り合わせにあるそれほど大きくない町だ。 嬉しくなって「緑閃亭ホテル」について調べているうちに面白いラジオ番組の存在を知った。 フランス・アンテルの『Il existe un endroit』。日本語では『この地あり』とでも言えば良いのだろうか。 フランス各地の探訪記である。「東ピレネー地方セルベールの緑閃亭ホテルで」の回だけでなく他の回も大変興味深い。好きなテレビ番組『小さな旅』に通ずるものがある。 フランス語なので難しいが何度か聴いているとちょっと理解できる。 少しずつ勉強を続けてきて本当に良かったと思う。
2014.02.06
確か高等学校三年の時であった。通学の電車内で同級生のS君が私にこう言った。「おじが芥川賞を取った。」 それからしばらくして、父が私に本を一冊くれた。『ダイヤモンドダスト』。S君のおじである著者・南木佳士のサインが入っている。 開くと写真が一枚あった。ダウンジャケットを着た野暮ったい感じの男の人が一人、川原に座っている。顔はS君にちょっと似ていた。 そこから読み進めようとしたが、あまり面白くなかった。数ページ読んで、そのままにしてしまった。 私は東京の学校へ入学していた。文学部であった。 同級生S君も、同じ学校に入学していた。彼は教育学部であった。 学部は違っていたが、時折遭遇することがあった。彼は体育会のスキー部に入っていて、いつも学ランを着ていた記憶がある。 学校を卒業して、就職した頃のことだったと思う。 実家に帰って父と話していると、S君の話題になった。「医者を目指してどこかの医学部に学士入学したらしいぞ」。S君のお父さんと私の父とは、知人なのである。 それからしばらく時間は経過する。十年ほど後のことだろうか。ある映画に興味を持った。 『阿弥陀堂だより』。原作者が、南木佳士である。 何だかとても懐かしい気分になり、映画館へ行った。とても面白かった。 南木の著作を買って読んだ。どれも面白い。いや。面白い、と言うのではない。肌に合う、と言うのが良いのだろうか。 『ダイヤモンドダスト』も、再読した。もちろん、全部読んだ。あぁ、これはこういうことだったのか。これじゃ、ティーンエイジャーにはわからないよな、などと感じたりした。 南木の著作の中で、一冊だけ性質が異なる本がある。 『信州に上医あり ―若月俊一と佐久病院―』岩波新書 1994。 南木自身もこのあとがきで記している。「私が人物評伝を書くのはこれが最初で最後でしょう。」 医者になったS君に、一度だけ再会した。出身高等学校の校友会の席だった。誘ったら、来てくれたのである。 その時に直接話したのか、それともメールか何かで伝えたのか、はっきりと覚えていないが、「おじさんの本の中では『信州に上医あり』が一番だ」と言ったところ、「そこまで読む人は珍しいよ」と返答があった。 『信州に上医あり』の中に、若月俊一『村で病気とたたかう』岩波新書 のことが出てくる。 ずっと読んでみたくて、探していた。しばらく絶版となっていたようだが、最近再発売となったのを知り、そろそろ手に入れようか?と思っていた。 そこで、昨日である。神保町の古書店の店先で『村で病気とたたかう』を見つけた。1971年の初版である。嬉しかった。 開くと写真が一枚ある。「病院の裏を流れる千曲川より浅間山を望む」と記されている。なるほど。そういうことか。 ところで、S君は元気だろうか。
2013.11.20
130820火曜日。 世田谷美術館へ行く。企画展「榮久庵憲司とGKの世界 鳳が翔く」を観覧。 自分の美意識の多くは恐らく身辺の工業製品によって培われているのだろう。そう納得させられるものがあった。 GKと言えばヤマハ発動機のオートバイである。 展示を見ながらふと思った。「ホンダが一番」「ダークホース的な魅力のスズキ」「男はやっぱりカワサキ」などのブランド賞賛を良く耳にする。 残るヤマハは?「デザインのヤマハ」。この評価が確実にある。そして具体的に“デザイン”なのである。 いかにも“ヤマハらしい”ヤマハ発動機のオートバイを自分なりに3車種挙げたい。確認はしていないがどれもGKがデザインを担当していると思う。 FZX750。SDR200。SRX600・400。 いかがだろう。
2013.08.21
7歳年上の兄がいる。 兄と私。高校までは全く同じ学校を出ている。しかしそこから後が大きく異なる。 兄は地元の国立の工学部に進んだ。卒業後は空調設備会社と化学系メーカーに勤務しずっと技術畑の仕事をしていた。4人の子供がいる。今では実家の土地で農業などしながらゆったりと暮らしているようだ。 私は都内の私立学校の文学部に入った。卒業後は輸送機器メーカーと内装デザイン・工事会社に勤務し営業畑の仕事しかしたことがない。子供なし。都内に何となく住み着いて今では小さい飲食店を営んでいる。 兄を誘って大手拓次の詩碑を見に行った。 兄に電話をかけて頼んだ。「磯部に大手拓次の碑がある。前の職場の近くじゃないか?連れて行ってくれ。」兄は快く引き受けてくれた。ただし大手拓次のことは知らなかった。 磯部周辺を兄は熟知している。詩碑の場所も少々調べただけですぐにわかったらしい。 130717水曜日。兄の運転する自動車に乗り実家を出発する。地元での生活が長いこともありスムーズな運行である。 磯部に着く。無料で駐車できる場所から「大手拓次の碑のことを友達と集まる場で聞いてみたら意外にみんな知っていた。」などと話しながら歩く。目的としていた詩碑はすぐに見つかる。鉄製のモビールのようなモニュメントも置かれ異彩を放っている。 「このあたりは良く来た。」と言う兄に随行して磯部の温泉街を散策する。直射日光の強い平日の昼下がり。人通りは少ない。温泉場独特の古びれた雰囲気に拍車がかかるようだ。しかしそれが心地良い。 歩を進めるうちに墓地が見えてくる。「もしかしたらここに大手拓次の墓があるかもしれない。」と私は兄に言う。どこかで読んだことがあるのだ。詩碑からそう遠くない場所に墓があるらしいと。 豪華な墓標が並ぶ中に2人で足を踏み入れる。磯部には大手姓が多いようだ。「これも大手さん。」「また大手さんだ。」と言いながら進む。 兄が「あった。」と言う。赤みがかった御影石。「大手拓次の墓」とある。兄に先に見付けられたことが少しくやしい。
2013.07.20
アンスティテュ・フランセ東京にてR.先生の講義。 夏学期は5回シリーズでディドロ『ラモーの甥』。 印象に残ったことなどをランダムにメモする。 『ラモーの甥』は18世紀初頭のパリ/パレ・ロワイヤルが舞台になっている。当時のパレ・ロワイヤルは階級の上下に関係なく様々な人々が集まる“自由な”街区であった。 東京でも似たようなパターンがあったのでは。大正デモクラシー期の浅草? R.先生の解説に「hagiographie」という言葉が出てきた。アジオグラフィ。学校に通っている頃に日本民俗学の講義に出席していた。担当が“福田アジオ”先生だった。ちょっと変わったお名前だったので記憶に残っている。辞書で「hagiographie」を確認してみると「聖人伝;聖人研究/美化された伝記」とある。もしやと思いGoogleで「福田アジオ 名前 由来」などのキーワードを入れて検索してみる。どうやら福田先生の場合はエスペラント語でアジアを意味する“アジオ”らしい。 全くどうでも良いことだがこの日本民俗学の成績は芳しくなかった。 『ラモーの甥』は“自由”について論じているのだが文面に“自由”や“解放”といった直接的な語句が出てくることは少ない。 cf.「hyperonyme」上位概念語⇔「hyponyme」下位概念語 Mes pensées, ce sont mes catins. 私の思考は遊女たちなのである…ではおかしな邦訳か。「catin」ふしだらな女,売春婦。思考を勝手気ままに遊ばせている…という意味なのだろう。 2013年の日本に合致する良い邦訳はないだろうか。私の思考はギャルたちなのである?
2013.07.09
最近の事象をメモしておきたい。・練馬区立美術館『「牧野邦夫-写実の精髄」展』及びその関連イベント 美術館の展示を観覧する前に関連イベントに行った。知人が参加しているので見物した次第。芥川龍之介『じゅりあの・吉助』と宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』の朗読。両作を題材として牧野邦夫が絵画を制作しているのである。牧野邦夫の奥様がご来場。大坊珈琲店に作品が置かれていることを聞き興味深く感ずる。当該イベントの終盤にシェークスピアの朗読を長く続けている方が紹介されコメントを寄せていた。雄弁な老紳士。面白く思ったので調べてみると一度見たことのある人であった。中野の喫茶店「クラシック」の様子を収めたDVDの冒頭で五木寛之『風に吹かれて』の一部分を朗読していたその人。 後日美術館の展示を観覧。さらにまた後日に大坊珈琲店の絵も観覧。・ディディエ・デナンクス『記憶のための殺人』 アンスティテュ・フランセ東京でのR.先生の講義。130412金曜日~130621金曜日の10回シリーズ。 1961年10月17日のパリ。アルジェリア人虐殺の陰で密かに狙い撃ちされていた歴史教師ロジェ・ティロー。その20年ほど後のトゥールーズ。父ロジェと同じく歴史研究に身を投じた息子ベルナール・ティローもまた何者かによって射殺される。二つの殺人事件の発端は第二次世界大戦時のドランシー収容所であった… ベルナールの殺人事件を捜査するカダン刑事が主人公の本作は“Roman policier”であるが日本語にすると“警官小説”となってしまいやや違和感がある。何と言えば良いのだろう。“ハードボイルド小説”あたりが適当か。 建物や自動車や武器に関する言及が散りばめらている。また時代を物語る風俗描写も挿入されている。歴史資料としての価値もあるのでは。個人的にかなり面白かった。 追記;130705金曜日からはディドロ『ラモーの甥』が5回シリーズで開講。・東京藝術大学大学美術館『夏目漱石の美術世界展』 130629土曜日に観覧。 漱石をめぐる明治~大正期の美術品が多数陳列されている。陶淵明の詩を漱石が写した巻物があった。美しい。 漱石はイギリスに留学しており西洋の文物にも通じていた。その一方で漢籍にも明るかったわけである。洋の東西が混在する教養。自分が学生の頃にはそれが求められていたような気がする。現代の若者ではどうなのだろう。・千葉市美術館『生誕130年 彫刻家・高村光太郎展』 130702火曜日に観覧。 光太郎は私淑する人物である。とはいえ自分は光太郎のように詩を書いたり絵を描いたりできるわけではない。いわんや彫刻をや。憧れの人物と言うべきか。 光太郎の彫刻作品はそれほど多くはないはずである。今回の展覧会に出品されていた物でほぼ網羅されているのでは?と想像する。 木彫の「兎」の精緻さには息を呑むものがあった。
2013.07.03
130407日曜日に練馬区立美術館で観覧した。 「超然孤独の風流遊戯 小林猶治郎展」。 印象に残った。取り急ぎメモ。
2013.04.10
岡倉覚三著・村岡博訳『茶の本』岩波文庫 1961年改版。 繰り返して3回読んだ。自分にはとても珍しいことだ。 実際は3回以上だと思う。3回目までは普通に。それ以降は以下の言葉がどのページにあるのか探して速度を上げ何回か読み返した。 男も女も何ゆえにかほど自己を広告したいのか。 (上掲書 p.43)
2013.03.25
130321木曜日。職場は休業。130319火曜日が祝日前であったので普段は定休日にあたるのだが営業した。その振替に休日とした次第。 建築に関する展覧会を2件観覧する。1.パナソニック汐留ミュージアム「二川幸夫・建築写真の原点 日本の民家一九五五年」 民家を撮影した写真の展示。表題の通りである。約60年前の日本の民家。 自分の出身地に近い場所で撮られたであろうと一見して確信できるものが1枚あった。山間の集落を遠望している。画像の中に養蚕農家の建物が数十軒写っている。付された解説を読むと郡内の六合村赤岩地区だ。 自分が小学校の低学年だった頃のこと。1970年代の後半。体育館が繭の集荷所だった。リアカーを接続した耕運機で祖父が出荷に来ていた。 1955年頃であれば養蚕はまだまだ盛んだった時代のはず。写真の赤岩地区も実際に蚕を飼っている家ばかりであっただろう。 二川幸夫の経歴はなかなか面白い。大学では文学部に在籍していたらしい。建築史の教授の勧めで民家の魅力に目覚めたようだ。文学部で建築に興味を持った学生が写真を撮って世に認められる… 展示会場の外で15分ほどの映像が流れている。二川幸夫自身が語っている部分が興味深い。当時の民家に住まう人たちは自らの住環境を“汚いところ”と意識していた。そんな“汚いところ”をなぜわざわざ?と写真の撮影を拒まれた。しかし雨戸を開ける早朝を狙って3日ほど立て続けに訪問すると「一緒に朝飯でも食べるか」と交流が始まったという。2.HOUSE VISION お台場の特設会場での展示。 未来の家が提案されている。著名な建築家たちと企業のコラボレーション。 これが住環境の最先端なのだろう。目指すところは未来なのである。現在や現実はさておきなのだ。当然ながらこちらは圧倒される。 会場内に本田技研工業の名車・モトコンポをモチーフにしたであろう小型の電動二輪車がある。ふと“モーターショー”を思い出した。夢を詰め込んだコンセプトモデルが話題となり数年後にはその流れを汲んだ市販車が発売となる…これは住宅における“モーターショー”なのだろうか。
2013.03.22
130310日曜日。 お台場でトークショーを観覧した。ご登壇のKSさんにどうしても直接会ってみたかった。持参したご著書にサインを頂戴した。とても嬉しかった。 111216金曜日。 知人からメッセージを受理した。「好みかしら…知人のお兄さまだそうです。」と書いてある。あるHPへのリンクが貼り付けられている。リンク先を見てみる。数日前に発売となった書籍を紹介している。 ほぅ。建築関連か。なかなか面白そうじゃないか。こちらの趣味をしっかりご理解してくださって…と感謝しつつ著者のお名前・KSさんに目が釘付けになる。 ん?少々珍しい姓・Kである。私が昔フランス語を教わったKH先生と全く同じ。おや?おや?おや?次は添えられている顔写真に目が釘付けになる。似ている!似ている!似ている!KH先生に似ている! 121113火曜日。 KSさんが共著で新しい本を出した。発売日に購入。 巻頭部分に都内のフランス語教育機関が取り上げられている。KSさんがお父様のことに言及している。あぁ。間違いない。KH先生のご子息だ。 130311月曜日。 前日のトークショーのことをボンヤリ思い出す。KSさんの解説は細かくてお父様に良く似ていた。そして何よりも笑った顔がそっくりだった。遺伝は偉大である。 そう言えばしばらく前にKH先生と地下鉄の車内で偶然お会いしたことがある。このブログに書いたはず。探してみるとあった。これだ。
2013.03.11
130305火曜日。定休日。 展示会FOODEX JAPANへ行く。 往路。JR東京駅で京葉線に乗り換える時に大きなレリーフがあるのに気付いた。帰りに見てみようと思った。 復路。展示会で歩き疲れていたが再び見るとやはり惹かれるものがあった。 京葉地下八重洲口から出札。目の前にレリーフはある。 小さな解説文が付されている。「R.T.O.レリーフ」というものでGHQの鉄道輸送局(Railway Transport Office)の待合室に設置されていた装飾らしい。 米軍の空襲を受けて焼けた東京駅。物資の少ない戦後の混乱期に苦労して制作していたであろう彫刻家たち。当時をいろいろと想像してみた。
2013.03.07
130212火曜日。 埼玉県秩父市にあるウイスキーの蒸留所を訪問。職場の仕入先である酒屋さんのご厚意のおかげ。 池袋駅に集合。西武池袋線→西武秩父線を走るレッドアロー号に乗車。山間地のカーブした坂道を走る電車は気持ち良い。 西武秩父駅に到着。雪を被った武甲山が綺麗に見える。昼食を済ませ自動車に乗る。市街地からかなり離れた工業団地に蒸溜所はある。それなりの規模はあるが大企業のそれと比べればかなり小さい。代表のAIさんのご案内で所内を見学。当方の質問にも丁寧にご回答くださる。断続的に会話をしていると「ウイスキーを飲む人がいなくなることは多分ないと思います」という言葉が出てくる。 ふと考える。我々はこうした楽観的な姿勢になれるだろうか。世の中の動向やら不景気やら。何かにつけて不可抗力を論じながら悲観的になりがちな日々である。一方のAIさんはどうだろうか。努力を重ねて質の高い製品を送り出している実績がある。その自信が姿勢にも表れているのではないか。 駅方面へ戻り一旦行程は終了。その後は個人的に秩父の市街地を散策。秩父はかつて蚕糸業で栄えたらしい。自分の出身地との共通項である。親近感を持つ。街中には古い建物が綺麗に残っているところもあり楽しく見て回る。 喫茶店に入る。古くて雑然とした店舗。初老の男性が店主のようだ。あと20年ほどすると自分がこういう感じになるのだろうか?とボンヤリ考える。コーヒーを2杯飲んだ。
2013.02.13
130205火曜日。 昼頃起床。13:30頃自宅を出る。東京メトロを使い銀座線日本橋駅で下車。 前々から見物しようと思っていた高島屋日本橋店へ。石材を多く使った内装はとても豪華。本館に複数ある入口にはそれぞれ大理石彫刻が置かれており大変興味深い。店内の食堂やレストランも雰囲気が良い。美術品の店舗も面白い。1時間ほどで外へ出ようと自分なりに予定を立てていたが履行できず。結局2時間ほど逍遙。 刃物店の木屋へ行く。職場で使う包丁を物色。果物類を扱うならばステンレス素材が適している模様。グレープフルーツを切ることも考えると150mmの刃が良いと思われる。それなりに値段が張るので慎重に考えたいところ。購入はせず。 再び東京メトロ。自宅方面へ戻り近くのホームセンターへ。降雪に備えて除雪用のスコップを入手しようとしていたが売切れ。 帰宅後は早めに就寝。
2013.02.06
アンスティチュ・フランセ東京にてR.先生の講義。ピエール・ミション Pierre Michon『息子ランボー Rimbaud le fils』。第4回。 予習をしようと思って本を開いて読んでもサッパリ意味がわからない。しかしながら不思議なものでR.先生のお話を拝聴するととても面白く感じてしまう。 この現象は多かれ少なかれ毎度必ずあるのだが今回のシリーズでは特に激しいように思う。 R.先生によれば当該作品は比喩が多く仏語を母国語とする人にも理解が難しいのでは?とのこと。 気負わないで講義を楽しく聴講するのが一番かもしれない。 とりあえずメモを残しておこう。・ヴァトーの絵画「ピエロ(旧称ジル)」。・ランボーがバンヴィルを訪問する。6月のパリ。春真っ盛り。空も青い。“青春”。(※1)・ロマン派と高踏派。前者は「6月」や「若々しさ」。後者は「12月」や「芸術のための芸術」。(※2)・ランボー自身が記した作品はとても少ない。一方でランボーに関する書物は膨大にある。・ある作家の作品を読んで何かを理解したような気になる。しかしそれは作家が意図したことを理解したわけではない。・アンドレ・ブルトンの描くランボーはシュールレアリストとしてのランボー。・ポール・クローデルの描くランボーは神秘的存在としてのランボー。【関連する所感など】(※1-1)青春。西洋でもこのイメージはあるようだ。残る3つはどうなのだろう。朱夏・白秋・玄冬。(※1-2)私が通った学校には応援歌があった。もちろん今でもあるので頻繁に歌われている(はず)。青色の濃い空をモチーフにした歌詞。“青春を謳歌する”の真骨頂かもしれない。(※2)後者について高村光太郎の「冬の詩」を想起する。とはいえ高村光太郎は高踏派に傾倒していたわけではないと思う。
2013.02.02
130126土曜日。 国立西洋美術館で「手の痕跡 国立西洋美術館所蔵作品を中心としたロダンとブールデルの彫刻と素描」を観覧した。年初に1度立ち寄っているが知人から招待券を頂戴したこともあり再訪してみた。 彫刻は好きなので2度目でも楽しい。いやむしろ1度見ていることによる安心感が出てくると言うべきか。落ち着いて見ることができる。 あるブロンズ像の近くで立ち止まった。両膝を曲げて屈み込んだ体勢の女性を筋骨逞しい男性が高々と持ち上げている。不自然な情景だと思いつつ眺める。男性像の足下に何か文字が書いてあることに気付いた。“Je suis belle…”という書き出し。署名や献辞として考えるにはあまりにも多すぎる語量。どうやら文章になっている様子だ。何だろう。特に解説は添えられていない。作品のタイトル『私は美しい』が掲げられているのみ。 ポケットからスマートフォンを取り出す。“je suis belle”と入力して検索してみる。すぐにわかった。ボードレール『悪の華』のうちの1篇だ。“je suis belle, ô mortels! comme un rêve de pierre,…”スマートフォンの文字列とブロンズの文字列を見比べる。やや読みづらい筆跡も整理されたフォントになれば良くわかる。 おや?私の目はある部分で止まった。スマートフォンの文字列とブロンズの文字列とで違いがある。ボードレールの詩で“Eternel et muet”となっている部分がロダンの彫刻では“Etincelant muet”になっているのだ。 この差異の直前に「un amour」がある。「un amour eternel et muet」であれば「永遠で無言の愛」の意となろう。「un amour etincelant muet」であれば「燦然たる無言の愛」の意となろう。 書き換えられている。誰が?いつ?どのように?何かを意図しているのだろうか? 130127日曜日。 自宅のPCで検索する。「rodin je suis belle」「rodin baudelaire」「rodin je suis belle etincelant」「rodin eternel etincelant」。思い付く限りの検索ワードを並べてみる。途上で世界に数体あるロダンの『私は美しい』に遭遇する。しかしながら自分の疑問を解消してくれるような答えは一つもない。 国立西洋美術館へ『私は美しい』に関する質問のメールを書くことにした。 130130水曜日。 国立西洋美術館からメールへの返信が届いた。大変丁寧で親切な文面だ。拝読し嬉しく感じた。末筆に「この変更が誰によって、いつ行われたかということについては、今のところ不明です。」とあった。 妙な爽快感である。所蔵する美術館でさえ不明なことが私にわかるはずがない。スマートフォンやPCの普及で情報に接触しやすくなり何でも検索すれば答えを得られるかのような現代。しかし本当は不明なことが山のようにあるのだ。
2013.01.30
130129火曜日。 昼頃起床。最寄駅から電車で上野駅へ。国立科学博物館へ行く。 特別展『チョコレート展』を観覧。チョコレートの製造方法やチョコレートの歴史など情報量の多い展示。既にご覧になった方々から低めの評価の声があったが自分としては大変楽しめる。カカオの実を収穫し種子とその周囲にある果肉とを発酵させる過程があるのを初めて知る。この発酵がチョコレートの味に少なからぬ影響を与えるらしい。ただ展示されていた写真などを見る限りでは温度や微生物の管理はあまり厳しくない様子。生産地でのカンに任されているということか。チョコレート飲料に用いる豪華な食器類が多数陳列してある。前田商店のコレクションとのこと。展示パネルのテキストや図版など収める図録を購入。 引き続き同館で企画展『日本の科学者技術者展シリーズ第10回 植物学者 牧野富太郎の足跡と今』を観覧。牧野富太郎には前々から興味を持っているがさらに深まる感あり。この人は研究者としての仕事と教育者としての仕事とを高いレベルで両立させている。のみならずイラストレーター及び文筆家としても素晴らしい作品を残している。稀代の大科学者だと思う。 その後は再度JR線に乗り高円寺へ。職場近くで知人と小会合。21:00頃には散会。帰宅して早めに就寝。
2013.01.30
東京日仏学院(以下IFJT)にてR.先生の講義。第8回。 印象に残ったことをメモしておく。 頓呼法とアレゴリーが作中で用いられているとの解説。 ふと思う。パソコンなどのデジタル通信機器を用いるメディアでは上記のような修辞がほぼ死滅しているのではないか。 一部で社会現象とさえ言われる『Facebook』や『Twitter』で修辞が望まれる場面は皆無に近いだろう。それもそのはず。こうしたソーシャル・ネットワーキング・サービスは“インタラクティブ”が目的なのである。そこでは言説が自己完結することは好まれない。読者に「なるほど」と思わせてしまうようなことが書かれているよりも「そうだそうだ」と同情を喚起したり「そうじゃないだろう」と議論を引き出すようなことが書かれている方が好まれる。 『Yahoo!知恵袋』のようなサービスになれば修辞は一切不要になるだろう。そこでは具体的な質問に対する具体的な回答だけが望まれているのである。 修辞という行為が消える日が近いうちに来るのかもしれない。
2012.06.13
東京日仏学院(以下IFJT)にてR.先生の講義。第7回。 印象に残り考えさせられる件に関してメモを残しておく。 『人は消えるためにそこにいるのではない』の作中に何度か歌の歌詞らしき語句が出てくる。R.先生はこれらについて具体的に曲名と歌手を教えてくださった。また一部を口ずさんでもくださった。 アルツハイマー型認知症が進行した際に若年時に親しんだ大衆音楽が口に出てくる…ということである。 自分がそのような状況になる場面を想像する。 名曲と言われるような歌謡曲の一節が出てくるのであれば悪くもなかろう。例:八代亜紀「おんな港町」。北島三郎「函館の女」。サーカス「ミスター・サマータイム」。 しかしちょっと恥ずかしいようなものだとしたら?例:少年隊「仮面舞踏会」。柴田恭兵「ランニング・ショット」。杉良太郎「君は人のために死ねるか」。
2012.06.07
120605火曜日。 目黒区美術館の「シャルロット・ペリアンと日本」を観覧する。神奈川県立近代美術館・鎌倉館で1回観覧しているので2回め。 ペリアンがデザインした収納用具が展示されている。 鉄製のフレームと樹脂製の箱を組み合わせた引き出し状の小物入れが魅力的である。ステフ・シモンのギャラリーで発売していた物らしい。 現在も入手できるのだろうか。PCで検索してみるがそれらしき物は見当たらない。残念だ。 しかしながら面白い記事に遭遇する。建築家の岡部憲明がペリアンに言及している談話である。以下に引用する。 ル・コルビュジエとの協働で知られる女性建築家のシャルロット・ペリアンは1999年に亡くなりましたが、彼女はパリにアトリエがあって、私がポンピゥー・センターのプロジェクトに携わっていた頃からの知り合いでした。 彼女のアトリエや家を訪ねて驚くのは、膨大な設計資料や設計図書、書籍があるはずなのに、それがまったく目に入らないんですよ。彼女は手紙もすべて保管していたけど、それも表には出ていない。空間に出ているのは必要なモノだけでした。 実はル・コルビュジエの建築の家具やキッチンのほとんどは彼女がデザインしたものです。日本式の引戸や簾なんかも工夫してうまく採り入れていました。 自分の動きに合わせ、空間の中にどういうカタチでどうモノを収めるか。あるいは空間をどう変化させるか。そういうことに関しては本当にスゴイ人でした。 狭くて急な階段でも、彼女がデザインした手すりに触るとスッと上り下りができる。収納に関しても、モノを表出させない空間にしていくことが身体化しているんでしょう。 私は彼女からそれを学んだというか、いや、よく実践できるものだと、いつも驚いていましたよ。 (無印良品の家『家に会いに。』「vol.7 光景の家 ダイアログ2 ヨーロッパの建築から学ぶこと」より) 岡部憲明はレンゾ・ピアノのパリ事務所で仕事をしていた経歴があるようだ。それゆえ上記の談話も実際の体験を踏まえたものと思われる。 ただし次の部分については検証が必要ではないだろうか。 彼女はフランス東部のアルザス地方の出身で、自然の中で育った山の生活が根本にはあるのだと思います。山の暮らしでは余分なものは持たないでしょうから。 (上掲のサイトより) Web上の検索だけでは不十分だろうがペリアンの出身地はパリとするのが一般的なようだ。 アルザスなのか。パリなのか。 いずれにせよである。岡部の発言で“フランス東部のアルザス地方”となっているのを“フランスの首都パリ”と読み替えさらに“自然の中で育った山の生活”となっているのを“街の中で育った都会の生活”と読み替え最後に“山の暮らし”を“都会の暮らし”と読み替えれば簡単に済む話なのかもしれない。 余分なものはどこであれ余分なものに違いないのだから。
2012.06.06
120529火曜日。 職場が定休日なので出かける。 バスに乗り西武池袋線の中村橋駅近くまで行く。そこから徒歩で練馬区立美術館へ向かう。 「鹿島茂コレクション2 バルビエ×ラブルール アール・デコ、色彩と線描のイラストレーション」を観覧。 素晴らしい展覧会である。 個人的に強い印象が残るのは3点。メモを残しておく。◆ピエール・ルイス著/ジョルジュ・バルビエ挿絵『ビリチスの歌』 淡いながらも鮮やかな色彩の挿絵。バルビエの原画が版画となっている。活字もオリジナルで作っているらしい。どちらも木版(!)とのこと。 展示してある物の文章も読む。平易な仏語で多少理解できる。耽美的な内容。◆レミ・ド・グールモン著/ジャン=エミール・ラブルール挿絵『色彩』 短編小説にエッチングをベースにした繊細な版画が添えられる。 “典雅なエロティシズム”と解説文にある。その通り。◆オーギュスト・ジルベール・ド・ヴォワザン著/ジャン=エミール・ラブルール挿絵『私好みのページ』 花鳥風月を題材にしたエッセイ集のようだ。挿絵には小動物や植物が愛らしく描かれている。文章の部分は展示なし。読んでみたいものだ。 著者はヴィクトル・セガレンと交流があった人物。
2012.05.30
東京日仏学院(以下IFJT)にてR.先生の講義。第6回。 前回=第5回の講義終了後にふと浮かんだことがある。この『人は消えるためにそこにいるのではない』はトランプのゲーム“神経衰弱”に倣っているのではないか。 話者:je による記述。医師による記述。患者であるT.氏の独白。病名にもなっているアロイス・アルツハイマーに関する記述。これらの断片が数回繰り返される。我々読者はカードをめくるようにそれらを読んでいく。 本作品の主題であるアルツハイマー型認知症。「記憶」に障害が発生している状態だ。 「記憶」=「memory」。トランプの“神経衰弱”は仏語で“Memory”となるようだ。 “神経衰弱”はカードがその場から「消える(=dispara?tre)」ゲームである。 全く別の話だが「記憶」について思い出すことがある。 電車などをごく細密に描写している絵画のことがテレビで紹介されていた。 描いたのは福島尚という人だ。この人は現物や写真を目の前にして作画するのではない。しかも下描きは一切なく絵具を直接塗り付けるところからスタートするのである。記憶だけを頼りに。
2012.05.28
うぶすなの持て来つ海老根花咲かせ 婆遺す海老根都会で花ざかり 2009年07月に他界した祖母はエビネが好きだった。庭の一角に植えて栽培を楽しんでいた。 先月下旬に帰省した際にその一部を掘り起こして持って来た。 エビネは日陰を好むらしい。自分の職場は地下なので適しているようだ。花を満開にさせてくれた。 祖母は毎年02月26日になると必ずこう言っていた。「アタシは226事件の時に東京にいたんだ」。祖母は私と同じ山間地の寒村生まれだ。1936年の当時都会で暮らすことは現在とは違い大変に価値あることだったはずだ。 上掲の画像は2012年05月17日(木)撮影。
2012.05.18
祖父の葬儀から帰って背広を1着捨てた。 10年以上も前に作った物である。会社員を辞めた後もずっと持っていたのは色が黒かったからである。実際にその背広を着て葬儀に出たことが何度かある。 ところどころに損耗があった。ズボンの前ポケットあたりには表側の生地が擦り切れて裏側の白い生地が見えている箇所がある。最後に着用したときにはそこを油性ペンで黒く塗ってごまかした。 1着捨てたことで勢いがついた。同じ頃に作った別の背広も捨てた。 こちらは単純に気に入っていたから残していた。テーラード・カラーのベストも一緒に作ってあった。自分としてはちょっと特別な服のつもりだった。損耗は多少あるがそれほど目立ちはしない。大事に着ていた。 でも捨てた。 数日前外出する際に着てみたところ思わず声が出た。「古臭い。」 ジャケット…肩が広い。ラペルの幅がある。丈が長い。 ズボン…ウエストの位置が高い。全般的に太い。 これはダメだ。今日限りで捨てよう。外出から帰って脱ぐとすぐゴミ袋に入れた。 新しい背広が必要になった。冠婚葬祭に着られる服がない。 どこか気楽に発注できる洋服屋さんがないものか。探してみると自宅から自転車で行けるところに1軒ある。電話をかけて尋ねてみると値段も安めである。 一昨日その洋服屋さんへ行ってきた。「右の肩が下がっていますね」「お尻が大きいですよ」「脚のつけ根が太めです」と身体の特徴を耳にしながら採寸されるのは結構面白い。「うーん…あと5mm袖は短くしてください」「裾19cmはちょっと細過ぎなので20cmに」とお願いができるのも楽しいところだ。 あたらしき背広など着て 旅をせむ しかく今年も思ひ過ぎたる (久保田正文編『新編啄木歌集』岩波文庫 1993年 p.37) 旅上 ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し せめては新しき背広をきて きままなる旅にいででみん。 汽車が山道をゆくとき みづいろの窓によりかかりて われひとりうれしきことをおもはむ 五月の朝のしののめ うら若草のもえいづる心まかせに。 (三好達治選『萩原朔太郎詩集』岩波文庫 1981年改版 p.31) 新しい背広。6月の上旬にできあがる予定である。待ち遠しい。 別に旅行をしたいとは思わない。旅行はそれほど好きではない。
2012.05.17
2012年(平成24年)05月04日(金・祝)。朝方携帯電話のメールを見ると1件受信している。母からだ。 「おじいちゃんが亡くなりました7時30分です。病院内は電話が出来ません。また連絡します。」 1914年(大正03年)05月30日生まれの祖父は満97歳である。 05月05日(土・祝)。職場は休みとして帰省する。 葬儀場の控え室へ行くと祖父の遺体がある。顔を覆っている白い布をめくる。存命中最後に対面したのは祖母の亡くなった2009年(平成21年)07月だったはずである。3年弱の間に何が変わっているのかわからない。相変わらず眉毛が長いと思う。家族と一緒に納棺する。祖父の体は冷たい。しばらく動けずにいたため筋肉がほとんどない。 通夜に出席する。人が少ない。静かな雰囲気である。そのことが祖父の長生きを改めて証明しているように感ずる。 通夜の後で会食がある。臨席の人と途切れ途切れの会話を交わす。いくつかの断片を継ぎ合せると自分がその人について多少知っていることがわかる。昔祖母が「Yのうちの息子はお坊さんの学校へ行ってるんだで」と言っていた。そうかこの人なのか。 実家へ行く。とても明るい月が出ている。にもかかわらず星も見える。北斗七星が確認できるので北極星はどれなのか推測してみる。 05月06日(日)。 目が覚めると08:00を過ぎている。朝食を済ませ母と兄と一緒に墓参りに行く。この日が命日の伯母がいるのだ。実家の墓地は2箇所ある。昔からある山の中の墓地。新しく父が作った日当たりの良い墓地。どちらも悪くない。雷鳴がする。雨が降ってくる。しばらくすると太陽が顔を出す。また雨が降ってくる。変な天気だ。 10:30頃自宅を出る。近くの国道は連休の影響で若干渋滞している。沿道の風景は新緑が見事だ。 葬儀場へ着くと間もなく出棺となる。棺を開け花を入れる。祖父の眉毛に触ってみる。やはり長い。 霊柩車とマイクロバスで火葬場へ向かう。山の中である。天気は相変わらず降ったり照ったり。 火葬中は待合室で昼食。父が母方の伯父と消防団時代の思い出話に花を咲かせている。昭和37年(1962年)03月07日に他の消防団の消防車が吾妻渓谷に転落しその救助活動に携わったことがクライマックスである。 収骨。焼け残った骨の量が多いように感ずる。少なくとも祖母のそれよりは多い気がする。 葬儀場へ戻り告別式。最後にお清め。実家を出て23年が経過し地元との交流がほとんどない自分にとっては新鮮ささえ漂う。 JR線に乗り東京へ戻る。車中から丸く大きい月がずっと見えている。 前述のように最後に祖父と対面したのは2009年(平成21年)07月であったはずだ。その際に兄と同行している。祖父は兄と私との区別がつかない様子であった。しかしながら部分的に記憶が明確なようで昔話をいくつかしてくれた。 「俺は今だって馬には乗れるで。」祖父は騎兵として従軍した経験がありそれが大きなプライドなのだ。 「蚕糸学校を出てるしお蚕はいろいろ知ってるで。」祖父は群馬県立蚕糸学校を卒業した。昭和初期にそこへ通学していたことになる。当時群馬県の養蚕は花形産業だったはず。実家では私が小学校の頃:1980年(昭和55年)頃まで養蚕を続けていたと思う。この経歴もまた大きなプライドなのだ。
2012.05.07
東京日仏学院(以下IFJT)にてR.先生の講義。 オリヴィア・ローゼンタール の小説『人は消えるためにそこにいるのではない』の購読だがR.先生のお招きで作家のセリア・ウダール C?lia Houdartさんがご来訪。 R.先生によればセリア・ウダールさんとオリヴィア・ローゼンタールにはいくつかの共通項があるとのこと。演劇や放送に関わる仕事をしながら執筆をしている…等々。 以下印象に残ることをメモしておきたい。 ウダールさんのお話の中で「彫刻と文芸」という部分に注意が向く。ウダールさんはイタリアの大理石の産地を題材にした小説を著しているらしい。「石材から彫刻を創ることは文芸と似ている」という意味のご発言あり。彫刻家のヘンリー・ムーアのことが事例として挙げられる。 「彫刻と文芸」で高村光太郎のことを考えざるをえない。光太郎の作った詩には彫刻に関するものがいくつかある。 石材彫刻は日本では盛んではないのかもしれないとふと思う。自分の好きな日本の彫刻家の作品を思い出してみても石材の物はあまり浮かんでこない。塑造か木彫だ。 聴講後にヘンリー・ムーアの彫刻がどんな物だったか気になる。どこかで必ず見ているはずだがはっきりと姿が出てこない。どうもジャン・アルプの彫刻と見分けがつかなくなっているような気もする。ジャン・アルプ。ハンス・アルプという人も確かにいたはず…と混乱してくる。Wikipediaで調べてみる。ジャン・アルプとハンス・アルプは同一人物なのか。知らなかった。著作もあるようだ。興味が湧く。
2012.04.22
東京日仏学院(以下IFJT)にてR.先生の講義。 2012年04月07日(土)より10回シリーズで行われる。 今学期はオリヴィア・ローゼンタール の小説『人は消えるためにそこにいるのではない』の購読。 講義で使用するテキストは Olivia Rosenthal『On n'est pas l? pour dispara?tre』folio 2007。◆このメモをご覧になる方へ◆ 講義や作品に直接関係のないメモも時折含まれます。 あまり参考にしない方が良いかもしれません。 04月07日(土)に第1回の講義が行われているが欠席。開始時期を確認していなかったため。 以下04月14日(土)の第2回講義におけるメモ。・医学や心理学の専門用語が多い。・作品の話者は女性の「私」である。しかし著者本人とは限らない。・知りたい欲求。それに反して知りたくない欲求もある。・不老不死は洋の東西を問わず望まれている事柄。・肉体の死は避けられないが魂は死なないでほしいという願望。・生命が絶えても芸術作品は生き残るという楽観。・Work in progress=進行型創作(?)・montage 組立・合成。・精神疾患と言葉。アントナン・アルトー。・作中のMonsieur T.にとっては樹木が逃避所である。・社会を恐れ自然に帰ろうとする意識。・フロイトの精神分析。ソシュールの言語学。ジャック・ラカン。・signifiant=文字と音。記号表現。聴覚映像。・signifi?=意味と周辺の意味。記号内容。概念。・言葉があってもそれが表す内容は変わる。※04月21日(土)はセリア・ウダール C?lia Houdart さんが来訪する。
2012.04.17
墓参り。 彫刻家の。 画家の。 詩人の。 孤独なをぢさんの。 光珠院殿顯譽智照居士。
2012.04.02
1週間ほど前にパナソニック汐留ミュージアムで「今和次郎採集講義展 - 時代のスケッチ。人のコレクション。-」を観覧した。 今和次郎については多少知っているつもりであった。しかし多くの直筆資料を目の前にすると新しい発見がたくさんあった。 会期中にもう一度当該展覧会を見に行こうと考えながら今の著書『日本の民家』を読み始めている。 興味深い部分がある。以下に引用する。 ところによっては水害を蒙る土地がある。そんな土地の家々では、特に土を盛って主家を建て、土蔵は腰を高くして屋敷神の小祠と並べて建てる。讃岐の平野を歩いていたとき私は妙な恰好の家を見た。それはすこぶる振っていて、六尺位の高さに壇を築き、その上に住宅を建て、入口の個所には石段を十段も作っていた。「あの家はどんな家です?」と案内の人にきいたら、「あそこの主人は変った考えの人で、いつ水害が来ても平気でいられるように、出水のときの水の深さだけ壇を築いてその上に家を建てたのです。ところが結果はこうなんです。毎日々々家にものを出し入れする際にあの石段を登らなければならないという始末で、せっかく考えた事も、今では厄介ものとなって近所のもの笑いとなっているのです」と説明してくれた。水害は四、五年ないし七、八年に一回来るのであるが、そのときに損耗があっても、日々の年中の生活に便利な方が結局どれだけいいかということを説明している面白い例だと思った。 (今和次郎『日本の民家』岩波文庫 1989年 p.39) 東日本大震災から1年が経過している。しかし巨大な地震と津波の恐怖はまだまだ鮮明な記憶だ。 震災の直後から次のような言葉を頻繁に耳にしている。防災あるいは減災。災害に強いまちづくり。 現在の私たちは『日本の民家』にあるような意識だろうか?上掲の“水害”を“地震”に置き換えてみて全く同じ気持になれるだろうか? 今が『日本の民家』を記したのは関東大震災以前らしい。 災害に対する意識は災害を体験することにより変化しているのではないか。また変化してもその時点のものでしかないのではないか。 私たちは東日本大震災を体験し災害に対する意識を高め教訓を残そうとしている。ただしそれは現在のものに過ぎないのかもしれない。 将来の災害に活かせるのだろうか。
2012.03.15
過日「アトリエ」という日記を書いた。2012年01月23日(月)に画家・故NTのアトリエを見たことを記録している。 昨日2012年02月14日(火)に建築家YBの自邸を見た。 YBは上掲のアトリエを設計している。なおYBも故人である。 YBについては全く知らなかった。故NTのアトリエを訪問したときそのご子息から「建物の設計者はYBという有名な建築家だ」と教えていただいた。 調べてみるとYBは自邸を設計しておりそれが現存している。さらに調べるとどうやらご子息ご夫妻がそこにお住まいでサロンのような使い方をしている様子だ。音楽の演奏なども行われているらしい。 電話番号がわかるので直接話してみた。「YBさんの設計した建物に興味があります。そちらの建物の中を拝見したいです。」 今回も図々しいお願いを受け入れていただいた。 勉強になるお話もたくさん拝聴した。 ありがたいことである。
2012.02.15
IFJTにてR.先生の講義。ナタリー・サロート『なにかにつけて』。第5回。最終回。・ヴェルレーヌについて。ベルギーで収監されたことがある。獄中で詩作をし宗教に傾倒した。・ヴェルレーヌの詩には放蕩と精神生活との二面性が見られる。・1870~80年代は詩が流行していた。第一次世界大戦頃まで続き「詩王子 Prince des Po?tes」が選定されたりした。・示唆 allusion と教育すること p?dagogie とは正反対である。・何かに名称を与え固定化することはその生命を奪うことでもある。・ナタリー・サロートは登山家でもあった。モンブラン登頂経験もあり。当時女性で登山をする例は大変珍しい。・H1とH2の価値観は相容れず。仕事・家族・国家を優先するH1。熟考・思索に重きを置くH2。H1から見ればH2は“負け組 des rat?s”。・最終的にH1とH2はお互いの違いについて確認し合意する。・『Pour un oui ou pour un non』は“なにかにつけて”“やたらめったら”の意味が一般的だが本作の最後では別の意味になっている。『こちらは是あるいはこちらは否』。・実際の我々の生活においては一個人の中にH1とH2が同居している。【所感】 大変良くできた戯曲である。人間であれば誰にでも起こりえる現象を扱っている。誰が見ても共感できる劇になると思う。 とはいえ当作のように相手の問題点を俎上に載せ議論することは現実的ではないだろう。真似をして期待できる結果は争いと決裂だけではないか。特に私生活においては。 お互いの違いについて確認し合意する。これには相当高度な理知と寛容さとが必要とされるだろう。私のような凡人たちは残念ながらそれを備えていない。 そうなると対人関係で大事になるのは適切な距離を保つことなのだろうか。【次学期について】 4月からの次学期はOlivia Rosenthal『On n'est pas l? pour dispara?tre』とのこと。
2012.02.15
IFJTにてR.先生の講義。ナタリー・サロート『なにかにつけて』。第4回。 120128土曜日に第3回に出席していた。メモを残していなかった。・言葉で他人の問題を指摘できるか→そこに希望を見出せなければ社会から逸脱するしかない。・言葉で2名の人物間に生じる問題を第三者に説明しきれるのか→恐らくできまい。・人が人を裁く。それには裁く人の知性が必要となる。言葉・議論の力。・罠。罠が成立するための条件。その1:外よりも内に良い物がある。その2:捕獲する機構を有する。 120204土曜日。第4回。・テキストの細部を読み込むことは1枚の絵画に近付くことに似ている。近付けば細部=言葉の綾はわかってくる。しかし絵画全体は見えづらくなる。・仏語ならではの言い回しが見られる。それは日本人つまり外国人にとって意味を把握できない面もある。・サロートは露語圏の人物である。もしかすると露文学と関連のある表現が存在しているのかもしれないがわからない。・norme=統一規格。支配的な価値観。・H1とH2の価値観は全く噛み合わない。・cingle=変わっている/ecorche=傷つきやすい/persecute=迫害されている。・artificiel=人為的 vs essentiel=根本的。・一般的には人為的な事物はネガティブにとらえられる。一方根本的な事物はポジティブにとらえられる。・しかし人為的な事物をポジティブに扱う例もある。マルセル・デュシャンの小便器『泉』。 次回・第5回で最終。120211土曜日・祝日に予定されている。
2012.02.06
彫刻家TKの作品集を見ていて気付いた。生涯最後の作品を制作したアトリエが自分の職場からそう遠くないところにあったらしい。 他の書籍やインターネットなどを使って調べた。場所は何となく見当がついた。またアトリエはどうやら現存している様子だ。現地へ行ってみよう。それらしき建物が意外と簡単に見つかった。多分これなのだろう。その程度の認識で満足した。 その後アトリエの近くを数回通過した。中の照明が点灯していることがあった。誰かが使っているようだ。 また調べてみる。するとアトリエはある画家が建てたもので彫刻家はそこを借用し制作をしていたことがわかった。画家はNTという名前だった。 改めて現地を見に行ってみた。アトリエを囲む敷地に塀が設けられている。入口を見つけた。表札がありNの姓が刻まれている。急に物事が具体性を帯びた感じがした。TKはここで最後の大作に挑んだのだ。北向きの採光窓。あの窓の向こうで制作が進められたのだ。 しばらくはアトリエのことを忘れていた。 ある日知人がテレビ番組の録画を提供してくれた。TKのことを扱っているという。多分興味があるだろうと気を利かせてくれたわけである。 録画を見ていると最後の作品の制作風景を収めた写真が何点か出てきた。これは多分あのアトリエだろう。 どうしても中を見てみたい。そう思った。 アトリエは誰かが使っているようである。そもそも一般の人家ではないか。覗くわけにもいくまい。言うまでもなく勝手に入るわけにもいかないだろう。 手紙を書くことにした。興味を持っている者ですと書き少々の経緯と自分の連絡先を添えた。自ら郵便受けに投函した。 中に入れていただいた。画家NTのご子息のご厚意である。 アトリエでお話を拝聴した。画家NTはアトリエの完成直後に他界した。その後美術関係者の縁があってTKが借りて制作・生活するようになった。TKは大作を完成させるが持病が悪化し結局アトリエで息を引き取った。 あのTKが生涯最後の大作を仕上げ息を引き取った場所。そこをこの目で確認した。自分にとって大きな衝撃で心が波打った。1週間ほど経過するがまだボンヤリしている感がある。 面白いことがある。 この一連の出来事を話しても関心を示す人はいない。
2012.01.29
IFJTにてR.先生の講義。ナタリー・サロート『なにかにつけて』。第2回。・サロートの作品は自然な会話に近い文体になっている。よって省略も多い。・その省略は読者との暗黙の了解を目指すものと言える。・tropiseme=屈性。・サロートは人間の内面世界を記述することで一部の文筆家には比較的早くから知られていた。サルトルもその1人。サルトルはサロートの著作の序文を書いたこともある。・サロート作品には裁判・法廷を模したものが多く見られる。・裁判・法廷:第三者による判断がなされる場。そこへ至らないと誤解だけが二者間で続く。・誤解と暗黙の了解とは相反するもの。・暗黙の了解は恒常的なものではない。流動的である。
2012.01.22
昨年の9月に山形県鶴岡市のバー・Yへ行った。このブログにも何回かそのことを書いている(2011年9月17日/2011年9月22日/2011年10月23日)。Yは80歳前後の女性店主さんがカウンターに立っている。大変お元気である。しかもバーテンダーとしての仕事を高いレベルでこなしている。 国内のウィスキーメーカーが発行している広報誌・WVにこの話の一部が掲載された。編集長・KHさんが私の駄文をうまく編集してくださった。 そのWVを読んで驚いたことがあった。巻末に読者投稿欄がある。最後に取り上げられている北海道の91歳の方。文面を読むと今も現役でカクテルを作っている様子だ。 昨日の記事に書いた井の頭自然文化園の北村西望。KHさんから教えていただいた。 満102歳まで生きた北村。 WVに出ているバーに寄ってみようと神楽坂へ行った。Hというお店だ。店主さんが談話で長谷川等伯に言及しており興味が湧いたのである。 すごい。店内に装飾らしき装飾は見当たらない。音楽もない。数個の蝋燭の灯があるだけでかなり暗い。店主さんの仕事ぶりがうっすらと見える程度。薪能でも見ているような印象だ。長谷川等伯の話も納得がいく。 それにしてもここで働くのは大変な緊張を強いられるのではないか。少なくとも私には無理だ。寿命が縮まりそうである。
2012.01.19
職場の定休日。吉祥寺へ向かう。20歳前後に2年間住んだこともあり馴染みのある街である。 吉祥寺は“住みたい街”“住みやすい街”などのランキングで上位の常連のようだ。賑やかな繁華街と閑静な住宅街とが接している。このエリアでさまざまな用事が高い満足度で完結してしまうのが魅力なのかもしれない。緑が多いのも特長であろう。井の頭恩賜公園を筆頭に草木の豊かな場所がたくさんある。 その井の頭恩賜公園の隣に井の頭自然文化園がある。ここは長寿のアジアゾウ・はな子を飼育していることで知られている。はな子は65歳を迎えアジアゾウとしては長寿の部類に入るそうだ。 はな子の飼われている近くに彫刻がたくさん置かれている所がある。北村西望の作品を集めた彫刻園・彫刻館である。北村は満102歳まで生きたそうだ。 井の頭自然文化園の一隅に「園内動物慰霊之碑」がある。北村の筆が鋳込みの銘となっている。 また吉祥寺へ行こう。
2012.01.17
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