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「何故仕事をするのか?」その質問に答えることが出来ますか?これと全く同じことを今日私は先輩に聞いた。その先輩は少し考え方がラディカルなこともあって、現場内でも話題になることが多かった。その先輩にかかれば一般的通念というものも意味を成さなくなる。その考え方が時々怖くなるが、だからこそ色々なことを聞いてしまうというものだ。要は怖いもの見たさと同じ感覚なのかもしれない。一般的に仕事をするということは生きていくことと同義だ。本当の意味で生きていく為には仕事をしなくてもいいのかもしれない。しかし豊かで充実した生活を送るという前提で話をするのであれば、仕事をしている方が効率的だし、生きていく為に必要なお金も稼ぎやすい。その代わり「自分の時間」という限りなく命の価値に近いものと交換することになる。端的に言ってしまえば仕事をすることで時間がなくなっていくことは自分の時間の切り売りだ。1時間あたり幾ら貰えるかはネゴシエーションの見せ所というわけだ。仕事に対して生き甲斐を感じたり、その仕事をすることでヒューマンスキルを向上させるといことも大いに前向きな動機ではなると思う。しかし今現在仕事をしている人にアンケートをとってみれば仕事をしているということに対する現状はすぐに見えてくる。賢明な方ならどちらの上記理由と自己啓発ではどちらの意見が多いかは実際にアンケートを取らなくてもわかるだろう。理想と現実には少なからず乖離があるという一番卑近な例かもしれない。兎に角その先輩に何故仕事をするのかというようなことを聞いてみた。すると先輩はこう言った。「やりたいことをやる為だ」と。私はこれには少し驚いた。一般的な物の見方からかなり離れている印象であったので、そんなまともな答えが返ってくるとは思ってもみなかったからだ。しかしだからこそ疑問に思うところもある。その先輩の夢は開発関係の仕事をすることらしい。開発といえばIT業界における花形みたいなもので、なることも難しいとされている。しかし先輩は今の会社に2年ほどいるにも関わらずその職についていない。そのことが私には不思議に思えて仕方ない。人間やりたいことがあればそれに向かって邁進するはずだ。その先輩のように開発関係の仕事がしたいのであれば、より自分の才能を買ってくれるような会社にとっくに移動しているはずだし、そうでなかったとしてももっと早い段階で会社側に自分の意向を伝えているはずだ。今の仕事に埋没しているということはやりたいことがあるといくら声高らかに言ったとしても説得力がない。今の仕事はそう、未来へのベクトルに何もないということなのだから。結局のところその先輩の考え方は「やりたいことがあってそれに向かって頑張っているという風に考えないとやっていけない」ということなのだろう。もしも開発関係の仕事が本気でしたいのであれば、もうとっくに今の会社にはいないだろう。今の会社は開発関係に於いてはまだ着手したばかりという言ってしまえば弱小レベルであり、そんなところの開発関係についたとしても高がしれているというものだからだ。私が追求しても結局そこのところを認められなかったが、そういうことなのだろうと簡単にトレース出来た。これはバッシングではない。しかし美徳を守ることと現実を見ることは別問題だ。社会的に美徳とされるのは「前向きで向上心溢れる仕事ライフ」かもしれないが、現実はそう甘くはない。若いから、未来があるから、それだけの理由では可能性を信じてくれるほどぬるい会社なんて存在しない。やりたいことがあるのであれば、その関係の仕事をアルバイトでもいいから始めている方が今の環境に埋没するよりも夢の近道だ。それが出来ないということは、中途半端な構え方をしているか…そう思い込むことで何かしらの目標があるように見せかけているかのどちらかだ。そのような考え方は愚かではない。やりたいことが見つからない人は多いわけだし、やりたいことがあってもそれが今の立場からかけ離れている場合よく起こる現象だからだ。結局最期までその先輩は認めなかった。しかしその気持ちが私にも少しはわかる。やりたいことがあると信じないと仕事は出来ない。この仕事が天職だと思い込まないと本当に興味があるかどうかわからない仕事は継続しない。私もやりたいことは見つかっていない。しかし今の仕事を途中で投げ出すようなことはしない。この会社が発展性があるのか、そしてこの職種の本質は何なのか、そこに興味を見出せるのか、それがわからないから今の職場にいるのだ。それは前向きな動機ではないかもしれないが、美徳に流されるようなことはありえない。少なくともなんとなく仕事をしているといった甘い考えは私にはない。綺麗事ではつとまらないのが仕事だということだろう。こんなことを考えるのももうすぐ私の職場がなくなるからだろう。入社してまだ半年強だが、早くもターニングポイントに差し掛かっているのかもしれない(苦笑)
Jan 31, 2008
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12時間以上寝ると体の節々が痛い_| ̄|○私の仕事柄かもしれないが、どうしても睡眠時間が不足がちになってしまう。しかも今の時期は飲み会が多く、余計にその流れは助長されることになる。今は新年会だとか歓送迎会だとかが連発する時期(あくまで私の会社的な意見)なので、夜勤が終わってそのまま飲み会に行くこともざらだ。そうなってくると次の日が休みならまだいいのだが、休みではない時はかなりキツイ状態で仕事に向かわなければならない。最近ミスをしている私としてはそのようなことは避けたい。誰だってミスをすることが嫌なことだとされている以上は、飲み会における2次会や3次会の出欠は自由意志にして欲しいものだ。しかし悲しきかな、新人という立場がそれを許さない。しかも、私の現場の飲み会には変なルールがあって、飲み会が終わった後はほぼ100%の確率で私の家に集まるというものだ。理由としてはただ「近い」だけなのだが、飲み会がある度にいつも1人から4人くらいが集まるのはあまり嬉しいものではない。しかも上司からの「お部屋抜き打ちチェック」が入る。駄目なところはガンガン突っ込みが来るから堪らない。なので私の最近の飲み会の前にする準備の定番は「ウコンを飲む」だけではなく「部屋を綺麗に片付ける」というものも加わった。私は基本的に飲むのが好きだ。だからと言って騒ぐわけではない。いつも気の合う仲間と飲む時は席の隅っこの方で喋らないで飲んでいることが多い。だからと言っていてもいなくてもいいかと言えばそうではなく、会話が沈みそうな時(終わりそうな時と同義)にはちゃんと会話の何かの材料を放り込んでまた会話に華を添えることは忘れない。言ってしまえば私の役目は消えそうな盛り上がりという火場に新しい会話という薪をくべる役なのだろう。喋りたいkとおが無ければ喋らないというのが私のポリシーだと言える。だからかもしれないが、会社の飲み会があんまり好きではない。新人は全てに於いて目を配っておかなければならない。上司のグラスが空なら注ぎに行く、料理が無くなりそうならバランスよく配りなおす、空いた食器は片付ける、その全ての作業を一人でしなければいけないからだ。そういう仕事が嫌いではないのだが、雑多な作業をすすんで出来るのは「気の合う仲間」という前提がある。会社の人のように腹の内では何を考えているかわからないような人達と一緒にいても全くリラックスできそうもない。そんな場において自分らしさを出すことなんて不可能だ。上記のように飲み会が多い今の時期は面倒だし、財布の紐も緩みがちになってしまう。それが辛い。まぁそれでも今の時期だけだと思うので、仕事が妙に多い時期のような感覚で乗り切ろうと思う次第だ(笑)さて、本題へ。最近ハッピーなニュースを聞くことが多い。世間では暗いニュースが多い中で、私の周りでは嬉しいニュースが相次いでいる。以前のブログに書いたようなのっちゃんの結婚に始まり、私の友人には次々と伴侶が出来ている。私を知っている人、そして私が知っている人という括りで話をするならば、みんな幸せだと言える。とても素晴らしくて嬉しいことだ。しかしそんな状況だからこそふと一つの仮説が浮かんできた。当の私自身は幸せではない。何も変わったことはないし、伴侶が出来そうな流れも皆無だ。仕事でミスもするし、肝臓も悪くしている。持病も全く回復の兆しが見えない。しかも数ヵ月後には今の会社が無くなるときていて、はっきり言って不幸の権化だと言える。しかしみんなは幸せ、そこから導かれる考察は私が不幸になればなるほどみんなは幸せになるのではないかということだ。世の中の原理はゼロサムであることが多い。どこかの誰か1人が巨万の富を成しているということは、その裏で何万人という人が貧困に喘いでいるということだ。1000万円設けたということは、1000万円損した人がいるということだ。勿論全てが私に絡んでいるわけではないのだが、それでも私の周りで不幸な人なんて本当にいない。それでいて私に幸運な出来事は皆無だ。ということはやはり私が関係しているという考えに及んでしまうものだ(笑)しかし…ここで注意しなければならないのは、私が不幸だからみんなが幸せというわけではない。みんなが幸せだから私が不幸だということだ。ここを間違えてはただの自惚れになってしまう(笑)本当のところはどうかわからないが、少なくとも私に関係した人はみんな幸せだ。この事実だけは間違いない。でもそのように考えると、みんなが幸せになるほど私が不幸になっていくような気がする。ゼロサム理論の恐ろしいところを今後見ていきそうで怖いものだ(苦笑)でもふと思う。しかしこの仮説は本当ではない。そんなことは自明過ぎて議論の余地もないのだが、この仮説が本当ではないという理由が1つだけある。それは…そのみんなの幸せだという話を聞ける私は幸せ者だからだ。これが私の幸せなのだろう♪
Jan 30, 2008
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世代じゃないからかもしれないが「じゃりんこちえ」と「あさりちゃん」の区別がいまいちつかない(笑)どちらも私が子どもの頃にやっていたものなのだが、ニュアンスが似ているというか何と言うか…兎に角いつ見ても同じもののように思えて仕方ない。こういう類のものは結構あるから不思議だ。びっくりするくらいどうでもいいほどの前置きはいいとして本題へ。ブログを書き始めてそろそろ2年が経とうとしている。私のブログは日記以外のことを書いたりと色々やってきたこともあってか、2年間でネタに困ったことはほとんど無かった。2年間を通して日記記入率が90%を割らなかったのはそういうところから来る効用なのかもしれない。ブログを続けていると面白いことに、お気に入り登録をされることもしばしばだ。それはブログをあげた時に偶然に遊びに来てくれた人がなんらかの感情を抱いてお気に入り登録してくれたり、自分が色んなところに遊びに行った結果お気に入り登録になったりと様々だ。しかしそのお気に入り登録というものを通してなかなかに面白いものが見えてくる。今回はそれに関する内容だ。お気に入り登録をする・されるという段階において、楽天ブログではそのお気に入りする・される人がブログを更新した場合自分のブログに表示できるようになる。つまり、その人がブログを更新した時がお気に入り登録者にはすぐにわかるということだ。その機能を見ていると思うのだが、ブログを継続して続けている人というのは本当に少ない。私も10人くらいのお気に入り登録をさせていただいているのだが、それでもお気に入り登録をして相互リンクにした瞬間から今まで継続的にブログを更新し続けている人はほんの3人くらいしかいない。皆さん何らかの理由でブログから離れてしまうことがほとんどだ。その原因は以下のことがあげられる。まず第1に、時間がないからだ。これが一番大きい問題かもしれない。ブログを書くということはそれに割く時間が必要だということだ。日々忙しい生活の中からゆったりした時間を更に割いてブログを書く、それは本当にブログを書くことを日常化しなければいつかは破綻してしまうものだ。現実が忙しい人ほどブログに割く時間は比較短くなっていく。勿論例外はあるが、おおよそそんな感じだろう。そして第2に、ネタがないということだ。ブログを日記代わりに使っている人はブログにも毎日あったことを書く。それは言ってしまえば日記の代用であるからして、継続率は高くなる可能性がある。しかし逆を言えばそのようなことを「ブログでする意味」がなくなってしまう懸念もあるということだ。別に机の引き出しに仕舞っておいてノートに書くもブログに書くも意味としては同じだからだ。私はこの2年間で多くの人と出会い、そして別れてきた。それは表面上から見ればただ何万といるブログの管理人と出会い意気投合し、そしてその人がある日ブログを書かなくなった、それだけかもしれない。しかしそういう中にもツール上特性的な出会いはあるはずだ。そういう出会いを大切にしてきただけに、お気に入り登録をした人が突然ブログを書かなくなると心配にもなるものだ。しかし同時にブログというものは個人の自由であるということもまた自明なのだ。ブログを書かなくなったことが或いは幸せな事象の誘引だったと考えれば…それもまた一つの門出だと思えるから不思議なものだ。私はここにいてそしてこの内容を書いている。これを見ている貴方もそしてブログを書いているかもしれない。そしてページを閉じてしまえばその関係もそこで永遠に終わるかもしれない。しかしその刹那の邂逅に価値が出る瞬間、書いていて良かったと思える瞬間でもある。私がブログを書き続ける意味の1つにそれがある。
Jan 29, 2008
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白く明けてゆく空に浮かぶ不知火陽気な夢に灯された赤い幻選ビ損ネタモウ片方ハアナタガ笑ウ ヤワラカナ旅路今コノ総テ置イテイッテモ届カナイ夢ノ果テ教えてあてどもなく踏み出した足はどこへ続くのあなたを沈めていく虚の淵ウタカタ揺れる甘い攪拌に浮かび踊る想いは小さな叫び声上げて淡く弾けたコノママフタリ繋イダ腕ヲ切ラズイレタラ何ヲ見タダロウワタシノ足ハ 在リシ場所カラドレクライ離レタノあなたが望むのなら微塵に砕いて忘れてもいい遠くへ霞んでいく想いの粒を探さぬように光溢れる 出口の先へ 舵手にした方舟は漕ぎ出す封じ込めていく 落とし込んでく 帰る場所などここにはないから光溢れる 出口の向こう 舵手にした方舟は漕ぎ出す封じ込めていく 落とし込んでいく 帰る場所などありはしない教えてあてどもなく踏み出した足は何処へ続くの遠くへ霞んでいく そのすべてを覚えてる再び出会えるなら1からわたしを見初めて欲しいあなたを沈めていく虚の淵ウタカタ揺れる天野月子さんの「ウタカタ」だ。こればっかり聴いている。最近実家からようやく学生時代に使っていたコンポを回収して来たということで、またCDの収集が始まった。その第一弾としてCDを店を巡って集めてきたというわけだ。学生の頃にいつも通っていたお店よりも繁華街に近いお店に行けるようになったということで品揃えのいい店に行けるようになったのが嬉しい。一般的にCDを買う人と買わない人がいる。今はCDをわざわざ買わなくても音源を手に入れることは可能だ。レンタルショップが多くあるからだ。しかしレンタルするという産業が発展しているにも関わらずCDという媒体を売り出すという行為が廃れないのは…マイナな音楽を好む人、レンタルショップに置いていないようなCDが欲しいという需要があるだけではなく単純にコレクター精神の成せることだろう。私も好きなアーティストのCDは借りるよりも自分の手元に置いておきたいと望むので、レンタルショップで借りるようなことはあまりしない。2番目に好きだとか、そこまで入れ込むほどではないというアーティストに関しては借りるという形をとっている。このようなコレクター精神の強い人が多いのでCDを販売するという産業は無くならないのだろう。今やレンタルを超えてPCに落とし込むことも可能になり、余計にCD業界は売り上げに困窮することになるかと思いきやそうでもないということは上記層が思っているより厚いことを示しているということだろう。余談だが、タワレコのレシートはどうしてあんなに長いのかわからない。紙の無駄遣いじゃないだろうか?(笑)
Jan 28, 2008
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三角関係という言葉がちょっと気になる。三角関係とは主に男女の関係を指す表現だ。3人の男女がいて、その恋模様を三角関係と表現することが多いが、その言い方に少し疑問を感じることがある。例えばAとBとCの三人がいたとする。そしてAはBのことが好きで、BはCが好きであるとする。このような図式は一般的に言うところの三角関係だとされているが、本当にそうだろうか?男女が3人いるということは「一般的で普通」の恋愛を想定するのならば男性が2人で女性が1人か、女性が二人で男性が1人という構図になる。Aが女性と仮定するならば、Bは当然のように男性になる。ということはCも女性だということになる。関係性としては三角にしたいわけなのだから、AとCが好意的な関係、よしんばどちらかが好きにならなければいけない。しかしAもCも女性であることからそのような気持ちを抱くことは考えにくい。同様にAが男性でBが女性、Cも男性である場合も同じだ。「三角」という綺麗な形を保つ為には必ず同性を好きになる必要性が出てくる。なので結局のところ、上記の例は一般的に「ABCの三角関係」と言うかも知れないが、厳密に言うのならば「線分AC関係」というべきだと思われる。CからAに対しての気持ちは恋愛関係ではあり得ないからだ。ということを仕事の休憩時間に考えていた。こんなことを真剣に考えるのも私くらいだろう、我ながら流石AB型だと思う(笑)前に少しブログにも書いたのだが、幼馴染ののっちゃん(過去ログ参照)の結婚式の招待状が届いた。のっちゃん自身が私の知る限りではかなりいい加減な性格であることを鑑みると、結婚式も軽いノリで行うかと思っていたのだが届いた招待状はかなり本格的に仕上がっていた。中学生の頃ののっちゃんとはかなり違う真面目っぷりだった。それだけでかなり面白かったのを覚えている。しかしここで重要なことに気づいてしまった。私は友人の結婚式に行ったことがないということだ。まずは招待状をどのように返していいのかわからない。仕事の関係上出られるか出られないかはわからないが、どちらにしてもそれ専用の返し方というものが存在する。今まで自分には関係なかったので気にも留めなかったのだが、よく考えてみるとそれを知らない。下手なことは出来ないだけにことには慎重にあたらないといけない。まずはそこが第一関門だ。次に問題なのは何を着ていくかということだ。おそらくはスーツで行くのがベターだとは思うが、それにしてもスーツの色合いをどうしていいのかわからない。お葬式や通夜に関しては黒を基調にしていればいいというのは常識だが、その理論で言うと結婚式は白のスーツで行かなければならなくなる。白のスーツなんてカッコいい人の特権みたいなものだ。間違っても私のような人が着て似合うものではない。となると…どのような格好で行けばいいのか悩むというものだ。同時にネクタイの色なども考えなければならない。おおよそ格好には迷うというものだ。第二関門も厳しい壁が待っていそうだ。次に問題なのは…一人で行くかどうかということだ。確かに友人のIとNは招待状を貰ってはいないがとても行きたそうにしていた。出来れば私も多くの人と一緒に行きたいと思っている。招待状がなくても行っていいものかどうかがわからない。最期に問題なのは、いくら包むかということだ。確かに肉親や血族ではないので多くは包まなくてもいいということはわかっている。しかし、ただの友人ではない、2歳からの付き合いなので親密度合いとしてはかなりレベルが高い。そうなると…いくら包むのがベストなのかがわかりにくい。たくさん包めと言われるよりもその人に対する気持ちがもろに出る分額には迷うというものだ。こればっかりはバイブルもないので私のセンス一つに拠るところが大きい。最終関門もまた難しい問題になりそうだ。こういうことで悩むのは一般常識がないからだということはわかっているが、どうしても必要のないことというのは考えが及ばないので仕方ない。一億円当たったら何に使うかを常に考えている人がいないのと同義だ。自分には縁のないことには思慮が及ばないということなのだろう。恥ずかしくない立ち振る舞いと格好で行かなければのっちゃんに怒られそうだ(汗)
Jan 27, 2008
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朝から雪が降り続けている。ちょっとしたチョイスミスで自転車で仕事に出かけたことを後悔した頃にはもう遅かった。通勤路の半分まで来てしまっていたのだ。ここからならば帰るのも面倒になるし、何よりもそんな時間はなくなる。だからと言ってコンビニで傘を買うのも億劫だというものだ。ここは素直に雪に降られながら仕事まで行くことにした。今日の仕事は土曜日ということで比較的楽なことが容易に想像がついたが、それでも楽しく仕事をすることが出来た。それというのも、今日待っているイベントが大きく関係している。時間を遡ること数週間前。ちょうど2007年12月31日の22:00くらいのことだ。その時私は地元の友人のIとNと一緒に毎年恒例の飲み会を敢行していた。毎年輪をかけるようにグダグダになっていっているのだが、新年を迎える厳かな時間において騒いだりするのは野暮というものだ。そういうコンセプトのもとで静かに飲んでいるわけでは決してないのだが、私はそう思っている。きっと間違いではないだろう(笑)まぁ兎に角いつもながらに静かに飲んでいると、ふとNがIの彼女について質問をし出した。私はあまりIの彼女について知らなかったので興味深いと思って聞いていると、その内容はかなり面白いものだった。なんでもIの彼女はテレビで有名なアイドル(?)のイン○ンに似ているということだった。渋るIに携帯電話に登録されている写真を見せてもらったのだが、確かにそっくりだった。お酒の勢いも助けてNが会って一緒に飲んでみたいと言い出したので、善は急げとことは纏まり、今回その飲み会の席を設けることになったというわけだ。今日がその日だ。私は日勤だったのだが、日勤の辛さも忘れて仕事を頑張った。もうすぐで楽しい飲み会に行けると思うと自然にうきうきしたものだった。取り合えず何の問題もなく仕事を終え、待ち合わせ場所に向かった。Iの彼女さんが仕事で遅れると聞いた私達は取り敢えず先に飲んでおくことにした。入ったのは道の途中にあった小さな居酒屋だった。何時もながらに私達には「計画的に物事を進める」ということが出来ない性分にあった。何かを綿密に計画して遊んだことなんて一度たりとも存在しない。いつも適当に出歩いて何かあればそこで時間を潰して…そんな感じだ。確かに綿密に計画を組んで遊ぶのは面白いし、むしろ私はそちら側の性格なので、最初こそこのようなまったりと言うか何も考えていないところに随分呆れたものだった。しかし慣れてみるとそれはなかなか面白いもので、今ではすっかり彼らのペースに嵌ってしまったと言える。無計画で遊ぶのもまた緊張感を伴わない私達の間柄と同じぐらいゆったりしていることに気づいたからだ。そんなわけで適当に入った店で先に飲むことにした。私は仕事終わりですぐに駆けつけた為にお腹も空いていたのだが、最近の接待飲み会の癖がついてしまい、結局あまりものを食べられなかった。厄介な癖がついたものだと苦笑したものだった。その後は本屋やCD屋を巡ったりして時間を潰し、最終的には3時間後にIの彼女さんと合流することが出来た。その第一印象はと言うと…イ○リンそっくり!!目が(笑)確かにそっくりなのはそっくりなのだが、それでも目だけという感じだった。しかし逆にそれが私には良かったと言える。私は美人過ぎる人は苦手だ。それは自分のような感じの人が親しくしていいのかと何だか申し訳ない気分になってしまうからだ。それが一期一会の人ならまだしも、Iの彼女さんとなると…もしかしたら今後も大いにお世話になることがあるかもしれない人だ。イ○リンに似ていると言われた時から私が苦手とする感じの人だったらどうしようと思ったのだが、綺麗過ぎないがかなり可愛いと言ったようなそんな印象だった為に助かった。人見知りはあまりしないが、あまりにも相手が綺麗過ぎると口を閉ざすという性格もここでは発揮されなかった。やっと合流したということで目的のお店に行くことになったのだが、その道中、初めての人なので親しげに話すのもどうかとあまり口をきかなかった私に気を遣ってか、彼女さんの方から私に声をかけてくれた。「今日は仕事終わりなんですね、すみません、遅れちゃって…」そんな一言をかけてくれたからかどうかはわからないが、その後はフレンドリーに話すことが出来た。店までの長い道のりもずっと話をしながら行ったものだった。今になって考えてみると、彼氏であるIの横を歩かずにどうして私の横を歩いているのかと不思議だったのだが、きっとそれは彼女さんなりの気遣いなのだろうと思った。店に着くと席に着きいよいよ本題の飲み会が始まった。お酒が入るとなかなかに話題も多くなってきて盛り上がったのだが、私が一番楽しかったのはIと彼女さんが仲良さそうに話していることだった。前々からIに彼女さんがいることは知っていたが、私が知る限りではほとんど電話で喧嘩をしているイメージしかなかった。なのでもしかしたら仲は険悪なのかと思ったのだが、実際に二人でいるところを見てみるとそんなことは一切なく、むしろとても仲睦まじいように見えた。飲み物を取る時、食べ物をとり皿に取る時、そういう時はいつもIのことを気遣ってまるで夫婦のように接していた。そんな二人を見ていると、Iが幸せそうなのと反面…少し寂しくなってしまった。私はこんなことをしたことがない。Nもなんだかんだで高校時代から付き合っている彼女さんがいる。私だけが独りだ。そう思うと楽しいと思う気持ちと寂しいと思う気持ちが半々だった。やっぱり独りは寂しい…。まぁそんなセンチな気分も拭い去って、解散する時が来た。3週間ぶりに地元の知り合いに会えた感想は最高だったと言える。楽しくて4人分の食事代は全部私が持ったくらいだった。これくらいはIの幸せに対する祝福としてとっておいてもらいたかった。Nは電車で、そして私達はタクシーで帰ることにした。ホテルまではそこまで時間はかからなかったものの、それでも私は彼らのタクシー代を出すつもりでもいた。どうせ私も家まで帰るのにタクシーがいったからだった。ホテルに着くとタクシーの運転手に「次の目的地まで」と告げる前にIからお金が渡された。私はいいと言ったのだが、どうしてもそこは譲れないらしく、結局受け取ってしまった。ホテルからUターンして出て行くタクシーを、Iと彼女さんはずっと見送ってくれた。帰りしなにIと彼女さんが最期まで手を振ってくれているのが見えて…ちょっとだけ感動した。Iは兎も角、彼女さんの方は今日初めて会ったのだ。それにも関わらずちゃんと最期まで見送ってくれるなんて思わなかった。嬉しいとともにちょっとだけIがうらやましくなった。いい人を見つけたものだ♪やはりいい人にはいい人が伴侶になるというのは間違いではない理論らしい。それを痛感しながら雪の降る帰路についた。
Jan 26, 2008
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今週の土日もまた仕事が入っている。一時期会社の先輩が、その月の土日全てに仕事を入れられていて憤慨していたのだが、よく考えてみると、その先輩と同勤になることが多いということは私も同じ運命だということだ。土日というものにそこまで未練はないものの、それでもやはり時々はこう思ってしまうものだ。普通の仕事と同じサイクルで生活したい、と…。まぁ私が土日に働いているということは、他のどなたかがその時休みであることを意味している。私のようなぺーぺーが働くことで休みを提供出来るならいいかなとも思った時期もあったが、あまりにもそれが続くとその考えにも陰りが出てきてしまうというものだ。出来れば休みたいものだが…そればっかりは私の力ではどうしようもないというものだ(苦笑)では本題へ。私は家にインターネットを繋いでいる。マンションの関係で光ではないものの、なかなかに早いADSLを使っている。ということで毎月インターネットの料金を払っているのだ。しかし今月はいつまで経ってもその請求書が来ない。もしかして忘れられているのかもしれないと不安になったのだが、その請求書を配布する仕事は郵便局が担っていて仕事を行う前にクレームを入れるというのはあまり気分のいいものではないし、料金を支払うというデメリットに対して自分から近づいていくというのも正直に言ってしまえば癪だ。なので、向こう側(郵便局側)が動かないうちは私も平静を装っておこうと思ったものだった。しかし先日、その料金が未納の為による督促が来たのだ。「貴方は料金を払っていませんね?どうなっているんですか?」的な内容の封書が来たのだ。これには大いに驚かせてもらった。料金を払う為の術を掲示してくれないのに払わないつもりか?と聞かれても困るというものだ。一応その封書は最終督促ではないらしく、いついつまでの期日で払えばオッケーだという不本意ながら見慣れたものだったので、急いで支払いに行ったものだった。期日までは大いに余裕があったので、払ったということで満足してしまい、そのことは忘れていた。しかし今日、郵便ポストに意外なものが入っていた。それは郵便局からの手紙と小さな箱が同封されたものだった。こういう類のものが私にとって有益な結果だったことが一度も無い為に、その箱がポストに入っていることに対して嫌悪感しか抱けなかったのだが、まぁ冷静になって自分の過去の行動を鑑みてみてその後でゆっくり開けることにした。箱と一緒に同封されていた手紙にはおおよそ以下のように書かれていた。「配達したんだけど、局の人間が配達先を間違っちゃったみたい。しかも間違って配達しちゃった人が開けちゃったんだよね。いやぁごめんごめん。粗品あげるから許してね♪」開けてみると、やはりと言うか何と言うか…今月のインターネットの料金に関する封書が入っていた。別に謝られるほどのことではないような気がする、それと言うのも料金の請求書よりも督促の方が的確に素早くくるので、そっちの方が払うという過程においては便利だからだ。もう何日か前に払ってしまっていたので、私もすっかり忘れてしまっていたというわけだ。同封されていた箱には謝罪の意味を込めたであろうタオルが入っていた。小さなタオルだったのだが、結構高級な品だったのでラッキーだった。普通の人ならばそこでもう考えを巡らすことをやめるかもしれないが、どうしても私には気がかりなことがあった。それは誤配達をしてしまった人のことだ。誤配達をしてしまってその謝罪の封書が来るということは、その誤配達をしてしまった人のいる局ではもう上司にばれてしまっているということだ。小さなミスでも有耶無耶にしてはいけないということを考えると、その誤配達をしてしまった方は上司にこってり絞られたことだろう。問題報告書を書いているかもしれない。今までに仕事で何回か問題報告書を書いている私としては…どうしてもそこのところが気になってしまうというものだ。民間の…しかも私の家への配達を間違えたくらいで怒られているというのは逆に申し訳なくなるというものだ。今度同じミスをしなければ別に謝ってもらわなくてもいいということを猛烈に感じた。このミスをした人は新人さんだろうか?ベテランさんだろうか?どっちなのかはわからないが、エンドユーザーに直接手紙を書いているということはちょっとした大事だと言える。その方が今どんな目に遭っているのかを想像すると…ちょっと切なくなるというものだ(苦笑)
Jan 25, 2008
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雪が降っている。積もりはしないが、それだけで何故か不思議な気持ちになる。雪自体が珍しいわけではないのだが、どうしても「そこにあるべき形」というものを考える上では市内で雪が降ることに特別な感情を抱いてしまう。雪が降る地方で降る雪は別に珍しいものではない。雪が降る地方というのは北海道を例外として田舎よりであることが多い。田舎よりということは、高いビルや繁華街が比較少ないということだ。その中で降る雪は風景にマッチしていて非常に綺麗だ。しかし都会で降る雪は私だけかもしれないが、違和感しか覚えない。違和感と言うと嫌悪感を抱いているようだが、決してそうではない。ただ何と言うか…不思議な気持ちなのだ。地元が田舎で何もなくて、それが嫌で…そして自分の仕事を探す為に都会に出てきた。そんな中でも時々地元を想うことはある。そんな懐古主義に浸らせてくれるもの、それが都会に降る雪だ。しんしんと降る雪は昔のことも思い出させてくれる。なんだかセンチな気分になってきたが、本題へ。私の職場に新人さんが来ることになった。その話は一ヶ月前くらいから噂になっていたのだが、実現するかが非常に不透明な状態だった。この度その話が正式に決まり、2月いっぴを以って配属されることになった。しかしこの新人さんが来ることは、私にとってかなり複雑な心境になってしまう事象だ。その理由は…多くある。まず、その新人さんが私の会社ではかなり偉い立場の人だということだ。言ってしまえば、係長レベルだ。そんな人が私の配属先の現場に「新人」としてくるのだから、かなり扱いに困るというものだ。私よりも遥かに偉い立場ということで、当然のように年齢もかなり上だ。だからこそ接し方を考えてしまう。確かに仕事は私の方が出来るという自負はある。前の現場ではかなり色々なことをやってきたようだが、それでも今の現場には今の現場のルールというものがある。ノウハウは上回っていて然りだ。敬語で仕事を教えるというのも何か距離があって嫌な気がする。以前のブログに書いたが、前に来た新人さんの時とは全く異なる心情だ。そこにはやはり立場という問題が関係している。幸いにして一緒に仕事をすることは当分ないだろうからそこまで心配ではないのだが、一番気にしているのは私よりも先輩で役職がついている方々だろう。今の現場でどんなに偉くなったとしても、今度来る方よりも偉くなることは会社レベルで無理だ。となると…文字通り目上の人に対して仕事を教えるということになる。それはどんな心境なのか察するも憚られるというものだ。そもそもその方は私のいる現場に来る必要なんてない。むしろ使っていた汎用機の専門分野に進んだ方が懸命だと言える。しかも今まで使っていたような機械に関する知識なんて私の現場には必要ない。来てからすることと言えばISO9001関連の雑多な仕事が待っているだけだ。そうなると私が毎日しているような基本業務も出来ないままに運用側にまわるという妙な図式が完成し、余計に下の者との間に軋轢を生むだけの存在になってしまう懸念がある。失礼かもしれないが、それが私「達」の本音だ。胃が痛くなる出来事が2月の最初から待っていそうだ。それ以上に、そのことによる愚痴とその労いの飲み会が増えるだろうことが容易に想像できるだけに私にも災難が降りかかってくるというものだ。財布の紐はしっかり締めておくに越したことはない。
Jan 24, 2008
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部屋のすぐそばにマンションが出来た。私の住んでいる辺りは私のいる市でも結構賑わっているところであり、且つ大きな道路に面していることもあってか、大きくて高そうな(価格的な)マンションが乱立している。私の住んでいるマンションはマンションというよりもアパートという表現の方が正しいくらいにこじんまりしている。大きなマンションと大きなマンションの間に出来たエアポケット的な感覚というのが一番的確な表現だと言えるだろう。こじんまりしているだけに近くのマンションとは家賃が圧倒的に異なっており、はっきり言って半分くらいの値段で住んでいるというくらいだ。それだけに貧乏人の私には助かっている次第だ。しかし今回出来たマンションは所謂デザイナーズマンションというような感じで、いかにも高そうな(価格的な)雰囲気を醸し出している。きっと住むにはもっと社会人としての「格」をあげないといけないと思う。そういうようなところで違いを感じてしまう辺りは貧乏故の悲しい性だと言えるだろう(苦笑)自虐的なことはこれくらいにして本題へ…最近妙に社会人マナーという言葉を聞く。仕事において一番重視すべきところは多々あれど、人の本質的に仕事だけによらず全てにおいて重視しなければならないことにマナーがある。例えば飲み会の場に然り日々の勤務に然り。私の職場でもセキュリティの次に口酸っぱく言われていることの1つだ。そんな現場において私は現在一つの軋轢に悩んでいる。それが今回のテーマだ。会社内の廊下で得意先の人に出会ったとしたら…。そうでなくても目上の人に出会ったとしたら…どうするのが一番マナーの面で的確な行動だろうか?答えは言わずもがな頭を下げることだ。それに関しては何の異論もないだろう。目上或いは得意先の人と出会った時には人と人が直に接している為にそのような行為をすることは自然なことだと言える。しかしもしも人と人とが直接会わないような場面でマナーをしっかり守るという行為はどうすればいいのだろうか。そのいい例が電話対応だ。一般常識を弁えている方なら自明のことかもしれないが、電話というのはかけた方から切るというルールがある。このルールの出来た謂れは知らないが、そのようなルールがあることはもう周知の事実だ。勿論このルールは親しい間柄…例えば友人であるとか家族であるとかの場合には徹底すべきことではない。しかし適度な緊張感を伴うような場面においてはこのようなルールは大変重要な意味を持つ。何故ならば、直接顔を合わせて会話しているわけではないからだ。表情も周りのシチュエーションも関係ない、ただ声と態度だけで接すること、それが電話における対応だ。声はいくら明るく明瞭に出来たとて、態度というものは普段のものが出てしまうものだ。その面で電話におけるマナーというのはとても大切なものになってくるというものだ。私の仕事場には多くの会社の人間が働いている。ざっと数えるだけでも6社の人間が同じビルの中で同じ会社の為に働いているというわけだ。その多くはプロパーと呼ばれる私達よりも偉い人間に位置づけられている。プロパーというのは簡単に言ってしまえばシステムエンジニアみたいなものだ。私達が使っている機械でトラブルがあれば、そのプロパーに連絡をとって対応を行うことになるのだが、そのプロパーは同じ階にいるわけではないので、連絡の方法は必然的に電話でということになる。しかしそのプロパーの電話対応の時の態度が実に不快なものなのだ。上記に挙げたような「電話はかけた方が先に切る」というルールも守ってくれないし、半分笑いながら対応されたこともある。兎に角日頃からマナーマナーと言っている人その人がマナーを守っていないのだ。確かに電話においてかけた方が先に切るなんてことはほんの小さなことかもしれない。それよりも重要なマナーもあるかもしれない。しかし「小を軽んじる者に大を成すことは出来ない」という言葉もあるように、小さなことでも出来ない人は大きなことでも絶対にボロが出てしまうものだ。30歳や40歳を超えてそのような最低限のマナーも守れないなんて可哀想で仕方ない。私は仕事においてはまだまだ新人のようなものなのでわからないことも至らないことも多いが、そのような最低限のマナーは守っている。それを行うことを褒められるような謂れもないのだが、守れない人が多いのは悲しいことだ。いくら仕事が出来ても、私はそのような人を尊敬したいとは思わない。そしてぞんざいな扱いを受けてもなお笑顔で電話対応をすることが出来る。それもまた…マナーなのだから。
Jan 22, 2008
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今日会社で革命的且つ斬新な発表があった。この件に関してはかなり書くことをためらったのだが、それでも包み隠さず私生活を書いている上で、このような重大な変化を書かないわけにはいかない。しかし今日の発表もまだ決定稿ではないということらしい。確定次第随時書いていこうと思う。まぁ興味がある方がどれだけいらっしゃるのかはわからないが、興味があるかないかではなく、私の中での大きな問題である為に書かなくてはいけないと思う。自己満足の域を出ないかもしれないが、それほどまでに重要なことだということは前置きが無駄に長いことからも推測していただけるとありがたい。まぁ不確定な話はいいとして…今日は会社の先輩と飲み会がある日だった。夜勤明けでそのまま行くことになっていたので、睡眠時間が大丈夫かと心配になったのだが、夜勤なので仮眠をとればいいと楽観的に考えていた。しかしその考えはサービス業における夜勤を軽視した考え方だということを後に知ることになった。その日は日付が変わるぐらいまでは平和だったものの、日付が変わって休憩時間に仮眠を取ろうとした辺りから猛烈に忙しくなってきて、とてもじゃないが寝ている時間なんて無かった。機械が故障するだとかそのような次元のトラブルが相次ぎ、ほとんどその対応に関しては素人の私まで駆り出されることになってしまった。まぁ私がしていたのはトラブル対応ではなく通常の作業ばかりだったのだが、その比重はあまりにも高く、休憩してご飯を食べることなんて出来なかった。私が最後に夜食を取ったのは夜勤が始まって7時間後の0時付近だった。トラブル対応もひと段落つき穏やかになった頃にはもう東の空が明るみ始めていた。そう、この日は全く寝られずに仕事をすることになってしまった。よく考えてみれば、仕事中に寝るということは一般的な仕事にしてみればありえないことなのかもしれないが、私達のような夜の仕事を主としている(お水ではない)職種においては、仮眠という行為は大きな意味を持つ。格好つけて仮眠を取らないで仕事をした結果ミスが起こったという事例は過去に何度も報告されている。その観点から見ても、休憩中に寝ることは悪とはされていないということだ。頑張ることと無理をすることはベクトルは同じでも同義ではないといういい例だろう。そんなこんなで仕事が明けた時にはもうぐったりしていた。猛烈にそのまま家に帰って寝たい衝動に襲われたのだが、そんなことをすれば先輩との飲み会の約束に間に合わなくなる。ここは眠い目を擦りながら飲み会の時間まで待つことにした。今回の飲み会を企画した先輩は自称大酒飲みで、かなりの量のお酒を飲んでも潰れないし、お酒を飲むという行為に喜びを感じている人だった。しかし最近では飲み会を開いても上層部の人間を交えたものばかりだった為に思うがままにお酒を飲むことが出来ずフラストレーションの溜まる場ばかりだったということだった。新人や若い人達との交流を図るという名目で開かれたのだが、どうにもそこに上司を気にしないでお酒を飲みたいという気持ちが見え隠れしていた。それをうまく隠そうとしながらもバレバレなのが逆に面白くて、その飲み会に参加することにしたのだ。その飲み会は取り敢えずは盛り上がったのだが、そこで私は大きな発見をした。以前ブログに書いたが、私は地元の友達IとNと大晦日には恒例の年明けまで飲むツアーを行っている。そして私は今年のツアーで熱燗に目覚めた。熱燗は日本酒の類なので苦手だと思っていたのだが、熱燗にするとなんと美味しいことか。ちょっとだけお酒に目覚めそうになったほどの出来事だった。それと同じくらいの驚きが今回の飲み会であった。それはウィスキーだ。ウィスキーと言えばガウンを着たダンディなおじ様が楽しむようなものだと勝手に想像していたものだったのだが、実際に飲んでみるとなんと美味しいことか。ウケ狙いで頼んだ先輩は私がお酒が弱いことを知っていての嫌がらせのつもりだったろうが、私の思わぬ反応につまらなそうな顔をしたほどだった。なんというか…のど越しがかなり深い。胸がカーッと熱くなる感覚、そして味。全てにおいて私に大いなる驚きを運んでくれた一品だった。行った店が普通の居酒屋チェーンなのできっと高級なウィスキーではだろうが、それでも私の感性を刺激するには十分な味を持っていた。これは好きなお酒に入るかもしれない♪ウィスキーが好きな23歳ってどうなんだろうか?それともガウンを着たダンディなおじ様が好んで飲むというイメージがおかしいのだろうか?どちらが正しいのかはわからないが、久方ぶりにお酒が美味しいと思えた出来事だった。
Jan 21, 2008
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今日の予報は雪なのだが、雪が降りそうな気配がない。一般的に雪が降った時は傘を差す人と差さない人に大別できるらしい。私は後者で、雪が降った時は傘を差さないようにしている。それは、雪は払ってしまえば服が濡れることがないからだ。雨よりも数倍マシな存在だと言える。今日の予報が雪なので、傘を持っていかずに出かけようかと思っていたのだが、しかし予報は外れて雪1:雨9くらいの雨が降っていた。こういう時が一番厄介だ。雪の予報が出ている時というのは決まって寒い時だ。当たり前なのだが、雪は上空の気温が一定以上下がらないと降らないとされている。上空の気温がそれだけ低いということは必然的に地上付近の気温も低い。そんな状態でないと雪は降ることが出来ず雨になってしまうからだ。そんな中で降る雨というのは本当にキツイものがある。少しでも濡れてしまうと外気の寒さに直に影響を受けて寒くて仕方なくなってしまうからだ。小さい頃、片手を離しながら自転車に乗っていて田んぼに落下したことがある私としては、自転車に乗りながら片手を離すということは非常にトラウマになっているというわけだ。まぁ今日は素直に歩いていくとしよう。早めに目が覚めた。前日に早く寝たのが関係しているのだろうか?何はともあれ手持ち無沙汰になってしまったので、家のことをすることにした。取り敢えずは洗い物を洗濯機に放り込んで、洗濯しながら食器やシンク周りの掃除をする。そしてそれが終われば、ご飯を炊いて、その後は部屋に掃除機をかける。毎度毎度もう6年間もしてきた掃除のルーティンワークだ。しかし今日は何かが違った。私はいつも机の上に常備しているのだが、掃除機をかけている時にふとキーボードの上の汚れが気になった。キーボードの上と言えばキーが細かくて掃除がしにくい場所とされている。いつもその掃除にはやきもきしていたのだが、今日はその際に名案が閃いた。もしかしたら掃除機で直にキーボードの上を吸ってしまえば効率的に掃除が出来るのではないかと。思い立ったら吉日の私はそれを実行してみることにした。思った通りキーボードの上はみるみる綺麗になっていった。気分が良くなった私は更に綺麗にしてやろうとぐいぐい掃除機を押し当てていると…「ゴゴゴっ…」明らかに埃やごみを吸っていたのでは出ない音がした。たまに掃除機をかけていてクリップなどを吸い込んだ時に聞こえる音が聞こえたのだ。私はこの音が結構好きで、掃除機をかけるときにはゴミ箱に捨てればいいものをわざわざ地面に設置してこの音を聞くという妙な癖がある。今回もその音が聞けたと更に気分良くなったのだが、その時私はまだ自分がしてしまったことに気づいていなかった。掃除もひと段落したので、コーヒーなんかを作ってのんびりと考え事をしていた。そして久方ぶりに以前の掃除よりも遥かに綺麗になったパソコンを眺めた時…私はしばらく呆然としてしまった。なんと…F3キーがない!!!あの会心の吸い上げ音はF3キーが天に召される際の断末魔の叫び声、否叫び音だったらしい。自分の愚かさを嘆きながらも、キーの表面が剥がされ真ん中のセンサーみたいなところをジャストポイントで押さなければいけない可哀想なF3キーをため息をついて眺めているしかなかった。しかしまぁ…考えようによっては良かったかもしれない。これがもしもエンターキーだったら凹みも数倍に及んでいただろう。しかし被害に遭ったのはF3キー。普通にパソコンを触っていたのではあまり使うことのないキーだ。もしも私のパソコンが仕事で使っているような汎用機だったならば、F3キーが無くなるのはかなり致命的だ。エンターキーよりもF3・F8キーをよく使う汎用機において、F3キーの消失は甚大な被害を及ぼすからだ。実際私はこのパソコンを使い始めてからもう2年以上は経つが、覚えている限りでもF3キーに触れたことは数えるほどしかない。まぁ実害はないということで自分を納得させるしかないようだ_| ̄|○掃除機でキーボードの掃除は危険、それが今回私が学んだ教訓だった(苦笑)
Jan 20, 2008
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携帯電話の留守番電話ってどういう意味だろう?留守番電話の定義は勿論のことながら、電話をかけたい本人若しくは取り次いでくれる人が家にいない為に「留守番をする」電話のモードのことだ。つまりは電話が家にあることを定義としているわけだ。しかしながら携帯電話というのは持ち歩く、文字通り「携帯する」ことを前提としているものだ。それにも関わらずに「留守番」とはどういう意味なのだろうか?携帯電話には家に置くタイプの電話よりも多くの機能を有している。車の運転中だから電話に出られないというドライブモードを始めとして、電源を切ることも簡単に行うことが出来る。電話に出られないからごめんなさいという方法は幾らでもあるわけなので、携帯電話における留守番電話は必要ないように思える。色々なツールを搭載しながらも昔ながらの機能を有そうというアナログ主義だということだろうか。それならば中々に感慨深いものなのだが…せめて名称は変更すべきだと思える(笑)2連休最後の日となったわけなのだが、今日は本当にまったりと過ごしていた。1月の後半はなんだかんだと飲み会が重なっていて忙しいので今くらいしかゆっくり出来る日はないのかもしれない。約1週間後には地元の友人のIの面白いイベントが待っている。それが唯一飲み会の中でも楽しみなものだ。Iと言えば…その友人は地元で銀行に勤めているのだが、もともとIの家はご両親が自営で仕事をしている。そのお店は地元では決行シェアが少ないので、私の住んでいる町では重宝する存在だった。そのことを考えていると…不思議なことを考え付いた。今日はそれがテーマだ。一般的に、仕事というのは自分の意思で決めるものだ。自分の興味のある分野の仕事が出来ないと本当に仕事をしている意味はないような気がする。勿論興味があるかどうかを模索しながら仕事をしている私のような存在は例外だが、おおよそ就職活動を行う上では自分のやりたいことを探して行うのが道理だ。誰かに押し付けられてやるわけではないというのが主な理由だろう。しかしIは…長男でありながら銀行員の道を進んだ。家業を継ぐという道がありながらもそれを選ばなかったのだ。私は家で何か商売をしているわけではないのでその気持ちはわからないが、家業を継ぐという道がある上で仕事を選ぶというのはどんな気分なのだろうか?Iはどんなに銀行員が天職だと感じたとしても、結局最終的には家業を継ぐことになるだろうと大晦日の年明け飲んだくれツアー(仮称)の時に焼酎を傾けながら言っていた。その言葉の意味をその時の私は深く考えなかった、否考えられなかった。しかし考えてみれば中々に深いテーマであると感じる。元々敷かれたレールを走るのはつまらないという言葉を聞いたことがある。自分の好きなことを探しながらも最終的には1つのゴールに帰着するというのはどんな気分なのだろうか?善か悪かを決めるというような問題ではないが、私のように自由に仕事を選べる身分よりも一意の気分で決められないことだと感じる。もしも私の家が商売をしていたとしたら、今の仕事をしないで家業を継ぐことを考えたのだろうか。そこまで考えてIの決心に感銘を受けたものだった。少なくとも何も考えないで銀行員になったわけではないという意思が伝わってきたからだ。ちょっと話は逸れるが、親の七光りやそれによる怠惰は最高にかっこ悪いと思う。親がお金持ちだから、親が有名だから、親の仕事を適当に継げばいいから、それだけのことで怠惰に走るのは人間的に軽蔑するに値する。そんな人に選ばれる仕事、家業が可哀想で仕方ない。本当に自分がその家業をしたいのか、そしてそこに親を思いやる気持ちがあるのか、それが家業を継ぐ上で必ず必要になってくるだろう。家業を継ぐとはただ仕事を受け継ぐだけではなく、気持ちを継承することと同義だから。少なくともIは家を継ぐことを視野に入れて今の仕事を楽しんでいる。それが尊敬できるところだと感じる。まぁ愚痴も多いが、溜め込まないで発散しているところを見るとなんだかんだ言いながらも楽しんでいると思う。そんなことを言うとまたIに怒られそうだが(笑)
Jan 19, 2008
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今日から短い連休だ。そのことも相成ってか、やたら気分良く目覚めることが出来た。これは何かいいことがあるかもしれないと思い、今日一日何をしようかと思案した結果…引っ越したまま半年間模様替えをほとんどすることがなかった部屋の模様替えをすることになった。模様替えとは言っても部屋の狭さから考えてもそこまで「遊び」があるわけではない。となると、必然的に動かせる家具と動かせない家具の切り分けはなされることになる。動かせる家具を動かすと言ってもやはり限界があるもので、一通り想定してみたもののやはりパッとしない結果に終わってしまった。これは遂に決行の時かもしれない。というわけで前々から考えていた新しく部屋に仲間入りする同志を探しに出かけることにした。貯金もたくさんあって裕福な暮らしが可能であれば行きたい店もあるのだが、如何せんそのお店の家具は高すぎる。こうなると貯金をしなかった、否できなかった自分に腹が立つというものだが、それも自業自得なので考えるのはやめた。物事の実行には段階を踏むことが肝要だ。目指す理想の部屋を完成させるにもやはり段階を踏む必要があるみたいで、欲しい家具を揃える前にまずは準備段階に入ることにした。なので所謂普通のショッピングセンターみたいなところで家具を揃えることにした。となるとまず欲しいのは…そう、ソファだ。ソファ自体を持ってはいたのだが、実家に引き上げる際に両親にプレゼントした為(と考えれば楽になるのか)に自分の分は無くなってしまったのだ。値段の割に圧倒的に気持ち良い座り心地なので気に入っていたのだが、引越しの際に荷物になるという一意の理由で同伴は叶わなかった。地べたに座る生活を長い間してきただけに、その体勢に慣れてしまっていたが、やはりソファがあるのとないのとでは圧倒的に部屋の快適性に違いが出る。というわけでまずはそこからだった。前のソファがあまりにも掘り出し物であったこともあって、同じようなクオリティのソファが私が買った時の値段の3倍近くすることに驚き、今はそこまで冒険すべきではないと反省し、小さい座椅子を買うことにした。とてもオシャレなデザインだとは言いがたいが、しかし目指すスタイリッシュなソファまでの場繋ぎということで納得しておくとしよう。そんなことを言うと今まさにお尻の下に敷いている座椅子が凹みそうだが(笑)それを確保した後は本棚を買う予定だった。本棚とは言っても本当に置きたいものは前述した通り手の届かない…こともないのだが、今はその時ではない為に買うのはよした。というわけで庶民の味方、カラーボックスの登場だ。せめて汎用的な色は避けてちょっとだけオシャレな形にしたのだが、所詮は900円前後のカラーボックスだ、限界があるのは薄々気づいていた(笑)今まで平積みにしていた本を綺麗にカラーボックスに仕舞えただけでもかなり部屋の使い勝手は向上したように思える。合計でたかだか5000円くらいの買い物だったのだが、それでも部屋の見栄えは驚くほどに向上した。これならばやっと人が呼べるレベルになったと言えるだろう。家具を揃えるよりも大きな部屋に引っ越した方が合理的ではないかと思われるかもしれないが、お金が貯まっても大きな部屋に引越したいという気持ちはあまりない。今の部屋で十分過ぎるほどに広いというわけではないのだが、そこに私の拘りがある。大きな部屋に家具を置いて見栄えをよくすることは誰にでも出来ることだ。しかし狭い部屋を有効活用して住みやすいものにするには前者の何倍もの苦労がある。苦労があるからこそ厳選に厳選を重ねた家具を置いた時の嬉しさ、部屋の汎用性が飛躍的に上がるのだ。私はその瞬間が大好きだ。だからこそ今の10.5畳の1DKが気に入っている。ここをどう改造するのかを思案するだけで楽しくなるというものだ。まず第一歩で座椅子とカラーボックスの仲間入りだ。私の大好きなお店、ヴィレッジヴァンガードで好きなように買い物をする日まで、色々と部屋について思いを巡らす時間が楽しい時間になりそうだ。
Jan 18, 2008
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昨日は市内でも雪が降った。しかも雪とは言っても雨と雪の混ざったようなものではなく、完全な雪だ。市内とは言っても学生の頃に住んでいた頃よりも明らかに都会であるだけに、明らかな雪が降ると少しだけ嬉しくなる。なんだかんだ言いながらも結局雪を見てテンションが上がってしまう妙な癖はまだ治っていないようだった。結構な勢いで降っていたのだが、大方の予想通り積もるほどには至らなかった。どうせ降るなら積もるくらいまで降って欲しいのだが、そうなると通勤が面倒になるのでちょっと考え物だ。交通機関に関して田舎よりも劣っている点と言えばきっとそこだろう。都市部は少しの雪に動じすぎないような気がする。私の地元はそれなりに雪が降るところなのだが、積雪が40センチを超えても平気で運行している。やはり慣れと安全性の観点から運転を見合わせるということだろうが…それでも多くの人の足に影響が出ることを考えると少し過敏過ぎるのではないかと思うのが正直なところだ。まぁ安全に安全を重ねることは素直にいいことだと言える。何ものに於いても事故を起こすよりはマシだということなのだろう。田舎から都会へ移動していると中々に面白いものが見られることがある。尤もそれが田舎から都会への移動中限定で見られるものではないのだが、それでも私の統計上は田舎と都会の中間的な都市では結構見られるものだと思われる。それは横断歩道に付いている信号だ。横断歩道に付いている信号というのは、もちろん歩行者の為の信号なのだが、所謂駅前のような大きな道に付いている信号ならその意味はわかる。駅前と言えば車の往来も激しく交通をある程度規制しないと事故が起こりやすいからだ。それに往来が激しいということはそれだけ車線の数も増えるので、歩行者が単独で渡る場合に相対的に移動する距離が長くなることも考えられるので、歩行者用の信号を付けた方が安全だという理論なのだろう。そこに関しては全く異論はない。しかし私が疑問に思っているのは、横断歩道が2メートルくらいしかないところに歩行者用の信号が付いている交差点を見ることが多いことだ。これがどうも不思議に思えて仕方ない。市街地に面したバイパスでこのような信号は結構見受けられる。これが今回のテーマだ。「たかが2メートルでも車が来る可能性があるのだから信号を付ける必要がある」これが真っ先に浮かぶ理由なのだが、果たしてそうだろうか?例えば貴方が歩行者であるとして、そのような横断歩道の信号に出くわした時、信号に待たされる不合理について何も感じずにいることが出来るだろうか?2メートルくらいしか道路の幅がないのだから、当然その道を車で行き違うことは不可能だ。それに道路の幅が狭いということは大体一方通行になっていることが多い。つまりは一方からしか車が来る可能性がないのにそこに横断歩道用の信号を付けることによるメリットは何もないということだ。もしも盲目の人が車が来る可能性に気づかずに危険を冒してしまうというケースを考えて信号を付けているのだとしたら、せめて赤になる時に音楽が鳴るような信号にするだとか、点字ブロックを常設するようにすればいいのだが、2メートルのような短い距離での横断歩道の信号にそのような設備が付いているところは見たことがない。もしかしたら他県にはあるのかもしれないが、私は見たことがない。一番効果的なのは、上記のような道があった場合には横断歩道用の信号を付けるのではなく、歩行者には車両が来る危険性を目視して判断するようにすればいいということだ。前述した通り、道路の幅が狭いということは一方通行であることが多いし、そうでないにしても車の行き違いが出来ないことを考えると注意すべきポイントも少なくなり安全性は飛躍的に向上する。車の往来を遮るという弊害はあるものの、それでも狭い道ならばその問題も車の行き違いがないことを加味すると解決される。一番合理的な手法のように思えるわけだ。短い移動距離に設置された信号、それを見る度にその必要性を疑うとともに、いつもある1つの仮説が浮かんでくる。それは年度末の調整に使われたのではないかということだ。年度末は地方交付金を余すことなく使うように、色々な工事が行われる。私が思う限りではその工事が日々の生活に飛躍的に役立ったことは稀だ。むしろいつも通り車が走っている道を片道潰してまで行う工事が多いことを考えると、弊害を生んでいるような気がしてならない。そのくせ完成してもどこが変わったのかがわからないレベルの変化しか生まないことがある。言われてやっと気づくような工事もしばしばだ。それくらいに年度末の調整というのは本当に「調整」という意味しか持たない例が多すぎる。それと同じような所謂年度末調整が歩行者用の信号にも適応されて短い区間の横断歩道にも信号が設置されているような気がしてならない。勿論上記のような例で信号を付けることはまるっきり無駄ではないことは自明だ。安全性が上がる、道路がスムーズに動く、その価値は無いとは言い切れないからだ。しかしそれも微々たる効果した生まないのもまた事実だ。だが、見るからに意味がないということを感じてしまう以上、とってつけたように設置されたという可能性もまた否定できないものになってしまうというものだ。信号1台が幾らするか、そしてそれを設置する為に業者に委託するのにどれだけお金が掛かるか…それを考えると、もっと改善すべきところはあるように思えて仕方ない。
Jan 17, 2008
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荷物の再配達ってどうしてあんなに面倒なのだろうか?実家から荷物が届くことになっていたのだが、その時偶然いなかったこともあって再配達されることになった。しかしこれがまた面倒で…何回も同じような手続きを踏まなければならないことに今更ながら気づいた。荷物が物理的に移動する際にはエネルギーが必要なように、その関係には必ずと言っていいほどに人の力が必要になってくる。ゲームや漫画のように物質を移動させることが不可能なことを鑑みてみると、必然的に手間は比例してくるというものだ。それを考えると仕方ないことかもしれないが…どうしてもその辺りをスムーズにして欲しいと思うばかりだ。欲深いとはこのことかもしれない(笑)今日は仕事をしながらまったり考え事に勤しんでいた。というのも仕事が暇だったからだ。暇さえあればあれやこれやと考えてしまうのは私の悪い癖なのだが、それでも今日は中々有意義な考え事ができたと思う。テーマは料金システムについてだ。例えば貴方がある店に行ったとして、お気に入りのものを見つけたとしよう。そしてそれが欲しくて仕方なくなってしまい、買う決心をしてレジに持っていったとしよう。次に貴方が取る行動はなんだろう?自明のことだが、それは欲しいものに見合った代金を支払うことだ。これはどこの国でも当たり前に行われていることで、決して日本だけに見られる文化ではない。世界レベルで普及している当然のシステムだと言える。しかしその日本において…そのようなシステムではない料金制度を敷いているものが1つだけある。それが何かわかるだろうか?そのシステムは欲しいと言ってもいないのに商品を勝手に出してきて、それに対するお金を払えというような合理的とは程遠いような料金システムを持ったものだ。そう、それはN○Kの料金システムのことだ。考えてみれば、否考えてみなくてもこの制度がおかしいことは自明だろう。例えばレストランに行って頼んでもいないメニューをいきなり持ってきて、客がそれを食べたかどうかを判断することなくその料理に対する対価を払えと言っているようなものだ。とても資本主義の国においてまかり通るべきシステムではない。しかしこのシステムは最早その存在を疑うレベルにはいない。そのことが私には不思議に思えて仕方ない。日本において、店に置いてある商品のどれを買うかは客の「自由」だ。そこには選択の余地が必ず介在している。何を買うかは本人の自由だからこそ商店は数多ある嗜好により商品を多く置くことを考え、合理的な店を目指す。それが市場原理における当然の流れだ。しかし某テレビ局のシステムはそうではない。もしも仮にテレビを買った際に某テレビ局を受信するかしないかの選択肢があるのならば、こんな話題はきっと出ないだろう。見たい人だけ受信し、見たくない人は全く受信しないようにすればいい。そのようなシステムだからこそ受信している人から対価を取ることは正当だという位置づけになる。しかし見ているかどうかもわからないのに、テレビを持っている人から須らく料金を徴収するシステムは誰がどう考えても不合理だと言わざるをえないだろう。これでは押し売りだと言われても仕方ない。しかもそのテレビ局は支払いに応じない場合は法的措置までとるというようなことを仄めかしているという話も聞いたことがある。これこそ愚の骨頂だと言えよう。国営ではない故に経営が厳しいということは何の理由にもならない。経営が厳しいからと言って不合理な料金徴収をしてもいいということにはならない。それは生活出来ないから泥棒してもいいのかどうかという議論に程近いほど議論に値しないレベルの話だ。考えてみればこの話はかなり使い古された内容であるかもしれない。しかし誰もがこのシステムに対して不平を言わないことが私には不思議に思えて仕方ない。好きでもないメニューを勝手に出してきて尚且つそれにお金を払えと強要してくるレストランに好んで行くかどうか…その答えは自明だろう。
Jan 16, 2008
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スーツのお尻のところに穴が開いた!どうしてそんなところに穴が開くのかが全くわからないのだが、強いて理由を挙げるとするならばおそらくは財布を入れていたからだろう。男性の方ならわかるかもしれないが、大体携帯電話と家の鍵と財布はズボンの何処かにしのばせておくものだ。私の場合は、右後ろのポケットが財布で、右前が携帯。左の前が家の鍵という風な入れ方をもう6年もしている。そのせいもあって、仕事を始めた頃から今までもずっとそのやり方で入れてきた。しかしスーツの生地はパンツの生地よりも弱い為に摩擦によって生地が擦れてしまって、気づけば穴が開いてしまったようだった。それにしても穴が開くのもそうだが、傷むのが早すぎるような気がする。今着ているスーツは一張羅なのだが、それでも着始めてまだ半年くらいしか経っていない。それなのにもう穴が開いてしまうなんて…それほど酷使した覚えがないだけにこれにはかなり凹んだ。スーツはジュースを買うように気軽には買えないだけにかなりの痛手だ。幸いにして、財布を入れておけば穴は目立たないのでそれで急場を凌いでいるのだが、それでもよく見てみると穴が開いているのが丸わかりなだけに、外に着ていく勇気があまり持てないというものだ。こういうのって仕立て屋で直してくれるのだろうか?心配だ。。さて、悲しい報告から本題へ。久しぶりの日勤の仕事ということで、自転車で気持ちいい朝の道を快走していると、前からパトカーが走ってきた。妙な癖が私にはあり、パトカーや警察関係車両が前から来ると、歩きでも自転車でも姿勢を正しくして乗ってしまう癖がある。別に疚しいことをしているわけではないのだが、それでもなんだかそうなってしまうのは、私がへたれだからなのだろう。きっと罪を犯してもすぐにばれてしまうタイプの人間のような気がする(笑)いつも通り背筋を伸ばして自転車に乗り、パトカーをやりすごしたのだが、その後も私の後ろからどんどん警察関係車両が集まってくる。何事かと思い、その車の行く先を見てみたのだが、そこには凄惨たる光景が広がっていた。四条通りと堀川通りがぶつかるところ、片道三車線の大きな通りの全てが警察関係車両にて封鎖されていたのだ。これはただ事ではないと思って警察が一番密集しているところを見てみると、そこには酷く壊れたバイクと救急車、ちょっと離れたところに倒れている人がいた。そしてその人に覆いかぶさるように跨って倒れている人の体から何かを除去している人の姿が見えた。事故だった。軽い接触事故なら悲しきかなよくあることだが、これはそんなレベルではなかった。倒れている人はぴくりとも動かなかった。救急車は来ていたものの、予想外の大事故に慌てふためいているようだった。野次馬になることがかなり嫌いな私は仕事の時間が押し迫っていたこともあって、結局そのまま行ってしまったのだが、そのことが頭から離れなかった。きっと事故の当事者はいつもと変わらない朝を迎え、そしていつもと同じようにバイクに乗って出かけるところだったのだろう。その日自分に降りかかる災難のことなんて微塵も予見することなく、いつもと同じ道をいつもと同じ感覚で走っていたに違いない。そこにはいつもとは違う結果が待っているとも知らずに…。大きな事故を見た時、私はその背景を見てしまいどうにもやるせない気分になってしまう。きっと私が予想した情景は半分は間違っているだろう。しかし正誤が問題なのではない。それだけ日々の生活の決まったルーティンワークの中にも危険は潜んでいるということだ。事故に遭って九死に一生を得るのではない生きていることそれ自体が九死に一生を得ているのだ。誰の言葉だったか忘れたが、その意味を深く理解した出来事だった。怪我した方の早期回復を願うばかりだ。
Jan 15, 2008
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今現在…所持金802円でございます(笑)とても社会人とは思えない所持金、否お財布事情なのだが、これだけしか持っていないのには理由がある。まず予め付記しておかなければならないのは、これが全財産ではないということだ。口座には勿論お金があるし、給料だってちゃんと振り込まれている。私の会社が15日締めだということで12月分の給料は明日振り込まれることになるのだが、その入金を差し引いてもちゃんとお金は残る寸法になっている。何故こんなに少ない所持金で頑張っているのかというと、それは私にとっては大いなる目的があるから貯金しているというベタなり夕だからだ。その昔、私はギャンブルをしていた、スロットだ。しかしそれも自分の意志で止めることが出来た。それは私がギャンブルをしていた理由が非常に不透明だったからだった。ギャンブル全てがそう言えるわけではないのだが、その目的の多くにはお金を稼ぐということがある。楽してお金を稼げるのだから、これ以上いい手段はないということで多くの方が興じていることだろうと思う。私もそう思っていた時期は確実に存在していた。しかし私はギャンブルを止めた。その行為における一番の理由、それはお金を稼ぐことになんら意味が見出せないということだった。目的を持ってギャンブルをしている人は多いだろう。例えば何か欲しいものがあって、それを買う為のお金を集めたくてやっている人、その動機は一番人間的だと思われる。しかし私にはそれが無かった。お金を一時的にでも多く集めたとしても、それを還元したいと思うようなものに巡り合えなかったのだと思う。伴侶然り物欲然りだ。使う目的がないのなら、お金があるだけ意味がない。こんな自分に投資しようと思えないからこそ余計にお金は行き所をなくしていたと思う。それならば貯まっていきそうなものなのだが、それが貯まらないからこそ不思議だ。なんだかんだで会社関係のことがあったりでお金は未だそこまで貯まっていないのが現状だ。先ほど書いたように、お金を貯める意義も特に無かった私らしく、文字通り右から左へ受け流されていたような感じだ。市場原理的には非常に生産力の高い人間に位置づけられているわけだが、倫理上はそこまでよろしくないといったところだろうか(笑)しかし私には目的が出来た。それは元来好きだったことの延長で…ある場所へ旅行をすることだ。その為にお金を貯めようと…やっと貯金をする理由が出来たというわけだ。そんなわけで12月に振り込まれたお金から私の貯金は始まった。中途半端な額をちまちま貯めてもどうしようもない、ここは大きく出ないと。昔のギャンブルをしていた頃のいい意味での癖が出てきたようだ。その手始めとして、今月は給料の4分の1を貯金した。そこから雑費差し引くと恐ろしいほどにタイトな生活になってしまうのだが、それはそれで楽しいものだ。目的がなく節制しているのとはモチベーションが格段に違うというものだ。無駄を少し省くだけでここまでお金が貯まるのかと正直言って驚いているところだ。そんなわけで先月に給料が入ってから丸一ヶ月節制してきたわけなのだが、その結果最終日である今日を802円でぎりぎり過ごせたというわけだ。我ながら危なかったように思える。最後の辺りであった新年会+2次会でかなりのお金が飛んでいったのだが、それもまた「お付き合い」ということで仕方ないことだ。節制生活も慣れてくれば面白い。これじゃあまるで学生の頃の生活のようだが、それはそれで面白いこともあるものだ。目的の額までは遥か遠いが、ゴールの旗が刺さっていることがわかっている中での奔走は、それがない時とでは全く違う。こういうのを何て言ったか…「渇しても盗泉の水を飲まず」ちょっと違うか(笑)
Jan 13, 2008
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「玉のように可愛い」という言葉があるが玉って可愛いかな?どうでもいいことを真剣に考えてしまう私が最近どうしても気になっていることの1つだ。玉のように可愛いという言葉は、当たり前だが可愛いものを指す言葉だ。その活用は幅広いはずだが、どうしても私にはそれが赤ちゃんに対して使う機会が多いような気がしてならない。やっぱり…「このぬいぐるみって玉のように可愛いよね♪」と言っている人に会ったことがないからだろう。活用としては…どうだろうか?合っているのだろうか?(笑)そんなことを考えてしまったのは、先日入ってきたニュースが原因だった。先日、私はなんとなく家でまったりしていて、両親から荷物が届くのを待っていた。そう言えばもう数ヶ月前の話だ。約束の時間に荷物が届いて、その中身を部屋の中に整理しておいてから両親にお礼のメールを送るといういつもの行事をしていた時、両親から返ってきたメールには衝撃的な事実が綴られていた。「のっちゃん結婚するんだって。知ってた?」のっちゃんというのは私の一番の幼馴染のような存在だ、勿論仮称なのは言うまでもない。のっちゃんと私は1歳の頃から一緒に遊ぶような中で、実家にある私の赤ちゃんの頃からの成長アルバムの3ページ目くらいから登場するほどに仲の良い友人だった。家が近いということもあって、小学校に上がる頃からは毎日のように一緒にいた。のっちゃんは私とは違って活発で、いつも山に行って遊ぶだとか釣りをするだとかいったアクティブな遊びが好きだった。私ものっちゃんと遊ぶのは好きなので、毎日色々なところに行って駆け回っていたものだった。今になって思えば、遊びの主導権を握っていたのはいつものっちゃんだったような気がする。その代わりのっちゃんは勉強が嫌いで、いつも勉強となると渋い顔をしていたものだった。だから私はのっちゃんに勉強を教えることが多かった。そういう意味でも正反対だったのだが、不思議と大きな喧嘩もしないで今までやってこれた。正反対の方がうまが合うというのは本当のことらしい(笑)のっちゃんと一緒に遊んだこと、山登りや釣りは、今でも私の好きなことのひとつに加わっている。きっとあの頃飽きもせずに毎日やっていた為に好きになったのだろうと思う。それくらい私とのっちゃんは一緒にいることが多かった。のっちゃんと初めて違う道を進んだのは高校の頃だった。ちょっとだけ勉強が足りなかった為に私と同じ高校に進むことが出来なかったのだ。今でもあの合格発表を一緒に見に行った時ののっちゃんの落胆ぶりは忘れられない。どう言葉をかけていいのかわからない状態というのを初めて知ったのも思えばあの頃だったような気がする。その後寮に入る形の私立の高校に入学したという話を聞いたので安心したのだが、それはつまり地元からの離脱だった。それ以来のっちゃんには会っていない。風の噂では介護の勉強をして立派な介護士になるのが夢だということらしかった。最後に会ったのはいつだったか覚えてはいないがい、その時聞いたのっちゃんのメールアドレスと電話番号は登録件数の少ない私の携帯電話のメモリに今でも残っているものだった。そして今年、のっちゃんは結婚する。彼女もろくにいない私を差し置いて(笑)どうやら結婚式には私を呼びたいようだった。幸いにして今現在のっちゃんのいるところは私が住んでいるところの隣県なので、結婚式には参加しやすいと思っていたら…なんと奥さん(この響きには若干ではない違和感と焦燥感がある)の出身地が京都だということで、京都で結婚式を挙げるということらしかった。しかも会場は私の今の家から歩いて10分ほどの距離だった。流石にこれには、両親からのメールにびっくりして本人に電話して確認したところ京都でやると言っていたので私に連絡しようと思っていたというのっちゃんと一緒に大笑いしてしまった。流石ののっちゃんも私の家の近くだということは知らなかったらしい。これは参加できる大いなるチャンスだ。きっとのっちゃんも今は立派な介護士になっていることだろう。結婚式で茶化せると思うと今から楽しみだ。お父さんになるのっちゃんはどうなっているのかちょっと想像してみたことがあるが、それでもやはり浮かぶのは小学校の頃ののっちゃんなのでピンときそうもない(笑)なんだか先を越されたようでちょっとだけブルーになるが、それでもそれがのっちゃんなら心から喜べるというものだ。3月の結婚式までもうちょっと、せいぜい披露宴で地元の友人のNとIを引き連れて大いに騒いでやろうと今から画策中だ。その時にはきっと電話やメールじゃなくちゃんと言えるだろう、おめでとうって♪
Jan 12, 2008
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今日は成人式だ。はっきり言って時系列がおかしいのは重々に承知している。それほどまでに今日に至るまでに忙しかったのだ。成人式と言えば、私には今頃だったなというイメージがない。それは私の地元の成人式が4月に行われるからだ。まだ今ほど異常気象が騒がれていなかった頃、そして成人の日も第二月曜ではなかった頃、私の地元は京都市の中でも指折りの豪雪地帯だった。その為に1月の15日(旧成人の日)なんかに成人式をしようものなら大変なことになったものだった。成人式を迎えるということは当然20歳を迎えるということだ。ということは、学生か働いているかの可能性が高い。そして私の地元は学校のような施設が高校までしかない。そして過疎化も進んでいる。この事象が指す答えは…「進学するにしても仕事をするにしても、結局は地元を出なければならない」ということだ。その為、高校の頃の友人はみんな散り散りになったものだった。同じ都道府県に残ったのは本当にわずかだと言える。一番遠い人なんて福岡や秋田にも行っている。まぁ秋田に行っている友人は結婚する為に行ったので、私達の中では「愛の逃避行」などという名前で呼ばれるくらい有名な事象&人物になったわけだが(笑)話がそれた。要は20歳を迎える人が集まりにくいというのが1月に成人式をやらない理由だ。先に挙げたように、1月と言えば雪まっさかりの時期だ。電車が止まる可能性もそこには含まれている。よく考えると結局は4月にやるので変わらないような気もしないでもないのだが、それでも1月と4月では雲泥の差があるということらしい。そんなようなことを道を歩く振袖の女性を見ながらぼんやり考えていた。そういえば今日はちょっとだけ雪が降った。出かけようとして外に出てみると降っていたのだ。絶対に積もるはずのないその雪はすぐに止んでしまったのだが、それでもなんだかちょっと懐古的になってしまった。あの頃は良かったなぁなんて言ってしまいそうな懐古主義だけは…一人暮らしを始めた頃から治りそうもない(笑)
Jan 11, 2008
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時はちょうどいい頃合新年会の時期だ。この時期になるとどうしても出費がかさんで如何ともし難い状況になるのは避けられないことだ。しかも私の会社は1つの会社に入社するという形をとらずに派遣されているという形になっている関係上、かなりややこしい新年会をしないといけないことになる。忘年会もそうだったのだが、必ず行事毎の飲み会は2回行われることになる。それは私が仕事をしているチームとしての飲み会と、そのチームを雇用してくれている会社との飲み会の計2回だ。チームとしての飲み会は雰囲気もいつも通りなので非常にアットホームな感じなのだが、雇用してくれている会社(前述I社)との飲み会はとても神経質になってしまうからあまり歓迎出来るものではない。件の事業部長のところにもお酒を注ぎにいかなければならないし、その後にも重役がたくさん控えていらっしゃる。とてもじゃないが自分が楽しむだけの余裕は存在しない。そういうことを抜きに出来るということで飲み会を開いているのだが、必然的にそのような些末なことに気を配らないといけないのが心労になるというものだ。この辺りにいつも不合理を感じてしまうのだが、この制度は貨幣制度を覆すくらい難しいであろうことは自明のことだ。不合理なシステムほど根を張るとはよく言ったものだ。まぁそんな新年会が先に待っていることに少しだけブルーになりながらも、まずはチーム内で新年会を催すことになった。ざっくばらんな雰囲気が結構好きだったりするので少しだけ楽しみだったのだが、その一縷の期待も簡単に崩されてしまうことになった。メンバーが集まり新年会も始まりお酒も入って随分和やかな雰囲気になったのだが、そこでお酒が入った先輩が仕事の話を始めた。2次会ではいざ知らず、こういう場でそういう話をするのかとちょっとだけ空気が変わったのを感じたのだが、あろうことかその先輩は私のミスの話を面白おかしく話し出したのだ。その先輩の話し方が面白かったので場は盛り上がったのだが、また蒸し返された私は堪ったものではない。もともと料理を配膳する係りに専念していたのだが、そんな話をされてしまっては余計に食べたり飲んだりすることは叶わず、結局新年会で口にしたものはお通しだけという悲しい結果に終わってしまった。まぁその先輩だって場を盛り上げようとしただけのことで、ミスをしたのも本当のことだ。場は大いに盛り上がったのでチョイスミスはないのだが、それにしても新年会から凹みスタートとなってしまった。1次会はそんな感じで終わり、2次会に行くことになった。2次会は今回仕事の関係であまりやらないということになったらしく、そこまで大規模になることはなかった。私も一応いたのだが、やはり一次会の話題がまた引っ張り出されたこともあってとてもリラックスできるような雰囲気ではなかった。まぁいつものことなので特に気にするようなことではないことは自分自身が一番よくわかっていたのだが(笑)その後はチーム内で2番目に偉い方が一人で私の家に来て色々と話すことになった。その時に現場的にオフレコの話も聞けたし、偉い立場に立つ軋轢も聞けた。私のミスに関する見解も聞けたし、新しく勉強出来ることも多くあった。その方は飲み会がある度に私の家に来られる方なのでもう珍しくはないが、一人で来られたのは初めてだった。それだけにいつものノリでは聞けないことも話してくれたようだった。ミスをしても気落ちすることなく仕事をやっていけばいい、その方のその言葉にだいぶ気分が楽になったものだった。結局昼御飯以来何も食べてはいないが、当然食べられるような雰囲気でもポジションでもないことはわかっていた。流石もう慣れただけあって、それくらいではお腹がぐぅぐぅ言わなくなったのは…喜ばしいことだろうか?(笑)
Jan 10, 2008
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本当に久しぶりだこうして筆をとるのももう懐かしいことのように感じる事の発端は少し前へと遡る。年末年始に実家に帰省していて気がつかなかったのだが、帰ってきてみると約束通りポストに投函されていたもの…それは年賀状だった。年賀状を貰うなんて久しぶりのことだ。一番絶世期に書いていた時期というのももう高校時代くらいまでに遡るわけだから、考えてみればもう5年はまともに年賀状を書いていないことになる。私に年賀状が来ることなんか早々ないことも加味すると、年賀状を書く為に筆をとらないのも最早必然のことかもしれない。しかし今年は違う。こうやってまた年賀状を書こうと思ったのは…或いは心変わりかもしれない。本当に感謝している人、お世話になっている人、その人の為に筆をとるという行為を私は久々に思い出しているような気分だ。思い立ったが吉日の私としては、矢も盾もいられずに年賀状を購入し、早速書くことにした。しかしなにぶん久しぶり過ぎてどのような書式で書くのかを思い出すのにおよそ数秒のタイムラグがあった。年賀状の書き方を忘れるなんて非国民甚だしいことは承知の上だが、如何せん久しぶりだということを言い訳にしようと思ったものだった(笑)購入したのは3枚、そしてこれが店の最後の年賀状らしかった。つまり事実上私は3枚という少ない試行の上で年賀状を完成させる必要があったわけだ。これはなかなか緊張感の伴う使命だった。さて1枚目…中々上出来だ。しかし表に自分の住所を書くかどうか迷ったまま書いた住所を消しゴムで消してしまった結果表面が汚くなってしまったので没。。2枚目…一度書いてしまっているのでこれは簡単だ。丁寧に気持ちを込めて書くことを心がけて挑戦…中々いい感じに書けた。結局迷った結果表には住所を書くことで自分の中で合意し、書いた結果もまたいい感じだった。裏面に書くメッセージもちゃんと考えた通りに書けた。これは完璧だと思ったのだが…ここで問題が生じた。間違っても大丈夫なように鉛筆で書いていたのをすっかり忘れてしまっていたのだ。鉛筆で年賀状を書くなんて小学生でもしないことだ。我ながらしょうもないミスをしてしまったものだ。この上からボールペンでなぞるなんて愚の骨頂だ。ここは最後の一枚に勝負をかけることになった。字の間違いがないかを丁寧に添削しながら、いざ勝負の3枚目へ。3枚目…今度は完璧だ。住所も間違っていないし、字も丁寧に書いた。メッセージもちゃんと書けたし、文法的に間違っているところもない。ボールペン一発勝負にしては素晴らしい出来だと自負できるものに仕上がった。これは完璧だ♪ポストの前に立って何度も何度もチェックしていた私はきっとかなりの変質者だっただろう。まぁそれくらいにこの一枚には意味があったと思う。意を決してポストに投函した。幾分実移動距離が長い分届くにはかなり時間が掛かることは容易に想像がつくが、それもまた楽しみの一つだというものだ。それがちょうど4日前のことだ。そして今日、年賀状が届いたというメールが来た。写真付きのそのメールには、ラスト3枚を必死に間違えないように書いた我が子のような年賀状と友人が写っていた。そのメールは日勤の仕事中に届いたのだが、なんだか嬉しくなってきて一人でニヤニヤしてしまった。休憩所で携帯電話を見ながらニヤニヤしている私はきっとかなり危ない人物に見受けられたことだろう(笑)5年ぶりくらいに筆をとった意味はこの時成就された。憂鬱な日勤も気分良く過ごせたのは言うまでもない。
Jan 9, 2008
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最近やることが多すぎてそれに手が廻らない。一般的に暇すぎる状態と忙しすぎる状態とではどちらがいいかというと、忙しい状態の方を好む傾向にあるらしい。やることが多すぎるよりもやることがない方がしんどいし、それに何かを成す為に生まれてきた人の意義にあっていると言える。まぁ普段から人の意義について考えている人なんて稀だろう。人の意義とは何ぞ?という質問に関してはそれだけで論部が一本書けそうなので敢えてここでは言及しないことにしよう。やることがありすぎる時には暇な時が羨ましくなるし、暇すぎる時には何かやることが欲しくなる。しかし暇過ぎる時にちょっとやることが出来ると暇な時間が恋しくなる。だからと言って忙しすぎる時に暇な時間があると何もすることがなくて逆に焦る。やはり人間には「適度」というものが一番なのだろう。過ごし易い適温が18度という事例もあるようだし、やはり何よりもベストな状態というのは「やることはあるのだが、急を要していない。休みもしばらくあるし、その間にのんびり出来ればそれでいい」という状況だろう。常にこのような状況に生きられるだけでお金を払うほどの価値があるかもしれない。これを恒久的に行っている人がいれば…その人はある意味では一番人生を謳歌しているだろう(笑)若干話がずれたが…仕事関係の雑多なことが溜まっている。休みが変則的なだけに、纏まった休みで一気に片付けてしまおうということが難しい。ちょこちょこ片付けていってはいるのだが、それでも減っていく量よりも増えていく量の方が多いというのは歓迎し難い。過去のブログに書いたが、私は健康診断で肝臓をいわしている。そう言えば、「いわす」というのは関西弁なのだろうか?普通に使う言葉が方言だという衝撃がたまにある上に、その事実に気づかないということが結構多いので、標準語という基準が非常に曖昧になっているような気がする。また話が脱線した。。肝臓をいわしているので、再検査に行く必要がある。こればっかりは早めに行かないといけないと北海道在住の友人にお叱りを受けたので、今月中には行かないといけないのだが、それにしても病院に行って検査してもらうにはワイシャツをクリーニングに出すような感覚では出来ない。それだけに必然的に休みを利用する必要があるのだが、その休みにしなければならない仕事がたくさんある。まずは先日書いたミスに関する報告書を纏めることだ。こればっかりは自責なので仕方ない仕事だと言える。だからこどこにもぶつけようのないやりきれなさが伴う仕事だ。それに関連して、セキュリティ検査の仕事が入っている。セキュリティレベルは本当に昨今上がってきた。特に情報関係の仕事はかなり口煩く言うようになってきた。それはいいことかもしれないが、そこに少しだけ疑問があるというものまた事実だ。この件に関してはまた別の日に取り上げるとして…。まぁその他にも多くの仕事が溜まっている。それに加えてミーティングと新年会の幹事と、もうやることがいっぱいだ。目の前にうず高く積まれた仕事を見る度に暇だった学生の頃を思い出す。自分で学校に行く日を決めて気ままに生きていたあの頃が懐かしい。懐古的になるなんて…私も歳をとったものだ(苦笑)なんだかんだ言いながらも結局やることがなくても同じように文句不平を言っている気がする。それだけにここまでつらつら書いてきたが、現状にそこまで不平はないのだろう。やっぱり私も都合のいい人だということの何よりの証拠だ(笑)
Jan 8, 2008
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ほわーっとしている気持ちというのは抽象的なだけに掴みどころがないというものだ漠然とした不安これからの自分そういうものに侵食されていく自分を自覚するのが怖い一人で生きていくそう言い聞かせることはある意味では逃げかもしれない誰からも相手にされない自分への言い訳未来へのベクトルにそれが伸びていることへの畏怖仕事のことにしてもそう今のままでいいのか楽しく仕事をしている自分とは対照的に今の仕事が長く続かないこと具体的には今の会社が長く続かないことを知っているそれを知った上でどう動くのか?会社に来て数ヶ月でそんなシリアスなことは知りたくなかったが何も考えないで仕事をしているほど馬鹿ではないつもりだターニングポイントが多くありすぎて疲れることは大人になることと同義だ今の楽しみはいくつかあるがそれはずっと先のこときっとその時僕の望みの大半は叶うだろう早くその時が来て欲しい楽しみが先であればあるほどその過程にモチベーションを持つことが出来るというものだ好物を目の前に吊り下げられて走る馬みたいな自分を自覚してちょっとだけ噴いた(笑)未来を楽観し過去を悲観する方がその逆よりはましというものだ今の僕はちょうどそんな感じかもしれない
Jan 7, 2008
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最近めっきり暖かくなってきた。このまま春を迎えるのではないかと錯覚するほどにぽかぽか陽気が続いている。とても気持ちのいいことだ。冬の光景はまたそれはそれで好きなのだが、それでもやはり春の陽気には勝てないというものだ。あくまで主観だが(笑)暖かくなってくると俄然気になってくるのが花粉情報なのだが、今年はまだ聞こえそうもない。当たり前だ、まだ冬全盛期なのだから。雪が降るにしてもこれからの時期に、まさかこんなに暖かい日が続くとは思ってもみなかった。嵐の前の静けさではないといいのだが…。そんないい天気の中でも少しだけ降った雨、その中で私は京都事業所へと向かった。傘を差すにはちょっとだけ億劫、でも差さないと濡れてしまう、そんな天気だったことをよく覚えている。いつも胸につけている小さな名札はここに入る為の大切なものだ。いつも付けていても守衛は見ている様子もないし、中に入っていてもそれを見ている人なんていない。何のために付けているのか時々忘れそうになるのだが、きっと今回の出来事で小さな名札の意味は痛いほどに感じることになるだろう、なんとなくそんな気がした。受付を抜け、エレベーターに乗り込む。行き先のスイッチを押し、目的のフロアに行くまでの短い時間、私は係長からこれから会う事業部長について少しだけ聞いた。係長曰く、事業部長はかなり名うてのお方らしかった。私の中では係長もそれなりに凄い人だと思っていたのだが、そんな係長が舌を巻くほどに出来る方だということらしかった。今回私が起こしたミスがしょぼいものだけに、そこのところの追求に耐えられるかどうかと心配になったものだった。いざフロアについて受付を済ませ、応接室のようなところに案内された。ここに来るのも本当に久しぶりだ。半年ぶりくらいかもしれない。しかしあの時の気持ちとはまた違う気持ちでそこにいることは言うまでもない。前回の邂逅が歓迎なら、今回は謝罪だ。そのスタンスの差で見えてくるものもまた違うというものだ。しばらくすると多くの方はぞろぞろと入ってこられた。なんでもI社の中でもかなり上の方にいらっしゃる方のようだった。4名ほどいらしたのだが、その誰もが係長を畏怖させるには充分な肩書きの力を持っているようだった。最後にいらしたのが事業部長だった。やはり凄い存在の力だった。そんな中で報告は始まった。最初は係長が現状の報告と暫定的な原因を述べていた。てっきり私が言うものだと思っていたのだが、その理由は後からわかった。一通りの説明が終わると、そこからはもう恐ろしいものだった。何故このようなミスが起きたのか、そしてそれに対する対策はどのように立てるつもりなのか、5対2で一方的に攻められた。向こうがミスから来る怒りで質問してくれているならまだいい、それは理論の綻びが存在するからだ。しかし向こう側は明らかに理詰めで来る。合理的観点からの矛盾をついてくるので、答えに困る場面は何度も何度もあった。その度に係長が助け舟を出してくれるのだが、その助け舟を沈ませるほどの一言を放つのはいつも事業部長だった。合理的ではないのならば言い返すことも出来たのだが、事業部長の放つ一言は全て理論的に裏打ちされたものだった。私はぐぅの音も出ないままに打ちのめされたと言える。途中で総務か事務かわからないが、女性がコーヒーを運んで来てくれた。事業部長も飲みなさいと言ってくれたが、場の雰囲気は恐ろしいもので、それに手を付けようという気は毛頭浮かばなかった。一度だけコーヒーに手を伸ばしたのだが、手が震えているのが自覚出来た。それを気づかれるのも嫌なのでコーヒーに手を伸ばすのは止めた。結局私が作った案は事業部長の「ぬるいな」の一言で見事棄却されることになった。後日改めて草案を練り直しまた提出するようにとの勧告を受けてこの場は解散になった。帰り道、本当に申し訳ないと思った私は係長に謝った。報告の場での不甲斐ない状態もそうだが、こんな場に係長を駆りださせる誘因を作ったことに対する謝罪だった。係長は笑いながら「気にしないでいい」と言ってくれたが、それでも晴れやかな気持ちにはなれなかったことを覚えている。それにしても…私は少し事業部の面子を過小評価していたかもしれないと思っていた。上に立つ人間というのは2種類いて、1つ目は年功序列の残存因子のような誘因で上に立っている人だ。こういう人は出来る出来ないを度外視したレベルの持ち主なので、理論的に来るというよりはむしろ経験則からきていて往々にして感情的に来ることが多い。そういう相手こそ簡単にいわすことが出来るのだが、事業部長始め今回席を同じくした方々はみな2つ目の方…実力伴っての出世だということがわかった。特に何か間違ったことを言った時の事業部長の眼光には特別な力があると思ったものだった。出来ればあの目ではもう見られたくないというものだ。事業部長の恐ろしいところはそこだけではなく、真面目なディスカッションの場においてギャグを挟んでくるということだ。私は冷や汗を流しながらギャグを聞くというシュールな場面に初めて出会うこととなったわけだ。これは本当にキツイ_| ̄|○ 苦笑いがやっとというギャグに初めて出会ったと言える。今回の事業所訪問で可哀相なのは誰かという質問が来たとしたら私はこう答えるだろう。それは自分がしたわけでもないミスの報告をさせられ、その上理論の綻びを見事突かれて自身のせいにされている係長と…私の前に置かれて飲まれると心待ちにしていたにも関わらず、場の空気の影響で飲まれないままに冷たくなってしまったコーヒーだろう。
Jan 6, 2008
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天気が良くてぽかぽか陽気とまではいかないもののそれでもかなり過ごしやすい天候になった。それがまた私の心を憂鬱にさせる。もしも何も憂いがないままにこのような天気を迎えたなら仕事も楽しい気分でできたことだろう。それだけに凹みのデフレスパイラルはとまりそうもない。今日は先日の日記の続き、「恐ろしいミス」の後編みたいなものだ。先日の内容を読んでいなければ意味不明間違いなしであることは言うまでもない(笑)なんとなくそんな気はしていたのだが、今日の夜勤を終えたら事業所に謝罪に行くことになったらしい。そのことを一番テンションが高い時間帯である0時過ぎから2時くらいの間に聞かされた私は、それまでの明るい気分が嘘のようにブルーになってしまった。私の会社の契約先であるI社は、システム開発や人材派遣など、多角的に仕事の幅を広げていて今では全国レベルにまでなった会社だ。まぁ所謂有名どころとは一線を画すような部分は多々見受けられるのだが、それでも東証一部上場は確実にしているだろう規模であることは間違いない。I社の本社は確か東京の方にあったのだが、関西での勢力は思いのほか強いらしく、中でもとりわけ京都の事業所は関西の数多の事業所を統べるような存在であるということは以前にものの本で読んだことがあった。その関西レベルでの事業所を牛耳っている(と言うと聞こえは悪いが)事業部長のところに謝りに行かなければならない…そのことが夜勤がもうすぐ終わる頃から私の中に深く沈殿していて、ブルーな気持ちは結局晴れることはなかった。しかしこのことは私の不手際が起こした自業自得である以上、それを拒否する権限は持ち合わせてはいない。飲み会で何度か事業部長にはお会いしたことがあるが、それもある意味では無礼講のようなスタンスでの事業部長であるので、ビジネスモードの事業部長と相対するのは今回が初めてというわけだ。仕事も終わり、係長他、職場の一番お偉い方と共にどのように事業部長にミスの説明をしようかという小さな会議が始まった。職場の一番お偉い方と係長は神妙な顔つきで話し合っていた。それは私がしたミスの被害が大きいとかそんな次元ではないということは跡からわかったことだった。要は事業部長は怖いのだ。数多の事業所を統べるだけあって名うてであることは容易に想像がつくが、それにしても私の職場の一番お偉い方もそれなりに怖い。その方でも対策を練って万全の体制で挑むように綿密に話し合いをしているということは…うーん……クビニナルノカ(゚ロ゚;)?!大袈裟かもしれないが、結構本気で心配したものだった。その話し合いもひと段落つきいざ出発の時となった。職場の一番お偉い方は後から来るということで、係長と二人でタクシーに乗り込み、京都事業所へ向かった。当たり前と言えば当たり前なのだが、タクシーの中はかなり深刻な空気だった。係長には新年早々面倒なことを押し付けてしまって本当に申し訳なく思っている。初出勤の日にいきなり謝りに行くなんて誰が喜んでするだろうか?本当に面目ないことをしたと今となっては反省している。しかも係長は年末から年始にかけてインフルエンザにかかっており、ダウンしていた。それがようやく回復の兆しが見えて出社してのいきなりの謝罪だ。胃に穴が開きかけている仮長だけに、今回ばかりは本当に頭が上がらなかった。したことの重大さもそうだが、私に同行する係長の気持ちになるとやりきれないというものだ。大きな12階建てのビル…京都事業所だ。荘厳とも言える趣を持ったこのビルに入るのは、私が今の職場に来て以来2度目だ。まさかこんな形で来るとは思ってもみなかった。入念に作り上げた報告書を片手に受付を通り過ぎ、エレベーターに乗り込み「9F」のスイッチを押す。もうここまで来れば逃げることも隠れることも不可能だ。さながら死刑宣告を受けるかのように私達は事業所の中枢へ向かった。 ~続く~書いてて胃が痛くなるのも久しぶりだ。決して面白いものではないかもしれないが、後編に続きます(苦笑)
Jan 5, 2008
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裏表紙という言葉が不思議だった。裏表紙とは一般的に、本の後ろ側の表紙のことを言うのだが、裏なのに表だと言っている意味が最初はわからなかった。考えてみれば単純で、裏側の表という意味なのだろう。しかしこういう日本語が当たり前にあること、そしてパソコンの変換機能で「うらびょうし」と打つと一発変換されることが問題な気がする。これは「古新聞」とはまた意味が違う。古新聞も「古いのに新しいのか?」という風によくネタにされるのだが、これはしっかり意味が通っている。新聞の「新」は新しいという意味なのだが、聞は「見聞」の聞だ。つまり新聞には新しく見聞を広げるという意味がある。時系列的に今現在発行されている新聞よりも古いものという意味なので、古新聞という言葉に間違いはない。まぁどっちも些末なレベルなのだが(笑)何かに追われる。そのことを最近感じる。それはきっと私が子どもだからなのだろうと思う。確かに仕事もしているし、実家も出て一人暮らしをして立場としてはもう確実に大人と呼ばれるレベルに達しているだろう。しかし何かが違う、満たされない。会社の人たちと仲良くやっていても、都会での暮らしを満喫しているつもりでも、それは一瞬の出来事で崩壊してしまう。それは地元の友人や家族に会った時だ。別に何のことはない、家族や友人にただ会うだけだ。実家ももう10何年暮らしてきた場所なので慣れ親しんでいるという表現がぴったりだ。だからこそ…その環境に久しぶりに帰ってしまうとどうしてもそこに根を下ろしたくなる。確かに学生の頃は気楽だった。でもその頃に実家に帰るのとはまた違う感覚を今感じている。ホームシックではない何かがある。これはきっと…存在価値の問題なのだろう。今の会社は入ってもう半年以上が経つ。しかしそこに息づく考え方、人間、その全てが私に合っているとは思えない。要は居場所がないのだ。実家に帰ると手放しで歓迎してくれる友人がいて、そして手放しで喜んでくれる家族がいる。思い出のたくさん詰まった地元の場所を訪れる度に自然と昔のことを思い出したり楽しい気分になる。しかし都会暮らしにはそんな場所はない。確かになんでも揃っている、人もたくさんいて選択肢も多く存在している。しかしそれだけだ。田舎育ちの私としては、今の環境が全てだとは到底思えない。それはきっと今の会社が問題なのだろう。仕事の内容は面白いが、その部分だけで他の軋轢を握りつぶすほどの効果があるとは思えない。別次元の人間の集合体で会社が形成されていると言っても過言ではない。意気投合したり、仲良くしようと思える人がいない。つまらない。最低限の付き合いには参加するが、それ以上に親密になろうという気さえ起きない。満たされない。仕事を辞めるような雰囲気で書いているが、そういう意味では決してない。そんな中で生きていくこともまた社会人の常だと思うからだ。殺す部分は殺して生きていくこともまた大切なことだからだ。今日も仕事が始まる。夜勤だ。また出社すると私には良いように思われていると錯覚している上司から色々言われることだろう。まぁそう思わせておくことは悪いことではない。取り入ろう、上司にいい顔をしようという考えが微塵もない私としては、他人にどう思われようが知ったことではない。しかし好き嫌いがはっきりしているだけに、与えられるものは嗜好次第で受け流し、私側からは何も与えない。それが私の生き方だ。やっぱり人間関係は仕事において重要なファクタだと思われる。それを痛いほどに感じている今日この頃だ。
Jan 4, 2008
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ミスをした。しかも今回は今までしたミスとは違う。今までやったミスは所詮問題報告書を書いて済むレベルだった。それは私達がアシストしている業務に滞りが出ないからだ。私がしている仕事をドミノに例えるなら、今までのミスというのは綺麗に並んでいるドミノに対して横から息を吹きかけるような行為だ。ある意味では問題なのだが、結果的にドミノには影響無かったから問題なかった。息を吹きかけたことで並んでいるドミノが倒れなかったから何の問題もないというわけだ。しかし今回は違う。今回の行為はこれから綺麗に倒れていくはずのドミノに対して直接手を加えるような行為…つまりは完全に目に見えるレベルでの阻害だと言える。このことによる業務影響は避けられない。勿論今回も私のミスだ。こんなことをしてしまった自分が愚かに思えて仕方ない。今回のミスは問題報告書を書いて済むレベルではないということは前述した通りだ。では何をするのか?それは謝罪に行くということだ。私が派遣されている会社の大元は市内にある。それは数多の支社を取り仕切っている所謂総本山であり、そこには勿論事業部長という社長とほぼ同義の存在がいる。今回のミスは業務に滞りが出たわけなので、問題報告書を持ってその事業部長に謝罪に行かなければならない。その行為はある意味では自分が仕事において低脳だという証明になる。やっぱり向いてなかったのだろうか?なんだか泣けてきた…。ここまで自分が仕事が出来ないとは思ってもみなかった。思えば研修時期から仕事を覚えるのが早いともてはやされていい気になっていたのかもしれない。年始早々に冷や水を背中にかけられたような気がする。油断していたわけではない、仕事をなめていたわけではない、しかし結果だけ見ればそう見られても仕方ない。私は無能だったのだ。ことを起こして残業して報告書を仕上げて…凹みきって帰ってきた。外の空気が刺すように冷たい。夜風も私を責めているようだった。すっかり落ち込んで家に着いて何気なく郵便ポストを見ると年賀状が届いていた。それは北海道の友人から届いたものだった。「仕事頑張って♪」その部分が非常に印象的だった。まるで私に起こった出来事を示唆しているようだった。それがなんだか心に響いて…少しだけ泣いてしまった。嬉しい年賀状を貰えて感動しながら年賀状を裏返してみると、私宛の宛名が間違っていた(笑)昔はよくあったのだが、久しぶりに誤字を見た気がした。それがなんだか可笑しくて可笑しくて…泣いていたはずなのに噴出してしまった。やっぱりこの人には敵わないと思ったものだった(笑)仕事に全ての重点をおいてきただけに、このミスは本当に凹んだ。ほんの少しだけ仕事をやめようとか思った。しかしそれは逃げだ。自分のしたことに対して真っ向から向かい合わない限りよしんば辞めたとしても同じことを繰り返すかもしれない。やってしまっただけの謝罪と今後の自分で取り返そう。元気が無かったが、さきほどの年賀状でかなり気が楽になった。今後は自分のミスにまっすぐに向かい合うことから始めよう。黒さん、ホントありがとね♪お礼を言ってもいい足りない
Jan 3, 2008
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年末年始から何かおかしい。どうも天候的に年が変わった辺りからおかしくなっている気がする。年明け前まではまだ暖かくて過ごしやすい日が多かったのだが、年が明けた辺りから急激に冷え込んでいるような感じだ。私の実家では雪が降ったし、それだけではなく積雪40センチを記録した。それだけでもおかしな天候だ。市内はそんなことないだろうと帰ってきてみると市内も積雪はないまでもかなり冷え込んでおり、通勤時の快適さ(?)は輪をかけて加速しているといったところだ(笑)そんな中久しぶりの勤務だったわけだが、ここのところは勤務自体がつまらなくて仕方ない。それは面白いという意味ではなく、単純にすることがないという意味だ。世間的には正月三が日でお正月気分を満喫しているところ仕事をするというのはどうにも腑に落ちない点が多い。しかし誰かが仕事がなくて楽をしている間が誰かが陰で頑張っているというのは自明の現象だ。それを思うと、まだ見ぬ誰かの為に頑張っている自分に少しだけ誇れるというものだ。それが大好きな人ならいいが…今のところその予定はありそうもない(笑)そんなわけでしばらくは何もない仕事の日々が続いたのだが、久しぶりに業務が復活する日に日勤に参加することになった。久しぶりの日勤、しかも年明けなので色々と不具合が生じる可能性があったのだが、何もすることがないよりは数倍マシなのでいつもよりも頑張って仕事に励んだ。ここで少し話しが変わるが…詳しくは言えないのだが、私の職場にはえげつない仕事が存在している。それは金融関係の仕事にはつきものだというもので…世間の世知辛さをもろに反映した仕事だと言える。簡単に言ってしまえば「貸したお金返してね♪♪」というようなニュアンスのことをスーツを着込んだお兄さんがしている仕事のアシストだと言える。勿論私の仕事が法的に引っかかっているわけではない。もしも私の仕事が摘発されるならば、拳銃を作っている会社が殺人罪で訴えられるくらい冤罪も甚だしいことだ。その仕事が週に5回あるのだが、そのデータをセーブするテープは私が眷属として働いている会社にも保管しておくが、他の外注にも出すようにしている。このような方法で保管するわけは、大切なデータなので天災時に消失してしまったのでは洒落にならないからだ。正と副にわけて2つ保管しておくというわけだ。その外部保管の会社は昔から1つに決まっていて、その会社に毎週2回提出するようにしている。その受け取りの段階では、私達を雇っている会社の責任者が出すテープが正しいかどうかを選別する為に来るようになっている。つまりは、私達から1人と、外部発注の会社からの支社1人、そしてその立会人の責任者1人という3人構成の図式で成り立っている。何故こんな面倒な説明をしたのか、それは以下に大きく関係してくるからだ。本編はこれからだ。その外部発注の使者には最近綺麗な女性が来ることが多くなった。それは女性の方が男性だらけの職場にとっては華になる可能性が高いということもあるだろうが、単純に下っ端だから来ているというのが本当のところだろう。何故ならば私が今の職場に来た頃からきだしたようだからだ。つまり会社は違えど私達は同期と言える。そんな女性が来ることを私達はみんな知っていた。仕事柄女性を見ることが少ない分、少しでも女性を見ると観察眼が飛躍的に上昇するからだ。私も例外ではなく、その女性を何度となく観察したことがある(笑)すらっとした美人だというのが私の認識だ、それはどうでもいいのだが(笑)外部発注の使者に女性が来るようになったのと時を同じくして…立会い人もまたある一人の男性になることが多くなった。ここ数ヶ月、外部保管の立会いは外部発注の例の女性と立会い人の例の男性の組み合わせしか見たことがない。それくらいに頻度は急上昇しているのだ。そうなると出てくるのは…あらぬ詮索というものだ。「なぁなぁ、あの人らできてるんじゃねぇ??」誰ともなしに言い出したこの一言が男性オンリーの仕事場にいる現場に一石を投じたのは言うまでもない。それからというもの、その二人が外部発注媒体の検査をしている場面に出くわすとニヤニヤしながら見ていることが多くなった。それは私達だけではなく、前の部屋で仕事をしている人にも同様に感じている内容だったようだ。周知の仲とまではいかないものの、媒体の検査を終えてもにこやかに話している二人を見ているとそのような予想を立てても仕方ないというものだ。もしかしたら今この瞬間も仕事終わりでデートに勤しんでいるかもしれない。そう思うと自然と顔がにやけてくるというものだ(笑)こんなことしか面白いことはない。つまらないことにも楽しみを見出せないと夜勤のある仕事は耐えられないというものなのだろう。私も随分と今の職場のノリに順応したものだ。などと言いながら仕事をしていると…大変なことが起こってしまった。これはネタでは済まされない。恐ろしい事象が私の手によって引き起こされてしまった…。 ~続く~
Jan 2, 2008
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雪が止まない中での年明けとなった。いつものことだが、蕎麦を食べることを忘れてしまう。年越しの蕎麦にどのような謂れがあるのかは浅学なので知らないのだが、それでも行事として定着している以上は食べないわけにはいかない。そんなわけで居酒屋の茶蕎麦で年を越すというなかなかおしゃれな感じで蕎麦を食べた。勿論年が明ける前だ(笑)食べないよりはいいと思ってしまう私はきっと行事の大切さをわかっていないのかもしれない(笑)年明けの時期になんとか休みを貰って実家に帰っているのだが、あんまりゆっくりもしていられない。無理にブッキングを阻止する為に早々と休みをもらっていた弊害が今になって現れだした。3日から仕事だということらしい。なので実家の方でじっくりと過ごすのも今日で最後というわけだ。ある程度の忙しさを抱えていないと駄目になるという感じがする私にしてはなかなかいい節目だと思われる。最後のゆっくり出来る日だということで、新年会などと銘打って高校時代の友人が飲み会をしている場に呼ばれないことに若干凹みながらもまったりすることにした。新年とは言っても別段何をすることもない。こういう時は出かけていくのがいいのだが、しかし出かけていくのには億劫だ。それは車があるにはあるのだが、雪の影響でノーマルタイヤの車では出かけられないからだ。それでもやっぱり退屈さに限界が来たので少しだけ出かけた。特に行くところもないのだが、まぁ所謂ドライブというわけだ。それにしても雪が降り続いている。大晦日から元日にかけてここまで雪が降るのも本当に久しぶりだ。昔は除夜の鐘を突きに行く頃にはいつも雪がちらついていたのだが、温暖化の進んだ昨今もうそのような風流な光景は見られないかと思っていた矢先のこのような雪は、不便ではあるにはあるが、とても綺麗なものでもある。それで一頻り町をドライブしたのだが、やはり雪による弊害は多くあるようだ。路側帯が雪で埋まってしまって見えにくくなってはいるが、明らかに道路ではないところに突っ込んでいる車をよく見かけた。ナンバーを見るとそれらの車は須らく都会のナンバーを指し示していた。やはり都会の人には雪の道を運転するということは難しいようだ。私のような田舎者は自動車の免許を取る時に時期があっていれば雪道教習も行う。なので雪道に特別な怖さはないのだが、雪が積もる地方ではないところから来た車は無謀にも雪道をスタッドレス無しで運転するから怖い。自分達だけで事故を起こすならまだいいが、巻き込まれた方は半端ではない。まるで爆弾を抱えた車が前を走っているようだ。そういう車は初心者マークのついている車よりも危険なので注意することにしている。結局ぐるっと町を廻る間に何台もそんな車を見かけてしまった。ご愁傷様という言葉しか出てこない(苦笑)家に帰ってきても別段することもないので、遠くに住んでいる友人とメールをして過ごした。なんとも不毛かもしれないが、それでもなかなか面白い経験は出来た。さて…今年の抱負を少しだけ書いておくことにしよう。私は今年確実にキャリア上の岐路を迎える。その時に私がどうなるか、それは今の段階ではわからない。しかしここがターニングポイントになることは確実だ。プライベートな部分以外にでも充実した一年になりそうだ。というわけで、今年の抱負は「もっと大人になる!」ということにしておこう。去年はなんだかんだ言いながらも私はまだまだ子どもだということを痛感した一年だった。恋愛面でも仕事面でももっと大人になる必要があるだろう。特に今の職場が安定的ではないことに起因している面も多い。今年こその目標にしておくとしよう。遅くなったが…これを読んでくださっている方へあけましておめでとうございます。去年はどんな年でしたか?良くも悪くもいい年になったことは言うまでもないだろう。今年にかける思いも人それぞれだろう。そんな貴方へ…今年がいい年になりますように♪
Jan 1, 2008
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