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ロマンスカー、っていう響き、いいですよね。 ほら、一緒に乗る相手が誰であれ 何だか、ゆったり小旅行を楽しめそうな感じがするじゃないですか。 窓から朝陽や夕暮れや富士山が見えそうなイメージ。先輩は言った。 え、私には不倫旅行しか思い浮かばないけど。会話終了。・・・そんなことはさておき、初ロマンスカー。某エステから、2月正式オープンに先駆けて関係者をご招待、とのお話。体験してみて下さいな(ついでにどこかで取り上げてもらえれば嬉しいな)とのこと。 が、それこそ小旅行になってしまう距離なので手を挙げる人がない。それじゃ、ということで同僚のエディターと一緒に行ってみることにした。リニューアルされてなかなかキレイなロマンスカーで想像していた通りの風景を眺めながら、遠足気分で一路西へ向かった。そのエステは、某レジャー施設の中にオープンしたもの。ずらりと並んだ一般客の行列を横目に、プレス専用受付からすんなり入場。マネージャーから挨拶を受けた後、担当者が館内を丁寧に案内してくれた。さて、目的のエステ招待会の予約時間までまだまだある。じゃあ、お昼にしますか!なかなか充実のランチ、すっかり満足。こんなに食べたら、水着は絶対ムリ!と言いながら着替える。まさかこの時期に水着を着るなんて。抜き打ちだ、不意討ちだ、身体が冬眠モードなのに。ヤバイヤバイと口では言いながら、でもお互いの顔がすっかり緩んでいるのを見て笑う。 だって、ポケットにはあれが入っているから!私たちは、半ば駆け出す勢いで更衣室を飛び出した。オイルマッサージ、足底療法、そして某エステのフェイスケアコース、はたまた別のフットケアで角質がキレイさっぱりツルツルに。・・・ とってもきもちよかったです。 またいきたいな。 おわりそんな小学生みたいな感想文を書いてしまえばそれまで。確かに個々のケアは相応に気持ちよく、ひとつひとつにフォーカスすればそれほど文句はない。が、これは ポケットに「報道関係者」のパス(何もかも一切フリー!)が入っている独身女性の言い分なのだ。が、その施設で周りをぐるっと見渡してみると…ファミリー層ばかり。小さな子供の面倒を見るのにてんてこまいの主婦が、この敷居の高そうなエステを利用できるだろうか。そのハードルを下げるような試みは一切見られなかった。では翻って、エステ大好きな都心の独身女性なら? 私なら、二度と行かない。エステのために、わざわざロマンスカーに乗ってまで行く必要があるだろうか。都心には激しい競争の中でレベルアップしているサロンがいくらでもある。じゃあ、カップルならいいんじゃないの。 …ムームーのような、あのセンスの欠片もないウェアを渡されて? リピートはまずないだろう。都心に暮らす人たちは、幸か不幸かいろんなところで舌が肥えてしまうのだ。ラクーアみたいな、随所に気遣いと工夫の凝らされた施設に比べれば、遠く足元にも及ばない。(が、ラクーアはカップルで行くにはちょっとキツイ。水着を着て入れる温泉ではないので、当然男女別。薄暗くて広くて天井が高い部屋の、床暖房の入った石の上にごろんと横たわりひたすらのんびりする、くらいなもの。男性に合わせて一緒にいようとすれば、温泉やサウナを使い倒せなかった女性が物足りなさを感じ、少々不機嫌になり、ついでにケンカ気味になる。…誰のこととは言いませんが)何より問題は、動線に沿わないつくりをしている上、こんなに広いのにナビゲーションがすこぶる悪いことだ。ファミリー層に対する不親切さときたら決定的。テンションの高かった私たちだって、ひたすら振り回され、歩き疲れた。行きの盛り上がりとは打って変わって、帰りのロマンスカーは徹底批評タイムへ。・・・しかし、そうは言っても東京に帰る私たちの足取りは軽かった。だって、そんな諸々の疲れをすっかり支払ってその上お釣りがくるくらいのマッサージを受けていたから。
January 30, 2005
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うーん、でも…そうするのって、面倒だし。・・・ 本当は、面倒とかじゃないんでしょ? 十分、一生懸命じゃない。 本当に伝えたいことをそのまま伝えたからって、 あなたは何にも失わないんだよ。 大切なのは、あなたが自由であること。 自分がしたいような生き方で生きること。 どちらを選んでもかまわない。 あなたであることには変わりがないんだから。・・・そうですね。ほんとにその通りだと思う。ありがとう。こういう時の自分は、大概 考えすぎるか、考えることを放棄するかのどちらかだ。考えすぎて、考えることから逃げ出して、戻ってきて、やっぱり考えすぎるのだ。間を取ったら?いい加減、学んだら?ほんとに、仕方のないヤツだ。
January 18, 2005
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映画館で観る邦画なんて、ジブリアニメくらいなものだ。ドラマの延長をスクリーンで見たって、としか思っていないからだ。「観る」って言葉を使うのも何だかなぁ。…偏見のかたまりである。が、引っ張っていかれたこの映画。顔に縦2本の筋ができ、間断なく流れ続けた。たまに拭っておかないと、首まで伝ってくる始末。思い返せば、涙が浮かんできたのは上映開始10分後。当然、話は何にも展開していない。田舎の光景、美しすぎるその緑の色にやられてしまったのかもしれない。でも、この映画を観に行くことになった時点で「今日は泣く」と決まっていたような気がする。キャスティングだ。というよりむしろ、「好きな顔」だから、と言った方が正しいかもしれない。中村獅童と竹内結子。どうしようもなく好きな、この2人の顔。破天荒さ、小市民的な感じ、豪胆さ、繊細さ、根拠なき自信に溢れた顔、こっちがもどかしくなるくらい自信のなさげな顔。こんな色々な表情ができる中村獅童の顔が、たまらなく好き。竹内結子なんて、鬱蒼とした森の中にぽつんと座り込んでいる始めの登場シーンを見ただけで、目元にじわじわ浮かんできた。こうなってくると、もはや話の筋は二の次だ。犯罪的にキレイだった。いかにも骨の細そうな巧、白いワンピースが似合いすぎる澪。涙が出たのは、あの2人が演じていたからだ。他の顔じゃ、ムリだ。いかにイケメンでも、いかにモデル級の美女でもムリだ。・・・「あの映画、どうだった?」と感想を求められそんなことを力説したのだけれど、もうこれは好みの世界の話。思うとおりに相手に伝わるはずもなく、もどかしくなって口をつぐんだ。
January 16, 2005
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東京在住の、いや、そうでなくでも普通のサラリーマンならまだまだ眠りを貪っている時間。明るくてひんやりした、いかにも冬らしい陽射しの中に佇むお寺へ。 (少々遅刻…ごめんなさい)鎌倉五山のひとつ、円覚寺。日本史好き、寺社仏閣好きの自分にはたまらない。こんなに早く、こんなに寒い朝に、僧侶の話を聞きに来るなんて(しかも鎌倉まで)私たちもなかなか物好き…いやいや、とっても奇特だ。などと自分で思うあたりが、既に生臭い。が、中に入ってみると。本当なら相当広いであろう室内に、スペースはほとんど残っていなかった。もうぎっしり埋まっている。その人いきれをもってしても、ちっとも暖まっていない。この高い天井の下、全く暖まる気配がない。勝手のわかっていない私たちが、何とか空いている場所に座ろうとするとそこは通路だから、と常連(?)の方々に声をかけられる。物見遊山で来たつもりはさらさらないのだが、日曜説教会なるものが、生活の一部になっている人たちに混じろうとしたこの時私たちは、さながら観光客のようだった。で、やっと管主が入ってくる。穏やかそうな顔。渡された「修養聖典」を開き、後を追って一斉に唱える。さっきまで足を崩して座っていた普通のおじさんが、暗証するどころか、節回しといい声の大きさといい僧侶顔負けの読みっぷりだったので、隣で驚く。どこを読んでいるのか、時々わからなくなったりもしながらついていく。仏教徒ではないが、何にせよ厳かでぴんと張った空気が好きだ。終わったあと、「そこは通路だから」と言われた訳を知る。管主が、部屋の中央から斜め後ろのスペースへ移ってくる、その通路だったのだ。おもむろに一同が90度向きを変えて座りなおす。私たちは管主の左手、最前列になってしまった。 そろそろ足がきつい。法話が始まった。失礼ながら、円覚寺の管主様は大変お話がお上手であった。飽きさせず聞かせる、聞き手を話に引き込む、ということをよく心得ていらっしゃる。仏様のお話、みたいなことはまるで出てこない。昨年はこんな年だった、こんなことがあった、そのときのマスコミの報道の仕方はこうだったがその陰で私たちはこんな部分に思いが至っていないのではないか、年賀状や山手線に見る最近のマナー、家族事情などなど。 足がきつい。これだから最近の若い者は…と言われても、やっぱり。少子化についても触れられる。最近は自分たちの生活を最優先にする人が増えた、それが一因ではないか、と。管主様の正面に座り、時折肯いていたおばさん、おじさん、そしておばあさんおじいさんたちが、ちらりちらりとこちらに視線を投げる。 いや、私たちは未婚ですから。関係ないですから。 あまり非難がましく見ないで下さい! それに、子供を大学に入れて卒業させるまでいくらかかると思います? 義務教育だけでも生きていけた頃とは違うんですよ!などと、誰に代わってか、心の中で言い訳をする。結婚してもいないのに。・・・さて、円覚寺といえば臨済宗。臨済宗といえば禅宗。そのまま坐禅会へ。胡坐、じゃなくて坐禅を組んで、手を前で組む。雑念を振り払うため、アタマの中で数を数えると良いとのご指示。TVで見るように、「そこ、気が緩んどる!バシッ!!」というわけではないらしい。並んで坐禅を組んだ人たちの前を、静かに僧侶が歩いてくる。希望する人のみ、手を合わせて頭を下げるのだそうで。一人目が、頭を下げた。 バシッバシッ!バシッバシッ!呼吸の音と、誰かのおなかが鳴るだけが響く室内に、空気を割ってしまうようなその激しい音。一人目の音が聞こえてきた時点で、すっかり恐れおののいてしまう。ヘタレな私は、様子見に徹してしまった。 誰かが頭を下げる。僧侶は立ち止まり、その人の背中を押してもっと下げる。で、例の棒(ケイサク、というらしいが漢字が不明)で、右肩、左肩と叩くわけだ。それぞれ2回ずつ、計4回。僧侶は、アタマの中で数を数えることすら満足に出来ない雑念まみれの私の前を通過。やっぱり止まって頂く勇気が出なかった。 いや、次こそは!絶対!…と思っていたら、1回目が終了。小休憩に入る。2回目が始まる。まだ若い僧侶は言った。「次は皆さんのところを回りませんから、リラックスして坐禅を組んで下さい」 えっ。来ないの?逃した魚は実に大きい。この期に及んでまだ生臭いのか、という話だけれど。・・・一つ分かったことがある。 ヘタレな人間は、 己のヘタレさに対して喝を入れてもらう機会すら失っているのだ。 そのヘタレさが故に、日々、往々にして。 それに気づいたこと、それ自体を「喝」としよう。
January 9, 2005
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その佇まい丸ごと、博物館に飾っておきたいようなアンティークな映画館にて。アンティークすぎるので、今後は勝手に「オデオン座」と呼ばせて頂くことになった。何しろ「タバコは心の日曜日」などと書かれた陽気なポスターが未だ現役で掛けられているのだ。布部分を一枚めくれば、スプリングというか「バネ」がそのまま入っているに違いない、おそろしくギシギシきしむ座席。そんな座席で、7000時間という気の遠くなるような時間をかけてBBCが撮影したドキュメンタリー映画、「ディープ・ブルー」を観る。果てしなく広い、深い海。たくさんの孤独と、夥しく繰り返される生死。アシカの子供がその恐ろしさを学ぶ前の数日間を狙い、座礁の危険を冒して襲い掛かるシャチ。不幸にも餌食となったアシカの子供は、血を流しながら青い波の上に高々と放り上げられ、落ちる。また放り上げられ、海に沈む。ロケット花火みたいな勢いで、海の底から次々と飛び出したコウテイペンギンがおなかで氷の上に着地、ポテポテと歩く距離は実に160km。3ヶ月の絶食、気温-50℃、風速45mの中でオスは卵をあたためる。ものすごい吹雪の中でぴったり身体を寄せ、スクラムを組んだみたいなペンギンが氷上を埋め尽くす。やっとまともに泳げるようになった子供を、6時間かけて執拗に追われ攻撃され、力尽きて食べられるのをどうにもできなかった母クジラ。食べるのは、下あごと舌のみ。胎内で育てていたのは13ヶ月。人間よりも長い。そして母クジラは、またひとりで旅を続ける。圧巻。これ、人間が撮影したんですね。何も言えない。脱帽でございます。・・・そのあと眺めた夜景は、何だか見慣れない感じ。特別高いビルでもないし、なぜだろうと考えてみるとこの方向から見れば、この街は珍しいことに看板、ネオンでのギラギラしたカラフルな光がほとんどないのだ。一般の住宅とマンションの白い明かりがきれいに散らばっている。人が、暮らしているんだなぁ。大まかに見れば平和に、ざっくり言えば穏やかに。
January 8, 2005
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仕事始め。小さなミスを繰り返し、初日からすっかり疲弊して帰る。電車で本を読む気力もないなんて、ひさしぶり。新しい年が始まったことの実感が、あまりにないことを実感する。明日は「小寒」。五節句、二十四節気、季節の移り変わりとか節目はたくさんあるはずなのに年が変わったことすら、こんなに薄く軽く身体の上を通り過ぎていく。そんな折、この詩に再会。国語の教科書?どこで読んだのだろう、記憶は定かではない。 こどもたちよ、 これはゆずりはの木です。 このゆずりはは 新しい葉ができると 入れ代わって古い葉が落ちてしまうのです。 こんなに厚い葉 こんなに大きい葉でも 新しい葉ができると無造作に落ちる、 新しい葉にいのちを譲って―。 こどもたちよ、 おまえたちは何をほしがらないでも すべてのものがおまえたちに譲られるのです。 太陽のまわるかぎり 譲られるものは絶えません。 輝ける大都会も そっくりおまえたちが譲り受けるものです、 読みきれないほどの書物も。 みんなおまえたちの手に受け取るのです、 幸福なるこどもたちよ、 おまえたちの手はまだ小さいけれど―。 世のおとうさんおかあさんたちは 何一つ持っていかない。 みんなおまえたちに譲っていくために、 いのちあるものよいもの美しいものを 一生懸命に造っています。 今おまえたちは気がつかないけれど ひとりでに命は伸びる。 鳥のように歌い花のように笑っている間に 気がついてきます。 そしたらこどもたちよ、 もう一度ゆずりはの木の下に立って ゆずりはを見る時がくるでしょう。 河井酔茗『ゆずりは』(花鎮抄より)きれいな時間は、流れていく。寒さでベッドから出られないでいる、その間にも。
January 4, 2005
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年に二度、私はリハビリに励む。日ごろ開けられることのないピアノを開け、ひたすらHANONを弾く。テニスでいうなら素振り、剣道でいうなら…やっぱり素振りか。年を追うごとにリハビリに要する時間は長くなる。何しろ、どんどん指が動かなくなっていくのだから。階下の家族は、全く面白くもない音の羅列を聞かされることとなる。たまに聞く分にはいとおしく思える、父親のいびきの様にあぁ、娘が帰省してきたんだなぁと実感してくださいな。そう思いながら、規則的な楽譜をたどっていく。上がって、下がって、また上がる。はい、左手の5の指をおろそかにしないで。右手の音でごまかしちゃダメです。やっと指が慣れてくれば、高校生の頃弾いていたお気に入りの曲の楽譜を開ける。大学生の頃は、楽譜など必要なかった曲だ。指が覚えていたからだ。そして少しずつ少しずつ、指の記憶は薄れていき暗譜は過去のものとなった。楽譜を眺めたり、読み込んだり、もつれる指にイライラしたり。数年前のこと。毎度の曲を弾いていて、何だか旋律がおかしいことに気づいた。`D`の音がほとんど鳴らないのだ。それは8オクターブのほぼど真ん中、何を弾いたって使う鍵盤だった。うわぁ、とうとう来たか、と思いながら弾き続けた。そのキーを弾く段になると、歯抜けのような、とにかく間抜けなものになった。音だけ聞いていれば、「あぁ、指が転んだな」としか聞こえない。ちゃんと鍵盤を押さえているのに鳴らない。帰省の度に、歯がゆい思いをするようになった。・・・かつて年に一度、ピアノが実は弦楽器なのだということを思い出す時があった。調律師が、家にやって来るのだ。ピアノのカバーが外され、中の弦とハンマーが露わになる。彼は同じ鍵盤を何度もたたき、その度にハンマーは弦をたたく。HANONのように意味も感動もない音が、記号のように流れてくる。彼はその音に耳を傾ける。小学生の私も隣の部屋でじっと耳をすませる。彼は器具を取り出し、弦やネジを調整する。私はその様子を、ドキドキしながら窺い見る。やがて元通りにピアノのカバーは閉じられ、彼は帰っていった。私は、きっちり調律の済んだピアノを弾いた。私は高校を卒業し、実家を出た。調律師は、やって来なくなった。・・・あ、もうそろそろ新幹線の時間だ。そう思った時に、ふと気づいた。ピアノが、相当くすんでいる。何年も、磨いていないのだった。今に輪をかけて不器用だった小学生の私は、充分つやつやしていたピアノにポリッシュをつけて磨こうとし、そしてかえってムラにした。 ごめんね、ずっと磨いてなかったね。せっせと磨いて、ようやく上蓋のみが黒さを取り戻しかけた頃に、階下の父親に呼ばれた。もう家を出る時間だ。続きはまたお盆の頃に。・・・年に二度、私は実家に帰り、そして東京に帰る。年に二度会う祖母は、会う度に尋ねる。「いつ、東京に行くの?」私は答える。「うん、三日に行くよ」時に間違える。「うん、三日に帰るよ」 こう見えても、東京の私は世帯主だ。`D`の音は、鳴らないままだ。
January 3, 2005
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