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「楽しさ」を意識し… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2007.01.19
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カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日の補足です。今日は朝のうちにアップします。


“芸術とは何か”ということを考えていった時、色々なことが頭に浮かびました。
先ず、“調和”や“美しさ”かなということです。
でも、わざと調和や美しさを壊した芸術も存在しますし、調和と美しさだけなら自然界にもいっぱい存在します。

それもまた“自然の芸術”、“神様の芸術”と表現することもあるでしょうが、それは人間にとっての芸術からの転用であって本来の芸術の意味で使われているわけではないと思います。

それに、Artという言葉自体が、語源的にもともと“自然的なもの”と対立する意味を持っているようなのです。

また、“精神性”も考えました。
でも、芸術を作る人は精神性を考えて作っているわけではありません。


そんな風に色々と“芸術とは何か”ということを考えていくと、“芸術”とは、どうも“人間らしさの一つの形”ということになるようなのです。

では、“芸術”という言葉で現される“人間らしさ”とは何なのかと考えていった時、それは“追求”ということなのではないかと思いついたのです。

文明も文化もその追求の結果です。
人間以外の動物たちは追求しません。
猿は道具を作り、使うと言われていますが、その道具は用が足りればいいだけであって、“もっといい道具”を作ろうと追求することはないのです。

マルセル・デュシャン が工業製品の便器を自分の“作品”として展示しようとした話しは有名ですが、そこでは工業製品そのものが“芸術”なのではなく、その便器を“芸術作品として扱うという行為そのものの中に、彼なりの“追求”があったのではないかと思うのです。

芸術の世界には私達の常識を越える“作品”がいっぱいあります。わざと破壊を見せる作品すらあるのです。

私の趣味ではありませんが、美しくもなく、調和も取れていない“芸術作品”もあります。

また、人に見せる作品が“芸術”かというと、作った作品を発表しない芸術家もいれば、人に見せる目的でない芸術作品もあります。

かのレオナルド・ダビンチの「モナリザ」も、彼はずっと手元に置いたままで描き続けました。人のためではなく、自分のために描いていたのでしょう。

ですから、芸術作品という“結果”だけを見ていても、“芸術とは何か”ということは全く見えてこないのです。



それはつまり、何かを求めて、その求めたものに形を与えようとする精神的な追求が“芸術”を生み出しているのではないかということです。
これは、絵画でも美術でも技術でも技能でも同じです。

そして、その追求を支えているのが“自己との対話”だということです。
つまり、ただの対話ではなく“追求のための対話”ということです。

ですから、その対話のためだけに絵を描き続ける人もいます。また、精神的な修行のために絵を描く人もいます。



ちなみに、追求に似たものに“執着”があります。
子どもがテレビゲームに夢中になるのも“執着”です。でも、一生懸命に絵を描いたり、工作をするのは追求です。

経済活動は執着によって成り立ち、文化は追求によって成り立っています。
追求は自己との対話を求め、そして“執着”は自分との対話を否定します。





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Last updated  2007.01.19 20:41:15
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