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電話を持つ手と利き腕に因果関係はあるのだろうか?私は右利きだから電話は必ず右手で持つ。受話器のあるものでも携帯電話でも変わらず右だ。しかし世の中には利き腕が右腕にも関わらず左手で受話器を持つ人の方が多いような気がする。どうしてだろうか?普通利き腕は何をするときでも優先して選ばれる手だ。右利きなら殆どの所作を右腕でするだろう。同様に利き腕が左の人は左で殆どのことをこなすだろう。この法則は世の中の大体の物事に適応されるが、どうしても電話はそうはいかないような気がする。ところで、私が右手で受話器を持つのにはちゃんとした理由がある。それは単純に話しやすいからだ。右手が利き腕なのだから、電話をするという行為に必要な受話器を持つという動作にも得意な手で臨みたいという気持ちがある。しかしだからといって世間一般が全員そうかと言われるとそうではない。一体何故そのようなことが起こるのだろうか?考えられる可能性としては。電話をしながら何かメモをとる時にペンを利き腕で持つから反対の手で受話器を持つというケースだ。これは仕事をしている人、特にオフィスワークを生業にしている人には多いだろう。得意先との重要な話を電話でする場合、メモの重要性は非常に高い。よってメモをとりやすいように利き腕と逆の手で受話器を持つ癖がついてしまうのだろう。そういう観点から言うと、私のやり方は意に反しているようにも思えるのだが、これがまたそうでもない。実は仕事をしながら電話をとり、メモをするという機会は私の仕事でも結構ある。しかしそれでも私は電話を右手で扱う。メモを取る手も右腕、電話を扱う手も右腕なのだから弊害がありそうなものだが、案外そうでもないのだ。例えば相手先から重要な電話がかかってきた場合、メモをとりながら電話をすることになるのだが、その際私は受話器を肩で支えながら電話をしている。一見やりにくそうな光景かもしれないが、これが案外「ウケ」がいいのだ。そのように仕事をしている人を見るとちょっとだけ「デキる人」に見えるらしい。電話が大した内容でなくても…そしてその格好で長い時間電話対応をしているほど…終わった後に労いの言葉なり賞賛の言葉なりが出てくる可能性が非常に高い。これは私独自のデータだが、ほぼ間違いはないだろう。こんなしょうもないことにも打算を入れて仕事をしているあたり抜け目ないと思われても仕方ないだろう(笑)話を戻して…様々な影響あろうが、結果的に利き腕と電話の持ち手との関係は環境によるものだという結論が出てきそうだが、もしかしたら新しい考え方もあるかもしれない。それは利き「耳」の存在だ。腕だけではなく、2つあるものには基本的にどちらが優れているか、どちらが使いやすいかというものがある。目だってどちらも均等に見える人なんていないだろう。どちらかの目の方が視力はいいはずだ。同様に足だって利き足というものがある。サッカーをしている人には自分の利き足がすぐにわかるはずだ。そのような観点から、利き耳というものがあるのかもしれない。その利き耳を無意識のうちに自分では判断しており、そちらに受話器をあてるよう腕を調整している。だから利き腕と電話の持ち手には法則性がないのかもしれない。聊かこじつけかもしれないが、可能性としてはゼロではないだろう。一考の価値は…ないかな(苦笑)さて、本題へ。前の続き「GLの人々 前編」より2階の住人がちょっと変わった人だということはある程度わかっただろう。そして残るは後1人、2階左側の部屋の住人だ。実はこの人が一番謎だったりする。まずは小手調べと言わんばかりに、2階中央の住人と同じく、2ヶ月間で一度も見たことがない。まぁこれ自体が本来ならばかなりの希少性を持っているのだが、中央の住人で慣れてしまったのでそこまで驚くことではない。生活している以上ベランダに洗濯物を干してあることも珍しいことではないのだが、その部屋の住人が洗濯物を干しているところを一度たりとも見たことがない。これだけならばただ極端に普通の生活からかけ離れただけの人に思えるのだが、不思議なのはそれ以外の部分なのだ。2階左側の部屋の住人のベランダは特に何の特徴もないような外観をしている。しかし何の特徴もない平凡なべランダに1本だけ物干し竿があるのだが、その物干し竿の先端にベルトが巻いてあるのだ。ちょうどベルトを軸にして物干し竿に通してあるような…そんな感じでベルトが物干し竿にひっかかっている。ベルトを干しているのだろうと最初は思ったのだが、私が入居してから今までベルトが回収されたことは一度もない。完全に放置してあるのだ。そして一番不思議に思ったこと…それはそのベルトが全く移動していないことだ。普通物干し竿の先端に輪状のものをかけておくと、風の影響でその位置は微妙にずれる。強い風が吹けば飛ばされることだってある。しかし風でゆらゆらと揺れることはあっても、目に見えた移動は絶対にしない。そしてそれが洗濯物を45度以上揺らすような強い風であったとしても同様だ。これは何か仕掛けがあるのだろうか?考えられる可能性は固定してあるのだが、そんなことをするのにどんな意味があるのだろうか。まさか何かのゲンを担いでいるのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなる。全員の部屋を訪れて10分ほど話し込みたい衝動に駆られるのだが、それが出来ない辺りが昨今の世間付き合いの希薄さを表しているだろう。しかし一度気になったことはどうしても謎を究明したい性格としては真実を知りたくなるのもまた仕方ないことだ。そんな悶々としたフラストレーションを抱えて生きている今日この頃だ。ふと「もっと楽天的に生きたら?」と言われた過去を思い出した出来事だった。
Sep 9, 2008
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イチゴ大福に興味津々だ。基本的に甘いものはそこまで好きじゃないし、辛いものと甘いものがあれば絶対に辛いものに飛びつくだろう。甘さだけはどうしても全てを受け止めてあげられるような気がしない。何と言うか…甘さには味覚の中でも他にない要素があるような気がする。ねっとりとした…そしてしつこさがあるのが甘さの特徴だろう。きっとそういうところが好きになれないのかもしれない。板チョコを丸かじりしている人を見ると、尊敬とは違うにせよ、自分とは違うのだというまなざしを浴びせてしまう。そんな甘さに関しては普通よりもちょっとだけ拒否反応はある私なのだが、最近どうもイチゴ大福が気になって仕方ない。何故こんなに気になるのか自分でもわからない。喩えて言うならば…好きでも嫌いでもない異性の芸能人が夢に出てくると、ちょっと気になる存在になる。という感じだろうか。別にイチゴ大福のことを夢に見たわけではないのだが、どうしても頭から離れないのだ。こういうのが恋なのだろうか?人相手だったら素敵なのだが(笑)気になるなら食べればいい、そう思うかもしれない。しかしそれが出来ないから今こうして悶々と悩んでいるのだ。イチゴ大福はどこのお菓子屋でも売っているほどポピュラーなものだ。大福の中にイチゴを入れるというのは開発された当初はかなり批判を浴びたことだろう。いつだって革新的なものには賛否両論が付きまとうものだ。そしてそれらは往々にして批判的な立場に推移していくものだ。新しきを嫌う日本人故の性質だと言える。しかし今普及しているのは批判を跳ね除けて生きながらえてきた証拠だろう。もっと賞賛されてもいいものだとも思える。そんなポピュラーなお菓子イチゴ大福なのだが…私の住んでいる町には全く置いていない。思えば長らく住み続けた古都京都、ここは和菓子のお店がかなり多くある場所だ。だから毎日のようにイチゴ大福を見かけることもあったし、それが珍しいものだとも感じなかった。況や食べてみようとは到底思わなかったわけだ。いつでも食べられるとわかっていれば食べないが、食べようと思う時には近くにないもので、猛烈に欲している今食べられないという状態が続いている。失くして気づく大切な人…に似ている。これは由々しき状況だ。ないと思えば欲してしまう、悲しきヒトの性だろう。あぁ…イチゴ大福…多少凹みながら本題へ。私のアパートはアパートというよりはむしろ一軒家に近い。部屋数も6部屋と非常に少なく、見た感じちょっとガタのきた普通よりも大きめの一軒家のようにしか見えない。実際、自転車を鍵もかけずに放置しても誰も盗まないという、都会「横浜」とは思えないほどのアットホームな雰囲気を醸し出している。そんなアパートなのだが、実は私以外の住人で謎が多き存在の人が多い。今回はそんな話の前半部。私の部屋は6部屋ある中で1階の真ん中にある。つまりベランダに出てしまえば真上の階の部屋以外は見えることになる。しかも、真上の階もアパートの目の前に大きな一軒家が建っており、その一軒家の2階のガラスで反射することによって幸か不幸か丸見えになってしまっている。結局のところ私の部屋ポジションは全ての住人のベランダを見ることが出来るわけだ。お風呂上りにベランダで涼しい風にあたりながらまったりしているとき、私はちょっと目線を他の部屋のベランダにうつし、ベランダを観察するのが癖になってしまった。因みに他意はない。。ベランダは結構その人となりを投影している場所だからだ。真の綺麗好きはベランダまで行き届いているものだ。そういう半ば潔癖に似たような性質をベランダを見ることで見抜こうとしているのだ。まぁある種の人間観察が出来るということだろう。まず2階右側の住人。この部屋の住人は物凄く植物が好きなようで、ベランダは植物で埋め尽くされている。それがベランダだけならいいのだが、明らかに部屋の中も植物で埋め尽くされているのがわかるほど露骨に植物の影が窓から見えている。一体どれほどの植物を有しているのか物凄く気になるのだが、面識がない上にいきなり失礼なことも言えない。邪推だとわかっていても、どうしてもそこのところが気になってしまうのだ。そして2階中央の部屋の住人。この部屋にはどうやら家族が住んでいるらしい。たまに小さなお子さんの姿も見えるので、若い夫婦でも住んでいるのだろうと推察出来る。これだけならなんら不思議ではないのだが、どうしても解せないところが1点だけある。それは生活リズムだ。小さなお子さんがいるということは、生活リズムは極めて健康的である必要がある。しかしその家族が平日・休みの日問わず1日家にいるところを一度も感じたことがない。何故わかるのか、それは2階中央の部屋は私の部屋の真上にあたり、足音で部屋にいるかどうかがわかるからだ。古い建物なので結構足音は響く、真下にいるなら尚更だ。流石に足音の代償で人物を特定するほど極めてはいないが、せめて部屋に誰かいるかどうかくらいはわかるものだ。そういう観点で真上の部屋の状況を考察してみると、その朝か夜に数度足音がするだけで、後は本当に静かなのだ。いないのかと思うくらいに歩く音が聞こえない。歩かずに移動することが可能なのだろうか?考えられる可能性として、殆ど家にいないというものだが、可能性としては低い。私の仕事は昼の仕事と夜の仕事と2つの仕事を交代でこなすようなものだ。よって仕事に出かける時間もまちまちで、法則性は皆無だ。もしも上の住人が出かけているのであれば、2ヶ月今の家に住んでいるのだから、一度くらいは外出している光景に出会ってもよさそうなものだ。しかしそれもない。加えて小さなお子さんがいらっしゃるので、お子さんの小さい度合いにもよるが、学校にはいかなければいけない。その光景にすら一度も遭遇しないのはどう考えても不自然だ。外出せずに生活する、そんなことが可能なのだろうか?その家族の平凡な1日のありようが気になって仕方ない。ここ数日真上から足音が聞こえたことは一度もない。もう3日くらい聞こえていない。というか根本的なことを言うと…その家族は本当に住んでいるのだろうか。。。。。。。。。まだまだ不思議な人はたくさん住んでいるが、長くなりすぎたので2部構成にするとしよう。というわけで続きはまたのちほど。
Sep 8, 2008
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書き溜めた分もやっと消化できた。今になって振り返ってみると、かなりの量を書き溜めているということに気づいた。最初の方に更新をかけた内容は最早一昔前のことのように思える。蝉が暑苦しく鳴く準備を始める頃、私は今の家に越してきた。そして何もないがらんどうの部屋の中で書き溜めていた分を書き始めた。思えばあの頃は不安でいっぱいだった。誰だってそうだろう、全く知らないところへ裸一貫同然で赴くことになるのだから。その気持ちがブログという形の端々に出ているように見受けられる。まぁ寂しさの現れだろうか?(笑)蝉があれだけ煩かった時期も終わり、昨日家の前に彼岸花が咲いているのを見かけた。もうすっかり秋の香りのする頃になったようだ。早いようで長くもある…情緒ある秋の夜を堪能できる季節になったということだ。さて、本題へ。広いばかりのキッチンにもちょっとした問題はある。今回はそんな話。私の家のキッチンはとても広い。それは部屋の割合におけるキッチンの広さが広いという意味ではなく、キッチンの主機能の1つであるシンクが広いという意味だ。男の1人暮らしに於いてキッチンというというのはそこまで重要性の高い部位ではないのだが、殊更キッチンに立つことが多いとなると話は別だ。まぁ手の込んだ料理をするまではいかないにしても、洗い物やちょっとした料理をするとなると、シンクの広さはかなり重要になってくる。その観点からも家を選んだ私としては、やはりシンクの広さは魅力的な項目だと思っていた。加えて前に住んでいた家達がシンクに関してだけ言うならばかなりのこじんまりさを醸し出しており、シンクの広さがキッチンの魅力の1つだという考えが浮かんでも可笑しくない状態になっていた。それがあっての今の家のシンクなのだが…それが手放しに喜べないということに最近気づいた。シンクの広さはキャパシティの大きさだ。多くのものを置いておけるとなると、かなり重宝すると思われるのだが、そこに落とし穴があった。一般的にキッチンは3つの要素で構成される。1つ目は先に述べたシンク、2つ目は俎板を置いて料理をするところ、3つ目はガス台だ。3つ目に関してはキッチンの構造上独立のものがあるかもしれないが、おおよそポピュラーなキッチンの構成は以上の通りだろう。キッチンというものは大体の大きさが規格で決まっているようで、その3つの構成要因の兼ね合いが汎用性に直結している。そして私の部屋は1人暮らし専用のものであるので、キッチンの規格はそれ相応のサイズになっている。ここまで言えばもうわかるだろう。。。要するにシンクが大きすぎて俎板を置いて料理をするスペースが極端に狭いのだ。幸いにして手の込んだ料理はあまり…否、ここ数年はほとんど作っていないので心底困ることはないと高を括っていたのだが、ただ野菜か何かを切るだけでも窮屈で仕方ないことに気づいた。これは思わぬ罠だ。考えてみれば、私の住んでいる家の規格はどこかおかしい部分は多い。一般向けに作られたとは到底思えないような部分が多く存在している。例えばベランダに出る窓1つをとってもそうだ。部屋の南方向にベランダに通じる窓があるのだが、これが異常に大きいのだ。普通サイズの窓向けのカーテンをかけても短すぎて、一度興味本位で計測してみるとなんと20センチ近くも足りなかった。これはどう考えてもおかしくないだろうか?疑問に思うのはそのような構造でなければいけないという需要が多いのかという点だ。窓は確かに大きい方がいい。その方が日光も差し込むし、何より明るい部屋であるという大切なファクタの1つだ。しかしながら、そうでなければいけない理由はない。窓を大きくすることによって可能なアピールはごく限られている。窓の大きさに重点を絞って物件探しをしている人なんてそうそういないだろう。窓に求めるは大きさではなく、向きだ。南向きの壁に配置してある窓こそ本当に価値があるように思えて仕方ない。まぁこれは私だけかもしれないが(笑)話を戻して…シンクが広い弊害として俎板スペースが狭くなることは大いなる誤算だった。しかしながら得意料理はカレーという料理能力の著しく欠損した私にしたら、そこまで重要ではないという結論に落ち着いた。まぁ結局何が言いたいのかというと…キッチンを選ぶ時にはそういうところも見よう!ということだ。もし私が特別に誂えた特注包丁を持っていて、趣味が魚の活け造りというアクロバティックな性質の人間だったならば、これはもっと大きな問題になっていたかもしれない。ここに冗談混じりに書いていること、そのこと自体がこの私にとってのこの問題の矮小さを者がっているような気がする。
Sep 7, 2008
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最近ポストに入ってくる郵便の数にうんざりだ。まぁ一人暮らしをしている上では避けては通れない難関であることは言うまでもないことだ。風俗関係のビラに始まり、水道が詰まった時にはご連絡くださいだとか、新聞を始めませんか?だとか、ピザやお弁当の宅配承りますといったような日々の生活に漸近している事象に対する広告が郵便ポストにはかなり乱雑に入れられることになる。基本的にそれら全ては使わないままになってしまうので、殆どの一人暮らしの方はそれらの広告を破棄していることだろう。それに関しては私も全く同じ行動をとっている。しかし時々…あくまで時々だが、郵便受けには面白いものが入っている。私は9月の初旬をもってインターネットの開通を行ったわけなのだが、それに関する封書も最初の方は届いていた。今頃レトロともされているADSLということで、なまじ通信速度を心配したかのような光の広告が入っていてイラっとしたことも数度ほどあった(笑)ADSLでしか契約できないという背景(過去のブログ参照)を知ってか知らずか、そのような無神経な広告を入れてくることにちょっとうんざりしたものだが、まぁそこは広告戦略の基礎を忠実に行っているだけなので文句は言わないことにしよう。そうやってADSLで契約したのだが、ADSLには電話回線がほぼセットでついてくることが多い。別に必ずしもセットで契約しなければいけないわけではないのだが、恐らくその方が合理的であろうし、固定電話をひくことを視野に入れたというレトロなやり方の1つなのだろう。光回線が主流になりつつある現代ではちょっとだけ懐古出来るようなシステムだと言える。私はADSLで契約したのだから、当然使ってはいないが固定電話の電話番号を持っていることになる。これは京都で学生をしていた頃もそうなのだが、固定電話の電話番号を持ってしまうと厄介な目に遭ってしまったことがある。ある日私がいつものように郵便ポストを覗くと、大きな本が投函されていた。それはかの有名なタウン○ージだった。そもそもタウンペー○はそのように無料で配布していいものかどうかをまず疑問視したのだが、あまり深く考えないようにしようと思い、くれるというなら貰うという関西人スピリッツがこんなところでも発揮されてしまった。そしていざ取り出そうとすると、タウン○ージが大きすぎて入り口に引っかかってしまい、とれないことがすぐにわかった。まぁまずは溜息だ(笑)そもそも手紙サイズのものしか投函できないようになっている郵便ポストに、厚さが数センチあるタウ○ページをどうやって入れたのかさえ疑問に思ったものだが、それはさておき取り出し作業に四苦八苦することになってしまった。そのタ○ンページはご丁寧にも神奈川全域を網羅している最新版らしく、太さも重さも数割増(当社比)になっていた。本当ならば地域網羅を喜ぶべきなのだろうが、生憎と迷惑しかかけてくれない彼に対して喜びを見出すことは出来なかった。結果的に取り出し作業はなんとか終わったのだが、勿論その○ウンページを有効活用しようという気になれなかった。仕事も終わり意気揚々と家に帰ってきた私を苦しめたのだから、その報いは「窓際に置いて放置プレイの刑」に決定だ。本当に郵便ポストに無作為に入れられる郵便物には困ったものだ。。。さて、本題へ。ちょっとだけ前の話になるが、兄が遊びに来た時に面白い話を聞いた。もしかしたら過去にも同じようなことを書いたかもしれないという注意は今のうちにしておこう。被っていても当方は責任を負いかねるので(笑)「かしわ」という言葉の意味がわかるだろうか?子どもの頃の私はこの言葉は標準語の部類に見事に合致しており、全国津々浦々どこでも当たり前に通用する言葉だと思っていた。しかし実際は関西の狭い範囲でしか通用しない言葉だと知ったのは大学に入学した頃だったような気がする。大学に入学することで他県、他地方からの人と触れ合う機会も多くなり、「かしわ」が全国区を得ているとは到底言えないという現実を目の当たりにすることになった。まぁ「かしわ」については大学の最初の頃に気づけたので良かったものの、これと同じような出来事をごくごく最近経験することになってしまった。今回はそんな話。例えば居酒屋に行った時には誰しもがお酒を飲むだろう。アルコールに対して強い弱いはあろうが、居酒屋に行って何も飲まない人はいないだろう。お酒に弱い人ならば烏龍茶を飲むだろうし、ソフトドリンクに興じる人もいるかもしれない。どのような飲み方をするにしても、入店から退店までひたすらにお酒を飲んでいるという人は稀なような気がする。そして居酒屋で必ずオーダーされるものが「お冷」だ。しかしこの言葉は全国区ではないという驚愕の事実(あくまで主観)がこのほど判明した。お冷とは、言わずと知れた水だ。酔いを醒ます為、お酒とお酒の間に小休止的なもの、全く違う種類のお酒を飲む時の口直しの為、様々な用途で用いられる飲み物だ。まぁ基本的には無料なのだが、その認知度は高い。水自体の認知度は高いものの「お冷」という名前は私の中では当たり前なのだが、実は全国区の呼び名ではないらしい。会社の先輩の話によると、関東では30%の確率で通じなかったということだ。しかし東北地方を始めとする所謂「冬にとても寒い地域」では通じるらしかった。一体どのような伝播の仕方をしたらそうなるのかはわからないが、その事実を兄にも伝えられた時私は酷く驚いてしまった。日ごろ当たり前に使っている言葉が通じないというのは結構新鮮な驚きを提供してくれる。当たり前だと思っている言葉でも、地域が変われば通じないということを視野に入れて今後は生活していくべきだと感じた出来事だった。そこで浮かぶ疑問なのだが…関東のお冷の通じない30%の居酒屋の店員は「お冷」と注文されたら何を持ってくるのだろうか?普通に考えたら水なのだが、通じないなら何を持ってくるのかちょっと見物だ。もしも「お冷」と言って氷を持ってきてくれたら、関西人の私としては店員がボケるつもりがあったにせよなかったにせよ、及第点はあげたいかな(笑)
Sep 6, 2008
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約束は守られる為にある守られない約束は約束と呼べないこの日に約束がある、そう思えるだけで生活は一変する。特に約束に対する楽しみが高いほどその効用は高まる。私にとっての楽しみは随分前に仮リザーブされたまま凍結されていた。楽しみが漠然と目の前にある、まるで人参を目の前にぶら下げられて走る馬のような気分だった。見知らぬ土地で頑張る為、やる気を削がない為、そんな為に楽しみを目の前に漠然とぶら下げられているのかもしれないと疑問に思ったくらいだ。しかしその予定は拍子抜けするほどあっさり決まってしまった。日ごろ溜まっている疲れ、愚痴を言うことが出来ないことへのストレス、そういうものが溜まり始めた頃、約束はふと訪れた。それがその日、8月24日だった。敢えて多くは語らないでもストレス解消になったのは間違いなかった。振り返ってみると、様々なことが思い起こされた。結果的に私はまだまだ大人ではないということに気づいた。一人っきりの土地に来ることで淋しさにも強くなったつもりだったし、誰にも頼らずに生きていくことにもつもりだった。しかしそれらの「つもり」はただの「仮面」つまりは強がりであることに気づいた。やっぱり気のおけない友人がそばにいる方が幸せだし、お互いに支えあうことは弱さではないということに気づいた。こっちに出てきて一ヶ月ちょっと経ったが、初めて淋しいという感情を強く感じた。たった2時間ほどの距離なのに、何故だか帰る時に物凄く淋しくなったものだった。愚痴を言ってご飯食べてお互いのことを話して笑いながら遊んでそんな当たり前のことでもできることの喜びを噛み締めた日だった。俺、UFOキャッチャー上手くなったっしょ?(笑)
Sep 5, 2008
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インターネット、未だ繋がらず…何と言うか、もっと効率的にできないのかと思ってしまう。インターネットの契約をしたことがある方はわかると思うが、どんなに長くても1ヶ月あればインターネットの環境というものは整う。しかし私が初めてお店を訪れてから1ヶ月ちょっとになる今日、未だにプロバイダの会社からの連絡はない。一体どうなっているのだろうか?そもそもインターネットの契約をチャート化した場合、全てをこなすのにもそこまで時間はかからないはずだ。光にするにしてもADSLにするにしても、大体同じような手順をこなして開通ということになる。それらを的確にこなした場合、1週間もかからないはずだ。それらインターネットの開通手続きを片手間にやっているのならば一ヶ月掛かってもしかたない。だがそれを仕事にしているのだ、当初口にした期間を超えてしまうのであればそれなりの改善をしてもらわないと困る。職種・業種は違っても仕事というフィールドに於いてその概念は共通だ。出来ないことは口にしない、出来ないことをしたいのならば出来ることを全力でこなして尚努力の片鱗の見える仕事の仕方をしないといけない。全く…真面目に仕事をして欲しいものだ。この8月23日現在でもまだまだ繋がりそうもない。だからちょっと面白い方法をとってみたのだが、そのことで更に面白いことがわかった。いつまで経っても繋がらないということで本契約とは別のプロバイダとも契約し、どちらかに回線工事の目処が立てば目処の立たない方を切り捨てようという作戦に出てみた。調子に乗ってそれをもう1社と行ったのだが、かなりややこしいことになってしまったのは後で気づいたことだ(笑)3社と同時に契約していればすぐにでもアクションを起こす会社が1社くらいはありそうなものなのだが、前述したように今のところどこの会社も連絡の1つもない。これは怠慢だ、しかも極度の。効率性を重視した結果上記のような手段をとったのだが、奇しくもインターネット契約を仕事にしている会社の怠慢を見ることになってしまった。ちなみにちょっと話は変わるのだが、上記に関して不思議に思ったことがある。インターネットの形として今メジャーなものは2種類に大別される。それは光回線にするかADSL回線にするかというものだ。これは表立った種類の大別だと言えるかもしれないが、実はもう1つのカテゴライズがある。それは「電話回線を介するかどうか」ということだ。これは意外に大きな意味を持っている。インターネットの契約をする上で普通最も時間のかかる作業は電話回線を開通させることだ。これがスムーズに終われば後はあっという間に作業は終わってしまう。つまり電話回線を手早く引けるかどうかがネックになっているというわけだ。上記を踏まえた上で電話回線を有さない契約のことを考えるのであれば、どう考えても電話回線を有さない方が作業が早くなる。一般的な手順を踏んで1ヶ月以上かかるのであれば或いは私も納得したかもしれない。が、早期で可能な手順を以ってしての1ヶ月越え、これをどう言い訳するつもりなのだろうか。勿論そうなった理由を一意で片付けるつもりはない。例えば何かしかの理由があって作業が遅れているのかもしれない。その可能性は否定しない。だが、サービス業に於いてはサービスを迅速且つ正確に提供することは仕事がカスタマーに見える唯一の形での「成果物」であることは自明だ。注文しても全然料理が来なかったら誰だって文句は言うだろう。遅くなるのであればなるで、封書の1つでも送るのが礼儀ではないだろうか?リカバリが出来ていないことは否めないだろう。仕事をしていない時はこんなことを深く考えたことはなかった。仕事をする上で成果物をあげることに関するどうしようもないこと…齟齬を感じながらも、気持ちがわかる部分も多くあった。だからこそ中途半端な仕事の仕方に憤りを感じるのもまた事実だ。たかだかインターネットかもしれない、値段にして3万円くらいのものかもしれない、しかしその気持ちを住宅展示場やディーラーが持った時、その損失は計り知れない。リスクの芽は早めに摘むに越したことはないということは最早自明だ。
Sep 4, 2008
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携帯電話をずっと使っていると電池パックが膨張してくるというのは本当なのだろうか?私の携帯電話はもうそろそろ2年くらい使っているのだが、そんなことはない。しかし兄にその現象が起こったようだった。兄はよく携帯電話を壊す。尤も故意に壊しているわけではないのはわかっている。兄は昔から運の悪い人だった。携帯電話の件にしてもそうだが、兄は基本的に携帯電話を面白い形で壊す。今持っている携帯電話は替えたばかりなのでまだまだ新しいのだが、1個前の携帯電話は電池パックの膨張で壊したらしかった。実物を見たわけではないので本当かどうかわからないが、兄が力説しているところを見るとどうやら本当のようだった。そして同じようにならないように注意してくれた。兄はいつもそういう人だ、ちゃんと弟のことを心配してくれる、そんな人だ。ちょっと話がずれたが…。携帯電話を壊したのはそれだけではない。今の携帯電話の4つくらい前のものになるが、折りたたみ型の携帯電話で面白い壊し方をしてくれた。その携帯電話はなんと完全に開くと電源が落ちるというものらしかった。兄がその携帯電話を持っている時に私は携帯電話を持っていなかったので、兄の携帯電話に入っているゲームをよく勝手にやっていたことがあったのだが、その時に携帯電話が半開きで置いてあるのがずっと気になっていた。しかし気になりながらもいつも通りゲームを始めようと携帯電話を完全に開くと画面が真っ暗になってしまった。はじめは壊したのかと思ったのだが、兄は事も無げに「完全に開くと壊れるから」と言っていたものだった。よく物を壊した兄のことをふと思い出した出来事だった。さて、本題へ。私の田舎の話はもう何度も何度もしていると思うが、何の良いところもないというのは読んで下さっている方はもう知っているだろう。しかしそんな私の田舎なのだが、1つだけ日本一のことがあるらしい。日本一のものなんてそうそうない、そんな名誉なことを私の田舎が持っていると思うとちょっと嬉しくなった。しかしその内容を聞いた時、かなり切ない気持ちになった。今日はそんな話。私の町は面白いほどに何もない町だ。町と呼ぶのもちょっと気が引けるくらいに何もない。家の前を小さな道路が走っているのだが、その道路が国道だという驚愕の事実も最近知ったくらいだった。本当に小さくて何もない町だ。そんな町にも日本一のところがある、そう知ったのは最近兄からだった。兄はいつもそういう「へ~」という情報をよく持っていた。今回兄と話していて偶然田舎の話になり、そのことからこの話が出てきた。京都府で一番の湖があるのは知っていた。因みにあまりの汚さで学校でも有名で、京都府で一番汚いから有名な湖だと本気で思っていた。まぁ実際は何が一番なのかは敢えて伏せるが、そんな湖を有するということで京都府内ではちょいちょい有名なところもあった。随分長い間引っ張ったが、私の町の日本一のところを発表するとしよう。それは…市の人口比率から見た自殺率の高さらしい。全く名誉じゃねぇ…_| ̄|○まぁはじめっから人口の多いところではない。引っかき集めても1万人くらいだろう。その人口の中で自殺をする人が日本で一番多いとのことだ。これは全くもって不名誉極まりない。まぁ確かに言われてみると近くにある京都府で一番の湖に死体が浮いていることもあったし、老人が行方不明になって浜辺に打ち上げられているのを見たことがある。友達の家の横の家でおじさんが首を吊ったという話も珍しいものではないし、行方不明・夜逃げ・自己破産などなど、自殺を誘因するものは数え上げればキリがないほどある。納得できないこともない。だが、それにしても日本一を頂くほどに多いのだろうか?そのようなことが過疎化に拍車をかけているのだろうか。そう思うと悲しくなってくる。はっきり言って私の町の人は減っていく一方だ。先ほどの自殺の件もそうだが、若い人が圧倒的に少ない。就職できる場所もないから若い人が外から集まってこないし、もともといた人もよりよい就職先を求めて外に出て行く。若い人がいないから就業先がどんどん細くなっていく。若い人が来ないから年配の方が頑張るしかない。そうなると極端に労働過多が生まれる。ただ仕事面1つをとってみても、そのように人が少なくなっていく理由は山積している。私は今まで地元のことを悪く言うことも多かった。何もないだとか小さいだとか、田舎過ぎるだとか。しかし決して嫌いなわけではない。むしろ自然も多く、のんびりまったり暮らすことが出来るという意味でも好きだ。そんな町が私のいた頃と変わってしまう、それが非常に悲しい。隣同士知り合いで、回覧板なんかを持っていく。夏には海に出かけ日が傾くまで遊び、帰ってきたら窓や玄関を開けっぱなしで昼寝をする。涼しい風の通り抜ける縁側でスイカを食べながら、母親が晩御飯が出来たと呼んでいる。携帯電話もない、インターネットもない、高速道路もないし、コンビニもない。そんな町だが、私にとっては夏の田舎は最高に楽しいところだ。そんな町が自殺で蔓延している…誰だってそんな悲しいことは受け入れられないだろう。どんどん町が衰退していくのは見ていても嬉しいものではない。あぁ、私の母親の弟が経営している料理屋さんに彼女を連れて行くという私の大きな野望が叶うまでは、田舎は元気でいて欲しいものだ。
Sep 3, 2008
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世の中はお盆のようだ。と当時書いたのだが、これも随分古くなってしまった(笑)去年もそうだったのだが、私の職場には季節感が全くない。24時間365日常に稼動していなければならない仕事柄だからだ。その影響で、常に2名は職場にいなければならない。2名しかいなくていいということは、残りの人は休みを満喫できるわけだし、勿論その期間に休みをとることも可能と言えば可能なのだが、普通に考えて、そのような特別な休暇は誰しもがとりたいものだ。その期間に休みが集中してしまうと、どうしても譲る・譲らないの問題になってしまう。そうなった場合…誰かがなかないといけなくなる。会社レベルとしても現場レベルとしても、私が一番下に存在していることもあって、そのところで我が儘を言うわけにはいかない。だから私がなくことになるのだ。去年もそうだが、今年も末端なので、結局今年も休みを貰うことは出来なかった。貰った「らしい」夏期休暇も未だに消化できていない。大規模な休みは一体いつ訪れることやら…(涙)さて、本題へ。ついに我が家にもテレビが導入された!テレビ自体はあったのだが、映らなかった状態がずっと続いていた。その状態のままで1ヶ月近くも過ごしたのは私がラジオ派だからだろう。テレビが無くてもラジオがあればいいようなちょっと変わった性格だ。だからテレビの必要性もなかった。ラジオはいい、或いはテレビ以上の良さもある。まぁ世の中のシェアは明らかにテレビの方があるので敢えてそこに戦いを挑んでいこうとは思わないが、強いていい点をあげるのならば、何かしながらでも楽しめるという点でもラジオはかなり優秀だと思う。ただ、ラジオには欠点も多くある。全国全ての局が入らないということによる地域性の強さだ。例えば私がいつも聞いているFM横浜は名前の通り横浜近郊の情報がふんだんに盛り込まれている。横浜に住んでいる人にとっては近所の情報が齎される為ありがたいかもしれないが、横浜に住んでいない人にとってはあまり役に立つことはない。そういう地域間の温度差が生まれることがラジオの欠点だろう。というようにかなりのラジオ好きなのだが、何故テレビを導入したのか、それはちょっとしたきっかけだった。私の家にはテレビ自体はある。その話は以前のブログにも書いたのだが、線だけがない状態だった。そしてこれまた以前にも書いたのだが、私は某民営テレビ会社の集金で奇しくもお金を払ってしまった。そのせいで、見ないと損をするというような強迫観念に襲われてからというもの、急遽テレビを導入することにしたのだ。まぁ今まで見ていなかったこともあってか、テレビが点きはじめても特に見ることはない。どうせあるのだから見ればいいのだが、どうしても今までラジオ生活をしていたこともあってかテレビを点ける気にならないのだ。テレビ的にはついに強力な仲間を得て現役復帰した気持ちでいたかもしれないが、その気持ちは裏切られることになってしまったようだ(笑)巷では地上波デジタル放送の波が強くなってきてアナログ放送しか映らない私の家のテレビのようなものはただでさえ立場がないのに、活躍の場さえ与えてもらえないというのはちょっとかわいそうなものだ。まぁそこは私の家に来たことを後悔するしかないのかもしれないが。そうやって新しく参戦したテレビなのだが、近いうちに活躍の場を大きく左右される出来事に見舞われる。それはまた別の機会にでも。
Sep 2, 2008
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映画を見るということは生きてきた環境に起因するというところが多いような気がする。私の生まれた町には映画館が無かった。コンビニもないし、家電量販店もなかった。道だって片道1車線が普通だし、片道2車線の道なんて隣町まで行かなければなかった。まぁ家電量販店はないところもあるので田舎のキャパシティかどうかは疑わしいにしても、それでもコンビニも映画館もないのは非常に厳しいところだ。そんな環境に生まれたからかもしれないふぁ、映画なんて小学生に入るか入らないかに見たドラえもんの映画が最後だった。しかも内容も映画館の様子も全く覚えていないから、はっきり言ってカウントに入らない。だからこそ思うのだが、映画を見ることが非常に好きで、新しい映画が出たら見ずにはいられないというような映画好きには、私のような田舎生まれの人はいないような気がする。逆に映画館が近くにないからこそ上京して映画館が身近な存在になると見まくるようにも思えるかもしれないが、案外そういうものでもない。実際に私がそうだった。昔私が住んでいた場所の近くには金閣寺があった。金閣寺と言えば有名な寺院として歴史的な価値も高い場所なのだが、私はその近くに4年も住んでいながら1度も行ったことがなかった。その理由はいたってシンプルなものだった。それはいつでも行けると思っていたからだった。いつでも行けると思うと人は案外積極的に行こうとはしないものだ。上記の例と同じように、今まではなかったのだが、突然近くにそのものが出来てしまうと積極的には行かないのではないだろうか?映画館が当たり前にあるようなところだと逆に今まで営んできて生活の中に映画館がある為、普通に生活の一端として存在すると思われる。まぁこのような考えをしたとて、人の行動というのは一意的にはなっていない。趣向の力には勝てないというものだろう(笑)映画に全然行かないのは私だけかもしれないし(笑)さて、本題へ。当たりつき自動販売機は全国的に見てどれくらいのシェアがあるのだろうか?私が子どもの頃は、家の近くの自動販売機も当たり付きのものが結構あって、子どものお財布事情と相談してよく勝負に行っていたものだった。そんな幼少時代を過ごしていたにも関わらず、殆ど当たったことはなかった。あれはどれくらいの確率で当たるものなのかは知らないが、相当低い確率であるように思える。結局確実に覚えている当たりの記憶はないようなものだ。そんなこんなをしているうちに当たり付きの自動販売機の数は少なくなっていき、私の地元でも殆ど見なくなってしまった。私と当たり付き自動販売機との勝負は私の全敗で終わったかのように思えたのだが…勝負はまだ終わっていなかった。私が今配属されている会社は、以前の会社に比べて規模が数倍だという話は以前のブログでしたと思う。建物のレベルが大きいということはその分施設のレベルも高いということで、リラクゼーションルームと呼ばれる休憩所の数も前の現場とは比べ物にならないくらいに充実していた。なにせ社員食堂があるくらいだ。こと「食」に関しては充実度は比べるまでもないほど差があった。そのリラクゼーションルームにはカップの飲み物の自動販売機が必ず1台は置いてあるのだが、その自動販売機は当たり付きのものがほとんどだ。カップの飲み物に当たり付きのものがあることを知らない人も多いと思うが、普通の自動販売機に当たり機能をつけるよりはこちらの方がよっぽど合理的だと思う。一般的な自動販売機は購入したいものを選ぶと商品はすぐに手元に届く。冷やす或いは温める行為を缶自体にダイレクトに行っているから、そして商品はもう出来上がった状態だからこそのレスポンススピードだ。しかしカップの飲み物はそうではない。普通の自動販売機よりも販売機自体の規模が大きくなってしまうのがネックなのだが、それでも購入したいもののスイッチを押してから飲み物を注ぎ始めるので、鮮度が違う。まぁ普通の自動販売機とカップ型の自動販売機のどちらが鮮度がいいのかは敢えてここでは言及しないが(笑)兎に角手法の違いから、購入したい飲み物が手元に届くまでの時間は多少なりとも違う。カップ型はスイッチを押してからしばらく待たないといけない。その時間は意外に暇だ。たかだか数十秒なのだが、ただ待つというのは暇なものだ。その時間を埋める為に当たり付きの機能を有しているのだろう。会社に置いておく自動販売機としては合理的だろう。その自動販売機なのだが…私が今の現場に来てから1ヶ月経ち、ほぼ毎日利用しているのにも関わらず…一度も当たらないんですけど!?(怒)運が悪いと言ってしまえばそれまでなのだが、何度か当たっている人を見ているだけに悔しくて仕方ない。その自動販売機の飲み物の価格は一般の価格よりも安く、大体一律で50円だ。当たったとしても小銭が増えてしまうだけでそこまで嬉しくもないのだが、大切なのはそういうところではない。当たるという行為が嬉しいのだ。選ばれたという感覚に酔いたいのだ。その期待を奴は悉く打ち破ってくる。全く困ったツンデレだ(笑)今日も私は飲み物を買いに奴のところに行く。買うのはいつも決まってコーヒーだ。まぁカップ型自動販売機のコーヒーなんて風味も香りも赤点レベルなのだが、それでも飲まないよりはマシだ。いつも足繁く通っているにも関わらず奴はいつも「ツン」だ。全く「デレ」になってくれない。しかし諦めない。いつか当たりを引く日までコーヒーを飲み続けることだろう。きっとそれが私に課せられた使命…ってほどでもないが、何だか途中で諦めると負けた気になるからだ。絶対奴を「デレ」にしてみせる。その時はまたここに結果報告のようなしょうもない報告をするとしよう♪
Sep 1, 2008
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