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すべて、お楽しみさ… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2012.01.23
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昨日の「NHKスペシャル ヒューマン なぜ人間になれたのか」をご覧になられましたでしょうか。

番組の中で言われていたことの多くは、いつも私が言っているようなことです。そして私は、子育ての場においても、教育の場においても「なぜ人間になれたのか」という視点をもって、20万年前と同じ状態で生まれてくる子どもたちとかかわる必要がある、ということを言いたいのです。

大人たちはその20万年の歩みをすっ飛ばして、いきなり「現代」を教え込もうとしますが、それは家作りにおいて、基礎も、土台も、構造も作らず、いきなり外装から作り始めるようなものです。

でも、そのままでは外装を固定する構造がないため、接着剤で外装と外装をくっつけて見かけだけ整え、ごまかしています。それは映画などのセットのようで、一見本物のようですが、中身がありません。そのため、ちょっとした衝撃ですぐに壊れます。

また壊れなくても、使い物になりません。

人と人のつながりを大切にし、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志と責任で行動出来ないような人は、奴隷やロボットのような仕事はできても、「人間としての仕事」が出来ないのです。

その「人間としての仕事」の中でも一番難しいのが「人を育てること」です。これが出来れば人間として一人前です。これが出来なければ半人前です。

なぜなら人間は「人を育てること」をつなげて「人間」になってきたのですから、人を育てることが出来ない人はその流れに入ることが出来ないのです。そういう意味での「半人前」です。

そして当然のことながら、「人を育てる」ことは「お金を稼ぐ」ことよりももっと高度で難しいことです。



その一番大きな原因は、子育てや教育や社会などの場で、常に子どもたちを比較し、競争させていることです。

子どもを比較し、競争させてはいけないのです。それをやってしまったら子どもたちは「人間らしさ」を育てることが出来なくなってしまうのです。

比較や競争で育てることが出来るのは「個人的な能力」や「労働者として働く能力」だけであって、「人間」としてつながりの中で生きる能力ではありません。

でも、現代社会は「個人的な能力」や、「労働者として生きる能力」が高い方が、高い収入を得ることが出来る社会です。だから、親たちはみんな子どもを追い立てて「個人的な能力」を育てようとしたり、「立派な労働者」にしようとしているのでしょう。

でも、だから社会全体が崩壊しかかっているのです。社会をつないでいた「人間としての心」が崩壊しかかっているからです。そして、社会が崩壊してしまったら「個人的な能力」や、「労働者として生きる能力」は全く価値を失ってしまいます。

つまり、私たちは私たちが乗っている木の枝を幹から切り離そうと、一生懸命ノコギリで切っているようなことをやっているのです。


人はつながりのなかで人間らしく生きている時生き生きとしていますが、つながる喜びを感じることができない生き方をしていると、どんどん無気力になるのです。

人間は本能的に「つながり」のなかに自己実現を求め、「つながり」のなかでの自己実現に幸福を感じる生き物です。それは子ども達がどんなに時に喜びを感じているのかをよく見ていると分ります。

何かが出来た時、いいことがあった時、子どもは「ねえねえ、見て」とか「ねえねえ、聞いて」とお母さんのところに来ます。一緒に喜んでほしいからです。

そして一緒に喜んでくれる人がいるから、それがまた喜びになるのです。どんなに頑張っても、どんなに素敵なことがあっても、一緒に喜んでくれる人がいないと、やがてそういうものに喜びを感じなくなってしまうのです。

本来は、子育てもまたその「自己実現」の一つの形なのです。なぜなら「子ども」を通して「共に喜ぶ仲間」を得ることができるし、「自分が生きてきた証」を残すことも出来るからです。そのことが分っている人は子育てにも喜びを感じることが出来ます。

まったくの会社人間で、子育ては全部お母さんに任せて、自分はただお金を稼ぐだけの労働者として生きているお父さんは、定年退職後自分が生きている価値を失うことになります。



もう、一緒にいる価値がなくなってしまったからです。お父さんとしては「今まで食わしてやっていたのに裏切られた」と思うのでしょうが、「お金を運ぶだけの人」が、お金を運ばなくなったら必要なくなってしまうのは当然のことです。

これはまた、子どもを追い立てているお母さんも同じです。子どもを追い立てているお母さんは「追い立てる」という行為の中に自分の居場所を見つけています。そして、「私が追い立てないと子どもは何もしない」と思い込んでいます。

子どもはその押し付けから逃げようとするか、反抗するか、従順に従って依存するようになります。

そして、子どもが逃げたり反抗すれば、「こんなにも苦労して育ててあげているのに・・・」と言います。でもそれは「食わしてやっているんだから」というお父さんの論理と同じです。

子どもが従順に従うようになるとお母さんは満足します。でもその結果、子どもは「自分」を失い自己実現の道が閉ざされます。だから苦しくなります。



ただ問題は、子どもを追い立てているお母さんは、一見「子どものために一生懸命になっている立派なお母さん」に見えてしまうことです。お母さん自身もそう思い込んでいるのでしょう。

だから厄介なのです。

ここにも競争意識が働いています。お母さんが自分自身を他のお母さんと比較し、他の母さんたちに競争意識を持っているから、「自分」を失い、人間らしく生きることが出来なくなってしまっているのです。

それもまた、幼いころから比較され、競争に追い立てられてきたことによって学習してしまった反射行動です。

ちなみに、「子どもを受け入れる」ということは、子どもを他の子どもと比較しない、競争させないということでもあるのです。

決して、言いなりになることではありません。

そしてまた、「自分を受け入れる」ということは、自分を他の人と比較しない、競争しないということなのです。

比較してしまったらそれだけで受け入れていないことになるのです。





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Last updated  2012.01.23 14:37:46
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