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あくまで私だけのことだとは思うが…1人でいると自然を見ることが多くなったと感じる。今でこそ1人暮らしのベテランのような感じになってはいるが、私も学生時代は家族と一緒に暮らしていた。特段家族を邪険にすることもなく、一般的でテンプレートのような家族関係だったと思う。仲は良いし、私自身家族のことは好きだ。周りに誰かいて、そしていつも話しかければ誰かが答えるという状況にあったあの頃、私は自然を見る余裕はなかった。余裕がないと言ってしまうと語弊があるかもしれないが、要するにそれ以上に興味のある対象が沢山あったと言った方が正しいかもしれない。今私が住んでいる場所に比べて、私が育った場所は自然が多かった。むしろ自然しかなかったくらいだった。コンビニもないしスーパーもない。家電量販店もないし、モールもない。そんな場所だった。若かった私は自然しかない状況に辟易とし、そしてその場所を出ることを誓った。何もなく不便であるということがどうしようもなく辛かったのだろう。そして今こうして1人暮らしをしながら都会に住んでいる。確かに求めていた利便性は手に入れた。何かを買おうと思っても電車で数分で何でも手に入るような環境になった。しかしそれで求めていたもの全てを手に入れたわけではなかった。むしろ何か大切なものを失ってしまったようにすら思える。だからだろうか、私は最近月をよく見るようになった。月は見ようとしなければ視界に入るものではない。いつも見ているわけではないが、それでも昔に比べると月を眺める頻度は格段に上がったように思える。自然としての月、そして夜の寂しさの中に強烈に存在感を示す月、その存在が1人っきりの私にとっては酷くありがたいもののように思える。今の土地を出よう、ふとそんな考えが浮かんだ。しかし現実を見ればそうも言ってられないだろう。しかし今私がこの場所に居留まる理由なんてもうない。月を見ながら最近そんなことをよく考える。英断の時は近いのかもしれない。
Sep 16, 2010
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夜は涼しくなってきた。秋の気配がすぐそこにまでやってきている。勿論それは暦の上での話でもあるが、体感的な部分でもある。日中の過ごしにくいほどの暑さから解放される夜間、随分と過ごしやすい温度になってきた。窓を開け放ってのんびりと過ごす分には最高の季節なのではないだろうか。秋ももうすぐそこにまで来ているのかもしれない。そんな秋口になると私の誕生日ももうすぐそこだ。夏の暑さを忘れて秋の気配を感じる時期が私の誕生日だ。今年の誕生日を迎えれば私もめでたく(?)年長の仲間入りというわけだ。思えば高校を卒業した辺りから随分駆け足で今までやってきたような気がする。子どもの時期は大人になることに憧れ、早く大人になりたいと切に願っていたものだった。そしてそんな願いを持っている時期というのは時間の流れがゆっくりだったような気がする。そして今、大人であることに対して様々な感想を持つに至る時期になると、その頃の時間の流れが酷く恋しいものに思えるようになってきた。客観的に人生というものをパーセンテージに例えてみると、所謂子ども時代なんて言うのは人生の中の約15%ほどしかない。他の部分は大人として過ごす時間なのだ。今現在大人と呼ばれている人に聞いてみると、皆が皆子ども時代は良かったというようなことを言う。それは単に責任や自立と言ったような意味合いを包括しただけではなく、比較した場合に圧倒的に少ないという子ども時代の貴重さに起因した感想なのではないかと思う。数字や業績に追われることなく、次の日の遊びに何をするかということだけを考えていた時代。夕飯が何かで心がわくわくした時代。晴れるか雨が降るかだけで神様にお祈りした時代。そんな人生の中で約15%の時代の良さを反芻しているのではないだろうか。お金も持っていない、名誉も地位も何もない、社会的に認められてもいない、でも子どもに戻れるとしたらそれを拒否する大人はいないのではないだろうか。ふとそんなことを思った。考えてみれば、物事の価値だって子どもの方が圧倒的に普遍性を持っているのではないだろうか。大人の社会で大切だとされているもの…その多くを子どもは持たない。しかし子どもは子どもで絶対的で普遍的な価値観を持っている。それは恐らくは「大多数から吸い出された何か」というような現代の価値観の定義を覆すようなものではないかと感じる。そしてそんな子どもも大人になるにつれて自分の価値観を社会に「合わせる」ようになる。「面白いから笑う」から「面白いから笑わなくてはいけない」に変容していくのだ。それがつまるところの大人になることだと思っている人がいるが、確実に個の喪失だと言わざるをえないだろう。そうしなければいけないという半ば強制力を伴ったものには常識的な力はあっても普遍的な力は持ち得ないからだ。私は子どもの頃も何も考えていないような感じだった。まぁそれは今の私の文章を見てもわかることだろう。今になってようやく半人前ではあるがいろいろと考えることも多くなってきた。願わくばこのように物事を考えることを子どもの頃から出来ていれば…私の子ども時代ももう少しましになったのではないかと感じる。何も考えずに遊ぶことや勉強することだけに一生懸命だった時代を無為に過ごしたことが非常に悔やまれる。とは言っても…普遍性だの価値観だの言っている子どもがいたらかなり気持ち悪いことは請け合いだ(笑)子ども時代の価値はきっとその当時では気づけないものなのだろう。もう手に入らないものだからこそそれを懐かしみ、そして大切にするのかもしれない。
Sep 10, 2010
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夏の暑さも一段落と言ったところだろうか。この夏は暑い。噂では私の故郷では気温が39.9度まで上昇したという話も聞く。最近は9月になったにも関わらず暑い日が続いている。熱中症に注意しないといけないと毎年のように言ってはいるが、今年はより一層の注意が必要だろう。水分補給と塩分補給はマメに確実に行うことが求められる。と、まぁなんとも真面目そうなことを書いてしまったが…夏が暑いのは仕方ないことだ。なので私も普段はあまり使わない冷房を使ってこの夏を過ごしてきた。言ってみれば家にいる時間が長い時の殆どを冷房を使って過ごすというわけだ。それが習慣になりつつあった。しかし今日は違った。今日は生憎の雨で気温が下がったのだろう、今こうしてブログと相対している時間にはとても涼しくなっている。神奈川の中でも比較的風に恵まれた私の住んでいる地方は、今の時間とても良い風が吹いている。母さんから教えてもらった風を取り込む方法を試してみると、凄く良い風が窓から吹き込んでくる。とても気持ちが良い。部屋の温度計も25.8度を記録したまま上がる気配もない。今日は本当に涼しくて過ごしやすい日になった。話は変わるが、家に備蓄してあるお香がもう底をつきそうになっている。私ほどお香をよく使う人もそういないだろう。お香のニーズ及び市場での一般的な売られ方については明るくない為わからないが、それでも私のようにお香のセット(100本入り)をダース単位で買う人も珍しいのではないだろうか。何についてもそうなのだが、有り余るほど備蓄してしまうのが私の悪い癖だ。その悪い癖はトイレットペーパーのようなものにも適応されている。私の家のトイレの物置の中には、トイレットペーパーが常時20ロールくらいは置いてある。私の家に遊びに来た人は須らくそのことについて何らかのコメントを残すこと請け合いだ。その度に「食べ物や飲み物と違って、トイレットペーパーのような消耗品には使用期限がない。だから沢山買うことが無駄になることはありえない。無くなった時に困るようならば、期限がないものについては沢山買うことの方が買いに行く効率を考えれば無駄がないのでは?」と答えるようにしている。実際その通りだと思う。同じ理由でお香も沢山買い込む。お香については売っている店が遠くにしかない為、その手間も省いているというわけだ。残り少ないお香を焚きながら涼しい風が吹き込んでくる部屋でまったりする。別に特別なことはしていないが、それがひどく貴重なことのように思える。今の静寂も今だけのもの、そう遠くない未来…3ヶ月先の私は安寧とは全く別の状況に置かれているに違いない。下手をすれば引越しの準備が必要になることも考えられる。それを思うと…静かな余韻を楽しむことは今の生活の中で最上級の幸せのような気がする。そんなまったりとした日に筆(?)をとろうと思うのもまた、至極当然のことのように思える今日この頃だった(笑)
Sep 8, 2010
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冬子の考え方には大いに賛同出来るところではある。さて、9月が始まった。この時期になると暑さも一段落といった様子になりがちだが、今の時期ではそれも見込めないだろう。8月と遜色ない暑さが今日も朗らかに外界には展開されている。それが夏の暑さの余波なのか、それとも9月という秋の入り口を感じさせる感覚への変遷なのか、それはまだこの暑さの中では感じ取る手立てはない。8月から9月へのシフトは、それだけで何かを感じずにはいられないというものだ。ましてや物思いに耽ることの多いこの季節は。仕事をしながら空いた時間で少し考え事をしていた。外の空気は昼間だということもあってか、かなり厳しいものだと思われる。涼しい室内の中ですることもなくのんびりと考え事をするというのは或いはとても贅沢なことなのかもしれない。すぐ目の前に仕事があるのはわかるのだが…取り敢えずそれは置いておいて思慮に身を投じる。個の価値はどこにあるのか。人はそれを人としての身体そのものにあると言う。しかしそうではない。個の価値は思想にある。ある1つの物事が目の前で発生したとして…それに対してどのような感情を抱くか、それは似たりすることはあっても完全に合致することはありえない。それはその物事に対する考え方がそれぞれ異なるからだ。例えば目の前で犬が死んだとしよう。それに大して大部分の人は悲しむだろう。その犬と自分との客観的な距離や背景、そして現在の犬の姿を見て考え方を構築し、それが感情に投影される。死は悲しい、その圧倒的大多数とも思える感情によって人は個の喪失を悲しむ。しかし全ての精神がその思考回路によってトレースされるかと言われればそうではない。極端な話をすれば、目の前で犬が死んだとしても、それを見て笑う人もいるかもしれない、怒る人もいるかもしれない。感じ方は多種多様で、上述のような感情のうねりを考慮すれば無限大とも思える反応を示す。それらの反応を身体という物理的なシールドで守り、精神を包括した存在が人であり、ひいては個であると判断することが可能だ。喪失による価値は個の身体のような物理的なものではない。同じような体格や能力を持った人なんてそれこそごまんといる。しかし如何に同じような身体を有していても同じ精神構造を持った人間はそういない。精神構造はパズルのように容易に構築することが出来ないものだ。そしてその精神構造からアウトプットされる生産物が考え方であり、反応でもある。予想も出来ない反応を示す可能性が価値であり尊いとされるものだ。貴重な個はこうして身体へと投影され、その人そのものが大切であるという判断へと帰着する。故に偏に人が尊い存在だという評価は身体を透過した考え方や精神の及ぼす「生産物」に起因していると言えるだろう。個が喪失することを悲しく思うのは、その人と触れ新たなものを得ることが永劫ないことから派生する肉体的且つ精神的な喪失と同義だ。映像として個を保存することは可能で、いつでも取り出すことが出来る。人によっては個の喪失の悲しみをそのような形で補填することが可能だ。しかしそうではない人の方が多い。つまりは個から得られる情報がもう得られない、その喪失した未来へのベクトルに並行する精神的価値を尊び、そして悲しむことになる。肉体的なアプローチが出来ないことも要因としてはあるかもしれないが、それは些細なことだろう。人が当たり前にしている会話などもまた精神的に得られる効用の大きさは計り知れない。自分という器に注がれる新たな価値観として大変貴重なものだからだ。その距離がより近しいものが恋愛であり、そして結婚であると思われる。つまり結婚とはより自分に近い存在を得るというメリットと、より近しいものを喪うデメリットを交換した副産物だということだ。しかしそれは非常に有用なものだ。となると…個の喪失と恋愛関係は精神構造に大きな影響を与えるという意味では同義ではないだろうか。そんなことを考えていた。まぁ仕事の片手間に考えることとしては些か不謹慎な内容だっただろう。気がつけば次の仕事の時間が迫っていた。胸のポケットからペンを取り出してくるくると回しながら私は次の仕事へ向った。秋の気配のする午後、のんびりとした時間の流れる水曜日の出来事だった。
Sep 1, 2010
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