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最近にみた最高に感動した日本映画を紹介します。「ポテチ」という作品です。GWにみました。これ、すごいです。ほんとう、すごい映画です。すごく感動する映画です。映画が終わった後、映画館の中が徐々に照明が明るくなってゆくときに、周囲を見渡したら、たくさんのひとたちが(というより、ほとんどのひとたちが)泣いていました。映画館で、あんなにも沢山の人たちが涙を流している光景を見るのは、たぶん初めてのことです。気持ちはとてもわかります。というのも、自分も多くの人たちと同じように大粒の涙を流しながら、「ポテチ」という映画をみていたからです。映画をみながら、あんなに涙が溢れてしまったのは、とても久しぶりでした。「泣く」といっても、悲しくて泣くという感覚とは違うのです。心が、とてもあたたかくなって、それがなぜかとてもうれしくて、つい涙が止まらなくなる・・・・・そういう感覚に包まれて「泣いてしまう」。「ポテチ」、そういう映画です。映画『ポテチ』予告編
2012.05.25
とても不思議な夜。お月様がとても神秘的で、キレイ・・・そんなふうに、とても不思議で、とても美しい夜。こんな夜には、この歌が聴きたくなります。カーラ・ボノフ「オール・マイ・ライフ」
2012.05.05
4月21日に行われた「仙台にパンダはいらない!デモ」に参加したかった・・・、そう思いつつ、なんらかの理由で断念した方々って少なくなかったはず、と思います。というのも、自分もそうした人間の一人だからです。あの時、4月21日というのは、ちょうど、個人的に眩暈がするほど仕事が多忙を極めている状況と重なっていました。いまさら、ふりかえって残念がっても後の祭りなんですが、まあでも本当後悔しています。現在の状況で、この仙台に、誰がいったいパンダなんか必要としているのか?!必要なわけがないでしょう!!!そうしたメッセージを多くの人々と共に、力強く声高に放ちたかったのです。さて、とはいうものの、いままで、 ”デモ” というのに参加したことって一度もないんですよ。なので、デモというものに初めて参加する格好の良き機会として位置づけていたものでした。まあとにかく、「復興のためにパンダ」なんて、こんなの、冗談にさえならない。しかし、笑えない、冗談にもならない、悪夢そのものな事態が、刻一刻と、現実のものとなろうとしている。あきれてものが言えないというよりも、寒気がとまらない・・・そんなふうに怖すぎる状況の、現在の仙台。虎視眈々と尖閣諸島と沖縄そして九州を奪い取ろうと狙っている、中国という名の厄介な殺戮国家に対し、いったいどうして自ら嬉嬉と迎合しようとするのか。仙台だけじゃない。沖縄メディアを支配する左翼連中(中国共産党とのつながりが濃すぎる人々)、そして新潟の左翼、名古屋の左翼、日本中の左翼たちの売国行動。あなたちには本当に日本人の血が流れているのか。まったくもって、理解ができません。4.21 仙台にパンダはいらない!デモ行進中国共産党と、それに媚びる勢力が共同で進めている「仙台市へのパンダ貸与」。「東日本大震災の復興のシンボルに」と彼らは言うが、これは中国側の対日世論工作であることは明らかであり、また、パンダの影にはチベット侵略の悲劇が隠されているのである。こんな政治利用満載のパンダなんぞお断りだ!と、仙台の有志が中心となって行った「4.21 仙台にパンダはいらない!デモ行進」の模様をお送りします。-------------------------------------(上記のグレイ文字の文章はYOUTUBE動画説明文章より転載しました)
2012.05.03
愛そして平和について想いを馳せることは、とても大事なことです。時に道を見失うことが往々にしてある自分のような愚か人間であれば尚更のこと。さて以前、2010年頃まででしたか、このブログにおけるハンドルネームに LUCA という言葉を用いていました。上の写真はその時、数年前にアップロードした画像で、そのために LUCA という文字が刻まれています。故に、カトリックの方なのですね?との素朴な問いかけを多々、様々な方々からいただいたものでした。しかし、それは違うのです。自分はカトリックの宗派でないばかりか、そうした世界的に有名な宗教に身を置けるほどマジメな人間ではありません。ではどうして、そのように不真面目な自分が、カトリックの方と間違われても仕方がないような言葉を自らのブログにおいて日々用いてきたのかというと、それはあんまり深い意味はないのです。スザンヌ・ベガの「ルカ」という歌と、イタリアのルッカという街が好きという理由で、あまり難しいことなど考えずに、軽い気分で ”LUCA" という言葉を多用してきた。ただ、それだけのことでした。でも、こういった、あんまり難しいことなど何も考えてこずに、それでも長き歳月にわたり、そういった「自分では大きな意味もつかみきれていない」何かに無意識にもこだわってきたことの意味は、本当は、なにもなかったのでしょうか?。いいえ。確かに存在したいたはずです。単に自分で気づいていないだけで。きっと、そういうこと。おそらく自分は、LUCAという言葉に、自分が求める「愛」や「希望」や「心の平穏」といった漠然とした内なる願いを投影していたのだと思います。なんとなく、そんな気がします。いままで沢山、愛を探す旅を続けてきました。これからも、愛の意味を探り続けてゆくことでしょう。それが、人間にとって、この世に生を受けたことの深い意味を求めるということであり、成長し続けるということの真意なのだと思うから、愛の輝きへ至る旅はこれからも続くのです。
2012.04.30
ジョン・レノンという人のことは、そんなに好きではないのだが、この歌におけるジョン・レノンさんは、掛け値なしに素晴らしいと断言したいくらい好きだ。「スタンド・バイ・ミー」ジョン・レノンそもそも、どうして自分は、ジョン・レノンのことを心底から好きになれないかというと、これは長年考えてきたのだが、たぶん次のような事柄に行き着くのだと思う。つまり、自分自身と、似すぎているのだ。情けないくらい不恰好なくせして、すげえバカなくせして、かっこうよくいきがってその場をしのいだりしつつ、その挙句に苦悩のさなかをのた打ち回る姿。自分自身と似ているというよりも、これはもう、人類の煩悩のすべて、そのものではないか。つまり、こういうふうに言うことができる。ジョン・レノンは、ここ何十年の間、世界中で誰よりも ”普遍的な人物” であった、と。
2012.04.16
前仙台市長が日本共産党らのデマ中傷拡散工作によって失墜させられて以降、再び仙台は危険水域に突入しようとしている。近藤真彦という人物は、いま自分が何をしているのか分かっているのだろうか(確信犯と呼べるほどの頭脳の持ち主とは思えないのだが)。こういう危険な人が、時に芸能人の衣を借りたりして、日々、次から次へと雨の後の茸の如く沸いてきてしまうから、ますます日本の劣化を止めることが困難となってくる。http://news.searchina.ne.jp/disp.cgiy=2012&d=0320&f=politics_0320_016.shtml「パンダの仙台誘致で、近藤真彦さんらが中国訪問」 ←愚報↑仙台も非常に危険地帯となりかけていますが、新潟もかなりやばいです。九州や大阪も地雷地帯と化していますけど。日本には外国のスパイを取り締まる法律がない・・・って一体どういうこと??。って普通に誰が考えても異常なことです。ってゆうか、実際問題よおく考えれば分かることですけど、上に挙げた諸問題のエトセトラを諸外国のせいにできないですよね。一番悪いのは、自らトラブルを招き寄せるしか能のない日本の政治家たちの無責任さ加減(というか売国奴さ加減)、あるいは日本人自身の危機感への欠如と、南朝鮮(韓国)や北朝鮮の動向を笑っていられる余裕などないことを認識できていない愚かさといいましょうか。もう、半分、侵略されかけているんですよ。彼ら中華の人々(中国・韓国)は夢遊病で浮かれた現在日本を、武器も持たずに侵略に成功しかけているんですよ。Free Tibet!尼僧、抗議の焼身自殺では、また次回の日記で逢いましょう。 ←クリック
2012.03.21
いま世の中、ここまで腐りきっているのか?!。目を覆うばかりのあまりの惨状に暗澹とすると同時に、目の前で突きつけられている情報の数々が現実に起きていることとは決して思いたくない自分がいました。って一体何の話かというと、今日、たまたまデパートのトイレから出た際に、少々変わった展示パネルが並んでいるのが視界に入ったのですが、何気にその展示ブースに近づいてみると、なにやら数々の外国の有名人の顔写真がパネルになっているではありませんか。ということで興味をそそられ、それらの世界的有名人の顔写真が掲載された大きなパネルの下に刻まれた文章の数々を読みながら、体に戦慄が走ったのでした。それらの有名人らの多くには、かつて一世を風靡しながら、不可解な最期を遂げているという共通項がありました。その共通項とは?怖い怖い事実です。しかも、それは遠い過去の話でもなんでもなく、現代においてもまかり通り過激さがよりエスカレートしているにも関わらず殆どの人々がその実態を把握できずにいる事柄。”薬剤” に関する話です。上記した不審な最期を遂げた世界的有名人らの背後に見え隠れするもの、それは、”抗ウツ薬” ”不審な医者との関わり” そして ”白い巨塔を舞台にした巨大利権の構造と恐怖映画顔負けの薬ビジネス”。たとえば現代日本だけじゃなく、先進国全般にいえることでしょうが、神経症やウツの蔓延が社会的な問題となっているとして、そうした病理というのは、普通に考えたら病院へいけば直るではないか?と考えるのが人情というか普通の思考回路だと思うはず。まさか、病気を治す場所であるはずの病院が、病気を作り出し、そしてその対処療法としての「薬」を大量にばらまく巨大ビジネスの舞台であろうとは微塵にも考えないでしょう。そんなことありえない、ありえるはずがない・・・・・そう思うのが普通の感性だと思いますし、そう願いたいところではありますが、ところがどっこい!いまや世界のリアルは、普通っぽい感覚からは遠くかけはなれた恐怖劇場と化しているというのが現状という側面を(当然善良な医師たちが沢山存在している事実と同時並行しながら闇雲に進行しているという怒涛のカオスの渦中において)確かに内在させているのです。以上、今日に上記したような事柄を考え込まずにはいられなくなった催しについて、下に場所等の情報を記すことにしますので、気になった方がもしいましたら是非行ってください。開催されている期間は明日までです。JR仙台駅から徒歩2分 AERビル5階 明日29日は夕方の16時で終了。精神医学による悪徳商法の実態を目の辺りにしてください。言葉をなくします。体に戦慄が走ること必至です。まあなにはともあれ、今日の日記の結論というか、長い話になるのもなんなので要点をいくつか以下に記すことで日記をいちおうお開きにさせていただきます。○会社のストレスなどで夜眠れないために睡眠薬を用いている方というのは時折いらっしゃるかもしれませんが、なるべくなら、いますぐ、その薬は捨てなさい。医者から処方されたから安心などと軽く思っている人がもしいらっしゃるなら、その人は将来の廃人予備軍です。○抗ウツ薬は、睡眠薬よりもっと怖い毒薬です。無間地獄へ人を誘う片道切符のようなものと考えて決して間違いない。さてさて以前、とある元薬剤師の講演会を聞きに行ったことがあるんですが、その人の講演会の最後にあった質疑応答の時間に、聴講者とのこんなやりとりがありました。その聴講者は女性の方で、「様々なストレスで夜眠れないために習慣的に睡眠薬を使用しているが、先生のお話を聞いて怖くなった。どうすればいいのでしょう?」そんなふうな質問を投げかけたんです。元薬剤師の講演者は、こんなふうな内容のことを話しました。「睡眠薬が人間の体に与えるダメージは恐らく皆さんが想像しているより遥かに危険で深刻なものです。睡眠薬によって脳に蓄積される損傷が、後々において回復することはありません。あなたは、これからは睡眠薬や様々な薬に頼らずに自分の心の問題を解決する方向へシフトしなければいけません」では、また次回の日記で逢いましょう。
2012.01.28
「こんなヤツらが蔓延してるのに税金収めますか??」 http://www.youtube.com/watch?v=bqrcITFMlCQ&feature=relatedさきほどからYOUTUBEを色々見ているんですが、決して他人事ではないような気がしながら(というか他人事ではない)、日本の将来は本当どうなんだろう?と気分が暗澹とした次第。上にリンク貼った異常な映像を見てから、次にリンク貼る橋本知事の映像をみたら、どんだけ橋本という人物が、大変な状況の中で必死に、異常なこの現代日本の状況を打破しようと日々真摯に戦ってきたのかが分かる気がしてくる。橋下知事「年金と生活保護制度は 抜本的に見直さなくてはいけない」 http://www.youtube.com/watch?v=OpvsDYzjE7w&feature=relatedhttp://news.livedoor.com/article/detail/6121184/では、また次回の日記で。 ←クリック
2012.01.19
謹賀新年。本年もどうぞ宜しく御願いします。2012年におけるテーマ、抱負は、自分の場合、いたってシンプルです。自分を善くする。そして、それが日本を善くすることにもつながる。ひるがえって、あたかもバタフライ・エフェクトの如く、そうした些細な行動が世界の変化ともリンクしあう。もっとシンプルにいうと、成長するということ。内も外も何らかの同様の刺激を共有・共振しあい、同時に豊かを分かち合いながら多くの人と共に成長し続けるということ。シンプルですが、これって簡単なことではありません。昔から語り継がれ誰にでも容易に理解可能に思える普遍的な事柄にこそ、実践が決して容易ではなく、この世の真実が隠されているものだから、ひとくちに「成長」といってもそれは子供でも分かるような簡単そうな、しかしその実そんなにそんなに簡単なことではないのです。自分を善くし、より善く成長しつづけることができれば、きっと世界は美しさと輝度を増し大きな感動とドラマの息吹にあふれていることに気づき、そうしたエネルギーの流れに身を置くことができ、さらなる成長のステップへ自然と自分が運ばれてゆく。現在、報道を眺めながら、暗い気分になっている人達は少なくないことと思います。2012年という一年は世界的な激動の時代の幕開けとなるだろう、そう予測する人々が大多数であることは事実でしょう。だからこそ、そういう一年となるかもしれないからこそ、自分は、己の成長を望む。自分を善くする術を模索し実践し内面を磨いてゆくことを望みます。ドラッカーの言葉を借りれば、 ”成果を上げ続ける” ことのできる生き方の学び・模索・実践の連続となる一年にしたいと考えています。 では、また次回の日記で逢いましょう。
2012.01.08
激動の一年でした。本当、いろんなことがありました。こんなにも、いろんなことがありすぎた一年というのは、かつて経験したことがなかったと思います。そして、その因果、このブログにおける自分のハンドル・ネームを久々に更新することにしました。「瑠璃色の光」 という、かつてのHN名称を、「美しい光、あたたかな愛」という己のYOUTUBEにおけるサイト名称と足並揃うべく更新することにしたのです。」美しい色彩というのは、なにも、瑠璃色に限りません。すべての色彩が、そこに宿る命の輝度が、美に満ちている。こうした想いの更新イコール=ハンドルネームの更新へとストレートにつながっています。そして、2011年という実に波乱に満ちた激動の一年が、自分自身の成長を更新させることとイコールで結ばれていたことの確かな証が、今回における久々のハンドルネームの更新へと実直につながっているのです。とにかく。今年2011年に起きた数々の出来事を総括することは、現在の自分にはできません。本当はしたかったのだけれど、いまは、まだ、できません。いま、自分にできることは、些細なことにすぎないかもしれないけれど、自分の作ったこのブログでのHNを更新させることくらいなもの。だけど、これは実は、自分にとって本当は、途方もないくらい大きな、全然、些細じゃないってくらい大きな更新なんです。2011年の初めの日記に記した抱負の、たぶん7割くらいは達成できた自負はあります。いや、もしかしたら5割・・・3割かもしれませんけれど。来年は今年以上に、飛翔します。2012年を自分にとっての、大きな飛翔の一年にします。今年みたいに、泣いてばかりみたいな、迷ってばかりみたいな、そんなふうな若気のイタリーな一年とは全く異なったバラ色の最高に素晴らしい一年にしたい!と考えています!!。http://www.youtube.com/user/emeraldsea0721?feature=mheeたぶん、この日記が2011年を締めくくるラストの日記になることでしょう。そんなこんなで、数日後に迎える来年2012年も、どうぞよろしく!!!。では、また次回の日記で逢いましょう。
2011.12.27
私たちは一体どうして、この世に生まれてきたのでしょうか?。詳しいことは判りませんし、詳細を云々できないことは確かですが、とはいうものの、なんとなく、こんなふうな理由によって、私たちがこの世に生を受けたことの理由があるんじゃないかなあと、漠然と理解できるような気がすることが時々あります。自分が考えるに、-----光と愛とに、とけこむ術を見失った粒子が、再度そうした光と一体になる機会を与えられるために用意された舞台、それはあたかも試練にも似て、簡単にはいかない世界。それがこの地球上で私たちが生きるということ-----そんなふうに理解しているのです。そんなふうに理解できて、はじめて、私たちに与えられた ”この世で生きるということで齎される幸” の意味が腑に落ちるのです。さて、話は少し変わりますが人間というのは、笑う術を見失ったとき、老いてゆくのだと思います。だから、心の底から笑える機会を自らに与えることができる人は、まだまだ沢山の可能性を己の内に秘めている素晴らしい人です。心の底から笑いに向かうことのができる人というのは、たぶん、笑えるぶんだけ、いろんな辛いことがあって大粒の涙を流した人だから神様の癒しを受けることができる=光につつまれる機会を得た人。つまり、天国に、愛の都に、一番近い人ということ。そんな気分で次の映像を見てくれたなら嬉しく思います。チャップリンの代表作映画のワンシーンです。Charlie Chaplin - City Lightsでは、また次回の日記で逢いましょう。
2011.11.27
二年前の今頃、自分は失意のどん底にいました。私生活で、そして仕事においても、軋むような重圧のさなかで身も心も削られるような痛さに耐え切れなく、もうそれこそ限界だと感じていた時のこと。逃げ出すように仕事を早めに抜け出し、最寄の図書館へ入り込みました。今の自分が置かれた状況からなんとか抜け出す術を、知恵を与えてくれる書物に巡り会えないかとの、藁をもすがる、そんな切なる想いから、図書館へ半ば逃げ込むように入ったのです。気になる本のタイトルを見つけては片っ端から頁をめくりました。何冊も、何十冊も、沢山の本を目で追いました。しかし、なぜか、どの本にも心ここにあらずといったふうに、心が溶け込んでいかないのです。文字が読めているのに、自分の心に共振してこない、言葉が心に入ってこないのです。(これは困った・・・・・一体どうすればいいんだ)自分の心が、あたかも、永久に暗い雨雲から抜け出す術を断ち切られたかのような失意で、その場に座り込みそうになったときのことです。ある一冊の本が視界に入りました。それは、「多生の縁」という本でした。 『多生の縁』http://item.rakuten.co.jp/book/1655748/この話は以前、ブログ日記に書いたので詳細は再度記しません。とにかく上記した「多生の縁」という本における出会いが、自分と鈴木秀子さんという希有なる素晴らしい人物との出会いのはじまりとなったのです。それは、失意の底で打ちひしがれていた自分に訪れた、その後の人生を大きく変えることになる最大の変化、眩しいほど善き変化であり、美しい光そして究極の叡智そのものでした。これまで自分の人生の中、劇的といえる重要な出会いの季節が、二度、訪れました。ひとつは20代の前半に、ミースやコルビュジェに代表される建築家群に魅了されたこと。そこから始まった、それまで自分が知らなかった大きな世界とのつながり。そして、もうひとつの重要な変節として訪れた出会いが、30代の終わり頃だったか40代のはじめ頃に訪れた、鈴木秀子さんの著書との出会いでした。もし、あの時、鈴木秀子さんの本と出会わなかったなら、その後の自分はいったいどうなっていただろう?・・・・・想像すると怖くなります。あの当時、自分はまさに精神の岸壁に立っていた。いつ暗い海の中に沈んでいってもおかしくはなかったのですから、善き変化を自分に齎す何かがなかったとすれば本当その後に続くものは一切なかったかもしれないといっても過言ではないのです。図書館で一冊の本に巡りあったおかげで、後になって考えてみても不思議なほど、というより、信じられないくらい、自分の人生は好転したのでした。以前、こんな話を何かの本で読んだことがあります。うろ覚えなのですが、だいたいこんな話だったと思います。以下に紹介しましょう。何百年か前のアメリカ、黒人の方たちが差別に苦しんでいた時代。とあるひとりの黒人青年が白人の老夫婦を人質に老夫婦の住居に立てこもりました。殺人の容疑で警察から追われる途中で、たまたま入り込んだのが、その老夫婦の家だったのでした。老夫婦を人質に立てもこりながら、その黒人青年は、老夫婦が命乞いをするわけでもなく、かつて殺人をおかしたかもしれない自分の目の前にいる一人の青年に情けをかけ彼の身を案じてくれる姿勢に、次第に心を開いてゆきます。心の中の冷たい氷が解けてゆく感覚の中、黒人青年は老夫婦を解放し、警察に自首します。そして、世間に向かい次のように言いました。「もし今まで、あの老夫婦のような人たちがまわりにいたなら、オレは殺人者になんかならなかった」僕が、鈴木秀子さんという人物のことを思い浮かべる時、必ず同時に心に浮かぶのが、上記した何百年前のアメリカの黒人青年のお話です。もちろん、僕にとって共感の対象は黒人青年です。そして老夫婦の存在と重なり合うのが鈴木秀子さん。現在の日本に必要なもの、そして足りないもの。それは、きっと、鈴木秀子さんのような素晴らしい人物が放つメッセージが、沢山の人々の心に、あたたかな光を運ぶ機会なのではないだろうか。と思います。誇張抜きに、ほんとう、そう思うんですよ。また機会を設けて鈴木秀子さんに関するお話を日記に書くことになるでしょう。これは僕がそう考えるというより、もうなんというか、待ったなしの時代の要請みたいなものに違いないとの確信からそう書いています。さて予断ですが、次のYOUTUBEの映像も見てくれたら、とてもうれしいです。最近、撮影した映像です。では、また次回の日記で逢いましょう。
2011.11.20
毎日しあわせな気分で完璧に心地よく過ごすことができたら、なんて素敵なことだろう。まあそこまでパーフェクトな心の平穏を望むことは到底無理だとしても、できるだけ心を穏やかに、できるだけ幸福感に満ちた時間で自分の日々の生活を彩りたいものだと思う。これは、自分が、そういう願いから程遠い人生を歩んでいるから、時折、そういうふうなことを考えたりすることがあるということ。無理を承知で、こういうことを時折静かに一人、考え込むことがある。この、無理を承知で、というのはすごく重要な点だ。無理を承知で、ということを認識できていながら、そこを敢えて、つい挑まずにはいられない・・・そんな感覚というのは自分でいうのも何だけれど、とても重要なことなのである。今よりもずっと若かった頃の自分、たとえば20代の頃の自分は、生きるということに苦痛を感じている自分を卑下していたものだった。自分が悪い人間だから、自分が未熟で非が多くあるから、自分は生きることに苦しさを感じているに違いない。自分の何かが間違っているから間違ったふうに苦しさに悶えているのだ。そんなふうに思いながら、人生に光を灯す道しるべとなるべく人物との出会いを求めていた。しかし、そうした過程で気がついたことがあった。それは、自分よりも遥かに上質な生き様を貫いている人物たちというのは、みな、常に苦痛と隣り合わせで生きてきた人たちという事実だった。----- 平坦な道に辿り着くために、まるで平坦とは程遠い道のりを彷徨い旅する -----。すごく矛盾に満ちているような気もするが、私たちの人生というのは、そんなふうに出来ている。というか、そんなふうな過程を踏まないと辿り着けない真実の上に、私たちの命の道程が成立していることは確かなのである。まあ、そんなふうに無理を承知で、どだい無理にしか思えない壁に対峙し続けていると、忘れた頃に、かつて無理だったことが、いまではそんなに無理なことではなくなってきている、ということになってゆくことだって多々あるのだ。土砂降りの日々の中であっても、こういったことを肝に銘じ安易に暗い気分に陥らないよう自戒すべき。 話は変わりますが、以下にリンクを貼る幾つかのYOUTUBE映像を見てもらえたら、とても嬉しいです。では、また次回の日記で逢いましょう。 ←クリック
2011.11.15
前回の日記にアクセスが多くあったのが不思議な気もするし、納得できるような気もする。ただ、誤解を招きたくないので記しておきますけど、ああいった非常に偏った映画における世界への眼差し・考察だけが、”この世のすべて” だなんて、僕は一言も日記に書いてないですからね。これ本当。とても大事なことだと思うから強調しておく。「政治の世界は修羅場だ。無垢なままでは血だらけになる」これは、ひと昔前にアメリカの大統領だったケネディが発した言葉。この言葉の中の ”政治” を、僕らの日常の中の ”職場における人間関係の摩擦” だとか ”結婚後十年くらいたった夫婦間の軋轢” だとか色々な場面に置き換えても、そんなに違和感はないだろう。結局、似たりよったりの世界には違いないだろうから。まあとにかく、そんなふうな軋轢や酷さみたいなものは、無垢なまま、知らなくてもそれで正常に生きてゆけるのであればそれでいいんじゃないかなあという程度の代物でありしかしそんな風にキレイにスマートに生きてゆける人など恐らくこの世にただの一人も存在出来る確立はたとえ消費税程度あろうとなかろうとそんなことはあんまり重要ではないだろうと思う知らないよりは知っておいたほうが絶対に良いそれはきっと残酷なあまりにも残酷かもしれないが知っておいてほうが後々に無残なトラブルに自分が身を置くことから遠く離れることが可能となるかもしれぬ確率が高まるといった意味合いにおいて、ショック療法としての意義を無視してはいけないのである。また次回の日記で逢いましょう。
2011.10.27
世界は常に美しすぎて、本来、眩暈がするほど最高の物語と可能性の息吹に溢れている。そのような圧倒的で力強い至福の光の流れがあるというのに、そこに心の瞳が開かれることが稀でしかないのなら、私たちの生活は暗い牢獄に等しいだろう。少なからずの人々の人生が時に悲劇と直結する理由が、ここにある。哀れみと滑稽さに拍車をかけるばかりで、如何なる処方の類いを生み出すこともせず、この地球上に生きてきた人類という生命体は己の種の歴史に愚の上塗りを重ね続けてゆくのは、他でもない、私たち自身の心の視野の狭さと想像力の欠如、そして勇気と知恵の不足それ以外にあるまい。上記したようなエトセトラを確認するために、連休は存在する。大人たちが日々を愚かさにだけ埋没し窒息してしまわないようにと、時に心に新鮮な風を吹き込んであげる必要があるから、連休というものの価値がある・・・それはキラキラとした宝物。ひまわりを眺めながら、理屈抜きに世界はただただ美しいのだということを体感できるのも連休のありがたみ。まさに、オアシス・・・・・心が生き返る、そんな感覚でいっぱいになれる。また次回の日記で逢いましょう
2011.08.15
基礎体温をあたたかく保っていると病気になりにくいという。体を鍛え基礎体力を日々一定に維持することと健康的な生活習慣とは密接なつながりがあるという。それに加え、日々、笑う習慣を己に課していると、これはかなり効果が見込める。何の効果かというと?それは、”福を呼び込む効果” 。それに加え、笑いすぎておなかが痛くなり ”腹筋を鍛える効果” もある。(6月19日に市役所前の大広場で開催されていた祭り「元気発信!ともに前へ 仙台すずめ踊り」の模様)ということで、 2011.06.11に発信した日記内容 に書いた、心と体に栄養を運び、枯れそうな花に水を与えるような要素に、”笑い” を加えたい。最近、特に思う。笑いって物凄く大切なものだ、と。特に大震災後の荒廃とした状況にあっては尚更、砂漠のオアシスのような大切な要素のように思える。というか、笑いがないと、やってられないというのもある。今ハマっているのが、漫才の映像。漫才の映像をYOUTUBEやツタヤのDVDとかで見ながら、笑い転げることに、最高にハマっている。沢山のお笑い芸人がいるけれど、自分にとって特にフェイバリットなお笑い芸人を記すと以下のとおり。アンタッチャブルサンドイッチマンブラックマヨネーズチュートリアルリチャードホールに出演していた芸人さんたちまあ、そんな感じで、2011年も後半に差し掛かったのだけれど、自分にとって大切なものは2010年から何も変わっていないことに今さながら気づいたりもしている。 仕事 温泉 街を散策すること 自然を散策すること 音楽 映画 読書 お笑いざっと挙げてみただけで、自分の生活に花を添えてくれている要素は、こんなにもある。時折ふと人生に虚しさをおぼえたり、腕を組みながら諸行無常などと考えこんでしまうことがあるが、よおく考えてみると、意外と充実しているものだと思えてくるから不思議。足りないものは、 ”恋” くらいのものか?(笑)。また次回の日記で逢いましょう
2011.07.10
何日か前までのこと。数週間に渡り、浜田省吾の「マネー」と「J.boy」ばかり繰り返し聴き続けていた。関連業者の人々、顧客の人々、出会う人出会う人、皆が毎日イライラ不機嫌MAXちっくな震災後の状況を生きている最中、それは自分だって同じことで、そんなふうな荒れた心象風景の中、浜田省吾の「マネー」と「J.boy」ばかり聴き続けていた。「MONEY」 http://www.youtube.com/watch?v=jk_10t24Ys0 ←クリック「J.boy」http://www.youtube.com/watch?v=KTmGFX6N0rQ&feature=related ←クリック浜田省吾 / The History of Shogo Hamada [Since1975]http://item.rakuten.co.jp/cd-abbey/srcl-4950/だけど今日、うまく説明はできないが、美しく穏やかな光が、うっすらと心に差し込んでくる予感を感じた。明日も強く生きてやる、今日よりも、もっと力強く生きてやる。泣いてる暇があったら、心の底から汗をかけ、血を流せ。怒れ、叫べ、愛せ。その先に至福のオアシスが待っている。 また次回の日記で逢いましょう
2011.06.27
高校生の頃、最もよく聴いた歌のひとつがこれ。ヴェルヴット・アンダーグラウンドの「スイート・ジェーン」そして「ロックン・ロール」。Velvet Underground ”Sweet Jane”http://www.youtube.com/watch?v=WgUs7yWnDJ8踊りに行くのが好きな連中もいれば、働かなきゃならない連中もいる”人生なんて無意味なものよ” とうそぶく悪い母親もいる女たちが本当に気絶することはなく、悪党どもは常に目をしばたかせている恥を知っているのは子供達だけ人生はいつか終わるもの心ある者たちも、振り返ってこの悪循環を断ち切ろうとはしない役回りを演じた者も、振り返って嘆こうとともしない(Velvet Underground ”Sweet Jane” 歌詞の一部を抜粋。対訳:kuniTakeuchi)20代の頃、何度も何度も繰り返し聴いた歌が、この歌。ルー・リードの「コニー・アイランド・ベイビー」。Lou Reed ”Coney Island Baby”http://www.youtube.com/watch?v=tPHbbvQEA1E僕は高校に行ってた頃、信じられないだろうが、コーチのためにフットボール選手になりたかった先輩たちは鬼だと言っていたが、僕はコーチが好きだったラインバックには軽すぎると言われたが、右利きだと嘘をついたコーチのためにやりたかったいつか、シャンとしなきゃ倒れて、そして死んでしまうだろう真面目だった僕は、いつも自分に正直だっただから僕はコーチのためにやらなきゃならなかったコーチのためにフットボールをやりたかったんだ真夜中、一人ぼっちの時に、僕はついに魂を売ってしまったことに気づいたそして、自分のやったことについて考え始め、すべてを憎むようになっただが丘の上に住むお姫様は僕の過ちを知りつつ愛してくれたそして今、彼女は輝いている愛の栄光が、愛の栄光が、愛の栄光が僕を包むつまらない友達は裏切って去って行った奴らは僕の背中に向かって吐き捨てた”お前はろくな奴になれないさ”僕は自分のやってきやたことについて再び考え始めた友達のこと自分の行為その他をああそれにしても街は面白いところだまるでサーカスか下水溝のようだけどいろんな奴らが、おかしな生き方をしているそして愛の栄光が、愛の栄光が、愛の栄光が僕を包む僕のコニー・アイランド・ベイビーこの曲をルーとレイチェルと、そして神に捧げよういや、神にこそ”私はすべてをあなたに捧げます”(Lou Reed ”Coney Island Baby”歌詞 対訳:kuniTakeuchi)10代の頃によく聴いた歌。20代に、よく聴き続けた歌。あれから何十年も過ぎた。くたびれるくらい無数に聴いたはずなのに今でも、時折、聴くことが稀にある。時折、聴くことが稀にあるたびに不思議と、この歌の鮮度が増してゆく。凶暴なくらい、危険なくらい、心が張り裂けるくらい。話は変わるが、自分は温泉が好きだ。こんなことを言うと、「あなたは、お爺さんかい??」と聞かれそうな気もするけれど、そういうことじゃない。自分自身の貴重な経験から書くのだが、最良の温泉、最高の源泉というのは、なんでか判らないが、-----人を至上なほどに凶暴にする。-----そして、-----人を、至上の愛に、この世の真実に、近づけさせる。-----だから、自分は最良の温泉が好きなのだ。 そんな風に思えてならない自分にとって、ヴェルヴット・アンダーグラウンドの「スイート・ジェーン」と相思相愛な温泉があるとすれば、それは一体どこの温泉?と訊ねられれば、それは決まっているだろうとしか答えようがない。蔵王温泉。これで、決まり。蔵王温泉を超える温泉があるとすれば、それはたぶん秋田県の玉川温泉以外に望みようがないんじゃないかなあと思う。玉川温泉はまだ行ったことがないので断言はできないのだけれど、玉川に行ったことのある複数の人々に聞いたところ、体感する湯質はだいたい同じだとのこと(正確には数値での酸性度指数は玉川温泉の方が微妙にキツイ)。予断だが日本の温泉で酸性がキツイ温泉の順位でいうと、一位が秋田県の玉川温泉、二位が蔵王温泉。共に東北を代表する温泉地である。東北には、日本が世界に誇る最高最良の温泉地が沢山ある。その全てが、僕の感覚でいえば、最高の音楽の旋律と共振しあうことが可能だ。贅の極みの如しに。最高のロックンロール、最良のクラシック・・・・・その全てとリンクし合う。常に凶暴さと愛が同時に溢れ、その相反する矛盾に満ちた両極のエネルギーの値が裏表に強固に刻み込まれたコインの硬質さと凶暴な混沌そして至上なる愛の極み<命のエネルギーと美そのもの>その輝度を燦燦と讃えている。美しい天使が無数に舞うように、恍惚と危険さの狭間で煌きながら大地を浄化するが如しに、爆発するように沸き続ける。”凶暴な純愛”あれは確か映画「レオン」のコピーとして使われた言葉。東日本大震災の悲劇から何とか立ち上がって来た僕ら、多くの日本人。今こそ、凶暴すぎるほどの純愛と結束を貫き、この八方塞がりの悪循環を突破する術を見出し、その一点に向かって疾走してほしいものだと思う。少なくとも、自分はやる、そのように生きてやる。また次回の日記で逢いましょう
2011.06.26
週末になり仕事で疲れきってくると、次第に心が枯れかけた花みたいにしおれてくる。そんな自分にとって、花に水を与えるように、心にとっての栄養材となるものがいくつかある。代表的なものを三つに絞り以下に列挙してみよう。 良い温泉へ出かけること 良い表現に出会い感動すること 休日に街を散策し良い刺激を受けること上に挙げた事柄に共通するのは、「良い」ということ。これはとても大事なことだ。では、「良い」というのは一体どういうことを指していうのだろう?簡単に説明すると、こうなる。-----バランスが取れている状態を保っている-----。つまり、バランスが取れている状態を保っていることで己にも他者にも豊かなエネルギーを注ぎ続ける、そんな光のベクトルが感じられることを、僕なりに「良い」ものと呼ぶことにしている。 具体的な例を挙げて上に列挙したそれぞれの事柄を少し深く説明してみたい。 良い温泉とは具体的に、どんな温泉か?。塩素殺菌や循環ろ過装置を用いていない湯を提供していて、大自然の只中にある、なるべくこじんまりとした質素な温泉(温泉宿)のこと。蔵王温泉昔ながらの ”湯治” から逸脱することのない温泉文化を現在においてもなお大事に守っている温泉を指して、且つ、大自然の懐に大らかに抱かれる環境に身を置くことができる温泉を ”良い温泉” とここでは呼ぶことにする。蔵王温泉 足湯 次に良い表現ということで、それは一体なんのことか?というと、本当は ”良い芸術” と記したかったのだが、そういうのも大仰しい気がしたので、敢えて ”表現” と説明することにした。なんのことはない、音楽や文学や映画やエトセトラetcなどに範疇されるようなものの総称を、まあ一応、表現とまとめることにしたわけだ。なぜなら、たとえばイタリアの名匠パゾリーニが撮った名作映画「乞食」は芸術だろうか?と自問した場合、敢えて、あれは、しかめっ面下げて「もちろん芸術だね」なんて呼びたくはない自分がいたりする一方、しかしあの映画は駄作でもなんでもなく、多くの人々の心に強い衝撃を与える凶暴な拳みたいなエネルギーに満ちていて同時に深い哲学によって支えられていることは明白で、そういう作品がもし仮に芸術でなかったとしても偉大な”表現”であることには疑いの余地はないという意味合いで、かなり曖昧な位置づけとなるかもしれないのだけれど、一応、表現と記してみた次第。具体的な作品、具体的な作家の名を挙げると、たとえば音楽でいえばクラシックや良質なポップス、映画でいえばチャップリンやフェリーニが撮った作品、文学なら鈴木秀子さん・・・・・適切かどうかは個人的な好みで書いているのでご了承願いたいが、まあそんなところであろう。 http://item.rakuten.co.jp/joshin-cddvd/4988002530984/『ZOO』 川村かおりhttp://www.youtube.com/watch?v=FIf96Ur4TKA ←クリックhttp://item.rakuten.co.jp/book/5694353/ 休日に街を散策することで齎される心の栄養も計り知れない。本当、いろんな人々がいる。いろんな人々がそれぞれの生き方で面白おかしく、そして時に真剣に生きている。街には喜怒哀楽のすべてがあるといって過言ではない。喜怒哀楽のすべてをつつみこみ、そこで生きる人間たちのドラマとそこから照らし出される何らかの真実みたいなものが浮き彫りになる。そんな場所だからこそ、生まれる良質なエネルギーは時に宝石以上の輝きを放ち、あたかもオアシスそのものな光が大きな感動を人の心に運び勇気を与えるのである。街を散策することから齎される良いエネルギーとは、そういうこと。 日記の冒頭に話を戻そう。-----枯れかけている花みたいになってしまっている心に、水を与える-----、そんな栄養材、もしくは、燦燦と輝く太陽の光のようなエネルギーを注ぐものとは一体どのようなものであろうか?と考えた場合、おのずと上に延々としるしたような事柄に行き着くのではないだろうかということ。つまり清涼飲料水、砂漠の木陰に浮かんだ水たまり・・・きっと、そういうオアシスみたいなものたちが、週末に近づくといつだって決まって枯れた花のようにしおれてくる自分の心を生き返らせてくれているのだと思う。こういう話は自分にとって、とても重要な話なので、また機会を改めて詳しく書いてみたい。もしかしたら自分だけじゃなく、このブログを訪問してくれている他の誰かさんたちにとっても意味深い話になるかもしれない・・・ような気がしないこともないから。自分が好きなことを日記に書くことって、もうそれだけで少し楽しいし、心が生き返ってくるというか、美しい光で少しずつ心を満たしてゆく感覚になれる。 また次回の日記で逢いましょう
2011.06.11
ブログという媒体を通じ、こうして日々、文章を発信していると、どうしても必要となってくることがある。それは目的と自戒とすべき事柄を定め、そこから離れないという基本姿勢に己がきちんと立脚できているかという確認作業。すごく大事なこと。大事なことだからゆえに、これは、すごく難しい作業であるといえる。簡単なことじゃない。話を変え。今年はじめの日記で僕は次のように文章を綴っていた。グレイの太文字で以下に再掲載しよう。----------------------------------------------“安心” そして “成長” 。2011年における、これが重要なキーワード。多忙さに埋没し心身共に摩耗を重ねダメージを蓄積してゆくのではなく、安らいだ心を指針としながら確かに一歩一歩着実に成長を重ね上昇してゆく力強さを常に秘めて心豊かに前へ進んでゆく・・・・・つまり、そういう想いを込め「安心」と「成長」のふたつを最優先キーワードとしてここに刻むことにする。----------------------------------------------翻って現在。あれから約半年が過ぎた。どうだろう、上記したような事柄を自分はきちんと達成することができているか?。ぜんぜんダメ・・・・・数ヶ月前に自分で書いた事柄をまるで守れていないことに、ふと気づいたりする。“成長”はできていることは確かだとは思うが、“安心”からは程遠いし、仕事を通じ身も心も磨耗に磨耗を重ねているとしか思えない現在の状況は狂気の沙汰(日本社会全般がそうであることは間違いない気もするが)であり、こんなことをしていたら近い将来に福島の原発同様メルトダウンを起こすことは必至であろう。実に、ばかげている。こういったことに気づかされるのも、ブログ日記の効用の重要なひとつなのだとの想いに至る。反省。さて、これからどうする?。そういうことで自身の生活における改善点を見つめ直す機会へ再び立ち戻ることになる。いっけん後退しているような気もするが、実際はそんなことはない。これも重要な、己に進歩を齎す機会であることは間違いないし、こういった機会を失敗と捉え必要以上に自分を卑下する必要など全くないし、そんなことには意味もない。ふたたび、自らに問い直す。これから、どうする?。いろんな課題が、おぼろげながら見えてくる。が、これは実に難しい。難しいけれど、トライする価値は途方もなく大きい。というか勇気を持ってトライしないと、未来へ向かう列車に乗る切符を手に入れることが出来ないのだから、やるしかない。日記を書くことと、自身の心の中心に夢や理想を想い描きそれに近づこうとしながら前進する日々の中で喜んだり葛藤に苦しんだりを繰り返したりすることって、殆ど同義語扱いだ。何のために日記を書いていますか?と自他に問うことと、何のために自分は生きているのか?と自省することの間には、そんなに差はないのである。この歳になって、そういったことがなんとなく見えてきたことはありがたいことだと思う。さんざんこれまで無数に自問自答を重ねてきたことの意味がようやく芽生えてきた・・・少し報われた気がする、そんな感覚。とはいえ、明日以降、自分がいま内に抱える問題の全てから開放され、燦燦と輝く薔薇色の未来が保障される確立は消費税を示すパーセンテージの値よりも遥かに低いことは確かだろう。というか、ゼロ・パーセントだろう。というより、そんなことを夢想すること自体が間違っている。人はよく、愛とは無償のものだという。愛とは見返りを求めない行為の中にある、と。うまいことをいうもんだと思う。だいたい、報酬にばかり気を取られる者に仕事の機会というのは、なかなか運ばれてきやしないものだ。そういえば異国の古い格言に、こんな言葉がある。「女と列車は追うな。それは忘れた頃にやってくる」何事も、本当に大事なものは、みな、そういうふうに出来ているのかしれない。大抵の大事なものは、見返りへの執着から遠く離れ、自己を見失う愚かさからも離れ、強い自分を育むことと世界が求めることが正しく共振した頃を絶妙に見計らい、あたかも自然なことのように運ばれてくるのだから。また次回の日記で逢いましょう
2011.06.05
花は美しい。それを見つめる瞳に安らぎと潤いを与えてくれる。無垢なまま、なんの見返りを要求することもなく、ただ静かに光の中で微笑んでいる。桜の花が咲き始めた頃から、ようやく心が落ちついてきた。冬の終わりにあんなにも悲惨なことがあったのに、地球上に生きる全ての命の源であるはずの海が暗く重い巨大な波の姿を身にまとい、それはまるで死神を連れてきたかのような勢いで大地を破壊尽くしたのに、今はただ、今だけはただ、何事もなかったかのように無垢なまま、静かに美しく桜の花は咲き、それを見つめる僕らの心に安らぎを届けてくれている。震災を境に、いろんなことがあった。いろんなことがありすぎて、たった二ヶ月くらいの歳月なのに二十年分くらいのエネルギーを消耗したような気がする。加えて、不思議なことが多々起こり、様々なことを考え込まざるを得ない状況の中で、短期間のうちに大きな成長を強いられたような気もする。大地震が起きる数日前、何の因果か大きな懐中電灯を購入したのだが、購入した直後にどうしてこんなものに支出をしてしまったのか反省した経緯があった。使うような気がすると思ったのに使う機会がなかったからである。しかし、これが震災後に非常に重宝することとなったのだから不思議だ。母の身に起きたエピソードも実に興味深い。大地震が起こる数時間前、唐突に小型ラジオを購入しようと思い立ったらしい。たいした理由もないまま電気店で購入したラジオから発信されてくる情報に、震災後の数週間、とても助けられたという。ブログを通じて世間に訴えたいことは沢山ある、それはもう半端じゃなく沢山ある。しかし、そうした想いと自分の心の中で何度も対峙すればするほどに、己の肉体がえぐられる、内臓が削られる、そんな感覚になる。だからそんな理由で二ヶ月近く自分のブログを放置してきたのだけれども、この先もどうなるかは未知数といわざるを得ない。それほど強く感情を揺さぶられる日々ということ。震災後に目にした数々の報道の中で他の追随を許さぬほど最も強い共振・振動をもって自分の心臓に訴えかけたのが、福島出身の俳優である西田敏行さんによる悲痛な怒りの声明だった。「美しい福島を汚したのは誰だ! 誰が福島をこんなにしたんだ! 本当に本当に腹が立つ。福島はどんなことがあっても負けねぇぞ!」いつだって強く在らねばならないのが、大人というものだ。東北人は、強い。ちょっとやそっとじゃ負けやしない。放射能ごときで逃げまわってられるか。また次回の日記で逢いましょう
2011.05.03
パレストリーナ昨年12月後半、ある異国の古い時代の音楽家が作った声楽曲ばかり繰り返し聴いていた。その音楽家の名は、 パレストリーナ 。例年、年末年始になると僕はパレストリーナをはじめとして様々なクラシックの名曲に耳を傾け心を鎮めることを常としてきたが、昨年末は少しばかり、というより尋常ではないほどに例外の様相を呈した。どういうことかというと?パレストリーナばかりを繰り返し繰り返し聴き続けたのである。こんなことは、今までかつてなかったことだった。パレストリーナの音楽という、史上稀に見る美しい旋律に絶えず包み込まれていたのであれば、それはとてもとても安堵感に満ちた至福の時間を沢山過ごしていたのだな?と想像される方面いるかもしれない。しかし、事態は全くの逆だった。仕事が多忙を極め、体に蓄積したダメージはまさに臨界点に達し、しかしギリギリのところで何とか踏ん張っている、かなり刹那な状況だったといえる。そんな刹那な状況の中で僕を守ってくれていたのは、パレストリーナの音楽だった。ギリギリのところで僕を守ってくれただけでなく、2011年につながる虹の架け橋のような、そんな大きな何かをも示してくれたといえる。大袈裟でもなんでもなく、そういうことなのである。分かる人には、分かるはずだ。次にリンクを貼る声楽曲は、パレストリーナの曲の中で最も好きな曲。途方もなく美しい曲、おそらく人類が到達した最上の美・旋律、こんなにも透き通るような至福の美しさを表現できた名曲っていうのは昔も今もきっと未来においても他に存在し得ないのではないだろうかとさえ思う。それほどに、言葉をなくすほど、天国そのもののような美しさの極みを奏でる奇跡の旋律、時空を超えて響き渡る永遠の名曲。Giovanni Pierluigi da Palestrina 「Missa Papae Marcelli 'Kyrie'」 http://www.youtube.com/watch?v=IIcrgNtyX0U↑クリックするとYoutubeサイトでこの曲が聴けます。もし気に入った方がいましたら是非、楽天市場でパレストリーナの音楽を収録したCDを購入しましょう。http://item.rakuten.co.jp/cdeasy/5028421997117/本年の抱負 “安心” そして “成長” 。2011年における、これが重要なキーワード。多忙さに埋没し心身共に摩耗を重ねダメージを蓄積してゆくのではなく、安らいだ心を指針としながら確かに一歩一歩着実に成長を重ね上昇してゆく力強さを常に秘めて心豊かに前へ進んでゆく・・・・・つまり、そういう想いを込め「安心」と「成長」のふたつを最優先キーワードとしてここに刻むことにする。加えて以下の徒然も大切だ。安心そして確かな成長を至上優先事項とし、それを補足するように幾つかのイメージの断片を素描の如く文章化してみると以下のようになる。---白金色に煌く美しい光の戯れを守り守られる------奇跡そのものの色彩=瑠璃色の光の渦・流れ・ベクトルと共に進む------永遠の一瞬に宿る光を彫刻するが如く、いま自分が確かに生きているということを喜びと誇りの大きな共鳴の内にあること、これを自己と社会とのつながりの証とする---更に今一歩、イメージを膨らませてみたい。--- 超合金で組成された煌やかな誰も見たことのない機械があると仮定して、そうした究極の機械を構成する緻密で、且つ、強固な意志・精神・計画に裏打ちされた豊潤なる無数の因素の束に導かれ力強く前に進む。鋼のような大胆さと絹のようななめらかさの両方を兼ね備え、混沌が織り成す相反するエネルギーの集積をひとつの命として生きる者の自覚を内に秘め、“安らいだ心”を航海の羅針盤として常に目前に掲げ、より豊かで素晴らしい、果てしのない美しさに彩られた旅を更新しつづけてゆく --とまあ上手く言葉にならないが、こうしたイメージを延々と湧き起こすことのエトセトラは自分にとって決して無駄でないばかりか、およそ適切であると捉えている。以上、稚拙ながらも2011年のはじまりに湧き上がった抱負を連ねてみた。初夢 2011年の幕開けに見た初夢は、仕事の夢だった。今日の日記の締めとして、次のようにまとめたい。本年の抱負として上に長い文章で紡いだ想いを、僕は仕事を通じて一歩一歩実践しようと試むことになるだろう、と。仕事を通じてと記したが、勿論、そればかりでない。あくまで仕事を中心としながら、自分自身の人生をさらに愛に溢れ実り豊かなものへ上昇させてゆきたく願う、いや、そうした最高に素晴らしい一年にすると、願うのではなく、魂の中心で “誓う” ・・・そう、そのように今自分は己に向い宣誓した。世界的な大不況、多くのものを覆すことになるかもしれぬ地球規模での大転換期に伴なう激しい動乱の序章と化すかもしれない2011年という一年を逞しく生き抜く術がそこにあるとの確信が自分にはある。と、ここまで書いてきて、なんとなく思うことがある。なんだか格好いいことばかりこうして日記に書いてきたような気がするが本当のところはどうなんだ?と思うのである。「力強いことばかり書いてるが、実際のところ今の君には一切の不安がないのか?」と誰かから問い詰められたら、僕は素直にこう答えるだろう。「バカを言いなさんな、不安だらけだよ」と。そういうことなのである。無事に新年を迎えたからといって、昨年に見舞われたトラブルがすべて帳消しになったり、体のあちこちに蓄積されたダメージの全てが一瞬にして薔薇色に素敵にリセットされるなんてわけがないのである。年が変われば全てが音もなくリセットされるなんてことは、ない。ドラマティックな再生への期待や夢は虚しく足元からすくわれ、淡い妄想はことごとく空を切る。時が2010年から2011年に移ろうとも、そんなことにはおかまいなしに昨年自ら被ったダメージは今も尚重い軋轢を身体のあちこちに刻み続けていることは誤魔化しのきかない事実なのだから。少子高齢化が進む現代日本。僕もあなたも、誰も彼もが皆、不安を抱え、なんらかのダメージやトラブルに見舞われている。昨年の暗いムードを払拭できぬまま。ならば、どうすればいい?。新たにスタートを切った旅の航海は始まったばかりだというのに、確かな地図が手元にはない。しかし、旅というのは実は本来そういものだ。不安を伴わない旅や航海などあるわけがないし、たとえ、そうした旅があったとして、後で振り返ってみてそれが果たして濃厚なものだったと胸を張っていえるか否かと問われれば間違いなくそれは記憶に残らないものとして一切の価値を与えられないように思う。2011年・・・航海ははじまったばかり。覚悟をきめて挑むしかない。そんな風に覚悟を決めて前に進んでいれば不思議と道は開かれ、勇気だって生まれてくるというものだ。嘆く要素など、ひとつもない。ということで挨拶が遅くなりましたが、謹賀新年!。今日の日記を、日々このブログに訪問してくれる全ての方々へ感謝をこめて贈る年賀に代えさせて頂きたく思う次第。どうぞ本年も宜しくお願い致します。また次回の日記で逢いましょう
2011.01.03
この2年間、仕事や諸々の事柄を通じ体の髄にまで蓄積したダメージは計り知れなかった。朝から晩までノンストップで働き続けることなどザラだった。何を信じて良いのやら皆目掴めないまま、誰ひとり信じられず、また自分自身さえ信じることも出来ず、ただひたすらエンジン全開でひた走った。体を壊し、骨折もした。心は軋み、絶えず悲鳴を上げていた。真の “癒し” とは、世界と自己との正しい関係性を取り戻すということに他ならない。そうした意味において、僕は癒しを求めていた。心の底から助けを求めていた。2年もかかった。いや、20年もかかったというべきか。2010年の暮れ、12月のはじまりに、今、ようやく長く続いた暗く重いトンネルの先にうっすらと光が見えてきた気がしている。長い歳月だった。究極の覚醒は、虹の色彩や天空からさしこむ眩い光、時に音楽や映画や小説その他様々な諸芸術に込められた燦々としたエネルギーを身に纏いながら、次なる舞台を求める人の精神に天使の絹連れの音色を伴い、本当にそれを望む者の身と心に眩い触発を起こし未来へ連れ去ってしまう。その目的は人がこの世に生まれたことの目的と本質的な部分において正確に合到している。すべては、僕やあなたが日々、美しい光と相思相愛な関係性を育みながら、時に諸々のダメージを被ることがあっても天空から射しこむ奇跡の如き光の治癒に貫かれ(つまり覚醒)、再び永遠の流れと一体になれるように願う宇宙の意思の反映である。ゆえに僕らは、己の人生を歓喜の色彩で染めることを義務付けられているといって過言ではない。なぜなら、僕ら一人ひとりが己の生を虹のような美しい色彩で彩ることが、この世界全体を美しい光で彩ることとイコールで結ばれているからだ。-----歓喜そのものになるということ-----。これこそが、あなたや僕のみならず全ての生命体に与えられた最上の使命といえるだろう。皆、そのために、この世に生まれてきた。そのことを思い出す時、人々の心に崇高で美しい光が宿る。微笑みと共に、究極の愛の光につつまれる。今日の日記を、くだらないゴシップの洪水にまみれた現代ジャポン、そして戦争・自殺・他殺、ノイローゼ、愛の可能性を探るよりも殺傷に救いを求める多くの愚かな世界中の現代人に捧げたい。そして同時に、長き歳月にわたり仕事や様々無数の事柄によって体内に蓄積した軋轢のダメージに苦しみ病んでいた僕自身の魂を光で癒すべく願いを込め、こうして文章を紡いでいる。宜しければ、次の曲を聴いてほしい。ここ数日間、この曲を聴き続けていた、いや、ここ20年ほどの長き歳月に渡り聴き続けてきた曲。今夜の日記のBGM・・・これは究極ともいえる崇高な光に溢れた人類の至宝のひとつ。----- 「Miserere」 Gregorio Allegri -----http://www.youtube.com/watch?v=g50eV39uqqg&feature=related ←クリックするとyoutubeサイトにてこの曲が聴けます。http://item.rakuten.co.jp/hmvjapan/1388395/さらに次の至高の名曲も是非、聴いてくれたなら嬉しく思う次第。この曲を通じ、あなたの心と体のすべてが、美しい光で満たされたなら幸いです。『アメイジング・グレイス』http://www.youtube.com/watch?v=PTXwULXb5gU ←クリックするとyoutubeサイトにてこの曲が聴けます。http://item.rakuten.co.jp/ebest-dvd/0000000517008/愛だけが、僕らの人生に最良の光という名の美しい花を咲かせることが出来る。僕らの人生に蓄積する日々の重いダメージを払拭出来るのは、世界と自分とをつなぎとめる大いなる光との信頼関係を、宇宙に流れる永遠の生命・あたたかな愛の光を通じて取り戻すことだけ。愛の光以上の究極の治癒など、この世界には存在しないのです。では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.12.05
一日、一日が、大きなドラマ。とても濃密な、奇跡の一端を紡ぐドラマの連続。それは疲れの集積であり、同時に、嬉しいことや喜ばしいドラマとめぐり合える密度が増すことの輝きの集積ともいえる。苦しいことから目を背けず、いや、苦しいからこそ美しくエネルギッシュであろうと心がける時間が多ければ多いほど、不思議と矛盾するようですが、心の中は栄養いっぱいになってゆく感覚で満たされてゆく。どういうわけか、人間に与えられた、この世を生きるということの実像は、そういうふうにできている。詳しいことは僕には正確に分からないが、この世界というのは、そんなふうな真実に貫かれていると考えて間違いないように思います。 話は変わりますが、あなたは虹は好きですか?。僕は、虹がとても好きです。大きな空に架かる虹を見て感動したことって誰にでもあるでしょう。七色に淡く煌めいた魔法のような色彩が大空に描くアーチに胸が焦がれるように、恋するように、感動した体験って、きっと誰にでもあるhず。では、そうした究極ともいえる美しい魔法のような風景に向かって、ひたすら近づこうとしながら、大空に浮かんだ蜃気楼の如き虹の淡い色彩を追いかけたことのある人はどれだけいるでしょう?。そういう経験のある人がいるなら、僕はこう質問してみたい。「虹をつかめましたか?」あるいは「虹の中に入り込めましたか?」「虹と一体になれましたか?」。なぜ、そんな質問を投げかけたくなるのか。答えはいたってシンプル。僕自身、そういうふうに虹を追いかけた幾千の記憶の中から、一度たりとも、上記したような虹をつかんだり虹と一体になったりできたような体験ってないからです。もし、そんなふうなことが可能であるなら、もし、そんな風なことを体験した人がいるのならば、一体それはどのような素晴らしい体験、どんなふうに奇跡のように神々しく美しい光景だったのかを、伝えてほしい、熱く語ってほしいからです。さて、僕はかつて虹を追いかけつづけた幾千もの時の中で、己が内に抱いた願いをパーフェクトに満たす経験のひとつも知ることが出来ませんでしたが、しかし、それでも、上記したイメージに沿うような感覚に等しいかもしれないと思わずにいられない美しい存在群を沢山知っています。それらは、あたかも、虹の色彩、究極の美しい光の輝きのようなもの。いや、美しい光そのものといえるかもしれないし、虹の色彩のような美しい存在、美しい生き方そのものといえるかもしれない。では、虹の色彩のように美しい存在とは一体どのようなものなのか?。それは時に音楽の旋律を帯び、時に名作映画に刻まれた人生の一瞬のドラマとして展開し、時に絵画や詩そして小説だったり無数に色々な様相でもって僕らに大いなる究極の物語の息吹を熱く語りかけてくる。奇跡、完璧な美、七色に響き渡る神々しい虹の色彩・・・そんなふうな形容でもってしか説明不能な煌めく光の粒子の洪水が織り成すこの世の真実が宿った命のベクトルそのもの。僕はそのように捉えている。そして、そのような表現媒体、芸術作品を沢山知っている。それはあたかも、奇跡の如き虹の色彩で地上を美しく七色に照らすかのような神聖な光。自分が考える究極の愛、究極の芸術、究極の高次元エネルギーというのは、そういうものです。この世を、この宇宙を奇跡の光で満たす究極のエネルギーというものがあるのなら(ある)、それは必ず、虹の色彩を纏った美しい光の流れそのものに違いないとの確信が僕にはあるのですよ。力強く言いたい。上述した事柄はきっとすべて永遠とつながり触れ得る真実であると。 ということで、上に挙げた事柄に相応しい幾つかの作品を、様々なジャンルごとに挙げてみたいというのが今回の日記シリーズの試みであり、また、そうした試みを通じて、よりハッキリ鮮明に見えてくるであろう何か得体の知れない更なる究極の美へのいざないの予感があたかも風が吹いてくるみたいに運ばれてくることを願いつつ、今回に選んだジャンル=テーマが「音楽」。ひとくちに音楽といっても様々なジャンルがある。そうしたジャンル別けに大きな意味が内在しているとは思えないが今回の日記では ”POPS”というジャンルに焦点を絞って音楽に向き合ってみた。以下に、10曲挙げるのが ”現在2010年後半” において、自分自身が「これが究極の音楽!これこそ究極のエネルギーの結晶!!」と強い確信を持って世界に響かせアナウンスしたい音楽作品群である。「Heaven Is a Place on Earth」 Belinda Carlisle http://www.youtube.com/watch?v=9LwoSxc_J4Y ←クリックhttp://item.rakuten.co.jp/hmvjapan/612044/「The Sun Always Shines on TV」 a-hahttp://www.youtube.com/watch?v=X4XgxaIwH10 ←クリック「First of May 若葉の頃」 The Bee Gees(映画『小さな恋のメロディ』の挿入歌)http://www.youtube.com/watch?v=1gewTWM6fH0 ←クリック「La Vie En Rose バラ色の人生」 NADEGE http://www.youtube.com/watch?v=G0xZTJvehvw ←クリック「Voyage Voyage」 Desireless http://www.youtube.com/watch?v=AoDx_mGfFyQ ←クリック「Dancing Queen」 ABBAhttp://www.youtube.com/watch?v=XaQpbL5arLA ←クリック「Always on my mind」 Pet Shop Boyshttp://www.youtube.com/watch?v=zl36FY3N4VQ ←クリック「胸いっぱいの愛」 The Bangles http://www.youtube.com/watch?v=3oIYBHkU-yQ ←クリック「明日に架ける橋」 http://www.youtube.com/watch?v=H_a46WJ1viA&feature=related ←クリック「てぃんさぐぬ花」 沖縄民謡http://www.youtube.com/watch?v=2YkN2TIdsoM ←クリック では、また次回の日記で逢いましょう
2010.11.16
昨年末、僕は体を壊し失意の中にいた。普通に歩けないほどの酷い腰の痛みで仕事に支障をきたし困っていたところ、徐々に歩くことに支障をきたすどころの話ではなく、朝に目を覚ましても布団から起き上がれないくらい腰の痛みがエスカレートしていったからだった。いやあ、困った。これから一体どうすればいいんだ?仕事が出来ないじゃないか・・・・・。そんな風に失意の中にいたのだった。しかし、今思うと、あの時に自分が陥った失意の境地というのは、あたかも自分が真っ暗闇の中を光を見失い彷徨っているような感覚だったけれど、実はそんなことはなく、僕にとても大事な未来へと目を開かせてくれていたのだということが分かる。今なら分かる。勿論、そんなことはあの頃の僕には到底想いも及ばないことであったが。体を壊したこと、これには当然のことながら、確固なる原因があった。それを知るために、自分自身、あらゆる沢山の、この世を豊かに生きるために必要な当たり前のことを学ぶ必要があったといえる。本当に大事なことを、それまでの自分が知らなかったから、偶然ではなく当然の如く必然として、体が壊れていったのである。上記したような ”大事なこと” を知るために大病の一歩手前で何とか踏みとどまりつつ、僕は天から執行猶予を与えられた。つまり、----- 悪い生活習慣を改善し、己の心の中の悪い部分を改善し、体質をも根底から改善させ、美しい生命体として生きる可能性に目が開かれるために必要な様々な気付きと知恵に至るまでの時間を君に与えるから、自分自身で本当に大事な何かを探りなさい -----そんな天からのメッセージを受けてか受けずしてか定かではないが、まあそんな感じで何とか命をつなぎとめることが出来たのであった。まさに、人生万事塞翁が馬。最悪の災難が我が身に降りかかったと当時の僕は思い込み失意の只中にいたわけだけども、いま振り返れば、実際は、そうではなかったわけだ。あの失意の日々がなければ、恐らく僕は今でも鈴木秀子さんという素晴らしい作家の本に巡りあうことはなかっただろうし、免疫三銃士と呼ばれる偉大な人々(安保徹さん、石原結實さん、福田稔さん)の本に出会い巨大な感銘を受け我を忘れるほど読み耽ることもなかったであろう、また、温泉という日本が世界に誇る素晴らしい文化と出会うこともなかったはずだ。また、ドラッカーの本を書店で手にしても「なんか難しい内容の本だね」で終わっていただろうし、そして、10日ほど前たまたま手にした奇跡のように素晴らしい本『すべては宇宙の采配』(木村秋則さん著)を読み解き理解することも出来なかったであろうことは確かであろう。すべては必然のもとに進行している命のドラマといえる。なぜ、必然のもとなのか?それは僕が、自分がこの世に生を受けたことの意味を問い続け、何度も何度も無数に天を仰ぎながら真実を教えてほしいと願い続け、そんなふうにバカっぽい己の人生を生きてきたエネルギーの集積に対し天がちょっとばかし救いの手を差し伸べてくれて僕に光のベクトルが宿してくれたからだともいえる・・・・・かもしれない。まあ詳しいことは、いまだ僕にはチンプンカンプンだけど。とにかく、四十を過ぎて、ようやく心の平穏というものが、すこやかに生きるということが我々に齎す至上の美というものが一体どういうものなのか、それがなぜに人にとってとてつもなく大切なものなのかを、知ることが出来たのだといえます。そして、究極の愛という命題と向き合い続けてきたことで、ようやく崇高で眩いばかりの美しい光が、少しだけ見えてきたといえます。http://item.rakuten.co.jp/surprise-web/aznnsds-11503/↑上にリンクを貼ったDVD、凄いです。数週間前に図書館で目にし何の気なしに借りてみただけの映像資料だったのだけれど、鑑賞しながら、まさに口あんぐり!なにこれ!!すごすぎる!!!と唐突に驚愕したのでした。そういう経緯があって木村さんの本『すべては宇宙の采配』を手にすることになったわけです。東北では木村さんはまさにヒーローの如き存在で超人気者なのだけれど、ああなるほど、こんなにも素晴らしい人物であればこれは当然だと納得。http://item.rakuten.co.jp/book/6115366/なんて感じで半ば笑いを交えつつ今夜も文章を紡いできましたが、この一年を振り返れば、今こうして微笑んでいられることが、実に奇跡のように思えて仕方がないことも事実なんですよ。こんな愚かでアホな、ちっぽけな存在でしかない僕を、この地球上に生かしてくれている存在がどこかにいるという事実に感謝。何度も何度も自暴自棄に陥ったものだったけれど、こんな僕でも救う神はいるのです。いて、くれるのです。まったくもって涙が出てくるぜてなもんです。感謝しかありません。否、深謝です。こんな僕だから、これからも色々あることでしょう。だけど、これまで以上に愚直に、懲りもせず泣いたり笑ったりを延々と繰り返すかもしれませんが、こんなバカで哀れで弱い自分でも、美しいものは美しいと素直に声高に言えるような、そんな風に健やかに崇高な光と共にこれからも在れれば幸いだと願います。 2010.10.15さて、上記した文章、これは実は数日前にパソコン内のワードソフトで書いたものである。書いた直後、いざブログ日記として発信しようとしたその瞬間、なぜかパソコンがいうことをきかない・・・つまりフリーズしたり制御不能と化したりして、何度もトライしたにもかかわらずダメで諦めた経緯があった、そんな文章なんです。あたかも、「今じゃない、もう少し待て・・・」、そんなふうな声なき声に諭されるようにして発信を中止せざるをえなかった文章。あれから幾日が過ぎ、現在の僕は新たなエネルギー、想念の光に辿り着くことが出来た。真剣に考え、真摯に天を仰ぎながら考え抜いた後、ふと思考を手放し何もなかったようにして宇宙から美しく透きとおった光を受け取り少しだけ祝福されることが出来た。少しだけなのだけれど。たとえ、少しだけにすぎないとしても、嬉しいのです。ああ、そういうことだったのか・・・・・そう、微笑みの中で光から少しだけ祝福されているような至福の感覚につつまれるから、嬉しいのです。それはそうと。このあいだ図書館で読んだ鈴木秀子さんの本の中に、こんな言葉が紹介されていました。手が不自由な画家が口に筆を加えながら素晴らしい絵を描いた・・・その画家の展覧会で、彼の書いた詩が沢山の人々の心を打ったという箇所で記されていた言葉です。-----蕾というのは、苦という言葉ととても似ている-----記憶違いでなければ、おおよそ、そんな意味合いの言葉でした。 その箇所を読みながら涙が溢れたんです。そうか、自分がこの世を生きていることの苦しさも、花がいつしか美しく咲こうとする意思の結晶=穢れなき蕾のようなものなのだな。なるほど、そういうことだったんだな。と合点がいったら、宇宙に対し感謝の想いが、ありがとうの想いが我が身に溢れたのでした。で、この話にはまた後日談があるのです。とても不思議な話です。10年前の自分であれば理解不能であったことであろう、そんな不思議な話。敢えて今はここに記しません。いつか、日記に記すことになるかもしれません。何はともあれ、燦燦と至上のエネルギーが子らの満面の笑みの如く美しく渦巻く永遠の一瞬、その瞬きに宿ろ共に在る究極の愛、虹の粒子、無限の光の流れを志向することこそが全ての命に本来与えられた使命であるといって過言ではないと思うのです。人間社会というのは、人類の歩みというのは、実に滅茶苦茶で哀れなほどの醜さの集積であるかもしれないが、しかし、本当はこの世とは、宇宙とは、目が眩むほどに完璧で想像もできないほどの輝度でもって燦燦と美しいと考えて間違いない。 では、また次回の日記で逢いましょう
2010.10.17
情報は食物であり栄養である。どんなものを摂ったかで、自分自身の体の状態に齎す作用は自ずと違ってくる。ゆえに情報の選定と摂取はより慎重に行うべきだ。これは情報や、その膨大な貯蔵ソフトのひとつである書物ばかりでなく、音楽であって映画であっても、恐らく如何なる芸術・スポーツ・娯楽エトセトラetc・・・人間の生の営み全般におけるすべての「何か」に対しいえることかもしれない。全ての人間は絶えず迷いの中で自問自答を繰り広げ前進しているが、その前進を可能にしているのが実は、人が選別した「何か」の質の如何に由っていることを忘れてはならない。量ではない、重要なのは ”質” なのである。加えて ”バランス” も忘れてはならない重要事項といえる。情報といは無機質なものでは決してない。煮ても焼いても食えない代物など、情報と呼ばないのだ。真の情報とは、”心が宿る” ものなのである。命の体温があたたかく息づくものなのである。情けを忘れない、情けに報いることの大事さが中心にある=それが真の情報の意義なのである。春に美しい花を咲かせるもの、それが本当の意味での、真に大事な究極の情報なのである。 そんな風に常日頃考えている身にとって、現代日本の政治の混迷や、官僚の天下りに年間使われる我々の税金が約12兆円であるにもそうしたことに多くの人々が声を荒げずに何をトチ狂ったか鈴井宗男氏や小沢氏を糾弾すれば万事休すなんて呆れた方向になだれ込むのか?!、そういう実にドブ水の如き ”未来への志向を伴わない混沌さ加減” の愚かさ・無駄さ加減に辟易している身にとって、今もっとも関心を寄せ日夜を問わず読み耽っている幾つかの書物の著者である著名人を ---7人--- 、そう「黄金の7人」などという昔のエロティックなイタリア映画のタイトルが照らし出す黄金比率の様相を燦燦と携え以下に7つに焦点を絞り列挙することにしよう。アイウエオ順で。大前研一氏木村秋則氏桜井正氏佐藤優氏鈴木秀子さん滝川クリステルさんピーター・F・ドラッカー氏こうした話題・テーマは自分自身にとって実に興味深く、また研究しがいのあるところなので、これからも多々なる思索と実践の連続の線上で何らか答えを模索してゆきたく考えている次第。また似たテーマで日記に文章を綴りたく思います。さて話を少し変えて、約一週間ほど前、僕は非常に頭がこんがらがっていた。非常に頭がこんがらがりながら、何とか心のバランスを計りつつ、次のような文章をブログ日記に紡いだ。バカなりに真剣に言葉を紡いだ。以下にその文章(一度削除した日記内から)を復刻しよう。あまりにもナイーブすぎる、あまりにもバカすぎる、あまりにも途方もなく稚拙であるかもしれぬ想いが青い炎のように燃えているのを感じ取ってくれれば嬉しいが、別に、何らの実りをこの日記の読者に齎すものではないことは保障つきかもしれないが。--------------------------------------------------------------もし、自分が神様なら、本当に大事な真実(まことに実ると書く言葉です)は、自分が、 「この人は、こころある人だなあ。この人は、人類の、地球の未来を任せられるかもしれない存在のひとつかもしれない」 と思える人にだけ知らせたいと考えるでしょう。もし、自分が人類の未来を破滅から救う術を知っているなら、上記したような、自分がもし神様だったなら、という問いかけにおいて思いついたような選定でしか、僕は本当に大事なこの世の真実を、誰かに教えたいとは思わない。なぜなら、いま地球上に生息している、おびただしい数の人類の多くが、もし、地球という生命にとって、下水道に蠢く病やウィルスといった程度の存在でしかないと仮定した場合、本来、地球が僕ら人類に日々沢山のヒントを与えているにも関わらず、それを無視し、自らの病を中和したり浄化しようとする人々が圧倒的に少ない場合、緊急非常措置として、地球は人類を抹殺してまでも、地球という生命体を未来へ生かそうと考えるに違いないだろうと思うから。--------------------------------------------------------------上記した、自分が一週間前に世に発した文章を再読しながら思うこと・・・は以下の通り。ハッキリ言おう。卑屈にすぎやしないか?。ケチすぎやしないか?。自分でいうのもなんだけど、情けないじゃないか。もっと自信をもって力強く、世界へ向けて己が考え信じる想いを声高にアナウンスしたほうがベターANDベストだと思わないか。とはいうものの、正直なところ、一週間前に自分が日記に書いたことへの処方、力強く明確な答えは、いまだ自分の中で出てはいない。だけど、小さな些細な、うっすらとした光が少しだけ見えてきているような淡い予感に包まれている、そんな気がしないわけでもない。って、まあ・・・・・四十をすぎて、難しい年頃である(笑)。そんなこんなで明日も、なんとか前に進むことにしよう。本当に大切な情報を求め、それを実践し続けることで見えてくる光を少しずつ受け、人が逞しく生き続けることの意義を捉え自分を鼓舞し、勇気の火を己の内に灯しながら。僕はとても弱い人間である。年がら年中、どうして自分がこの世に生かされ生きてゆかねばならないのか?と暗中模索の中で自問を繰り広げ、涙の洪水の滝壺に身を潜めつつ、何の因果かこうして生きている。おそらく数千年前の時代にインドに生きたブッダだって、こんな感じで哀れな人生を迷い過ごしていたのではないだろうか。たとえ一寸先は発狂だとしても。きっと、この日記を今読んでくれている「あなた」だって似たようなものだろうと思う。だからこそ、愛って何なのだ?人間って一体何なのだ?!!との自問自答に日々向き合ってしまうといえましょうし、だからこそ、ひとりひとり皆、各々の ”強い意思の在り方” が問われるのだともいえる。あなたの左腕には、強い意志が宿っている。あなたの右腕にも、強い哲学が息づいている。あなたの頭脳には、心には、永遠を見据える崇高な ”知恵が” 、宿っている。では、また次回の日記で逢いましょう
2010.10.12
中国人は、実に滅茶苦茶な民族である。話にならないくらい。しかし、日本人の状況も、彼らとそう変わりはしないことを、僕らは知るべきかもしれない。きっと、同じくらい滅茶苦茶なのだ・・・・・。さて。話し合いや相互理解といった手段が、今回の日中関係において無効であるとは思いたくなかった自分がいる。少なくとも先日までは、国の代表同士による対話を深め唐突に噴出した火花を消し鎮め解決する方向で相互に歩み寄ることが可能なはずだ、と僕は信じ願っていたのである。なぜなら日本も中国も互いに、まともに話し合いの場を設けていないではないか?!と僕のような一介の生活者の目には映っていたからであった。だが、上記したような僕の認識が、国際政治という舞台において、如何にナイーブでイノセント(無知)で失笑ものな甘すぎたものでしかなかったことは、昨夜そして今日に目にした幾つかの報道に触れて明らかになったといえる。民間レベルでさえ異なる文化圏に属する人間同士が理解を深め仲良くなるということは簡単ではない。国際舞台という国と国とが互いに己の国の利権を巡り激しく対立する修羅場では尚更のこと、”食うか食われるか” という熾烈な状況の中では、相互理解などというのは単に相手国の弱みを探るだけの情報戦と化すに違いない。特に今回の日中間の争いの中で、致命的なほどに僕が自分自身の認識の甘さを痛く感じずにいられなかったのが、今日に図書館で手にした一冊の書物を通じて知ることになった、”リアルな中国人像” である。中国の人々に関し、まさか、こんなに凄まじい人々だとは夢にも思わなかった。その本のタイトルは『中国の思う壺』といって、日本人の女性が著したものであったが、中国人への差別意識など微塵もない、そればかりか大きな好意を持って中国という国と中国に住む人々のことを記している旅の記憶を記した本。にも関わらず、いや、だからこそか、圧倒的なまでにリアルに巨大に理解不能なほどに、異様なまでの文化の違いに言葉を失わずにいられなかったともいえる。正直、あまりに驚きすぎて腰が砕けそうになったくらいだ。(ここまで文化が異なってくると、人間の質が違いすぎると、相互理解を期待するほうが無理な話なのでは?)極論として、そこまで言いたくなる人がいても何らおかしくはないだろうと、この本を読みながら思った。以下に、この実に抱腹絶倒な一冊の旅のガイドブックの中から、興味深い一節を太文字で紹介したく思う次第。-------------------------------------------------------------タラップの下で、機内の通路で、大きな荷物をお互いがお互いの顰蹙を買いながら、自分の道を拓くことだけに必死で、悲しくなるほど譲るということを知らない。指定された座席のナンバーを見て、誰を最初に通し次に何をどういう順番で片付ければ合理的に事が進むかということを、どうして多くの中国人が考えようとしないのだろう。人が集中するところでは必ず皆が怒っているのだ。(『中国の思う壺』中から文章の抜粋)『中国の思う壺』 小田空 著http://item.rakuten.co.jp/ishigantoh/book_china-01/------------------------------------------------------------------中国人とは一体何者なのだろう?-----そうした問いを内に掲げる時、僕ら日本人が普通に当たり前の生活観念と捉えている物差しで彼らの実像に対峙し計ろうとすると、そうした目的は必ず破綻へ行き着く。一般的な日本人の想像力・理解能力(そうしたものが存在すると仮定して)の範疇を、脱力するほどに途方もなく、あまりにも凌駕しているからだ。日本人が中国人に対し、剥きだしの嫌悪感を浮かべる理由とはどこにあるのだろうか?。僕は次のように考える。人間の本性や業といった、ふだんは闇に隠された獣の匂いを強烈に嗅ぎ取るからではないだろうか?と。彼らはそういったダークな部分を、一切の飾り立てを持たないまま、そのままに、混沌に満ちた己の人生を生きている。だからこそ、彼らは汚く、野性剥きだしで、僕ら人間がこの世に生きるということの本質を一寸の狂いもないまま、世界中の人々に、人類の歩みに宿る業と悲哀を無言で伝えている。しかし、である。勘違いしてほしくないのだが、今日の日記の本題は、中国=狂人国家という偏った思考へと日記の読者を導くものではない。あくまでも基本的に相互理解の道を探ることを信条とする一介のロマンチストの夢物語と現実を知るたびに沸き起こる葛藤の狭間で揺れ動くPASSIONを感じ取ってくれて、且つ、まことの平和への願いを多くの人々が自分自身の内なるテーマとして真摯に考えることを望む・・・・そういう類のものであると理解して欲しい。だからこそ、次にこんな言葉を紹介したくなってくるというものなのだ。今日に図書館で手にした別の本の中で目に止まった文章の一節。-------------------------------------------------------------「日中友好、オレたちの願いだ」と言ったあのおじさん。実はその前に、「日本語知ってるよ、アイウエオ!昔習った。」と言った。僕は俄かに、皇国教育のことだと気付いた。僕はその時のことが忘れられない。日本人である僕を責めるのではなく、屈託のない笑顔でそう言ったから。(「関口知宏の中国鉄道大紀行」より)-------------------------------------------------------------まあ、それはそれとして、兎にも角にも現実問題、日中友好などという民間レベルでの甘い期待になど今のところ想いを馳せる余裕などないことだけは確かのような気はする。下手すりゃあ戦争前夜な状況なのは確かなのだから。ということで、昨日あたりから僕の脳裏に走馬灯のように浮かんでやまなかったのが、イタリアの何百年も前の古い時代に生きたマキアヴェッリの幾つかの言葉である。そのなかの二つを以下に太文字で紹介したい。「個人の間では、法律や契約書や協定が、審議を守るのに役立つ。しかし、権力者の間で信義が守られるのは、力によってのみである」「戦いに訴えねばならない場合に、自国民からなる軍隊をもっていない指導者や国家は恥じてしかるべきだと思う。なぜなら、そのような軍隊を持っていないということは、自国内に兵士に使える人々がいないということではなく、自国民に、自衛のために立ち上がるという気持ちを起させることが出来なかったといいうことを示す意外のなにものでもないからである。」(マキアヴェッリ)加えて、田母神俊雄さんの著書から文章の抜粋も以下に・・・日本人として次の貴重な言葉を引用したいのはリアルに当然のことです。------- 今の日本人は、自分で自分を守るという意識が本当に脆弱になっています。国民が政府に依存するという、間違った方向に政治が誘導してきた結果です。我々の親の世代の日本人は、「人の世話になるのは恥ずかしいことだ。地べたに這いつくばってでも、自分の力で生きなければ」という強い意志がありました。今の若い人たちにはそういう「石にかじりついても」という考え方は少ないようです。「時代がちがう」という言葉では片付けられない日本人の精神的変節です。-------------- 経済大国は、軍事大国にならざるをえないのです。軍事大国にならないと、「日本は世界の治安の安定に貢献しません」と言っているのと同じだからです。経済力に応じた軍事力を持って、自分の国を守れてこそ、地域の安定に貢献できるのです。-------------- アメリカは民主主義国家ですから、日本が人権弾圧を受けるなどといったことが起きる懸念はありません。ですから、前にも言ったように、「アメリカの属国になるか、中国の属国になるか。どっちか選べ」と言われたら、アメリカの属国になるほうを選ぶしかないのです。中国を選んだら、日本もチベットのような国になるということです。--------------あるところで先日、「中国が攻めてくるのではないでしょうか。攻め落とされて、チベットやウィグルみたいになるのではないでしょうか」と真剣に質問してきた若い人がいました。私は、「自衛隊という常備軍が日本にはあるし、日米安保もあるし、いざとなると国民が団結するから大丈夫だ」と答えました。しかし、これからの日本を背負って立つ若い人に、国がそういう不安を与えているのは大問題です。「国民よ、団結して頑張ろう」と総理大臣が熱っぽく言えば、日本人は、本当はまとまるのです。(田母神俊雄)-------先程、とても勉強になる記事をネットで発見。『腰抜け外交で中国ますます“増長”』http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_japan_china3__20100925_4/story/25fujizak20100925002/とまああ、今日の日記の論点が何処にあるのかサッパリ理解できないなどという鋭いツッコミが舞い込むことを百も承知で、次に太文字で紹介する著名人の言葉を、今日の日記の締めとして紹介したい気持ちを抑えることが出来ないことは確か。自分で言うのもなんだけれど、とても矛盾していると思う。つまりは最初のテーゼに戻りたいわけでもないのに振り出しに戻るようなもの。”相互理解こそ、大事” という命題への振り出しへ。実に矛盾していることを書いているのだが、しかし、こうした激しい混沌の渦、矛盾の洪水の中を前に進むということこそ、僕らの人生の本質そのものでもある・・・なんて言い訳がましく記しつつ。-------日本には正確でまともな中国情報は極めて少ないことをまず認識する必要があります。良質なインテリジェンスがあって初めて、政治も外交も存在するからです。この事実を腹の底から何度も確認しない限り、日本の「外交敗北」は続くでしょう。-------(青木直人)勿論、中国にとっても、日本という国が本当は何を考えているのかを判断する情報材料が極めて少ないことは確かでしょう。最終的に、率直で正直なところを日記の本当の締めとして書きたいのだが、---僕は中国の映画がとても好きなのである---だから、争いごとなど、なんとかすぐにでも両国ともに頑張って回避してほしい、くだらない争いは今すぐにやめてほしい、お互いに解決の糸口を真剣に探り覇権ではなく共存・平和への可能性を模索してほしい・・・と声を大にしていいたいわけです。ね、あなたも、そう思いませんか?。たぶん中国の民間人の方々の多数か少数かは分かりませんが、少なからずの人々が皆、そう思っているような気がします。あなたが苦手な人こそあなたを成長させてくれる存在である・・・他者を理解するということと民族・文化の違いを知るということと争いを回避するということは深い部分でイコールで結ばれていると捉えるのが古今東西、この世の真理であると考えるからです。では、また次回の日記で逢いましょう
2010.09.25
上手く言葉では説明できないんです。今年に入ってから自分に訪れた数々の出来事と、それらを結びつける因果みたいな何かが照らし出す物語性みたいなものが、まだ自分でも順序だてて上手く見えてこない。そういうことってま僕に限らず誰にとってもあるように思います。特に僕の場合、今年になってから齎されることになった多々なる成長の機会は上記したようなことが実に洪水のようであったといえましょう。後でふりかえれば、きっと、2010年という年は自分にとって何らかの転換期として思い出すことになるはず。自分の人生を大きく変えることになった一年として。まだ2010年をふりかえるには早いことは百も承知で、敢えてこの9月という季節に、歩みを少し止めて、この9ヶ月間に自分が経験したことの数々を思い出してみることには何かしら意味があるように思う。それはどうしてかというと、-----少しだけ遠い過去のエトセトラをふりかえってみることで、いっけん如何なる脈略がなく繋がりを帯びない様々無数の事象が、これが不思議なもので、目には見えない赤い糸で少しずつ確かに運命のドラマを紡いできていることに気付く-----ふと、そんな風に思えてならない瞬間が多々あるからです。つまり、時間と場所を越えて、様々な出来事が、ここ9ヶ月の間に渡り、いや正確にいえば昨年の末、いや実は数年前から、とあるひとつの物語が同一の線上において紡がれていることに、最近になって気づいたというのが理由の主要なる位置として挙げられるのです。兎にも角にも、僕にとってこの2010年という一年は、とても大きな意味のある一年となっていることは確かで、それは自分にとって一生のうちに何度も何度も起こることはないであろう稀にみる転換期・成長の機会となっているといっても決して過言ではありません。そして、そうした近年稀にみる大きなドラマの息吹を根底から支えているのは、----- 美しい海が象徴する壮大な何かへの、憧憬 -----と同時に、憧憬の対象としての美しい七色に煌めく瑠璃色の海、藍色の海が、遥か遠い土地にのみ存在するのではなく(数年前の自分にとってはまさしくその通りだった)、実は、自分が生活している身近でリアルな、この北の地においても、確かに存在していて、僕らの命を彩っているということを肌感覚で理解することが出来たことへの自覚と誇り、そして自信・・・それから少しずつ湧き上がり続ける未来への淡い期待と夢。つまり、言葉少なく簡潔に詩的な表現で綴れば、次のようなことになります。------- 森の中で、海をみつけた -------余談でありますが上の写真を撮ったのは今年の6月、ここは東北は福島県の山の中に沸く温泉地、有名な高湯温泉の露天風呂・・・実に素晴らしい温泉でした。この場所で唐突に目が開かれたのでした。さて話を少し戻し、-------森の中で、海をみつけた-------これは実に抽象的な説明ですね、理解してもらうのは難しいかもしれません。僕自身にもはっきりとまだ力強い手応えが感じあられるほど理解出来ているわけではないのですから、他者であれば尚更「いったい何が言いたいの?」と思われることがあっても当然でしょう。しかし、20年以上の長い歳月に渡り、沖縄やギリシャの青い海へ憧れ続けてきた一介の北国に住む人間にとって、自分が住み日々生きているこのリアルな現実の中にも、言葉に出来ないほどの感動を心に運ぶ美しい風景やドラマが確かに圧倒的なまでに無数に存在していたことに目が開かれたことは、これは自分にとってエポックメイキング的な、人生を大きく変える、まさしく事件のようなことだったわけですよ。こうした気付きに至るまでには、まあいろいろな伏線があったのですが、この伏線というのが面白いもので、今年の枠だけでくくられる話ではなく・・・・・自分自身が自覚出来ているだけでも少なくとも昨年の後半から複数のドラマが同時に進行している・・・この話はまた別の機会を設けて日記に書くことにするとして、以下に先日に訪れた、とある北の国が誇る美しい場所を映した幾つかの写真をアップしましょう。瑠璃色に煌めく海のような色彩をしていますが、これは鳴子という町の山中にある ”みずうみ” です。最近、出逢った、森の中で煌めく、神々しいほどとても美しい湖。生きることって、時に苦しいことの連続でもあるわけだけど、だけど、世界って、人生って、人間って、人間と人間の狭間を生きることって、この世を生きることって、救いようのないまで汚くつまらないことだらけで構成されているわけではない。こんがらがって複雑にからみあい、人々を不幸へと追いやり、少なからずの人の身と心に哀しき病いを運んでいる事柄のエトセトラの組成を読み解く術へ目が開かれ、それらへの処方をうちに編み出し、現状を変える正しい努力の仕方を理解し実践できるようになれば、おのずと光の扉は開かれる。2010年の後半に、9月の訪れを迎えた今、僕はそう信じています。 もう既に秋の足音は聞こえている。しばらくすれば皆の心に、金色に輝く実り豊かな収穫が沢山齎されることでしょう。林檎のように栄養いっぱいの収穫が、燦燦と、宝物の如く。では、また次回の日記で逢いましょう☆
2010.09.07
佐藤優氏の最新記事が冴え渡っている。9月10に大阪地方裁判所にて厚生労働省の村木厚子被告人へ無罪が言い渡された件についての佐藤優氏が綴った記事のこと。記事中で佐藤氏は次のように述べている。以下に太文字で記す箇所のことであるが、その箇所を読みながら僕は鳥肌が立ってしまった。あらためて、時代の流れを感じた次第。着実に時代は前に進んでいるのだと実感し、拍手喝采の念に駆られつつ感動の鳥肌が立たずにはいられなかたったのだ。----- 特捜部の取り調べは、はじめに筋書きが決められており、それにあわせた調書が作られていく。この特捜検察の常識が、村木事件では通用しなかった。国民の集合的無意識の部分で、検察の正義に対する信頼が揺らぎ始めている。 -----(佐藤優)【佐藤優の眼光紙背】村木厚子元厚生労働省局長に対する無罪判決http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_kensatsu2__20100910_3/story/gankou_5001707/←クリック「国民の集合的無意識の部分で、検察の正義に対する信頼が揺らぎ始めている」 このユングによる有名な言葉を引用しつつ、”国策操作” ”冤罪事件” に象徴される検察権力による強引で偏った異常ともいえる独善体制が今たしかに少しずつ終焉に向かいつつあることを記す佐藤優氏の力強い言葉に、僕は映画「ゴールデンスランバー」のラストで描かれることがなかった、かすかな希望の光を見るような想いがした。多くの日本国民が同感の想いを内に抱えていることと推測する。 さて話を変えて、以下に一昨日(8月9日)に発信した日記文章を再掲載する次第。----------------------------------------------------------------鈴木宗男衆議院議員が近いうちに再び塀の中に収監されるようです。このニュースを今日知り、すぐに民主党の小沢氏と官僚との軋轢が脳裏を過ぎったのだけれども(多くの人達が同じように思ったことでしょう)、これは官僚から小沢氏への警告もしくは宣戦布告みたいなものというか、水面下で壮絶なバトルが繰り広げられているのだろうと素人考えで推測していたところ、実にグッドタイミングで佐藤優氏が記事を書いていました。【佐藤優の眼光紙背】なぜ最高裁はこのタイミングで鈴木宗男衆議院議員 の上告を棄却したか?http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_muneo_suzuki__20100908_4/story/gankou_4996747/ ←クリック!!政治の世界は生き馬の眼をくりぬく世界だと言われますが、政治家VS官僚のバトルはそれを遥かに超える相当に酷い世界なのでしょう。どちらにせよ、この醜いバトルにおいて”国民” が完全に不在であることだけは確か。なんと人迷惑な話。まあ様々なメディアが毎日声高にアナウンスしているような小沢=悪の権化のイメージに洗脳されてしまっている人が国民の殆どだとしたら日本はこの先真っ暗闇かもしれませんが、ネットによる調査では意外や意外、国民の多くが小沢氏を支持する、そんな世論へと以降してきているようです。話は少し変わるけれど、いま空前の大ヒットを記録更新中の映画「ゴールデンスランバー」で描かれる世界って、実際のところ、SFの世界でもなんでもないわけで。誰にでも起こりうる、日常に潜む世界というか、まあなんというか官僚の暴走も相当に怖いけれど、現代日本は半端じゃなく怖いものだらけに囲まれていることは確かです。本当、日本は一体どうなってしまうのでしょうか。官僚が国を滅ぼすのか・・・?、それとも政治家が国を滅ぼすのか。はたまた、この国を亡骸の地へと追いやっているのは、我々日本人すべてなのか?。どうなんでしょうね。 http://item.rakuten.co.jp/book/6458619/---------------------------------------------------------------- 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『光から愛される人生』←クリック『北国で瑠璃色の海』←クリック『花は好きですか?』←クリック『温泉浪漫』←クリック『健康第一主義』←クリック上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.09.06
つい何日か前、自分のHN(ハンドルネーム)を変えました。変えることにたいして別に未練は殆どありませんでした。未練を持つほどの愛着もなかったからといえば嘘になります。それなりに愛着のあった名前だったからです。にも関わらず、躊躇うこともなしにHNを変えたことにはワケがあります。以前に、約5年と数ヶ月に渡り使用していた ”ルカの街並” というHN。現在、この名前をそのまま使い続けることに対する必然性を感じなくなってきたということが、まず第一の理由。これが一番大きいですね。しかし、だからといって、ルカの街並というHNを使ってきた時の流れは全て無駄だったのか?というと、全くそんなことはありません。HNを変えるということ、それは現在の自分にとって必要で重要な変化であり、いま自分が新たに作り出している小さな流れというのは、実は過去の流れからの断絶を一切受けていないばかりか、本質的な部分を的確に抽出した上で、その流れの上に己が在り続けることから目を背けていないという点において非常に意味のある行為であったと僕自身は捉えているのです。さて、話は変わって。つい数週間前に ”七つの海を越えて、あなたが世界へ旅するための序章”などと銘打った日記シリーズを幾つか発信していました。こうした日記タイトルの選定に関し「意味わかんない」と首を傾げている方々も少なくなかった、いや多かった、もっと言ってしまえば殆どの方が眉間に皺を寄せていたかもしれない(笑)ことと想像しています。では、あれら一連のミステリアスなタイトルに込められた何かというのは、単に意味のない言葉遊びとして編み出された軽薄なサムシングだったのでしょうか?。バカをいってはいけません(爆)。僕はそんなに暇人ではないのですし、自分にとって或いは他の生命体<つまりは全ての生命の集合体>にとって如何なる重要と思われない対象に多くの時間を割くほどに無垢ではないし破廉恥なほどに計算高くもない。-----説明が困難なほどの強烈な覚醒へと到るために必要な幾つかの事柄-----そのような事柄が自分の背中を押し更なる光の高まりへと上昇できそうな予感から派生した ”願い” のようなものが込められていて、そして、自分でも上手に説明の出来ない、言葉にならない、言葉を超越した光の地平線への眼差しへと駆り立て、しかし且つ、人間の業として言葉や想いへと向き合わせ同時にそこから離れることの繰り返しの中から逃げ出すことなく、神の声を眩しいばかりに大自然の中から宇宙の中から音もなく聞きなさいとのメッセージを添えて、僕だけでなく、全ての命の輝きを後押ししてくれていた・・・・・ゆえに形容し難いほどの難解さと大いなる安らぎ、そのふたつが織り成す混沌のエネルギーは相当に説明困難な代物であり、それはその時の自分に必要な渦であった・・・たとえそれが的確に表現出来ない状況であったとしても・・・そのように少し前の自分の言動を振り返っています。まあなんというか、変化が訪れる瞬間というのは誰にとってもそういうもんです。理屈は後からついてくるみたいな、そういうもんなんですよ。 もし、あなたが今、正しく生きていれば、人生は美しい。途方もなく永遠に触れることが可能なほど、目も眩むほどに・・・美しい。望むもの、あらゆるものすべてが、あなたの想うがままに運ばれ構築されてゆくでしょう。もしも、あなたが、自然の流れと共に、正しく生きてゆくならば。あなたが、もし仮に、金色の光の渦、全ての命を永遠へといざない七色の光に煌めく究極の時の流れを生きる者であるのなら、そのように生きてゆきたいと願うならば、上に太文字で、稚拙な表現を何ら恥じることないまま刻んだ5行のエトセトラは、必須条件です。そんなふうに僕自身、自分にとっても重要な自戒として内に掲げながら、無駄な事柄の連続・集積であったに過ぎない自分の人生を、これからも少しずつ、豊かな色と更なる輝度でもって美しく彩ってゆきたいなあと考えています。それはそうと。正しく生きるって、いったいどういうことですか?。なんてツッコミが入りそうですね。-----正しく生きることとは一体なにか?-----それを知るために、僕もあなたも誰も彼も、業を生き、また、生かされているといっても何ら差し支えないかもしれないほどに深いテーマであり、そうしたテーマから離れず、忘れず沿うように自分の脇に置きながら生きていると、時に天から贈り物をもらうような感覚になることがあります。どんな贈り物でしょうか?。些細な贈り物にすぎないかもしれないけれど、それは眩しいばかりに煌めく崇高な光・女神の微笑みとしか形容し難い天からの祝福を浴びる瞬間に等しいといえるわけです。と同時に、なによりもまず、現代日本を生きる少なからずな人々のように精神を病んだり、毎日のように報道を賑わせている自殺他殺といった殺傷のエターナル・バミューダ・トライアングルの渦から解脱することが出来ないまま、その渦の激しさばかりがエスカレートしてゆく地獄を永劫に生き続けることになる愚かさや惨めさから自分を解き放ち、まるでそれが当然のように、健やかに笑顔で人生をまっとうできるかもしれませんし、また、いま九州を震撼させている牛の命を巡る恐ろしい疫病だって人類は本来、回避出来ているかもしれないのです。生きていると、誰にとっても色々ある。荒波が時に襲い掛かる海の上を旅する航海なのだから、色々あるのは当たり前のこと。そんなふうに誰にとっても例外なく色々ある人の生の中、----- 光から愛され祝福される人生を選びたいものだ -----と思う。躊躇いや迷いを内に抱えつつ、それでもなんとか日々、己の内なる羅針盤の調整を行い、笑顔を忘れずに前に進むことの混乱と浪漫の波そのふたつのはざまで揺れる航海=僕らの人生があるのだから、これが航海なのだというリアルな現実の厳しさから目を背けずに前に進み続けたい。そんなふうに己に言い聞かせ気合を内に生み出すことでしか見えてこないこの世の真実や究極の美、あるいは天から降り注ぐ神々しい光の粒子の洪水のような煌めきや圧倒的な言葉も出ないほどの安らぎというものって確かにあると思うし、それがこの世を豊かに生きるということなのかもしれないと考えるから。では、また次回の日記で逢いましょう
2010.05.24
----- 心を、自由にしておこう飛びたい時に青空に飛べるように羽ばたきたい時に、軽やかに、健やかに、無垢なまま、羽ばたけるように -----そんな風に、よく思うのです。自分の心をいつだって自由にしておきたいなあ、と。なぜなら、そのようにいつだって健やかな清流のような心のありかたで、自分自身、毎日を生きているわけではないから。つまり、どこか息苦しさに少しばかり囚われながら、いい気分の時があれば悪い気分の時もあるように、あんまり滑らかとはいえない日々を送っているわけです。これは僕に限った話ではないはず。誰だって大なり小なり、生きることに関して、なんらかの息苦しさを感じながら、どうにかやり過ごしているだけのことと想像します。だから、常に一定のリズムで心を激しく揺らさないですむように、心を自由にさせておける術を、青空を清清しく羽ばたく白い鳥のように自由な心であれるような心のあり方を日々模索しながら日々、黙々と生きているのが僕を含めた大方の人間なのだろうと思います。だけれども、心、心、とばかり考え込みながら生きていても、息苦しさが増すことのほうが多くなるかもしれません。暗闇の中でどれだけ一途に「心の健康」を真摯に追求し続けても、多分らちがあかないことのほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。それは何故でしょう?。”心”ばかりに焦点を当てすぎて、”身体”に目を向けることを置き去りにしてしまっているからなのでは?と考えます。鳥が空を羽ばたくことが出来るのは、もちろん空を飛ぼうとする意思があるからであると同時に、空に羽ばたけるだけの身体を保つことから目を背けていないからです。いつだって健やかなあたたかな光を感じていたいと考えるなら、頭でそう考えるだけでなく、あたたかな光を健やかに享受することが出来る丈夫な身体であることが大事。できるだけ毎日、おおらかな心で愛に溢れた人生を歩みたいと願うなら、心でそう願うだけでなく、一年を通じてバランスよく、あたたかでおおらかな愛と光に包まれ続けることが可能な身体であることが必要。どんなに素晴らしい土地や場所へ旅をしたいと思っても、旅するに相応しい身体が自分に備わっていないと、旅の計画が頓挫するのは時間の問題でしょう。幻とリアルを隔てる境界線がそこにあるといっても過言ではないはず。 ----- 季節は音もなく静かに刻一刻と常に変化していることを、人は身近に咲く花々の表情からも窺い知ることが出来ますもちろん僕らの命だって同じように日々刻々と変化し続けています -----4月の初めに魅了された美しい桜の花、それから数週間がたち、野原に菜の花が咲き渡り、そして、すいせんの花々が丘に咲き渡る風景の中で心があらわれ、なんともいえず清清しさを感じた日々。現在、淡いグリーンの色彩に燃えるように、新緑の輝きが山々を彩っている。花々には、新緑には、人と同じように、心があるのでしょうか?分かりません・・・ないという人もいるでしょうし、あるさと答える人もいることでしょう。僕は、ある、と考えてますが。しかし、彼らが仮に心を持っているとして、それが如何に高等で崇高なものであったとしても、季節の移り変わりに耐え得るエネルギーを身体の内に頑丈な鎧の如く持ち得ていなければ、美しさを自ら誇ることさえ出来ないでしょう。 美しい桜は、すがすがしく野一面に咲き誇る菜の花々は、心なごむすいせんの花々の風景は、そして、燃えるような新緑の命の色彩は、僕やあなたの住む町や県あるいは日本という国の枠に決してとどまることなく、どこへでも、望むだけ、願っただけ自由に、遠い世界へ羽ばたく強さを秘めているにちがいない。七つの海を越えて、どこまでも己の命の種子を運ぶことが可能なエネルギーを己の内にも外にも備え、自分だけでなく世界の全てを美しく鮮やかに彩る力を有し、逞しく、時に鮮やかに、心の夢のパレットに拡散され展開される繊細な色彩のシンフォニーを伴いながら内にも外にも響き渡る、愛し愛されながら共に生きる前に進み続けることの共時性が無言で語る深い意味、真実・・・・・それが、永遠へ続く流れに命の粒子が身を置くということなのではないだろうか。いま僕はそんな風なイメージを航海の羅針盤として大事にしています。 さて。あなたの命は、これからどのようなドラマを突き進み、今日、明日、そして遠い未来においても、この世界を鮮やかに美しく彩ることが出来るのでしょう?。僕らは愛を彩りつづけます。今も、これから先の未来も、笑顔のまま。皆が生きてるこの藍色に輝く美しい風景の中で、ずっとこのまま、いえ、いま以上に、この美しく神々しい世界が、藍色にあたたかな愛の光に溢れんばかりにつつまれますようにと祈りながら、心ばかりでなく身体も大切に、自分ばかりでなく他者の存在も同じように大切に、そんな風に強く豊かに生きてゆけることを望みながら、愛の鐘を世界中に至上の音色をまといながら叩き鳴らしつづけるのです。では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.05.12
東北には温泉が数多くあります。良質な温泉の宝庫といっても過言ではないほどに、数々の素晴らしい温泉群に恵まれている環境といえるでしょう。僕自身、あまり東北の温泉について詳しくはありません。東北の温泉のみならず、温泉それ自体に関する知識も情報も乏しいというのが正確なところだったりもします。そもそも僕が温泉に興味を持ち、そして心焦がれるように温泉めぐりに夢中になったのは、なんと今年に入ってから(正確に記せば3月に入ってから)。この歳になって遂に遅咲き温泉デビューを果たしました(笑)。なので温泉について多くを語れるはずもなく、これから温泉についての知識を少しずつ深め沢山の素晴らしい温泉を訪れたいと願うばかりです。そんな僕が今年に入ってから訪れることが出来た幾つかの東北の温泉の中で(今回の日記では宮城県と山形県の温泉に限定します)、特に魅了された3つの素晴らしい温泉を紹介しましょう。アイウエオ順で温泉の名称をそれに、加えてその温泉に冠する個人的な感想や著名なガイドブックなどから抜粋した専門的な解説等の徒然を以下に。-----峩々温泉-----http://www.gagaonsen.com/湯質:ナトリウム・カルシウム-炭酸水素塩・硫酸塩泉 源泉温度58度効能:胃腸病・リウマチ・肝臓疾患特色:胃腸病に効果があると知られる、古くからの温泉。大分の湯平、群馬の四万と並び「胃腸の三名湯」と云われる。熱い湯を直接腹にかける「かけ湯」と呼ばれる独特の入浴法がある。歓楽色を排し、保養と湯治に専念できる温泉。団体や、宴会などは受け付けていない。 (上記に灰色文字にて転載した3行の文章は、Webサイト「日本温泉ネットワーク http://www.terme.jp/miyagi/gaga.htm 」中から解説文章の抜粋)文句なしに素晴らしい温泉宿!。素晴らしいというより、美しいという形容こそふさわしい。そのように思えて仕方がないのは僕だけはないはず。そうです、美しいとしか形容が出来ないのです。圧倒的なほどに、美しいのです。何が?うっすらとした濁りをみせる源泉に煌めく光の粒子が、宿の内外における建築意匠デザインに宿る麗しいほどの美意識・感性が、敷地全体から醸し出される洗練された上質な気品が、そしてこの温泉宿に脈々と受け継がれ続けてきたであろうと想像する深い哲学が。かなり辺鄙な環境に存在する温泉宿であるに関わらず、日々、多くの湯治客がこの希有なる温泉宿へと足を運ぶ理由はそこにあるのでしょう。宿エントランス部分風景内湯風景僕個人的にいうと、今回の日記の中で紹介する源泉の中で一番、言葉をなくすほどに惹かれています。その理由としてお湯が体に自然に絶妙に馴染むことがひとつ。湯に身を浸した瞬間、僕は唐突に、理想の恋人にめぐり会えた感触の只中に自分がいるのを感じた。もうひとつが、上に記述したように、建物や敷地全体から伝わる貴重な秘湯としての奥深さが挙げられるでしょう。分かる人には分かるはず、本当、格別の宿です。-----蔵王温泉-----http://www.zao-spa.or.jp/cat_spaこの蔵王温泉について説明する前に、この一枚の写真を御覧頂きたい。かの有名な蔵王連峰の頂上付近に位置するミステリアスな火山口?、通称「お釜」をして宮城髄一の頂上パワースポットと範疇する人もいる場所を撮った写真です。写真が示す強烈な原風景こそが、宮城側であっても山形側であっても等しく ”蔵王の源泉” の強烈な個性そのものを物語ってあまりあると考えるのは僕だけではないはずだ。さて長い前置きはこのへんにして、山形蔵王温泉の湯質は、酸性・含硫黄・アルミニウム・硫酸塩・塩化物温泉。酸性とはなっていますが、実際は強酸性であり、あの有名な草津温泉を上回るペーハーを誇るとのこと。さすがは蔵王連峰、火山の麓だけはあります。お湯に浸っている最中に湯が目に入ったのですが、その後すぐに瞳に少々の痺れが走り焦りました。それほど強烈な酸性なので、皮膚の強さに自信がない人は長湯は避けるべき。しかし、その分、効能も見込めることは確か。ゆえに一年中全国からこの温泉地を訪れる人々が絶えることがないのでしょう。ということで蔵王温泉の地において僕がお勧めの湯を二つ以下に。”蔵王温泉大露天風呂” 入浴料金:450円http://www.zao-spa.or.jp/spa/higaeriこの門をくぐり長い坂を下りてゆくと、まるで天国のような風景=大露天風呂へとつながる。↑街のいたるところに張ってあったポスターを激写。大露天風呂はこんな感じの場所)今回の日記において紹介する源泉の中で、最も風景が神々しく美しいと感じて時間を忘れるほど心奪われたのが、上記した蔵王温泉大露天風呂です。”川原湯(共同浴場)” 入浴料金:大人200円http://www.zao-spa.or.jp/spa/yokujyoこの共同温泉浴場・・・すごすぎです。好き嫌いを問わず、これは一度体験すべき湯であると確信します。お風呂の浴槽の真下から源泉がブルーのソーダ水のように大量に噴出しているのです。蔵王温泉が如何に強い酸性を誇る温泉地であるのか、その真髄に迫ることが出来るのは、もしかしたらこの全国的にも有名なアグレッシブなほどに強烈な源泉が激しく蒸し返し溢れる共同浴場の他ないのかもしれません。-----鳴子温泉-----”滝乃湯”(共同浴場) 入浴料金:150円鳴子温泉については、説明はいらないでしょう。知る人ぞ知る全国的にも知られる横綱級に有名な温泉地です。とにかく、お湯の色彩が美しい。乳白色に、時にエメラルドグリーンに煌めく豊富な源泉に体をゆだねる贅沢は誰にとっても至上の経験となること必至。ちなみに僕はこの滝乃湯に初めて行った時、感動のあまり2時間お湯に浸ってしまいました。2時間ですよ、2時間。こんな経験は、この滝乃湯以外ではありません。いつまでも湯舟から出たくなくなる名湯。ちなみに、この前のゴールデンウィーク中に行ったところ、この滝乃湯に男性湯だけで30名ほどの方々が入っていました。共同風呂ではありますが以外と広い空間であり、昔話を彷彿とさせる独特の古さ息づく風情がなんともいえず素晴らしいのです。はっきりいいます。半端じゃないです。もし、この日記を読んでくれている方の中で、この鳴子温泉の滝乃湯を知らない方がいましたら是非ご入浴されることを強くお勧めします。あなたの人生が、音をたてて劇的に変わるはずです。特に女性の方々、奇跡のように生まれ変わる”美肌効果”を是非ご自身で体感してください。どうして温泉(源泉)が体に良い影響を齎すのでしょうか?。それには大きな理由があります。東北が誇る世界的な免疫学者である安保徹さんの著書「自分ですぐできる免疫革命」から、興味深い文章箇所を以下に。--------------------------------------------------------温泉の効用は、第一に体温を上げることが大きいのです。体温が上がるということは、血流がよくなることです。病気の人はみんな顔色が悪いのですが、それは血流障害が生じているからです。だから、血流をよくすることは、健康になって免疫力を上げる条件です。(中略)家の入浴よりも温泉のほうが効果が高いのは、ミネラル分が含まれていることと、体内の酸素を奪うことによる血管拡張作用が強いからです。--------------------------------------------------------http://item.rakuten.co.jp/book/4268794/それと、温泉についての教義的文献として、これ以上は望めないのではと思えるほど深く充実した理想的な書物である「温泉の文化誌」から少しばかりの抜粋をば。--------------------------------------------------------温泉が効くのは、主として、体質、とくに人体(動物もそうですが)細胞とそれをつらねるこうげんのリクリエーションに役立ちます。疲労とは疲労素の蓄積により、肉体全体が酸性化することですが、ひどくなると、うつ病や更年期障害、(中略)、こういうときは、ちゅうちょなく温泉へ飛び込むべきです。本格的湯治は長期間かかりますが、一週間くらいの短期間でもよいですから、休養して湯治すべきでしょう。肩凝りや腰痛も同時にとれます。--------------------------------------------------------http://item.rakuten.co.jp/book/709919/最後に、高名な絵描きさんである横尾忠則氏が著した「温泉主義」の中から、特に強く印象に残った文章箇所を加えることで、今日の日記のお開きとする次第。--------------------------------------------------------ぼくは何も期待しないまま草津に来た。Mさんの意思に従ったまでだ。一人苦しんでいた病がこのまま治ったとしたら、まさにぼくは草津に導かれたということになる。実は草津にやってきた本当の目的と意味は病の癒しだったのではないかと、そんな風に思えるほど、ぼくにとっては不思議な出来事であった。Mさんが温泉の企画を持って来てくれなかったら、ぼくの神経痛はこのまま持病になってしまうところだったかも知れないと思うと、やはり「導かれた」と思わざると得ないのだった。--------------------------------------------------------http://books.rakuten.co.jp/rb/5367565/では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.05.10
生きてゆく途中で、道に迷ったり、進むべき方向を見失ったりすることって誰にでもあると思う。自分の人生が無駄な寄り道ばかりで、たいして意義深いものなど何ひとつないように思えることって誰にでもあると思う。でも、ふと、思うのだ。-----何ひとつ間違いがなく、確かな調和がはじめから最後まで計画されている人生など、ないのではないだろうか?と。-----間違いが一切なく進むことの出来る旅など、実は面白くもなんともないのではないだろうか?と。ああ自分って愚かだなあと思う瞬間の欠片もなく、すべてが自分の望むままに完璧に行動できていたら、逆に怖くなりやしないだろうか?と。そんな風に考えると、今日、僕が車を運転中に道を間違えたために偶然に齎された魔法のような時間だって、何かしらの意味があってのことだろう。「間違いのない人生なんて、どこにもないのだよ」そのように天から与えられた贈り物、天からの声、無言のうちに地上に響き渡るメッセージとして僕はありがたく受け取った。そうそう、そういうこと、あやまちのない人生なんて如何なるドラマさえ生み出すことがないばかりか、面白くもないし美しくない。何のことが書きたいのかというと、今日は山形の蔵王温泉という場所に行こうと思って車を走らせていたところ、途中で道に迷ったんです。はじめて向かう場所なのでインターネットで閲覧・印刷した地図を頼りにドライブしている途中、自分がどこを走っているのか分からなくなってしまったのでした。いやあ、困った困った・・・そんな感じで途方に暮れつつも、車を止めて誰かに道を聞こうかと考えていた矢先に、目に止まったのが「すいせんまつり」という看板。そして、その看板が示す方向へ気分の赴くまま車を運転していたら、言葉を失うような風景にさまよいこんだのでした。道に迷わなかったら、この場所を訪れることもなかったわけです。不思議なめぐり合わせですよね・・・・・そう思いながら”偶然”に感謝しました。以下に、今日に撮った宮城蔵王すいせんまつりの写真を幾つかアップしましょう。 本当、すばらしい風景でした。素敵すぎて、美しすぎて、ただ、言葉をなくす・・・その美しさは、自分がこの世にいるのではなくて、天国に足を踏み入れてしまったのだろうかと錯覚してしまうほど、あまりに美しく鮮やかな色彩の洪水。まるで、夢見ているような。たまたま道に迷ったことで偶然に視界に広がった魔法のような光景が、何の因果か僕に大きな勇気をくれた。すばらしい。こういうのを人生における魔法と呼ばず一体何と呼ぼう?そう、偶然が照らしてくれる光というのはかくも魔法の如く美しさを心に運ぶのです。では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.05.08
美しいものを ”美しい” と感じることの出来るのは、強き者だけ。同時に、その内面が外の世界に共鳴するほど、ふるえるほどの繊細さを抱えつつ、且つ、儚きまでの美しさを、透き通るほどに美しい光を、世界へ向けて正確に映し出せる者。透き通るほどに、美しい光を世界へ拡散できる者だけが、奇跡のように、風のように、花の種子のように、軽やかに、踊るように、遠くまで舞いながら、永遠へいざなう桜の色彩を美しい少女の頬に宿すが如く、誰かに、ほのかに恋するような高貴な香りと微熱を身に纏いながら、心の中心・世界の中心に立ち、健やかに穏やかに無垢な子らのように微笑むことができるのです。桜の色彩、風の色彩、空の色彩、藍の色彩、地球の色彩、この地上に咲き誇る全ての花々の色彩。そして、僕らの心の中にある大きな、あたたかな、それ自体が神々しく完璧な眩しいほどの愛の色彩、この世界に生きる全ての命に宿る笑顔の色彩。野に咲く花のように、永遠が織り成す光の流れのように、水晶のように。「花 ~すべての人の心に花を~」http://www.youtube.com/watch?v=FPGMsifqRgg&playnext_from=TL&videos=v56t-zmyPm4 ←おおたか静流 【CD】http://item.rakuten.co.jp/geoeshop/301559702/ では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.04.30
これまでブログにUPしてきた写真の中で、間違いなくこの写真が最も凄い。そのように確信する。いうまでもなく僕が撮ったこの写真が凄いのではない。写真に切り取られた空間というかレンズの焦点となる対象が醸し出す得体の知れない何らかの怒涛のようなエネルギーが、あまりに凄すぎるのだ。久々に、手塚治の漫画「火の鳥」に登場する主人公のひとりである我王という人物を思い出した。我王・・・実にアクの濃い人物である。あの漫画に登場した人物たちの中で最も好きな人物だ。さて、この怒涛の如き迫力を放つ像であるが、これは定義山という場所の定義如来(西方寺) の入り口である正門に位置し、お寺に入場する人々を威嚇するように立っている。なんというかこの像の威嚇は、毒をもって毒を制することであなたを清める、そんな想いが込められた奇妙で怖い儀式のようでもある。鬼の視線と気配によって我が身を清められる、そんな摩訶不思議な感覚に包まれ鳥肌が立った直後、ふたたび鬼の眼が焦点に入るやいなや一瞬、微動だに出来なくなる。ゆえに、ある意味、非常に怖い戦慄を帯びたゲートであるが、しかし同時に恍惚と化すほどの狂気と紙一重の強いエネルギーを満身に浴びる結界的空間だともいえるのではないだろうか。このお寺の敷地内には他にも迫力満点の龍の像などもあり、我々は普段から見て聴いて体験し接している現実とは異なる質の、摩訶不思議な風景の只中に自分がいることを圧倒的な覚醒へいざなう神々しい体験として受け入れずにはいられない。そんな気になってくる。今日、この定義如来を訪れたのは本来の目的ではなかった。たまたま作並温泉という宮城県でも有名な温泉地へ出かけたくなり(というより温泉に入りたくなった)、その場所へ行く途中にある有名な観光地のひとつが定義如来だったというのが実際のところ。たいして意味などなく軽く足を運んでみた・・・・・ただ、それだけのことであったのだ。しかし、不思議なものでこの休日に訪れた目的地のメインではなかったはずの場所で期せず視界に入った形容し難い感覚は実に貴重なものだったことは間違いない。あとになってみたら温泉以上に比較も野暮なほどに神々しい体験であったといえよう。尚、下の桜の写真は、定義如来の近く、ダム沿いの場所に咲いていた美しい桜を撮った一枚。では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.04.25
朝から晩まで仕事のことばかり考えている。こうした状況は昨年と全く変わっていない。しかし、変わったことが、ひとつだけある。この、ひとつが、実に、非常に大きい。この ”ひとつ” を言葉を用いて文章を通じて上手に理論立てて説明することが如何に難しいか。判る人にはわかると思う。そうしたことが如何に難しいのかということと、そうしたことに携わりながら同時に距離を置くことの大事さを、判る人は判るのだ。たとえば、音楽の素晴らしさを説明するだけで、音楽の美しさが人の心と体にどのような神々しいほどの輝きを齎すのかを秩序立てながら他者に伝えるためには、言葉はいらない。しかし、である。同時に、ぶ厚い本を一冊書いても、まるで足りないくらいの思慮と情熱の密度も、同時存在していなければならないのである。それは、あたかもコインの裏と表が、ひとつのコインを時を同じく成立させているのと似て、どちらか一方が欠ければ、どちらか一方は体を成さないということになるのだ。日記の冒頭に記した、ひとつのことが判ったことで、ただ、それだけのことで、朝から晩まで仕事のことを考え続けているということが刹那の化学反応として我が身に病を運ぶことから免れていることが出来ている。つまり、あらゆることに関し適量のバランスを見極めんとする術へと視界が翳りなく開かれはじめたということ。言葉にすれば、簡単なことのように思えるかもしれないが、このような一見して簡単に思えることが如何に複雑系な物事の関係性に支えられているのかを理解出来て来るということが、生きるということの本質に心の眼差しが向かうということとイコールで結ばれていることは確かなはずである。以上、昨年の自分には、判らなかったことだ。人生には、さまざまな波がある。小さな、波。大きな波。さざ波、大波、時に津波。そのさまざまな波に、人は日頃を通じて対処してゆく。そういうことの連続で、長い己の生を形成し続けてゆく。生きるということは、すごく、むずかしいことだ。毎日がハードなことの連続。時に目を覆いたくなるような冷たい雨の土砂降りに見舞われ続けることだってあるだろう。しかし、同時に、生きるということは、愉しいことである。理屈ぬきに、毎日が愉しいことの連続である。子供のように満面の笑みでもって、天に感謝せずにはいられないほど、奇跡それ自体と対峙するが如く、鮮やかに、目が眩むほど、虹の色彩のように美しい。 では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.04.08
紅茶を飲みながら、いま、リストのピアノ曲を聴いている。至福の瞬間・・・ゆったりと時は金色に流れ、体の疲れもみな消え、やすらぎにつつまれている。「愛の夢 第3番(3つの夜想曲、S.541-第3番)」ああ、こうした時間を自分は求めていたんだ。ここ最近、実に慌しい生活を送っていた中で、肩の凝りが一段と激しくなってきた今日この頃であったが、今夜になって、ようやく気がついた。---自分は気が立っていたのだ---と。肩が凝って当たり前の話なのだ、と。仕事の多忙さに埋没していると、人は多くの大事なことを忘れてしまう。多くの人は季節の移ろいとは無関係に、常に一年を通じて仕事の喧騒の渦に呑み込まれ、損益計算書やら何やらの数字に追われ、我が身を自ら安息感から遠く離れた場所においやってしまう。そんな風に常に気が立っている状態に、自分がいるということを中々自覚できなくなってしまうことが往々にしてある。それが、どんなに不健康なことであるのかに目を向ける余裕さえなくしながら、日々、経済の歯車の一端として慌しく動き回る中で、自分の心も体も蝕まれてしまっているかもしれないということに中々気付かなくなるものなのだ。やはり、どんな人であれ、時にリストのピアノ曲に耳を傾けながら、心をあたたかくして、体に染込んだ慌しさと喧騒の名残から開放してあげる時間を持つことが、とても大事なのだと思う。リスト:ピアノ作品集 ホルヘ・ボレット 【CD】http://item.rakuten.co.jp/hmvjapan/727655/久々にリストを聴きたくなったのには理由がある。仕事後にたまたま立ち寄った喫茶店で、リストの「愛の夢」が流れていたからだ。そのピアノ曲を聴きながら、説明しようのないくらいに体がリラックスしてきて、ここ最近忘れかけていた言いようのない安ぎを感じている自分がいることに気づき我ながら驚き、そして、次のように思った。体がこんなにもリラックスしているなんて、いったい何ヶ月ぶりだろう・・・・・?。そう思えたら、なんとも満ち足りた安堵感につつまれていた。帰宅し、いま部屋でリストのピアノ曲の幾つかを繰り返し聴いている。「愛の夢」「コンソレーション」「ためいき」リストのピアノ曲を聴いていると、身も心もあたたかな金色の粒子につつまれているような気分になる。すばらしい。こんなにも美しく豊潤且つ贅沢な至福の時間を届けてくれる音楽はそうそうない。こうした時間を生活の中で大事にしたいと思う。また、これから日々、そのように自分が在れる術を、いま模索しているところ。少なからずの現代人にとって、こうしたことは簡単なことではないかもしれないけれど、僕にとっての今年の課題のひとつに掲げたい。では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.01.25
まあ兎に角物凄い映画。ここ10年、20年の間に日本で作られた映画の中でベストな作品といったら褒めすぎだろうか?。いやそんなことはないでしょうと思う。それほどに凄い映画なのだから。って一体なんの話なのかというと、昨夜の日記にて記した『愛のむきだし』という日本映画の話題を再びといった趣向の日記なんでありまする。繰り返し何度も何度も日記に書きたいくらいに物凄い歴史的価値のある名作中の名作映画だと声を大にして言いたいわけなんですよ。基本的に僕はあんまり日本映画を見ないのです。なぜなら・・・・・というか実は自分でなぜなのか判らないのだけれども、自分の国が製作する映画作品に対して心の底から魅了されにくいことは確か。その理由として愚論を承知で敢えて説明するとすれば、先日の日記にて紹介した松本仁志監督の「しんぼる」という名の駄作に象徴されるような映画作品群に向き合いながらどうしようもなく絶望的な気分になる、というのがまず第一にあげられると思う。「あんた、それ違うんでないの??ってゆうか巨額な大金投じてまで作られる意味のある映画なの?!」なんて風に白目をむきながら挑発・訴えたくなる気分を持て余すことが少なくない、それが僕にとっての多くの現代日本映画なことは、(少々の独善を承知で言うと)、そういうことになるんであります。つまり、理屈抜きにハートを焦がし揺さぶりをかける映画を沢山世界に向けて、あるいは自国に向けて発信出来る環境・土壌が自ら肥やされていない状況への苛立ちと言い換えてもいい。「おまえよお・・・マジで、いいかげんにセイントセイヤだぜい(爆)」なんて気分で眩暈に苦しみながらのバブル崩壊の歳月を経ても尚鮮明な突破口を提示出来ない・しようとも思っていないかもしれない我がジャポン映画文化への激しいジレンマ・苛立ちを鎮めるべき勇気ある映画を生もうとする意思の爆発に涙を流しながら共感してしまう、そんな感動的な映画作品に出逢えた興奮に感謝できる、そんな風に心の底から思える映画に出逢えることが少ないから・・・それに尽きる。現代日本の病理をきちんと読み解し処方を必死に考え生きているヤツと、そうではない表層的な部分をなぞっているだけの浅はかなバカっぽい自称:文化者もしくは自称:表現者な輩たち、これらの大きく分けて二通りの種類の映画人がいるとして、勿論、『愛のむきだし』という日本映画は前者に該当する奇跡的なほどに貴重な、この ”現代ジャポン” という時代性への必然なる処方箋となるべくこの世に今生を受けた藍と感動の衝撃のドラマであることは神様だって保障すること必至。それくらい、凄い映画、名作中の名作といえるでしょう。時代にトドメを刺す!、なんて言ったらタランティーノのパルプフィクションの宣伝用文句として15年くらい前に一世を風靡した過激な表現ですが、この「愛のむきだし」という映画はタランティーノが作ったどの映画よりも遥かに比べようのないくらい優れた映画であるばかりか、まことの意味で現代日本の心臓を貫き時代にトドメを刺す!そんな最良の処方へ導く光、カミナリの如き衝撃を伴った崇高な愛の光であることは明白。まさにリーサル・ウエポン!!。『愛のむきだし』映画予告編http://www.youtube.com/watch?v=f3MDZLmrLB8http://item.rakuten.co.jp/forestplus/4527427644182/ 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24
有名なピアノ・ソナタである「悲愴」に関していうと、ベートーベンの再来と謳われたバックハウスの演奏よりも、グレン・グールドによる「悲愴(Pathetique)」の方が圧倒的に好き。グールドの弾くピアノの調べがベートーベンの曲本来の魅力というよりも、またそこから微妙に異なった情熱と安らぎとロマンチシズムを聴く者の心に言葉をなくすほど染み入るように伝えてくるから。勿論、これはグールド的解釈・世界観において展開・演奏されるベートーベン。ゆえに僕はベートーベンの音楽に惹かれると同時に、グールド的宇宙に深く共感しているといえるでしょう。こうしたことは別にベートーベンやグールドを持ち出すまでもなく、クラシック音楽全般について語れる話です。実に繊細で微妙な趣向が分け隔てる、こうした演奏者や指揮者による聴き比べを通じて見えてくるのは、ベートーベンやグールドの解釈や哲学もありますが、当然、その演奏や解釈に触れるリスナーの精神性そのものでもあります。「この曲に出逢うために自分は生まれてきたのではないだろうか?」そんな風に思えるクラシックの名曲を、僕は幾つかあげることが出来ます。ベートーベンが作曲し、そして、グレン・グールドが演奏する「悲愴」も、そのひとつ。言葉にならないほど素晴らしいピアノ・ソナタです。http://www.youtube.com/watch?v=5cELMIRPiZw&feature=related あなたも、上にリンクを貼った音源に耳を傾け、夢見るように星空に囲まれるように、静なる愛と孤独とロマンチシズムを感じて下さい。そして心の底から溢れる感動にふるえてほしいと思います。ベートーヴェン / ピアノ・ソナタ第8、14、23番 グールド(p) 輸入盤 【CD】 http://item.rakuten.co.jp/hmvjapan/2713137/それと話は変わりますが、先日の日記にて紹介したリストの「愛の夢」とは、こんな曲です。辻井伸行さんが演奏する「愛の夢」。これ、すごいです。本当凄いです。感極まってしまうほどに、すごいです。http://www.youtube.com/watch?v=d6GXdWcl6i0&feature=related 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24
今年になってから不思議なことが続いているのです。これは説明が難しいかもしれません。形容し難い偶然の出来事が更なる化学反応を起こしそれが次の幾多の不思議な出来事とつながってゆき、更なる渦を引き起こす、そんな感覚。こういうことって誰にとってもあるものだとは思うけれど、今回のシンクロの波は現在の自分にとって何かしら非常に大きな意味を持っているような気がする。勿論、善き流れとして、そして己をより向上させるものとして、こうした一連の出来事が一本の川のように未来に続き、あたかも何らかの摩訶不思議な物語を紡ぎだそうとしているかのよう。こんな夜には、なぜか、ラフマニノフが聴きたくなります。途方もなく美しい情熱の薔薇のような、この曲を。ラフマニノフ 「パガニーニの主題による狂詩曲 作品43第18変奏」http://www.youtube.com/watch?v=90MuPqYtV_k明日も素晴らしい一日でありますように。それと話は変わりますが、先日の日記にて紹介したリストの「愛の夢」とは、こんな曲です。辻井伸行さんが演奏する「愛の夢」。これ、すごいです。本当凄いです。感極まってしまうほどに、すごいです。http://www.youtube.com/watch?v=d6GXdWcl6i0&feature=related 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24
今夜は、サティの曲の話題。「ジムノペディ第一番」に関するエトセトラを少しだけ綴りましょう。ジムノペディ。サティの曲の中で最も好きな曲。これは一昨日の日記のリストや昨夜のモーツアルトとはまるで趣きが異なり、妖しさと繊細さと安堵感が奇妙に入り混じった摩訶不思議な、そして美しく透き通ったピアノ曲。なんというか語弊があるかもしれないのだけども、そこを敢えて僕なりにこの曲の魅力を説明・形容するとすれば、迷宮の入り口で妖しくも美しく金色に輝くエキゾチックな扉を前に、どこからともなく鳴りはじめる音楽・・・・・そんな印象があります。まあとにかく、その摩訶不思議な扉を開けば、そこに広がるのは金色の王国か、はたまた不毛で邪まな大地なのか、判断しかねる。そんな一抹のためらいと不安感と期待感に心が敏感になる、そんな奇妙な感覚に包まれつつ恍惚となってしまう曲なわけです。”恍惚と不安そのふたつ我にあり”なんて有名な言葉がありますが、ジムノペディという曲にも同様に恍惚と不安が入り混じっているわけですよ。それはサティを含め近代に生きた芸術家達の心に宿った恍惚と不安であったことでしょうし、またそれは時代を超えて現代を生きる僕らの心にも奇妙なほどに深く浸透する音の連なり、内なる感情の機微と共振する絶妙な旋律として響き渡る恍惚と不安を内包した音色でもある。この曲は時に僅かながらの不協和音を響かせながら、しかし全体として恍惚とした美や安らぎが志向されている。今の僕自身の心境にどこかしら重なり合うものがあるといったら、それは自意識過剰というものだろうか。いや、そんなことはありません。この曲の旋律と響きは、現代という時代に生きる僕やあなたの心の様相に鳴り響いている恍惚と不安の旋律・響きそのものであり、またそのような子守唄であることは恐らく間違いないでしょう。多分、この日記を読んでくれている方も、一聴すれば「ああ、この曲知ってるよ」となるはず。有名な曲ですし。ジムノペディ第一番(Gymnopedie No.1) Erik Satie http://www.youtube.com/watch?v=bFpXv5iNT8sそれと話は変わりますが、先日の日記にて紹介したリストの「愛の夢」とは、こんな曲です。辻井伸行さんが演奏する「愛の夢」。これ、すごいです。本当凄いです。感極まってしまうほどに、すごいです。http://www.youtube.com/watch?v=d6GXdWcl6i0&feature=related 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24
K.271といったら勿論、モーツアルトのピアノ協奏曲を示す番号。この世に至高の協奏曲は数あれど、こんなにも神々しく且つ天使の微笑のように愛らしく無垢で軽やかなピアノ協奏曲を僕は他に知りません。ことクララ・ハスキルによる1954年の奇跡の演奏(パウル・ザッハー指揮ウィーン交響楽団)を前にすれば他のどんなピアノ協奏曲でさえ全て色褪せて聴こえてきてしまうくらいに、このピアノ協奏曲が放つ魅力は筆し難いものがある。ピアノ協奏曲 弟9番 変ホ長調 K.271《ジュノム》http://item.rakuten.co.jp/book/3901178/ということで今夜に聴いているのは上記したモーツアルト。ハスキルの演奏に耳を傾けるのは久々。半年振りくらいかもしれない。昨夜にリストのことを綴った日記を書いた後から、クラシック音楽ばかり聴いています。ふと、今、映画の「ある愛の詩」に登場するひとつのセリフを思い出しています。”死ぬということは、モーツアルトが聴けなくなるということ”モーツアルトの音楽の魅力、そしてクラシックの魅力を、これほどまでに端的に言い表わした言葉は、おそらくこの世の何処を探したって他にないでしょう。それほどまでに素晴らしいということです。音楽って、特にクラシックって本当に素晴らしいのだと改めて再確認することが出来た今日この頃の冬の夜。それはそうと今日は素晴らしい一日でした。昨夜の、リストのピアノ曲効果が絶大に奏を効したといえるかもしれない。 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『リスト 愛の夢』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.24
自分で書いた日記を後で再読してみて、こんな風なことを思うことがよくある。「何がいいたいのかよく分からないなあ」「それ、ちがうんでないの??」「気持ちはなんとなく分かるけどさ、もっと塾考を重ねながら自分の意見をまとめあげ、それから文章を構成したほうがいいと思うよお」そんな風に自分で自分が書いた日記文章に対してツッコミを入れることがよくあるのだ。よくある、というよりも毎回毎回僕の日記というのは、そういう意味でツッコミどころが満載であるといえる。その代表的なものが昨夜遅くに発信した日記であろう。今しがた再読しながら腕を組みつつ、「わけわかんないなあ」と首を傾げた理由を自問自答したところ、ふと思い出したことがあった。日記の前半部分、これは何と、何週間か前にワード・ソフトに綴ったまま放置していた文章のひとつ。日記の冒頭から、 ”芥川龍之介の小説のタイトルのように、すべては、藪の中。確かなことなど何ひとつない。” という箇所までの文章がそれ。その何週間か前に自分で書いた文章を読みながら、「あんた、それ違うでしょう?それだけじゃないでしょう??」なんて自分にツッコミを入れながら自分と対話するように昨夜に綴ったのが昨夜の日記であるということを思い出したのだ。「わけわかんないなあ」と自分で書いた日記を読みながら僕が首を傾げた理由は、昨夜における自分との対話が上手くいかなかったことを確実に物語っている。こうして日々、自問自答は続く。これからも。まあなんというか、僕の日記というのは基本的にそういう類のものである。実に個人的な事柄を綴ったものに過ぎず、且つ、混乱と矛盾と僅かばかりの真実めいた光の発見の入り混じった得体の知れない渦の中で進行しているごくごく個人的な世界。なので、もし仮に僕のブログを読みにきてくれている方に僕の内なる混乱さ加減が悪しき影響として及んでしまう可能性は否定出来ない。今日は日曜日ということもあってか、何度も訪問してくれた方々がいたのだけれども、兎にも角にもそんな程度のブログでしかないことは明白なので御訪問は各々の自己責任で御願い致します。 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『DREAMING 美しい春の訪れに想いを馳せながら』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.22
己を「流す」己が「固まらない」そして、他者の存在を慈愛を込めて、「未来に流す」他者の存在を敬意を込めて、「やわらかく、未来に、後押しする」そうした相互の響き逢いこそが、人と人との真の良質な関係性なのと思います。そして、世界を構成するありとあらゆる無数の粒子を善きにつなぎとめる真理なのだとも思います。一体どうして僕は、上に書いたようなことを思いついたのでしょうか?これを説明すると実に、長い話になります。しかし、長い話になると面倒なので、簡略に記しましょう。--------------------------------------------------肩凝りが非常に物凄いのですよ。年がら年中、僕は。それで、こうした症状をどうにかしたいと、20代の頃から真剣に考え続けてきた経緯があるわけです。以上。 --------------------------------------------------一旦、話題を変えて。今日、仕事を終えた後に街角を歩きながら、肩が非常に凝っていた時のこと。こんな文字が掲げられた看板が目に入りました。要約すると、 ”肩凝りを治したい方へ”。・・・・・本当?。肩凝り、治るの??。半信半疑で、その看板が案内するお店に入りました。そこは台湾の方が経営する健康指圧店。一時間4000円とのことで利用することにしました。病院の施術室のようなベッドにうつぶせになり肩凝りの激しい部分を揉み解してもらっている最中、施術してくれている台湾の方が、少しタドタドシイ日本語で僕にこう言ったのです。「体の力を抜いてください」体の力を抜く??ハッとして、僕は、そのワケ(理由)を質問しました。僕の体に必要以上の力が入っているのですか?肩を触っていてそれが分かるのですか?と。「分かります」上に書いた会話の最中に僕は、突如として眩しい光に包まれたように、気付いたのです。これだ!と。これが僕という人間に欠けていたことだったのだ、と。20代から悩まされていた肩凝りの苦痛から開放されるべく最良の知恵だったのだ、と。つまり、こういうこと。----- 力を抜く -----その後、次の質問を続けました。「体から力を抜く方法を教えてください」返ってきた答えは、このようなものでした。「何も考えず、ただ、リラックスしてください」どうすればリラックスできるのですか?と、けっこう真摯な質問を続けたのですが、あまり早口で且つカタコトな日本語であったために、僕はその答えを聞き取ることが出来ませんでした。なんとも歯がゆい想いで自問自答を繰り返していたら、ふと、ひらめいたのです。もしかしたら、こういうことなのではないだろうか?と。何も考えず、ただ、リラックスできる最良の方法とは、目の前の相手を、ただ、信頼し、心を委ねることなのかもしれないそんな風に思えたら、大きな大きな光に祝福されたような、そんな風に、あたたかな気持ちになりました。いやあ、どうして、こんな単純なことに今まで気付かなかったのだろう・・・?。人生って本当に奥深いものだ。そのように想いながら、今日は、こうした気付きを得ることが出来た自分を褒めたくなりました(笑)。 上に書いた気付きに至ることが出来たことには伏線があるのです。玄侑宗久さんと鈴木秀子さんの対談本に記されていた、ひとつの言葉、これが最大のヒントでした。----- 日本で死者を「仏」と呼ぶことがありますね。「仏」はもともと「ほどける」が語源なんですよ。もちろん日本人が勝手に「仏に「ほとけ」という読み方を当てはめたわけだし、仏教本来の「仏」は死者を意味する言葉でもなかった。そのあたりの分析や解釈は学者さんたちの仕事なわけですが、私自身は「ほどける」という解釈がひじょうに気に入っています。仏教的な「死」をじつにうまく表現していると思いますね。 (玄侑宗久)-----では、また次回の日記で逢いましょう。
2010.01.15
---仕事を通じて人は成長する---自分自身が大事にしている持論であり、これまで生きてきた中で内に培ってきたエトセトラを最大に集約する考えだと思っている。勿論、仕事ばかりが人を成長させるものではないことは確かだとも思う。人は恋や失恋からも非常に大きな成長を得るし、子供は家族間のやりとりの中で人として成長してゆくものだから、なにも人を成長させるものが仕事に限った話ではないことは当然のこと。仕事が人を成長させる、というのは、まあそうした沢山の成長へ導く場面の大きなひとつであるというだけのこと。男の人生にとって、仕事に費やす時間というのは誰にとっても日々の生活において大きなウェイトを占めていることは確かであり、そういう意味合いで仕事を通じて成長をしてゆくという考えにつなげているわけなのである。と同時に、どうして仕事が人を大きく成長させる機会であるのかという問題は実にこれまた深い。また機会を設けて詳しく日記に綴ってみたいところであるが、そこを敢えて言葉数少なく言ってしまえば、己を強制的に仕事という ”人ごみが生み出すカオスの坩堝の場” に追いやることで、そこでしか得ることの出来ない成長というのは実は何ごとにもかえることができないほどに貴重なものであり、自分自身の至らない部分をこれ以上に成長させてくれるありがたい場・機会など他にないのでは?と僕自身の経験からさえ思えるから。そうした意味で、やはり、僕には現代日本に溢れているらしい「ニート」な若者たちに対し考え込まざるをえないわけなのである。行政がわざわざニートな若者たちに職業を斡旋しようと様々な策を講じているらしいという話もきく。にも関わらずニートさんたちは耳を貸す気もないらしいという図式があるという話もきく。これは先日の日記で紹介したyoutubeの動画とは別な動画の中で紹介されていた話。http://www.youtube.com/watch?v=iRZfRDABf9E&feature=related現在、ニートさんたちの数は実に63万人に上るという。誰が彼らの生活を支え養っているのだろう?。ニートさんたちは「自分だ」と答えるかもしれない。しかし、そうじゃないだろう。影ながら自分の子供の安否を気遣い見守ってくれている年老いた親たちの存在が当然ながら彼らの生面線であることに彼らニートさんたちは恐らく気付いていないことだろう。そしてこれも当たり前の話だが、沢山の仕事人たちの日々の仕事面における苦労の結晶の一端である税金が、そして行政が、本来ならば飢え死にしているはずの彼らの生命を何とか今のところは根底から支えていることが出来ているに過ぎないのだ。この大不況の只中であっても国の財政の余力が現代日本に生きる ”脱力ニートさんたち” が凍え死にしないように、「なんとか今のところは」養えてゆけているというだけの話なのである。この先の未来において今同様に彼らを守る余力がこの国にあるなどということは総理大臣でさえ保障はしないだろう。さて、あなたはどう思う。先日に発信した、ニートさんたちにまつわる二つの日記も読んで下さると嬉しいです。2010.01.20日記 「ニートの気持ちが分からないのは僕がオヤジになったからなのか」http://plaza.rakuten.co.jp/lukanomatinami/diary/201001140008/2010.01.21日記 「日本の未来、あなたの隣人の未来。不良少女と呼ばれてな人々はどこへ消えたのか? 「不良」から「ニート」へ、時代の移行に想いを馳せて」http://plaza.rakuten.co.jp/lukanomatinami/diary/201001140010/ 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『ときほぐす、ということ』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.14
「不良少年の目は透き通っている。なぜなら彼らの心が純粋だからだ」そんな意味合いのことを故・作家の開口健氏がエッセイに綴っていたことを今思い出している。さすが、開口健。いいこと言う。そんな気分で今夜の日記をはじめるとしよう。BGMはシド・ビシャスの「マイ・ウェイ」で決まり。ドンピシャって感じ。http://www.youtube.com/watch?v=WIXg9KUiy00&feature=relatedさて、何十年か前にダムドという外国のパンクバンドが「ニート、ニート、ニート(Neat Neat Neat)」という歌を歌っていた。かなり、エネルギッシュな激しく熱い歌です。ところで今この日記を読んで下さっている方の中には、「パンクバンドって何??」と腕を組みつつ考えていらっしゃる方もいるかもしれません。PUNKこれを、どのように説明すればいいのでしょう?難しいですね。あれこれ説明するよりも、次に紹介する映像を見てもらえば即座に誰にでもPUNKあるいは、その昔にニートと呼ばれていた若者たちの姿を垣間見れます。THE S○X PISTOLS - God Save The Queenhttp://www.youtube.com/watch?v=MeP220xx7Bs昨夜の日記にて紹介した映像は一週間くらい前にYOUTUBEにて「おすすめ動画」として大きく紹介されていたもの。それほどまでに社会的な関心がニートという存在に集まっているということなのでしょうか?あるいは少なからずな人々がニートと呼ばれる若者たちが象徴する何かに困惑しているということのあらわれなのでしょうか?どうなんでしょうね。難しいところです。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、ニートは以下のように定義されているようです。---------------------------------------------------ニート(NEET)とは、教育を受けておらず、労働や職業訓練もしていない若者を指した造語で、「Not in Employment, Education or Training」の頭文字を採っている。ただし、この訳は日本におけるニートの定義・用法とは異なる。なお、以下では特に断り書きの無い限り、日本における(若年)無業者について・・・・・・(云々云々、以下省略)。---------------------------------------------------おそらく日記の冒頭において記したダムドの歌のタイトルの由来は、上に説明されていたところの、”教育を受けておらず、労働や職業訓練もしていない若者を指した造語”に該当するのでしょう。一方、現代日本における ”ニート” というのは一体どんな存在なのだろうか?。気になった方がいましたら上にあげたウィキペディアを是非参照願うところです。詳しい考察のエトセトラがあたかも学術本の如きに列挙されており一読の価値は大いにあります。まあダムド的、あるいはPUNK的な熱いニート像とは趣を変える現代日本的 ”脱力ニートたち” が象徴するものは果たして一体何なのでありましょうか。僕なりにニートの歴史を簡単安易に綴るとすれば、ケルアックの文学「路上」、その後のサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」、でもってそうした時代の流れと歩をあわせるようにしながら進んだ諸外国におけるロックなりPUNKの歩みがあるとして、まあそこまでは元気な勢いがあって甚だ宜しい頑張れってなもんなのだが、その後に続くのが、「脱力」って一体何なのさ?(爆)・・・・・おいおい。そんな風な簡易郵便みたいな考察から見えてくる日本の未来ってマジで絶望的???どうなんでしょうね。いやあ、そんなことはない、と僕は思うのですよお。というか、思いたい。願いたいものだ。だいたいが日記の冒頭にしるした、開口健の「不良少年の目は透き通っている。なぜなら彼らの心が純粋だからだ」云々云々なだけでは、人は長い人生において如何なる事故に遭遇することなしに長きに渡り前に進み続けることなど出来ないのだから、そういった歴史の流れをもしかしたら現代日本に生きるニート君たちは本能的に嗅ぎ取っているのかもしれない。そうした実にアンニュイな可能性も、もしかしたらニートさんたちの存在から導き出すことも可能かもしれないと、かなり強引だけど、なんとなく思わないこともない・・・・・と崖っぷちジャポンの未来に何らかの処方箋を差し出したく願いながら様々な思考をめぐらせているわけです。時に暗澹とした気分の中で。明日もニートについて云々云々と考察してみたいと思います、かもしれません。 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『ときほぐす、ということ』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.14
ここ数年、日増しに雑誌やテレビ等で、やたらとニートという言葉を目にする頻度が高くなってきたような気がする。僕は、この「ニート」という言葉の意味がよく分からなかったのだけど、興味深い映像に出会い、これがニートなのかと何となく理解した次第。『たけしがニートに激怒 「働けよ、バカ野郎!」 』http://www.youtube.com/watch?v=4KMcLgi-DScさて、あなたは上の映像を見てどう思う?。話は僕自身の事柄に移るが、僕という人間はお世辞にも社交家とはいえず、どちらかというと内向的なタイプ。プチ・ニート系タイプといえなくないかもしれない。しかし、だからといって、毎日部屋に閉じこもっていたいとは皆目思わない。外に出て自然の景色に感動したり、街行く人々のエネルギーを感じて刺激を受けたりすることの愉しさを僕は知っている。まとまった時間と大金があれば、いつだって世界中を旅していたいと思う。だいたいが、部屋に一人で閉じこもっているなんてこと自体が心の健康を考えた場合、太陽の光を浴びて成長することを自ら拒むようなもの。体にも心にも、良いわけがない。というより、面白いことなんて何ひとつないじゃないか?とさえ思う。たとえば僕が、自分の部屋で一人で過ごしている時間というのは、一日の中でそんなに多くない。せいぜいが仕事を終えて、眠る前の2時間程度。この2時間程度の時間は、自分にとって貴重で大事な時間。その理由として、次のふたつに大きく集約されると思う。*今日一日の仕事において良かったことも反省点も含めて色々なことを内省するための時間だから。*様々な本を読み、心に栄養を与えることが出来る時間だから。こうした静かな時間というのは、仕事面において素晴らしい人物との出会いを通じた内面の成長とはまた異なる醍醐味がある。上に記した時間は、自分にとって、ひとりで部屋に閉じこもることが目的で用意された時間ではない。ある意味、明日のために用意する時間、明日に出会う沢山の人々と豊かにつながるために用意された時間ともいえる。そういう意味で、僕は、こう考えるのだ。「ニート君たちよ、君たちは人生を損しているよ」 と。内に閉じこもることで心に一時の安定を与えることは可能だけど、それにばかり慣れてしまったら、野原に咲いている花の美しさを忘れてえしまうだろう。社会で生きていると、嫌なことも辛いことも多々あるだろうけれど、そこから完全に離れてしまったら、そこでしか体験できない己の成長だって放棄してしまうことになるし、そうしたことを通じてしか見つけることが出来ない他者の心のありがたみや美しい笑顔のかけがえのなさというものだってあるんだ。つい、そんな風なことを、上から目線ではなしに、遠い親戚の青年に接するように、いいたくなる。誤解を避けるために付け加えるけれど、僕は、ニート=単なる怠け者というような図式を頭に描いてはいない。彼らの心の戸惑いや社会への不安定な眼差しというのは、ある意味、この現代社会の歪みと正確に対峙していることのあらわれだと実直に思うから。それくらい社会に息づく人々の心の荒廃が加速し、もはや修正など利く余地などないのでは?と思えるほどに酷い世の中であることは間違いないのである。と同時に、ニートとして生きる若者たちに対して、必要以上に応援したり同調したいとも思わない。日記の冒頭に紹介した北野武氏の発言と同じように、僕も次の言葉を投げかけるだろう。「働けよ」。言葉をかえれば、ニートとして社会の中で生きるよりも、もっと別な、あなた自身の存在を輝かせる社会との交わり方を模索し実践したほうが絶対に良いということ。本当、そう思う。ニート君たちは人生を損していることを自覚すべきである。閉じこもるのではなく冒険すべきだ。でないと、ニート君たちの瞳はいつまでたったって輝くことを知らず、怠惰なときの連続の中で老いさらばえてゆくだけになってしまう。こういうことを、人生損をしていると呼ばずに一体なんとよぶのか。 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『ときほぐす、ということ』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.14
あなたは、どんな女性と接した時に「ああ、この人はキレイだなあ」と感じますか?。あるいは、「この人は周囲の人達から愛されているなあ」と感じますか?。僕の経験上、この人は周囲の多くの人から美人と称され愛され慕われていると感じるタイプの女性というのは、意外と質素で地味な感じの人、佇まいが普通で自然体な感じの人だったような気がします。笑顔が絶えず太陽のように燦燦と輝いている人であるとか、八方美人風なタイプの女性というよりも、けっこう地味で穏やか表情ながら、だけれど、ちょっとした心遣いが場を和ませ安心感を与えるような、そんなタイプの女性が殆どだったといっても過言ではないでしょう。決して顔自体が女優さんのように整っているから、皆に愛されているというわけではないはずです。こういうことって女性に限らず、いままで出会ったモテ男たちにも同様のことがいえるような気がします。その人らしさ、というものが、良質な品性を伴いながら、表面にあらわれているような、そんな人を、本当の意味での、美人、美男子、というのでは?と僕は考えています。こういう事柄って、モテル女や男だけに限った限らず、会社についても同じことがいえるような気がするのです。つまり何がいいたいのかというと、 ”周囲に安心感を与えられるかどうか””安定しているかどうか”が大事だということなのでは?ということです。たとえば前述した「笑顔が絶えず太陽のように燦燦と輝いているタイプ」には、同時にその人が内に宿している影の部分というのが、本人がどんな隠そうとしても、なにかしらの事象を伴って必ず表面化し他者に伝わってしまうものです。八方美人タイプの人もこれと同じように、実は大きなアンバランスを内に抱えていることが往々にしてあります。いっぽうの、普段は地味な感じで、普通に穏やかな感じの人というのは、たとえ時に寂しそうな顔をしていたり不安そうな表情を見せることがあっても、意外と心のバランスが安定しているものなのです。そして、日々のちょっとした他者の心遣いが、計算としてではなく、その人の自然な真心や品性から生まれているということが他者の心に安心感を与えるから、いざという時に、必ず周囲の誰かから守ってもらえることが出来る。少し話は変わりますが、こうした話って、会社もきっと同じことでしょう?と思うわけです。だいたいが、ぱっと華々しく勢いよく登場した会社やお店ほど、散るのが早いというもので。この不景気の只中を生き残っている会社やお店を考えてみてください。長く続いている会社ほど、一年を通じてあんまり派手なことはしていないでしょう?。意外と地味ですよね、そしてお客さんに安心感を感じさせる、そんなあたたかさがありますよね?。それが、その会社やお店の品性なのであり、長きに渡り周囲の人々から評価を受け続けていることにもつながっているのだと思います。こういう話というのは、先日から連日で日記に書いている平林都さんの本に書かれてある事柄と深い部分でリンクしているように思います。ということで、「他人から愛される3つの条件」と題し発信した昨夜の日記を以下に再掲載。------------------------------------------他人から愛される3つの条件------------------------------------------平林都さんの本を読みながら、すごく勉強になる部分ってどこかといえば、全ての頁です。だけども、読む日によって、その時の自分自身の心持ちで、「今日は特にこの箇所が勉強になる!」と思える頁が当然あります。僕にとっての、今日に平林さんの本の中で特に「いいこというなあ!!」と唸った箇所を以下に記すことにします。----- 3つの条件を満たせば、いい印象とチャンスが与えられる -----そう綴った後、平林さんは次の文章を続けるのです。グレイ文字で引用しましょう。人に、「この人、なんかとっつきやすくて好きや」と思ってもらえると、得こそすれ損をすることはありません。とっつきやすい人は、人から頼りにされたり、かわいがってもらえたりするからです。私が考える「とっつきやすい人」とは、次の3つの条件を満たしている人です。1. 笑顔の人2. 自分から挨拶する人3. 自分から動く動作がみられる人どうして僕が、上に引用した箇所に唸ったのかというと、それは実に単純な話で、僕自身が仕事を通じて良き機会に恵まれたり、仕事を頂けたりする際の、自分の行動を内省する際に、それは決まって、上に平林さんがあげている3つの条件に自分の動きが重なっている時であると思い当たったから。たとえば、今日に僕がお得意先のお客様とどのように接していたのかを少しだけ書きたいと思います。朝方にそのお客様から電話が鳴りました。「このあいだの仕事、○○の件、あれ頼むよ」(相手)僕は感謝の気持ちを電話越に伝え、日程の調整などを含んだ書類を作成し届ける旨を伝えました。その後に、同じお客様から相談されていた別の物件のことを差し当たりのないように伺ってみたところ、こんな返事が返ってきました。「ああ、あれね、ちょっと中止・・・・・まあ検討しとく」その後、僕がとって行動とは次のようなものでした。早速、相手の望むスケジュール調整を行うために作成した書類を持って、相手先の会社にお伺いしたのです。そして依頼された仕事の日程等の取り決めを行った後に、さりげなく、先程にお客様から「検討しとくわ」とやんわり断られた物件の話題に移りました。相手の表情から、これは、こちらに非があったわけではなく、お客様自身の心の中になにか迷いがあることを察しました。その迷いが一体どのようなものであるのかを知るべく、30秒ほどの会話を重ねた結果、僕は、こう確信しました。(このお客様は自分が作りたいものの正確な姿を、まだ本当はイメージできていないのだ)僕は次のように会話を続けました。「一旦、あのプランを横に置き、別なアプローチで進めてみてはいかがでしょう?たとえば、こういう方法もあります」そして、数週間前にお客様から ”具体的なプラン” として差し出されたアイディアを一旦白紙にし、別な角度から、様々なアイディアとそれらを実現させるより具体的な技術に関する云々を幾つかお伝えしました。すると急にお客様の表情から陰りが消え始めたのです。先程に僕がお客様の表情から読み取った「迷い」が消えた瞬間でした。「それ、いいなあ・・・そういう方法もあったのか!」お客様はそう言って、笑顔になってくれたのです。その後に、数時間前に電話越しにやんわりと断られた物件が再始動したのは言うまでもありません。上に上げたお話は、平林さんの説明する 3つの条件の中の、 ”3. 自分から動く動作がみられる人” に該当するのではないか?と思います。やはり仕事でも何でも、自分から動こうとする意志が感じられる人を信じてみようと、誰でも考えるはずなのです。日記の冒頭に紹介した平林さんが述べる3つの条件とは、思うに、仕事が舞い込む条件ばかりではなく、他人から大切にされる3つの条件、他人から必要とされ愛される3つの条件と言い換えても何ら違和感はないでしょう。以下に、数日前の日記--------------------------------------------------------------------- 言葉は力であり、敵にも味方にもなる -----エチカの鏡で有名な平林都さんが、自身の本の中で太文字で記していた言葉が上。この言葉の後に次の文章が続きます。以下にグレイ文字で紹介しましょう。言葉が力なら、「わざわざ敵にする必要はない。味方にしてしまえ!」というのが私の考えです。他の店、他の企業では聞けないような言葉を使い、お客様にまた足を運んでいただくこと。それが接遇なのです。そして、人が人を呼んでくれます。これを体験すると、ますます自分に自信ができて、仕事にも人生にも生きがいが持てるようになります。このようなことを実感したので、私はいろいろなところで、「接遇が幸せを呼ぶ」「誰でも接遇で幸せになれる」と、お話しするようになったのです。すごく勉強になる本です。本当、こういう本がほしかったと実直に思います、というくらい凄い本。平林都さんという人物。いま、この人のことを知らない人はいないんじゃか?というほどに有名な方ですよね。僕自身、平林都さんの出演する番組はけっこうチェックしているので、よく平林さんが番組でお話されていたことを仕事中に思い出したりするのですが、本を出されているとは知りませんでした。この本を知ったのは、たまたま偶然によってでした。先日の大石ゆうさんの日記を訪問させてもらわなければ、今も知らずにいたでしょう。大石ゆうさん、ありがとうございます。良き情報に感謝します。また次回の日記でも平林さんの話題で日記を発信する予定です。---------------------------------------------------------------- 今日の日記は後で消しますので、読み流して下さいませ。”書き込み” は下にリンクを貼った日記にどうぞ☆☆☆『ときほぐす、ということ』←クリック!上にリンクを貼った日記への感想をお待ちしています。今日の日記への書き込みは御遠慮願います
2010.01.14
母の実家は純粋に神社系でその道一筋、父の母親の家系は熱心な天理教であり、しかし現在、そんな父と母は特にひとつの宗派に拘るのでもなく、自分の家には仏壇と神棚が別々な場所に大切に祀られてる。こうした家庭は別段めずらしいとは思わない。大方の日本人が、そんな風に信仰や宗教というものを捉えているであろうし、またそれが不自然で奇異なことであるとも僕は思わない。伊勢神宮について書かれた本の中に、岡野弘彦さんという方が「神々の物語」と題された文章を寄せている。以下にその抜粋部分を太文字で紹介しよう。----- 「日本人は信仰を持たない民族だ」というような言葉を、時々、聞くことがある。その言葉は、強固な一神教の国から来た外国人が日本人の信じる神に初めて触れて、その微妙な深さや多様さが自分たちの神観念では理解できないために、ついに混迷して発する場合が多いようだ。そういう外からの言葉を契機として、自分たちの神について内省を深めることは大切だが、自身を卑下したかたちでそのまま受容する必要はない。 -----上の文章を読み深く頷いた方も多いことと想像する。かくいう僕もこの本を初めて読んだ際に大きく頷いたものだった。日本人が自身の日本人としてのアイデンティティを模索する場合、時に混乱に陥りやすいのは(僕自身が若い頃にそうであった)、こうした ”曖昧さ” が深い森の如きに、ただただ広がっている様相のようにしか思えない混乱のようなものかもしれない。しかし、そうした様相、風景を前に、そこから如何なる確固とした思想体系が見えてこないように思えてしまうのは実は誤り以外の何ものでもなく、まあ言ってみれば若葉の季節を生きる者の特徴ともいえるだろう。実際、僕がそうであった。そんな風に生粋の日本人であるはずの僕が、なんとなく日本人の文化が見えてきたのは、これは実にお恥ずかしい限りなのだが、数年前からである。そして、一見、傍から見れば無信仰のようにしか映らない日本が長く守り育み受け継いできた、確固とした軸を敢えて外すかのように曖昧さを大事にしてきたのかということが、そのような文化や信仰の歴史というものが宿している奥深さや神秘さ神々しさに目が開かれてきたのが、実につい数年前からでしかないのだ。こうして最近になってようやく少しだけ大人になれたかもしれないと考える今日この頃。若い頃にも確かに伏線はあった、それは黒川記章という建築家の思想からの影響。そうした影響がようやく30代の後半になり少しばかり実を結んできたともいえる。40にして遂に成人式を迎えた気分だ(笑)。って、まあ冗談はさておき。それくらい日本の文化というのは深遠な世界なのだと思うし、外国の方々が日本を訪れて首を傾げたくなる気持ちも分からないではないというものであろう。建築家の黒川記章氏がどんなに共生の思想を説いたとしても利休ねずみの美しさを説明しても外国の方々にとってそれを肌身で皮膚感覚で理解してもらうということは到底不可能なのではないか?とさえ思えるほどに。さて、ここでもうひとつ、途方もなく魅惑的な、ある作家による伊勢神宮への憧憬と賛辞がこめられた文章を紹介したい。石原慎太郎さんによる「伊勢の永遠性」と題された文章からの一部を以下に太文字で抜粋。----- それはアニミズムをはるかに超えて昇華された、人間とその存在の光背である「自然」との合体融和を象徴しています。故にも、伊勢はいかなる時に訪れても人々の心を深く捉え静謐な感動をもたらしてくれます。それは一日の中の時を問わず、一年のうちの季節を問わず、その折々に醸し出される光景をも問わない完璧な融和です。もし許されるのであれば、私はいつか深夜にも伊勢に詣でたいと願っています。 -----上の文章中の、もし許されるのであれば、私はいつか深夜にも伊勢に詣でたいと願っています。という箇所、これはもう感極まってしまうほどに何とも味わい深くそして美しい表現。さらに、実に素晴らしい、もうひとつの文章を以下に加えたい。玄侑宗久さんと鈴木秀子さんの対談本からの、玄侑宗久さんによる文章抜粋。----- どんな宗教も、深く掘り進むと同じ水脈に通じる ---------- (鈴木秀子さんの存在を指し)先生のキリスト教は、いわゆる赤毛ものではなく、日本人としての先生の体や生活にすっかり沁みとおっている。きっと「よすが」も「ご縁」も「お陰さま」も、いやいや「仏さま」だって、おそらく先生は柔らかく語ってしまうだろう。神仏は概念としてではなく、たぶん鈴木先生の実感の中で生きているのだ -----上の文章を読んだ方の中には、「ルカさん、伊勢神宮のことや日本の文化の曖昧さについてのエトセトラを書いておいて、急にキリスト教の話とはこれ如何に?」とズッコケタ方もいるかもしれない。しかし、こうした話題とする信仰系列の無秩序さ加減、混沌さ加減の中を通して確かに見えてくるもの、それが本当の意味での信仰というものの意味、世界の在り方・人生の在り方を見据える目を心に内に養うということなのではないだろうか、とも思うのである。という意味合いにおいて、玄侑宗久さんの文章を加えた次第。年明けの二つめの日記では、1月3日にみた初夢のことを書こうと考えていたのですが、これはまた後日の機会へ。昨夜遅くに伊勢神宮のことを綴った文章を日記として発信したのだけれど、ふと今日になって少し真面目に(どっこが?笑)、神社であるとか日本人としてのアイデンティティみたいなものへ想いを馳せたくなったのでした。ちなみに日記のタイトルとして的確な言葉が思い浮かばず、岡野弘彦さんが伊勢神宮について書かれた文章のタイトルを失礼かと思いつつ、敬意を込めてそのままお借りしたことを付け加えておきます。また機会を設けて神社であるとか伊勢神宮であるとかキリスト教であるとか禅宗であるとか、そうした信仰というものに集約される目には見えないものに関するお話を日記文章を書くことを通じて考察したいと考えています。
2010.01.12
謹賀新年!本年もどうぞ宜しく御願い致します。2010年は寅年ですね。寅といえば ”寅さん”、そして寅といえばタイガー。タイガーといえば ”タイガーマスク”。寅さんのあたたかい笑顔とタイガーマスクの強さの両方を道標とする、そんな一年にしたいと考えています。さて、一年のスタートに掲げる夢や願いを新年の挨拶に代えダイジェストに上記したわけですが、以下にもう少し詳しく一年の抱負の言葉を紡いでみたい。時間に余裕のある方だけ以下に読み進めてください(長いです。笑)------------------------------------------------------------------ 世界は常に、美しい。もし、僕らが己の人生の中で、美しく生きられない瞬間があるならば、それは自分自身の心のあり方を修正する必要があるからだろう。泣いても笑っても、等しく時間は同じように過ぎてゆきます。別に泣くことが涙を流すことが悪いことで、笑うことだけがすべてだと言いたいわけではありません。その両方が誰にとっても重要であることをきちんと理解しながら、その両方のバランスの中で、豊かさを内に育み続け生きてゆく時間の集積こそ大事だと思うのです。神々しいほどの、そうしたバランスへの思慮、命の豊かさへのあたたかな眼差しこそが、僕らの人生に崇高で美しい清らかな一筋の光の雫を生み落とします。至上なる美を纏いながら。ルノワール「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」http://item.rakuten.co.jp/esteya/y-ba1068/話題を少し変え、昨年の一年の始まりに発信した日記の中で僕は次のようなことを書いていました。-----------------------------------------------------------------------------ギターの演奏におけるビブラートと ”エスプリ” には深い関係があるように僕は考えています。そして、現代日本社会に足りないものは、僕が思うに、人々の心と心をつなぐ愛のビブラート・・・・・これに尽きるのではないか、とも。ビブラートが上手くなるように演奏を心がけながら、同時に心の片隅で ”エスプリ” に想いを馳せる。そして少しずつ、楽器を弾くということがどんなことなのかを身体で理解出来てゆく人生の素晴らしさも、笑顔の美しさも、人と言葉を交わすことで生まれる感動も、---少しずつ---、手に取るように分かってくる。人生というのは、きっと、そういうものだと思います。さて、これから始まる 2009年。僕は、ビブラートへの想いを深めながら、ただ忙しく走り回るのではなく、人と人との心がより豊かに愛と笑顔を伴いつつ共振し互いに前に進んでゆけるような、そんな風に仕事に励み、人生に取組みたいと考えています。-----------------------------------------------------------------------------一年前の自分自身の抱負を、きちんと叶えることが自分は出来たのか?出来ました。だけど、同時に、昨年のスタートの際に掲げた抱負を活かせなかったこともあります。”ただ忙しく走り回るのではなく” という箇所、これが全く活かせなかった・・・というのも2009年は2008年を超える多忙さに眩暈を覚えつつ何とか前進出来た、そんな一年に終始したから。しかし、です。眩暈級に多忙を極めたこの一年だったからこそ、おまけに年の後半に体を壊し不安感に打ちひしがれたこともあった、そんな一年だからこそ、同時に、”人と人との心がより豊かに愛と笑顔を伴いつつ共振し互いに前に進んでゆけるような、そんな風に仕事に励み、人生に取組めた” こともまた事実。実に矛盾に満ちたことを書いているような気もしますが、生きるということはそうした途方もない矛盾や混沌の渦と流れの中で進み続けること。少しばかりであっても何か自分にとっての収穫があったのであれば、マイナス要因が付随することも、これはいたしかたないこと。そうしたプラスとマイナスの部分を含めての ”人の生” なのであります。生きるというエネルギーの根源なのであります・・・恥ずべきことはないのです。と自分に言いきかせよう(笑)。兎にも角にも我々は、プラスとマイナスの混沌の渦の流れの中でしか己の生を前に進ませることは出来ません。少しずつ、です。そうした ”少しずつ” の連続の日々の中で、とても大きな豊かさを、なんとか勝ち取ることの出来ないのが、成長というものである。日々の己の成長が実に僅かで些細な小さい歩みの連続でしかないとしても。だけど、それ以外に、大きな海へとつながる小さな川の流れを、自らの中に齎すことが出来ないこれもまた人間の宿命なのだともいえるのかもしれない。現在、新たな一年の抱負を自分が内に掲げるとすれば、それは以下のようになるでしょう。世界は常に、美しい。そして、圧倒的に目も眩むほどに、正しい光に貫かれている。もし、僕らが己の人生の中で、美しく生きられない瞬間があるならば、それは自分自身の心のあり方を修正する必要があるからだ。自分に出来ることは、己の羅針盤に狂いはないのかを日々問い詰めながら、逞しく前進し続けるだけ。栄光を目指して、光に満ちた未来を航海の到達点として力強く内に定めながら。ということで、今年も昨年同様に、逞しく生き、笑顔を忘れずに力強く前進すべく、一年のスタートに発信する日記の締めとして、これ以上は望むべくもない名言を、自分に渇を入れるが如く添え記すことにしましょう。-----負けの九十九パーセントは「自滅」-----(桜井章一)-----人生に勝てとは言わない。勝つことが善で、負けることが悪とは思わない。たとえ負けても、強く生きているが問題なんだ。困難や不安定を楽しめる、強さを持っているかと強調したいのだ-----(桜井章一)上に記した桜井章一さんの言葉を肝に銘じ日々を真剣に生きていれば、自ずと誰にとっても、次の言葉が天から差し込む光のようにあたたかさを伴いながら体の隅々にまで染み渡るはずです。-----あなたは いつも 守られている-----(鈴木秀子)では、また次回の日記で逢いましょう。今年も宜しく!!。皆様にとっても幸ある一年となることを祈念します。
2010.01.01
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