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4月からの、気質や、子育てや、遊びや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************気質が違うと、からだの使い方も違います。胆汁質の人は「意思の力」でからだを動かそうとします。ですから、力は出るのですが動きが固く直線的になります。また押すことは出来ても引くことが苦手です。上半身を主に使う活動が得意です。ボクシングのような殴り合うような戦い方が好きです。日本のノコギリは腰で引いて切りますが、欧米のノコギリは上半身で押して切るように出来ています。多血質の人は「感情の力」でからだを動かそうとします。ですから多様で全身を使った動きが出来ます。また、ダンスのような「からだを使って表現する」ことも得意です。でも、あまり力は出ません。静かな動きや直線的な動きも苦手です。戦いは好みません。粘液質の人は「感じる力」でからだを動かそうとします。ですから、「からだを使った対話」が得意です。そして、その対話を楽しみます。そのため動きが遅くなります。また、上半身ではなく下半身を使った動きが得意です。押すよりも引く方が得意です。胆汁質はまず上半身が動き、それに合わせて下半身が動きますが、粘液質の人はそれとは反対に、まず腹、腰などの下半身が動きそれに合わせて上半身が動きます。そのため動きの範囲が狭くなります。日本舞踊や能のような動きをイメージしてもらえば分かりやすいと思います。また、武道などにおいても「腰や腹を使った戦い方」が得意です。相撲もそうですよね。また、胆汁質は「上半身を使った攻撃」が得意ですが、粘液質は「下半身を使った受け」が得意です。実際、合気道には攻撃技がないと聞きます。そのため、戦う意思がない相手とは戦いません。日本の武術は基本的に平和的なんです。ですから、本来、日本生まれの武道は「勝ち負けを競うスポーツ」には向いていないのです。でも、そんな日本の武道でもスポーツ化されると日本的な良さを失い、攻撃的な要素が強くなります。武術の目的は「自己鍛錬」と「身を守ること」ですが、スポーツの目的は「相手に勝つこと」ですから。ちなみに多民族国家である中国には「攻撃を得意とする武術」も「受けを得意とする武術」もありますが、基本的には中国の人も粘液質が強いので、ボクシングのように攻撃に特化した武術はないみたいです。そのため、中国武術の達人でも、リングの上でボクシングルールで戦わされたら負けてしまいます。生き残るための中国拳法と、勝ち負けを競うだけのボクシングとではそもそもの目的が違うのですから。最後になりましたが、憂鬱質の人は「心の力」でからだを動かそうとします。普通は「力」を使ってからだを動かします。でも「力」を使わなくても「心」を使えば人のからだは動くのです。好きな人が傍に来たらからだは緩みますが、怖い人が来たらからだは固まりますよね。そんな時、「力」なんか使っていませんよね。また、疲れて歩くのがしんどい時、「誰かに腰を押してもらっている」とイメージするだけでからだが軽くなるものです。重いものを持ち上げる時も、「上から目に見えない力でひっぱってもらっている」とイメージするだけで少しは軽くなるのです。また、人と人が向き合っている時、こちらのからだの状態は相手のからだの状態に影響を与えています。感情の状態も、感覚の状態も、そして心の状態も相手に影響を与えています。心とからだが固くなっているお母さんが近づくだけで、子どもの心とからだも固くなります。その逆もあります。何も言わなくても、何もしなくても、心とからだが緩んだお母さんが傍にいるだけで、子どもの心とからだも緩むのです。攻撃をする時に「今だ」と心の中で思ってしまうと、相手はその心に反応して動いてしまうのです。昔話に、人の心を読む「さとり」という妖怪が出てきますが、「さとり」でなくても人間にもそれに近い能力があるのです。そのため、こちらが心の中で「殴ろう」と思っただけで、相手は防御を始めます。でも、ニコニコしながら普通に手を出す感覚で殴られると避けにくいです。上を殴ろうと意識しながら下を殴ると避けにくいです。ボクシングなどのフェイントでは「上を打つように見せかけて、実は・・」ということがありますが、心の中で思うだけでも相手は反応してしまうのです。その「心の力」は目では見ることが出来ないので、そのようなトレーニングをしていない人には「やらせ」にしか見えないことがあります。ただし、その「心の力」が強く働くためには、相手もまた「心の感受性」が豊かである必要があります。胆汁質の人はその「心の感受性」が鈍いので「心の力」が効かないことがあるようです。
2025.02.17
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************仏教はお釈迦様の教えを聞いた人達が、他の人達や、他の民族や、他の国の人達に伝えていく過程で生まれました。お釈迦様自身は「教え」を説いただけで、「仏教」を説いたわけではありません。そして、お釈迦様は一人だけなんですが、それが色々な人、色々な民族、色々な国に伝わるうちに、大きな区切りとして「仏教」ですが、実際の内容では大きく異なる「多様な仏教」が生まれました。チベットではチベット仏教が生まれました。中国に渡った仏教は中国でも多様な派に分かれ、日本に渡ってさらに多様な派に分派しました。ちなみに、ウィキペディアで見たら、現在日本には、18の仏教があるそうです。三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・普化宗・黄檗宗・修験宗などです。その日本に来た派は、大きなくくりでは「大乗仏教」と呼ばれていますが、東南アジアで信仰されている仏教は「小乗仏教」と呼ばれています。ちなみに、大乗仏教では厳しく戒律を守ることよりも、「心のありかた」の方に重点が置かれています。それに対して、小乗仏教では「心の中」だけでなく生活の場でも厳しい戒律を守ることが求められています。(大雑把な違いとして、ということです。)ちなみに、仏教はインドで生まれましたが、次第にヒンズー教に飲み込まれ、今ではお釈迦様もヒンズー教の神様の一人になってしまっています。お釈迦様だけではありません、あろうことか、「イエス・キリスト」までもヒンズー教の神様の一人になってしまっています。バックパッカーでインドを歩いているとき、イエスの絵がヒンズー教の神様の一人として売られているのを見て驚きました。多様に分派したのは仏教だけではありません。キリスト教も同じような歴史的経過をたどり、現在、世界中には様々な「キリスト教」が存在しています。ではどうして、原点はたった一つなのに、それが伝えられていくうちに、このように多様なグループに分かれて行ってしまうのかということです。でもだからといって、無数に分かれてしまっているわけではありません。人の数だけに無数に分かれてしまったら、宗派自体が消えてなくなってしまっているはずだからです。人は「教えられたこと」をそのまま伝えるのではなく、自分なりに理解や解釈したものを、他の人に伝えようとします。その過程で「教え」の変成が起きるのです。そして、人が人に伝える限りその変成を避けることは出来ません。だから、10人の人に同じ事を教えても、その10人に「自分が学んだこと」を語らせたら、10人が異なったことを言うのです。でもだからといって完全にバラバラになるわけではありません。似たようなことに気付き、似たようなことを学び、似たようなことを言う人もいます。なぜなら、人間には気質の影響を受けた「感覚や思考のパターン」があるからです。だから、だから同じ気質の人は同じ事に気付き、同じように考え、同じように伝える可能性が高いのです。そして、その考え方に共感する人によって流派が生まれ、伝えられて来たのです。同じ話を聞いても、人はみな自分の気質に合わせて理解し、解釈しているのです。日本では戒律に厳しい小乗的な仏教は定着しませんでした。それは、粘液質と憂鬱質が強い日本人の気質が、「仏の厳しさ」よりも「仏の優しさ」に惹かれたからなのでしょう。アッシジのフランチェスコは、中世の歪んだキリスト教の教えを受けて育ちました。でも、その教えにはなじめず、結局は「イエス・キリスト」そのものの生き方に回帰しました。キリスト教と仏教はその成り立ちにおいて全く異なるものですが、でも、キリスト教の中にも仏教的な考え方に共感的な人達も多くいます。また逆に、仏教の中にもキリスト教な考え方に共感的な人達もいます。遠藤周作が書いた「沈黙」という小説がありますが、遠藤周作やその友人の井上洋二という神父などは仏教的な感性が強かったように感じていました。シュタイナー教育とモンテッソーリメソッドは、その理論も方法も全く異なりますが、でも、シュタイナー教育の中にもモンテッソーリ的な感性の人もいれば、モンテッソーリをやっている人の中にもシュタイナー的な感性の人もいます。西洋にも東洋的な感性を持っている人もいれば、東洋にも西洋的な感性を持っている人はいます。そして、感性や思考のパターンが似ている人同士は理解し合いやすいし、またつながりやすいのです。「類は友を呼ぶ」という諺通りです。でも、実際の生活では、自分と同じ感性、同じ思考パターンの人とばかり付き合っているわけにはいきません。また、パートナーは選べますが、子どもや同僚や上司は選べません。そんな時、「ああ、この人はこのパターンの感性を持っていて、このパターンの考え方をしやすいタイプの人だ」と知ることで、誤解をなくし、お互いに理解し合える可能性も広がってくるのです。
2025.02.16
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多くのお母さんが、初めて体験する子育てにとまどい、「子育て書」などを読んで「子育ての方法」を学ぼうとしています。これは、子どもが二人、三人と複数いる場合でも同じです。一人しかいない時と二人いる時とでは、色々な点で子育ての問題点が違ってくるからです。でも、いくら有名な「子育て書」を読んでも、そこには一般論しか書いてありません。それは当然のことですよね。著者は皆さんの性格も価値観も知りません。また、皆さんの子どものことも、皆さんの生活の状況も知りません。だから、一般論しか書きようがないのですから。でもそのことに気付かない人は、「子育て書の通りに子育てをすれば、子どもはちゃんと育つ」と思い込んでしまいます。そして、子育てが上手く行かないと、「自分の知識や、努力や、能力が足らないからだ」と思い込み、さらに新しい情報を探し始めます。そうして泥沼にはまっていきます。これは子育てだけでなく、教育でも、仕事でも同じです。方法論に依存している人は、目先の問題を処理することばかりに気を取られてしまうので、大きな方向性を誤ってしまうのです。これは、「子育て」をする場合だけでなく「教育」をする場合でも、「人生をどう生きるか」ということを考える場合でも同じなんですが、一番大切なことは「方法を知る」ことではなく「目的を知る(自覚する)」ことなんです。方法を学ぶのはその後の話です。目的地が違えば「そこに至るまでの方法」も違うのですから。「方法」を学ぶにしても、その「目的に合った方法」を学ばないことには意味がないのです。「方法」は「目的を実現するための手段」に過ぎないからです。だから「目的」を知らずに「方法」だけを学んでも迷子になるだけなんです。「どこに行こうとしているのか」ということを知らずに、「地図の読み方」や「その街の情報」を学んでも、意味がないのです。でも、その「手段」を「目的」にしてしまっている人が多いのです。勉強も同じです。「勉強を良い学校に入って、良い会社に入って、お金に不自由しない生活をするため」と考えている人が多いですが、それは、「親や教師の目的」ではあるかも知れませんが「子ども本人の目的」ではないはずです。だから子どもは勉強から逃げようとするのです。でも、子ども本人が喜びと希望を感じ、自分の人生の目的を知ることが出来るような教育をしているのなら、子どもは「行くな」と言っても学校に行きたがるのです。「ブータン 山の教室」という映画にはそのような子どもたちがいっぱい登場していました。本来、「学ぶ」ということは、親のためのものでも、社会のためのものでも、国のためのものでもなく、子ども達に「希望を与えるもの」だったはずなんです。「大人のためのもの」ではなく「子どものためのもの」だったはずです。だから、子ども達は自分の意思で学ぼうとしたのです。もうすぐ卒業シーズンですが、卒業式で歌われる「蛍の光」で描かれているのは「蛍の光」や「窓の雪」のようなかすかな光のもとでも勉強しようとしていた子どもの姿です。でも、今では多くの子ども達が、明るくて快適な部屋を与えられているのに、勉強から逃げようとしています。それは「学ぶこと」が、「子ども自身の目的」になっていないからです。勉強を「自分の夢(目的)を実現するために必要なもの」と感じることが出来たら、子ども達は大人に急かされなくても勉強するのです。
2025.02.15
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「気質」についてあれこれ書いてきましたが、〝じゃあ、気質について知らなければちゃんとした子育ても教育も出来ないのか〟というとそんなことはありません。私はシュタイナー教育が大好きですが、だからといって〝シュタイナー教育を与えなければ子どもはちゃんと育たない〟ということではありません。実際、皆さんが知っている過去現在の「素晴らしいことをした人」、また、お知り合いの「人間として素敵な人」の大部分はシュタイナー教育など受けていないと思います。また、そのような「素敵な人」を育てたお母さんのほとんどが、シュタイナーのことも、気質のことも知らなかったはずです。当然のことながらR.シュタイナーはシュタイナー教育を受けていないし、M.モンテッソーリはモンテッソーリ教育を受けていません。釈迦もキリストも同じです。でも、素敵なことや素晴らしいことを成し遂げた人の伝記などを読むと、そこにはちゃんとシュタイナー教育的要素やモンテッソーリ教育的要素が含まれているのです。実は、シュタイナー教育のことなど知らなくてもシュタイナー教育的な子育ては出来るのです。気質のことなど知らなくても「気質に合わせた子育て」は出来るのです。逆に、シュタイナー教育を学ぶことで、その知識や方法に束縛され、子どもを無理に「シュタイナー教育」という型にはめ込もうとして、子どもの育ちを阻害してしまっている人がいます。そのような人は、子どもの状態に合わせてシュタイナー教育を工夫するのではなく、シュタイナー教育に合わせて子どもの状態を変えようとしています。「シュタイナー教育が目的としていること」を大切にするのではなく、「シュタイナー教育そのもの」を目的にしてしまっているのです。シュタイナーが説いた知識や方法は、「子どもを育て、教育する時に一番大切にするべきことは何なのか」ということです。それは「旅をする時に必要になる手引書」のようなものです。その旅とは「子どもの幸せと魂の育ちを支えるための旅」です。(モンテッソーリ教育ではその旅の目的がシュタイナー教育とはちょっと違うようです。)でも、中には、手引き書を道具として使うのではなく、それを教科書として覚え、解釈することばかりに夢中になってしまっている人が多いみたいなんです。そのような人は、手引書の勉強ばかりして、肝心の「目の前の子ども」を見ようとしていません。見てはいても「手引書からのずれ」ばかり見ています。でも人は一人一人異なった環境の中で、異なった運命の中で、異なった生き方をしながら、異なった子どもを育てているのです。気質も一人一人違います。ご自身がドイツで子育てをしているのなら、ドイツで生まれたシュタイナー教育をそのままの形で実践することも出来るかも知れません。ドイツ語がペラペラならシュタイナーの言葉も理解出来るかも知れません。羊毛も身近にあるでしょう。でも、日本語しか知らない人がドイツ人であるシュタイナーの論理や考え方を理解するのは困難なんです。思考を司っているいるのはその人が使っている言葉だからです。厳密な論理を大切にするドイツ語を、主語も時制も論理も曖昧なままで使うことが当たり前の日本語しか使えない人が理解出来ると考える方が無理があるのです。じゃあ、「日本人にはシュタイナー教育は出来ないのか」というとそんなことはありません。シュタイナー教育の専門家はどう思っているのか知りませんが、単なる「シュタイナー教育ファン」の私は、「シュタイナー教育の方法」や「シュタイナーの言葉」に依存するのではなく、「シュタイナー教育が目的としているところ」を日本人の感性で目指せば、結果として「シュタイナー教育」になるのではないかと思っています。それは「子どもの幸せと魂の育ちを支えるために」という目的です。宮沢賢治はシュタイナー教育を受けたわけではありませんが、シュタイナー教育との相性はいいです。八木重吉という詩人が日本語で書いた詩も、シュタイナー教育との相性がいいです。二人とも「魂の育ち」ということを大切にしていました。「子どもの幸せと魂の育ちを支えるために」という目的を共有すれば、世界のどこで子育てしていても、シュタイナー教育のことなんか知らなくても、現地の言葉で、現地の方法でシュタイナー教育的子育てをすることが出来るのです。目的が同じなら方法も似てくるでしょう。方法が目的を決めるのではなく、目的が方法を決めるのですから。「気質」に関しても同じです。「気質」のことなど知らなくても、子どもの「その子らしさ」を大切にし、子どもの意志を尊重して見守り励まし、子どもの心に寄り添い、子どもが持っている特性を「短所」にするのではなく「長所」にするような関わり方をしていれば、結果として気質の考え方に沿った子育てが出来てしまうのです。
2025.02.14
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私は40くらいまで鎌倉の材木座という海に近いところで育ちました。裏は直で山で、庭からそのまま山に登れました。庭には沢ガニがウロウロしていて、夜にはタヌキの家族がやって来ていました。今住んでいる茅ヶ崎も、サザンなどの湘南サウンドで海のイメージが強いですが、「湘南」と言えるのは一号線から海側だけで、私が住んでいる山側はただの住宅街です。ちょっと行けば畑や田んぼがいっぱいあります。なので、時々海が見たくて自転車で海まで行って海沿いを三浦や小田原の方に向かって走っています。年に数回、三崎漁港や早川漁港まで行って美味しいものを食べてきます。そんな風に海沿いを海を見ながら走っていると毎回、海岸やその周辺の様子が違うのです。昔遊んでいた磯が消えていたり、広かった砂浜が狭くなったり、子どもの頃にはいっぱいいた海の生き物や貝などが激減しています。海岸に打ち上がっているものも違います。ウミガメの死骸が打ち上がっていたこともありました。風が強い日や台風などの後は巨木が打ち上がっていることもあります。また海岸沿いの遊歩道は砂だらけで、部分的にですが完全に埋まってしまうこともあります。数年前の大きな台風の後には、遊歩道自体が崩れて通れなくなってしまっているところもありました。歩いていると、道が途中から砂の中に消えている所もあります。そのような、大風や台風の被害に遭った現場を見ると「あ、壊れている」と思うのですが、あるとき、「これは自然が元に戻しただけなんだ」ということに気付いたのです。つまり、人間が「作った」という時には自然にしてみたら「壊された」ということで、人間が(自然によって)「壊された」という時には自然にしてみたら「元に戻した」だけのことに過ぎないということです。「人間が作る人工的なもの」は基本的に全て「不自然なもの」なので、人間が管理しなければ、すぐに自然に還っていくのです。このように、自然には常に恒常性を維持しようとする働きがあります。そして、その恒常性は循環によって支えられています。それは地球の働きにおいても、命の働きに置いても同じです。だから、四季は循環し、寒い冬が来ても、その後にはちゃんと春が来るのです。風邪を引いて熱を出しても、しばらくすれば薬など飲まなくても熱は下がるのです。年老いて死ぬ人がいれば、また新しく産まれる命もあります。動脈から出ていった血液はちゃんと静脈から帰ってきます。でも、基本的に人工物は循環しません。人間が作ったものは人間によるメンテナンスによってその状態が維持されていますが、それでも、自然の働きにはかなわなくてやがてゴミになります。リサイクルしたとしても、ゴミになるまでの時間を引き延ばしているだけで、結局はゴミになります。ですから、自然から搾取した物で自然に還らないものを作ることで成り立っている社会はやがて滅びます。地球の何十億年というスケールから見たらあっという間に滅びます。と、ここまで環境問題のことを書いているように見えますが、別に私は環境問題について書きたいわけではありません。じゃあどうしてこんな話を書いているのかというと、この「自然の循環システムを支えている働き」と「気質の働き」が非常によく似ているからからです。海の水は太陽の胆汁的な熱の働きによって水蒸気となって空中に上がっていきます。そして、風の多血的な働きによって世界中に拡散していきます。風は自由ですから、どこにでも入り込みます。そして、高い山にぶつかったり、寒い空気とぶつかったりした時には、微粒子を核として水蒸気が固まり始め、霧や雨になり、重くなり、地上に落ちてきます。これが自然の憂鬱質的な働きです。地上に落ちた水は、大地にしみこんだり、地表を流れたりして、やがて「川」になり、多くの命の働きを支えながら、滔々と流れ、やがて海に出ます。これが粘液質的な働きです。そして、海に出たらまたこの循環が繰り返されます。秋になると木々の葉は大地に戻りまた土に還ります。死んでいく生き物もまた土に還ります。これが自然の憂鬱質的な状態です。秋になると、春に起きたことと逆の現象が起きるのです。でも春になるとその大地のエネルギーを得て、また新しい命が産まれます。色が消えた世界に色が生まれます。春になると、秋に起きたことと逆の現象が起きるのです。これが自然の多血質的な状態です。夏には、木々も生き物たちも、命のエネルギーがからだの中から外へと流れ出します。そして、活発に活動します。これが自然の胆汁質的な状態です。でも、冬になると、命のエネルギーは外側に向かわずに、からだの中で春の準備をするために活発に働くようになります。これが自然の粘液質的な働きです。人間においても、いつまでもみんなが幸せに生きるためには、四つの気質が、それぞれの役割をお互いに尊重しあいなが助け合う必要があるのです。どの気質が欠けても、その影響は他の全ての気質の存在を危うくしてしまうからです。「胆汁質が偉い」とか「憂鬱質はダメだ」ということはないのです。全ての気質が対等に大切なんです。問題は、経済(お金)のことにしか関心がない現代社会では、胆汁質や多血質の価値観ばかりが優先されていることです。そして、胆汁質や多血質的な価値観ばかりが大切にされている社会は、循環が途絶えてしまうのでやがて崩壊してしまう可能性が高いのです。秋や冬を受け入れず、活動的な夏の状態だけを維持し続けようとすれば、どんどん気温は上昇し続け、やがて人が住めなくなってしまうのです。人間にとってだけ都合がよい人工物しか存在していない世界では、「自然物である人のからだ」は循環のつながりから切り離され病んでしまうのです。私たちが生き延びるためには、前に進むことばかりに夢中になることを止め、立ち止まり、「過程を楽しむ」「無駄を楽しむ」という価値観を取り戻す必要があるのです。それは粘液質的価値観、憂鬱質的価値観を大切にするということでもあります。今、インフルエンザやコロナや様々な病気が流行しているので、政治家も医者もマスコミも「不要不急の活動は自粛してください」などと言っていますが、困ったことに、人間にとっての「人間らしさを守り育てる行為」の多くが「不要不急」「無駄なこと」に振り分けられてしまっています。そしてそれが、胆汁質が強い人や、胆汁質が強い社会の価値観なんです。胆汁質の人にとっては「心の問題」は大した問題ではないのです。ちなみにトランプさんも胆汁質が強いです。トランプさんだけではありません。政治家は全般に胆汁質が強いです。一時は歌を歌うことも、顔を見せ顔を寄せて話し合うことも、子ども達が友達と手をつなぐことも禁止されましたが、でも、会いたいときに会い、手をつなぎたいときに手をつなぐのは、決して不要不急の行為ではないのです。
2025.02.13
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子育ての相談で一番多いのが、「憂鬱質の子どもについて」と「憂鬱質のお母さんからの相談」です。それは、簡単、便利、効率を目指す現代社会の価値観そのものが、心の世界を大切にしている「憂鬱質的な世界」を否定しているからなのでしょう。多くの幼稚園や学校が、「みんな一緒」「みんな同じ」を目指しています。そのため、子どもたちは学ぶ内容も、学ぶスピードも、行動も、表現の仕方も、「みんな一緒」「みんな同じ」を求められています。そこで求められているのは「大人の期待」に応えることだけであって、「子どもの心」への配慮はありません。それでも、「みんな一緒、みんな同じを大切にするやり方」が子どもの成長や教育に合っているという根拠があればともかく、そんな根拠は聞いたことがありません。ただ、そのやり方の方が子育てや教育が簡単で効率的になるからなのでしょう。実際、日本人が「みんな一緒、みんな同じ」という教育を始めたのは、明治になって「富国強兵」や「欧米に追いつけ追い越せ」という思想が強まってからです。それまでの「寺子屋」でやっていたのは、そこに来る子どもや、子どもを通わせる親のための教育でした。ですから、みんな一緒、みんな同じという教え方はしていませんでした。それが、憂鬱質が強い日本人の気質に合った教育方法だったのでしょう。今、江戸時代の版元の蔦屋重三郎のドラマをやっていますが、あれを見ても、日本人は本質的に「みんな一緒」「みんな同じ」が嫌いな民族だということは分かりますよね。でもそのやり方では欧米に勝てません。そのため、寺子屋方式よりも効率的な「欧米的な考え方や、制度や、やり方」を取り入れたのでしょう。でもそれは、「一人一人の子どものための教育」ではなく「国を発展させるための教育」でした。ちなみに、明治になって西洋式の軍隊を作るときに困ったのは、日本人が「みんなで一緒に歩く軍隊的行進」が出来なかったことです。江戸時代までの日本人は、「大勢の人が、みんなで一緒に、同じリズムで、同じ姿勢で、同じ早さで歩く」ということが出来なかったようなのです。参勤交代の行列でも、あまり人目のないところではバラバラに歩いていたそうです。それで近代式軍隊を作ろうとするとき高杉晋作が困っていたという話を読んだことがあります。でもそれ故に、寺子屋に代わって作られた学校では「みんな一緒、みんな同じ」という教育を徹底させたのでしょう。そして「大和魂」などという意味不明な精神論を使って人々の心を煽りました。心を大切にする日本人には、論理的、合理的な説明よりも、精神論の方が影響を与えやすいのです。その結果、アジアの国では例外的に、あっという間に欧米に追いつくことが出来ました。その延長上に現代の学校教育もあります。でも、精神論で行動していたため、泥沼にはまっても抜け出せませんでした。でも、明治から始まった「みんな一緒、みんな同じ」という教育法は、憂鬱質が強く、「心」を大切にしたい日本人の感性には合っていないのです。特に憂鬱質が強い子どもには合っていません。ちなみに、欧米では「一人一人の個性を大切にする教育」をしているようですが、欧米の人が大切にしているのは「一人一人の心」ではなく「一人一人の才能」です。それが胆汁質が強い人たちの発想です。ちなみに、日本でも、田植えなどの時にはみんなで一緒に同じことをしましたが、それは「人の手伝いをすることで、自分も手伝って貰える」という慣習があったからです。自分がいい加減なことをしたら、自分の時もいい加減なことをやられてしまうのですから。またその時は、みんなで歌を歌ったりしてリズムを合わせました。現代人は「みんな一緒」「みんな同じ」が好きなように見えますが、それは上っ面だけの話です。だからみんなストレスを溜めているのです。本当に「みんな一緒」「みんな同じ」が好きならば、ストレスが溜まらないはずですから。そして、その「みんな一緒」「みんな同じ」が一番苦手なのが憂鬱質の子ども達なんです。憂鬱質の子ども達にとって一番大切なのは「自分の心」だからです。「みんな一緒」「みんな同じ」が一番好きなのは多血質の子どもです。粘液質の子どもは「みんな一緒」「みんな同じ」が好きではありませんが、でも、それに従う事は出来ます。胆汁質の子どもは、憂鬱質の子と同じように「みんな一緒」「みんな同じ」が嫌いですが、でも、自分がリーダーになってみんなを従わせるのは好きです。今、一斉保育の幼稚園、保育園、そして一般的な小・中・高の学校では「みんな同じ」「みんな一緒」は当たり前のことです。それに従わなければ問題児扱いされてしまいます。時には発達障害を疑われます。幼稚園や学校からも指導されます。それでも憂鬱質の子は、「みんな一緒」を押しつける幼稚園や学校は苦手です。行けなくなってしまう子もいっぱいいます。それで、我が子の発達に不安を感じたお母さんが相談に来るのです。ちなみに、「集団行動を怖がる憂鬱質の子ども」の次に相談が多いのが、「集団行動を無視する胆汁質の子ども」についてです。
2025.02.12
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気質の違いは役割の違いでもあります。からだでも、自然界でも、人間の集団でも、それらの集合体がバラバラにならずに統合され有機的に機能するためには、その統合体を構成している各部やメンバーがそれぞれ異なった役割を担う必要があります。また同時に、それぞれの情報が共有されている必要もあります。「みんな同じ」「みんな一緒」では、その集団は有機的に統合されないし、誰かの命令がないと自主的に活動出来なくなってしまうのです。また、指示がないと動けない集団や組織は、何をやってもその体験から学ぶことが出来ません。そこで必要になるのが「役割分担」ということなんですが、人間の群れの中には最初からその役割に適した人がある一定の割合で生まれるように出来ているのです。それは人間以外の動物でも同じですが、人間のような高度な活動をするためには他の動物以上に高度な役割分担が必要になるのです。兄弟もその原則に従って生まれてくるようです。同じ親から生まれ、同じような環境で、同じような子育て方法で育てられ、同じような教育を受けても、兄弟は一人一人違いますよね。お腹の中にいるときも、生まれた後の泣き方やおっぱいの吸い方も、好きな食べ物も、食べ方も、成長の仕方も、性格も一人一人違いますよね。世の中には「子どもの成長は育て方で決まってしまう」と思い込んでいる人がいっぱいいますが、実際には、子どもは、生まれたときから(生まれる前から)一人一人違うのです。ですから親の思い通りになんか育たないのが当たり前なんです。そのことに気づかないと親も子も苦しむことになってしまいます。どうして、そのような多様性が存在しているのかというと、その方が種として生き残りやすいからです。ある病気が流行しても、ひどくなる子とならない子、かからない子もいますよね。みんな一緒、みんな同じだったら、同じウィルスで全員が死でしまう可能性もありますが、一人一人が異なった体質を持っていたら、誰かが生き残る可能性が高くなるのです。そして、その体質は気質ともつながってます。気質が異なれば体質も異なるのです。だから、ギリシャで最初に気質のことを発見したのがヒポクラテスという医者だったのです。インドにも昔から気質と似た考え方がありますが、それもまたアーユルベーダというからだのことを扱った思想や方法の中で見いだされたものです。2000年くらい前の中国の医学書の中にも気質と同じようなことが書かれていたそうです。心理学者が扱っている性格と、からだの専門家が扱っている気質は似て非なるものなんです。気質の分類は、体質の分類と相関関係にあるのです。それは今でも「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」という言葉の中に残っています。これらの言葉は当時の体質を表す医学用語だったのです。ですから、気質が違えば体質も違います。そして体質が違うとからだの状態が違います。そしてからだの状態が違えば、感覚の状態も違います。ものの見方も、感じ方も、考え方も違います。大切にしているものも違います。その結果、言葉も違ってきます。多血質の人にとって「言葉」は自分の気持ちを伝え、他の人とつながるためのものです。ですから、客観性や正確な論理は無視されます。子ども達は多血質が強い時期なので、子どもの言葉もまた自分の気持ちを伝え、他の人とつながるためのものです。だから、今ひとつ意味不明なんです。そして、意味が分からないから聞き返しても、ちゃんと説明できないのです。胆汁質の人にとって「言葉」は仲間と目的を共有したり、自分とは異なった目的を持った相手を打ちのめすためのものです。言葉も武器なんです。だから明確ではあるのですが、独断的、断定的です。また、結果だけを大切にして過程の価値を認めません。胆汁質の人は、見えないものや、心の世界や、感覚の世界のことを扱う言葉を持っていないので、そのような世界のことを扱うのが苦手なんです。多血質の人が「自分がどんなに頑張ったのか」を伝えようとしても、胆汁質の人が聞きたいのは結果だけです。憂鬱質の人が伝えたいのは自分の心の世界の事や、感覚世界や、価値観です。でもそれらは、胆汁質の人にとっては意味不明なものばかりです。だから、胆汁質の人は簡単に憂鬱質の人の言葉を無視したり、否定したりします。粘液質の人は自分の気持ちを他の人に伝えようとはしません。自分で自分に納得できていればOKなんです。でも、自分の感覚や感情に振り回されないで見たり、感じたりすることが出来るので、その言葉には客観性があります。また、感じたこと、考えたことを言葉化するのが上手です。
2025.02.11
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昨日は「多血質」と「憂鬱質」の似ているところと似ていないところを書きましたが、同じようなことが「胆汁質」と「粘液質」の間にも言えるのです。どうしてそういう相似的な現象が起きているのかというと、「四つの気質の働き」が「自然界の循環」を支えているからです。上がったものは下がります。拡散したものは凝縮します。右に行ったものはどこかで左に曲がります。そうでないと上がったまま、拡散したまま、行ったきりになってしまい循環がなり立たなくなってしまうからです。そして自然界も、命の世界も、社会も循環によって支えられています。ただしここで起きている相似は「逆相似」(フィルムのポジとネガにような関係)です。それは「根っこ」と「枝」が似ているようなものです。木を根っこごと地面から掘り起こしてひっくり返したら、普通に立っている木と似たような構造になっていますよね。以下の写真はアフリカのマダガスカルに生えているバオバブの木ですが、枝がまるで根っこみたいでしょ。これほど極端に似ていなくても、構造的には似ているのです。木は根と枝を使って天と地を循環しているのです。私たちのからだの中で血液を循環させている血管の構造も同じです。血液は心臓の動脈から出ていって毛細血管によって体中に運ばれ拡散しますが、今度は、別の毛細血管によって、来た時と逆の過程を通ってまた一つにまとまり心臓に帰っていきます。出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)四つの気質はそれぞれ「春」(多血)、「夏」(胆汁)、「秋」(憂鬱)、冬(粘液)に例えられていますが、「春」と「秋」とでは逆の現象が起きていますよね。夏と冬も逆の現象が起きていますよね。だから見かけは正反対なんですが、構造的には似ているのです。まず、感覚の感性や、思考方法や、体型が似ています。「エネルギーの流れの向き」は逆ですが構造は似ているのです。多血質と憂鬱質の人の感覚や感情の状態は不安定です。そのため両者とも様々な変化に敏感です。違うのは、多血質の人はその変化を喜び、憂鬱質の人はその変化を怖がるということです。不安定という点では春と秋も似ていますよね。春の不安定さは命のエネルギーが活性化する夏への階段のようなものです。でも、秋の不安定さは、命のエネルギーが低下する冬への階段のようなものです。同じ不安定でもその意味が違うのです。多血質と憂鬱質、胆汁質と粘液質の人は骨格的にも似ています。声の状態も似ています。多血質と憂鬱質の人の感覚や感情は不安定だと書きましたが、胆汁質と粘液質の人の感覚や感情は比較的安定しています。胆汁質と粘液質の人は一見正反対に見えるのですが、正反対であるがゆえに似ているのです。そして、胆汁質の人が一番苦手なのが粘液質の人です。胆汁質の人はリーダー向きだと言われますが、粘液質の人もリーダとして活動できるのです。違うのは胆汁質の人は「俺についてこい型」のリーダーですが、粘液質の人は「調和を大切にする型」のリーダーだということです。多血質と憂鬱質の人は脅かせばなんとかなります。でも、粘液質の人には脅かしが通用しないのです。何を考えているのかすら読めません。胆汁質の人は感情や言葉や行動をドンドン排泄します。多血質と憂鬱質の人はその排泄物に敏感に反応するのですが、粘液質の人はそれをスルーしてしまいます。安定しているので振り回されないのです。だから、やりにくいのです。ちなみに憂鬱質の人が一度怒ると、心もからだも固まってしまい、しばらくその状態から抜け出せなくなります。でも、胆汁質の人は、大声で怒鳴った後でも、別人のように笑うことが出来ます。からだが固まらないからです。
2025.02.10
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************一般的に「憂鬱質の人は暗く、多血質の人は明るい」というイメージがありますが、それはちょっと正しいですけど、正確には正しくありません。憂鬱質の子どもでも、安心出来る場で安心出来る人といる時には、多血質のイメージのように明るいです。また、成長と共に色々なことを学び、自分で自分の安心を保てるようになれば、色々な場に行っても、色々な人に会ってもその明るく楽しい状態を維持できるようになります。逆に多血質の子でも、自由と仲間を失い、刺激が少ない環境に束縛されていると、憂鬱質のイメージのように暗くなります。実は、多血質と憂鬱質は似ているのです。人間や刺激に対して高い感受性を持っているという点でも、感覚や感情の状態が不安定だという点でも似ています。私の想像では、この両者は元々は同じものだったのではないかと思っています。人間以外の動物でも、不安を感じるような状態に置かれるとからだを固め、神経質になり、些細な刺激にも敏感になります。それは、知らない相手や知らない状況の中ではなにが起こるか分からないし、何か起きた時には自分の力で自分の身を守る必要が生まれるからです。ですから憂鬱質的な特性は、弱い動物が厳しい自然界の中で生きていくためには必要な能力なんです。それに対して、社交的で、明るくて、楽しい多血質的な性格は「群れ」の中で生活している時にだけ必要になります。自然の中で、自然を相手に生きている時には多血質は必要がないのです。実際、憂鬱質的な野生動物はいっぱいいますが、多血質のような人なつっこい野生動物はあまり知りません。多血質のように警戒心が弱ければ自然界では生きていけないからなのでしょう。そうい動物が存在するのはアニメの中だけです。人間が多血質的な気質を進化させてきたのは、人間が人間だけで群れを作り、社会生活を営むようになってからなのではないかと思います。でも、多血質の人でも、身の危険を感じると、その根底にある「危険に対処するための憂鬱質的な素質」が目覚めてしまうのではないかと思っています。でも、警戒心が強い野生動物でも、人間に飼われ、安心と安全と食料を与えて貰うことで人なつっこくなり甘えてきます。人間に対してあまり警戒しなくなります。つまり、多血質的な状態になります。それでも個体差はあります。人間の世話を受けていても、いつまでも警戒心を解かず人に懐こうとしない個体もいれば、すぐに人間に懐いてしまう個体もいます。その個体差を生み出しているのが気質の差なんだろうと思いますが、厳しい自然界の中にいる時にはその差は表に表れないのです。赤ちゃんでも、お母さんに抱かれている時にはニコニコして、嬉しそうに多血質的にはしゃいでいても、知らない人に抱かれると、突然憂鬱質の子のようにからだを固め、不安な顔になったり、泣き出したりしますよね。それがいわゆる「人見知り」という状態です。これは程度の差はありますが、基本的にはどんな子にもある現象です。この頃はまだ、野生動物のように憂鬱質と多血質が分離していないのでしょう。でも、その人見知りがズーッと続く子と、さっと通り過ぎてしまう子がいます。私には孫が6人います。で、一番最初に生まれた孫は結構人見知りが続きました。といっても人並み程度ですけど。それが長く感じたのは2番目があっという間に人見知りの時期が終わってしまったからです。人見知りの時期はあったのですが、「人見知りが始まったな」と思ったら、すぐに終わってしまったのです。この子は誰に対してもニコニコして甘え上手です。食べるのが大好きで、何か食べさせているとニコニコしてご機嫌がいいです。人間関係が広がるにつれ、その子の中で眠っていた気質が目覚め始め、はっきりとしてくるようです。そんな風に似ている憂鬱質と多血質なんですが、当然違うところもあります。憂鬱質の人は知識を得たり考えることによって物事を理解し、安心を得ようとするのに対して、多血質の人は他の人とのつながりによって安心を得ようとすることです。憂鬱質の人が苦しくなるのは、いくら知識を得ても「まだ知らないことがあるんじゃないか」と考えたり、考えすぎて頭の中がグチャグチャになってしまうからです。ですから、グチャグチャにならないような「正しい考え方」を身につけることで、不安や苦しみに束縛されなくなります。憂鬱質の人は自分で自分を苦しめているのです。逆に言うと、だから、学び直しをすることでその苦しみから逃れることも出来るのです。それに対して、多血質の人が苦しくなるのはつながりが失われた時です。求めるものが満たされなくなると多血質の人は苦しくなるのです。自分では色々と考えているつもりでも憂鬱質の人の思考に比べたら底が浅いです。だから、その状態から抜け出すためには他者の手助けが必要になるのです。もちろん多血質の人も考えたり悩んだりします。でも、突き詰めることが出来ないのです。途中で自分が何を考えていたのかすら分からなくなってしまうこともあります。それで「ま、いいか」となって終わります。でも、憂鬱質の人はどこまでも突き詰めようとします。だから考え方が間違っているとこんがらがって身動きが取れなくなってしまうのです。憂鬱質と多血質は写真の「明るいポジ」と「暗いネガ」のように、見かけは逆なんですがパターンは似ているのです。だから、周囲の状況次第でひっくり返ってしまうことがあるのです。
2025.02.09
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************また「気質」の話を再開させて頂きます。今日の内容は去年もアップしたものですが、分かりやすいと思うので再度アップさせて頂きます。気質の特徴を簡単にまとめてみました。<胆汁質>・目的を共有することでつながろうとする・目的達成に必要な方法も共有しようとします。・世界平和はどの気質の人でも望むでしょうが、胆汁質の人は「軍事力の強化」という方法で進もうとする傾向があるような気がします。・自然を資源として見る傾向があります<多血質>・感情を共有することでつながろうとする・身近な目的は持ちますが、遠くを見据えたような目的は持ちません・世界平和でも「みんなが仲良くなれば戦争なんて起きないのよ」というような考え方をする傾向があるような気がします・人の影響を受けやすいです・人間が大好きです・自然を「心とからだを楽しませてくれるもの」として見る傾向があります<粘液質>・感覚を共有することでつながろうとする・いっしょにご飯を食べて「おいしいね」と顔を見合わせる、一緒にお風呂に入って「気持ちがいいね」と顔を見合わせる。そんな感じです。感覚を共有しているので言葉はあまり必要がありません。・勝ち負けにこだわらないので、なぜ人と人が戦うのかが分かりません。人と人が殺し合っているのを見ると悲しくなります。・平和主義者ではありますが、大きな声で「反戦」を訴えるようなこともしません。・自然との相性はいいです。自然を仲間として受け入れます。 ですから、人がいなくても自然があれば寂しくありません。 <憂鬱質>・世界観、価値観、美意識を共有することでつながろうとする これが共有出来ないといつも一緒に遊んでいても「友だちではない」といいます。 逆に、これが共有出来るなら、会ったことがない相手でも仲間として受け入れます。・戦っている人を見ると恐怖を感じます。そして遠ざかろうとします。・大きな声の人、人の心を感じようとしない人、大騒ぎをしている人にも恐怖を感じます。 そのため、憂鬱質の子は、自分も子どもなのに「子どもらしい子ども」が苦手です。・大人と一緒にいる方が安心する子も多いです。・自然との関係は両極端です。 自分と分離できないくらい自然とつながろうとする人もいれば、自然に恐怖を感じ近寄らない人もいます。・憂鬱質の人にとって自然は「資源」でも「遊び場」でもなく、それ自体が「生き物」なんです。だから、その「生き物」と良い関係を築けた人は自然に包まれようとし、良い関係を築けなかった人は襲われる危険を感じて避けようとするのです。ちなみに日本人は、粘液質と憂鬱質が強い民族のような気がします。妖怪なんかも自然を生き物として見る感性の表れだと思います。○粘液質の人にとって大切なのは今○胆汁質の人にとって大切なのは未来○憂鬱質の人にとって大切なのは過去○多血質の人にとって大切なのはちょと未来と、ちょっと過去と、ちょっと今こんな感じです。もっとも、これは「各気質にはこのような傾向がある」ということであって、「必ずこのパターンに当てはまる」ということではありません。気質は混ざり合ったり、入れ子になったりしていますから。ですから、ここにまとめたことをお読みになってなんとなく各気質のメージを持って頂ければそれでOKです。
2025.02.08
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************全ての存在は、他者との間に「似ているところ」と「似ていないところ」という二つの要素を持っています。大人と子どもの間にも、「似ているところ」と「似ていないところ」があります。「人間」と「石ころ」といった、一見全く異なる存在に見えるもの同士の間にも「似ているところ」と「似ていないところ」があります。もちろん、人間と他の生き物や、草木との間にも「似ているところ」と「似ていないところ」があります。そして全ての存在は、その「似ているところ」と「似ていないところ」の集合体として存在しています。「似ているところ」だけでは存在出来ないし、「似ていないところ」だけでも存在出来ないのです。でも、人間はその「似ていないところ」ばかりに意識を向けてしまう傾向があります。そして「似ていないところ」を分析、整理して、学問や科学を創り上げてきました。その結果、私たちは「大人とは」ということを考える時、「子どもとは違う部分」だけに注目しようとします。「子どもとは」ということを考える時も、「人間とは」とか、「自然とは」ということを考える時も同じです。でも、そのような考え方をしてしまうと「全体」が見えなくなってしまうのです。そして、偏った大人像、子ども像、自然像を創り出すことになります。「大人」のことを考えるときには、「子どもとの違い」だけでなく、「子どもとの共通点」にも注目すべきなんです。そうでないと、「大人」という存在の丸ごとが見えてこないからです。「子ども」のことを考えるときも同じです。でも実は、そのようなことをしているのは大人だけなんです。子どもは「違い」よりも「共通点」の方に意識を向けているからです。子どもは「おんなじ」ということに敏感なんです。そして、「おんなじ」を求めます。大人になると、「おんなじ」を嫌う感性も生まれますが、子どもは「おんなじ」の方が嬉しいのです。そして実は、それが人間の成長システムでもあるのです。例えば、大人は「この木は桜で、この木は梅で、この木は桃だ」というように「違い」に目を向けます。でも、それは「木とは何なのか」ということを知っているから出来ることです。「木とは何なのか」ということが分からない人には、「桜」も、「梅」も、「桃」も、その違いの意味が分からないのです。そして、子ども達は「木とは何なのか」ということを学んでいる段階なんです。そのためには、「個々の木の違い」ではなく、それぞれの「木」の間に「共通しているところ」に目を向けるしかないのです。まただから、「機械」と「生き物」の違いが分からないのです。これは無知だからではなく、「機械とは何なのか」「生き物とは何なのか」ということを学ぼうとしている段階だから同じに見えてしまうのです。ですから、子どもに語りかけるときには、草や木や様々な生き物と、人間や自分自身と似ているところを伝えてあげると、子どもは喜びます。ファンタジーの世界にはそれがあります。そして、「おんなじ」が分かることで、自然に「違い」も分かってくるのです。「動物のおんなじ」と「機械のおんなじ」が分かってくることで、「動物」と「機械」が別のものだということが分かってくるのです。でも、最初から「違い」ばかり教えられると、逆に「人間とは」とか「生命とは」ということが分からなくなってしまうのです。言葉としては知っていても、感覚的に分からなくなるのです。そして、思考が整理されなくなり、混乱するようになります。いわゆる「知的なお勉強」は子どもに「違い」ばかりを教えるので、「知識」は増えるのですが、「全体を見る能力」が育たなくなってしまうのです。そしてそれは、応用能力や思考能力の低下として表れるのです。ただ問題は、「違い」を見つけることばかりに熱心な大人は、「おんなじ」にはなかなか気付かないということです。そして、中途半端に似ているもの同士だと、余計に違いばかりに目が行ってしまいます。そのことに気付けば、社会も、世界も、人間関係も、もっと平和になるのに、違いにばかりに意識が向いてしまうから対立が起きてしまうのです。
2025.02.07
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************犬を育てる時には、犬の生態や特性を知っている必要があります。これは、猫を育てる時も、象やキリンを育てる時も同じです。そしてそのことは多くの人が理解していると思います。でもなぜか、「人間の子ども」を育てるときには「人間の子どもの生態や特性」を知らないまま子育てをしている人が圧倒的に多いのです。これでは「子育て」が上手く行かなくて当然なんです。教育の場でも同じです。どうしてそのような状態が生まれているのかというと、多くの大人が「成長」というものを「未熟から成熟へ」とか、単純に「小さいものが大きくなる」というように「量の変化」としてだけ捉えているからです。それは、なまじ見かけが似ているし、自分も昔は子どもだったからなのでしょう。でも、昔は子どもだったからと言って「子どもについて」知っているわけではありませんよね。それは目の前にいる子どもを見ればすぐに分かることです。嘘だと思ったら子どもに「子どもの生態や特性」について聞いてみて下さい。知らないですから。「自分も子どもだったから子どもについて知っている」と思い込むのは妄想と同じなんです。「日本人だ」ということと「日本人についてよく知っている」ということは同じではないですよね。それと同じです。そこの所を勘違いしているので、「未熟な子ども」をちゃんと管理・指導し、大人になるために必要な知識や技術を教えれば、それだけで「子どもはちゃんと育つ」と思い込んでしまっているのです。また、そう思い込んでいる大人が多いので、そういうことを教えてくれる人も、場もありません。またそのような勉強会を開いてもあまり人が集まりません。私は、中学生や高校生ぐらいになったら「人間について」「子どもについて」「子育てについて」学校の授業の中でちゃんと教えるべきだと考えています。特に、大人が作り出した環境と知識の中だけで生活している現代の子ども達にはそのような「命と触れあうような学び」が必要なんです。子どもに教えることで大人もまた「子どもについて」「大人について」「人間について」自覚し直すことも出来るでしょう。「性教育」はその一部に過ぎません。「性教育」に熱心な人は多いですが、「性教育」を「人間に関する学び」と切り離してはいけないのです。なぜなら「性教育」で教えなければならないのは「動物としての性」ではなく「人間としての性」だからです。それは同じではないのです。「動物としての性」には行為があるだけです。でも、「人間としての性」にはそれ以前に「思いやり」と「愛情」が必要なんです。「子どもについて」の理解が乏しい人は、オタマジャクシを陸にあげジャンプの練習をさせたり、イモムシに空を飛ぶ練習をさせるようなバカげた子育てや教育をしてしまっています。「大人にとって必要なものを、子どもが小さい頃から教え込めば、早く立派な大人になる」とでも思い込んでいるのでしょう。でも、「大人にとって必要なもの」と「子どもにとって必要なもの」は同じではないのです。それは「カエルの成体」と「カエルの子どもであるオタマジャクシ」、「チョウの成体」と「チョウの子どもであるイモムシ」とでは、生きて行くために必要な食べ物や環境が大きく異なっているのと同じです。子どもは成長しなければなりません。ですから、「成長が止まってしまった大人に必要な食べ物や、学びや、環境」と「成長過程にある子どもに必要な食べ物や、学びや、環境」は大きく異なっているのです。でも多くの人がその理解がないまま子どもと関わり、子育てや教育をしてしまっています。その結果、見かけや知識は大人なみでも、大人としての自覚や、精神性や、心の豊かさが育っていない「見かけは大人、中味は子ども」という「逆コナン」状態の大人たちがいっぱい生まれました。その、子どもと関わる大人が学ぶべき事柄には大きく二種類あります。一つは「年齢による変化」です。3才児と5才児は異なった世界に生きています。7才児と9才児も大人とも異なった世界に生きています。年齢が変われば世界の認識の仕方が変わるからです。感覚の状態も、思考の状態も、からだの状態も変わります。カエルやチョウと違って見かけ的には、人間の「子ども」と「大人」の間には「大きさの違い」しかありません。でも、中味はカエルやチョウと同じくらい違うのです。もう一つは「気質」です。同じ三歳児でも色々な子がいます。同じ五歳児でも色々な子がいます。その個体差を生み出している大きな要因の一つとして「気質」があるのです。「気質」も成長に伴って変化しますが、同一年齢の中での相対的な気質は、成長してもあまり変わりません。簡単に言うと、子どもの頃は基本的にみんな多血質が強いです。でも、その多血質が強い子ども達の中にもさらに多血質が強い子、胆汁質が強い子、憂鬱質が強い子、粘液質が強い子がいるということです。思春期が近づくと一般的にみんな胆汁質が強くなります。その場合でも、思春期の子ども達だけ見ていると、そこには胆汁質が強い子、憂鬱質が強い子、粘液質が強い子がいるということです。気質は「入れ子状態」で働いているからです。ですから、日本人は粘液質や憂鬱質が強い民族ですが、その中にもちゃんと四つの気質の人がいるのです。でも、日本人の胆汁質と、欧米の人の胆汁質は同じ状態ではありません。日本人の憂鬱質と、欧米の人の憂鬱質は同じ状態ではありません。母集団の気質が異なっているからです。
2025.02.06
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すみません。今日は告知だけにさせて頂きます。対面の講座と、Zoomでの講座があります。対面講座の会場はJR茅ヶ崎駅周辺の、徒歩圏内にある公共施設です。会場の予約が2,3か月前なので会場が取れ次第日程をお伝えします。連続参加でなくてもOKです。時間はいずれも10:00~12:00 で、参加費は2000円/回です。8月はお休みにします。いずれの講座も、お問い合わせは、件名を書いて<こちら(篠)>までお願いします。<対面講座>〇「気質の勉強会」 月一回 土曜日か日曜日の休日です。子連れに関してはご相談ください。 今のところ、一回目 4/13(日)、5/17(土)となっています。 最初は講義が多いですが、次第にワークを多くしていきます。〇「遊びの勉強会」 月一回、土日などの休日にやります。子連れOKです。大人だけの参加も大歓迎です。 今のところ、一回目 4/19(土)、5/18(日)になっています。作って遊ぶ、描いて遊ぶ、物語で遊ぶ、自然の中で遊ぶ、からだで遊び、わらべ歌で遊ぶなどなど、実際に遊びながらお伝えします。子どもの年令は小学校低学年くらいまでを考えています。ただしこの講座はお母さんが「日常生活の中での子どもとの遊び方」を学ぶための勉強会です。ですから、子どもの参加もOKですが、講座自体の対象は子どもではなくお母さんです。本番は家でやって下さい。子どもとの関わり方や子育てについてもお伝えします。○「からだの会」 「からだの会」は何年も連続してやっている会です。 からだの不思議、からだの面白さ、からだとの関わり方、心とからだの関係などを、実際にからだを動かしながら学んでいます。 月一回、月曜日です。今のところ、2/17(月)、3/17(月)、4/14(月)、5/19(月)の予定になっています。<Zoomでの講座>毎回、週の初め頃に招待状を送ります。録画視聴も出来ます。〇「気質の勉強会」 毎月第三金曜日〇「ゆりかご」(子育ての勉強会) 毎月第四金曜日 子どもについて、気質について、遊びについて、子育てについてお話しします。相談もOKです。あと私の主宰ではないですが、横浜で「親子で遊ぶ会」もやっています。足立区で「気質の勉強会」も始まります。
2025.02.05
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世の中には色々な病気がありますが、病気はウィルスや細菌によってだけ引き起こされるのではありません。ですから、いくら念入りに手を洗っても、四六時中マスクをつけていても、薬を一杯飲んでいても防げない病気もいっぱいあるのです。というか、念入りに手を洗い、四六時中マスクをし、いっぱい薬を飲むことでかえって病気になってしまうことすらあるのです。食事の栄養バランスが偏っていれば病気にかかりやすくなります。添加物の多いもの、過度に加工されたものばかりを食べていると病気にかかりやすくなります。からだを動かさないと病気にかかりやすくなります。姿勢が悪くても病気にかかりやすくなります。小さなことばかりを気にしていると病気にかかりやすくなります。生活に変化がないと病気にかかりやすくなります。生活の中に「心がワクワクするような時間」がないと病気にかかりやすくなります。ストレスが強い状態で生活していると病気にかかりやすくなります。リアルな世界で、自分以外の他者とつながることが出来ないと病気にかかりやすくなります。身の回りを清潔にしすぎると病気にかかりやすくなります。病気は外側からだけでなく内側からもやってくるからです。ですから、細菌やウィルスを完全に排除した無菌室で生活していても人は病気になるのです。でも多くの人が細菌やウィルスが引き起こす病気ばかりを気にして、上に書いたような「病気にかかりやすくなるような生活」をしています。神経質になり、引きこもり、薬を使いすぎ、自然と触れあわず、他者と関わらず、かえって病気にかかりやすくなってしまっているのです。ウィルスや細菌から私たちの健康を守っているのは免疫力という働きです。薬でも、ワクチンでも、マスクでもありません。ただ、免疫力にも限界があるので、その働きを補助するために状況に応じてワクチンやマスクや薬が必要になるだけの話です。みんなで同じものを食べても病気になる人とならない人がいます。同じ状態で同じ場所にいても、病気にかかる人とかからない人がいます。以前、カキをもらって食べたのですが、私以外のみんなひどい下痢になりましたが私はなんともありませんでした。インドで鍛えられたのかも知れません。家族が病気になっても病気がうつらない人もいます。娘の所は子どもが3人いるのですが、次々に病気になります。パパも病気になります。でも全員の看病をしている娘は病気になりません。その違いを生み出しているのが免疫力の違いです。そしてその免疫力の働きに大きな影響を与えているのが上に書いたような様々な要因です。でも、多くの人がウィルスや細菌ばかり恐れて、肝心の免疫力が低下するような生活ばかりしています。そして、ワクチンやマスクや薬では絶対に防げないのが「心の病」です。そして心が病めば、(ウィルスや細菌が存在していなくても)からだも病みます。問題はコロナ騒動の時、医者や、政治家や、学校や、多くの人が「ウィルスの蔓延」を防ぐことばかりに夢中になり、心とからだの活力を低下させるような対策ばかりをやってしまったことです。最近の医者は、ウィルスや細菌ばかり見て、肝心の「人間」は見ないようです。(お産でも同じ事が起きています)心とからだの活力が低下すれば、免疫力も低下します。だから病気にかかりやすくなります。医学も薬も進歩しているのに病気は増え続けています。不思議だと思いませんか。さらには、心とからだの活力が低下すれば感覚の働きも、思考の働きも低下し、意識もボンヤリしてきます。すると目先のことしか見えなくなります。小さな事ばかりが気になるようになります。近くばかりを見て遠くを見なくなります。自分を守ることばかり考えるようになります。目先の快楽ばかりを求めるようになります。客観的、論理的に考える能力が低下します。「カスハラ」や「ぶつかりおじさん」や「無差別傷害」のようなおかしなことをする人が増えたのもその表れかも知れません。そのような状態になると、心とからだが閉ざされ「自分という檻」の中に閉じ込められてしまいます。そして他の人のことも、未来も、希望も見えなくなります。その状態は苦しいのですが、そこから出るためには「自分」を壊すしかありません。その時「自分という檻」だけを壊すのならいいのですが「自分そのもの」を壊してしまう人もいます。
2025.02.04
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昨日は、私は、子どもの自殺が増えたのは「自由」を奪われたからだと考えています。と書きましたが、でもそれだけでは不十分だということに気付きました。なぜならアウシュビッツの収容所や、北朝鮮や、戦争中の日本のように徹底的に自由を奪われた状況の中に閉じ込められていても、死ぬことを選ばずに「必死になって生きのびようとする」人たちもいっぱいいたからです。若い頃、フランクルという人が書いた自身のアウシュビッツの収容所での体験記録を読んだことがあります。アウシュビッツでの生活は毎日毎日が死と隣り合わせで、過酷を極めていました。さらに、毎日何人もの人がガス室に送られ、常に「次は自分かも知れない」という恐怖にさいなまれていました。そんな状況ですから自殺する人もいっぱいいたようです。でも、自殺を選ばずに必死になって生き延びようとしている人もいっぱいいたそうです。その両者の違いを生み出していたのが「生きる意味を持っているか、持っていないか」だったようです。収容所の外に「待っていてくれる人」がいる人は、その「待ってくれている人」が「生きる意味」になったようです。また、「やり残した仕事」や「やりたいこと」がある人も、その「やり残した仕事」や「やりたいこと」が「生きる意味」になったようです。そしてそのような「生きる意味」を持っている人は、自死を選ばず、なんとしても生き延びようとしたそうです。でも、その「生きる意味」を持っていない人は、体力の衰えと、日々の絶望の中で次第に「生きる気力」を失ってしまったようです。人が死を選ばずに能動的に生きていくためには「自分と世界をつなぐもの」が必要になるのです。そこで気になるのが、身近な子ども達に「大人になったらやりたいことがある?」と聞いても、「そんなものない」と答える子が多いことです。「大切なものはなあに」と聞くと「ゲーム」と答える子も多いです。今、「ゲーム以外にやりたいことがない子」が凄く多いのです。そして、そのような子にとっては友だちや家族よりもゲームの方が大切なようです。実際に「家族と一緒に出かけるよりも、家てゲームで遊んでいる方がいい」と言う子もいます。皆さんのお子さんはどうですか?また現代社会では、「夫婦のつながり」や「家族」のつながりも希薄です。「3才、4才になってからでは保育園に入りにくいから」と、まだ赤ちゃんの頃から保育園に入れる人、子どもよりも仕事を選ぶ人、子どもと一緒にいたくないからと子どもを保育園に入れようとする人も多いです。「話しも出来ない赤ちゃんと一緒にいても退屈だ」と言う人もいます。子育ての悩みを聞いていると、夫婦の関係がうまく行っていない人が多いです。ただし、私は、子どもを保育園に預けること自体を否定しているわけではありません。問題にしているのはその理由の方です。でもこれは「個人の問題」と言うよりも「社会全体の問題」のような気がします。政治の影響も大きいです。昨日書いた「自由」はなぜ子どもの成長に必要なのかというと、自由な活動を通して、子どもが「自分の可能性」を知り、「自分がやりたいこと」と出会う事が出来るからです。そしてそれが、子どもの「生きていく意味」になって行くのです。勉強を強制していっぱい知識を学ばせても、それが「自分がやりたいこと」とつながっていなければ無意味なんです。逆に勉強が「自分の生きていく意味」とつながれば、追い立てられなくても勉強するようになるのです。でも現代社会は、子どもが「生きていく意味を見つけにくい社会」になってしまっています。
2025.02.03
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私は、子どもの自殺が増えたのは「自由」を奪われたからだと考えています。その「自由」とは、考える自由、感じる自由、行動する自由、失敗する自由、チャレンジする自由、逃げる自由などです。そして、自由を奪われた子ども達は、常に大人の監視、管理の下に置かれています。タブレットはそのための道具でもあります。特にコロナ騒動下では、徹底して子どもの自由が奪われました。大人も同じでしたが、大人は理由が分かっているので、自分で自分を納得させることが出来ました。でも、大人に「理由」を押しつけられただけの子ども達は納得出来なかったでしょうね。だから大人達は不安を煽ることで、子ども達の行動をコントロールしようとしました。これは「勉強しないと・・・」「手を洗わないと・・・」「マスクをしないと・・・」「歯を磨かないと・・・」などと大人がいつも使う手です。そんな根拠はないのに、例外も山のようにあるのに、強制することで子どもが自分で感じ、考え、判断する能力が奪われてしまうのに、子どもを大人の意図通りに動かしたい大人達は「○○しないと△△になってしまうよ」と決めつけて脅かすのです。その時、常に大人が使うのは「これがあんたのためなんだから」という言葉です。お母さんが子どものためを思って色々とやってあげても、実際には、その想いとは逆の結果になってしまうことが多いのは「お母さんの希望」を押し付けることで子どもの自由が奪われてしまうからです。ゲームでの遊びも子どもの自由を奪います。でも子ども本人は「自由を奪われたこと」に気付かないどころか、むしろ「自由になった」と錯覚してしまいます。それがゲームの怖いところです。自分の感覚や心で感じなくても、自分の頭で考えなくても、自分の意志で判断しなくても、手を動かさなくても、からだを動かさなくても、ゲームが与えてくれる世界の中で、与えられた選択肢を選び反応するだけで、本当の自分の能力以上のことが出来てしまうということは、「リアルな世界を生きていくときに必要になるような能力が育つ機会が奪われてしまう」ということでもあるのです。「ゲームで遊ぶと自由が奪われる」ということはそういうことです。そして、「自由」が奪われてしまうと「可能性」が奪われてしまうのです。そして「可能性」が奪われた子は、自分の未来に希望が持てないため、成長と共に苦しくなるばかりです。実際、幼い頃からゲームでばかり遊んで育った子を森や造形などのリアルな場に連れ出しても、何も出来ないし、何もしようとしません。そして「たいくつだ」と繰り返します。そのような子ども達と関わっていて悲しいのは「何をしたらいいのか分からない」と訴える子どもが多いことです。そういう子は、「何を作ったらいいの?」「何を作って欲しい?」と、すぐにこちらの指示を求めてきます。だから「君が作りたいものを作ればいいんだよ」と言うのですが、「作りたいものがない」という答えが返って来るばかりです。子ども達に「やりたいこと」を聞くと「ゲームがやりたい」という返事しか返ってこない子が多いのです。(特に男子)「もし宝くじに当たったらどう使いたい?」と聞いても、「ゲームを山のように買う」と答える子が多いです。また「どうやって作るの」と聞いてくる子に、「造形に正解はないから君が作りたいように作ればいいんだよ」と答えるとそこで止まってしまいます。でも、幼いときから平気で子どもにゲームを与えてしまうような人の多くは、子どもをそのような場に連れ出そうとはしません。自分も苦手だからです。だからそのことに問題を感じていません。だから、問題を問題として認識できないのですが、その子が親になって子育てをする時になって、その問題が表面化してくるのです。そういう風に育った人は「子どもというリアル」とどう関わったらいいのか分からないからです。だから自分の理想や要求を押しつけるような子育てをしようとしてしまうのです。でも、「リアルな子ども」は、大人の押しつけを拒否します。だから叱ったり、怒鳴ったり、叩いたり、不安や恐怖心を煽ることで行動をコントロールしようとします。それでも言うことを聞かない場合は無視(ネグレクト)します。するとお母さんから見放されることに不安を感じた子どもはお母さんの要求に応えようとします。でも、それがうまく行ったように見えるのは子どもが幼いうちだけです。そのような子育てをしていると、親子の信頼関係が育たないので、思春期が近くなるに従って子育てが難しくなります。子どもも苦しくなります。精神的な自立も困難になります。ちなみにゲームの問題点を指摘すると、反論してくる人が時々います。でも、そのよう人の多くは、私の言うことを否定するだけで、ちゃんとした文章で「自分の意見」を語ることはしません。
2025.02.02
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気になるニュースを読んだので、今日はちょっと話題を変えさせていただきます。その「気になるニュース」とは『子どもの自殺過去最多 目立つ「学校原因」、異変察知急ぐ』というものです。私はこのような状態になってしまった原因として、「子ども達の心とからだの変化」と「大人たちの心とからだの変化」と「社会構造や社会的意識や価値観の変化」などが影響していると考えています。「子どもだけ、大人だけ、社会だけの問題ではなく、それら全体の状態と相互の関係性がおかしくなってきたからなのではないか」ということです。学校がきっかけになりやすいのは、学校が「子どもが大人の世界と触れあう接点」だからに過ぎません。ジグソーパズルのように全てのことが密接につながり合っている世界で、「子どもだけが変化した」などということはあり得ないのです。むしろ「子どもの変化」は、子どもの心とからだの状態に大きな影響を与えている「大人や社会の変化」の結果に過ぎないのです。大人は「子どもの影響」をあまり受けませんが、子どもは「大人の影響」をもろに受けて育っていくからです。「子どもの自殺」が増えたのは、子どもがおかしくなったからではなく、「洞窟のカナリア」のように、社会の中で一番弱く、そしてデリケートな子ども達が大人や社会全体の歪みに強く反応してしまっているからなんです。でも、多くの大人達が「自分たちの生き方や考え方」は振り返らずに、子どもだけを何とかしようとしています。この記事には2024年の小中高生の自殺者数が暫定値で527人となり、過去最多となった。新型コロナウイルスの流行下で増え、歯止めがかかっていない。予兆が見えにくいケースが多いなか、国や自治体は1人1台の学習用端末から異変を察知する取り組みを進める。SOSを見逃さず、専門家らと連携して子どもを支える体制づくりが急務だ。と書かれていますが、このような発想しか出来ない大人達に問題があるのです。新型コロナウイルスが原因のようにも書かれていますが、実際に子ども達の成長に悪い影響を与えたのは「新型コロナウイルス」そのものではなく、大人や社会によって行われた「新型コロナウイルスに対する対策」の方です。その影響はコロナウィルスにかかった子どもだけでなく、コロナウィルスとはあまり関係がないような状況で生活している子ども達にも及びました。今の子ども達の心とからだの状態は、安全、安心だけを優先的に求めた大人や社会が、「子ども達の心とからだの育ち」を無視したような対策をとった当然の結果に過ぎないのです。子どもを病気から守るという名目で子どもを無菌室に閉じ込めれば、ウィルスや菌による病気は防げるかも知れません。でも、そんなことしたら子どもの生命力自体が萎えてしまうので、心とからだの働きが不調になり、内側から病気が生まれてしまうのです。ウィルスや菌が存在していなくても、生命力が低下すれば病気になってしまうのです。また、生命力が低下している人は簡単にウィルスや菌の支配下に置かれてしまいます。逆に、多少のウィルスや菌が存在していても、自由に遊び活動し、生き生きとした生活をしているような子どもは生命力が活性化しているので、多少のウィルスや菌なら自分の生命力でなんとかすることが出来るのです。生まれたばかりの子ども達は、まだ大人や社会の影響をあまり受けていません。つまり、ほぼニュートラルな状態です。この時点では、「自殺が増えて来た現代の子ども」も、「自殺する子が滅多にいなかった時期の子ども」も同じ状態です。でも、そんなニュートラルな子ども達が、成長の過程で大人や社会の影響を受けることで違いが生まれてくるのです。ですから「子どもが変わった」のではなく、大人や、その大人が作っている社会が変わったのです。子どもの心やからだが病んだのは、大人の心やからだが病んだからなのです。子どもの自殺を増やしているのは大人や社会の変化なんです。ですから、大人が自分たちの価値観や生き方を見直し、子ども達を比較し、評価し、競争させる価値観やシステムを改めることなく、「子どもを支える体制」を作っても効果が出るわけがないのです。むしろ監視体制を強化することでさらに問題が深刻化してしまうかもしれません。私は、今、本当に問題なのは、現代人が「自分のからだに備わった命の働きと、命の働きを支えてくれている自然の働き」を信じることが出来なくなってしまったことなのではないかと思っています。だから、子どもを信じることも、子どもの成長に寄り添うことも出来なくなってしまっているのです。子どもの自殺が増えているのはその結果に過ぎません。それをさらに子どもを注意深く観察し、より強く大人の管理下に置くことで対処しようなどと考えるのは全くのナンセンスなんです。動物園で飼育されている動物ならそれでもいいと思いますけど。
2025.02.01
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私が「気質」という考え方と出会ったのはシュタイナー教育の学びの中でです。シュタイナー教育では子どもとの関わりの場で「気質」という考え方を大切にしているということで、学び始めたわけです。でも、その「気質」についての考え方はシュタイナー教育の創始者のR.シュタイナーが言い出したものではなくギリシャ時代のヒポクラテスというお医者さんが唱えた「四体液説」に由来するもののようです。ただ、「ヒポクラテスの四体液説」=「R.シュタイナーの気質」ではないようです。その辺の事情はよく知りませんが、色々な学説があってそのように変化したのか、もしくはR.シュタイナーがそれを教育という場に合うように解釈し直したのかも知れません。また、分類としては、「胆汁質」「多血質」「粘液質」「憂鬱質」の四つに分けられています。この名称は、当時の医学的な考え方に基づくものです。それと、これらは色の「原色」のようなもので、実際には混ざり合った状態で存在しています。ですから、実際には「無数の色」があるように、「無数の気質」があることになります。私はそのような「気質」という考え方に強く興味を持ちました。それは、「気質」の考え方が単なる「性格分類」とは異なり、自然や宇宙ともつながり、また、その人の考え方や、感じ方や、さらには声や骨格といった身体的なことにまでつながっていたからです。ただし、このような考え方はギリシャにだけ生まれたものではなく、インドの古代医学の中にも中国の古代医学の中にも似たようなものはあったようです。近代に入って、科学が進歩してくると「人間は人間」、「自然は自然」、「心は心」、「からだはからだ」と分離してその研究対象にするようになりましたが、古代においては、西洋の人も東洋の人も、「人間」というものを、「自然や宇宙までも含めた全体とのつながり」の中で理解しようとしていたからです。そして、私はそのような考え方の方が、人間やこの宇宙の真実に近いと考えています。科学のように「部分」を「全体」から切り離して研究するのは便宜的には便利な方法ですが、「全体」から切り離した時点で「現実」とは異なった現象になってしまいます。「腕」を「からだ」から切り離して研究して分かるのは「腕の構造」だけです。そのような方法では、決して「腕」というものが持つ本来の意味と機能は分からないのです。そして、最近は科学の方でも、「部分」を「全体」から切り離して研究しても、それだけではこの世界の実体を説明できないということが分かってきました。全ての事象は関係性の中に生起しているからです。でも、だからといって「全体」とのつながりの中で物事を理解するのはかなり困難なことです。量子力学ではそのような視点も持っているようですが、でもそれ故に非常に分かりにくいです。「全体」は常に変化しています。そして、それに合わせて「部分」も常に変化しています。でも、人間の意識は、よっぽど強く意識していないと、簡単に「部分の変化」に囚われてしまい、「全体」が見えなくなり、「部分」に振り回されることになります。天気が変わったり、壁紙が変わるだけで、心やからだの状態は変わります。お母さんの顔色が変わっただけで、子どもの心とからだの状態も変わります。でも、お母さんには自分の表情の変化が分かりません。人の心やからだは、量子力学の世界のようにそれを観察する人の影響まで受けているのです。白衣のお医者さんが観察する場合と、大好きなお母さんが観察する場合とでは、子どもの心とからだの状態は大きく異なるのです。必然的に得られる結果も異なってきます。それが人間というものです。「心」のことが科学として扱いにくいのはそのためです。「気質」のことが分かりにくいのもそのためです。実は、「気質」も周囲の状況に合わせて常に変化しているのです。皆さんも、「お母さん」として子どもと関わっているときと、「仲間」として自分自身のお友達と関わっているときとでは違う気質が現れますよね。ですから、「気質」を一般的な性格分類のように、「その人に固有なもの」として考えていると訳が分からなくなってしまうのです。
2025.01.31
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多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質の四つの気質は、お互いに補い合うような関係になっています。ですからそこに違いはあっても、優劣はありません。四つの気質が柔らかくつながり、お互いに支え合っているときに「循環」が維持され、うまく「全体」が機能するようになっているのです。ですから、(例えば)多血質の特徴が「長所」として生きるような場や状況では、胆汁質や憂鬱質や粘液質の特徴は「短所」として表れやすくなります。でもそれはあくまでも「多血質の特徴が長所として生きるような場」においてだけの話です。つまりそれは、それぞれの気質の「長所」や「短所」として固定されたものではないということです。それは子ども達の個々の能力や性格においても同じです。そこには「違い」はあっても「優劣」はないのです。「算数が得意な子の方が算数が苦手な子よりも優れている」などということはありません。また、「勉強が得意な子の方が勉強が苦手な子よりも優れている」ということもありません。でも、現代社会ではみんながお金や、成績や、地位や、名誉を競い合っています。そして、その競争を支えているのが「優劣による能力判断」です。人と人を比較し優劣を決めるから競争が起きるのです。今では、学校はもちろん家庭でも子どもたちは競争に追い立てられています。兄弟同士で競争させている親もいっぱいいます。でも、親が兄弟を比較し競争に追い立てていると、兄弟の仲は確実に悪くなります。子どもや人間を評価する価値基準を、お金や、成績や、地位や、他者からの評価などといったものに一元化してしまうから競争が起きるのだし、自己肯定感が低い人が大量に生まれてしまうのです。優劣を決める直線的なコースを設定するから競争が起きるのです。自由に走り回ることが出来る広い野原で遊んでいたら競争は起きないのです。正解を決めるから競争が起きるのです。正解がなければ競争は起きないのです。そして、競争することに慣れてしまった人は、助け合うことが出来ません。江戸時代に子どもたちの教育を担っていた「寺子屋」という学びの場では、現代の学校のように「教えるべき正解を決め、みんなに同じことを、同じように教える」という方法はとっていなかったようです。みんなが同じ部屋で勉強していても、みんなが同じ教科書を使って、同じ勉強を同じようにやっていたのではなく、先生が一人一人のニーズに合わせたカリキュラムで個別に指導していたのです。ですから競争は起きなかったのではないかと思います。「山を目指すもの」と「海を目指すもの」が競争しても意味がないのですから。ただこの方法では、「子ども一人一人の能力」や「その子らしさ」は育てやすいですが、「国や大人にとって都合がよい子ども」を育てるのは難しくなります。そのどちらを選ぶかは、社会のあり方や私たち一人一人の意識の問題なんでしょうね。ちなみに、胆汁質が主導するような「簡単・便利・効率・合理性を求める社会」では、競争が苦手な憂鬱質や粘液質の特徴は短所として扱われやすいです。多血質の人は簡単・便利が好きですが、でも自分自身は、合理的に考え効率的に行動するのは苦手です。
2025.01.30
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勉強の成績に凸凹があると、親や先生は「凸の部分は大丈夫だから凹の部分をもっと勉強しなさい」などと言います。でも、そういう勉強を押し付けていると、子どもは勉強が嫌いになります。確かに、頑張れば凹の部分を□(普通)ぐらいまでは膨らませることが出来るかも知れませんが、多分、どんなに頑張っても凸までは膨らみません。凹だということは「その勉強をしていても楽しくない」とうことです。そしてそれは「もともとその分野に関するセンスがない」ということでもあるからです。例えばですが、算数に対するセンスがある子は「勉強しろ」などと言わなくても、自分で算数の勉強をするのです。なぜなら楽しいからです。そして、そのセンスは多種多様です。虫や植物にセンスがある子もいれば、絵を描くことや、言葉や歌や踊りなどで表現することにセンスがある子もいます。漢字にセンスがある子もいれば、科学にセンスがある子もいます。そして、そのセンスがある分野に関しては、親や先生から「ガンバレ」と言われなくてもやるし、止めろと言われても止めません。そしてこの「センス」は「感覚の働き」とつながっているため、持って生まれた要素が大きいのです。教育でもある程度はセンスを育てることは出来ますが、センスがない部分を伸ばそうとするよりも、センスがある部分を伸ばしてあげた方がズーッと子どもは生き生きとするし、自己肯定感も高くなるし、全体的にも伸びるのです。センスがない分野を頑張って勉強をしても「普通」にするのが精いっぱいだと思います。自分の中で誇りを持つことが出来るような成果を得るところまでは伸びないと思います。その結果、自己肯定感も下がっていきます。そして、それまで持っていた凸もそれ以上伸びることなく次第に□になって行きます。すると□□□が並んだ状態になります。でもそれは、子どもが「自分の可能性」「人生の選択肢」を失うことにもつながってしまうのです。そして実は、気質がそのセンスの状態に大きく影響しているのです。気質が違うと興味を持つ方向性も、気付く内容も、感じることも違うからです。同じものを見ても、同じ体験をしても、気質が異なれば異なったものを見て、異なった体験をするのです。胆汁質や多血質の子ども達にとって「楽しかった体験」が、憂鬱質の子どもにとっては「怖かった体験」になってしまうこともあるのです。また、「胆汁質や多血質の子には退屈でつまらないこと」が憂鬱質や粘液質の子にとっては凄く面白いことである場合もあります。その場合、憂鬱質や粘液質の子は胆汁質や多血質が見向きもしなかったことから多くのことを学ぶことが出来ます。昆虫を捕まえる時も、胆汁質の子は「数」を競ったりします。多血質の子はきれいな虫を捕まえようとするでしょう。憂鬱質の子は「珍しい虫」を探そうとするかもしれません。粘液質の子は捕まえるのではなく見ているだけで満足するかもしれません。このようなセンスの違いは、生物の授業の成績にも影響するかもしれません。算数の勉強をしても、胆汁質の子は成績競争で勝つことを目標にする可能性がありますが、粘液質の子はその論理に興味を持ち、憂鬱質の子は「数字の世界が持っている秩序」に不思議を感じ興味を持つかも知れません。多血質の子は大好きな人に褒めてもらうことを目的にするかも知れません。このような多種多様なセンスを持った子ども達に、同じ事を、同じ方法で教え、同じ結果を求めることには無理があるのです。********************アマゾンから「子ども発見」という本を出しています。そこにも気質のことが書いてあります。<以下は告知です>4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。あと、呼んでいただければどこでも行きます。
2025.01.29
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************日本の教育では、「子ども達はみんな同じという前提で、同じ事を教え、同じ結果を子ども達に求めるような授業」をしています。そして、「みんなと一緒にみんなと同じ事が出来ない子」を「問題児」「発達障害児」として特別扱いしたり、排除したりして、残った子ども達の均一性を保とうとしています。発達障害と呼ばれるような子は、基本的に他の子に合わせることが出来ないのでこの枠から外れます。そうでない子ども達は、多少のことなら自分らしさを封印して他の子や先生の指示に従うことが出来ます。それが「普通」ということです。中には「みんな一緒」「みんな同じ」に何の違和感も感じない子もいます。むしろ、その方が安心できる子もいます。日本にはそのタイプの子が多いです。でも、それが苦手な子は苦しくなります。そして学校に行けなくなる子も出てきます。でも、大部分の子は、苦しくても、自分を封印し、みんなに合わせることに慣れてしまいます。でもそういう子は、今度は思春期頃、学校を出た後に問題を抱えることになります。子育てをするようになった時にも、そのような状態の子は途方に暮れることになります。確かに、日本は、そのようなやり方で明治維新以来ズーッとやってきて今までは大きな問題が起きませんでいた。私が子どもの頃(昭和30年代)も、一クラス50人以上いましたがクラスが荒れることもなかったです。不登校の子もいましたが少しです。私のクラスにはいませんでした。どうしてそういうことが可能だったのかというと、明治維新の時は「富国強兵、欧米に追いつけ追い越せ」、戦後は「高度経済成長」などというような「国民全体が共有出来るような目標」があったからです。目標を共有していたから方法も共有出来ていたのです。でも、今の日本にはその「国民全体が共有出来るような目標」がありません。そしてみんな、「失っていた自分らしさ」を求めるようになってきました。でも、今の日本には「自分らしさ」を見つけ育てることが出来るような教育哲学も方法もありません。今まで必要がなかったからです。そんな時、「気質」という考え方はその手がかりを与えてくれるのです。また、発達障害の子との関わり方にも手がかりを与えてくれます。気質が異なれば、感じ方も、考え方も、意識の状態も、からだの状態も異なります。その結果、得意な科目も違います。算数が得意な子と苦手な子とでは基本的な思考回路が違うのです。そのことに気づかなければ、いくらいっぱい勉強させても算数が分かるようにはならないのです。もう、子ども達に「みんな一緒、みんな同じ」を求める時代は終わったのです。先日、境界知能(障害までは行かないけどIQが低い子)の人が、「みんなと一緒が出来なくて苦しかった」と書いている文章を読んだのですが、その子の能力を生かすことが出来るような教育するのなら、IQなどというものは関係がないのです。***********<以下は告知です>4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。あと、呼んでいただければどこでも行きます。
2025.01.28
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以下は、「木を描く」というワークの時の写真です。大きさは自由、表現も自由、全体を描かなくても、部分だけでもOKという前提で描いた絵です。写生ではないので、100%心の中にある「木」のイメージです。それはまた、「木の姿を借りた、自分自身の心の絵」でもあります。上手下手を見るのではなく、これを描いた人が「何を大切にしているのか」ということを感じ取ってみてください。一枚だけでは分かりませんが、こうやって何人かの絵を並べてみると、人によって「大切にしていること」が違うことが分かりますよね。自分にとっての「当たり前」が、必ずしも他の人には「当たり前ではない」ことも分かりますよね。それが気質のワークの目的です。みんな、「何を大切にしているのか」ということが違うことが分かりますか。以下は、慶応大学の学生を相手に「自分が住みたい村・町を描いてみよう」というテーマで描いてもらったときの絵です。これは、気質ごとにグループに分かれてもらいました。ただ、本人達は自分の気質が分からないので、気質と関係のある色への印象で分かれてもらいました。上の2枚が、「緑や茶色や自然を感じるような色が好きな人」のグループです。粘液質タイプの人が多いです。このワークはどこでやっても似たようなパターンに分かれるので面白いです。粘液質が多いと思われる人達は、畑や田んぼや牧場があるようなのどかな「里の村」を描くことが多いです。大抵、川があって、実のなる木が描いてあります。子どもが遊んでいたり、生活を感じるようなものが描かれています。以下は、青や黒や、「深い」という言葉とつながるような色が好きな人のグループです。このグループの人には憂鬱質が強い人が多いような気がします。そして、このグループの人達はどこでやってもまず、大きな山や自然から描き始めます。生活を感じるようなものはあまり描きません。家と家も離れています。山の中の一軒家に住みたいという人もいます。下の方に見えるのは大きな木です。「生命の木」なのでしょうか。この写真には写っていませんが、一番下には海があって、小舟が一艘浮かんでいます。「生活に必要なものは、この船で隣町まで買いに行くので自分たちの村には大きなお店はいらない」そうです。別のところでやったときには、船ではなく電車の場合もありました。以下は、ピンクや、黄色や、水色といった「軽く、明るい色」が好きな人のグループが描いた絵です。多血質の人が多いような気がします。まだ学生だからと言うこともあります、ちょっとぶっ飛んでいます。ちなみに多血質の人は足し算は得意ですが、引き算が苦手です。それで欲しいものを全部描き込んでしまうのです。道もありません。それで「どうして道がないの?」と聞いたら、「だって道があったら不自由じゃないですか」と言われました。以下は赤や、紫やといった「強い色」が好きな人のグループです。胆汁質の人が多いと思います。どこでやってもこのグループは都会的な町を描きます。そして、町には病院、学校、その他様々な施設があって機能的です。自然も描かれることはありますが、あまり重要視されていません。すごいでしょ。人の心には、こんなにも大きな違いがあるのです。私は色々なところでこのワークをやっていますが、このような気質ごとの傾向はどこでやっても同じです。それがすごく面白いのです。********************<以下は告知です>4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。あと、呼んでいただければどこでも行きます。
2025.01.27
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親の気持ちは一緒でも、子どもは気質によって親に求めているものが違います。そのため、子どもの気質に合わせて子どもとの関わり方を変える必要があります。それを無視して、親の価値観だけでしつけをしたり、子育てをしていると、親の意図とは異なる結果になってしまいます。お母さんが「子どもが喜ぶだろうな」と思ってやったことが、逆に子どもを苦しめてしまうこともあるのです。胆汁質の子はチャレンジするのが好きですから、そういう環境が必要です。また、承認欲求も強いので、褒めてあげると喜びます。また、大人や仲間からの指示や命令や束縛に対してはあからさまに反発しますが、あこがれを感じるような年上の子や大人には素直に従います。活動が大雑把で大胆です。小さな事は気にしません。それが長所であると同時に短所でもあります。そのためあまりアート的な細かい活動は得意ではありません。「みんなと同じ」があまり好きではありません。造形などの場では平面的なものよりも立体的なものを好みます。「可愛さ」よりも「機能性」を重視します。自分のやりたいことが決まっているので、「みんなと一緒」を求めません。人に合わせることもしません。でも、自分と同じ目的をもった子となら一緒に行動することもあります。勝ち負けにこだわります。勝つためになら頑張ります。でも、「結果が見えないこと」や「ただ楽しむだけのもの」にはあまり興味を感じません。かっこいいものや、強いものが好きです。不安や恐怖心があまりありません。声や態度が大きいです。自己主張も強いです。恥ずかしがりません。そのため、胆汁質が弱いお母さんは振り回されます。また、幼い子の場合、自分のやりたいことを邪魔されると大声で泣きます。多血質の子は楽しければやるし、楽しくなければやりません。「みんなと一緒」が大好きです。胆汁質と違って、人に合わせるのが好きだし、得意です。作るよりも集めたり飾ったりするのが好きです。可愛いものが大好きです。人の真似をするのが好きなので、あまり独創性はありません。また、自由を束縛されると急に元気がなくなります。嫌なことがあるとチャレンジすることなく簡単に逃げます。逃げることに後ろめたさを感じません。負けると悔しがりますが、だからといって「相手よりも頑張る」ということはしません。あまり責任感はありません。深く物事を考えるのが苦手です。悩んでも、悩みきれずに「まっいいか」と気持ちを切り替えるのが得意です。その点憂鬱質の子は「気持ちの切り替え」が下手です。一人でコツコツと地道な努力をするのも苦手です。マグロのようにいつもからだを動かしていないと窒息します。でも、一つのことにこだわることなく、自由な発想をすることが出来ます。(ただし発想だけです。胆汁質の子はそれを実現しようとしますが、多血質の子はそれを実現しようとはしません。)明るい性格なので周囲を楽しくしてくれます。他の人との間に壁を作らないので、友達が多いです。情報もいっぱい持っています。人と人をつなぐのが好きです。小さな事にはこだわりません。人の影響を受けやすいです。仲間がいると生き生きとして、積極的に活動することが出来ます。基本的に頑張ることは好きではありませんが、仲間と一緒なら頑張ります。数学のような論理的なものはあまり好きではありませんが能力がないわけではありません。つまらないからやらないだけです。ですから、「先生が素敵」だとか「仲間と一緒」などという動機があれば頑張って成績が伸びます。でも、数学そのものが好きになったわけではないので、動機が消えれば数学の勉強もしなくなります。泣いてもすぐに泣き止みます。憂鬱質の子は、自分の世界を大切にしています。その世界を共有することが出来る相手となら一緒にいることが出来ますが、その世界を共有できない相手は避けようとします。予測できないことを怖がります。デリケートな神経を持っているため、強い刺激や、大きな声や、大勢人がいる場や、騒々しいところを嫌がります。人の気持ちを無視する子は苦手です。いつも、頭の中であれこれ考えていて理屈っぽいです。目で見えることよりも目で見えないことの方を心配します。気持ちを切り替えることが下手です。「自分だけのルール」を持っている子が多いです。そして他の人や子がその「ルール」を守らないと泣きます。でも、周囲の人には何で泣いているのか分かりません。胆汁質の子は行動しながら考えますが、憂鬱質の子は考えるだけで行動しない傾向があります。戦うことが嫌いです。肯定されて育っている憂鬱質の子は小さいものや、弱いものに優しいですが、否定されて育っている子はその逆になりやすいです。戦うことが嫌なので、指示や命令に対しては比較的素直に従います。やられてもやり返しません。でも、心は苦しいです。すぐに心がどこかに飛んでしまいます。すると、時間が止まったかのようにジーッと動かなくなります。心の中に現実逃避をすることも多いです。物語が大好きです。また、物語的に物事を考えます。みんなと一緒は苦手なのに寂しがり屋です。保守的で新しいことには慎重です。色々なことに対するこだわりが強いです。憂鬱質の子は時間さえかければ自分のことは自分でなんとか出来るので、せかさず、叱らず、ただ傍にいて見守っているだけで大丈夫です。でも、他の気質の子よりも行動や成長に時間がかかります。そのため親としては追い立てたくなってしまうのです。また、胆汁質も多血質も褒めれば喜ぶし、ある程度は褒めることで行動をコントロールすることもできますが、憂鬱質の子にはそれは通用しません。憂鬱質の子は自分の活動の是非は自分で判断します。そういう点で非常に扱いにくいです。成長と共に安心と自信がついてくると、5年生頃から次第に積極的になり、こだわりも減り、外の世界に出て行くようになります。友達も増えてきます。でも、追い立てたり、恐怖で支配しようとすると、さらに状態は悪くなります。胆汁質の子はみんなに聞こえるように大きな声で泣きますが、憂鬱質の子はシクシク泣きます。粘液質の子はあまり積極的に活動しません。でも、自分は活動しなくても、楽しそうに活動している仲間達を見ているのは好きです。憂鬱質の子は大勢の子が遊んでいる場からは逃げようとしますが、粘液質の子は参加はしなくても、楽しんではいるのです。食べるのが好きです。多血質のようにはしゃぐこともありますが、長続きしません。基本的に、ジーッとしているのが好きです。おだやかです。その子の回りだけ見えない幕がかかっているような雰囲気があります。活発な活動は苦手ですが、持続的、継続的な活動は得意です。結果よりも過程を楽しむことが出来ます。多血質とは違い、単調な繰り返しが好きです。一人でも退屈しないし、寂しがりもしません。そのため、「楽な子」として放っておかれてしまう可能性もあります。すると、発達が遅れてしまいます。参加しなくても、見たり感じたりしながら色々なことを吸収しているので、意識して、そういう場や刺激を与えてあげて下さい。自分の価値観や感覚にこだわることなくバランス良く考えることが出来ます。外見的には不活発ですが、心の感受性は高く、文章など書かせるとその内面を見せてくれます。植物や生き物を育てるのが好きです。ちゃんと世話をします。積極的な反抗はしませんが、納得できないことに対しては沈黙の抵抗をします。マイペースですが、ちゃんとやるべき事はやります。追い立てられても早く動くことが出来ません。あまり泣きません。多血質と憂鬱質はその不安定さで似ています。粘液質と胆汁質は比較的安定しています。多血質と胆汁質は「現実の世界」や「大人の社会」に強い興味があります。粘液質と憂鬱質は、そういう「自分の外側にある世界」よりも、「自分の内側の世界」の方を大切にしています多血質と粘液質はこだわりが少ないという点で似ています。比較的からだも柔らかいです。胆汁質と憂鬱質はこだわりが強いという点で似ています。両者ともからだは固いです。それと、気質は混ざって存在しているのが普通なので、実際には、上に書いたような特徴に分類しきれない子もいっぱいいます。しつけをするときにはこういうことも知っておくと楽になります。多血質と憂鬱質はその不安定さで似ています。粘液質と胆汁質は比較的安定しています。多血質と胆汁質は「現実の世界」や「大人の社会」に強い興味があります。粘液質と憂鬱質は、そういう「自分の外側にある世界」よりも、「自分の内側の世界」の方を大切にしています多血質と粘液質はこだわりが少ないという点で似ています。比較的からだも柔らかいです。胆汁質と憂鬱質はこだわりが強いという点で似ています。両者ともからだは固いです。それと、気質は混ざって存在しているのが普通なので、実際には、上に書いたような特徴に分類しきれない子もいっぱいいます。しつけをするときにはこういうことも知っておくと楽になります。********************<以下は告知です>4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。あと、呼んでいただければどこでも行きます。
2025.01.26
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************「わたしと遊んで」(マリー・ホール・エッツ作)という絵本があります。わたしとあそんで (世界傑作絵本シリーズ) [ マリー・ホール・エッツ ]野原に遊びにやってきた女の子が最初は積極的に動いて、バッタやカエルやカメなどに「一緒に遊ぼう」と働きかけます。でも、みんな逃げてしまって女の子は独りぼっちになってしまいます。そのうち女の子はあきらめて一人で石の上に腰掛けてジーッとしていたら、さっき逃げていった生き物たちがみんな戻ってきて、女の子の回りで遊び始めました。そして、その女の子は最後に ああ わたしは いま とっても うれしいの。 とびきり うれしいの。 なぜって、みんなが みんなが わたしと あそんでくれるんですもの。と言います。私はよくこの絵本を気質の勉強会に持って行きます。そして、みんなの感想を聞きます。すると、粘液質(ねんえきしつ)や憂鬱質(ゆううつしつ)の人は「素敵ですね」と言います。でも、多血質(たけつしつ)の人はピンとこないようです。さらに胆汁質(たんじゅうしつ)の人はもっと積極的に「よく分からない」と言います。「こんなお話しのどこが素敵なのか全然分からない。なんでこんなお話しが絵本になっているのかすら分からない」と言い切った胆汁バリバリの人もいました。彼女は、「だってこの女の子は何にもしないでただ座っているだけじゃない」と言いました。憂鬱質や粘液質の人はからだを使って特別な行動などしなくても、感覚や思考を働かせるだけで、素敵な何かが生まれることをよく知っています。だから、この女の子の「何もしない」が分かるのです。それに対して、胆汁質の人は「行動し積極的に関わることでしか何も生まれない」という価値観を持っているので、何もしないままで「うれしい」と言うこの子の気持ちが理解出来ないのです。それで胆汁質は話を聞いているうちにイライラして来てしまうのです。確かに、野原に行って、仲間と一緒に虫を探したり、木登りしたり、鬼ごっこをするのも楽しいです。でも、野原の真ん中に座ってジーッとしていると、自分と世界がつながっていること、自然の美しさ、生命の世界が豊かであること、そして自分の感覚が宇宙全体に広がっていく感覚など、色々なことを発見することが出来ます。憂鬱質の人はこのように空想することが、そして粘液質の人はこのような感覚世界に浸っているのが大好きです。ですから、いつも静かに浸っていたいと思います。でも、この内的な世界はデリケートなので活動的に動き回ると消えてしまうのです。ちなみに、粘液質の人は肌に触れてくる風、木々の木漏れ日の揺らめき、水の音、お日様の暖かさなどにうっとりとします。憂鬱質の人は精神的感覚を好み、粘液質の人は身体的感覚を好みます。(胆汁質は達成感を好み、多血質は関わり合いを好みます。)憂鬱質や粘液質の人があまり活発に活動しないのは、このように「内的な活動」をしているからなのです。でも、胆汁質や多血質の人にはその「内的な活動」が見えません。子どもの成長においても、胆汁質や多血質の子の方が一見早く成長するように見えます。憂鬱質や粘液質の子は成長がゆっくりのように見えます。でも、手仕事のような活動をさせると、胆汁質や多血質の子どもたちはすぐ飽きてしまいますが、憂鬱質や粘液質の子どもたちはあまり飽きません。むしろ自分がやっていることと対話することができるので面白さを感じます。表面的には不活発ですが内面はしっかりと成長しているのです。つまり、胆汁質や多血質の子どもは表面的には成長が早いように見えるのですが、内面の成長に関して言えば、憂鬱質や粘液質の子どもの方が早いのです。その違いを私は「外側から育つ子」と「内側から育つ子」というように表現しています。でも、どちらのタイプの子でも、気質を肯定され、自分のペースに合わせて育つことが出来れば思春期頃にはお互いの差は縮まっていきます。胆汁質や多血質の子も内的な活動が出来るようになり、憂鬱質や粘液質の子も外的な活動が出来るようになるということです。でも、子どもを教育する立場の大人にそのような認識がなく、遅れている部分を仕付けや教育にによって取り戻させようと追い立ててしまうと、そのままの状態で大人になってしまいます。そして、持って生まれた自分の能力を生かすことが出来なくなります。********************<以下は告知です>4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。あと、呼んでいただければどこでも行きます。
2025.01.25
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************多血質のお母さんが「子どもが喜ぶだろう」と思ってやってあげることを素直に喜ぶのは、お母さんと同じ「多血質」の子どもだけです。いつも一人で遊んでいる我が子を見て「寂しそう、友達を作らせてあげたい」と、子どもがいっぱいいるところに連れて行っても、すぐに他の子と一緒に遊び始めるのは多血質の子だけです。胆汁質と粘液質の子は、他の子がいても自分一人で遊ぼうとします。なぜなら、胆汁質の子は他の子に合わせるのが嫌いで、粘液質の子は他の子がやっていることに興味がないからです。ただ、胆汁質の子は活動的で目立つので、自分たちだけで遊びを考えるのが苦手な多血質の子ども達が寄ってきて、胆汁質の子と一緒に遊ぼうとすることはあります。そして、胆汁質の子は自分が寄っていくのは嫌いですが、みんなが寄ってくるのは拒みません。そのため、結果として胆汁質の子がリーダー的な役割を果たすことになります。影響力も大きいです。ただし、胆汁質に憂鬱質が入っているような子は仲間をリードするのではなく、支配しようとする傾向があります。粘液質の子も一人で遊ぼうとしますが、粘液質の子の遊びは地味で目立ちません。そのため、周りに他の子が寄って来ません。憂鬱質の子は、多血質の子とは反対に「無秩序な子ども達の群れ」を怖がります。そのため、子どものために、子どもが喜ぶだろうと思って、他の子がいっぱい遊んでいる所に連れて行っても、遊ぶどころか近寄ろうともしません。むしろ、表情とからだを固めて遠くの方に隠れようとします。憂鬱質の子は特に、「何をするか分からない胆汁質の子」が苦手です。ただし、一人で遊んでいるような粘液質や自分と同じ憂鬱質の子とは、気が合えば一緒に遊べます。とにかく「自分の世界」を壊されることを嫌うのです。胆汁質の子は「目的」を共有出来る仲間となら一緒に活動します。多血質の子は「楽しい」「嬉しい」などという「感情」を共有出来る仲間となら一緒に活動します。粘液質の子は、見たり、聞いたり、触れたり、感じたりという「感覚」を共有出来る仲間となら一緒に活動します。憂鬱質の子は「心の世界」(世界観)を共有出来る仲間となら一緒に活動します。このように気質によって「一緒に活動したい仲間」がバラバラなんですが、「物語」という仕掛けを使うと、異なった気質の子でも一緒に遊ぶことが出来るのです。そして、自分とは異なった気質の子から色々と学ぶことも出来ます。********************<以下は告知です>4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。あと、呼んでいただければどこでも行きます。
2025.01.24
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************昨日書きましたが、「気質」は素材で「性格」は、その「素材」を基に造られた結果です。そして、見かけは同じ結果(性格)でも、素材が違えば作り方も、扱い方も、印象も違ってきます。ここに、見かけはそっくりでも素材が異なる「鉄でできた椅子」「石で出来た椅子」「木でできた椅子」「プラスチックでできた椅子」があるとします。素材が異なっていても「椅子」としての機能は一緒です。でも、移動しようとしても重さが違います。プラスティックの椅子なら女性でも簡単に運べるかもしれませんが、鉄や石の椅子だったらちょっと難儀するかもしれません。石の椅子は、運ぶ途中でちょっとどこかにぶつけただけで割れてしまうかもしれません。座り心地も違うし、叩いた時の音も、触れたときの感触も違います。環境に対する反応も違います。石とプラスティックの椅子は、雨ざらしにしていても短期的なら問題はありません。でも、木と鉄の椅子は、その後ちゃんと手入れしないと短期的でも影響が残ります。鉄と石の椅子は火のそばにおいても問題はありませんが、木とプラスティックの椅子は危険なことになります。同じ「椅子」を作る場合でも素材が違えば、「作り方」も「扱い方」も「注意する点」も違うのです。そして同じようなことが子どもを教育したり、しつけたりする時にも起きているのです。でも、「素材の違い」(気質の違い)という視点を持っていない人は、異なる気質の子にも同じような対応をしようとしてしまいます。その結果、意図したこととは反対の結果になってしまうこともあります。また、お母さん自体の「素材」(気質)もあります。「鉄」的な素材のお母さんは「子どもは鍛えれば強くなる」と思い込みやすいです。でもそれが通用するのは、子どもも「鉄」の場合だけです。「石」的な素材の子どもは、鍛えようとしたら割れてしまうかもしれません。割れなくても、強くはなりません。そんな時、「なんで強くならないの」とさらに鍛えようとしたら最後は壊れます。でもそういう子育てをしている人がいっぱいいます。「プラスチック」的な素材で出来ているお母さんは軽いです。また状況に合わせて簡単に変形します。でも、状況が戻れば状態も戻ります。それは長所でもあるのですが、その軽さと柔らかさのため、石や鉄のような重くて固い素材でできた子どもはお母さんの言うことを聞きません。反応してくれるのは、同じ「プラスチック」的な素材で出来た子どもや、次に軽くて柔らかい「木」的な子どもだけです。「石」的なお母さんは、子どもに対しても、自分に対しても、「強い刺激を与えたら割れてしまうかも知れない」という心配しています。そのため、子どもと積極的に関わることも避けます。自分も刺激からも遠ざかりますが、子どもも刺激から遠ざけようとします。でもその結果、形は守れますが、いつまでも同じ形のままです。そしてやがて困ったことになってしまいます。子どもは変わらなくても、子どもの年齢が上がれば「子どもを取り巻く状況」が変わっていくからです。「木」的なお母さんは柔らかくて温かいです。あまり自己主張せず、ただそこにいてくれるだけなんですが、いてくれると安心します。「石」的な子どもも壊れる危険を感じることなく関わることが出来ます。でも、「鉄」的な子どもにとっては、手ごたえがなくて退屈な相手です。また、「木」が強く働きかけても「鉄」は無視します。木づちで鉄を叩いてもそんなに変形しませんが、鉄のトンカチで木を叩いたら簡単に壊れます。そして「鉄」と似た特徴を持った気質を「胆汁質」、「石」と似た特徴を持った気質を「憂鬱質」、「木」と似た特徴を持った気質を「粘液質」、「プラスチック」と似た特徴を持った気質を「多血質」と言います。「気質が違う」ということは、「元となっている素材が違う」ということなので、同じマニュアルに従って子育てをしていても子どもの成長も異なったものになるのです。同じ体験をさせても、気質が違えばその体験から学ぶものが違います。同じように叩いても、素材が違えば音も反応も違うのと同じように、同じ環境の中で育っても気質が違えば異なったものを見て、異なった体験をして、異なったものを学び、異なったように成長して行くのです。多血質の子が喜ぶような状況で、憂鬱質の子が怖がって固まってしまうこともあるのです。********************<以下は告知です>4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。あと、呼んでいただければどこでも行きます。
2025.01.23
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世の中には「性格分類」と呼ばれるものがあります。「血液型」で性格を判断するものもありますが、実際の状態を観察して判断するものもあります。ちなみに、日本人は血液型による性格分類が大好きですが、そこに科学的な根拠はないそうです。「A型はこういう性格です」という説明を聞くと、それに当てはまる人を探し出して、「そうか、それであの人はそういう性格なのか」と納得することはありますが、それは、科学的に大勢の「A型」の人の性格を調べ、分類して出した結論ではありません。そもそも、「性格」というものを判断する客観的な基準自体が存在していません。性格を判断する基準は、常に「判断する人の主観(性格)」だけです。そのため、相対的な判断しか出来ません。実際、Aさんが見た「○○君」の性格とBさんが見た「○○君」の性格が異なることはよくあることです。日本人が見た「日本人の性格」と、欧米の人が見た「日本人の性格」は異なりますよね。また、A型の人ばかり集めても、その中には色々な性格の人がいます。我が家は親二人、子ども四人の六人家族です。うちA型は3人、O型も3人です。家内も私もA型ですが細かく見ると「A・O」型だったようです。そして子どもたちは長男だけがA型で、残り3人はみんなO型です。でも、そのA型3人も、O型3人も全く性格が違います。気質的に言うと、長女(一番目)は粘液質が強いです。長男(二番目)は多血質、次女(三番目)は「胆汁+多血」、次男(四番目)は「憂鬱質+多血質」という状態になっています。ちなみに家内は「多血質+胆汁質」、私は「粘液質+憂鬱質」という状態です。三番目と四番目は同じ「O型」ですが、その性格は正反対です。三番目は子どもの頃から積極的に人間関係を作り、色々なことに対して積極的に行動していましたが、四番目は大好きな友達と大好きな遊びしかしませんでした。そういうことで私は「血液型による性格分類」を信じません。では、私はその「気質」をどのように判断しているのかということです。血液型性格分類では「血液型」を基準に判断していますが、気質の場合は「観察」によって判断しています。確かに、血液型以外を使った心理学的な性格分類でも「観察」を使っていますが、その両者では「観察対象」が異なっているのです。心理学的な性格分類で観察しているのは、あくまでもその人の「性格」です。その性格的特性に合わせて分類しているから「性格分類」なんです。そしてその「性格」は、その人の社会生活の中で表れるものでもあります。「性格」は、自分が置かれた状況に対する反応として表れてくるものなんです。でもそれ故に、「学校にいるときの状態」と「家にいるときの状態」が全く異なっている子どもがいっぱいいます。その結果「お母さんが考えた子どもの性格」と「学校の先生が考えた子どもの性格」が正反対の場合すらあります。このように、その人の「性格の状態」は、その人が置かれた場の状況の影響を強く受けるのです。先日、「これ以上咳をしたら殺すぞ」と、電車内で“アイスピック”使い乗客を脅した医者が逮捕されましたが、病院内でのこのお医者さんの評判はすごく良くて、「優しい先生」という評価を得ていたそうです。患者さんにとっては「優しい性格の先生」だったのです。そのため、この事件の話を聞いてみんなが「なんで?どうして?」と驚いたようです。でも、「表に表れてくる性格の状態」は「場や状況の影響」を強く受けますが、その「変化する性格」の背景に存在している「からだの特性」はそう簡単には変化しません。太鼓は叩き手によって音が変化しますが、太鼓自体の特性が変わったわけではないですよね。それと同じです。そのため、「気質」を判断する場合は「常に変化している性格」ではなく、その人の「あまり変化しないからだの状態」を見るようにしています。その「からだの状態」とは、表情、姿勢、声、からだの使い方、感覚特性、思考特性、意識の状態などです。それらは、その人の性格を形作る「素材」のようなものです。その素材が場の状況に応じて表れたものが「性格」と呼ばれるものなんです。同じ「木」でも、椅子が必要な状況では「椅子」の材料になるかも知れません。家が必要な状況では「家」に、お皿が必要な状況では「お皿」なるかも知れません。「木」ではなくても、「鉄」や「石」でも、「椅子」や、「家」や、「お皿」を作ることが出来ます。この場合、材質は異なっていても、その結果の状態が「椅子」なら、社会的には「椅子」として分類されますよね。また、木で出来ていても、鉄で出来ていても、石で出来ていても、それが「椅子」ならば、それを扱っているのは材木屋さんでも、鉄屋さんでも、石屋さんでもなくて「椅子屋」さんです。そして、それを買うお客にとって一番大切なのも、それが「椅子であるかどうか」です。でも、材質が違えば作り方も扱い方も違うのです。環境の変化に対する反応も違います。椅子を作ろうとして、木を鉄のように叩いたら壊れてしまいます。鉄をノミで削ろうとしたらノミが壊れます。鉄は曲げるとき熱しますが、木も石もそんなことしたら割れてしまいます。ノコギリで石を切ろうとしたらノコギリが壊れてしまいます。「我が子の気質を知る」ということは、「我が子の素材としての特性を知る」ということなんです。そのことで我が子の特性に会わせた子育てが可能になるのです。その場合大切にしなければいけないのは、「私が見たその子の気質」ではなく「お母さんから見た子どもの気質」です。実際に子どもと関わっているのか「お母さん」だからです。同じ太鼓でも叩き手が異なれば異なる音が出ますよね。それと同じように子どもの気質は同じでもお母さんの気質が異なれば子どもは異なった音を出し、異なった成長をするのです。鉄のトンカチで木を叩けば壊れますが、木のトンカチで叩いてもそう簡単には壊れないですよね。
2025.01.22
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命の世界も、自然界も「循環」によって支えられています。一人の人間だけを見れば、生まれてから死ぬまで一直線ですが、その死に至る過程で、新しい命が生まれ親の世代の活動を継承していきます。それが延々と繰り返させることで種が保たれているわけです。この「繰り返し」が循環を支えているのです。そしてその「循環」が「つながり」を作り出しています。水も地上を循環しています。海の水は「太陽の熱」(胆汁的な働き)で空中に上がっていきます。そして「風の働き」(多血的な働き)で拡散し世界中に広がっていきます。でも、そのままだったら海から水が消えてしまいます。そこで今度は山などにぶつかって空気が冷やされ、空気中で水に戻り重くなって地上に落ちてきます。(憂鬱的な働き)そして、地上に落ちた水は、地上の高低差に従い流れ、集まり、川となってまた海に戻っていきます。(粘液的な働き)海と山がつながっているのは、このように水が海と山を循環しているからです。血液も体内を循環しています。社会が一つのシステムとして統合されるためには情報やお金などの循環が必要になります。会社も社長だけが威張っていて部下の意見を聞かないでいると、循環が止まり潰れます。国も政治家が自分たちのことばかり考えて国民の意見を聞かず、税金を自分たちに都合の良い所にばかり回していると、社会全体の循環が止まり国は滅びます。春・夏・秋・冬の四季も、一年という単位で循環しています。月は地球の周りを循環し、地球は太陽の周りを循環しています。そして太陽は銀河系の中心を循環しています。その循環を支えているのは上昇と下降、拡散と凝縮といった相反する四つのはたらきです。上・下・左・右という場合もあります。漫画などは一話ごとに起・承・転・結を繰り返しています。一つの話の「結」が次の「起」になっていくのです。いずれにしても、四つの相反する異なった働きが組み合わさらないと循環は維持できないのです。四つが循環を維持する最低数なんです。そしてその四つが「命のつながり」「社会のつながり」「家族のつながり」を支えているのです。趣味のグループでも、政治的なグループでも、学校のクラスでも、そのグループが生き生きと活動できているときにはメンバー同士の間で循環が起きています。でも、リーダーだけが威張って、他の人を命令に従わせようとしていると循環が途絶え、そのグループは生命力を失っていきます。でも、現代社会では胆汁的な働きと多血的な働きばかりが優勢で、粘液的な働きは無視されて、憂鬱的な働きは否定されています。そのため、ドンドン危険な方向に進んで行ってしまっています。
2025.01.21
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************自然界には「生き物」と「生き物ではないもの」と「その中間のもの」が存在しています。細菌は「生き物」ですが「ウィルス」は「その中間のもの」です。その「生き物」にも「動物」や「植物」や「細菌」や「それらの中間的な生き物」がいます。「粘菌」と呼ばれるものは「それらの中間的な生き物」です。「オス」「メス」などの性も、「オス」と「メス」と「その中間的な状態」があります。また、自然界には生まれた時にはまだ性が決まっていなくて、環境に合わせて性が決まる生き物が結構います。なぜ「性」というものが生まれたのかというと、「オス」と「メス」が分かれることで遺伝子の交換が行われるようになり、種としての多様性が保たれるようになるからです。それが種が、多種多様な環境、そして多種多様に変化する環境に合わせて生き延びるための生存戦略だったのです。だから「オス(男性)とメス(女性)とどちらの方が偉い」という議論は無意味なんです。もともと、「性」は「競い合うために」ではなく「助け合うために」生まれたものだからです。またそのため、観念論だけで「現実に存在している違い」を否定することは、人間の動物としての生存戦略の否定になってしまうのです。異なった機能や能力を持った「男性」と「女性」が助け合って生きるからこそ、「ヒト」という種が「人間らしさ」を保った状態で生き延びる事が出来るのです。これは植物の世界でも同じです。一つの花の中に「おしべ」と「めしべ」の両方があるのなら、わざわざ「おしべ」と「めしべ」を分離せず、単性生殖だって出来るはずなんです。でも、ハチなどの昆虫や動物たちが花粉を運んで異なった個体と遺伝子交換するから、種としての生命力が保たれるのです。生物の世界がこれだけ多様性に満ち、豊かになったのは、自然の変化や多様性に適応するように、生物たちが進化してきたからなんです。そして、地球上の生き物たちはみんなつながり、補い合うようになっています。「多様性がある」ということは、ただ「色々な種類がある」ということではないのです。そこにはちゃんと意味と役割があるのです。また、動物や人間の社会でも同じですが、同じ種であっても個体差があります。性差も個体差の一部ですが、同じ性を持った個体同士の間にも違いがあります。そして、人間や猿や象などのように、群れて生きている動物たちはその個体差に合わせて役割り分担をしています。群れを統率し戦う能力に優れた個体はリーダーになります。次に戦う能力に優れた者はリーダーに従う戦士になります。猿などの場合はこれは大抵オスの役割ですが、強い敵と戦わなくてもエサをとったり、安全を守ることが出来るような状況なら、メスのリーダーも出現します。象のリーダーは基本的に年を取ったメスのようです。動物の世界では、「オスだから」とか「メスだから」ということではなく、自分たちが生きている環境に合わせて群れを導く能力が高い個体がリーダーになるのです。エサを集める能力に優れた個体もいるでしょう。子育てが上手な個体もいるでしょう。世渡りが上手な個体もいるでしょう。そのような、群れの中に様々な個体差があるから群れがまとまって生き延びることが出来るのです。その個体差を生み出しているのが「気質の違い」なんです。みんなが同じ能力しか持っていなかったら競い合いとバトルばかりが起きて、群れは分裂してしまうのです。「気質の違い」はその群れのまとまりを維持し、有機的につながり合うために必要なのです。でも、人間はその個体差を無視して、「子ども達が望むもの」や「一人一人の能力に合わせたもの」ではなく、みんなに「同じもの」を同じように与え、競争させています。このままではやがて人類は生命力を失い衰退していくと思います。もし、子ども達に「子ども達が望むもの」や「一人一人の能力に合わせたもの」を与えようとするのなら、子ども達の気質を知る必要があると思います。
2025.01.20
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************気質とは「からだの中の自分」の特性です。そして、そのからだの状態は常に変化しています。食事の前と後とでも「からだの状態」は異なります。朝・昼・晩でも「からだの状態」は異なります。晴れの時と雨の時とでも「からだの状態」は異なります。一人でいる時とみんなといる時とでも「からだの状態」は異なります。大好きな人といる時と、嫌いな人といる時でも「からだの状態」は異なります。騒々しい所にいる時と、静かな所にいる時でも「からだの状態」は異なります。直線ばかりで構成された部屋の中にいる時と、曲線が多い部屋の中にいる時とでも「からだの状態」は異なります。姿勢を変えると「からだの状態」も変わります。自分ではあまりその変化に気付くことはないかもしれませんが、実際には「からだの状態」は常に変化しているのです。そしてそれに伴って「気質の状態」も「気分」も変化しています。ですから、同じ人が同じテーマで絵を描いても、夜描いた場合と昼間描いた場合とでは異なった表現になってしまうのです。文章も同じです。暗い夜に書く文章と、明るい昼間に描く文章は同じではないのです。何らかのパフォーマンスでも、一人で演じている時と、大勢の観客の前で演じている時とでは同じにはならないのです。それに対して、自己評価に基づく「頭の中の自分」は基本的に固定されています。「性格分類」と呼ばれるものが扱っている「性格」も基本的に固定されています。だから分類しやすいし、分かりやすいのですが、気質は相対的なものであると同時に常に変化しているものなので分かりにくいのです。でも、そのように常に変化していても、その平均値は人によって異なります。北海道の気温も、九州の気温も常に変化していて、九州の方が北海道よりも寒いこともあれば、北海道の方が九州よりも暖かいこともあります。でも、平均気温は「九州の方が北海道よりも暖かい」という状態は固定されています。その「平均気温」に相当するものが、「その人の気質」になるわけです。だから、気質の部分的な状態だけを見ていても、「その人の気質」は分からないのです。また、「自分が住んでいる所の気温」は知っていても、他の土地の気温を知らなければ、自分が住んでいる所が「暖かい所」なのか「寒い所なのか」分かりませんよね。それと同じように、「自分のこと」ばかり見ている人も「自分の気質」が分かりません。その気質には、<多血質><胆汁質><憂鬱質><粘液質>の四つがあります。でも、「基本要素が四つ」というだけであって、実際の気質はその四つが混ざり合った状態で存在しているので無数にあります。それは、無数に存在している世界中の色が「赤・青・黄(緑)・明暗」の、たった四つの要素に還元できるのと同じです。また、気質は「春・夏・秋・冬」の四つの季節に例えられることもあります。でも、春という期間だけを区切ってみてみれば、その中にも「春・夏・秋・冬」の四つの要素があります。一日の中にも朝・昼・夕方・夜という四つの区分があります。実際には四つではないのですが、人間は四つに分けると物事を認識しやすくなるようです。それは虹の中の色は無数にあるのに、7色と認識しているようなものです。他にも、虹を5色とは3色と認識している文化もあります。私が学んだシュタイナー教育における気質の考え方は、ヒポクラテスという2000年以上前のギリシャの医者が言い出したことですが、同じような考え方はインド(アーユルベーダ)の中にも、古代の中国の医学書の中にもあるみたいです。虹の分け方が文化によって異なっているのと同じように、気質も文化によって分け方が異なっているのです。科学的な色の原色は「赤・青・黄(緑)」の三つだけですが、文化的には、「緑」や「オレンジ」や「紫」を基本色として考えているようなものです。また、胆汁質は「赤」で表されるのですが、「赤」にも「色々な赤」があるように、胆汁質にも「色々な胆汁質」があります。多血質は「黄」で表されるのですが、「黄」にも浅黄色(あさぎいろ)、萌黄色(もえぎいろ)につながるような色々な黄色があります。憂鬱質(青)、粘液質(緑)も同じです。また、隣に置かれる色でも色は変化して見えてしまいます。黒地の中に置かれた赤は真っ赤に見えますが、白地の中に置かれた赤はちょっと黒っぽく見えます。くすんだ色でも、隣に置かれた色との対比ではっきりとした色に見えたりもします。モネの絵は非常に美しいですが、近寄ってみるとくすんだ色ばかりです。くすんだ色を色の対比で生き生きとした色に見せているのです。だから味わいが深くなっているのです。あるグループの中では大人しかった子が、別のグループの中では生き生きとして活発になることもありますよね。それと同じです。「色」も「気質」も、関係性の中で見ることなく単体を取り出して云々してもあまり意味がないのです。********************4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。あと、呼んでいただければどこでも行きます。
2025.01.19
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人には「頭の中の自分」と「からだの中の自分」という「二人の自分」がいて、「気質」とは、その「からだの中の自分」の特性のことだということを書いてきました。その「頭の中の自分」は「自己評価に基づく自分」です。そしてその「自己評価」は、育ちの過程における「他の人からの評価」や「どういう体験をしてきたのか」ということからの影響も強く受けています。お母さんから「お前はバカだ」と言われて育った子は「自分はバカなんだ」という自己評価をするようになる可能性が高いです。すると、本来は憂鬱質ではなくても憂鬱的な気分が強くなり「頭の中の自分」は憂鬱質になってしまうのです。でも、「からだの中の自分」が憂鬱質ではない場合は、憂鬱質としての能力は持っていません。「音に対する感受性」も「人の心に対する感受性」も高くありません。その逆に、本来は憂鬱質の子であっても、お母さんから「あんたは素敵な子だ」と肯定されて育った子は、自分でも自分を肯定するようになる可能性が高いです。すると「からだの中の自分」は憂鬱質であっても、「頭の中の自分」は多血的、胆汁的な働きが強くなり、憂鬱的な気分に引きずられにくくなります。お母さん達に「あなたは自分の気質は何だと思いますか?」と聞くと、出てくるのは「頭の中の自分」の気質ばかりです。でも、表現ワークをすると、「頭の中の自分」ではなく、「からだの中の自分」が出てくるのです。だから、表現ワークをすることで「本当の自分の気質」が分かりやすくなるのです。その「からだの中の自分」の多くは「生まれつき」のものです。それに対して、「自己評価に基づく頭の中の自分」は「過去の体験によって創り出されたもの」でもあります。そして、その「頭の中の自分」と「からだの中の自分」が一致していれば心もからだも楽になるのです。でも、「ありのままの子ども」を受け入れることなく、「親の期待」を押しつけるような子育てをしていると、そのずれが大きくなってしまうのです。多血質の人は周囲から肯定され、自由に満たされているような時は、「多血質としての特性」を存分に発揮できて自己肯定感も高くなります。これは多血質だけでなく他の気質の人でも同じです。どの気質の人でも、周囲から肯定され、自由に満たされているような時は他の人からの評価に合わせる必要がなくなるため、「自分の気質」が素直に表に現れて来るのです。すると「頭の中の自分」と「からだの中の自分」が近い状態になって来ます。そういう状態の人は比較的正確に自分の気質が分かるような気がします。また、「頭の中の自分」と「からだの中の自分」の状態が近い人は自分の中に矛盾がないため、日常的にストレスを感じにくいと思います。でも、他の人の目や評価を気にして生きてきた人は「他者の目」を基準にして自己評価をする癖がついてしまい、「からだの中の自分」を無視、否定するようになります。すると、「頭の中の自分」と「からだの中の自分」のずれが大きくなり、日常的に強いストレスを感じるようになってしまいます。だから疲れやすいです。そのような状態の人は自分の気質も分かりません。また、他者からの評価を気にしていなくても、生活の中から自由が消えてしまうと「頭の中の自分」と「からだの中の自分」の状態がずれてしまいます。多血質の人は、子育てなどに束縛されて自由を失ったり、パートナーや周囲の人との人間関係が上手く行かなくなったりすると急に自己肯定感が下がります。すると、多血質としての特性が発揮できなくなり憂鬱な気分が強くなります。そして、「自分は憂鬱質なんだろうか」などと思い込むようになったりしてしまうのです。「からだの中の自分」は多血質なのに「頭の中の自分」は憂鬱質になってしまうのです。すると苦しくなります。そして今、そのような状態のお母さんが多いです。ちなみに、意外かも知れませんが、「頭の中の自分」も「からだの中の自分」も憂鬱質を自覚している人は、そんなに苦しんでいないのです。むしろその世界を楽しんでいる人すらいます。「頭の中の自分」と「からだの中の自分」がずれているから苦しくなるのです。
2025.01.18
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************この文章を読んでくださっているほとんどの人が「日本人」だと思いますが、外国に行ったこともない、外国の人の話を聞いたことも読んだこともない、自分が生まれ育った土地から出たこともない人に「日本人らしさって何ですか?」と聞いても答えることは出来ないでしょう。そのような人にとっての「日本人らしさ」は、自分の体臭のようなものだからです。そして人は皆、自分の体臭には気づかないものです。自分の話し方、歩き方、考え方、感じ方の癖にも気づきません。そういうものに気付くためには「比較する対象」と「他者体験」が必要になるからです。一人だけで暮らしている人には、自分が頭がいいのか悪いのか、美人なのか不美人なのか、背が高いのか低いのか、なんてこと分かりません。気にしたこともないでしょう。昨日も書いたとおりに「自分らしさ」には「自分から見た自分らしさ」と「他の人から見た自分らしさ」の二種類があるのです。そして「気質」で扱っているのは「他の人から見た自分らしさ」なんです。その人の「社会的存在としての自分らしさ」なんです。だから、他者と出会ったり比較したりすることなく、自分の頭の中だけで「自分の気質」を分析しても「自分の気質」は分からないのです。私がブログや本の中で「四つの気質の特徴」として書いていることは「他の気質の人にはそう見えている」ということなんです。そして、その多くは自分自身では気付いていないことなんです。またそれ故に、「自分の気質」は「自分がどういう集団に属しているのか」ということでも変わって来ます。3776mの富士山は日本では「一番高い山」です。でも、8000m級の山々が連なるエベレストの脇に置いたら「低い山」になってしまいます。日本人のような「自己主張することがない大人しい人たち」の集団の中では胆汁質でも、自己主張が強い中国やアメリカの人たちの中では「胆汁質以外の気質の人」として扱われてしまう可能性が高いです。家の中では大人しい子が、幼稚園や学校でも大人しいとは限りません。その逆もあります。実際、先生から、我が子の幼稚園や学校での様子を聞いてそのギャップに驚く人は結構います。生まれた時から日本に住んでいる日本人から見たら、日本にも色々な気質の人がいます。でも、胆汁質が強い国から来た人が見たら、「上からの指示に従順に従う日本人」はみんな憂鬱質や粘液質のように見えてしまう可能性もあるのです。私がこの「〝自分から見た自分〟と〝他者から見た自分〟は異なっている」ということに気付いたのは、色々な所で気質のワークをするようになってからです。最初のうちは、「簡単に自分の気質が分かるように」とチェックリストを作ってやってもらっていました。自分は細かいことにこだわる方か <はい> <いいえ> <どちらと言えない>などと言うような設問をいっぱい作って、最後にAグループに<はい>が多い人は○○質の傾向がありますというような感じのチェックリストを作っていたのです。でもそれをやってみたら、「チェックリストを通して自己申告した気質」と「私から見た気質」が大きくずれている人がいっぱいいたのです。どうみても「多血質」の人が「私は憂鬱質です」と言って来たこともあります。それで「〝自分から見た自分〟と〝他の人から見た自分〟は大きく異なっている」ということに気付いたのです。実際、長い間一緒に活動しているグループなどで一人一人「自己評価」をしてもらうと、みんなも「そうだよね」と納得する人もいますが、「えー、そんな風には全く見えない」とみんなが驚くような予想外の自己評価をする人も結構いるのです。周囲には「堂々としてるように見える人」が「自分は臆病で」などと言うこともあるのです。また、「自分は落ち着きがないから」と自己評価する人に、「どうしてそう思うのですか」と聞くと「子どもの頃から親にそういわれ続けてきたから」という返事が返ってくることもあります。でも、それは親の気質を基準にした子どもの状態に過ぎません。同じ子どもであっても、「評価する人」の気質が違えば、「評価される子ども」の気質も変わってしまうのです。それでチェックリスト方式を止めて、自分と他者の比較がしやすい「表現ワーク」を多く取り入れるようにしたのです。でも、粘液質と憂鬱質が強い日本人は、自分を表現することが苦手です。また、自分を表現することから逃げようとします。そして「みんな一緒」「みんな同じ」ということの中に埋没して隠れようとする傾向があります。それでも、「子どもや、ご主人や、職場での人間関係を理解し改善する手助けになるのでは」という想いで参加してくれる人も多く、これまでも、数えきれないほどの場所で、数えきれないほどの人たちに気質のワークをしてきました。そして、気質のワークを通して「もう一人の自分」に気付いてくれた人もいっぱいいます。「子どもの状態が、自分の無意識的な言葉や表情や行動の結果だ」と気付いた人もいます。子どもやご主人の言葉や、表情や、行動の意味に気付いた人もいます。「子どもが臆病なのは性格の問題ではなく気質の問題なんだ」と気付いて、子どもとの関わり方を変えた人もいます。また、子どもの頃から親や先生から「短所」として言われ続けてきたことが、単なる「気質の現われに過ぎなかった」と気付いて「気持ちが楽になった」と言った人もいます。********************4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。あと、呼んでいただければどこでも行きます。
2025.01.17
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************人はまず「からだ」としてこの世界に存在しています。ですから「からだ」が消えれば、「自分」という存在も消えます。そしてその「からだの働き」の結果として「心の働き」(主観的、感情的に感じ考える能力)や、「頭の働き」(客観的、論理的に感じ考える能力)が生まれています。そして、一般的には、「頭と、心と、からだ」という風に並列的に並べることが多いですが、でも実際には、この三つの関係は同等ではなく、「からだの働き」の一部として「心の働き」があり、その「心の働き」の一部として「頭の働き」があるのです。つまり、「からだ」「心」「頭」の順に上下関係があるのです。ですから「からだの働き」が狂えば、その中にある「心の働き」も狂います。そして、「心の働き」が狂えば、その中にある「頭の働き」も狂います。でも人は、自分で自分のその状態を直接見ることも感じることも出来ません。「見る働き」自体が「心の働き」や「からだの働き」の支配下にあるからです。だから人は、自分で自分のことを客観的に見ることが出来ないのです。まただから、予言者と呼ばれる人も自分のことは分からないのです。生物界には「心」や「頭」がなく、「からだ」だけで生きている生き物がいっぱいいます。そのような生き物は「からだの思考」に従って生きています。「脳」はなくても、「からだ」自体が考えているのです。そして、それが「生きている」ということでもあるのです。草や木などの植物もまた「からだの思考」に従って生きています。人間は「頭の働き」が一番大切で、次に「心の働き」が大切で、「からだの働き」はあまり大切ではないと思い込んでいますが、実際には全く逆なんです。それが分かっていないから、子育ても、教育も、社会もおかしなことになってしまっているのです。ですから、「頭の働き」を整えるためには「心の働き」を整える必要があります。感情に支配されていたら頭の働きも狂ってしまうからです。そして、「心の働き」を整えるためには「からだの働き」を整える必要があります。疲れていたり、お腹が空いていたり、胃腸の具合が悪かったりすると心の働きが乱れます。ボーっとしたりイライラしたりするかもしれません。そういう状態では「頭の働き」も狂うのです。そして、私が色々な所でお伝えしている「気質」と呼ばれるものは、その「からだの働きの特性」のことでもあるのです。気質の勉強会をやってると「他の人の気質は分かるようになったけど、いつまで経っても自分の気質が分からない」という声をよく聞きますが、「からだの中にあるもの」を、それよりも下位にある頭でいくら考えても分かるわけがないのです。自分で自分の気質(自分のからだの働きの特性)を知るためには、様々な表現活動を通して他者と関わってみるしかないのです。「自分のからだの働き」を「表現」という方法で一度外に出してみるのです。そして、「自分の表現」と「他の人の表現」と比べてみることで、「自分の気質」を客観的に見ることが出来るようになるのです。********************4月から茅ヶ崎で対面の気質講座を始めます。月一回で土日などの休日の午前中にやります。8月はお休みにしますが、翌年の3月まで11回やります。Zoomでも気質講座もやります。こちらは第三金曜日の午前で、10月までの6回です。(8月はお休みです)いずれも参加費は2000円/回です。ご興味のある方は<シノ>まで「気質の講座について」と件名を書いてお問い合わせください。
2025.01.16
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************多くの人が言っている「自分らしさ」という言葉が表している「自分」は、「頭の中の自分」です。でも、周囲の人が見ているのはその人の「からだの中の自分」です。「頭の中」は見えませんからね。だから「みんな私のことを分かってくれない」などということになるのでしょうね。私は普段あまり鏡を見ません。そして、いつも相手にしているのは子どもや若いお母さんやお父さんばかりです。ですから、「頭の中の自分」は若い頃のままです。でも、初めて会う子ども達からは普通に「おじいちゃん」と呼ばれます。そばにいるお母さんは「おじいちゃんじゃなくて先生でしょ」などと子どもに言いますが、でも、子どもの目には間違いなく「おじいちゃん」なんでしょう。でも、日常的にエクササイズしているのでからだは若い時以上に動きます。(体力は落ちましたが・・・)それで「年齢不詳」などと言われます。その「頭の中の自分」と「からだの中の自分」が一致していれば問題はないのですが、その人が感じている「頭の中の自分」と「からだの中の自分」が大きく異なっている時には生きにくくなります。「頭の中の自分」は「女性」でも、「からだの中の自分」は「男性」の場合もあります。そういう状態だと非常に生きにくいと思います。昔の人は「からだの中の自分」に合わせて社会生活を営んできました。昔の人は、人と人のつながりの中で生きていたので、他者からもはっきり見える「からだの中の自分」を「自分」として生きなければ生きて行くことが困難になってしまったからです。でも、人と人のつながりが希薄になってしまった現代社会では「他の人からどう見えるか」(からだの中の自分)よりも「自分にとっての自分」(頭の中の自分)の方を大切に考える人たちが増えてきました。また社会的にも「頭の中の自分」を尊重するようような考え方も増えてきました。ただし、私はそのことの是非を論じているわけではありません。私がここで言いたいのは、「頭の中の自分だけでなくからだの中の自分も大切にしないと生きず辛くなりますよ」ということです。そのどちらが欠けても自分は「自分」でいることが出来なくなってしまうからです。その「二つの自分」がつながって、「実際に生きている自分」を構成しているのですから。問題は「頭の中の自分」はそれなりに分かっている人が多いですが、「からだの中の自分」のことはよく分かっていない人が多いということです。特に現代人は。よく、「私のことは私が一番よく知っている」などと言う人がいますが、このような人が知っているのは「頭の中の自分」だけです。なぜなら「からだの中の自分」を知るためには、「自分のからだの状態を写してくれる鏡(他者)」が必要になるからです。それは、私を「おじいちゃん」と呼んでくれる子どものような存在です。また、「自分の体力」を知りたいのなら山に登ったり、何らかの運動をしてみるしかありません。頭の中だけでいくら考えても「自分の体力」は分かりませんよね。その場合は「運動」が鏡になります。自分の言語能力を知りたいのなら、自分が感じたこと、考えたことを言葉化して誰かに聞いてもらって、ちゃんと言いたいことが伝わっているかどうかを確認する作業が必要になります。お母さんや学校の先生はよく「だから言ったじゃない」とか「教えたことはちゃんと覚えなさい」などと言いますが、いくら言っても伝わっていないようなら「自分の言語能力」を疑った方がいいです。手先が器用かどうかを知りたいのなら手仕事や工作をやってみる必要があります。音に対する感受性を知りたいのなら音に意識を向けてみたり、音を表現する活動をしてみるしかありません。自分の姿勢や、歩き方や、声の状態や話し方の癖を知りたいのなら、他の人に聞いてみるしかありません。考え方や感じ方の癖もまた「からだの中の自分」なんですが、それらは自分では分からないのです。それは、自分で「自分の目」を見ることが出来ないのと同じです。青い目の人でも、鏡を見たり、他の人から言われないかぎり、「自分の目が青い」なんて永久に分からないのです。でも、自分では分からなくても、他の人はその人を「青い目の人」として扱います。問題は、他者とのつながりや関わり合いが少なく、自分を表現することを避けている人ほど「頭の中の自分」にばかりこだわり「からだの中の自分」のことを知らないし、大切にしようとしない傾向があることです。でも周囲の人には、その人の「からだの中の自分」しか見えないので、結果として、「みんな私のことを分かってくれない」などと嘆くことになってしまうのです。他者とのつながりや自分を表現することを避けていたら、「自分」のことも分からなくなってしまうし、「頭の中の自分」にばかり囚われて、人と人のつながりの中で自分らしく生きることが出来なくなってしまうのです。
2025.01.15
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<a href="https://note.com/morinokoe" ><Noteのトップはここ></a><a href="https://ameblo.jp/morinoinochi" ><アメバのトップはここ></a>です。****************幼い頃から「子どもらしさ」や「自分らしさ」を否定され、人目を気にしながら生きていると、人は「自分らしさ」というものが分からなくなります。なぜなら、否定されたり、人目ばかり気にして生きていると、意識が自分の心やからだから離れ、他者の方にばかり向くようになり、自分の心やからだとの対話が出来なくなってしまうからです。そんな状態の中で、「自分らしさ」に気づき「自分らしさ」を取り戻すためには、意識を他者から自分に向け直し、自分の心やからだとの対話を通して「心とからだの声」に耳を澄ますようにするしかないのです。そして、その対話を導いてくれるのが「気持ちがいい」という感覚と、「嬉しい」という感情なんです。ただし、「マッサージしてもらって気持ちがいい」とか「プレゼントをもらって嬉しい」というような受動的な感覚や感情ではありません。それなら現代人も普通に感じている感覚や感情です。そうではなく、「呼吸するのが気持ちがいい」、「立っているだけで気持ちがいい」、「からだを動かしていると気持ちがいい」というような自分自身の生命感覚とつながった感覚に気づくことです。音楽を聞いたり、絵を見たり、美しい景色を見て「気持ちがいい」と感じたり、子どもと触れあって「気持ちがいい」と感じるの同じです。その気持ちよさは「嬉しい」という感情ともつながっています。例えば、「色」を見ても、その人の心とからだの状態に合わせて「気持ちがいい」と感じる色があるのです。普段、そのような意識で「色」を見たりはしないと思いますが、「今の自分に気持ちがいい色」を探してみて下さい。それほど重傷でなければ、何かしら「気持ちがいい」と感じる色があると思います。ただしこれは「好きな色」ではなく「気持ちがいい色」です。「好きな色」はそう変わらないかも知れませんが、「気持ちがいい色」はその人の心とからだの状態に合わせて、揺らいでいるものです。「音」でも同じです。色々な「音」を聴いてみて「気持ちがいい音」を探してみて下さい。ピアノの鍵盤を叩いて「今の自分に気持ちがいい音」を探してみてもいいです。呼吸の仕方でも「気持ちがいい呼吸の仕方」があるのです。ただ立つだけでも、「気持ちがいい立ち方」があるのです。生活の中でそういうものを探すように意識してみて下さい。そうすると、「気持ちがいい」ということに対する感受性が高くなります。「嬉しい」という感情も素直に感じることが出来るようになります。その時、檻の中に閉じ込められていた「自分らしさ」が外に現れてくるのです。
2025.01.14
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アメバブログとNoteにも同じ記事をアップするようにしました。見やすい方で見てください。<Noteのトップはここ><アメバのトップはここ>です。****************「命」は目で見ることが出来ません。触れることも、聞くことも出来ません。解剖しても出てきません。そもそも、科学の進歩で「命とは何ぞや」というテーマ自体がよく分からなくなってきてしまっています。「生きているもの」をいくら細かく解剖しても物質しか見つけることが出来ないし、そこにあるのは化学反応だけです。その化学反応を利用して命を作り変えたり、新しく創造することさえ出来そうなところまで科学は進歩しています。昔は、「命を創り出すのは神様の働きだ」と思われていました。でも、現代人が信じている科学は「神様なんか存在していない」と言います。「神様」も「命」と同じように、いくら最新の科学を使ってもその存在を証明することが出来ないからです。なぜならば、神様もまた「物語」だからです。ただし、「単なる物語(思い込み)」に過ぎないということではありません。なぜなら「人間」という存在自体が「物語」だからです。科学的に存在しているのは、DNAによって規定された種としての「ヒト」や、物質としての肉体だけでです。そして実際、科学ではそれしか扱えません。科学は、実体が存在していない「人間」を扱えないからです。それを扱うことが出来るのは「科学」ではなく「哲学」という分野になります。実際、西洋医学に基づく病院では「人間科」はないですよね。また、病院で検査するのは「物質としての身体」だけですよね。そしてその「物語としての人間」が創り出した「言葉」もまた「物語」です。「木」という言葉が通用するのは、みんなが「木の物語」を共有しているからなんです。そしてその「木の物語」を得るためには、実際に木を見て、木に触れ、木について学び、大人から「木の物語」を聞く必要があります。「体験」と「物語」の両方が必要なんです。子ども達を毎日森の中で遊ばせても、大人から「木の物語」を聞かない限り、子どもに「木の物語」や「森の物語」は伝わらないのです。子どもは基本的に「今」「ここ」にしか意識を向けることが出来ないからです。逆に、森の体験がない子に「森の物語」を語っても、受け皿がないため理解することが出来ません。子ども達に「命の大切さ」を伝えたいのなら、ただ単に「命を大切にしなさい」と言うのではなく、「命の物語」を語ってあげる必要があるんです。皆さんだって、意味不明なものを「大切にしなさい」と言われても大切にすることなんか出来ないですよね。「性教育」もまた「命の物語」の一部として伝える必要があるのです。「命の物語」から切り離された「性教育」は無意味などころか有害です。「命を持つものとしての命の物語」、「動物としての命の物語」、「人間としての命の物語」、「お母さんとお父さんの命の物語」、そういう様々な「命の物語」が交差したところに新しい命が生まれるのです。その交差する接点として「性」が存在しているのです。その「物語」から切り離して教える「性」は、単なる「知識としての性」に過ぎません。「命を大切にする心」の育ちにもつながりません。戦争で平気で敵兵を殺せるのは、「自分が殺そうとしている相手の物語」を知らないからです。相手の名前や、育ちや、家族や、好きなことや嫌いなことを知ってしまったら、そう簡単に引き金を引くことが出来なくなってしまうのです。また、実際には知らなくても、「相手の物語」を想像できる人はそう簡単に人を殺したりは出来ないのです。アリを殺して遊んでいる子に、そのような行為を止めさせたいのなら、アリの絵本を読んだり、図鑑を見たりして「アリの物語」を伝えてあげる必要があるのです。ただ禁止しても見えない所でやるようになるだけです。刑務所に収監されている囚人は基本的に名前ではなく番号で呼ばれるそうです。それは、ただ単に「番号の方が管理しやすい」というだけでなく、名前を消すことで物語を消すことが出来るからでもあるのです。囚人の名前が、自分や自分の子どもと同じだったらやりにくいですよね。
2025.01.13
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同じ内容をアメバとNoteにもアップしています。見やすい方でご覧になって下さい。<アメバ><Note>*********************昨日、「人を殺してみたい」と言った小学生のことを書きましたが、この子たちが特別なのではありません。実際に行動に移すような子は少ないでしょうが、かなり多くの子が一つの「好奇心」として「人を殺してみたい」と思っているのではないかと思います。そして、子ども達がそう感じるのも無理はないと思います。だって、現代の子ども達は「リアルな命と出会う体験」をしていないのですから。いつも出会っているのは、「命を持たない機械」や、「簡単に再生が出来るバーチャル世界の命」ばかりです。でも、多くの大人たちが「命を大切にしよう」と子ども達に言っています。昔の子ども達が普通にやっていた昆虫採集でさえ、「可哀そうだから」とか「命を大切にしよう」などと言う理由でやらせません。「死ぬと子どもが悲しむから」という理由でペットを飼わない人も多いです。野原でお花を摘んでいた子どもに「可哀そうだからやめなさい」と言ったお母さんもいました。それは、みんなが持っているものなのに「これは大切なものだから触っちゃだめよ」と言っているようなものです。皆さんは「みんなが大切なものだ」と言っているものが目の前に置かれていて「絶対に触っちゃダメ」と言われていたら触りたくなりませんか。触ったらどうなるか試してみたくなりませんか。「素晴らしいものが中にある」と言われている洞窟が目の前にあるのに「入っちゃダメ」と言われたら入ってみたくなりませんか。ダチョウ倶楽部ではありませんが「押すなよ 押すなよ」と繰り返されたら押したくなりませんか。昔、ネパールに行った時に「中にアンモナイトの化石が入っている」という触れ込みの、小さくて丸い石(ノジュール)を買ってきたことがあります。それで日本に帰ってきてからその中身を確かめたくて、トンカチでガンガン叩いたのですが割れませんでした。でも、今でも中を見てみたいと思っています。大人が子どもたちを「命の現実」から遠ざけ「命の大切さ」を言えば言うほど、「死んだらどうなるんだろう」「命を支えているからだの中はどうなっているんだろう。見てみたい。」などと思う子が出てくるのは当然の結果なんです。大人は、「そんなことをしたら後が大変になる」ということが分かっているので、我慢するかもしれませんが、我慢は出来ても「命の大切さ」が理解出来ているわけではありません。でも、好奇心が旺盛な子どもたちは禁止されればされるほどやってみたくなるのです。禁止すれば隠れてやるようになるだけです。そしてその「隠れてやる」というのがゲーム的な感覚で楽しいのです。子ども達にとって万引は「犯罪」ではなく「ゲーム」なんです。「イジメ」も「ゲーム」なんです。「だから放っておきなさい」などと言っているわけではありません。私が言いたいのは「ただ言葉で禁止するだけでは逆効果になってしまいますよ」ということです。もし本当に「命の大切さ」を伝えたいのなら、日常的に子ども達を「命の現実」と触れさせる必要があるのです。子どもを「命の世界」から遠ざけてはいけないのです。それは難しいことではありません。昔の子ども達がやっていた昆虫採集や花摘みといったような遊びでも、大人がうまく関われば「命の体験」になるのです。プランターで野菜や花を育てるのも「命の体験」になります。水や火や土に触れて遊ぶだけでも「命の体験」になります。実際、そのような体験を子ども達に与える活動をしている人はいっぱいいます。ただし、ここからが大事なことなんですが、実はそれだけでは不十分なんです。子ども達に「命の大切さ」を伝えるためには、その体験を物語とセットにして伝える必要があるからです。実際、昔の子ども達はみんな、遊びの場でも、生活の場でも命と触れ合いながら生活していました。「自分で釣った魚を焼いて食べる」などということも珍しくなかったでしょう。それでも、平気で人を殺すような大人に育った子もいたのです。「本」の大切さを伝えるためには、本を見せ、本に触れさせるだけでは不十分ですよね。「本の中に書かれていること」を味わうことと同時に、「本」というものが人々にどのような影響を与えてきたのかという「本についての物語」も伝える必要がありますよね。それはつまり、「命の大切さ」を子ども達に伝えるためには、「命の物語」と「命についての物語」の二つの物語を子どもに伝える必要があるということです。でも、その前段階として「実際の命に触れるような体験」が必要だと言うことです。人生は一つの物語です。実際、「○○さんの人生」を語れば、それは物語になるでしょう。そして「○○さん」という一人の人間は、その物語が書き込まれた一冊の本です。その本の中には過去の出来事も書き込まれています。そして、一度書き込まれたことは永久に消えません。そして、その本の中に物語を書き込んでいるのが命の働きなんです。ですから、命の働きが消えれば命の物語もそこで消えるのです。ですから、「命の大切さ」を伝えたいのなら「命に触れさせる」と同時に「命の物語」も伝える必要があるのです。命に触れさせるだけなら「遊び」という形で子ども達にいっぱい体験させることが出来ます。でも、「命の物語」を伝えることが出来るのは大人だけなんです。ちなみに「川」にも物語があります。そして、その物語が「川の命」です。ですから、「川の物語」を聞いて育った子は川を大切にするでしょう。「森」にも物語があります。そしてその物語が「森の命」です。ですから、「森の物語」を聞いて育った子は森を大切にするでしょう。森を大切にするのは森が「大切な資源」だからではないのです。森も生きているからなんです。それが分かっていないから森に生きている動物たちが苦しんでいるのです。
2025.01.12
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同じ記事をアメバとNoteにもアップしています。アメバはここ Noteはここ***********************私は「思考力」というものを「複数の視点に立って考える能力」という風に理解しています。それは「客観的に考える能力」とも言うことが出来ます。幼い子どもでも、酔っぱらっている人でも、さらには寝ている人でも「自分」という一つの視点に立って考えることは出来ます。人間以外の動物でも出来ます。でも「自分」という視点だけでなく「他者」という視点に立って考えることが出来るのは人間だけです。ただし、全員が出来るわけではありません。10才前の幼い子ども達は生理的に他者の視点に立って考えることは出来ません。(個人差はあります)そのため、10才前の子に反省を求めても無駄です。「反省しなさい」と叱ると、次回からは同じ理由で叱られないように工夫することは出来ますが、自分を客観的に見つめて反省することは出来ないのです。まだ自分の中に「自分を見る目」が生まれていないからです。お酒を飲んだり麻薬をやったりするとこの能力は低下します。だからシラフの時には恥ずかしくて出来ないようなことでも、お酒を飲んだ時には出来てしまうのです。幼い子ども達が裸でも恥ずかしくないのは、まだこの能力が目覚めていないからです。また、現代の子どものように他者との関わり合いが少ない状態で育つとこの能力の育ちは遅れます。お酒や麻薬を使わなくても、子ども達が大好きなゲームもまた同じような働きをしています。ゲームの世界の中には「自分と対等の他者」は存在していないのですから。先生の指導に従ってみんな一緒に行動するようなことばかりやっていても、この能力は育ちません。逆に、みんなで考えて助け合うような活動をすると、この能力は育ちます。「他者の視点」に立って考えることが出来ないと助け合うような活動は出来ないからです。そしてそれが、子ども達にとって「群れ遊び」が必要な理由の一つでもあります。でも今、学校でも、遊びの場でも、家庭の中でも、この「他者の視点に立って考えることが必要になるような活動」は消えつつあります。現代社会では、先生も、子ども達も、お母さんやお父さんも、みんな「自分の視点」だけを大切にして生活しています。遊びも個人的になってしまったため、他者の視点を考慮する必要がなくなりました。そして多くの人が、それが「自由を大切にする」「自分らしさを大切にする」ことだと思い込んでいます。でもその結果、いたるところで「自分の視点」と、他の人の「自分の視点」のぶつかり合いが起きるようになりました。それは「自分の自由」と「相手の自由」のぶつかり合い、「自分の正義」と「相手の正義」のぶつかり合いでもあります。災害が起きた時に支援物資を送る人が多いですが、「もらっても困るようなもの」を送ってしまう人は、「他者の視点に立って考える能力」(思考力)が弱い人です。自分の都合だけで救急車を呼んでしまう人も増えてきたみたいですが、このような人も「他者の視点に立って考える能力」(思考力)が弱い人です。カスハラをするような人も、子どもを虐待する人も同じです。でもそのような人に、その人の行動の問題点を指摘しても、「他者の視点に立って考える能力」が低い人には理解できないのです。遊び感覚で他の子をいじめたり、万引きをするような子に道徳を説いても無駄です。次からは、そういう面倒くさい事を言う大人に見つからないように工夫するようになるだけですから。犯罪を犯して刑務所に入っている人の大部分が反省しているのは「なんであんなことやってしまったんだろう」ということではなく、「なんで捕まってしまったんだろう」ということについてだという記事を読んだこともあります。他者の視点に立って考えることが出来ない人に反省を求めても無駄なんです。だから、困ったことをする子や、犯罪を犯した人に必要なのは「罰」ではなく「教育」なんです。頭の中身を入れ替えるような洗脳教育ではなく、自分の視点だけでなく他者の視点も大切に出来るようになるための教育です。今、普通の学校でやっているような「知識を覚えさせる教育」は何の役にも立ちません。むしろ有害です。「暗記させる教育」よりも「理解を促すような教育」が必要なんです。また、数学や物理は「複数の視点に立って考える能力」が弱い人には理解することが出来ません。だから理解するのではなく暗記することで対応しようとするのですが、そんなことして成績を維持しても、学校以外の場では何の役にも立ちません。「どんぐり倶楽部」でやっているような「絵を描いて算数の問題を解くような方法」は、「複数の視点に立って考える能力」を育てるために有効です。絵に描くことで「自分の考え」を「他者の考え」のように処理することが出来るからです。これは、算数の問題だけでなく「悩み」などを解決するときにも使えます。実際、そういうセラピーの方法もあります。悩みをカードなどに書き出して図式化してみるのです。人は「人ごとなら」冷静に考えることが出来ますよね。それは、他人のことなら「自分」という意識に囚われなくなるからです。悩みを書き出してみることで「自分の問題」を「他人の問題」のように扱うことが可能になるのです。先日、小学生の男子二人が「人を殺してみたい」と言っていました。特別に問題のある子ではありません。全く普通の子です。そのような子に足らないのは「想像力」ではなく「他者の視点に立って考える能力」なんです。想像力があるから「人を殺してみたい」と思うのですから。
2025.01.11
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同じ記事をNoteとアメバにもアップしています。見やすい方で見て下さい。Noteはここです。Amebaはここです。***************最近の子ども達と接していて強い危機感を感じるのは、「考えることが嫌いな子」、「考えることが出来ない子が非常に増えて来た」ということです。そのような子ども達は、「考えるとはどういうことなのか」ということ自体が分かっていないようなのです。大人にも同じような傾向があります。子育ての相談を受けていても、「分かんない、分かんない」と言うばかりで、自分の頭で考えようとせずに「何かいい方法を教えて下さい」と情報を求めて来る人が多いのです。中には「私はどうやって生きたらいいのでしょうか」などと自分の人生を丸投げするような質問をしてくる人もいます。そのような人を見ていると、「自分で自分の首を絞めるような子育て」をしている人が多いのです。泣いている子に「泣くな!」と怒鳴れば余計に泣きます。「良い子」に育てようとして、子どもに「良い子」を求めれば「困った子」に育ちます。勉強が出来る子に育てようとして勉強を強制すれば「勉強が嫌いな子」になります。自由に生きることが出来る子に育てようとして「子どもの自由に任せた子育て」(子どもの要求に合わせた子育て)をしていると、不安が強く、社会性が欠如し、自分の頭で考えることが出来ない子に育ちます。そしてこれらは、子どもの視点に立ってちょっと考えれば分かる程度の当然の結果です。でも、「考えるのが苦手な人」は、この「他者の視点に立つ」ということ自体が出来ないようなのです。そしてこれが、「想像力」と呼ばれるものと「思考力」の違いでもあるのです。最近、闇バイトのニュースが多いです。そして、簡単に闇バイトに応じてしまう若者に対して「想像力が足らない」などと言う人もいます。でも、本当に足らないのは「想像力」ではなく「思考力」なんです。想像はどんな子でも、どんな人でも、極端なことを言ってしまえば寝ている人だってやっています。幼い子ども達は日常的に想像の世界で遊んでいます。また、お金が儲かったことを想像するからこそ闇バイトに応募するのです。その「想像する能力」は学習しなくても自動的に働き出すようにDNAに書き込まれているのです。そのような若者に欠如しているのは「想像力」ではなく「思考力」なんです。それは「他の人の視点に立って想像する能力」でもあります。これが欠如しているから、自分の欲を満たすために他の人をケガさせたり、殺したり、悲しませることが出来てしまうのです。周囲からは「優しくてよい子」と思われているような子でも、思考力が欠如していると簡単にそのような行為が出来てしまうのです。また、思考力を使えば、人でないものの視点に立って想像することさえも出来ます。「空想」という方法でも鳥になったり魚になったりすることは出来ます。でもそれは、魔法で鳥に変身するようなものなので、鳥になっても魚になっても「自分」のままです。そのため、鳥や魚の視点に立つことは出来ません。鳥や魚の視点に立って考えるためには思考力が必要になるのです。それは、自分からは正面しか見えないが、上から見たら、後ろから見たらどう見えるのだろうか自分にはこう見えるが他の人にはどう見えるのだろうか私たちの生活を過去や未来の人が見たらどう感じるだろうか大人の生き方は子どもの目にはどう映っているのだろうかというように、他者の視点に立って想像する能力のことでもあるのです。そしてこのような思考力を持っているのは人間だけなんです。動物たちも自分の視点に立った直線的な思考は出来ます。でも、他者の視点も取り入れて多次元的な思考が出来るのは人間だけなんです。算数の問題を解く時も、色々と視点を切り替えて考えることが出来る子は自分の頭で考えて答えを出すことが出来ます。また、幾何学の学びには思考力を育てる働きがあります。折り紙もいいと思います。物語を楽しむのも思考力の育ちには必要です。物語の中で他者の視点の体験が出来るからです。工作も有効です。そして、知識を覚えさせるだけの教育は、子どもの思考力の育ちを阻害します。クイズを解くときも色々な視点から考えますよね。そして、ある意味で人生はクイズなんです。子育てもクイズなんです。ただし、自分だけに与えられたクイズです。だから、よそに正解を探しても意味がないのです。問題は、自分の代わりに考えてくれるAIが登場してきたことです。作業を自分の代わりにやってくれる機械はすでにありますが、とうとう、自分の代わりに考えてくれる機械まで普及するようになったのです。でもどんなに優秀なAIでも、子育ては出来ないのです。AIには「子どもの視点に立って考える能力」がないからです。
2025.01.10
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同じ記事をNoteとアメバにもアップしています。見やすい方で見て下さい。Noteはここです。Amebaはここです。***************現代人は、子どもも大人も頭だけで考えようとする傾向があります。でもだから迷子になり、狭い世界に囚われ、同じところをグルグル回るような思考しか出来なくなってしまっているのです。科学的思考、客観的な思考、論理的な思考の原則は自然界(リアルな世界)の中にあります。そして、人々は手やからだを使って自然界と関わりながら自然界の法則を読み解き、その法則を使って科学的思考、客観的な思考、論理的な思考を育ててきたのです。これが歴史的な現実なんです。頭の中だけで考えて、科学や哲学や様々な学問を創り出したのではないのです。学校で教えているのはその結果だけです。そして、その結果だけを教えて頭の中だけで考えさせようとしています。でもだから、学んだこと、考えたことが自分が生きている現実世界とつながらないのです。そして、難しい計算問題は解けても、目の前の簡単な現実に対応できないのです。子育てが困難になってしまうのも、目の前の子どもを見ずに、頭の中だけで考えて対処しようとするからです。ちゃんと子どもを観察し、子どもの気持ちに共感し、子育ての意味と目的を忘れずに色々と試行錯誤して、その試行錯誤から学ぼうとしているのなら、育児書など読まなくても子育ての大抵の問題は解決できるのです。というか、そのような関わり方をしていたら、最初から「困った問題」はそれほど起きないのです。頭の働きそれ自体はコンピュータのようなものです。頭の中でやっているのは演算(計算)だけです。そして頭が正しく演算するためには、正しいデータが必要になります。それもコンピュータと同じです。そのため、もともとのデータが狂っていたらどんなに優秀なコンピュータをつかっても、正しい結果を得ることは出来ないのです。コロナが流行っていた時、「スーパーコンピューターを使ってシミュレーションしたらこうなりました」という映像を見せて、いかにマスクが重要なのか、いかにコロナが怖いのかをテレビが拡散していましたが、私たちが見せられたのは演算結果だけです。でも、元のデータの扱い方次第で結果を操作するのは簡単なんです。まただから、科学者の間でも意見が分かれてしまうのです。テレビでは「医者や科学者はみんな同じ事を言っている」というような印象を与えようとしていますが、実際には医者や科学者の間でも色々な意見が存在しているのです。(ネットで調べればすぐにわかります)ワクチンの安全性も、「私たちが持っているデータを使って確認した範囲では安全性が確認されている」というだけのことです。それはつまり、「新しいデータや知らないデータが出たら結果が変わってしまうこともありえます」ということでもあるのです。医者は、「今持っているデータに基づく予測」を語っているだけで、現実に起きる結果の安全性を保障しているわけではないのです。でも実際には、最初は安全性が保障されていたテフロンの原料である有機フッ素化合物(PFAS)も、農薬も、ゲームも、ようやくその害のデータが現れ始め、問題化し始めています。DDTとかアスベストも世の中に出回った後から危険性が指摘されました。テレビに出て安全性を強調している医者と、反対している医者とでは使っているデータが違うのです。問題は、「どちらのデータの方が信頼できるのか」ということです。それを判断するのは自分自身の価値観と感性と思考力です。ただし、誤解されないように断っておきますが、私は「反ワクチン」を主張しているわけではありません。「後悔しないためには、マスコミに踊らされずにちゃんと自分の頭で考えて判断した方がいいですよ」という事を言っているだけです。問題は、その判断が出来ない人が非常に多いということです。そのような人は、与えられたデータを使って考えることは出来ても、自分でデータを得ることが出来ないのです。そのため、データの検証が出来ないのです。でもそれは、与えられたデータだけで演算をするコンピュータと同じです。その背景には日本の学校教育が関係しています。学校では、「学校で教えたデータを使ってうまく演算する能力」だけを育てようとしまいます。そして、「自分の手とからだを使って色々な体験をすることで自分でデータを集めるような体験」はさせません。実験ですら映像で見せるだけで子ども達にやらせないところが多いみたいです。それはつまり、子ども達を演算だけが得意なコンピュータに仕立てようとはしているようなものです。でも、その能力においては人間はコンピュータに叶わないのです。人間がコンピュータよりも優れている点は、コンピュータは人間が作ったデータを使って演算するだけなのに対して、人間は自分の手とからだを使って生データを集めることが出来る点なんです。その能力があるから間違いにも気づくことが出来るし、間違っていると気づいいた時には修正も出来るのです。また、自分の考えを成長進化させることも出来るのです。また、その能力が高い人は、子育ても、人生も楽になるでしょう。自分で生データを集めることが出来ないコンピュータや人にはそれが出来ないのです。でも困ったことに、今、子どもでも大人でも、そのような人が非常に多いのです。造形の場でも、手もからだも使わずに頭だけで考えようとする子ども達ばかりです。そしてすぐに「教えて」と要求してきます。(データの要求です)教えてもらわなくても、自分の手とからだを使って考えれば、大体のことは分かるはずなんですが、それをしないのです。というか、出来ないようですけど。それに教えても、知識と現実は別物です。「こうやってやるんだよ」と教えても、自分のからだをうまく使えない子はその「こうやって」自体が出来ないのです。そして、手やからだを使って考えようとせず、頭で考えたやり方だけでやろうとする子に限って、考えた通りに行かないとすぐにフリーズしてしまいます。そして、放り出します。
2025.01.09
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人は皆「自分のことは自分が一番よく知っている」と思い込んでいます。でもそれは、単なる思い込みに過ぎません。自分のことをよく知っているのなら、なぜ、欲望や感情に振り回され、悩みや苦しみから抜け出せず、自分で自分のことを否定して悩んでいるのですか。そういう状態を望んでいるのならともかく、そうでないのなら、それを止めればいいはずですよね。そして、自分のことをよく知っているのならそれも出来るはずですよね。でも実際には、「自分のことは自分が一番よく知っている」と思い込んでいる人ほど、そういう状態から抜け出せないのです。なぜなら、そのような人は「自分が知っている自分」だけで自分の問題を処理しようとしてしまうからです。そんな「自分の苦しみ」は「自分が知っている自分」が招いたものです。人と仲良くできない人は、他の人が助けてくれません。自分で努力していない人を、助けようとする人は少ないです。泣き言ばかり言っている人は周囲から無視されます。自分の頭で考えようとしない人は悩みを解決できません。自分の感覚で感じようとしない人は迷子になります。怒鳴ってばかりいる人の周囲からは人がいなくなります。その場限りのことばかり言っている人は信用されなくなります。うつむいてばかりいる人は、世界の美しさや広さに気付きません。他者を受け入れない人は他者からも受け入れてもらえません。偏った姿勢、偏った食事、偏った考え方、偏った生活をしていると、頭と、心と、からだの状態も偏り不安定になります。子育てだって、「私がこんなに苦労して頑張っているのに、なんであんたは私を苦しめるようなことばかりをするの」と、子どもに文句を言う人もいますが、それは「自分が子どもに対してやっていること」を子どもがお母さんに返しているだけです。固い壁を殴ればこぶしが痛いです。強く殴れば骨が折れます。でもそれは壁のせいではないですよね。でも、本人に「自分が殴っている」という自覚がないと、「私は何もしていないのに、壁が私のこぶしを痛めつけようとする」と錯覚してしまうのです。人は皆「自分が創り出した世界」を生きているのです。そしてその世界を創っているのは「自分が体験したこと」と「自分が学んだこと」です。それがその人が生きている世界の全てです。でも、「自分が知っている外にも世界は広がっている」ということを知っている人は、積極的に色々な体験をし、色々な学びをしようとしています。だから成長することが出来ます。でも、「自分の事は自分が一番よく知っている」と考えているような人ほど、その「自分の外には広い世界が広がっている」ということを知らないのです。そして「自分のことは自分が一番よく知っている」とうそぶいているのです。その狭い世界から抜け出すためには「自分が知らない自分」と出会う必要があるのです。その一番簡単な方法は、いつもとは違う感じ方、考え方、動き方、行動をしてみることです。子どもを叱るときにも、いつもとは違う叱り方を探ってみて下さい。買い物に行く時も、いつもとは違う道を歩いてみて下さい。行ったことがない所に行き、やったことがないことをやってみて下さい。時々、話し方や歩き方を変えてみて下さい。知らない人にあいさつをして、知らない人と話してみて下さい。「新しい体験と出会う」ということは「新しい自分と出会う」ということでもあるからです。すると自分の周囲に広がっている、「自分が知らない広大な世界」の端っこに触れることが出来ます。ちなみに、子どもはいつもこれをやっています。だから、「自分」という殻の中に閉じこもり、子どもをその殻の中で管理したいお母さんは困るのです。子どもは常にお母さんのその「殻」を壊そうとしてきます。でも、お母さんは必死になってその殻を守ろうとします。そこで「子育ての苦しみ」が生まれるのです。「子どもとの関わり合いを通して出会う新しい体験」を楽しんでみませんか。それが「新しい自分」を楽しむことにも、自身自分の成長にもつながるのですから。子どもがお母さんを「お母さんが知らない世界」「お母さんが知らない自分」と出会わせてくれるのです。
2025.01.08
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門前の小僧 習わぬ経を読むという、ことわざがあります。この小僧さんは修行には参加していないのでしょう。でも、いつもお経が聞こえるところで生活し、お坊さんの生活やお経にも興味があったのでしょう。だから教えてもらわないのに勝手に覚えてしまったのです。似たようなことは日常的に起きていますよね。教えてもいないのに子どもはお母さんやお父さんのやり方を真似するようになります。「物の扱い方」「考え方」「感情の処理の仕方」「言い方」「しぐさ」「言葉」などは、大人が教えなくても子どもは勝手に真似してしまいます。問題は、「真似して欲しくないこと」はちゃんと真似してしまうのに、「真似して欲しいこと」は真似してくれないということです。どうしてそういうことが起きるのかというと、子どもは「大人の本音」だけを真似しようとするからです。ですから、大人が「しつけ」や「教育」的な意味合いで、「それ」をやらせようとして何回説明し、何回叱っても、子どもは「大人が言っていること」はスルーして、大人の意図とは無関係な「大人の言い方」や「大人の感情」の方を真似してしまうのです。「お母さんが言ったこと」は覚えていなくても、その時の「お母さんの言い方」や「感情」や「表情」や「仕草」は覚えてしまうのです。このようなことは、子育てをしている人なら思い当たることだと思うのですが、日常的に子どもと関わっていない人には分かりません。そのような人は「子どもはしつけ方、教育の仕方で思い通りに育てることが出来る」と思い込んでしまっています。多くの政治家や学校の先生も、そう思い込んでしまっています。「なんで言うことを聞かないの」と子どもを叱っているお母さんもそう思い込んでしまっています。でも子どもは常に「大人の本音」や「大人の本気」をちゃんと見ているのです。そしてその「本音」や「本気」の方を真似しようとするのです。だから、算数が嫌いな先生が算数の授業をすると、子どもも算数が嫌いになります。「絵を描くこと」が嫌いな先生が絵の指導をすると、子どもも「絵を描くこと」が嫌いになります。「からだを動かすこと」が嫌いな先生が体育の指導をすると、子どもも「からだを動かすこと」が嫌いになります。算数の技術、絵を描く技術、からだを動かす技術は教えることが出来ます。そして、子どもも技術だけなら学ぶことが出来ます。でも、嫌いにさせてしまったら意味がないのです。意味がないどころか、子どもの可能性を狭め、教育とは反対の効果を子どもに与えてしまうのです。そして、一度身に着けてしまった「教育とは反対の効果」は、大人になってもなかなか抜けません。学校を卒業しても、算数や、絵を描くことや、からだを動かすことを避けるようになります。学校で、「勉強はつまらない」「勉強は苦しい」ということを学んでしまった子どもは、そのまま「子どもは強制しないと勉強しない」と考える大人になります。「やりたくないこと」を自分から進んでやる子はいないからです。でも、上に書いたことと逆の現象も起きます。算数が大好きな先生が算数の授業をすると、子どもも算数が好きになります。「絵を描くこと」が大好きな先生が絵の指導をすると、子どもも「絵を描くこと」が好きになります。「からだを動かすこと」が好きな先生が体育の指導をすると、子どもも「からだを動かすこと」が好きになります。(100%ではありませんがそういう傾向が強いと言うことです。)だから、お母さんがもし算数が嫌いなら、お母さんは算数を教えない方がいいです。嫌いになっていなければやがて出会いがあるかも知れないからです。成績は伸びないかも知れませんが、可能性は残るのです。勉強が嫌いなお母さんは勉強を教えない方がいいです。それよりも自分が好きなことを教えてあげてください。その方が可能性は残ります。だから学校は親に家庭学習を押し付けてはいけないのです。そんなことをするから子どもは勉強が嫌いになるのです。子どもの成績が悪いのは家で勉強していないからではなく、先生の教え方が悪いからです。品物は悪くないのにセールスマンの営業成績が悪いのは、「買ってくれないお客」のせいではないですよね。そんなこと普通の社会では当たり前ですよね。でも学校では、子どもの成績が悪いと「教えている先生」のせいではなく、「一生懸命に学ぼうとしない子ども」のせいにされるのです。なんという理不尽な話でしょうか。子どもに「勉強は楽しい」ということがちゃんと伝わっていれば、宿題を出さなくても、お母さんが「勉強しなさい」と追い立てなくても、子どもは勝手に勉強をするのです。「生きているって楽しい」ということが伝わっていれば、子どもも生き生きと生きるようになるのです。でもそのためには、お母さんが生き生きと生きている必要があります。
2025.01.07
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お母さんたちに、「皆さんは子どもから〝なんで勉強するの?〟、〝なんで学校に行かなくちゃいけないの?〟と聞かれたら、どう答えますか?」と問いかけてもはっきりとした答えが返ってくることは稀です。ほとんどの人が「聞かれてから考えたようなこと」しか言いません。「お金を稼ぐこと」も、「仕事をすること」も、「子育てをすること」も、「生きていること」も同じです。皆さんはなんで子育てをしているのですか?なんで子どものために頑張っているのですか?何のために生きているのですか?というような質問をすると、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をして、慌てて答えを探し始めます。〝なんで?〟、〝どうして?〟、〝何のために?〟を考えずに、〝そんなの当たり前でしょ〟と思考停止してしまっていたのでしょう。学校に行くのは当たり前。勉強するのも当たり前。子どもが親の言うことを聞くのも当たり前。仕事をするのも、お母さんになったら子どものために自分を犠牲にするのも当たり前。でも、子ども達はこの「当たり前」が存在していない世界に生きています。子ども達が何かやるのは「やりたいから」であって「当たり前」だからではありません。子どもが何かに前向きに取りくむ時には、必ず自分にとっての意味と目的があるのです。「みんながやっているから」ではないのです。でも大人は「みんながやっているんだから、あんたもやりなさい」と子どもを追い立てます。でも子どもはその要求を無視するか拒否します。というか、子どもはやりたくないことは出来ないのです。自分をコントロールするための自我の働きが弱いので、生理的に出来ないのです。打ったり、叱ったり、罵ったりすれば、「自分を守る」という目的のために嫌々でもやり始めるかも知れませんが、そんな状態では何をやっても身につかないし、子どもも成長しません。そして、やがて反動が来ます。ただし、「大好きな仲間達」がやっている時には自分もやりたくなります。大好きなお母さんがやっていることなら、自分もやりたくなります。大好きな仲間や、大好きなお母さんとつながるためにです。そしてその衝動を止めるのは困難です。子どものやることにはちゃんと意味と目的があるのです。勉強も、「学ぶことが楽しい」「考えることが楽しい」ということが分かれば自分で勝手に勉強するのです。「自分にとっての意味」が発生するからです。勉強は、本来、目的ではなく手段なんです。知ること、分かること、考えることが楽しいから勉強するのです。人類はそういう理由で色々なことを発見し、学んできたのです。でも今では、目的を達成するための「手段」に過ぎなかったことが「目的」に入れ替わってしまいました。そのため「何のために勉強するの」とか「何のための生きるの」などと聞かれても、「そんなこと当たり前でしょ」としか答えることが出来なくなりました。そして「競争に勝つこと」を「勉強する目的」として子ども達に押しつけるようになりました。でもその目的には「喜び」がありません。子どもの成長もありません。
2025.01.06
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大人が手本を見せることが出来ない社会は荒れます。これは実際に世界中で起きている現象です。親から子へと知識や、技術や、価値観や、感性や、生活など様々な文化を継承しながら、自然と共に素朴な生活をしていた人たちの社会は安定していました。子どもは大人を尊敬し、大人を模倣しながら成長していました。そのような社会では、一人一人がつながりの中に支えられていました。それは同時に一人一人に役割と居場所があったということです。でも、そのような「伝承に支えられ、自然と共に素朴な生活をしていた社会」に、「伝承」よりも「お金」や「物」の方を「大切なもの」と考える西洋的な価値観、近代的な価値観、経済優先の価値観が入ってくると、あっという間に、何百年と受け継がれてきた「伝承」が消えました。「伝承」が消えるということは「縦のつながり」が消えるということです。そして「縦のつながり」が消えると、その縦糸に支えられていた「横のつながり」も消えます。人々は「伝承されたもの」を共有する形で横につながっていたからです。「伝承されたもの」よりも「お金」を大切にするようになることで、それまで「伝承されたもの」を共有していた「仲間」が、お金を奪い合う「競争相手」になってしまいました。「遊び」を共有していた仲間たちが、「成績」や「居場所」を競い合いライバルになってしまいました。そして子どもは大人や老人を尊敬しなくなりました。むしろ馬鹿にするようになりました。老人の知識や知恵や技術は「古臭いもの」として否定されるようになりました。老人自身もまた、「新しい価値観、新しいインフラ、新しい機械、新しい言葉」についていくことが出来ず途方に暮れています。そして、「自分は価値がない存在だ」と感じるようになりました。自動精算機の前で途方に暮れているお年寄りは珍しくありません。以前、郵便局のATMで手続きをしていたら、隣にいたおばあちゃんが、ログインするときの暗証番号を声に出して打ち込んでいました。信号機が青から赤に変わっても渡りきることが出来ないお年寄りも見かけます。スマホが使えない、そもそも持っていないお年寄りも多いです。行政が送ってくる文章が理解出来ない人も多いと思います。国民の代表である政治家の言葉にも、聞いたことがないような横文字がいっぱい並んでいて、何を言っているのか分かりません。人に聞けば馬鹿にされます。ネットで調べればいいのですが、ネットの使い方自体が分かりません。というかネット環境自体を持っていない人も多いです。そんな「時代に取り残された状態」のお年寄りに魅力を感じる若者は多くないと思います。むしろ老人を馬鹿にしている若者の方が多いのではないでしょうか。でも、その「老人」は「将来の自分の姿」でもあるのです。今の若者達の「当たり前」は、若者達が老人になる頃には消えてしまうのですから。「スマホ」が時代遅れになる時代もやってくるのです。今元気な若者も、「ただ若いがゆえの元気」だけに任せた生き方をしていると、やがてヨボヨボの老人になるのです。年を取ってもしっかりとしている人は、若い頃から「年を取っても自分を支えてくれるような学び」をしてきた人です。そしてそのような学びをしている若者は老人を馬鹿にしません。「老人をバカにする社会」は「若者が希望を持てない社会」でもあるのです。実際、そうなっていますよね。ネイティブアメリカンの社会においても、若者達が、欧米の文化、価値観、生活様式と出会う事で伝承が途絶え、老人が馬鹿にされ、コミュニティが崩壊し、若者達は、生きる意味や目標を失い荒れてしまったそうです。私が2018年に行った、インド最北部にある「ラダック」という所でも同じようなことが起きました。「懐かしい未来」という映画でその状況が語られています。ネットで調べればその概要が分かります。アフリカでも同じようなことがそこいら中で起きました。そして荒れました。ただし、私は社会の変化自体を否定しているわけではありません。ただ、「変えてもいいところ」は変えても、「変えてはいけないところ」は守り通すような意識が必要なのではないかと言うことです。でもそれが出来るようになるためには、「本当の幸せって何だろう」ということをみんなで話し合い、みんなで考え直す必要があるのではないかということです。子育てや教育において「欲望や不安に支配されることなく考える能力」を育てる必要もあります。お子さんと一緒に「幸せ」について話し合ったり、考えたりしてみませんか。特に9才前後の子どもにとってはこのような話し合いが必要なんです。
2025.01.05
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犬でも、猫でも、猿でも、象でも、子育てをする動物の子ども達は、自分の親や周囲の仲間たちの真似をしながら成長して行きます。それでも子どもには子ども独自の感覚や、感性や、衝動があるので、時には困ったことをしてしまいます。その行動が大人の社会ルールに反していると感じた時は、大人たちが叱ったり、「正しいやり方」を教え、しつけようとします。人類はそうやって何百年も、何千年も、何万年も子育てをしてきたのです。そしてこれは、人間も含めた「群れを作って生きている動物たち」においては共通の子育て法です。でも現代人はその子育ての原則を無視して「親や周囲の大人がやっていないこと」を子どもにはやらせようとしています。そんな子育てが始まったのは社会が近代化してからです。社会が近代化することで「親たちが受け継いできた感覚や、感性や、技術や、知識」が通用しなくなってきたからです。でも、そんな風に「自分たちがやっていないこと」を子どもたちにやらせようとしている動物は、人間以外には存在していません。人間だけが「大人自身はやっていないこと」を子どもにはやらせているのです。でもこれは無理なんです。人間を含んだ「群れで生活する動物」の「学びの基本」は「真似る」だからです。人類も何十万年とそのやり方で子育てをしてきたのです。犬の子どもは親犬と一緒に生活することで、とくにしつけや教育などしなくても、親の行動を学び親と同じ行動をするようになります。これはサルでも、象でも、イルカでも同じです。人間もまた、人間としての言葉や、感覚や、思想や、感性や、生活スタイルはそのようにして受け継がれてきました。でも真似をするのは子どもが「仲間だと感じたもの」に対してだけです。逆に言えば、幼い時から羊に育てられ、羊の群れから「仲間」として受け入れられ、そのまま羊の群れの中で育った犬は、自分を「羊の仲間」だと感じるようになり、羊の真似をするようになるということです。それでも犬は羊になることは出来ません。オオカミがやってくれば羊たちは逃げ惑うでしょうが、犬はそのDNAの中に組み込まれた本能で立ち向かう可能性が高いのではないでしょうか。DNAの違いが大きければ大きいほど、真似をする範囲は狭くなります。犬は人間と一緒に生活していても「人間らしさ」を身に着けることはありません。だからしつけや調教が必要になるのです。でも、DNAが似ているチンパンジーやゴリラはかなり人間の真似をすることが出来るようになります。そういう実験をした人もいます。それでも、ただ一緒に暮すだけでなく、人間の子ども以上のしつけと教育が必要になります。人間の子どもは教えなくても、ただ一緒に暮らしているだけで次第に親と同じような行動をするようになりますが、チンパンジーやゴリラの場合はただ一緒に暮らすだけでは人間と同じような行動をするようにはならないからです。基本的な感覚や、感性や、思考や、本能などの仕組みが異なっているからです。幼い子ども達は大人とは異なった感覚、感性、本能を持っていますから、大人と一緒に生活していても、大人と同じように感じ、考え、行動するようにはなりません。でも、チンパンジーやゴリラと違うのは、成長が進むにつれて自然に大人と同じように感じ、考え、行動するようになるということです。チンパンジーやゴリラの場合は成長が進むにつれて「違い」が大きくなるのですが、人間の子どもの場合は成長が進むにつれて「同じ」になってくるのです。だから、幼い子どもの育ちを支えたいと思うのなら、子どもを「仲間」として受け入れ、大人が「先輩としてのお手本」を見せながら、一緒に生活し、感覚や感情を共有しながら気長に待っていればいいのです。無理にしつけたり、教育などしなくても、ただ一緒に生活しているだけで、子どもは周囲の大人レベルにまでは成長しますから。(ただし、便利な機械に頼り切った生活をしていると、子どもは大人よりも困った状態に育って行きます。)いま問題なのは、子どもを仲間として受け入れない、「子どもの先輩」としての自覚がない、お手本を示そうとしない、子どもと感覚や感情を共有しようとしない、それでいて指示や命令ばかりを押し付ける大人たちが増えてきたことです。そのような大人に育てられている子どもは模倣対象を失い、精神的な迷子になってしまうのです。そして指示や正解を求めるようになります。また、自己肯定感の低い人は自分を否定しています。そのため、「子どもは自分に似て欲しくない」と思っています。そして、子どもが自分の真似をすることを嫌います。でも、「自分を否定している親」に育てられている子どもは、その親の意識を模倣して自分を否定するようになります。子どもだけを変えようとしても無理なんです。子どもを変えたいのならまず大人が変わろうとする必要があるのです。
2025.01.04
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多くのお母さんが〝良いお母さん〟という呪縛に苦しんでいます。ただし、この場合の〝良いお母さん〟とは、頭の中で創り出した虚像です。また、他者の目による評価を気にした「お母さん像」です。私は子育てや教育の最終的な目的は、「子どもが自立して、自分らしさを大切にしながら生き生きと、そして幸せに生きることが出来るような手助けすること」だと思っています。ですから、私が考える〝良いお母さん〟とは、そのような手助けが出来ているお母さんのことです。ただしそれは「結果として」ということであって、〝良いお母さん〟を目指しているお母さんがそのような子育てが出来ているということではありません。世の中には「子どものために」と自分を犠牲にして、一生懸命に子育てに励んでいるお母さんがいっぱいいます。そして、一般的には、そのようなお母さんが〝良いお母さん〟と評されています。でももし、その「子どものために」という意識が、かえって子どもを束縛し、子どもの自立を妨げているとしたら悲しいことです。子どもにとってお母さんやお父さんは、一番身近な「人生のお手本」です。子どもはお母さんやお父さんの「後ろ姿」を見ながら「人間について」「社会について」「命について」「生きるとはどういうことなのか」ということに関する基礎を学んでいるのです。子どもは、教えてもらったから学ぶのではなく、お母さんや、お父さんや、仲間や、周囲の人がやっていることを見て学んでいるのです。ですから、子どもは「大人が見せる後ろ姿」にはついて行きますが、「あんたのために」と色々なことをやってあげてもそれだけでは「自分が進むべき方向」が分からなくなってしまうのです。「子どものために」と自分を犠牲にしているような人を見ていると、自分自身のことは大切にしていないような気がします。精神的な自立が出来ていない人も多いです。まただから、不安になって「子育て書」や「良いお母さん」という評価に頼りたくなるのでしょう。また、「〝良いお母さん〟を目標にすれば、子どももちゃんと育つ」と思い込んでいるのかも知れません。でも、子育てを受けている子どもの視点に立って考えてみたら、「あんたのために私は頑張っているんだ」と押しつけてくるお母さんは、ただただ重いだけではありませんか。自分の成長の手助けになっていると感じる事が出来ると思いますか。むしろ、子どもの自由を束縛する檻になってしまっている可能性もあるのです。
2025.01.03
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知り合いのFBから、「小学校~それは小さな社会~」という映画のことを知りました。それで予告編を見てみました。ちょっとご覧になってみて下さい。これが日本の普通の小学校の普通の風景なのでしょうか。確かに思い当たるところは多いですが、他者の視点で映像化されたものを見ると強い違和感を感じます。言い方は悪いですが「収容所の生活みたいだな」と感じてしまいました。予告編の中の子ども達の行為は道徳的で、調和がとれていて、混乱も戦いもありません。ある意味で美しいです。まるで高度に訓練されたマスゲームを見ているようです。生徒がみんな、先生という指導者の言葉に従って同じように行動しています。こういう訓練を通して、日本の子ども達はみんなと同じように感じ、考え、行動する能力を身に着けているのでしょう。でも、このような訓練に違和感を感じる子、付いていくことが出来ない子は学校からはじき出されてしまいます。そしてそのような子がどんどん増えてきているような気がします。発達障害と呼ばれるような子は、指示や命令に従うことが困難です。反抗しているのではなく出来ないのです。それが「障害」の所以です。そのため、個人的には高い能力を持っていたとしても「みんな一緒、みんな同じ」を大切にする日本の学校の中には居場所がありません。発達障害ではなくても、小さい時から一人で遊ぶことに慣れてしまっている子も「みんな一緒」「みんな同じ」が苦手です。でも、指示や命令を与えられれば従うことは出来ます。でも、自由を奪われ、自分らしさを否定されているので苦しくなります。そして、思春期を迎えるころに、暴力や様々な問題行動としてその反動が出てくる子もいれば、そのまま「従順な大人」になって行く子もいます。従順にしていた方が色々と楽だからです。でも、「従順な大人」に育った子は、子育てで苦しむことになります。自分の感覚で感じず、自分の頭で考えず、自分の意思と判断で行動することが出来ない人には、「自分の意思と判断で自由に行動する子どもという生き物」とどう付き合い、育てたらいいのか全く分からないからです。また、会社に入っても部下を持つ立場になると苦しむことになります。そのような人が学校の先生になれば、「みんな私の指示に従いなさい」という指導をするようになるのでしょう。そのような状態の子にとっては、言われたことに従うだけの「アルバイト的な仕事」が一番楽なんだろうと思います。そして今、そのような状態の子が増えているような気がします。「東洋経済 online」で、真面目な親が陥る"闇バイト"の温床になる子育て親は子供にとって「指示役」になってはいないか?という記事を読みました。日本では学校だけでなく家庭の中でも「これがあんたのためななんだから」という大義名分を振りかざして子どもを監視し、指示を与え、思い通りに子どもをコントロールしようとする親がいっぱいいます。親が子どもにとっての「指示役」になっているのです。そのような子育てをしているような親は、この映画で描かれているような学校で、この映画で描かれているような指導を受け、先生の指示や命令に従って感じ、考え、行動することを素直に受け入れる感性が育ったのでしょう。まただから、同じようなことを子どもにも求めるのでしょう。でも、一人一人異なった個性と人格を持った子ども達に「みんな一緒」「みんな同じ」を強要するような指導は「教育」ではなく「訓練」や「調教」に過ぎません。なぜなら先生の指示や命令に従って感じ、考え、行動することを当然と感じる感性が育ってしまったら、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と判断で行動する能力が育たなくなってしまうため、大人になっても自立できなくなってしまう可能性が高いからです。私は、「教育」とは「子どもの自立を支えるような学びと働きかけを与えること」と考えています。子育ても基本的には同じです。だから、この映画を見た時に強い違和感を感じたのです。確かに、映画の中で描かれているような子どもたちの行動は道徳的には素晴らしいものかもしれません。(日本人的な道徳観では)私は、この映画で描かれている子ども達の行動を否定しているわけではありません。私が問題にしているのは、これが「ただ先生の指示に従っているだけ」なのか、それとも「子どもたちが自分たちの学びと体験を通して、自分の意思と判断で能動的に行っているのかどうか」ということです。地震が来た、津波が来た、火事が起きたというような時に、「先生の指示を待つことしかできないような子」は非常に危険なんです。また、このような行動に関して、先生と生徒、生徒と生徒との間に素直な話し合いがあったのかどうかも気になります。子どもたちが自分たちの学びと体験を通して、みんなで話し合い、自分の意思と判断で能動的に行っていることなら素晴らしいことです。
2025.01.02
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2025年 元旦 明けまして おめでとうございます。2024年最後の、茅ヶ崎海岸から見た夕日と富士山です。本当は「朝日」の方がお正月っぽいのでしょうが、朝、暗くて寒い中を家から海岸まで自転車で2,30分もかけて行く気がしなかったので、楽をさせていただきました。あと、夕日では富士山がセットになるのに対して、朝日では富士山が写らないのも理由の一つです。今年もよろしくお願いします。今日は簡単なメッセージだけを書かせていただきます。みんなもっと「自分」を大切に生きてください。生まれてきたことを「苦しみ」ではなく「喜び」に変えるような生き方をしてください。どう生きても、誰でもみんなやがてあの世に帰る時が来るのです。だったら「楽しんだもの勝ち」なんです。そして人が一番喜びを感じるのは「自分らしく生きている時」なんです。でも、多くの現代人が、その「自分らしさ」を見失ってしまっています。とんち話で有名な一休さん(一休宗純)は正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり、めでたくもなしと詠んだそうです。私たちはかけがえのない時間、取り返しがつかない時間を生きているのです。その取り返しがつかない時間を、ののしり合ったり、苦しめ合ったり、戦争をしたり、お金のため、競争に勝つために戦ったりすることに消費してしまうのはもったいないのです。死ぬときに「生まれてきてよかった」と言えるような生き方をしてみませんか。
2025.01.01
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言葉には大きく分けて「頭から出た言葉」(頭の言葉)と、「心から出た言葉」(心の言葉)と、「からだから出た言葉」(からだの言葉)の三種類があります。(ただし、これらの境界は曖昧です。またお互いに強く影響し合っています。)そして、「頭から出た言葉」は相手の頭に届きます。「心から出た言葉」は相手の心に届きます。「からだから出た言葉」は相手のからだに届きます。そして子どもたちは「言葉」を「からだの言葉」「心の言葉」「頭の言葉」の順で学んでいきます。そのことに気付いていない大人たちは、まだ「からだの言葉」「心の言葉」の段階の子どもたちに対し「頭の言葉」で話し、しつけをしようとしています。でも、子どもが大人の「頭の言葉」を理解し始めるのは10才を過ぎてからです。ですから、お母さんが「頭の言葉」でどんなに一生懸命に話しかけても、叱っても、説明しても、その言葉は子どもの心やからだには届きません。もちろん頭にも届きません。それでお母さんは「何べん言ったら分かるの!!」と怒り出すのですが、子どもには理解出来ない言葉で何遍叱られても、分かるわけがないのです。これは「お母さんが使っている言葉の問題」であって「回数の問題」でも「子どもの問題」でもないのです。ただし、お母さんの頭から出た「お母さんの言いたいこと」は伝わらなくても、その時のお母さんのイライラや、怒りや、絶望感は伝わります。子どもはお母さんの言葉から「心とからだの言葉」だけを抽出して吸収しているからです。それを解決するためには「からだの言葉」を学んでいる時期の子どもには「からだの言葉」(感覚に響く言葉)を多く使い、「心の言葉」を学んでいる時期の子どもには「心の言葉」(心に響く言葉)を多く使う必要があるのです。でもそのためには、お母さん自身が「自分の心やからだの状態」を感じ取る能力を高める必要があります。皆さんは自分の心やからだのことを自分の言葉で語ることが出来ますか?「頭の言葉」で「心の言葉」や「からだの言葉」を押さえつけていませんか。
2024.12.31
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子ども達は平気で木とか紙を無駄遣いします。それで「もったいないからもっと大切に使え」と言うのですが、「もったいない」も「大切に使う」も通じません。そして「いくらしたの?」とか「なくなったら買って来ればいいじゃん」などと言います。「材料費払っているんだから自由に使わせろ」と言う子もいます。もちろん、そのような子ども達でも「もったいない」という言葉は知っています。SDGsという言葉も知っています。「知識として」は知っているのですが「それがどういうことなのか」とうことを「感覚として」分かっていないのです。そんな子ども達に「SDGsってなあに?」と聞くと「そんなことも知らないの」という感じで教えてくれます。授業で習っているのでしょう。でも、そのSDGsは「自分とは関係がない世界」の話のようです。自然と共に生きていた昔の人は、SDGsなんて言葉は知らなくても、SDGsを大切にした生き方をしていました。でも現代人はSDGsという言葉は知っていても、そんなこと無視した生活をしています。その状態を例えて言うと、「容器は持っていてもその容器の中は空っぽだ」ということです。問題は、子どもも大人もそのことに気付いていないということです。そして自分は知っているつもりになってしまっていることです。学校もマスコミも周囲の大人達も、子ども達に「命を大切にしよう」と言います。でも、「命」というものに触れたことがない子、命を「大切なもの」として感じたことがない子に、その言葉は届きません。先日も、二人の小学生が「人を殺してみたい」と言っていました。問題のある子ではありません。どこにでもいるような普通の子です。話を聞くと、どうも「命」というものに触れてみたいようです。現代人は、子どもを「死」から遠ざけています。自分が捕まえてきた虫の死、かわいがっていたペットの死、自分を可愛がってくれていたおじいちゃんやおばあちゃんの死、大切に育てていた草や木の死を体験したことがない子も多いです。その結果、「死」の体験がない子ども達が増えて来ました。でもそれは同時に「命の大切さ」を知らない子ども達が増えて来た」ということでもあるのです。「命の大切さ」は「死の悲しさ」とセットになっているものだからです。「死の悲しさ」を知らない子には「命の大切さ」は理解出来ないのです。いくら「命を大切にしよう」と言っても、「自分自身の悲しみにつながる死の体験」がない子にはその言葉は届かないのです。学校やマスコミや周囲の大人達が、子ども達に言っている「命を大切にしよう」という言葉は、SDGsと同じように「中身が入っていない空っぽの言葉」です。自然や命の世界と切り離された環境の中だけで暮らしている現代人は「命の意味」が分からなくなってしまっているのです。まただから、「かわいそう」という言葉だけでクマやシカを殺す人を非難しているのでしょう。子どもが昆虫を捕まえているだけで「かわいそうだから止めなさい」と止める大人も多いです。でも、そのような人でもお肉は大好きなんでしょうね。そのような「中味が入っていない言葉」は「自分の言葉」ではありません。学校ではそんな「空っぽの言葉」ばかりを教えてます。「1たす1は2」というのも「空っぽの言葉」です。そんな空っぽの言葉を並べて「すごいだろ」と自慢することは出来ますが、並べて飾ることしかできません。でもそのような「空っぽの言葉」しか学べなかった子は「自分らしく」生きることが出来ません。自分の生活や人生で困難にあった時、中味を使って切り抜けることも出来ません。また、今時の子は、払う、ねじる、つまむ、絞る、ゆっくり動く、やさしく触れる、などというような「身体動作や身体感覚とつながった言葉」も理解出来ていません。「死」や「生」も身体感覚とつながった言葉です。そのような言葉を知識としては知っていても、「じゃあ、やってみろ」と言われても出来ない子の方が多いと思います。生活の場でそのような言葉を必要とするような活動をしたことがないからです。からだをガチガチに固めてノコギリやトンカチを使っている子に、「もっと手首を緩めて」「もっと姿勢を起こして」「もっとまっすぐに手を動かして」と言っても通じないことがほとんどです。雑巾を渡して「ギュッと絞って」と言ってもちゃんと絞ることが出来ません。「絞るような動作」はするのですが、「ギュッ」とか「絞る」という言葉を身体感覚として理解出来ていないからです。そのような「空っぽの言葉」しか持っていない子は、アニメのような「映像で見る物語」は楽しむ事が出来ますが、「言葉だけで語られる物語」は退屈してしまうのではないかと思います。
2024.12.30
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