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大相撲最多33回目の優勝を初場所に果たした横綱白鵬の言動をめぐってかまびすしい。13日目稀勢の里との物言いの一番について審判批判をしたのがけしからんと言うことらしい。「子どもが見ても分かる相撲。なぜ取り直しにしたのか」「ビデオ判定するのは 元お相撲さんでしょ それなのに」「肌の色は関係ない、土俵に上がって髷を結っていれば、日本の魂」八百長問題で傾きかけた大相撲の屋台を支えた最高の功労者 白鵬だけど 強すぎる横綱、横綱が強すぎて面白くない。負けるところを見てみたいというのはファンの心理。可能性があるのは稀勢の里だけ(情けないなあその他大勢のおすもうさん)だから2013年 九州場所 稀勢の里戦。白鵬が敗れると 客席の一部で万歳の声が上がった。(5分あたりから見てね)身(日本人)びいきもあるけど 差別と言うほどではない。が 白鵬本人には 応えたのだろうか。で大鵬の偉業を抜く33回目の優勝がかかった因縁の稀勢の里戦新聞記者の誘導があったのかなかったのか自民党の麻生さんみたいに 口の軽い白鵬 おもわず本音をポロリ。火消しをすべき協会の お歴々も問われるままに「けしからん しんぱんの決定は絶対だ 神聖だ」これまた 本音をぶちまけてしまう。せっかく連日満員御礼の盛況が戻ってきたのになにしてるんだかね。平成16年(2004)名古屋場所を控えて 西尾市に部屋を構えた宮城野部屋の激励会。親方が「これは 絶対大関にはなれます」と言っていた白鵬入幕2場所目 19歳で前頭8枚目だったが すでに兄弟子たちに比べ ひときわ目立つ体格だった。話しかけても「ええ まあ」「ごっちゃんです」くらいしかしゃべらなかった若いお相撲さん。その白鵬からもらった手形、名前のサインがまだ拙い 2004年 名古屋場所 白鵬は11勝4敗の成績を残し 秋場所は前頭3枚目 九州場所 前頭筆頭翌年初場所・小結、春場所・関脇 夏場所関脇と出世して 名古屋場所も関脇出迎えたのだが宮城野部屋は 西尾市ではなく 名古屋の方に部屋を構えてしまった。かくて 白鵬は手の届かない存在となってしまった。ついでに 32回優勝 昭和の大横綱大鵬の手形弟子屈の大鵬記念館で買ったお土産の景品
2015/01/31
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天気予報は岡崎の最低気温マイナス5度と告げていた寒い朝。計画通り「大久保彦左衛門の領地めぐり」をしてきた、約21Kmの行程。大久保彦左衛門忠孝(ただたか)は慶長19年(1614)55歳のとき家康から三河国額田郡坂崎に1千石の所領を賜り旗本となった。坂崎の地に領内支配の陣屋を置いた。寛永10年(1633)74歳の時 家光より額田郡尾尻・龍泉寺・桑ケ谷・羽栗に1千石の加増を賜った。先に拝領の坂崎と新たに拝領した地とは山一つの飛び地である。尾尻には菩提寺「長福寺」があり80歳で亡くなった彦左衛門の墓もここにある。羽栗にある山中城址は 大久保氏ゆかりの地であった。家康や時の幕閣の温情を感じる。朝9時に出発、陣屋跡・坂崎を経て峠を越えると龍泉寺、尾尻にある墓に詣でて龍泉寺・桑ケ谷、山すそを周って行くと羽栗の里。坂崎からこっちは 店が1軒もない田舎、昼飯抜きで歩くのかと思ったら 軽食と喫茶の店があった。入ると 中には薪ストーブが燃えている。いい雰囲気の店だね。ちょっと高齢のマスターに 何か食べるものをと言うと「今日のランチは豚肉の生姜焼きだよ」「じゃ それにして」10分後 「とんかつ定食の方が早いけど」「早い方がいいから それでいいよ」30分後、隣の席に客が2人40分後、おっ出てきた。と思ったら 隣のテーブルに奥じゃあないか「こっちが先じゃないの」「こちらは予約だから」50分後 ようやく食事にありつけた。ウオーキングの最中に 食事時間1時間すごく 焦るもんだ。14時30分ゴールだった。
2015/01/30
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一昨日・昨日とメジロがやってくるようになったので例年通り 庭木と食堂の窓際の2カ所にみかんを挿しておいた。今朝は 早くから窓際にやって来た。しかも 2羽!1時間以上居座っていたのだが逆光だから写真はうまく取れない、ただ見つめているだけ。犬の散歩から帰ってきたら 今度は庭木の方に来ていた。そ~と カメラを向けて カシャ
2015/01/28
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恒例の メジロが庭にやって来た情報。1週間ばかり前から庭木の枝に みかんを挿して メジロの来訪を心待ちにしてきた。その日のうちにヒヨドリがやってきて あっという間に食い散らしていった。次にやって来たのは百舌鳥(だと思う)毎日 やってきては みかんをつついて行く。お前の為に みかんを買って来ているんじゃない!少々 頭に来始めた昨日、来た! 2羽!カメラを出しているうちに逃げて行った。そのあとは またまた 百舌鳥のバカタレ そして今日ようやく カメラに収まったが まだ警戒心が強い1羽だけ それもピンボケ去年のメジロは27日一昨年のメジロは17日一昨々年は見かけなかった
2015/01/27
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近所の畑でカリフラワーを収穫していた。わが家のも もう採り頃。育てたかみさんが包丁を入れて切り取った。かなりの大きさ。あと一株残っているのだが 苗を植えるとき間隔が近すぎたので育ちが悪い。切り取ったのは 仏壇に供えて おさがりを わさびマヨネーズで食べる予定。でも なんだか食べるのが惜しい。
2015/01/26
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徳川家康にはまり 大久保彦左衛門にドップリはまっているジジなのだがその傍ら「板倉勝重」にも 少しずつ はまり始めている。勝重も家康の家臣で いろいろと接点があるのだから仕方ないよな。でもあまり手を広げ過ぎると素人の手に負えなくなるから そこそこにしよう。板倉勝重の廟所についてしらべているうち 彼の父 好重の戦死地が わが家のすぐ近くにあることが分かったので ちょっと出かけてみた。岡崎市中島西町3丁目、私有地の中に石碑が建っている。前に「史跡 山本所有地」と書いた杭が立ちフェンスで囲んである。 碑文は 「永禄四辛酉年 板倉八右衛門源好重戦死地 四月十五日」とある。1561年松平元康(後の家康)は深溝松平好景に東条吉良義昭を攻めさせた。吉良側の善明堤まで攻め寄せたのだが義昭の策略により攻め返された。松平好景は討死にし寄せ手は全滅、板倉好重も深手を負い中島城に戻る直前で戦死した。父の死により家督を継いだ3男定重が天正9年(1581)高天神城攻めで討死仏門にあった勝重が還俗して家督を継いだ、37歳であった。 ついでだから ここから700mほどの所まで歩いてみた。遺構もなにもない住宅地だが このあたりに中島城があったと言われている。明日は 板倉勝重が生まれたと言われている岡崎市小美(おい)町まで行ってみようかな。こちらはかなり距離があるから歩いて行くわけにはいかない。
2015/01/25
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今日まで待てば風もなく絶好のウオーキング日和だったのに天気は良いが強風の昨日 近場を歩いてきた。家から3Kmほどの 西尾市貝吹町にある万燈山長円寺には江戸時代初期京都所司代を勤めた板倉勝重の廟がある。天正9(1581)年 高天神城の合戦で 弟、板倉定重が討死、徳川家康の命で仏門にあった勝重が還俗して板倉家を継いだ。元和6(1620)年 勝重が所司代を辞した後、嫡男重宗が京都所司代の職を継ぎ30年以上在職した。勝重は寛永元(1624)年に亡くなったが 7回忌の寛永7年嫡男重宗により 霊廟「肖影堂」が建立された。「肖影堂」の扁額は当時京都詩仙堂に隠棲していた石川丈山筆、参道に置かれた手水鉢には本阿弥光悦が「寛永七年四月廿九日」に書いた銘がある。丈山・光悦 その時代も今でも 超一流の文人である。親父の為に息子が手向けた最高の供養、これも京都所司代の役得、役得ここからさらに3Kmほど歩いた西尾市駒場町に浄土宗西山深草派東向寺がある。この寺には 今川義元の首塚と伝わる宝篋印塔がある。「当山は <前略> 第4世徳順上人は今川義元の伯父と伝えられ、甥の義元は深く帰依して供田を寄せたり、禁制を出したりしていたと言われている。境内の東の山麓には義元の首塚と伝わる宝篋印塔や数基の五輪塔がある。 永禄3年(1560)、桶狭間の合戦において討死にした義元の首は、織田郡によって持ち去られ、胴体は家臣たちに寄り豊川市牛久保の大聖寺に葬られた。首は信長の検分後、美濃街道の須ケ口附近に晒されていたが、鳴海城主岡部五郎兵元信のところへ返された。元信は城を出て、池鯉鮒(知立)より、刈谷城を攻略ののち駿府城へ帰ったが、途中須美峠(幸田町)を通り、手前の西麓口の当寺に立ち寄り、義元の首や戦死者を葬ったと伝えられている」あくまで寺伝である。静岡市の臨済寺には「義元の首は岡部元信が駿府に持ち帰り天沢寺に埋葬されたが、明治時代に天沢寺は廃寺となり、かつて雪斎が住職を務めていた臨済寺に改葬された。」と伝えられている。どちらの言い分が正しいのか 今となっては謎である。さて 岡部元信は 今川家滅亡後、武田家に仕えた。 高天神城の城将となったとき 徳川家康に攻められ落ち延びようとしたところを包囲していた大久保彦左衛門に討たれた。この合戦で 勝重の弟で板倉家当主定重が討死にした。高天神城の麓 林の谷には 板倉定重と岡部元信の墓碑が並んで建っている。 歴史上の人物の繋がりに感じ入る。ああ おもしろや
2015/01/24
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パパが飲み会で遅くなるからと 2女と孫たちが わが家で夕食。孫一は お気に入りのDSに 新しいソフトが入ったと自慢。小さな画面での早い動きにジジの目はついて行かない。ババにも なにやら理解不能みたいである。夕食は 寄せ鍋にした。半年前くらいまでは食が細くて心配していた孫一も病弱でハラハラさせられた孫二姫も よく食べる。食後 かるたをやろうと孫一がもってきた。幼稚園で毎日やっているという。なつかしい「犬棒かるた」こたつの上に広げて ママさんが読む。孫一が すかさず取る。「本気でやってもいいよ」とママさん「本気でやってるよ」たくさんの絵札では ジジは分が悪かったが札が半分くらいになってくると 私とかみさんにも取れるようになった。終ってみると 孫一25枚の圧勝。孫二姫も わからないなりに参加して1枚握っている。2度やって 2度とも同じような結果がでた。集中力と反射運動(神経?)がすごい。5歳の孫の成長を喜びながらもジジババの衰えを見せつけられたようで 複雑。
2015/01/21
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昨夜 3女から写メあり。「孫三太郎 今日からインフルエンザで金曜日まで登園禁止」「熱ないし ごはんばくばく食べるし超元気だよ」「今週まで Sちゃん(だんなのこと)プータロウだから世話係だよ」私からメール「ぼくがちいさいころ かぜをひいて くるしいとき おいしゃさんへ つれていってくれたり ごはんをたべさせてくれるのはいつも おとうさんでした まご さんたろう」娘からのメール「なぜかというと おとうさんはしごとがなくおかあさんが いっしょうけんめいはたらいていたからです まご さんたろう」3女のムコドノは 不況の為 年末 勤め先を雇止めされたのだが捨てる神あれば 拾う神あり 今月末から同業の広告屋の社長が雇ってくれることになっている。メデタシ メデタシ
2015/01/20
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見るものの少ないTV番組だがNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は見ている。生まれ故郷 山口県の生んだ吉田松陰その妹 文が主人公だから。うん 杉(松陰の実家)文? 知らんな。でも 舞台は萩、頃は幕末、うんうん松陰、晋作、久坂、周布寄っていきんさい 見てつかあさい随所に出てくる 山口弁萩言葉は 私の地元 周防ことばとちょびっとちがうが まあほとんど同じ松陰の母役 壇ふみ様が「せゎぁないけぇ(大丈夫心配ないから)」ちゅうち ゆうちょる懐かしや うれしやいいも悪いも 維新の長州初代総理大臣 伊藤博文から あべちゃんまで日本の政治を引っ張っ(掻き回し)てきた。その根源が 吉田松陰。NHKが どのように描くか じっくりと見てみよう。
2015/01/19
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買ってきて植えた苗が ずいぶん大きくなった。大きな葉っぱの真ん中に カリフラワーが見える。たった 1ケ。う~ん採って食べるか もうしばらく眺めているか。何カ月もかけて こんなに大きな茎になったのに店で買えば たったの200円。ジジ 悩む一番目の写真の カリフラワーの向こうに見えるのはセロリたまに切り取っているが 筋が固くて食べても美味くはない。食物繊維たっぷりではある。
2015/01/18
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かみさんの在所にやってきました。 みぞれが降る屋外で大根を洗って切って干して、ふるえあがってしまいました。 帰りは 県境の峠を越えて 先日行った浜名湖三ヶ日かんぽの宿で温泉に浸かって来ようかと思います。
2015/01/17
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今朝 フェイスブックで見つけた。笑ってしまう けど 本当にどうするの。
2015/01/17
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1月17日は阪神大震災20周年。19日に親父が危篤になり山口県に帰るのに苦労した思い出がある。今朝 矢作川を渡って安城市の城跡を歩いた。櫻井城址、本証寺、藤井城址藤井城址の横に安正寺という真宗寺院があった。門前に「安正寺由来書」の碑が建っている。 「(前略)昭和二十年(1945)三河地震で本堂以外の建物は全て倒壊する悲運に見舞われた。(後略)」寺の裏にまわって県道に出た。そこには「三河地震追憶の碑」があった。 「昭和20年1月13日未明 突如として起こった三河地震は、藤井住民の尊い生命財産を奪った。この大惨事は、藤井住民の瞼に痛恨として今もなお、深く灼きついている。 当時、藤井は百十七個であったが、数度の上下動と共に、一瞬にして殆どの家屋が倒壊し、住民はその下敷きとなった。暗闇の中で互いに安否を確め合いながら、屋根裏を素手で打ち破り、戸外へ這い出すことができたものの引き続く轟音や閃光。つぎつぎに襲い来る余震に脅かされながら、住民は一丸となって死傷者の救出や手当に奔走した。こうした血まみれの努力にも拘らず、絶命する者が続出し、まさに、この世の生き地獄そのものであった。 しかも敗色濃き戦火の末期にて三河地震の惨状は公表されず、住民は物心両面にわたって、筆舌に尽くし難い惨苦を嘗めた。 爾来三十有余年、住民の自力によって復興をみた今日、往時の惨状を偲び、帰らざる災没者の冥福を祈ると共に、この実状を永く後世に伝えるために、ここに藤井町住民の総意により、この碑を建立する。 昭和52年11月 安城市藤井町」石碑の裏には災害記録が記されている。 災 害 記 録 日時 昭和20年1月13日午前3時30分 震度 7以上 総戸数 117戸 被災人口 611名 外疎開児童30名 即死者数 67 名 (内焼死3名) 重症者数 97 名 住家全壊 146棟(内焼失1棟) 同上半壊 30棟 (爺注記:農家は納屋・本屋等 数棟から成っている) 非住家全壊159棟 同上半壊 64棟 公共建造物 (略) その他 (略) 災没者芳名 (略)
2015/01/14
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血圧・血糖・コレステロールの薬が切れたので医院へ行ってみたら休日明けだからかインフルなのか待合室一杯の患者がいた。病気をもらっちゃかなわんと そのまま家に帰ってきたが することもなし。3女が写メで送ってきた孫三の写真をちょっと加工してみた。右側 孫三 1歳の写真。左側 その母親の1歳頃の写真。よく 似てるなあ。男の子を期待していたのに 3人目も女の子だった。保育園にあがる頃まで 男の子みたいに育てた。「ぼく」と言いな「隣のよっくんに負けるんじゃない」そんなことも あったなあ。
2015/01/13
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かみさんの発案で 浜名湖三ヶ日かんぽの宿の日帰り温泉に出かけた。高速三ヶ日インター近くにあるというので 高速利用 約1時間で到着。ここの湯は 淡い茶色 いかにも効きめがありそう。 祝日なのに空いた風呂にゆったりと浸かった。 30分ほどであがると ちょうど昼時。来る時 目をつけて置いた インターそばの鰻屋に寄る。浜名湖の瀬戸橋たもとの本店には以前 何度か行ったことがある。大きなメニューを見入るかみさん。http://www.hamanako-katsumi.co.jp/contents/menu/かみさんは うなぎ3/4尾のうな重、私は 1尾のうな重(竹)久しぶりの鰻やっぱり 旨い。食べ終わって 高速に乗り 家に帰ったら まだ1時少し過ぎた所だった。約4時間の遠出、費用は高速・温泉・食事 ちょうど1万円だった。これくらいの距離と経費だったら また そのうち出かけてもいいかな。
2015/01/12
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隣町幸田町 新春の風物詩「凧上げ祭」を歩いて見に行った。会場は昔 菱池というかなり大きい池だった場所。今では広田川という細い川の両側に広い田圃となっている。町内各地で大凧チームを結成し競い合う。凧は かなり大きい上手く上がると すばらしい 風の具合で ふらつく凧も出るおっと危ない頭の上で ひっくりかえってしまった。
2015/01/11
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金曜日 かみさんの実家へ行くことになった。途中 豊川稲荷で初詣。土日は混雑予測だが金曜日 程よい人出だった。境内奥にある霊狐塚は 一人だけでお参りすると なんとなく不気味なのだが 人がいると何ともない。たくさんの狐像は祈願成就のお礼に建てるのだそうだ。毎年数十万人の参詣者を考えると多いといえるのだろうか。今年もまた ダルマを買ってきて今年の目標を記した。弘前城登城ここを攻略すれば 江戸時代の天守が残っている12の城(現存12城)すべて登城となる。毎日1万歩 年間400万歩360万歩プラス40万歩、月2回長距離ウオークで達成可能日光街道・奥州街道踏破昨年の目標だったが これにて日本橋起点の5街道完歩。体重73kgこれも昨年の目標持越し
2015/01/10
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明日はかみさんの実家まで さつま芋もらいに行くので車にガソリンを注ぎに行ってきた。Tカードで2円引きの127円/リットル!120円台なんて何年振りだろう。原油が1バーレル46円だとか言っていたなあ。ガソリンを注ぎ終わって帰ろうとしたら「お客さん パンクしてますよ」なるほど後輪のエアが少し抜けている。修理してもらった。ガソリンで浮いた金以上の出費だった。でも 4万キロ乗って初めてのパンクだから消耗費と思えば まあいいか。
2015/01/08
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新春登城ウオーク元日は北へ岡崎城、3日南へ西尾城、5日西へ安祥城今日7日は東へ坂崎の大久保陣屋。明治維新まで 大久保彦左衛門の領地 額田郡坂崎1千石の陣屋があった場所は現在、額田郡幸田町坂崎 八百富神社になっている。ここから南1.4km大草城跡の正楽寺にも回って帰路についた。本日のウオークは約16Km。自宅まで3Kmの所で12時になった。昼食は 酸辣湯麺。1週間 わが家から片道4Kmの所にある城跡を訪ねて北南西東まだまだ 残っているから 今月中は歩くあてに困らない。白地の所が これから行く場所。こうして見るとわが家は歴史の宝庫のド真ん中にあることに気づかされる。
2015/01/07
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新年祭お供えのおさがりに 昆布・するめ・人参ほかを頂いた。昆布とするめははさみで細く切り 人参は包丁で千切りに酒・みりん・焼酎を1:1:1で混ぜ合わせて漬け汁を作り材料をタッパーに入れ 鰹節をかけて 漬け汁を入れた。1日経って 馴染んだのを つまみに酒をのむ。酒は銚子に入れレンジで1分10秒チンかみさんが頂いてきた「大根の味噌漬け」も並べた。人参がうまい。ぐい飲みは コレクションの中から選んでみた。日中の雨で湿った気分が ちょっとばかり晴れた気がする。明日は天気も回復するらしいから 東の方の城跡まで歩いて見よう。
2015/01/06
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元日 北の方 8Km強の岡崎城 30000歩WマックとコーヒーMサイズ3日 南西に 8Km弱の西尾城 27000歩サービスランチ 八宝菜・担担麺・ライス・揚げ餃子・漬物・杏仁豆腐・アイスコーヒー5日 西の方 7Km強の安祥城 35000歩 きつねうどん 2玉(1~3玉 値段は一緒)次は7日 東の方 なに食べようかな
2015/01/05
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元日の岡崎城に引き続き 3日、我が家の南方(南西)8Kmにある 西尾城まで歩いてきた。城内にある龍城神社の初詣客でにぎわっていた岡崎城とうって変わって人もまばらな西尾城であった。昨年二ノ丸天守台が復元されたのだが 真新しい石垣だけの建造物には馴染めない。その点 復元から年月を経た丑寅櫓は 落ち着きを見せている。丑寅櫓より新しい 二ノ丸鍮石門(ちゅうせきもん)西尾は抹茶の産地、ポストもグリーン。テレビで箱根駅伝6区の中継を見て お城まで往復して帰宅したらちょうど青学のゴールシーンに間に合った。若者に負けずジジの足も快調。北へ南へと歩いたから 次は西へ向かって安祥城行くかなこちらもわが家から8Km弱。
2015/01/04
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朝起きると 外は雪景色こんな正月は めずらしいことです。思わぬ降雪にもかかわらず 道路に雪はありませんでした。昼過ぎには次女ファミリーが 顔を出してくれ孫一朗を残して帰って行きました。夕方 三女ファミリーがやってきて楽しい正月の宴が始まりました。ムコ殿がもってきたニッカウィスキーで気持ちよく酔っぱらいました。元日の昨夜とはうって変わって にぎやかな夜にジジはいたく感動しております。本当は 今年数えの70歳、古希なのですがかみさんの提唱で 満70歳の来年を古希とすることにしました。今年一年、相変わらず 若々しさを装って過ごしたいと思っております。それでは 一日遅れの わが家の元日皆々様方 今年一年の ご健勝を お祈りいたし相変わりませず 御贔屓のほどすみからすみまで ず ずいっとおん 願い たあてまつります。
2015/01/02
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明けましておめでとうございます。大晦日から元旦にかけて町内の神社で初詣客の接待をして午前2時過ぎ帰宅。今朝は日課の犬の散歩を済ませて 岡崎城まで歩いてきました。元朝登城と格好よく行きたかったのですが片道8km、到着は正午を少し過ぎてしまいました。それでも初登城ですから 近くにいた若きご婦人にお願いして記念写真を1枚。城内でも 若い衆にお願いして こんな写真を年寄の頼みは みなさん気持ちよく引き受けてくれます。その上 岡崎城は65歳以上の市内在住者に限り入場無料。老人パワー炸裂の一日でした。往きは晴れていたのに 帰りには雪が舞い始めました。家に近付くにつれて吹き降りになり 庭には、うっすらと雪が積もっておりました。雪はすぐに融けてしまいましたが 今夜また降ったりしたら外孫ばかりで 元旦の宴を2日に延ばした わが家にだれもやって来なくなってしまいそうでババが心配しています。
2015/01/01
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