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戦争反対を叫ぶ人は多いですが、戦争反対を叫ぶだけでは戦争はなくなりませんよ。これは歴史が実証している事実です。それは、戦争が「正義と正義の戦い」だからです。戦争反対を叫ぶ人は自分の正義に基づいて発言し行動するでしょう。そして、戦争に賛成する人たちを否定・非難してそういう人たちをやっつけようとするでしょう。でもそれもまた戦争です。戦争に賛成する人にも「国を守るために戦わなければならない」という正義があるかも知れません。軍拡をしたい人はそう考えているのでしょう。(問題は「正義」ではなく「金儲け」のために戦争を仕掛けようとする人も多いことです。)戦争に関してだけではありません。人は一人一人異なった「正義」を持っています。それが「人間」という生き物の特性でもあります。その時、「自分の正義」で「相手の正義」を否定すると、戦いが生まれます。夫婦ゲンカもその原理で始まります。その時、「話し合い」が出来れば「戦い」にまでは進まないのでしょうが、「話し合い」が成り立つためには「妥協」も必要になります。でも、「自分の方が絶対に正しい」と信じている人は妥協などしないでしょうね。そして、ケンカにまで至るような人は「自分の方が絶対に正しい」と信じているものです。また、多くの場合「正義」は後付けです。まず、個人的な欲望や恐怖や不安があって、欲望を満たし、不安や恐怖を取り除こうする行為を「正義」として意味づけするのです。人間にとって「自分を守る」という以上の正義はありませんから。その時、「つながり」から切り離されている人は「自分」だけを守ろうとするでしょう。そして、現代社会にはそのような人がいっぱい居ます。そのような人が多い社会では「個」と「個」のぶつかり合いがしょっちゅう起きてしまいます。それに対して、「つながり」に支えられている人は「つながり」を守ろうとするでしょう。そして、「個」と「個」のぶつかり合いもそれほど起きないでしょう。「つながりを支えている正義」を共有しているからです。国と国のケンカ(戦争)も同じです。政治・経済・文化などで密接な交流があり、つながり合っていることを実感出来ているような国同士では戦争など起きないのではないでしょうか。だから、本気で世界を平和にしたいのなら、子どもたちに「他者とつながる方法」を伝える必要があるのです。子どもたちを競争に追い立て、子ども同士のつながり、大人とのつながりから切り離すことが、戦争を育てているのです。いくら戦争反対を叫んでも、子どもを「つながり」から切り離し、競争に追い立てていたら意味がないのです。もしくは、宇宙人がやって来て、「私たちは皆同じ命、同じ地球に支えられ、つながっている仲間である」ということを世界中の人に自覚させるようなこと出来事が起きるかですね。だれか宇宙人を呼んできませんか。
2025.12.03
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生命は自然の一部として発生し、進化してきました。ですから、いかなる生物においても、その「生命」や「肉体」は自然に属しています。 人間も例外ではありません。どんなに自然から隔離された人工的な社会の中で生活していても、受精や、妊娠や、出産や、病気や、老いや、死といったものは自然の働きのままに進行します。たとえその受精が試験管の中で起きたとしても、それは試験管の中で自然現象を再現しただけのことです。 そして、死ねば大地に還ります。お墓に入れたとしても、やがて大地に還ります。それは単なる時間の問題に過ぎません。地球時間から見たら、人間時間など瞬間的なものです。 喜怒哀楽や愛情のような感情すら自然現象です。だから人は自分の感情をコントロールすることが困難なのです。 そして、生命や肉体が「自然」に属しているのなら、その生命や肉体の進化や成長や行動もまた「自然」の一部であり、同時に一つの「自然現象」であるはずです。 鳥が空を飛び、ライオンがシマウマを襲い、アリが砂糖を運ぶのも自然現象だということです。実際、私たちが「豊かな自然」という言葉を使う時には、そこに生きている「生き物」たちも、また、その「生き物たちの生活」も全て含めています。というか、生き物たちの活動を取り除いた自然など存在しないのです。 その自然現象としての生き物たちは、内側からの衝動に逆らうことなく、空腹になれば(目の前に食べ物があれば)躊躇なく食べます。排泄したくなれば排泄し、交尾したくなれば交尾し、眠くなれば寝ます。それは、風が吹けば草花が揺れる自然現象と同じです。自然現象としての生命体は、「あるがまま」に生きているのです。 でも、人間だけがその「あるがままの世界」から抜けだし、自分の意志と思考で自由に生きることが出来るようになりました。そして、自然を排除した社会を作り、その中で暮らすようになりました。その社会の中は「人工物」で構築され、「自然のルール」は否定され、「人間のルール」によって支配されています。 それでも、人々の生活が「自然」に依存していた頃は、「自然」という「あるがままの世界」を大切にし、その世界を破壊しないように心がけていました。あるがままの世界が壊れてしまったら、自分たちの衣食住までが失われてしまう可能性があったからです。 でも、機械文明が進み、人々の生活が「自然が与えてくれるもの」に依存しなくなると、人々は自然を大切にしなくなり始めました。一見、大切にしているように見えても、それは「あるがまま」を大切にしているのではなく、人間の趣味や都合に合わせて草木を植え替え、虫を殺し、山を削り、生き物たちからその生存環境を奪っています。 人々が「与えてくれるもの」を待つではなく、自分たちの都合に合わせて強制的に搾取するようになったのです。 実際には、それは「自然」を否定していることなのですが、現代人は自然を「資源」としてしか見なくなりましたから、生態系が失われていても緑がいっぱいなら「自然がいっぱい」などと喜んでいます。そして、「木を切っても植林すればOK」などと平気で言っています。 でも、それは見せかけだけの「不自然な自然」です。その「不自然な自然」は「多様性」と「循環」に支えられていないので、人間の管理がないと簡単に崩壊します。そして困ったことに、その「あるがまま」の否定は同時に、「自然」に属する自分自身の心や、からだや、成長の「あるがまま」を否定する意識へとつながってしまったのです。そして、妊娠も、出産も、子どもの成長も、病気も、死も、自分の心も、からだも、全て人間の都合に合わせてコントロールしようとし始めました。 自己肯定感が低い人が増えたのも、整形が流行っているのも、子どもを勉強に追い立てているのもその表れだと思います。 その結果、自然な状態の「子どもらしさ」も否定されるようになって来ました。そして子ども達は、人工的な社会の中で人工的な生活をするように強いられ、大人達の期待に合わせて成長をコントロールされています。でもそれは、子どもの家畜化に他なりません。 実際、現代社会では「子どもらしい子」はあまり肯定されていません。でもそのことで、子ども達は生命力を失い、自分の成長に必要なものを吸収出来なくなってしまっているのです。
2025.12.02
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子どもが、精神的にも経済的にも自立して、自分らしさを大切にしながらも他者とつながり、自由に幸せに生きていくことが出来るように育てるためには「しつけ」が必要です。でも見ていると、「しつけ」と称して「調教」をしている人がいっぱいいます。でも、「調教」では子どもは育たないのです。そして、いつまでも自立できないままになってしまいます。「しつけ」は「子どもの育ちを支えるためのもの」です。でも、「調教」は、「大人の都合に合わせて子どもの行動を管理するためのもの」です。そこには、「子どものためのもの」なのか、「大人のためのものなのか」という違いがあります。犬などの動物を調教するのは、人間の都合に合わせて「犬の行動」を管理するためです。それでも犬が困らないのは、犬は、成長しても自立する必要がないからです。飼い主の言うことを素直に聞いていればかわいがってもらえるし、死ぬまで住むところも食べ物も与えてもらえます。そして犬はそれ以上を望みません。でも人間の子どもの場合はそれでは困るのです。もし子どもが、お母さんの言うことを素直に聞いて、言われた通りにお勉強をして、言われた通りにお片付けをして、言われた通りに「ゴメンナサイ」を言い、言われた通りに一人で大人しく遊んでいることが出来るような子に育ってしまったら、子どもは、思春期が近くなってもお母さんから離れることが出来なくなってしまうでしょう。「自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で判断し行動する能力」が育たなくなってしまうからです。出ていきたくても出ていけなくなってしまうのです。そして子どもは苦しみます。親もまた外に出ていけない子どもを抱えて苦しみます。そう書くと「うちの子は私の言うことを聞かないから大丈夫だ」と思う人もいるかも知れませんが、実際には「言うことを聞かない」のではなく、お母さんの要求が子どもの能力を超えてしまっているため、「言うことを聞くことが出来ない」のです。「静かにしなさい」「ジーッとしていなさい」と言われても、幼い子どもは自分の意志で自分の感情や行動をコントロールすることが出来ません。一人でジーッとしていることが出来るのは楽しいことに集中している時だけです。お母さんもそれを知っているので、静かにして欲しい時にはスマホやゲーム機を与えます。すると子どもは、スマホやゲーム以外の「楽しいこと」には興味を感じなくなります。外に出ていかなくなります。仲間を求めなくなります。その結果、お母さんは子どもの相手をしなくて済むようになるので楽になります。また、それらの電子機器での遊びはすぐに中毒になるので「言うことを聞かないとスマホ(ゲーム)をやらせないよ」と、子どもを脅し、調教する便利な道具としても使うことができます。でもその結果、子どもは「学ぶ楽しさ」、「工夫する楽しさ」、「発見する楽しさ」、「外の世界の面白さ、楽しさ」を知るきっかけを失ってしまいます。そんな時、スマホやゲームではなく「折り紙」や「パズル」や「図鑑」などを与えるお母さんもいます。そして、スマホやゲームは会話を遮断しますが、「折り紙」や「パズル」や「図鑑」は、子どもと一緒に楽しむ事も出来ます。会話のきっかけにもなります。そして、日常的に子どもと会話する習慣が出来ていると、お互いの意思の疎通がしやすくなるので「調教」ではなく「しつけ」がしやすくなります。会話がない関係では力ずくになるか「アメとムチ」を使って調教するようになります。また、「早くしなさい」「ちゃんと片付けなさい」という要求も子どもの能力を超えています。子どもには、「早く」とか「ちゃんと」の基準自体が理解できないからです。それに、子どもには「義務感」はありません。楽しければやるし、楽しくなければやりません。ただそれだけのことです。だから「楽しさ」を教えてあげたり、「楽しく出来るような状況」を作ってあげれば子どもは進んでやります。「学ぶ楽しさ」を知った子どもは、追い立てられなくても勉強するようになるのです。先日テレビで、お母さんに何かをねだっている子が「成績が上がったら買ってもらえることになった」と嬉しそうに言っていました。それを見ていた出演者たちもみんな「良かったね」と反応していて強い違和感を感じました。これって調教の常套手段ですよね。勉強はお母さんのためにするものではないのですから。
2023.10.25
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皆さんは「楽観的悲観主義者」(optimistic pessimist)という言葉をご存じでしょうか。昨日、ネットを見ていて「森で想う環境のこと・人のこと」(伊勢武史)というサイトで知った言葉です。そこにはたとえば、環境保全のクラスで学んだ、E. F. Schumacherの「optimistic pessimist(楽観的悲観主義者)」という言葉。なんだか逆説的な表現だけど、すっきりと腑に落ちた。環境問題に関しては、僕らは悲観主義者であるべきで、起こっている問題や、その解決のむずかしさをしっかり知らねばならない。そしてそのうえで、「解決が困難なのは分かったけど、それでもできるかぎりのことをしよう」と楽観的に決意しなければならないのである。と書かれていました。(抜粋です)実は、私の立場も「楽観的悲観主義者」です。でも、そのような考え方を表す言葉があるとは知りませんでした。私はいつも、結構「悲観的」と見えるようなことを書いています。それで時々「篠さんは悲観論者だ」などと言う人もいます。でも、そうではないのです。私はただ、「今のままでは困ったことになってしまうよ」という現実をしっかりと認識した上で、「子育てのあり方や生活を変えていこうと」ということを言いたいだけなのです。ですから、私はほとんどの場合、「悲観的なこと」を書くだけでなく、「じゃあどうしたらいいのか」というところまで書いています。そして、その点に関しては結構楽観的です。多くの場合、世の中は、事実を知り、状態を理解し、決意し、行動すれば変えることが出来るのですから。人間によって引き起こされたことは、人間によって変えることが出来るのです。これは子育ての問題でも、自分自身の問題でも、社会の問題でも同じです。でも、知ろうとしなければ、理解しようとしなければ、決意しなければ、行動しなければ何も変わりません。そして、「困った結果」にしかならないでしょう。「知る」とか「理解する」というのはその入り口です。だから私は、「今はこうだよ」、「このままではこうなるよ」ということを書いているのです。確かに、それを読んで悲観的になってしまう人もいるかも知れません。でも、悲観的になっているだけでは、そのままの未来にしかならないのです。だからといって、「事実」に目を向けず、楽観信仰に浸っている場合でも同じです。どんなに「大丈夫大丈夫」と言っていても、「現状」が大丈夫でなく、そのことに気付かず、何の手立ても打たなければ、「大丈夫」ではないのです。私はいつも、「悲観的なこと」を書いていますが、それは「事実」に気付き、その「意味」を理解し、「どうしたらいいのか」を知って楽観的になって欲しいからなのです。「事実を知らない楽観」ほど、怖いものはないのです。これは過去の歴史においても同じです。「悪かったところ」だけを見ていては未来がありません。だからといって、「悪かったところ」を見ようとしない場合にも未来がないのです。「悪かったところ」と「良かったところ」の両方を見る必要があるのです。そうでないと、歴史は繰り返すばかりで前に向かって進みません。
2014.12.22
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人間は大人になるまでに20年ぐらいを要します。妊娠期間だけを見れば、馬や象といった大きな体を持つ生き物たちは、人間よりも長い期間が必要ですが、それは生まれ落ちたらすぐに歩き出したり、泳ぎ出したりすることが出来る能力が身につくまでお母さんのお腹の中にいる必要があるからです。でも、人間の赤ちゃんがヨチヨチでも歩けるようになるまで約1年、自由に走り回れるようになるまでに約3年ぐらいかかります。性的に成熟するのが15才前後、脳の機能が整うのが20才頃だと言われています。もちろん個人差は大きいですから、「大体このくらい」的な目安ですが、それにしても人間以外で、こんなにも「一人前になるまでの期間」が長い動物は他にはいないようです。では、どうして人間だけが大人になるまでにこんなにも時間がかかるようになってしまったのかというと、それは「人間の能力」が非常に複雑で高度になったからに他なりません。その高度な能力が一通り成熟するためには、このくらいの時間が必要だということです。これは、35億年かけて「生命の働き」が決めたことであって、「人間」が決めたことではありません。そして、この成長や成熟までにかかる時間は、動物の種類によって決まっているので、この期間を親や社会の都合で変えることは出来ません。ですから、1万年前の人間も、現代人も、生物学的意味での「大人になるまでの時間」は基本的に同じです。最近は、栄養価の高い食べ物や、成長ホルモンを含んだ肉を食べている影響か、性的な成長が早い子が多いようですがだからといって「ヒト」としての「成熟までの時間」が早くなった訳ではありません。それは、冬になると皮下脂肪が多くなるのと同じ、「適応変化」の範囲内です。ですから、条件が戻れば、状態もまたすぐ元に戻ります。その一方で「精神的成長」や「知的な成長」の方は遅れているような気がします。「からだへの栄養」は豊富になりましたが、「心や知性への栄養」は逆に貧弱になってしまっているからです。「栄養が十分でないと十分に成長できない」というのは、「からだ」も「心」も「知性」も同じなのです。そのように「からだの成熟」が早くなり、「知的な成長」が遅くなるということは、見方を変えれば、人間が「家畜や人間以外の動物に似てきた」という事に他なりません。今はまだ、これもまた「適応変化」の範囲内なのですが、このままの状態が何千年、何万年と続いたら、ヒトは確実に退化して行くでしょう。多くの大人が、競争に勝つために、子どもの成長を急がせようとしています。でもそれは、「ヒト」という種が、高度な知性や様々な能力を手に入れるために、ゆっくり成長するように進化してきた流れに逆行する働きかけに他なりません。人間は、「生命の働き」が35億年かけて獲得してくれた能力を、自らの手で無為にしようとしているのです。それは、見方を変えれば「退化への働きかけ」とも言えるかも知れません。そして、困ったことにそれは成功しているような気がします。「心」や「からだ」や「知性」などの内的成熟にかかる生物学的時間は一定なのですが、親や社会の都合によって無理にそれを急がせると、成熟に至る前に成長が完了してしまうのです。そのように適応してしまうのです。今、大人が子どもに求めているのは、「心」や「知性」や「からだ」の成熟ではなく、「競争に勝つ能力」に過ぎません。そしてその能力は学校でしか役に立ちません。そのため、子ども達の多くは、学校とは違う価値観で動いている「社会」や「家庭」という場ではどうしていいのか分からなくなります。子育ても困難になります。実際、最近は困った意味での「子どものような意識のお父さんやお母さん」が増えてきました。先日も、「2才の子が勝手にテレビのチャンネルを変えた」といって、子どもをエアーガンで撃ちまくって大ケガをさせた「お父さん」が逮捕されました。そのお父さんも、性的には大人でも、精神的には子ども(子ども以下)のままなのでしょう。「心」や「からだ」や「知性」が成長し、成熟するためには、それなりの「栄養」が必要なのです。「遊びの世界」にはその栄養がいっぱい詰まっているのです。
2014.10.19
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赤ちゃんが、まだお母さんのお腹の中にいる時には、「生命維持機能」が育っています。その、生命維持の機能が充分に育ったので、お母さんにサインを送って陣痛を起こし、生まれてきます。生まれてきた赤ちゃんは、次に「感覚」を育てようとします。「見る」、「聞く」、「感じる」、「味わう」、「匂いをかぐ」などという感覚の働きは、動物としてこの世界で生き延びていくためには絶対的に必要な能力なので、生まれた後は感覚を育てることがまず一番大切なことになるのです。ですから、色々なものに興味を示し、五感の働きをフルに使って、見て、聞いて、感じて、味わって、嗅ごうとします。「五感」という感覚能力そのものは生まれつきですが、その五感を「心の働き」とつなげるためには、生まれた後からの様々な体験を通して学習していく必要があるのです。「心で感じる能力」は、「心とつながった感覚育て」によって育つのです。「きれいな夕焼けだね」とか、「いい匂いのお花だね」とか、「この草の絨毯気持ちがいいね」とか、「美味しいね」とか、「風の音が聞こえるね」などというような感覚の使い方を通して、子ども達は「感じる心」を育てているのです。そして、それが幼児期における「心の育て方」です。幼い子どもの場合は、「感覚育て」がそのまま「心育て」と直結しているのです。ただし、この「感覚育て」は、単に「感覚機能」を育てる事ではありません。感覚の働きには二種類あります。それは「感じ分ける能力」と、「味わう能力」の二つです。感覚の能力としてはこの二つとも重要なのですが、幼い子ども達がまず育てなければいけないのは「味わう能力」の方です。なぜなら、「味わう能力」の方が「心の育ち」に直結しているからです。それに対して、「感じ分ける能力」は「意識の育ち」に関係しているので、もう少し後から必要になる能力です。それと、「味わう能力」が育った後からでも「感じ分ける能力」を育てる事は出来ますが、逆に「感じ分ける能力」の方が先に育ってしまうと、素直に味わうことが出来なくなってしまうため、「味わう能力」がうまく育ちにくくなってしまうのです。でも、今の子ども達はどうも「感じ分ける能力」は育っているのですが、「味わう能力」は未熟なようです。そのため、色々なものを見たり。聞いたり。感じたりしても、「きれい」とか「楽しい」とか、「気持ちがいい」という言葉は出ずに、「僕これ知っている」とか、「こんなの何がいいの」などと言ってきます。お話などを聞いても、楽しさを味わうのではなく、頭で理解や解釈をしようとします。そして、「このお話変だ」などと言います。それは、子どもの生活から「一緒」が失われてしまった事とも関係しているのです。なぜなら、「味わう能力」は他の人との共鳴や分かち合いによって育つ能力だからです。「感じ分ける能力」は単純に身体的な能力なのですが、「味わう能力」は心の働きが強く影響しているため、非常に文化的な要素が強く、個人差も大きいのです。「赤」という色を「赤」として感じ分ける能力は身体的な能力ですから、文化には関係していませんが、その赤を見て「何を感じるのか」ということは、心の「感じる能力」ですから、文化によって違うのです。日本人は自然を味わう能力に長けていますが、これもまた昔の人から伝えられてきた文化的な能力です。そのため、「味わう能力」は「人から人へ」と手渡しで伝える以外に伝えようがないのです。でも、「感じ分ける能力」は「一緒」という体験がなくても、訓練によって高めることが出来ます。その能力を育てる方法をマニュアル化することも出来ます。そして、どの程度その能力が高くなったのかをテストによって調べることも出来ます。つまり、「感じ分ける能力」は、現代人の好みに合わせて、科学的、客観的に扱うことが出来るのです。でも、「味わう能力」の方は、「心」に属する能力なので、「育て方」をマニュアル化することが出来ません。その能力の状態をテストして調べることも出来ません。ただ、子どもの状態を見て「心」で感じ分けるしかないのです。だからまた、ないがしろにされているのでしょう。でも、「幸せ」は「味わうもの」ですから、味わうことが出来る人の所にしかやってこないのです。
2013.03.12
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国語の授業などで「○○くん、ここ読んで」と指されて読む時、一般的には棒読みで読む子が多いと思います。コンピュータの「読み上げソフト」も同じです。両者ともただ機械的に「文字」を音声化しているだけで、「文字」を「言葉」に変換しているわけではありません。この違いがお分かりになるでしょうか。日本語では「文字化された言葉」と、「音声化されただけの言葉」と、私たちが生活の中で普通に使っている「心やからだの状態と直接つながった声による言葉」の違いを表記的に書き表せないのでお分かりにくいかも知れません。それで便宜的に「心やからだの状態と直接つながった声による言葉」を「ことば」とひらがな表記表記しておきます。人の口から思わず出るのが「ことば」で、意味を伝えるだけの言葉が漢字表記の「言葉」です。ちなみに、子どもに「ことば」は通じますが、「言葉」は通じません。だからお母さんが一生懸命に説明しても理解出来ないのです。文字化したら同じになることを言っても「ことば」なら通じて、「言葉」では通じないのです。「好きだよ」と「ことば」で言えば通じますが、「言葉」で言っても通じないのです。だから子育てはマニュアル化出来ないのです。このようにこの両者は全く異なるものなのです。それなのにその違いに気付いている人は多くありません。「読み聞かせ」の読み方の理想が「単調に」というだけのことなら、無表情に読むだけの子どもや、機械の方が上手ということになりますが、そうではないはずですよね。大人なら「言葉」による「読み聞かせ」を聞いても「意味」は分かりますが、退屈します。なぜならそれは、心とからだに響く「ことば」ではないからです。話に引き込まれることもありません。ある落語家が火鉢の上にかかったヤカンに触れて「アチッ」と言うところがうまく表現できなくて、師匠に延々「違う」とだめ押しされたそうです。そんなある日、間違って稽古場の火鉢にかかっていた本当に熱いヤカンに触れ、思わず「アチッ」と言ったら、即座に師匠が、「そうそれだよ」と言ったそうです。稽古の時には「言葉」で言っていただけだからダメだったのです。本当に熱いものに触れた時に思わず口から出たのが「ことば」なんです。文字表記すると同じなのですが、この両者は人の心やからだに働きかける力が全く違うのです。「頭」から出た言葉は、相手の「頭」に響きます。「心」から出た「ことば」は、相手の「心」に響きます。「からだ」から出た「ことば」は、相手の「からだ」に響きます。そして子どもには「頭から出た言葉」を理解する能力がありません。子ども達は、まだ物事を「頭」で処理する能力が充分に育っていないため、「声」でその情報の意味を理解するからです。でも、実際の読み聞かせではそんなこと意識する必要がありません。人は「自分が大好きな絵本」を素直な気持ちで読む時には自然と「ことば」になるからです。その一方、嫌々読まされる時には「言葉」になります。そんな時、昨日書いたように「感覚を働かせること」を意識すると、「ことば」になるのです。人は、大好きな絵本を読んでいる時には無意識的に感覚を働かせているのです。ワークで時々やるのですが、まず、「手の中に まるい 玉が 入っています」という言葉を言ってもらいます。まあ、ただ言うだけですからその言い方や聞いた感じはみなさんが想像する通りです。絵本をただ読んでいる時も同じような感じだと思います。次に、実際に丸い玉を渡してそれを手の中に入れてもらい、じっくりその感覚を味わってもらいます。そして、その感覚を想い出しながら「手の中に まるい 玉が 入っています」と言ってもらいます。すると、最初は「言葉」だったのに、この時は「ことば」になるのです。本当にその人の手の中に「丸い玉」が入っているように聞こえるのです。不思議ですよ。
2014.10.04
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子どもはよく「なぜ?」「どうして?」と聞いてきます。そして大人はそれを「知的好奇心の現れ」と理解して、その理由や仕組みをできるだけ正確に教えて上げようとします。「どうしてリンゴが落ちてきたの」と聞かれれば、「重力があるからよ」とか、「風が吹いたからよ」とか、「熟したからよ」などと答えます。それはそれで事実かも知れませんが、でも、子どもはそんなことが聞きたいわけではありません。そもそも、まだ論理的にものを考えることが出来ない状態の子ども達が、論理的な答えを求めるわけがないのです。中には、そのことを知った上で「この際、論理的に考えることが出来るように訓練しよう」などと考える人もいるかも知れませんが、それは無駄なことです。物事には「時期」があるからです。子どもが論理的な答えを求めるようになるのは思春期が近くなって、自分自身も少し論理的に物事を考えることが出来るようになってからです。3、4才頃の子どもなら、「どうしてお月さまは私に付いてくるの?」という質問に対して「○○ちゃんが好きだからよ」と答えても納得しますが、思春期が近くなった子どもにそのような答え方をしたら馬鹿にされます。逆に言えば、そのような答えを喜ぶような状態の子どもには、そのような答えの方が合っているということでもあります。それでもそれは個人差が大きく、6,7才ぐらいの子どもでも、もっと「現実的な答え」を求める子もいれば、大人になってもあまり論理的、現実的に考えようとしない人もいます。そのような人は「論理的に納得できる現実的な答え」よりも、「感情的に納得できる感覚的な答え」の方を好みます。特に、男性よりも女性の方が、また多血質の人にその傾向が強いです。奥さんに相談を受けた男性が論理的、現実的に答えると、怒り出す女性もいます。そのような時、男性としては「オレはちゃんと考えてちゃんと答えたのになぜ怒り出すんだ」と困惑するのですが、女性としては「気持ちが否定された」と感じるようです。このような場合、女性は「客観的で現実的な答え」を求めているのではなく、「自分の感情を肯定するような答え」を求めているのだと思います。これは、長い夫婦生活で私自身が悟ったことでもあります。そしてこれは、幼い子どもでも同じなのです。子どもには世界の全てが不思議です。子どもはその不思議の世界の中で、何かの「意志」を感じたときに「なぜ?」「どうして?」と聞くのです。「お月さまはどうして私に付いてくるの」と聞くときも、その「意志」を感じたからです。「どうしてリンゴが落ちてくるの」という「なぜ?」も、何らかの意志を感じたからです。あまり現代的な説明ではないかも知れませんが、幼い子どもには「神様的な存在」や「神様的な力」を感じる能力があるのです。それは古代の人達が持っていた能力と同じものです。幼い子ども達は、その「神様」を感じたとき、「なぜ?」とその意志を聞きたくなるのです。「宗教」は、古代の人達のその「なぜ?」を解き明かそうとする思考の結果生まれたものです。科学も「なぜ?」から始まりましたが、その「なぜ?」は「神様の意志」を問う方向ではなく、「仕組みを理解する」方向へと進みました。でも、それが可能になるのは客観的な思考が可能になってからです。また、これとは全く異なる「なぜ?」「どうして?」もあります。それは、「どうして手を洗わなくちゃいけないの?」「どうして、椅子に座っていなければいけないの?」という「なぜ?」「どうして?」です。この場合も「論理的な答え」を求めているわけではありません。単に、「手を洗いたくない」「ジーッとしていられない」という自分の感情を伝えようとしているだけです。ですから、その感情を否定して「バイ菌がね・・・」と話しても無駄です。そんなことをしても、延々と「「なぜ?」「どうして?」が続くだけです。また、大人の意識を自分に向けるために「なぜ?」「どうして?」と聞き続ける子もいます。いずれにしても、子どもが「なぜ?」「どうして?」と聞いてきたときは、「なぜ子どもがそのような質問をするのか」というところから考えた方がいいです。そうでないと、話がすれ違ってしまいます。
2014.11.05
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人間は一人一人価値観が違います。そして、価値観が違うと、世界の見方も、世界との関わり方も、生き方も、考え方も、感じ方もみんな違ってきます。ただ、ほとんどの人は、日常的に「社会的常識」という客観的な基準に合わせて生活しているので、実際的にはその違いはあまり表には現れません。そしてそのため、「自分だけが変わっている」とか、「みんな自分と同じように感じ、考えている」とか、「人間はみんな同じだ」などと勘違いしています。でも、「自己表現」と呼ばれるような場では、その社会の常識が通じません。なぜなら、「常識」とか「正解」などと呼ばれるものは、社会的価値観の中にしか存在できないものだからです。「常識」や「正解」はそれを共有する仲間を必要とするのです。それは例えば「平均値」と呼ばれるようなものです。たった一つのものしかない時には、平均値は存在し得ないのです。そして、表現の場には「私」しかいません。そのため、表現の場では「常識」ではなく、「本当の自分」で行動せざるおえないのです。それは「意識の働き」によるものではなく、「無意識の働き」によるものです。そのため、何かを表現させると100%一人一人違った表現になります。たとえ、「こう表現しよう」と作為的な表現をしても、「こう表現しよう」という下心まで表現されてしまうため、自分の意図したような表現にはならないのです。「絵を描く」というような身近な表現活動でも同じです。テーマの選び方も人それぞれですが、同じテーマを与えても決して同じ絵は生まれません。それどころかよっぽど訓練した人でなければ、見本を見せて「同じように描きなさい」と言われても、同じ絵を描くことは出来ません。ピカソのような一見下手くそな絵でも同じです。表現活動では「裸の自分」が出てしまうのです。それが表現活動の素晴らしいところでもあるし、また怖いところですもあります。そのため、日常的に「常識」という隠れ蓑や仮面に隠れて自分を隠して生きている人は、そのような活動に参加することを嫌がります。小さいときから、大人に自分の「感覚」や、「感性」や、「考え」を「未熟なもの」「間違ったもの」と否定され、「正解」や「常識」を教え込まれて育ってきたので、その仮面の下の「本当の自分」が外に出てしまうことを非常に恐れているのです。そのような人は、自分の頭で考えず、自分の感覚で感じず、自分の意志で行動せず、常に「正解」を探しています。でも、社会的な活動はそれでOKなんですが、それでは子育てが出来ないのです。夫婦生活も困難になります。子どもの活動も、「正解」や「常識」とは無関係な自由な「自己表現」です。そのため、子育ての場では否応なくお母さんもまた「裸の自分」を出さざるおえないのです。その時、「自分の行動」や、「生き方」や、「子どもとの関わり方」を決めるのは、「自分の目で見て、自分の感覚で感じ、自分の意志で行動しているか」ということです。また、それが出来れば「子育て」はどんどん楽にも、楽しくもなります。そして、そこから逃げなければ、お母さんはどんどん成長していきます。「子育て」は「本当の自分」と出会い、それを育てる事が出来る、大切な活動なのです。でも、それが出来ないとますます苦しく、辛いものになっていきます。ゆめゆめ、「子どもの犠牲になっている」などとは思わない方がいいですよ。
2014.11.09
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「肉体」ではなく「心」の話ですが、人は何才になっても成長できる生き物です。でも、実際には死ぬまで成長できる人もいれば、まだ子どものうちにその成長が止まってしまう人もいます。ただ「それで終わり」と言うことではなく、一度は止まっても、また何かの機会に成長を再開することもあります。それが人間の可能性と素晴らしさでもあるのですが、ほとんどの人がその能力を使わないまま一生を終えています。では、その「成長できる人」と「成長できない人」の違いはどこにあるのかということです。成長できる人は、○自分がやっていることの意味を理解しようとします。○見聞きしていることの意味も理解しようとします。○正解を決めません。○人の話に耳を傾けます。○思いついたらやってみます。○反省はするけど後悔はしません。○結果よりも過程を大切にします。○自分の趣味や興味を大切にします。○我慢しません。○「受け身的な楽しさ」よりも「能動的な活動の結果としての喜び」を求めます。ということは、「みんなやっているから」という理由だけで行動している人は成長できないということです。「親や先生が言ったから、マスコミや政治家が言ったから」とそのまま信じる人も、とにかく「正解」を求める人も、「人の話」に耳を傾けない人も、何か思いついても実行しない人も、「後悔」はいっぱいするのに「反省」はしない人も、「結果」は気にするのに「過程」には意識を向けない人も、「自分の趣味や興味」を大切にしない人も、「我慢」ばかりする人も、「楽しいこと」ばかり求める人も心を成長させることが困難だということです。この中の「我慢しません」には??と感じた人もいるかも知れません。でも、見かけ的には同じことをしていても、納得すれば我慢する必要はなくなるのです。納得しないから我慢で自分を抑えることになるのです。子育てでも、一生懸命我慢して子育てをしている人がいます。でも、我慢している人の心は閉ざされています。そのため、子どもの心が見えません。人の言葉も耳に入りません。自分の心とからだを固めています。それが「我慢している人のからだ」です。日常的に「我慢」を強いられている子どもも、このような心とからだの状態になります。やらなくてもいいことならばやらなければ良いんです。でも、やらなくてはならないことなら、どうやったら楽しく出来るかを考えるしかないのです。またそこには「やらなくてはならない理由」もあるはずですから、それをちゃんと理解することです。納得もせず、嫌々やっていたら最悪の結果しか生まれません。このような状態に陥っている人が、このような状態から抜け出すためには、まず「人の話に耳を傾ける」という所から始めるのが一番いいと思います。人の言葉に耳を傾けることから人は変わり始めるのです。その時、相手の言葉を批判的に聞かないことです。自分は猫が好きで犬は嫌いでも、「犬が好きな人」の言葉を聞く時にはその人の気持ちになって話を聞くのです。「相手の言っていること」を肯定する必要はありません。でも、「相手の視点」や「相手の気持ち」は肯定する必要があるのです。それは、子どもが「お菓子が欲しい」と泣いている時も同じです。「お菓子が欲しい」と言っているからといって必ずしもお菓子を買ってあげる必要はありません。でも、「子どもの視点」や「お菓子を欲しがる気持ち」の方は肯定してあげて欲しいのです。そして、そのような意識を持つと、自分自身が成長していくのです。これは私自身がいつも実感していることです。気質のワークをやっていると、必然的に色々な気質の人の話を聞くことになります。そうすると時々、「え、なんでそうなるの?」というような考え方をする人がいます。大分以前のことですが、気質のワークで「わたしとあそんで」という絵本を紹介した時に、ある胆汁が強いお母さんが「全く分からん、なんでこんなものが絵本になるのだ」と言った時も、衝撃でした。あの絵本を読んで「意味が分からんと言う人がいる」などということは全く想像もしていなかったからです。でも、「どうして?」と色々と聞いている内に、「その人が大切にしている世界が見えるようになって来ました。それは、粘液質の私には見えなかった世界なのですが、胆汁質の人の話を聞くことで、私が今まで生きてきた世界とは別の世界があるのだ、ということを知ったのです。そして、その胆汁的世界の面白さも感じることが出来るようになって来ました。つまり、粘液質+憂鬱質だけだった私に、胆汁的な要素も加味されるようになったのです。「虫」が嫌いな人が「虫」が大好きな人の話を聞いているうちに、「虫」に興味を持つようになるのも同じです。私はそのような変化を「気質の成長」と呼んでいます。自分本来の気質はそれほど変化しませんが、弱かった部分の気質が成長することで、バランスが取れるようになるのです。なぜなら、四つの気質はみんなつながっているからです。人の言葉に耳を傾けることにはこのような力があるのです。
2014.10.16
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ではどんな絵本を選んだらいいのかということですが、子どもの心やお母さんの心に響いたものなら何でもOKです。世の中には「優良図書」「推薦図書」あるいは、「良い絵本」と呼ばれるものがあって、それらを紹介している冊子もありますが、あまりそういうことは気にしないで構いません。そもそも、私は人が一生懸命に作ったものを「良い・悪い」で分けてしまうこと自体が好きではありません。絵本だけでなく、多くの人が色々なものを「良い・悪い」で分けますが、実際には「良い・悪い」は相手との関係性によって決まるのであって、そのもの自体の特性ではないのです。みんなから「悪い子」と言われている子だって、私には「良い子」にしか見えない場合もあります。「毒キノコ」は「食べ物」としては「悪いキノコ」ですが、観賞用としてなら「良いキノコ」です。「良いオモチャ」と言われているものでも使い方によっては「悪いオモチャ」になるし、逆に「悪いオモチャ」と言われているものでも使い方によっては「良いオモチャ」になるのです。「毒」も使い方次第では「良薬」になるし、「良薬」も使い方次第では「毒」になるのです。色々な事件を起こす人や、様々なトラブルを起こす子どもも、秩序を守ろうとする人には「悪い人(子)」ですが、人々がその事件やトラブルを「警告」や「メッセージ」として受け取るならば、それらの人(子)は「社会の犠牲者」ということになり、単純に「悪い人(子)」とは言い切れなくなります。最近、そのような「社会への警告やメッセージ」として受け取らなければならないような事件が多発していますが、でも多くの人はそれは「悪い子による悪い犯罪」として処理するだけです。そして、自分や社会全体との関係性など考えません。でも、そのことに気付かなければ、この手の事件はますます増えます。「イジメ」も同じです。イジメは、ただ単純に「悪い子が良い子をいじめる」という現象ではありません。ただ、「イジメをした子」が「悪い子」として扱われているだけです。そしてなぜか、いつも「いじめられる子」は良い子として扱われます。でも、実際には両者には大きな違いはなくちょっとしたきっかけで立場が逆転してしまうことも多いのです。話が流れてしまいましたが、また「絵本」に戻します。「良い絵本」のリストには載っていなくても、子どもやお母さんが何かを感じて選んだ絵本は、「良い絵本」としての働きをしてくれます。でも、「良い絵本」として紹介されていても、子どもやお母さんが何も感じなければ、それは「悪い絵本」としての働きしかしないかも知れません。「良い絵本」のリストに載っている絵本を買い込んで、「これは良い絵本なんだから読みなさい」と押し付けたら、子どもは絵本から逃げるようになってしまうかも知れません。それでは全く意味がないのです。何十万円とする知育玩具を子どもに買い与えたけど全く無意味だったという知り合いもいます。と、これまで書いてきたことと矛盾するようですが、それでも、「良い絵本」のリストを参考(ヒント)にすることには意味があります。なぜなら、ほとんどのお母さんが子育てを始めたばかりの時には「絵本」については何も知らないからです。何も知らなければ自由に選ぶことも出来ないわけです。必ずしもそのリストに載っているものを選ぶ必要はありませんが、絵本の世界の豊かさや、多様性を知ることは、子どもとの関わり方や、遊び方の幅を広げ、子育ての手助けになるのです。また、「子どもが生きている世界」を知る手助けにもなります。今の学校の学びは「学ぶこと」が競争の手段になってしまい、子どもを束縛し、心とからだと頭を不自由にしていますが、本来「学ぶこと」は人の心とからだと頭を自由にするために必要なものなのです。それを「正解」だと思い込んだり、「競争の手段」にするからおかしな事になってしまうのです。
2014.10.05
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病気を考えるときには「予防」と「治療」という二種類の方法があります。そして一般的に予防はみんなで一緒に出来るし、基本的に楽しいものです。なぜなら、心とからだを活性化させ、自由にすることこそが「予防」の第一原則だからです。でも、治療は個別に対応する必要があるし、そんなに楽しいものではありません。これは心のトラブルでもからだのトラブルでも同じなのです。そして、治療においては個別に対応する必要があります。ダージリンさんのおっしゃっている方法はどちらかというと「治療的な方法」です。「そうなってしまっている子どもへの対処方法」です。でも、「予防」は素人にも出来ますが、一度苦しみを抱えてしまった人をきちんと治療しようとするなら、医者やカウンセラーのような専門的な知識と技術が必要になります。しかも個別に対応する必要があります。そして、親にも教師にもこの能力はありません。基本的に親や教師に出来るのは予防と、免疫力や自己治癒力を高めるような形での間接的な対応だけです。親や教師は治療のための教育も受けていないし、また治療が必要になる状況を作ってしまった当事者でもあるため、こじれてしまってからはどうしようもないのです。一度親子の信頼関係が崩れてしまったら、もう親は子どもの育て直しをすることは出来ないのです。出来るのは、自分自身の育て直しだけです。そのことで間接的に子どもの状態が良くなることもありますが、それ以上のことは出来ません。これは教師も同じです。まだ状態が軽いうちなら、予防方法を徹底させることで状態は改善していきますが、大津の事件のように完全にこじれてしまっているような時には教師にはこの問題を解決する能力はありません。そもそも、学校は子どもを育てる場であって、治療する場ではないし、教師たちはそのような訓練も受けていないし、また先生たちは忙しすぎてそのようなことが出来る状況でもありません。治療は個別に対応する必要があるのですが、そんなことをしていたら教師本来の仕事が出来なくなってしまいます。イジメに向き合うことで授業が遅れてしまったら、親や校長から突き上げをくらい、それはそれで大きな問題になってしまうのです。教師たちが学んできたのは、算数や国語といった教科を教える技術だけです。また学校は本来的に算数や国語と言った教科を教える場であり、そして、それを効率よく実行するのが教師本来の役目です。そこをしっかりと押さえておかないまま学校や先生を非難すると、学校や先生はもっともっと困った状態になっていってしまいます。ただ、大津の事件で問題なのは先生たちがもっと早い段階で、正直に子どもやイジメと向き合って、父兄や子どもたちに正直に情報を発信し、みんなで一緒にこの問題を考えようとしていたなら、こんなにも問題がこじれることはなかった、ということです。隠してしまったことが問題をこじらせてしまった一番大きな要員なのです。イジメへの対処は教師だけの仕事ではなく、親も子どもも一緒になって解決と取り組まなければならない問題なのです。「イジメ」は「みんなの責任」なんです。そこに部外者はいないのです。また、「みんなの責任」として向き合わないことにはイジメはなくならないのです。でも、テレビなどでは責任を一方的に学校や教師や加害者の子どもやその親に向けてしまっています。ではここで、「予防」という観点からイジメを考えてみます。予防がしっかりとしていれば病気を防ぐことが出来ます。ですから、治療のための方法など考える必要はありません。治療が必要なときには専門家の所へ行けばいいのです。子どもだけでなく人間は「仲間」はいじめないものです。イジメをするのは仲間以外の相手に対してです。これは人間関係の原則です。このような視点で今回の問題を見てみると、イジメを行っていた三人は「仲間」です。いじめられていた子は仲間ではありません。イジメを告発していたクラスメートたちもその三人組の仲間ではありません。だから、告発していたのです。でも、だからといってその三人組に立ち向かう子もいませんでした。「今度はおまえをいじめるぞ」と言われるからかも知れませんが、それだけではありません。三人以外のクラスメートたちが「仲間」ではなかったからです。クラスメートが「仲間」としてつながっていたなら「今度はおまえをいじめるぞ」と脅かされても怖くなどないはずだからです。ですから、子どもたちを競争させるばかりで仲間作りを大切にしていないようなクラスや学校では当然のことながらイジメは発生し、また悪化しやすいのです。逆に、三人組は「仲間」がいたので怖いものがありませんでした。人間は、「仲間」がいれば怖くないのです。そして、仲間がいるのは嬉しいものです。また、安心でもあります。子どもにおける「仲間」とは、「目的を共有し、行動を共にする関係」のことです。ですから、三人組が「仲間」であり続けるためには「共有できる目的と、いつも一緒に行動すること」が必要になります。そこで一番簡単で、しかも楽しいのは一人の子をターゲットにしてゲームのようにいじめることです。これは、今はやりの「ネットゲーム」と同じ感覚です。ゲームに参加している本人同士はお互いのことはよく分からなくても、ただ単純に「目的」を共有することで「仲間」になることが出来るのです。そして、そのゲームから降りることが出来ません。ゲームに参加しているからこそ「仲間」なのですから。ゲームから降りてしまったら今度は自分が遊びのターゲットになってしまいます。ここで最大の問題は、今の子どもたちは、一緒にゲームをやる以外の仲間作りの方法を知らないということです。仲間になるためには「何か」を共有する必要があります。大人であればそれは思想であり、価値観であり、宗教であり、ライフスタイルなどです。そして子どもの場合は「遊び」です。ですから昔の子どもたちは、顔と顔を見合わせ、一緒に手をつなぎ、一緒に汗をかき、一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に歌い、一緒に走り、一緒に冒険をすることで仲間作りをしていました。私も、放課後はいつも学校以外の場で、仲間とつるんで暗くなるまで色々な遊びをしていました。それが昔の子どもたちの遊びでした。このような仲間は「無条件の信頼」で結ばれています。ですから、その仲間の間では、ケンカはあってもイジメはありません。そして、成長と共にバラバラになっても、大人になっても、まだ仲間です。久しぶりに会っても「仲間」です。ゲームをやっている時だけは「仲間」だけど、ゲームから降りたら仲間ではないというような、今時の「仲間」とは違うのです。それが「遊びの力」なのです。 でも今、町中でそのような遊びをしている子どもたちを見かけません。
2012.07.18
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猫団子さんが学校へいくのが面倒に感じるときに、「ロケットがあれば」不審者が出るときき、「ミサイルでやっつければ」などと実現できない事ばかり言いますが、空想でしょうか。と書いて下さったので、今日は「子どもの思考」について書いてみます。子どもは「ワンワン」「マンマ」「パイパイ」などの「名詞」から言葉を覚え始めます。名詞を覚えることで「自分の要求」や、「自分が見たもの」などをお母さんに伝えることが出来るようになります。ただ、まだこの時点では、言葉は「物を表すサイン」に過ぎず、「文法」もなければ、「自分の気持ち」や、「考え」や「意味」を説明することも出来ません。当然、お母さんが自分の気持ちや考えを説明しても理解出来ません。大人でも子どもでも、人は「自分が使っている言葉」のレベル以上のことは理解することが出来ないからです。この時期の子どもはお母さんの気持ちを「言葉」ではなく「声」でダイレクトに感じ取っています。だから、「気持ち」は分かるのですが、「言っていること」が分からないのです。それはつまり、「なんべん言ったら分かるの」とお母さんが叱った時、「お母さんのイライラした気持ち」は子どもに伝わりますが、「お母さんが言いたいこと」は通じないということです。でも、二才前後から「動詞」なども使い始め、「ワンワン いた」などのように、言葉に「意味」が含まれるようになります。ただし、言葉の発達は障害の有無にかかわらず、個人差が大きいので「大体このくらいから」という目安で理解して下さい。「3才頃まで言葉を話さなかったけど、その後は普通に育った」という話しも時々聞きますので、「言葉が遅い」というだけで心配する必要はありません。子どもの行動を見ていて、「大人の言葉や周囲の状況の理解が出来ている」という状態なら、時期がくれば話し始めます。逆に、「言葉は多いのに、大人の言葉や周囲の状況は理解出来ていない」ような場合は要注意です。子どもの育ちでは「話す能力」よりも「聞く能力」の方が大事なんです。ただ、子どもの「話す能力」を知るのは簡単ですが、「聞く能力」が育っているかどうかを知るのは難しいです。ということで短いですが、ここから先は明日にさせて頂きます。
2014.10.27
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人間であろうと、地球であろうと、足下の小石や野の花であろうと、全てのものに「歴史」があります。突然そこに生まれ、突然その状態になったわけではありません。あなたの「怒り」や「悲しみ」や「喜び」にも「歴史」があります。その歴史の流れの中で人は怒り、悲しみ喜ぶのです。ですから、あなたが怒るようなことでも、あなたとは違う歴史を生きてきた他の人にとっては怒るほどのことではないかも知れません。それは悲しみも、喜びも同じです。「物質の世界」も、「自然の世界」も、「人の心の世界」も全て、長い長い歴史の結果、今の状態になっています。その「歴史」を読み解くと「物語」が生まれます。ですから、この世界は「物語」で出来ているといってもいいかも知れません。あなたの足下に転がっている小石でさえも、長い長い「物語」の結果、あなたの足下にたどり着いたのです。その「実際」は知ることが出来ません。でも、想像することは出来ます。そして、想像することで、世界も、自分も、足下の小石も、目の前の子どもも、「生命」を得ることが出来るのです。「小石」には生物学的な「生命」はありませんが、「物語」(想像された世界)の中では「生命」を得ることが出来るのです。人の想像力には「生命を与える働き」があるからです。だから、「石」や「山」や「太陽」が神様になったりするのです。「希望」もその想像力によって生まれます。逆に、想像力を働かせない時には「実際に生命あるもの」でさえも「生命」を失います。そのような時には、「人間」でさえ「生命あるもの」ではなく、「動く肉」にしか見えなくなることがあります。そのような感覚の状態になっている人は、人を殺すことに罪悪感を感じることもありません。皆さんがお肉屋さんで買って来たお肉を包丁で切っても罪悪感は感じないですよね。それと同じです。私たちは、「人を殺してバラバラにした事件」の話など聞くと、「罪悪感は感じないのか」、「どうしてそんなひどいことが出来るのか」などと思いますが、想像力を働かせなければ、そのような感覚は生まれないのです。その一方、「お肉屋さんのお肉」にすら、「生きている時の牛や豚の生命」を想像する人達もいます。そのような人にとっては、お肉は「物」ではなく、人が命を奪った「死骸」であり「死体」です。そして、普通に肉を食べている人達を「残酷な行為をする人達」と感じているかも知れません。更にまたその一方、「牛や豚の生命を私たちが受け継ぐんだ」と考える(想像する)人達もいます。そのような人にとっては「お肉」は「牛や豚の命を伝えるもの」であって、単なる「物」でありません。死んでいるのに「生命を持つもの」なのです。このように、人間においては「想像する働き」が世界を創っているのです。そして人は「自分が想像した世界」を生きているのです。だとしたら、「想像する能力」を育てる事は、「世界を創り出す能力」を育てる事になるのです。人は、「想像する能力」を育てることで自由を手に入れることが出来るのです。「想像する能力」を育てることは、それだけ大切なことなのです。そして子ども達は、様々な遊びを通してその能力を育てています。でも、大人達はその「想像の世界」を否定し「物の世界」に閉じ込めようとしています。「競争や結果重視の世界」は、想像力を失った世界です。それは「生命を失った世界」であり、「生命が価値を持たない」世界です。
2014.10.26
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じゅりママさんから以下のような質問(でいいのですよね?)を頂いたので、今日はそれに答えさせて頂きます。さっそくですが、質問があります。年末に読んだある教育雑誌に書かれていたシュタイナー教育について。公園など出かけて、帰る時に「もう帰ろうか」と子どもに聞くのは子どもに主導権を握らせてしまう。「もう帰るよ」と言わなければいけない。というようなことが書いてありました。前に先生に胆汁質の子どもにはリーダーが必要。母がリーダーに、という指導を受けました。でもなかなか「リーダー」というのが難しく、ともすれば「支配」になってしまいます。主人はこの「主導権を握らせない」という考えには同意してくれません。子どもの自主性を育てようと思っている人には、この「子どもに主導権を握らせない」という考え方はなかなか理解しがたいことかも知れません。実際、「うちでは、自立した子どもに育てるために色々なことを自分で決めさせています」と自信たっぷりにおっしゃるお母さんも多いですから。でも、ちょっと考えてみてください。あなたが今まで全く知らない会社に入って、全く知らない仕事を任され、さらにいきなり「自分で考えて決めなさい」と言われたらどうしますか。しかも、どんなように決めても、「OK」を出されたら、余計に心配になりませんか。あなたはそのような仕事で何を学ぶことが出来ますか。何も学べないのではありませんか。そのような扱いをされた新入社員(子ども)は、好き嫌いだけで物事を決めるようになり、自分勝手に行動するようになるでしょう。でも、その一方、会社(家)の外では不安で萎縮してしまうようになるでしょう。「何も学ぶことが出来ない」ということは、子どもの自己肯定感を奪い、不安を与えるからです。さらに上司(親)に対する不信感も感じるようになってしまうでしょう。初めてピアノに触れる子に、「どんな風に弾いてもいいんだよ。あなたが自分で考えて弾くことが大切なんだよ。」などと好き勝手に弾かせる指導者などいないはずです。ただし、だからといって「ああしなさい」、「こうしなさい」と子どもに指示命令を出して子どもを支配しなさい、ということを言っているわけではありません。ただ、「子どもにはお手本が必要だ」ということです。子どもにしっかりと決める大切さを伝えたいのなら、大人がまずしっかりと決める必要があるということです。子どもは大人の判断力を体験したり、自分自身でいっぱい色々な体験をし、色々なことを学ぶ過程で判断力を育てているのです。幼い時から自分で決めさせられるばかりで、お手本を与えられていない子どもは、(親の思いとは逆に)正しい判断力が育たなくなり、自立できなくなってしまうのです。実は、「判断する」というのは非常に知的で難しい行為なのです。それは「ミカンとりんごとどっちがいい」と選ばせるようなものとは違います。蟻の前に「砂糖」と「塩」を置けば、蟻は「砂糖」を選ぶでしょう。でも、これは「判断」ではありません。蟻はただ好きな方を選んだだけで何にも判断などしていません。園庭に遊具がいっぱいある幼稚園と、ただの野原のような幼稚園を見せて「どっちの幼稚園に行きたい」と聞けば、子どもは蟻が砂糖を選ぶように、「遊具がいっぱいある幼稚園」を選ぶでしょう。でも、これは「判断」ではないのです。物事を判断する時には、様々な知識や、体験や、総合的な視点が必要になります。その状況における、それぞれの長所、短所を比較して決めていくことが「判断する」ということです。でも、まだ体験も知識も乏しく、さらには総合的な視点など持っていない幼い子ども達にそんなことが出来るわけがないのです。子どもはただ自分の好き嫌いだけで物事を決めてしまいます。それは「判断」ではありません。でも、大人がそれを「判断」として肯定していると、子どもは好き嫌いだけで物事を決めるようになり、「本当の判断力」が育たなくなってしまうのです。そして困ったことに最近は大人でもこの「判断」が出来ない人が増えてきています。電車の中でお化粧をする人、ヘッドフォンで大きな音を流している人、床に座り込む高校生などは、自分で判断できない人達です。彼らはただ、自分の趣味、興味、価値観だけで自分の行動を決めています。「その状況における適切な判断」というものが出来ないのです。小さい時から自分で決めさせているとそのような大人になってしまうのです。ただし、だからといって「何でもかんでも、一方的に大人が決めなさい」ということではありません。子どもの趣味や興味に関する部分は子どもが決めてもいいのです。ミカンを食べるか、りんごを食べるのか、ということは子どもが決めればいいのです。でも、知識や体験を通して総合的に判断しなければいけないようなことに関しては、しっかりと大人が決めなければいけないということです。それまで子どもに決めさせようとしてしまうと、子どもは「判断する」ということのお手本を体験することが出来なくなります。また、子どもの判断力を育てるためには、からだを使った様々な体験をさせる必要があります。「判断力」というものは一つの「技術」であって、それはお手本を見、実際の体験を通してしか身につけることが出来ないものだからです。いっぱいゲームをやっていれば、ゲームの世界の中での判断力は育つでしょう。でもその判断力はゲームの世界の中だけでしか通用しません。現実の世界の中で通用する判断力は、現実の世界の中で色々な体験をすることによってしか育てようがないのです。そして、高度な判断力を育てるためには、絶対的に「お手本」が必要なのです。また、人間関係における判断力は、様々な人間関係を体験する以外に学びようがありません。そして、子ども時代には「群れ遊び」こそが、子どもの判断力を育てる絶好の体験なのです。
2011.01.13
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「なぜ?」と問う子どもたちはいっぱいいますが、大人になるとなぜか「なぜ?」と問う人は急激に少なくなってきます。また、私の個人的な印象ですが、今の子どもたちは昔の子どもたちより「なぜ?」と問わなくなっているような気がします。その代わり、「ぼく知っているよ」ということをよく言います。そして、友達には「おまえそんなことも知らないのかよ」とも言います。そして実際。今の子どもたちは色々なことを知っています。科学のことでも政治のことでも芸能界のことでも、ただ遊び回っていただけの昔の子どもたちよりは遙かに多くのことを知っています。また、「なぜ?」と問う子どもたちに対しても、大人たちは色々な知識を教えてあげています。造形の場でも、子どもたちはよく「ぼく知っている」「ぼく出来るよ」「そんなの簡単だよ」と言います。造形体験の少ない子ほど、平気でそういうことを言います。でも、「じゃあ、自分一人でやってごらん」と言うと、実際には何にも出来ません。取りかかることすら出来ません。ハサミすらちゃんと使えない子がいっぱいいます。子どもたちは「本当は自分たちは何も出来ないし、何も知らない」ということを知らないのです。でも、自分は何でも出来て、何でも知っていると勘違いしているのです。でも、そういう子に限って、本当の自分と出会うと、急に消極的になってしまうのです。子どもに「水てっぽう作らない?」と誘うと、「ぼく学校で作ったことあるから作れるよ」と言います。そういう子には「じゃあ、自分で作ってご覧」と言うのですが、竹などの素材を前にしてどうしていいのか全く分かりません。そもそも、竹と水てっぽうとの関係すら分かりません。なぜなら、学校で作った水てっぽうは、ちゃんと規格化された組み立てるだけのキットだからです。今の子どもたちは素材の状態から作ることが滅多にないので、「組み立てる=作ること」だと思い込んでしまっているのです。そういう子にとっては、「知っている」ということは「分かっている」「出来る」ということと同じなのです。そして、「知っている=分かっている」と思い込んでいる子ほど「なぜ?」と問いかけません。思い込みで作り始めるのですが、うまくいかなくなると、「なぜ?」とその理由を考えずに、すぐに「おしえて」とか「やって」と言ってくるか、「出来ない」といってやめてしまいます。それで「どこが悪いのか、どうしたらいいのかを考えてみな」と言うのですが、「わかんない わかんない」と繰り返すばかりです。そんな時は、「初めてのことをやっているのだから分かんないのは当然なんだよ。でも、考えればどうしたらいいのか分かるんだよ」と言うのですが、その「自分の頭で考える」ということ自体が出来ない子どもが多いのです。幼い子どもたちは自分が生まれてきた世界のことを自分の体験とつなげて一生懸命に理解しようとしています。子どもにとっては、「理解する」ということは、自分の体験や知識や価値観と、その事象をうまくつなげて、その事象を自分の世界観の中に組み込むことです。つまり、外側と内側をつなげて、外側にあったことを内側に取り込む作業が「理解する」という行為なのです。分かりやすく言うと「食べてしまう」ということです。それは、大人の客観的で論的的な理解とは全く異なる「理解」です。子どもは客観的、論理的な思考ができないので、食べて栄養にしてしまうしかないのです。その時に「おいしい」と感じれば「理解した」ということになります。大人は「お料理の作り方」を理解するのですが、子どもはその「お料理」自体を味わうことで理解するのです。この理解の仕方は大人にもあります。そして、人間にとっては頭の理解よりもずーっと大切なものです。それに対して、「覚える」という作業は、内側には取り込まずに、メモ用紙に書いて自分の外側に貼り付ける行為です。そのやり方だと、いざというときに参照しやすいですが、「自分」を育てる糧にはなりません。また、いっぱい貼り付けすぎると感覚まで蓋をされ、さらには窒息の危険性すらあります。外側にあったものを内側に取り込む際には、その整合性を整える必要があります。これは臓器移植と同じです。自分のからだに適合した状態にしてから移植しないと拒絶反応が起きてしまうのです。それは、お料理でいうと味付けや調理に相当する作業です。その整合性を整える過程において「なぜ?」という問いが発せられるのです。その過程で行われるのが「物語化」なのです。子どもたちは「物語」という形に変換しないことには消化吸収できないのです。「知識」という形のままでは、外側にしか貼り付けることが出来ないのです。実は、「理解する」ということは「自分の物語の中に新しい物語を組み込む」という作業なのです。本当は、これは大人でも同じなのです。「1+1=2」が正しいかどうかは機械でもチェックできます。でも、「1+1=2」を理解することは機械には出来ません。この違いが、お分かりになるでしょうか。そして、人間にはこの「理解」が必要なのです。ですから、「自分の物語」をしっかりと持っている人は、子どもでも大人でも「なぜ?」と問うことが出来ますが、その物語が混乱していたり、自分の物語に自信を持つことが出来ない人は「なぜ?」と問いかけることが出来ないのです。
2012.07.13
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昨日ネットで色々なニュースを見ていたら、2040年(2050年?)頃には、車の運転は全て自動化されていて、運転をしなくても目的地まで連れて行ってくれるようになる。そのため、運転免許も必要がなくなるのではないかというような記事を目にしました。確かにそうなったら事故も減るでしょうし、人間は運転に煩わされることなく、車に乗っている間はテレビを見たり、ゲームをしたり、寝ていたりすることが出来るでしょう。それを「人間が自由になる」と表現することも出来るでしょう。そして、自動車だけでなく人間は自由になるために様々な機械を発明してきました。電気掃除機も、洗濯機も、冷蔵庫も、人間を様々な労働から解き放ち、自由にするために発明されました。そのうち、「子育てロボット」が作られたらお母さんたちはもっと自由になるでしょう。私が小さい頃にはまだ、電気掃除機も、洗濯機も、冷蔵庫も、テレビもありませんでした。自動車や電話は金持ちだけが持っていました。でも、小学生・中学生の頃になると、これらの家電が発明され、あっという間に普及しました。それに伴い生活は便利になりました。余暇を楽しむ時間も出来ました。特に、母親たちは辛い労働から解放され自由になりました。いや、なったはずです。でも、自由になったはずなのに、今度は子育てに縛られて苦しむお母さんたちが増えてきました。その状態は、どう見ても全然自由になったようには見えないのです。むしろ、昔のお母さんたちよりも不自由になった気がします。人間は生活の中や「生きる」ということに対して「充実感」を求める生き物です。心の中を何かで満たしていないと、孤独になり、不安になってしまうのです。そのため、「何もしないでいいよ」と言われたり、実際に何もすることがない状況に置かれるとかえって苦しくなってしまうのです。これは人間の本質的な本能です。人間は「自由」を求める生き物ですが、同時に「不自由」の中に「生きがい」を求める生き物でもあるのです。「自由」だけに囲まれていると、「充実感」も「生きがい」も得ることが出来ないのです。昔のお母さんたちは毎日の生活をやりくりするだけで、「家族のために頑張っている」という充実感を得ることが出来ました。それだけ大変な労働だったからです。でも、その重労働から解放された現代のお母さんたちは、同時にその充実感も失いました。そのため、その充実感を求めて様々なカルチャーを学んだり、色々な集会に出かけたり、「子育て」に夢中になっています。また、小さい時から子どもを保育園に預けて仕事に出かけるお母さんも増えてきました。その多くは「自分の生きがい探し」です。「誰かのため」とか、「家族のため」という名目はあっても、その多くは「自分の生きがい」のためです。人間は「誰かのため」という名目があると大義名分と充実感が得やすいのです。そして、昔のお母さんと同じくらい忙しい状態になってしまっています。人間は自分の背中の大きさ以上の荷を背負うことは出来ません。でも、背中に空きがあると不安になってしまうのです。そして、何かを見つけて背中をいっぱいにして安心するのです。人は、不自由を与えられると「自由」を求めますが、最初から自由を与えられていると「不自由」を求めるのです。それは時として「心の苦しみ」という荷であることもあります。それが現代人の状態でもあります。電車の中や公園などで小さなゲーム機に見入っている姿は、ゲーム機に支配されている非常に不自由な状態です。でも、その「不自由」が居場所と安心を与えてくれます。そして、その不自由な状態に慣れてしまうと、「依存」が始まります。ということで中途半端ですが、この続きは明日描きます。
2012.09.23
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昨日も書いたように、気質によって「優しさの形」は異なります。でも、気質を超えて「優しさと」として共通する形もあるのではないかと、色々と考えました。そこで「優しさ」というキーワードで、私の心の中にあるイメージを検索したところ、「人の話を聞くことが出来る」、「自分とは異なる価値観に対して寛容」、「多様性を受け入れることが出来る」などというイメージがヒットしました。実際、私の周囲にいる「優しい人たち」はみんなこれらのことが出来ています。だから、「自分」にこだわらずに、「他者」に対して優しく出来るのでしょう。そして、これらは「気質を超えた優しさ」だと思います。胆汁質の人でも、「優しさ」を持っている人は、人の話にちゃんと耳を傾けることが出来るものです。ただし、その話を聞いてどのように反応するのかは、気質の影響が大きくなるということです。今まで書いてきたことと矛盾するようですが、人は誰でも本質的に「優しさ」を持っています。ただ問題は、その「誰でもが持っている優しさ」は、「相手を選ぶ」ということです。ほとんどの場合、いわゆる「極悪人」と呼ばれるような人でも、自分の子どもや、自分のペットや、自分が育てている花などには優しいものです。つまり、「自分が好きな相手」に対しては誰でもみんな優しいのです。でも、家族や、社会や、世界や、地球を平和にするための「優しさ」や、人類が「幸せな未来」を築くために必要な「優しさ」は、それとは異なります。毎日ユダヤ人を殺していたナチスの収容所で働いていた人たちも、家に帰れば家族がいて、優しいお父さんだったのです。「ユダヤ人を殺す」のは単なる「お仕事」に過ぎなかったからです。その「相手を選ぶ優しさ」は、動物たちも持っています。ウサギや鹿を追い回して殺し、仲間以外の相手とは戦うライオンやオオカミでも、自分が産んだ赤ちゃんに対しては優しいものです。また、時には、仲間を守るために戦ったり、自分を犠牲にすることもあります。でも、我が子や、仲間以外の相手に対しては優しくしません。人間だけが、個人的な好き嫌いを超えて人を愛し、人間以外の生き物や自然を守り、大切にすることが出来るのです。イエス・キリストは「汝の敵を愛せよ」と言いましたが、時には「敵」に対してさえ優しさを示すこともあります。それが「人間だけが持っている優しさ」なんです。そして、平和で幸せな家族や、社会や、世界を築くためにはその「優しさ」が必要なんです。でも、その「優しさ」は誰でもが持っているものではありません。評価され、追い立てられ、競争させられながら育った子は、必然的に「自分のこと」しか考えることができない大人に成長します。そのような大人でも、自分が好きな相手に対しては優しいのです。でも、その優しさは「自分だけの平和」や「自分だけの幸せ」のためなので、他の人の平和や幸せとは対立します。そのため、戦いと、搾取と、対立が生まれ、結局、自分自身の首を絞めることになってしまうのです。宮沢賢治は世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない。といいましたが、まさにそうなのです。昨日、「世界一受けたい授業」というテレビ番組で、アフリカの内戦にかり出されている少年兵のことが語られていました。5、6才という幼い時に誘拐され、平気で人を殺すように洗脳され、残虐な兵士として訓練され、「使い捨ての戦闘力」として戦いの時には最前線に立たされ、戦うことしか知らないまま死んでいく子どもたちがいっぱいいるそうです。そして、その戦いの原因は先進国の人たちが豊かな生活をするための資源の奪い合いだそうです。ちなみに、7才前の子どもを誘拐するのは、7才前の子どもはまだ「疑う心」を持っていないため、洗脳しやすいからです。でも、この少年たちも幸せになるような未来を考えていかない限り、決して人類にとっての幸せな未来はやってこないのです。なぜなら、少年兵の問題はアフリカだけの問題ではなく、現代の世界全体の歪みの表れだからです。これらの問題は、「人間だけが持っている欲望」が生み出したものです。だからこそ、この問題を解決するためには、「人間だけが持つことが出来る優しさ」が必要なのです。ただ、「欲望」は誰でもが持つことが出来る本能的なものですが、「人間としての優しさは」、子育てや教育を通して、意識的に伝えて行こうとしなければ伝えることが出来ないものです。そこで必要になるのが、最初に書いた「人の話を聞くことが出来る」、「自分とは異なる価値観に対して寛容」、「多様性を受け入れることが出来る」という能力を育てる事なのだろうと思うのです。そしてそのためには、大人がお手本を示す必要があります。それはつまり、子どもとの関わりにおいて「子どもの言葉」に耳を傾け、「子どもの感覚や考え」を尊重し、「子どもらしさ」を肯定するということです。ただし、これは言いなりになるとか、好き勝手にさせるということではありません。そういうものを肯定した上で、お母さんはお母さんの判断で子どものために考え、行動すればいいのです。天国と地獄の違いを言い表した昔話があります。ある人が地獄と天国の見学に行きました。案内役の霊が「あそこが地獄だよ」と指し示した方を見ると、テーブルの上にはごちそうが並んでいます。それで、「これが地獄?」って思ったのですが、近寄ってみるとみんな怒鳴り、怒り、苦しんでいます。それはみんなが長い箸を持っているのですが、箸が長すぎて食べ物を自分の口に運ぶことが出来ないからです。それで食べ物はいっぱいあるのにみんなが飢えて苦しんでいるのです。次に、天国に行きました。天国でもやはり同じようにごちそうが並び、みんなが長い箸を持っています。でも、みんな嬉しそうです。どうしてなのかとよく見ると、地獄ではみんな箸で取ったものを自分の口に運ぼうとしているのに、天国では隣の人や前の人の口に運んでいるのです。そうやってお互いに食べさせ合っているので、長い箸でもみんなお腹いっぱい食べることが出来ているのです。この昔話の意味は、「人の幸せを願うことが、結局自分を幸せにするのですよ」ということなのでしょう。今、求められているのはこのような「優しさ」だと思うのです。
2013.02.24
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「気質」というのは、読んで字の通り「気」の「質」のことです。では、「気」とは何か、ということですが、私はこれを「生命の働きを支えているもの」、そして、その「生命の働きに影響を与えるもの」というように理解しています。それは、一部の人が誤解しているような超能力的なものではなく、もっと現実的なものです。例えば、「天の気」つまり、「天気」の状態は人の心やからだの状態に直接的に影響を与えています。でもその場合、何らかの物理的な力が働いているわけではありません。ですから、「天気」が人の心やからだに影響を与えていると言っても、その「天の気」を科学的に調べることは出来ません。でも、科学的に調べることは出来なくても、その「天の気」に共鳴して、人の心やからだに変化が起きているのは誰でもが知っている事実です。同じようなものは「天気」以外にもあります。というより、私たちの周囲に存在しているもの全てが、私たちの心やからだに影響を与えています。毎日食べているものも、お母さんの笑顔も、洋服の色も、音楽も、絵画も、鳥の声も、壁の色も、みんな私たちの心やからだに影響を与えています。昔の人は、そのような体験的事実から、その対象から何か「目に見えないエネルギー」が出ていて、私たちの心やからだや生命の状態に影響を与えているのではないかと考えました。それを「気」と呼んだのです。その考えに従えば、食べ物も「気」を発しています。お母さんの「声」も気を発しています。そして、その「気」には「心やからだや生命状態」を良くしてくれる「良い気」と、悪くする「悪い気」があります。その「悪い気」は「邪気」と呼ばれ避けるように言われていました。逆に、「良い気」はどんどん取り入れるように言われました。それを体系化したのが「風水」と呼ばれるものなのでしょう。ただ、私は「風水」と呼ばれるものをあまり信じていません。私は風水について勉強したことはありませんが、テレビやラジオで聞いている範囲では、風水の考え方では受け手の状態が考慮されていないからです。例えば、同じ食べ物でも、Aさんには悪い影響を与えても、Bさんには良い影響を与えることもあります。また、ある人には強い影響を与えても、別の人には全く影響を与えないこともあります。「気」というものは「相手の気」と「自分の気」の相互作用によって働くので、一方の気だけを整えても、意味がないのです。「良いもの」と言われているものでも、受け手の状態によっては「悪いもの」として働いてしまうこともあるのです。またその逆もあります。つまり、実際には「気」自体には良いも悪いもないのです。そして、それが「気」の性質でもあります。これが私の考え方です。透明な水に「黄色い水」を入れれば「黄色い水」になります。でも、「青い水」に「黄色い水」を入れたら、「緑の水」になります。同じものを入れても、受け手の状態が異なれば、異なった結果が生まれるのです。まただからこそ、「機械」のように「気」の働きで動いていないものでは計ることが出来ないし、客観的に調べることも出来ないのです。音楽は人の心とからだの状態に強く影響を与えます。それは誰でもが知っている事実です。ですから、昔の人の考えでは、音楽もまた「気」を発していることになります。その音楽が持っている「気」は、作曲家や演奏家が発している「気」です。この「気」や「気質」の考えを現代人にも分かりやすく言い換えると、「気とは自律神経系や生命活動に働きかける働き、もしくは力」と言うことが出来ます。この場合、「気」とは物理的存在としてのエネルギーではありません。「エネルギー」は気を受けた人の内側で生み出されるものです。でも、人はその「内側で生まれるエネルギー」を外側から来たように感じるのです。相手からの影響によって生まれたものだからです。そこで、昔の人は「気」とは「相手からやってくる何らかのエネルギー」と考えたのでしょう。でも、実際にはそのエネルギーや影響は、その「気」を受けた人の内側で生み出されるものですから、その人の「自律神経系や生命の状態」と関係しています。それがその人の「気質」になります。だからこそ、「気質」が分からないと、相手の心やからだや生命活動に対する働きかけが効果的に出来ないのです。合気道というような気を使う武道でも、熟練者ほど「気」に感応しやすくなっていますから、気の技がかかりやすいですが、気に対する感受性が鈍い素人には効きにくいものです。だからインチキに見えてしまうのです。胆汁質の子に対しては「ガンバレ」と言うことで「元気」というエネルギーを与えることも出来ますが、憂鬱質の子の場合には逆に元気を奪ってしまう場合もあるのです。
2013.05.17
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今日はちょっと横道にずれます。明日からまた「親子遊び」の続きを書きます。これは私の感覚的な印象なのですが、神戸の事件や佐世保の事件だけでなく、最近の子どもや若者による悲惨な事件を見ていると、「子ども達の孤独」を強く感じるのです。最初にそれを強く意識したのは、佐世保で起きた高校一年生の女の子による、同級生殺害の時です。あの事件が起きた時、事件を起こした女の子に関して様々なニュースが流れました。そのニュースに接して感じたのが「この子は親に見捨てられたんだな」ということです。親に対しても様々な問題行動があったため、親子別々に一人でマンションで暮らしていたそうですが、その問題行動の背景にも「見捨てられたことからくる孤独」があったのだろうと思います。お父さんに振り向いて欲しくて問題行動を起こしたのではないかと言うことです。確かに、裕福だったため、衣食住に関しては他の子よりも恵まれていたかも知れません。でも、子どもの心の育ちには衣食住よりも、「親の愛」が絶対的に必要なのです。と書くと、「この親だってこの子を愛していたはずだ」という意見もあるかも知れません。でも、その「愛」が、「子どもの心」に向かわず、「子どもの成績を上げること」や、「良い学校に入ること」などに向いていたのではないかと言うことです。見方を変えれば、それは「子どもへの愛」ではなく「自分自身への愛」に過ぎません。子どもがそのように育たないと、自分の気持ちが満たされないからなのではないかということです。「良い子」を求めるのも同じです。子どもに、「良い子」を求める親は「子どもの心」を見捨てているのです。「子どもの相手をするのが大変だ」ということで、子どもをテレビやゲームやオモチャに任せてしまうのも、「子どもの心」を見捨てているのと同じです。確かに、お母さんやお父さんは子どもを愛しているでしょう。その気持ちに間違いはないと思います。ただ問題は、「その気持ちが子どもに伝わるような関わり合いをしていないのではないか」ということです。どんなに子どもを愛していても、その愛が子どもに伝わるような関わり合いをしていなければ、子どもは見捨てられていると感じ孤独になるのです。それは恋人同士でも同じですよね。どんなに相手のことを愛していても、メールで愛を語るだけで相手の側に居てあげなければ、相手は孤独を感じますよね。それでも大人は頭で自分を納得させますから、メールだけでも愛が続くこともあるかも知れませんが、子どもは「生理的生き物」ですから、実際の肌の温もりがない状態では愛を感じることは出来ないのです。どんなに「子どものために」とお金を稼ぎ、豊かな衣食住を与え、教育費をつぎ込んでも、そこに「肌の温もり」がなければ、子どもは「お母さんやお父さんの愛」を感じる事は出来ないのです。そして、孤独になります。子どもはただ側に居て欲しいだけなのです。なぜ、今回この記事を書きたいと思ったのかというと、この子の親が「私は生きていていいんでしょうか」と、自殺してしまったというニュースを見たからです。そのニュースを見た時、「ああ、あの子はまた見捨てられた」と強く感じたのです。親は死ねばそこで終わりです。でも、子どもはこれからも自分の過去と共に生きていかなければなりません。それは地獄のような日々でしょう。どうしてその子どもの側に居てやり、支えてあげる生き方を選ばず、世間体を気にするようなことを言い、自分勝手に死んでしまったのかということです。多分この親は、子育てをしている時も、同じ意識だったのでしょう。だから子どもは孤独だったのだと思います。でも、いまそのような孤独の中で生きている子ども達がどんどん増えてきています。「子どもと共に生きる子育て」ではなく、「子どものためにお金を使い、色々なことをしてあげる子育て」が増えてきたからです。確かに、お母さんやお父さんは「子どものために」と一生懸命に生きています。家事や炊事をするのも、お金を稼ぐのも子どものためでしょう。でも、子どもが本当に求めているのは「ただ側にいてくれること」だけなのです。子どもの「おかあさん あそんで」という言葉は、「お母さんの側に居たい」という意味なのです。「子どもの心」を見捨てないで下さい。
2014.10.07
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最近の子ども達は、テレビやネットで情報を得、ゲームやおもちゃで遊び、運動は学校の体育や「○○クラブ」で行い、学校や塾や「○○教室」や公園のような狭く、大人に管理された場所でだけ活動しています。それはつまり、最近の子ども達は「大人によって作られた世界」の中だけで生きている、ということです。そしてそれは、ゲームの中の仮想世界と基本的には同じです。私たちは毎日、魚や肉や野菜を食べて生きています。それらはお店で買ってきます。ですから、子ども達はお店に並んでいる「お魚」や「お肉」や「野菜」しか知りません。「そこから先の世界」を知らないのです。時々、「子どもの中には、魚が切り身の状態で泳いでいると思っている子もいる」ということを聞きますが、これは事実です。実際、保育園の先生からも聞きました。また、以前、幼稚園ぐらいの子に「牛さんのオッパイを飲んだことがある子」と聞いたとき、数人が「そんな汚いものは飲んだことがない」と答えました。それで、「じゃあ、牛乳を飲んだことがある子」と聞くと、その子達も「飲んだことがある」と答えました。「牛さんのオッパイ=牛乳」ということを知らないのです。「お金」も同じです。子どもにとって「お金」は、お母さん、お父さんから貰うものです。ですから、「ちょうだい」といえば無尽蔵に出てくると思っています。子どもは、お母さんやお父さんがどのような苦労をしてお金を稼いでいるのか知りません。それは、自動販売機でジュースを買うようなものです。私たちの世界が便利になればなるほど、社会や生活は「人工的な作り物」になり、自然とのつながり、生命とのつながり、現実とのつながりを失っていきます。そして、「本当のこと」が分からなくなっていきます。でも、海が死ねば食卓に魚がのらなくなります。自然が死ねば、肉も食卓にのらなくなります。牛や豚や鶏は人工的に飼育されていても、彼らが食べているものは自然からの恵みだからです。自動販売機にジュースを補充する人がいなくなれば、お金を入れてもジュースは出てこなくなります。お父さんの仕事がなくなれば、いくら「お小遣いちょうだい」とせがんでも、お小遣いはもらえなくなります。でも、人工的に管理された狭い世界の中だけで育ち、生活している子ども達にはその「外の世界」ことが分かりません。そのまま大人になった人も分かりません。知識では知っていても、その知識が体験とつながっていないので感覚的に分からないのです。ですから、「働かないとお金をもらえない」ということを知っていても、楽な仕事ばかりを探したり、ちょっと現実とぶち当たると、すぐに逃げてしまいます。子どもがアリを殺したり、お花を摘むと「かわいそう」とか「残酷」といいますが、平気で牛や豚の肉を食べ、お花屋さんでお花を買ってきます。大きなつながりの中で物事を見ることが出来なくなり、「目先の理想論」だけを振りかざすのです。山や野原や田んぼを切り崩し、埋め立て、公園を作り、「命を大切にしましょう」という看板を立てます。いつもは「命を大切にしましょう」といっている立場の人が、「これは外来種だから駆除しましょう」と言います。「人間による、人間に管理された、人間の価値観に基づく世界」ではそれは正しいことなのかも知れませんが、そのような世界は、「その人間の世界を支えている自然の世界」との整合性がありません。それは木の上で、木の恵みによって生活している生き物が、好き勝手に木を食い荒らしているのと同じ状態です。それではやがて、木が枯れてしまいます。木が枯れたとき、その恵みによって生活していた生き物たちも死にます。また、学校では「勉強しろ勉強しろ」といいますが、「何のために勉強するのか」は教えてくれません。先生も知らないのでしょう。ですから、「勉強の価値」は家庭と学校という閉鎖された世界の中にしか存在していません。子どもが、「子どもの時にしか出来ないこと」を犠牲にしてまで毎日やらされていることなのに、「やがて子どもが出て行かなければならない外の世界」とのつながりがないのです。このように、価値観的にも閉鎖された世界の中で暮らしている子ども達は、自分がその価値観に適合できないと感じたとき、自分の居場所を失います。その価値観に違和感を感じた子も居場所を失います。そして「自分はダメな子だ」と、自分を否定し始めます。それでも大人は、そのような子どもに「この世界にはこの価値観しかないのだ、この価値観を受け入れないと生きて行くことが出来ないのだ」とさらにその価値観を押し付けます。それで子どもはますます、身動きが取れなくなります。でも、本当の世界はもっと広く、豊かで、人間はもっと自由なのです。大人の人達は是非、知識ではなく体験を通して、そのことを子ども達に伝えて欲しいのです。
2014.11.12
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人は「肉体」という形でこの世界に存在していますが、「肉体」として存在しているだけでは何も出来ません。それはただの「肉の塊」に過ぎないからです。その「肉の塊」がこの世界とつながり、この世界の中で生き生きと生き、この世界の中で幸せを得るために一番必要なのは「感覚の働き」です。それは全ての生き物において同じです。感覚の働きがなければ敵から逃げることも、食べ物を見つけることも、食べる事も、吸収することも、生殖することも出来ませんからね。その感覚の働きが全て消えた状態を「死」と言います。死んでも肉体は残りますが、もう何も出来ません。そして、その「感覚の働き」にも色々とあります。心を持たない生き物たちは「肉体を維持するための感覚」しか持っていません。原始的な生き物はその「からだの感覚」に従って生きています。それらの生き物の行動は全て反射です。でも、脳を持っているもう少し高等な生き物になると、「からだの感覚」以外の感覚も持っています。それは、他者との関係性を感じるための感覚能力です。特に群れを作る生き物たちは、この「他者との関係性を感じるための感覚能力」がなければ「群れ」を維持することが出来ません。いわゆる「五感」(聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚)と呼ばれるものは、直接自分自身に伝わってきた感覚を感じるためのものですが、その「他者との関係性を感じるための感覚能力」は、肉体に備わった五感の働きとは別のものです。それは「心の感覚」とも呼べるものです。時間や空間を感じる能力も「心の感覚」です。ただし、その生き物たちの「心」は、「心の原点」ではあっても、私たち人間の「心」と同じものではありません。それは一般的に「本能」と呼ばれているものです。でも実は「本能」も「心」の一部なんです。私たち人間にも本能がありますよね。お腹が空いている時に美味しいものを見ればヨダレが出てそこから意識が離れなくなります。また、大好きな異性が近寄ってきたらドキドキします。その反応自体は本能なんですが、本能も「心」の一部なので私たちはその「本能の反応」を「心の反応」として感じるのです。本能が動けば「心」も動くのです。でも、「人間の心」は人間以外の動物たちの「心」とは少し異なっています。人間以外の動物たちの心を支配しているのは主に本能ですが、「人間の心」には本能以外の要素が含まれているからです。私はそれが「魂」と呼ばれるものなのではないかと思っています。その「魂の働き」が育っている人は、本能に振り回されません。でも、人間でも「魂の働き」が育っていない人は本能に振り回されやすいです。精神的な自立も困難になります。「真・善・美」と呼ばれるものを感じるのも「魂の働き」です。「本能」は「生存に必要なもの」ですが「魂」は「成長に必要なもの」なんです。動物たちは感覚と本能にだけ従って生きています。犬や猿やイルカなどは「心」を持っていると言われていますが、そんな彼らでも、基本的には本能に従って生きているだけで「心の成長」を求めません。「心の成長」を求めるのは「魂の働き」に目覚めた人間だけなんです。問題は、「からだの感覚」や「本能」はほぼ「生まれつき」ですが、「魂の働き」や「魂の感覚」は生まれつきではないということです。そのため、「魂の働き」や「魂の感覚」が育たないまま、肉体だけが成長してしまう人もいます。そのような人は本能に従って生きています。そして、利害損得ばかりを求め、心の成長を求めません。「真・善・美」などというものにも興味がありません。でも実は、人間はみんな「魂の働き」や「魂の感覚」といったものを持って生まれてきているのです。でも、生まれたばかりの時にはそれは深いところに眠ったままなんです。それはどういうことかというと、例えば、「性欲」と呼ばれるものは生まれたばかりの赤ちゃんのからだの中にも本能として組み込まれています。でも、思春期にならないと目覚めないですよね。それと似ています。ただ「性欲」の方は肉体の成長と共に自然に目覚めますが、「魂」の方は子どもの周囲にいる大人が目覚めさせてあげないと目覚めないのです。子どもの成長における「7才まで」という時期は、その眠った状態の魂の働きを目覚めさせる時期でもあるのです。だから、7才前の子どもには美しいものを見せ、美しい音を聴かせ、心に響く物語を聞かせ、人とつながる喜び、学ぶ喜びを伝え、「生まれた来たこと」と「自分の成長」を喜ぶ心を育ててあげる必要があるのです。そのような体験が子どもの「魂の働き」や「魂の感覚」を目覚めさせてくれるのです。この「魂の目覚め」があるから、子どもは思春期が来た時に自立して生きていくことが出来るようになるのです。
2024.06.09
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ディズニーの「インサイドヘッド」という映画があります。あらすじは普段は少女の頭の中の司令室で、彼女の幸せのために尽くすヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミという5人の感情たち。ところが引っ越しで環境が変わり、少女の気持ちが不安定になってしまう。彼女の頭の外へ吸い出されてしまったヨロコビとカナシミは、司令室に戻ろうと必死に少女の後を追いかける。というようなものです。似たような視点から描かれた「カラーモンスター」という絵本もあります。絵本の紹介にはカラーモンスターはじぶんでもなにがなんだかよくわかりません。いろんなきもちがごちゃごちゃ。こんがらがったきもちをほどかなくてはなりません。カラーモンスターはうれしい、かなしい、いかり、ふあん、おだやか、5つのきもちをせいりすることができるでしょうか?自分の感情を把握して気持ちの整理や表現ができるようになる本。と書かれています。カラーモンスターに登場するのは、「いかり」「うれしい」「ふあん」「おだやか」「かなしい」という名前の5つのモンスターです。インサイドヘッドに登場するのと似たようなキャラクターです。いずれの作品も、自分の内側にある感情と向き合うことがテーマになっています。(ただし、最初にお断りしておきますが、私はこの映画は見ていません。絵本はパラパラと見た程度です。ですから誤解も含まれているかも知れません。)私はこの二つの作品のことを知った時、「欧米的な発想だな」と感じました。「心の問題」を「からだの問題」とつなげることなく、「心の中だけの問題」として扱おうとしている点でです。心理学的とも言えます。欧米では、「本来切り離せないものをバラバラにしてから調べて、それを再構成して全体のことを知ろうとする」という方法が主流です。科学はその方法によって生まれました。そもそも、キリスト教では「感情」を扱いません。「良い感情」は「神様からのささやき」で、「悪い感情」は「悪魔からのささやき」というような扱いはしますが、「感情」というものに対して、「命の働きと密接につながっている人間らしさや自分らしさを支えている大切な働き」という発想はありません。キリスト教的な発想では、「心」は「神様(聖なるもの)とつながるもの」ですが、からだは「土(不浄なもの)とつながるもの」です。「魔女」と呼ばれ迫害された人たちも「土」とのつながりが強い人たちです。その「心」と「からだ」を分離して考える考え方は、キリスト教とは関係がないと思われているこの映画や、絵本のようなものにも一貫しています。自分の心と向き合うために「自分の中の感情」を、その働きによってバラバラにして扱うという発想自体が西洋的です。それに対して、お釈迦様が説いた仏教では、「自分の感情」と向き合うことこそがメインテーマでした。その仏教では「怒り」「喜び」「苦しみ」などの様々な感情を「別々のもの」としては扱いませんでした。喜びがあるから悲しみが生まれ、苦しみがあるから喜びが生まれ、安心があるから不安が生まれるというように良い感情も悪い感情もみんなつながり合っているからです。光と闇を分離することが出来ないように、「良い感情」と「悪い感情」を分離することは出来ないのです。また人は苦しいがゆえに深い学びをすることが出来る場合もあります。悲しいがゆえに人に優しくすることが出来る場合もあります。「私」という存在の他に「多様な感情」があるのではなく、「多様な感情の集合体こそが私という存在なんです。そしてその感情の集合体の大本に「からだ」という存在があります。「感情」は「からだ」からのメッセージなんです。からだが整えば肯定的な感情が優勢になったり、自分の感情に振り回されなくなります。でも、からだが歪めば否定的な感情が強くなったり、特定の感情にこだわるようになります。ですから「心の問題」を「心の中だけの問題」として見ると、迷路にはまってしまうのです。だから西洋医学では心の問題を処理するときに簡単に薬を使ってしまうのです。でも、薬では心の問題を解決することは出来ないのです。それは明らかな事実です。実は、「からだの様々な活動や出会いに基づく学びや成長」を通してしか、「悩み」や「苦しみ」を本質的に解決することは出来ないのです。いくら自分の感情と向き合っても無駄なんです。自分の感情と向き合うことで一時的な処理は出来たとしても、それが「学び」と「成長」につながっていなければ、またすぐに同じ問題が繰り返されてしまうのです。<明日に続きます>
2024.09.08
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昨日は「現代人は自分のリズムを見失っている」と書きました。全ての生命にとって、この「リズム」は本質的な要素です。生命はリズムによって支えられ、そのリズムを作り出しているのが生命の働きでもあります。ですから「生命を受け継ぐ」ということは「生命のリズムを受け継ぐ」ことでもあります。そのリズムの調子が狂うと、心の調子も、頭の調子も、からだの調子も狂います。そして、人にはそれぞれ「自分固有のリズム」があります。人はそのリズムが安定している時、外の世界に意識を向けることが出来ます。生命のエネルギーにゆとりが生まれるからです。でも、そのリズムが狂っている時には、生命のエネルギーはリズムを回復する方に向けられてしまうため、意識もまた外側ではなく、内側に向かうことになります。そのため他者を受け入れることが出来なくなります。自分の生命の働きを守るのに精いっぱいになってしまい、他者のことにまでエネルギーを使う余裕がなくなってしまうのです。これは、心や、かからだや、生命の働きを、国や政治に置き換えてみるとよくわかります。平和で安定した社会や国では色々な分野での循環が安定しています。人の循環、知識や技術の循環、物の循環、生命の循環が安定しているのです。それがその社会や国のリズムを作り出しています。そして、そのような安定した社会や国においては他者に対する共感も高いし、他者を受け入れることに対しても寛容です。自分の社会や国にゆとりがあるからです。でも、人の循環、知識や技術の循環、物の循環、生命の循環に乱れが生じている社会や国では、人々の意識は「自分を守ること」ばかりに向けられるようになり、他者に共感することも、他者を受け入れることも出来なくなります。今、世界中の国々がそのような状態になりつつあります。そのような社会や国では保守的、右翼的な勢力が強くなります。リズムが狂ってくると、個人では自己中心的になり、社会や国は保守的、右翼的になるのです。このリズムはまた「気質」とも関係しています。多血質のリズムは軽やかで多様で楽しいです。そして、他のリズムに合わせて変化することも出来ます。胆汁質のリズムは力強いけれど単調です。そして、他のリズムに強い影響を与えます。憂鬱質のリズムは弱く、不安定です。そのため、他のリズムの影響を受けやすいです。粘液質のリズムは強くも弱くもなく単調ですが、非常に安定しています。ですから他のリズムの影響も受けにくいし、他のリズムに影響を与えることも少ないです。ですから、リズムという点で見ると多血質と憂鬱質は比較的似ています。それはつまり、多血質のエネルギーが低下すると憂鬱質的な状態になりやすいということです。多血的な女性が、妊娠と子育て中に憂鬱質的になりやすいのはそのためです。でも、本来の憂鬱質の人はその状態でも耐えることが出来ますが、多血質の人がその状態になると、非常に苦しくなります。心とからだがそのリズムに慣れていないからです。胆汁質と粘液質も似ています。胆汁質のエネルギーが低下すると粘液質的な状態になりやすいです。ライオンが獲物を追いかけている時には胆汁的で、お腹がいっぱいになると粘液的になるようなものです。お腹がいっぱいになると生命エネルギーは消化の方に向けられてしまうため、からだを動かす方のエネルギーは低下するのです。そしてリズムが粘液的になります。でも、「自分のリズム」を失うと、どの気質の人でもリズムが不安定になり憂鬱質的になります。そして、機械のリズムや組織のリズムに合わせて動いている現代社会は、人間に対して「自分のリズム」や「生命のリズム」を破壊するように働きかけています。その結果、現代人は「自分のリズム」も、「生命のリズム」も、食のリズムも、生活のリズムも、からだのリズムも、感覚のリズムも、一日のリズムも、成長のリズムもみんな崩れてしまっています。だから不安ばかりが強くなってしまっているのです。
2012.04.24
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日本人は、もともと「言葉によるコミュニケーション能力」はあまり高くありません。実際、日本では昔から「話す能力」よりも「聞く能力」が、「自分の頭で考えて行動する能力」よりも「自分の役割に従って行動する能力」が求められてきたのではないかと思います。それと同時に、日本語は「言葉によるコミュニケーション」に適した言葉ではありません。日本語しか知らない人にはその日本語の特徴は分かりませんが、英語やドイツ語などと日本語を対比するとそのことが分かります。日本語は、非常に感覚的で、論理的な表現が困難で、誤解を生みやすい言語なのです。それは、日本の社会では人々の移動が少なく、ほとんどの人が生まれてから死ぬまで顔見知りの人々に囲まれて生活していたことと関係していると思います。そのような社会では、人々は「つながり」の中に生まれてきます。ですから、自分の力で「つながり」を創り出す必要がありません。そしてそのような社会は「言わなくても分かる」という人間関係で成り立っています。「家族」はその典型です。「家族」は、対話がなくても、それぞれがそれぞれの役割を果たしていれば成り立ってしまいますよね。そういう関係です。でも、現代の日本ではそのような人間関係は失われてしまいました。「隣に住んでいる人の名前も顔も知らない」などということも珍しくない社会になりました。「言わなくても分かる人間関係によって支えられてきた社会」が、「言わなければ分からない人間関係によって支えられる社会」になって来たのです。そのような社会では、「自分らしさ」を大切にしながら生きるためには「高いコミュニケーション能力」が必要になります。でも実際には、それが追いついていないのです。むしろ、昔の人よりもさらにコミュニケーション能力は低下しているのではないかと思われます。その原因の一つとして考えられるのが、「様々な文化や芸能や生活技術や知識を、直接人から人へと伝える文化が消滅してしまった」ということです。「様々な文化や芸能や生活技術や知識を、直接人から人へと伝える」ということは、必然的に、相手との密接なコミュニケーションを発生させるとともに、そのようなものに関する「言葉」や「表現方法」を伝えることになっていたのですまた、オンブや添い寝のような「肌を触れあわせる子育て」も消えつつあります。肌を触れあわせていると、「言葉にはならない想いを感じる能力」が高まるのです。そのため、この能力が高いと「曖昧な日本語」を使っていても誤解を減らすことができます。(11月27日13:00~、横浜の西区公会堂地区センターで、「おんぶシンポジウム2014」というものがあり、私もパネリストで参加します。詳しくはこちらで。)その結果、人が人とつながることが困難になり、無力感や、自己肯定感の低さや、孤独を感じる人達が増えてきました。さらには、現代社会では、「言葉」を失うことは、「自分らしく生きる能力や場を失う」ことに直結してしまうのです。「自分を語る言葉」を持っていない人は、自分らしく生きることも出来ないのです。実際、自分らしい生き方をしている人はみんな「自分を語る言葉」を持っています。だからこそ、現代の子育てでは「言葉を伝えること」や、「言葉を育てる事」が非常に重要になるのです。幼い子ども達はまず「聴く」ことで「言葉」を学び始めます。でも、その時、「実物」と「言葉」がセットになっている必要があります。「実物」とセットになって「言葉」を体験するから、「言葉」が単なる「音」ではなく、「物」や、「事」や、「考え」や、「想い」を表すものだということが分かるようになるのです。これは今までも書いたことです。次に、子ども達はその「言葉」を使って話し始めます。でも、幼い子どもはまだ「言葉の意味」も「使い方」もよく分かりません。そういうことは相手の反応を見ながら学んで行くことだからです。知識としての「ノコギリの使い方」はビデオで見るだけでも学ぶことが出来ます。でも、実際にノコギリが使えるようになるためには、実際にノコギリで木を切ってみて、体で感じながら学ぶしかありません。それと同じことを子ども達は「言葉」でもやろうとするのです。そして、その時のお母さんやお父さんの反応を見ながら正しい言葉の使い方を学んでいくのです。ですから、ただ黙って聞いているだけでは子どもは「言葉の使い方」を学ぶことが出来ません。それは、実際に木を切ることなく「エアーノコギリ」をやっていると同じ事になってしまうからです。また、肯定的に反応してくれるからこそ、子どもはいっぱい言葉を使いたくなるのです。子どもは肯定的に反応してくれない相手には話しかけないのです。子どもが、「ワンワンがね」とお母さんに言ってきた時、「子どもが言いたいこと」を無視して、「ワンワンじゃなくて“いぬ”でしょ」と言い返していたら、子どもは何も言わなくなってしまうのです。幼い子どもの「言葉育て」で大事なことは、「正確な言葉」を学ばせることではなく、「言葉で想いを伝え合う喜び」を伝えることなんです。「正確な言葉」は後からでも学び直せますが、「言葉で想いを伝え合う喜び」は後からでは学び直せないのです。ですから、「子どもの言葉」は、単なる「言葉の意味」だけで解釈するのではなく、「子どもが言いたいこと」を感じながら反応する必要があるのです。子どもが「帰りたくない」と言った時、「何を言っているの、もうこんな時間だよ」とか「ワガママを言うんじゃありません」と返すのではなく、「今日は楽しかったからね。また来ようね。」と返してあげると、子どもはより豊かな言葉が使えるようになるのです。ただし、それで子どもが素直に言うことを聞くということではありませんけどね。************「聴き方」は明日も続きます。明日はもうすこし具体的に書きます。今日もそのつもりだったのですが、書き始めたら余計なことが増えてしまいました。
2014.11.01
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私はよく「こういう時はどうしたらいいのでしょうか?」という質問を受けます。その気持ちは分かりますが、じゃあ、その方法を教えてもらえば簡単にそれが出来るのか、というと、実際にはそれはなかなか困難です。機械の操作のようなものはマニュアルに沿って動かせば、想定した通りに動かすことが出来ます。マニュアルとはそのためのものです。でも、中にはそんなマニュアルを使ってもうまく出来ない人もいます。私の家内も機械音痴ですから、コンピュータの操作などもなんべん教えても毎回うまく行かず、私に聞いてきます。マニュアル化出来るようなものでさえうまく出来ない人がいるのに、「子育て」のようなマニュアル化出来ないもののやり方を聞いても、その通りにうまく出来る訳がありません。ましてや、マニュアル化出来ないものは言葉では説明できないのです。だからこそマニュアル化出来ないのですから。でも、現代人は「マニュアル化出来ないもの」を学ぶ機会があまりありません。コマ回しでも、竹馬でも、お手玉でも、昔の子どもの遊びはみんな「マニュアル化出来ないもの」ばかりでしたが、今の子どもの遊びは機械を買ってきて説明書(マニュアル)通りにやれば遊べるものばかりです。それは、冷蔵庫や洗濯機の使い方と同じです。そのため、子育てでも「方法を聞けば簡単にできる」と思い込んでいる人も多いのでしょう。でも、「子育て」に必要なのは、武術や、踊りや、車の運転や、竹馬などと同じ「心とからだの技術」ですから、知識を学んだだけで出来る訳がないのです。また、その勘違いが子育てを困難にしているのです。そのような人は知識ばかりを求めて、現場で子ども相手に試行錯誤することをしないから、「子育ての技術」が身につかないのです。多くのお母さんが「早くしなさい」と子どもを追い立てています。でも、いくら「早くしなさい」と子どもを追い立てても、早くする子どもはいません。毎日毎日同じことを繰り返して、毎回失敗しているのに、毎回、同じ方法を繰り返すだけの子育てをしている人は試行錯誤をしていない人です。そしてそのような人に限って「どうしたらいいんでしょうか?」とマニュアル的な方法を聞いてきます。そのような人でも、自分なりに一生懸命に考えて、一生懸命に工夫していることは分かります。ですから、このようなことを言われたら「私だって頑張っているんです」と腹が立つでしょう。でも、ほとんどの場合その工夫が空回りしているのです。なぜなら、相手との対話がないからです。「子育ての技術」とは「子どもとの関わり方の技術」のことです。まず、そのことをしっかりと認識して下さい。ですから、その技術を学ぶためには「子どもとの対話」が絶対的に必要になるのです。ただし、この「対話」というのは「言葉による対話」のことではなく「感覚による対話」のことです。ですから、言葉を話すことが出来ない赤ちゃんとだって対話することが出来ます。「言葉を話すことが出来ない赤ちゃんとなんか対話できない」と思い込んでいる人は、「子育ての技術」を学ぶことが困難な人です。そのことに気付かないまま「子育ての方法」を学んでも、子育ては少しも楽にも、楽しくもなりません。子どもの表情や、動きや、声や、言葉にお母さんが反応してあげると、子どもはそのお母さんの反応に、表情や、動きや、声や、言葉によって反応を返してくれます。それにお母さんが反応すると、また子どもは反応を返してくれます。それが「子どもとの対話」です。「対話しようと思って一生懸命に話しかけているのに少しも答えてくれない」という人は、その「対話」が出来ていない人です。そのような対話を繰り返しているうちに、自分の子どもの「心とからだの特性」が見えてきます。すると、子どもに出来ることと、出来ない事の区別が付くようになります。ですから無理をしなくなります。また、「子どもとの関わり方」が見えてきます。すると、お母さんの気持ちを伝える方法も見えてきます。よく分からない人は最初は子どもの真似をするだけでもOKです。「楽しかった」と子どもが言えば、「楽しかったんだね」と返し、子どもが嬉しそうな顔をしていたら、お母さんも「楽しそうな顔」を返し、子どもが手をつないできたら、お母さんも手をつなぎ返し、子どもがスキップしたら一緒にスキップする。それだけで子どもは「お母さんとの対話」を楽しむことが出来るのです。そしてお母さんも子どもの心とからだのことが少しずつ見えるようになって来ます。*****************私は小・中と3年ぐらい町道場で柔道を習い、32才頃から太極拳を始め、それ以降も色々と学び、今でも武術的なことを学んでいます。でも、素質がないので何十年やっても未熟なままです。先生がやって見せてくれても、なかなかその通りに出来ません。「やって見ろ」と言われてやってみて、「ここがおかしいからこうしなさい」と指示されても、なかなかそのようには出来ません。つきっきりで指導してもらっていてもなかなか学べないのが技術の世界なんです。ですから、いつでも自分で工夫して試行錯誤しています。するとしばらくすると「それでいい」と言われます。先生の言葉はあくまでもヒントに過ぎません。最終的にはそのヒントを手がかりに自分の力で発見するしかないのです。
2014.11.13
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人間はその細胞レベルにおいて常に死に、常に生まれ、そのからだや心を支えています。見かけ上のからだの姿は変化しなくても、そのからだを支えている細胞は一時も休まずにその活動を継続しています。皆さんがボーッとして全く動かないときにでも、心臓は動き、細胞は生命を支えるために動き続けています。意識は休むことがあっても、細胞や生命は死ぬまで休まないのです。でも私たちはその絶え間ない動きや、流れや、変化に気付きません。それは「常に変化するもの」に意識を向けていないからです。木々の状態、雲の状態、風のながれ、子どもの表情、からだの状態は刻一刻と変化し続けています。でも、「変化するもの」に意識を向け続けていないと、その変化には気付かないのです。チラッと雲を見ても、「雲の動き」は見えません。「雲」を見続けていないと動きは見えないのです。そして、「正解」は意識を固定化させ、「石頭」にしてしまいます。「もう分かった」と思い込んだとたんに変化が見えなくなってしまうのです。正解ばかりを追い求めている人も、その「変化」が見えません。この世界の真実は「変化」の中にこそあるのです。だから「正解」がないのです。「正解」は剥製や化石と同じものです。そこには「生命」がありません。より正確に言うと、正解はあるのですが、その正解自体が刻一刻と変化しているのです。ですから、無数の正解があるのです。その時人は、自分が見た正解だけを「唯一の正解」だと思い込んでしまいます。でも、別の人はまた「別の正解」を得ます。そして「正解と正解の戦いになります。「悟り」も、「一回悟ればそれで終わり」というものではないそうです。悟った時は「真実」でも、それで「正解を得た」と、さらなる悟りを求めることをやめたら、それはあっという間に「悟り」ではなく、単なる記憶の中の「知識」になってしまうのです。そのような意味で私は、「正解はない」と言っています。「木」の真実は、種から芽が出て茎が伸びて、枝葉が付いて、花が咲いて、実がなって、また種になって、という変化の中にこそあるのです。それだって、未来には変化するかも知れません。「水」の真実は、0度以下になったら氷り、100度以上になったら沸騰し気体になり、その間の時には流れたり、波になったり、静かになったり、蒸発したりという変化の中にあります。「水」の真実は、その変化の全てを含んでいるのです。水は液体ではありません。水は固体ではありません。水は気体ではありません。その間で変化し続ける存在が「水」なのです。「私の真実」は、ある時は笑い、ある時は泣き、ある時は怒り、という変化の中にあるのです。昨日の私の状態と、今日の私の状態は異なります。でも、別人ではありません。その変化を含んだものが「私」なのです。だから、感じ続け、考え続ける必要があるのです。
2012.08.19
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3月11日の震災後、多くのアートセラピーの関係者が震災を受けた人達の心のケアのために動きました。そして、その活動は今も継続しています。それ自体は素晴らしいことだと思っています。アートセラピーには人を癒す大きな力がありますから。でも、私はそのような動きに対して不安も感じています。それは、その多くが「心が傷ついたから心のケアをしよう」というような短絡的な発想で活動しているように感じるからです。でも実は、その心の傷が深ければ深いほど、それは「心の傷」としてだけでなく「からだの傷」としても残っているのです。ただし、「からだの傷」といってもそれは外傷的なものではありません。「からだの働きを支えている生命システムにおけるダメージ」ということです。「心の傷」という言葉が、目に見える「傷」を指すものではないのと同じように、私が言っている「からだの傷」も目に見えるものではありません。でも、その「目に見えないからだの傷」を指す日本語がありません。人間はまず「からだ」が成長します。次に「知能」が、そして「心」が成長し、最後に「意識」が成長します。これは人類の進化の過程そのものであり、子どもの成長も、人間の「からだ・知能・心・意識」の関係もそのような構造になっています。一番下に「からだ」という土台があり、その上に「知能」が乗り、その上に「心」が乗り、最後に「意識」が乗っているというような構造です。(ただし、この「知能」はまだ「人間的な知能」ではありません。人間的な知能は心や意識の働きとも密接につながっていますが、これはネズミも持っているような単純な「知能」のことです。そしてその「人間的な知能」と「感覚の働き」は密接に関係しています。)そして、この四つは密接に関係しています。からだが変化すると、心も知能も意識も変化します。熱がある時には論理的に考えることが出来なくなったり、一つのことに意識を集中することが困難になります。そのようなことです。同じように、心が変化するとからだも、知能も、意識も変化します。知能が変化すると、からだも、心も、意識も変化します。そして、意識が変化すると、からだも、心も、知能も変化します。ですから、心に受けた傷はからだにも、知能にも、意識にも傷となります。でも、生命には自己治癒能力もありますから、多くの場合はそのバランスを整えるような形で全体が修復していきます。失恋をした直後は、からだに力も入らないし、食欲もなくなりますし、からだを動かす気力も失われます。また、論理的に考える能力も失われ、意識も閉ざしてしまいます。でも、やがて「忘れる」という治癒能力が働き、全部がまた元に戻っていきます。その時、全部が一緒に元に戻っていきます。心だけが戻るわけではありません。ところが、このような日常的な「心の傷」ではなく、もっと生命の根元にまで届くような「心の傷」の場合は、「心の自然治癒力」が働かなくなってしまうのです。そのため「忘れる」ということもなくなります。どうして「心の自然治癒力」が働かなくなるのかというと、「心の傷」が「からだの歪みや緊張」として固定化されてしまうからです。その心の傷が幼児期に受けたものなら、成長と共にその「原因の記憶」も苦しみや悲しみも消えてしまいます。でも、その苦しみや悲しみは、からだの歪みや緊張としてずーっと残ってしまうので、苦しみや悲しみを受けた状況と似た状況に出会うと、いきなり苦しみや悲しみだけが現れます。だから、子育ての最中に突然、自分が子どもだった頃の苦しみや悲しみがよみがえってしまうことがあるのです。心や、知能や、意識といったものはコンピュータ的に言えば「ソフト」です。つまり、それらは物理的に存在しているわけではありません。実際に物理的に存在しているのは「からだ」だけです。そのからだの働きが「知能と心と意識」といった「ソフト」を支えているのです。ですから、その「からだ」にトラブルが生じてしまったら、いくらソフトを修正しようとしても修正出来ないのです。つまり、アートセラピーや様々なメンタルセラピー、マインドセラピーのようなものが有効に働くのは、「心の自然治癒力」が働いている状態の人に対してだけだということです。というか、その「心の自然治癒力」に働きかけることでアートセラピーや様々なメンタルセラピー、マインドセラピーは有効に働くようになっているのですからそれは当然のことです。そのことを知らずに、心の傷の重傷者に対して「心」にだけ働きかけていると、かえって心とからだの状態をこじらせてしまうこともあります。アートセラピーや様々なメンタルセラピー、マインドセラピーのようなものにはそのような限界があるのです。「心の自然治癒力」にまで損傷を受けてしまったような人に対して必要な処置としては、まず「からだ」という「ハード」に働きかけて歪みや緊張を和らげて上げる必要があります。つまり、そのような人に対しては、ボディーセラピー、フィジカルセラピーから始めるべきだということです。本当は専門家による歪みの矯正などもしてあげることが出来たら一番いいのですが、多分それは難しいと思うので、誰にでも出来そうなことだけを書いてみます。一番簡単なものは、まずゆっくりとお風呂に入り、からだをマッサージして上げることです。からだを揺すってあげるのも効果的です。次に歩いたり、生活の中でいっぱいからだを使うことが出来るようにしてあげることです。人と触れ合うような活動は特に子どものからだの状態を癒すのには有効です。また、手指や足腰を使う活動を増やし、さらには創造的な活動に参加するように促します。そのような活動と共に、意識とからだをつなげるようなエクササイズを行います。すると、感覚が目覚め始め、生命力が戻ってきます。感覚が目覚めないことには生命力も目覚めないのです。この頃になるとアートセラピーや様々なメンタルセラピー、マインドセラピーなども有効に働くようになります。これは震災に遭われた方達だけの問題ではなく、日常的な子どもたちの心の問題に対しても同じです。「心の教育」はまず「からだの教育」から始めないことには、効果がないのです。その「からだの教育」とは、「感覚」と「からだの働き」をつなげてあげることです。そのことが「心の教育」にも「知能や意識の教育」にもつながっているのです。感覚が閉じてしまっている子どもたちに対して「心の教育」をやっても無意味です。それは耳を閉ざしている人に「よく聞きなさい」と言っているのと同じです。***************************************忠武飛龍さんのコメントを読んでからの補足です。この「からだの教育」とは、今学校で行われているような体操とは全く異なるものです。あのような体操もまた空想の産物です。
2011.06.14
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今、大人も子どもも「考える力」がどんどん低下してきているような気がします。世の中が便利になるに従い「考える必要」が消えてきたからなのでしょう。でも、それは非常に恐ろしいことです。「考える力」を失った人は簡単に洗脳されてしまいます。「考える力」を失った人は自立することが出来ません。自分で判断することが出来ないからです。「考える力」を失った人は不安が強くなります。そのため人に依存したり、人を支配したりします。依存と支配は同じ心の現れです。「考える力」を失った人は、感じることも観察することも出来ません。目的意識を持つことが出来ないからです。「考える力」を失った人は、対話することが出来ません。対話には決まったシナリオなどないからです。「考える力」がない人は責任のある行動をすることができません。「考える力」がない人は計画を立てることが出来ません。「考える力」がない人は子育てが出来ません。子どもは自由に動く存在だからです。「考える力」がない人は自由に生きることが出来ません。「考える力」がない人は体験や失敗から学ぶことが出来ません。「考える力」がない人は人の言葉や状況を理解することが困難です。理解力もまた「考える力」の現れだからです。でも、「考える力」がない人は、自分に「考える力」がないことに気付きません。そして、困ったことがあると全部人のせいにします。逆に言うと、何かあった時にすぐに「わかんない」と言ったり、人のせいにする人は「考える力」のない人です。そして、困ったことに「考える力」がない人は、「考える力」の大切さが分かりません。そして今の日本では、そういう人たちが政治や経済を動かしています。ちなみに、昔の子どもたちは遊びを通して「考える力」を育ててきました。でも今、そのような場が失われました。確かに、カードゲームでもテレビゲームでもネットゲームでも頭を使っているでしょう。でも、単に「頭を使う」ということと、私が言っているところの「考える」ということは同じではないのです。犬や猫でも頭は使っています。でも、考えてはいません。私が言っているところの「考える」ということの意味は、「意識の働きによって無から有を創造する」ということです。レストランに入ってメニューを見ながら「なんにしようかな」と考えるのは創造ではありません。また「競争」は自分の頭で考えることを阻害します。目的を決められた上で考えることが得意でも、自由に考える能力がなければ人間らしさは失われるのです。私が言っているところの「考える力」は毎日の生活の中でも遊びを工夫し、楽しさを創造する自由に生きるための能力なのです。何もない森や林に行っても遊びを発見する能力です。人生を楽しく生きる能力です。「考える力」がある人は自分で知識を発見することが出来ます。仲間を作ることが出来ます。他の人とつながりを作ることが出来ます。****************実は、私は今人々の意識がどんどん内向きになっているような気がして怖いのです。それは日本だけでなく、ヨーロッパでもロシアでも韓国でも中国でもアメリカでも同じです。意識が内向きになると人々は自分を守ることを優先的に考えるようになります。すると対話が成り立たなくなり、対立が生まれます。そして、右翼的な思想の人がどんどん台頭してきます。先日の野田首相の国連での演説にも強い不安を感じました。福島の事故からなんにも学んでいないのです。「原子力発電の安全性を最高水準に高める」などと言っていますが、もともと日本には原発を作る技術などありませんでした。戦後外国から買った技術で原発を作ったのです。だから、マニュアル通りに動かす技術はありますが、いざという事故の時に対応する技術はありません。それはこの前の大震災の時に明らかになったことです。この問題点は非常に根本的な問題なので、そんな簡単に解決が出来るわけがないのです。それなのに「原子力発電の安全性を最高水準に高める」などと言い切ってしまう無責任さにあきれると共に、腹が立ちます。また、もっと腹が立ったのは日本の国内ではなかなか原発を作ることが困難になってきたせいかアジア各国に原発を輸出しようとしていることです。日本国内でも破綻している非常に危険なシステムを外国に売ろうとする神経が理解できません。武器の輸出に関しても同じです。あの人達は自分の頭で考えていないのです。
2011.09.24
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束縛のない状態を自由であると考える人も多いですが、私が考える自由とは、選択肢をいっぱい持っていて、且つその選択肢を選び、実行する能力を持っていることです。今日はそのことを「からだ」について書いてみます。人は自分のからだを無意識に使っています。ほとんどの場合、「からだ」は自動的に動く機械のように、反応によって自動的に動いています。感情も同じです。感情はからだの状態が作り出しているので、からだが反応によって自動的に動いているだけの人は、感情もまた自動的に発生しています。子育てにおいて、子どもを怒らないように頑張っているお母さんはいっぱいいます。でも、人間は怒らないようにしていると余計にイライラしてくるものです。心が「楽しむモード」ではなく「我慢するモード」になってしまっているからです。その「我慢するモード」の時には、人はからだを固めています。そのため、首も肩も、腰も、背中も、お腹も固くなっています。そして、人はそのような状態の時には、ただ反射だけで感じ、考え、行動しています。心の余裕がないからです。からだに余裕がない人は、心にも余裕がないのです。そんな時は、怒らないように我慢するのではなく、固まってしまっている自分のからだに意識を向け、ゆるめてあげることです。すると、からだにゆとりが生まれます。すると、心にもゆとりが生まれます。でも、この「ゆるめる」というのはなかなか難しいものです。人は「ゆるめよう ゆるめよう」と意識するほど固くなってしまうからです。それは人前で話などをする時に、「あがらないよう あがらないよう」に意識すればするほど上がってしまうのと同じです。ではどうしたらいいのかというと、普段とは違う動きをゆっくりとやってみることです。人間は普段とは異なる動きをしようとする時、意識の働きによってからだに意識的に動かそうとします。そうしないと、普段とは異なる動きをすることが出来ないからです。そして、人間のからだは、意識が通ることで柔らかくなるように出来ているのです。逆に言うと、からだが固い人は無意識的にからだを使っている人です。そのような人の感覚は鈍いです。緊張したり、あがってしまってからだが固まるのは、意識が「からだ」から離れて、「心」に捉われてしまうからです。深呼吸するとからだが緩むのは、深呼吸することで意識が「からだ」に戻ってくるからです。<続きます>
2012.04.30
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最初にちょっと事務連絡です。今日の「ポランの広場」は雨のためお休みにします。***************************ブログという媒体で伝えることが出来るのはどこまで行っても「頭での理解」だけです。そして現代人は「頭での理解」だけしか求めていません。子育てや教育の現場でも、大人たちは一生懸命に頭で理解させようとするばかりです。でも、「頭での理解」は「絵に描いた餅」と同じようなものです。見ることは出来ても食べることは出来ないのです。それは、象の絵や写真やビデオを見て、「象」というものを理解したつもりになっているのと同じです。「真実」というものは決して言葉化出来ないし、映像化することも出来ないのです。「真実」を知っている人は、言葉や映像の中にも「真実」を感じることが出来ますが、「真実」を知らない人はどんな言葉を聞いても、どんな映像を見ても「真実」に気づくことはないのです。日本語を知っている人は、テレビなどで色々な国の言葉が流れている中で「日本語」だけを抽出して聞き取り、理解することが出来ます。でも、「日本語」を知らない人はその情報の中に「日本語」が入っていることに気づきません。当然、聞きとることも出来ません。そのようなことです。童謡「浦島太郎」の中では竜宮城の様子を「絵にも描けない美しさ」と表現しましたが、言葉で表現することが出来るのはこれが限度です。般若心経の「色即是空 空即是色」も同じです。実際に竜宮城を見た人は、「絵にも描けない美しさ」という表現を聞いて、「そうそう そうなんだよな」と共感しますが、見たことがない人にはこの表現は全く無意味です。そして、「言葉」や「頭の理解」と「真実」をつなぐものとして、昨日書いた「身体感覚」や「芸術的感性」というものが存在しているのです。当然のことながら、ブログという媒体では、私は言葉でしか表現することが出来ません。そこにあるのはどこまで行っても「頭での理解」だけです。でもそれはゴールではなく、入り口なのです。言葉は「地図」であり「ガイドブック」です。現地の様子がどんなに詳細に書いてあっても、そこは現地ではないのです。ガイドブックを読んだだけで満足してしまう人は永久に現地にたどり着くことは出来ないのです。でも、実際にはそのような人がいっぱいいます。そのような人は、「自転車の乗り方」という本を読み、理解し、暗記しただけで、「もう自分は簡単に自転車に乗ることが出来る」と思い込んでしまいます。シュタイナー教育でも、宗教でも、その他色々な分野にもそのような人はいっぱいいます。子どもにもいっぱいいます。テレビで「トンカチの使い方」、「ノコギリの使い方」などを見ただけなのに、平気で「僕はトンカチもノコギリも使えるんだ」というようなことを言う子がいっぱいいるのです。身体感覚や芸術的な感性を大切にしていない社会に生きていると、「頭での理解は単なるガイドブックに過ぎないのだ」ということが分からなくなってしまうのです。そのガイドブックに書いてある世界を、自分自身の身体感覚と芸術的感性で確認し、さらに「絵には描けない美しさ」を実際に確認するためには、頭で理解した後、その理解したことを忘れる必要があるのです。頭で理解することは非常に大切です。でも、理解したら忘れないと、さらに先には進むことが出来ないのです。そしてその作業は、自分一人でやるしかありません。私は「理解する手助け」をすることは出来るのですが、「忘れる(身体化する)手助け」は出来ないのです。そして、この「忘れる」という作業がなかなか困難なんです。現代社会では理解していることと覚えていることだけが価値を持っているからです。それしか「テスト」では確認できないし、マスメディアでも扱うことが出来ないからです。でも、忘れないことには頭の理解が身体化していかないのです。そして身体化しない知識や理解はその人の心とからだを束縛します。(シュタイナー教育ではこの「忘れる」ということを大切にしているのに、シュタイナー教育を学んでいる大人たちはただ一生懸命に理解し、覚えようとするだけで、忘れようとはしません。そのため、シュタイナーの言葉が身体化せず、学問化してしまっているような気がします)私は今は古武道の道場に通っています。そこでは毎回自分の未熟さを実感し、「どうしたらいいのか」ということを真剣に考えます。考え続けていると「答え」は見えてくるものです。でも、次の時その答えを実践しようとすると、全く通じません。それは答えが間違っていたからではなく、答えにこだわってしまっているからなのです。「相手がこうきたら こう返せばいいんだ」ということが分かっても、またそれが事実であっても、それを意識してしまったら技としては通じなくなってしまうのです。頭での理解を忘れて身体化しないことには技としては使えないのです。でも、そのためにはまず理解する必要があるのです。それはまた、「考えろ 考えろ」と言っておいて、考えることが出来るようになったら「考えるな 考えるな」と言うようなものです。ここには現代人には理解できない矛盾があるのですが、でも、真実に近づくためにはこの矛盾が必要なのです。「頭での理解」は入口に過ぎないのです。でも、入り口を通らないことには中に入ることが出来ません。でも、入り口に留まってしまったら、「中」を体験することが出来ません。「中」を体験するためには入口から離れなければいけないのです。現代人は入口にしがみついているだけなので、そこから先にもっと素晴らしい世界があることを知りません。私はまだまだ未熟で、「頭での理解」をなかなか身体化出来ない状態なので、逆にそのことがよく分かるのです。
2012.05.15
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未熟な母さんの一番の問題が見えてきました。そしてこれは未熟な母さんだけでなく、今の日本人全体の問題なのかも知れません。それは「共に」という感覚の欠如です。多くのお母さんたちが「子どものために」と自分を犠牲にして子育てをしています。そのようなお母さんたちはいつも「自分のこと」は後回しです。そして、自分のことを考えたり、自分のことを大切にすることに対して罪悪感を感じています。それに対して、それとは逆に、子どもに束縛されるのがイヤで、子どもに自分の考えや価値観を押しつけ、子どもを振り回し、子どもを犠牲にした子育てをしているお母さんもいます。そして、一般的に前者は肯定され、後者は否定されています。でも、この両者は言葉の表現としては逆ですが、内容的には大きな違いはありません。なぜなら、「子ども」のために自分を犠牲にしている人も、「自分」のために子どもを犠牲にしている人も、肝心の「子どもの気持ち」は無視してしまっているからです。そのようなお母さんに「子どもが望んでいるのはそんなことじゃないんだよ」と言っても、なかなか通じません。「子どもの視点」に立つことが出来ないからです。ですから、「子どものために」と言いながら、結局は「自分のため」なのです。そこには「共に」という意識も感覚もありません。だから子育てが苦しいのです。未熟な母さんの言葉も「子どものため」と「自分のため」の間で行ったり来たりしています。でも、肝心の「子どもの心」が見えません。ただし、私は未熟な母さんや、そのような子育てをしているお母さんたちを責めているのではありません。ただ、そのことに気付いて欲しいだけです。人間は、自分の弱さを認めない限り強くなることが出来ません。欠点を認めない限り、長所を伸ばすことは出来ません。きちんと現実と向き合わない限り、現実を変えることはできないのです。弱さは真の強さを得るために必要なものであり、欠点は長所を伸ばすために必要なものなのです。闇は光のありがたさを教え、悪は善のありがたさを教え、死は生の素晴らしさを教えてくれます。だから否定してしまってはいけないのです。それを受け入れないから、苦しみが大きくなってしまうのです。現代人は「良いところだけ見ようよ、幸せなところだけ見ようよ、肯定的なことだけを考えようよ、そうすればハッピーになることが出来るんだよ」という考えが好きですが、それは逃避であり麻薬と同じです。それは地獄で暮らしている人の、「夢の中だけの幸せ」です。(ただし、本当に地獄の中のような生活をしている人には、その「夢の中だけの幸せ」が必要な場合もあります。)そして、そのような考え方が「見せかけだけのよい子」や、「見せかけだけのよい学級」や、「見せかけだけの良い社会」を作り出します。イジメはそのような「見せかけだけの良い学級」で起きます。大切なことは「良いところも悪いところも同時に見て、受け入れていく」ということなのです。昔流に言えば「清濁合わせ飲む(併せ呑む)」ということです。これもまた「共に」という考え方です。善と悪は容易に入れ替わるし、また切り離せないのですから、両方とも受け入れるしかないのです。ちなみに自然界はそのように出来ています。それなのに、「善」や「正義」を固定してしまったのが現代社会の悲劇です。これはキリスト教的な価値観なのでしょう。だから「善」や「正義」のもとに殺戮が正当化されてしまっているのです。大人と子どもも容易に入れ替わります。私は今大人ですが、数十年前は子どもでした。また、今子育てで苦しんでいる人の苦しみの根っこの多くは、自分が子どもだった頃にあります。子どもは親であり、親は子どもなんです。だから、共に幸せになる道を探さないことには、子どもも大人も幸せになることは出来ないのです。教師と生徒も同じです。子どもだけを幸せにしようとしても、苦しんでいるお母さんを見ながら育っている子どもは孤独になり、苦しくなります。だからといって、お母さんが自分だけの幸せを求めたら、当然のことながら子どもは孤独になり、苦しくなります。そしてこの孤独と苦しみは世代を超えて連鎖していきます。この連鎖を断ち切るためには「共に幸せに生きるための道」を探していくしかないのです。**********************昨日、全国大会に出場する大船高校演劇部の「姥捨て山」を見てきました。「生きるために殺さなければならない」という過酷な現実に向き合って生きていた昔の農村の話です。「命を守る」ことと、「命を奪うこと」はセットなのです。なぜなら、この世界には定員があるからです。生まれた数だけ、死ななければいけないのです。それは善悪を超えたこの世界の現実です。宮沢賢治もこの現実に向き合い、苦しんでいました。科学はその「定員」を増やす役割をしてくれました。だから私たちは今のところその現実と向き合わなくても済んでいますが、もうその定員も限界に近づいています。(牛や豚は人口の増加に比例して生命を奪われていますけど))人々が自然回帰を求めたらもっと定員は減り、あふれる人が出てくるでしょう。かといって、科学も限界です。
2012.07.26
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今、島田紳助が暴力団と付き合っていたということで、ニュースなどで大きな話題として取り上げられています。一般的な論調としては「暴力団と付き合っていたなんて悪いやつだ」というものが多いようですが、私としては「何をいまさら」という感じがします。今、芸能界はテレビを通じてお茶の間にも入り込み、子どもたちがあこがれる世界になっています。だから道徳的であることも求められるのでしょうが、でも、それは本質的に無理な要求なんです。なぜなら、芸能界はもともとカタギの世界とは異なったルールによって支配されているヤクザな世界だからです。それは江戸時代以前から続いている伝統です。そもそも歴史的に見て、「芸能」というもの自体が「神ごと」とつながった非社会的、ヤクザ的、アンタッチャブル的な存在なのです。これは世界共通の現象です。今でこそ、芸能界も社会的に認められた職業になっていますが、社会的な常識に縛られた人たちでは芸能の世界を維持することが出来ないのです。(内輪の論理においては)法律に触れない限り何をやっても許される「アブナイ世界」が芸能の世界なんです。(それがいいとか、悪いということではなく、そうでないと人々を喜ばせる「芸能」という世界を作り出すことが出来ないということです。)ちなみに、ここで言う「ヤクザ」とはいわゆる暴力団のことではありません。もっと一般的に「アウトロー」と呼ばれる、世間的な常識やルールに縛られないで生きている人達のことです。もちろん「暴力団」もその仲間ですし、芸術家達もまた「ヤクザ」の仲間です。お祭りで屋台を出しているテキ屋の人たちもヤクザだし、その多くは暴力団ともつながっています。実は、あまり気づきませんが私たちの周りには「ヤクザな人たち」がいっぱいいるのです。ただし、暴力団とつながっている人たちもいますが、つながっていない人たちもいます。「芸術家」はヤクザな職業ですが、暴力団とはつながってはいません。でも、否定もしていないので暴力団の人に対しての違和感もありません。芸能界の人たちも同じでしょう。その辺の感覚がカタギの人たちとは違うのです。もともと、「ヤクザ」というのはそのような曖昧な世界なんです。「やくざ」(「語源由来辞典」より)役に立たないものや価値のないもの、遊び人や博徒など、まともでない者。そのような人達は「堅気(カタギ)の社会」を斜めに見ています。また、常識的な社会を支えている裏側の社会も知っています。だからこそ、常識にとらわれない「非日常的な世界」「嘘の世界」を作り出して、みんなに見せることが出来るのです。そして、それらを見る私たちは「常識にとらわれない非日常的な世界」に触れることで心のカタルシス(浄化)を行ってきたのです。人間は「本当の悪」には嫌悪感を感じますが、「演じられた悪」は見たいのです。ですから、人間にとって芸能の世界は必要なものなのです。でもそれはカタギの世界からは遠ざけられたところに存在していなければなりません。芸能の世界は、カタギの人にとっては見て楽しむことは許されても、安易に足を踏み込んでは行けない世界なのです。もともと、「芸能の世界」とはそういうアブナイ世界なのです。ここで問題になるのは、現代では「テレビ」という形で、そのアブナイ芸能の世界が家庭の中にまで入り込んでしまっていると言うことです。そして子どもたちは素直に芸能界にあこがれを感じています。多くの親はそれを「ほほえましいこと」として見ていますが、これは実は非常に危険なことでもあるのです。子どもたちにはテレビの中の世界は裏と表がある「嘘の世界」だということが分からないからです。これは芸能界の本質的な要素なので、「嘘をつくな」と言ってしまったら、芸能界は消えてしまいます。「芸能界へのあこがれ」は「非日常的世界へのあこがれ」でもあります。そしてそれはまた同時に「平凡な日常」「退屈な現実」からの逃避でもあり、「ヤクザな世界」へのあこがれでもあるのです。これは非常に危険なことです。昔の日本の社会では、そのような「ヤクザの世界」と「カタギの世界」が共存していました。共存していましたが、その間には今よりも明確な境界線がありました。カタギの人や、ましてや子どもが近寄ってはいけない世界だったのです。でも、今その境界がなくなってしまっています。私には紳助の事件より、そっちの方が怖いのです。ヤクザな世界の人間が暴力団と付き合っていても、どうってことありません。この両者はもともとつながっていたのですから。相撲の世界も同じです。ヤクザとつながっていなければ興業が出来なかったのですから、それは当然なんです。今更大騒ぎしている方が変なんです。ちなみに時代劇に出て来てお奉行の手伝いをしている「岡っ引き」や「十手持ち」と呼ばれる人達は、もともと「ヤクザもの」だったということを知っていますか。
2011.09.01
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本来、子ども達は工夫したり、考えたり、発見したり、作ったり、創造したり、みんなと遊ぶことが大好きです。そして、それこそが、「ヒト」を「人間」へと進化させてきた原動力でもあります。「ヒト」という状態で生まれてくる子ども達は、その進化を繰り返すために、そのような活動を求めるのです。それが具体的な形になったのが「子どもの遊び」です。この「子どもの遊び」を支えているのは「能動的な意思」です。それは「進化への意思」でもあります。ですから、自分から能動的に遊ぼうとしない限り「子どもの遊び」は楽しくなりません。そして、夢中になって遊ぶことでさらに能動的意思が高められるのです。大人になった時、嫌々ではなく、「自分の責任」として自ら進んで役割を引き受けることが出来るようになるのは、子どもの時代に「遊び」を通して「能動的意思」が育っているからです。逆に言うと、自分がやるべき役割から逃げ回ったり、「責任感」からではなく単なる「義務感」からしか役割を引き受けないような人は、子どもの時に「遊び」を通して「能動的な意思」を育てる事が出来なかった人だと思います。でも、現代社会では、「子どもによる、子ども達のための、子どもの遊び」は否定されています。そして、大人達がおもちゃを買って与え、「ここで、これで、静かに遊んでいなさい」と指示を出しています。「子どもの遊び」が、「大人に与えてもらうもの」になってしまっているのです。でも、そのような遊びでは「能動的意思」を育てる事が出来ません。なぜなら「自由」がないからです。「能動的意思」は「自由」がないような状態では育ちようがないのです。「自由」が与えられた状態の中で、「自分がやるべきこと」を自分の意思で決める過程で、「能動的意思」が必要になるのです。ですから、「能動的な意思」が育っていない人に「自由」を与えると、非常に困るようです。何をしたらいいのか分からず、ただ退屈なだけだからです。そのような人は、「あれをやりなさい」「これをやりなさい」と指示を与えてもらっていた方が楽なのです。「自分で決めなさい」と言われたら苦痛なんです。私は若い頃大学に勤めていたのですが、大学には非常に長い夏休みがあります。もちろん、学生ほどではありませんがそれでも民間企業とは比べものにならないくらい長い夏休みがあります。私は、その夏休みを使って毎年、絵を描くキャンバスや絵の具などと、キャンプ道具一式を担いで、一週間近く、山をうろうろ歩いていました。それはまるで苦行のような旅でしたが、「自由」がありました。夜、山の中で一人でキャンプしていると、心細く、怖くもありましたが、その「自由」が喜びでもありました。それは、1年近くヨーロッパとインドをバックパッカーで歩いた時も同じでした。でも、中にはそんな「自由」が苦痛の人もいるらしく、学長に「夏休みが長すぎるから短くしてくれ」と言った人もいたそうです。長期の海外旅行に行った人でも、最初のうちは買い物をしたり、観光地巡りをして忙しく、そしてまた楽しく過ごすことが出来るのに、そういうものが一通り終わってしまうと、何をしたらいいのか分からなくなってしまい、退屈してしまう人がいるという話も聞いたことがあります。色々なことを子どものように楽しむことが出来る人にとっては、「自由」は「喜び」なんですが、そうでない人にとっては「自由」は「苦痛」でしかないのです。それは、自由を喜ぶことが出来ない人は、「自由であること」を「何もすることがない状態」と感じるのに対して、自由を喜ぶことが出来る人は、同じ状態を「何でも出来る状態」と感じるからなのでしょう。だから「自由であること」を楽しむことが出来るのです。その違いを生み出しているのが「能動的意思の有無」です。子育てが苦しい人の中にも、その「自由」が苦痛の人も多いと思います。子育てでは、指示命令が与えられません。何をしたらいいのか、何をしてはいけないのか、そして、何をすべきなのかということはみんな自分で考えなければならないのです。そのため、「自由を楽しむことが出来ない人」は、どうしていいのか分からず途方に暮れ、苦しみ、「子どもの取り扱い説明書が欲しい」などと言うのです。そのような人は、子どもにも「自由」を与えません。「自由であることの喜び」を知らないからです。そして、子どもを自由にしたら、自分勝手になってしまうと思い込んでいます。そのような人は、「競争」こそが子どもにやる気を起こさせるために必要なものだと思い込んでいます。そして、子どもに自由を与えたら、競争が成り立たなくなることを知っているため、出来るだけ自由を与えず、束縛しようとします。そのような状態では、子どもは苦しくなるため、出口を求めて競争を始めるのです。子どもでも大人でも、「自由である喜び」を知っている人は競争などしないのです。ライバルを見つけて競い合うことはしますが、それはただ単に「勝つことだけ」を目的にした競争とは異なるものです。
2013.04.12
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人は誰でも自分の気質を基準にして、他の人の気質を判断します。そのため、気質にはあまり客観性がありません。Aさんが「太郎くんは粘液質だ」と言ったとしても、Bさんは「そんなことはない、太郎くんは憂鬱質だ」と言うかも知れません。これは「どちらが正しい」ということではなく、太郎くんのことが「粘液質」に見えるAさんにとっては太郎くんは「粘液質」であって、Bさんには「憂鬱質」だということです。そしてそれは、「AさんやBさんに太郎君がどのように見えるのか」ということだけでなく、「太郎くんがAさんやBさんをどのように感じているのか」ということとも関係しています。太郎くんにとってAさんは「怖い人」ではないのでしょう。でも、Bさんは「怖い人」なのかも知れません。その印象が、太郎君を粘液的にしたり、憂鬱的にしたりしているのです。つまり、相手の状態は自分の鏡でもあるということです。そんな時は、「どっちが本当?」などと考えずに、Aさんは太郎くんを「粘液質の子ども」として関わればいいし、Bさんは「憂鬱質の子ども」として関わればいいのです。それはつまり、Bさんは太郎君に対して、意識的に寄り添うように心がける必要があるということです。もし、太郎君が本当は粘液質の子どもなら、Bさんが憂鬱質の子どもに対応するように暖かく寄り添ってあげているうち、次第に太郎君はBさんを怖がらなくなり、憂鬱質から本来の粘液質に変化していくでしょう。そっちの方が楽だからです。人は、「今の状態」を肯定されることで、「本来の状態」を取り戻すことが出来るのです。例えば、緊張している時に「緊張するな」と言われたら余計に緊張します。でも、逆に「緊張してもいいんだよ、むしろもっと緊張してみて」などと言われたら、緊張は和らいで「本来の自分」に近づくでしょう。子どもが泣いている時、「泣くんじゃない」と言えばもっと泣きます。でも、「泣いてもいいんだよ、いっぱい泣きな」と言えば、しばらく泣いた後ケロッと笑顔になるでしょう。矛盾しているようですが、そういうものなんです。でも、みんなその逆ばかりやっています。人間は誰でも最初から四つの気質を持っています。そして、時と状況に応じて気質を使い分けています。ただ、人はその四つの気質を同じように使えるわけではなく、「得意な気質」と「不得意な気質」があるのです。ある人は「多血質」の使い方に長けていて、別の人は「胆汁質」の使い方に長けている、というようなことです。そのような時、「多血質」の使い方に長けている人を、「あの人は多血質だ」と言い、「胆汁質」の使い方に長けている人を、「あの人は胆汁質だ」と言っているだけです。でも、相手や状況によっては不得意な気質を働かせる時だってあるのです。ただ、不得意な気質を使っていると無理があるため非常に疲れます。人は「自分の気質」の中にいる時が一番楽なのです。ですから、自分の気質を判断する時、「こういう所もある、こういう所もある」と探し始めると全てが見つかってしまい、逆に分からなくなってしまうのです。そうではなく、どういう状態の時が一番楽で、一番自分らしい状態と感じることが出来るのかということなのです。そのため、自分の心とからだの状態を感じる力が弱い人は、自分の気質が分かりません。実際、「どういう状態の時が一番楽で、一番自分らしい状態と感じるのですか」と聞いても、「分かりません」と返事する人も多いのですが、そのような人は常に「相手に合わせる生き方」をしてきたのでしょう。「相手に合わせる生き方」ばかりしているということは、「自分の気質」を大切にして来なかった、ということです。それはまた、小さい時から気質を否定されて育って来た、ということでもあるのでしょう。本来の気質を否定され、別の気質を求められ続けてきたので、一番楽で、一番自分らしい状態を体験することなく大人になってしまったのです。人間は必要に応じて頑張れば、自分本来の気質以外の気質も使うことは出来ます。でも、非常に疲れるのです。でも、そのような生活ばかり続けていると、疲れていることすら感じることが出来なくなります。肩が凝りすぎている人は、肩が凝っていることを感じないものです。その状態から抜け出して、本来の「自分の気質」に気付くためには、まず、今の自分に対して「それでいいんだよ」とOKを出す必要があるのです。そして、「気持ちがいい」とか、「嬉しい」「楽しい」という感覚を肯定して下さい。それは悪いことではないのです。我慢している状態では、「自分の気質」は分からないのです。すると、押さえ込まれていた「本来の自分の気質」が息を吹き返します。
2013.05.11
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多くのお母さんが、「子どもと遊ぶ余裕なんてない」と言います。でも、「余裕」は「自分の意志で作るもの」であって、どっかから「やってくるもの」ではありません。逆に言えば、意識的に作ろうとしない限り、一生余裕のない人生を送ることになるということです。「余裕がない」と言っている人の多くは、それを「自分のせいではない」と思っていますが、実は余裕がないのは自分のせいなのです。ということを書くと、「こんな状態なのに何が出来るっていうの」、「こんな状態で余裕を持てなんて無理でしょ」という声が返ってくるでしょうが、本質的に人の心の広さは無限大なので、意識の持ち方次第で余裕は自分で作り出せるものなんです。「余裕がない」といっている人を見ていると、無限の広さの空間の中に、自分だけの小さな小部屋を作り、その中に閉じこもり、更に色々なものをあれこれ詰め込み、身動きが取れなくなってしまっています。そして、「せまい せまい 身動きが取れない 余裕がない 苦しい」と叫んでいるのです。確かにそれでは狭いし、余裕もないと思います。ですからそのように言っている人たちは本当に余裕がないのだと思います。でも、その状態は自分で作っているものでもあるのです。その「余裕がない状態」の時に「余裕」を創り出す働きをするものとして「ユーモア」と呼ばれるものがあります。そして、欧米の人はそのユーモアを大切にしていると言われます。でも、日本人はどうもそのユーモアのセンスが薄いようです。それは「マジメ」「忍耐」「努力」「我慢」「勤勉」を美徳とする「儒教的な精神」が、「ユーモアの精神」と対立するからだと思います。日本人は「ユーモア」というと「お笑い」や「おやじギャグ」のようなものを思い浮かべるかも知れません。でも、「ユーモア」とそれらは本質的に異なるものです。「ユーモア」は単に「楽しさ」や「笑い」作り出すものではないからです。「ユーモア」に必要なのは「発想の転換」なんです。「雨が降って困った」というような時に「雨が降って良かったね」と言ってしまうのもユーモアです。真面目な人はそんな言葉を聞いたら怒り出すかも知れませんが、どうしようもない状態の時には「その状態をどう利用するか」と考えるしか前に進む道はないのです。日本人はそのような時「ユーモア」ではなく、「我慢」と「努力」と「忍耐」といった精神論で乗り切ろうとします。みんな日本人が大好きな言葉ですよね。でもその結果、更に迷路に入り込んでしまうのです。そして身動きが取れなくなります。それが「余裕のない状態」です。また、そのような発想では、子どもと遊ぶことも出来ません。なぜなら子どもは「困ったこと」ばかりする存在だからです。真面目なだけのお母さん達は、その「困ったことばかりする存在」の行動に、「忍耐」と「我慢」で耐え、それでも「努力」して子育てをしています。でもだから余裕がないのです。子ども達の「困った行動」を、「子どもの成長や心やからだの状態を知る良い機会」と考えたり、「遊びのきっかけ」として考えたら、それは「困ったこと」ではなくなってしまうのです。その結果「それ」に振り回されなくなります。そして、余裕も生まれます。それが「ユーモア」なのです。子どもが壁に絵を描いてしまった時、ユーモアのない人は怒り出すでしょう。でも、ユーモアのある人なら逆にニコッと笑うでしょう。ただし、これは「じゃあ、壁に絵を描いても良いのか」という問題とは別のことです。いくら禁止しても、子どもにはその意味は通じないのです。そんな時は、子どもの気持ちになって考えてみることです。それも「ユーモア」なんです。これまで書いてきたことと逆になりますが、実は私は日本人にはユーモアのセンスがあったのではないかと思っているのです。それは、落語の「オチ」や、俳句などには高度なユーモアのセンスを感じるからです。ユーモアと対立する儒教的精神は武家社会には強かったでしょうが、庶民はそれとは別の自由な心の世界を生きていたのです。だからこそ、あれだけ素晴らしい江戸文化を創り出すことができたのです。でも、明治維新以降、富国強兵のかけ声と共に、民衆文化の価値が否定され、武家社会的価値観が庶民にも浸透してきました。その頃から日本人は次第にユーモアが分からなくなってきたのではないかと思うのです。「男尊女卑」と言われる考え方も同じです。「男尊女卑」は「強さ」だけが肯定される武家社会での価値観です。文化や芸能が大切にされる町民社会での価値観ではありません。
2014.10.10
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人間にとって「自由である」ということは非常に重要なことです。それは単に「人権的な意味」ではなく、人間が人間らしく成長し、人間らしく生活するための絶対条件としてということです。人間は、自由があるからこそ、自分の頭で考え、自分の意志で感じ、行動し、工夫し、発見し、そしてそれらが喜びになるのです。「与えられた問題を解く」というような思考は、コンピュータにも出来ます。でも、「自分で課題を見つけ、自分で考える」という思考はコンピュータには出来ないのです。そのことを理解せずに、子ども達に「与えられた問いに答えるだけの訓練」だけを施していると、子ども達は自分の頭で考えることが出来ない人間に育ってしまいます。それは「人間だけが持っている素晴らしい能力」を育てる事が困難になってしまうということでもあります。そのような人間は「自由」ということがよく分かりません。そのため、「自由」を与えられると、何をしたら良いのかが分からず困惑します。そして、正解や指示命令を出してくれる人を求めます。そのくせ、束縛されることは嫌い「もっと自由をよこせ」などと要求します。その場合の「自由」は「もっと好き勝手にやらせろ」ということなのですが、だからといってそのような人に、「じゃあ、好きにやってもいいよ」と言ってやらせても、実際には何も出来ません。私はいつもそのような子どもを相手にしています。教えようとすると、「自分の好きにやらせろ」と要求します。それで、「じゃあ、好きにやってもいいよ」と言うと、実際には何も出来ず途方に暮れます。そして、刺激を求め、騒ぎ始めます。「自由」の扱い方が分からないのです。人間の「想像し、創造する能力」は「自由」の中で育ちます。というか、自由がない状況で育ってしまうと、「想像し、創造する能力」は育たないのです。そのような状態の人は、「想像」の代わりに「空想」し、「創造」の代わりに「作業」をするばかりです。ちなみに、「空想」と「想像」の違いは分かりますか。私の個人的な印象に基づく分類ですが、「空想」は主観的で、「想像」は客観的です。そのため、「空想の世界」では自分はいつも主人公です。それは「夢の中の世界」と同じです。悩みから抜け出せない人は、この空想の世界に入り込んでしまっています。空想の世界そのものは素敵な世界ですが、そこから抜け出ることが出来なくなると、実生活に支障を来します。なぜなら、「空想の世界」は「論理的な思考」とは無関係な世界だからです。「夢の中」では何でもありですよね。それと同じです。ニュースなどで重大な事件を起こした人の話を聞くと、「この人も空想の世界に閉じ込められていたんだな」と感じます。そのような人は、「自分の論理」ばかりを主張し、被害を受けた人や、その友人や家族の苦しみに対する想像は全く欠如しています。万引きする子も、イジメをする子も同じです。そのような子や人は、「想像力」が欠如しているのです。「言葉の世界」は「空想の世界」です。ですから、何でもありです。でも、その「言葉の世界」を現実の世界とつなげていく時、「想像の世界」が生まれるのです。「思った」だけでは「空想」です。その「思ったこと」を実際にやってみることで、「想像力」が育つのです。それが可能なのが「遊びの世界」なのです。空想の世界ではどんな木だって登れます。でも、実際に登ってみたら、自分の実力に見合った木にしか登ることが出来ません。そこで、どうやったらもっと上まで登ることが出来るかを考えるようになります。それが「想像する」ということなのです。ゲームは子どもからその「現実の世界とのつながり」を奪います。その結果、子どもは「空想の世界」ばかりで遊ぶようになります。これは危険なことです。
2014.10.18
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2008年に、ノーベル物理学賞をもらった益川敏英博士は、記者会見で最初に「すみませんが、私は英語が話せません」と英語で言って、その後は、通訳付きの日本語で講演を行ったそうです。実際、益川博士は英語を話すのが苦手だそうですが、それでももちろん読み書きは出来ました。そうでないと外国の文献を読んだり、自分の研究成果を世界に向けて発表できないからです。また、それが出来なければ外国の賞であるノーベル賞などもらえません。私たちは「話し言葉」も「読み書きの言葉」も区別せずに、単に「言葉」と言ってしまいますが、実際にはその両者の間には大きな違いがあります。その違いとは、「話し言葉」は「他者との対話」に使われるのに対して、「読み書きの言葉」は、「自分自身との対話」に使われるということです。ですから、「話し言葉」には「現実的な他者」が必要ですが、「読み書きの言葉」には「現実的な他者」は必要ではありません。私もこのブログは、一人でコンピュータと向き合って「自分との対話」で書いています。読んで下さる人は、私の「自分との対話」を読むことで、ご自身の心の中にも何らかの「自分との対話」が生まれ、そこで気付きが生まれるのです。そのため「文章」の場合は、同じ文章を読んでも読み手によってその解釈は様々になります。でも、実際の会話の場合は、それほど解釈に差が出ません。そうでないと会話が成り立たないからです。このように、「話し言葉」が伝わる原理と、「読み書きの言葉が伝わる原理」は全く異なるのです。だから、「話せるけど読み書きできない人」もいれば、「話せないけど読み書きは出来る人」もいるのです。そして、小学生ぐらいまでの子ども達は「自分との対話」が苦手です。だから、言葉をペラペラ自由に話すことが出来る子ども達でも、基本的に読んだり書いたりすることは苦手です。特に、私の印象ではおしゃべりな子ほど、読んだり書いたりすることは苦手なような気がします。おしゃべりな子は「自分との対話」が苦手な傾向があるからです。ちなみに、この場合の「読み書きの能力」とは、「朗読の能力」のことでも、「文字を書く能力」のことでもありません。学校ではそのような「読み書き」しか教えていませんが、それは単なる「技術」であって人間の本質とつながった「言葉」ではありません。OCRは文字を読み取ります、読み上げソフトは文字を音声化します、プリンターは文字を正確に打ち出します。でも、OCRも、読み上げソフトも、プリンターも「言葉」を理解しているわけではありません。「読み書きする言葉」を育てるためには「自分との対話」の能力を育てる必要があるのです。「文字の読み書きの能力」はその後の話です。そしてそれが、知的な能力の土台になっていくのです。ペラペラ話せても、文字の読み書きが得意でも、「自分との対話」が苦手な人の言葉は薄っぺらいものです。それなのに、日本の学校では「文字の読み書き」は教えても、「言葉の読み書き」は教えてくれません。お母さん達も、子どもが小さい時から「文字の読み書き」は教えますが、「言葉」を教えようとはしていません。だから、日本人の言葉がどんどん薄っぺらくなってきてしまっているのです。じゃあどうしたら、幼い子ども達の「自分との対話」の能力を育てる事が出来るのかということですが、そこで重要になるのが「話を聞いて上げること」と「物語との出会い」なんです。テレビのように一方的に話しまくる子は多いですが、相手に伝わるように話すことが出来る子は多くありません。当然、「相手に伝わるように話すことが出来る子」の方が「言葉の能力」は高いのですが、実はその能力は話を聞いてもらうことで育つのです。テレビは話すばかりで話を聞いてくれません。だからテレビをいっぱい見せても「言葉の能力」は育たないのです。
2014.10.29
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炊きたてご飯さんが気の長い方なので、息子の話は結構「フムフム」と聞いている方だと思います。しかし、息子のとんちんかん日本語でも「つまり、こういうことかな?」と要約して「そう!」っていう会話が多くて、その為か他人とのコミュニケーションはあまり上手くないかなぁ、と思います。(まだ3歳ではありますが)と書いて下さったので、今日は「聞き方」について書いてみます。友人のかめおかゆみこさんは「聴くを磨く」というようなテーマで「聞き方」のワークをよくなさっていますが、私も時々ワークの中で、「話す人」と「聴く人」を決めて、5分間ぐらい話をしてもらうことがあります。テーマはその時々で変わりますが、「自分が大好きなこと」、「自分が得意なこと」、「子どもの頃どんな遊びをしたか」、「自分の子どものことについて」というようなものが多いです。でも、なかなかその「5分」が長いようで、ちゃんと筋道を立てて話をすることが出来る人は多くありません。ほとんどの人が、「何か言わなければ」と細かい話を総動員して、必死になって話をつなげてようとしています。「4分」ぐらいで、話すことがなくなってしまう人もいます。私のように「話す仕事」をしている人間にとっては「5分」はあっという間ですが、主婦の日常では「5分間一人で話す」という場面は滅多にないですからね。それに、「一人で話す」というのは日常会話とは全く異なる能力を必要とするのです。それは昨日書いた「読み書きの能力」とつながった能力です。逆に、「いつも話したくてしょうがない人」もいます。そのような人にとっては5分はあっという間でしょうが、だからといって「聞いてもらう話し方」が」出来ているかどうかは別のことです。おしゃべり好きな人は「自分が話したいこと」ばかりを話して、相手の気持ちを感じようとしていないことが多いからです。そのため、聴いている方は「聴くこと」を楽しむことが出来ず、ただ黙ってしまいます。「早く話が終わってくれないかな」と黙ってしまうのです。当然、話は聞いていません。目の前に相手がいて話をする場合には、「聞いてもらう話し方」をする必要があるのです。そうでないと、コミュニケーションが成り立たないからです。落語における「間」はそのための技術の一つです。「おしゃべりな人」はその「間」を大切にしません。そして、お母さん達の「子どもとの関わり形」を見ていても、ほとんどのお母さん達が、この「聞いてもらう話し方」が下手くそです。自分の言いたいことばかりを押し付けたり、「間」がなかったり、相手の状態を無視して話したりしています。だからいっぱい話しているのに、言葉が子どもの中に入っていかないでスルーしてしまうのです。それなのに、「うちの子はちゃんと話を聞かない」と文句を言うのです。会話は「ボール投げ」と似ています。幼い子どもと「ボール投げ」をしていると、子どもの意識はあちこち行っていますから、その状態を無視してボールを投げても子どもは受け取れません。「行くよ」と呼びかけて、「顔」も、「からだ」も、「意識」もこちらに向いて、子どもが「ボールを受け取れる状態」になったらボールを投げてあげるのです。具体的には「目が合った時」に「受け取りやすい玉」を投げてあげれば子どもは受け取れます。そういうことを無視して投げても、子どもはボールを受け取れないのです。それなのに、多くのお母さんが「自分スタイル」を変えることなく、一方的にボールを投げつけています。そして、子どもがボールを受け取れないと、「ちゃんと見ていないから取れないんだ。ちゃんと見なさい。」などと、子どものせいにしてしまいます。でも、幼い子どもは自分の心やからだをコントロールすることが苦手なので、そんなこと要求されても出来ないのです。子どもがボールを受け取れる状態になるように声かけをして、ボールを受け取りやすい姿勢を教え、目が合った時に、受け取りやすいボールを投げてあげれば、幼い子どもでもボールを受け取れるのです。そして、これは子どもに「仕付け」や「言葉」を伝える時の基本でもあります。大人同士でも同じかも知れません。お母さんがいくらいっぱい言っても、「聞いてもらう話し方」をしていないのなら、子どもの心には届かないのです。それなのにお母さん達はそれを子どものせいにしています。********************「聴き方」について書こうとしたら「話し方」になってしまいました。「聴き方」は明日書きます。ちなみに、「耳」と「頭」で聞くのではなく、「心」と「からだ」で聴くのです。
2014.10.31
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昔の子ども達はいつも、基本的に仲間と群れて遊んでいました。一人で、しかも家の中で遊んでいる子は滅多にいませんでした。確かに、仲間と群れて遊んでいると、思い通りにならないことも色々あります。「鬼ごっこ」がしたいと思っても、「隠れんぼやりたい」と言う子の方が多かったり、力が強い子が「木登りの方がいい」と言えば、従わざるおえませんでした。大人が見ていたら絶対止めるような「あぶないこと」も、その場のノリでやってしまいました。でも、そんな「思い通りにならない体験」を通して、子ども達は「自分が知らないこと」や「苦手なこと」にも挑戦することが出来ました。ケンカやケガもしましたが、ケンカやケガから学ぶことも出来たのです。助けたり、助けられたりする体験もありました。遊びを決めたり、協力して遊ぶ時には話し合いもしました。それは、「自分の思い通りには遊べない」ということでもありましたが、同時に「一人では出来ない遊び」を体験することも出来ました。私が子どもの頃は、ゲームもネットもありませんでした。テレビはありましたが貴重品で持っている人は少なかったです。オモチャも少なかったなかったので、家の中で一人で遊んでも何にも楽しくなかったのです。それに対して、最近の子の多くは、学校から帰ったら一人で遊んでいます。そして一人でも遊べるような便利なオモチャや機械がいっぱいあります。子ども部屋を持っている子も多いです。でも、「一人遊び」は同じ事の繰り返しになりやすいです。また、「嫌いなこと」や「不都合なこと」はやらなくても済みます。「自分ルール」だけで遊ぶことも出来ます。やりたくないことはやらなくてOKです。ゲームの途中でも都合が悪くなったら簡単にリセットすることが出来ます。このような遊びは便利で快適ではあるかも知れませんが、快適であるがゆえに遊びを通して成長する可能性も低くなってしまうのです。「今のままで快適である」と言うことは、「今のままで成長する必要がない」ということでもあるからです。「一人遊び」は、子どもを「外の世界から遠ざけ自分だけの世界に閉じ込めてしまう危険性」があるのです。お母さんは子どもが一人で遊んでいると喜びますが、子どもの成長にとっては「一人遊び」はあまり好ましくないのです。ただし、本をいっぱい読んでいるような子は、一人で遊んでいてもそれほど心配する必要がありません。本の中で「外の世界」と出会う事が出来るからです。でも、ゲームに夢中になっているような子ほど本を読みません。子どもが本を読むようになるためには、静かで退屈な環境が必要だからです。多くのお母さんが、子どもを退屈にしないようにあれこれ与えていますが、そのことで、本を読まない(読めない)子ども達がいっぱい育っているのです。最近は三歳ぐらいの子でもスマホで遊んでいますが、最新機器で遊んだからといって、最新の能力が育つわけではありません。また、「スマホを自由に操れる三才児」がすごいわけでもありません。すごいのは「三才児」の方ではなく、「三才児でも自由に扱えるほどに進化したスマホ」の方です。そこを勘違いしている大人が多すぎます。バーチャルな世界は、現実の世界よりもはるかに刺激的で、自由で、しかも「本当の自分の能力」よりもはるかに大きな能力の持ち主になって遊ぶことが出来ます。その快感に慣れてしまっている子にとっては、現実の世界は、自分の無力さを突きつけるのと同時にあまりにも退屈すぎるのです。それでも、お母さんやお父さんが子どもを意識的に外に連れ出して子どもと一緒に遊んでいたり、家の中でも子どもと一緒に色々と遊ぶようにしているのなら、子どもがスマホやゲームで遊んでいてもそれほど心配する必要はありません。一時は夢中になっても、思春期になる頃には、幼児期の体験が子どもをまた現実の世界へと引き戻してくれるからです。実は、幼児期の体験が子どもの原体験になって、子どもの心の中に一生残るのです。でも、子どもがお母さんやお父さんと遊びたがる時期に、スマホやゲームに子どもの相手を任せっきりにしてしまっていると、子どもの成長が阻害され、後で困った事になってしまいまうのです。スマホやゲームでばかり遊んでいる子は「喜びや悲しみを共有する仲間」が出来ません。そのため孤独になります。そして、スマホやゲームでの遊びは、孤独であることを忘れさせてはくれますが、孤独を癒やすことは出来ません。
2024.02.09
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昨日も小田原のインターナショナルスクールでの授業でした。テーマは「形で遊ぼう」です。最初に子どもたちと相撲をとったのですが、その後、ミロ、クレー、ピカソの画集を見せました。そして、「こんな絵だったらみんなも描けるよね」「これで何億円もするんだよ」と振ると、みんな「こんなの僕だって描ける」ということなので、「じゃあやってみよう」と始めました。最近、どうも楽天の具合が悪くてうまく編集も更新も出来ません。同じことをnoteでも書いているので、そちらの方をご覧になって下さい。https://note.com/morinokoe/n/n17ae622e70cf
2025.11.09
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古来から、人間が人間らしく生きるために必要な基準として「真・善・美」という考え方が大切にされてきました。goo辞書には「真・善・美」に関して以下のように書かれています。認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。でも、古来から大切にされてきたこのような考え方も現代人には「価値がないもの」になってしまいました。まず、AIの進歩で「真」が曖昧になりました。昔の人は「百聞は一見に如かず」と言いましたが、科学の進歩で「本物と区別がつかない偽物」を簡単に創り出すことが出来るようになってしまったからです。100年以上「真実」を写してきた写真ですら、撮ったその場で簡単に加工して「嘘」を創り出すことが出来るようになりました。AI技術を使えば、高市総理に花笠音頭を躍らせることだって出来てしまいます。皆さんが登場していなくても、皆さんそっくりの顔と姿と声を持ったアバターが登場するリアルな映画だって作ることが出来ます。それでアメリカでは役者の組合が懸念を表明しています。江戸川コナン君の決め台詞は「真実はいつも一つ」ですが、実際には「人間によって真実と認定されたもの」が「真実」として扱われるだけです。人間による判断が「真実」を決めているのです。そのため「真実」はそれを判断する人によってコロコロ変わります。芥川龍之介の小説 「藪の中」を基に撮った黒沢明監督の 「羅生門」という映画のとおりです。ちなみに「真実」と「真理」は異なります。「真実」は人間が確定しますが、「真理」の方は人間を超えた存在です。でもそれ故に議論の対象にはなりません。「美」と同じように「真理」を感じることが出来る人には「真理」は存在していますが、感じることが出来ない人には存在していません。そして、人間が作ったものに囲まれて暮らしている現代人は「真理」を感じる感性が萎えてしまっています。「美」を感じる感性も萎えてしまっています。現代人における「美」は社会的な雰囲気が作りだしている蜃気楼なようなものです。ですからコロコロ変わります。「善」もまた人それぞれです。ある人にとっての「善」は別の人にとっての「悪」であることもあります。アメリカと戦争していた時、日本人にとってはアメリカの兵隊を殺すのは仲間や国を守るための行為であり、善でした。でも、アメリカ人にとっては日本の兵隊を殺すのが仲間や国を守るための行為であり、善でした。「戦争は正義と正義の戦いだ」とも言われます。両方とも「自分の方が正義だ」と主張するのです。人々がまだ宗教を信じていた頃は、宗教が「善」を規定していましたが、異なった宗教を信じている人は異なった「善」を信じていました。現代人は科学を信じていますが、科学は「この世界には唯一の真実も、絶対的に正しい善も存在しない」ということを明らかにしてしまいました。また、「多様性を尊重する」という価値観の元では「善」を一元化する考え方は否定されています。「美」についても同じです。時代や国や文化が違えば「美」の基準は異なります。男性と女性でも異なります。もっと言えば一人一人異なります。美人コンテストでは美しい人を選びますが、その方法は多数決です。「美」には正解がないからです。人々がまだ「つながり」を大切に生きていた頃は、その「つながり」が「真・善・美」の基準を与えてくれていました。というか、「真・善・美」を共有することで「つながり」が維持されていたのです。でも、「つながり」が失われてしまった社会で生きるために必要になるのは「真・善・美」ではなく「お金」です。そして「お金」を得るために必要なのは競争です。「真・善・美」はみんなで共有する必要がありますが、「お金」は共有する必要がないからです。というか共有できません。そのため、多くの人が、我が子がその競争に勝ち抜くために子どもたちを競争に追い立てています。でも、幼い頃から競争に追い立てられて育った子は「安心感」も「自己肯定感」も育てることが出来ません。社会に出ても、会社に入っても、結婚しても、子どもが生まれても、他の人と助け合うことが出来ないのです。現代社会では「社会的に共有された真・善・美」は存在しません。でも、家庭や家族がつながり合い、支え合って、幸せに暮らすためには、少なくとも家族の間では「真・善・美」が共有されている必要があるのです。親子間、夫婦間で競争を始めたら家族は崩壊してしまうからです。また、子どもたちの群れ遊びの場でも同じです。「群れ遊び」が成り立つためには、仲間同士で「真・善・美」が共有されている必要があるのです。一人一人が自分勝手な「真・善・美」を主張していたら戦いが起きるだけです。ですから、戦争の悲惨さを伝えるよりも、みんなで一緒に遊ぶ楽しさを伝えることの方が平和を育てる助けになるのです。そしてそのためにはお母さんやお父さんが、自分の価値観、自分の生き方、自分が大切にしていることをはっきりとさせる必要があります。子どもが他の子をいじめた時にどういう対応をするか。ケンカをした時どういう対応をするか。ドロンコ遊びをした時どういう対応をするか。そういう日常的で些細な関わり合いが、子どもの「真・善・美」の感覚を育ててくれるのです。問題は、ゲームばかりやって育った子は戦争への嫌悪感が低いのではないかということです。
2025.12.01
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今日はこれから仕事に出て、夜は家内の両親と箱根のホテルに行くので明日の更新はお休みさせていただきます。**********************昨日は「木になってみて下さい」ということを書きましたが、実は「味わう感覚」が働き出すためには時間と空間を止める必要があるのです。「これが終わったら次はあれをして」とか、「早く終わらないかな」とか、「これは10分やろう、今何分ぐらいかな・・・」とか、「これは○○のための修行だ」などと他のことを考えることをせずに、ただ「今・ここ」に集中する必要があるのです。そこで道元禅師は「只管打坐(しかんたざ)」ということを言ったのです。これは「つべこべ言わずただ座れ」ということです。只(ただ)座っているだけで何の意味があるのかと思ってしまってはいけないのです。只座ること、そのこと自体に意味があるのです。そして、「木」はその「只」(ただ)の象徴的存在です。「木」は光や風の中で、只(ただ)立っているだけです。でも、意味がないことには取り組まないのが現代人です。そして「動くこと」「行動すること」に意味を見つけようとしています。だから時間に縛られ、忙しくなってしまっているのです。行動には時間が必要だからです。そのため、現代人は、いつも「○○のため」という理由をつけて忙しく行動しています。家庭教育でも、学校教育でも無駄な行為、無意味な行為は「無価値な行為」として肯定されませ。本当は、他の人に優しくするのはそれが自分にとっても気持がいいからだけなのですが、「困っている人を助けるため」などと意味づけしてしまい、「もっとボランティアをしよう」などと言い出してしまうのが現代人です。だから、「子どもの遊び」が肯定されていないのです。「大人の遊び」は、「きばらし」や、「ストレス発散」として肯定されています。でも、ストレスもなく、何にも仕事をしていない子どもにはその理由は使えません。現代人の価値観では「子どもの遊び」を肯定する理由を見つけることが出来ないのです。だから、子どもたちもまた大人のように追い立てられています。そのような社会の状態に適応できずに、大人になっても「無意味な行為」「無価値な行為」を続けているのが「オタク」と呼ばれる人たちです。オタクの人たちが一般的な感覚では「こんな どこがいいの」というようなものに夢中になることが出来るのは、彼らにはそれを味わう感覚があるからなのです。それは多分、子どもの頃に「遊びを通して味わうこと」を否定され続けてきたことへの反動なのでしょう。子どものように「味わう感覚」の中に浸ることで、「失われてしまった子ども時代の自分」を取り戻そうとしているのかも知れません。ファッションや買い物に夢中になっている人や、ゲームに夢中になっている人もまた同じです。子ども時代に「味わうこと」を否定されると、人間は「自分」を育てることが出来なくなり、迷子になってしまうのです。だから何かに依存したくなるのです。でも、日本の経済活動はその「依存」によって支えられています。物やお金や権力や成績やファッションなどに依存する人たちが日本の経済を支えているのです。依存する人たちは、その依存対象が得られたときだけ「幸せ」を味わうことができます。でも、その「幸せ」はつねに一時的です。だから、すぐ「次」を求めるのです。それが「オタクの原理」であり、日本の経済を支えている原理でもあります。でも、子どもたちは何ににも依存しなくても味わうことが出来ます。野原に座っているだけでも、お花やアリを見ているだけでも、泥団子を作っているだけでも、棒を振り回したり、友達と追いかけっこをしているだけでも味わうことが出来るのです。子どもにとって、「遊び」とは味わうための行為なのです。そして、そのことで自分を確認し、自分を育てているのです。幼い子どもは絵を描きながら、「絵を描く」ということや「色」や「形」を味わおうとしています。だから、大人の価値観から見たら???という絵になります。でも、子どもたちは「絵」を描こうとしているのではなく、「絵を描くこと」を楽しもうとしているだけなのですからそれでいいのです。「絵を描くこと」と「絵を描くことを楽しむ」ことは違うのです。そして大人になると、「絵」を描くことが出来ても、「絵を描くこと」を楽しむことが出来なくなります。
2012.03.25
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現代社会では何でもかんでも管理しようとしています。なぜならその「管理」こそが文明の本質的な要素だからです。人類の文明は、水を管理する、気候を管理する、野菜の成長、牛や豚の成長を管理する、お金を管理する、時間を管理する、自分の心とからだを管理するという方向で発展してきました。現代では、空気中の二酸化炭素や、海にすんでいる魚たちや、地球そのものまで管理しようとしています。動物たちに対しては、その行動だけでなく、出産や死や、時には遺伝子まで管理しようとします。でもそのことで、管理された対象は、自然から切り離され、その内側に存在していた自然のリズムや生命力を失います。現代社会では、人間もまた管理されています。その行動だけでなく、思想や、知識や、出産や、死や、時には遺伝子まで管理されています。そのように管理された社会では人間の「能動的意志」や「自由意思」というものは大切にされません。むしろ、管理を妨げる邪魔者として扱われています。文明社会はなぜ管理を目的とするのかというと、それは「文明」を守るためです。管理を失ってしまったら自然な状態に戻ってしまうため、文明を維持するためには管理が必要なのです。つまり、そこで生きている人々のために文明があるのではなく、文明を維持するために人々が生かされているのです。それは軍隊と兵隊さんの関係と同じです。軍隊は兵隊さんのためにあるのではありません。軍隊のために兵隊さんが存在しているのです。だから、軍隊では徹底的に兵隊さんを管理するのです。現代社会も同じ状態です。子どものために幼稚園や学校があるのではなく、幼稚園や学校を維持するために子どもが必要なのです。もちろんそうでない幼稚園や学校もいっぱいありますが、でも、社会全体の流れはそのように進んできています。大阪の橋下さんや東京の石原さんはその流れの象徴的な人物です。そのような幼稚園や学校では、「子どものため」ではなく、「お金を払ってくれる親」や、政治家や経済界のための教育をします。そして、親もまた「子どものための教育」ではなく「親が自慢できるような子どもを育ててくれる教育」を望んでいます。そして、「アメとムチ」という方法を使って、動物を調教する時のような教育をします。ですから当然、子どもの自発的意志や自由意思は否定されます。でも、そのような教育では「個」が育ちません。そして、自己肯定感も、自尊心も持っていない大人たちばかりが育ちます。それで結局、文明も社会も家族も崩壊します。それは、兵隊を管理しすぎてやる気を失わせてしまい、軍隊自体が崩壊してしまうようなものです。今私たちの社会は、その崩壊直前の状態です。地域は崩壊しました。仲間も家族も崩壊しました。今度は政治や経済が崩壊して日本という国自体が崩壊しそうです。自分の思想や哲学を持たず、まともな判断能力も責任能力もない人たちが、日本の政治を動かしているのですから。あの人たちが日本の教育制度の結果です。どうやら私たちは「守るべきもの」「目的とするべきこと」を間違えてしまったようです。本当の教育の目的は子どもに高い成績を取らせることではなく、学ぶ喜びに目覚めさせることなのではないのでしょうか。本当の仕付の目的は「従順な良い子」を育てることではなく、子どもが、「自分で判断して、自分の意志と責任で行動することが出来る大人」に成長できるように支えるためのものなのではないでしょうか。本当の政治の目的は「物質的に豊かな社会」を作ることではなく、「人々が豊かさを感じることが出来る社会」を作ることなのではないでしょうか。今の日本は、物質的には世界でトップクラスに豊かな国なのに、でも、豊かさを感じることが困難な国になってしまっています。唐突なようですが、この危機を乗り越えるためには「芸術」が必要なのです。「芸術とは何か」という問いかけの中に、現代社会が抱える問題点を乗り越えるための答えが隠されているのです。「管理」は「芸術」と対立するのです。なぜなら芸術はその内側に、自然とつながった秩序を内在しているからです。だからこそナチスや共産主義国などでは芸術家を迫害したのです。「管理」を否定するだけでは、社会が崩壊します。そうではなく、今必要なのは「自然」というものと「人間」が共存することが出来る新しい秩序なのです。それが「芸術」だということです。なぜなら、「芸術は、「人工」と「自然」をつなぐ所に存在しているからです。ですから、芸術を大切にしている人たちは子どもを管理したりはしません。また、芸術的な活動に親しんでいる子どもたちは管理を必要としません。芸術そのものが秩序だからです。そして、現代人は、「芸術」を失ってしまったから「哲学」を失ってしまったのです。哲学と芸術は兄弟なのです。
2012.05.22
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子ども達は大人には無意味で価値がないものに執着したり、逆に大人が価値を感じるものに価値を感じなかったりします。というか、「大人の価値観」と「子どもの価値観」が一致することは滅多にありません。それで大人達は、「子どもの価値観」を否定し、「大人の価値観」に洗脳しようとして、子ども達を追い回しているのでしょう。それが一般的な「仕付け」の現実です。どうしてそういうことが起きてしまうのかというと、大人と子どもとでは価値観の基準が全く異なっているからです。大人達は「社会的価値」を元に自分の価値観を形成しています。ですから、「社会的価値」の変化と共に大人の価値観も変わります。また、「社会的価値」が異なる文化圏の人達同士では価値観も異なるため、話合いも困難になります。イスラム文化圏、キリスト教文化圏、仏教文化圏、儒教文化圏、ヒンズー文化圏の人達はお互いに異なった価値観を持っているのです。そしてそれぞれ、自分の価値観の方が正しくて、相手の価値観は間違っていると思い込んでいます。「ご飯は箸で食べるものであって、手づかみで食べるなんて野蛮人のすることだ」というような感覚です。ですから、大人から見たら幼い子ども達は「野蛮人」同然です。だから「仕付け」が必要だと考えるのでしょう。それに対して、子ども達の価値観は、「成長する生命の働き」によって作られています。そして、その「成長する生命の働き」は、時代や文化を越えて同じですから、昔の子どもでも、異文化圏の子どもでも、「子どもの価値観」はそれほど大きく異なりません。(言葉や生活が違うので多少は違うのですが、根本的なところでは同じです。)子ども達は、決してバカで、無知で、未熟だから「訳の分からない行動」をしているのではないのです。ですから、日本の子どもでも、外国に連れて行ってしばらくすると、現地の子ども達と一緒に遊び始めます。コミュニケーションにおける「言葉」の役割が低い幼い子ども達ほど、簡単にそのような状態になります。それは基本的なところで価値観が共通しているからです。でも、7才頃から子ども達は変わり始めます。なぜなら、7才頃から子ども達の意識は「生命の働き」から少しずつ解放され、「社会とのつながり」を強め始めるからです。歯が生え替わるのがそのサインです。それ以前の子ども達の意識は「社会」というものが形成される以前の、「自然」とのつながりの方が強い状態なのです。実際、7才前の子は「社会的価値」や「社会的意味」というものが理解出来ません。そのため、お金の価値、時間の価値、結果の価値、清潔という価値、社会ルールという価値、約束という価値、学歴の価値、勉強の価値が分かりません。時計も地図も読めません。そういうものは全て「生命の働き」とは無関係な「社会的な価値」だからです。でも、森の中に行けば男の子達はみんな「棒」に夢中になります。女の子達はきれいなお花を集めます。これは親が教えたものではなく、本能です。水溜まりがあれば入ります。高いところがあれば登ったり、飛び降りたりします。穴があれば入ります。石があれば投げます。ドングリが落ちていれば拾います。キラキラした綺麗なものが大好きです。丸いものも大好きです。私はビー玉が嫌いな子に会ったことがありません。「お話」も大好きです。作るのも、踊るのも、歌うのも大好きです。子ども達は、「子どもの生命に響くもの」に惹かれるのです。そして、そのようなものとの出会いによって、自分の「心とからだの育ち」を自分自身でサポートしているのです。それが「子どもの価値観」なのです。ですからその価値観を肯定されている子は生き生きとしています。でも、ほとんどの大人達はそれを簡単に否定し、「大人の価値観」を押し付けています。でも、子どもにはそれは理解出来ません。子どもが分かるのは、「自分は否定されている」ということだけです。
2014.11.08
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個人的にメールで質問があったので、今日は「性教育」について書かせて頂きます。「性教育」は非常に大切な問題であると共に、非常にデリーケートな問題です。この問題を考えるときには、まず、「セックス」そのものに対する感覚や感じ方と、「性教育」の意味や必要性とは分けて考えた方がいいと思います。「セックス」は、男女の結合によって子孫を残す生き物たちには「食べたり呼吸したりすること」と同じくらい必要不可欠なものです。これを止めてしまったら生命が途絶えてしまいます。ですから、本来は「恥ずかしいもの」ではありません。それは、食べたり、呼吸するのが恥ずかしくないのと同じです。実際、南太平洋のどこかの国(島?)では、子どもの前でも平気でセックスするそうです。でも、タバコやお酒と同じで、「ある程度大きくならないとこれは出来ないんだよ」と教えるそうです。そもそも「夫婦の個室」のない文化圏では、必然的に「密室セックス」は出来ないのです。昔の日本人も比較的「性」にはルーズでした。家の間取り自体もプラバシーが守れるような作り方ではありませんでした。遊郭と呼ばれる「男の人が女の人と遊ぶ場所」もあったし、遊女と呼ばれる人たちも普通にいました。今の日本では見かけませんが、今でも世界中にそのような場所は普通にあるし、そのような女性も普通にいます。昔の日本では、祭りの夜にはフリーセックスが許されていて、祭りの時の子は「神様の子」として大切に育てられた、という話しも読んだことがあります。(このようなことは文化的差異が大きいので、日本全部がそうだったかどうかは不明ですけど。)確かに、武士階級の人達は、「儒教的価値観」で生きていたので、「性」には厳しかったのではないかと思います。でも、武士以外の階層の人達は「性」に関してはもっと自由な考え方を持っていたのです。実は、日本では武士と町民や農民とでは違う文化を生きていたのです。現代では、「サムライ文化」こそが日本の文化のように言われていますが、実際にはそんなことなかったのです。日本人はもっと精神的に自由な民族でした。日本の文化は人口の一割程度しか存在せず、しかも何も生産しない「サムライ」達が作ったのではなく、「生産」に携わる「サムライ」以外の「自由な人達」が作ったのです。「文化」は「創り出す人達」の中からしか生まれないものなのです。実は、「性」を「恥ずかしいもの」、「隠すべきもの」と考えるようになったのはキリスト教の価値観の影響が大きいのです。つまり、西洋文化と共にやってきた価値観だということです。でも、それが正解というわけではありません。実際、キリスト教文化圏以外の地域では、今でも「性」はもっと大ぴらなものです。インドに行くと、町中で男女の神様が交合している像や図像を普通にいっぱい見かけます。ネパールにもありました。また、リンガムと呼ばれる石の塔が崇拝の対象になっていますが、これはシバ神の男根を意味するものです。これは昔の話でしょうが、エスキモー(イヌイット)の人達は旅人が来ると、自分の妻を貸し与えたそうです。多分これは、仲間だけの結婚によって血が濃くなることを防ぐための知恵だったのかも知れません。日本の神社や祭りでも「性」はおおっぴらでした。金精神社と呼ばれる神社では男根がご神体です。大きな男根を担いで回る祭りもあります。辻堂には全くそのままの形の道祖神が道ばたに立っています。中がくりぬかれて仲よさそうな夫婦が立っています。そんな日本では、嫁入りの時に「春画」と呼ばれる「セックスの手引き書」を持たせたそうです。若い男の子には生理が終わった女性が「性の手引き」をしたという話しも読んだことがあります。おおっぴらにではなくても、庶民の生活文化の中に「性教育」の形はあったわけです。ただこれらは「生活文化」の一部として行われていたものです。ですから、「やるかやらないか」、「どのようにやるか」も含めて、個人の判断で行われていたのだろうと思います。そういう点で公教育の中での「性教育」とは違った意味を持っています。まず、「性教育を学校で教える必要があるのかどうか」という問題があります。また、「性教育を通して何を伝えるのか」という問題もあります。春画などで教えていたのは単純に「セックスの方法」です。でも、学校での性教育では「避妊」が非常に大きなテーマになっています。「望まない妊娠を防ぐための方法」ということです。これは「女性の人権を守る」という近代的な考え方とつながっています。ここで話がまた複雑になってしまうのです。「セックスの方法」を伝えるだけなら、わざわざ学校で教える必要などありません。若者達は教えてもらわなくても自分で調べます。また「命の大切さ」を伝えることが目的なら、「セックスの方法」を教える必要はありません。でも、「避妊の方法」を教えることが目的なら、「セックスの方法」も含めて学校で教える必要が出てくるでしょう。若者達はあまりそういうことには興味がないからです。じゃあ「学校で避妊の方法を教える必要があるのか」というとこれはなかなか難し話です。実際、「避妊の方法」を知らずに、興味本位でセックスをして妊娠してしまい、捨てられてしまう赤ちゃん、殺されてしまう赤ちゃん、若くして望まぬ赤ちゃんを育てなければならない義務を負った若いお母さんがいっぱいいるからです。<続きます>
2014.11.15
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昨日は、人間は「頭の記憶」と「心の記憶」と「からだの記憶」の三つの記憶を持っていると書きました。からだには「からだの言葉」があります。心には「心の言葉」があります。ですから「からだの記憶」は「からだの言葉」として記憶され、また語られます。「心の記憶」は「心の言葉」として記憶され、語られます。「頭の記憶」も同じです。私たちは文字で書き笑わすことが出来るものだけを「言葉」として考えていますが、「言葉」を「コミュニケーションのための道具」として考えるなら、この世界には、文字で書くことが出来ない言葉も、音声化することもできない言葉もあります。ちなみに、その「文字化出来る言葉」を「頭の言葉」と定義しておきます。そして、「心の言葉」も「からだの言葉」も文字で書き表すことは出来ません。ですから文字化出来るような言葉として語ることも出来ません。子どもたちは産まれてからまず「からだの言葉」を学び始めます。それは感覚を使って直接コミュニケーションする言葉です。多くの動物たちがこの言葉だけでコミュニケーションをしています。次に、「心の言葉」を学び始めます。それは声や表情やしぐさによる言葉です。ですから、子どもにとっては「何を言ったのか」という「文字化出来る情報」ではなく、「どのような声としぐさと表情で言ったのか」ということの方が重要になります。大人が優しい言葉で語りかけても、その時の声や表情やしぐさに優しさを感じないなら、子どもはその言葉から大人の意図とは異なる意味を理解します。思春期前の子どもたちはそのように「からだの言葉」や「心の言葉」の方が得意なので、子ども同士でも「頭の言葉」はあまり使いません。ですから、思春期頃の子どもは議論することも可能ですが、思春期前の子どもには議論は出来ません。そしてそのため、思春期前の子どもは自分の心やからだの状態や、心やからだが体験したことを「頭の言葉」として言葉化することが苦手です。「からだの言葉」や「心の言葉」として表現はしているのですが、そのような言葉に鈍感になってしまっている大人は、「頭の言葉」で説明してもらわないことには理解することが出来ないのです。子どもは、からだの調子が悪い時や、お腹が痛い時や、頭が痛い時なども、どの辺がどのように具合が悪いのか、痛いのかを言葉化することが出来ません。そして、ただ機嫌が悪くなったり、寝込んだり、泣いたりするだけです。そんな時、不安になったお母さんが一生懸命にその様子を聞きだそうとしても、子どもはそれを説明することが出来ません。何か心の問題で幼稚園や学校に行けなくなった時も、子どもはその心の状態を説明できません。そして、「お腹が痛い」というようにからだの状態として訴えたりするのですが、お腹のどの辺がどのように痛いのかを説明することは出来ません。子ども同士がケンカした時も、どうしてケンカしたのか、どのようにケンカしたのかなどを説明することが出来ません。遠足の作文を書かせると、「○○へ行きました。楽しかったです。」「○○を見ました。面白かったです」的な記述ばかりです。何かを食べて感想を聞いても「まずい」とか「美味しい」というような、紋切り型の言葉しか出てきません。読み聞かせをして感想を聞いても「楽しかった」というような言葉しか返って来ません。大人は「どこがどのように面白かったのか、そしてどのように感じたのか」と言うことを聞きたいのですが、子どもはそれを説明することは出来ません。それで大人はがっかりするのですが、子どもたちは感じていないのではないのです。ただ、「頭の言葉」で言葉化することが出来ないだけなのです。多くの場合、子どものこのような状態を大人は「言語能力が未熟だから」という形で理解しますが、そうではありません。思春期前の子どもでは、「心の働き」と「からだの働き」はつながっているのですが、それらと「頭の働き」(意識の働き)がまだつながっていないからなのです。「大人の言葉」(文字化することが出来る言葉)は「頭の働き」によって生まれてきます。心で感じたこと、からだで体験したことを言葉化するためにはそれらを「頭の働き」を通す必要があるのです。でも、それがつながっていないため、それらを言葉化することが出来ないのです。でも、感じていないわけではありません。覚えていないわけでもありません。なぜなら絵のような芸術的な表現活動の中では表現することが出来るからです。手のない自分の絵を描く子、真っ黒に塗りたくる子、いつも小さくしか描けない子、色を使うことが出来ない子達に、「どうしてそういう絵を描くの?」と聞いても答えることは出来ませんが、でも、何かを感じているからこそ、そのような表現をすることが出来るわけです。臨床心理学では「箱庭療法」というものを行うことがあるようです。これは簡単に言ってしまえばジオラマで遊ぶ遊びのようなものです。一種の表現活動でもあります。そのような活動の場では、自分の状態を言葉で表すことが出来ないような子ども達でも、表現として自分の心やからだの状態を表すことが出来ます。思春期前の子どもたちにとって、「頭の言葉」は「大人と話すための道具」であってまだ自分自身のための道具ではないのです。だから「自分のこと」を語ることが出来ないのです。そして子ども同士では「頭の言葉」を使わないのです。自分の心やからだの状態を自分の言葉で語ることが出来るようになるためには、思春期が来て、「頭の働き」と「心の働き」と「からだの働き」が統合され、「自分の言葉」を持つことが出来るようになってからです。確かに幼稚園や小学生の子どもでも、言葉の表現が上手な子もいます。大人のような表現をする子もいます。テレビでよく見かける子役の子どもたちはみな言葉の使い方が上手です。でも、ここで誤解してしてはいけないのは、「言葉の表現が上手」だからといって、「自分の心やからだと対話するのが上手」だとは限らないということです。そのような子は、ただ単に「大人と話すのが上手」というだけのことなんです。さらに、その言葉は「自分の言葉」ではありません。子どもにとって大人は自分たちとは異なる感覚や思考や言葉を持った外国人と似たような存在です。ですから、子どもたちが大人と会話しようとする時には、「心の言葉」や「からだの言葉」といった自分たちの「子ども語」ではなく「大人語」を使う必要があります。そのため、自分の感覚や心やからだの世界を感じる能力が萎えてしまう恐れがあるのです。そのような子は、言葉をいっぱい知っているのに、自分のことを語ることが出来ません。そこで語られる「自分」は自分の心やからだとつながった本当の自分ではなく、大人が理解できるように頭の中で作り上げた「観念的な自分」です。そのような子は自分に嘘をつくのが上手です。
2012.05.18
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子育ての分野では「子どもを受け入れて下さい」ということがよく言われています。でも、そのような言葉に対して、「子どもの言うことばかりを聞いていたら、子どもがわがままになってしまう。子どもを甘やかしていいことなどない。」と反論する人がいます。特に、自分自身が受け入れられてこなかった人ほど、そのように言い張ります。そして、「厳しく育てられてきたからこそ今の自分があるんだ」とも言います。でも、その言葉を裏返せば、「本当は私はだめな人間だ」、「子どもは未熟でダメな存在だ」ということでもあります。でも、今日はこの問題には深入りしません。今日は、この「受け入れる」ということについて考えてみます。そんな風に「受け入れる」ことに強く異論を唱えなくても、「受け入れる」ということの意味が分からない人はいっぱいいます。というか、そのような人の方が多いような気がします。そのような人の多くは、感覚的には受け入れてあげたいと思っています。それは、子どもを否定していてばかりいては子どもとの信頼関係を築くことが出来ないし、子どもも自己肯定感を育てることが出来ず、元気を失ってしまうということを感覚的に知っているからです。でも、「どうしたらいいのか」が分からないため、「受け入れる=言いなりになる」というように解釈してしまい、子どもの言いなりになってしまっているのです。そのように対応していると、トラブルは避けることが出来るし、子どももその時は喜びます。そのため、そのような関わりあいをしていると子どもとの信頼関係を育てることも出来るし、子どもも生き生きと育つと思い込んでしまうのでしょう。でも実際には、そのような子育てを続けていると、「受け入れ否定派」の人たちが言うように、子どもはどんどんわがままになっていきます。そのため、ご主人や姑などから、「子どもを甘やかすな」などと強く言われるようになります。実は、「子どもを受け入れる」ということは「言いなりになる」ということとは違うのです。それは昨日の「死を受け入れる」ということとも同じです。「死を受け入れる」ということは、「じゃあ死にましょう」と簡単に死んでしまうことではありません。そうではなく、死ぬときに後悔しないように「今」を精いっぱい生きるということなのです。「子どもを受け入れる」ということは、子どもの短所も長所もちゃんと見て、毎日の子どもと一緒の生活を楽しむことです。子どもを厳しく管理しようとする人は子どもの「短所」ばかりを見ています。子どもを甘やかしてしまう人は「長所」ばかりを見ています。でも、子どもを受け入れるためには、短所も長所も全部含めた「子どもの丸ごと」をちゃんと見てあげる必要があるのです。自分の価値観に合わせて子どもを見るのではなく、子どもの成長に即した形でありのままの子どもの姿をちゃんと見てあげるのです。そして、子どもとの生活を楽しむのです。それはつまり、「子どもを受け入れる」というのは「方法の問題」ではなく、お母さんの「意識の問題」だということです。ですから、「どうやって子どもを受け入れたらいいのでしょうか」と聞かれても答えることは出来ません。それは「どうやったら絵を描くことを楽しむことが出来るのでしょうか」という質問と同じなのです。方法を聞いて、方法に従って絵を描いても楽しくなるはずがないのです。幼い子どもたちは「方法」にこだわらないからこそ楽しく描くことが出来るのです。方法に従って子育てをしている人は、「子ども」を見ないで、その「方法による結果」ばかり見ています。だから楽しくないのです。じゃあ、「どうしたらいいのか」ということですが、「子どもを受け入れる方法」は提示できませんが、「自分」を「子どもを受け入れることが出来る状態」に変える方法がないわけでもありません。子どもを受け入れることが出来ない人、子育てや様々なことを楽しむことが出来ない人の一番大きな特徴は「自分のリズム」を見失ってしまっているということです。人は「自分のリズム」を見失うと、他者と心を通わせることが困難になり、楽しむことが出来なくなってしまうのです。これは子育てだけの問題ではありません。子育てを楽しむことが出来る人は、子育て以外のこともまた楽しむことが出来るのです。子どもを受け入れることが出来る人は、子ども以外のものも受け入れることが出来るのです。逆に、子育てを楽しむことが出来ない人は、子育て以外のことも楽しむことが出来ないのです。子育てを受け入れることが出来ない人は、子育て以外のことも受け入れることが出来ないのです。そのような人は「楽しませてくれるもの」に依存しようとばかりします。それは、その人の心やからだの状態がそのようになっているからです。だからこそ「方法」では問題を解決することが出来ないのです。そして、そこに「自分のリズム」という問題が隠れているのです。そして今、ほとんどの現代人が「自分のリズム」を見失ってしまっています。
2012.04.23
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4月30日にはじめさんが私も怒らないように頑張っている一人です (苦笑)。でも、ときどき爆発してしまいます。頑張ってるから爆発するんですね。身体をゆるめる訓練を普段からすることが近道なのかな。瞑想とかヨガとか太極拳とか。。。とコメントを入れて下さったので、今日はこのことについて書いてみます。気質の勉強会をしていると「私はいつも怒っているので胆汁質だと思います」という方が時々いらっしゃいます。でも、このような人の大部分は胆汁質ではなく、多血質か憂鬱質です。なぜなら胆汁質の人は「怒っている」という自覚自体があまりないからです。それは憂鬱質の人が「悩んでいる」という自覚があまりないのと同じです。多血質の人は「落ち着きがない」という自覚がなく、粘液質の人は感情の起伏が少ないことへの自覚がありません。そのような気質の特徴は、他の気質の人が見た時の状態です。だから、自分ではなかなか自分の気質が分からないのです。胆汁質の人の場合、周囲の人には怒っているとしか見えないのですが、本人は「怒ってなんかいない」などという場合もあります。胆汁質の人は、「腹が立つ」ことへの自覚はありますが、「怒っている」という自覚はあまりないのです。「怒っている」ことへの自覚があるのは「腹」ではなく、「頭」にきている時です。この違い、お分かりになりますか。はじめさんがおっしゃっているような「怒る」は「頭にくる」という状態です。それに対して、胆汁質の人の場合は「腹」に来るのです。それが「腹が立つ」という状態です。具体的にどのように違うのかというと、「頭」に来た人はイライラするばかりで身動きがとれなくなります。心とからだが固まってしまうのです。思考も固まってしまい、同じことしか考えることが出来なくなります。そして、愚痴を言ったり、怒鳴ったり、子どもを叩いたりすることは出来るのですが、行動することは出来ません。なぜなら、このような人の怒りの原因は「他者」ではなく「自分自身の中にあるからです。そのような人は、首や背中や股関節が固まってしまっています。つまり、心もからだも身動きが取れない状態だから、すぐ「頭」に来るのです。そして、ある程度「怒り」が溜まってくると、「ガス抜き」をするために怒りが爆発します。発散する(ガスを抜く)ことでからだが緩んで楽になるからです。だから抑えることが出来ないのです。それを無理に抑え込んでいたら自分が壊れてしまいます。それに対して、「腹」が立つ時の原因は他者にあります。理不尽なことをされたり、理不尽なことを見聞きした時に腹が立つのです。ですから、腹が立った人は何らかの行動によって問題を解決しようとします。だから「腹を立てる」は「もっと腹を立ててもいいんだよ」とか「男なら腹を立てろ」という言い方が出来ますが、「もっと頭に・・・」という表現は出来ません。「頭にくる」のは感情ではなく、生理的な現象なので、自分の意志ではどうしようも出来ないのです。(喜びや悲しみは感情ですから、「もっと喜んで」とか「もっと悲しんで」というような言い方が可能です。「感情」はある程度、気分の持ち方を変えることでコントロールすることが出来るのです。)胆汁質の人の「腹が立つ」というのは一種の正義感なんです。そして、胆汁質の人の怒りはこの「正義感」によって生まれます。ただし、この正義感はあくまでも「自分にとっての正義」であって、社会的に認められた正義とは限りません。そして、胆汁質の人にとっては「自分こそが正義」です。私の教室や講座には元幼稚園の先生や、元保育園の先生が結構います。そのような人たちが一様に言うのが、「仕事で他の子を見ている時には寛容になれたのに、わが子に対しては寛容になることが出来ず、イライラしたり、怒ってしまう」ということです。この場合の「怒り」の原因は、お母さんの心とからだの状態の中にあります。子どもは単なる「きっかけ」であって「原因」ではないのです。だから、「幼稚園の子には寛容になることが出来たのに、わが子に対しては・・・」ということになるのです。それに対して、「腹が立つ」ようなことは、幼稚園の子供であろうと、街中で見かける知らない子であろうと、わが子であろうと、テレビの中の子どもであろうと腹が立つのです。このように、「頭にくる怒り」と「腹が立つ怒り」は異なるのです。そして、「頭にくる怒り」の原因は、自分自身の心とからだの中にありますから、何らかのエクササイズによってそれを緩めることは可能です。ちなみに「頭」にきた時には、「気を静める」必要があります。そのためにはからだを緩める必要があります。「腹」が立った時には、「腹を収める」必要があります。そのためには納得する必要があります。同じ「怒り」でも、この二つは対処法が異なるのです。三日間ぐらい子どもをご主人や実家に預けて、温泉旅行に行き、マッサージなどを充分に受けてくれば、一時的にはそのイライラは収まり、帰宅後三日間ぐらいは、子どもがイライラしている時には怒ってしまったようなことをしても、怒らないで済ませることが出来ます。でも、そんな旅行に行くことが出来る人は滅多にいないでしょうから、自分で何とかしましょう。(明日ちょっと書いてみます。)それに対して、「腹が立つ」人の怒りは、その人の価値観とつながっているので、温泉に行ってマッサージを受けても消えません。原発の対応にいい加減な政治家への怒りは、温泉に入っても、マッサージを受けても消えないのです。これが「胆汁的な怒り」です。みなさんが子どもに対して怒ってしまう時には、このような怒りではありませんよね。
2012.05.02
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昨日の続きです。私たちは日常的に「記憶力」という言葉を使いますが、その記憶についてあまり厳密に考えることはしていません。でも、実は記憶の働きというのは非常に複雑で、そう単純なものではないのです。一般的に、人間は記憶喪失になっても言葉や歩き方や様々な技術が失われるわけではありません。以前、記憶喪失状態で発見されたピアニストが話題になったことがありますが、昔のことは全然想い出せないのに、ピアノは弾けるのです。それは想い出せないのは「頭の記憶」だけであって、「心の記憶」や「からだの記憶」は普通に想い出すことが出来るからです。というより、基本的に「忘れる」という現象が存在しているのは「頭の記憶」だけなんです。3歳前ぐらいに虐待を受けた人には、虐待された記憶は残っていません。でも、それは「頭の記憶」の話です。「心の記憶」や「からだの記憶」には「忘れる」という働きがないため、意識として想い出すことは出来なくても、反応という形で心やからだがその状態を再現してしまうのです。オギャーと産まれた赤ちゃんはまず「からだ」での記憶を始めます。そのからだの記憶能力があるから、言葉や歩くことを学ぶことが出来るわけです。次に笑ったり、泣いたり、寂しがったりすることで「心の記憶」が始まります。赤ちゃんがお母さんを後追いし、お母さんの姿が見えなくなると泣くようになるのは、この「心の記憶」の働きです。孤独感や喪失感という感覚は「心の記憶」によってもたらされます。ですから、幼児期にはからだや心に働きかける必要があります。とくに、気持ちがいいとか、楽しいという体験が、肯定的な心の記憶やからだの記憶を形成して行きます。これが「根拠のない自信」や自己肯定感の土台になっていきます。でも、成長と共に次第に「頭の記憶能力」も成長して行きます。その頃から、記憶を遊ぶような遊びを始めます。それは自分の名前を逆さまから言ってみたり、「シリトリ」などの遊びです。駅の名前や、ポケモンの名前を覚えたりする遊びが好きな子もいます。でも、まだこの「頭の記憶」「心の記憶」「からだの記憶」の三つの記憶はつながっていません。これがつながり始めるのは思春期が来てからです。そして、痴呆になるとこのつながりが消えていきます。だから覚えていても想い出せなくなるのです。このつながりがないと、頭で覚えたことが心やからだに作用することもないし、からだで覚えたことが頭に作用することもありません。それはつまり、頭で「からだの動かし方」というマニュアルを記憶しても、その通りにからだを動かすことは出来ないということです。また、からだで覚えたことを言葉化することも出来ません。この時期の子どもは説明では学べません。「見て学ぶ」「やって学ぶ」ことしか出来ないのです。テストを中心とした学習では頭の記憶だけが大切にされています。でも、その頭の記憶は頭に留まるだけで、心やからだに作用することはありません。すると、心やからだで学ぶべき時期に何にも学ぶことが出来なくなってしまうのです。「お父さんやお母さんを大切にしよう」とか「友達と仲良くしよう」などというようなことを覚えさせても、それが心とからだに作用しないのなら全く無意味です。また、国語や算数といったようなお勉強でも、心やからだを通して学ぶことが出来れば、その子どもの感性の中に取り込まれ、一生自由に使いこなせる能力として吸収することが出来ますが、頭で記憶するだけのお勉強は、テストの時にしか役に立ちません。そして、思春期前の「頭の記憶」は、「心の記憶」や「からだの記憶」を否定するため、心とからだを固くします。すると常識的で、融通がきかず、頭の固い人間になります。これは私の個人的な印象ですが、面白いことに、小学校の時に優等生ではなかった人の方が、大人になってから自由に生きているような気がするのです。また、子どもの時にからだなどを使っていっぱい遊んでいた人の方が子育てが上手な気がします。「子どもの自由」に合わせることが出来るからなのでしょう。だから、少なくとも小学校ではテストなどしてはいけないのではないかと思うのです。テスト中心の教育では頭の記憶にしか働きかけることが出来ないのです。シュタイナー教育では学んだことを絵画や詩などの芸術的な形にして表現させます。それは頭で学んだことを心やからだの記憶につなげる非常に有効な方法だと思います。また、よく子どもに読み聞かせなどをして、後から感想を聞くお母さんがいますが、それは止めた方がいいです。「お話を聞く」のはからだの体験です。子どもたちは大人以上にからだで体験する能力には優れていますから、お話を聞いてお話を体験することは出来ます。でも、それを言葉化する能力はありません。それを無理に言葉化させていると、子どもはお話をからだで体験することをせず、お話を聞きながらお話を覚えることだけに意識を向けるようになってしまいます。それでは子どもが「お話」で育たないばかりか、「お話」で固くなってしまいます。
2012.05.17
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