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昨日で2007年寺子屋の夏休みのパソコン教室が終わった。10回でやっと終わった。長かったような、短かったような寺子屋だった。けれど子供たちの笑顔に囲まれてしあわせな時間を過ごせました。それは今の時代に生きてるあなたたちはとてもかけがえのない時間を過ごしてること。私たちの時代には聞こえない子供たちと触れ合うこともなく、携帯メールもコミュニケーションもなかった。耳はきこえないけど、とてもあなたたちは幸せだよ。その時間を寺子屋で作ってもっともっと思い出を作ろうね。寺子屋で発見したものは障害に関係なく、子供たちは誰ともうまくお友達になれること。そして多忙な仕事に追われる私たち、マミースタッフは子供たちと過ごしてると仕事の嫌なことも忘れてしまいます。気がついたら子供たちの笑顔に囲まれてしあわせを分けてくれるということがわかりました。嫌なことも子供たちの笑いで飛ばしてくれます。子供たち、ありがとう!「また会おうよ!冬休みに!」と車から身体を起こす子供たちの手が私の視界から見えなくなるまでずっと手を振ってたことがとても印象に残りました。さてさて残る課題はひとつ。マミーの事務所は壁がうすくて子供たちの大声も壁の外にも飛んでしまう。子供たちが暴れても叫んでも大丈夫な教室が欲しいなぁとつくづく感じました。もう少し頑張って立派な教室と新しいパソコンを購入できるようにならんとなぁ。名簿を眺めるとなんと、寺子屋に集まった障害児たちは15人。申込みのあとにも追加や飛び入り参加もあった。この夏休み、体当たりで頑張ったので体重も少しは減ってるはず。と思ったのですが・・・何故か、2キロオーバー(昨夜の打ち上げで飲みすぎ?)ともあれ、共に頑張ったいっちゃんと福ちゃん。冬休みも頑張ろうね。そろそろ企画たてまちょか(笑)
2007年08月31日
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私はいつも心の中で「ありがとう」と呟く。「ありがとう」という言葉はとても思いやりがある言葉。「今日も一日ありがとう、今日の私に乾杯」と締め切る。相手を傷つけるような言葉を言わないようにしなさいと教えられた。自分が言われて傷ついた言葉はたくさんある。けれどそれは学ぶためにある。それを聞いた言葉を自分は相手に使わないようにする。私は相手の気持ちを理解しようとして相手の口元を一生懸命に見るが、できないこともある。それを申し訳ないと思うこともあるが、わかってほしくても相手には伝わらないものがある。私はそれを自分の母親を見てハッと気がついたことがあった。「お母さん、どうして私だけ耳がきこえないの?」母は笑ってこう答えた。「それはね、神様が私に教えようとしてるのよ。私はとても意地悪でお金持ちになる、お金持ちになるということにしか頭にない。そして私は人を馬鹿にしてるから、神様が私にあんたを託したのよ。あんたを失敗作と言ったけど、そうじゃないのね。私があんたをどこまで育てられるか、神様はしっかりと見てるのよつまり、神様は私を試してんのよ」そういう母親を見て私は何が大事なのか悟りました。毎日、生きてることに感謝すること。周りに感謝すること。相手が喜ぶことを第一に考えていく。私は自分のことを考える前に相手を思いやるという大切さを母から教えられました。私が落ち込むときも母はこういってた。「いいことばかりが人生ではない。98パーセントが悪いことで2パーセントがいいこと」「2パーセント・・・少ない」とわたしが言うと、「2パーセントの方が感動が大きい」と母は言う。そうやって生きる。前向きに生きるのよ。何か何でも生き延びるのよ。母はまさに私に強く生きることを教えてくれました。意地悪で傲慢で自分勝手な母ですが、私から見たら何故か魅力的に感じました。鹿児島の女性は男性を支えるのが当たり前ですが、その中で母は風代わりな人で、男性と同じように肩を並べるような女性だった。「父親の背中を見て育つ」といいますが、私はこの「母親の背中を見て育った」かもしれません。「ありがとう」という言葉を大事にすること。この「ありがとう」で今日を終わらせ、また明日のために「ありがとう」。
2007年08月24日
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私の母はベジタリアン。肉は食べれない。食べるのは魚と野菜とパスタ類。だから昔は毎日フレンチ料理だったような気がする。フレンチ料理に飽きたと思ったら和食。そんな私は“すきやき” “しゃぶしゃぶ” “牛丼”を鹿児島を離れて上京したとき初体験。「ええ、しゃぶしゃぶってなんですか???」と友人に話したとき友人はびっくりしたのは無理もない。母はベジタリアンだけではなく、超潔癖症。いつも片手にはレースのハンカチ、ドアを開けるときもドアにハンカチをかぶせて開けていた。または缶ジュースを飲むときも洗って飲む箇所をハンカチでよく拭き取って私に飲ましてた。病院、お葬式、に行くのも異常なほど嫌がっていた。病院でお見舞いにもらったお菓子や果物なんか、持ち帰らず、外に捨てるほどの異常なところがあった・・・。しかし、その母も変わった。脳梗塞で倒れてしまい、病院にも慣れてしまった。そして父を亡くしたあと、支えてくれた恋人が、“男はつらいよ”の映画に出てる寅さんの性格によく似たひとで母と付き合って15年。人間って変わるものである。しかし、ベジタリアンは変わらない。私はこの母の娘として学んだことは大きい。母はベジタリアンだったが、私には“しゃぶしゃぶ”“すきやき”以外の肉を食べさせてくれた。私はよく母と兄と3人でフレンチ料理を食べたことは深く印象に残ってる。スープ、サラダ、ステーキ、デザート・・・。林田ホテルだったけ?よく連れていってくれたレストランは・・・。今もやってるかな?検索してみた。林田ホテルはなく、いわさきホテルに変わっていた。http://xavier.iwasakihotels.com/index.htmlあの天井の高い、南国の植木に囲まれた丸いテーブルがたくさん並んだレストランも今はなくなったのね。天文館はよく行ってた。母と兄との思い出。あ~あ、“白熊”が食べたい。
2007年08月23日
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MAMIEという言葉はフランス語で「愛しい人」ともいう。そして、母、おばあちゃんという意味でもある。全体的に言えば「母親」という意味が含まれている。女性はかつて太陽であった。戦後の女性の活躍もあったからこそ、日本も急成長した。なんかあったときの女性は強いものである。肉体的に精神的に女性は強いものと悟る。聴覚障害児を見てても女の子が強いと感じるのはそこからかもしれない。女の子は子供を生むとなると、障害者であることから不便が応じることもある。だから女の子のご両親はどうしても人一倍、何があっても大丈夫なように環境を整えるものである。私は家を飛び出し、嫁になった立場なので母親になった時点で後悔はしたことがあった。自分にはできないことがある。つまり「赤ちゃんの泣き声がわからない」ということである。両親から遠く離れたところで私は育児を経験する。過酷な経験だったと苦痛。そのお陰で自分の母親の苦労もわかったし、自分はいかにして「障害者」なのか、よくわかった。睡眠不足と戦った私は泣き止まない息子の手と自分の手をハンカチで結んだ。赤ちゃんの「泣き寝入り」がこんなに地獄だったとは思わなかった。医師からは「もしかしたら放っとくと息を詰まらせて死んでしまうかもしれないから泣き寝入りを甘くみたらあかんよ」といわれて私はプレッシャーがかかった。私が守らなければ。そういうことで目を離さなかったため、1年半、泣き寝入りと付き合った。そのお陰で1年で15キロもやせてしまったほど。親のありがたみがよくわかった1年だった。息子は私が目の前にいないと泣く後追いもひどかった。大変だったけど息子の笑顔に励まされた。家の中にはA型ベビーカー。見えるところに息子を置くための手段だった。聴導犬はそれを助けてくれるのだ。赤ちゃんが泣いたら教えてくれる。それを初めて聞いたとき、私は涙が出そうだった。「ひとりで頑張らなくても犬が教えてくれるなんて」と感動した。私が苦労したのは、誰も目に見えない苦しみを味わっていたから。それを聴導犬は理解してくれてるんだな、と思うと、あの苦しみも解放された。
2007年08月16日
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70年代に生まれた聴覚障害者は今と違って“きこえない”ことに対しては差別が強い年代でした。手話を使うな。手を使うな。普通に言葉を話せることが一番。そんな年代に生まれて、育ったので“きこえない”ことはよくないことだと思いながら生きてきました。半分きこえないことを隠しながら生きてきたような半人生でした。20歳まで他の障害者と触れ合うこともあまりなかった半人生だった。私は他の聴覚障害者と比べたらまだ恵まれた環境にいました。家に帰れば可愛いマルチーズが待ってるのです。そのマルチーズが私の耳になってくれました。マルチーズの名前はマミー。鹿児島県だから当然家も庭も広い。片田舎にあるので何かあるのがわからない。そんな家の中をマミーはグルグル回って吠えていました。私はそのマミーの反応を見て「誰かがきたのね」「何かが庭にいるのかな?」音の反応がする場所を知ることができました。私は片田舎というところで気ままに勉強したいときは勉強したり、絵を描きたいときは絵を描いたり、日記を書いてみたり。両親は過保護でもなく、私に好きなことをやらしてくれたような気がします。母親は私が頑張るならお金はいくらかかってもいいからというような理解がありました。母親がいてマミーがいる。2年待てば父親が長い航海から帰ってきて帰ってくる。そんな家庭が当たり前な私でした。父親は広い庭にたって私に言いました。「ここにもうひとつの家を建ててここに美紀ちゃんのアトリエを作ってあげよう。お嫁に行かなくてもいいからね。」父が「お嫁に行かなくてもいいからね」と言ってたのは“きこえない”ことを社会的に認められていなかったのを父は悟っていたからでしょう。私の将来を心配して言ってたと思います。2年後、父は他界してしまいます。私にひっかかるような言葉を残したままでした。私はよくこの風景を夢にみます。庭をマミーが駆けつける。庭には父親が笑顔で立っている。そんな夢を見て私は安堵感に包まれます。きこえないことを社会的に認めてもらうこと、聴導犬への普及。私に与えられた課題。聴導犬も聴覚障害者も障害者もそれぞれ社会的に認められ、社会貢献に向かって学び、働くことへの喜びが当たり前になることを私は望んでいます。
2007年08月15日
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MAMIEは目覚しく成長が早くなったような気がする。お盆休みに入るからゆっくりスタッフとHP製作でもしようと思ったが、今日は映像会社と打合せと経理に追われていた。スタッフと明日こそはゆっくりHP製作しようと思ったが、まだ準備していない作業が残っていた。それを明日準備しておこうやな、と思ったが・・・メールで他の映像会社の打合せが入った。明日はスタッフと二人三脚で打合せに応じる。わからなかったら筆談してもらうことにした。MAMIEを設立して3年目を迎える。丁度8月でMAMIEは3周年なんだ!うわぁ!おめでとう~!そういや、MAMIEをはじめたとき私はいっちゃんと家で美樹丸(ぬいぐるみ)を触ったり、在宅ワークの感覚で気の合う仲間でちっちゃい仕事ができればいいやねと呟いていたのが・・・それが今3周年。確かに私のスピードを「誰か、止めてくれ!」と言いたいけどガマンしながらも私の後ろを支えてくれた福田ちゃん。福田ちゃんは健聴者であり、私の耳になってくれ、フォローしてくれるようになってからまだ1年もたっていない。なのに、このバランスのよさなのか、MAMIEの活動はスピードを増してしまった。けれども、私のやりたいことをいっちゃんと福田ちゃんは心広く受け止めてそれを上手に伸ばしてくれてるんだということが今日も改めて実感。二人の頑張りに私はいつも感謝してやまない。また私は暴れ続けるかもしれないけど・・・。壁にぶつかっても「あれ?今の何だったけ?」とわからないまま、凄いスピードで進むかもしれないけど、許してくださいな。それと、障害児のお母さんたちの応援もある。
2007年08月13日
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安藤美紀は時間が許せば朝風呂と夜風呂に入る。だから水道料がかかる。ガス料もね。(家族のみなさんお許しください)風呂につかっていろいろ考えるのが大好きなのだ。できれば風呂で泳ぎたい(笑)将来はヒノキ風呂もいいなぁ。遠い昔、私の家の風呂はイルカが泳いでいるようなタイルの絵の三角の風呂だった。どんな風呂だったか、さしたい。ううう、お金があれば自分の家にイルカが泳いでる風呂を作りたい。これは鯉だけど、こんな感じでイルカが3匹泳いでたの。気持ちいいでしょ。こんなタイルな風呂だった。三角だから、蓋も特注で作ってもらった。こんな風呂だから、夏はプールとして友達を呼んでみんなで泳いでた。気持ちよかったよ~。ここで水泳の練習もできたので、(深い風呂でした)なんか私変わった風呂の家で育ったんだね・・・・。兄ちゃん、見てる?兄ちゃんもこの風呂が好きだったやろ?現在この風呂は白アリに食われて普通のステンレスの風呂に変わった(笑)そのときの私といい、私「やっだ~この風呂に入りたくない!ちっちゃい!」母「何をいうの。これでも一番高級な風呂釜よ」私「いや~寂しい!!!寂しい!泳げない!狭い!」今思えば贅沢な子でした・・・。広い空間の中の風呂でしたので、どんな家やったろ・・・(冷や汗)そんな空間に普通の風呂がひとつポツン。この変わり果てた風呂を見て大泣きした私も今思えば懐かしい思い出です。欲を言えば、できることなら風呂を再現してくれ~。
2007年08月12日
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昨日、MAMIEで障害児寺子屋パソコン教室の最中に電話がかかってきた。その電話とは第2次審査通過、つまり「受かった」という連絡だった。私やスタッフらは「えええ?」びっくりしたのは無理もない。8/8、大阪ドーンセンターで平成19年度「"まなび、ふれあい、まちづくりプロジェクト"」の第1次審査通過のため、プレゼンに参加してきた。パワーポイントで書類は作ったが、それは資料として配布するための手段として。プレゼンは紙芝居と演劇で行った。スタッフ一同、MAMIEオリジナルのTシャツを身につけて練習を重ねたあと、プレゼン実行。ナレーションは私、手話通訳はいっちゃん、演劇は福田ちゃん、ゆりなちゃん。「聴覚障害者は日本では1000人のうち2.7人。すなわち、聴覚障害者はおよそ35万4000人である。聴導犬の数は日本でたった13頭。聴導犬のユーザーからの体験話。その1。ある喫茶店に行くとき。お店には補助犬のマーク。「ここは大丈夫だ」お店に入ろうとしたが・・・。断れてしまった。その2。新大阪駅で降りるとき。新幹線からホームでおりると、駅員さんが。迎えにきてくれた。しかし・・・。盲導犬と間違われてしまった。聴覚障害者はこの様に分かれる。ろうあ者→手話を使って話す。難聴者→補聴器をはめて言葉を話す。中途失聴者→途中できこえなくなった人。老人性難聴者→老齢になって聴力が落ちた人。盲ろう者→目や耳に障害がある人。この様に分かれます。言葉を覚える方法や生活上のハンディキャップなどが聴覚障害によってかわってきます。補聴器をはめたらきこえると思われるが、そうではない。そのことを多くの人は知らない。つまり、聴導犬を理解するためには、聴覚障害者への理解も必要である。私たちMAMIEは聴導犬へのサポートに活動しています。あちこち聴導犬の講演を開きたいと思っています。聴導犬だけではなく、聴覚障害者の社会参加を深めることもできます。今、日本はペットブーム。ペットの犬は日本の子供の数を越えると聞きます。それと比べると聴導犬はわすが13頭。その数をふやすためにも講演を開くべきです。講演を開いて、観て、聴いて、考える場をつくるべきです。どうか、MAMIEを応援してください。全員口をそろえて“よろしくお願いします”こういう内容でプレゼンを終え、審査員15人による質疑応答が行われた。しかし、質問が少なかった。質問が少なかったので私は「伝わらなかったのでは」という気持ちもあった。だから受かるとは思わなかった。つまり・・・聴導犬を誰も見たことがないので何を聞いたらいいのかわからなかったのであろう。ああ、そうか、聴導犬の活動は続けなければ広まない。MAMIEの理念。障害児や障害者の学ぶ場や働く場をつくる。そして障害者の社会参加のためにつなぎとめる手段として聴導犬へのサポートの活動をすること。それを次から次へと伝わり続けること。私はスタッフらに感謝いたします。スタッフはよく私の走りについてくれました。この暑さや多忙のなか、よくぞついてくれました。わたしはひとりでは何もできません。スタッフの支えがあるからこそ、ここまでこれました。私の考えに対してそばでアドバイスや助言をくれるいっちゃん。常に私のとなりで私の耳として通訳してくれる福田ちゃん。私のまとめたでたらめな書類の内容をきれいにまとめてくれるくまちゃん。そして、いっちゃんの娘でもある小学生4年のゆりなちゃんはMAMIEのスタッフとしてお手伝いをはりきって動いてくれた。今回のプレゼンで一番活躍したのはゆりなちゃんです。聴導犬のユーザーとして演技を見せてくれたゆりなちゃん。「聴導犬」「盲導犬」という難しい言葉も話しながら笑顔で手話パフォーマンス。この日記で見せることはできませんでしたが、私はゆりなちゃんの笑顔を見て励まされました。もう、これ以上の感無量はありません!みんな、ありがとう!
2007年08月10日
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耳がきこえないことは悔やまない。幼い頃は聞こえる人ばかり囲まれて聞こえる人のように聞こえるようになりたいと思ったこともあった。しかし、今は聞こえることはどういうものなのかはわからないけど、その代わり目も見えて、手も足もある。頭も考えようとすれば考えることができるからなんて人間は器用にできてるものなんだなぁ、と思ったりする。神様は私に課題を与えてくれたんだなぁと思う。不幸だと思わない。いろんなことができることが人間としての喜びである。耳がきこえないことを苦痛に思わないことをまわりは理解できないだろうけど、私の周囲にいるひとは私のことを「悩みがない人間」だと思っている。まさにそうです。「悩む前に行動する」からだと思う。私は気ままに生きてきて、親もまわりにも沢山迷惑をかけて生きてきたけど、自分らしく生きてこれて嬉しく思っている。お金には変えられないものを手に入れてきた。「自分を信じること」「人を愛すること」「頑張ること」「助け合うこと」・・・。障害児たちの自己主張はもちろん大事にしたい。「ああしなさい」「こうしなさい」とは言わない。「やりたいことは思う存分やりなさい。君の人生だから」という。当たり前に生きるのではなく、お金を使わなくても生きる方法はいくらでもある。それを見守る親は大変だが・・・・。人生は楽しむためにある。
2007年08月04日
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MAMIEという事務所を設置して1年になろうとしている。これまでいろんなことがあったし、またこれからもいろんなことがあるだろう。何よりも大切なのは絆である。MAMIEでは、障害児・障害者を対象としたパソコン教室を大阪・神戸に実施。ひとりではできないこと。皆さんのご協力があったからこそ、ここまでやってこれた。兵庫県西宮市のチャリティーショップ「くるりん」とパソコンサークル「おむすびパソコンサークル」という団体のご協力があって今日のMAMIEがある。大阪の障害児パソコン教室を設立したきっかけは最初のはじまりはひとりの少年との出会いだった。「勉強したくても外で学ぶ機会がない」彼の名前は田淵啓二。当時は中学二年だった。箕面養護学校に通っているが、生まれつき頚椎が変形する難病を持つ。私は当時、パソコンの講師ではなかった。でも、ウェブデザイナーとしてHP制作はできる。その他のソフトもマスターしている。しかし、人に教えたことはなかった。そのとき、私は頭に出てきたのは中学教師の免許を取りたかったけど、障害者であることを理由に試験を断われてしまったこと。もしかしたら、私にできることはこれかもしれない・・・。健聴者が理解したくても理解できないこと。自分が障害者であるため、障害に対してある程度、理解できることが私の長所ではないか?私は彼の家まで行ってパソコンを教えるという個人レッスンをスタート。次第に口コミが広がり、あちこちから障害児の親御さんから連絡があった。子供たちが他の障害児と触れ合う時間も必要だと感じた私は「ひまわり教室」を設置。私はこの教室の活動を楽天のブログで日記にて伝え続けた。「私は子供たちからもらうものが大きい。」「小さなできた!という掛け言葉が私の栄養ドリンク」私にとって夢は「漫画家」だが、天職はパソコン講師。多くの障害児が成長して教えたことを忘れずに社会に役立ててほしい。そして、最初の生徒でもあった田淵啓二さんは箕面養護学校を卒業し、現在はMAMIEスタッフとして在宅ワークをすることになった。彼は毎日、MAMIEスタッフとして仕事をしている。あの頃は中学生だったのに、今はひとりの人間として私は誇りに思う。繰り返し、人と人のつながりが伝わっていく中でMAMIEが続くことを願いたい。今、MAMIEではパソコン教室、HP制作、イラスト制作、漫画制作、委託販売を中心に今日もスタッフは走り続ける。いつまでも目標を持ち続けることが大事なのである。人と人のつながりを大切にしながら・・・。
2007年08月02日
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