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オープニングの全体演奏はやっぱり駄目。何をやってるか分かんない。全員が外野で吹いているせいかものすごく吹きにくそう、合わせにくそう。西宮でやっているときはこんなことはなかった。ものすごい残響があって本物の音とだぶって聞こえているのかもしれない。頭がこれだと、テンションが下がって乗り切れない。そしてトップバッターが近畿大学。音が向こうの方で鳴っている。迫力が全く感じられない音楽。なぜなら、これも外野で演技しているからです。最前列がセカンドベースのあたり、最後列はセンターポジションとセカンドの中間地点。どうしてそんなに下がらなければならないのか。インフィールドががらがらなのに。ほかのチームでも外野で演技しているのが多かった。おしなべて音楽は聞こえにくかったように思う。全部外野スタンドと天井の方に吸い込まれているような感じ。内野で演奏しているチームはその音量が比較的そのまま伝わっているように感じた。天井があるからといって、音が聞こえているなどとは思わないでほしい、むしろ西宮スタジアムより音の伝わり方は自然ではないし充分でもないことを認識すべきだと思う。尼崎地区も人数が多いせいで外野で演技することが多かったけれど、音量は全然大したことなかった。80人の向陽台高校の方が余程迫力のある音だった。みなさん、もっと前で演奏しましょう。自分の音が伝わらないなんて本当につまらないじゃないですか。 ということで、不満の多い前半ではあったのですが、後半は実力校が次々登場して、もやもやを一掃してくれました。向陽台高校が、横一列から一斉に動き始めたときなど涙がこぼれそうになったほどです。惚れ惚れするほど格好いい。そうなんですよ、吹奏楽というのはこんなにも格好いい。格好いいから30年もこの場に通い続けている。止められない。
2007年06月25日
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第1部 たなばた 酒井格 元禄 櫛田てつ之扶 ピッコロマーチ 田嶋 勉 光と風の通り道 栗栖健一 憧れの街 南 俊明 ブルースカイ 高木登古第2部 交響曲第2番ニ長調 より シベリウス 「アニー」よりハイライト ストラウス ミスサイゴン・ シェーンベルグ シンフォニックポートレイトアンコール 千の風になって 今年の課題曲を生で聞くのはもう4回目くらいになるのですが、初めてです。CDで聴く大阪市音楽団のイメージとほとんど変わらないすっきりした演奏は。何が違うのだろうと思う。今回の演奏では何よりバランスがバランスとして聞こえる。マーチくらい普通に吹いてりゃバランスなどは自然にできてしまうのだ、という感じが以前の演奏には見て取れた。甘く見ているということではなく、結果的にパートのまとまりがなく、バランスを決めるほどの密な練習ができなかっただけのことかもしれませんが。 トランペット9本、トロンボーン10本が全然うるさくなく、押さえがきれいにきいて他のパートを邪魔している感じがまるでない。金管が全部吹いていてもクラリネット、フルート、サックスの存在感ははっきりと認められる。基本ですよ。その基本が今までのバンドではうまくできていなかった。まだコンクールの本番には時間があるし4曲全部を演奏するわけでもないから、練習にもさほど力が入っていなかったのかもしれない。練習といえば、西宮市吹は週に3回の練習をしている。市民バンド、一般バンドで3回練習しているのはほとんどないのではないか。そして指揮者は北野先生、大阪音楽大学教授、というより今津中学校吹奏楽部出身者として尊敬する指揮者、指導者です。意味のある練習、効率的な練習を熟知した指導者です。これだけの差が出てしまうのはむしろ当然のことだったのかもしれません。
2007年06月22日
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北上発12時59分、一関着13時40分、一関発13時44分、小牛田着14時33分、小牛田発14時50分、仙台着15時35分、仙台発16時08分、福島着17時20分、福島発17時25分発、黒磯着19時18分、黒磯発19時24分、宇都宮着20時13分、宇都宮発20時27分、浦和着22時02分、浦和発22時04分、蕨着22時10分。そしてようやく蕨駅の近くのホテルにはいる。 4日目はもう帰るだけ、というわけにはいかない。蕨発6時17分、赤羽着6時25分、赤羽発6時29分、新宿着6時43分、新宿発6時48分、豊田着7寺20分。関東以外の人には中央線の豊田、といっても全くぴんとこないでしょう。立川から二つ目の駅、八王子の一つ手前にあります。住所は日野市、日野自動車の工場は駅から北へ1.5kmのところにあります。ここに今回の3つ目の目的があります。みんなの童謡で紹介された「たき火」の歌碑があるのです。場所は北口に出て西へ1kmちょっと、旭が丘中央公園の一画にある。TVに映されたそのまま、それ以上の何がある、と言う人もいるかもしれませんが、ここに来なければ見えないものが必ずあるとぼくは思っています。事実、歌碑の裏側に、作詞をした巽聖歌の略歴が記されていました。その最後に皇太子妃(現皇后様)美智子様の短歌が紹介されていました。『山茶花の咲ける小道の落葉焚き 童謡とせし人の今亡く』。美智子様は学生時代、児童文学に関心を持たれ、聖歌たちの研究会によくオブザーバー参加され勉強された。そして聖歌の創作に大変共鳴され、作品を愛された。後年、妃殿下になって施設の訪問の折りなどには聖歌の詩集を配られたそうです。この短歌は聖歌が亡くなった折りに寄せられたものです。 表裏両面の撮影を済ませれば、あとは元来た駅に戻るばかり、とはいきません。中央線の南を走っている京王線の平山城址公園駅に向かうのです。距離にして2.5km、こんどは京王沿線に用がある。調布から4つ目のつつじヶ丘駅に降り立つのは初めてではありません。以前この駅の近くに友人が住んでいて、東京に用事があったとき泊めてもらった。あれから20年近く経ってまたここに来るとは夢にも思わなかった。駅の南200mにある小さなお寺、常楽院、この住職を務めていた本多鉄麿が「おもいでのアルバム」の作曲者だったのです。お坊さんがなぜに童謡の作曲を、と不思議に思われるでしょうが、彼はお寺が経営する神代幼稚園の園長さんでもありました。さらに大学時代の4年間著名な童謡作曲家弘田龍太郎に師事していたのです。彼が残した曲は2000曲を超えるといわれています。本職は住職でもなく園長さんでもない、作曲家だったのではないか、そう思わせるほどの多作ぶりです。この歌がみんなの歌に採り上げられたのは1982年、それで一気に世間に知られることになるのですが、その10年くらい前から幼稚園や保育園の卒園式ではすでに歌われていたようで、関係者の間ではポピュラーな歌になっていた。でもこの曲が作られたのはさらにさかのぼる61年のこと、みんなの歌に採り上げられる20年も前のことだったのです。そして作曲者の本多鉄麿が亡くなったのは66年、世間にも、関係者の間にもさほど知られていない、浸透していないころでした。今ではほとんど全ての園児がこの歌を歌って卒園していく。おそらく35歳以下の日本人でこの歌を知らない、歌ったことがないという人はいないのではないかと思えます。 歌碑の撮影を終えると、最後の目的地小田原へ向かいます。小田原は北原白秋がスキャンダルのあと一時身を隠した地、小田原文学館とみみづく幼稚園に歌碑があります。そして、荻窪用水にはめだかの学校のふるさともあります。小田原城をゆっくり見学している時間はとてもとれません。
2007年06月17日
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そうこうしているうちに、予定の1時間半があっという間に過ぎてしまう。ビデオは見ていないし、試聴コーナーでも3曲くらいしか聴けなかった。全部味わうにはあと1時間は必要です。でも電車は待ってくれないので、やむなく1階へ下りる。購買部でパンフレットとテレホンカード、CD(「オリンピックマーチ」と「巨人軍の歌」が入っている第5集)を購入する。パンフレットにはレコード化された全作品のリストも載っています。そのパンフレットのタイトル(自伝のタイトルでもある)が「鐘よ鳴り響け」。 ちょっと時間に余裕を持たせて記念館をあとにします。次に向かうのは、岩手県の北上市、ここには、どういう訳かサトウハチロー記念館があります。13時01分福島発、14時36分仙台着、14時43分仙台発、16時23分一関着、17時03分一関発、17時49分北上着。そのまま駅前のホテルに入り、記念館は翌日一番に出かけます。 なぜぼくがサトウハチロー記念館に行かねばならないか。滅多に来ることのない東北に来たついで、ということはもちろんですが、ずっと前から気になっている詩があった。39年前TV番組で発表された詩。「明日は君たちのもの」という番組で今津中学校吹奏楽部が紹介されたときによまれた詩です。それから4年後ぐらいにその詩が掲載されている詩集を本屋で見つけたのですが、結局買えなかった。折りにふれ買えなかったことを後悔していたので、このさい記念館まで行けば何とかなるだろうという淡い期待を抱いてのことだったのです。 記念館は北上川の対岸にあります。駅から北へ600m、300mの橋を渡って南に1500m、周りに何もないへんぴなところにあります。ぼく以外には2500mを歩いて往復する人などいないから問題はないのでしょう。開館は10時、帰りの電車は12時59分だからたっぷり2時間以上遊べるわけです。受付のすぐ横のテーブルには販売用の詩集や伝記などの書物が並べられていました。でもぼくの目指す詩集はその中にはありません。その横に立っている書架(ガラス扉に鍵付き)の中にはハチローの詩集や著書、おそらく刊行された全てが並んでいます。もちろん「明日は君たちのもの」1巻2巻3巻揃っています。でも鍵がかかっていて手に取ることはできない。ここまできて諦めることはできないので、受付の女性に尋ねてみる。しかし答えは期待通りとはいきませんでした。
2007年06月16日
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記念館の1階の南側はサロン、くつろぎ場所であり、ミニコンサートなどが行われたりもします。その部分は吹き抜けで2階はありません。北側はロビー、カウンター、事務所があり記念品が買えるようになっています、さらに通路があってその奥は倉庫。展示室は2階にあります。写真の右側の円柱の部分が螺旋階段になっています。保管庫を除く展示スペースは14m×14mくらいで相当ゆったりしていて、天井も高く天窓から光がもれてくる。先ず目に付くのは、作曲家の仕事部屋です。和室に座卓が三つ並べられている。それぞれに五線譜と筆記用具が置かれている。忙しいときには3っつの曲を同時に作っていたということらしい。曲によって座席を移しながら書き続けたというのですから、その仕事量のすさまじさが想像できようというものです。 展示室には、絶えず古関メロディが流れています。古関裕而作品集、として100曲が5枚のCDになっていて、1階のロビーでも販売されているのですが、その中から代表的な曲が流されています。「オリンピックマーチ」「巨人軍の歌」「慶應義塾大学応援歌」などが聞かれます。試聴コーナーではその100曲がヘッドホンで聴けるようになってもいます。ぼくは時間がなくて見られなかったのですが、その横にはビデオコーナーもあって、「故郷ふくしまと古関裕而」「菊田一夫との仕事」「不滅のスポーツ音楽」等に区分し、映像で紹介されています。 東西の壁一面には、幼少期から近代まで大きく5つに分けられた略年譜と写真パネルが張られ、それぞれの時代の愛用品や記念品が展示されています。中央の陳列ケースには、自筆色紙、SPレコード、ゴールドディスク、作曲作品の楽譜等、古関裕而の活躍を紹介する数々の資料が展示されています。その中で、釘付けになった物がありました。 長崎の鐘 作詞 サトウハチロー1 こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ なぐさめ はげまし 長崎の あゝ 長崎の鐘が鳴る2 召されて妻は 天国へ 別れて一人 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの 鎖に白き 我が涙 なぐさめ はげまし 長崎の あゝ 長崎の鐘が鳴る3 つぶやく雨の ミサの音 たたえる風の 神の歌 耀く胸の 十字架に ほほえむ海の 雲の色 なぐさめ はげまし 長崎の あゝ 長崎の鐘が鳴る4 こころの罪を うちあけて 更け行く夜の 月すみぬ 貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様 なぐさめ はげまし 長崎の あゝ 長崎の鐘が鳴る その、詩に歌われた、本物のロザリオが目の前にあったのです。詩のモデルになった永井博士から送られた物でした。その横には永井博士からの手紙も展示されています。 「長崎の鐘」が映画となり、あなたが作曲して下さいましたあの歌が 主題歌としてその中に生きることになりました。あのメロディが発表以来ちっとも飽かれず 人々の口に親しまれて今日に至り、さらに主題歌として一層()愛唱されるだろうと思うと、うれしうございます。ほんとうに美しい曲を生んで下さいました。この曲は多くの戦争犠牲者の心にしみ入り慰め励まし 立ち上がる力を与えています。 聖霊の御恵みがあなたの()ゆたかにそそがれ 次々 名曲の生まれるよう祈りをささげます。 その前で立ちつくし、ただただ涙を流すばかりでした。
2007年06月14日
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その、古関裕而の記念館が彼の故郷、福島にできあがったのは平成元年のこと。市制施行80周年の記念事業として建設されたものです。ぼくがこのことを知ったのはずっと後になってからのことでした。たぶんパソコンを買ってからのことだと思います。丘灯至夫の記念館があるのはTV「遠くに行きたい」で見て知っていたので、それをネットで調べているときに、見つけたのだと思います。 福島まで新幹線で行くとしたら、往復43280円。いくらもっとも尊敬する作曲家の記念館とはいえ、それを見るためだけにそれだけの費用をかけるのは忍びないものがある。例によって例の如く、青春18切符に頼るしかない。ここ姫路から西へ行くと、初日は大分県の宇佐市まで行ける。東へは、餃子の町、宇都宮まで行ける。姫路発7寺21分、米原着9時50分、米原発10時09分、大垣着10時43分、大垣発10時55分、浜松着12時46分、浜松発12時53分、熱海着15時35分、熱海発15時40分、東京着17時27分。上野発17時57分、宇都宮着19時48分。12時間27分の楽しい楽しい電車の旅です。 2日目は、宇都宮発6時58分、黒磯着7寺48分、黒磯発7寺55分、福島着10時08分。32年ぶりに福島駅に降り立ちました。ほんのかすかな記憶でしかないけれど、32年前と今見る福島駅は、駅舎も、駅前の風景もまるで別世界のようでした。記念館は福島駅から北東の方に2.5km、本来ならバスに乗るべきところ、時間も何処行きかも分からないので歩くことにする。13時01分の電車に乗ればいいので、記念館ではたっぷり2時間は過ごせる計算です。駅前通を東へ、東急インの角で左へ折れて、すぐ次の角を右に折れる。5分ほど行くと大きな通りに出る、国道4号線だ。斜め左、北北東の方角へ行く。そのまま国道を行っても行けるけれど、400mほどで真北に入る道を行く、少しだけ遠回りになるけれどこちらの方が確実に行けそうな気がした。左手に市役所が見えてきた、間違いない。裁判所、NHK、郵便局を過ぎて、神社に突き当たる。突き当たれば右だ。間もなく福島音楽堂が見えてくる。そしてその隣には、ようやく独特の形状の建物が見えた。南側半分は特徴のある円錐形の屋根、これはもちろん「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台」で有名なラジオドラマ「鐘の鳴る丘」に因んで設計されたものです。
2007年06月11日
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ちょっとポップなアレンジにはなったけれど、今なおNHKのスポーツ番組のタイトルに使われています。この曲が最初にレコード化されたのは1949年ですからすでに58年を経過している。タイトルや作曲者は知らなくても、ほとんどの日本人が耳になじんだ曲になっています。この曲が古関裕而作曲であることを知ったのはいつのことでしょう。中学でも高校でも吹奏楽部にいたけれど楽譜は見たことがなかった。でもメディアかなんかで知識だけはその頃までには持っていたような気がします。だから大学に入ってこの楽譜が配られたときはほんとに嬉しかったのを覚えています。 でも、依頼演奏(日本生命の野球の応援)のためだったので、僅か1日の練習1日の本番だけに終わってしまって、すごく消化不良。しかも、トリオは♭が3つで、指をまちがえないようにするのが精一杯で、曲を楽しむ余裕はもちろん、ちゃんと演奏できたという感じもありませんでした。ちょうどその頃全音高い(フラットが二つ少ない)変ロ長調の楽譜が出版されていたのですが、そちらならもっと楽しみながら吹けたのではないかと思います。 この曲と同年同月にレコード化されたのが、全国高校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」です。同じコロムビアレコードだったことからしても、1枚のA,B面だったと思われます。この歌も物心付いたときから聞いていたので、いつの間にか作曲古関裕而ということは知っていたように思う。でも作詞をした加賀大介とこの歌についてのエピソードを知ったのは、ずっと後のことでした。高校野球が一番盛り上がっていた頃、池田高校が畠山、水野の活躍で夏春連覇を果たした頃だったと思う。熱闘甲子園でそのエピソードが紹介された。作詞は公募されたものでした。1位入選したのは中村道子という若い女性、賞状を受け取る彼女の写真が紹介されました。しかしこの詩を作ったのは彼女ではなかったのです。彼女の夫である加賀大介が作詞したものでした。彼はプロの詩人、文筆家だったので、懸賞金目当てに応募したと邪推されるのを恐れて自分の妻(当時は婚約者)の名前で応募したのです。そしてその秘密はそのままにされ、それから19年後、50回大会の時にようやく公表されたのです。この詩が1位入選したのは彼がプロだったからではありません。彼も甲子園を目指す球児だったのです、しかし病気で片足を切断、その夢を絶たれてしまったのです。この詩は作られたものではなかった。彼の体の中から湧き上がってきた、心の奥底から湧き上がってきた魂の叫びだったのです。そして誰よりも、この詩で甲子園に出場したかったのです。だからこそ、名前を伏せた。 松坂大輔も斎藤佑樹も破ることができなかった三振奪取83個の大会記録を持ち続けている板東英二さんは、この歌が流れてくると直立不動になるといいます。一瞬にして49年前の自分に戻ることができるのだと言います。それだけの力を持っているのはこの歌が作られたものではないからなのでしょう。
2007年06月08日
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古関裕而作品リストに、大阪タイガースの歌は記されていません。というのも、このリストはレコードになって発売されたものに限られるからです。この歌が作られたのは昭和11年。レコードは作られたのですが、一般発売はなく、関係者に配る分だけの限定制作だったのです。 「おはようパーソナリティ中村鋭一です」という画期的なラジオ番組が始まったのは1971年。ぼくが高校に入学した年のことです。1年生の時は電車通学をしていたので7寺20分頃には家を出ていて、ほとんど聞けていなかったのですが、2年生からは自転車通学に切り替えたので、30分くらいは聞けるようになった。そこで初めて聞いたのが、阪神タイガースの歌、でした。甲子園球場ではこの歌をずっと流していたらしい。スタジアムに通うファンにはよく知られていた歌だった、でもそれ以外の場所で歌われたり、流されたりすることはほとんどなかったから、ごく限られたファン以外の人にはその存在すら知られていなかったのだ。球場では若山彰が歌うレコードが流されていたというけれど、そのレコードが売り出されていた記録もないから、曲を流そうにも、歌詞を覚えようにも、できなかったのかもしれない。この歌が関西の虎ファンの間に浸透していくのにさほど時間を必要とはしなかった。73年には中村鋭一歌唱によるレコードが発売、40万枚の驚異的なヒットを飛ばす。中村氏は参議院選挙に出馬のため77年に番組を降板したのですが、その後を引き継いだ道上洋三という人は中村氏に負けないほどの虎ファン、そして歌うパーソナリティで、この歌が廃れることはなかった。それに、選挙に落選した中村氏は昼間の番組に復帰して、ここでも、阪神が勝った翌日には必ず歌ったので、露出は2倍になった。80年には立川清登、83年=植草貞夫、85年=道上洋三、93年=唐渡吉則、94年=オマリー、など以後もさまざま歌手、グループによってレコード化され続けている。優勝セール、残念セールの頃には、あらゆる商店街、スーパー、デパートでこの曲が鳴り続けている。淀川工高は定期演奏会で必ずこの歌を演奏する。近頃では、関東でも「六甲おろし」を知らない人がほとんどいないのではないかと思えるほどになった。古関裕而が作った曲の中で、現在もっとも聴く機会の多い曲になっていることは間違いない。作られて70年以上になるのに毎日のように(最近は負けが込んでいるのでかなり減ってはいるけれど)ラジオから流れ来る曲など、ほかには考えられない。作曲者としてこれほど嬉しいことはないのではないかと想像していたのですが、本人はむしろ不快に思っていたというのです。 「大阪」を無断で「阪神」に変えられてしまった。「おおさか」につけたメロディであって「はんしん」につけたメロディではない、と言うのです。実際この部分のメロディは歌いにくくて、作曲家のキダタロー氏によれば、楽譜どおりに歌っているのは立川清登氏だけだといいます。作品リストには77年の「津和野慕情」までが記されているのですが、73年の中村鋭一歌唱による「阪神タイガースの歌」は載っていません。自分は「大阪タイガースの歌」は作曲したが、「阪神タイガースの歌」は作曲した覚えはない、という作曲家自身の強い意志によるものだったのかもしれません。
2007年06月06日
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高校の修学旅行は東北に行きました。前年まで北九州だったのですが。ぼくたちの年から、3つの候補から生徒が多数決で選ぶようになった。東北に決まったのは、若い頃スクーターで奥の細道を全部巡った古典の西川先生の影響が反映したからかもしれない。地学の桑原先生は、阿蘇の雄大な風景を見てもらいたかった、と残念がっていましたが。 初日は2班に分かれて、A班は松島へ、B班は平泉へ行きました。その後それぞれ山寺(立石寺)に向かい、蔵王温泉で合流。2日目は蔵王のお釜を見て会津若松へ、飯盛山で白虎隊の剣舞を見学し、芦の牧温泉に宿泊。3日目は裏磐梯高原でグループ行動、五色沼を散策します。そのまま裏磐梯の国民宿舎に泊まり、最終日は吾妻小富士に登りそのまま福島駅から電車に乗る。東京から姫路までは寝台列車に乗った。 特に楽しいことも思い出に残ることもない普通の修学旅行だった(吹奏楽部で指揮者になったばかりだったので、クラブのことばかり気になっていた)のですが、戻ってしばらくしてからFMから流れてきた曲にハッとなった。 高原列車は行く 作詞 丘灯至夫 作曲 古関裕而1 汽車の窓から ハンケチ振れば 牧場の乙女が 花束なげる 明るい青空 白樺林 山超え 谷超え はるばると 高原列車は行くよ2 みどりの谷間に 山百合揺れて 歌声ひびくよ 観光バスよ 君らの泊りも いで湯の宿か 山超え 谷超え はるばると 高原列車は行くよ3 峠を越えれば 夢見るような 五色の湖 飛び交う小鳥 汽笛も二人の幸せ歌う 山超え 谷超え はるばると 高原列車は行くよ ぼくたちは高原列車に乗ったわけではない。でも、まるでぼくたちの旅行を歌ったものではないかと錯覚するほどだった。そしてこの明るくて、清々しいメロディを聴くと、まるでぼくの修学旅行がこのように明るくて楽しいものであったかのような錯覚に陥ることができる。本当にいい気持ち。 『これじゃ、まるでスイスかオーストリアだ!』。自作につけられた曲を聞いて、丘灯至夫は仰天した。郷里の大先輩で、敬愛する古関裕而らしく、実にハイカラで、センスに溢れ、テンポもいい。自分が描いたイメージとはまったくかけ離れている。 しかし、聞いているうちにたまらない嬉しさがこみあげてきた。『やはり、この詩には、この曲以外にない』。そう確信がもてた。 (中略) 二年前の「あこがれの郵便馬車」に続いて、同様の歌を、という依頼を受け、即座に頭に浮かんだのが、幼少時の懐かしい記憶のある福島県猪苗代町の沼尻鉄道だった。磐梯山のすぐ東に連なる川桁山の麓を、磐越西線川桁駅から北の安達太良山麓まで走っていた鉱石運搬用の私鉄ローカル線だ。68年に廃止されるまで、沼尻、中ノ沢などの温泉への足としても利用された。豊かな地方色に満ちたその列車に、湯治のために家族と何度乗ったことだろう。 その思い出の詩が、まるでヨーロッパの登山電車のような趣をたたえて完成したのは1954年のことだった。
2007年06月05日
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家にステレオがやってきたのはそれから5年後、ぼくが中学3年生の時でした。あのカラヤンが松下電器のTechnicsのステレオのTVCMで田園を振っていた頃のこと。最初に買ったのはもちろん「田園」と言いたいところですが、本当のところは「The Sound of Music」のサウンドトラック盤でした。当時リバイバルで公開されて、ものすごく感動して、一夏で4回も見に行った。今ならDVDが1500円もだせば買える。当時はLPレコードが2300円もした時代、現在の物価にすれば10000円以上したことになる。それで音だけ、でも宝物だったですね。飽きることなく何度も何度も繰り返して聴いたものです。 その次に買ってもらったのが「名画太平洋戦争」。これは太平洋戦争を描いた画集に、LPレコードが1枚付いて、12曲の軍歌、戦時歌謡が収められたものす。それが4巻で一組になっていた。今考えてもなぜ中学生の自分がそんなものを欲しがったのか全く思い当たらない。それまでに父親が買った軍歌のレコードが何枚もあって、それらをしっかり聞いて全部歌えるくらいにはなっていたのですが、新たにレパートリーを増やそうとでも思ったのでしょうか。すでに50曲以上の軍歌のレコードがあったのですが、この48曲には知らない曲が半分以上入っていたのが魅力に感じたのかもしれません。その48曲の中で、特に気に入ったのは「決戦の大空へ」「愛国の花」「ラバウル海軍航空隊」の3曲でした。この3曲を作曲したのは、古関裕而でした。このとき、確かにはっきりと古関裕而という作曲家を認識したのです。軍歌、戦時歌謡の作曲家としての彼を。 「決戦の大空へ」は戦時中に公開された予科練を舞台にした映画「決戦の大空へ」の主題歌として作られたものです。『七つボタンは桜に錨』で有名な「若鷲の歌」はこの曲を作り終えた後、新たに曲想が浮かんでついでに書き上げたものだそうです。ところが予科練習生達にはついでに作った方が人気で、この本来の主題歌は戦後全く忘れ去られていたようです。「若鷲の歌」は寮歌のような感じで、宴会でみんなが肩を組んで歌うのに最適なのに対し、「決戦の大空へ」は西洋的なメロディでとにかくスマートで格好いい。そのスマートさは海軍そのものではあるけれど、宴会で歌うとなると、違和感があったということなのでしょう。このレコードのアレンジがまた素晴らしい。フルオーケストラの魅力をたっぷり味わえる。歌は藤山一郎、録音当時60歳くらいだったはずだけれど、歌声の若々しさ、力強さには圧倒される。 「愛国の花」は戦時歌謡の代表曲といってもいいでしょう。軍歌というと、とにかく勇ましくて景気が良い曲が多い中、この曲は全く異質で、ワルツで書かれている。内地で家族を支える妻や母親を描いた女性の歌。この曲をウィンナワルツにアレンジしたら、シュトラウス一家のそれにも増して素晴らしい曲ができたのではないかと、つくずく思ったくらい美しいメロディです。この曲が作られたのは昭和13年、太平洋戦争は始まっていませんが、こういう時代にこんなにも美しいものを産み出す作家の才能には、感嘆するほかありません。 愛国の花 作詞 福田正夫1 ましろき富士のけだかさを こころのつよい楯として 御国につくす女等(おみなら)は かがやく御代の山ざくら 地に咲き匂う国の花2 老いたる若きもろともに 国難しのぐ冬の梅 かよわい力よく協(あ)わせ 銃後にはげむ凛々しさは ゆかしく匂う国の花3 勇士のあとを雄々しくも 家をば子をば守りゆく やさしい母やまた妻は まごころ燃ゆる紅椿 うれしく匂う国の花4 御稜威(みいつ)のしるし菊の花 ゆたかにかおる日の本の 女といえど生命がけ こぞりて咲いて美しく 光て匂う国の花 彼が最初に軍歌、戦時歌謡を書いたのは昭和11年の12月。その年は91曲作った内軍歌は3曲でした。12年は89曲の内22曲、13年は53曲の内24曲、14年は43曲の内13曲、15年は28曲の内9曲、太平洋戦争が始まった16年は32曲の内14曲、17年は30曲の内、21曲、18年は13曲の内11曲、19年は14曲の内14曲、20年は5曲の内5曲。 これを見ると、昭和11年、12年から戦争は始まっていたことを改めて認識します。どうしても16年からという意識が先ずあって、廬溝橋事件に端を発した日華事変(日中戦争)はどうしても戦争、戦時下という感じがしなくて、侵攻と戦争とは別のもののように捉えてしまっていたのです。 この数字だけを見ても、作家の苦悩が見て取れるようです。戦争が進むにつれて、普通の曲が書けなくなっていく。14年には全盛期の半分しか書けていないし、翌年には3分の1しか書いていない。まだ太平洋戦争が始まっていない段階でです。最後の3年はさらに少なく、普通の曲は1曲も書けない。そういう状況になかった、音楽など書いたり、聞いたりしている場合ではなかったというのが見て取れるようです。
2007年06月04日
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初めて買ったレコード、というのがしばしば話題になる。ラジオ番組の電話テーマになったりもする。最近ではもちろんレコードではなくCDということなんでしょうが。初めて買ったといっても、子供の頃のことだから、厳密には買ってもらった、あるいはお小遣いを貯めて買ったということになるでしょう。 ぼくの場合、そのどちらとも違ったような気がする。記憶は定かではないけれど、親が買ってきたものが、すなわち、ぼくの欲しがっていたものである。つまり一家の欲しがっていたものが一致していた、という感じだったと思う。その1枚は、古関裕而の「オリンピックマーチ」。なにしろ、その電蓄(レコードプレーヤー)を買ったきっかけが東京オリンピックそのものだったからです。 東京オリンピックが終わったその年の冬休みか、翌年の夏休みに、西宮の伯母(母の姉)の家へ遊びに行ったら、カルピスの景品でもらったという、東京オリンピックの実況録音を盛んにかけていた。それは5枚組のソノシート(フォノシート)で、五輪の色に染め分けられて、入場行進や、バレーボール、体操、柔道、など日本人が活躍した種目を中心に、実況の音のみが収められている。今では考えられないでしょうが、画がなくても音だけでも、わくわくして何度も繰り返して聞いていた。その同じものが5組ぐらいあったので、もしプレーヤーを買うのなら持って帰ったら、と言われたので、家もプレーヤーを買うことになった。つまり東京オリンピックがなければプレーヤーを買うのはずっと後になっていたはずなのです。 だから、最初のレコードが古関裕而になるのは、ごく自然なことだった。演奏ははっきり覚えていないけど、消防庁音楽隊だったと思う。でもこのとき、古関裕而という作曲家をどれだけ意識していたか。たぶん、全く知らなかったし、意識することもなかったかもしれない。でも、これがぼくの最初の古関裕而体験であったことには間違いない。
2007年06月01日
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