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子どもでも大人でも、私の周囲の「遊び上手な子(人)」は大抵コミュニケーション能力も高いです。ただし、コミュニケーション能力が高いのは、「リアルな世界での遊び」が得意な人に限られます。ゲームでばかり遊んでいる子は、逆にコミュニケーション能力が低いような気がします。もしかしたら、それは「能動性の育ち」と関係しているのかも知れません。ゲームは、ディズニーランドのように、どんな子でも楽しく遊べるように出来ています。遊ぶ能力が低くても、コミュニケーション能力が低くても、能動性が育っていなくても、ただ受け身的に反応していれば、次から次へと刺激がやってきて楽しく遊ぶことが出来るのです。ですから、何も知らない、何も出来ない3歳ぐらいの幼児でも楽しく遊ぶことが出来ます。そして、ゲームをしていれば大人しいので、子どもを大人しくさせたいときにスマホを渡してしまう人も多いです。それは誰でも美味しいご飯が炊ける便利な炊飯器のようなものです。マニュアル通りに決められた量のお米と水を入れてスイッチを押すだけで美味しいご飯が炊けるのです。でも、焚き火で羽釜のようなものでご飯を炊く時には、そんな簡単に行きません。能動的な意識をもって、能動動的に感じ、考え、行動しないと「美味しいご飯」は炊けないのです。「遊び」でも同じです。遊ぶために作られていないただの原っぱ、ただの石ころ、ただの木の枝やはっぱ、ただの水溜、ただの土、ただの風、ただの光、また、「自分の意志を持ち思い通りに動いてくれない友だち」と楽しく遊ぶためには、能動的によく見て、よく感じて、色々とイメージを膨らませて、相手の立場に立ってよく考えて、色々とやってみるしかないのです。そうしないと楽しく遊ぶことが出来ないのですから。だから、そういうもの、そういう所、そういう相手といつも遊んでいる子は「遊びの能力」だけでなく「コミュニケーション能力」も育っているのではないでしょうか。魚や、カニや、昆虫を捕まえるのが下手な子は、ただ追いかけるだけですが、得意な子は色々なことを感じ、考え、工夫しているものです。魚や、カニや、昆虫とコミュニケーションしているのでしょう。
2025.02.28
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私は、「遊ぶ」ということは「自由になる」ということだと思っています。「心を遊ばせる」という言葉がありますが、これは「心を自由にする」という意味だと思っています。ただしここで必要なのは「与えられた自由」ではなく「主体的な自由」です。自分が「自分がやっていること」の主人公になって活動する時、人は自由を感じ、楽しくなるのですから。まただから、「勉強」や「仕事」といった、一見「遊び」とは正反対の活動でも「遊び」になりえるのです。もちろん「家事」や「子育て」も「遊び」になります。嫌々やっているから「遊び」ではなく「辛い労働」になってしまうのです。「鬼ごっこ」のような遊びでも、「鬼ごっこ」が嫌いな子どもにとっては「遊び」ではなく「辛い労働」なんです。群れ遊びが苦手な憂鬱質の子どもを、無理やり群れの中に連れ出し「みんなと一緒に遊びなさい」と言っても、遊べないのです。出来るのは「辛い労働」だけです。だから、次からは行かなくなります。勉強しない子に勉強をさせたいのなら、「勉強しろ」と追い立てるのではなく「勉強の楽しさ」を伝えてあげることです。「学ぶことで自由になることが出来る」ということを感覚的に伝えてあげることです。人は「知らないこと」を知り、「出会ったことがないこと」と出会い、「分からないこと」が分かり、「出来ないこと」が出来るようになると、「自分の世界」が広がり、より自由になったことを感じ、楽しくなるのです。人は学ぶことで、頭と、心と、からだと、魂の「自由」を得ることが出来るのです。「自由への教育」です。そうすれば「勉強」が「遊び」になって、「勉強しろ」などと言わなくても、勉強するようになるのです。でも多くの人が「自由になるための勉強」ではなく「辛い労働としての勉強」を押し付けています。それは大人自身が「辛い労働としての勉強」しかしてこなかったからなのでしょう。そんなことをしているから、子ども達は学校に行きたがらなくなってしまうのです。ちなみに、学ぶことを楽しめていない子は、9才、10才くらいまでは努力が結果に直結するので「勉強が好き」と言いますが、そこから先は、「努力する」という方法だけでは結果につながらなくなってくるので、苦しくなります。教室の子ども達の会話を聞いていると、成績自慢や、成績が悪い子を馬鹿にするような話がよく出てきますが、成績のことしか考えていないような子は、今は成績が良くても、やがて勉強が分からなくなってくるでしょう。よく、「子どもは天才」と言いますが、大人になるとみんな凡人になってしまいます。それは、成長と共に「遊ぶこと」「楽しむこと」を否定され、「労働すること」を強制されるようになるからです。子どもの「天の才」は「遊び」がもたらしているのです。だから、子どもから「遊び」を奪ったら「凡人」になってしまうのです。あと、今どきの子ども達の遊びの主流は「ゲーム」になっていますが、ゲームが与えてくれる「自由」は、「仮想空間の中だけで通用する疑似的な自由」です。それでも、子ども達はその「疑似的な自由」を喜び、楽しんでいます。なぜなら、大人が、大人のためだけに作り出した現実の空間の中では、子どもは「自由」を得ることが出来ないからです。現代社会では、「子どもが、子どもらしく感じ、考え、行動すること」が否定されるようになってしまいました。公園で普通に子どもらしく遊んでいるだけで、文句を言われる社会になってしまったのです。そんな子どもたちにとって唯一の救いが「ゲームの中の世界」なんです。今では、子どもが、子どもらしく感じ、考え、行動することが許されるのは、ゲームの中だけなんです。大人が、大人のためだけに作った現代社会には、「子どもの自由」を受け入れる余地がないからです。だから、ゲームの中にしか「遊ぶ場」がない子から安易にゲームを取り上げてはいけないのです。でも、だからといって、「ゲームでばかり遊んでいていい」ということでもありません。ゲームの中で遊ぶことは出来ても、ゲームの中では生きて行くことが出来ないからです。ゲームの中でいくら走り回っても体力はつきません。ゲームの中でいくらいっぱい食べても、命を支えているからだの栄養にはなりません。ゲームの中で色々なことを学んでも、ゲームの外の世界では通用しません。ゲームの中では孤独を忘れることが出来ますが、ゲームの中にいる時しか忘れることしか出来ません。ですから、ただ単に、ゲームを否定し、取り上げるのではなく、子ども達が自由に感じ、考え、行動することが出来る場を用意し、「ゲームの外の世界にもこんなにも楽しいことがいっぱいあるんだよ」ということを伝えてあげる必要があるのです。プレイパークのような活動もその一つだと思います。
2025.02.27
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うちの造形教室は、始めた時から「自由に作る」というやり方でやってきました。何を作るのか、どう作るのかも自由です。何を作ったらいいのか、どう作ったらいいのかが分からない子にはアイデアを出し、出来ない所は手伝ったりもしますが、それも本人が望んだ場合だけです。そして、教室を始めた30数年前から20年位前までは、子ども達は、各自思い思いに、生き生きと作っていました。「ここは自由に作れるから楽しい」と言ってくれた子もいました。困っているように見えたので、ちょっと手伝ったら「これは僕の作品だから手を出さないで」と叱られたこともあります。その頃の子ども達の作品はみんな本当に素敵でした。それで、その素敵な作品をみんなに見てもらいたくて作品展もやりました。また、あそびの場でも子どもたちは生き生きと遊んでいました。群れて遊ぶことも出来ました。でも、子ども達のゲームでの遊びが一般的になる頃から、その「自由」を喜ばない子や、「自由」に戸惑う子が増えてきました。ただし、「ゲームが原因だ」と言いたわけではありません。私が言っているのは「ゲームでの遊びが一般的になった頃から」ということです。これは私が住んでいる茅ヶ崎での状況ですが、その頃、それまで子ども達の「遊び」を支えていた「遊ぶ場」、「遊ぶ仲間」、「遊ぶ時間」が急速に消えたのです。そしてそれにリンクするように、ゲームでの遊びが一般的になりました。「遊ぶ場」、「遊ぶ仲間」、「遊ぶ時間」が消えた穴埋めに、「いつでも、どこでも、一人でも出来るゲーム」が使われるようになったのでしょう。でも、「仲間とのリアルな遊び」は、子どもの成長に大きな働きかけをしていましたが、「ゲームでの遊び」には「強い刺激で退屈を忘れさせてくれる」とういう働きしかありません。少なくとも私にはそう思えます。実際、その頃から子ども達の様々な能力が低下し始めましたから。まず、「感じ、考え、工夫すること、仲間と一緒に行動することを楽しむ事が出来る子」が減りました。そして、「自由を与えられると戸惑う子」「すぐに正解ややり方を教えてもらおうとする子」が増えました。造形などでも簡単便利を求める子が増えました。「何か簡単に出来るものない?」と聞いてくる子も多いです。新しいことに挑戦せず、一度やってうまく行ったことばかりを繰り返そうとする子も多いです。ノコギリも使えないのに、作りたいものを具体的に説明することもできないのに「すごいもの」を作りたがる子も多いです。技術は幼稚園以下なのに、作りたいものは大人並みなんです。また、これは今時の子ども達の特徴でもあるのですが、「考えたことや、感じたことを言葉化する能力」がかなり低いです。そもそも「言葉」を知りません。知識としては色々な言葉を大量に知っているのですが、それが現実とつながっていないのです。例えば、「縦、横、高さ」という言葉は知っていても、実際にものを見せて、「どれが縦?」「どれが横?」「どれが高さ?」と聞いても、答えられない子が多いのです。「真ん中」という言葉は知っていても、棒を渡して「どこが真ん中だと思う?」と聞いても分からない子もいます。(いつも折り紙なんかで遊んでいる子は簡単に分かると思います。)また、「なんか作りたい」と言う子も多いです。それで「〝なんか〟ってなあに」と聞くのですが、答えられません。「なんか」としか言わないのに、「何で分かってくれないの」などと文句を言ってくる子もいます。それで「ごめんね、先生テレパシー使えないから」などと言ったりもします。感じ、考え、イメージしたことを言葉化するためには、それを聞いてくれる相手が必要になります。聞いてくれる相手がいなければ言葉化する必要がないのですから。また、友だちが遊びの場で、感じ、考え、イメージしたことを伝えようとしてくれば、その言葉に耳を傾けます。そして、そのような言葉を理解する能力も育ちます。これは家庭の中でも同じです。でも今、生活の場でも、遊びの場でも「言葉」がドンドン消えています。生活の場でも、遊びの場でも、便利な機械の登場で「言葉」を必要としなくなったからです。それは、セルフレジと同じです。家族や仲間とのリアルな体験や遊びには、「子ども達の言葉を育てる働き」もあったのですが、それを失うことで言葉を使えない子が増えて来たのです。そして人は、言葉を失うことで本能的な欲求に支配されやすくなります。
2025.02.26
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一般的には「遊び」というと「鬼ごっこ」や「縄跳び」のような「からだを使った遊び」をイメージしますが、「遊び」を「楽しさや喜びを求めて自発的に行う行為」と定義するなら、もっともっと多種多様な「遊び」があります。「勉強」も、嫌いな子にとっては苦役であり、労働に過ぎませんが、好きな子にとっては「遊び」であり「趣味」でもあります。そういう子は勉強を通して色々なことに気付き、発見しているのでしょう。だから楽しいのです。お料理作りや子育てを「苦役」と感じている人もいますが、それを「遊び」のように楽しんでいる人もいます。「苦役」と感じている人はその行為から何も学べていないのでしょう。だから楽しくないのです。私は、子どもの頃「群れて遊ぶ遊び」もやっていましたが、自分の記憶として一番多いのは「一人遊び」です。私の家は鎌倉にあったのですが、裏が山で、庭には普通に沢ガニが歩いているようなところでした。車が走っている道まで出るのに200mくらいありました。海まで歩いても10分もかかりませんでした。そんな所でしたから子どもも少なかったです。隣の家にも子どもがいましたが「嫌なやつ」でした。で、ほとんど遊びませんでした。裏の家には、大きなお兄ちゃんとお姉ちゃんしかいませんでした。弟もいましたが、どうも弟とは遊びの趣味が違っていたようです。私の子どもの頃の記憶は、庭をモクモクと走るモグラや、池によく現れる蛇やカエル、風に揺れる木々の音と風の音、鳥の声、二階の窓から正面に見える富士山、沢山の昆虫たち、海の生き物たち、海岸に打ち上げられた無数の貝殻などなど、そのほとんどが自然や命とつながる記憶ばかりです。そういうものを見たり、感じたり、聞いたりすることが、子どもの頃の「私の遊び」だったのです。それは一般的に言われているような「遊び」とは異なりますが、私にとってはそれが「遊び」だったのです。唯一の例外が、年長から小二まで、家の都合で東京の葛飾に住んでいたことがあり、その時の「群れ遊び」の体験です。その時に初めて、「昔遊び」や「伝承遊び」をいっぱい体験しました。鎌倉の私の家の周辺には「子どもの群れ」自体がありませんでしたから。でも、小三でまた鎌倉の家に戻ったので、それ以降は一人で遊ぶ時間が多くなりました。そしてその頃からはまったのが「本を読む」という遊びです。転校生だった私の遊び相手は「本」だけだったのです。正確に言うと「本」そのものではなく、その本の中に書かれている「物語」です。私は山のように本を読んで、その物語の中で遊んでいたのです。暗い子でしょ。中学の頃、ホームルームで「他の子の気になるところを指摘する」という時間があったのですが、その時「しのくんは休み時間も外に出て遊ばないで本ばかり読んでいます。それってよくないと思います」と誰かに書かれたこともあります。よけいなお世話です。そんな中学生の頃によくやっていたのが「宇宙船の設計図を描く」という遊びでした。SF小説が大好きだったので、自分で宇宙船を設計するとしたらどういう宇宙船にしたいのかを考え、絵に描いて遊んでいたのです。また、「家族ロビンソン」とか「15少年漂流記」とか「地底探検」とか「無人島の三少年」とかいう冒険ものも好きだったので「無人島の地図」なども描いて遊んでいました。「ドリトル先生」とか「長靴下のピッピ」とかも読んで、空想の世界で遊んでいました。あと、幾何学が大好きだったので、幾何の問題を解いて遊んだりもしていました。高校に入ってからは証明問題にはまり、本屋で難しそうな問題集を買ってきて解いて遊んでいました。「群れて遊ぶ遊び」「からだを使って遊ぶ遊び」だけが「遊び」ではないのです。「一人だけで楽しむ遊び」だって立派な「遊び」なんです。「感じ、考え、空想して遊ぶ遊び」だってあるのです。でも、ゲームをやってしまうと、その全部をゲームに吸い取られてしまいます。
2025.02.25
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多くの大人たちが「遊びと勉強は別物」だと考えています。だから「遊んでばかりいないで勉強しなさい」などと子どもを追い立てます。でも、追い立てられて勉強しても、子どもはその勉強から「自分の成長に必要なこと」を学ぶことが出来ません。でも、「遊び」は追い立てられなくても自主的に行います。どうしてだか分りますか?それは「遊び」こそが、子どもが「自分の成長にとって必要なこと」を学ぶことが出来る活動だからです。お腹が空けば「食べなさい」などと言わなくても自主的に食べますよね。それと同じです。その「遊び」の中には、「あらゆる学びへとつながる種」が含まれています。そして、その「種」が芽を出すかどうか、成長するかどうかは、本人の努力以上に環境と運の影響の方が強いです。特に、自我の働きが弱い思春期以前の子どもにおいては、環境と運の影響は絶大です。どんなに才能があっても、その才能を生かす場がなかったり、周囲からその才能を否定され続けていたら、その才能は伸びることも花を咲かせることもなく、枯れてしまいます。世の中には、そのように芽を出すことも、花を咲かせることも出来なかった天才が山のようにいるのでしょうね。もしかしたら、皆さんのお子さんにも何らかの才能があるのかも知れませんよ。それを見極める簡単な方法があります。遊びでも、他の何かでも、その体験の後、ただ「楽しかった」ではなく、その体験を通して何かに気付いたり、発見したり、そのことに関して自分の意見を言えるようなら、その活動に対して才能がある可能性があります。そのような子は、同じ活動を繰り返しても、同じ体験はしません。毎回、「前回気になったこと」を確認しようとするからです。その繰り返しで成長していくのです。まただから、何回同じ事をしても楽しくて仕方がないのです。毎回新しい発見があるから「楽しい」が持続するのです。そしてその繰り返しの先に、アートや、宗教や、様々な学問や、科学といった世界が存在しているのです。そして実際、人類はそのような過程を通って、現代のアートや、宗教や、様々な学問を創り上げてきたのです。ゲームでも、ゲームクリエイターの手のひらの上で遊んでいるだけでなく、「もっとこうやった方が面白くなるのに」と感じることが出来る子は、ゲームクリエイターの才能があるのかも知れません。ディズニーランドに行っても、ただ「楽しかった」ではなく、「こういうアトラクションが欲しい」とか、「あのアトラクションはこうした方がもっと面白くなるのに」と、気付くような子はそういうアトラクション関係の才能があるのかも知れません。でも、才能がない子は何も気付かないし気にならないのです。だから、何回同じ事をやっても何も学べないし、成長もできないのです。私は自宅で造形教室をしていますが、同じようなことでも何回も繰り返してチャレンジする子もいます。椅子を作ったり、モーターで何かを作ったり、羊毛で何かを作ったりを繰り返す子もいます。そして、そういう「繰り返す子」は、どんどん成長していきます。でも、そういう子は少ないです。多くの子は「この前やったからもういい」と言います。何も発見出来なかったのでしょうね。そしていま、体験を通して何も発見出来ない子が非常に多いです。能動的に体験していないから発見出来ないのです。勉強でも遊びでも、能動的に取り組むことが出来る子が減ってきました。特に、リアルな遊びが足らなくてゲーム時間が長い子ほど、能動的に取り組むのが苦手なような気がします。お母さん達も同じです。「子育ては毎日同じ事の繰り返しだ」と言って嘆く人がいますが、実際には、子どもの状態も、自分の状態も、周囲の状況も、毎日毎日変化しています。だから、昨日うまく行った方法を今日使ってもうまく行かないこともあります。その事に気付き、能動的に考えてあれこれ工夫することが出来る人は、子育てを通して成長することが出来ます。子育てを楽しむ事も出来ます。子育てを「辛く退屈な労働」としてしか感じることが出来ない人は「子ども記録」や「子育て記録」を書いてみると、何か気付くことがあると思います。何かに気付くことが出来ると、「辛く退屈な労働」ではなくなるかも知れませんよ。
2025.02.24
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子ども達の遊びを見ていると、子ども達の成長の段階と状態が見えてきます。子ども達の自発的な遊びは、脳機能や、心や、からだの成長段階の現われでもあるからです。赤ちゃんはハイハイで色々な所に行ったり、色々なものに触れ、色々なものを口に入れ舐めます。また、猫のように人が作ったものを壊して遊びます。お兄ちゃんやお姉ちゃんがいるとそれでケンカが起きます。また安心、安全を優先する大人にとっても、それは「問題行動」ですが、赤ちゃんにとっては「成長に必要な活動」なんです。またそのような自発的な遊び(行動)をよく観察することで、「今この子に必要な刺激や活動や体験」が見えてきます。そして、そのようなものを「遊び」として意図的に与えることも出来ます。すると、子どもの気持ちを満足させることも出来るし、その時期の成長をうまく支えてあげることも出来るのです。たとえ、その行為(遊び)が、大人にとっては「困ったこと」であっても、子どもは基本的に「自分の成長に必要なこと」しかしないのです。大人は、単なる暇つぶしのような「無駄なこと」をしますが、子どものやることにはみんな意味があるのです。大人が「問題行動」だと考えていることも、子どもの成長にとっては必要なことであり、意味があるのです。それは、冬になるとビタミンCが豊富なミカンが食べたくなり、筋肉が大きく育つ思春期には肉が食べたくなるのと同じです。そして、からだが求めている時に必要なものを食べるから美味しいのです。それと同じように、子どもが「自分の成長に必要なものを満たすための活動」(遊び)をしている時には、その活動が嬉しくて楽しいのです。それが「子どもの遊び」の意味であり、子どもが「遊び」に夢中になる理由なんです。子ども達が「自分の成長に必要なものを満たそうとする衝動」が「遊び」という形で表れるのです。問題は、それが「大人にとっては困った行動」であることがちょくちょくあるということです。特に、大人によって管理されているような場では、「子どもの生命欲求に基づく行動(遊び)」は「困った行為」として否定されてしまいます。森の中でなら問題にならないような活動でも、それを狭い部屋の中でやられたら問題行動になってしまうのです。また、「遊び」は「子どもの成長に必要な活動」ですから、子どもの遊びには、その成長に伴う「旬」があります。いつもなんでも舐めていた赤ちゃんでも、ある時期を境にピタッとそういうことをしなくなります。そして、新しい成長段階に伴う新しい遊びを始めます。食べ物でも、ある時期はそればっかり食べていたのに、その時期を過ぎると見向きもしなくなることがあります。ハイハイばかりしていた子どもも、歩けるように、走れるようになってくると、次の段階として高い所に登ったり、飛び降りたりし始めます。走り回ったり、クルクル回ったり、ピョンピョン跳ねたりします。このような「からだを使った遊び」に夢中になっている時期の子どもは、そのような全身を使った活動を通して心とからだ、からだの様々な機能の統合をしようとしているのだと思います。でもいま、その統合が出来ていない子が多いです。オモチャを投げて遊んでいる子も、「投げる」という活動を通して目や手やからだの統合をしようとしているのです。そんな時は、投げても大丈夫なもので「投げて遊ぶ遊び」に誘ってあげればいいのです。子どもが「困った遊び」をしているようなときには、大人がちょっと工夫して、その活動を「子どもの本能的な欲求を満たす遊び」に変えてあげると子どもは喜ぶし、その成長欲求も満たされるのです。でも、大人の思い込みや都合だけで「子どもの活動」(遊び)を禁止してしまうと、色々な問題が起きてきます。ゲームを与えれば子どもは大人しくなりますが、子どもの成長に必要なものは満たされなくなります。心とからだ、からだの様々な機能の統合も出来なくなります。その統合段階が過ぎてしまった子は、そのような全身を使った活動をしなくなります。必要がなくなったからです。また、「成長過程にある子どもの遊び」と「成長が止まってしまった大人の遊び」の意味は大きく異なります。「大人にとっての遊び」は「成長に必要なもの」を満たすためのものではなく、「頭と心とからだのバランス」を整えるためのものです。ストレス発散も出来ます。お酒を飲むのも「大人の遊び」の一つです。だから大人にとっても「遊び」は必要なんです。でも、大人の「遊びに対する価値観」で「子どもの遊びの是非」を判断してはいけないのです。
2025.02.23
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4月から、茅ヶ崎で対面ですが「遊びの勉強会」という新しい講座を始めます。子育てや遊びの仲間作りがしたい人、「子どもとの遊び方」や「なぜ、子どもには遊びが必要なのか」ということについて知りたい方はお問い合わせ下さい。実際に体験しながらお伝えします。先日来からお知らせしている「こちら」のサイトに詳細が書いてあります。**************オモチャがなくても、ゲーム機がなくても、お金がなくても、またどこにいても遊ぶことが出来ます。車や電車に乗っている時も、レストランで料理を待っている時も、騒がなくても、走り回らなくても遊ぶことがでいます。そういう遊びを知らない子が、そういう場で騒ぎ出すのです。そういう場で騒いでいる子に文句を言う大人に「不寛容だ」と責める人もいますが、でも、赤ちゃんならともかく、騒いだり走り回れるほどの年齢の子なら、他の人がいる公共の場では静かにすることが可能なはずなんです。また、親や大人はそういうことを伝えるべきです。(叱る必要はありませんが伝える必要はあります。)そうでないと子ども自身が困ることになるからです。学習にも困難をきたすでしょう。そんな時、日常的にゲーム機やおもちゃといった「遊んでくれるもの」で遊んでいる子は、ゲーム機を与えられれば大人しくなります。それで親は安心するのでしょうが、でもそのような対応は子どものためになりません。ゲーム機で遊ぶことが許されない授業中には騒ぎ出してしまう可能性が高くなるからです。また「遊んでくれるオモチャ」でばかり遊んでいると、授業に集中する能力も低くなります。森の幼稚園のようなところに通っていて、日常的にゲーム機やおもちゃであまり遊んでいない子でも、「騒いだり走り回るような遊び」しか知らなければ、そういう場でも騒いだり走り回ったりします。特に仲間がいると、電車の中でも森の中でやっているような「いつもの遊び」を始めます。(そういう子ども達を連れて電車に乗るのはなかなか大変です。)そのような子の親もまた、「ものに依存しない遊び」や「騒いだり走り回らない遊び」を知らないし、子どもにも伝えていないのでしょう。騒いだり走り回ったり、ゲーム機がなくても楽しく遊ぶ遊びはいっぱいあるのです。でもそのような遊びを学ぶためには、「大人との関わり合い」が必要になります。お絵かきや、あやとりや、しりとりや、折り紙もそのような遊びの仲間ですが、これらの遊びも、最初は、大人から「きっかけ」をもらう必要があります。「折り紙」という物を与えるだけでは子どもは折り紙で遊び始めたりはしないのです。クレヨンや絵の具を与えるだけでは絵を描き始めたりしないのです。中でも一番大切なのは「言葉」を学ぶことです。「言葉」を学ぶことが出来れば様々な遊びが可能になります。「言葉」だけで遊ぶことも出来ます。ルールや目的を共有して仲間と一緒に遊ぶことも出来ます。お絵かきにも「言葉」が必要なんです。その証拠に「言葉の育ち」と「絵の表現」はリンクしていますから。でも、「言葉」の学びが足らない子は、おもちゃやゲーム機といった「物に依存した遊び」や、騒いだり走り回ったりというような「本能に依存した遊び」でしか遊ぶことが出来ません。仲間と一緒に大騒ぎをすることは出来ても、ルールや目的を共有してつながり合いながら遊ぶことも出来ません。「言葉」がちゃんと育っていない子は、仲間とルールや目的を共有することが出来ないからです。そういう子は仲間と遊んでいるときも自分勝手な行動ばかりしようとします。でも、そのことを指摘しても、言葉が育っていない子は何を言われているのか分からないのです。おもちゃやゲーム機での遊びには「言葉」が必要ないので、「言葉」が育っていない子でも楽しく遊べます。また、騒いだり走り回ったりするだけの遊びにも「言葉」は必要ありません。だからそのような遊びばかりしている子は「言葉の育ち」が遅れてしまうのです。「言葉の育ち」が遅れている子に、お絵かきや、あやとりや、しりとりや、折り紙といった遊びを教えるのはなかなか困難です。「角と角を合わせるように折って」と言っても、そもそもの「角」とか「折る」という言葉を知らないのですから。また、言葉に対する興味自体がないので、「分からない言葉」を教えようとしても「つまんないからやらない」と言って拒否します。これは、お絵かきやしりとりを伝える場合でも同じです。でも、「言葉の学びの遅れ」は「知性や心や意識の育ちの遅れ」につながってしまうのです。「セルフコントロール能力の育ちの遅れ」にもつながっています。人間の「人間らしさ」の源は「言葉の働き」だからです。そのような状態の子にとっては、ゲームをやっている時だけが自分らしくいることが出来る自由な時間なんだろうと思います。だから、無理にゲームを取り上げてはいけないのです。そんなことをしたら別の問題が起きてしまいますから。でもだからといって、その状態のままでいいということでもありません。じゃあどうしたらいいのかというのは難しい問題です。周囲の助けも必要になるでしょう。とにかく、子どもを一人ぼっちにしないようにすることが必要なんです。「お母さんも子どもと一緒にゲームをする」というのも一つの方法です。
2025.02.22
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今、子ども達の「遊び」がどんどん失われてきていますが、そのことに気付くことが出来るのは、子どもの頃いっぱい遊んでいた人だけです。そして今、「遊びが失われてしまった」ことに気付くことが出来る人がどんどん減ってきています。子ども達に「先生が子どもの頃はスマホも、テレビも、ゲーム機もなかったんだよ」と言うと、「じゃあ、どうやって遊んでいたの?」と聞かれます。で、説明するのですが当然、話が通じません。体験がないのでイメージも出来ないし、「なんでそんなことが楽しいのか分からない」とも言います。これは子どもに限ったことではなく、今ではお母さんやお父さんたちも同じ状態です。だから、簡単に「子どもが退屈しないように」とテレビを見せたり、スマホやゲーム機を与えてしまうのでしょう。でも、そのようなものを与えることで、子ども達はさらに「外の世界」(現実の世界)への興味や関心を失っていきます。自然の中で遊んだり、仲間と遊ぶことへの関心も失っていきます。空想と現実の区別が付かなくなります。大人は「子どもだってあんなこと空想だってこと知っているよ」と思い込んでいますが、それは「現実」を知っている大人の認識です。小さな子は本気でサンタクロースを信じています。女の子の中には「何歳になったらおちんちんが生えてくるの」と真面目に聞いてくる子もいます。テレビで見たことを「本当のこと」だと思い込んでしまう子も多いです。そういう認識世界に生きている子が「空想」と「現実」の区別が付くと思いますか。「僕は戦争に行っても死なない」とか、「死んでも生まれ変わるから大丈夫」と真面目に言った子もいます。子ども達は本能的に、探検し、冒険し、チャレンジし、仲間と群れて遊ぶのが好きですが、今では、ゲームの仮想空間の中でそのような体験をすることが出来ます。ゲームの世界の中では現実世界では出来ないような冒険やチェレンジすら出来てしまいます。まただから、ますます「無力な自分と向き合わなければならない現実世界」への興味を失っていきます。でも、そんな風に「現実の世界」とのつながりを失った状態で育った子も、やがて「現実世界」に放り出されます。お金を出してくれる親の保護を失えば、仮想空間の中で生きていくことが出来なくなってしまうからです。「お金の終わり」が「それまで自分が生きてきた世界の終わり」になってしまうのです。でも、現実世界での生き方が分からない子は、指示や命令に従う生き方しか出来ません。現実世界の中で自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し行動する能力は、現実世界の中での体験を通してしか育たないからです。また、指示や命令に従ってお金を得ても、それを仮想空間の中での自由を得るために使ってしまう若者も多いのではないでしょうか。それはまるで麻薬のようなものです。繰り返しますが、現実世界の中で自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志で判断し行動する能力は、現実世界の中での体験を通してしか育たないのです。そしてそれが、子どもの成長にとって、「現実世界の中で、リアルな自分のからだを使って、リアルな仲間と、リアルな自然と関わって遊ぶこと」が絶対的に必要な理由なんです。でも、もうすでにゲーム漬けになってしまっている子からゲームを取り上げるだけでは子どもとの戦いが生まれるだけです。またそれがよい結果につながるとも思えません。そのような場合は、「ゲームの世界」を否定するのではなく、「ゲームの世界」と「現実の世界」をつなげてあげるような工夫が必要になるのです。
2025.02.21
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ただ子ども達を大勢集めても、それだけではカオスが生まれるだけです。だから大人が指示や命令を出して子どもをまとめることになるのですが、でも、指示や命令を出すことで、子どもをまとめ、様々な遊び(集団行動)をやらせることが出来たとしても、その「やらせられた遊び」には子どもの成長を支える力がありません。大人の手柄になるだけです。時々、テレビなどで「素晴らしい保育士」の紹介などをしていることがありますが、そのような保育士は子どもの扱いが上手です。子どもをうまくまとめ、遊ばせるのが上手です。だから「○○先生は素晴らしい」ということになるのですが、でも、○○先生の指導のもとで子ども達がいくら楽しく遊んでも、その遊びの主人公は「子ども」ではなく、その「○○先生」です。そのため、子ども達は「遊び」をその先生に依存することになり、その先生がいないと遊べなくなります。それはテレビやゲームと同じ「受け身の遊び」だからです。子どもと子ども、人と人、子どもと大人がつながるためには、両者を「つなぐもの」が必要になります。これは人間と自然がつながる場合も同じです。「つなぐもの」がない状態で「つながりなさい」(仲よくしなさい)と、つながることを要求しても無理です。言葉や、知識や、文化や、宗教や、利害などもその「つなぐもの」としての働きを持っています。でも、これらは共有されている状態で、はじめて「つなぐもの」として機能します。というか、共有されていれば、石でも花でも水でも「つなぐもの」として機能するのです。一本のヒモが共有されているとき「綱引き」や「縄跳び」が発生します。水が共有されているときには共同体が生まれます。そして、その「つなぐもの」の性質が、その「つながり」の性質に大きな影響を与えます。「お金を共有しているつながり」と「宗教を共有しているつながり」はその状態が大きく異なります。そして、子ども達の成長にとって必要になるのは「楽しい、嬉しいという感情を共有することで生まれるつながり」です。そしてそれが「遊び」と呼ばれるものです。そして、(見てきたわけではありませんが)太古の昔から子ども達は「遊び」を共有することでつながり、そのつながりの中で様々なことを学び育って来たのです。幼い子ども達はお母さんと「感覚や、感情や、体験の共有」をすることでつながっています。そしてその共有の中に安心と喜びを感じます。ですから、幼い子どもにとっては「お母さんと感覚や感情や体験を共有すること」がそのまま「遊び」になるのです。またお母さんは、その「遊び」(感覚や感情や体験の共有)を通して言葉を伝えています。子どもは、「お母さんとの遊び」を通して「言葉」を学んでいます。お母さんが教えたからではなく、自分に向けて話しかけてくれるお母さんとの遊びを通して自主的に言葉を覚えるのです。そして、3.4才頃になると、お母さんと共有していた「楽しい」「嬉しい」という感覚や感情を、他の子ども達とも共有しようとし始めます。そして「遊び」が生まれます。この頃の子どもは、ただ一緒に同じことをしているだけで楽しいのです。一緒に走り回り、一緒に大きな声を出すだけで楽しいのです。その「一緒」がこの時期の子ども達の遊びです。5,6才頃になるとさらに「ルール」を共有出来るようになります。すると、いわゆる「群れ遊び」が出来るようになります。問題は、今、その「共有する」という感覚が育っていない子、「共有するもの」を持っていない子が多いということです。「お母さんごっこ」という遊びは「お母さん体験」を共有出来る子ども達同士でないと遊ぶことが出来ません。みんなで楽しく遊ぶためには、「楽しい」「嬉しい」という感情を共有する必要があるのですが、自分だけ楽しもうとする子が多いです。お母さんと「楽しい」「嬉しい」を共有できない状態で育った子は、幼稚園などに入っても他の子とつながることが出来ません。そして今、そのような状態の子が増えています。それは、様々な事情で「お母さんと一緒」を共有できない状態で育っている子ども達が増えてきたからなのでしょう。今、一人でゲームや動画を見たり、オモチャで遊んで育っている子が多いですが、そのような遊びしかしていない子は他の子がいる状況の中でも、一人だけで遊ぼうとします。そのため色々なところでぶつかり合いが起きます。「共有する」という感覚が育っていない子は自分の事ばかり考えて行動するのでぶつかり合いが起きてしまうのです。それでも、そのぶつかり合いを通して、次第に「みんなで遊ぶ」ということを学んでいくのですが、傍にいる大人は、子どもがぶつかりケンカすると、両者を引き離してしまいます。そして、無理矢理謝らせます。でもその結果、子どもはますます他の子との関わり方が分からなくなっていきます。ちなみに保育園の先生の基本的な役割は「保護」であって、一人一人の子どもと関わり、「言葉」や「感情」や「体験」や、「嬉しい」「楽しい」を共有することではありません。まあ、この辺りは保育園によって大きな違いがあるので一概には言えませんが、数合わせだけで作られた保育園はそういうところが多いのではないかと思います。朝、近くの大きな公園には様々な保育園の子ども達が先生と遊びに来ていますが、基本的に先生達は群れを管理しているだけで、一人一人と丁寧に関わって遊んでいるわけではありません。「遊び」も先生が管理しています。子ども達に「遊び」を伝えるためには、ただ単に「遊び方」を伝えるだけではダメなんです。その前に、お母さんや周囲の大人達との関わりを通して、「他の人と何かを共有する楽しさ」を伝えておく必要があるのです。でも、テレビやゲーム機は、この「共有する楽しさ」を与えてくれないのです。
2025.02.20
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4月から、茅ヶ崎で対面ですが「遊びの勉強会」という新しい講座を始めます。子育てや遊びの仲間作りがしたい人、「子どもとの遊び方」や「なぜ、子どもには遊びが必要なのか」ということについて知りたい方はお問い合わせ下さい。実際に体験しながらお伝えします。先日来からお知らせしている「こちら」のサイトに詳細が書いてあります。**************日本語の「あそび」という言葉には「余裕」とか「ゆとり」という意味もあります。それはまた「非生産的な状態」でもあります。それは「遊んでばかりいないで勉強しろ」とか、「遊んでばかりいないで仕事をしろ」という表現の通りです。でも、勉強でも仕事でも、ギチギチに詰め込んで「ゆとり」(あそび)を消してしまったら、やがて心とからだが壊れます。また、自由を失うため、変化に対応出来ません。太極拳や武道などでよく言われる「ゆるめる」ということも、「心とからだの中にあそびを持たせる」ということです。「あそび」があるから色々な状況に即座に対応出来て、自由に動くことが出来るのです。「ゆるめる」ということは、ただ単に「力を抜く」ということではなく、「心とからだを自由な状態に保つ」というなんです。そのために無駄な力は抜きますが、必要な力までは抜かないのです。必要な力まで抜いてしまったら戦えませんから。そもそも立っていることすら出来なくなります。「あそび」は「心とからだの自由」と密接に関係しているのです。そして「ゆるめる」ために必要なのは「楽しむ」とか「味わう」ということです。それは「意識」を「頭」ではなく「心」や「からだ」に戻すことでもあります。ブルース・リーが「Don't Think, Feel!」と言った通りのことです。からだのワークなどで「もっとからだをゆるめて」と言うと、意識の働きで力を抜こうとします。でも、それでは抜けないのです。抜こう抜こうと意識することで、その想いとは逆に力が入ってしまうのです。頭の働きにはからだを固める働きがあるからです。子育てでも、「怒らないように、怒らないように」と我慢していると、そのうち大爆発を起こすか、我慢のしすぎで「心とからだを支えている様々な流れ」が阻害され、やがて、心とからだが壊れます。それも同じ原理によるものです。でも、子育てを楽しもうとしたり、子育てから学ぼうとしていると、心に余裕(あそび)が生まれ、そもそものその「怒り」が生まれなくなるのです。ですから、「遊ぶ」ということは、ただ単に「非生産的な活動をしている」と言うことではなく「それを楽しんでいる」ということでもあるのです。「鬼ごっこで遊ぶ」という言葉は「鬼ごっこを楽しんでいる」と言い換えることが出来ます。「野山で遊ぶ」ということは「野山での活動を楽しんでいる」と言い換えることが出来ます。これは家事や勉強でも同じです。家事を楽しんでいる人は、家事で遊んでいるのです。勉強を楽しんでいる子は、勉強で遊んでいるのです。そして、我慢して、頑張って勉強している子よりも、勉強を楽しんでいる子の方が伸びるのです。なぜなら、楽しみながら吸収したことは頭と心とからだ全体に染み渡るのに対して、頑張って勉強したことは頭の中だけにしか留まらないからです。頭の中に留まっているだけでも試験の時には有効ですが、自分の人生を自分のものとして生きて行くときの役には立ちません。また、「遊ぶ」という日本語は英語では「Play」という言葉に訳されますが、でも、「Play」という言葉には「余裕」とか「ゆとり」とか「楽しむ」という意味はありません。「Play」は純粋に動詞だからです。「Play」の語源を調べてみるとAI による概要英語の「play」は、古英語の「plegan」が語源で、「動く」という意味があります。と書かれていました。「楽しむ」ではなく「動く」なんです。「PLAY TENNIS」は「テニスをする」という意味であって「テニスを楽しむ」とか「テニスで遊ぶ」という意味は含まれていないのです。テニスを楽しむ場合は、「enjoy」という言葉をつけて、 「enjoy playing tennis」 と言うしかないのです。でも日本語の「テニスを楽しむ」という言葉には「テニスをする」という動詞的意味も「遊びとしてのテニス」という意味も同時に含まれています。でも、きまじめで見かけを重視する日本人は、「遊びながらでもちゃんと理解し吸収出来る学び方」よりも、吸収は出来なくても、眉間にしわを寄せて一生懸命に頑張っている姿の方を好むのです。そして実際、大人達は子どもにも「楽しむ勉強」や「遊びながら学ぶ学び方」よりも、「椅子に座ってひたすら頑張る勉強」を強いています。楽しく勉強をする工夫をしたり、楽しく仕事をする工夫をしたりすると、「勉強は遊びじゃない」とか「仕事は遊びじゃない」と怒る大人も多いです。まただから子ども達は勉強が嫌いになり、学校が嫌いになり、勉強したくなくなり、学校に行きたくなくなるのです。まただから、大学に入ってしまった途端に勉強しなくなるのです。日本の大学生と欧米の大学生の学力差はかなり大きいのではないかと思います。またそういう学び方を強いているから、子どもに「何で勉強しなければいけないの」とか「何で学校に行かなければいけないの」と聞かれても、子どもが納得できるような形で答えることが出来ないのです。
2025.02.19
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4月から、茅ヶ崎で対面ですが「遊びの勉強会」という新しい講座を始めます。子育てや遊びの仲間作りがしたい人、「子どもとの遊び方」や「なぜ、子どもには遊びが必要なのか」ということについて知りたい方はお問い合わせ下さい。実際に体験しながらお伝えします。先日来からお知らせしている「こちら」のサイトに詳細が書いてあります。**************今日からしばらく「遊び」について書いていきます。「子どもの心とからだの健全な成長にとって、〝遊び〟がいかに大切なのか」ということを書いている人はいっぱいいます。またそのことを知っている人もいっぱいいます。でも、「〝遊び〟とはいったい何なのか」ということを知っている人、考えている人は少ないような気がします。多くのお母さんが、子どもに「遊んでばかりいないで勉強しなさい」と言っています。そういう表現をする人は「遊び」を「勉強と対立するもの」として考えているのでしょう。そして、そのように考えている人は多いです。「遊びの大切さ」を訴えている人の中にも「遊び」と「勉強」を対立的に考えている人は多いです。でも実際には、「遊び」の中で学び、「学び」の中で遊ぶことも出来るのです。これは大人でも同じです。本来、「遊び」と「学び」は分離できないのです。それが分離してしまったのは、大人たちが「学び」と「勉強」を切り離し、「学び」よりも「勉強」の方を重視するようになってきたからです。ちなみに、googleで「勉強という言葉の語源」について調べたら、以下のように出てきました。<AI による概要>「勉強」の語源は中国語で、「無理を強いる」「励む」という意味です。儒学の古典である『中庸』や『礼記』などに「勉強」という言葉が登場します。つまり、「学び」の主体は「子ども」ですが、「勉強」の主体は「大人」なんです。だから同じ子ども主体の「学び」と「遊び」は共存できても、主体が異なる「勉強」と「遊び」は共存できないのです。そしてだから、子どもは勉強から逃げようとするのです。でも、子どもの心とからだと知性の健全な成長に必要なのは、大人が押しつける「勉強」ではなく、子どもが自分の意志で行う「学び」の方なんです。そして、「学びとつながった遊び」をしている子は生き生きしているし、どんどん成長して行くことが出来ます。そして、「遊びとつながった学び」をもっと進めたいと想い、自分の意志で勉強を始めます。例えば、虫が好きな子は虫を捕まえたり、虫を飼ったり、虫のことを調べたり、友達と虫について話したりすることが好きです。それがその子の「遊び」であり、また、「学び」でもあります。そしてその学びは、それを進めていくことでやがて、数学、科学、工作、芸術、歴史とつながってきます。そして、「体験では補えない学び」の必要性に気付き始めます。すると、自分の意志で勉強するようになります。ただ、「遊び」の中で「学び」が発生するためには、その「遊び」がリアルな体験とつながっている必要があります。「リアルな体験」だからこそ、色々な世界とつながり、色々な勉強の必要性につながるのです。でも、デジタル空間での遊びはデジタル空間の中だけでその世界が閉じてしまっているのです。デジタル空間の中での学びはデジタル空間の中でしか使えません。デジタル空間の中で知りたいことは、わざわざ勉強などしなくてもネット回線で簡単に手に入れることが出来ます。
2025.02.18
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4月からの、気質や、子育てや、遊びや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************気質が違うと、からだの使い方も違います。胆汁質の人は「意思の力」でからだを動かそうとします。ですから、力は出るのですが動きが固く直線的になります。また押すことは出来ても引くことが苦手です。上半身を主に使う活動が得意です。ボクシングのような殴り合うような戦い方が好きです。日本のノコギリは腰で引いて切りますが、欧米のノコギリは上半身で押して切るように出来ています。多血質の人は「感情の力」でからだを動かそうとします。ですから多様で全身を使った動きが出来ます。また、ダンスのような「からだを使って表現する」ことも得意です。でも、あまり力は出ません。静かな動きや直線的な動きも苦手です。戦いは好みません。粘液質の人は「感じる力」でからだを動かそうとします。ですから、「からだを使った対話」が得意です。そして、その対話を楽しみます。そのため動きが遅くなります。また、上半身ではなく下半身を使った動きが得意です。押すよりも引く方が得意です。胆汁質はまず上半身が動き、それに合わせて下半身が動きますが、粘液質の人はそれとは反対に、まず腹、腰などの下半身が動きそれに合わせて上半身が動きます。そのため動きの範囲が狭くなります。日本舞踊や能のような動きをイメージしてもらえば分かりやすいと思います。また、武道などにおいても「腰や腹を使った戦い方」が得意です。相撲もそうですよね。また、胆汁質は「上半身を使った攻撃」が得意ですが、粘液質は「下半身を使った受け」が得意です。実際、合気道には攻撃技がないと聞きます。そのため、戦う意思がない相手とは戦いません。日本の武術は基本的に平和的なんです。ですから、本来、日本生まれの武道は「勝ち負けを競うスポーツ」には向いていないのです。でも、そんな日本の武道でもスポーツ化されると日本的な良さを失い、攻撃的な要素が強くなります。武術の目的は「自己鍛錬」と「身を守ること」ですが、スポーツの目的は「相手に勝つこと」ですから。ちなみに多民族国家である中国には「攻撃を得意とする武術」も「受けを得意とする武術」もありますが、基本的には中国の人も粘液質が強いので、ボクシングのように攻撃に特化した武術はないみたいです。そのため、中国武術の達人でも、リングの上でボクシングルールで戦わされたら負けてしまいます。生き残るための中国拳法と、勝ち負けを競うだけのボクシングとではそもそもの目的が違うのですから。最後になりましたが、憂鬱質の人は「心の力」でからだを動かそうとします。普通は「力」を使ってからだを動かします。でも「力」を使わなくても「心」を使えば人のからだは動くのです。好きな人が傍に来たらからだは緩みますが、怖い人が来たらからだは固まりますよね。そんな時、「力」なんか使っていませんよね。また、疲れて歩くのがしんどい時、「誰かに腰を押してもらっている」とイメージするだけでからだが軽くなるものです。重いものを持ち上げる時も、「上から目に見えない力でひっぱってもらっている」とイメージするだけで少しは軽くなるのです。また、人と人が向き合っている時、こちらのからだの状態は相手のからだの状態に影響を与えています。感情の状態も、感覚の状態も、そして心の状態も相手に影響を与えています。心とからだが固くなっているお母さんが近づくだけで、子どもの心とからだも固くなります。その逆もあります。何も言わなくても、何もしなくても、心とからだが緩んだお母さんが傍にいるだけで、子どもの心とからだも緩むのです。攻撃をする時に「今だ」と心の中で思ってしまうと、相手はその心に反応して動いてしまうのです。昔話に、人の心を読む「さとり」という妖怪が出てきますが、「さとり」でなくても人間にもそれに近い能力があるのです。そのため、こちらが心の中で「殴ろう」と思っただけで、相手は防御を始めます。でも、ニコニコしながら普通に手を出す感覚で殴られると避けにくいです。上を殴ろうと意識しながら下を殴ると避けにくいです。ボクシングなどのフェイントでは「上を打つように見せかけて、実は・・」ということがありますが、心の中で思うだけでも相手は反応してしまうのです。その「心の力」は目では見ることが出来ないので、そのようなトレーニングをしていない人には「やらせ」にしか見えないことがあります。ただし、その「心の力」が強く働くためには、相手もまた「心の感受性」が豊かである必要があります。胆汁質の人はその「心の感受性」が鈍いので「心の力」が効かないことがあるようです。
2025.02.17
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************仏教はお釈迦様の教えを聞いた人達が、他の人達や、他の民族や、他の国の人達に伝えていく過程で生まれました。お釈迦様自身は「教え」を説いただけで、「仏教」を説いたわけではありません。そして、お釈迦様は一人だけなんですが、それが色々な人、色々な民族、色々な国に伝わるうちに、大きな区切りとして「仏教」ですが、実際の内容では大きく異なる「多様な仏教」が生まれました。チベットではチベット仏教が生まれました。中国に渡った仏教は中国でも多様な派に分かれ、日本に渡ってさらに多様な派に分派しました。ちなみに、ウィキペディアで見たら、現在日本には、18の仏教があるそうです。三論宗・法相宗・華厳宗・律宗・倶舎宗・成実宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗・普化宗・黄檗宗・修験宗などです。その日本に来た派は、大きなくくりでは「大乗仏教」と呼ばれていますが、東南アジアで信仰されている仏教は「小乗仏教」と呼ばれています。ちなみに、大乗仏教では厳しく戒律を守ることよりも、「心のありかた」の方に重点が置かれています。それに対して、小乗仏教では「心の中」だけでなく生活の場でも厳しい戒律を守ることが求められています。(大雑把な違いとして、ということです。)ちなみに、仏教はインドで生まれましたが、次第にヒンズー教に飲み込まれ、今ではお釈迦様もヒンズー教の神様の一人になってしまっています。お釈迦様だけではありません、あろうことか、「イエス・キリスト」までもヒンズー教の神様の一人になってしまっています。バックパッカーでインドを歩いているとき、イエスの絵がヒンズー教の神様の一人として売られているのを見て驚きました。多様に分派したのは仏教だけではありません。キリスト教も同じような歴史的経過をたどり、現在、世界中には様々な「キリスト教」が存在しています。ではどうして、原点はたった一つなのに、それが伝えられていくうちに、このように多様なグループに分かれて行ってしまうのかということです。でもだからといって、無数に分かれてしまっているわけではありません。人の数だけに無数に分かれてしまったら、宗派自体が消えてなくなってしまっているはずだからです。人は「教えられたこと」をそのまま伝えるのではなく、自分なりに理解や解釈したものを、他の人に伝えようとします。その過程で「教え」の変成が起きるのです。そして、人が人に伝える限りその変成を避けることは出来ません。だから、10人の人に同じ事を教えても、その10人に「自分が学んだこと」を語らせたら、10人が異なったことを言うのです。でもだからといって完全にバラバラになるわけではありません。似たようなことに気付き、似たようなことを学び、似たようなことを言う人もいます。なぜなら、人間には気質の影響を受けた「感覚や思考のパターン」があるからです。だから、だから同じ気質の人は同じ事に気付き、同じように考え、同じように伝える可能性が高いのです。そして、その考え方に共感する人によって流派が生まれ、伝えられて来たのです。同じ話を聞いても、人はみな自分の気質に合わせて理解し、解釈しているのです。日本では戒律に厳しい小乗的な仏教は定着しませんでした。それは、粘液質と憂鬱質が強い日本人の気質が、「仏の厳しさ」よりも「仏の優しさ」に惹かれたからなのでしょう。アッシジのフランチェスコは、中世の歪んだキリスト教の教えを受けて育ちました。でも、その教えにはなじめず、結局は「イエス・キリスト」そのものの生き方に回帰しました。キリスト教と仏教はその成り立ちにおいて全く異なるものですが、でも、キリスト教の中にも仏教的な考え方に共感的な人達も多くいます。また逆に、仏教の中にもキリスト教な考え方に共感的な人達もいます。遠藤周作が書いた「沈黙」という小説がありますが、遠藤周作やその友人の井上洋二という神父などは仏教的な感性が強かったように感じていました。シュタイナー教育とモンテッソーリメソッドは、その理論も方法も全く異なりますが、でも、シュタイナー教育の中にもモンテッソーリ的な感性の人もいれば、モンテッソーリをやっている人の中にもシュタイナー的な感性の人もいます。西洋にも東洋的な感性を持っている人もいれば、東洋にも西洋的な感性を持っている人はいます。そして、感性や思考のパターンが似ている人同士は理解し合いやすいし、またつながりやすいのです。「類は友を呼ぶ」という諺通りです。でも、実際の生活では、自分と同じ感性、同じ思考パターンの人とばかり付き合っているわけにはいきません。また、パートナーは選べますが、子どもや同僚や上司は選べません。そんな時、「ああ、この人はこのパターンの感性を持っていて、このパターンの考え方をしやすいタイプの人だ」と知ることで、誤解をなくし、お互いに理解し合える可能性も広がってくるのです。
2025.02.16
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多くのお母さんが、初めて体験する子育てにとまどい、「子育て書」などを読んで「子育ての方法」を学ぼうとしています。これは、子どもが二人、三人と複数いる場合でも同じです。一人しかいない時と二人いる時とでは、色々な点で子育ての問題点が違ってくるからです。でも、いくら有名な「子育て書」を読んでも、そこには一般論しか書いてありません。それは当然のことですよね。著者は皆さんの性格も価値観も知りません。また、皆さんの子どものことも、皆さんの生活の状況も知りません。だから、一般論しか書きようがないのですから。でもそのことに気付かない人は、「子育て書の通りに子育てをすれば、子どもはちゃんと育つ」と思い込んでしまいます。そして、子育てが上手く行かないと、「自分の知識や、努力や、能力が足らないからだ」と思い込み、さらに新しい情報を探し始めます。そうして泥沼にはまっていきます。これは子育てだけでなく、教育でも、仕事でも同じです。方法論に依存している人は、目先の問題を処理することばかりに気を取られてしまうので、大きな方向性を誤ってしまうのです。これは、「子育て」をする場合だけでなく「教育」をする場合でも、「人生をどう生きるか」ということを考える場合でも同じなんですが、一番大切なことは「方法を知る」ことではなく「目的を知る(自覚する)」ことなんです。方法を学ぶのはその後の話です。目的地が違えば「そこに至るまでの方法」も違うのですから。「方法」を学ぶにしても、その「目的に合った方法」を学ばないことには意味がないのです。「方法」は「目的を実現するための手段」に過ぎないからです。だから「目的」を知らずに「方法」だけを学んでも迷子になるだけなんです。「どこに行こうとしているのか」ということを知らずに、「地図の読み方」や「その街の情報」を学んでも、意味がないのです。でも、その「手段」を「目的」にしてしまっている人が多いのです。勉強も同じです。「勉強を良い学校に入って、良い会社に入って、お金に不自由しない生活をするため」と考えている人が多いですが、それは、「親や教師の目的」ではあるかも知れませんが「子ども本人の目的」ではないはずです。だから子どもは勉強から逃げようとするのです。でも、子ども本人が喜びと希望を感じ、自分の人生の目的を知ることが出来るような教育をしているのなら、子どもは「行くな」と言っても学校に行きたがるのです。「ブータン 山の教室」という映画にはそのような子どもたちがいっぱい登場していました。本来、「学ぶ」ということは、親のためのものでも、社会のためのものでも、国のためのものでもなく、子ども達に「希望を与えるもの」だったはずなんです。「大人のためのもの」ではなく「子どものためのもの」だったはずです。だから、子ども達は自分の意思で学ぼうとしたのです。もうすぐ卒業シーズンですが、卒業式で歌われる「蛍の光」で描かれているのは「蛍の光」や「窓の雪」のようなかすかな光のもとでも勉強しようとしていた子どもの姿です。でも、今では多くの子ども達が、明るくて快適な部屋を与えられているのに、勉強から逃げようとしています。それは「学ぶこと」が、「子ども自身の目的」になっていないからです。勉強を「自分の夢(目的)を実現するために必要なもの」と感じることが出来たら、子ども達は大人に急かされなくても勉強するのです。
2025.02.15
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「気質」についてあれこれ書いてきましたが、〝じゃあ、気質について知らなければちゃんとした子育ても教育も出来ないのか〟というとそんなことはありません。私はシュタイナー教育が大好きですが、だからといって〝シュタイナー教育を与えなければ子どもはちゃんと育たない〟ということではありません。実際、皆さんが知っている過去現在の「素晴らしいことをした人」、また、お知り合いの「人間として素敵な人」の大部分はシュタイナー教育など受けていないと思います。また、そのような「素敵な人」を育てたお母さんのほとんどが、シュタイナーのことも、気質のことも知らなかったはずです。当然のことながらR.シュタイナーはシュタイナー教育を受けていないし、M.モンテッソーリはモンテッソーリ教育を受けていません。釈迦もキリストも同じです。でも、素敵なことや素晴らしいことを成し遂げた人の伝記などを読むと、そこにはちゃんとシュタイナー教育的要素やモンテッソーリ教育的要素が含まれているのです。実は、シュタイナー教育のことなど知らなくてもシュタイナー教育的な子育ては出来るのです。気質のことなど知らなくても「気質に合わせた子育て」は出来るのです。逆に、シュタイナー教育を学ぶことで、その知識や方法に束縛され、子どもを無理に「シュタイナー教育」という型にはめ込もうとして、子どもの育ちを阻害してしまっている人がいます。そのような人は、子どもの状態に合わせてシュタイナー教育を工夫するのではなく、シュタイナー教育に合わせて子どもの状態を変えようとしています。「シュタイナー教育が目的としていること」を大切にするのではなく、「シュタイナー教育そのもの」を目的にしてしまっているのです。シュタイナーが説いた知識や方法は、「子どもを育て、教育する時に一番大切にするべきことは何なのか」ということです。それは「旅をする時に必要になる手引書」のようなものです。その旅とは「子どもの幸せと魂の育ちを支えるための旅」です。(モンテッソーリ教育ではその旅の目的がシュタイナー教育とはちょっと違うようです。)でも、中には、手引き書を道具として使うのではなく、それを教科書として覚え、解釈することばかりに夢中になってしまっている人が多いみたいなんです。そのような人は、手引書の勉強ばかりして、肝心の「目の前の子ども」を見ようとしていません。見てはいても「手引書からのずれ」ばかり見ています。でも人は一人一人異なった環境の中で、異なった運命の中で、異なった生き方をしながら、異なった子どもを育てているのです。気質も一人一人違います。ご自身がドイツで子育てをしているのなら、ドイツで生まれたシュタイナー教育をそのままの形で実践することも出来るかも知れません。ドイツ語がペラペラならシュタイナーの言葉も理解出来るかも知れません。羊毛も身近にあるでしょう。でも、日本語しか知らない人がドイツ人であるシュタイナーの論理や考え方を理解するのは困難なんです。思考を司っているいるのはその人が使っている言葉だからです。厳密な論理を大切にするドイツ語を、主語も時制も論理も曖昧なままで使うことが当たり前の日本語しか使えない人が理解出来ると考える方が無理があるのです。じゃあ、「日本人にはシュタイナー教育は出来ないのか」というとそんなことはありません。シュタイナー教育の専門家はどう思っているのか知りませんが、単なる「シュタイナー教育ファン」の私は、「シュタイナー教育の方法」や「シュタイナーの言葉」に依存するのではなく、「シュタイナー教育が目的としているところ」を日本人の感性で目指せば、結果として「シュタイナー教育」になるのではないかと思っています。それは「子どもの幸せと魂の育ちを支えるために」という目的です。宮沢賢治はシュタイナー教育を受けたわけではありませんが、シュタイナー教育との相性はいいです。八木重吉という詩人が日本語で書いた詩も、シュタイナー教育との相性がいいです。二人とも「魂の育ち」ということを大切にしていました。「子どもの幸せと魂の育ちを支えるために」という目的を共有すれば、世界のどこで子育てしていても、シュタイナー教育のことなんか知らなくても、現地の言葉で、現地の方法でシュタイナー教育的子育てをすることが出来るのです。目的が同じなら方法も似てくるでしょう。方法が目的を決めるのではなく、目的が方法を決めるのですから。「気質」に関しても同じです。「気質」のことなど知らなくても、子どもの「その子らしさ」を大切にし、子どもの意志を尊重して見守り励まし、子どもの心に寄り添い、子どもが持っている特性を「短所」にするのではなく「長所」にするような関わり方をしていれば、結果として気質の考え方に沿った子育てが出来てしまうのです。
2025.02.14
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私は40くらいまで鎌倉の材木座という海に近いところで育ちました。裏は直で山で、庭からそのまま山に登れました。庭には沢ガニがウロウロしていて、夜にはタヌキの家族がやって来ていました。今住んでいる茅ヶ崎も、サザンなどの湘南サウンドで海のイメージが強いですが、「湘南」と言えるのは一号線から海側だけで、私が住んでいる山側はただの住宅街です。ちょっと行けば畑や田んぼがいっぱいあります。なので、時々海が見たくて自転車で海まで行って海沿いを三浦や小田原の方に向かって走っています。年に数回、三崎漁港や早川漁港まで行って美味しいものを食べてきます。そんな風に海沿いを海を見ながら走っていると毎回、海岸やその周辺の様子が違うのです。昔遊んでいた磯が消えていたり、広かった砂浜が狭くなったり、子どもの頃にはいっぱいいた海の生き物や貝などが激減しています。海岸に打ち上がっているものも違います。ウミガメの死骸が打ち上がっていたこともありました。風が強い日や台風などの後は巨木が打ち上がっていることもあります。また海岸沿いの遊歩道は砂だらけで、部分的にですが完全に埋まってしまうこともあります。数年前の大きな台風の後には、遊歩道自体が崩れて通れなくなってしまっているところもありました。歩いていると、道が途中から砂の中に消えている所もあります。そのような、大風や台風の被害に遭った現場を見ると「あ、壊れている」と思うのですが、あるとき、「これは自然が元に戻しただけなんだ」ということに気付いたのです。つまり、人間が「作った」という時には自然にしてみたら「壊された」ということで、人間が(自然によって)「壊された」という時には自然にしてみたら「元に戻した」だけのことに過ぎないということです。「人間が作る人工的なもの」は基本的に全て「不自然なもの」なので、人間が管理しなければ、すぐに自然に還っていくのです。このように、自然には常に恒常性を維持しようとする働きがあります。そして、その恒常性は循環によって支えられています。それは地球の働きにおいても、命の働きに置いても同じです。だから、四季は循環し、寒い冬が来ても、その後にはちゃんと春が来るのです。風邪を引いて熱を出しても、しばらくすれば薬など飲まなくても熱は下がるのです。年老いて死ぬ人がいれば、また新しく産まれる命もあります。動脈から出ていった血液はちゃんと静脈から帰ってきます。でも、基本的に人工物は循環しません。人間が作ったものは人間によるメンテナンスによってその状態が維持されていますが、それでも、自然の働きにはかなわなくてやがてゴミになります。リサイクルしたとしても、ゴミになるまでの時間を引き延ばしているだけで、結局はゴミになります。ですから、自然から搾取した物で自然に還らないものを作ることで成り立っている社会はやがて滅びます。地球の何十億年というスケールから見たらあっという間に滅びます。と、ここまで環境問題のことを書いているように見えますが、別に私は環境問題について書きたいわけではありません。じゃあどうしてこんな話を書いているのかというと、この「自然の循環システムを支えている働き」と「気質の働き」が非常によく似ているからからです。海の水は太陽の胆汁的な熱の働きによって水蒸気となって空中に上がっていきます。そして、風の多血的な働きによって世界中に拡散していきます。風は自由ですから、どこにでも入り込みます。そして、高い山にぶつかったり、寒い空気とぶつかったりした時には、微粒子を核として水蒸気が固まり始め、霧や雨になり、重くなり、地上に落ちてきます。これが自然の憂鬱質的な働きです。地上に落ちた水は、大地にしみこんだり、地表を流れたりして、やがて「川」になり、多くの命の働きを支えながら、滔々と流れ、やがて海に出ます。これが粘液質的な働きです。そして、海に出たらまたこの循環が繰り返されます。秋になると木々の葉は大地に戻りまた土に還ります。死んでいく生き物もまた土に還ります。これが自然の憂鬱質的な状態です。秋になると、春に起きたことと逆の現象が起きるのです。でも春になるとその大地のエネルギーを得て、また新しい命が産まれます。色が消えた世界に色が生まれます。春になると、秋に起きたことと逆の現象が起きるのです。これが自然の多血質的な状態です。夏には、木々も生き物たちも、命のエネルギーがからだの中から外へと流れ出します。そして、活発に活動します。これが自然の胆汁質的な状態です。でも、冬になると、命のエネルギーは外側に向かわずに、からだの中で春の準備をするために活発に働くようになります。これが自然の粘液質的な働きです。人間においても、いつまでもみんなが幸せに生きるためには、四つの気質が、それぞれの役割をお互いに尊重しあいなが助け合う必要があるのです。どの気質が欠けても、その影響は他の全ての気質の存在を危うくしてしまうからです。「胆汁質が偉い」とか「憂鬱質はダメだ」ということはないのです。全ての気質が対等に大切なんです。問題は、経済(お金)のことにしか関心がない現代社会では、胆汁質や多血質の価値観ばかりが優先されていることです。そして、胆汁質や多血質的な価値観ばかりが大切にされている社会は、循環が途絶えてしまうのでやがて崩壊してしまう可能性が高いのです。秋や冬を受け入れず、活動的な夏の状態だけを維持し続けようとすれば、どんどん気温は上昇し続け、やがて人が住めなくなってしまうのです。人間にとってだけ都合がよい人工物しか存在していない世界では、「自然物である人のからだ」は循環のつながりから切り離され病んでしまうのです。私たちが生き延びるためには、前に進むことばかりに夢中になることを止め、立ち止まり、「過程を楽しむ」「無駄を楽しむ」という価値観を取り戻す必要があるのです。それは粘液質的価値観、憂鬱質的価値観を大切にするということでもあります。今、インフルエンザやコロナや様々な病気が流行しているので、政治家も医者もマスコミも「不要不急の活動は自粛してください」などと言っていますが、困ったことに、人間にとっての「人間らしさを守り育てる行為」の多くが「不要不急」「無駄なこと」に振り分けられてしまっています。そしてそれが、胆汁質が強い人や、胆汁質が強い社会の価値観なんです。胆汁質の人にとっては「心の問題」は大した問題ではないのです。ちなみにトランプさんも胆汁質が強いです。トランプさんだけではありません。政治家は全般に胆汁質が強いです。一時は歌を歌うことも、顔を見せ顔を寄せて話し合うことも、子ども達が友達と手をつなぐことも禁止されましたが、でも、会いたいときに会い、手をつなぎたいときに手をつなぐのは、決して不要不急の行為ではないのです。
2025.02.13
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子育ての相談で一番多いのが、「憂鬱質の子どもについて」と「憂鬱質のお母さんからの相談」です。それは、簡単、便利、効率を目指す現代社会の価値観そのものが、心の世界を大切にしている「憂鬱質的な世界」を否定しているからなのでしょう。多くの幼稚園や学校が、「みんな一緒」「みんな同じ」を目指しています。そのため、子どもたちは学ぶ内容も、学ぶスピードも、行動も、表現の仕方も、「みんな一緒」「みんな同じ」を求められています。そこで求められているのは「大人の期待」に応えることだけであって、「子どもの心」への配慮はありません。それでも、「みんな一緒、みんな同じを大切にするやり方」が子どもの成長や教育に合っているという根拠があればともかく、そんな根拠は聞いたことがありません。ただ、そのやり方の方が子育てや教育が簡単で効率的になるからなのでしょう。実際、日本人が「みんな一緒、みんな同じ」という教育を始めたのは、明治になって「富国強兵」や「欧米に追いつけ追い越せ」という思想が強まってからです。それまでの「寺子屋」でやっていたのは、そこに来る子どもや、子どもを通わせる親のための教育でした。ですから、みんな一緒、みんな同じという教え方はしていませんでした。それが、憂鬱質が強い日本人の気質に合った教育方法だったのでしょう。今、江戸時代の版元の蔦屋重三郎のドラマをやっていますが、あれを見ても、日本人は本質的に「みんな一緒」「みんな同じ」が嫌いな民族だということは分かりますよね。でもそのやり方では欧米に勝てません。そのため、寺子屋方式よりも効率的な「欧米的な考え方や、制度や、やり方」を取り入れたのでしょう。でもそれは、「一人一人の子どものための教育」ではなく「国を発展させるための教育」でした。ちなみに、明治になって西洋式の軍隊を作るときに困ったのは、日本人が「みんなで一緒に歩く軍隊的行進」が出来なかったことです。江戸時代までの日本人は、「大勢の人が、みんなで一緒に、同じリズムで、同じ姿勢で、同じ早さで歩く」ということが出来なかったようなのです。参勤交代の行列でも、あまり人目のないところではバラバラに歩いていたそうです。それで近代式軍隊を作ろうとするとき高杉晋作が困っていたという話を読んだことがあります。でもそれ故に、寺子屋に代わって作られた学校では「みんな一緒、みんな同じ」という教育を徹底させたのでしょう。そして「大和魂」などという意味不明な精神論を使って人々の心を煽りました。心を大切にする日本人には、論理的、合理的な説明よりも、精神論の方が影響を与えやすいのです。その結果、アジアの国では例外的に、あっという間に欧米に追いつくことが出来ました。その延長上に現代の学校教育もあります。でも、精神論で行動していたため、泥沼にはまっても抜け出せませんでした。でも、明治から始まった「みんな一緒、みんな同じ」という教育法は、憂鬱質が強く、「心」を大切にしたい日本人の感性には合っていないのです。特に憂鬱質が強い子どもには合っていません。ちなみに、欧米では「一人一人の個性を大切にする教育」をしているようですが、欧米の人が大切にしているのは「一人一人の心」ではなく「一人一人の才能」です。それが胆汁質が強い人たちの発想です。ちなみに、日本でも、田植えなどの時にはみんなで一緒に同じことをしましたが、それは「人の手伝いをすることで、自分も手伝って貰える」という慣習があったからです。自分がいい加減なことをしたら、自分の時もいい加減なことをやられてしまうのですから。またその時は、みんなで歌を歌ったりしてリズムを合わせました。現代人は「みんな一緒」「みんな同じ」が好きなように見えますが、それは上っ面だけの話です。だからみんなストレスを溜めているのです。本当に「みんな一緒」「みんな同じ」が好きならば、ストレスが溜まらないはずですから。そして、その「みんな一緒」「みんな同じ」が一番苦手なのが憂鬱質の子ども達なんです。憂鬱質の子ども達にとって一番大切なのは「自分の心」だからです。「みんな一緒」「みんな同じ」が一番好きなのは多血質の子どもです。粘液質の子どもは「みんな一緒」「みんな同じ」が好きではありませんが、でも、それに従う事は出来ます。胆汁質の子どもは、憂鬱質の子と同じように「みんな一緒」「みんな同じ」が嫌いですが、でも、自分がリーダーになってみんなを従わせるのは好きです。今、一斉保育の幼稚園、保育園、そして一般的な小・中・高の学校では「みんな同じ」「みんな一緒」は当たり前のことです。それに従わなければ問題児扱いされてしまいます。時には発達障害を疑われます。幼稚園や学校からも指導されます。それでも憂鬱質の子は、「みんな一緒」を押しつける幼稚園や学校は苦手です。行けなくなってしまう子もいっぱいいます。それで、我が子の発達に不安を感じたお母さんが相談に来るのです。ちなみに、「集団行動を怖がる憂鬱質の子ども」の次に相談が多いのが、「集団行動を無視する胆汁質の子ども」についてです。
2025.02.12
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気質の違いは役割の違いでもあります。からだでも、自然界でも、人間の集団でも、それらの集合体がバラバラにならずに統合され有機的に機能するためには、その統合体を構成している各部やメンバーがそれぞれ異なった役割を担う必要があります。また同時に、それぞれの情報が共有されている必要もあります。「みんな同じ」「みんな一緒」では、その集団は有機的に統合されないし、誰かの命令がないと自主的に活動出来なくなってしまうのです。また、指示がないと動けない集団や組織は、何をやってもその体験から学ぶことが出来ません。そこで必要になるのが「役割分担」ということなんですが、人間の群れの中には最初からその役割に適した人がある一定の割合で生まれるように出来ているのです。それは人間以外の動物でも同じですが、人間のような高度な活動をするためには他の動物以上に高度な役割分担が必要になるのです。兄弟もその原則に従って生まれてくるようです。同じ親から生まれ、同じような環境で、同じような子育て方法で育てられ、同じような教育を受けても、兄弟は一人一人違いますよね。お腹の中にいるときも、生まれた後の泣き方やおっぱいの吸い方も、好きな食べ物も、食べ方も、成長の仕方も、性格も一人一人違いますよね。世の中には「子どもの成長は育て方で決まってしまう」と思い込んでいる人がいっぱいいますが、実際には、子どもは、生まれたときから(生まれる前から)一人一人違うのです。ですから親の思い通りになんか育たないのが当たり前なんです。そのことに気づかないと親も子も苦しむことになってしまいます。どうして、そのような多様性が存在しているのかというと、その方が種として生き残りやすいからです。ある病気が流行しても、ひどくなる子とならない子、かからない子もいますよね。みんな一緒、みんな同じだったら、同じウィルスで全員が死でしまう可能性もありますが、一人一人が異なった体質を持っていたら、誰かが生き残る可能性が高くなるのです。そして、その体質は気質ともつながってます。気質が異なれば体質も異なるのです。だから、ギリシャで最初に気質のことを発見したのがヒポクラテスという医者だったのです。インドにも昔から気質と似た考え方がありますが、それもまたアーユルベーダというからだのことを扱った思想や方法の中で見いだされたものです。2000年くらい前の中国の医学書の中にも気質と同じようなことが書かれていたそうです。心理学者が扱っている性格と、からだの専門家が扱っている気質は似て非なるものなんです。気質の分類は、体質の分類と相関関係にあるのです。それは今でも「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」という言葉の中に残っています。これらの言葉は当時の体質を表す医学用語だったのです。ですから、気質が違えば体質も違います。そして体質が違うとからだの状態が違います。そしてからだの状態が違えば、感覚の状態も違います。ものの見方も、感じ方も、考え方も違います。大切にしているものも違います。その結果、言葉も違ってきます。多血質の人にとって「言葉」は自分の気持ちを伝え、他の人とつながるためのものです。ですから、客観性や正確な論理は無視されます。子ども達は多血質が強い時期なので、子どもの言葉もまた自分の気持ちを伝え、他の人とつながるためのものです。だから、今ひとつ意味不明なんです。そして、意味が分からないから聞き返しても、ちゃんと説明できないのです。胆汁質の人にとって「言葉」は仲間と目的を共有したり、自分とは異なった目的を持った相手を打ちのめすためのものです。言葉も武器なんです。だから明確ではあるのですが、独断的、断定的です。また、結果だけを大切にして過程の価値を認めません。胆汁質の人は、見えないものや、心の世界や、感覚の世界のことを扱う言葉を持っていないので、そのような世界のことを扱うのが苦手なんです。多血質の人が「自分がどんなに頑張ったのか」を伝えようとしても、胆汁質の人が聞きたいのは結果だけです。憂鬱質の人が伝えたいのは自分の心の世界の事や、感覚世界や、価値観です。でもそれらは、胆汁質の人にとっては意味不明なものばかりです。だから、胆汁質の人は簡単に憂鬱質の人の言葉を無視したり、否定したりします。粘液質の人は自分の気持ちを他の人に伝えようとはしません。自分で自分に納得できていればOKなんです。でも、自分の感覚や感情に振り回されないで見たり、感じたりすることが出来るので、その言葉には客観性があります。また、感じたこと、考えたことを言葉化するのが上手です。
2025.02.11
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昨日は「多血質」と「憂鬱質」の似ているところと似ていないところを書きましたが、同じようなことが「胆汁質」と「粘液質」の間にも言えるのです。どうしてそういう相似的な現象が起きているのかというと、「四つの気質の働き」が「自然界の循環」を支えているからです。上がったものは下がります。拡散したものは凝縮します。右に行ったものはどこかで左に曲がります。そうでないと上がったまま、拡散したまま、行ったきりになってしまい循環がなり立たなくなってしまうからです。そして自然界も、命の世界も、社会も循環によって支えられています。ただしここで起きている相似は「逆相似」(フィルムのポジとネガにような関係)です。それは「根っこ」と「枝」が似ているようなものです。木を根っこごと地面から掘り起こしてひっくり返したら、普通に立っている木と似たような構造になっていますよね。以下の写真はアフリカのマダガスカルに生えているバオバブの木ですが、枝がまるで根っこみたいでしょ。これほど極端に似ていなくても、構造的には似ているのです。木は根と枝を使って天と地を循環しているのです。私たちのからだの中で血液を循環させている血管の構造も同じです。血液は心臓の動脈から出ていって毛細血管によって体中に運ばれ拡散しますが、今度は、別の毛細血管によって、来た時と逆の過程を通ってまた一つにまとまり心臓に帰っていきます。出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)四つの気質はそれぞれ「春」(多血)、「夏」(胆汁)、「秋」(憂鬱)、冬(粘液)に例えられていますが、「春」と「秋」とでは逆の現象が起きていますよね。夏と冬も逆の現象が起きていますよね。だから見かけは正反対なんですが、構造的には似ているのです。まず、感覚の感性や、思考方法や、体型が似ています。「エネルギーの流れの向き」は逆ですが構造は似ているのです。多血質と憂鬱質の人の感覚や感情の状態は不安定です。そのため両者とも様々な変化に敏感です。違うのは、多血質の人はその変化を喜び、憂鬱質の人はその変化を怖がるということです。不安定という点では春と秋も似ていますよね。春の不安定さは命のエネルギーが活性化する夏への階段のようなものです。でも、秋の不安定さは、命のエネルギーが低下する冬への階段のようなものです。同じ不安定でもその意味が違うのです。多血質と憂鬱質、胆汁質と粘液質の人は骨格的にも似ています。声の状態も似ています。多血質と憂鬱質の人の感覚や感情は不安定だと書きましたが、胆汁質と粘液質の人の感覚や感情は比較的安定しています。胆汁質と粘液質の人は一見正反対に見えるのですが、正反対であるがゆえに似ているのです。そして、胆汁質の人が一番苦手なのが粘液質の人です。胆汁質の人はリーダー向きだと言われますが、粘液質の人もリーダとして活動できるのです。違うのは胆汁質の人は「俺についてこい型」のリーダーですが、粘液質の人は「調和を大切にする型」のリーダーだということです。多血質と憂鬱質の人は脅かせばなんとかなります。でも、粘液質の人には脅かしが通用しないのです。何を考えているのかすら読めません。胆汁質の人は感情や言葉や行動をドンドン排泄します。多血質と憂鬱質の人はその排泄物に敏感に反応するのですが、粘液質の人はそれをスルーしてしまいます。安定しているので振り回されないのです。だから、やりにくいのです。ちなみに憂鬱質の人が一度怒ると、心もからだも固まってしまい、しばらくその状態から抜け出せなくなります。でも、胆汁質の人は、大声で怒鳴った後でも、別人のように笑うことが出来ます。からだが固まらないからです。
2025.02.10
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************一般的に「憂鬱質の人は暗く、多血質の人は明るい」というイメージがありますが、それはちょっと正しいですけど、正確には正しくありません。憂鬱質の子どもでも、安心出来る場で安心出来る人といる時には、多血質のイメージのように明るいです。また、成長と共に色々なことを学び、自分で自分の安心を保てるようになれば、色々な場に行っても、色々な人に会ってもその明るく楽しい状態を維持できるようになります。逆に多血質の子でも、自由と仲間を失い、刺激が少ない環境に束縛されていると、憂鬱質のイメージのように暗くなります。実は、多血質と憂鬱質は似ているのです。人間や刺激に対して高い感受性を持っているという点でも、感覚や感情の状態が不安定だという点でも似ています。私の想像では、この両者は元々は同じものだったのではないかと思っています。人間以外の動物でも、不安を感じるような状態に置かれるとからだを固め、神経質になり、些細な刺激にも敏感になります。それは、知らない相手や知らない状況の中ではなにが起こるか分からないし、何か起きた時には自分の力で自分の身を守る必要が生まれるからです。ですから憂鬱質的な特性は、弱い動物が厳しい自然界の中で生きていくためには必要な能力なんです。それに対して、社交的で、明るくて、楽しい多血質的な性格は「群れ」の中で生活している時にだけ必要になります。自然の中で、自然を相手に生きている時には多血質は必要がないのです。実際、憂鬱質的な野生動物はいっぱいいますが、多血質のような人なつっこい野生動物はあまり知りません。多血質のように警戒心が弱ければ自然界では生きていけないからなのでしょう。そうい動物が存在するのはアニメの中だけです。人間が多血質的な気質を進化させてきたのは、人間が人間だけで群れを作り、社会生活を営むようになってからなのではないかと思います。でも、多血質の人でも、身の危険を感じると、その根底にある「危険に対処するための憂鬱質的な素質」が目覚めてしまうのではないかと思っています。でも、警戒心が強い野生動物でも、人間に飼われ、安心と安全と食料を与えて貰うことで人なつっこくなり甘えてきます。人間に対してあまり警戒しなくなります。つまり、多血質的な状態になります。それでも個体差はあります。人間の世話を受けていても、いつまでも警戒心を解かず人に懐こうとしない個体もいれば、すぐに人間に懐いてしまう個体もいます。その個体差を生み出しているのが気質の差なんだろうと思いますが、厳しい自然界の中にいる時にはその差は表に表れないのです。赤ちゃんでも、お母さんに抱かれている時にはニコニコして、嬉しそうに多血質的にはしゃいでいても、知らない人に抱かれると、突然憂鬱質の子のようにからだを固め、不安な顔になったり、泣き出したりしますよね。それがいわゆる「人見知り」という状態です。これは程度の差はありますが、基本的にはどんな子にもある現象です。この頃はまだ、野生動物のように憂鬱質と多血質が分離していないのでしょう。でも、その人見知りがズーッと続く子と、さっと通り過ぎてしまう子がいます。私には孫が6人います。で、一番最初に生まれた孫は結構人見知りが続きました。といっても人並み程度ですけど。それが長く感じたのは2番目があっという間に人見知りの時期が終わってしまったからです。人見知りの時期はあったのですが、「人見知りが始まったな」と思ったら、すぐに終わってしまったのです。この子は誰に対してもニコニコして甘え上手です。食べるのが大好きで、何か食べさせているとニコニコしてご機嫌がいいです。人間関係が広がるにつれ、その子の中で眠っていた気質が目覚め始め、はっきりとしてくるようです。そんな風に似ている憂鬱質と多血質なんですが、当然違うところもあります。憂鬱質の人は知識を得たり考えることによって物事を理解し、安心を得ようとするのに対して、多血質の人は他の人とのつながりによって安心を得ようとすることです。憂鬱質の人が苦しくなるのは、いくら知識を得ても「まだ知らないことがあるんじゃないか」と考えたり、考えすぎて頭の中がグチャグチャになってしまうからです。ですから、グチャグチャにならないような「正しい考え方」を身につけることで、不安や苦しみに束縛されなくなります。憂鬱質の人は自分で自分を苦しめているのです。逆に言うと、だから、学び直しをすることでその苦しみから逃れることも出来るのです。それに対して、多血質の人が苦しくなるのはつながりが失われた時です。求めるものが満たされなくなると多血質の人は苦しくなるのです。自分では色々と考えているつもりでも憂鬱質の人の思考に比べたら底が浅いです。だから、その状態から抜け出すためには他者の手助けが必要になるのです。もちろん多血質の人も考えたり悩んだりします。でも、突き詰めることが出来ないのです。途中で自分が何を考えていたのかすら分からなくなってしまうこともあります。それで「ま、いいか」となって終わります。でも、憂鬱質の人はどこまでも突き詰めようとします。だから考え方が間違っているとこんがらがって身動きが取れなくなってしまうのです。憂鬱質と多血質は写真の「明るいポジ」と「暗いネガ」のように、見かけは逆なんですがパターンは似ているのです。だから、周囲の状況次第でひっくり返ってしまうことがあるのです。
2025.02.09
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************また「気質」の話を再開させて頂きます。今日の内容は去年もアップしたものですが、分かりやすいと思うので再度アップさせて頂きます。気質の特徴を簡単にまとめてみました。<胆汁質>・目的を共有することでつながろうとする・目的達成に必要な方法も共有しようとします。・世界平和はどの気質の人でも望むでしょうが、胆汁質の人は「軍事力の強化」という方法で進もうとする傾向があるような気がします。・自然を資源として見る傾向があります<多血質>・感情を共有することでつながろうとする・身近な目的は持ちますが、遠くを見据えたような目的は持ちません・世界平和でも「みんなが仲良くなれば戦争なんて起きないのよ」というような考え方をする傾向があるような気がします・人の影響を受けやすいです・人間が大好きです・自然を「心とからだを楽しませてくれるもの」として見る傾向があります<粘液質>・感覚を共有することでつながろうとする・いっしょにご飯を食べて「おいしいね」と顔を見合わせる、一緒にお風呂に入って「気持ちがいいね」と顔を見合わせる。そんな感じです。感覚を共有しているので言葉はあまり必要がありません。・勝ち負けにこだわらないので、なぜ人と人が戦うのかが分かりません。人と人が殺し合っているのを見ると悲しくなります。・平和主義者ではありますが、大きな声で「反戦」を訴えるようなこともしません。・自然との相性はいいです。自然を仲間として受け入れます。 ですから、人がいなくても自然があれば寂しくありません。 <憂鬱質>・世界観、価値観、美意識を共有することでつながろうとする これが共有出来ないといつも一緒に遊んでいても「友だちではない」といいます。 逆に、これが共有出来るなら、会ったことがない相手でも仲間として受け入れます。・戦っている人を見ると恐怖を感じます。そして遠ざかろうとします。・大きな声の人、人の心を感じようとしない人、大騒ぎをしている人にも恐怖を感じます。 そのため、憂鬱質の子は、自分も子どもなのに「子どもらしい子ども」が苦手です。・大人と一緒にいる方が安心する子も多いです。・自然との関係は両極端です。 自分と分離できないくらい自然とつながろうとする人もいれば、自然に恐怖を感じ近寄らない人もいます。・憂鬱質の人にとって自然は「資源」でも「遊び場」でもなく、それ自体が「生き物」なんです。だから、その「生き物」と良い関係を築けた人は自然に包まれようとし、良い関係を築けなかった人は襲われる危険を感じて避けようとするのです。ちなみに日本人は、粘液質と憂鬱質が強い民族のような気がします。妖怪なんかも自然を生き物として見る感性の表れだと思います。○粘液質の人にとって大切なのは今○胆汁質の人にとって大切なのは未来○憂鬱質の人にとって大切なのは過去○多血質の人にとって大切なのはちょと未来と、ちょっと過去と、ちょっと今こんな感じです。もっとも、これは「各気質にはこのような傾向がある」ということであって、「必ずこのパターンに当てはまる」ということではありません。気質は混ざり合ったり、入れ子になったりしていますから。ですから、ここにまとめたことをお読みになってなんとなく各気質のメージを持って頂ければそれでOKです。
2025.02.08
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************全ての存在は、他者との間に「似ているところ」と「似ていないところ」という二つの要素を持っています。大人と子どもの間にも、「似ているところ」と「似ていないところ」があります。「人間」と「石ころ」といった、一見全く異なる存在に見えるもの同士の間にも「似ているところ」と「似ていないところ」があります。もちろん、人間と他の生き物や、草木との間にも「似ているところ」と「似ていないところ」があります。そして全ての存在は、その「似ているところ」と「似ていないところ」の集合体として存在しています。「似ているところ」だけでは存在出来ないし、「似ていないところ」だけでも存在出来ないのです。でも、人間はその「似ていないところ」ばかりに意識を向けてしまう傾向があります。そして「似ていないところ」を分析、整理して、学問や科学を創り上げてきました。その結果、私たちは「大人とは」ということを考える時、「子どもとは違う部分」だけに注目しようとします。「子どもとは」ということを考える時も、「人間とは」とか、「自然とは」ということを考える時も同じです。でも、そのような考え方をしてしまうと「全体」が見えなくなってしまうのです。そして、偏った大人像、子ども像、自然像を創り出すことになります。「大人」のことを考えるときには、「子どもとの違い」だけでなく、「子どもとの共通点」にも注目すべきなんです。そうでないと、「大人」という存在の丸ごとが見えてこないからです。「子ども」のことを考えるときも同じです。でも実は、そのようなことをしているのは大人だけなんです。子どもは「違い」よりも「共通点」の方に意識を向けているからです。子どもは「おんなじ」ということに敏感なんです。そして、「おんなじ」を求めます。大人になると、「おんなじ」を嫌う感性も生まれますが、子どもは「おんなじ」の方が嬉しいのです。そして実は、それが人間の成長システムでもあるのです。例えば、大人は「この木は桜で、この木は梅で、この木は桃だ」というように「違い」に目を向けます。でも、それは「木とは何なのか」ということを知っているから出来ることです。「木とは何なのか」ということが分からない人には、「桜」も、「梅」も、「桃」も、その違いの意味が分からないのです。そして、子ども達は「木とは何なのか」ということを学んでいる段階なんです。そのためには、「個々の木の違い」ではなく、それぞれの「木」の間に「共通しているところ」に目を向けるしかないのです。まただから、「機械」と「生き物」の違いが分からないのです。これは無知だからではなく、「機械とは何なのか」「生き物とは何なのか」ということを学ぼうとしている段階だから同じに見えてしまうのです。ですから、子どもに語りかけるときには、草や木や様々な生き物と、人間や自分自身と似ているところを伝えてあげると、子どもは喜びます。ファンタジーの世界にはそれがあります。そして、「おんなじ」が分かることで、自然に「違い」も分かってくるのです。「動物のおんなじ」と「機械のおんなじ」が分かってくることで、「動物」と「機械」が別のものだということが分かってくるのです。でも、最初から「違い」ばかり教えられると、逆に「人間とは」とか「生命とは」ということが分からなくなってしまうのです。言葉としては知っていても、感覚的に分からなくなるのです。そして、思考が整理されなくなり、混乱するようになります。いわゆる「知的なお勉強」は子どもに「違い」ばかりを教えるので、「知識」は増えるのですが、「全体を見る能力」が育たなくなってしまうのです。そしてそれは、応用能力や思考能力の低下として表れるのです。ただ問題は、「違い」を見つけることばかりに熱心な大人は、「おんなじ」にはなかなか気付かないということです。そして、中途半端に似ているもの同士だと、余計に違いばかりに目が行ってしまいます。そのことに気付けば、社会も、世界も、人間関係も、もっと平和になるのに、違いにばかりに意識が向いてしまうから対立が起きてしまうのです。
2025.02.07
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4月からの、気質や、子育てや、心とからだ関係の講座の告知をまとめましたので、ご興味のある方は「こちら」のサイトをご覧になってください。茅ヶ崎での対面講座と、Zoomでの講座があります。あと、呼んでいただければどこへでも行きます。**************犬を育てる時には、犬の生態や特性を知っている必要があります。これは、猫を育てる時も、象やキリンを育てる時も同じです。そしてそのことは多くの人が理解していると思います。でもなぜか、「人間の子ども」を育てるときには「人間の子どもの生態や特性」を知らないまま子育てをしている人が圧倒的に多いのです。これでは「子育て」が上手く行かなくて当然なんです。教育の場でも同じです。どうしてそのような状態が生まれているのかというと、多くの大人が「成長」というものを「未熟から成熟へ」とか、単純に「小さいものが大きくなる」というように「量の変化」としてだけ捉えているからです。それは、なまじ見かけが似ているし、自分も昔は子どもだったからなのでしょう。でも、昔は子どもだったからと言って「子どもについて」知っているわけではありませんよね。それは目の前にいる子どもを見ればすぐに分かることです。嘘だと思ったら子どもに「子どもの生態や特性」について聞いてみて下さい。知らないですから。「自分も子どもだったから子どもについて知っている」と思い込むのは妄想と同じなんです。「日本人だ」ということと「日本人についてよく知っている」ということは同じではないですよね。それと同じです。そこの所を勘違いしているので、「未熟な子ども」をちゃんと管理・指導し、大人になるために必要な知識や技術を教えれば、それだけで「子どもはちゃんと育つ」と思い込んでしまっているのです。また、そう思い込んでいる大人が多いので、そういうことを教えてくれる人も、場もありません。またそのような勉強会を開いてもあまり人が集まりません。私は、中学生や高校生ぐらいになったら「人間について」「子どもについて」「子育てについて」学校の授業の中でちゃんと教えるべきだと考えています。特に、大人が作り出した環境と知識の中だけで生活している現代の子ども達にはそのような「命と触れあうような学び」が必要なんです。子どもに教えることで大人もまた「子どもについて」「大人について」「人間について」自覚し直すことも出来るでしょう。「性教育」はその一部に過ぎません。「性教育」に熱心な人は多いですが、「性教育」を「人間に関する学び」と切り離してはいけないのです。なぜなら「性教育」で教えなければならないのは「動物としての性」ではなく「人間としての性」だからです。それは同じではないのです。「動物としての性」には行為があるだけです。でも、「人間としての性」にはそれ以前に「思いやり」と「愛情」が必要なんです。「子どもについて」の理解が乏しい人は、オタマジャクシを陸にあげジャンプの練習をさせたり、イモムシに空を飛ぶ練習をさせるようなバカげた子育てや教育をしてしまっています。「大人にとって必要なものを、子どもが小さい頃から教え込めば、早く立派な大人になる」とでも思い込んでいるのでしょう。でも、「大人にとって必要なもの」と「子どもにとって必要なもの」は同じではないのです。それは「カエルの成体」と「カエルの子どもであるオタマジャクシ」、「チョウの成体」と「チョウの子どもであるイモムシ」とでは、生きて行くために必要な食べ物や環境が大きく異なっているのと同じです。子どもは成長しなければなりません。ですから、「成長が止まってしまった大人に必要な食べ物や、学びや、環境」と「成長過程にある子どもに必要な食べ物や、学びや、環境」は大きく異なっているのです。でも多くの人がその理解がないまま子どもと関わり、子育てや教育をしてしまっています。その結果、見かけや知識は大人なみでも、大人としての自覚や、精神性や、心の豊かさが育っていない「見かけは大人、中味は子ども」という「逆コナン」状態の大人たちがいっぱい生まれました。その、子どもと関わる大人が学ぶべき事柄には大きく二種類あります。一つは「年齢による変化」です。3才児と5才児は異なった世界に生きています。7才児と9才児も大人とも異なった世界に生きています。年齢が変われば世界の認識の仕方が変わるからです。感覚の状態も、思考の状態も、からだの状態も変わります。カエルやチョウと違って見かけ的には、人間の「子ども」と「大人」の間には「大きさの違い」しかありません。でも、中味はカエルやチョウと同じくらい違うのです。もう一つは「気質」です。同じ三歳児でも色々な子がいます。同じ五歳児でも色々な子がいます。その個体差を生み出している大きな要因の一つとして「気質」があるのです。「気質」も成長に伴って変化しますが、同一年齢の中での相対的な気質は、成長してもあまり変わりません。簡単に言うと、子どもの頃は基本的にみんな多血質が強いです。でも、その多血質が強い子ども達の中にもさらに多血質が強い子、胆汁質が強い子、憂鬱質が強い子、粘液質が強い子がいるということです。思春期が近づくと一般的にみんな胆汁質が強くなります。その場合でも、思春期の子ども達だけ見ていると、そこには胆汁質が強い子、憂鬱質が強い子、粘液質が強い子がいるということです。気質は「入れ子状態」で働いているからです。ですから、日本人は粘液質や憂鬱質が強い民族ですが、その中にもちゃんと四つの気質の人がいるのです。でも、日本人の胆汁質と、欧米の人の胆汁質は同じ状態ではありません。日本人の憂鬱質と、欧米の人の憂鬱質は同じ状態ではありません。母集団の気質が異なっているからです。
2025.02.06
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すみません。今日は告知だけにさせて頂きます。対面の講座と、Zoomでの講座があります。対面講座の会場はJR茅ヶ崎駅周辺の、徒歩圏内にある公共施設です。会場の予約が2,3か月前なので会場が取れ次第日程をお伝えします。連続参加でなくてもOKです。時間はいずれも10:00~12:00 で、参加費は2000円/回です。8月はお休みにします。いずれの講座も、お問い合わせは、件名を書いて<こちら(篠)>までお願いします。<対面講座>〇「気質の勉強会」 月一回 土曜日か日曜日の休日です。子連れに関してはご相談ください。 今のところ、一回目 4/13(日)、5/17(土)となっています。 最初は講義が多いですが、次第にワークを多くしていきます。〇「遊びの勉強会」 月一回、土日などの休日にやります。子連れOKです。大人だけの参加も大歓迎です。 今のところ、一回目 4/19(土)、5/18(日)になっています。作って遊ぶ、描いて遊ぶ、物語で遊ぶ、自然の中で遊ぶ、からだで遊び、わらべ歌で遊ぶなどなど、実際に遊びながらお伝えします。子どもの年令は小学校低学年くらいまでを考えています。ただしこの講座はお母さんが「日常生活の中での子どもとの遊び方」を学ぶための勉強会です。ですから、子どもの参加もOKですが、講座自体の対象は子どもではなくお母さんです。本番は家でやって下さい。子どもとの関わり方や子育てについてもお伝えします。○「からだの会」 「からだの会」は何年も連続してやっている会です。 からだの不思議、からだの面白さ、からだとの関わり方、心とからだの関係などを、実際にからだを動かしながら学んでいます。 月一回、月曜日です。今のところ、2/17(月)、3/17(月)、4/14(月)、5/19(月)の予定になっています。<Zoomでの講座>毎回、週の初め頃に招待状を送ります。録画視聴も出来ます。〇「気質の勉強会」 毎月第三金曜日〇「ゆりかご」(子育ての勉強会) 毎月第四金曜日 子どもについて、気質について、遊びについて、子育てについてお話しします。相談もOKです。あと私の主宰ではないですが、横浜で「親子で遊ぶ会」もやっています。足立区で「気質の勉強会」も始まります。
2025.02.05
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世の中には色々な病気がありますが、病気はウィルスや細菌によってだけ引き起こされるのではありません。ですから、いくら念入りに手を洗っても、四六時中マスクをつけていても、薬を一杯飲んでいても防げない病気もいっぱいあるのです。というか、念入りに手を洗い、四六時中マスクをし、いっぱい薬を飲むことでかえって病気になってしまうことすらあるのです。食事の栄養バランスが偏っていれば病気にかかりやすくなります。添加物の多いもの、過度に加工されたものばかりを食べていると病気にかかりやすくなります。からだを動かさないと病気にかかりやすくなります。姿勢が悪くても病気にかかりやすくなります。小さなことばかりを気にしていると病気にかかりやすくなります。生活に変化がないと病気にかかりやすくなります。生活の中に「心がワクワクするような時間」がないと病気にかかりやすくなります。ストレスが強い状態で生活していると病気にかかりやすくなります。リアルな世界で、自分以外の他者とつながることが出来ないと病気にかかりやすくなります。身の回りを清潔にしすぎると病気にかかりやすくなります。病気は外側からだけでなく内側からもやってくるからです。ですから、細菌やウィルスを完全に排除した無菌室で生活していても人は病気になるのです。でも多くの人が細菌やウィルスが引き起こす病気ばかりを気にして、上に書いたような「病気にかかりやすくなるような生活」をしています。神経質になり、引きこもり、薬を使いすぎ、自然と触れあわず、他者と関わらず、かえって病気にかかりやすくなってしまっているのです。ウィルスや細菌から私たちの健康を守っているのは免疫力という働きです。薬でも、ワクチンでも、マスクでもありません。ただ、免疫力にも限界があるので、その働きを補助するために状況に応じてワクチンやマスクや薬が必要になるだけの話です。みんなで同じものを食べても病気になる人とならない人がいます。同じ状態で同じ場所にいても、病気にかかる人とかからない人がいます。以前、カキをもらって食べたのですが、私以外のみんなひどい下痢になりましたが私はなんともありませんでした。インドで鍛えられたのかも知れません。家族が病気になっても病気がうつらない人もいます。娘の所は子どもが3人いるのですが、次々に病気になります。パパも病気になります。でも全員の看病をしている娘は病気になりません。その違いを生み出しているのが免疫力の違いです。そしてその免疫力の働きに大きな影響を与えているのが上に書いたような様々な要因です。でも、多くの人がウィルスや細菌ばかり恐れて、肝心の免疫力が低下するような生活ばかりしています。そして、ワクチンやマスクや薬では絶対に防げないのが「心の病」です。そして心が病めば、(ウィルスや細菌が存在していなくても)からだも病みます。問題はコロナ騒動の時、医者や、政治家や、学校や、多くの人が「ウィルスの蔓延」を防ぐことばかりに夢中になり、心とからだの活力を低下させるような対策ばかりをやってしまったことです。最近の医者は、ウィルスや細菌ばかり見て、肝心の「人間」は見ないようです。(お産でも同じ事が起きています)心とからだの活力が低下すれば、免疫力も低下します。だから病気にかかりやすくなります。医学も薬も進歩しているのに病気は増え続けています。不思議だと思いませんか。さらには、心とからだの活力が低下すれば感覚の働きも、思考の働きも低下し、意識もボンヤリしてきます。すると目先のことしか見えなくなります。小さな事ばかりが気になるようになります。近くばかりを見て遠くを見なくなります。自分を守ることばかり考えるようになります。目先の快楽ばかりを求めるようになります。客観的、論理的に考える能力が低下します。「カスハラ」や「ぶつかりおじさん」や「無差別傷害」のようなおかしなことをする人が増えたのもその表れかも知れません。そのような状態になると、心とからだが閉ざされ「自分という檻」の中に閉じ込められてしまいます。そして他の人のことも、未来も、希望も見えなくなります。その状態は苦しいのですが、そこから出るためには「自分」を壊すしかありません。その時「自分という檻」だけを壊すのならいいのですが「自分そのもの」を壊してしまう人もいます。
2025.02.04
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昨日は、私は、子どもの自殺が増えたのは「自由」を奪われたからだと考えています。と書きましたが、でもそれだけでは不十分だということに気付きました。なぜならアウシュビッツの収容所や、北朝鮮や、戦争中の日本のように徹底的に自由を奪われた状況の中に閉じ込められていても、死ぬことを選ばずに「必死になって生きのびようとする」人たちもいっぱいいたからです。若い頃、フランクルという人が書いた自身のアウシュビッツの収容所での体験記録を読んだことがあります。アウシュビッツでの生活は毎日毎日が死と隣り合わせで、過酷を極めていました。さらに、毎日何人もの人がガス室に送られ、常に「次は自分かも知れない」という恐怖にさいなまれていました。そんな状況ですから自殺する人もいっぱいいたようです。でも、自殺を選ばずに必死になって生き延びようとしている人もいっぱいいたそうです。その両者の違いを生み出していたのが「生きる意味を持っているか、持っていないか」だったようです。収容所の外に「待っていてくれる人」がいる人は、その「待ってくれている人」が「生きる意味」になったようです。また、「やり残した仕事」や「やりたいこと」がある人も、その「やり残した仕事」や「やりたいこと」が「生きる意味」になったようです。そしてそのような「生きる意味」を持っている人は、自死を選ばず、なんとしても生き延びようとしたそうです。でも、その「生きる意味」を持っていない人は、体力の衰えと、日々の絶望の中で次第に「生きる気力」を失ってしまったようです。人が死を選ばずに能動的に生きていくためには「自分と世界をつなぐもの」が必要になるのです。そこで気になるのが、身近な子ども達に「大人になったらやりたいことがある?」と聞いても、「そんなものない」と答える子が多いことです。「大切なものはなあに」と聞くと「ゲーム」と答える子も多いです。今、「ゲーム以外にやりたいことがない子」が凄く多いのです。そして、そのような子にとっては友だちや家族よりもゲームの方が大切なようです。実際に「家族と一緒に出かけるよりも、家てゲームで遊んでいる方がいい」と言う子もいます。皆さんのお子さんはどうですか?また現代社会では、「夫婦のつながり」や「家族」のつながりも希薄です。「3才、4才になってからでは保育園に入りにくいから」と、まだ赤ちゃんの頃から保育園に入れる人、子どもよりも仕事を選ぶ人、子どもと一緒にいたくないからと子どもを保育園に入れようとする人も多いです。「話しも出来ない赤ちゃんと一緒にいても退屈だ」と言う人もいます。子育ての悩みを聞いていると、夫婦の関係がうまく行っていない人が多いです。ただし、私は、子どもを保育園に預けること自体を否定しているわけではありません。問題にしているのはその理由の方です。でもこれは「個人の問題」と言うよりも「社会全体の問題」のような気がします。政治の影響も大きいです。昨日書いた「自由」はなぜ子どもの成長に必要なのかというと、自由な活動を通して、子どもが「自分の可能性」を知り、「自分がやりたいこと」と出会う事が出来るからです。そしてそれが、子どもの「生きていく意味」になって行くのです。勉強を強制していっぱい知識を学ばせても、それが「自分がやりたいこと」とつながっていなければ無意味なんです。逆に勉強が「自分の生きていく意味」とつながれば、追い立てられなくても勉強するようになるのです。でも現代社会は、子どもが「生きていく意味を見つけにくい社会」になってしまっています。
2025.02.03
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私は、子どもの自殺が増えたのは「自由」を奪われたからだと考えています。その「自由」とは、考える自由、感じる自由、行動する自由、失敗する自由、チャレンジする自由、逃げる自由などです。そして、自由を奪われた子ども達は、常に大人の監視、管理の下に置かれています。タブレットはそのための道具でもあります。特にコロナ騒動下では、徹底して子どもの自由が奪われました。大人も同じでしたが、大人は理由が分かっているので、自分で自分を納得させることが出来ました。でも、大人に「理由」を押しつけられただけの子ども達は納得出来なかったでしょうね。だから大人達は不安を煽ることで、子ども達の行動をコントロールしようとしました。これは「勉強しないと・・・」「手を洗わないと・・・」「マスクをしないと・・・」「歯を磨かないと・・・」などと大人がいつも使う手です。そんな根拠はないのに、例外も山のようにあるのに、強制することで子どもが自分で感じ、考え、判断する能力が奪われてしまうのに、子どもを大人の意図通りに動かしたい大人達は「○○しないと△△になってしまうよ」と決めつけて脅かすのです。その時、常に大人が使うのは「これがあんたのためなんだから」という言葉です。お母さんが子どものためを思って色々とやってあげても、実際には、その想いとは逆の結果になってしまうことが多いのは「お母さんの希望」を押し付けることで子どもの自由が奪われてしまうからです。ゲームでの遊びも子どもの自由を奪います。でも子ども本人は「自由を奪われたこと」に気付かないどころか、むしろ「自由になった」と錯覚してしまいます。それがゲームの怖いところです。自分の感覚や心で感じなくても、自分の頭で考えなくても、自分の意志で判断しなくても、手を動かさなくても、からだを動かさなくても、ゲームが与えてくれる世界の中で、与えられた選択肢を選び反応するだけで、本当の自分の能力以上のことが出来てしまうということは、「リアルな世界を生きていくときに必要になるような能力が育つ機会が奪われてしまう」ということでもあるのです。「ゲームで遊ぶと自由が奪われる」ということはそういうことです。そして、「自由」が奪われてしまうと「可能性」が奪われてしまうのです。そして「可能性」が奪われた子は、自分の未来に希望が持てないため、成長と共に苦しくなるばかりです。実際、幼い頃からゲームでばかり遊んで育った子を森や造形などのリアルな場に連れ出しても、何も出来ないし、何もしようとしません。そして「たいくつだ」と繰り返します。そのような子ども達と関わっていて悲しいのは「何をしたらいいのか分からない」と訴える子どもが多いことです。そういう子は、「何を作ったらいいの?」「何を作って欲しい?」と、すぐにこちらの指示を求めてきます。だから「君が作りたいものを作ればいいんだよ」と言うのですが、「作りたいものがない」という答えが返って来るばかりです。子ども達に「やりたいこと」を聞くと「ゲームがやりたい」という返事しか返ってこない子が多いのです。(特に男子)「もし宝くじに当たったらどう使いたい?」と聞いても、「ゲームを山のように買う」と答える子が多いです。また「どうやって作るの」と聞いてくる子に、「造形に正解はないから君が作りたいように作ればいいんだよ」と答えるとそこで止まってしまいます。でも、幼いときから平気で子どもにゲームを与えてしまうような人の多くは、子どもをそのような場に連れ出そうとはしません。自分も苦手だからです。だからそのことに問題を感じていません。だから、問題を問題として認識できないのですが、その子が親になって子育てをする時になって、その問題が表面化してくるのです。そういう風に育った人は「子どもというリアル」とどう関わったらいいのか分からないからです。だから自分の理想や要求を押しつけるような子育てをしようとしてしまうのです。でも、「リアルな子ども」は、大人の押しつけを拒否します。だから叱ったり、怒鳴ったり、叩いたり、不安や恐怖心を煽ることで行動をコントロールしようとします。それでも言うことを聞かない場合は無視(ネグレクト)します。するとお母さんから見放されることに不安を感じた子どもはお母さんの要求に応えようとします。でも、それがうまく行ったように見えるのは子どもが幼いうちだけです。そのような子育てをしていると、親子の信頼関係が育たないので、思春期が近くなるに従って子育てが難しくなります。子どもも苦しくなります。精神的な自立も困難になります。ちなみにゲームの問題点を指摘すると、反論してくる人が時々います。でも、そのよう人の多くは、私の言うことを否定するだけで、ちゃんとした文章で「自分の意見」を語ることはしません。
2025.02.02
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気になるニュースを読んだので、今日はちょっと話題を変えさせていただきます。その「気になるニュース」とは『子どもの自殺過去最多 目立つ「学校原因」、異変察知急ぐ』というものです。私はこのような状態になってしまった原因として、「子ども達の心とからだの変化」と「大人たちの心とからだの変化」と「社会構造や社会的意識や価値観の変化」などが影響していると考えています。「子どもだけ、大人だけ、社会だけの問題ではなく、それら全体の状態と相互の関係性がおかしくなってきたからなのではないか」ということです。学校がきっかけになりやすいのは、学校が「子どもが大人の世界と触れあう接点」だからに過ぎません。ジグソーパズルのように全てのことが密接につながり合っている世界で、「子どもだけが変化した」などということはあり得ないのです。むしろ「子どもの変化」は、子どもの心とからだの状態に大きな影響を与えている「大人や社会の変化」の結果に過ぎないのです。大人は「子どもの影響」をあまり受けませんが、子どもは「大人の影響」をもろに受けて育っていくからです。「子どもの自殺」が増えたのは、子どもがおかしくなったからではなく、「洞窟のカナリア」のように、社会の中で一番弱く、そしてデリケートな子ども達が大人や社会全体の歪みに強く反応してしまっているからなんです。でも、多くの大人達が「自分たちの生き方や考え方」は振り返らずに、子どもだけを何とかしようとしています。この記事には2024年の小中高生の自殺者数が暫定値で527人となり、過去最多となった。新型コロナウイルスの流行下で増え、歯止めがかかっていない。予兆が見えにくいケースが多いなか、国や自治体は1人1台の学習用端末から異変を察知する取り組みを進める。SOSを見逃さず、専門家らと連携して子どもを支える体制づくりが急務だ。と書かれていますが、このような発想しか出来ない大人達に問題があるのです。新型コロナウイルスが原因のようにも書かれていますが、実際に子ども達の成長に悪い影響を与えたのは「新型コロナウイルス」そのものではなく、大人や社会によって行われた「新型コロナウイルスに対する対策」の方です。その影響はコロナウィルスにかかった子どもだけでなく、コロナウィルスとはあまり関係がないような状況で生活している子ども達にも及びました。今の子ども達の心とからだの状態は、安全、安心だけを優先的に求めた大人や社会が、「子ども達の心とからだの育ち」を無視したような対策をとった当然の結果に過ぎないのです。子どもを病気から守るという名目で子どもを無菌室に閉じ込めれば、ウィルスや菌による病気は防げるかも知れません。でも、そんなことしたら子どもの生命力自体が萎えてしまうので、心とからだの働きが不調になり、内側から病気が生まれてしまうのです。ウィルスや菌が存在していなくても、生命力が低下すれば病気になってしまうのです。また、生命力が低下している人は簡単にウィルスや菌の支配下に置かれてしまいます。逆に、多少のウィルスや菌が存在していても、自由に遊び活動し、生き生きとした生活をしているような子どもは生命力が活性化しているので、多少のウィルスや菌なら自分の生命力でなんとかすることが出来るのです。生まれたばかりの子ども達は、まだ大人や社会の影響をあまり受けていません。つまり、ほぼニュートラルな状態です。この時点では、「自殺が増えて来た現代の子ども」も、「自殺する子が滅多にいなかった時期の子ども」も同じ状態です。でも、そんなニュートラルな子ども達が、成長の過程で大人や社会の影響を受けることで違いが生まれてくるのです。ですから「子どもが変わった」のではなく、大人や、その大人が作っている社会が変わったのです。子どもの心やからだが病んだのは、大人の心やからだが病んだからなのです。子どもの自殺を増やしているのは大人や社会の変化なんです。ですから、大人が自分たちの価値観や生き方を見直し、子ども達を比較し、評価し、競争させる価値観やシステムを改めることなく、「子どもを支える体制」を作っても効果が出るわけがないのです。むしろ監視体制を強化することでさらに問題が深刻化してしまうかもしれません。私は、今、本当に問題なのは、現代人が「自分のからだに備わった命の働きと、命の働きを支えてくれている自然の働き」を信じることが出来なくなってしまったことなのではないかと思っています。だから、子どもを信じることも、子どもの成長に寄り添うことも出来なくなってしまっているのです。子どもの自殺が増えているのはその結果に過ぎません。それをさらに子どもを注意深く観察し、より強く大人の管理下に置くことで対処しようなどと考えるのは全くのナンセンスなんです。動物園で飼育されている動物ならそれでもいいと思いますけど。
2025.02.01
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