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つぶやき121130(逆順)日増しに冬が深まりゆく年の瀬間近な日々、定義がはっきりしていない対象は、否定することも肯定することもかんたんである、現在までの説によれば、人類は全員、アフリカ系で、いってみればアフリカのサルの親戚なんだが、今日もまた雲の芸術といっていい地球規模の景観が展開されている、初冬、徐々に深まりゆく冬、今日の雲も面白い。列島上空あたりに、手長ゴリラと呼びたくなるような巨大で滑稽な形状の雲が滞空している。世界は夢幻、質の科学(仮説)からの予想と、かの聖母マリアの預言とが一致しているので、昨日の朝あたりだったか、日本列島が雲によってのミノムシ状態になりつつあったんだが、そこからミノムシ状態になり、そのあとそこから脱した。心脳科学(仮説)が反証されても、それら哲学のようなものたちは否定されない。日本列島、雲によってのミノムシ状態から脱しつつある、つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずあやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、激烈な執着があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものがある。質の科学(仮説):質時間回帰則は論理で構成されている法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。世界は不思議に満ちている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。世界は不思議で満ちている。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。質の科学(仮説):質時間回帰則は理屈からでてきた法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説):エドガーケーシーのリーディングは、転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説)の検証例となっている、という立場にたてる。質時間回帰の具体例がいくつもある。(そういった方面のことをハナからバカにする人にはこういうことはいわない)。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。つづき:それらについても科学的に説明できそうだが。(仮説)。以前書いた、ほとんどの領域・多くの領域は関数化という記述ができない、ということは何を意味するか。それらの領域には、人間が考えられる多くのもの・ことやその他(考えもつかないことも含めて)が存在するかもしれない、存在しうる、ということである。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。離れた加筆:転生と質時間回帰がポイントだ(仮説)。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。つづき:その質時間が意識の主体の転生と質時間回帰を導くと説く(それは霊魂があるばあいのことである。霊魂がないばあいも似たような結論がでてくる)。ただし自殺はいけないと説く。転生の哲学(科学的仮説)は、人生は一回限りではなく、死んだらそれで終わりではない、やりたいことをやったもの勝ちではまったくない、それどころかその普通の考え方の正反対であると説く。積んだ質時間は決して消えることなく残ると説く(質時間回帰則・仮説)。転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあってもなくても転生はあるという、論理による証明のようなものがある。ただし、そのどちらも検証はなされていない。そこで、仮にいわゆる霊魂という存在があるのなら、いわゆる霊界もあるだろうということになる。つづき:霊界があるのなら、いわゆる天国や地獄という領域もあるのだろうか。世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張している。いわゆる霊界については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。神については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。質の科学・質時間回帰則(仮説):どの人間も質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):人類は質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):すべての人間は質時間回帰則に敗れる。転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。転生の哲学(科学的仮説):不変である意識以外で自分についての変えられること・ものの内で今の生ではどうしても変えられないこと・ものは次の生以降のどれかの生で希望どおりになる(仮説)。心脳科学(仮説)で、この世界のすべて、この宇宙・世界の原理、在りよう、存在のすべて、人間のかかわるすべて、人間が宇宙や世界を認識・理解するとはどういうことか、などなど、すべて説明がつく。仮説だが。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。その先の社会状況を見越して家を完璧な防犯仕様にした、転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.30
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つぶやき121129(逆順)定義がはっきりしていない対象は、否定することも肯定することもかんたんである、現在までの説によれば、人類は全員、アフリカ系で、いってみればアフリカのサルの親戚なんだが、今日もまた雲の芸術といっていい地球規模の景観が展開されている、初冬、徐々に深まりゆく冬、今日の雲も面白い。列島上空あたりに、手長ゴリラと呼びたくなるような巨大で滑稽な形状の雲が滞空している。世界は夢幻、質の科学(仮説)からの予想と、かの聖母マリアの預言とが一致しているので、昨日の朝あたりだったか、日本列島が雲によってのミノムシ状態になりつつあったんだが、そこからミノムシ状態になり、そのあとそこから脱した。心脳科学(仮説)が反証されても、それら哲学のようなものたちは否定されない。日本列島、雲によってのミノムシ状態から脱しつつある、つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずあやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、激烈な執着があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものがある。質の科学(仮説):質時間回帰則は論理で構成されている法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。世界は不思議に満ちている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。世界は不思議で満ちている。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。質の科学(仮説):質時間回帰則は理屈からでてきた法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説):エドガーケーシーのリーディングは、転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説)の検証例となっている、という立場にたてる。質時間回帰の具体例がいくつもある。(そういった方面のことをハナからバカにする人にはこういうことはいわない)。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。つづき:それらについても科学的に説明できそうだが。(仮説)。以前書いた、ほとんどの領域・多くの領域は関数化という記述ができない、ということは何を意味するか。それらの領域には、人間が考えられる多くのもの・ことやその他(考えもつかないことも含めて)が存在するかもしれない、存在しうる、ということである。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。離れた加筆:転生と質時間回帰がポイントだ(仮説)。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。つづき:その質時間が意識の主体の転生と質時間回帰を導くと説く(それは霊魂があるばあいのことである。霊魂がないばあいも似たような結論がでてくる)。ただし自殺はいけないと説く。転生の哲学(科学的仮説)は、人生は一回限りではなく、死んだらそれで終わりではない、やりたいことをやったもの勝ちではまったくない、それどころかその普通の考え方の正反対であると説く。積んだ質時間は決して消えることなく残ると説く(質時間回帰則・仮説)。転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあってもなくても転生はあるという、論理による証明のようなものがある。ただし、そのどちらも検証はなされていない。そこで、仮にいわゆる霊魂という存在があるのなら、いわゆる霊界もあるだろうということになる。つづき:霊界があるのなら、いわゆる天国や地獄という領域もあるのだろうか。世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張している。いわゆる霊界については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。神については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。質の科学・質時間回帰則(仮説):どの人間も質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):人類は質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):すべての人間は質時間回帰則に敗れる。転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。転生の哲学(科学的仮説):不変である意識以外で自分についての変えられること・ものの内で今の生ではどうしても変えられないこと・ものは次の生以降のどれかの生で希望どおりになる(仮説)。心脳科学(仮説)で、この世界のすべて、この宇宙・世界の原理、在りよう、存在のすべて、人間のかかわるすべて、人間が宇宙や世界を認識・理解するとはどういうことか、などなど、すべて説明がつく。仮説だが。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。その先の社会状況を見越して家を完璧な防犯仕様にした、転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.29
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つぶやき121128(逆順)現在までの説によれば、人類は全員、アフリカ系で、アフリカのゴリラの親戚なんだが、今日の雲も面白い。列島上空あたりに、手長ゴリラと呼びたくなるような巨大で滑稽な形状の雲が滞空している。世界は夢幻、質の科学(仮説)からの予想と、かの聖母マリアの預言とが一致しているので、昨日の朝あたりだったか、日本列島が雲によってのミノムシ状態になりつつあったんだが、そこからミノムシ状態になり、そのあとそこから脱した。心脳科学(仮説)が反証されても、それら哲学のようなものたちは否定されない。日本列島、雲によってのミノムシ状態から脱しつつある、つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずあやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、激烈な執着があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものがある。質の科学(仮説):質時間回帰則は論理で構成されている法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。世界は不思議に満ちている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。世界は不思議で満ちている。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。質の科学(仮説):質時間回帰則は理屈からでてきた法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説):エドガーケーシーのリーディングは、転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説)の検証例となっている、という立場にたてる。質時間回帰の具体例がいくつもある。(そういった方面のことをハナからバカにする人にはこういうことはいわない)。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。つづき:それらについても科学的に説明できそうだが。(仮説)。以前書いた、ほとんどの領域・多くの領域は関数化という記述ができない、ということは何を意味するか。それらの領域には、人間が考えられる多くのもの・ことやその他(考えもつかないことも含めて)が存在するかもしれない、存在しうる、ということである。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。離れた加筆:転生と質時間回帰がポイントだ(仮説)。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。つづき:その質時間が意識の主体の転生と質時間回帰を導くと説く(それは霊魂があるばあいのことである。霊魂がないばあいも似たような結論がでてくる)。ただし自殺はいけないと説く。転生の哲学(科学的仮説)は、人生は一回限りではなく、死んだらそれで終わりではない、やりたいことをやったもの勝ちではまったくない、それどころかその普通の考え方の正反対であると説く。積んだ質時間は決して消えることなく残ると説く(質時間回帰則・仮説)。転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあってもなくても転生はあるという、論理による証明のようなものがある。ただし、そのどちらも検証はなされていない。そこで、仮にいわゆる霊魂という存在があるのなら、いわゆる霊界もあるだろうということになる。つづき:霊界があるのなら、いわゆる天国や地獄という領域もあるのだろうか。世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張している。いわゆる霊界については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。神については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。質の科学・質時間回帰則(仮説):どの人間も質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):人類は質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):すべての人間は質時間回帰則に敗れる。転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。転生の哲学(科学的仮説):不変である意識以外で自分についての変えられること・ものの内で今の生ではどうしても変えられないこと・ものは次の生以降のどれかの生で希望どおりになる(仮説)。心脳科学(仮説)で、この世界のすべて、この宇宙・世界の原理、在りよう、存在のすべて、人間のかかわるすべて、人間が宇宙や世界を認識・理解するとはどういうことか、などなど、すべて説明がつく。仮説だが。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。その先の社会状況を見越して家を完璧な防犯仕様にした、転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.28
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つぶやき121127(逆順)世界は夢幻、質の科学(仮説)からの予想と、かの聖母マリアの預言とが一致しているので、昨今までの説によれば、人類は全員、アフリカ系で、アフリカのゴリラの親戚なんだが、昨日の朝あたりだったか、日本列島が雲によってのミノムシ状態になりつつあったんだが、そこからミノムシ状態になり、そのあとそこから脱した。心脳科学(仮説)が反証されても、それら哲学のようなものたちは否定されない。日本列島、雲によってのミノムシ状態から脱しつつある、つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずあやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、激烈な執着があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものがある。質の科学(仮説):質時間回帰則は論理で構成されている法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。世界は不思議に満ちている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。世界は不思議で満ちている。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。質の科学(仮説):質時間回帰則は理屈からでてきた法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説):エドガーケーシーのリーディングは、転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説)の検証例となっている、という立場にたてる。質時間回帰の具体例がいくつもある。(そういった方面のことをハナからバカにする人にはこういうことはいわない)。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。つづき:それらについても科学的に説明できそうだが。(仮説)。以前書いた、ほとんどの領域・多くの領域は関数化という記述ができない、ということは何を意味するか。それらの領域には、人間が考えられる多くのもの・ことやその他(考えもつかないことも含めて)が存在するかもしれない、存在しうる、ということである。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。離れた加筆:転生と質時間回帰がポイントだ(仮説)。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。つづき:その質時間が意識の主体の転生と質時間回帰を導くと説く(それは霊魂があるばあいのことである。霊魂がないばあいも似たような結論がでてくる)。ただし自殺はいけないと説く。転生の哲学(科学的仮説)は、人生は一回限りではなく、死んだらそれで終わりではない、やりたいことをやったもの勝ちではまったくない、それどころかその普通の考え方の正反対であると説く。積んだ質時間は決して消えることなく残ると説く(質時間回帰則・仮説)。転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあってもなくても転生はあるという、論理による証明のようなものがある。ただし、そのどちらも検証はなされていない。そこで、仮にいわゆる霊魂という存在があるのなら、いわゆる霊界もあるだろうということになる。つづき:霊界があるのなら、いわゆる天国や地獄という領域もあるのだろうか。世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張している。いわゆる霊界については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。神については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。質の科学・質時間回帰則(仮説):どの人間も質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):人類は質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):すべての人間は質時間回帰則に敗れる。転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。転生の哲学(科学的仮説):不変である意識以外で自分についての変えられること・ものの内で今の生ではどうしても変えられないこと・ものは次の生以降のどれかの生で希望どおりになる(仮説)。心脳科学(仮説)で、この世界のすべて、この宇宙・世界の原理、在りよう、存在のすべて、人間のかかわるすべて、人間が宇宙や世界を認識・理解するとはどういうことか、などなど、すべて説明がつく。仮説だが。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。その先の社会状況を見越して家を完璧な防犯仕様にした、転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.27
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つぶやき121126(逆順)心脳科学(仮説)が反証されても、それら哲学のようなものたちは否定されない。日本列島、雲によってのミノムシ状態から脱しつつある、つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずあやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、激烈な執着があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものがある。質の科学(仮説):質時間回帰則は論理で構成されている法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。世界は不思議に満ちている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。世界は不思議で満ちている。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。質の科学(仮説):質時間回帰則は理屈からでてきた法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説):エドガーケーシーのリーディングは、転生の哲学(科学的仮説)と質時間回帰則(仮説)の検証例となっている、という立場にたてる。質時間回帰の具体例がいくつもある。(そういった方面のことをハナからバカにする人にはこういうことはいわない)。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。つづき:それらについても科学的に説明できそうだが。(仮説)。以前書いた、ほとんどの領域・多くの領域は関数化という記述ができない、ということは何を意味するか。それらの領域には、人間が考えられる多くのもの・ことやその他(考えもつかないことも含めて)が存在するかもしれない、存在しうる、ということである。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。離れた加筆:転生と質時間回帰がポイントだ(仮説)。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。つづき:その質時間が意識の主体の転生と質時間回帰を導くと説く(それは霊魂があるばあいのことである。霊魂がないばあいも似たような結論がでてくる)。ただし自殺はいけないと説く。転生の哲学(科学的仮説)は、人生は一回限りではなく、死んだらそれで終わりではない、やりたいことをやったもの勝ちではまったくない、それどころかその普通の考え方の正反対であると説く。積んだ質時間は決して消えることなく残ると説く(質時間回帰則・仮説)。転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあってもなくても転生はあるという、論理による証明のようなものがある。ただし、そのどちらも検証はなされていない。そこで、仮にいわゆる霊魂という存在があるのなら、いわゆる霊界もあるだろうということになる。つづき:霊界があるのなら、いわゆる天国や地獄という領域もあるのだろうか。世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張している。いわゆる霊界については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。神については、SF的仮説はたつ。それをどう科学的かつ原理的にありうる仮説、つまり現実がそのとおりでありうる仮説に近づけるか。できそうだが。質の科学・質時間回帰則(仮説):どの人間も質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):人類は質時間回帰則に敗れる。質の科学・質時間回帰則(仮説):すべての人間は質時間回帰則に敗れる。転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。転生の哲学(科学的仮説):不変である意識以外で自分についての変えられること・ものの内で今の生ではどうしても変えられないこと・ものは次の生以降のどれかの生で希望どおりになる(仮説)。心脳科学(仮説)で、この世界のすべて、この宇宙・世界の原理、在りよう、存在のすべて、人間のかかわるすべて、人間が宇宙や世界を認識・理解するとはどういうことか、などなど、すべて説明がつく。仮説だが。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。その先の社会状況を見越して家を完璧な防犯仕様にした、転生の哲学(科学的仮説):すべての人(意識の主体)にとって、ひとつの生で、すべてに満足するということはありえない。ひとつの生ではせいぜいいくつかのことで満足することになる。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.26
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つぶやき121125(逆順)のろのろ進む冬の深まり、でもそのうちガーンと寒さがやってくるんだろうな、つづき:ぼくのばあい、両目を開けていると、スキをつくらないように心がぴんと張りつめて働いている感じがするが、片目をつむると、もうどうでもいいや、とばかりに頭がスキだらけになって、リラックスする感じがする。ぼくのばあいは、つぶるのはどちらでもいい。つづき:過ぎ去りし日々,,,想い出は美しすぎて,,,つづき:片目をつぶっていると、その緊張症がずいぶん軽くなる、ということをかなり前に発見した。つづき:自分を振り返ってみて、バカな野郎だ、と思えることもある。つづき:信じられないことだが、その映画鑑賞は、小学校の行事だった→「さらにそのころ、恐ろしい映画をみたことがあって、その登場怪物が夢にでてくるようになって、あとあとまで強い恐怖の影響を受けつづけたものだ。」つづき:旅の想い出はいいものだ。もっとも、はじめに告白したとおり、ぼくは超緊張症だから、旅はあまり楽しめないんだが。でも、それでも旅をしたくなる。つづき:ゆったりとしたつくり。しかもそこはがらがらだった。学生用のスカイメイトは普通席だ。キツネにつままれた気がしたものだ。おかげさまで楽しかったですよ。どうもありがとう。つづき:スカイメイトという学生優遇の制度が以前あって、あるとき羽田から、ボーイングかなにかの新鋭機に乗ったことがある。そのとき、空港の受付の女性が気をきかしてくれたらしく、機内で、二階席のファーストクラスに案内された。つづき:そして、彼はそのポーズのまま、眠い? とぼくにアピールしたのだった。ぼくはうなずいたんだが、おかしかった。大の大人、しかも武装した警備員がそんなことをするとは。あれは世界共通のしぐさというかボディーランゲージなのだろうか。想いだすと笑いそうになるエピソードだ。つづき:カイロの博物館で、時差ぼけで眠くて長いすに腰かけて休んでいたら、マシンガンをもったハンサムな若い警備員が、ぼくを見て、マシンガンを下に下ろして、両手を合わせて片方のほっぺたあたりの横にあて、そっちに首を傾けて、いわゆる「ねんねのポーズ」をした。つづき:アンカレッジ空港の免税店で、キャビア缶をひとつ注文したのに、帰ってから袋を開けたら2缶はいっていたことがあった。不思議でキツネにつままれたような感じがしたものだ。つづき:それから、これもウィーンでのことだが、ホテルからレストランに予約の電話をいれたとき、はじめから全部日本語でしゃべったら、通じたことがあった。おもしろかった。つづき:おいしいといえば、イギリスの食事はまずいといわれているが、ロンドンで食べたステーキはしょうゆ味でおいしかった。パリで食べたデンデンムシ、つまりエスカルゴは、コショウの塩味で、まあまあだった。つづき:ウィーンで、モーツァルトが落書きしたことがあるとかいう内壁をもつレストランかなにかで食事をして、壁にぼくの名前を漢字で書き込んだことがある。そこのガーリックスープがおいしかった。つづき:で、その中のひとりの18歳くらいのかわいい女の子が、翌日、みやげ物店で、ぼくのところにやってきた、ということがあった。フランス人はフレンドリーだ。懐かしい想い出だ。つづき:パリで、坂があって岡になったようなところがあって、そこで写真撮影をしようとしたとき、通りかかった女性三人が前を通るのを躊躇していたので、「ハイ、プリーズ」と声をかけたら、いっしょに写ってくれて、ぼくはずうずうしく両脇の女性二人の肩に手をのせて撮ってもらった。つづき:さて、はじめに戻って、旅の想い出だが、ルーヴル美術館で、名画を撮影したことがある。撮影禁止だったんだが、ストロボをつけずに写真をとったら、館員はなにも言わずうなずいていた。ぼくもうなずき返した。フランス人にもいいところがある例のひとつだ。つづき:過ぎ去りし日々。今ではいい想い出だ。つづき:しかし、大学時代は疲れ果て、講義もおろそかになっていた。つづき:しかし、授業は聞いていた。そして、緊張しながらも、根本を掘り下げるような質問を先生にしたものだった。中学、高校と、緊張のため、すぐ疲れて身が入らなくなっていたが。でも、登校拒否などということは露ほども心に浮かばなかった。つづき:ほかの要因もあるんだろうが、そういうこともあってか、小学校から大学まで、学校の勉強も試験勉強も受験勉強もほとんどしなかった。見事といっていいほどやらなかった。今では笑い種だが。つづき:高校、大学と、そんな緊張症を治そうと、いろんな挑戦をやったものだ。でも、治らなかった。で、中学時代あたりからの永い期間、読書をしてもすぐ体調が悪くなったり苦しくなったりするようになった。今でもその傾向はあるが、読書は好きだ。つづき:そういったことによる影響は人によってまったく異なる。ぼくのばあいは、恐ろしいほど極端な影響を受けたといえる。しかし、ぼくのようなケースでは、そういったことはプラス面をもっていて、人間のもつなんらかの能力を呼び覚ますのだとぼくは信じている。つづき:そのことがあって、結局、学芸会当日は脳貧血をおこして学校を休む結果となった。さらにそのころ、恐ろしい映画をみたことがあって、その登場怪物が夢にでてくるようになって、あとあとまで強い恐怖の影響を受けつづけたものだ。人生にはいろんなことがあるもんだ。つづき:その件に少し似たことが、小学2年のころにもあった。学芸会の劇の練習中に、先生がセリフをテープレコーダーに録音したことがあって、その再生を聞いて、自分の声はなんていやな声なんだろうと衝撃を受けたことがあった。つづき:でも、そのおかげで、さまざまな思考力訓練にほんとに徹底的に打ち込めたので、それはいいことだったのだと今では納得している。つづき:自分で考えてのことならなんとか声はでたが。大学時代も大変だった。さらに遡ると、中学時代から、友だちと話をしてですら、大変な心労を覚えるようになっていたのだった。ほんとに大変な痛苦だった。つづき:中一でそんな事態は終わったのに、依然として緊張はつづき、高校の終わりごろには、吐き気はするは、ご飯はのどをとおりにくいは、ほんの一時期だが、授業中本を音読させられると声がでなくなるはで、大変なものだった。つづき:ぼくは意地を張ってだれにも相談しなかった。自分の沽券にかかわるという感じで黙っていた。で、そういったべらぼうな緊張は、家を出ると始まり、家に帰り着くまで続くようになった。そのうち、家でも緊張がなかなかとれないようになり、年がら年中緊張状態がつづくようになった。つづき:ぼくはなにくそと意地を張って交代を要求せず、そのまま続けた。それがずっと続いていって、そのうちに、始業時に先生の足音が近づいてくるだけで、ぼくはドキドキするようになり、さらにそのあと超緊張症になっていったのだった。つづき:中一のとき、学級委員をしていて、昔のことだから授業の始まりと終わりに「起立、礼」と号令をかけていたのだった。そのころちょうど変声期になって、声がひっくり返っておかしな発声になるのだった。それを聞いて、クラスのみんなは大笑いしたものだ。つづき:世界がずれこんだ世紀末を迎えた今、ぼくの超緊張症について、ここに書いておきたくなった。そのために迷惑をおかけした人たちがけっこう多いと思いますので、ここにお詫びを含めて告白しておきます。ネットサーフィンをしていると旅をしたくなることがある。それに旅の想い出はいいものだ。といっても、ぼくは超緊張症だから、旅はあまり楽しめないんだが。今でも万事、超緊張症の名残を引きずっているぼくだ。げっそりだ。心脳科学(仮説)は600枚くらいになった。ぼくにとってはべらぼうに面白い怪物本になった。でも仕上がりチェックのために読み返すのもべらぼうに大変だ。あと5回ぐらいは読み返して、おかしなところを修正していく。原稿には思わぬミスや間違いはつきものだ。ゆったりと進んでいこう。ヘンテコ気圧配置か、のろのろ進む冬の深まり、このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.25
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つぶやき121124(逆順)つづき:過ぎ去りし日々,,,想い出は美しすぎて,,,つづき:片目をつぶっていると、その緊張症がずいぶん軽くなる、ということをかなり前に発見した。つづき:自分を振り返ってみて、バカな野郎だ、と思えることもある。つづき:信じられないことだが、その映画鑑賞は、小学校の行事だった→「さらにそのころ、恐ろしい映画をみたことがあって、その登場怪物が夢にでてくるようになって、あとあとまで強い恐怖の影響を受けつづけたものだ。」つづき:旅の想い出はいいものだ。もっとも、はじめに告白したとおり、ぼくは超緊張症だから、旅はあまり楽しめないんだが。でも、それでも旅をしたくなる。つづき:ゆったりとしたつくり。しかもそこはがらがらだった。学生用のスカイメイトは普通席だ。キツネにつままれた気がしたものだ。おかげさまで楽しかったですよ。どうもありがとう。つづき:スカイメイトという学生優遇の制度が以前あって、あるとき羽田から、ボーイングかなにかの新鋭機に乗ったことがある。そのとき、空港の受付の女性が気をきかしてくれたらしく、機内で、二階席のファーストクラスに案内された。つづき:そして、彼はそのポーズのまま、眠い? とぼくにアピールしたのだった。ぼくはうなずいたんだが、おかしかった。大の大人、しかも武装した警備員がそんなことをするとは。あれは世界共通のしぐさというかボディーランゲージなのだろうか。想いだすと笑いそうになるエピソードだ。つづき:カイロの博物館で、時差ぼけで眠くて長いすに腰かけて休んでいたら、マシンガンをもったハンサムな若い警備員が、ぼくを見て、マシンガンを下に下ろして、両手を合わせて片方のほっぺたあたりの横にあて、そっちに首を傾けて、いわゆる「ねんねのポーズ」をした。つづき:アンカレッジ空港の免税店で、キャビア缶をひとつ注文したのに、帰ってから袋を開けたら2缶はいっていたことがあった。不思議でキツネにつままれたような感じがしたものだ。つづき:それから、これもウィーンでのことだが、ホテルからレストランに予約の電話をいれたとき、はじめから全部日本語でしゃべったら、通じたことがあった。おもしろかった。つづき:おいしいといえば、イギリスの食事はまずいといわれているが、ロンドンで食べたステーキはしょうゆ味でおいしかった。パリで食べたデンデンムシ、つまりエスカルゴは、コショウの塩味で、まあまあだった。つづき:ウィーンで、モーツァルトが落書きしたことがあるとかいう内壁をもつレストランかなにかで食事をして、壁にぼくの名前を漢字で書き込んだことがある。そこのガーリックスープがおいしかった。つづき:で、その中のひとりの18歳くらいのかわいい女の子が、翌日、みやげ物店で、ぼくのところにやってきた、ということがあった。フランス人はフレンドリーだ。懐かしい想い出だ。つづき:パリで、坂があって岡になったようなところがあって、そこで写真撮影をしようとしたとき、通りかかった女性三人が前を通るのを躊躇していたので、「ハイ、プリーズ」と声をかけたら、いっしょに写ってくれて、ぼくはずうずうしく両脇の女性二人の肩に手をのせて撮ってもらった。つづき:さて、はじめに戻って、旅の想い出だが、ルーヴル美術館で、名画を撮影したことがある。撮影禁止だったんだが、ストロボをつけずに写真をとったら、館員はなにも言わずうなずいていた。ぼくもうなずき返した。フランス人にもいいところがある例のひとつだ。つづき:過ぎ去りし日々。今ではいい想い出だ。つづき:しかし、大学時代は疲れ果て、講義もおろそかになっていた。つづき:しかし、授業は聞いていた。そして、緊張しながらも、根本を掘り下げるような質問を先生にしたものだった。中学、高校と、緊張のため、すぐ疲れて身が入らなくなっていたが。でも、登校拒否などということは露ほども心に浮かばなかった。つづき:ほかの要因もあるんだろうが、そういうこともあってか、小学校から大学まで、学校の勉強も試験勉強も受験勉強もほとんどしなかった。見事といっていいほどやらなかった。今では笑い種だが。つづき:高校、大学と、そんな緊張症を治そうと、いろんな挑戦をやったものだ。でも、治らなかった。で、中学時代あたりからの永い期間、読書をしてもすぐ体調が悪くなったり苦しくなったりするようになった。今でもその傾向はあるが、読書は好きだ。つづき:そういったことによる影響は人によってまったく異なる。ぼくのばあいは、恐ろしいほど極端な影響を受けたといえる。しかし、ぼくのようなケースでは、そういったことはプラス面をもっていて、人間のもつなんらかの能力を呼び覚ますのだとぼくは信じている。つづき:そのことがあって、結局、学芸会当日は脳貧血をおこして学校を休む結果となった。さらにそのころ、恐ろしい映画をみたことがあって、その登場怪物が夢にでてくるようになって、あとあとまで強い恐怖の影響を受けつづけたものだ。人生にはいろんなことがあるもんだ。つづき:その件に少し似たことが、小学2年のころにもあった。学芸会の劇の練習中に、先生がセリフをテープレコーダーに録音したことがあって、その再生を聞いて、自分の声はなんていやな声なんだろうと衝撃を受けたことがあった。つづき:でも、そのおかげで、さまざまな思考力訓練にほんとに徹底的に打ち込めたので、それはいいことだったのだと今では納得している。つづき:自分で考えてのことならなんとか声はでたが。大学時代も大変だった。さらに遡ると、中学時代から、友だちと話をしてですら、大変な心労を覚えるようになっていたのだった。ほんとに大変な痛苦だった。つづき:中一でそんな事態は終わったのに、依然として緊張はつづき、高校の終わりごろには、吐き気はするは、ご飯はのどをとおりにくいは、ほんの一時期だが、授業中本を音読させられると声がでなくなるはで、大変なものだった。つづき:ぼくは意地を張ってだれにも相談しなかった。自分の沽券にかかわるという感じで黙っていた。で、そういったべらぼうな緊張は、家を出ると始まり、家に帰り着くまで続くようになった。そのうち、家でも緊張がなかなかとれないようになり、年がら年中緊張状態がつづくようになった。つづき:ぼくはなにくそと意地を張って交代を要求せず、そのまま続けた。それがずっと続いていって、そのうちに、始業時に先生の足音が近づいてくるだけで、ぼくはドキドキするようになり、さらにそのあと超緊張症になっていったのだった。つづき:中一のとき、学級委員をしていて、昔のことだから授業の始まりと終わりに「起立、礼」と号令をかけていたのだった。そのころちょうど変声期になって、声がひっくり返っておかしな発声になるのだった。それを聞いて、クラスのみんなは大笑いしたものだ。つづき:世界がずれこんだ世紀末を迎えた今、ぼくの超緊張症について、ここに書いておきたくなった。そのために迷惑をおかけした人たちがけっこう多いと思いますので、ここにお詫びを含めて告白しておきます。ネットサーフィンをしていると旅をしたくなることがある。それに旅の想い出はいいものだ。といっても、ぼくは超緊張症だから、旅はあまり楽しめないんだが。今でも万事、超緊張症の名残を引きずっているぼくだ。げっそりだ。心脳科学(仮説)は600枚くらいになった。ぼくにとってはべらぼうに面白い怪物本になった。でも仕上がりチェックのために読み返すのもべらぼうに大変だ。あと5回ぐらいは読み返して、おかしなところを修正していく。原稿には思わぬミスや間違いはつきものだ。ゆったりと進んでいこう。ヘンテコ気圧配置か、のろのろ進む冬の深まり、このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.24
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つぶやき121123(逆順)つづき:旅の想い出はいいものだ。もっとも、はじめに告白したとおり、ぼくは超緊張症だから、旅はあまり楽しめないんだが。でも、それでも旅をしたくなる。つづき:ゆったりとしたつくり。しかもそこはがらがらだった。学生用のスカイメイトは普通席だ。キツネにつままれた気がしたものだ。おかげさまで楽しかったですよ。どうもありがとう。つづき:スカイメイトという学生優遇の制度が以前あって、あるとき羽田から、ボーイングかなにかの新鋭機に乗ったことがある。そのとき、空港の受付の女性が気をきかしてくれたらしく、機内で、二階席のファーストクラスに案内された。つづき:そして、彼はそのポーズのまま、眠い? とぼくにアピールしたのだった。ぼくはうなずいたんだが、おかしかった。大の大人、しかも武装した警備員がそんなことをするとは。あれは世界共通のしぐさというかボディーランゲージなのだろうか。想いだすと笑いそうになるエピソードだ。つづき:カイロの博物館で、時差ぼけで眠くて長いすに腰かけて休んでいたら、マシンガンをもったハンサムな若い警備員が、ぼくを見て、マシンガンを下に下ろして、両手を合わせて片方のほっぺたあたりの横にあて、そっちに首を傾けて、いわゆる「ねんねのポーズ」をした。つづき:アンカレッジ空港の免税店で、キャビア缶をひとつ注文したのに、帰ってから袋を開けたら2缶はいっていたことがあった。不思議でキツネにつままれたような感じがしたものだ。つづき:それから、これもウィーンでのことだが、ホテルからレストランに予約の電話をいれたとき、はじめから全部日本語でしゃべったら、通じたことがあった。おもしろかった。つづき:おいしいといえば、イギリスの食事はまずいといわれているが、ロンドンで食べたステーキはしょうゆ味でおいしかった。パリで食べたデンデンムシ、つまりエスカルゴは、コショウの塩味で、まあまあだった。つづき:ウィーンで、モーツァルトが落書きしたことがあるとかいう内壁をもつレストランかなにかで食事をして、壁にぼくの名前を漢字で書き込んだことがある。そこのガーリックスープがおいしかった。つづき:で、その中のひとりの18歳くらいのかわいい女の子が、翌日、みやげ物店で、ぼくのところにやってきた、ということがあった。フランス人はフレンドリーだ。懐かしい想い出だ。つづき:パリで、坂があって岡になったようなところがあって、そこで写真撮影をしようとしたとき、通りかかった女性三人が前を通るのを躊躇していたので、「ハイ、プリーズ」と声をかけたら、いっしょに写ってくれて、ぼくはずうずうしく両脇の女性二人の肩に手をのせて撮ってもらった。つづき:さて、はじめに戻って、旅の想い出だが、ルーヴル美術館で、名画を撮影したことがある。撮影禁止だったんだが、ストロボをつけずに写真をとったら、館員はなにも言わずうなずいていた。ぼくもうなずき返した。フランス人にもいいところがある例のひとつだ。つづき:過ぎ去りし日々。今ではいい想い出だ。つづき:しかし、大学時代は疲れ果て、講義もおろそかになっていた。つづき:しかし、授業は聞いていた。そして、緊張しながらも、根本を掘り下げるような質問を先生にしたものだった。中学、高校と、緊張のため、すぐ疲れて身が入らなくなっていたが。でも、登校拒否などということは露ほども心に浮かばなかった。つづき:ほかの要因もあるんだろうが、そういうこともあってか、小学校から大学まで、学校の勉強も試験勉強も受験勉強もほとんどしなかった。見事といっていいほどやらなかった。今では笑い種だが。つづき:高校、大学と、そんな緊張症を治そうと、いろんな挑戦をやったものだ。でも、治らなかった。で、中学時代あたりからの永い期間、読書をしてもすぐ体調が悪くなったり苦しくなったりするようになった。今でもその傾向はあるが、読書は好きだ。つづき:そういったことによる影響は人によってまったく異なる。ぼくのばあいは、恐ろしいほど極端な影響を受けたといえる。しかし、ぼくのようなケースでは、そういったことはプラス面をもっていて、人間のもつなんらかの能力を呼び覚ますのだとぼくは信じている。つづき:そのことがあって、結局、学芸会当日は脳貧血をおこして学校を休む結果となった。さらにそのころ、恐ろしい映画をみたことがあって、その登場怪物が夢にでてくるようになって、あとあとまで強い恐怖の影響を受けつづけたものだ。人生にはいろんなことがあるもんだ。つづき:その件に少し似たことが、小学2年のころにもあった。学芸会の劇の練習中に、先生がセリフをテープレコーダーに録音したことがあって、その再生を聞いて、自分の声はなんていやな声なんだろうと衝撃を受けたことがあった。つづき:でも、そのおかげで、さまざまな思考力訓練にほんとに徹底的に打ち込めたので、それはいいことだったのだと今では納得している。つづき:自分で考えてのことならなんとか声はでたが。大学時代も大変だった。さらに遡ると、中学時代から、友だちと話をしてですら、大変な心労を覚えるようになっていたのだった。ほんとに大変な痛苦だった。つづき:中一でそんな事態は終わったのに、依然として緊張はつづき、高校の終わりごろには、吐き気はするは、ご飯はのどをとおりにくいは、ほんの一時期だが、授業中本を音読させられると声がでなくなるはで、大変なものだった。つづき:ぼくは意地を張ってだれにも相談しなかった。自分の沽券にかかわるという感じで黙っていた。で、そういったべらぼうな緊張は、家を出ると始まり、家に帰り着くまで続くようになった。そのうち、家でも緊張がなかなかとれないようになり、年がら年中緊張状態がつづくようになった。つづき:ぼくはなにくそと意地を張って交代を要求せず、そのまま続けた。それがずっと続いていって、そのうちに、始業時に先生の足音が近づいてくるだけで、ぼくはドキドキするようになり、さらにそのあと超緊張症になっていったのだった。つづき:中一のとき、学級委員をしていて、昔のことだから授業の始まりと終わりに「起立、礼」と号令をかけていたのだった。そのころちょうど変声期になって、声がひっくり返っておかしな発声になるのだった。それを聞いて、クラスのみんなは大笑いしたものだ。つづき:世界がずれこんだ世紀末を迎えた今、ぼくの超緊張症について、ここに書いておきたくなった。そのために迷惑をおかけした人たちがけっこう多いと思いますので、ここにお詫びを含めて告白しておきます。ネットサーフィンをしていると旅をしたくなることがある。それに旅の想い出はいいものだ。といっても、ぼくは超緊張症だから、旅はあまり楽しめないんだが。今でも万事、超緊張症の名残を引きずっているぼくだ。げっそりだ。心脳科学(仮説)は600枚くらいになった。ぼくにとってはべらぼうに面白い怪物本になった。でも仕上がりチェックのために読み返すのもべらぼうに大変だ。あと5回ぐらいは読み返して、おかしなところを修正していく。原稿には思わぬミスや間違いはつきものだ。ゆったりと進んでいこう。ヘンテコ気圧配置か、のろのろ進む冬の深まり、このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.23
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つぶやき121122(逆順)心脳科学(仮説)は600枚くらいになった。ぼくにとってはべらぼうに面白い怪物本になった。でも仕上がりチェックのために読み返すのもべらぼうに大変だ。あと5回ぐらいは読み返して、おかしなところを修正していく。原稿には思わぬミスや間違いはつきものだ。ゆったりと進んでいこう。ヘンテコ気圧配置か、のろのろ進む冬の深まり、これは過去のことだが、心脳科学(仮説)の原稿への手入れについていえば、用紙やノートに書き込んだ大量のの読み返しとその処理は、一部しかやらなかった。全部やるとダウンしてしまう。ムリせずいこう。ゆったりと進む冬の深まり、つづき:あたった例がきわめて少ないので断定はしないが。助詞「は」は先進あるいは未来のことばといっていいのかもしれない。実に便利で魅力的な、言語の構成素子である。ひと昔前ブログに書いて以来、何回も助詞「は」についての考察を書いてきたが、主格として認められる用法をも含めて、「は」のついたところに注目・着目してくれ~という感じのようだ。しかも、文のほかの部分はかなり自由・好きにできる、ということのようである。つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.22
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つぶやき121121(逆順)心脳科学(仮説)は600枚くらいになった。あと5回ぐらいは読み返して、おかしなところを修正していく。原稿には思わぬミスや間違いはつきものだ。のんびりゆったりと進んでいこう。これは過去のことだが、心脳科学(仮説)の原稿への手入れについていえば、用紙やノートに書き込んだ大量のの読み返しとその処理は、一部しかやらなかった。全部やるとダウンしてしまう。ムリせずいこう。ゆったりと進む冬の深まり、つづき:あたった例がきわめて少ないので断定はしないが。助詞「は」は先進あるいは未来のことばといっていいのかもしれない。実に便利で魅力的な、言語の構成素子である。ひと昔前ブログに書いて以来、何回も助詞「は」についての考察を書いてきたが、主格として認められる用法をも含めて、「は」のついたところに注目・着目してくれ~という感じのようだ。しかも、文のほかの部分はかなり自由・好きにできる、ということのようである。つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.21
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つぶやき121120(逆順)心脳科学(仮説)の原稿への手入れについていえば、用紙やノートに書き込んだ大量のものの読み返しとその処理は、一部しかやらなかった。全部やるとダウンしてしまう。ムリせずいこう。雲のようすや動きはダイナミックで面白い、世界中の雲の形やようすが面白い、南半球は夏なのか、季節による雲の形やようすの違いは、日本列島の周辺の巨大でダイナミックな雲の一団は、形を変えながら去っていった、日本列島の周辺に巨大でダイナミックな雲の一団、それが不思議な形、つづき:あたった例がきわめて少ないので断定はしないが。助詞「は」は先進あるいは未来のことばといっていいのかもしれない。実に便利で魅力的な、言語の構成素子である。ひと昔前ブログに書いて以来、何回も助詞「は」についての考察を書いてきたが、主格として認められる用法をも含めて、「は」のついたところに注目・着目してくれ~という感じのようだ。しかも、文のほかの部分はかなり自由・好きにできる、ということのようである。つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.20
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つぶやき121119(逆順)世界中の雲の形やようすが面白い、南半球は夏なのか、季節による雲の形やようすの違いは、日本列島の周辺の巨大でダイナミックな雲の一団は、形を変えながら去っていった、日本列島の周辺に巨大でダイナミックな雲の一団、それが不思議な形、つづき:あたった例がきわめて少ないので断定はしないが。助詞「は」は先進あるいは未来のことばといっていいのかもしれない。実に便利で魅力的な、言語の構成素子である。ひと昔前ブログに書いて以来、何回も助詞「は」についての考察を書いてきたが、主格として認められる用法をも含めて、「は」のついたところに注目・着目してくれ~という感じのようだ。しかも、文のほかの部分はかなり自由・好きにできる、ということのようである。つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.19
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つぶやき121118(逆順)つづき:それに、その人物はぼくを模したものではないし、ぼくがネット上に書くものは書きなぐりだし、ということもあったのだった。で、その小噺の前の方に「パイナップルはパインアップルで松リンゴだな」と書いたので、パイナップルを食べながら思い出したのだった。つづき:「これは、自分でそう考えたことがある、のであって、そういう記述を読んだことはないんだが、ま、めんどくさいからこう書いておこう」と思いながら書いたのを思い出した。なんでめんどくさいと思ったのか。記述が長くなるからと途中で変更するのがめんどうだったからだった。パイナップルを食べながら思い出した: 一昔前、ブログに、小噺の中で、ある人物に「グレープフルーツは、そのなっている樹全体を遠くからみると、グレープのように見えるからそう呼ぶのだったと思う。ブドウ果物だ」といったことをいわせた、と記憶している。日本列島の周辺に巨大でダイナミックな雲の一団、それが不思議な形、つづき:あたった例がきわめて少ないので断定はしないが。助詞「は」は先進あるいは未来のことばといっていいのかもしれない。実に便利で魅力的な、言語の構成素子である。ひと昔前ブログに書いて以来、何回も助詞「は」についての考察を書いてきたが、主格として認められる用法をも含めて、「は」のついたところに注目・着目してくれ~という感じのようだ。しかも、文のほかの部分はかなり自由・好きにできる、ということのようである。つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.18
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つぶやき121117(逆順)2週間ぐらい前から久しぶりに心脳科学(仮説)に手を入れ始めたのだが、読み返すと加筆することがぞくぞくと湧いてきて大変だ。本来はそれはいいことなんだが、そうなるとダウンすることもあるので、ほどほどのほどほどにして進もう。テクニカル要因も、ファンダメンタルズ要因も、対ドルで円安を示しているそうだ、ドル全面高、つづき:あたった例がきわめて少ないので断定はしないが。助詞「は」は先進あるいは未来のことばといっていいのかもしれない。実に便利で魅力的な、言語の構成素子である。ひと昔前ブログに書いて以来、何回も助詞「は」についての考察を書いてきたが、主格として認められる用法をも含めて、「は」のついたところに注目・着目してくれ~という感じのようだ。しかも、文のほかの部分はかなり自由・好きにできる、ということのようである。うす雲が日本列島全域を覆っている、つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.17
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つぶやき121116(逆順)真冬に向かい寒くなっていく、雲の形は面白い。想像力を働かせると、なにかの対象に似ていると思えることもある。つづき:あたった例がきわめて少ないので断定はしないが。助詞「は」は先進あるいは未来のことばといっていいのかもしれない。実に便利で魅力的な、言語の構成素子である。ひと昔前ブログに書いて以来、何回も助詞「は」についての考察を書いてきたが、主格として認められる用法をも含めて、「は」のついたところに注目・着目してくれ~という感じのようだ。しかも、文のほかの部分はかなり自由・好きにできる、ということのようである。うす雲が日本列島全域を覆っている、つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.16
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つぶやき121115(逆順)つづき:あたった例がきわめて少ないので断定はしないが。助詞「は」は先進あるいは未来のことばといっていいのかもしれない。実に便利で魅力的な、言語の構成素子である。ひと昔前ブログに書いて以来、何回も助詞「は」についての考察を書いてきたが、主格として認められる用法をも含めて、「は」のついたところに注目・着目してくれ~という感じのようだ。しかも、文のほかの部分はかなり自由・好きにできる、ということのようである。うす雲が日本列島全域を覆っている、つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.15
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つぶやき121114(逆順)世界のあちこちに雲の大渦巻き、世界のどこかに雲の大渦巻き、冬が育っていく、世界は神秘に満ちている、つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。さすがに台風は発生しなくなった、離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.14
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つぶやき121113(逆順)世界は神秘に満ちている、つづき:宇宙においても渦巻きは普遍的だ、気象の世界では渦巻きというものは一般的な存在だ、つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。さすがに台風は発生しなくなった、離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.13
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つぶやき121112(逆順)つづき:宇宙においても渦巻きは普遍的だ、気象の世界では渦巻きというものは一般的な存在だ、つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。さすがに台風は発生しなくなった、離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.12
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つぶやき121111(逆順)つづき:そのばあいの(主格)「は」にせよ「が」にせよ、主格の機能以外の形容・修飾がいろいろ付随している。その味わいを味わうのも面白い。離れたつづき:「さすがに台風は発生しなくなった」と「さすがに台風が発生しなくなった」はどちらでも似たようなものだ。ここから「は」は主格のケースがあることがわかる。「は」は元々主格だったのかもしれない。例を少ししかみてないので断定はできないが。さすがに台風は発生しなくなった、離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.11
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つぶやき121110(逆順)世界は神秘に満ちている、離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。世界は神秘に満ちている、離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.10
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つぶやき121109(逆順)離れたつづき:「が」は主格に付随して、強調格(AではなくBが~。ほかではなくBが~)、定冠詞格(かの~がこれこれ)といった機能・働きをももつ。つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。世界は神秘に満ちている、離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.09
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つぶやき121108(逆順)つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。つづき:折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。離れたつづき:あのサイトに「あとは、正確できれいに整えるだけだが、調子がいいときでないと手がでない」などと書いたと記憶している。これらは記さなくてもいいものだが、アイディアがでてきつづけるので、一応加筆することにした→心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。世界は神秘に満ちている、離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.08
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つぶやき121107(逆順)もう、立冬か、離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。世界中のあちこちに、面白い渦巻き型の巨大な雲発生、離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。寒さが緩んだ、つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.07
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つぶやき121106(逆順)離れたつづき:いや、主要格よりも、中心格か着目格がいい。今、中心になっている着目領域の中で、「なになにについていえば、それはこれこれだ」ということになる。世界中のあちこちに、面白い渦巻き型の巨大な雲発生、離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。寒さが緩んだ、つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.06
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つぶやき121105(逆順)離れたつづき:助詞「は」は、ケースによっては、主要格と名づけたい。その働きの内容は、一昔前、ブログに書いたとおりだ。 その他には、主格、その他、の役割をもつ。寒さが緩んだ、つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.05
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つぶやき121104(逆順)つづき:心脳科学(仮説)はぼくにとっては実に面白い。大興奮の興味深さだ。で、心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。5部作の書き進め、ムリせずゆったりといこう。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そこからでてくる哲学、世界・存在の根本原理のような内容、そのほかだ。心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的で精密に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.04
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つぶやき121103(逆順)つづき:そもそも、「が」をつけなくても、主格だとわかるわけであるから、必ずしも「が」は主格を表す助詞と限られない。その意味では「は」と似た要素をもつ。つづき:格助詞「が」の用法にもいくつかの領域がある。ほかとの区別を示したり(「は」もそういう用法をもつ)、強調したり、定冠詞的機能をもったり、などである。離れたつづき:助詞の「は」と「が」はどちらでもいいケースが結構ある。「が」が格助詞なら、そういったケースでは、「は」も格助詞の範疇に入れることができるのは当然である。つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そのほかだ。心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.03
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つぶやき121102(逆順)つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そのほかだ。心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに適当に書き入れる。世界は神秘に満ちている、SFファンタジー;ここ数日書いたもの:ムラのある変な雲の巨大一団が列島に来そうだが←これはその朝のことだ。その前日「日本列島の上空に変わった面白い形の雲の巨大な一団」←これを龍のような形状にも見ることができた。ちょうどそのころ巨大ハリケーンが、一昨日:ムラのある変な雲の巨大一団が列島上空に辺りに来た、つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。年をとるほど勉強したくなる。学校時代はその反対だった。学校の勉強なんてほとんどしなかった。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。質の科学(仮説):質時間回帰則は論理で構成されている法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.02
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つぶやき121101(逆順)つづき:それら記す内容は、心脳科学(仮説)の検証に役立つものや、仮説体系からでてくる新しい研究領域たちに関するもの、そのほかだ。心脳科学(仮説)が正しいかどうかについては、ほかに在りようがないという気もするし、当たるかどうかクジを引いているような感じもする。心脳科学(仮説)にさらなる加筆を始めた。折に触れ考えついた内容を書き留めておいたものだ。書き込み先を緻密に探し出して有機的に編みこむとすると、時間がかかりすぎるしダウンするので、適当なところに書き入れる。世界は神秘に満ちている、SFファンタジー;ここ数日書いたもの:ムラのある変な雲の巨大一団が列島に来そうだが←これはその朝のことだ。その前日「日本列島の上空に変わった面白い形の雲の巨大な一団」←これを龍のような形状にも見ることができた。ちょうどそのころ巨大ハリケーンが、一昨日:ムラのある変な雲の巨大一団が列島上空に辺りに来た、つづき:「は」は格助詞には分類されていないが、格助詞として扱えるケースもある。そういったふうに、助詞の領域にも面白い課題がいろいろある。つづき:さらに、「が」と「は」の用い方であるが、どちらでもいいケースが結構あるものだ。自分が書いても読み返すと変更したくなったりする。表現がむずかしいが、「は」の連続を避けて「が」に変更したりといったこともある。つづき:そういう例は困ったものだ。そういうのを読むと、意味はわかるが心の居心地が悪い。つづき:たとえば、「図書館で本Aが公開されている」を略記して「図書館で本Aが公開」と見出しにする。そういった略記の見出しなどをよく目にしているうちに、「図書館で本Aが公開している」となっていくのではないだろうか。これは一例だが。近頃、格助詞「を」とすべきところを「が」としている例が増えてきているのではないか。意味はわかるが不自然な印象が否めない。「をが」とすればまだいいが。そのうち「が」の用法が増えて変わっていくのかもしれない。つづき:日本と欧米には同じタイプたちの美人たちがいる。日本の中でも地域によってそういったことの差がある。かなり前、イタリア人女性に話しかけられたことがある。優雅で柔らかい感じの凄い美女だった。あのふわっとした柔らかな感じは欧米人女性には非常に少ないのかもしれない。中学の同級生にかなり似た女の子がいたのを思いだした。懐かしい気がした。年をとるほど勉強したくなる。学校時代はその反対だった。学校の勉強なんてほとんどしなかった。五部作のうち、心脳科学(仮説)が反証される、つまり、心脳科学(仮説)は心脳の現実を記述していないと確認されたとしても、質の科学(仮説)をはじめ他の4作にはなんの影響もない。そのことによって他の4作が否定されるということはない。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。ぼくはネット上にいろいろ書いてきたが、結局「5部作」を世に問いたい、これだけだ。それに尽きる。5部作。心脳科学(仮説)、質の科学(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、世界哲学(希望)、運命のノート(遊び? 現実?)。気長にいく。マクスウェルがマクスウェルの方程式を構築する過程は、工学的だった。それは工学的モデルを仮定してなされた。後にはそのモデルは捨て去られたが。原始仏典によると、ブッダは、神々や悪魔たちと会話をしたことになっている。質時間回帰(仮説):幸福なはずの境遇にあっても、質時間回帰によって幸福だと感じなくなる、という面もある。つづき:今のところ、表向きには心脳科学(仮説)は質の科学(仮説)と関連づけていない。心脳科学が現実に対応していると検証されたら、関連づける予定だ。私的にはもう始めている。つづき:質の科学(仮説)と転生の哲学(科学的仮説)では、霊魂はあるのかないのか判定せず、どちらであっても成り立つ論を展開している。しかも霊魂はあってもなくても転生がある、ということについて、論理による証明のようなものもある。つづき:普通のカルマの概念は概念自体も原理的根拠も論拠も証明法もはっきりせずいいかげんであやふやだが、質の科学ではそれらは実に明快である上に更にそれ以上のことも精緻に提示される。つづき:いちばんすっきりしているもののひとつが、ヒンドゥー教かもしれない。霊魂も転生もあると説いている。因果応報の概念はヒンドゥー教と仏教にある。いわゆるカルマだが、カルマは質の科学で説明がつく。質の科学ではそれを借用して質時間回帰則を科学的カルマともいう。つづき:原始仏教は霊魂はないが転生はあるし地獄もあると説いている。原因と結果の法則によって、欲望執着(自由訳。ラーガ、タンハー、うろ覚え)があれば転生をもたらす仮の霊魂のようなものが生じ転生するといっている。修行して欲望執着を滅さない限り永遠に転生していくとしている。つづき:世界中の多くの宗教は、霊魂も天国も地獄もあると主張しているようだ。それなのに転生を明確には主張していない宗教もある。つづき:そういったことになるのを防ぐためをはじめ、どこをどうとってどう考えてみても、世界、社会、人類にとって最重要なテーマのひとつは、転生はあるか否か、質時間回帰則は現実の法則であるかどうか、そういったことではないだろうか。基本中の基本だ。地球上に自分ひとりしかいなかったら、稼ぎなんて食うだけのものを得るのがせいぜいだ。それすらできるかどうか。生きていく気もしないだろう。人類が滅んで最後の一人になることは永遠の恐怖かもしれない。心脳科学(仮説)、質の科学・質時間回帰則(仮説)、転生の哲学(科学的仮説)、は、科学的にして原理的に在りうる内容だけをもっている。つまり現実がそのとおりでありうる。世界哲学(希望)も同じくその線で構築されている。質の科学(仮説):質時間回帰則は論理で構成されている法則である。その検証は完全にはなされていないが、それでも経験則やことわざ・故事などから抽出した法則のようなものに(と)よく一致する。相反することわざなどが存在することもその正しさを浮き彫りにするかのようだ。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):ネットサーフィンしていて、脈絡もなく突然バチカンとでてきた時にそう空目したのだった。そのwははずすことにする。離れた加筆(かなり前に書いたことを以前ふと思い出して気になっていた):madonnaはイタリア語で私の淑女という意味だ。その区切り方を変えるとそうなると気づいたわけだ。あるとき頭の中で音声で気づきアルファベットで確認したのだった。そのwははずすことにする。つづき:低気圧からの大気が上空で背の高い高気圧に流入し、それからそこより下の部分からその大気が放出されるので、そんな比喩が成り立つだろうということだ。ホワイトホールが現実にあるのかどうかは別にしての話だが。かなり前、台風と銀河とブラックホールがどうのこうのと書いたことがある。それからいくらかしてそれに付け加えることを考えた:その線でいくと、ホワイトホールは背の高い高気圧にたとえることができるだろう。心脳科学(仮説)からでてくる発明の特許出願をどうするか。趣味:転生先の星系を探して楽しむ。つづき:質時間回帰(仮説):あるいはすべての意識の主体についた質時間に従って質時間回帰するということも100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するということである。そこからでてくる結論:質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実に基づいて機能する・働く。つづき:質時間回帰(仮説):それら確率的にしか質時間回帰できないケースでも、結局は100パーセント完璧に真実に基づいて質時間回帰するのと同値に至る。いずれにしても、質時間回帰則は、100パーセント完璧に真実という質時間の総和に基づいて機能する・働く。質時間回帰(仮説):霊魂がないばあい、質時間回帰は、確率的になされる可能性もあれば、真実に基づいてなされるばあいもある。霊魂があるばあいは、多くは意識の主体についた真実に基づいて質時間回帰するが、意識の主体に質時間の変化がついていないケースでは、確率的に質時間回帰する。転生の哲学(科学的仮説):転生先(肉体や才能・能力、環境などを含めさまざまな要素たちがある)は、自分(意識の主体)の積んだ種々の質時間たちの総和にふさわしいところ・もの・ことになる(仮説)。人間には、霊魂があると思っている人たちと、ないと思っている人たちがいる。転生についても同じだ。インドのほとんどの人たちは転生を信じていると思われる。理屈では霊魂があってもなくても転生はある(未検証)、となる。つづき:宇宙を舞台に転生ということも考えられる。これについてはSF的な仮説はたつが、それをどう科学的でかつありうる仮説にもっていくか。 前の方に付け加えてただし、すべての人間が、どの人間も、生きていくと質時間のマイナスを積むことが実に多い。つづき:転生先の要素たちは、今のそれらとは反対になることも多い(転生を繰り返していけば質時間回帰する)。転生先の要素たちのうち環境についていえば、それが汚染されていたらお手上げである。つづき:転生の哲学(科学的仮説)は、転生先がいいもの・こと(いろいろな要素たちがある)であるようにするためにさまざまな質時間のプラスを積むことを奨める。転生先は自分ではコントロールできないが質時間のプラスを積んでいると自分にとってよい転生ができる(質時間回帰・仮説)。このブログのどこかを参考にされる場合は、すべて、絶対に危険がないように、絶対に安全に行ってください。このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。著作権は日本国著作権法ならびに国際条約によって保護されています。 それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2012.11.01
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