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★にわか四国遍路(13)に戻る四国遍路からすっかり遠ざかってしまい、東国暮らしが長い今日この頃。そういえば、2013年10月に大宝寺・岩屋寺へ行った事をすっかり記録し忘れていたので、思い出しながら過去の記憶を引き出して記録に残すとする。久万の遍路道<杉本智彦『カシミール3D GPS応用編』(実業之日本社、2011年)の地図より引用し加筆>2013年(平成二十五年)10月12日と13日に2日に渡り久万を訪れた。初日は黄色い道(久万→大宝寺→河合→八丁坂→岩屋寺)を母親と辿り、二日目は赤い道(二名→農祖峠→中野村→八丁坂→岩屋寺)の旧遍路道をIさんと辿った。なぜ2日間に渡って岩屋寺に行ったのかさっぱり覚えていないが、2日連続で岩屋寺を訪れるという機縁に恵まれた。【1日目】2013年(平成二十五年)10月12日★四国霊場第四十四番札所・菅生山大宝寺本堂(愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生)伊予鉄バスで三坂峠を越えて、久万営業所へ。大宝寺は久万の街中にある。大宝元年創建と伝わる事が寺名の由来であろう。大宝寺の裏手から山手の道を進み、峠御堂へ出る。↑峠御堂への登り道↑峠御堂トンネルの下に出る↑河合の集落河合には最盛期15件の遍路宿があったようで春の彼岸の頃は300人の宿泊があったようだ。遍路は河合に1泊し、荷物を置いて、岩屋寺に参拝した後、来た道を再び河合へ戻る「打ち戻り」を行ったそうである。↑河合からは県道12号線沿いを歩く↑途中から道を折れ八丁坂への山道へ↑八丁坂八丁坂は、河合からの道と槙ノ谷から来る道が合流する場所で、かつて茶店があったようである。ここには、七鳥村の組内30戸の人たちが、槇ノ谷の道こそが本来の遍路道である事を示そうと、この地に1748年(延享五年)に建てた立派な大石碑を見ることができる。↑尾根道を歩く↑「従是岩屋迄十一町」と刻まれた石仏★四国霊場第四十五番札所・海岸山岩屋寺大師堂(愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥)久万を経って、およそ4時間で岩屋寺に到着した。岩屋寺は名前の通り、奇岩が幾重にも聳え立つ岩屋が魅力だ。↑仙人堂と本坊を眺める、仙人堂までは梯子で登る事ができる【2日目】2013年(平成二十五年)10月13日執筆中★にわか四国遍路(15)に進む●今回の歩行距離・・・10.3キロ(1日目)、14.1キロ(2日目)●総歩行距離・・・250.3キロ(四国遍路全行程1,108キロの約22%)
2021/07/18
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★にわか四国遍路(14)に戻る★にわか四国遍路(7)大頭~横峰寺も参考に!!2013年11月23日(土)夜様々な偶然が重なり、Iさんから久方ぶりにご連絡を頂いた。伺うところによると、数日前に調査されたそうだが、道を発見できず断念されたそうだ。翌日、朝8時15分。不甲斐ない事に寝坊をしてしまい、出発が遅れてしまった。申し訳ない気持ちのまま、今回のスタート地点である西条市小松町大郷字馬返に到着した。杉本智彦『カシミール3D GPS応用編』(実業之日本社、2011年)の地図より引用上の地図を見るとお分かり頂けるだろうが、現在、西条市丹原町大頭から横峰寺へ行く遍路道は妙之谷川沿いの県道を通っていくのが一般的である。ところが、かつては川から離れ、山を縫うように歩く遍路道があったそうだ。今回は、おそらく歩いたであろう軌跡を、地図上に赤線で示した。途中、廃道となった部分もあり、まさに藪漕ぎの世界であった。まず、県道から左手の山を上がっていくと、小さい尾根の上に出た。ここに四十四丁を示す、舟形地蔵石がある。↑四十四丁石(地図番号1)この地点までは、迷う事なくやってきたのだが、ここから先が道路と重なってしまい、迷ってしまった。前回の調査では、この地点で下の道路を下ってしまい、発見できなかったそうである。ふと左を見ると、道路の法面から左にまっすぐに道のような感じの雰囲気が漂っている。こっちだろうか…とりあえず歩ける箇所を歩いていこう。先を進むと、シダやら草に阻まれ、もはや道ではない。↑廃道化している…(地図番号2)もう道ではないので、草木をかき分け、またぎながら歩み進める。これが正解の遍路道がどうかわからずに不安になっていた、まさにその時…↑草木に埋もれた四十二丁石を発見(地図番号3)やはりこの道であっていたのだ…疑心暗鬼の気持ちが晴れ、思わず笑みがこぼれる。草木を手でむしり取り、丁石に光が当たった。この丁石が人間を見たのはどれほど久しぶりなのだろうか。さて、歩みを進めて沢を渡る。ここからは、歩きやすい道を行くが、林業関係者が作った道だろうか。今までの道に比べると、楽な道であった。しかし、途中である事に気づく。左を見ると、高い位置に丁石が見えるではないか。どうも、この歩きやすい道は、本来の道より下に作られているのだろう。と思っていると、本日の目的地である武田徳右衛門の道標に到達した。背丈くらいある立派な道標である。↑武田徳右衛門の五十丁石と舟形地蔵武田徳右衛門については、武田徳右衛門 ―亡き子の菩提を弔うために―(参考サイト1)を参考にして頂きたい。五十丁石には「是より横峯迄五十丁」とあり、隣の舟形地蔵には「峯ヨリ五十丁 大江村中」とある。この舟形地蔵は、これまでの丁石と趣が違っており、その年代は不明である。また、地蔵にある大江村についてはよく分からないが、小松町大頭を経て横峰寺・香園寺へ(参考サイト2)によると麓の大郷村であるとしている。さて、どうも遍路道を間違えてしまった事については前述した。すると、先ほど下から見た丁石(三十九丁)の前に立つと、遍路道が続いているではないか。いったいどこまで戻ることができるのだろう。と、戻ってみると…↑道が途切れている(地図番号5)やはり沢を渡るところで廃道になってしまった。どうにもここから先は進めない。再び五十丁石に向かって戻る↑シダの中を進む(地図番号6)↑四十丁石(地図番号7)↑三十九丁石(地図番号8)というわけで、三十九丁石の前に戻り、五十丁道標の前を通過し歩みを進める。すると、道の先に丁石が転がっていたので、再度ひっくりかえらないように寝かせておいた。↑三十八丁石(地図番号9)↑三十七丁石(地図番号10)この先に明治期の曼荼羅に関する供養塔があったが、このあたりから再び道が不明瞭となった。すぐ下に県道が見えるが。ついに遍路道は、消えてしまった。しかしながら、元来た道を戻るのはあまりにも酷な選択肢である。というわけで、無理矢理ショートカットをして沢を下り、県道に降りた。↑脱出(地図番号11)無理矢理脱出した感は否めないが、地図を見ると旧遍路道は、もう少し先に出るらしい。ここからもう少しいった先から川を越え湯浪の集落へと続いていく。↑妙之谷川を渡り遍路道は続いていく…(地図番号12)地元の人に話を聞くと、遍路道は対岸に続いているどうで、かつてはお堂等もあったが流されてしまったそうだ。その後、県道から上へあがっていくアスファルトの道路を上がるとしきみ畑(地図番号13)が広がり、そこから左に入る道を発見した。ここを進むと、すぐ近くに「道がない!!」と判断し地図番号11に降りる事を決意した地点に到達し、意外にもあっさりと旧遍路道はつながった…【参考サイト】[1]愛媛県生涯学習センター「武田徳右衛門 ―亡き子の菩提を弔うために―」 (四国遍路のあゆみ・平成12年度、データベースえひめの記憶)[2]愛媛県生涯学習センター「小松町大頭を経て横峰寺・香園寺へ」 (伊予の遍路道・平成13年度、データベースえひめの記憶)★にわか四国遍路(16)に進むいつになる事やら・・・・●本日の歩行距離・・・2.6キロ
2013/11/25
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★にわか四国遍路(12・後編)に戻る大きな西からの風が吹いてきたのだろうか…来年3月をもって、ついに私は四国を離れることとなった。六年間の四国での暮らしは、遥か羽州からやってきた私にとって充実した日々であり、四国遍路という一つのテーマを私に与えてくれた。ここに来て、皆が勧める水曜どうでしょうでも見ようかとも思うのだが、私の遍路は完成していない。とかく長い事、遍路から遠ざかっていた最大の理由は、距離が遠くなり日帰りが難しくなったということであろうか。とまぁ、上記のような理由で遍路に出ることを躊躇していたのだが、ここで一つの転機が訪れた。きっかけは、私がとある寺院に調査に出かけたときに、ひょんな事から、学芸員のIさんの道しるべ調査に随行することになったのである。道しるべというのは、遍路道上で見かける標石の事である。が、今まで気に留めてみることもなかったのが、正直なところである。(そういや、昔、授業の課題で荏原の遍路道しるべを調査しに行ったとき、法量を測るのを忘れて課題当日にいそいで測定しに行ったことがあったっけ)2013年9月22日(日)、Mさん送迎のもと、Iさんと特別ゲストのYさんと共に四国中央市へ向かった。途中のコンビニで蚊取り線香を購入。九月も末とはいえ、虫等出る心配があった。車で三角寺へ。皆さんはご存知であると思うが、伊予国最後の札所である。現在、私のにわか四国遍路は予讃線伊予三島駅で止まっており、三角寺には来た事がない。本来は、ここから椿堂を経由し徳島県三好市への山を越え雲辺寺へと向かうのだが、今日のルートは三角寺より山を越え、奥ノ院仙龍寺へと向かうルートを歩くルートである。★四国霊場第六十五番札所・由霊山三角寺山門(愛媛県四国中央市金田町)三角寺は、山門に鐘があるお寺で、出石寺を彷彿させる。詳細については、また後日記したい。この三角寺の南から奥ノ院への道が始まるのだが、なんとも案内が少ないように感じる。その理由としては、現在このルートは悪路であり、あまり歩く人がいないルートであるからとのことだ。↑彼岸花咲く秋の遍路道↑お願い…道中をゆくと「お願い」という表札を発見する。「お時間の在る方、へんろ道維持にご協力下さい、次の方の為にこの先三十M(メートル)草刈りお接待をお願いいたします。鎌はここにお戻しください、感謝(梵字)南無大師遍照金剛」草刈りの接待とは、はじめてであるが、しっかりと刈らせて頂いた。↑地蔵峠(愛媛県四国中央市)草を刈った後は、勾配の急な山登りとなる。平石山の東側にある峠、地蔵峠。峠道の右側に4体の地蔵があり、仏海上人の地蔵道標もある。↑桜馬場にある十八丁を示す標石奥之院仙龍寺経由の遍路道(参考サイト1)によると、桜馬場には、その名の由来ともなった樹高20mにおよぶ桜の大木が枝を広げており、戦前には、遍路を相手にした無人の販売所があり、唐黍・かんころ芋・ふかした薩摩芋などが売られていたという。↑不動堂のある大窪分岐ここは、仙龍寺と平山(雲辺寺・箸蔵寺方面)への分かれ道である。「四国遍路道指南」には、「大久保二三軒有、荷物をきてよし、但おくの院一しゆくの時は荷物持行」という記述があり、仙龍寺への遍路客を相手にする宿屋が数軒あったと思われる。この写真を右にゆけば平山に行くルートなのだが、残念ながら、もはや道は消滅してしまっているように思える。人が歩かなくなると道もなくなってしまうのか…↑不動堂↑不動堂から八丁坂(後藤玄哲坂)を下る途中いくつもの享保期丁石が残る途中、あの中務茂兵衛が発起人となって1914年(大正三年)に開設された新四国霊場が見えてくる。石像の寄進者には九州出身者の名前も見える事から、仙龍寺は、四国だけではなく遠く九州からも信仰されていたのだろう。↑中務茂兵衛が作った新四国霊場の中にある仙龍寺四国霊場を模したミニ四国というものが各地にあるが、ここ仙龍寺にもミニ四国霊場が設置されている。必見すべきは、ミニ四国霊場の中にも仙龍寺が存在している事だ。ルートから、少し横道にそれ、洞窟の中に弘法大師像が安置されている。★四国霊場第六十五番札所奥の院・金光山仙龍寺本堂(愛媛県四国中央市新宮町)いよいよ下山してきた。思いのほか、新四国霊場の下りがきつかった。はるか岩場を望み、境内は崖の上に建てられている。その景色は、実に壮観である。その後、Mさん送迎のもと松山に帰り、ありがたいことではあるが、Iさん、Yさんに楽しい宴を開いて頂いた。感謝感激。ありがとうございました。【参考サイト】[1]愛媛県生涯学習センター「奥之院仙龍寺経由の遍路道」 (伊予の遍路道・平成13年度、データベースえひめの記憶)★にわか四国遍路(14)に進む●本日の歩行距離・・・4.2キロ●総歩行距離・・・225.9キロ(四国遍路全行程の約16%)
2013/10/14
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★にわか四国遍路(12・中編)―大洲市豊茂~出石寺に戻る↑出石寺売店で頂く出石寺うどん(愛媛県大洲市豊茂)出石寺参拝を終え、出石寺売店へ。豊茂の三島神社離宮で昼食を取って以来、何も食べずに登山をしてきたので、空腹に襲われたが、食事処があって本当に救われた。登山後の食事は、実に体に染みわたるうまさであった。出石寺売店で西大洲駅への帰り方を教えて頂いた。感謝。↑出石寺から大洲への下り道(愛媛県大洲市・八幡浜市)大洲市と八幡浜市の境界上に道がある。出石寺からこの道を見つけるのに若干手間取ったが、参詣道の石段の下を降りていく道がこの道であった。↑瀬田戻りへの分岐。左に向かえば大洲方面↑ひたすら下り道↑眼前に大洲盆地が見えてきた↑途中、車道を下る(愛媛県大洲市高山)↑大洲城を目視できたら、西大洲駅はもうすぐそこ西大洲駅の写真を撮っていないのは、疲れていたから…というしょうもない理由である。それだけ、出石寺から西大洲駅への道のりは長かった。出石寺へ行くバスは近年廃止されてしまったため、公共交通機関を利用した出石寺への到達は困難である。つまりは、車を除けば歩いていくしか道はないのである。私の歩いた道は、険しい道のりであったが、その苦労を差し引いても出石寺参詣は価値あるものだと思う。今回、私は伊予出石駅から歩いたが、ウェブサイト等で管見の限り、出石寺への遍路道は伊予平野駅から歩いていく道が一般的であるように思える。私は、そもそも出石寺に行く予定はなかったものの、なんとなく出石寺への歩みを進めてしまったおかげでこのルートを歩くことができたことは幸いな事であった。そして、後で気づいた事だが、伊予出石駅は、かつて出石寺へのバスが発着する最寄駅であった。(いまでは、尋常じゃない距離を歩かなければならないが…)ところで、伊予出石駅周辺にも道しるべがあったり、豊茂からの立派な参詣道がある事から、伊予出石駅方面からのルートを利用する参詣者も多かったのではないだろうか。ゆえに、遍路道からは若干それてしまうが、にわか四国遍路の中に該当ルート(伊予出石駅~出石寺)を含めた事を追記しておく。さて、大洲から先は久万への道をゆかねばならないが、いつ歩く事ができるのだろうか…●本日の歩行距離・・・32.2キロ●総歩行距離・・・221.7キロ(四国遍路全行程の約15%)★にわか四国遍路(13)に進む
2013/10/14
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★にわか四国遍路(12・前編)に戻る 「出石寺は無理だろうけど…もう少し先の宇都宮神社まで歩いてみよう。」と、歩みを進めていると地元の軽トラのおじさんに声をかけて頂いた。豊茂の宇都宮神社は、山の上にあるらしく、なんと神社まで軽トラで送っていただいてもらった。↑ありがとうございました!!↑豊茂の宇都宮神社「宇都宮神社沿革」によると、願主の笠間蔵人により1475年(文明七年)9月14日に笠間城の守り神として創祀されたという。また沿革では、笠間蔵人=宇都宮宣綱と比定している。宣綱は、孫の正綱を笠間城主としたが、1543年(天文十二年)宣綱が笠間城で没すると正綱はこれを嘆き宇都宮大明神の称号を贈り氏神としたという。さて、笠間城は大洲地蔵ヶ岳城主・宇都宮氏一族の城である。「大洲旧記」によると、宇都宮清綱の次男・正綱が笠間城に居し、正綱の三男は藤堂高虎に仕え伊勢に行った後に帰郷し当地の庄屋になった。また、正綱の三男は、藤堂高虎の眼病を治した事で羽織を賜ったという。大洲の宇都宮氏は、1585年(天正十三年)豊臣秀吉の四国征伐に伴う小早川隆景の軍勢を前に開城した。その後、戸田勝隆が入部し中世以来の勢力が再編された。この笠間城主の宇都宮氏も他の諸氏同様、戸田勝隆入部の際に下城したと伝えられる。↑宇都宮神社を西へ…↑豊茂の三島神社離宮離宮から少し歩くと三島神社の本殿がある。三島神社は、愛媛県神社庁HPによると、1159年(元治元年)に出石寺の守り神社として創建され、豊茂の氏神となったという。↑三島神社本殿にある大洲市指定天然記念物のイチョウ(樹齢400年)↑豊茂を眺めて(愛媛県大洲市豊茂)さて、この先どうしようか。西を向くと雄大な出石寺山が見えている。これは、いくしかあるまい。出石寺には、確実な到着が見込まれる。だが、公共交通機関がある場所まで到着する事はできるのであろうか。不安が募る。が、考えていても仕方がない、出石寺を目指してみよう。↑県道28号線を振り返るとけっこうな標高を登ってきた事が分かる↑道幅が急に狭くなる(愛媛県大洲市豊茂字別府)不安になる道のり。急に道幅が狭くなる。その割に交通量は多い。出石寺へ参拝する方々であろう。↑突如として現れた金山出石寺参道しばらく道のりをゆくと突如として「金山出石寺参道」と書かれた立派な標柱が立っていた。どんなもんかと地形図を見ると、ぐねぐねした県道28号線を何回も越えながらほぼ直登するルートであったが、一見すると入口は整備されていた。さて、車道を行こうかどうしようか迷った挙句、直登ルートを行くことに決めた。(この判断は後で分かったことだが正解であったと思う)↑ひたすら登る↑県道28号線との最後の交錯↑郷峠(愛媛県大洲市・愛媛県八幡浜市)大洲と八幡浜の境界線、郷峠に到着した。ここは、ちょうど出石寺の直下になる。それにしても郷峠っていい名前。英語にしたらGo passという訳だ。出石寺までもう少し。↑参道入口から40分歩き、やっとこさ見えてきた出石寺★番外霊場・金山出石寺銅鐘(愛媛県大洲市豊茂)四国八十八箇所霊場第四十三番札所準堂、四国別格二十霊場七番札所に数えられる出石寺。標高812メートルの高嶺である。出石寺について「大洲旧記」の記述を見てみたい。此寺高山、雲にそびへ、遠海目前ニ迫り、肩を並山なし。養老年中、宇和郡の猟師、猪追て来、地裂巖開て千手観音、地蔵尊の石像湧出す。其威容凡様にあらず。則奇怪の思をなし、忽発心して剃髪し、道教と号して草庵を此山に結び、二仏を供養す。其後、弘法大師、此山に入て、久しく行有。其節の法具、其後色々の宝物有。中にも龍の爪冷し、奉納の文有。この銅鐘は、藤堂高虎が朝鮮出兵の際に朝鮮から持って帰ってきたものと伝えられ、国の重要文化財指定を受けている。★にわか四国遍路(12・後編)へ続く
2013/10/14
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★にわか四国遍路(11)に戻る2013年(平成25年)4月18日10時44分。予讃線伊予出石駅。伊予出石駅と遍路?いや…このルートは遍路道ではない。遍路道は肥沃な宇和盆地を大洲に抜け、喜多郡内子~大瀬~浮穴郡久万に抜けるのが一般的なルートである。そもそもこの旅立ちのきっかけは、自身の研究に関係する地名を訪れてみようと思ったからである。しかし、この計画が、まさかのにわか四国遍路になってしまうとは…。↑伊予出石駅時刻表↑乗ってきた列車を見送り(愛媛県大洲市長浜町大越)伊予出石駅で降りるのは、もちろん初めてである。ここから、大和川に沿って目指すは豊茂地区である。↑肱川と大和川の分岐↑まっすぐのびる愛媛県道28号線最近は便利なもので、ストリートビューでも県道28号線を追っかける事ができるので、マニアな方はどうぞ。↑大和小学校近くにある「柿の久保」への分岐と出石寺への標柱柿の久保というのは、実に気になる地名であるが、標高446.7メートルの鼻欠山の付近にある集落名であるそうだ。鼻欠山というのも実に面白い山名。しばらくまっすぐ進むと、大元神社の付近に標柱がたたずんでいた。↑明治14年に穂積村の有志が穂積地区へのルートを開削したそうだ↑穂積地区への道…実は、この道を通って穂積へ抜けようと思ったのだが、4月でさえもこのような有様である。あきらめて県道28号線を歩いてゆくことにしよう。↑大和川沿いに沿って道はゆく(愛媛県大洲市長浜町穂積)↑相生橋の付近↑大久保への分岐↑斎藤山…どんな由来があるのだろうか。↑生御院時間の関係上行くことはできなかったが、生御院という史跡を発見した。江戸時代中期以降の天災により、下土谷村(当時)の危機を感じた猪ノ尾の百姓が、石の御室を作り生御院と命名し、食を断ちここに籠り亡くなったという事である。↑人面岩人面岩はマスコミでも取り上げられたことがあるそうだ。地元の人がいたので、歴史の事等聞きたいことをお伺いした。↑見えてきた豊茂地区↑豊茂郵便局は街の図書館である。平日だったので豊茂郵便局を訪れ、必要だった為替を購入した。明らかに歩いている格好だったので、「出石寺に行くんですか?」と聞かれたが、その予定はなかった。しかしながら、まさかその出石寺に行く事になってしまうとは、この時は知るよしもなかった…★にわか四国遍路(12・中編)に進む
2013/09/27
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★にわか四国遍路(10)に戻る2011年6月5日。ふと、遍路を歩く機会に恵まれた。続けて打っていこうと思うのだが、もはやそのような悠長なことは言っていられない。歩けるうちに歩かねば。宇和島駅スタート。↑南予特有のスコールみたいな雨(愛媛県宇和島市)だらだらと長い坂を根無川沿いに三間方面へ。 ピークを超えると視界が開け感動の光景が見えてきた。 「あぁぁぁぁ、三間盆地だ!!!」 盆地を見て興奮するのも歩き遍路の醍醐味である。(笑) ↑三間盆地 三間は南予屈指の穀倉地帯である。↑お寺と思いきや鳥居。これぞ神仏習合。 三間の龍光寺は、神仏習合が色濃く残る。 通称「三間の稲荷さん」と呼ばれている。 ★四国霊場四十一番札所・龍光寺本堂(愛媛県宇和島市三間町) ここから、次の仏木寺(ぶつもくじ)までは、若干の距離がある。 ↑仏木寺の鐘楼は茅葺 ★四国霊場四十二番札所・仏木寺本堂(愛媛県宇和島市三間町)ここで妙な足の痛みを感じた。アスファルトを登山靴でずっと歩いたせいだろうか。 三間から宇和へ抜ける道は「歯長峠(はながとうげ)」といって難所である。由縁はその昔、東国武士の足利又太郎という人物がこの峠の頂に庵を結んだそうだ。この足利又太郎という人物の歯が長かったので、歯長峠というそうだ。 ↑辛いのは最初だけ!! そしていざ、絶頂。↑歯長峠 ほんとうは吉田の海が見えるはずなのだが、何にも見えない。 ここから7キロ。卯之町は近いはずだが、肱川沿いに延々と道をゆく。 どうして卯之町に肱川が流れているのか地形的にまったく理解できなかったが、卯之町から野村に流れて、そこから大洲、長浜へとU字に肱川は流れていることに地図を見てやっと理解できた。 そして宇和の明石寺(めいせきじ)へ!!★四国霊場四十三番札所・明石寺本堂(愛媛県西予市宇和町)やっとこさ、明石寺に着いた。次回は卯之町から旅をつづけよう。 ●本日の歩行距離・・・23,8キロ●総歩行距離・・・189,5キロ(四国遍路全行程の約13%)★にわか四国遍路(12・前編)に進む
2011/08/12
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★にわか四国遍路(9)へ戻る。 遍路という存在を忘れていた今日この頃。私は、まっすぐな道をゆこうと躍起になっていた。だが、久しぶりに松山から今治の道を歩くことを機縁にして、まっすぐな道でなくてもいいのではなかろうかとも思ったりした。 兎にも角にも、東予の道も残り纔に而候。 2010年(平成二十二年)7月11日。始発電車で新居浜へ。そのまま東に向けて歩いて行く。 ↑国領橋(愛媛県新居浜市国領) ↑出た!四国中央市!! つひにやってきた四国中央市。このネーミングセンスは失笑さえしてしまうが、そのようなことを言うことでさへもためらわれる。 もともとこのあたりは「馬」という地名であったが、和銅八年に民部省から以下のような告知が出た。 凡諸国部内郡里等名並用二字必取嘉名 (凡そ諸国の部内の郡里等の名は二字を並び用い、必ず嘉名を取れ) というわけで、馬は「宇摩」と改められたのである。これぞまさしく伊予國宇摩郡である。現在、四国中央市の市域はほぼ当時の宇摩郡と合致する。 ↑関川(愛媛県四国中央市土居町上野) 関川とは新居郡と宇摩郡との間にあった関所を流れる川という意味合いがある。 ↑三度栗大師(愛媛県四国中央市土居町上野) その昔、弘法大師がこの地を通った際に子供たちから栗をもらった。そのお礼にと大師は「今より一年に三回の栗を与えん。」と言って去ったという。以後、年に三回も栗が取れるようになったと伝えれる。 このように、四国では弘法大師と栗との関連の伝承が多数存在する。 ★番外霊場・摩尼山延命寺本堂(愛媛県四国中央市土居町土居) ついに土居の延命寺にたどりついた。ここは「千枚通」で有名なお寺である。千枚通とは何ぞや? 住職に話をうかがうと、どうやら霊験あらたかなものであり大日本六十余州広しと雖も、ここにしかないそうである。 ↑これが、千枚通し。 ↑枯れてしまったいざり松 その昔、一人の病人がいざり松で横たわっていた。通りかかった弘法大師が霊札を水に浮かせてのませたところ、病が全快したという。この霊札こそが「千枚通し」なのだ。 急ぐ旅でもないが先を急ごう。 ↑近藤篤山先生生誕の地(愛媛県四国中央市土居町小林) 近藤篤山は「伊予聖人」「徳行天下第一の人」と呼ばれた人で、小松藩の教育と発展に力を尽くした人だそうである。 ちなみに篤山は旧姓を高橋といって、大友宗麟の家臣として筑前岩屋城に籠って島津軍相手に玉砕した、高橋紹運の子孫とのことであるそうだ。 ↑迫る山並み ↑国道11号線(愛媛県四国中央市土居町津根) 長く歩くと伊予三島の市街地に入った。 ↑遍路わかれ(愛媛県四国中央市三島) 伊予三島駅におもしろい紙が貼ってあったので紹介しよう。 知之者不如好之者 好之者不如楽之者 (どんなに知識があっても好きになるには及ばない。どんなに好きになっても楽しめる人にはかなわない) まったくその通りである。 ↑伊予三島駅 というわけで煩悩の世界へ帰ろうわい。 ●本日の歩行距離・・・25,7キロ●総歩行距離・・・165,7キロ(四国遍路全行程の約12%)★にわか四国遍路(11)へ進む
2010/07/14
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★にわか四国遍路(8)へ戻る。もはや、歩き遍路という存在すら忘れかけてた、晩秋のある日。私生活でも思いもよらぬことが発生し、憂鬱になり、多少の人間不信になりかけた。(゜o゜)だからというわけではないが、もともと遍路に行こうとはしていたのだが、この遍路へ行くという奇遇なものはいったいなんなんだろう。季節は、春・夏・と移り変わり、もう秋も暮れようとしている。↑伊予小松駅(愛媛県西条市小松町新屋敷)何度降り立ったのだろうか、小松駅。いよいよ小松より東へ讃岐街道を上るのだ。小松駅から1、3キロほど歩くと、吉祥寺が見えてくる。★四国霊場六十三番札所・密教山吉祥寺本堂(愛媛県西条市氷見乙)密教山とは凄い名前だ。門の額縁が印象的だ。吉祥寺を出て、3キロほど歩くと、前神寺だ。★四国霊場六十四番札所・石鉄山前神寺本堂(愛媛県西条市洲之内甲)前神寺は桓武天皇の勅願で建立され、明治までは現在の石鎚神社の敷地内にあったそうである。ところが、明治の廃仏毀釈により廃寺になったが、1889年(明治二十二年)再興を許された。現在は石鎚修験道の本山として、30万人の信徒を抱える大寺となっている。↑神々しい境内境内は広い。奥に本堂ががっしりと構えている。さて、前神寺を出ると次の札所の三角寺までは相当の距離があるので、今日は少し歩き稼がなくてはならない。↑高峠城を眺める(愛媛県西条市洲之内甲)田園の中に聳え立つ、高峠山である。ここは中世、石川氏が治めた館があった。だが、詳細はまだ調べてないので、そのうち調べようと思う。↑土居構跡(愛媛県西条市中野甲)土居構は高峠城の平事の館としての機能を持った館跡である。1585年(天正十三年)、四国征伐により建物が消失し僅かに石垣のみを残すことになった。1642年(寛永十九年)、中野村庄屋の久門氏が入居し現在に至っているとのこと。車ではあっというまの景色である。だが、思いもよらぬところに昔の人の営みを垣間見ることができる。↑迫る石鎚山系↑伊曽乃橋を渡る(愛媛県西条市福武甲)石鎚山系の北側を源流とし、瀬戸内に注ぐ、清流・加茂川。この川を越えたらどういうわけか、空腹に襲われた。(笑)とりあえずピーチネクターを自販機で買うて、耐えたが一時の慰みであった。↑王至森寺のキンモクセイ(愛媛県西条市飯岡)王至森寺(おしもりじ)は、舒明天皇行幸の際に、天皇一向が暴風雨を避けられたことに由来するそうである。このキンモクセイは国の天然記念物で、16メートルの巨木である。このキンモクセイの香りとともに、勇壮な西条祭りがやってくると親しまれているそうだ。↑旧街道へ!!↑旧接待堂・六地蔵(愛媛県西条市飯岡)空腹が半端ない。店を求めて国道11号沿いに出たら、運よくラーメンショップを発見。↑いつもお世話になってるラーメンショップのラーメン(500円)腹も満たされ先を急ぐことにした。↑いよいよ、新居浜市へ。↑黒岩橋(愛媛県新居浜市中村)越智氏の居城、黒岩城があったところと伝えられているそうだが、これも再度調査せねばるまい。↑喜光地商店街(愛媛県新居浜市喜光地町)昔ながらのアーケードの商店街である。足も悲鳴を上げてきた。今日はこのくらいにしとこうか。↑喜光地商店街入り口(愛媛県新居浜市喜光地町)次回の遍路はここからスタートである。そのまま新居浜駅へ。↑新居浜駅足が死んでる。体力の衰えを痛感した。●本日の歩行距離・・・20キロ●総歩行距離・・・140キロ(四国遍路全行程の約10%)★にわか四国遍路(10)へ続く。
2009/11/10
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★にわか四国遍路(7)に戻る。横峰寺へ着いた。★四国霊場六十番札所・石鎚山横峰寺本堂(愛媛県西条市小松町)本尊は大日如来である。本堂や大師堂が山にへばりつくように建てられている。ここより50メートルほど進んだところに奥の院が存在するので行ってみようと思う。★四国霊場六十番札所奥の院・星ヶ森(愛媛県西条市小松町)弘法大師空海がここで修行をしたそうである。鉄の鳥居からは伊予の高嶺、石鎚山を見ることが出来る。↑残雪残る石鎚山↑石鎚山頂までこれより八時間!!(下りは5時間半)星ヶ森よりモエ坂を下り虎杖(いたづり)へ下る道を経由して石鎚山頂(成就コース)まで8時間もかかるとは・・・。残念だが時間も装備もないのでこれより折り返そうと思う。↑虎杖へ下る道「モエ坂」↑星ヶ森でカップヌードルを頂く。横峰寺へ戻り、小松への道をたどる。↑小松方面へ下る登りよりも下りの方が相当長い。横峰寺から香園寺奥の院(白瀧)まで6キロほどの急坂を下る。★四国霊場六十一番札所奥の院・白瀧(愛媛県小松町南川)13時56分、香園寺奥の院に到着した。その名も白瀧。本当の滝である。滝に打たれたいような気もしたが、濡れてしまってはどうしようもないので、見るだけであるが、ご本尊の不動明王が滝の上に立つ姿は圧巻である。↑松山自動車道を越えて・・・↑小松の町並み久々に町を見たような気がする。それだけ横峰寺は下界から遠いところにあったのだ。↑桜満開の香園寺★四国霊場六十一番札所・栴檀山香園寺本堂(愛媛県西条市小松町南川)ここは四国遍路の札所において唯一のコンクリートで作られた近代的な寺院である。友人曰く、どっかの市民会館みたいと。巨大な建物の中には本堂と太子堂が同居している。また、このお寺は子安大師のお寺として知られ安産祈願にご利益があるそうである。次の札所までは1キロほど。小松駅前にある宝寿寺である。★四国霊場六十二番札所・天養山宝寿寺本堂(愛媛県西条市小松町新屋敷)このお寺さんは半年ぶり二度目の訪問である。伊予国一宮の法楽所として繁栄したが、豊臣秀吉による四国征伐で堂を焼失して、江戸時代に再興されたとのこと。今日の遍路はここまで。また小松駅から予讃線で松山へ戻る。山道は辛かった。だが、星ヶ森から見た石鎚山は忘れられないものであった。次回の遍路はいつのことになるのであろうか・・・・●本日の歩行距離・・・18キロ●総歩行距離・・・120キロ(四国遍路全行程の約8、5%)★にわか四国遍路(9)へ続く。
2009/04/12
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★にわか四国遍路(6)に戻る。2009年4月3日、大街道発の新居浜行き特急バスに友人と乗り国道11号を東へ。桜三里を越えて小松町大頭にたどり着いた。今日は大頭より石鎚山の中腹750メートルにある横峰寺を目指そうと思う。四国遍路伊予路における最大の難所といわれ、遍路道の中では三番目に高い札所である。今から振り返るとこの遍路は果たして行ってもよかったのかと、妙な思いに悩まされる。このような思いに駆られた原因をここで語ることは避けたいが。だが、一つだけ言えることは、四国遍路というものは気軽な観光というものではないということである。何百年もの長きに渡り人々の思いが込められているということである。昔の人々がどのような思いで遍路を行ったのか。自分の勉強不足と遍路に対する考え方を改めて認識させてくれた。そのような遍路行が今回の横峰への道だったと思う。さて前置きが長くなったが、この自然の真っ只中、横峰寺への道はすばらしいものであったことは変わりない。↑大量の自販機↑桜真っ盛り(愛媛県西条市小松町大郷)国道11号から南へ入ると山々が深くなっていく。このルートではあまりお遍路さんは見かけない。なぜならこのルートは、四国遍路を効率よく廻るには都合が悪いからである。一般的にお遍路さんは、桜井の国分寺を出ると小松の香園寺へと向かう。そこで一泊して横峰寺をピストンする。このルートは大頭より南へ向かって最奥の集落、湯浪(ゆうなみ)より横峰寺へと目指すルートで正式なルートである。だが、湯浪には店も宿もなくたいそう不便である。だが、この由緒あるルートを歩く人もそれなりに多いことも確かである。※西条市小松町大郷馬返~湯浪への旧遍路道については、にわか四国遍路(16)―横峰寺旧遍路道も参考に!!↑県道147号を登る(愛媛県西条市小松町湯浪)↑湯浪休憩所に咲く一本桜10時7分。登ること一時間ちょい。やっと湯浪休憩所が見えてきた。山道を前にしてここで大休止。東屋ではあるが、夏場だったらここで一泊することも可能かもしれない。↑休憩所の水場↑これを左へ!!↑さて登ろうかね・・・・↑沢を眺めて・・・もはや遍路道は登山道である。かなりの急坂である。これは相当な体力を消費する。あまりにも久々の山登りだったから、けっこう大変だったような気がする。↑古坊のお堂(愛媛県西条市小松町石鎚古坊)11時2分。横峰寺の直下、古坊に到着した。ここにはお堂があるのだが、中にむしろが敷いてあり、なんだかものすごい恐怖である。鬱蒼とした杉林の中。かつて、ここには集落があったそうだ。こんな山の中に集落があったとは驚きである。↑やっと着いた・・・・一本の光が差し込んだ。11時11分、やっとこさ横峰寺に到着した。長かったと同時に相当な疲弊である。四国遍路最大の難所と言われる由縁も分かったような気がする。★にわか四国遍路(8)へ続く。
2009/04/12
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★にわか四国遍路(5)に戻る。かえりみちもいよいよ6周年。そんな2009年(平成二十一年)3月29日再び遍路に出かけた。松山から予讃線で桜井駅へ。今回の遍路道は桜井駅からスタート。桜井から国道196号を南へ歩く。↑今治市から西条市へ(愛媛県西条市河原津)西条市といってもついこの前まで、ここは東予市であった。市町村合併で新西条市になったのである。旧、東予市一帯はかつて周桑郡と呼ばれた地域である。周桑とは周布郡と桑村郡を併せた呼び名であるそうだ。↑世田山(愛媛県西条市河原津)世田山は今治(中予)と周桑(東予)の境目にある要衝である。南北朝時代は新田義貞の甥にあたる大館氏明が伊予守として世田山城主となった。1342年(興国三年)讃岐方面から迫り来る細川頼春軍と果敢に戦い最期は十七名の臣下とともに自刃した。壮烈な戦が繰り広げられた。★四国曼荼羅霊場・世田山栴檀寺本堂(愛媛県西条市楠)世田山の麓にあるお寺さんが通称、世田薬師こと栴檀寺(せんだんじ)である。栴檀寺では胡瓜に厄を封じ込める「きうり封じ」という珍しい祈祷があるという。さてこのお寺よりちょっと寄り道ということで世田山に登ってみようと思う。標高にして339メートル。8合目(271メートル)に栴檀寺の奥の院がある。登ること22分。奥の院に到着した。ガイドでは40分となってるのだが半分の速さできてしまった。↑奥の院にある伊予守、大館氏明公墓所静かな木々に囲まれて春の日差しを浴びる。このまま山頂まで行ってもいいのだが時間がないから下に下りよう。↑道前平野を眺めるすばらしい絶景である。下りは瀬戸内に落ちていく感じで爽快に気持ちいい。↑下山が楽しい下り坂山を下りて、南へ歩む。国指定史跡で古代の山城である永納山城をかすめ三芳方面に歩いていくと、道安寺が見えてきた。★四国番外霊場・医王山道安寺(愛媛県西条市楠)ご本尊は聖徳太子の作と伝えられるそうだ。細川軍の世田山城攻めの際にこの寺院の堂も消失してるとか。★四国番外霊場・臼井大師堂(愛媛県西条市楠)通称、臼井御来迎、臼井の水。弘法大師が臼に加持祈祷して五色の御光を出した伝えられるお堂である。だが、この水は飲めそうになかった。残念。★四国番外霊場・日切山日切大師堂(愛媛県西条市三芳)三芳にあるこの二つの番外霊場を弘法大師ゆかりのものであるという。↑出張橋(でばりばし)三芳は江戸時代、大洲藩領の飛び地であった。そのため、大洲藩の代官が三芳まで出張しなければならなかった。それがこの橋の名前の由来であるという。↑一面の麦畑(愛媛県西条市石延)東国ではあまり見られない麦畑である。途中、車に乗ったおじいさんに声をかけられた。『横峰さんに行くんなら乗せたるよ。』「いや、大丈夫です。歩き遍路ですから。」『若いもんは精神を鍛えて歩かんとな。(笑)』いよいよ旧・丹原町に入った。そういえば、ここは、にわか四国遍路(1)のとき出会ったSさんの故郷である。↑西条市役所丹原総合支所(愛媛県西条市丹原町丹原)丹原は田園広がる古きよき町並みである。それにしてもよう犬に吠えられる。もう三時近いし、横峰寺は次回にしよう。今から山に上がっても帰ってこれないだろうから。↑石鎚橋より中山川(愛媛県西条市丹原町田野上方)いよいよ石鎚山が近づいてきた。そして見えてくるは松山からの国道11号線(桜三里街道)である。↑国道11号線大頭交差点(愛媛県西条市小松町大頭)次回の遍路はここからのスタートである。今回の遍路でコンビニを初めて見たので入店し、軽食を取る。もう時間がないので帰ろうか。国道11号線をひたすら小松の駅まで歩く。途中、ラーメンショップに寄り道。何気に二回目の来店。↑ねぎラーメン温いラーメンは心に染みる。次回は伊予路最大の難所、横峰寺へ。●本日の歩行距離・・・22キロ●総歩行距離・・・102キロ(四国遍路全行程の約7%)★にわか四国遍路(7)へ続く。
2009/04/02
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★にわか四国遍路(4)に戻る。2009年(平成二十一年)3月14日、ホワイトデー。寝過ごしたせいで今治駅に着いたのが8時26分。今回は四国再発見きっぷという四国版青春18きっぷを使ってやってきた。・四国再発見きっぷ(5枚で5500円。一枚あたり1100円)四国旅客鉄道全線の普通車自由席乗り放題。通年販売で金土日に三日間のみ使える。有効期限は購入より3ヶ月。だが残念なことに2009年3月31日をもってこの切符の発売を終了する。今治市内には札所が密接している。駅の東側。市役所の付近にあるのが第五十五番札所、南光坊である。大三島にある大山祇神社の別宮を当地に勧請したものである。★四国霊場第五十五番札所・別宮山南光坊大師堂(愛媛県今治市別宮町)かつては南光坊も含め八坊あったが、戦国時代に土佐の長曾我部元親による伊予攻撃で焼き払われ、かろうじて南光坊のみが再興されることになったそうだ。この日はバスツアーの四国遍路の方々がおったために落ち着いていられなかったので、足早に次の札所へと向かった。今治駅を西口に貫いて今治西高前の細い路地を3キロほど進むと次の札所である。★四国霊場第五十六番札所・金輪山泰山寺本堂(愛媛県今治市小泉)ここでも先ほどのバスツアーが先着していたが、ちょうど参拝を終えたようなのでゆっくりとすうことができた。門前のタオル屋さんでタオルを一枚購入。甘酒を頂いた。★四国霊場第五十六番札所奥の院・ 石鉄山 龍泉寺(愛媛県今治市小泉)お隣にあるのは奥の院である龍泉寺である。ここには十一面観世音菩薩の鏝絵(こてえ)が在ってたいそう珍しいものなのだそうだ。↑十一面観世音菩薩の鏝絵また龍泉寺には「今治で一番小さいコーヒーの店」である『阿奈波(あなば)』がある。ここのマダム(こういう表現である書物に書かれてるそうだが、本人はあまりこの表現を好んでないらしい・・・・)はたいそう偉い方であると思う。↑今治で一番小さいコーヒーの店『阿奈波』店内には全国各地の観光名所を書いた提灯が所狭しと並んでいた。↑コーヒーをお接待していただいた。本当に感謝に耐えない。私が伊豆の生まれであることを話すと、伊豆には長八という鏝絵漆喰の名人がいたのではないかと仰られた。まことその通りで伊豆には長八という左官の名人がいたのだ。そこで初めて鏝(こて)という漢字を知った。なるほどこういう字を書くのか。魚をつければ鰻になるのにと浅はかなことを考えてしまった・・・・そういうわけで、風が少しおさまってきたので阿奈波を後にする。↑石鎚山系はまだ雪化粧四国といえども山間部は積雪がある。そういや先日デジカメを新しく買った。光学7倍ズームですばらしく遠くまで撮れる。↑蒼社川にかかる山手橋を渡る(愛媛県今治市別名)↑遍路道だいぶ郊外にやってきた。泰山寺から3キロほどで次の札所である。★四国霊場第五十七番札所・府頭山栄福寺大師堂(愛媛県今治市玉川町八幡)なかなか静寂に包まれたお寺さんである。麓の遍路洋品店で金剛杖と数珠を手に入れた。これで少しは遍路らしくなったような気がする。さて、これより標高300メートルほどの仙遊寺への登りである。↑犬塚池犬塚池は潅漑用の溜池である。その昔、栄福寺(下)と仙遊寺(上)の二つを一人の住職が兼ねていたとき、たいそう利巧な犬がいたそうだ。この犬は上の鐘がなれば上へ走り、下の鐘がなれば下へ走ったそうだが、ある時、両方から同時に鐘がなり困り果てた犬はこの池に飛び込んだと云われている。これを哀れに思った村人が塚を築いたことから「犬塚」と呼ばれているのだそうだ。↑今治市内を眺める・・・↑しまなみ海道を眺める・・・仙遊寺の登り道からは絶景の瀬戸内海を見ることが出来る。それにしても以前のデジカメでは見えなかった風景がこれほどまでに見えるとは驚愕である。天気もたいそうようなってきた。★四国霊場第五十八番札所・作礼山仙遊寺本堂(愛媛県今治市玉川町別所)その昔、阿坊仙人と呼ばれるお坊さんが修行をしていたのだが、ある日突然姿を消したと云われている。その仙人に想いを馳せ仙遊寺というそうだ。歩き遍路にはちょっとしんどい登りがある。だが、期待を裏切らない眺めが待っている。少し休憩して山を下りようか。 ↑五郎兵衛坂その昔、仙遊寺には伊予守から奉納された太鼓があったそうで、大きい音を響かせ麓の桜井まで響いたそうだ。この太鼓の音で魚が逃げて漁ができないと怒った桜井の漁師、五郎兵衛は山を登り仙遊寺までやってきて、その太鼓を包丁で破り散々、仏様に悪口を浴びせ山を下りる途中、この坂で転んで腰を打ってその怪我がもとで死んでしまったそうである。それ以来、人々は慎重にこの坂を下りるようになったと云われている。たしかに急な坂である。 ↑やっとこさ、麓へ・・・(愛媛県今治市新谷)仙遊寺から伊予国分寺までは6キロほど。国分寺は昨年の9月に訪れているので久々の再訪である。というわけですっかり国分寺の写真を撮るのを忘れてしまった。そういうわけで国分寺に関しては2008年09月11日・国分寺編の日記をご覧いただければ幸いである。 ↑タオルの里、五九楽館国分寺門前にあるタオルの里 五九楽館のTさんとは半年ぶりくらいの再会であった。近況報告をして別れる。そして国分寺より先を歩いていると、Tさんが軽トラでおっかけてきた。『今日、時間ある?これから焼肉やるんだけど来ない?』そして軽トラの上に乗せられ、私はタオルの里 五九楽館へとリターンしてきた。 ↑最高の焼肉!!もう感謝感激である。Tさんの小学校の同級生というIさんともお話ができ、いろんな話を聞くことができた。普段あまり絡むことのない世代なのでたいそう有意義なものであった。しかも奥さんに桜井駅まで車で送っていただいて、涙が出そうであった。人との縁やつながりって大事なことだと再確認した早春の土曜日であった。●本日の歩行距離・・・16キロ★2008年09月11日・国分寺編へ続く。★にわか四国遍路(6)へ続く。
2009/03/20
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★にわか四国遍路(3)に戻る。↑菊間のお接待処(愛媛県今治市菊間町浜)延々と国道を歩くだけの道はつまらない。とはいえ、これを歩かないと今治には到着しない。菊間に入ってから町中で瓦業者を目にした。菊間というのはいぶし銀の【菊間瓦】の名産地で七百年の伝統を誇る産業である。↑鬼瓦がお出迎え。(遍照院にて)仁王門には鬼瓦が・・・菊間らしい。★四国番外霊場・やくよけ大師遍照院弘法大師は四国遍路の折、遍照院で厄払いをしたそうである。この日も境内は親子連れで賑わっていた。↑スタミナラーメン肉を食わないと誓ったのだが、さすがにスタミナが出ない。それ以上に寒すぎる。あったまりたい・・・・。そして入ったのが遍照院お隣のラーメン屋さん。ここで頼んだのがスタミナラーメン。肉を食ってしまったが、現代においては仕方がないことか。まさかこんな早く肉食が破られるとは。世の中は煩悩の塊である。↑今治まで17キロ太陽石油のあたりで左に折れる道があったのでちょっと寄り道。★番外霊場・青木地蔵堂(愛媛県今治市菊間町種)通称、青木大師と呼ばれるそうだ。小さなお堂が立っている。60を過ぎたくらいの人が滞在していたので色々話してみたが、なんと松山の人だったらしい。今は気ままに旅をするそうで、近いうちに芸予の島々を回ってみるとのことだ。遍路の話なんかをしてお接待までしていただいた。だが、やはり白衣を着ないと遍路だと思われないらしくたいそう怪しんだとのこと。今は四国に200人ほどの職業遍路がいるらしい。接待を強要したりなど相当悪質らしい。だから杖と白衣くらいは、揃えようと思った。↑伊予亀岡駅(愛媛県今治市菊間町佐方)決して断念して電車に乗ったわけではない。亀岡駅では、お手洗いをお借りした。14時49分。先を急がないと暗くなる。↑遍路道↑椿も咲いている・・・・いよいよ旧大西町に入った。だが、向かい風にあおられなかなか進めない。↑一里塚(愛媛県今治市大西町新町)松山札辻より九里とのことである。松山札辻とは現在の西堀端で、それより一里ことに塚が建てられてるそうである。1741年(寛保元年)に水谷半蔵という人物が達筆で書いたものが石柱になったそうである。大西駅に到着したのが16時10分。延命寺まであと4キロ。だが、お寺は17時00分で閉まってしまう。ここであきらめて予讃線で松山に帰るか。それとも今治まで歩くか。確かに正常のペースだったら4キロを50分で歩くのはたやすい。だが、私はもう今日すでに40キロ以上も歩いている。もう足が悲鳴を上げている。体力の限界だ。運命の選択肢である。行こう!!歩くことを決意した。5時までつけるか分からないけど、とりあえず歩こう。一歩一歩を踏みしめて歩く。いいようのない痛みが足を襲う。今まで山を歩いてきたが、さすがに一日でこれだけの距離を歩いたのは初めてかもしれない。★四国霊場五十四番札所・近見山延命寺本堂(愛媛県今治市阿方)門前が見えてきたときには泣けてきた。よくここまでやってきたと。時間にして16時50分。なんとか間に合った。納経をすませ本堂へ。↑遍路道をゆく・・・あとはマイペースに今治駅まで。4キロの道だがたいそう長かった。↑今治駅到着長かった。松山、今治は長かった。距離にして49キロ。ここは一杯やりたいなーと居酒屋へ。今治は焼き鳥の町である♪↑今治の焼き鳥は違う。炭火を使わず、鉄板に鉄板を押し当てて焼くのが今治流。今回、食べにいったのは駅から近い鳥林さん。↑「せんざんき」と「とりかわ」「せんざんき」というのは愛媛にしかないみたい。他県の人には分からないだろう。私も知らなんだので頼んでみた。知りたい方は是非食べにきていただきたい。鳥皮も最高でビールまですんなり入っていった。なんとウマいことだろう。焼き鳥がこんなにウマいなんて。地元の方と仲良くなって、お代まで全部出していただいたのは感謝しても仕切れない。●本日の歩行距離・・・41キロ★にわか四国遍路(5)へ続く。
2009/03/08
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★にわか四国遍路(2)に戻る。さて、2月も最終日。2009年(平成二十一年)2月28日・・・前日は風邪で寝込んだものの俄四国遍路旅の続きをしようと思う。前回からちょうど二十日が経過している。早朝、5時45分。我が家を出立。暗闇の中、大川に沿って北へと歩む。鴨川から進路を東へ。ポンジュースの工場が見えてくる。↑早朝の遍路道(愛媛県松山市志津川町)瀬戸内から切り立った経ヶ森の山腹にあるのが太山寺である。ここは原付免許に落ちまくった、あの頃やってきたことがある。けっこうな山の上であったと記憶している。記憶の通り少しばかし登山を行うと本堂が見えてきた。到着は、7時8分である。★第五十二番札所・瀧雲山太山寺(愛媛県松山市太山寺町)↑太山寺本堂本堂は国宝で1305年(嘉元三年)の建築である。また、聖徳太子堂も存在し法隆寺の夢殿と同じように聖徳太子が祀られているそうである。太山寺で伊予柑を買った。200円で一袋は安い。だが、愛媛県民はみかんを買ったことがないそうである。私がみかんを買ったのを見て友達がカルチャーショックを受けた。なるほど私もたいそういろんな人からみかんの類をもらったが、この土地には柑橘が溢れている・・・・・(・。・)田園風景の中を東へ行くと2キロほどで次の札所である。7時45分、円明寺に到着した。★第五十三番札所・須賀山圓明寺(愛媛県松山市和気町)ここも免許センターの近くなので、夏場は相当訪れた・・・ww趣き深いお寺さんである。関ヶ原の際に挙兵して敗北した河野一族を追善供養するために建立された観音堂がある。ここには十一面観音菩薩像が祀られているそうだ。そして興味深いのが・・・・↑キリシタン灯篭十字架に聖母マリアとおぼしき日本人女性が刻まれている。江戸時代のキリシタン禁制の名残であろうか。歴史の長さを痛感できる。さて、ここから先は未知な道。次の札所まで35キロ。(゜o゜)北に向かってひたすら歩くしかないのだ。堀江で一人のお遍路さんを追い越して順調に粟井坂を越える。だが、想像以上に北条までの道が長かった。だが、コンビニが見当たらない。まだ朝飯も食べてないのに・・・・・。粟井でローソンを発見。助かった。↑あまーいマックスコーヒーで体力チャージ♪最近、愛媛でもよう見るようになったマックスコーヒー。千葉・茨城限定だったが2009年2月より全国販売になったそうだ。寂しいような嬉しいような・・・・・↑花へんろの碑(愛媛県松山市北条辻)10時7分、やっと北条に到着した。北条はかつての伊予国風早郡(かざはやぐん)の中心である。風が強いからという単純な由来があるみたいだが、諸説あるそうだ。風早郡の中心は北条であるが、北条市は松山市と合併してしまった。北条はNHKドラマ「花へんろ」早坂暁の故郷である。さて、風早郡に入ったせいだろうか、風が強くなってきた。★番外霊場・杖大師(愛媛県松山市北条本町)へんろ道には数々の番外霊場が存在する。その一つが杖大師である。1825年(文政八年)8月25日に風早郡北条の亀次郎という人の門前に僧が立って托鉢を乞うた。亀次郎の妻が喜んで喜捨すると僧はこの家に七日ほど泊まっていた。翌新年、亀次郎の枕元に僧が立った夢を見ると、これを聞いた四国巡拝中の智績院の法師が、その枕元にたった僧こそ弘法大師であることを確信し自らの杖を奉納したことが杖大師の由来だそうである。ここでお手洗いを借りた。立派なトイレがあった。↑北条鹿島を眺める伊予の江ノ島こと「鹿島(かしま)」である。名前の通り野生の鹿が棲む島である。北条より市営の渡し舟が出ている。↑今治まで27キロ!!(愛媛県松山市大浦)一応、今日のゴールは今治駅である。あと27キロもあるのか。にしてもよう歩いたなぁ。ww↑網代神社(愛媛県松山市大浦)天気はそんなによくない。でも、雨が降らんだけマシじゃろ。(・。・)↑レッドバロンの看板風早という地名はこの土地では大事にされてると思った。潮風で髪の毛がカピカピになってきた。そろそろ風早郡北条から越智郡菊間に入る。現在は市町村合併で地名がなくなりつつあるが、風早郡は松山に。越智郡は今治に。それぞれ文化圏が変わる。↑北条から菊間へ(愛媛県松山市浅海本谷)11時49分。いよいよ今治市菊間町に入った。家を出てから歩くことおよそ6時間。旅はまだ続く・・・・・★にわか四国遍路(4)へ続く。
2009/03/01
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★にわか四国遍路(1)に戻る。文殊院からSさんと同行した。後になって分かるのだがこのSさんは73歳。そして、なんと私と名前が一緒なのだ。しかも漢字まで一緒でこれには驚愕した。おそらく私は自分と同じ名前の人間に初めて出会ったと思われる。縁というものはあるものだ。四国遍路一日目にして衛門三郎屋敷跡で縁を感じた。Sさんが衛門三郎の亡くなった子供8人を祀っている八塚(やつづか)を見たいとおっしゃるので、私も同行することにした。旅に寄り道はつき物である。遍路道を左に入ると、八塚が見えてきた。最初は一つかと思ったのだが、地元の人に聞くと8つあるとのことである。↑八塚群集墳(愛媛県松山市西野町)道中Sさんと様々な話をした。ご聡明な方で若い時はたいそうな苦労をされたと伺える。Sさんは三角点を設置する仕事をしていたらしく日本中を駆け巡ったそうである。お互い、日本各地の話で盛り上がった。20歳の青二才と70歳の御先達の間は時を越えた友人であった。↑右松山道と書かれた道標(愛媛県松山市恵原町)★番外霊場・札始大師堂(愛媛県松山市上川原町)10時40分到着。ここは、かつて弘法大師がお泊りになられたとこで、衛門三郎がここより四国遍路をスタートさせたところである。徳島県の霊前寺が一番札所である理由は畿内方面よりのお遍路さんを受け入れるに都合がよかったからだと云われている。だが、四国遍路開祖と言われる衛門三郎はこのお寺を札始とした。つまりは一番札所。弘法大師を追いかける衛門三郎はどのような心境であったろうか。現在、ここは四国八十八箇所の札所にも別格道場にも入っていない。Sさんは付近でじゃがいもを植えている夫妻に声をかけられた。このお堂の由緒を聞くと上記のような答えが返ってきた。現在、このご夫妻は札始大師堂を守っておられるとのことである。昔はバスも入れないとこであったが、松山市に頼んで道幅を広げてもらった。「付近には遍路の途中で倒れられた無縁仏の墓があります。」遍路途中で倒れた墓が点在しているとのこと。いにしへに思いを馳せ道中をゆく。重信側にかかる久谷大橋を越えると南高井町である。ここには、うどん屋「瓢月」さんがある。ここでお昼ご飯にした。↑瓢月のかけうどん本当にありがたいことに、なんとSさんにお接待していただいた。店を出るとちょうど愛媛マラソンであった。先頭集団がやってきて道がふさがれてしまったのでしばし一服。西林寺に着いたのが12時34分であった。★第四十八番札所・清滝山西林寺仁王門(愛媛県松山市高井町)付近には弘法大師が杖で水を出したと云われる杖の淵があるが、今回は寄ることができなかった。さらに北に向かい久米の街中を歩く。13時44分、浄土寺に到着した。★第四十九番札所・西林山浄土寺太子堂(愛媛県松山市鷹子町)浄土寺は三度目の来訪である。ここには念仏を世に広めた空也上人の像がある。我々が日本史の教科書で見る空也上人像は六波羅蜜寺のものだが、空也像は六波羅蜜寺と浄土寺の二つしかないという。★第五十番札所・東山繁多寺(愛媛県松山市畑寺町)繁多寺も三度目の来訪である。このお寺さんからは松山市中心部を一望できる。ここで一服を取り今日の終着地、石手寺へと歩む準備をする。↑松山を見る・・・・あぁ、家も近くなってきたな。Sさんからは様々なことを学んだ。私のような適当な人間とよく行動を供にしていただいたと思う。Sさんを一言で言うと粋な人だと思う。私も彼のような人間になりたいと思っているが、その道は遠いことであろう。↑石手川にかかる遍路橋(愛媛県松山市石手)遍路橋を越えると石手寺である。↑石手寺門前石手寺は衛門三郎再来伝説に由来すると言われる。当地を治めていた河野息利に男子が生まれたが右の手が開かなかったのでこのお寺に願をかけたところ、手の中から衛門三郎と書かれた石が出てきたそうである。この石は衛門三郎再来の石として当寺に安置されている。★第五十一番札所・熊野山石手寺大師堂(愛媛県松山市石手)ここでSさんと別れた。一期一会とはこのことである。日も暮れてきたので家路へと道を急いだ。↑道後温泉(愛媛県松山市道後)家に着いたのが17時30分。疲れをゆっくり取った。●本日の歩行距離・・・23キロ★にわか四国遍路(3)へ続く。
2009/02/10
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『俄(にわか)』・物事が急に起こるさま。突然。・ 一時的であるさま。かりそめであるさま。(大辞泉より)職場の上司の車に乗せてもらい、三坂峠に着いたのが2009年(平成二十一年)2月8日7時07分のことだった。これより壮大な旅が始まるのである。「四国遍路(しこくへんろ)」弘法大師、空海が修行した四国八十八箇所を巡礼することである。主な廻り方は徳島県の一番、霊前寺をスタートして高知県、愛媛県を経由して香川県の八十八番、大窪寺に至る1400キロの巡礼である。本来は一回で巡礼するのだが、わたくし学生にして時間もお金もない。だから暇を見つけて時間のある時に回ろうというものである。だが、全行程徒歩というルールだけは破るわけにはいかない。そういうわけで私は三坂峠の頂に立った。↑三坂峠(愛媛県久万高原町三坂)三坂峠は標高720メートル。松山と高知を結ぶ国道33号線(土佐街道・久万街道)最大の難所である。私はこの峠が大好きである。特に理由はないが、ここを私の遍路旅のスタート地点とさせて頂いた。次に三坂に帰ってくるのはいつになるのだろうか。徒歩で三坂峠を下りるのだが、車道とは別の道を使う。砥部に下りる道ではなく、久谷に下りる峠道だ。細い杉林の道を颯爽と下りる。↑峠を下りる↑朝霞↑鍋割坂旅人が鍋を割ってしまうほどの難所、鍋割坂。鍋割坂の標柱には「仰西翁偉績」とある。仰西(山之内彦左衛門)は江戸時代前期に生きた久万の人で私財を投げ打って仰西渠と呼ばれるものを作り、険しい久万盆地に農業用水を引いた人であるそうだ。この仰西が鍋割坂も開削したのであろうか。【三坂越えれば吹雪がかかり、戻りや妻子が泣きかかる】と、詠われた程に三坂峠は久万街道最大の難所であった。きっと、この開削も大変なことであったに相違ない。↑早春の棚田と三坂峠↑坂本屋(愛媛県松山市桜)7時49分、坂本屋に到着。三坂を下りて最初の民家である。坂本屋は江戸時代には遍路宿としてたいそう賑わったそうであるが、モータリゼーションの波はこの小さな山村にも影響を及ぼした。国道33号線が出来た後に、坂本屋は廃屋となってしまった。しかし、地元の人たちによってこの宿は立派に修復された。現在はお遍路さんたちの交流場所となっている。私はここでお手洗いをお借りした。↑梅が咲いている・・・・↑網掛けの石その昔、弘法大師は道路工事を手伝ったと云われ、鍋割坂にあったビクともしない巨大な石を畚(もっこ)に担いで山すそまで運んだといわれている。その石には網目が残っていたことから網掛けの石と呼ばれているそうだ。ここでトレッキングの人と出会った。追い抜かれたが、そんなに急ぐ旅でもない。道を進むと二手に分かれる道があった。地元の犬を連れていたおじさんは「下の道が、お大師様の通られた道じゃ。」言いよるので下の道を行くことにした。★第四十六番札所・医王山浄瑠璃寺(愛媛県松山市浄瑠璃町)8時50分。私にとっては一番札所、浄瑠璃寺に到着した。ここで納経帳を買って納経して頂いた。浄瑠璃寺の方にはたいそう親切にさせて頂いた。境内に椰子の木があるのが南国っぽい。★第四十七番札所・熊野山八坂寺(愛媛県松山市浄瑠璃町)10分ほど歩くと八坂寺である。ここでお遍路さんらしき人とすれ違ったのだが、挨拶ができなかった。なんということだろうか。私はたいそう後悔した。八坂寺を後にすると「えばら湖」と呼ばれる農業溜池が見えてきた。↑まっすぐな道(愛媛県松山市恵原町・諏訪神社前)諏訪神社に参拝して、遍路道から県道194号線を北へ向かった。途中、別格霊場文殊院と呼ばれるお寺さんに立ち寄った。その前に四国遍路を語る上でかかせない人物がいる。【衛門三郎(えもんさぶろう)】である。伊予国浮穴郡荏原荘の豪農で河野一族に衛門三郎という人物がいた。この人物はたいそう欲深い人物であったという。ある日、三郎の門前にみすぼらしい格好をした僧が現れ托鉢をしようとしていたのだが、三郎はこの僧が持っていた鉢を割って追っ払った。この僧・・・実は、弘法大師であったとされる。その数日後、三郎の8人の子供はどういうわけか、突然死してしまった。三郎は懺悔の気持ちを抱き、田畑屋敷を売り払い、あのときの僧を追いかけて、四国を廻りに廻った。だが、二十回四国を廻ってもあの僧に会うことはできなかった。三郎は阿波国焼山寺付近で病に倒れる。その枕元に弘法大師は現れた。三郎は懺悔し大師に問いかける。「私に望みはあるのでしょうか?もしも望みが叶うなら河野家に生まれたい。」大師は落ちていた石に【衛門三郎再来】と書き記し三郎に握らせた。安堵した三郎は息を引き取った。三郎は架空の人物とも云われるが、最初に四国遍路を行った人物とされる。架空の話とはいえ二十回も四国を廻るとは凄い話である。★三郎旅立ちの様子(愛媛県松山市恵原町・文殊院境内)文殊院は衛門三郎の屋敷跡と伝えられる。ここで、先ほど八坂寺で出会ったお遍路さんと遭遇した。軽く「おはようございます。」と挨拶をして少し話をしてみた。この方は俄遍路であり、松山の知人宅に居候しているのだという。そしてどういうわけか、この後に行動を供にすることになったのである。★にわか四国遍路(2)へ続く。
2009/02/09
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道中で様々な人と出会う。これがお遍路のすばらしさでせう。★9月4日私は仕事をしに、今治へ。予讃線で一時間も乗ると、目的地があった。愛媛県今治市はタオルと造船で有名な愛媛第二の都市。↑伊予国分寺(愛媛県今治市国分)四国霊場五十九番札所「金光山国分寺(こくぶんじ)」に着いたとき、私の精神は限界に達し、身も心もボロボロであった。そんなときに声をかけてくれたのが、国分寺門前にあるタオルの里 五九楽館のTさんであった。Tさんの優しい言葉に励まされ、私の心は少し立ち直った。人と話すってすばらしい。ホントに・・・・。そして国分寺へ。↑国分寺標柱和気から歩いてここまできたおじいさん。なんて早いんでしょう。道中、お気をつけて。www ここで山口から原付で来たいうおっちゃんと長話。どうやら息子さんは競艇の選手らしいです。サラリーマンなんてつまらないから、競艇の選手に親父がしたらしいです。そんなおっちゃんも凄い人。航空自衛隊、山口県警、機動隊、米軍岩国基地で働き、今は徳山の工場のおえらいさん。仕事替えすぎやろ。 おっちゃん曰く、人に使われるような商売はダメだ。公務員ほどつまらんものはない。(でも、おっちゃん公務員やん。w) おっちゃんが道中会って、可愛いと絶賛するLさん。 ついに私もお目にかかりました。 めっちゃかわいいでー。憧れのマドンナです。日本語もままならないのに、おひとりで四国を回られてるそうです。 なんだか、先までの私の悩みが阿呆みたいに見えてきました。異国の霊場を海外の方が必死に一日20キロも歩いている。なんだか、感動です。私なんて阿呆です。本当に阿呆です。 かたことの日本語と、かたことのぶぎょう英語でなんとかLさんと会話してみました。私が積極的に英語を使用した初の事例です。これは誇らしいことかもしれん。 「My name is M. I'm E Univ COMMUNICATION MAGAGINE EDITER」 「Oh,me too. I'm writer. I'm from England.E Univ Communication magagine. How much?」 「It's free paper.」 みたいなー。山口のおっちゃんはこれを一部始終みていたようである。 スミマセン。英語できない文系です。ww 山口のおっちゃん曰く、「彼女はイギリス人だから。アメリカ英語はもっと適当でいいんよ。」 さすが、岩国でおっただけはあるなー。しかし、おっちゃんも一言も英語を話せない。どうなっとるんや。ww おっちゃんは原付で小松方面へ。Lさんも、足早にお経を唱え、東へと去っていった。 これが一期一会。 私も手を合わした。 「道中、気をつけて。」 ↑豊穣な今治平野お世辞などまったくない、心からの感謝である。 そう、これが「いつくしみ」なのか。 私はこの瞬間から覚醒したようだ。道に死んでいるセミの死骸にまでも慈しみの心を感じてしまった。もはや宗教を超越した心の世界なのか。 まさしく、これがブッタの説く涅槃というものなのか。 そう、これこそが四国なのだと。 (また、自己完結。) ↑南朝の総大将、脇屋義助公の墓所ここで小説に読みふける仙人みたいなひげの長老とであった。話かけるべきだったのだろうが、近づき難い光を発していた。 「どうも。」 軽く一礼した。あの長老とはまたどこかで会いそうな気がする。会いそうな気がする。 やはり私は南朝の人間なんだとつくづく感じた。伊予はええとこぞ。 ↑国分寺塔跡国分寺が隆盛を極めた平安時代。この塔は今治のほとんどの地域から眺めることが出来た。いわばランドマーク。 と、ここで一人の老人と旅をともにすることになった。彼は大阪からやってきた人である。その名をMさんとおっしゃった。 これも一期一会であろうか。 秋田の人間と大阪の人間という年の離れた二人が一時の友を得たかのように親しく話した。彼は一国周りをしよるそうで、今日までに小松入りせんといかんのらしい。 あと14キロ。70を過ぎた老骨に鞭を打ち東へ東へと歩みゆくそのさまは、たくましく見えた。 このお年で四国を回られてるということは、それなりの事情があるのだろう。険しい道をどこまでもどこまでも。 雨の日も風の日も歩きとおすのだ。 私などは本当にちっぽけな人間である。童である。 恥ずかしい。生きているのが恥ずかしい。 そう思いました・・・・・。 地元の人もみな優しい。これがお接待の志である。 3キロほどともに歩いたが、出会いあれば別れあり。 ここで私は何を思ったか、所持しとった「たのしくなけりゃ遍路じゃない」という本をMさんに差し上げることにした。 今まで、いろんな人から受けた志をここで授ける。初のお接待である。 私なんかが持っているよりもMさんが持っているほうが遙かにこの本は価値がある。そう思ったのだ。 そう、大事なのはお金なんかじゃない。 心なんや。 沈み行く太陽。 Mさんは頑張って、川之江までの旅を終えられることと思う。いや、それを願う。 素直な真心で手をあわせた。 「では、道中気をつけて。」 「ほんまにありがとう。」 にほんじんってさいきんなにかわすれてません? わたしなんか、いやしくてわがままであほみたいなにんげんやけど、きょうちょっとだけにんげんらしくなったようなきがします。 一期一会。 人は数奇なものです。えぇ。 ほんまに。 だから大切なひとは大事にしましょう。 帰りに高校生カップルが「パピコをチューチューチュブリララー♪」してる姿にさえもほほえましく思ってしまいました。 愛媛には愛があります。 このようなすばらしい文化を廃れさせてはいけん。 同行二人。 月は東に、日は西に・・・・・・
2008/09/11
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追憶。ふと春のみちを思い出す。★2008年5月30日・伊豫国久米郡桑原郷にてフランス語の授業前、私はチャリで遠乗りをしていた。ここは松山市畑寺町。四国霊場五十番札所「東山繁多寺(はんたじ)」である。↑繁多寺山門この寺院は、あの一遍上人(当地出身・時宗開祖)が修行したお寺であり、源頼義や河野氏に縁が深いお寺さんである。蒙古退散を祈祷した寺としても有名である。 ↑繁多寺本堂静寂に包まれた、春の山。↑アイスクリンそしてチャリで久米へ向かう。松山市久米。↑浄土寺早速、四国霊場四十九番札所「西林山浄土寺(じょうどじ)」へ。御真言としては「なうまくさんまだ ぼだなんばく」と唱えるらしい。この寺には空也上人(市聖)が三年間滞在したらしい。浄土教が盛んだった平安末期の末法思想の頃やろか。 ↑浄土寺境内↑子規句碑「霜月の 空也は 骨に生きにける」↑浄土寺門前夏の痛いような日差しより、春のへんろみちは柔かい。
2008/09/09
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なぜ、歩くのか。私自身の壮大な疑問。我が家の側は遍路道。発心するには至っていない。私のような仏心のない人間は、まだまだ長い修行が必要なんやろー。だが、様々な人との交流を通して、私は着実に人間として成長したと思う。だから、私はとりあえず、歩こうと思う。何も、考えずに。日本を。四国を。とりあえず、八月帰ってくるなり早早、四国遍路をしてみた。歩き遍路をしたかったのだが、時間の都合上、チャリを使用したことは、お見苦しいとは思うが・・・・★9月1日まず最初は、松山市内にある四国霊場五十二番札所「瀧雲山太山寺(たいさんじ」に行ってみた。最寄り駅は伊予和気駅。真言宗の寺院である。↑太山寺一の門一の門からけっこうな坂道である。上り詰めると本堂へ。本堂は1305年(嘉元三年)の創建であり、立派な建築である。↑国宝、太山寺本堂↑太山寺本堂を横から・・・・↑太山寺にある子規句碑「菎蒻に つつじの名あれ 太山寺」正岡子規は松山出身の俳人である。かつては門前で太山寺名物のこんにゃく田楽が売られていたそうである。今では句碑のみぞ残る。そして、四国霊場五十三番札所「須賀山円明寺(えんみょうじ)」へ。行基により開山されたと伝えられる。和気の街中にある寺院である。↑円明寺中門これ以上、先に進むと大西の延命寺まで行かにゃーおえんのんで、とりあえず、家に戻り石手寺へ向かう。四国霊場五十一番札所「熊野山石手寺」は我が家からもっとも近い道場である。何気に四月以来二回目の訪問。↑重要文化財、石手寺三重塔↑猫に襲われる・・・ww↑石手寺本堂石手寺は見所がいっぱい。一言ではとてもやないけど、語れないお寺である。お山八十八箇所というのも存在する。これを回ると四国遍路をしたくらいの効果があるらしい。つづく
2008/09/09
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