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安定の中に新しい幸せはない。人は1つの場所に集まろうとする。まるで1人でいることを拒むかのように。そのような群集心理があるからこそ、東京という街が作られそして首都として機能しているのだろう。もともと東京に住んでいた人口よりも明らかに移り住んできた人の方が多い。そうして人口を増したかのように見える。まるでもともと栄華を極めた街であるかのように。寂しさを埋めるように。人は安定を求めようとする。同じ場所で同じようにずっと暮らしていくことを是とする傾向にある。勿論そうではない人も多いが、明らかに日本人という体質上平穏や安定を求めている。変化することや流動することよりも同じ場所で安穏と暮らす方が幸せだと感じているからだ。まぁ間違ってはいない。しかしそう考えている人が多すぎる。明らかに矛盾していることなのだが。安定の中に新しい幸せはない。退屈な日々を打開するのは安定を求めることではなく、不安定の中に身を委ねることにあるのだ。既にある幸せを噛み締める分には、安定は丁度いい薬だ。だがしかし現状に満足していない人が安定を求めると、それは体を蝕む毒になる。変わらないことがつまらないことに直結しているからだ。不安定に身を委ねることは非日常と同義であり、それは刺激に繋がる。新しい価値観や感性を形成する上で、不安定は必要不可欠な材料だと言える。極論を言ってしまえば、常に不安な気持ちでいる方が解消された時の心地よさはひとしおだ。それが即ち人生の醍醐味であり、人を交わっていくことの醍醐味だ。私は最近安定的な気持ちになることが殆どない。常に心が揺らめいている。それはある1つの要因に起因しているのだが、それは特段今語る必要はないだろう。既知だからだ。そのことが私を安定的な気持ちに置くことから縁遠くしている。勿論私自身はそんな状態が嫌いなわけではない。常にドキドキしていたいし、常に自分の選択で今後の人生に大きな影響を与えるだろうと思っていたい。10代の頃の閉鎖的で内向的で…悪い意味で世間ズレしていない気持ちとは違うのだ。新しいものを探してどこまででも行ける覚悟は持ち合わせている。勿論その弊害は受けている。物が殆ど食べられなくなった。そのせいでもう体重が幾ら落ちたのかわかったものではない。逆に現実を知ることが嫌で体重計に乗ることも止めてしまった。それほどまでに私に不安定を供給してくれているもの、それはある一人の人だ。その人の一挙手一投足に私は翻弄されている。多分こんな気持ちは随分と久しぶりなような気がする。何かあると考え込み、食事を摂ることも忘れてしまう。仕事をしていても、暇な時間があれば考えてしまう。溺れると言えば聞こえはいいかもしれないが、多分そういう類のものではない。平穏に戻ろうとする水面に常に投げ込まれる小石のような…ある意味では刺激的でそれでいて不安を掻き立てるような存在だ。この気持ちは何だろう。そんなこんなで、ここ10日くらいは殆ど仕事を無心にこなしていた。無駄なことは殆どしていない。手につかなかったというのが正確だ。食事もろくにとっていない。栄養失調でちょっと体調を崩しかけたが、気合でなんとか乗り越えてきた。こういう時は家で一人でいると気が滅入るだけなのだが、何故だかこういう時に限って休みが多かったりする。今は休みは欲しくない。無心で仕事をして少しでも違うことで気を紛らわせていたい。心の殆どを占有している事柄なのに考えたくない。そんなジレンマを抱えた10日間を過ごした。油断してのんびりしてしまうと心が持っていかれる。そんな複雑なようで単純な日々を過ごしていた。これは恋なのか、それとも羨望なのかアウトラインは不明瞭で茫洋
Jan 24, 2010
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眠れない。秋の夜長という言葉がある。普通は文字通り秋に使う言葉なのだろうが、まさに今の私はその状態になっている。夜が長過ぎる。悩みがあるわけでもない、取り立てて急を要してすべきことなんてない。だから毎日を安寧と過ごしていればそれでいいだけの話だ。ただそれだけの話。それでも夜が長過ぎる。眠れない。今日は休みだったのだが、別段何をするでもなく過ごしていた。強いてしたことと言えば台所のシンクが汚れていたのでその掃除と、取り込んだ洗濯物を畳んでいたくらいだ。本当に何もない休日だった。いつもと変わらない休日、不毛と言われればそれまでの休日。それでもソファに横になってネットサーフィンをしながら、横目ではいつも携帯電話を見ていた。思えばここ数年の中で私の携帯電話が最も活躍している時期だと言える。今持っている機種で3代目になるのだが、今までの携帯電話はここまで注目されることはなかった。何事も進めば進むほど進歩するということだろうか(笑)今日はメールが来ないことはわかっている。それでも心の何処かでは期待している私がいる。つっこさんがあの歌を歌うだけで私のテンションは一気に上がる。それが今日はないとわかっている、わかっているのだが…どうしても期待はしてしまう。悪い癖だ。結局今日はつっこさんは歌ってくれなかった。それも仕方ないことだ。私の価値観とは違う価値観の方が沢山生きていることは自明のことだ。だから仕方ない。別に悪いことが起こったわけではない。普通のこと、普通のことなのだから。諦めて眠ろうとしても、脳裏にはあの時の出来事がフラッシュバックする。展開される図式はずっと同じ。あの時の出来事や、将来的な楽しみへの想像、そしてまだ骨格すらままならない壮大な計画に対する漠然としたプランニング、そして少しはにかみながらこっちを見る視線。これも悪い癖だ。そういえば最近食べ物をあまり食べなくなった。食べたいという欲があまりなくなってきているように感じる。どういうことだろうか?以前…12月中頃までの私とは随分と違っている。明らかに変化が生じている証拠だ。かような変化を以ってして、私は眠れずにいる。明日は仕事なのにこんな状態で大丈夫なのだろうかとも思うが、きっとそこに関しては問題ないだろう。恐らく私が深層心理的に抱えている問題は、目の前の1日の仕事とは比較にならない程のウェイトを持ったものなのだから。眠れない夜はいつもの夜より長い。それはまるで眠れていた夜の短さを取り返すかのように。
Jan 13, 2010
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意外性が大事だという話を聞いた。物事のは流れというものがある。時々大きく揺れ動くからこそ面白い、そこに新たな感情が生まれる。この考え方は様々な分野でも存在が認識されているものだ。穏やかな状態の中にふとした刺激が生まれる。刺激に包まれている状態よりも更なる効果を生み出すというものだ。それは男女間の恋にも同じことが言える。冗長で穏やかなだけでは飽きが来てしまう。だから時々不意打ちのようなことをするだけでも大きな効果が生まれる。観測的には、穏やかな時間が長ければ長いほど効果を持っているらしい。走り幅跳びのように、助走が長ければ長いほど遠くまで飛べるという理論だろうか?会社のイケメンでモテモテの先輩がそう言っていた。まぁ私はそんな技が使えるほどモテるわけでもないし、そんな技を使用するような場面に出くわしたことは未だない。私には関係ないものだと思っていたのだが、案外そうではないのかもしれない。まさに今…試されている時なのか?(笑)さて、本題へ。先日くーと一緒におでかけしてきたのだが、その時にアロマの存在について知った。正確には存在は知っていたのだが、その効用のようなもの…つまりアロマによってどれくらい気分が落ち着くかというようなことを知ったわけだ。私はこれまでこよなくお香を愛するお香主義者だった。アロマと言えばお香よりももう少しだけお洒落で、それでいて扱いが難しいものだと勝手に思い込んでいた。事実お香とアロマには使い方という意味でかなりの開きがある。お洒落な雰囲気初心者の私としては時期尚早だと思っていた次第だ。しかしくーが「アロマも凄くいいよ」と教えてくれたのがきっかけで、私もアロマデビューすることになった。半信半疑ながらも使ってみると、これがまた最高にいいものだった。まず一番違うところは、香りが持続する時間…つまり燃焼している時間が根本的に違うということだ。私が愛用しているお香は、長くても20分ほどで消えてしまう。しかし今回から私の家に入ってきたアロマは2時間ほども火が灯ったままになっている。そして香りの質が全く違う。これには驚いた。何と言うか、優しいのだ。癖がないという表現とは微妙に違うし、感じ方なんて人それぞれだから何とも言えないのだが、それでも私のフィーリングにはぴったり嵌るものがあった。アロマはもしかしたらお香よりもいいものなのかもしれない。アロマもお香もそうなのだが、常に点け続けるにはある精神的な部分が必要になってくる。それは「インテリアがお洒落でないとアロマも映えない」というところだ。ゴミゴミして生活観が丸出しの部屋でアロマを使うのと、生活観を排除した部屋でアロマを使うのとでは精神的な効用も違うのではないかと思う。少なくとも私はそう思っている。こうして私の生活にアロマが加わった。思えばアロマなんて大人が使うものであって、私にはまだ早いと思っていたのだが、客観的に見れば私ももう大人の男性として扱われるということを後から気づいて苦笑した。もうこういうものが自然に使える年齢になってきたのだとしみじみ思いながらも…アロマを使っていることを笑われないような大人になろうと感じた今日この頃だった。
Jan 12, 2010
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静かな部屋、まるで冷静沈着な大人のような雰囲気。どんなに言葉を紡いでも、言葉の上辺を滑るは真理あるものではない。それは換言するという段階で鮮度が落ちると言ってもいいようなどうしようもないことだ。人の本当の心を表現するのは、その人の心の中にあるもどかしいような言葉に出来ないような想いが全て。それを換言しようとすればみるみるうちに価値は下がっていく。下手をすれば持ちうる価値が逆転することもしばしば。しかしそれでもその時感じた想いを表現しようとするのが人、10分の1でも残しておこうというのが人。書物はそのようなジレンマに対する歴史だと言えるのかもしれない。私もまたその1人。君に対してどのように考えているのか、それが今の私の最大の関心事だ。こんな言い方をすると他人事のように聞こえてしまうかもしれないが、それでもそう表現するのが一番自然で、それでいて問題意識も持ちうるものだと思っている。多分気のせいではないだろう。君は私に似ている。否、似過ぎている。今までこんな風に他人に対して評価したことは一度たりともない。それは私自身が「一般的」という枠から外れていると思っていたからだ。普通じゃない、ちょっと変わっている、そんなレッテルを貼られることにも慣れてきていた。それでも尚自分のあるがままに生きてきたことは、私なりの矜持だ。多分そんな感覚を君も持っていたのだろう。君と私は似過ぎている。生まれに始まり、物事に対してもそう、物事に対する執着にしてもそう、恋愛にしてもそう。共通点を探さない方が難しいと言えるほどに恐ろしいほど似通っている。だからなのだろうか、君が言おうとしていることがよくわかる。君が感じたことは私は一歩先に感じたことであり、君が言ったことは私が一歩後に言葉にしていることだからだ。影響を受けているという意味で言えばまるで自分の参考書を見せられている気分だ。この歳になって自分の気持ちに他の切り口から解説がつくなんて思ってもみなかった(笑)言いたいことが伝わったり、同じ気持ちを感じていたり、同じ境遇を1つ見つける度に、君は笑顔になる。その笑顔を見るのが大好きだ。仲間を見つけたとでも言いたそうなその笑顔は私を癒してくれる。たかだか18時間の邂逅を経てもなお、私は迷っている。大好きなキャンドルに火を灯せないように替えが利かないことに怯えているのかもしれない。触れると壊れてしまうような感覚、触れたいと思う感覚。その2つが私の潤滑油になっている。背伸びしても私には届かないその身長も栗色の綺麗なセミロングも共通点を見つけた時の屈託の無い笑顔も全てが象徴的でいて普遍的な魅力を持っている。私は君に追いつけるだろうか。今はそれだけが不安だ。だが悪くない、これが人を知るという意味では重要なことなのだろうと感じる。次に会えるのはいつだろうか?そのスケジュールを埋めることが最大の楽しみになっている。
Jan 11, 2010
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この日をどれほど待っていたかわからない。スケジュールを組むなんて私には出来ない。だから物事は全て流動的且つ定量的に流れていくものだと信じている。それが重要なものであればあるほど。だから自然の流れの中にスケジュールを置く方がよっぽど私らしいと思うし、肩の力も抜けるというものだ。尤も、それは許容する器があればの話だが。約束という言葉に対して懐疑的なイメージを持っていたのもきっと今までの経験から約束を破られることが多かったからだろう。私の方から一方的に取り付けた約束もあれば、合意を受けた上での約束も数多あった。しかしその中で果たされた約束は一体幾つあっただろうか?真実だと信じて疑わなかったものが、簡単に瓦解する様を見るのはさしずめ壊れていくものを観察することに似ている。そんな気持ちはもう味わいたくはない。だから私は約束を強固に取り付けることを止めた。臆病に思われるかもしれないが、それは仕方のないことだったのかもしれない。そんな私が再び約束を取り付けることにしたのは…言うまでもなくある出来事が原因だった。今までどのように考えていたのかわからないことをはっきりさせるという意味で、今後の私のあり方にとっても重要な局面であることは認識している。ただそれ故に臆病になっているのもまた事実だ。約束が反古にされる様はもう見慣れているが一向に慣れないのは、私の期待が高すぎるせいなのか。それとも約束という何の拘束力もないものに縋ってきた結果なのか。それは私自身も判然としないところではある。だからこそ今回の出来事に対して重要視しているのだ。全ては未来へのベクトルの第1歩なのだから。丁度2週間前になるだろうか、あの寒空の下の交差点で交わした約束は今日果たされる。その日の予定が楽しみで眠れないなんてことはあまりないことだ。特別なイベントが待っている前の夜なんかは、その日のイベントのことを考えて眠れないなんてことはよくあることだった。その比率は当にイベントの期待値に比例する。小学生の頃、遠足の前の日はとても楽しみだった。どこに行けるのか、どんなことが待っているのか、お弁当を食べられる。そのような様々なファクタが私を高揚させ、眠りにつくことを拒絶していたのかもしれない。得体の知れない期待に胸が高鳴り、眠れない夜を過ごしたものだった。しかし眠れなかったとは言っても不思議と体調が悪いということはなく、むしろよく眠った時と同等のコンディションを形成することが出来る。これは実に不思議なものだ。次の日が仕事なのに眠れない時とは雲泥の差が生じるのは、気のせいではないはずだ。今日はまさにそんな気分。こんな時間にブログに思いのたけをぶつけているのがいい証拠だろう。さて、今日何があるのか、それは記載するかどうかは未定だ。ある人が言っていた、あったことをそのままブログに転記するのもいいのだが、その物事の重要性が高ければ高いほど自分の中に持っておきたいものだ。わざわざ楽しい思い出を文字に換言してブログにアップするなんて勿体無い、と。確かにその通りだ。だからここでは敢えて渋っておくとしよう。多分今日の出来事が楽しければ楽しいほど、それに比例して文章量も増し表現も多岐に渡ることは容易に想像がつくことなのだが…少しくらいはいつもと違うことをしてみてもいいと感じる。故に今ここでは明記しない。結果は文章量に比例する、それだけが私の今の段階で言える全てだ。リミットまであと6時間。睡眠を欠いた私の体は今いつもとは違う燃料で動いている気がしてならない。それは他でもなく外部より与えられるエネルギーだ。不安と期待の高まる1日が夜明けとともにやってくる。
Jan 10, 2010
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明けましておめでとうございます。去年の振り返りをしようと思ってはいたのだが、何かと忙しくてする暇がなかった。実際のところ年末というのは忙しいものだし、今年は年を跨ぐ夜勤のスケジュールであった為、振り返りをする暇がもてなかった。まぁ別に私個人の2009年の総決算と言ってもそれほど劇的なことがあったわけでもない。そうなってくると個人的な問題なのだが…私としてもそこまで必要性を感じているわけではない。故に振り返りは無しだ。トピックがあるわけでもないし(笑)さて、2010年が始まって2日経ったわけなのだが、2010年になったということで、今年は今までとは少し違う試みをしてみた。それは今までとは違う演出をするということだ。具体的に何をしたのかということを説明する前に、いつもの私の年越しのやり方を説明しなければならないだろう。私は友人の誕生日は基本的には覚えている。なのでその日になればメールを送るようにしている。しかも0時ジャストにほど近い時間をベースにしている。0時ジャストに近い時間である意味はそこまでないのだが、まぁこういうのは早い方がいいだろうというくらいにしか考えていない。同様にアニバーサリーにはメールを送るようにしている。毎年だ。毎年かかさず送っている。メールを送る為の回線が混雑することもわかっているし、毎年やっていれば回線がどの時間に一番込み合うのかもよくわかっている。故に0時ジャストのメール送信には自信があるわけだ。まぁそれは本筋とは関係ないのだが。今年も2009年が終わる前に携帯電話に入っているアドレスの人にメールを送ろうと思いながら、仕事の休憩時間にメールの本文の下書きをしようとしていたのだが…そこでふと思い立った。どれくらいの人が私からメールが来ることを認識しているのだろうかと。そこで1つの実験を思い浮かんだ。毎年毎年メールを送っているのだから、1人くらいはその存在を心の片隅に置いていても自意識過剰ではにはずだ。なので、そのいるのかいないのかわからない人を顕在化する為に、今年は年明けすぐのメールを送らないことにしてみた。一体これでどのような結果が待っているのかリサーチしてみようと思ったからだ。さて、年は変わり2010年。私の携帯電話に届いた年明けのメールの数は…まぁ言わずもがなだろう。かくも人とは自分が思っている内容を他人にも期待してしまうということが非常によくわかった。わかっている結果とは言え、少し面白かったのを鮮明に覚えている(笑)そんな不毛な実験をしながら2009年は終わりを告げた。実に私らしいと思うが…愉快な結果ではなかったことだけは確かなことだろう。
Jan 2, 2010
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