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森の声

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2025.05.06
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カテゴリ: カテゴリ未分類
google検索で「Libertyとfreedomの違いは何ですか?」と聞いたら、以下のような答えが返ってきました。


「liberty」と「freedom」はどちらも「自由」を意味する言葉ですが、ニュアンスに違いがあります。
freedom:
漠然とした自由、制約がない状態、先天的・受動的な自由を表します。
liberty:
特定の自由、権利として認められた自由、自ら勝ち取った自由、能動的な自由を表します。

例えば、「freedom of speech」は「言論の自由」、つまり言葉を発信できる状態を表します。一方、「liberty of worship」は「信仰の自由」、つまり宗教を信仰できる権利を表します。
つまり、freedomは「何でも自由」という漠然とした状態、libertyは「何かを自由にできる権利」という明確な自由を表していると考えられます。


お母さんたちの勉強会などで「自由って何だと思います?」と問いかけても、ほとんどの人が、この二つのような答えを返してきます。

この二つはいずれも、社会と個人の関係における「他者からの自由」についての概念です。
そしてこれは、欧米の人が考えた「自由」の概念であって、明治維新まで日本人が考えていた「自由」と同じものではありません。

それまでの日本には「欧米的な社会」も「欧米的な個人」も存在していなかったのですから、「社会」とか「個人」というものを前提にした概念も存在していなかったのです。

それで、「liberty」とか「freedom」という言葉が入ってきた時に、日本語にそれに対応する言葉が存在していなくて翻訳に困った人が、仏教用語の中の「自由」という言葉を当ててしまったのです。

その仏教用語の中の「自由」という言葉が意味するのは「自分からの自由」です。仏教の教えは「他者からの自由」や「社会からの自由」を与えてくれるものではなく「自分からの自由」を与えてくれるものです。だから「修行」が必要になるのです。
ただしそれは「押し付けられた修行」ではなく、「自分の意思で引き受ける修行」です。

それに対して「他者からの自由」や「社会からの自由」を得る時に必要になるのは「修行」ではなく「政治的な発言や活動」です。


そして、「自由」が「自分で努力して得るもの」から、「他人や社会から与えてもらうもの」、もしくは「勝ち取るもの」になったのです。

もちろん、子ども達が生き生きと自由に生きるためには、周囲の大人や社会が「子どもの自由」を権利として守ってあげる必要があります。それは大人の義務です。

そして今、「子どもの自由」が大きく阻害されています。それは大きな問題です。
でも、子どもたち自身は、「ゲーム」や「欲しいもの」さえ十分に与えてもらえるのなら「不自由」を感じません。「自分の自由」が阻害されていることにも気付きません。

そのような状態の中で生活している現代の子ども達が「不自由」を感じるのは、皮肉なことに「自由」を与えられた時です。
工作でも、キットと、マニュアルと、自分の代わりに作業をしてくれる便利な機械を与えれば不自由を感じないのですが、自由な素材で、自分のアイデアと自分の手で自由に作るような状況を与えられると、どうしていいのか分からなくて不自由になってしまうのです。

本来、「キット」とか「マニュアル」とか「便利な機械」というもの自体が、子どもの「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する自由」を阻害するものなんですが、小さい時からそういうものしか与えられていない子ども達は、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が育っていないため、「その能力を必要とするような自由」を与えられると、逆に「不自由」を感じるようになってしまったのです。
そして、「もっと簡単に出来るような自由」を「権利」として要求します。

そのような状態の子は、「自分の内側に存在する不自由」とは向き合おうとはしません。というか、そもそもそんな不自由が自分の内側に存在していること自体を知りません。
ゲームや、おもちゃや、簡単で便利な機械に満たされた生活ばかりしている子には「リアルな自分」と向き合うような機会がないからです。

そして、「リアルな自分」と向き合うことが出来ない子ほど、不自由を感じたときには「その不自由の原因だと思われる他者」を非難するばかりで、その原因を自分の中に探し、自分自身を成長させることで不自由を乗り越えようとはしません。


幸せな夫婦生活を送ることも、幸せな子育てを行うことも出来ません。
子どもに対して自由を求めるお母さんすら存在しています。奥さんに自分の自由を求める男性も多いです。

子どものうちは、自分の義務は果たさなくても親に自由を求めることが出来ます。でも、社会に出たら「自分では努力しないのに、他者に自由や権利ばかりを求めるだけの人」は相手にされないのです。
そのため、そのような状態の子は、社会に出たとたんに急に「不自由の壁」に阻まれて身動きが取れなくなってしまうのです。そして自分の未来が見えなくなります。

でもそういう子はその状態を「自分のせい」ではなく「相手のせい」だと考えます。


本来、「学校での学び」は、子ども達に「不自由を体験させ、我慢することを学ばせるためのもの」ではなく、自分の意思でその不自由を引き受けることで、「自分自身の自由と可能性を自分の手で創り出すことが出来る能力」を育てるためのものなのではないかと思うのですが、実際には「先生と子どもが〝自分の自由〟を要求し、権利の奪い合いをする場」になってしまっています。





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Last updated  2025.05.06 08:30:47
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