読書メモの続きです。
前回は こちら 。
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『障害があるからこそ普通学級がいい』
2
(p11~46(第1話の終わり)まで。 緑文字
は僕のコメントです。
文中の「特殊学級」は、1970年代当時の言い方で、
現在は「特別支援学級」です。)
前回の最後に出てきた「交流」の提案以後、
学校内で少しずつ「交流」がはじまりました。
・交流が始まって1か月くらいたった頃
男の子 「のぶって、変なやつかと思ったけど
そうでもないね。
俺たちと同じだね
」
筆者 「そう、自分もそう思った。
のぶちゃんもみんなも同じ子どもだよね
」
・いっしょに生活してみて初めてその子(人)の本当のことがわかる
・けんかもあるが それだけ対等な関係ができてきて、
のぶちゃんは、着実に4年3組の1人になっていった。
・いくら学校で繰り返し教えてもおぼえられなかった文字を、
彼は友だちと遊びに行った体験を通してあっさりおぼえてきた。
★個別に丁寧に教えればできるようになるとよく言われるが、
・マニュアル化されたノウハウよりは、
子どもとつき合いながら得ていくもののほうがずっと大きい。
まずは いっしょにやってみることから始まる 。
・
(のぶちゃんを一番前の席にしていたら、
特殊学級担任が、そんな様子を見て ぽつんと言った。)
「なんで一番前にするのかなあ。
これじゃあ 他の子の様子が見えないじゃない」
この言葉、なかなか言えないですよ。
今の教育現場でも、配慮の必要な子は一番前にして
教師の目が一番届きやすいように、声掛けがしやすいようにするのが
セオリーです。
ところが、この先生は「周りの子を見て学ぶ」という
大人が見過ごしがちな学び方について、ちゃんと見取っている。
ここは、自分としてはかなりの驚きをもって読んだところです。
「なるほど、そういうことも言えるのか」と思いました。
・授業がわからないと子どもがかわいそうとかよく言われるが、
本当にそうだろうか。
わからなくても 楽しければ それで良いではないか。
喜びは自分で感じるもので、
人から押しつけられるものではない。
習ったことをすべて理解しなければならないというものでもない。
ここもまた驚きをもって読んだところです。
僕も「たのしい授業」という雑誌を読んだりして
楽しい授業を追求したりしてきましたが、
「わからなくても楽しければよい」とはなかなか思い切れませんでした。
いや、もちろん、「わかる授業」かつ「楽しい授業」が
ベストなのですが。
じゃあ「わかる」のと「楽しい」のとではどっちをとるの?
と言われたら・・・これは非常に悩みます。
ただ、「わからない授業」の中にいても、とても楽しそうにしている
「のぶちゃん」の様子を見て、筆者の片桐先生が
「のぶちゃん」が授業中にクラスの中にいる意味を感じられたのは、
僕は、けっこうよくわかります。
ここは、でも、竹を割ったようにそうとは言い切れない、
いろんな意見がある部分だと思います。
・授業時間のことだけではなく、
みんなといっしょに生活していると、
生活そのものがさまざまな学習に結びついている
ということを
思わされる。
・算数の時間ではわからなかったりできなかったりする数や計算が、
生活の中ではできていたりする。
・何かができなくても それを補う別の力を発揮できることがある。
・ いろいろな子がいていい。
いろいろな生き方があっていい。
みんなが一律にそれ (文字や計算) をできなければいけないというものでもない。
でも、教師はそれをめざしてしまうんですよね。
「できる」ことにこだわるのが、教師という職種だと言えそうです。
僕の場合は、できることが非常に少ないお子さんを担任させていただいて
「できる」こと以外の目標を少しずつ感じ始めたところですが、
それでもやはり「できる」ということにはこだわっている自分がいます。
「できなければいけない」と思うか、
「できなくてもかまわない」と思うか、
微妙なところですが、僕の場合7:3で前者ですね。
このあたりも、ちょっと突き詰めていきたいところです。
「できなければいけない」は、できない子を排除する論理にもなりがちです。
でも、「できない」ことを「できる」ようにするのが学校だという気もします。
大切なのは、その子によって違う、ということを受け入れること。
しかし、それでも、クラスや学校の中で折り合いをつけていく
そのたびごとのしんどさというのは、生じてきます。
個別で、別室で、分けてやった方が、よっぽどラクなんですよね。
そういう、いろいろな側面があるということを感じながら、
それでもクラスの中で「いろいろな子がいていい」とはっきり思える強さというのは、
子どもたちにとって格別の安心感と連帯を与えるでしょうね。
非常に、難しいテーマだと思います。
・体育館でマット運動をしたとき、
特殊学級の担任は、驚きの表情で
「のぶちゃんは、五組ではマット運動をやろうとはしなかったよ」
・「個別に丁寧に教える」より、
仲間の力が、彼を変える
。
彼の存在がまた、周りを変える 。
・(6年生になってリレーをやることになって) のぶちゃんも含めて、みんながどうリレーに参加できるかを、
真剣に考えた。
お互いの違い、能力の差を乗り越えた関係の大切さを知り、
みんなが協力して何かを作り上げるということのすばらしさを
知ることができた。
乙武洋匡さんの『五体不満足』に出てきた
「オトちゃんルール」を思い出します。
・ 1人として、いてはいけない子はいない。
どの子も、かけがえのない、貴重な存在なのだ。
何かが少しできるようになることより、
そういう お互いを大切にしていく心
の方が
ずっと育ってほしいことのように思う。
(第1話「普通学級にいついてしまったのぶちゃんから教えられたこと」より)================================
エピソードについては非常に断片的にしかふれていませんが、そのエピソードが感動的なのです。
本を実際に読んで感じていただきたいです。
第2話は「みんながいっしょがいいとあらためて思わされた直ちゃんとの6年間」です。
今回と同じように、次回、読書メモ(部分的な抜粋・引用・感想)にてまとめたいと思います。
では、また 次回!
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