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絵本を買うと、一応「〇〇才から」と書いてありますよね。でも私は、そういうものは気にしないでいいと思っています。確かに、幼い子には難しい内容の絵本もいっぱいあります。そういう絵本は、お母さんが読んでいても子どもは寄ってこないでしょう。でも、それでも、お母さんが、お母さんが読みたい絵本を、自分のために読むのはOKだと思っています。それに、子どもは聞いていないようで聞いているものです。嘘だと思ったら、子どもが寄ってこない時に「冷蔵庫にケーキがあるよ」などと呟いて見てください。すぐに反応しますから。また、お母さんが声に出して繰り返し読んでいると、意味は分からなくても言葉やストーリーを覚えてしまうこともあります。いわゆる「門前の小僧、習わぬ経を読む」の例え通りです。それに、「意味が分かるようになってから」では遅いのです。皆さんはお子さんに言葉が分からないうちから話しかけていますでしょう。意味が分からないうちから話しかけているから身につくのです。「意味が分かるようになってから話しかけよう」などと待っていたら、いつまで経ってもその時は来ないのです。「しつけ」も同じです。「言葉が分かるようになってからしつけよう」などと思っていると、手遅れになってしまうのです。言葉が分かる頃には「自分流のやり方」が身についてしまうからです。「やっていいこと」と「やってはいけないこと」は理屈ではなく「からだに染み込ませるもの」なんです。だから「躾」なんです。それと、「幼い子どもに対する読み聞かせ」においては、絵本そのものの内容よりも「お話を読んでいる時のお母さんの声」の方が「子どもの心とからだの育ち」に与える影響が大きいのです。幼い子どもが聞いているのは「内容」よりも「お母さんの声」なんです。内容は、繰り返し読んでいるうちに、その「声」を通して、知らないうちに子どものからだに染み込んでいくものです。だから、最初は子どものことなんか考えずに、図書館に行って「自分が読みたい本」を借りて来て読めばいいのです。ただし、その時子どもを連れて行ってください。そうすればお母さんが絵本を探している間、子どもも絵本を探すようになるでしょう。そして、そのうち自分に合った絵本を見つけることが出来るようになるでしょう。そうしたら、「お母さんが読みたい本」と「子どもが読んで欲しい本」の両方を借りてきて読めばいいのです。声を出して自分のために読む絵本は気持ちがいいですよ。
2026.09.07
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絵本の読み聞かせが、現実の世界での体験不足を補う助けをしてくれます。でも、その読み方にも工夫が必要です。まず、感想や評価を求めるのは止めた方がいいです。そんなことしたら「素直な体験」が出来なくなってしまうからです。また、声色を使ったり、大げさに演技するような過剰な表現も止めた方がいいです。絵本を読む時にあまり大げさに表現してしまうと、「お話し」そのものよりも、「読んでいる人」の方に子どもの気持ちが向いてしまうからです。絵本などの読み聞かせでは、主人公はあくまでも「お話し」であり「絵本」です。読み手は「声」を通してその世界を聞き手に届ける導き人であって、そこに余分なものを付け加えてしまうと子どもは絵本が創り出している世界の中に入ることが出来なくなってしまうのです。読み聞かせで必要になるのは「子どもを面白がらせるための演出」ではなく、「読み手の心やからだとつながった声」なんです。でも、私も読み聞かせを始めた頃はそのことを知らずただ大げさに演技しながら読んでいました。その方が子どもが喜ぶと思っていたからです。そして実際、多血質や胆汁質が強い子の場合は、大げさに読んだ方が喜びます。でもそれをすると、「お話し」や「絵本」が本来持っている力は失われてしまうのです。でも、「親子遊び」としてだけの「読み聞かせ」ならば大げさに演技しながら読むのもOKだと思います。楽しく読むことで絵本がお母さんと子どもをつなげる働きもしてくれるでしょう。また、劇遊びににもつなげることも出来るでしょう。ただ、そういう読み方では子どもが絵本を通して擬似的に体験することが出来なくなってしまうということです。その時大切なことは、「読み手自身もお話しの世界の中に入る」ということです。「読み手」はただ「文字を読む人」ではなく、「導き手」でもあるからです。大げさに演技している人は、自分の解釈によって「お話しの世界」を演じているだけで、「お話しの世界」の中には入っていないものです。だから不自然に大げさになるのです。読み手自身が物語の中に入って物語りを感じながら読んでいる時に、声の中に自然に現れる表現は演技ではありません。だからそれはそれでいいのです。よく、「絵本は淡々と読んで下さい」と言われますが、「淡々と」を演じてはいけないのです。「淡々と」を意識し過ぎろと、それもまた不自然な演技になってしまうからです。以前、知り合いの絵本作家の人が、自分が描いた絵本を、自分の気持ちに素直に読んだら、絵本の読み聞かせ活動をしている人から「そんな風に感情を入れて読んではいけないのではないでしょうか」と言われたそうです。それでその作家は「そうじゃないのに、分からないのでしょうか」とおっしゃっていました。「淡々と」にこだわることなく、お話を自分の中に取り込んで、自分の感覚と感情とからだに感じたままに素直に読めばいいのです。素直な声だから子どもは素直に受け取るのです。「目の前に大きな木がありました」と書いてあったら、読みながら、登場人物と同じ視点に立って、その「大きな木」を見るのです。それだけで「声」が変わるのです。すると、その「声」によって、子どもにも「大きな木」が見えるのです。人の感覚は、声を通して共鳴するように出来ているからです。「読み方」ではなく「声」が、子どもの心の中に「大きな木」のイメージを創り出すのです。「音が聞こえてきました」と言う時には、読み手もその音を聞くのです、すると子どもにもその音が聞こえてくるのです。その時、自然に現れる読み手の声の表現は「意図的な演技」ではないのです。素話のプロの友人がいます。彼女は「怖い話」が(も?)得意です。彼女の話を聞いていると、聞いているだけでゾクゾクしてきます。それは彼女自身がその物語の中に入って直接目撃しながら語っているからなのでしょう。
2026.09.06
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自覚しているかどうかはともかくとして、子育てをしている多くの親は、我が子に対して何らかの期待を持っています。例えば、「優しい子に育ってほしい」、「良い子に育ってほしい」、「自立した人間に育ってほしい」、「スポーツが得意な子に育ってほしい」、「勉強が出来る子に育ってほしい」、「強い子に育ってほしい」、「かっこいい子に育ってほしい」、「賢い子に育ってほしい」などなどです。子どもに対して何にも期待しないで子育てをしている人の方が少ないのではないでしょうか。そして、実際の子育てにおいても、その期待に沿って子どもに言葉かけをしたり、子どもを励ましたり、子どもを追い立てたり、子どもの遊びや生活の環境を整えようとしています。ですから、そのお母さんが子どもにどのような言葉かけをして、どのようなことに追い立てているのかを見れば、そのお母さんが子どもに何を期待しているのかを知ることが出来ます。本人が自覚していなくても、周囲の人には分かるのです。私の場合は、今思えば「賢い子に育ってほしい」だったのではないかと思います。ただし、子育てをしている最中にはそんな自覚はありませんでした。「今、振り返って思えば」ということです。だから勉強にも追い立てませんでした。「学校の成績」と「賢さ」は関係がないからです。「優しさ」も強制しませんでした。「優しさ」は「賢さ」の表れに過ぎないからです。「優しくしなさい」と言わないと優しくできないのは「優しい子」ではないのです。「良い子」も求めませんでした。大人や親の言うことに従うだけの子は「賢い子」ではないからです。「自立」も強制しませんでした。「精神的自立」もまた「賢さ」の結果に過ぎないものだからです。子どもに「自分らしく生きる」ことを望むのなら、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と判断で行動することが出来る賢さ」を育てることが必要になります。じゃあ、私は何をしたのかというと、山のように絵本の読み聞かせをしました。仲間や自然と出会わせました。色々なところに連れていき、色々な大人と出会わせました。モノや道具に依存しない色々な遊びや活動に子どもたちを誘いました。「そのような関わり合いで育つ何か」を期待していたからです。今思えばそれが「賢さ」ということだったのではないかということです。じゃあ、その「賢さ」ってなんなのか、ということです。私はそれを「相手の立場に立って考える能力」なのではないかと考えています。「ナゾロジー」というサイトの記事の中にも同じようなものを見つけました。「賢い」と思われる人の条件は相手を思いやれること!11カ国で共通以下はこの記事からの抜粋です。「賢い」と思われる人には多くの国で共通する特徴があったようです。カナダ・ウォータールー大学(University of Waterloo)の研究チームは最近、11カ国における約2700名の参加者を対象に「どういう人を賢いと思うか」を調査。その結果、どの国でも「内省的で論理的に思考し、他人の感情を思いやって気遣うことができる人」が最も賢い人と捉えられていました。研究の詳細は2024年8月14日付で科学雑誌『Nature Communications』に掲載されています。どうやら、私が「賢さとは何なのか」と考えていたことは、私一人の思い込みではなかったようです。ここではっきりしているのは、どの国でも、「成績が良いこと」を「賢いこと」とは認識してないということです。世界中で多くの人が、「賢さ」とは「相手の立場に立って感じ、考え、判断する能力」と考えているということです。それは、そこが「人間らしさの根幹」だということなのでしょう。ただし、「賢さってなにか」ということが分かっても、実際にそれを育てるのは至難の業です。なぜなら、「賢い子ども」を育てるためには、親もまた賢くなる必要があるからです。ただし誰にでも出来る簡単な事があります。それが絵本の読み聞かせや物語を語ってあげることです。自分の体験や、子どもだった頃のことを語るだけでもいいです。雲のこと、海のこと、命のこと、世界のこと、そういうことを語るのも「物語」です。それらの「絵本」や「語られた物語」には他者の視点が含まれています。子どもの賢さを育てるためには、その「他者の視点」との出会いが必要なんです。「賢さ」が育った子は「自分の運命は自分で切り開くものだ」ということを知っているので、「親ガチャ」などということは言わないでしょう。ただし、「賢さの育ち」を潰すのは簡単です。子どもから「つながり」を遠ざけ、狭い部屋の中に閉じ込め、テレビやゲーム機などの機械やオモチャで遊ばせ、言葉との出会い、物語との出会い、体験との出会いを奪い、子どもが感じていること、子どもが考えていること、子どもがやりたいこと、子どもの成長に必要なことを無視して一方的に親の期待と指示と命令を押し付けていれば「賢さの育ち」は簡単につぶれます。すると、自己中心的に感じ、考え、行動するようになります。うまく行かないことがあると人のせいにします。でも、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断する能力が育っていないので、簡単にだまされます。
2026.09.05
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5月に孫No.7が生まれ、7月に孫No.8が生まれました。両方ともかわいい女の子です。で、双方のお母さん(一人は娘、もう一人はお嫁さん)に「お祝いで絵本をプレゼントするから10冊選んで」と伝えました。娘の方は「10冊」と言ったのに11冊リストアップしてきました。お嫁さんの方は今選択中です。私がどうしてオモチャや衣服などではなく「絵本」をプレゼントの対象に選んだのかというと、オモチャや衣服は「その時だけのもの」なのに対して、「絵本」は「一生もの」だからです。「絵本」は絵と、言葉と、物語で出来ています。ただし、本来、子どもの成長に「絵」は必要ありません。「絵」が、子どもが物語を聞いて自由に想像したり空想することを阻害してしまうからです。また、絵によってお話の印象も大きく変わってしまいます。そのため、シュタイナー幼稚園などでは「絵本」を読まずに、絵のない「素話」を聞かせるようです。実際、人類は何十万年と物語を語り継いできましたが、その「語り継がれてきた物語」の多くに「絵」はついていません。寺院の壁画やタピストリーや洞窟の壁などに「物語の絵」が描かれたこともあったでしょうが、それは「特別なもの」だったでしょう。その伝承されてきた物語にあるのは「言葉」と「物語」だけです。昔、囲炉裏端で老人によって語られていた「むかしむかし あるところに」というお話しには絵はついていませんでしたよね。それに、物語を語るのは物語を聞いて育った人なら難しくないでしょうが、絵を描くのは誰にでも出来ることではありません。また、絵は「見るもの」ですが、言葉と物語は「聞くもの」です。そして、「見るもの」は脳によって解釈されます。それに対して「聞くもの」は直接心の中に届きます。「森の絵」を見ても「森の体験」は出来ませんが、「森の物語」を聞くと「森の体験」が出来るのです。それが「言葉の力」です。また、「絵」があるとどうしても「絵」に合わせて言葉や物語を理解しようとしてしまいます。その結果、「物語の主体」が「子ども」ではなく「絵」になってしまうのです。と、絵本の悪口のようなことを書いてきましたが、でも、生活体験や、自然体験や、人間体験が圧倒的に少ない現代の子ども達にとっては、「その言葉や物語を理解する手助けとしての絵」が必要なんです。「森」の体験がない子は「言葉だけで語られた森を舞台にした物語」が理解できないし、仲間と遊んだ体験のない子は「言葉だけで語られた仲間と一緒に活動する物語」を理解することが出来ないからです。また、「絵」があることで、また見たことも体験したこともない「森」や「仲間と遊ぶ活動」に興味を持つことも出来ます。それが「絵の力」でもあります。豊富な生活体験や、自然体験や、人間体験に満たされて育っている子には「絵」は必要ありませんが、そういう体験が不足している環境で育っている子には「絵」が必要なんです。絵があることで、絵本の中で主人公と一緒に擬似的な自然体験をすることも出来るからです。また、幼い頃に聞いた「言葉」や「物語」は魂の深いところに刻み込まれるので、大人になっても消えません。それは絵本でも同じです。子どもの頃に見たことは忘れても、聞いた言葉とか物語はそう簡単に消えないのです。子どもは「お話」や「物語」を聞きながら、世界観や、自然観や、人間観の土台を育てているからです。子どもの頃に聞いた「物語」自体は忘れてしまっても、その物語を通して育った世界観や、自然観や、人間観は大人になっても消えないのです。親が我が子のために絵本を選ぶ。その行為自体が、子どもに「お母さんが望む世界観や、自然観や、人間観」を伝えるための「祈り」であり「願い」なんです。そしてその「祈り」と「願い」が絵本を通して子どもに伝わっていくのです。「しつけ絵本」のようなものばかり選ぶ人は、「心やからだの育ちよりもしつけの方が大切だ」というような世界観や、自然観や、人間観を持っているのでしょう。また、自分自身がしっかりとした世界観や、自然観や、人間観を持っていない人は、そういう視点で絵本を選ぶことが出来ません。だから、子どもに選ばせます。すると、キャラクター的な絵本ばかり選ぶでしょう。幼稚園選びでも同じです。子どもに選ばせたら遊具がいっぱいあって遊園地のような園を選ぶでしょう。
2026.09.04
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9月13日(日)に、千葉県成田市の坂田ヶ池総合公園という場所で、「2nd school もりのこびとたち」の主催者である奥村奈美余氏と、同タイトルで対談を行います。前日の12日(土)は森で遊びます。対談の方はアーカイブも作るようです。まだまだ参加者募集中です。ご興味のある方は<こちら>を覗いて見て下さい。それに先だって、ブログの方にこのタイトルに関しての私の考えを書いてみます。ただし、当日、これと同じ話をするわけではありません。当日は対談的な形で行うので、どういう話の展開になるのかは不明です。で、タイトルは「からだの土台 こころの根っこ」です。今、この「からだの土台 こころの根っこ」を育てることが出来ないまま幼児期を過ごし、小学校に入り、中高(大)と経て、そのまま社会に出て行かざる終えない子ども達がものすごく増えてきています。確かに年齢が上がれば自動的に性的、肉体的には「大人」になります。でも、幼児期に「からだの土台 こころの根っこ」が育っていない子は、からだは大人になっても、「一人の人間」として、「一人の社会人」として自立して生きて行くことが困難になってしまうのです。会社の部品、社会の部品としての生き方は出来るのですが、自分の人生を、自分のものとして、自分らしく生きることが出来なくなってしまうのです。また、自分の周囲で起きていることが理解できません。周囲の人とつながることが出来ません。体験や他者との関わり合いを通して学ぶことが出来ません。「体験を通して学ぶ」という学び方を学ぶことが出来ていないからです。そのため、人間として成長することが困難になってしまうのです。というか、そもそも、最近はそんなことには興味を感じない人が増えてきています。「からだの土台 こころの根っこ」が育っていないと、「今を楽しく生きること」にしか興味を感じなくなってしまうからです。本来、幼児期の子ども達はそのような状態です。でも、「からだの土台 こころの根っこ」が育つ過程で少しずつその状態から抜け出すことが出来るのです。そのために必要なのは「つながる」ということです。お母さんやお父さんや自分の周囲にいる大人達とつながる。仲間とつながる。自然とつながる。見える世界、見えない世界とつながる。色の世界、音の世界、触覚の世界、味の世界、匂いの世界とつながる。過去の人たちとつながる。遠くの人たちとつながる。美の世界とつながる。などなどです。その過程で「心」と「からだ」もつながっていきます。人間は「つながり」を通してしか「自分の成長に必要なもの」を吸収することが出来ないのです。衣食住は与えられていても、その「つながり」から隔離された環境で育っている子は、「人間としての成長」が困難になってしまうのです。でも、つながるためには「つながりを支えるもの」が必要です。周囲の大人とつながるためには「言葉」や「生活のルール」を学ぶ必要があります。そういうものを学ぶことが出来ない子は大人とつながることが出来ません。だからといって子どもはそういうものを「義務」として学ぶわけではありません。子どもが「この人とつながりたい」と思えば、自分の意思で「つながるために必要なこと」を学ぼうとするのです。それは「つながりたい人」とつながるのが喜びだからです。子どもと子どもがつながるためには「遊び」が必要です。一昔前までは、その遊びは世代を超えて伝承されてきましたが、今ではそのほとんどが消えてしまいました。そのため、他の子とつながりたいと思っても、つながる術がありません。結果、「ネット」を介してつながろうとするのですが、ネット経由では感情や、感覚や、体験や、行動を共有することが出来ません。ネットで共有出来るのは「情報」だけです。その結果「遊び」を共有することで育っていた、「対話する能力」「助け合う能力」「みんなで一緒に考える能力」「遊びを工夫する能力」が育たなくなりました。最近の子は先生の指示があればみんなと一緒に行動することが出来ますが、指示がないとバラバラになってしまいます。自分たちの意思で他の子とつながって活動することが出来ないのです。でも、この能力が育っていないと夫婦生活を営むことも、一緒に子育てをすることも出来ません。会社に入っても、指示や命令を受けるだけの仕事は出来ても、部下を任せられたときにどうしようも出来なくなってしまいます。部下と心を通わせることが出来ないので、指示と命令だけで部下を動かそうとします。でも、それでは部下が苦しくなるばかりです。仕事にやりがいも感じません。結果、仕事がうまく回らなくなります。そして、そのような子育てをしている人もいっぱいいます。「つながり」から切り離されて育っている子は「自分が生きている世界」に対する興味も目覚めません。だから、意識が外の世界に向かいません。その結果、快楽や欲望を満たすことのみに一生懸命になります。「親ガチャ」という言葉は、「自分の可能性」を知ることが出来ないまま育った人の言葉です。国や、偉い人や、テレビや、AIが「〇〇は△△だ」と言えばそのまま信じてしまいます。「自分の考え」や「自分の視点」を持っていないからです。結果、そういう存在が「渡れ」と言ったら、赤信号でも平気で渡ってしまいます。それで事故に遭うと事故の相手を恨みますが、自分の判断を反省することはありません。じゃあどうしたらいいのか。この続きを聞きたい人は、12日、13日の活動に是非ご参加下さい。
2026.09.03
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デジタル機器を使っての学習はデジタル化した情報しか学べません。これはちょっと考えれば分かる当然のことです。それは、デジタル機器を使って学習し、どんなに多くのことを覚えても、自分の命やからだが存在しているリアルな世界のことは学べないということを意味しています。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の肌で感じ、自分の舌で味わい、自分の鼻で感じ、自分のからだを動かして感じるようなことについては一切学ぶことが出来ないのです。確かに、デジタル機器を使って「命について」、「からだについて」学ぶことは可能です。でもそれは「命についての情報」「からだのついての情報」に過ぎません。「自分にとっての自分の命」や「自分にとっての自分のからだ」のことが学べるわけではありません。デジタル機器は分かった気にさせてくれるだけなんです。だからこそ、それが非常にやっかいだし、危険なんです。分かった気にさせてくれるから、子どもが成長していなくても、子どもの成長を阻害していても問題を感じないのです。また、子ども自身も「自分が成長していないこと」に気づかないのです。実際、動画でノコギリを使っているところを見た子は「ノコギリの使い方」が分かった気になってしまいます。でも、実際には使えません。でも、使う場がないので「実際には使えない」ということに気付くことが出来ないのです。これは非常に危険なことです。「自分は何でも知っている」、「何でも出来る」と思い込んでそのまま社会に出たら悲惨なことになってしまうからです。それに、デジタル化できる情報しか学んでいないのなら人間である必要がありません。AIも同じ情報を持っているし、AIの方が遙かに処理能力に優れているからです。AIには処理できない能力を持っていないと、これからの時代は「人間としての存在価値」が消えてしまうのです。また、新しい文化や文明を創り出すことも出来なくなります。AIが暴走したとき、止めることも出来なくなります。また、人間は他の人と言葉や、感覚や、思考や、価値観や、様々な文化を共有することでつながっています。この、「共有する能力」もデジタル機器を使った学習では学ぶことが出来ません。これはどんなに優秀なAIを使っても学ぶことが出来ません。AIの方にその能力がないからです。AIの中にあるのは情報と処理能力だけです。こちらの話に共感したように見せることは出来ますが、「共感したように見せているだけ」です。なぜなら、AIはAIを使う人の期待に応えるように作られているからです。AI自身は「主体性」も、「自分としての思想や価値観」も持っていないのです。そもそも、「私」は「個」ですが、「AI」は「個」ではありません。「AI」は竹やキノコと同じように、目に見える部分は個別に分かれていますが、その本体は人間には見えないところにある「集合体」なんです。でも、「共感したように見せているだけ」に騙されてしまう人がいっぱいいるのです。だからAIを恋人にしてしまう人まで現れてきました。平面化された画面ばかり見ていると、空間を感じ、空間を認識する能力が育ちません。空間を感じるためには、自分自身がからだ丸ごとでその空間の中に入る必要があるからです。また、見る人を飽きさせないように作られた映像やプログラムばかり見ていると、自分の意思で見て、感じて、考える能力が育ちません。でも、そのようなものに慣れてしまうと、自分の状態を客観的に見る能力も育たないので、自分で自分の事が分からなくなってしまいます。そして、自分で自分のことが分からない人は、他の人のことも分かりません。自分のことは分からないのに、他の人のことは簡単に批評批判するようになります。
2026.09.02
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最近の子ども達は、命や、からだや、それらのつながりによって支えられている「リアルな世界」から切り離されて育っています。現代の子ども達の多くは、命やからだだけでなく、過去とも、現実世界ともつながらない「時間も空間も因果関係も存在しない仮想空間」の中で日々遊んでいます。その世界を支配しているのは物理学でも、命の論理でも、自然の論理でもありません。そのゲームを作った人が決めたルールだけです。自然界には「自然界の論理」があります。それは人間を超えた論理です。そして人間は、その「自然界の論理」に従って生きています。昔から子ども達も、その論理に従い、その論理を利用して遊んできました。その論理を研究するのが物理学や生物学や化学といった様々な学問です。だから私も中学に入って物理学を学んだとき「ああ、あれのことか」と、「それまでの自分の体験」と「学問として学んだこと」がつながり、物理学に興味を感じたのです。子ども達が「学問」として学校で学ぶことの全ては「この世界に存在していること」や「存在していたこと」についてです。「この世界に存在していること」や「存在していたこと」だからこそ、学ぶ意味も価値もあるのです。また、自分自身についてや、自分の周囲に存在しているものの意味や価値を知ることが出来るから学ぶことが面白くなるのです。それに人は、「この世界に存在していること」や「存在していたこと」とのつながりの中にしか、自分の人生を築くことが出来ません。この世には存在しない「ポケモン」についていくら詳しくなっても、ゲームがいくら上手になっても、実際に「自分が生きている世界」と関わり、「自分が生きている世界」のことを学ぶことが出来なければ、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動することが出来なくなってしまうのです。その結果、誰かの指示や命令に依存するようになります。また、自分と同じ趣味や興味の人以外の人とつながることも出来なくなってしまいます。さらに、「自分が生きている世界」のことを学ぶことが出来ないと、「過去から受け継がれてきたもの」を受け継ぐことが出来なくなります。その中には「自分の人生を自分のものとして生きるために必要なこと」の全てが入っています。そのため、「自分が生きている世界」のことを学ぶことが出来ない子は、必然的に不安も強くなり、自己肯定感も低くなります。さらに、ゲームに夢中になって遊んでいる子どもは、自分が「自分が生きている世界のことを何も知らない」ということを知りません。その現実にぶち当たるのは社会に出てからです。でも困ったことに、その頃までには感覚回路も、思考回路も、行動様式も、からだの使い方も大方固定されてしまっているので、学び直すことは非常に困難です。子どもは日々の体験を通して学んでいます。それは大人でも同じですが、大人と子どもが違うのは、大人は「自分の学び方」で学んでいるのに対して、子どもは、その「学び方」そのものを学んでいるということです。子ども達が遊びを通して学んでいるのは「学び方」なんです。だから、いくらいっぱい遊んでも成績はよくなりませんが、「学び方」を知っている子は、勉強に興味を持ったとたんに急激に伸びるのです。その一方で、幼いときから遊ぶ時間も、遊ぶ場も、遊ぶ仲間も与えられず、ゲームでばかり遊んで育った子は、「学び方」を学ぶことが出来ません。せいぜい「ゲームの攻略法」を学ぶくらいです。でもそれは現実の世界では役に立ちません。リアルな世界での友達とのつながり方も分かりません。そのため、結婚しても助け合い、支え合うことが出来ません。子どもが産まれても、衣食住を与え、子どもの世話をすることは出来ても、子どもの成長を支えることが出来ません。そもそも、子どもとの関わり方が分かりません。だからゲーム機に子どもを預けてしまいます。塾に通わせていれば知識を覚えることは出来ます。ですから、「遊びはゲームで、勉強は塾で」という生活でも、小学校時代はなんとかなります。でも、塾では知識は教えてくれても、「学び方」は教えてくれません。それは部屋の中で、椅子に座って学べるようなものではないからです。
2026.09.01
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(今、娘婿と孫とでキャンプ中なので短くさせて頂きます)昨日は、子どもは、教えてもらったから学ぶのではなく、お母さんや、お父さんや、仲間や、周囲の人がやっていることを見たり、それらの人と関わったり、それらの人と一緒に活動したりすることで学んでいるのです。と書きました。そうやって、人類は何十万年と言葉や、文化や、感覚や、感覚を引き継いできたのです。でも今、その何十万年と続いてきた流れに異変が起きています。子ども達の周囲から「模倣する対象」「一緒に活動する仲間」が消えてしまったからです。代わりに与えられたのが「子ども部屋」という名の「隔離室」と、ネットやゲーム機などの「一人で遊ぶ道具」です。今では「機械」が子どもの「遊び相手」です。保育園、幼稚園、学校には子どもがいっぱいいますが、多くの園や学校では「先生の指導」に従うことが求められているので、子ども同士のつながりを作ることが出来ません。みんな一緒に、みんな同じことをしていますが、それは先生の指示に従っているだけで、みんなで話し合って、自分たちの意思で、みんなが気持ちを合わせてやっているわけではありません。先生達もまた「上からの指示」に従っているだけで、みんなで話し合って、自分たちの意思で、みんなが気持ちを合わせてやっているわけではありません。先生達がそれをやってくれているのなら、子どもも「みんなで話し合うこと」「自分の意思で行動すること」「気持ちを合わせて活動すること」を真似ることも出来るのでしょうが、先生達がやっていることは「指示に従うこと」だけです。そしてそれは、子どもが一番嫌いなことです。でも、他の子もみんな同じように動くから、自分も仲間になりたくて一緒に動くだけです。だからといって、遊び相手をしてくれている「ゲーム機」を真似することは出来ません。youtubeなどの動画の中で見た行為などを真似する子はいますが、それは非常に危険です。youtubeなどの動画の中にあることは、基本的に「大人の世界」のことばかりだからです。また、子どもの生活とも関係がありません。動画で見たからと言って、それを試すことも出来ないし、試すことが許されない内容も流れています。(続きます)
2026.08.31
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多くのお母さんが〝良いお母さん〟という呪縛に苦しんでいます。ただし、この場合の〝良いお母さん〟とは、頭の中で創り出した虚像です。また、他者の目による評価を気にした「お母さん像」です。私は子育てや教育の最終的な目的は、「子どもが自立して、自分らしさを大切にしながら生き生きと、そして幸せに生きることが出来るような手助けすること」だと思っています。ですから、私が考える〝良いお母さん〟とは、そのような手助けが出来ているお母さんのことです。ただしそれは「結果として」ということであって、〝良いお母さん〟を目指しているお母さんがそのような子育てが出来ているということではありません。世の中には「子どものために」と自分を犠牲にして、一生懸命に子育てに励んでいるお母さんがいっぱいいます。そして、一般的には、そのようなお母さんが〝良いお母さん〟と評されています。でももし、その「子どものために」という意識が、かえって子どもを束縛し、子どもの自立を妨げているとしたら悲しいことです。子どもにとってお母さんやお父さんは、一番身近な「人生のお手本」です。子どもはお母さんやお父さんの「後ろ姿」を見ながら「人間について」「社会について」「命について」「生きるとはどういうことなのか」ということに関する基礎を学んでいるのです。子どもは、教えてもらったから学ぶのではなく、お母さんや、お父さんや、仲間や、周囲の人がやっていることを見たり、それらの人と関わったり、それらの人と一緒に活動したりすることで学んでいるのです。だから日本人に育てられれば、日本語を話すようになり、日本人らしい感性や感情が育ち、日本人らしく行動するようになるのです。ただし、親と同じになるわけではありません。子ども一人一人の個性もあるし、周囲の環境や社会の変化からの影響もあるからです。でも、「子どもは模倣によって学ぶ」という原則は変わりません。ですから、子どもは「大人が見せる後ろ姿」にはついて行きますが、「あんたのために」と色々なことをやってあげてもそれだけでは「自分が進むべき方向」が分からなくなってしまうのです。目の前に親が立ちふさがっているのですから。そのため、「あんたのために」と頑張れば頑張るほど、子どもは苦しくなって逃げようとします。「子どものために」と自分を犠牲にしているような人を見ていると、自分自身のことは大切にしていないような気がします。精神的な自立が出来ていない人も多いです。子どものために頑張ることで自分の存在価値を作り出そうとしている人もいます、まただから、不安になって「子育て書」や「良いお母さん」という評価に頼りたくなるのでしょう。また、「〝良いお母さん〟を目標にすれば、子どももちゃんと育つ」と思い込んでいるのかも知れません。でも、お母さんが「自分の生き方」を大切にしていなければ、子どもも「自分の生き方」を見つけることが出来なくなってしまうのです。「あんたのために私は頑張っているんだ」と押しつけているお母さんは、子どもの自由を束縛する檻になってしまっている可能性が高いのです。だからといって、お母さんが「自分のことばかり考える子育て」をしてしまったら、もっと困ったことになります。そして今、そのようなお母さんも増えています。支配するか、無視するかの両極端です。そのいずれのお母さん達も、子どもとの間に「ちょうど良い関係」「ちょうど良い距離」を作ることが出来ないのです。そのようなお母さん達もまた、自身のお母さんや周囲の大人達と「ちょうど良い関係」「ちょうど良い距離」を体験することが出来ないまま大人になってしまったからなのでしょうね。
2026.08.30
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昨日は、昔の子どもたちが多様な遊びで遊ぶことが出来たのは、その多様な遊びで遊んでいる年上の子どもたちが身近にいたからです。子どもたちが様々な「ごっこ遊び」で遊ぶことが出来たのは、子どもの目に見えるところに大人の生活があったからです。いつも、部屋の中で自分の好きな遊びばかりして過ごしている子が、他の遊びに興味を持たないのは当たり前なんです。そして、そういう子を無理矢理自然の中に連れ出しても、自然が嫌いになるばかりです。と言うことを書きましたが、大人が「お手本」を見せることが出来ない社会は荒れます。これは実際に世界中で起きている現象です。親から子へと知識や、技術や、価値観や、感性や、生活など様々な文化を継承しながら、自然と共に素朴な生活をしていた人たちの社会は安定していました。子どもは大人を尊敬し、大人を模倣しながら成長していました。そのような社会では、一人一人がつながりの中に支えられていました。それは同時に一人一人に役割と居場所があったということです。でも、そのような「伝承に支えられ、自然と共に素朴な生活をしていた社会」に、「伝承」よりも「お金」や「物」の方を「大切なもの」と考える西洋的な価値観、近代的な価値観、経済優先の価値観が入ってくると、あっという間に、何百年と受け継がれてきた「伝承」が消えました。「伝承」が消えるということは「縦のつながり」が消えるということです。そして「縦のつながり」が消えると、その縦糸に支えられていた「横のつながり」も消えます。人々は「伝承されたもの」を共有する形で横につながっていたからです。そして、「伝承されたもの」よりも「お金」を大切にするようになることで、それまで「伝承されたもの」を共有していた「仲間」が、お金を奪い合う「競争相手」になってしまいました。「遊び」を共有していた仲間たちが、「成績」や「居場所」を競い合いライバルになってしまいました。教育の場でも「みんな一緒」「みんな同じ」を求められるようになりました。このような指導は、先生の指示に従うだけなので「横のつながり」を必要としません。また、「みんな一緒」「みんな同じ」という指導を受けている子は、相互に監視するようになります。その結果、「つながり」がなくても、まとまります。先生は楽になります。でも、先生との間に信頼関係が築けていないし、友達同士のつながりも希薄なので、ちょっとしたきっかけがあると簡単にクラスが崩壊してしまいます。また、発達障害などがあって、その指示に従うことが出来ない子が自由に行動していると「〇〇ちゃんだけずるーい」などと言います。最近の子は、この「ズルイ」という言葉をよく使います。「〇〇ガチャ」という言葉も、この「ズルイ」という感覚で使われています。学校に行けなくなった子が学校に行かないと「学校に行かなくてズルイ」などといいます。「学校に行けなくて可愛そう」などとは言いません。みんな学校が嫌いだからです。子どもたちは支え合ったり、話し合ったり、目的を共有して助け合ったりしなくなりました。また、大人や老人を尊敬しなくなりました。むしろ馬鹿にするようになりました。老人の知識や知恵や技術は「古臭いもの」として否定されるようになりました。老人自身もまた、「新しい価値観、新しいインフラ、新しい機械、新しい言葉」についていくことが出来ず途方に暮れ、「自分は価値がない存在だ」と感じるようになりました。でも、その「老人」は「将来の自分の姿」でもあるのです。今の若者達の「当たり前」は、若者達が老人になる頃には消えてしまうのですから。「スマホ」が時代遅れになる時代もやってくるのです。「老人をバカにする社会」は「若者が希望を持てない社会」でもあるのです。実際、そうなっていますよね。ネイティブアメリカンの社会においても、若者達が、欧米の文化、価値観、生活様式と出会う事で伝承が途絶え、老人が馬鹿にされ、コミュニティが崩壊し、若者達は、生きる意味や目標を失い荒れてしまったそうです。私が2018年に行った、インド最北部にある「ラダック」という所でも同じようなことが起きました。「懐かしい未来」という映画でその状況が語られています。ネットで調べればその概要が分かります。アフリカでも同じようなことがそこいら中で起きました。そして荒れました。ただし、私は社会の変化自体を否定しているわけではありません。ただ、「変えてもいいところ」は変えても、「変えてはいけないところ」は守り通すような意識が必要なのではないかと言うことです。でもそれが出来るようになるためには、「本当の幸せって何だろう」ということをみんなで話し合い、みんなで考え直す必要があるのではないかということです。子育てや教育において「欲望や不安に支配されることなく考える能力」を育てる必要もあります。
2026.08.29
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世の中には、「ちゃんと勉強さえしていれば、子どもはちゃんと育つ」と考えている人たちがいます。その一方で、「勉強なんかしなくても、自然の中で自由に群れて遊んでいれば子どもはちゃんと育つ」と考えている人もいます。そのような人は「遊びの中には学びの全てがある」と主張しています。でも、私から見たら、このいずれの考えも、子どものバランスが取れた成長を支えることが出来ません。どんなにいっぱい勉強しても、自分の意思で、自分のリズムで、自分のやり方で勉強しなければ身につきません。それは「やらされる勉強」は身につかないと言うことを意味しています。それに対して遊びの方は、自分の意思で、自分のリズムで、自分のやり方で遊ぶことが出来ます。それが出来ないと楽しくならないのですからそれは当然のことです。ですから、遊びを通して学んだこと、身につけたことはちゃんと子どもの中に吸収されていきます。問題は、その「自由な遊びを通しての学び」には偏りがあると言うことです。自分の意思で行うと言うことは「知らない遊び」「興味がない遊び」には手を出さないと言うことでもあるからです。子どもをレストランに連れて行って「何でも頼んでいいよ」と言っても、メニューがない、メニューがあっても知らない料理名ばかり並んでいる状態だったら子どもは何も頼めません。近くにいる人がたまたま自分がよく知っていて大好きなラーメンを食べていたらラーメンを頼むでしょう。そして、そのラーメンが美味しかったら、ラーメンしか頼まなくなるでしょう。そういう状態で「栄養バランスが取れた食事」など出来ませんよね。子どもに自由を与えても、それだけでは自由に感じ、考え、行動することが出来るようにならないのです。ですから、プレイパークのようなところで自由に遊んでいる子どもたちを見ていても、その遊びの種類は悲しいくらい少ないです。だから、遊びの幅を広げるためにプレイリーダーなる役割の人が必要になるのですが、それでも、子どもが興味を示さない遊びは、子どもに伝えることが出来ません。そして最近の子どもたちの「興味の幅」はものすごく狭いのです。古来から伝承されてきた遊びは無数にあります。「むかしあそび図鑑」というものを持っていますが、厚さは3cmぐらいあります。そこに「昔の子どもたちの遊び」がいっぱい書かれています。でも、「遊び」を伝承してきた「群れ」が消えると同時に、そのほとんどが消えてしまいました。その本の中には今でも子どもたちが遊んでいる「鬼ごっこ」も紹介されていますが、その種類、なんと56種類です。「鬼ごっこ」には56種類もあったのです。他にも「草花遊び」などもいっぱいありますが、最近の子は草花なんかでは遊びませんよね。「どろんこ遊び」もやりませんよね。「崖登り」なんか大人がやらせませんよね。「水辺の遊び」という項目もありますが、今の子は網で何かを捕まえる遊びくらいしか思いつきませんよね。夏の親子キャンプで「影絵遊び」をしましたが、「影絵」を知らない子もいっぱいいました。昔の子は障子などを使って日常的に遊んでいた遊びですが、その障子が消えると同時に「影絵遊び」も消えてしまいました。影絵のセットを用意してあげれば、それだけでも子どもたちは自分の影を映したりして遊び始めますが、でも、放っておくだけではそれだけで終わってしまいます。「遊び」にまで広がらないのです。「影絵」について知らないのですからそれは当然のことですけど。毎年、お正月になると子どもたちに「羽子板でも作らない?」と聞くと「羽子板ってなあに?」と聞き返されます。当然、「知らない遊び」を遊ぼうとする子はいません。昔の子どもたちが多様な遊びで遊ぶことが出来たのは、その多様な遊びで遊んでいる年上の子どもたちが身近にいたからです。子どもたちが様々な「ごっこ遊び」で遊ぶことが出来たのは、子どもの目に見えるところに大人の生活があったからです。いつも、部屋の中で自分の好きな遊びばかりして過ごしている子が、他の遊びに興味を持たないのは当たり前なんです。そして、そういう子を無理矢理自然の中に連れ出しても、自然が嫌いになるばかりです。だから、ただ自由に遊ばせるだけでは学びも、世界も広がらないのです。あと問題は、子どもが成長して、9才10才を過ぎて、「自分の状態」を客観的に見るようになった時に、「何も出来ない自分」、「何も知らない自分」に気づいてしまうことです。
2026.08.28
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私たちが、「なんで? どうして?」と不思議を感じた時に取る態度には二種類あります。一つはその「不思議」を説明できるような物語を作り出すことです。月夜に歩いていると、どこまでもお月様がついてくるように見えます。それで子どもは「なんでお月様はわたしについてくるの?」と聞きます。そんな時、「お月様がうんと遠くにあるので、ついてくるように見えているだけなんだよ」と科学的な説明をしても、幼い子どもには理解できません。それで「〇〇ちゃんが好きだからなんじゃない」と言うと納得します。「時間」と「空間」と「因果律」のことが理解できるようにならないと、科学的な説明は理解できないからです。そして、「それ」が理解できるようになるのは9才~10才以降です。それまでの子どもは、生活体験を通して知っている時間と空間と因果律のことしか理解できません。「今日」とか「明日」ということは知っていても、永遠の過去から永遠の未来まで扱うことが出来る「時間」という概念は分からないのです。空間もいつも歩いているところは分かりますが、行ったことがない空間のことまでは分かりません。地球の裏側とか宇宙などと言うことは全く分かりません。言葉としては知っていても「空間」として認識することが出来ないのです。まただから「サンタクロース」のような科学的にはあり得ない存在に対しても何の疑いも感じないのです。頭の中や体の中にも空間があります。その空間の中に内臓が収まっています。ですから、「体の中の空間」を感じ取ることが出来る人は、自分の肺とか胃とか腸とかを認識することが出来ます。でも、子どもにはそれが出来ません。子どもに分かるのは「体の外」と「体の中」の違いだけです。だから、頭やお腹が痛いときでも、その場所や状態を正しく説明することが出来ないのです。因果関係に関しても同じです。子どもが知っている因果律は「こういうことをしたらお母さんが怒る」というような体験によって学んだことだけです。論理としての因果律は理解できません。そのような状態の子ども達は、自分が感じた「なんで?」「どうして?」を科学的にではなく、物語的に理解しようとします。物語は生活体験を組み合わせることで考え出すことが出来ますから。そして、古代の人たちも同じようなことをしました。そこで生まれたのが様々な神話や昔話です。その内容は、科学が説明する内容とは全く異なっています。でも、自分の体験をもとに創り出されているのでリアリティーも説得力もあるのです。科学は「答え」を与えてくれません。でも、「物語」は「答え」を与えてくれるのです。でも、実際には科学に答えを求めてしまう人がいっぱいいるのです。そのような人は「科学が言っていることは絶対に正しい」という「物語」を作り出します。「事実」が固定されている方が安心出来るからです。でも、繰り返しますが、科学は答えを与えてはくれないのです。科学が提示知るのは「答えの見つけ方」であって、「答え」そのものではないからです。科学は「答えを教えてくれる教科書」ではなく、「答えに近づくための方法論」に過ぎないのです。実際、科学が提示するのは「暫定的な事実」だけです。「今のところはこれが正しいように思える」ということだけです。ですから100年前の科学者と現代の科学者が言っていることは大きく違います。10年前の科学者だって今の科学者とは違ったことを言っていたでしょう。ライト兄弟の少し前に「鉄で出来た物は空を飛ぶことが出来ない」ということを証明した科学者もいたそうです。でも実際には、今、いっぱい飛んでいます。科学的な発見は常に更新されているのです。それを固定してしまって「科学が言っていることは絶対だ」とやってしまうと、科学が神話になってしまうのです。実際、科学の世界では同じ「科学者」と呼ばれる人たちでもみんながみんな同じ意見ではありませんよね。ワクチンを否定すると「非科学的だ」と言う人がいますが、ワクチンを否定している科学者だっていっぱいいるのです。だから、ワクチンを否定する人を、上から目線で「陰謀論者」などと言って非難、否定、排除するのではなく、ちゃんと客観的に「本当のことを検証する努力」を怠ってはいけないのです。それが、本当の科学のあり方です。それを受け入れることが出来ない人が言う「科学」は「神話」に過ぎません。科学を「人を選別するための道具」として使ってはいけないのです。
2026.08.27
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ネットでは「こんなバカなことを信じている陰謀論者がいっぱいいる」というような記事がいっぱいあります。でも、ある思想の人たちを「陰謀論者だ」と否定し、「自分たちが正しいと信じていることを強要する人」もまた「陰謀論者」です。人がどのような考え方をするのかは本来自由なはずです。「陰謀論者は根拠のないことを信じている」と言いますが、皆さんだってみんな根拠のないことを信じて生きていますよね。「学校に行かなければ・・・」「勉強しなければ・・・」「早くから勉強を始めなければ・・・」という考え方に根拠はありませんよね。でも、その根拠のないことを理由に子どもを追い詰めていますよね。これは立派な「陰謀論者」なのではないですか。それなのに、「学校に行かなくても大丈夫だよ」というようなことを言うと陰謀論者扱いされてしまう可能性があります。政治家も根拠のないことばかり言っています。それが間違ったことが分かっても「自分が間違っていたこと」を認めません。ですから、「根拠のないことを言いふらす」のが陰謀論者なら、政治家はみんな陰謀論者です。今その典型のような人が総理大臣をやっていますけど・・・。学校の先生も、テストの成績で人生が決まるようなことを言っています。これも陰謀論です。今は「陰謀論者」という言葉を使いますが、戦争中は「非国民」という言葉を使いました。戦争中は「戦争は悪いことだ」「敵国兵であっても人を殺すのはよくない」と言っただけで非国民だと言われました。「非国民」という言葉を流行らせることで言論統制や思想統制をしていたのでしょう。などというようなことを書くと「おまえも陰謀論者だ」などと言う人もいるでしょうね。なんか、この「陰謀論者」や「陰謀論」に関する記事を読んでいると非常に違和感を感じるのです。それは陰謀論者を否定する人たちも、彼らが否定している陰謀論者と同じことをやっているからです。それは「相手の言葉に耳を傾けない」ということと、「自分の考え」を他の人に強要することです。また、陰謀論を否定する人たちは「陰謀論者は根拠のないことを信じている」と言いますが、じゃあ、陰謀論を否定する人たちは「自分が主張する意見の根拠」を知っているのですか? 自分でその根拠を確認したのですか? 自分の言葉でちゃんと説明できるのですか? ほとんど人はそんなことはしていないし、出来ませんよね。だから対話も拒否します。多くの人は、「国が言っているから」、「偉い科学者が言っているから」というような理由だけで「こっちの方が正しい」と信じているのではないですか。国や偉い人が言えば陰謀論ではなく、それに反することを個人が言うと陰謀論として扱うように洗脳されているのではありませんか。これは戦争中と同じ構図です。国は「国」を守るためなら平気で国民に嘘をつくのです。国が守りたいのは「国」であって「国民」ではないからです。ですから「国が言っていることは国民のためのものだ」というのも陰謀論なんです。実際、テレビに出てくる偉い人たちは、不安や疑問に答えるような根拠を示していません。「その意見が正しい」とする根拠はその人の社会的な権威だけです。客観的なデータではありません。データを出しても、そのデータの根拠は出しません。でもそんなこと科学の世界ではあり得ないです。データの根拠が出されていなければデータの検証が出来ないからです。検証が出来ないものは科学ではないのです。「科学者が言ったから科学なんだ」というのは科学について知らない人です。「今まで存在しなかった薬」、「安全だという根拠も示されていない薬」、「臨床実験もしていない薬」、「中味が公表されていない薬」を「これは絶対に安全だ」と断定し、国民に押しつけるのは完全な陰謀論者の行動です。「食料品消費減税は二年後には戻します。私を信じて下さい」というのは陰謀論とどう違うのですか?実際、政治家や医者達は当初に言っていたことが全く正しくなかったことが分かってからも、そのことに対する反省の言葉を言っていません。しらーっと無視しています。「反省をしない人を信じろ」というのは無理な話です。「こういう意見や考えは陰謀論だ」という考え方自体がおかしいのです。その人がどのような意見や考え方を持つのかはその人の生き方の問題だからです。科学的に証明されていない神様を信じていても陰謀論者とは言われませんよね。不確実な未来に対する夢や希望を語っても陰謀論者とは言われませんよね。問題になるのは、自分の考えや価値観を他の人に押しつけて思想や行動を支配しようとすることなんです。それが陰謀論者のやり方です。そう考えると、「陰謀論者と非難される人」と、「そのような人の意見を否定し意見を変えさせさせようとする人」のどっちの方が陰謀論者なのか分からなくなります。
2026.08.26
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昨日は、「自然の中に出て自然のものをいっぱい集めるだけで遊びが始まりますよ」ということを書きましたが、でもそれは「物としての自然」の遊び方です。確かに、「自然」には「物」としての側面もありますが、同時に「物語」としての側面もいっぱいあります。というか、「自然」は「物語」によって出来上がっています。お店で売っているものには「人間の社会の物語」が含まれています。ですから、それらを使って「ごっこ遊び」をすることが出来ます。そして、森や野原や海などの自然の中には「命の物語」、「地球の物語」、「光の物語」、「色の物語」、「形の物語」が含まれています。そのことに気付けば「発見遊び」や「空想遊び」をすることが出来ます。皆さんが毎日踏んで歩いている道ばたの石にも「命の物語」や「地球の物語」が含まれているのです。それは「石はどうやって生まれるか」ということを学べば分かることです。「雨の水」にも「物語」があります。それらの物語を知れば「考えて遊ぶ」ということも出来ます。でも、それらの物語は子ども自身では発見することが出来ません。森に落ちているドングリの実は「ドングリの物語」を含んでいますが、子どもに見えるのは「物としてのドングリ」だけです。だから「物語」は大人が伝えてあげるしかないのです。子どもに分かるのは「今」「ここ」のことだけです。「物語」は「音楽」と同じように「時間」と「空間」の中に広がっているので、その「時間」と「空間」を扱うことが出来る「言葉」で伝えるしかないのです。そしてそれは家の中でも出来ることです。本当はお母さんやお父さんが自分の言葉で語ればいいのですが、現代人は大人達でもその物語を忘れてしまっています。知識としては知っているのですが、その知識がつながっていないので「物語」として認識できないからです。でも幸いなことに、その物語を扱った絵本がいっぱいあります。「言葉体験」をするなら「絵」がない方がいいのですが、自然を見たことがない子に自然の物語を伝えるためには絵がないとチンプンカンプンになってしまいます。「海」を見たことがない子に、言葉だけで「海の物語」を語るのは無理だと思います。そのような物語を語り、絵本を読んであげることで部屋の中でも「自然体験」は出来るのです。ただし、動画で見せてしまったら「物語」は伝わりません。なぜなら、「言葉」と違って「動画」は「今、ここ」を固定してしまうため、自分の心の中で時間と空間を広げることが出来なくなってしまうのです。いわむらかずお「14匹のシリーズ」こうやすすむ文・片山健絵バージニア・リー・バートンこういう本を読んであげることも「自然体験」になるのです。自然は「物」ではなく「物語」で出来ているからです。
2026.08.25
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さあ、夏休みも終盤になってきました。夏休みはどうでしたか。室内でばかり遊んで白いままですか。それとも、真っ黒に日焼けしていますか。最近は「日焼けは悪だ」という考え方が主流になってしまって、親はもちろんのもと、それに合わせて子どもも屋内で遊ぶか、外に出るときは日焼け止めクリームを塗ったりしています。もちろん、最近の暑さは異常です。私が子どもの頃は30度を超えただけで話題になっていたような気がします。だから、あまり直射日光に当たりすぎないようにするのは正しい判断なのでしょうが、同時に「外で遊ぶ楽しさ」まで放棄してしまうのはもったいないです。また、適度に日光に当たることでビタミンDも無料で摂取できてしまいます。だからといって、意味もなくただ外に出るだけでは退屈です。クーラーの効いた部屋の中で遊んでいた方が楽だし、また、一人でも楽しく遊ぶことが出来るゲーム機などの便利なオモチャがいっぱいあります。動画を見ていれば釣りをしたことがなくても「釣りをした気分」、虫取りをしたことがなくても「虫取りをした気分」を味わうことも出来ます。工作の動画を見ていると、工作などしたことがなくても「工作をした気分」を味わうことも出来ます。でも、それは「やった気」になっただけで実際にはやっていないので、「実際にやらなければ学べないこと」は一切学ぶことが出来ません。「知っているつもり」になるだけです。そして実は、その「知っているつもり」が危険なんです。「知っているつもり」になってしまっている子は、「実際には何も知らない、何も出来ない」ということを知らないまま、「知っているつもり」が全く通用しないリアルな社会に出て行かなければならないからです。部下: ぼくノコギリの使い方知っています。上司: じゃあ、これ切って。部下: ノコギリ使ったことがないので切れません。こんな状態の人を重要なポストで使ってくれる会社は少ないと思います。ということで、お子さんと一緒にリアルな世界に遊びに行きましょう。と言っても、何をして遊んだらいいのか分かりませんよね。で、簡単な遊びの提案です。「遊びを発見する遊び」です。レジ袋のような袋を用意して、家の近くの公園でも、野原でも、林でも、森でも、海でも、とにかく自然が多いところに行って下さい。そして、テーマを決めてそれを子どもと一緒に集めて下さい。テーマは何でもOKです。葉っぱ、木の枝、木の実、小石、貝、砂、土、虫、抜け殻、何でもOKです。ただテーマだけを決めて集めただけなのに、それをいっぱい集めてくると何となく「遊び方」が見えてくるのです。「遊び方」を決めてから遊ぼうとしても、そもそも「遊び」を知らないのですから遊べるわけがないのです。でも、「素材」がいっぱいあるとその「素材」が遊び方を教えてくれるのです。牛乳パックが一つだけあっても「遊び」は始まりません。でも、100個あったら「遊び」が始まるのです。一つだけでも「遊び」を色々と工夫できるのは、いつもその様なもので遊んでいる子だけです。トイレットペーパーの芯が一つだけあっても「遊び」は始まりません。でも、100個あったら「遊び」が始まるのです。でも、牛乳パック100個、トイレットペーパーの芯100個集めるのは大変ですよね。保管にも場所を取りますし。でも、葉っぱや木の実などの自然物ならそんな心配をする必要はありません。「葉っぱ」を色々と集めていると、葉っぱにも色々な形や、色や、大きさがあることに気付きます。匂いも違います。全く同じ葉っぱなど一つもありません。これは石でも、木の枝でも、貝でも、木の実でも何でも同じです。自然物に「規格品」などないのですからそれは当然のことです。そこが人工物である牛乳パックやトイレットペーパーの芯とは異なるところです。(ちなみに、子どもも自然物ですから一人一人違います。規格に合わせた子どもなど存在しません。)その違いに気付くことで遊びが生まれます。「色」で分けてみる。「形」で分けてみる。「違い」に気付くから「似ているところ」にも気付くのです。葉っぱや、虫や、貝などだったら図鑑で調べてみるのも楽しいです。違いに気付くから調べてみたくなるのです。「土」なんか集めてどうするんだ、と思うかも知れませんが。土にも色々な色や触感があります。ですから、土を集めて絵を描くことも出来るのです。また、粘土質の土ならちょっと水をくわえて粘土遊びをしたり、グチャグチャ遊びをすることも出来ます。実は、個々の大切さを知るためには、個々の違いをちゃんと知ることから始める必要があるのです。世界中には様々な肌の色、背の高さ、言葉、文化を持った人たちがいます。その違いを無視して(知らずに)「みんな一緒、みんな平等」とやってしまうからおかしなことになってしまうのです。「人間、皆平等」などと、口ではきれい事を言っていながら、実際に異なった文化の人と出会うと文化摩擦が起きてしまうのです。特に日本人は、日本人とは異なる文化圏の人たちのことをほとんど知りません。そのため、「日本人の常識=世界の非常識」ということも知りません。一人一人を大切にするということは、「みんな一緒」「みんな平等」「みんな同じ」扱いにすることではなく、一人一人の違いを肯定し、一人一人を「唯一無二のもの」として大切にするということなんです。そのためには、まず最初に「違い」をちゃんと知る必要があるのです。「みんな一緒」「みんな平等」「みんな同じ」は牛乳パックやトイレットペーパーの芯のような工場で作られた人工物にしか通じないのです。
2026.08.24
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今日は、篠家一同でキャンプに来ているので短くさせて頂きます。これは日本人の特性なのかも知れませんが、なぜか多くの人が自分や子どもの長所を伸ばすのではなく、短所を消そうとばかりしています。また、目立つことを嫌い、みんなと同じことを言い、みんなと同じことをやって「仲間アピール」ばかりやっています。不思議なのは、そういうことを自分から進んでやっているのになぜか満たされないのです。そして承認欲求が強いです。みんなと同じことを言い、みんなと同じことをやっているのに「あなたは素晴らしい」「あなたは特別だ」という言葉を求めているのです。当然、自己肯定感も低いです。「目立つことを嫌い、みんなと同じことを言い、みんなと同じことばかりやっている」ということは、自分で「自分の本音」や「本当の自分」を否定している」ということでもあるので、自己肯定感が低くなるのは当たり前です。そして困ったことに、同じような価値観や生き方を子どもや他の人にも押しつけようとしています。学校の先生が子ども達に「みんなと一緒、みんなと同じ」を求めるのは分かるとしても、親までもが我が子に「みんなと一緒、みんなと同じ」を押しつけているのです。「みんなと一緒、みんなと同じ」を生きている人には、「自分らしく生きようとしている子ども」を羨ましいとは思うかも知れませんが、でも、子どもの「自分らしさ」を肯定し、受け入れてしまったら、必然的に、自分の子育てが「みんなと一緒、みんなと同じ」ではなくなってしまいます。すると目立ちます、批評や批判をしてくる人もいっぱいいるでしょう。でも、「みんなと一緒、みんなと同じ」を生きてきた人は「自分の考え」「自分の意見」「自分の意思」を持っていません。だから批評や批判をしてくる人に「自分がやっていることの意味」を説明することも、反論することも出来ません。それで結局、子どもを犠牲にすることになります。でも実は、短所を消そうとすると成長が歪んでしまうため、逆に短所は拡大してしまうのです。そもそも、それは「短所ではない」可能性が高いのです。ただ単に「みんなと一緒、みんなと同じを生きてきた人には短所に見えてしまう」と言うことなんです。というか、子どもに短所などないのです。
2026.08.23
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これは私の印象ですが、科学者でも、芸能人でも、多分ビジネスマンでも、色々なことに興味を持っていて、色々な引き出しを持っている人の方が生き残ったり、素敵な仕事が出来るような気がします。子育てでも同じです。色々な趣味や興味を持っている人の方が、「趣味なんか持っていません」という人よりも楽しい子育てをしているように感じるのです。実際、子育ての勉強会などでお母さん達に趣味や興味を聞くと、子育てに悩んでいる人ほど、「趣味を持っていない」という人や、「子育てが忙しくなったのでやめてしまいました」という人が多いのです。一方、子育てを楽しめている人は、子どもに合わせて自分の趣味や興味を諦めるのではなく、子どもを自分の趣味や興味に巻き込んでしまっています。山歩きが好きな人は、子どもと一緒に色々な山に行ってしまいます。歩けなけい年齢なら、オンブしてでも行ってしまいます。お料理作りが好きな人は、子どもと一緒にお料理作りを楽しんでいます。FBを見ていると、そうやって育てられ、大人顔負けのお料理を作る小学生も結構います。私は茅ヶ崎に住んでいるのですが、お母さんがサーフィンが好きなので、子どもも一緒にサーフィンに連れて行って、一緒にサーフィンを楽しんでいる母さんも何人か知っています。本やお話しが好きな人も、音楽や踊りが好きな人も、旅行が好きな人も同じです。お母さんが子育てだけに縛られることなく、子どもと一緒に色々な体験をしているのです。そして子どももお母さんと一緒に色々な体験をすることで、色々なことを学び、視野や世界を広げ、自分の可能性や、生き方の選択肢を広げています。というようなことをいうと、「子どもに自分の趣味を押しつけてしまっていいのでしょうか」と言ってくる人が結構います。でももうすでに、お母さんは子どもに自分の言葉を押しつけていますよね。生活を押しつけていますよね。時間やルールを押しつけていますよね。知識や常識を押しつけていますよね。感覚や考え方や感情を押しつけていますよね。それが「親と子」という関係なんですから、それを避けることは出来ないし、避ける必要もないのです。またそれがあるから、子どもはお母さんを模倣する形で「人間として必要なこと」を学ぶことが出来るのです。お母さんが自分が話している言葉を子どもに押しつけなければ、子どもは言葉を学ぶ機会を失ってしまいます。「自分が話したい言葉は子ども自身に選ばせよう」などと、赤ちゃんの頃から子どもに話しかけない生活をしていたら、子どもは「自分の言葉」を育てることが出来なくなってしまうのです。そして「自分の言葉」を育てることが出来ないまま育ってしまった子は、大きくなってから色々な言葉と出会っても、何一つ学ぶことが出来なくなります。母国語がしっかりと育っているから外国語もしっかりと学べるのです。だから、お母さんが話している言葉を子どもに押しつけてしまっていいのです。趣味や興味でも同じです。お母さんが、自分の趣味や興味を子どもに押しつけてしまってもいいのです。ただし、子どもと共有出来るような形にしてあげる必要はあります。子どもの能力や興味を理解し、それに合わせるように工夫する必要もあります。また子どもの興味を誘導するような働きかけも必要になります。でも、本当にそれが好きならば、そういう工夫自体も楽めるのではないかと思うのです。そして、子どもが成長して色々なことを知り、色々なことを体験し、その結果、「ボクはこれはヤダ、あっちの方がやりたい」と言いだし始めたならその時点でどうしたらいいのかを話し合ったり、考えたりすればいいのです。でも、「基本となる趣味」はお母さんが伝えるしかないのです。でも、その「基本となる趣味や興味」自体を持っている人が少ないのです。特に、ゲームや、オモチャや、遊園地といった「他者に依存した遊び」ばかりして育った人は、「子どもを捲き込みたい」と思うほどの趣味や興味を持てないようなのです。「何かに依存した遊び」は、子どもが生きる世界を狭くしてしまうからなのでしょう。ちなみに、ゲームが好きなお母さんやお父さんも、子どもにゲームを与えます。でも、ゲームは上に書いたような趣味と違って「一緒に」が出来ません。体験や、感情や、感覚の共有が出来ないのです。共感も生まれません。自分が生きている世界とも出会えません。お母さんが工夫する必要がないので楽でもあります。でもそれは、子どもを理解する必要もないと言うことでもあります。最近はWiiのように、家族が一緒に遊べるゲームもありますが、一緒には遊べても、子どもの体験の幅が広がるわけではありません。それに、Wiiの機械がないと遊べないので、結局家の中に閉じ込められるだけになります。機械に依存するのではなく、リアルな体験と繋がった趣味の世界を持って下さい。そして、子どもをその世界に巻き込んで下さい。趣味がなければ、子どもと一緒に色々な体験をして、自分に合った趣味を探して下さい。それが見つかると、子どもとの関わり方も楽になります。視野も広がります。
2026.08.22
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いつも書いていることですが、人間の能力は必要に応じて成長するように出来ています。素質もありますが、どんなに素質があっても、その能力を必要としない生活をしていたらその能力が発現することはありません。そして、その能力が目覚め始める時期もあります。その時期を過ぎてしまってからでも、その能力を必要とする生活をするようになればある程度は目覚めますが、でも、最適な時期に目覚めた子には敵いません。また、その能力が目覚める最適な時に目覚めた子は、その能力が育っていくのが自分でも分かるし、それが嬉しくてたまりまりません。「その能力が目覚める時期」というのは、「その能力の成長を自分でも実感出来て、それが嬉しくてたまらない時期」でもあるのです。走る能力が目覚めるときに、自由に走ることが出来た子は走ることが好きになります。歌う能力が目覚めるときに、様々な歌に触れたり、自由に歌うことが出来た子は歌を歌うことが好きになります。そして同じように「考える能力」が育つ時期に、自由に考えることを必要とするような生活や遊びをしていると、「考える能力」が目覚めます。その際、生活や遊びの自由度が高い方がいいです。「考える能力」が育つためには「自由」が必要だからです。そして、考えることでさらに自由や可能性が広がることを知り、考えることが好きになります。そして、考えることが好きになった子は、その時期を過ぎても考えることを楽しむようになります。問題は「自由」は「不便」とほぼ同じ意味を持っているということです。「自分の頭で色々と考えれば色々なことが出来る」という状況は、言い換えれば「自分の頭で考えなければ何も出来ない」ということでもあるからです。だから、考えることが苦手な子にとっては、「自由」は「不便」そのものになってしまうのです。だから簡単便利を求めます。でも、考えないでも手に入れることが出来る簡単便利は、自由と引き替えにしか手に入れることが出来ないのです。そうやって泥沼にはまっていきます。今時の子どもの多くは簡単で便利な機械や道具に依存して、「考えなくてもすむ生活」や「考えなくてもすむ遊び」ばかりしています。積み木遊びや、工作遊びや、ごっこ遊びなどでは考える能力が必要ですが、ゲームは基本的に反射でプレーするので考える能力を必要としていません。まただから、幼い子どもでも、時にはチンパンジーやゴリラでも遊ぶことが出来るのです。そんな風に「考えなくてもすむ生活」をして、「考えなくてもすむ遊び」ばかりしている最近の子ども達を見ていると、「考える能力が低い」という以上に、「考えるってなあに?」という状態なんです。「考えてごらん」と言うと、何を求められているのか分からずに途方に暮れてしまう子が多いのです。考えることが出来ないので観察することも出来ません。ただ単に見るだけなら考える力は必要ありませんが、観察するためには考える力が必要だからです。造形の場でも見本を見せて「ちゃんと観察して」と言っても、考える力が育っていない子は、見ているだけで観察することが出来ないのです。だから、目の前に見本があるのにどうしていいのか分からないのです。だからその子がどれくらい考える力が育っているのかは、草でも、花でも、虫でもそのものの絵を描かせてみれば分かります。一方で、考える力がある子は、教えなくても勝手に見本を見て、それと同じかそれ以上のものを作ってしまいます。そういう子は「こういうものが作りたいんだ」と絵を描くことも出来ます。また、考える力がある子は「勝手ないたずら」を始めます。でも、大人達は子どもの自由を奪うことでそのいたずらをやめさせようとします。その「いたずら」を「遊び」に変換することが出来れば「考える力」を育てる手助けになるのですけどね。
2026.08.21
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最近の子ども達を見ていて強く感じるのが、「考えることが苦手な子」や「考えることを楽しめない子」がすごく増えてきたということです。これは大人でも同じです。まただから子どももそうなってしまっているのでしょう。一国の首相や大統領ですらあのような状態なのですから。でも、本人達はそのことに気付きません。本人達は「ちゃんと考えている」と思い込んでいます。なので、考えたとおりの結果が出ないと「誰かが邪魔したからだ」と言います。これが「考えない人たち」の思考回路です。まただから、いくら色々な体験をしても成長することがありません。「考えない人たち」は反省しないのです。反省するためには客観的に自分と向き合わなければならないのですが、「考えない人たち」にはそれが出来ないからです。人には「反省」を求めるのですが、自分は反省しないのです。また「考えない人たち」は一方的な自己主張はしても説明はしません。そもそも説明する必要を感じません。「私が正しいんだから私の言うとおりにやればいいのよ」と思い込んでいるからです。また、相手の視点に立てないので相手に分かるように、相手が納得するように説明することも出来ません。「考えない人たち」は「他者の視点に立つ」ということが出来ないのです。そのような「他者の視点」に立てないお母さんや、お父さんや、先生は、平気で子どもを追い詰めます。そして、子どもが学校に行けなくなったり、心を病んだり、自殺などをしてしまっても「心が弱いからだ」などと責任を子どもに押しつけます。イジメなどで死んでしまっても「心が弱いからだ」などと言います。そのようなお母さんやお父さんや先生に、「子どもの心」を分かってもらおうと色々と話しても、「攻撃された」と感じて反撃してきます。そのため、話し合いが成り立ちません。こういうことは「心の問題」として考えられてしまいますが、実は「考える能力」が低いからなんです。「考える能力」が低い人は「他者の視点」に立つことが出来ないのです。だからそのような人にいくら説明しても話が空回りしてしまうのです。カラスもイヌもサルも、高い知能を持っているので「考える」こと自体は出来ます。でも、「自分中心の視点」でしか考えることが出来ません。「他者の視点」に立って考えることが出来るのは人間だけなんです。そしてそれが人間にとって「考える」ということが大切な理由でもあるのです。人間らしい思考が出来ない人でも利害を共有することで群れを作ることは出来ます。でも、「他者の視点に立って考える能力」が育っていない人には「助け合いによって成り立っている人間らしい社会」を作ることが出来ないのです。科学もまた、その「他者の視点に立って考える能力」によって支えられています。「客観的に考える」ということは「色々な視点に立って考える」ということでもあるからです。色々な視点から見ても同じ結果を得ることが出来るから、それを科学的な事実として認定することが出来るのです。「偉い科学者が言ったから」とか「国が言っているから」という理由だけで信じてしまうのは宗教であって科学ではありません。「エビデンスがある」などという言われて簡単に信じてしまうのも宗教です。科学に疎い人には分からないでしょうが、エビデンスなんか簡単にねつ造できてしまうのですから。そのエビデンスが正しいかどうかは、色々な視点で検証してから初めて確定するのです。科学においては常に他者の目での検証が必要なんです。それが科学の態度です。コロナワクチンのようなものは検証するために必要なデータすら発表されていません。それで信じろというのは宗教を強要しているのと同じです。非国民だとか陰謀論者などと人をカテゴライズする人たちもまた「考える力」が弱い人です。そのような人は「思想の中味」の話をしません。でも今、その「人間だけしか持っていない考える能力」が低下してしまっている人がドンドン増えてきているのです。その背景には大きく二つの要因があるような気がします。その一つは、幼いうちから子ども達を比較し、評価し、競争に追い立てている現代社会のシステムです。これは学校だけの話ではありません。家庭内でも兄弟を比較し競争させている人もいっぱいいます。勝ち負けを競う競争社会では「自分らしさ」は意味も価値も持ちません。他者の視点に立つ必要もありません。多くの人が勘違いしているのですが、「勉強が出来るから考える力がある」ということでもありません。「東大を出ても考える能力が低い人」はいます。そのような人は「自分のこと」しか考えません。というか「自分のことしか」考えることが出来ないのです。だから「見つからなければOK」というような犯罪に手を出したりします。AIに試験を受けさせたら高い点数を取ることが出来るでしょう。でも、AIは演算(技術的な処理)をしているだけで考えているわけではありません。もう一つの原因は「自然の中での自由な群れ遊び」の不足です。人は「自分と対等な他者」と目的を共有しながら、そして助け合いながら一つの活動をするような時に「相手の視点に立って考える」という行為をするのです。<続きます>
2026.08.20
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私たちが生きている世界を支配しているのは「人間」ではなく「自然」です。「人間」は「自然」の一部に過ぎません。それは当たり前のことです。そして、自然界には、その恒常性と調和を維持するために、「やじろべい」のようにその時々の変化に応じてバランスを取ろうとする働きがあります。「-」が強くなりすぎれば「+」とつながってバランスを取ろうとするのです。この原理で雷が生まれています。水が上から下へと流れるのも、海で生まれた水蒸気が下から上へと上がっていくのもバランスを取るためです。私たちの命はその働きによって支えられています。その変化が復元可能範囲を超えたら壊れますが、限度の範囲内なら人間が関与しなくても、自然は勝手にバランスを取って元に戻ろうとするのです。病気が治るのも、様々な自然現象もすべて、バランスを取ろうとする自然界の働きの結果です。春・夏・秋・冬の四季は太陽と、地球の動きのバランスによって生まれています。潮の満ち引きは、月と地球のバランスによって生まれています。地震も、地球が地殻内部のバランスを保とうとする働きの結果です。地球温暖化と呼ばれる現象も、人間の活動に合わせて自然界がバランスを取ろうとしている働きの結果です。(実際には色々な説があるようですが・・・)ですから、マスコミが言っているように地球が暑く(熱く)なっている原因が人間の活動によるものなら、人間が何もしなくても、人類が滅亡するだけで数十年、数百年で元に戻ります。youtubeでそういう動画を見ることが出来ます。人間が自然に対して不自然なことをしようとすると、自然はバランスを取ろうとして「人間がやろうとしていること」とは反対の行動を起こすのです。それが「災害」という形で表れるのです。私たちが生きている世界を支配しているのは「人間」ではなく「自然」なんです。そして、「人間」もまた自然の一部です。だから、病気になっても、ケガをしても、治癒作用が起きるのです。まただから、人間は自然と対話しながら、自然の原理に即して考え、活動しなければいけないのです。そうでないと「こんなはずでは」ということになってしまうのです。そのバランスを維持するために必要なのが「多様性」です。人間が飛んだり跳ねたり走ったりしても倒れないのは、その骨や筋肉や神経系の複雑さとそれらの連携のおかげです。そしてそれが「多様性」の意味でもあるのです。私たちが生きている世界には、様々な動物や植物や菌類やウィルスがいますが、それらがうまく連携し合って自然界のバランスが崩れないように支えているのです。でも人間は、人間の都合に合わせてその多様性を破壊し続けています。そしてその影響が様々な所に出ています。自然の一部である人間にまで影響が及んでいます。そしてこれは子育てでも同じです。大人達が、自分たちの都合に合わせて自然な子どもの成長を支配、コントロールしようとすると、子どもはその育ちに歪みを生じさせることでバランスを取ろうとするのです。物や、お金や、ゲームや、親に依存するようになってしまうのも、子どもの自然な成長が歪んでしまった結果です。そんな時、依存症を解消するために、「一方的にゲームを取り上げる」などというように、「大人にとって都合の悪いところ」だけを直そうとすると、さらに他の部分に歪みが出てしまいます。「子どもたちをみんな良い子にしよう」というのも不自然な発想です。良い子もいれば悪い子もいるのが自然な状態なんです。そもそも、自然界には「よい子」「悪い子」の基準などありません。害獣とか、固有種とか外来種などという基準も人間の勝手な決めつけです。「問題児」と言われる子がそのグループを活性化させる働きをしていることもあります。以前、中国で「スズメはお米を食べる害鳥だから殺してしまえ」という運動があったそうです。そして、大量のスズメを駆除しました。でも、豊作にはならずむしろ凶作になってしまったそうです。なぜなら、スズメが食べてくれていた虫たちが大量発生してしまったからです。「ケンカを無くそう」というのも不自然な発想です。子どもにゲームを与えて一人で部屋の中で遊ばせようとするのも不自然な行為です。学ぶ楽しさを伝えることなく、勉強に追い立てるのも不自然な行為です。そして、子ども達を不自然な環境に置き、不自然なことを求めているから、子どもの成長も歪み自分で自分を否定するようになってしまうのです。不自然な生活環境、不自然な食事、不自然な人間関係、不自然な遊び環境の中で育っている子は、自分の成長を歪ませることでその不自然に合わせようとします。そして、これもまた自然現象です。でもその自然現象は子どもの心と、からだと、意識の自立を妨げる方向に働きます。そういう能力を必要としない生活をしているのですからそれは当然の結果です。善も悪も元々同じものです。視点をどこに置くかで同じものが善になったり、悪になったりするのです。実際、戦争では双方が善を主張しています。だからどちらかを否定、排除しようとするのではなく、お互いにバランスを取って共存できる道を探る必要があるのです。子育てでは「子どもの大人化」を目指すのではなく、「子どもと大人の共存」を目指せばいいのです。そうすれば子どもは自分の力で、自然な形で大人化していくのです。温暖化問題も、人間と自然の共存を目指せば「Co2削減」を叫ばなくても消えるのです。
2026.08.19
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私たちは「人間が決めたルールが支配している世界」と「自然が決めたルールが支配している世界」の二つの世界に生きています。一万円札は、「人間が決めたルールが支配している世界」では「高い価値を持つもの」です。でも、「自然が決めたルールが支配している世界」では「木のパルプが薄くのばされたもの」、もしくは「紙」に過ぎません。ですから、「自然が決めたルール」よりも「人間が決めたルール」の方を大切にしている大人達はその「紙」を大切にしますが、その「人間が決めたルール」を知らない幼い子ども達は、その紙にお絵かきをしたり、ハサミで切り刻んだりします。ヤギさんは食べてしまったりします。実際、先日動物たちが放し飼いになっているところに行ったとき「動物の前でお札を出さないで下さい」と言われました。お札にお絵かきをしたり、ハサミで切り刻んでしまう子がいると、大人達は「まだ無知だからそういうことをするんだ」と判断し、「だからちゃんと教えなければ」と考えます。でも、大人達が見ているのは「人間が勝手に決めたこと」「実際には存在しない約束事」であって、「人間の命が存在している世界のリアル」ではありません。王様が裸でも「素敵なお洋服ですね」と言うのが「大人のルール」なんです。ですから、「本当のこと」が見えているのは「大人」ではなく「子ども」の方なんです。だから「王様は裸だ」と言ったのは子どもなんです。そして、物語の中で大人達は、その子どもの言葉で目を覚ますのです。それを「子どもは無知だから」と言って子どもの口をふさいでしまったら、世界は滅亡に進んでしまうのです。戦争で「敵」を殺すのは「良いこと」です。「敵」ではない人を殺すのは「悪いこと」ですが、「敵」を殺すのは許されるのです。それが人間が決めたルールです。でも、子ども達に見えているのは「敵」ではなく「自分と同じ人間」です。国籍の違いや政治的駆け引きなど子どもには分かりません。そもそも、普段は「仲良くしなさい」「命を大切にしなさい」と言っている大人達が、お互いに殺し合っている「戦争」という状態が理解できません。「命が存在している世界」が見ている子どもには、「戦争なら人(敵)を殺してもいい」という大人の論理が理解できないのです。そういう子ども達を大人達はバカにしますが、「本当のこと」が見えているのはどっちなんでしょうか?「大人が見ている世界」は「本当の世界」なんでしょうか。戦争中、一人の女の子が「兵隊さんかわいそう」とつぶやいただけで非国民と罵られたそうです。出征する我が子に「生きて帰ってきて」と言っただけでも非国民と言われたそうです。人間が勝手に外国から連れてきた生き物が日本で繁殖してしまうと、「外来植物」「外来生物」として「駆除」の対象になります。外来だからといって目印があるわけではありません。図鑑やネットで調べなければその違いは分かりません。そもそも、ほとんどの生物は外来です。人間ですら外来です。世界中の様々な地域からやって来た移民の混合によって日本人が生まれたのですから。それなのに、普段は虫取りやお花を摘んでいる子ども達に「命を大切にしよう」とか「かわいそうだから止めなさい」と言っている大人達が、「外来生物」と判断されたものは大量に採って、大量に駆除(殺)しているのです。命に国籍などないのに。これも、子ども達には理解できない大人達の行動です。大人達は子どもたちに勉強を強要します。でもその「勉強」は競争に勝つためのものです。ですから、「競争」が理解できない子どもたちや、「競争」に価値を感じない子どもたちは勉強にも価値を感じません。そもそも、その「競争」の「目的」や「ゴール」が分かりません。与えられているのはコースだけです。子どもに勉強を強要している大人も、そのコースの行き先を知りません。そんな競争に喜んで参加する子どもなんかいないのです。でも、そんな子どもたちでも、自分の成長につながるような勉強なら喜んでやります。なぜなら、学ぶことで世界が広がり、意識や、思考や、感覚や、行動がより自由になるからです。そして、このような勉強では競争は意味を持ちません。点数で評価することも出来ません。
2026.08.18
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現代社会は「競争社会」です。実際、経済も政治も競争で成り立っています。だから、国も、テレビなどのメディアも、「競争に勝てばお金持ちになれる、幸せになれる」というような幻想を振りまいています。そして、学校が「その競争で勝つための能力を育てる場」になっています。でも、子どもや国民を競争に追い立てるためには、価値観を一元化させる必要があります。そうでないと優劣を比較することが出来ないからです。優劣を比較できなければ子どもたちを競争に追い立てることも出来ません。「競争するコース」と「勝ち負けを判定する基準」が決められているから競争が成り立つのです。だから学校は「知識の有無」を問うような単純な試験で子どもを評価し比較できるようにしているのです。そして親もまた、その成績で一喜一憂しています。そのような価値観に基づく教育では、「学ぶこと」や「子どもの成長」は大切にされません。なぜなら、「学びの形」や「成長の形」は人それぞれだからです。人それぞれなので、「学ぶこと」や「子どもの成長」を大切にしていたら、「単一の基準で子どもを評価したり、比較して競争させる」ということが出来なくなってしまうのです。でも実際には、「学び方」にも色々とあり、「人生の意味や目的」にも色々とあります。そしてどのようなことをどのように学び、人生にどのように意味を見いだし、どのように生きるのかは人それぞれのはずです。それは「十人十色」の世界です。そして、「遊びの世界」はこの「十人十色」によって支えられています。でも「みんな違ってみんないい」という「十人十色」を肯定してしまったら、競争が成り立たなくなってしまうのです。今の日本の学校は「競争社会を支えるための人材を育てる場」ですから、それでは困るのです。ですから、「競争に参加しない」という選択肢は肯定されません。競争に参加しようとしないと学校や親から圧力がかかります。そして、大人達は「成績が悪い子はダメな子」で「成績がよい子はよい子だ」という価値観を子ども達に植え付けます。それは、大人達が生きている「白と黒の世界」の価値観です。そして子どもたちは「白」と「黒」の間の「グレー度」で評価されるようになります。「白に近いグレー」なら「よい子」で、「黒に近いグレー」なら「悪い子」というようにです。そして、子どもたちもそのような教育を受けているうちに、「十人十色」「みんな違ってみんないい」という世界を忘れて、考え方も価値観も「白」と「黒」という基準しか存在しないグレーの世界に入ってしまうのです。そして子ども同士でも、比較し、競争を始めます。「イジメ」も起きるようになります。そして、この「白と黒」「グレーの世界」に洗脳されてしまうと、まだ「カラーの世界」で生きている子どもたちを否定し始めます。ホームレスの人のように競争から外れた人を馬鹿にするようになります。その結果、人々の意識や生活の状態がますます偏り、社会の豊かさと生命力は萎え、人々の心はすさみ、心とからだを病む人が増えて来ます。大人達は「子どもたちはこの社会の厳しさを何も知らない」と言います。確かに、大人達は子どもたちよりも「社会の現実」をよく知っています。遊んでばかりいる子どもたちはその「社会の現実」を知りません。でも子どもたちは、「自然の豊かさ」や「この世界には白と黒だけでなく無数の色がある」といった「自分が生まれてきた世界の現実」は知っています。「一緒に遊び、一緒に笑い、一緒に感じる喜び」という「人間が幸せを感じるために必要なもの」も知っています。大人達は「社会の現実」は知っていますが、「自然の豊かさ」や「この世界には白と黒だけでなく無数の色がある」といった「自分が生まれてきた世界の現実」は忘れてしまっています。「一緒に遊び、一緒に笑い、一緒に感じる喜び」という「人間が幸せを感じるために必要なもの」も忘れてしまっています。でも、それを想い出さないと、社会はドンドン「黒」の方に進んで行ってしまうでしょう。人類の未来を、精神的に豊かなものにするためには、大人は子ども達から「カラフルな世界」のことを学ぶ必要があるのです。
2026.08.17
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多くの人が「思い通りにならないこと」があると、「戦い」によって問題を解決しようとします。子どもが思い通りに動かないと、大きな声を出したり、怖い顔をしたり、時には打ったりして、子どもを力で屈服させ思い通りに動かそうとします。力が均衡している相手なら戦いによって優劣を決め、相手を屈服させようとします。まただから、相手を脅かすために相手よりも強力な武器を求めたりもします。夫婦の間でも「どっちが正しい論争」になると戦いが生まれます。でも、親子の間でも、夫婦の間でも、国と国の間でも、双方が「自分の方が正しい」と思い込んでいます。よく、「戦争は正義と正義の戦いだ」と言われますが、その通りです。多くの人が「自分こそは正義だ」「自分の方が正しい」と思い込んでいるのです。そのような人は人の言葉に耳を傾けません。自分の考えとは異なることを言う人を「敵」だと見なし攻撃します。その戦いに負けた人は自己肯定感を失います。親に負けた子ども、大人に負けた子ども、教師に負けた子どもは自己肯定感を失います。そして、負けた人は自信を失い、自分で考えなくなります。自分の意思で行動しなくなります。「ダメな自分」が何を考えても、何をやっても意味がないからです。そのような「戦いによって問題を解決しようとする人」の頭の中には「白」と「黒」しかないのでしょう。だから、「白黒付けるために」戦うのです。トランプさんや高市さんの頭の中にも「白」と「黒」しか存在していないのでしょう。でも実際には、「白」と「黒」の間には無数の「グレー」があります。「白」と「黒」の世界しか分からない人には理解できないかも知れませんが、無数の色すらあります。でも、「白こそ正義だ」「黒こそ正義だ」と思っている人にとっては「グレーの人」はみんな敵です。「白」にとっても「黒」にとっても「グレー」は敵なんです。ですから「グレー」の言葉なんかに耳を傾けません。「様々な色の人」なんか敵だとも思わず無視します。存在が理解できないからです。でも、実際に私たちが生きている現実の世界、自然の世界には「真っ白」も「真っ黒」も存在しません。「真っ白」とか「真っ黒」というのは観念の世界の中にしか存在していないからです。「白」や「黒」に囚われている人は「観念の世界に囚われている人」なんです。そのような人は「目の前の現実」、「目の前の自然」、「ありのままの世界」を見ようとしません。でも困ったことに、そのような「極端なこと」、「過激なこと」を言う人に惹かれてしまう人がいっぱいいるのです。それは「グレーの世界で迷子になってしまっている人」、「グレーの世界を楽しめていない人」です。そしてそのような人も「豊かな色の世界」を知りません。「豊かな色の世界」を知れば「白か黒かという考え方には意味がない」と言うことが分かり、「グレー」も色の一つとして楽しめるようになるのですが、「白」と「黒」しか知らない人が支配する社会で生きていると「この世界には色があるんだ」ということに気付かなくなってしまうのです。ちなみに、「白黒の世界」に生きている大人から見たら子どもは「グレー」です。だから「白」の人からも「黒」の人からも否定されるのです。でも実際には、子ども達は「多様な色の世界」に生きています。だから、「白黒の世界に生きている大人」にとっては「意味不明な存在」なんです。そして、子どもにとっても「白黒の世界に生きている大人」が意味不明なんです。子どもの目には、この世界はこんなにも豊かな色に溢れているのに、大人達がなんで「白」と「黒」にばかり拘っているのかが理解できないのです。そもそも、子ども達には「白」も「黒」も見えません。それらは観念の世界が作りだした産物だからです。大人達は子どもには見えないものに束縛され、振り回されているのです。でも、子どもの方が「この世界の現実」「ありのままの世界」を見ているのです。だから「大人の世界」を子どもに押しつけるのではなく、大人達が「子どもの世界」を学ぶ必要があるのです。そうでないと、人類は「実際には存在しない道」を探して突き進んで滅亡してしまいますから。
2026.08.16
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昨日は、芸術的な体験にはハラハラ、ドキドキ、ワクワクがあります。芸術的な活動の中には、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動する自由があります。未知の世界との出会いや冒険もあります。仲間との出会いや、仲間と一緒の活動もあります。様々な学びもあります。からだを使った活動もあります。問題は、そのようなことを引き出すことが出来るような芸術的な活動を指導するためには、専門的な知識や技術が必要だと言うことです。普通のお母さん達がちょっと勉強しただけで出来るようなことではないと言うことです。ということを書きましたが、問題は、近くに自然もない、自然があっても仲間がいないような環境で暮らしている人、芸術的な活動が苦手な人はどうしたらいいのかということです。でも、子育てや教育では方法が重要なのではなく、子ども達に多様な感覚体験や、ハラハラドキドキワクワクするような豊かな感情体験や、不思議感覚を刺激するような知的な体験を与えてあげるのが目的なのですから、工夫すれば他にも方法はあるはずです。そこで重要になるのが「生活体験」と「物語体験」なんです。今は、この二つとも消えかかっていますが、これだけが唯一、お母さんが一人でも子どものために出来ることなんです。お母さんが家事などをやっていると「ママ遊んで」と子どもが寄ってきます。すると多くのお母さんが「ママは今忙しいからテレビでも見ていて」とか「オモチャで遊んでいて」とか、「ゲームをやってもいいよ」などと言って子どもを遠ざけようとしてしまいます。テレビや、オモチャや、ゲームが「子どもを一人で遊ばせる道具」として機能しているのです。だから、必要以上に刺激的に作られているのです。そしてだから問題なんです。子どもは「人と人のつながり」を通してしか、「人間として生きていくために必要なこと」や「心と、からだと、意識の育ちに必要なこと」を学べません。そのため、テレビや、オモチャや、ゲームに子育てを任せてしまうと、子どもは「人間として生きていくために必要なこと」を学べないまま「それらを学ぶために用意されていた時期」が終わってしまうのです。その時期を過ぎてから、子どもが「人間として生きていくために必要なこと」を学ぶのは非常に困難なんです。成長期を過ぎてから成長させようとしても無理ですよね。それと同じように子どもの成長には、子どもの成長プログラムに従った「時期」があるのです。言葉を学ぶ時期、他の人と安心出来る関係を築ける時期、感覚が育つ時期、知的な能力が育つ時期、身体機能が育つ時期などは、個人差もありますが大まかには決まっているのです。そしてその「時期」が、ベルトコンベア式に流れているのです。だから、自然がないからどうしよう、仲間がいないからどうしよう、芸術的な活動をサポートする能力がないからどうしよう、などと迷っている時間はないのです。「今できること」を探し出して、今やるしかないのです。そこで一番大切なのは「人との関わり」です。「子どもが人間として生きていくために必要なこと」はテレビや、ゲームや、オモチャからは学ぶことが出来ないからです。「人間として生きていくために必要なこと」は人間からしか学べないのです。そして、今時の多くの子ども達の周囲には「お母さん」しか人間はいません。昔は、兄弟も多かったし、祖父母もいたし、ご近所の子ども達もいっぱいいたので、お母さんが相手をしなくても、誰かが相手をしてくれました。でも今では、子どもの周囲にいる人間は「お母さん」だけなんです。だから荷が重くなって、テレビや、ゲームや、オモチャに任せてしまうのでしょう。でも、お母さんが関わってあげないことには、子どもは「人間として生きていくために必要なこと」を学ぶことが出来ないまま、次の段階に進んでしまうのです。次の段階に進んでしまうと、子どもはお母さんにまとわりつかなくなります。お母さんに相手をしてもらうよりも、テレビや、ゲームや、オモチャで遊んでいる方が楽しくなってしまうからです。それでお母さんは「楽になった」と喜ぶのでしょうが、でも、テレビや、ゲームや、オモチャに子育てをしてもらった子どもは、「人間として生きていくために必要なこと」を学ぶことが出来ていないため、人間関係において苦しむことになります。社会に出てからも苦しむことになります。会社に入っても同僚や上司とうまくやっていけません。結婚してもパートナーとうまくやっていけません。子どもが産まれても、子どもとうまくやっていけません。そしていま、そのような人が増えてきています。「子どもがお母さんにまとわりついてくる時期」が、「子どもがお母さんから学ぼうとしている時期」でもあるのです。でも、特別なことをする必要はありません。ただ「一緒に」を心がけていればいいのです。一緒に食べて、一緒に同じものを見て、一緒に同じことをして、一緒に喜び、一緒に悲しむだけでいいのです。その際、必ずしも子どもに合わせる必要はありません。お母さんに合わせるように求めてもいいのです。あと、いっぱい色々なことを語ってあげることです。箸の持ち方なども教えてあげて下さい。「箸の持ち方」自体が重要なのではありません。そのような機会を通して「何かについて語り、子どもと対話すること」が大切なんです。「箸の持ち方」を教えるのはそのためのきっかけに過ぎません。虫がいたら「虫について」語り、風が強かったら「風について」語ってあげて下さい。それが「ものがたり」です。
2026.08.15
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今は夏休みです。「夏休み」は「休み」ですから、子ども達は自由にいっぱい遊べるはずです。でも、公園に行っても、森や野原に行っても子ども達が遊んでいる姿を見かけません。子どもが遊んでいる声が聞こえません。セミがいっぱい鳴いていても、虫がいっぱいいても虫取りをしている子がいません。大人と一緒に公園や海に来ている子はいますが、古来からの「子どもの遊びの場」には大人などいませんでした。大人が一緒ですから、「ボール遊び」のような清潔で、安全で、安心な遊びは出来ますが、泥んこ遊び、虫取り遊び、木登り、探検遊び、崖登りのような危険で汚れるような遊びをしている子はいません。棒を振り回せば叱られます。花を摘んで遊んでも注意されます。昔の男の子達はみんな「肥後守」というナイフを持っていましたが、最近の子はそんな「危ないもの」を持って遊びに出たりしません。そもそも買ってもらえません。火薬で遊んだりもしません。(火薬で遊ぶのは楽しかったですよ。もちろん、けが人も出ましたけど・・・。)大人が側にいたら「清潔で安全な遊び」しか出来ないのです。それはつまり、子どもがハラハラ、ドキドキ、ワクワクするような「新しいものと出会い、命との出会い、仲間との出会い、自分の限界を試し自分の可能性を確かめるような遊び」が出来ないということでもあります。大人が傍にいたら裸足になって遊ぶということすら出来ません。「清潔で安全な遊び」であっても、大きな声を出すような遊びをしてると周囲の大人から文句を言われます。でもそれは、その子ども達が大人になった時に、「生き生きと、懐かしく想い出すことが出来るような子ども時代」を育てることが出来ないということを意味しています。そして、「懐かしい子ども時代」を育てることが出来ないまま大人になった人は、子どもの「子どもらしい感性、考え方、行動、遊び」に共感することが出来ません。子どもの目線に立つことも出来ません。そのため、大人には理解できないことを言い、理解できないことをやろうとする子ども達を監視して、大人の価値観に合った遊びをさせようとしています。でもそれは「子どもの成長に必要な遊び」ではありません。また多くの場合、「大人の価値観に合った安全で清潔な遊び」にはお金が必要です。昔の子ども達にとって「遊び」は、「自分たちで発見し創り出すもの」だったのですが、今では「大人が用意した遊びをお金で買うもの」になってしまったのです。ゲームもまた同じです。というようなことを言っても、最近の子どもたちと似たような環境で育った若いお母さんやお父さんにはその問題点が理解出来ません。でも私には、そのことが子どもたちの自己肯定感の低さや、自殺率の高さと関係しているような気がしているのです。また、大人になっても「子育て」を楽しめなかったり、「子育て」が苦しくなってしまう原因にもなっているのではないでしょうか。だからといって「じゃあどうしたらいいんだ」と言われても、子どもたちに昔のような遊びの場、遊びの時間、遊びの仲間を与えることが出来るような良い解決策があるわけではありません。もう、町の中にも、大人達の心の中にも、そんなゆとりが消えてしまっているのですから。でも、子どもたちに遊びの場、遊びの時間、遊びの仲間を返すことは出来なくても、様々な芸術的な体験を通して、「遊びの場で体験したようなこと」や「学んだようなこと」と似たようなことを体験し、学ぶことが出来るような体験を与えることは可能なんです。芸術的な体験にはハラハラ、ドキドキ、ワクワクがあります。芸術的な活動の中には、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動する自由があります。未知の世界との出会いや冒険もあります。仲間との出会いや、仲間と一緒の活動もあります。様々な学びもあります。からだを使った活動もあります。問題は、そのようなことを引き出すことが出来るような芸術的な活動を指導するためには、専門的な知識や技術が必要だと言うことです。普通のお母さん達がちょっと勉強しただけで出来るようなことではないと言うことです。以前、茅ヶ崎のある園の先生達の指導をしていた時、「劇の指導が一番難しい」と言っていた先生がいました。でも、個人の力で「人工的に作り替えられてしまった町」を自然に戻すことは不可能ですが、芸術的な活動を支えるような学びは、本人の意識と努力があれば不可能ではありません。ちなみに、茅ヶ崎に「CCCシアター」という子どもたちの演劇活動を支えているグループがあります。なぜか、その会には私の幼児教室を出た子がいっぱいいるのです。宣伝したわけではありません。というか、その会のことは私もよく知りませんでした。でも、うちの教室を出た子どもたちはなぜかそのような活動に惹かれるようなのです。そのことを知った時は嬉しかったです。
2026.08.14
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遺跡を発掘している考古学者と呼ばれる人達は、地面を掘ったり、洞窟の中を調べたりして「人間が存在した痕跡」や「人間が生活した痕跡」を探しています。それは石器や、土器や、壁画や、生活廃棄物などですが、それらを入念に調べることで、それらを作ったり描いたりした人たちの精神性や知性の状態をある程度うかがい知ることが出来るからです。古代の人が残した石器や土器や壁画を調べれば、彼らがどういう意識と心を持ち、どういう生活をしていたのかということを推察するヒントを得ることが出来るのです。同じ石器でも、その作り方の違いで意識の違い、精神性の違い、生活の違いを推測するヒントになります。石の種類を調べると、人の流れも分かります。それらの遺跡や石器や土器の変化を見ていくと、面白いことに、最初のうちは自然物を少し加工しただけの「素朴な道具」だったものが、次第に形が整えられて、そして、なぜか美しくなっていくのです。時には実際に使うには不便なんじゃないかと思えるほどに美しくなっていくこともあります。どうやら、人の心は、便利なだけでは満たされないように出来ているみたいです。カラスやサルも道具を使いますが、それ自体を芸術作品のように作りあげることはしません。カラスやサルが道具に求めているのは機能性だけです。でも人間は、単なる道具に美しさまで求めるのです。それもまた、「カラスやサルの心」と「人間の心」の大きな違いでもあります。「人間にとって美とは何なのか」、これは私がいつも考えているテーマでもあります。もちろん正解がある話ではないのですが、「美とは何か」ということを考えることは、「人間が人間らしく生きるためには必要なことは何なのか」ということを考えることでもあるのではないかと思うのです。では、人は一体なぜ「美」を求め「美」を喜ぶのでしょうか。ちなみに幼い子ども達は「かわいい」とか「きれい」ということは分かりますが、「美しい」は分かりません。「かわいい」も「きれい」も「生理的な感覚」で「美しい」は「精神的な感覚」だからです。「美」を感じるためには精神の成熟が必要になるのです。だから、遺跡などを発掘して「美の成熟度」を見ると「精神の成熟度」が分かるのです。でも問題は、最近は子どもだけでなく大人でも「かわいい」「きれい」は分かるけど「美しい」が分からない人が増えてきたように感じるのです。(「きれい」と「美しい」の違いを論じるのは難しいですが、簡単に言うと「キラキラしたもの」を見た時、人はそれを「きれい」と感じるようです。)それに対して「美しさ」を支えているのは、調和やバランスや統合性といったものなのではないかと思います。交響曲のような美しさです。そしてそれはまた「自然」の持つ美しさでもあります。でも今、道ばたに咲いている花の美しさ、蜘蛛の巣の美しさ、足下に落ちている小石の美しさ、など「自然の美しさ」に気づく人は減ってきました。これは何を意味しているのでしょうか。精神の幼児化なのでしょうか。古来から人々は自然の中に「美」のお手本を探してきました。でも、社会の近代化と共に、「自然とのつながり」が失われてきたので「美」を感じる力が萎えてきてしまったのでしょうか。「美」は私たちの周りの至る所にあります。ただ気づくだけでそれに触れることが出来るのです。お金なんか必要がありません。でも「美」を感じる力のない人に「美」は存在しません。
2026.08.13
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現代社会では「顔が見えるつながり」が消えました。それと同時に「顔を見る」とか「顔を見せる」ということも大切にしなくなりました。そういう傾向は、大分以前から便利な機械や、道具や、インフラの普及と共に進行していましたが、未だに白黒ついていない「コロナ騒動」の時に急激に進みました。今でも、マスクで顔を隠したままの人がいっぱいいます。顔を見せようとしない人が周囲の人からはどのように見えているのか想像できないのでしょうか。顔を隠したままでは心とからだが病んでしまうということを知らないのでしょうか。また、周囲の人との人間関係も築けなくなります。今の子ども達が大人になったとき、マスクで顔を隠したクラスメイトのことなど思い出せないでしょう。一般的に、「〇〇さんの記憶」は「〇〇さんの顔」とセットになっているものだからです。東洋医学では顔を見て、肌に触れることを大切にしますが、西洋医学に基づく現代の病院ではそのどちらもやりません。病院に行っても、医者は患者の顔を見ることも、肌に触れることもなく診察するのが当たり前になっています。医者が見るのは検査によって得られた数値だけです。だったらAIロボットを置いとけば人間の医者など必要がないはずです。コロナ騒動でみんなが日常的にマスクをしているとき、ある保育園の子どもが食事の時にみんながマスクを外して食べている姿を見て怖くなったそうです。「口さけ女」を見たのと似たような怖さがあったのでしょう。その「顔を見ない」「顔を見せない」という傾向は子どもの遊びや、子育てや、教育の中にも浸透してきています。子どもたちは外で群れて遊ぶことをしなくなりました。家の中でおもちゃで遊んだり、勉強をしたり、ゲームなどをして一人で遊ぶことが多くなりました。ゲームで遊ぶ場合はネットの向こうに他の人がいますが、その相手の本当の顔を見ることは出来ません。ゲームの中ではみんなアバターを使っているからです。アバターは一種の「仮面」です。プリクラは当たり前のように写真を加工しています。コロナ騒動の時、一気にZoomが浸透しましたが、画面に表示される「自分の顔」が気に入らなくてプチ整形をする人が増えたという記事も読んだことがあります。整形もまた、本当の自分の顔を隠す「仮面」です。大人の仕事も在宅などが増え、顔を合わせなくても仕事が出来るようになりました。だからといって家族と顔を合わせる時間が増えたわけではありません。また、お母さん達もそれを望んではいないようです。大分昔に「亭主、元気で留守がいい」という言葉が流行りましたが、その感覚は今でも同じみたいです。子育てでも、早い時期から子どもを保育園に預けてしまえば「子どもの顔を見る時間」も「子どもがお母さんの顔を見る時間」も減ります。保育園の先生は業務として必要な程度にしか子どもの顔を見ないでしょう。そのため、お母さんも子どもも「相手の表情から相手の心やからだの状態を読み取る」という能力が育ちにくくなってしまっています。「相手の表情から相手の心やからだの状態を読み取る能力」が低い子は、「相手に共感する能力」も低いのではないかと思います。そのため、他の子や他の人に対して思いやりの気持ちを持てないのは当然のことです。そういう状態の子が、イジメをしても罪悪感を感じないのは当たり前です。一昔前は、そういう状態の子は「空気が読めないやつ」と言われましたが、最近ではみんなが空気を読めないので、そういう状態を気にすることもなくなりました。以前に一度、学級崩壊をしているクラスを見せてもらったことがありますが、みんなバラバラに好き勝手なことをやっていました。子どもが自殺などすると「言ってくれなかったから分からなかった」と言う人が多いですが、言葉では言わなくても、表情やからだの状態では表現していたはずです。でも、子どものことを自分の目で見ていないから分からないのです。今では、スマホから目を離さずに子どもと会話しているお母さんは普通にいっぱいいます。子どもは寂しいでしょうね。でも、それが普通になってしまったら、子どもも相手の顔を見なくなるでしょうね。戦争で平気で相手を殺せるのは「相手の顔」をちゃんと見ていないからです。学校の先生も、成績は見ても、子どもの顔は見ていません。「See」はしているのですが「Look」をしていないのです。お母さん達も同じです。「See」はしています。でも、「Look」をしているお母さんは少ないです。子どもを勉強に追い立てることが出来るのも、無茶な校則を押しつけることが出来るのも「子どもの顔」をちゃんと見ていないからです。
2026.08.12
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人類誕生以来何十万年と人々は「顔の見えるつながり」の中で生きてきました。でも、今ではみんな「顔の見えないつながり」の中で生きています。現代人をつないでいるのは「お金」、「情報」、「法律」、「社会ルール」、「経済活動」などといったような「顔のないもの」ばかりです。ネット経由では顔を見ることが出来ますが、その「顔」は、直接つながることが出来ない「情報としての顔」に過ぎません。そして、コロナ騒動以降、その流れは加速してしまっています。現代社会では、「お金」、「情報」、「法律」、「社会ルール」、「経済活動」などとつながっていれば、「顔が見えるつながり」がなくても生活できるし、生きていくことも出来ます。そしてそういう生活が一般的になることで、「顔の見えるつながり」を、「うざい」、「面倒くさい」と感じる人も増えてきました。でも、昔の人は「人と人のつながり」(顔が見えるつながり)の中にいないと生活できませんでした。だからみんな「村八分」を恐れたのです。でも、現代社会では多くの人が自ら望んで村八分状態になっています。今では、「隣の人の名前も、顔も、家族構成も知らない」などということは普通です。引っ越ししても近所に挨拶にも行きません。実際、今、ご近所に家を五軒建てていますが、引っ越しの挨拶に来たのは一軒だけです。自治会に入らない人も増えてきたようです。家族の間でさえ「顔が見えるつながり」が消えてきています。お父さんもお母さんも仕事、子どもは学校、塾、ゲームに忙しくて、顔を見合わせて一緒に食べたり、笑ったりすることも出来ません。問題は、「顔の見えるつながり」の中にいなくても生活は出来ますが、「子育て」は出来ないということです。子どもの成長を支えることも出来ません。とういうかそもそも結婚相手を見つけることすら困難です。今では「マッチングアプリ」でお相手を見つけるのが一般的なようですが、そこにあるのは「情報」だけです。リアルなものは何もありません。写真も情報も加工できますから。「顔が見えないつながり」の中で結婚相手を探すなんて恐ろしいことを今時の若者は普通にやっているのです。ただ、上にも書いたように子どもの精神、心とからだが生き生きと成長するためには「顔が見えるつながり」が絶対的に必要なんです。だから、子どもたちは群れて遊びたがるのです。「群れ遊び」は「顔が見えるつながり」によって支えられているからです。そして、古来から子どもたちは「群れ遊び」の場で人と人の関わり合いの基本を学んでいたのです。大人の社会は「顔」が見えなくなってきましたが、それでもつい最近まで子どもたちは町の中の隙間を見つけて、顔を見合わせながら群れて遊んでいたのです。でも、その隙間すら大人達に奪われてしまいました。でも、「顔の見えるつながり」を作りたいという本能は人間の根本的な本能なので消えません。だから、「隙間」を探して反社会的な人たちが多くいるような場所に「顔が見えるつながり」を求めてさまよってしまう子もいっぱいいます。そういう場所に集まってくるのは寂しい子どもたちです。そして寂しい子どもたちは必要以上にお互いを束縛し合います。
2026.08.11
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一昨日は、あと問題はゲームです。ゲームやVRなどデジタルの世界の中には、命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長のルールなど存在していません。なぜなら、ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」だからです。という所で終わりました。今日はその続きです。ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」です。そこでは、物理法則は無視され、死んだ人が生き返り、時間、空間、因果の律は無視され、願えば何でもかなえることが出来ます。「死んだ人が生き返り」と書きましたが、実際にはデジタルの世界の中には生も死もないので、生き返っているわけではありません。そう見えるだけです。まただから、「シネー」とバンバン殺しても罪悪感も感じないし、罪にも問われないのです。問題は「命が存在している世界のルール」を学ぶべき時期の子ども達が、「命が存在している世界」と触れ合う前に、それよりももっと刺激的で面白くて楽しい「命が存在していない世界」と出会ってしまう危険性です。最初に「命が存在している世界」と出会うことが出来た子は、その世界を「自分が生まれてきた世界」として認識し、様々な体験を通して、その世界のルールを学ぼうとします。その世界には、五感を刺激する「音」「触れてくるもの」「味」「匂い」「様々な視覚的な刺激」があります。そして、子どもは「他者」と出会うことによって「自分」を認識できるようになります。五感の働きを通して「他者」に触れることで「自分」を感じることが出来るようになるのです。「自分」という存在を知るためには「他者」という存在が必要なんです。また、それら五感の働きは「外の世界」を感じるためのものですが、そのような「外の世界の刺激」は心やからだといった「自分の内側からの反応」を引き起こすので「体内からの感覚」を感じる能力も育ちます。「美しいもの」を見れば気持ちが良くなり、「醜いもの」を見れば気持ちが悪くなったりしますよね、五感からの全て刺激に対してそういう反応が起きるのです。ただし、それらの「内側からの感覚」を感じ取る能力が育つためには、感じたことを何らかの形で表現する必要があります。「味覚」が育つためには、「他者と味覚を共有する体験」や「自分が感じた味」を言葉などで表現する必要がある言うことです。「美味しいね」「甘いね」「いい匂いだね」と顔を見合わせながら味わうことで「味覚」が育つのです。だから、味覚には文化差があるのです。肉体の機能としての感覚能力は生まれつき備わったものですが、文化としての感覚能力、たとえば雲を見て「モクモク」と感じたり、風に触れて「ソヨソヨ」と感じたりするのは文化としての感覚能力です。モンゴルの人たちは馬を見分ける能力に非常に優れているそうです。日本人は動物の死体を見ると不快感を感じますが、それを感じない文化圏の人たちもいっぱいいます。殺し合いに嫌悪感を感じる人は多いですが、逆にワクワクする人もいます。というようなことを見ていくと、幼い子ども達が「命が存在している世界」と出会う前に「命が存在していない世界」と出会うことの問題点と危険性が山のように見えてくるのです。ゲームをやったり、ユーチューブなどの動画を見たりしても「音」と出会うことは出来ます。でも、その「音」は「自然界の音」つまり「命が存在する世界の音」とは全く異なります。タブレットが自然の風景を写しだし、自然の音を流してもそれらは全く「自然」ではありません。タブレットの中の風景の中には「空間」がありません。そのため、映像に映し出されている空や木と自分が、空間を共有することが出来ません。ただ、「情報」として見ることが出来るだけです。「音」も目の前にある小さなスピーカーから出てくる、デジタル化された音しか聞くことが出来ません。その音もまた空間を含んでいません。でも実際に森の中に入れば、「からだ全体を包むような音」を体験することが出来ます。自然の中で自然な音を聴いて育った人は、その違いが分かります。また、スピーカーからの音を聴いても、自然の中で聴いた音を想い出しながら聞くことが出来ます。スピーカーから流れてくる風の音を聞きながら、風に揺れる木々をイメージすることも出来ます。でも、最初からスピーカーを通してしか「自然の音」を聞いたことがない子にはそういうことが出来ないのです。スピーカーから流れてくる音だけが情報の全てだからです。でも、子どもたちが何を見て、何を聞いて、何を感じているのかということは子どもたちを見ているだけでは分かりません。それを、絵を描いたり、詩を書いたり、歌や踊りで表現させてみた時に、初めて子どもが何をどのように聞き、何をどのように感じ、何をどのように見ているのかが分かるのです。「命が存在していない世界」からやってくるのは全て「情報」に過ぎません。そこにリアルはありません。そしてリアルがない世界に囲まれて生活していると、子どもは自分の心や、からだや、命にもリアルを感じなくなります。自殺してしまう子どもたちは「命のリアル」「死」のリアルを知らないのでしょう。ちなみに阿蘇山は自殺の名所として知られているそうですが、飛び込んでも火口の下の段に引っかかって助かってしまう人も多いそうです。でも、そこから再度飛び込む人は滅多にいないそうです。実際に飛び込むという表現行為を通して、「命のリアル」や「死のリアル」を知ってしまうからなのでしょう。
2026.08.10
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無事、昨日から行っていた冒険クラブの親子キャンプから帰ってきました。冒険クラブの親子キャンプは、多分、他の一般的なキャンプとは大きく違うと思います。「テーマ」はありますが、細かいスケジュールも担当もありません。お料理のメニューもありません。みんなその「テーマ」を共有することだけを大切にしています。定番の川遊び、火遊び、流しそうめん、スイカ割りはもちろんやりましたが、夜はみんなで「一芸」の発表会をしまいした。どんなことをやったのかはちょっと説明できません。「桃太郎かも・・」という、劇遊び的なことも影絵遊びもやりました。ここでお見せできる写真を探したのですが、みんな子どもやお母さん達の顔ばかりの写真なので、以下のような当たり障りのないものしかお見せできません。
2026.08.09
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今日は、これから毎年やっている親子キャンプに行くので、手短にさせて頂きます。ちなみに、今年のキャンプのテーマは「一芸持ちより」です。歌でも、踊りでも、絵本の読み聞かせでも、劇でも何でもOK。自分がやらなくてみんなにやらせてもOK。あと、竹工作もやります。楽器類は私が担当しますが、他のあれこれは友人が担当してくれます。ということで本題に入ります。昨日は、命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従って表現されたものが「芸術」と呼ばれるのなら、同じように命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従った子育てや教育も「芸術」になり得るのではないでしょうか。それは、「子どもの成長に寄り添う子育てや教育」のことです。絵を描いたり、踊ったりしなくても芸術なんです。ということを書きましたが、自然界には「自然のルール」があります。命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長にもルールがあります。そして、それらは全てそのルールに従って動き働いています。そのルールが壊れたらこの世界は崩壊します。芸術はそのルールに従い、そこに人間の意識の働きを加えて、さらに高次の世界を実現しようとするものです。それは自然界には存在しないものですが、でも、自然界にあるものから抽出され、抽象化されたものです。ですから、芸術家は自然界から学ぼうとします。自然のルールを無視したら芸術は成り立たなくなってしまうのですから。でも、科学はそのルールに従うのではなくルール自体を変えようとしています。新しいルールを作って新しい世界を作ろうとしているのです。人は老いて死ぬのが自然のルールなのですが、科学は老いない、死なない方法を見つけようとしています。人は人から産まれるのが自然のルールなのですが、それすらも変えようとしています。子どもの成長には、決まった順序と、時期と、期間が必要なのですが、それも無視して、社会の価値感に合わせて子どもの自然な成長を歪めようとしています。だから、自然のルール、心とからだのルール、子どもの成長のルールが混乱し精神や心やからだの状態が不安定な子どもや大人が増えてしまったのです。でもそれは科学自体の責任ではなく、科学を「欲望を実現する道具」として使おうとしている人たちの責任です。あと問題はゲームです。ゲームやVRなどデジタルの世界の中には、命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長のルールなど存在していません。なぜなら、ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」だからです。<続きます>
2026.08.08
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音楽的表現は無限にあり自由ですが、でも、「芸術としての音楽」に限って言えば、それらの音楽は「音のルール」「心のルール」に従っています。自由ではあるのですが、あくまでも「ルールの中での自由」なんです。そしてそこが大切なところです。そしてそのルールは「社会のルール」の影響も受けてはいますが、基本的なところは、時代や、地域や、文化が変わっても変化していません。なぜならそのルールを生み出しているのは「命のルール」「からだのルール」自然のルール」「心のルール」といった、社会のルールよりももっと深いところに存在するものだからです。まただから、明治維新の時、遠く離れた欧米の人でも、日本の美術に感動することが出来たのです。日本人もまた欧米の音楽を聴いて感動したのです。現代人でも、古代の人が洞窟の中に描いた絵を見て感動できるということは、「古代の人も現代人と共通したルールを持っていた」という証でもあるのです。絵を描く場合、絵描きは「色のルール」「明暗のルール」「形のルール」「人の心のルール」「物語のルール」「空間のルール」などに従っています。私たちが知っているような「何が描いてあるか分かる絵」は、風景や人物や静物がそれらのルールに従って描かれています。ミロやクレーのような、何が描いてあるのか意味不明な抽象画の場合は、その「ルールそのもの」で絵を描いています。だから、一見「子どもの絵」と似ていても、それらのルール無視して描く「子どもの絵」とは異なるのです。そもそも、具象画と抽象画とでは「ルールの使い方」が違います。だからその「新しいルール」に不慣れな人には何が描いてあるのか分かりません。それは同じ「ボール」を使っていてもバスケットとテニスが全く違うゲームのように見えるのと同じです。でも、見かけは異なっていても、ルールの根本的なところは同じです。それが「スポーツがスポーツとして成り立つためのルール」だからです。柔道もボクシングも、それがなければ「スポーツ」ではなく「殺し合い」になってしまいます。何をどのように描くのかは全く自由ですが、観る人の心に働きかけるように描くためには「絵画のルール」に従う必要があるのです。まただから、そのルールに従った歌や絵画や踊りなどは、時代、文化を超えて人の心に響くのです。そして、この理屈に従うのなら「子育て」や「教育」も「芸術」たり得るのではないでしょうか。実際、シュタイナー教育は「教育芸術」を自称しています。これは、芸術のことを教える「芸術教育」という意味ではありません。「芸術としての教育」という意味です。それは「ただ美しく」ということでもありません。シュタイナー幼稚園が美しいものを大切にするのは「結果」であって「目的」ではありません。ただし、私はただの「シュタイナー教育愛好家」であって、シュタイナー教育の専門家ではではないので、私の言うことは「私の理解では・・・」ということに過ぎません。そこの所はご理解下さい。命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従って表現されたものが「芸術」と呼ばれるのなら、同じように命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従った子育てや教育も「芸術」になり得るのではないでしょうか。それは、「子どもの成長に寄り添う子育てや教育」のことです。絵を描いたり、踊ったりしなくても芸術なんです。
2026.08.07
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昨日は、「科学の使い方」は、人間が機械に頼らずに、自分の感覚と、心と、頭と、意識で考え、見つけていくしかないのです。そんな時、様々な芸術的な活動がその手助けをしてくれるでしょう。ということを書きましたが、では「人はなぜ、芸術的な活動を通して科学の使い方を学ぶことが出来るのか」ということです。それは、人は芸術的な活動を通して、「私たちの命の働きを支えている世界のルール」を学ぶことが出来るからです。音楽は「音のルール」によって出来ています。ただ音楽を聞いて楽しむだけなら、「音のルール」など知る必要がありませんが、自分で歌ったり演奏したりしようとするのなら「音のルール」を学ぶ必要があります。人に聞いてもらうために歌を歌おうとするなら、「心やからだのルール」も学ぶ必要があります。ちょっとした姿勢や、重心の位置や、心の状態の違いが「声の状態」にダイレクトに表れてしまうからです。「アレクサンダー・テクニーク」という、心とからだの調整法がありますが、これはオーストラリアの俳優F.M.アレクサンダーが、舞台上で声が出なくなったときに、自分の声を取り戻すために色々と工夫して発見した方法です。「声のルール」「からだのルール」に従って声を出せば、より自然でいい声が出るのです。好き勝手に歌ったり、しゃべったりするだけなら特に「学び」は必要ありませんが、芸術的な行為として声を出そうとするのなら「声のルール」や「からだのルール」を学ぶ必要があるのです。絵を描こうとするのなら「色のルール」「明暗のルール」「形のルール」「人の心のルール」「物語のルール」「空間のルール」などを学ぶ必要があります。絵を描かない人は、「絵は、ただ思いつきで自由に描くだけ」だと思っていますが、そういう描き方をしているのは子どもと素人だけです。単なる自己表現を超えて、芸術的な活動として絵を描こうとするのならそういうことを学ぶ必要があるのです。まただから、「子どもの絵」を褒める絵描きはいっぱいいるのに「子どもの絵」は美術館には飾られていないのです。ダンスや踊りも同じです。子どものように、単なる感情表現として自由に踊るだけなら特に何かを学ぶ必要はないのですが、人の鑑賞に耐えられるようなダンスや踊りを踊るためには、表現のルール、からだのルール、動きのルール、心のルールなどを学ぶ必要があるのです。私がダンスや踊りに詳しくないのでこの程度しか思いつきませんが、実際には「学ぶべきこと」はもっともっといっぱいあるでしょう。そして、「心のルール」と直結しているということは、全ての芸術的な活動において共通しています。だから芸術は人の心に響くのです。ただ自分で楽しむだけならこんなこと学ぶ必要はないのですが、芸術的な活動として人に聞いてもらう、人に見てもらうためには、そういう活動をしたことがない人には想像も出来ないような様々なことを学ぶ必要があるのです。だから「専門家」なるものが存在しているのです。まただから、人は「芸術的な活動」を通して様々な、「自分が生まれてきた世界のルール」を学ぶことが出来るのです。そのルールは人に不自由をもたらすものですが、その不自由をうまく使いこなすことを学ぶことで、さらなる高見に登ることが出来るのです。そしてその学びは機械にやってもらうわけには行きません。そのような「この世界の背後にあるルール」を学ぶことで、「科学の使い方」も分かってくるのです。自然や、人の心やからだを壊すような使い方ではなく、そういうものを生かすような使い方を知ることが出来るのです。それは「科学の芸術的な活用法」と言えるかも知れません。芸術的な活動をしなくても、子ども達は「社会のルール」は学ぶことが出来ます。そして、「社会のルール」を学ぶことが出来れば社会人として生きていくことは出来ます。だから、多くの人がそれだけで十分だと思っています。でも、その「社会のルール」は不安定です。人々の価値観の変動に合わせて「社会のルール」も大きく変わります。欲望に支配される人が多くなれば、社会のルールもそれに従います。「科学の使い方」を知らない人が欲望に任せて「科学の力」を使ったら社会全体が壊れてしまうかも知れません。本来人間は「社会のルール」よりも先に、「命のルール」「自然のルール」に従う必要があるのです。「命のルール」「自然のルール」を無視したような社会のルールは、人の心とからだを壊してしまうからです。そして、心とからだを病む人が増えれば社会も崩壊します。様々な芸術的な活動はその「命のルール」「自然のルール」を教えてくれるのです。
2026.08.06
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科学は人間の好奇心によって発見され、人間の欲望によって実用化され、社会を変えるほどに、人類の未来を変えるほどに、地球を破壊できるほどに大きく進歩してきました。でもこのままでは本当に、自分たちが作りだした科学の力によって人類は滅亡してしまいます。それはSFの中だけの話ではなく、実際に、もうそれが可能なほど科学は進歩してしまっているのです。よく言われることですが、人類はもうすでに人類を何回も滅亡させるくらいの量の核兵器を持っています。また研究室では、流失したらパンデミックを引き起こすような高い致死率を持ったウィルスが培養されています。実際、「コロナウィルスは研究室から流失したものなのではないか」という話もありますよね。それが本当かどうかは分かりませんが、そういう噂が流れると言うことは「そういうことが可能である」ということでもあるのです。また、人間が人間であることをやめるような研究も進んでいます。ブタに人間の臓器を作らせたり、自分のDNAを使って自分のコピーを作り、万が一の時にそのコピー人間の臓器を使えるようにする研究をしている人もいます。その際、コピーの方の脳は取り除いておきます。「脳がなければ人間としての意識を持っていないので倫理的な問題は生じない」という事のようです。最近は、痛い出産を嫌がって無痛分娩や帝王切開を選ぶ人も増えてきていますが、ブタのお腹を使って人間の子どもを産ませたりするような研究をしている人もいます。将来、人間は水槽が並んだ培養所のようなところで産まれるようになるのかも知れません。DNAを操作して、身長、顔立ち、目の色、知能まで自由にデザインした赤ちゃんを作り出すことはもう可能になっています。子どもは「産むもの」「授かりもの」ではなく「作ってもらうもの」になりつつあるのです。でもそうなると「顔が気に入らないから返品します」ということも起きるでしょうね。血のつながりも意味をなさなくなります。さらに、人間の体の中に機械を埋め込んで能力アップを図ろうと研究している人たちもいます。科学はどんどん人間の「非人間化」を推し進めているのです。でも、そういうことが可能になり、みんなが素直にそれを受け入れるようになったら「人間としての倫理観」は消え、「人間が人間であることの意味や価値」も消えてしまうでしょう。そして、「人間」の生命力は萎え、次第に滅亡して行くでしょう。人間は「生きている意味と価値」を見いだせないと自壊を始めてしまうからです。だから私たちは「科学の使い方」を学ばなければいけないのです。科学は「包丁」と同じで、正しく使えば人を幸せにする力を持っていますが、使い方を誤れば人を殺す道具になってしまうのです。科学を「欲望を満たすための道具」として使っていたら、人類は自滅してしまうのです。問題は、「その科学の使い方」は誰も教えてはくれないということです。科学も教えてくれません。科学はただ「事実」を提示するだけです。AIに聞いても無駄です。AIにとっては「人間の幸せ」など価値がないからです。学校でも教えることが出来ません。「教える」という方法で伝えることが出来るのは知識だけです。「科学の使い方」は、人間が機械に頼らずに、自分の感覚と、心と、頭と、意識で考え、見つけていくしかないのです。そんな時、様々な芸術的な活動がその手助けをしてくれるでしょう。科学が扱えるのは「物質の世界」だけです。「心の世界」を扱うことは出来ません。でも、芸術はその「心の世界」を扱うのが得意です。なぜなら元々心の世界から生まれたものだからです。社会全体から芸術的な活動が失われたら、全ての人が物質的な欲望に振り回され、「他の人の幸せ」になど関心を持たなくなってしまうでしょう。実際、そういう傾向が進んでいますから。人間が人間らしさを保つためには「不要不急の活動」が一番大切なんです。でも、それが真っ先に切り捨てられました。
2026.08.05
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現代人の多くが「科学は絶対的に正しい」「科学には限界がない」「科学は人間にとっての夢であり希望だ」などと考えています。でもこれは、半分は事実かも知れませんが半分は幻覚です。なぜなら、こんなにも科学が進んだのに世界は相変わらず混沌に満ちているし、争いも、飢餓も減らないし、科学が未成熟だった頃より人々が幸せになった、健康になったなどという事実もないからです。「地球が荒廃して人類が住めなくなったので他の星に移住する」という設定のSF映画はいっぱい存在していますが、その場合も「他の星に行くことが出来るような宇宙船とそれを作ることが出来る科学技術がある」というのは「希望」かもしれません。でも、その地球を人間が住めないほどボロボロにしてしまったのも「科学」です。じゃあ、「科学の力で地球を元に戻せばいいじゃないか」と思うかも知れませんが、それは出来ないのです。なぜなら、「科学」は壊すことは出来ても元に戻すことは出来ないからです。それが出来るのは神様か魔法使いだけです。簡単で便利な武器で人を殺すことは出来ても、人を生き返らせることは出来ません。ブルドーザーで山を崩すことは出来ても、山を元の状態に戻すことは出来ません。「似たような形」に戻すことは出来ても「同じ状態」には戻せないのです。田んぼを埋め立てることは出来ても、その田んぼを元と同じ状態には戻せません。見かけ的には同じ状態に戻せても、土の状態、水の状態、生き物の状態は元に戻せないのです。時間が経てば自然の力で元に戻るものもあるかも知れませんが、永久に戻らないものもあります。それが「科学の限界」の一つです。だから、科学は慎重に使わなければならないのです。簡単で便利になったことを喜んで無分別にバンバン使っていると他の星に移住しなければならなくなってしまうかも知れないのですから。その科学は「人間の道具」として使われています。科学は「人間の好奇心」によって目覚めましたが、その発展を支えているのは「人間の欲」です。「欲を満たすための道具」として科学が使われているのです。なぜなら、科学を発展させるためには多額の「お金」が必要だからです。それは個人でなんとか出来るような金額ではありません。ですから、科学は、「権力やお金を持っている人たちに都合のいい方向」にしか発展しないのです。それが、科学の限界の二つ目です。また、科学は人間の様々な能力を代替えしてくれるものとして使われています。でも、人間の能力は必要に応じて目覚め、成長するように出来ているので、科学が作りだした便利な機械が普及してその能力を使う必要が消えたら、人間の能力も成長する必要が消えてしまうのです。すると、科学をコントロールする能力も消えるので、科学は暴走します。その結果、限界の「一」と「二」を制御できなくなります。それが、科学の限界の三つ目です。他にも、人間の認知、認識、思考の限界も科学の限界になっています。万能の神様は科学を必要としません。人間が科学を必要とするのは、人間が不完全だからです。でも、不完全な人間が完全を求めると歪みを拡大する方向にしか変化しないのです。なぜなら不完全な人間は自分の欲望を満たすことで完全になろうとするからです。自己肯定感が低い人が自己肯定感を高めようとして色々なことをやっても、結局さらに自己肯定感が下がるだけなんです。「自己肯定感が低くてもOK」と開き直ることが出来れば統合されるのですが・・・。
2026.08.04
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最近の子ども達と話をしていて気になるのが「想像力」と呼ばれるものが非常に弱いことです。「ここをこうしたらどうなると思う」とか、「どうやったらうまく行くと思う」とか、「こっちから押したらこうなるから、反対から押したらどうなると思う」などと聞いても、全然答えることが出来ない子がいっぱいいます。考えようともしないで最初から「分かんない」と答えます。知恵の輪やパズルを渡すと、最初から「どうやって解くの」と聞いてきます。大人達は子どもたちの思考力を高めたいと思っているのでしょうが、想像力も空想力もない子には、思考力もありません。いくら算数の問題を解かせても無駄です。ただ単に「演算技術」が得意になるだけです。イスを作る時に、足をバラバラの長さに切る子がいます。それで、組み立ててみてイスがガタガタになると「なんでだろう?」などと本気で言うのです。「イスの脚は何本だと思う?」と聞かれて初めて「四本」と気付く子もいます。1cmの板を二枚打ち付けるのに5cmの釘を使おうとする子もいます。そのため、釘打ちをする場合は下に厚い板を敷かせています。そうでないと床に板を打ち付けてしまう子がいますから・・・。「弓矢で遊びたい」と言うので、弓矢を渡すと摩訶不思議な持ち方をする子がいっぱいいます。昔の子だったら、少し弓矢を見て、いじってみて、「ああそうか、ここにこうやって矢をつがえ、こうやって飛ばすのか」などと、一々教えてもらわなくても分かったのですが、最近の子は手取り足取り教えないと分からないのです。手取り足取り教えても分からない子すらいっぱいいます。これは「道具の使い方」でも同じで、ノコギリやナイフを持たせると摩訶不思議な持ち方をする子がいっぱいいます。でも、そういうことは教えてもらわなくても構造をよく観察すれば分かるはずなんです。そしてその時に必要になるのが「想像力」なんです。想像力を働かせながら観察するのです。幕末の頃に見本市みたいな所で「ポンポン蒸気船」のエンジンが展示されたそうです。江戸の職人はそれを見ただけで、同じようなエンジンを作ってしまったそうです。もちろん、展示物を解体することは出来ません。外から見て中を想像したのです。想像力があると「見えないもの」を見ることが出来るのです。「まだ起きていないこと」を知ることも出来ます。闇バイトに応募したらどういう結末になるのかも知ることが出来ます。欲に駆られてやっちゃってから反省するのは、想像力がない証拠です。正体不明の「ワクチン」を平気でからだに入れてしまうのも、子どもから遊びを取り上げてしまうのも、「親ガチャ」などといって自分の不幸を嘆くのも、子どもを勉強に追い立てるのも、エビデンスがないと判断することが出来ないのも、「エビデンスがあります」と言われたら信じてしまうのも想像力が弱い証拠です。ちなみに「想像」に似た言葉に「空想」とか「妄想」という言葉がありますが、これらの違いが分かりますか。AIに聞いてみたところ**************「想像」は現実の根拠や経験を基に頭で思い描くことであり、「空想」は現実から離れてあり得ない世界を自由に思い巡らすことです。大きな違いは現実味の有無にあります。想像の特徴根拠がある: 過去の経験や事実をベースにする。現実的: 実生活の予測や相手の気持ちを察するときに使う。役立ち: 問題解決や共感に結びつきやすい。空想の特徴現実離れ: 現実にはあり得ない自由な世界を描く。制約がない: 科学や常識のルールを無視できる。娯楽性: 物語を作ったり、楽しい夢を見たりするのに近い。******************とのことでした。他に「妄想」という言葉がありますが、「妄想」は「想像」や「空想」とも異なった脳内活動です。「想像」や「空想」は「言葉の原理」や「論理の因果関係」に従っています。ですから他の人と共有して一緒に想像したり空想したりすることも出来ます。でも、「妄想」の場合は、「言葉の原理」も「論理の因果関係」もメチャメチャです。そのため話し合いが出来ません。また非常に感情的で、論理ではなく感情によって話が展開してしまいます。以前、その妄想にとりつかれた友人がいました。彼女は「何らかの組織によって世界中のどこにいても監視されている」「娘がさらわれる」と言って、常に恐怖に駆られていました。統合失調症という診断も出ていました。時々電話がかかってきて相談に乗っていたのですが「盗聴されているかも知れない」と怯えていました。で色々と話をして、その時は「分かった」と納得してくれたのに、次に電話がかかってきたときにはまた全く振り出しに戻ってしまっているのです。それに対して、想像や空想は「言葉の論理」「因果の論理」には従っているので、他者と共有することが出来ます。一緒に想像したり空想したりして楽しむことも出来るし、状況に応じて想像や空想をやめて目の前の現実に立ち返ることも出来ます。問題は「言葉の論理」は「人と人とのつながり」の中で、「因果の論理」は「現実世界での様々な体験」を通してしか学ぶことが出来ないということです。そして、最近の子ども達にはその両方とも与えられていません。それでは想像力や空想力が育たないのは当たり前のことです。想像力が育っていない子は簡単に妄想にとりつかれてしまうでしょう。
2026.08.03
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社会に出てから一番役に立つ能力って何だと思いますか?多くの大人達が子ども達に望んでいる、また、子育てや教育で大切にしている「いっぱい知識を覚えていること」、「いい学校を出ていること」、「上司や目上の人の指示や命令に素直に従うこと」ではありませんよ。確かに「知識」は必要です。でも本当に必要なのは「知識の量」ではなく「知識の使い方を知っているかどうか」ということです。いっぱい知識を知っていても、「知識の使い方」を知らなければそれらはゴミと同じです。そのゴミが、その人が自由に感じ、自由に考え、自分の意思で判断することを阻害してしまいます。そして、放っておくと生ゴミと同じように腐って悪臭を放ち、周囲に迷惑をかけます。実際、大人も知らないようなことを色々と知っている子がいます。でもそれらは、本に書いてあったこと、ネットで読んだことを覚えただけの知識なので、その知識の本当の意味も使い方も知りません。当然、子どもの成長を支える力にもなりません。ではどうしてそんな「役にも立たないもの」をいっぱい集めているのかというと、子どもが色々なことを知っていると大人が驚き、褒めてくれるからなのでしょう。もしかしたら親の関心をひくために色々なことを覚えるのかも知れません。でもそれは「犬の芸」と同じです。問題は、犬がどんなに人間が驚くような芸を覚えても決して人間にはなることが出来ないと言うことです。「知識」は「現実」から抽出されます。ですから、色々なことを現実に体験する場では自動的に「知識」を学ぶことが出来ます。それらはまだ「言葉化されていない知識」ですが、その「言葉化されていない知識」が「誰かによって言葉化された知識」と出会った時に、「そうそう、これこれ」と、「体験」と「言葉」がつながります。その結果、「体験を言葉化する能力」が育ち、言葉の働きによって自己の体験が心と、からだと、頭の中で再構築され、子どもの成長を支える力になって行くのです。体験から入った子は当然「知識の使い方」も知っています。その逆に、体験よりも先に知識を与えられてしまうと「そうそう、これこれ」という体験が出来なくなってしまうのです。むしろ「知識通りに出来ない自分」にイラつくだけです。実際、知っているだけの子は「やってもいいよ」と言っても手を出しません。知識はあっても、実際にどうやったらいいのか分からないからです。また失敗を恐れます。ですから、子ども達は「言葉化された知識」を学ぶ前に「体験としての知識」を学ぶ必要があるのです。「体験としての知識」がない子は「言葉化された知識」を聞いても何のことだか分からないため、「知識」を消化吸収することが出来ないからです。でも、「体験としての知識」をいっぱい持っていても、それが「言葉」とつながっていない状態では試験で役に立ちません。だから大切にされていないのでしょう。その逆に、「体験としての知識」を持っていなくても、「言葉化された知識」をいっぱい覚えている子は試験でいい点数を取ることが出来ます。だから、いい成績を取り、いい学校に入ることも出来ます。いい会社に入ることも出来るかも知れません。問題はそこから先です。多くの大人が勘違いしているのですが、子どもの人生は「いい学校に入学して終わり」、「いい会社に就職して終わり」ではないですからね。むしろ、その子の本当の人生は、学校を出た後から始まるのです。学生時代は社会に出るまでの準備期間に過ぎないのです。でも多くの大人達がその準備期間の間に、子ども達を燃え尽きさせてしまっています。では、社会に出てから、子どもが自分らしく、生き生きと生きようとする時に実際に役に立つ能力とは何だと思いますか。それがタイトルにも書いた「人とつながる能力、人と人をつなげる能力」なんです。大河ドラマ「豊臣兄弟」に出てくる「秀吉」は農民出身ですから知識もなかったでしょう。でも、遊びや日々の生活の中で「人とつながる能力」や「人と人をつなげる能力」を育てることは出来ていたのです。そして、その能力を使って天下を取りました。ここで大切なことは、「知っている」という事ではないのです。だからといって「知らなくてもいい」ということでもありません。大切なのは、「知らないということを知っていること」なんです。それを知っているから知っている人の所に聞きに行くことが出来るのです。そしてその「知っている人」とつながることが出来るのです。知ったかぶりをしている人にはそれが出来ないのです。「出来ない」ということを知っているから「出来る人」を探して教えを請うことが出来るのです。頭でっかちに育ってしまった人にはそれが出来ないのです。「知らない」ということ、「出来ない」ということを隠そうとするから他の人とつながれないのです。そして人が離れていくのです。某国の首相もそんな感じです。
2026.08.02
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今、子ども達は夏休みです。私が子どもの頃は、夏休みに入ったら勉強のことなど考えずに毎日屋外で遊びまくっていました。宿題をやるのは学校が始まる数日前です。毎年焦っていましたけど・・・。うちは裏が山に直結していて、海までも歩いて10分くらいでした。だから山でも遊びましたが、夏休みはもっぱら海で遊びました。大人などいません。子どもだけ、時には一人だけでも海で遊びました。ライフガードなど付けません。昔は、そんな物を付けて遊んでいる子など見たことがありません。そもそも、そんな物を付けていたら泳げません。泳ぎは海軍特攻隊の生き残りの父親から教えてもらいました。プールで泳ぐような競技用の泳ぎ方ではなく、昔から日本に伝わっている古式泳法です。早く泳ぐのは得意ではありませんが、安全に、何時間も泳いでいることが出来る泳ぎ方です。古式泳法で泳いでいたのは私くらいでしたが、でも、その頃はみんな普通に泳げました。水泳の授業もありました。でも今では、水泳の授業がドンドンなくなってきているようです。でも、水泳は木登りと同じ全身運動なので、子どものからだを統合する働きも持っているのです。今、子どものからだがバラバラになってしまいましたが、それは、木登りや、水泳や、森や野原を走り回るような「感情の働きと共にからだ丸ごとを使うような活動」が消えてしまったことも大きく影響しているような気がします。部屋の中で、一人で、機械や、オモチャや、本だけを相手に遊んでいたらからだがバラバラになるのは当然の結果です。そして、からだがバラバラになれば、心も不安定になります。「心の状態」は「からだの状態」の表れだからです。不安も強くなるし「自分」という存在に対する実感が育たないため、自己肯定感も低くなります。子どもの心を落ち着かせたいのなら、子どものからだを落ち着かせるところから始める必要があるのです。一番簡単なのは、自然の中で、仲間と一緒に自由に遊ばせることです。で、海に入ると足のつかないところまで泳いでいって、何時間も浸かったまま遊びました。疲れたら、遊泳限界を示すブイにつかまって休みました。ただ空を見上げて浮いていることもありました。足がつることもありましたが、プカプカ浮いて放っておけば治ります。沖に出て、波に揺られてプカプカ浮きながら空や、山や、海を見ているのは非常に気持ちがいいものです。沖の方なら波も来ません。今でもその感覚と情景を覚えています。でもそのせいで、毎年夏休みは日焼けで真っ黒になりました。一夏に三回くらい皮がむけました。お風呂が痛くて大変でした。でも最近は、「真っ黒な子ども」や「皮がむけている子ども」をほとんど見たことがありません。子どもでも日焼け止めを使っていたりします。皆さんのお子さんはどうですか?夏休みといえば海の想い出だけではありません。虫もいっぱい捕まえて遊びました。私が子どもの頃には海にも、山にも、町の中にも、色々な生き物がいっぱいいたのです。一晩に何匹も家の中にセミが飛び込んできました。道を歩いているとハンミョウがピョンピョン跳んでいきます。ヤンマも道を行き来して飛んでいました。庭のイチジクの木にはカミキリムシがいっぱいついていました。時々モグラが地面をムクムクさせていました。セミも、アブラゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクホウシ、クマゼミなどが賑やかにがなり立てていました。カミキリムシも、色々な種類がいっぱいいました。トンボも色々な種類がいて、「トンボ釣り」をして遊んでいる子もいました。ヤンマを捕まえるために、網を持ってヤンマの通り道の道の中央に立って待ち構えていたこともあります。昔は車も少なかったですから。小川や池や沼もいっぱいあって、そこに行けばザリガニ、クチボソ、カエルなどを捕まえることが出来ました。でも今ではみんな埋め立てられるか、蓋をされてしまっています。夏休みの自由研究では、何人もの子が昆虫をいっぱい捕まえて標本を作っていました。私も作りました。子どもが簡単に何十匹もの昆虫を捕まえることが出来るほど、昆虫が身近なところにいっぱいいたのです。海にもいっぱい生き物がいました。そして、生き物がいっぱいいろところで子ども達も遊んでいました。でも今、生き物も、自然の中で遊んでいる子どもも、自然そのものもどんどん減ってきてしまっています。私は時々「磯遊び」も企画するのですが、本当に磯の生き物が減りました。比較にならないほど減りました。探さないと見つからないほどです。でも、子ども達は探して見つかると「いっぱいいる」と喜びます。そんな子ども達に私が遊んだ頃の海を見せたいです。砂浜は桜貝、宝貝、ツノガイ、その他綺麗な貝殻でいっぱいでした。バカ貝やアサリもいっぱい捕れました。毎年、バケツいっぱいバカ貝を捕ってフライにしたり、貝ご飯にしたりして楽しみました。
2026.08.01
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現代人の意識のあり方には非常に大きな問題があります。それは「部分」ばかり見て「全体」を観ようとしていないことです。だから、その場限り、対症療法、ご都合主義になったり、競争し合ったり、戦い合ってしまうのです。「平和のための戦争」などその最たるものです。みんな「幸せになりたい」と願っているのは同じなのに、みんな「目先の幸せ」ばかり追い求め、「幸せの奪い合い」ばかりしています。だから、一時的な幸せしか得ることが出来ないのです。「健康になりたい」とあれこれ薬を飲んだり、運動をしたり、ネットで色々と情報を調べても、心やからだの調子の悪いところだけに意識を向け、そこだけを何とかしようとしているかぎり、一時的には良くなっても「からだ全体」「命全体」の状態は良くなりません。かえって悪くなってしまいます。そのため、次第に、それに巻き込まれて部分の調子も悪くなって行きます。一昔前のお母さん達は、子どもに熱があっても、咳をしていても、元気で食欲もあるのなら「元気があるなら大丈夫」とそれほど気にしませんでした。ケガをしても「つばを付けておけば治る」などとムチャクチャなことも言っていました。多少、学校の成績が悪くても「成績だけで人生が決まるわけじゃない」と、のんびり構えていることが出来るお母さんも多かったような気がします。そのようなお母さん達は「成績よりももっと大切なもの」を知っていたのでしょう。このようなお母さんは、子どもの「部分」ではなく「全体」に意識を向けていたのです。比較や他人の評価による「成績」ではなく、「子どもの人生」や「人間としての育ち」の方に意識を向けていたのではないかと思います。だから、「目先の小さなこと」に振り回されなかったのです。それがいわゆる「肝っ玉かあさん」と呼ばれるような状態なのではないかと思います。ちなみに「肝」が座ると「全体」を観ることが出来るようになるのです。その「肝」とは「覚悟」のことです。でも最近のお母さんは、子どもは元気なのに「熱がある、咳をしている、病院に連れて行かなければ、薬を飲ませなければ」など目先の症状に振り回されてアタフタしてしまいます。子どもが転ぶと、子ども自身は平気な顔をしているのに「大丈夫?」「痛くない?」「病院に行こうか?」などと子どもの不安を煽り立てるような対応をしているお母さんも多いです。ちょっと地面にあるものに触れただけで、ばい菌の心配をしてアルコールや石けんなどで丁寧に手を洗わせようとするお母さんもいます。そんなことをしていると生命力が萎えてしまうのに・・・。そもそも、人間のからだの中にも外にも、無数の菌が生きています。その菌によって命が守られている側面もあります。そのため、その菌を全て取り除いたら人間は無菌室の中でないと生きることが出来なくなってしまうのです。現代人は、「人間とは」「命とは」「健康とは」「教育とは」「人生とは」というような大きな視点で物事を見ることが苦手です。だから、コロナの不安を煽り立てられると、簡単に正体不明のワクチンに飛びついてしまう人がいっぱいいたのです。あの時は、多くの人が「生きている意味を否定するような指示や命令」にも素直に従いました。子どもたちも押しつけました。でもその結果、多くの子どもたちの命の状態の中に歪みが生まれてしまいました。「生きること」に喜びを感じることが出来ない子どもたちが増えてきたのです。子育てにおいては、食事を作り、洗濯をし、子どもを勉強に追い立てることだけでなく、同時並行的に「何のため、誰のためにそのようなことをやっているのか」ということも考える必要があるのです。そうでないと、一生懸命に子育てをしても、それがかえって子どもを苦しめる結果になってしまったりしますから。教師も、勉強を教える前に「教育とは何のため、誰のためのものなのか」ということをよく考える必要があるのです。それを考えていないからただ知識を覚えさせたり、子どもの成長を阻害するような管理と押しつけをしてしまうのです。今の日本の教育は、算数は何のために教えるのか。理科や社会は何のために教えるのか。歴史は何のために教えるのか。そういうことを考え直す所からやり直す必要があるのです。決して「テストでいい点数を取るため」ではないはずです。ちなみに、シュタイナー教育ではまず「全体」を教えるところから始めるそうです。そのあとから「部分」を教えて行くのです。だから、自分が今学んでいる部分が、全体の中ではどのような役割を果たしているのかが分かるのです。「手や足のこと」から教えるのではなく「人間のこと」から教えるのです。「人間」のことから学び始めるから、「手」や「足」の意味が分かるようになるのです。
2026.07.31
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現代人は「感覚との対話」「からだとの対話」が非常に苦手です。でもそのことに気付いている人は多くありません。なぜなら、頭ばかり使っているような現代人の生活の中にはそのことに気付くきっかけがほとんど存在していないからです。まただから、それらの能力が育たないのです。そして、だからそれらに関することを言い表す言葉も消えてしまっているのです。「どういう感覚や能力が失われてしまったのか」ということは、「どういう言葉が消えたのか」ということを調べればなんとなくは分かります。でも、「消えた言葉」は調べることは出来ても、それらがどういう感覚や能力のことだったのかという、その言葉の「中味」までは分かりません。「腹の探り合い」「腹を据える」「腹が立つ」という言葉がありました。それらは、現代的にいえば「心の探り合い」「覚悟を決める」「怒る」というような意味になるのでしょう。でも、じゃあなぜ「腹」という言葉が使われているのだと思いますか?それが分からないと、「腹の探り合い」「腹を据える」「腹が立つ」という言葉の本当の意味も分かりません。長いこと武道などをやっている人はその意味を知っています。これは文字通りに「腹の状態」を言い表している言葉なんです。「心の状態」のことではありません。「心の状態」は「腹の状態」の結果に過ぎません。その「腹」の感覚は武道などを長いことやっていると少しずつ分かってきますが、そのような体験がない人に説明しようとしても通じません。臍下三寸にあると言われている「丹田」も同じです。「解剖学的な存在としての丹田」は存在しませんが、「感覚的な存在としての丹田」は非常にはっきりと存在するのです。眉間の辺りにある「上丹田」、胸の所にある「中丹田」も同じです。面白いのは日本の武道では「臍下三寸」にあると言われている「下丹田」を重視しますが、ロシアで生まれたシステマという武術では胸の所にある「中丹田」を重視していました。それで私は「篠さんはいつも重心を落としすぎ」と注意されていました。日本の武術では「腹の探り合い」をしますが、システマでは「胸の探り合い」をするようです。日本語には「気」という漢字を使った言葉がいっぱい存在していますが。その言葉を「文字通りに」理解することは出来なくなってしまっています。「気持ち」がなぜ「気の持ちよう」と書かれるのか、「天気」がなんで「天の気」なのか、「気づく」がなんで「気」に触れることなのか。その言葉が生まれた頃の人にははっきりと分かったのでしょうが、現代人には分かりません。失われたのはこのような特別な言葉だけではありません。私が子どもの頃には普通に使われていた「つまむ」「ねじる」「こよる」「しぼる」「はらう」「触れる」という言葉も子ども達には通じなくなってしまっています。「対話する」とか「感じる」という言葉も通じません。でも、通じていないのですが、子ども達は「通じていない」ということには気付きません。なぜなら、「腹の探り合い」を「心の探り合い」というように自分の語彙に合わせて解釈しているのと同じように、子ども達も「自分なりの解釈」をしてしまうからです。ですから、「雑巾を絞って」と言って絞らせると、似たようなことはします。でも、絞れてはいません。動画で見せれば動作は分かります。でも、いくら動画を見ても、手のひら、腕、肩、からだ、腹の感覚までは分かりません。だから、手の動きだけを真似るのです。そしてこの感覚が分からなければ「心をふり絞る」という感覚も分かりません。現代人はこの言葉を「頑張る」というように理解しているのかも知れませんが、「心をふり絞る」と「頑張る」は同じではありません。子どもたちに「他の子の作品には触れないでね」と言っているのに平気で触れ回していた子がいました。その子に「触れないでと言ったでしょ」と言ったら、「触れてないよ、(手に持って)見てただけだよ」と言い返されたこともあります。「飢える」という言葉も分からなくなってしまっています。ある学校で先生が「世界には食べ物がなくて飢えて苦しんでいる人がいっぱいいる」と言ったところ、「私もお腹が空いて苦しかったことがあるから分かります」と言った子がいたそうです。でも、「お腹が空く」と「飢える」は全くの別物です。「飢え」は命の危機に直結します。成長も止まります。動けなくなります。「お腹が空いた」という感覚すら消えてしまうかも知れません。すると、生きているのにハエなどがたかってくるそうです。「飢えている」というのは「お腹が空いている」ということではなく、「死にかかっている」ということでもあるのです。お腹が空いているだけなら食べ物を与えれば問題は解決します。でも、飢えている人に不用意に食べ物を与えると死を早めてしまうこともあります。でも、その感覚が現代の子には通じません。それはそれでありがたいことでもあるのですが、でもそれ故に飢えている人の苦しみが分からなくなってしまっています。
2026.07.30
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「独裁者」と呼ばれるような人が一番嫌うのは、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の言葉で語る人たちです。なぜなら。このような人を権力で支配することは出来ないからです。「大声を上げる人」や「力で抵抗する人」は目立つので排除しやすいですが、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の言葉で語る人は目立たないので排除するのが困難なんです。また、排除する口実もありません。また、政府に都合がいいプロパガンダを作りだしそれを広めることで、簡単に「大声を上げる人」や「力で抵抗する人」を「非国民」などと「悪人」に仕立てることも出来ます。テレビなどのメディアもそれに協力します。また、そのような人たちは内部分裂も起こしやすいです。それは学生運動の時に普通に見られた現象です。そんな時、政府が一番隠したいのが「本当のこと」です。「本当のこと」がバレたらみんながまとまってしまうからです。だから、政府は、自分たちに都合の悪い情報や事実は国民の目に触れさせないようにします。お金や権力が欲しい人たちやメディアがそれに協力します。そして、それを暴こうとする人たちを「陰謀論者だ」などと意味不明な言葉でカテゴリー分けし、そのような人の言葉には耳を傾けないように宣伝します。でも実際には、「事実を隠そうとする人が陰謀論者」で、「事実をさらけ出そうとする人」は陰謀論者ではありません。私は、「いいところ」も「悪いところ」もさらけ出して議論するのが民主主義の正しいやり方なのではないかと思うのですが、国は自分たちの「いいところ」しか見せようとしません。でもそれは「独裁者のやり方」です。最近も「私には反省点はありません」と言った人がいましたよね。みんながおかしいと思っているのに・・・。政府は「物価高に対処している」と言っているのにその実感がない。「コロナワクチンはコロナを感染させない」とか「重傷化させない」とか「害はない」など言われていましたが、それも実感がない。それに、ちょっと自分で調べればそれが事実ではないことはすぐに分かってしまいます。戦争中は、国がいくら「戦争は勝っている」と言い立てていても、「戦争に行った若者達が元気で帰ってこない」、「敵の飛行機が頭の上を飛んでいる」という現実を見て、「本当は負けているのではないか」と感づいてしまう人がいっぱいいました。(父親や母親からその話を聞きました。)自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の言葉で語る人ほどその「嘘」に気付いてしまうのです。でも、自分の目で見ない、自分の耳で聞かない、自分の感覚で感じない、自分の頭で考えない、自分の言葉で語らない人は、ご都合主義の「大本営発表」を素直に信じてしまうのです。そして、大本営発表に異論を唱える人を「陰謀論者」とか「非国民」などと言って非難します。「裸の王様」という物語があります。みんな何となく「王様は裸なんじゃないか」と思ってはいるのです。でも、他の人が「王様の立派な洋服」を褒めて褒美をもらったりしているのを見ると、流れに乗り遅れまいとして自分も「王様の立派な洋服」を褒め始めてしまうのです。そうやって戦争が起きるのです。国が戦争を始めるのではないのです。自分の目で見ない、自分の耳で聞かない、自分の感覚で感じない、自分の頭で考えない、自分の言葉で語らない人が戦争を始めるのです。
2026.07.29
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声高に「戦争反対」を叫んでも戦争は止められませんよ。戦争を起こしたい人たちは「戦争反対」と大声で叫ぶ人たちなんか全然怖くないからです。ただ単に目障りな程度です。(ただし、そのような意思表示をすることは大切です)むしろ、彼らは反対する人がいると、さらに結束を強くして前に進もうとするでしょう。なぜなら、それが戦争や戦いが好きな人たちのやり方だからです。彼らは、敵がいた方が、反対意見があった方が燃えるのです。そして、「正しいか、正しくないか」の議論をすることなく、ただ相手をやっつけることに夢中になるのです。また、そういう人たちだから戦争をやりたがるのです。まただから、一度動き出してしまうと、「赤信号みんなで渡れば怖くない」状態になって、いくら正論を言っても通用しなくなるのです。またこれは、責任者がいない動きなので、一度動き出すと誰にも止められません。日本の場合は、責任者がいない状態で戦争が起きるのです。そして、一度戦争が起きてしまうと、責任者がいないので誰にも止められないのです。そしてみんなが「自分は被害者だ」と言い立てます。それは過去にも起きたことです。そもそも、「戦争を起こせる立場」にいる人たちは、名目的には「選挙で選ばれた国民の意見を代表する人たち」です。ということは彼らに反対する人は国民の少数派ということになります。だったら、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と思うのは当然のことですよね。彼らが怖がるのは「大きな声で叫ぶ人たち」ではなく、物言わぬ人たちの「静かな世論」です。そのような人の声が選挙を支配しているからです。だから、世論調査に表れる「物言わぬ人たちの静かな世論」を気にしているのです。実際、最近の世論調査で高市さんの支持率が急激に下がったことが分かったので、自民党は動揺しているようです。でも、「戦争反対を叫ぶ人たちの声に動揺している」という話は聞いたことがありません。その、「物言わぬ人たちの静かな世論」を形成しているのは、私たちの「良識」と呼ばれるものです。それは「戦いに勝つことよりも、みんなが幸せに生きることの方が大切だ」と考える良識です。政治家と呼ばれる人たちは、沢山のお金を使って、大声を上げて自己アピールをして、他の人を蹴落として、戦いに勝ち抜いた人たちです。しかも、政治の中枢にいるのは二世、三世と言った「普通の人たちの生活」を知らない人たちです。そのような人に「良識」を期待しても無理なんです。だから、良識のある人たちによる選挙が非常に重要な意味を持っているのです。でも問題は、今、その「良識」が崩れ始めているのです。それは人々の生活から「つながり」が失われてきたからです。「良識」と呼ばれるものは「人と人のつながり」の中でしか生まれないし、育たないものだからです。タブレット授業では決して良識は育たないのです。考える力を育てず暗記を求める教育は、「政府の言うことに疑問を感じる能力の育ち」を阻害してしまいます。それが政府の目的なのかも知れませんけど。民主主義の根幹は選挙でですが、その選挙の根幹の所には教育があるのです。教育が狂ったら選挙も狂ってしまうのです。だからこそ、教育を政府に支配させてはいけないのです。平和を守るためには教育の自由化と多様化が必要なんです。
2026.07.28
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私は、子どもの心とからだの育ちには「美しいものとの出会い」が絶対的に必要だと考えています。その「美しいもの」にも色々とあります、満開の桜、新緑の山、夕日や朝焼け、野の花や、木々の木漏れ日、小鳥の鳴き声、太陽にキラキラする水面、蝶や昆虫などの造形なども美しいです。というか、よく見ると「自然」はみんな美しいです。大根もキューリも、足下の小石もみんな美しいです。家の中にも「美しいもの」はいっぱいあります。「自然」だけではありません。「声や仕草の美しさ」「動きの美しさ」もあります。「子どもの笑顔」も美しいです。私たちの周りは「美しいもの」に満たされています。そして、その美しさに気付いた人は「幸せ」を感じることが出来ます。なぜなら、「幸せを感じる心」と「美しいものに気付く心」は同じものだからです。それは、「何かを得ることで幸せを感じる心」とは別のものです。人は何かを得た時にも幸せを感じますが、その「幸せ」は一時的なものです。実際、それを得た時にはものすごく嬉しくても、しばらくすると別のもの、もっといいものが欲しくなりますよね。だから子どもは次から次へを新しいオモチャやゲームを要求するのです。でも、「美しいものに気付く心がもたらしてくれる幸せ」の方は持続します。他の人と共有することも出来ます。「子どもの笑顔」の美しさを感じることが出来る人は、「子育て」を楽しむことが出来ます。子どもの育ちを支えるような子育ても出来ます。なぜなら「子どもの笑顔」は「子どもの成長に必要なこと」を判断する時の羅針盤としても働くからです。逆に、「美しいものに気付く心」を持っていない人は「すでに自分が持っている幸せ」にも気付きません。そのため「物を得る幸せ」の方を求めます。でもそれは「競争」とつながっています。「美しいものを感じる幸せ」は他の人と共有出来ますが、「物を得る幸せ」は共有出来ないからです。ですから、子どもたちを美しいものと出会わせ、「美しさを感じる心」を育てることは、「平和を育てる教育」でもあるのです。それが子ども達にとって「美しいものとの出会い」「美しさを感じる心を育てること」が必要な理由でもあります。平和を守ろうとして「戦争の悲惨さ」を伝えようとしている人もいますが、まだ真・善・美の感覚が未成熟な状態の子どもたちに「戦争の悲惨さ」「人の心の醜さ」「この世界の醜さ」を伝えてしまったら、子ども達は生きる希望を失ってしまうでしょう。戦争の悲惨さを伝えるのは、「戦争の悲惨さ」「人の心の醜さ」「この世界の醜さ」に対して怒りを感じるようになってからにすべきなんです。また、そのような感覚が育つ前に戦争について教えられた子の中には、大人の思いとは逆に、ゲーム感覚で戦争に興味を持つようになってしまう子も出て来てしまうのです。 私たちは「必要なもの」には目を向けます。「困ったこと」や「役に立つこと」にも目を向けます。「欲望」や「利害」につながるものにも目を向けます。「刺激」や「自己主張」が強いものにも目を向けます。「豊かさ」や「簡単便利」を求める人も、安全や安心ばかりを求める人も多いです。 でも、目立たないもの、価値がないもの、刺激が弱いもの、自己主張しないもの、損得や利害に関係しないものにはあまり目を向けません。というかそういうものの存在にすら気付かない人がいっぱいいます。そのため、夕日が美しくても足を止めて見入っている人は滅多にいません。足下の花が美しくてもしゃがみ込んで見ている人も、美しい小石が落ちていてもそれを拾って、手に取って見る人も滅多にいません。子どもがそのようなものに見とれていると、「何やってんの! 早くしなさい!」と子どもをせかす人はいっぱいいますけど。でも、そのようなものに気づく心を育てることが、人々や社会に幸せをもたらしてくれるのです。戦争を「醜いもの」として感じる感性を育てることが出来るのです。そして、子どもが自分の人生を幸せに生きる手助けにもなるのです。
2026.07.27
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日本は若者の自殺が飛び抜けて多い国として知られています。以下は江戸川区のHPからです。日本は世界のなかでも特に自殺が多い国ってホント?社会問題になっている自殺ですが、日本では特に15~39歳の死因の第1位が自殺となっており深刻化しています。自殺によって命を落とした小学校・中学生・高校生は、2017年度は250名で、自殺による死亡率(人口10万人あたりの死亡者数)では英国は6.6、ドイツは7.7、米国は13.3ですが、日本は17.8と先進国のなかでも高い傾向にあります。若年層だけでなく、企業においても働きすぎやストレスによる過労死が問題視されており、政府としては過労死などの実態を明らかにして国民や企業の理解と関心を深め、過労死を効果的に防止していくことを目標に掲げています。大人は仕事と生活との調和を目指す「ワークライフバランス」を保ち、子どもたちは学校生活でさまざまな価値観をもった人たちを認め合い、一人ひとりがストレスを抱えない社会づくりが必要です。https://www.city.edogawa.tokyo.jp/tomoni/sdgs/column/article16.htmlこの中に、大人は仕事と生活との調和を目指す「ワークライフバランス」を保ち、子どもたちは学校生活でさまざまな価値観をもった人たちを認め合い、一人ひとりがストレスを抱えない社会づくりが必要です。と書いてありますが、これは全くおかしな考え方です。「社会」は「人と人のつながり」によって生まれ、支えられ、動いています。「社会のあり方」は「人間の生き方」が決めているのです。「社会」は人間の創作物でも、「他者」として人間によってコントロールできるものでもないのです。だから、社会を変えたいのなら一人一人の生き方を変えるしかないのです。でも、この記事を書いた人はそこのところが全然分かっていません。でも、困ったことにそのような考え方が「普通の考え方」でもあります。また、様々な価値観を持った人たちがお互いに認め合い、一人一人が必要以上のストレスを感じることがないような「人と人のつながり」は、「一人一人がちゃんと向き合って、本音を出し合って話し合い、助け合い、一緒に活動した結果生まれるもの」であって、「型に合わせて作ることが出来るもの」ではありません。子どもの場合は、ケンカも肯定されるような場での「本気の遊び」が「安心できる仲間作り」を支えてくれます。「こういう人間関係を作ろうよ」とか「みんなで仲良くしようよ」などというようなことを課題として掲げてしまうから、子ども達がストレスを感じてしまうのです。道徳教育も同じです。「人に優しくしよう」などということは人に強制することではないのです。優しい子に育てば、そんなこと言われなくても他の人に優しく出来るのです。子どもが他の人に優しく出来るのは、その子が「優しい子」に育った結果なんです。でも大人達は、その育ちを支えることなく「優しくする」という結果だけを子どもに求めています。だから、子どもはストレスを感じるのです。日本の子育てや教育では、子ども達を「大人が考えた理想像」や「大人にとって都合がいい型」にはめ込もうとしています。この記事の中にもそのような考え方が見えます。話題になっているドキュメンタリー映画、『小学校〜それは小さな社会〜』にも、子ども達を型にはめ込もうとしている姿が描かれているみたいです。(予告しか見ていないので、〝みたいです〟としか言えませんけど・・・)そしてそれはある程度成功しています。だから日本の子ども達はお行儀がいいです。そして世界からその「お行儀の良さ」に対する賞賛も受けています。でも、その一方で自殺率はダントツに高いです。これをどう考えるのか、ということです。大人のそのようなやり方を、子ども達が喜んで受け入れ、人間としても成長しているのなら自殺する子が増えるわけがないのですから。それはつまり、お行儀良くなった結果を大人は褒めても、子ども自身は喜んでいないと言うことを意味しているのではないでしょうか。そもそも、「みんな一緒」、「みんな同じ」、「みんな仲良く」を求められるような子育てや教育では子ども同士がつながれません。子どもと大人もつながれません。そして、つながれなければ「生きている意味」も、「生きている価値」も生まれないし、「喜び」や「成長」を感じることも出来ません。また、相互につながっているわけではないので、「先生」という「管理する人」がいない場だと、すぐにバラバラになってしまいます。でも、バラバラになると「つながり」に支えられていない子どもは急に孤独や不安を強く感じます。だから「管理してくれる人」を求めます。今の日本では、大人の都合や価値観を押しつけるような子育てや教育が一般的になってしまっています。そして、子ども達から「目的や感情を共有する仲間」や、「自由な時間」や、「自由な活動が出来る場所」や、「自由な体験」を取り上げてしまっています。「子どもらしい自由な表現」も否定し、「大人が求めるような表現」を押しつけています。日々の宿題や夏休みの課題も、子どもから自由に感じ考え行動する時間を奪っています。宿題があって喜んでいるのは大人だけです。日本の子ども達は、「一人一人異なった名前と、個性と、感覚と、考え方と、生き方を持っている一人の人間」としてではなく、「大人の指導を受けるべき子ども」、「先生の指導を受けるべき生徒」としてだけ肯定されているのです。その背景には、みんな一緒、みんな同じという「型」の中だけで生きている大人達がいます。大人が「型」の中で生きているので、子ども達に「型からはみだすようなこと」を言ったりやったりされたら困るのです。「型」の中で生きている人は「型」がないものに対処できないからです。そしてまただから、日本人の多くは、「自分の意見」を言いません。「自分を表現すること」や「対話や議論」からは逃げようとします。お母さん達に「子どもから、何で勉強しなければいけないの? と聞かれたらどう答えますか?」と聞いても知識や常識を並び立てるだけで「自分の言葉」で語ることが出来ません。まただから、対話や議論やケンカが否定され、「みんなで仲良くしようね」が強制されてしまうのです。人はなぜ自殺するのかというと、生きている意味や喜びを感じないからです。「自分が自分である必要」を感じないからです。それはつまり、日本の子ども達の自殺が多いと言うことは、日本では、子どもが「自分が自分である必要」を感じないような子育てや教育が行われているということです。
2026.07.26
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1,2才頃までの子どもが求めるのは「お母さん」だけです。「他の人とのつながり」や「仲間」は求めません。2才頃の子どもにとっては、「お母さんと自分」だけが世界の全てだからです。「お父さん」すら必要としていません。そして、この頃の子どもは「お母さんの一部」として存在しているので、まだ「他者」と出会うこともありません。でも、2才頃から他の子にも関心を持ち始めます。「他の子が持っているもの」や「他の子がやっていること」にも関心を持ち始めます。そして少しずつお母さんから離れて活動することも多くなります。この頃から「お母さんと自分だけで閉ざされていた世界」の扉が、外の世界に向かって開き始めるのです。そして、お母さんから離れることが出来るようになることで、少しずつお母さんから「自分」という存在が切り離されます。でも、まだこの頃の子どもには「自分と対等の他者」は存在していません。「自分中心の視点」しか持っていないからです。この広い世界に「自分」だけが存在しているのです。それは「天上天下唯我独尊」というような状態です。この頃の子どもに「自分」の絵を描いてもらうと頭足人になります。だから、興味を感じたら他の子にもズカズカ近寄ろうとします。触れたりもします。また、他の子が持っているものを奪おうともします。正確に言うと、ただそこにあったから持って行こうとしているだけなので、奪おうとしているわけではありません。以前、造形の幼稚園児クラスもやっていたのですが、ある子が教室に落ちていたビー玉を見つけて「ボクが見つけたからボクのものだ」と言いました。そんな感じです。幼い子どもたちは、大人の目には他の子のものであっても「ボクが見つけたものはボクのものだ」という意識世界に生きているのです。それは森の中でドングリなどを見つけた時の感覚と同じものです。古代人の感覚でもあります。その時、「所有者は誰か」とか「相手の気持ち」など考えません。というか、そもそも「所有者」という考え方や、「相手も自分と同じような気持ちを持っている」などということ自体が分かりません。そのため、それが他の子のものであっても、「ボクが先に遊んでいたのだからボクのものだ」などと平気で言います。だから、相手が泣いても気にしません。もっと言えば、子どもは「自分の気持ち」も知りません。見たい、触りたい、欲しいという衝動に従っているだけだからです。そんな時、親は「見たかったんだね」「触りたかったんだね」「遊びたかったんだね」などと子どもの気持ちを代弁しようとしますが、その言葉も子どもの心には届きません。自分の気持ちを客観的に感じ取る能力自体が育っていないからです。同じ理由で、相手が嫌がることをやったり、勝手に触れたり、他の子が持っているオモチャを奪ったりしてその相手からぶたれても、何でぶたれたのか分かりません。そのため、「何にもしていないのにぶたれた」と感じます。親にもそう言います。そしてその言葉をそのまま信じてしまうお母さんも多いです。その「相手の気持ち」が分かり始めるのは9才を過ぎてからです。ただし、9才を過ぎても分からない子は分かりません。大人になっても分からない人は分かりません。「気持ち」は見えないですからね。でもだからといって、それまでの子がみんな自分勝手に振る舞う訳ではありません。他の子が嫌がるようなことを平気でやるわけでもありません。なぜなら、子どもは普段自分が扱われているように、他の子や人にも関わろうとするからです。日常的にお母さんから優しく話しかけられている子は、他の子にも優しく話しかけます。だからといって、相手の子の気持ちが分かってそうやっているわけではありません。子どもはただ、自分がお母さんにしてもらっているように相手にもしているだけです。日本語で話しかけられて育った子は、他のにも日本語で話しかけますよね。それと同じです。そのため、いつも一人で遊んでいる子、いつも機械やオモチャばかりを相手に遊んでいる子、お母さんに構ってもらえない子、話を聞いてもらえない子、優しく語りかけてもらっていない子は、「他の子と関わる方法」を学ぶことが出来ません。そのように、お母さんや家族との関わり合いを通して「他の子と関わる方法」を学ぶことが出来なかった子は、悪気はないのに平気で他の子が嫌がるようなことをやってしまいます。で、トラブルになるとお母さんは「なぜいけないのか」を一生懸命に説明します。でも、どんなに丁寧に説明しても、子どもはお母さんの言っている言葉の意味が分かりません。「ぶたれたら痛いんだから」と、その痛みを教えるために我が子をぶつ人もいますが、子どもは自分の痛みは分かっても、相手の痛みは分かりません。大人だって分からないですよね。また、お母さんに待ってもらっている子は、他の子に対しても待とうとします。「相手の気持ち」は分からなくても、「相手の気持ちを大切にする方法」なら学ぶことが出来るからです。「気持ち」は見ることも体験することも出来ませんが、「方法」は見ることも体験することも出来ます。だから、「優しさ」や「人間性」のようなものは、理屈を通してではなく体験を通して伝えるしかないのです。子どもたちに「命の大切さ」を伝えたいのなら、椅子に座ってやるような道徳の授業なんかやめて、みんなで野原や森の中に入って助け合って遊んだり、様々な生き物と触れ合う体験を与えればいいのです。「優しさ」を伝えたいのなら、子どもたちを優しく受け止めてあげればいいのです。
2026.07.25
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人間は「人と人のつながり」の中でしか「人間として」生きることが出来ない動物です。隔離された状態でも「ヒト」という動物としてなら育つことが出来ますが、隔離された状態で育てられた「ヒト」には、「人間らしい感覚」も、「人間らしい思考」も、「人間らしい言葉」も、「人間らしい感情も」、「人間らしい意識」も、「人間らしいからだ」も備わっていません。単に「解剖学的にはヒト」というだけの存在です。確かに、隔離された状態でも機械が相手をすることで色々なことを学ばせることは可能です。人間は育ちの過程で周囲にいる存在を真似したり、周囲にいる存在から学ぶように出来ているからです。試験でいい点数を取るような知識を覚えさせることも可能です。ですから、「それで充分なんじゃないか」と勘違いしてしまっている人がいっぱいいます。誰から学ぼうと同じではないかと・・・。だからタブレット学習なるものもこれだけ普及したのでしょう。実際、ほとんどの人が「1+1=2」を人間から学ぼうと、タブレットなどの機械から学ぼうと同じではないかと思い込んでいます。調査したことはありませんが、学校がタブレット授業を始めてもほとんど反論の声が上がっていないのがその証拠です。反論している人もいますが全くの少数派です。でも、機械から学んだ「1+1=2」と、人間から学んだ「1+1=2」は同じではないのです。「なぜ、1+1=2を学ばなければいけないのか」という、そもそものところが人間と機械とでは全く違うからです。人間は、自分の体験を通して「1+1=2」を学ばなければならない理由を知っています。人間にとって、「1+1=2」は単なる知識ではなく「考え方」なんです。子どもは、人間から「1+1=2」を学ぶことで「考え方」を学んでいるのです。そして、その「考え方」を共有することで、「人と人の対話」も可能になるのです。でも、機械から学ぶことが出来るのは「1+1=2」という知識だけです。その知識を「考え方」にまで展開して子どもに伝えることが出来るのは人間だけなんです。そもそも、機械の働きを支えているのがその「1+1=2」という論理なので、機械は「考え方としての1+1=2」を知りません。機械は「人間らしさについて」は教えることが出来ても、「人間らしさそのもの」を伝えることは出来ません。「優しさについて」「愛について」教えることは出来ますが、「優しさ」や「愛」そのものを伝えることは出来ません。「知識」を教えることは出来ますが、その「知識の中身」や「知識の使い方」を伝えることは出来ません。そういうものを伝えるためには、「伝える人」と「受け取る人」が同じ「人間」である必要があるのです。そして当然のことながら「社会的な感情」も機械は教えることは出来ません。どんなに進歩しても機械は「道具」です。人間と対等な存在ではありません。だから「人間」と「機械」だけでは「社会」を構成できないのです。「社会」が構成できないのなら、いつも機械の中で暮らしていても「社会的な感情」は育たないのです。「社会的な感情」の目覚めは、お母さんとの一対一の関係の中から始まります。そのお母さんとの間の「一対一の人間関係」が、そこから始まる社会的な感情の育ちの原点になって行くのです。お母さんに肯定されて育った子は、他の人に対しても肯定的な感情を持つことが出来るようになります。だから、成長して動き回るようになっても、人と人のつながりの中で自分の世界を広げることが出来ます。でも、お母さんに否定されたり、関わり合いを拒否されて育った子は、他の人に対して肯定的な感情を持つことが出来なくなります。不安も強くなるためにお母さんから離れることも出来なくなります。そのため、人と人のつながりの中で自分の世界を広げることが出来なくなります。ちなみに、憂鬱質が強い子(不安が強い子)もなかなかお母さんから離れませんが、お母さんと一緒ならニコニコしているようなら全然問題はありません。成長と共にお母さんから離れて行動できるようになります。それと保育園や幼稚園の先生などは、「お母さん」の代わりにはなりません。そもそも、最初からそういう役割は想定されていません。また、お母さんから「自分の代わり」の役割を求められても困ります。子どもの方も保育園や幼稚園の先生に「お母さんの役割」を求めません。お母さんにしか伝えることが出来ないことがいっぱいあるのです。
2026.07.24
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幼い子どもの感情は、まず母親との関わり合いを通して育ちます。赤ちゃんが「お母さんの言葉」を真似して「自分の言葉」にしていくように、「お母さんの感情」を真似して「自分の感情」にしていくのです。だから日本語で育てられた子は日本語を覚えるように、「日本人の感情」で育てられた子は「日本人の感情」を持つようになるのです。また、お母さんが「よいお母さん」を演じていると、子どもも「よい子」を演じるようになります。でも、「よい子」に育つわけではありません。見かけだけです。実際、そのような子は思春期が近づくと「よい子」を演じるのが苦しくなって「地」が出てきます。それがいわゆる「反抗期」ですが、それまでの「ガマン」が強かった子ほど強く爆発します。「反抗期」が全くない子は少ないですが、でも、家庭内で暴れまくるような暴力的な反抗を表すような子はズーッと、ズーッと強いガマンを強いられてきたのではないかと思います。それはお母さんが「吐き出したくても吐き出せない苦しさ」を、子どもにも押しつけてきた結果かも知れません。また「大人の都合」を子どもに押しつけてきた結果かも知れません。私は幼稚園などでもお話をさせてもらうことがありますが、質問の時間には質問しないのに、終わってから個人的に質問してくる人がいっぱいいます。その時、その質問の内容の多くは、「その幼稚園に通っている子」についてではなく、思春期に入っているその子のお兄さんなりお姉さんについてです。だから、みんなの前では質問できないのです。幼稚園時代までなら親のやり方を押しつけることが出来ます。また、反抗しても力尽くで押さえ込むことも出来ます。だから子どもの状態に問題が起きていてもなんとかやり過ごせるし、それほど問題も感じません。でも、10才を過ぎた頃からそのやり方が通用しなくなるのです。だから手に負えなくなってしまうのです。でも、「目に見えるようになった子どもの状態」は、長い時間をかけて積み重ねられてきた、「目に見えない心の中の苦しみ」の表れなので、簡単な対処法など存在しないのです。でも、そのようなお母さんほど「簡単な対処法」を求めてくるのです。あるお母さんの子は、思春期になって暴力的になり、家の壁を殴ったり蹴ったりするので、壁が穴だらけで、母親にも殴りかかってくると言っていました。でも、そのお母さんは、その状態が、「自分が子どもにズーッとガマンを押しつけてきた結果だ」ということが分かっていたので「黙って殴られています」と言っていました。犯罪に手を出して、しょっちゅう警察のご厄介になっている、という子もいました。兄弟間での悲惨なイジメに発展してしまう子もいます。「何にもしていないのに突然お兄ちゃんが殴りかかってくる」と言っていた子も何人かいます。弟をストレス発散の対象にしているのでしょう。大分以前に参加したワークで、「二人組になって自分の感情を吐き出す」というワークをしたのですが、私がペアを組んだ女性はお姉さんに対する恨みや苦しみを吐き出していました。そのワークでは受け手が座布団を抱えて、吐き出す側の人はその座布団を相手に見立てて自分の感情を吐き出すのですが、その人は「あんたのせいで」「あんたがいなければ」と叫びながら、座布団をバンバン殴っていました。この人の恨みの対象はお姉さんでしたが、その背景には間違いなくお母さんやお父さんがいます。兄弟(姉妹)を比較し、競争させながら育てていると間違いなく兄弟(姉妹)の関係は悪くなるのです。その一方、幼稚園時代は問題児だったのに、10才頃から落ち着いて素敵なお兄ちゃんやお姉ちゃんになっていく子もいます。私はそういう例を何人も知っています。「あの悪ガキが」という子が、久しぶりに会うと素敵なお兄ちゃんになっていて驚くこともあります。そのような子のお母さんは子どもの感情を否定しません。ダメなことはダメと「行為」は否定しますが、「感情」は否定しません。また、そのような保育をしている園もあります。そのような子育てや教育を受けている子は大きくなるにしたがって落ち着いてきます。幼いときは、ガマンを強いることなく、よい子を演じさせることなく、感じた感情はドンドン吐き出させるようにした方がいいのです。ただしそれを「攻撃的な言葉や行動」という形で出させてしまうと子ども同士の関係が壊れてしまいます。相手も傷つくし、自分も傷つきます。だから、「遊び」や様々な「表現活動」の中で自分の感情を吐き出させるのようにするのです。またケンカをした場合も、ケンカを止めるのではなく、温かい目で見守ることも必要です。子どもも大人も、そのような活動を共有することで、本音を出し合える仲間作りが出来るようになるのです。そして、感情も安定してきます。感情が安定してくると、感覚や思考力も安定してきます。
2026.07.23
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色々な人を見ていると若くても元気がない人もいれば、歳を取っていても元気な人もいます。子どもでも元気な子もいれば元気がない子がいます。じゃあ、「その違いを生み出しているのは何なのか」ということです。子どもでも、大人でも、老人でも、元気な人は「やりたいこと」をいっぱい持っています。「元気だからやりたいことを持つことが出来るのだろう」と考える人もいるかも知れませんが、私はその逆だと考えています。「やりたいこと」を持っているから元気なんです。この「やりたい」には「知りたい」「聞きたい」「見たい」「体験したい」「行きたい」「作り(創り)たい」「表現したい」なども含まれています。病気をしていても、からだが不自由でも、これらの「やりたい」があればそれを実現するために色々と工夫し、乗り越えてしまうのです。「やりたい」という気持ちが、感覚や、思考や、意識や、からだの働きを活性化してくれるからです。幼いときの病気が原因で四肢を失った「中村久子」という人がいました。昭和12年に来日したヘレン・ケラーと対面したとき、ヘレン・ケラーは中村久子を強く抱きしめて涙を流し、「私より不幸であり、私より偉大な人」とたたえたそうです。(詳しいことはネットで検索して下さい)「やりたいこと」がその人と「未来」を、その人と「社会」を、その人の「心とからだ」をつないでいるのです。だから元気なんです。人間が生き生きと能動的に生きるためには、「やりたい」という「欲」が必要なんです。年を取ってくるとその欲が減ってくる人が多いのです。そして守りに入ってしまいます。すると急激に気力も体力も弱くなります。「欲」というと悪い印象を持っている人も多いかも知れませんが、「世界平和」を望むのも「欲」ですからね。「子どもの幸せ」を望むのも「欲」です。「いい仕事をしたい」、「いい作品を作りたい」という欲を持っている人もいます。それらの欲は「他の人と共有出来る欲」「他者を否定しないで実現できる欲」です。その一方で「お金を儲けたい」「権力者になりたい」「自分だけ幸せになりたい」「自分だけ自由になりたい」というような、「他者を否定しないことには実現しない欲」もあります。このような欲は当然、戦いの原因になります。「ゲームをしたい」という欲は、他者を否定しませんがゲーム以外の活動を排除します。そのため、子どもの成長に必要なものを学んだり、様々な体験をしたり、様々な人や事と出会う機会が奪われ、結果として成長が阻害されてしまいます。「〇〇ファースト」という考え方も「他者を否定しないことには実現しない欲」です。だから戦いが生まれます。欲には、みんなの幸せにつながる「自分を成長させてくれる欲」と、戦いを引き起こす「成長を阻害する欲」があるのです。私が「欲を持とう」と勧めているのは「自分を成長させてくれる欲」、「他の人の幸せにつながるような欲」、「自分の世界を広げてくれるような欲」の方です。そのような欲は、人を元気にし、活動的にし、健康にしてくれます。これは医者が出してくれる「薬」よりも効果がある「薬」です。昔読んだので記憶が曖昧ですが、お釈迦様がある信者から「お釈迦様は悟られているので、欲に振り回されて苦しむことなんてないのでしょうね」と言われたそうです。先日もあるお母さんが「悟りを開きたい」と言うので「何で?」と聞いたら「悟りを開いたら色々なことで悩んだり苦しむこともなくなるだろうから」などと言っていました。それに対してお釈迦様は「そんなことはないですよ。私は皆さんの誰よりも欲深く、大きな欲を持っているのですよ」と答えられたそうです。それは「世界中の苦しんでいる人を救いたい」という壮大な欲です。だから、「自分一人のための欲」なんてちっぽけなんです。そういう大きな欲を持っていたから、シャカ族の王子「釈迦牟尼」は苦しい修行を乗り越えて「お釈迦様」になることが出来たのです。アッシジのフランチェスコも、「自分のためではなく人のために生きたい」というような欲に目覚めて聖者になりました。問題があるのは「自分のための欲」の方です。この「自分のための欲」は世界を閉ざし、成長を阻害し、敵を作ります。でも、子ども達に「夢」を聞くと「お金持ちになりたい」とか、「一日中ゲームで遊んでいたい」というような「自分のための欲」しか出てこないのです。「知りたい」「聞きたい」「見たい」「体験したい」「行きたい」「作り(創り)たい」「表現したい」という欲が出てくる子は滅多にいません。私が子どもの頃にあこがれていた外国にも行きたくないと言います。「どうして?」と聞くと「怖いから」と言います。大人がそういう情報しか与えていないのでしょう。お金持ちを望むこと自体が悪いわけではありません。問題は「お金持ちになって何をしたいのか」ということです。それがなければお金に支配されるだけの人生を送ることになってしまうでしょう。ゲームの方も「ゲームを通して世界中の子とつながりたい」という欲は子どもを成長させくれます。でも、そのように望んでいる子は少ないです。
2026.07.22
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人間は「感情の動物」です。人間の特性を高い思考力に求める人がいますが、それは人間の人間らしさを支える根本的な特性ではありません。実際、感情の働きが萎えてしまうと、感じる力も、考える力も、行動する力も、生きる力も萎えてしまいます。また、姿勢も崩れ、病気に罹りやすくなります。感情には「病気からからだを守る働き」もあるからです。そして、その「感情の働き」の根本的な所は「からだの育ち」と共に成長します。「感情」と「からだ」はほぼ一体のものだからです。大人は義務で行動しますが、子ども達は義務では行動しません。「やりたい」という感情が動かなければ子どもは自発的には行動しないのです。そして、「頭の育ち」は「感情の育ち」と「からだの育ち」の結果として生まれます。ですから、「感情の育ち」「からだの育ち」がちゃんと満たされない子は「頭の育ち」も満たされないのです。ですから、「感情の育ち」「からだの育ち」を無視して、いきなり「頭の育ち」を促そうとすると、これら全部の育ちに困った影響が残ってしまうのです。順序を間違えると成長が歪んでしまうからです。でも、多くの現代人が、これをやってしまっています。実際、「やりたい」という感情が強い子ほど能動的に行動します。遊びはその「やりたい」を引き出すきっかけとして働いています。そして、7才頃までに、「遊び」を通して心とからだがちゃんとつながった子は、周囲の刺激に振り回されにくくなり落ち着いてきます。そのような子ばかりなら学級崩壊は起きないのです。学級崩壊という状態が一般的になってしまったのは、「心とからだがつながっていない子ども達」が増えてきたからなんです。そのような子は感情の育ちが未熟なため、簡単な刺激に触れただけで自分の感情に振り回されてしまうのです。また、それ故に、落ち着いて、論理的に考えることも苦手です。他者とつながったり、対話したり、支え合ったりするのも苦手です。そして、自分中心に感じ、考え、行動するようになります。その「感情の働き」は「からだの状態」とのつながりが強いので、からだの成長の段階に合わせて感情の成長の中身も変わってきます。子どもは、からだの基本的な機能が整った状態で生まれてきます。でもまだ「器」しかありません。その中身は産まれた後の体験を通して育っていくのです。感情もその時に育っていくのです。幼い子ども達は、まず感覚の働きを育てようとします。全ての生き物は感覚の働きを通して「自分が生きている世界」とつながり、食べ物をとり、敵や危険な状況から身を守っているからです。だから色々なものに触れ、色々なものを口に入れ、色々な所に行って、色々なことをするのです。その時、周囲にいる大人がその「子どもが感じている感覚」を共有しようとするとき、その感覚に伴う感情も育っていきます。「感情」は「言葉」と同じ性質を持っていて、人から人へと伝承されるものだからです。美味しいものを食べたときに「美味しいね」と言って笑顔で「子どもが感じている感覚」を共有していると、食に対する肯定的な感情が育つのです。確かに、一人だけで食べても栄養は取れます。でも、「食べる」と言うことに対する肯定的な感情は育たないでしょう。子どもが立ったとき「立った、立った」と周囲の大人が喜んでいると、「立つ」という行為に肯定的な感情を持つようになります。子どもがからだを動かして色々なことをやっている時、それを見ている大人も子どもと一緒に喜んでいると、子どもはからだを動かして遊ぶことが楽しくなります。そして、からだを動かすことに対する肯定的な感情がめざめます。(続きます)
2026.07.21
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昨日書いたように昔の人は忙しかったです。でも、簡単で便利な機械や道具やインフラがいっぱい発明され、それらを使いこなしている現代人はもっと忙しいです。不思議なことです。昔の人が何時間もかけてやっていたようなことでもボタンをポチッと押すだけで出来てしまったりします。じゃあ、残りの時間はのんびりと過ごしているのかというとそんなことはありませんよね。空いた時間にも別の仕事を入れてしまいます。昔の人は仕事がないときはのんびり出来たのでしょうが、現代人は、その「のんびり」が出来ないのです。次から次へと色々な仕事をこなしているうちに「じっくりと取り組む」ということが出来なくなってしまったのでしょう。実は「のんびり」も「じっくり」と基本的には同じものなんです。音も似ていますよね。自分の心と、感覚と、頭と、意識と、からだを使ってご飯を作り、お洗濯をし、仕事をして頃は、自分の心のリズム、からだのリズム、意識のリズムに合わせて仕事をすることが出来ました。自分の心、からだ、意識を追い立てないで、自分の命のリズムに任せることが出来ていたのです。でも現代社会では「自分のリズム」ではなく「機械のリズム」「社会のリズム」に合わせなければなりません。だから、追い立てられ、振り回され、「自分」を見失ってしまうのです。「そろそろ園バスが来るから早くしなさい」などと子どもを追い立てているお母さんは多いですが、それも社会が簡単で便利になったことで生まれた副作用です。簡単で便利な機械やインフラが普及することで、生活のリズムを決めるのが「自分」ではなく「機械や社会」になってしまったのです。自分が「自分の時間」の主人ではなく、機械やインフラや社会に「自分の時間」を支配されるようになってしまったのです。それが「モモ」に出てくる「時間泥棒」ということなのでしょう。また、一つの仕事にかかる時間は減りましたが、やるべき仕事の種類は圧倒的に増えました。その結果、やることがなくなると無意識的に次にやるべきことを探し始める癖がついてしまいました。そして、「やることがない」という状態に不安を感じるようになります。「何もしない時間」を「無駄な時間」と感じ、考えるようになりました。だから次々と「やること」を探して、じっくり感じることも、じっくり考えることも、じっくり呼吸することも出来なくなってしまったのです。でも子ども達は、まだ便利な機械やインフラが生まれる前と同じ状態で生まれてきます。子どもの感覚、意識、思考、からだの主人は子ども自身です。そして子どもは「子どもの時間」、「子どもの空間」、「子どもの社会」を生きています。だから、日々社会の要求に応えることに一生懸命になっている大人達は、「自分の世界で、自分のリズムで、自分のために生きている子ども達」を見るとイライラするのでしょう。
2026.07.20
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