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尊徳の仕法雛形と現代経済学 神谷慶治(東京大学名誉教授)(読みやすくするため、ひらがな化するなど一部変更した)一 二宮尊徳の業績やその思想については既に各方面に心ある人の研究がある。日本の広い意味の学界、ことに民間の学界においてはこの研究は益深められている。二宮尊徳ほど日本人らしい実行家、学者は日本にもあまり類似がないのではないかと思う。その広さと深さは、あるいは外国にも比類ないものかもしれない。しかしその思想の影響下にあった人々は、尊徳以上に昔の教養や昔の習俗社会又は封建社会の影響を強く受けた階層から出ていた関係に強く基づいているのであろうか、その研究方面や実践活動への応用については、ある意味で、「時代離れしている」「ふるくさい」といわれる世界も又やむを得ない関係がそこに存在していたのである。尊徳の思想や実践活動はかくの如く、むしろ幕末から明治にかけて、これを伝承した社会層の特殊性の多い色付けがされて今日に至り、それを支持した社会層は大戦後急速に後退しつつあるので、明治以降の報徳研究は現代社会に通用しない。報徳運動の化石化ということがいわれるようになった。しかし報徳運動の真髄は明治的社会層とは別異に勤労農民層に深くしみこんでいる。現在の農民の立場は大戦後急速に変動しつつある。この大変改にさいして新しい働く農民層の精神のよりどころは農民の中から真に人間らしく立ち上がった尊徳の報徳の精神は大きなよりどころとなるであろう。このこと以外に、尊徳自身の研究の中に真に新しい問題が数多く散在していることをここで書いてみたい。 尊徳の思想についてはその中に、達人の見解がひらめいている。私はそのような問題にもふれない。「報徳記」や「語録」は語るべくあまりに有名である。「金毛録」、「大円鏡」、「万物発言集」は難解な哲学である。これについては他に語る方々があるであろう。それらは非凡な見解と卓越した知性が指示されている。私はこれらにふれたいのだがふれるいとまがない。ここで尊徳の仕事の中で最も後世にー現代はもちろん将来の社会にーまで尊ばれるであろうものについて多少述べてみたい。 それは「仕法」雛形の研究である。仕法雛形自体については、既に有名であって報徳研究においてはその原理よりはむしろ仕法が中心となっており、仕法についてはその雛形の研究は最も大切にされている。 しかしこの雛形の徹底の研究はまだなされていない。現代の立場に立ってこの雛形を研究してみることは学問的に極めて価値が高いものをもたらすであろうと思われる。そこで私はこの雛形について、現代と関係のあることがらを述べて見たいと思う。ここで論ずるのは雛形の一部分であって、その中で私自身が興味をもっていることのみを書いてみよう。 二 雛形について多少の予備知識が必要であろう。「雛形」によって考察し、「雛形」によって実行するということは、人間理性の自然にそなえている形式であろうが、これを無意識でなく、自覚の上に意識的に活用するとなるとなかなか人はそれをやらないし、やりたがらない。これを人に教わってさえそうであるが尊徳は、自らこれを青年時代より意識したようである。服部家の仕法時代、五常講時代、既に簡単な金融についても、精密な計画がいろいろとなされ又それが何となく楽しげにみえるところがある。恐らく目に見えないことを目に見えるようにするために、いろいろの計算を試みたそのことに大きな興味をもったことであろう。日常生活の中に計算を入れるということは、既に目に見えないことを見ることであると同時に、雑多に見える日常経済生活の中に一貫した、法則を発見することである。 複雑な現象の中から一つの「雛形」を造り上げて、これを頭の中で造りかえ、逆にこれを対象に適用する。尊徳の大部分の著作はこの適用が中心である。この立場からいえば、対象それ自体世界全体が雛形になってくる思いがある。この雛形思考方法が結集したものが、 日光御神領村々起返方仕法附百行勤惰得失雛形というものである。これは弘化元年4月5日付けで、幕府の勘定所より 日光御神領村々荒地見分致し起返方仕法附之趣委細可申上候という辞令を受けてより、弘化3年6月に完成されたものである。全巻84冊で内容は表面的には殆んど全部が一種の数値表又は関数表である。今その重要な部分についてのみ問題を提起したい。なぜ、このようなものが作成されたかの動機については解説は加えないが、青年時代より雛形的思考方法の発達していた尊徳はその思想をこの84冊にもり込んだものと思われる。表面的に見れば単なる数値表に過ぎないが、その思想の根本を考えれば、これが尊徳の何んであったかは明らかである。尊徳は単なる道徳家だったのでもなく、単なる農村復興家でもなかったこと、即ち社会を又経済を数学的―数値的に研討した科学者であったことがわかって来るような気がするのである。
2026.05.13
1深山木 右は二宮金次郎のこと、これまで御領地の仕法について取り扱った次第を順を追って知っていることや私から尋ねたことにつきまして、金次郎が論じた事などを箇条書きに書いておきましたものです。そのままお見せするのも恐れおおいことですが、御内覧までに。以上 近い者は喜び、遠い者は来ると申す事に相当するかと申しておりました。 6月 鵜沢作右衛門 右二宮金次郎義、これまで御知行所御趣法に付き、取り扱い候次第追々承知仕り、なお私よりあい尋ね候上にて論判候事ども箇条書きにしたためおき候間、そのまま不奉顕恐も奉入 御内覧候。以上 近者説遠者来と申事にも可相当可哉之旨、申聞候。 6月 鵜沢作右衛門「尊徳門人聞書集」において、鵜沢作右衛門について概略次のように紹介している。「鵜沢作右衛門、諱(いみな)は苞紹、小田原藩士のうち尊徳と親交のあった一人である。寛政2年(1790)の生まれで尊徳より3歳下。文化14年(1817)代官となり、栢山時代の尊徳を知った。文政5年(1822)、桜町領復興の君命を伝達した。同11年に勘定奉行を拝命し、以後およそ24年にわたってその職にあった。禄高も数次の加増で80石となった。 天保5年(1834)、桜町領取扱兼務を命ぜられ、長期の現地調査でその復興を確認し、永安のための方策として尊徳の希望どおり、貢租の「七分免」を上申し、決定した。 同6,7年にも長期滞在して仕法の成果を調査し、小田原藩への仕法導入のため、尊徳と共同して種々の雛形や上申書を作成して、上層部へ提出したが、反応は冷たかった。 天保8年、尊徳は飢饉対策に併せてようやく領内一円の仕法を許され、作右衛門は9年、10年と勘定奉行兼務のまま、「報徳方添切」でこれに協力する。しかし同11年5月、ある蹉跌のため、退役・閉門の処分を受け、翌年9月に復役したが、報徳方とは切り離され、財政に専念させられること11年に及んだ。 嘉永6年9月、隠居が認められ、家督も勇之助に譲ったが、既に病身となっており翌年安政元年10月死去した。65歳であった。「深山木」は、天保6年2月から6月まで桜街陣屋に出張して、尊徳の言行と仕法の成果を藩主大久保忠真に箇条書きで報告した復命書である。『全集』には「上書之写」として収録されているが、「尊徳門人集」の史料は天保8年1月、烏山藩家老菅谷八郎右衛門が桜町陣屋から借用、転写したものである。題名は尊徳の道歌「姿こそ深山がくれに苔むせど 谷うち越えて見ゆる桜木」にちなんだものであろう。」
2026.05.13
「永平家訓抄話」澤木興道 5-2 ところがうっかりすると、この至道無難は、非常にあやまちをおこしやすいので、いま道元禅師がとくにこの則を、ここで問題になさったのであろうと思う。この至道ということはいったいどういうことかといえば、至は大なりというて、至極とか、あるいは大道とかいう意味である。『信心銘』の他のところには「大道体寛にして」とある。至道という大道は、もちろん人間のつくったものではないから、盗人も通れば小遣いも通る。癩病患者も通れば、善人も通る。坊主も通れば、魚屋も通る、といったわけで何でも通る。男も通れば女も通る。だれは通ってはならないということがないのが、すなわち天下の大道、また至極の大道である。これを、われわれのいつも使う言葉でいえば、「凡夫にあっても減らず、仏にあっても増さず」といったところで、これが大道―至道である。だから、至道は人間のつくったものでないから、そうやかましいものではない。またどこに限ったとか、だれには、どうあってはならんとかいうものではない。つまりどこにでもある当り前のものが至道である。これは仏教では、無上菩提というのである。お経にはこれを阿耨多羅三藐三菩提というてあるが、つまり、これより以上偉大なものはないという意味である。 『正法眼蔵』の行仏威儀の巻の中には、亘時亘方ということがあるが、亘時亘方ということは、時間空間いっぱいという意味で、この時間空間いっぱいであることが至道である。だから至道は、どこじゃというて、探し歩くようなめんどうなものではない。どこにでもあるものである。だからこれを無量無辺とか、無限とかいう言葉でいい表わす。 真宗の御仏壇に詣って見ると、左側の方に帰命尽十方無礙光如来とある。これは空間についていうてあるし、また真ん中にあるのは阿弥陀さんの無礙光如来で、これで「亘時亘方なり」ということになり、これが仏であるわけである。今、一切経というと、『大正蔵経』で一万一千九百七十巻あるが、それにはそんなことがいろいろに述べて書いてあるわけである。一切経といえば、どんな文章でも読ませるために書いてあるので、読もうと思えばそれは必ずなるほどそうじゃと一応は納得のいくようになっているものだが、それで済まされては困る。わたしが若いとき読んだ本の中に、哲学者とは理屈をもてあそぶ者なりということが書いてあったが、仏教者もややもすると同じように理屈をもてあそんで、それで終わりにしてしまっている。そして見たこともない極楽の話をもてあそんでみたり、見たこともない悟りの評判で終わって、実物にはとんと見向きもしようとしない。ところがその実物は何かということが、実はえらい問題である。しかしその実物なしにものをいうものじゃから、いくら努力したって、それは評判だけで、永遠に身振りだけに終わってしまうのである。(「永平家訓抄話」p.325-327)
2026.05.13
23藤三郎が「論客」と呼ばれて、報徳に熱中していた頃の話を、森町にありました報徳報本社が記念事業の一環としてドラマ仕立てにしています。発明王鈴木藤三郎の報徳 作 桜田勤 です。(「報徳」1959年5月号p22-25、同1959年6月号p17-21) 遠州伊平の松島授三郎のところで遠譲社の大会が行われたときの話です。平岩佐兵衛が座長で、4日も5日も続けて報徳の講義をやり、議論をたたかわしていました。 「森の才助どんが、意見があるそうだ」 「何だ遠慮なく言えよ」 「才助どん、いわっしゃい」 「誰だ誰だ」「森の才助だ」 「言え言え」 「言わっしゃい言わっしゃい」の声 藤三郎 実は例の二宮先生のおっしゃった、菜の葉の虫は菜の葉を己れの分度とし、煙草の虫は煙草の葉を己れの分度とする。このところの分度といわれますのが、どうも納得がまいりませんのでご説明を願いたいと思いましてA うーむ、分度の問題か?B 藤曲村のご仕法張でも言っておられる、あそこだ。まず菜の葉に生れた菜虫は、菜の葉に生れたのが、すなわち天命、山に生れた さる、くま、しし、しか は、山に生れたが天命、そこに分度があるという問題だな藤三郎 私は3年も考えておりますが、いまだにがってんがいきませんのでA わしゃあね、二宮先生が分度といわれるのはのう、人の職業、その人の身代の分度、いわば、百姓には百姓の道、十石とるものは十石の身代この身代をさしたもんだと思ってるがのうB まあ、そうだろう、それを勤め人で言えば、50円の給料取りは50円の身代、それに相応する生活を守れと言う意味だろうなA 自分の分度を考え、それを守ることが大切、他人はどうだ、こうだ、と他人をうらやんだり、心をまよわせてはいけない。己れの身代をしっかり守ることが大切だと言うのだろうC 先ず、そう言うことだな藤三郎 いや実はどなたにうかがっても、そのようなお話しなのですが-そうしますと、どうも人間というものはまことにつまらぬものだということで、いつでも人間というものは、その人の置かれた身分というものから脱け出ることが出来ないC 才さんは若えからのうA なあ才さん、それが迷いというものじゃあねえのか、他人を羨んじゃあいけねえ、先ず自分の身代を考えろってことじゃあねえかい藤三郎 そうでしょうかねえ平岩 ううむ、才助さんの考えは、中々いいことを言ってると思うが、わしゃあのう、この分度ってものは人の身代とか、その人の身持ちとか、他人のことを羨むなとか、そういう生活上のことばかしを言っているものじゃないと思うよ。二宮先生の言う分度ってものはその形で考えるもんじゃあねえと思うB じゃあ、平岩さんのお考えは平岩 こりゃあな、つまり人は銘々個人個人、その人、その人の才智というものがある。その人だけの特徴、特異というものがある。その人の持って生れた性分と言うか、持ち前というもの、これを生かしこれに生きること、その人の天分の理というものが大切だ、これが第一だ。こう言う意味合いのものだと思うのだが-B というと銘々が一人一人の持ち味がちがうってことを言ってるわけですかい平岩 まあ、いわば、そういう意味じゃあねえかのう、ねえ、松島さん松島 うむ-藤三郎 平岩さん、ただいまのお説は私も初耳で大へん味のあるお考えだと思いますが-ただね、それだけでは人一人一人が違うものだという御説明だけで・・・平岩 人は一人一人が違う、人は同じじゃない、違うのが原則だ、この考えが大元になるんじゃあないか藤三郎 それは解るんですが平岩 それでも納得いかなえというのかい藤三郎 どうもA 才さん、お前さん三年も考えてるんだからお前さんの考えもあんべえ、お前さんの考えを言ってみちゃあ、ねー藤三郎 私もね、ただ自分の考えてることもあるんですが、ただ皆さんのお考えと合わなえと、わしみえな若僧の勝手な考えになっちまうと思いましてね平岩 才さん、かまわねえ、お前さんの考えを言ってみなせよ、みんな報徳の衆ばけえだー藤三郎 私しゃあね、菜の葉の虫もはじめは菜の葉にいるが、その菜の葉を食い尽しちまえば、自然と煙草の葉に行かれる。そして煙草の虫になる。しかし自分のただいま置かれた境涯、その身分をやりつくさないで、そのつとめを尽さないうちに新しい境涯を求めてもいけない。いや求められるものではない。二宮先生は決して、虫が新しい葉に移ることを禁じたのではなく、ただ小さい菜の葉の虫でありながら、身分を忘れて一足とびに大きな葉の虫になろう。大きな煙草や、芭蕉の葉を求めてはならぬ。こういましめられているのではないか、しかし小さい虫も、その分度を守ることによって願わずして大きい葉に移れるものだということーまあこんな風に考えちゃあいけないもんでしょうかねえー平岩 なるほど!A うーむ B なるほど松島 平岩さん、こりゃあどうも、負うた子に浅瀬を教えられたようなことになった。才助さん、平岩さんの言うことが大本だがお前さんの言うとおりそれでいいだ平岩 才さん、それでいいだよ
2026.05.13
1深山木【11】金次郎の朝夕の行いについては、昨年も申し上げたとおり、食事も粗末で、衣服も粗末なものを用い、家も障子は反古(ほご)を張り、畳などに至るまで見苦しい事などは少しも構いません。すべて日用の事は倹約を専らにしております。また人に施す場合には米・金は勿論、衣類、夜具などに至るまで心よく支給し、荒地を開墾し、家の建築などする場合には、大工・職人・開発専門の技術者などを村へ世話し、少なからず食料なども支給します。ご領地で工事または開発などへ取りかかる時には別に賃金を支給し、また使い道の無いときは青木村その外にも支給し、何事も無駄が無いように厚く取り計らい、さらに荒地を開発する時や堰や用水路工事、家の建設などに至るまで取りかかるときは、平日の心持より格別の違いにて、費用がかかるにもかまわず努力し、既に今年の春以来それぞれ家の建設7軒を新規に建て、およそ金350両余りもかかったと聞きました。そのほか、物井村のまぐさ場に続く場所、堰用水の新規用水路で巾9尺長さ600間余りの場所は今年の正月にはやばや取りかかって、わずかな時間でできました。この場所の用水路については、数年物井村の用水場前で、竹や木を始め少なからず費用もかかり、その上、前からありました揚水用の堰ですが、川の端へ寄っている田畑はすべて湿気が強く、いずれ不作がちで、数年村でも困っていたということです。次第に田畑も立ち直り、その上揚水等の費用もなく、自然と用水の便利を考え、まぐさ場に続く場所の用水路工事もできあがったとのことです。右の場所は非常に水につかる場所で、雑木などは勿論、草ですら生育がよくない場所でしたが、このたび用水路で湿気が取れ、その上その堰の所々へ用水路を作り、地形を上げ、自然と湿気が去って、次第に林になるようにし、村の為になるようにと、今年の春、多くの杉苗を植え付けて、なお次第に植えていると聞いております。このような事などで、御領地が相続する道を深く考え、誠意をもって世話いたしましたので、零細な農民たちはたびたび恩恵を受けて、子どものように懐くよう自然となっていき、その様子はいつとなく近国近郷へ響きまして、既に細川長門守様、川副勝三郎様から御依頼があり、その外の方々からも追々御依頼が来て、近在の者たちは、つてを頼んで開発などの次第を聞きたいと尋ね来るようなっているという事です。 「宮室をひくくして力を溝洫(こうきょく:用水路作り)に尽す」(論語、泰伯)と申す事に相当するようなことだと申しておりました。【11】金次郎義、朝夕身分之行、昨年も奉申上候通、麁飯麁服を用ひ、居宅或ハ障子古反張、畳等ニ至ル迄見苦敷事少も不相構、万端日用之事は倹約を専相用候得共、又人ニ施し候ニは米金は勿論、衣類夜具等ニ至迄心能遣し、荒地起返し・家作普請等ニも、大工・職人・破畑人足等も村内え世話致置、不少扶持米等も差遣、御知行所ニて普請或ハ開発等え取掛り候節は別ニ賃銭差遣、又遣道無之候節は青木村其外ニも差遣、何事も費無之様厚取計、且荒地開発致候節、或ハ堰・掘割普請、家作等ニ至迄取掛り候節は、平日之心持より格別之違ニて、物入等ニも不構勢力を尽し、既ニ当春以来夫々家作普請計も七軒新規建家作仕、凡金三百五拾両余も相掛候様相聞、其余、物井村秣場野路続之地所、堰用水新規掘割、巾九尺長サ六百間余之場所、当正月早々取掛、暫時ニ出来仕候。右場所掘割候義は、数年物井村用水揚場前ニて、竹木を始不少入用も相懸、其上在来之揚ヶ前堰上候ニ付ては、右川端え寄候田畑は悉く湿気強、何れも不作仕、数年村方ニても難渋罷在候由、往々田畑立直り、其上揚ヶ前等之物入無御座、自然と用水便利を考、秣場野路続之場所掘割堰普請出来仕候由。然所右之場所至て水附之場所ニて、雑木等は勿論、草さへ生立も不宜候之所、此度掘割候ニ付湿気取レ、其上右之堰へ所々え溝を割、地形捲上ヶ、自然と湿気を去り、往々立出林ニ取計、村為ニ相成候様ニと、当春多分之杉苗植付、尚追々植付候趣相聞候。右様之事共ニて、御知行所相続之道深存込、以実意世話致候故、小前之者共度々恩沢を受、子之如く懐き候様自然と成行、其風いつとなく近国近郷え相響候哉、既ニ細川長門守様、川副勝三郎様より御頼有之、其外様よりも追々御頼申参、近在之者共、伝を以開発等之次第承り、尋来候様相成事ニ奉存候。 卑宮室而尽力ヲ溝洫と申事ニモ可相当之由、申聞候。
2026.05.12
岡田博氏の「二宮尊徳の政道論序説」180~182ページに佐々井典比古氏の『寸劇 観音』の一部が掲載されている。「佐々井典比古先生から『観音について、若い時に書いたもののコピーをお送りします』と頂いた、神奈川県総務部考査研修室発行『教養月報』の、佐々井典比古先生ご創作の『寸劇 観音』」である。・・・ 佐々井典比古先生ご創作の『寸劇 観音』は、時代は文化元年(1806)二宮金次郎18歳、善栄寺考牛和尚60余歳の設定で、二宮金次郎が善栄寺へ駆け込む所から始まる。青年金次郎は飯泉の観音様で旅僧の唱えた和訓観音経を聞いて、自ら悟った所を感激をこめて語る、それに考牛和尚が応える。 考牛和尚―うむ。「まさに優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の身を以て得度すべき者には、即ち優婆塞・優婆夷の身を現じて、ために法を説く。まさに童男童女の身を以て得度すべきものには、即ち童男童女の身を現じて、ために法を説く。」・・・・・・そうか。 金次郎―それが、始めは分からなかったんです。おいら無一文のみなしじになって、どうしたら潰れた家を建て直せるか、毎日毎晩考えて来たんです。でも分からなった。百姓が貧乏から起き上がるしかたは『大学』にも、どこにも書いてないし、誰も教えてくれないんです。 考牛和尚―・・・・・・ 金次郎―ところが、去年の春、砂埋めになった地所を掘り起こして、捨ててあった余り苗を植えておいたんです。秋になって刈って見たら、和尚さん、なんと一俵あるんです。一俵ですよ!なんにもない荒地から、おいらの身上が出きたんです。(中略)おいらはそれを天地から教わったと思ってました。しかし、今のお経文で言えば、田んぼも捨苗もみんな観音様で、おいらを助けてくれたことになるんです。 考牛和尚―ウーム。 金次郎―『大学』にある「明徳を明らかにする」ということも、「福聚(ふくじゅ)の海無量なり」ということも、同じだと思うんです。藁には藁の明徳がありますね。縄になったり、わらじになったり。ただ、作らなきゃ明らかにならないんです。一生懸命作るのが「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)でしょ。いいものができれば明明徳だし、わらじ観音、縄観音でしょう。山にも田畑にも、明徳、功徳が埋っている、掘り出し刈り出す程ふえて行く。だから「福聚の海無量なり」だと思うんです。 考牛和尚―(驚畏する) 金次郎―人の間だって、売り手は売って助かり、買い手は買って助かる。「慈眼もて衆生を視る」とあったけれど、衆生もお互いに観音になりっこするんじゃないですか。世の中は。 (『教養月報』第12号、昭和25年4月) これは、『寸劇 観音』の抜粋であるが、気になるのはGHQのインボーデン氏の 『二宮尊徳を語る』ー新生日本は尊徳を必要とする に出て来る和尚が金次郎の悟りに感嘆の余り「お前は百姓にはもったいない、坊主になれ、坊主になってこの寺をついでくれぬか」に反論する場面でそれがこの『寸劇 観音』の流れとよく合うのである。※『二宮尊徳を語る』ー新生日本は尊徳を必要とする(GHQ新聞課長D・C・インボーデン 抜粋) 二宮尊徳は大地にしかと足を踏みしめて立った百姓である。百姓尊徳は百姓の権威を持っている。 金次郎が18歳の時であった。百姓の子にしては珍しい頭のよさと学問好きに感服した村の和尚が、彼に熱心に出家をすすめた。 そしてこう言った。「お前が出家すれば、この寺をお前に譲る。金次郎、お前は百姓で朽ちるには惜しい人物じゃよ」 しかし、金次郎はにべもなく答えた。「和尚さん、折角ですが、それはご免です」。「坊主はいやか。そうか、だがお前のような人を百姓で朽ちさせるのは」「百姓で朽ちる?」 金次郎は興奮した。「その言葉が私には気に喰わないのです。百姓になることは朽ちることじゃねえ。百姓くれえ立派な仕事はねえと私は思います。私が学問するのは、立派な百姓になるためにするんです」 この百姓魂こそ尊徳の一生を貫いたものである。このインボードン氏の『二宮尊徳を語る』が『青年』に掲載されたのが、昭和24年で年代的にドンピシャリ当てはまる。つまり、インボードン氏は若き佐々井典比古氏の創作に感銘を受けて引用したに違いないと思われる。『寸劇 観音』の全容を知りたいものである。おそらくは教養月報に載った以上のものがあるのかもしれない。 そして、それは オペラ二宮金次郎 のような壮大な 作品への可能性さえ予見させるかのようである。
2026.05.12
見上愛さん演じるヒロインとは別の顔…NHKが朝ドラから削り取ったモチーフ・大関和の「クセの強すぎる素顔」5/12(火)https://x.com/i/status/2052904623992938966大関自身が語った学校の思い出----------出発点が普通の職業ではなく天の使命と云う所から踏み出しましたし、学校がまた犠牲献身と云うところから教えて行きますので、同じ看護をするにも真剣に看護する様教育されました(大関和子「献身の覚悟で看護婦となる」『婦人之友』7巻11号)。----------和が看護婦を目指した理由は、牧師の植村正久に看護婦になるのが信仰をまっとうする道だと説かれたから。和は創立者であるマリア・T・ツルーにこう教わったと記している。----------ミセス、ツルーは常に私共に対して、看護婦の責任の重大なるを教え、且つ国を強くするには人を健全にせねばならぬ、人を健全にするには信仰ある看護婦がなければならぬ。私はにほんのために善良なる看護婦を養成せんとて、慈善家の賛助を求むるが、お国は一向同情してくれず、思うように拡張することが出来ない。どうかあなた方が責任を自覚して献身的に働いて貰いたいと、繰り返し繰り返し教えられました(大関和子「献身の覚悟で看護婦となる」『婦人之友』7巻11号)。--------------------ある時ジフテリアの患者がありまして、私が他の病室に行って居る間に窒息してしまいました。私は急いで医局を起こしますと、物に動ぜぬ先生方とて、落付払って帯を締め、紋付きの羽織を召すと云う有様で、とてもそれを待っては居られませんから、直に病室に取ってかえし、床頭のネラトン氏カテーテルの先を切り、突如挟管口に突込んで吸い出しましたが、一度は効なく二度目に吸って、カテーテルをぬくと、一寸三分位の疑膜(偽膜)が飛び出して蘇生しましたが、その時副院長と助手が見えて、助手は「吸い出したのか、大胆だなあ」と驚いて居られました。----------ジフテリアは、感染力が非常に高く、当時は死亡することも多い病気であった。この患者が窒息したのは、ジフテリア菌が喉で増殖、炎症によって厚く硬い「かさぶた」のような膜(偽膜)が剥がれて、呼吸を塞いでいたというもの。それに対して、和がやったのは、手元にあるネラトンカテーテル(通常は尿道などに使う管)の先を切り、吸い込みやすいようにカスタムし、咽に突っ込んで自分の呼吸で吸い出したというもの。----------院長は私が患者のために熱心に祈りをして居たことも知り、私の倒れたのもそのためだと云うことを知って居られたので御座います。(大関和子「献身の覚悟で看護婦となる」『婦人之友』7巻11号)----------孫の大関一郎----------キリスト教の信仰に対しては絶対的で、常に聖書を放さず、祈りも欠かしませんでした。士族意識からくるものか、終生エリートとしての誇りがあり、威張っているわけではないのですが、気位の高さは一貫してあったといえます。ですから労働運動などは理解せず、むしろ上流階級の権威に弱い側面を持っていたでしょう。(高橋政子「クリオへの感謝 歴史にみる看護婦群像 第4話 大関和のこと補遺」『看護教育』22巻9号)----------〇見上愛が5月10日、都内で開催された「看護の日」イベント「KANGO部!」にスペシャルサポーターとして出席し、主演を務めるNHK連続テレビ小説『風、薫る』について語った。明治時代を舞台に、看護の世界で奮闘する主人公・一ノ瀬りんを演じる見上は、役作りのために看護師の友人から話を聞いたほか、ナイチンゲール研究者による講義も受講したと説明。「看護師の養成所の皆で学ぶ時間を設けてもらった」と振り返った。撮影ではシーツ交換に苦労「シワがあるとOKにならなくて、何度も練習した」と告白。現在は「2人で敷くことはできるようになった」と成長を語る一方、実際の看護師の技術には「近づけなかった」と脱帽していた。〇初日の夕食で、見習生たちは愚痴を次々と重ねた。結局、一言も口を利いてもらえなかったというりんに、柳田しのぶ(木越明)は、自分は患者ではなく、医者の世話をさせられたと文句。直美も、薬のにおいが嫌で看病婦はまともに薬も塗ってなかったと「暴露」。多江は、換気も掃除もまったく考えられておらず、淀んだ空気では、治る病気も治らないと漏らす。直美は「シーツを替えてもケガも病も治らない」と言っていた多江の変わりぶりにツッコんだ。多江「それは…あの時は何も知らなかったから…」りん「看病婦のみなさんも同じなんじゃないですかね」バーンズ「あなたたちは一緒に働く看病婦の愚痴を言うだけですか?今日一日あなたたちを見ていましたが、あれがあなたたちにできる精いっぱいの看護ですか?」
2026.05.12
1深山木【10】今年(天保6年)3月中旬頃、金次郎は申すには、自分の領地ばかり査察しても、村の善悪はシカと分らないものです。近郷近在の一つの村を複数の旗本など分割領知している村の多くは荒地となっております。また作物の様子もじっくりと査察するよう申しますので、その意にまかせて出かけました。また幸いこの時、川副勝三郎様の領地である青木村と申す所の荒地の開発ができ、その上貯水池の工事が2か所取りかかっておりました。この村は非常に難しい用水堰がございましたが、工夫をして、用水が自由に引けるようにし、出水の時は水が抜けるよう工事をいたしましたので出かけるよう申します。道のりはわずかに3里ほどと聞きましたので同行いたしました。道すがら村の盛衰の模様、政治の善悪をここでよく査察するよう申します。金次郎が申すには、向うに5,6町あるいは7,8町遠い場所に、竹や木が生い立っているありさまを見ると、よい村は自然と手堅く見え、村内へ入って査察しても作物の出来はよろしく、竹や木までも茂りが見事に見えます。また村が衰えていれば竹や木に至るまでどこか不揃いとなり、自然と手薄に見えます。道や橋に至るまですべての事が行き届かず、また田畑・地面はなかなか御領地などよりはよくできているようでも、逃作と申して、荒地の内へ麦や菜種を蒔き付けても弱くなってしまい、年々荒地が増長することに相違ございません。政治が行き届かなければ、行届かなくなることの天道の正理は恐るべき事にございますということを申しました。江戸においても諸大名様や旗本様などが、日々江戸城へ登城される時は、それぞれ同様の御通行に見えますが、藩や領地によって政治の善悪を査察すればすぐに知ることができましょう。政治が行届かない領地は、一生懸命に手を尽されるならば、天地自然が万物を養育し、百姓どもは安心して生活いたしましょう。また政治が行き届かなければ、年々自然と衰えて、村は困窮に及び、年月が経過するうちには残らず荒地が多くなり、潰れ百姓どもができ、亡所同様になる次第は、眼の前に見るようですと申しました。【10】当三月中旬頃金次郎申聞候は、御知行地計り見分仕候ては、村方の善悪も聢と不相分物ニ付、近郷近在給々入合之村方、多分ハ荒地と相成居、又作物之様子も篤と見分致候様申聞候間、任其意罷在、又幸此節川副勝三郎様御知行所青木村と申所荒地開発出来、其上水溜普請弐ヶ所取掛り、右村方え至て六ヶ敷用水之揚前御座候由、工風仕、用水自由ニ掛ヶ引致し、出水之節ハ水抜候様普請仕候ニ付、可罷越旨申聞、道法僅三里程之趣申聞候ニ付同道仕、道すから村柄盛衰之模様、御政道之善悪、爰ニて能見分可仕旨申聞候。申さは向ニ五六町或ハ七八町遠き場所、竹木生立候有様、能村柄は自然と手堅相見え、村内へ入見分致候所作物出来宜敷、竹木迄も茂り見事ニ相見え、又村柄衰居候得は竹木ニ至迄何歟不揃ト相成、自然と手薄ニ相見え候。道橋ニ至迄万事不行届、又田畑地面は中々御知行所杯より打上り居候ても、逃作と申候て、荒地之内え麦作・菜種蒔付候ても手弱ニ相成、年々荒地増長仕ニ相違無御座候。御政道之御行届被成候と、御行届かさると、天道之正理可恐事ニ御座候旨申聞候。江戸表ニて諸御大名様方・御旗本様方、日々御登 城之節ハ、方々様御同様之御通行ニ相見候共、御領分・御知行所ニ寄御政道之善悪見分仕候ては直ニ相知申候、御政道御引届被成候御領分、一致一和ニ御手を被尽候得は、天地自然、万物養育し、百姓共安堵仕候。又御政道御行届不被成候得は、年々自然と衰へ、村方及困窮、年月経候内ニは不残荒地多と相成、潰百姓共出来、亡所同様ニ成行候次第、眼前之由申聞候。
2026.05.12
「永平家訓抄話」澤木興道 5-1 曰く、三祖大師曰く、 至道無難、唯嫌 揀擇。 這箇を見聞して、知らざる者は、則ち 曰く、 諸法、善悪無く、一切、邪正無し。 但し性に任せ逍遥し、縁に随い放曠 す。 所以に一切の善悪邪正、揀擇せずして 趣向すと。 或いは曰く、所謂、不揀擇とは言語を 用て道はず。 但し圓相を打し、佛子を堅起して、 一拄杖を卓し、 拄杖を擲(なげう)ち、 掌一掌、喝一喝、 蒲團を拈來し、拳頭を拈來し、 對して便ち得たりと。 恁麼の見解、未だ凡夫の窟を出ず。 若し人、永平に、 作麼生か是れ、唯嫌揀擇底の道理と問 はば、 秖だ他に向て道ん。 金翅鳥王、生龍に非ずんば、食はず。 補處菩薩は兜率に非ざれば生ぜず。「曰く、三祖大師曰く、至道無難、唯嫌揀擇」この一段は『永平広録』の七巻初丁である。三祖大師というのは、達磨さんから三代目の僧瓈という人である。古来、坐禅について述べた書物はたくさん現れておるが、その中でも最初にシナ人の手になって詩に表現されたのは『信心銘』である。それは四言百四十六句の長編の詩であるが、これが達磨の宗旨の標準になるので、非常に大切なものである。その中でもこの最初の「至道無難、唯嫌揀択」という句が最も大切な句で、古来問題になっている。これは『碧眼集』にある。『碧眼集』というのは、雪宝禅師の頌古というものに、円悟禅師が垂示、著語、評をつけて編集したもので、禅師の居室の扁額に碧眼とあったので、その書物の名前としたのだそうである。その碧眼とあったので、その書物の名前としたのだそうである。その碧眼の中では、第二則で、この至道無難唯嫌揀擇ということを問題としている。そればかりではない。第五十七、八、九と続いた三則では趙州和尚がこの「至道無難、唯嫌揀擇」を問答されている。つまり『碧眼集』では百則の中に、この至道無難を取り扱った則が四則もあるわけである。この一事によっても古来、達磨門下においてこれがいかに大切なものであったか、わかってもらえると思う。(「永平家訓抄話」p.324-325)
2026.05.12
23藤三郎は「報徳実践談」で報徳の教えと出会い回心するまでの経緯を次のように回想しています(「かいびゃく」2000年4月号所収)。「19歳のとき初めて、将来いかにすべきかということを考え始めました。また、当時養父が雑菓子の商売をしておりましたから、それを手伝っておりましたときに、私は心喜ばしく思わなかったことがあったのです。寺子屋時代に親密にしていた朋友、いわゆる竹馬の友は、私の17、8歳のころには立派な人となりました。これは、財産があり名誉がある人の息子だったからです。しかし私は毎日わらじをはいて菓子の行商をしておりました。それで私は、いくらか人ごころができましてから恥ずかしく思いまして、いかにも自分の境遇を嘆き、なるべく避けて人に逢わないようにいたしました。すなわち、朝は暗いうちに起き、また日が暮れてから帰りました。これは、朝遅く起きれば人に逢う、人に逢うのが恥ずかしいということから、早く起きて出たのであります。また、日が暮れて帰りましたのも、早く帰れば人に逢うのが恥ずかしかったからです。 それで、このような恥ずかしい境遇を脱するにはどうしたらよかろう。これは金さえあればよい。ほかの友人は金のある人の息子であるから、あのように立派にやるのである。それで、私も金儲けをしなければならない。何か、一攫千金というようなことをしなければならない。ただ恥ずかしい、恥ずかしいと思うだけではつまらない、というところから、一つ考えました。 当時私の郷里は、横浜の開港以来、製茶の貿易が盛んになりましたから、茶が一番よかろうと思いまして、わずかの資本を借り、製茶仲買いとなり、三河から伊勢、四日市の辺まで買い求め、帰って横浜へ売りに行く、というようなことをやりました。四日市あたりへは一年に3度や5度参りました。このようにして製茶の仲買いをしておりましたことが4~5年ありました。その当時、私の心得は、手段のいかんを問わず、自分の利益になり自分の富を増し、金を作り得るならばそれでよい、というものでありました。それから、明治8年のころ、親戚へ参りましたら、「報徳」と記した本がありまして、そのそばに「二宮」と書いてありました。私は前から報徳という名を聞いておりましたが、報徳は借財を救うことである、従って吝嗇家のすることと思っておりましたくらいで、報徳の本などがあろうとは思いませんでしたが、そのとき初めて本を見ました。これは写本でありましたが、どんなことが書いてあるかと尋ねますと、『天命十箇条』という貴い教えである。見ようと思うなら持って帰って見てもいい、ということでしたから、私はこれを借りて帰って読んでみました。これが報徳についての縁の初めでありました。」 明治7年3月5日藤三郎は家督を継ぎ、才助から藤三郎と改名しましたが、家業は義父にまかせて製茶貿易を始めようと思います。その頃、茶は生糸に継ぐ第2位の重要輸出品でしたから、森町にも製茶貿易に従事している人がいて、相当な成功者もありました。まだ通信運輸も倉庫設備も不備な時代でしたから、非常に投機的な事業でしたが、一つ当ればすばらしい大儲けがあったし、そうした事業に従事している人々の生活は常に華々しく、男らしい生きがいのある生活のように思われました。「よし、製茶貿易をやろう!」しかし養父は反対します。「家業を守っていればいい。製茶貿易なんてバクチみたいなものなど家をつぶすだけだ」と養父は主張します。「製茶思惑などというものは、儲けて喜んでいる一人の裏に、損して泣いている百人があるのを知らないか。お前のように無経験な若い者が、そんなものに手を出したら損するのは目に見えている。結局、本業まで立ち行かないようになるのが落ちだ。」藤三郎は毎日、根気よく養父を説き伏せようとする。養父は若い者が屁理屈をいうと聞き入れない。時には大声を出しあう。藤三郎は家業を顧みないようになります。養母のやすはしっかりした気性で、藤三郎の生涯を通じてよき理解者でした。「お父さん、このままでは近所から貰い当てたと評判の藤三郎の一生を狂わしてしまうかも知れません。私たちの晩年だって路頭に迷うことにならないともかぎりません。結局同じなら今の内本業に支障のない範囲でやらせるほうが利口ではありませんか。やってみたら若い者の一本気で思いつめる気持も考え直す余裕もできるでしょう。」養父は渋々了承し、家業は自分がやり、藤三郎には1年ほど製茶貿易をしている知合に見習わせた上で、他所から僅かな資本を借りて製茶貿易に従事することを許します。熱望をかなえられた藤三郎は、巨富を得る目的のため努めましたが、資力は少なく無経験でしたから、そこそこ知られる程になりましたが思うような結果は得られません。 製茶貿易で家を留守にしがちの息子には、女房でも持たせたら少しは落着くのではと、養父母はあれこれと探したあげく、同じ天ノ宮に住む安間両助の次女かんという娘を嫁に貰うことになりました。明治9年(1876)1月15日に2人の結婚式は挙げられた。藤三郎22歳、かん17歳(数え)です。この年に、藤三郎は報徳に出会い、その後の一生を報徳の精神で貫いていくことになります。記念すべき年でした。森町にはその頃、森町報徳社が設立されていて、遠州地方における報徳運動の一大中心地でした。報徳社社長は新村里助の養子、新村理三郎でした。新村宅で毎月社中の集会があると知って藤三郎は出かけていきました。そして、書物ではまだ解りかねた点について詳しい教えを新村氏始め社中の先輩から聞きました。報徳の教えは日常の実生活の上に生きた指導をする教えだ。藤三郎はそう知ってますます深く信じました。それとともに、今までの自分が儲かりさえすればいいという考え方が、この教えと正反対だったことに気付きました。藤三郎は自分が本当に得心ゆくまで究め尽くさなければ気がすまない性格です。集会の日まで待ちきれないで出かけて、見当たり次第、先輩をつかまえては質問しました。腑に落ちなければ落ちるまで議論しました。藤三郎は、目上であろうが、さしつかえのある事柄だろうが遠慮なく議論したので、「論客」というアダナをつけられました。「鈴木の無遠慮には困る。人がいても何でも構わず反抗する」とか「檀家の者が沢山いる前でヤカマシイ議論を吹っかけるので体裁が悪くていかぬ」などと言われるくらい狂熱的だったのです。
2026.05.12
187二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替えた。12 聖人の当座漬「報徳記」を読んで見ても「二宮翁夜話」を読んでみても随分感ずる節が多いが、二宮先生に直(ちょく)接した人はさらに一層その感化力の偉大なることに感じたということである。余が男沢氏を訪問した時、いかにして二宮先生と懇意になったかと尋ねたら男沢氏の答えに、その当時小田原藩の勘定奉行に鵜沢作右衛門(うざわさくえもん)という人があったが、二宮先生はこの鵜沢家の家にはしばしば来られて講釈をされたということである。その鵜沢と男沢とはごく懇意の間柄であるから、男沢は鵜沢を通して二宮先生に入魂(じっこん)になったそうである。鵜沢の家に二宮先生が来られると、報徳随身の連中は何事をさしおいても鵜沢の家へ集まって二宮翁に親炙(しんしゃ)したということである。その時は二宮先生を中心とし一座席を正しうして報徳談を聴いたそうであるが、二宮先生のおられる所に行くと参集者は自然と形も改まり言葉遣いもかわりて、あたかも鉄が磁石に引きつけられるごとく、一座の者はこの大いなる感火力に全く吸い付けられたそうである。ある時のこと二宮先生が講釈を終えて言われるに、「見渡せば諸君はたいそう形容整い威儀正しく座られておるが、これは聖人の当座漬みたようなものである」とて哄笑されたということである。二宮先生は直接した人々がいかにその感化力の大いなるに同化されたかはこれにてもわかるのである。報徳訓控先生のそばにいて、有難き話を聞くうちはなるほどと思うなれど、外へ行くと忘れきる。たとえば焚き付けの薪(まき)なり。中の一番火の燃えつけたる木をひきぬかれると、あとは黒消しになるなり。
2026.05.12

187二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替えた。13 翁の容貌二宮先生の容貌については随分異論が多く、遠州派の二宮先生の容貌論と小田原派の容貌論とはほとんど氷炭相容れないほど違っている。余はどの派にも属さないが、自分で調べた所によって二宮先生の容貌を描いて見ると、二宮先生の顔面は円い方である。口元が締まって眼元には溢れるばかりの愛嬌があって、眉毛は長く身体は大兵であって丈の高さは4尺だけの着物を着るほどである。鼻は高く鼻根より隆起しておって中央が少しく波を打ったように曲がっておる。そうして右の鼻下と上唇との間に当たる位置に一つのホクロがある。耳は大きくかつ猫の口ひげのような鬚髯(しゅぜん)が耳の中からまばらに生えておる。色は黒い方でなんとなく顔に締りがあって、意思の強いところが現われ、額は広くかつ大きく、音吐は雷(らい)のごとく響くのである。すなわち相貌の上より論ずるも偉人たる資格は自ずから備わっておるのである。余の見たる二宮先生の像の中では剣持広吉氏の家にある画像が一番よいように思われる。剣持広吉氏は栢山から半里ばかり足柄山のほうに寄ったところの曽比村の人で二宮先生の有力なる随身家の一人で、筆も立ち議論もでき、しかも名主であって報徳の実践家である。渡邊華山先生の高弟である岡本秋暉(しゅうき)などもしばしばこの家へはとまりがけに出かけたものと見えて、秋暉の画は襖だの屏風などにたくさん張ってある。二宮先生もまたしばしばこの家に来られて逗留されたと見えて、今は火災のためになくなっておるが、二宮翁のために特に一室を造って、そのところは二宮先生が来られた時だけに用いるので平生(へいぜい)は錠をおろして誰もはいれないようにしてあったのである。この家に二宮先生が来られた時にこれも障子の隙間より画工を連れて来て描かせたという肖像があるが、その肖像は余が研究したうちで一番よさそうに思うので、余は小田原から写真師を連れて行ってその肖像を撮らせたのである。これは二宮先生の55,6歳の時の肖像であろうか、まずこれが一番真に近いのであると余は信ずるのである。
2026.05.12
1深山木【9】横田村の用水堰は新堀で、巾6尺ほど、長さが450から460間、未開墾地に続く場所で、8年前(文政10年(1827))用水掘工事を行い、右の場所を開墾しても用水の便利がよく、田に開墾できる場所をそのままにしております。また新田境と申す場所は、先年小田原藩より?之助様へ分与されたときに、横田村の内高99石余りは過剰分とされ、その後に幕府直領となりました。その時に真岡領に入り、右の場所は荒地になり、こちらの土地は窪地のため水が溜って困っているということを聞きました。11年前に、巾6尺長さ200間余りの新用水路ができ、真岡領は領地内の境界が交錯しないような工夫を考え、真岡領の方では水はけもよくなり、少しは開発もできているように見受けられましたが、こちらの方ではその用水路の筋を見渡たしたところ、荒地が細長く残って、用水路の水も用いず、なんとも分りかねて尋ねましたところ、金次郎が申しますには、仕法を開始する以前に、少々境界を押し出したといって境界論争に及んで、たびたび喧嘩がありました。実は荒地が残っているのも境界争いがないよう取り計らって用水路を設置し、10年も幕府領の為になるように取り計らい、御領地の方は決して手を付けず、ほかの開発がすべてできた時になってから、右の場所も、後で開発するつもりで、10年もたったというわけです。こちらの領地の方はどれほど開発しましても、異議を申し出る者は一人もおらず、また横田村の用水路、長さ450間の場所も右に準じて、同じように取り計らい、自然と開発ができる道も開けたところでございました。未開根地に続く場所は潜在的な権利関係が錯綜していることから、すぐに取り計らっては支障ができるもので、よくよく考えてからでないといけませんということを聞きました。【9】横田村用水堰新堀、巾六尺程、長サ四百五六拾間、野路続之場所、八ヶ年以前掘割致し、右場所開発仕候ても用水之便利宜敷、田方ニも起返し候場所其の儘差置、又新田境と申場所、先年 此方様より?之助様え御分知被遣候砌、横田村之内高九拾九石余過に相成、其後御上知ニ相成候節真岡御領ニ入、右之場所荒地ニ相成、御領之方地窪ニて水溜り難渋致居候趣及承、拾壱ヶ年以前、巾六尺長二百間余新堰堀割、真岡御領は御知行 等境入組不申工夫ヲ考、真岡御領之方ニては水咄も宜敷相成、少々宛ハ開発も出来仕候様相見候所、御知行 之方ニては其堰筋見渡候処、荒地細長く残、堰路用水用立不申、何分不相分候ニ付相尋候処、金次郎申聞候は、御趣法以前、少々垣根押出候迚境論ニ及、度々出入仕候事ニて、実ハ右之故障も往々無之様取計掘割致置、拾ヶ年も御領之方為ニ致置候様取計、御知行所之方は決て手を付不申、外ニ開発場出来揚之時節ニ至り、右之場所、跡ニて発返し致候上ハ、拾ヶ年も相立候事ニ付、御知行所之方何程開発致候ても、故障申出候者壱人も有之間敷、又横田村右堰掘割、長四百五拾間之場所も右二准し候事ニて、右様取計、自然と開発出来之道相開候義ニ御座候段、都て野路続之場所入組候義ニて、速に取計候ては手違出来致候ものニ付、能々勘弁致候事之様、申聞候。
2026.05.11
4森町報徳社再興と遠譲社の設立 岡田佐平治とこのように別れた福山滝助は、佐平治の紹介で翌日の3月29日、森町内に行き新村里助宅に逗留した。滝助はここで「無利息貸付の雛形60箇年分を製し」里助に示し、里助も大いに感じ入って森町報徳社にこの方法をあてはめたいと願ったが、今回は秋葉山参詣が目的であると断られ、他日を約束したといわれる。滝助は4月4日まで里助宅に逗留し、3日には秋葉山に参詣した。その後、浜松宿の小野江善六、天神町中村五郎七、都田村金原孫四郎などを訪ね、4月17日には再び里助方を訪問し、22日まで逗留している。この間に滝助は森町報徳社の「無利息貸付の仕法を組立」たものと思われる。この後、滝助は西遠、三河を中心に広く報徳の指導をしていくことになる。(略 安居院庄七亡き後、わずか4,5年で報徳運動が急速に衰退していたことを森町史は「福山先生一代記」を引用して述べる。尊徳先生の温泉と風呂の譬えにあるように、自ら気づいて自ら焚き続け、さらに人をも焚かずにはいられない、そうした庄七、滝助のような人々を生み続けることが、報徳の課題かもしれない) 結社といっても未熟で脆弱なものであり、それゆえ指導者を失って急速に衰退したのではないかと思われる。 滝助は、「各社を巡回したまふや、いと懇切周到をきわめ、或は一社の仕法に数十日を要し、或は一人の家政に数日を費し給ふこと珍らしからず」といわれる。(森町報徳社では、社員である加入者は「縄索(じょうさく)加入金」として毎月ほぼ1分2朱永45文一人当り永35文を積立、それと「元恕金」(福山滝助寄付金)、返済金などを合わせ、これを資金として貸付を行っていた。借用者は、借用金を基本的には60か月賦(5年間)で返済した。無利息であったが、皆済後1回分を「元恕金」として納めるよう義務付けられていた) 1871年(明治4)滝助により指導された報徳社は9社になっていた。 1867年(慶応3) 森町社、天神町社、浜松社、気賀社 68年(明治元) 都田社 69年(明治2) 刑部社 71年(明治4) 寺島社、石原社、和地社 ここにおいて各社を統括する本社設置の議がおこり、気賀町鈴木徳右衛門方にて本社秋期の会が開かれ、社名は「遠譲社」とされた。本社には「世話人重世話人」が置かれることになったが、新村里助は「重世話人」となっている。 「遠譲社」の「世話人重世話人」は次のようであった。(「静岡県史」資料編16) 重世話人 森町村山中理三郎(新村里助)、気賀町鈴木徳右衛門、浜松田町小野江善六、都田村金原孫四郎、 世話人 森町村中村常蔵、気賀町豊田小伝治、浜松宿田町田中五郎兵衛、都田村坂本佐五平、天神町中村五郎七、刑部村内山伊和太郎、同内山健蔵、同植村与一郎、同今泉鍋十郎、石原村小栗九郎、寺田村桑原清吉、和地村牧田猪太郎、同牧田伊平森町地域の報徳社 黒田報徳社は明治14年設立され、遠江国報徳社に明治18年に認可された。明治17年(1884)制定の黒田報徳社の報徳社規則は、結社の目的として次の3点を挙げている。 1 それぞれ「自分相応の徳業」を立て「善を積み不善を改」め「神徳皇徳及び父母祖先の恩徳に報ずる」こと 2 「職業と分限」に従い「家業を勤め倹約を行い」それぞれ「富盛の基」を建て「幸福を永遠に享受する」こと 3 「道義を研窮し事物を明」らかにし「邪を閉ぢ奸を塞ぎ直理を伸張する」こと。岡田良一郎は、報徳思想を「立徳」「開智」「致富」という言葉で整理したが、黒田報徳社は岡田の考え方に影響されたと思われる。入社を希望する者は、「善種永安積金」を「遠江国報徳本社」に納め社員証を受ける必要があった。社員は、毎月15日に開かれる「会議」に参加し、「日課縄索」によって得られた10銭を「報徳加入金」として拠出した。毎月開かれる「会議」では、正面に「天祖神号幅」、その右に「報徳訓」、左に二宮尊徳の肖像が掲げられ、最初に「礼拝」が行われた。「礼拝」の順序は、「第1神号祝詞を曰す、第2二宮先生の法号を唱ふ、第3報徳訓を唱す」であった。会議の際には、報徳記・報徳論・富国捷経・二宮翁夜話・報徳富国論・報徳斉家談・無息軒翁一代記・佐藤信淵翁農書・経済書等が読まれた。会議では報徳の教義や道徳について話し合われると同時に、殖産勧業についても協議された。会議は農談会としての役割も担っていたのである。報徳金貸付は、本業出精人に対して無利息5ヶ年賦でなされた。黒田報徳社では、そのほか会議の日を「道作り定日」と定め、道の修繕を行っている。
2026.05.11
(幻の講話)この「私が成人したら精出してきっと父さん、母さんを楽に安心させます」というこの決意こそが、偉大な二宮金次郎の思想と事業の始まりであると、私には思われます。二宮金次郎の父母は早くになくなります。金次郎が天保十四年十二月十日に幕府に提出した「勤め方住居窺(うかが)い」には「わたくし五歳の時、大洪水で田畑が残らず押し流され、五穀は熟さず、私どもを養育した父母の苦労が骨髄(こつずい)に徹し、なんとか貧窮をまぬがれ、父母の辛苦(しんく)を安んじようと努力しましたが、十二歳の時に父が大病をわずらい、十四歳の時ついに亡くなり、また十六歳の時、母も大病で亡くなり」とあります。父母の養育の苦労に報いたいと思った金次郎の決意は、自分が幼い時、骨身に徹した貧窮に苦しむ人々を救おうと、振り替えられたのです。 それにしても、金次郎の母親は偉いですね。「親戚が悪いのではない。こちらが悪い。こういう困窮の家で親子になるのも何かの因縁だ。親の未熟と思ってあきらめておくれ」。十歳くらいの時に母親が涙ながらに語った言葉というのは、子の心魂に徹するようです。 山岡鉄舟はこの静岡にご縁の深い人ですが、母親は鹿島神宮の宮司、塚原石見(いわみ)の娘です。鉄舟は母について語っています。「私が八、九歳の頃、母が文字の書法を教えた。その中に忠孝という文字があった。私は、それが何の意味かがわからず、その意味を母に問うた。母がおっしゃるに『忠と申す文字は主君につかえる心のただしさをいいます。孝と申す文字は、父母につかえるの意味です。しかし忠と孝とは本来同根のものです。そして人が世に処する上は、必ずこの道理をわきまえなければ、人と生まれた甲斐がないだけでなく、またすまないものです』と、とても情(なさ)けありげに申された。しかし私は幼年で、それほどのことと思わず母の膝にもたれて、母の顔を眺めていたら、なんとなく深い心を含んでいるかのように見受けられた。私はおさな心に「かあさまは常にその道を守りたまうか。また私はいかにしてその道をつくすべきか」となにげなく質問した。すると、母はなにやら心に感じられたのであろう。ほとほとと涙を流して仰せられた。『おお、鉄よ鉄よ、母も常にそのようにこころがけていますが、つまらぬ女ゆえにいまださしたることがなく誠に残念に思われます。あなたは幸いに無事の体に生まれついていますから、必ず必ず母のおしえを忘れてはなりません。そして忠孝の道はその意はなかなか遠大で、今日あなたに申し聞かせてもたやすくこころに合点はいかないでしょう。今からこの心で修行に精出せば、いつの日か自然了解することもあるでしょう。必ず必ずうち捨ててはいけませんよ。』とその至情の教訓はこの場においても私の心身にしみわたっている。」山岡鉄舟は江戸城無血開城に貢献し、武士道の最後の体現者といえますが、それはおさない頃の母の涙のおしえにあったのです。金次郎は、成人して一家を立て直した後、法事に縁者を招いてもてなしています。曽我からは伯父(おじ)も来て、「よく丹精(たんせい)して家を興した」と喜びました。金次郎は伯父にお世話になったお礼を述べた後に、「この法事ができるのもおじさんのお蔭です」と、あの時の母への扱いを語りました。おじは「それは少しも覚えがないが、もしあったらはなはだ悪い、勘弁(かんべん)なさい」とわびました。金次郎は「決して悪くない。きょうの法事供養は伯父さんのたまもの同様と思っています。粗末ながら十分おあがりください。私もうれしいのです」と語っています。金次郎も人には語らなかったけれども、この時のことを心魂に刻んで一生懸命働いて一家を立て直したのです。一時の怒りや報復の感情を大らかな感謝へと振り向ける。江戸時代を代表する儒者の一人に頼山陽(らいさんよう)がいます。その父は頼春水(しゅんすい)といい広島藩に仕え、江戸の昌平黌(しょうへいこう)設立に尽力した人ですが、同様のエピソードがあります。春水の父は染物屋でした。春水は、十一歳のころ、父に代わり名主に挨拶にいきました。子どものこととて、心安くその旨を名主に告げると名主は顔色を変えて怒り出しました。「その態度は何だ。ろくな挨拶(あいさつ)もできないとは、生意気(なまいき)だ」と、いきなり春水のほおを平手打ちしたのです。春水は泣いて帰りながら考えました。「なんとかして名主よりもえらい人間になり、今日の屈辱をはらし、見返してやろう」そしてそれを父に訴えたのです。父は言いました。「名主より上になるには、学者になるか医者になるかして、よい主君に仕えるよりほかにあるまい」「きっと立派な学者になってみせます」春水は志を立てて、十九歳で大阪に出て、勉学に励みました。そして儒者として高名をはせるようになり、広島藩に召し抱えられることとなります。ある日、春水は自分をなぐった名主を招いて「私が儒者になれたのは、すべてあなたのおかげです。今日はそのお礼をいうためにお招きしたのですから、ゆっくり、くつろいでいただきたい」と口上(こうじょう)を述べ厚くこれをもてなしたのです。物事すべてを感謝の心で受けとめ、感謝の言葉を発することの大切さを教えてくれています。
2026.05.11
1深山木 【8】横田村名主格の円蔵と申す者は、去る文政5年御仕法が始ました時分に、自分で心掛けて、新しく家の建築に取りかかって、竹・木・カヤ等まで調達して、木材の下拵えに取りかかったところ資金が不足したので、利息付きで金10両5ヶ年割賦で、御仕法金を借りたい旨を願い出ました。その時に金次郎から円蔵へ申しますに、「その方は、組頭の役を勤め、御知行所の村々の小前(本百姓ではあるが特別の権利・家格をもたないもの)が今日をしのぎかねるなかに、自分から心掛けて準備したのは感心ではあるが、現在の時節に新規に家を建築しては御仕法にも障害をきたし、はなはだもって心得違いであるということを詳しく道理を説いて聞かせ、おいおい取り集めました竹・木・カヤまでもそのまま置いておくか、または難渋しているの者へ送ってやってもよく、さらにその方が新らしく家の建築に取りかかるには、米・麦を始め味噌・醤油等まで、建築の外に工事中物入りも有るから、建築資金を借りても返済しなければならないであろう。そうであれば家の建築したいと思うときは、その方から金10両5ヶ年割賦で利息を添えて、御陣屋仕法金へきっと納めなければならない。家財産もそれなりに持っているのであるから、建築しなければなお返済しても差支えないだとうから、念を入れて十分に考えてみるよう」申しました。円蔵も大変篤実である者であるので、難有(ありがたし)と答えて、承諾いたしまして、その意思にまかせ貸りない拝借金10両、5ヶ年割賦で、元利を御陣屋の仕法金へ加えおく方法を実行し、おいおい納めました。また御陣屋でも仕法金に入れて、利息を倍にして計ってやりました。円蔵は、その後になってなお十分に考えたところ、身に沁みて難有(ありがたし)と深く思いあたったためか、それから自分の屋敷の竹藪をかり払って、金5両で売って、その代金も御陣屋の仕法金の内へ加えてくださいと申し出て、納めました。年限が立って、元利を払って利倍に積み立ててやったところ、其の後円蔵の家内一同が流行病にかかって難渋した時に、その預金の内から下しおかれたいと願い出たので、入用だけ遣わし、残金は積金を計いました。この円蔵の2男で四郎太という者は、きわめて誠実な者であることから別家に取り立ててやり、御百姓一軒を相続する方法や、天道に叶う生き方を諭したところ、承諾いたしましたので、天保元年に新規に家を一軒建築して、この四郎太へ遣わしました。円蔵は屋敷は年来だいぶ立って、潰れ家同様の姿で、大雪や大風雨の時には家にいることもできかねるほどとなったことから、今年の春まではそのまま住居しておりましたが、御仕法によって特別に精を出して働いてきた者であることから、今年の春なって、円蔵の居宅を金次郎から新規に建築して遣わしました。外見も普通と違って特別念入りにこしらえて遣わし、桁行10間・梁間4間半、家も頑丈にこしらえて遣わし、円蔵の居宅くらい手堅く建築した家は、近在には無いほどであいた。家の建築だけでも金百両余もかかり、造作や仕上げまでよほど資金がかかったものと思われます。さらに金次郎が申しますに、最初御仕法が身に入った者は、現在に至りますといずれも幸せになりました。また御仕法が身に入らず妨害をなした者どもは、自然と現在になると潰れていきました。これは因果の道理というものでしょうかということでした。【8】横田村名主格圓蔵と申者、去ル文政五年御仕法相始り候折柄、自分ニて心掛、新規建家作掛り、竹木山萱等ニ至ル迄相調、木寄下拵ニ取掛り候所、少々金子不足仕候ニ付、利付金拾両五ヶ年割済ニて、御趣法金拝借仕度旨願出候由。其砌金次郎より右圓蔵え申聞候は、其方儀、組頭役をも相勤居、御知行所村々小前之内ニて今日を凌兼候中ニ、自分として心掛ヶ候は奇特ニは候得共、此節家作新規建致候ては御趣法ニも障、甚以心得違之趣、混理解申聞、追々取集候竹木山萱迄も其儘差置候共、又は難渋之者え差遣候ても宜敷、且其方家作普請ニ取掛候ニは、米麦を始味噌醤油等ニ至迄、家作之外ニ普請中物入も可有之。右之金子拝借仕候ても上納可仕候。左候ハゝ家作普請致候と相心得、其方より金拾両五ヶ年割済を以利足差添、御陣屋趣段金之内え急度相納置可申候。家株も相応ニ所持致居候事ニ付、普請不致候得は尚又上納之道差支無之筈に付、篤と勘弁致し見候様申渡候所、同人義も至て篤実之者故、難有と申答、致承伏、任其意不貸拝借金拾両、五ヶ年割済之通、元利御陣屋趣段金之内え差加へ置候手続ニ相成、追々相納候ニ付、又御陣屋ニても趣法金ニ差入、利倍ニ取計遣し、其後ニ至り尚勘考候之所、身ニ染難有存込候故哉、夫より自分屋敷竹薮伐払、金五両ニ売渡、右代金を以御陣屋趣法金之内え加置度旨申出、相納置、年限立、払候ても利倍ニ積立遣候所、其後同人家内一同流行病相煩雑渋之折柄、右預金之内下ヶ金相願候ニ付、入用丈ヶ差遣、残金之分積金取計置候。然ル所右圓蔵二男四郎太と申者、至極実体ニ付別家に取立、御百姓壱軒相続可致方、叶天道ニ可申旨申聞候所、致承伏、去寅年新規建家作壱軒普請致し、右四郎太え差遣候。然る所、圓蔵義は屋敷年来相立、潰家同様之姿ニて、大雪或ハ大風雨之節ハ在宿も出来兼候程之由、当春迄其儘ニ住居仕、御趣法ニ付ては格別ニ骨折候者ニ御座候。依之当春ニ至り同人居宅、金次郎より新規建家作拵差遣候ニ付ては、外並々と違別て念入拵差遣、桁行拾間梁間四間半、家作大丈夫ニ拵差遣、同人居宅位手堅普請、近在ニは無之趣。家立計も金百両余も相掛り、造作仕上ヶ迄ニは余程之入用相掛り可申と奉存候。且金次郎申聞候は、最初御趣法身ニ入候者は、当時ニ至り何れも仕合宜敷、又御趣法身ニ入不申妨をなし候者共は、自然と当時ニ至り及潰ニ候。因果之道理ニても可有御座哉。
2026.05.11
23鈴木藤三郎は安政3年、西暦1859年に生れました。今から150年余り前になります。太陽暦でいうと11月17日に森町で生れました。藤三郎の父は、太田文四郎、通称平助といい、母はちえといいます。藤三郎は幼名を「才助」といい、太田家の二男二女の末子として生まれました。父平助の家業は古着商でした。当時の森町は秋葉街道筋の火伏せの神さま、秋葉権現へ向かう宿場町として、また古着商の町として栄えていました。1859年、藤三郎が5歳の3月に同じ森町中町の鈴木伊三郎の養子として貰われた。養母はやすといいます。養家は菓子商でした。 藤三郎は勉強好きで、成績もよく、寺小屋のお師匠様からもかわいがられました。しかしその頃は「百姓や商人には学問は必要ない」という通念があり、藤三郎も12歳で寺小屋からおろされて1867年13歳の初春から家業の菓子製造を手伝わされました。「朝早くから飴を煮たり餡を練ったりして、出来ればそれをかついで秋葉山のほうまで山坂48瀬を越えて売りに行くのが日課であった。なんでもやりかけたら自分で得心するまでは、いちずにそれを究めなければ承知しない。そして、どんなことでも在来のやり方を踏襲するのではなく、そこに新しい方法を工夫するというのが、生涯を通じての父の性格の大きな特長であった。それであるから菓子製造でも行商でも、やりかけた以上はきっと熱心に色々工夫してやったに違いない。行商先でも見慣れぬ菓子を見かけると、すぐ手にとって割ってその製法を調べた。『どうも才さ(藤三郎の幼名才助からこう呼ばれていました)が来ると、店の菓子を割られるので困る』とよくいわれたという話が残っている。そのくらい、少年時代から研究心は強かった。負け嫌いの父は、もとの寺子屋仲間などから自分が貧乏人の子であると馬鹿にされるのがヒドく嫌いだった。ハンテンもも引きで菓子箱かついで行商に行く姿を、友だちに見られるのをイヤがるようになった。それで、朝は星があるうちに出かけ、夕方は月が出てから帰ってくるのが常になった。養父母は、少年の父が商売に身を入れるのを喜んだ。しかし、時々明るくなるまで寝すぎることがあると、その日はなんといっても一日行商に出なかった。そうした日には養父母たちは、ふだんあんなに稼ぎ手の父の気まぐれを、不思議がったものであった。」と子息の鈴木五郎氏が書いた「黎明日本の一開拓者」にあります。 藤三郎の実父の太田文四郎が亡くなった後、家を継いだ長男がなくなるという不幸が続いた。そのときに、菩提寺の和尚さんが心配して実家にやってきて、生母にこういったというエピソードが残されています。「ご主人に引続いてご長男がなくなって、家を継ぐ者がなくなって、さぞ心細いことでしょう。私が口を聞いて、次男の才助を実家に戻すようとり計らいましょうか」すると生母のちえは和尚さんにこう言ったそうです。「なんということをおっしゃるのか。女が迷いごとでそんなことを言ったら、たしなめるのがお坊さんの仕事ではありませんか」坊さんも「あなたの言うとおりだ」と引き下がったそうです。生母は藤三郎を呼んで、事の次第を話して、養母に親孝行を尽すように涙ながらに訓戒したといいます。藤三郎は生母に生涯養母を実の母として親孝行を尽くすことを誓う。その後、実家は姉の亭主が継いだのだが、養母もまたそういうこともあってか、藤三郎を実の子以上に大切にしてくれる。 森町の観音様がございますね。あれは現在「福寿観音」と言われていますが、当初は「延寿観音」と名付けられておりました。願主は養母のやすです。 昨年6月10日、日本中が「なでしこジャパン」女子サッカーがアメリカに勝ってワールドカップで世界一になって沸き立っていた日、Sさん、Kさん、Mさん、mさんと一緒に福寿観音に参り、藤三郎のお墓と、福川泉吾のお墓をお参りしました。ちょうど高校を見おろす位置にあります。福川泉吾様ご夫妻のお墓にお参りしてお寺の本堂に帰る途中、2つの石碑を発見しました。一つには「延寿観音」と大書されていました。もう一つには「福寿海無量の功徳有難や母の為とて建てし御仏」と刻まれておりました。「黎明日本の一開拓者」には、森町に建てたのは実母ちえの7回忌追福のためであった」とありますが、延寿観音、養母やすが長生きしますようにという願いもあったのではないかと思います。つまり藤三郎は2人の母のためにあの観音様を建立したのではないか。報徳とは親孝行そのものです。二宮尊徳先生は晩年になっても話が両親に及ぶと涙を流されて両親の恩が無量であることを語られたといいます。また、尊徳先生は「家々で子孫が繁盛しているのは、みんなが親を尊んでいることで、それがまた天道への追善供養なのだ。この身は天から先祖に分身して、また先祖から代々父母に分身して、父母から我へと分身した。それゆえ、天理にかなうことをしさえすれば、直ちに孝行なのだ。」とも言われています。親孝行とはたんに両親に対してだけでなく両親の両親と先祖をさかのぼり、天地に至ります。天地の無量の恩徳に感謝し、その恩徳を社会に報いる実践をする、これが報徳にほかなりません。
2026.05.11
「永平家訓抄話」澤木興道 4-20 こんな「癡人、喚んで本來人と作す」のが多いのである。そこで「人人具足個個円成」というて、「釈迦何人ぞ、われ何人ぞ」と、乞食の子が殿様の声色だけまねするようなことが、いくらでもあるわけである。「途中顛倒して更に流布せば」この「更に」というのが着眼点である。一切衆生は人に物をやったら、やっとと忘れられん。いいことをしたら、したと忘れられん。いいことをしたら、したと忘れられん。もろうてばかりおれば根性がひがむし、人間というものは始末におえんものである。悟れば悟ったと迷うし、修行すれば修行したと、戒法を保てば保ったと、それが門口に出張る。それはしようのないものである。そこで「途中顛倒して更に流布せば」これは百八十度回転しなければならない。 お釈迦さんは「有情非情同時成道、草木国土悉皆成仏」といわれた。阿弥陀如来の教えでは「聞語名号摂取不捨」とある。あるいは「若不生者不取正覚一切衆生を救い尽さずんば正覚を取らじ」と、これは浄土教の極意である。凡夫は堕ちるに違いないが、仏の御願成就の上は、不取正覚の願をどうするかと、そこへ顛倒するのである。「地獄は必定すみかぞかし」三悪道より行き場所のないわたしではございますが・・・・・・こういうて、不取正覚を信ずる。だから「念仏を申したら極楽へ行く」とは親鸞聖人もいっておられん。念仏申して極楽へ行くか行かれんかおれは知らん。「極楽行きにてもありなん。地獄にてもありなん、そうじてもて存知せざるなり」「師の坊の教え、釈迦牟尼世尊の教えのいつわりのない」以上は念仏申す、ただ申すところが値打ちである。 以上のような、とんでもない間違いがあるにもかかわらず、「途中顛倒して更に流布せば」これを仏の方から考えれば「嗚呼奇なるかな我と大地と、有情非情同時成道、草木国土悉皆成仏」それじゃから道元禅師は、二千有余年の昔に釈迦牟尼世尊より悟られ参らせたるわれである。だから「途中顛倒して更に流布せば」と仰せになるのである。 仏性が那辺か、地獄がどこか、これを顛倒すれば同じものを地獄と見、同じものを浄土と見、同じものを仏性と見るわけである。『涅槃経』の中には若樹若石の願があって、若しくは樹、若しくは石も説法しておるとある。『法華経』の中には若田若里、若しくは田、若しくは里もということは、尽十方世界、これ仏でないものは何もない、ということである。だから道元禅師は 峯の色谷のひびきはみなながらわが釈迦牟尼仏の声と姿と 一切のものは、みな仏でないものは何もない。「スリ」でもそうだし、帝銀事件の平沢みたいな人殺しするようなものでも、みな仏である。しかし、それも「途中顛倒して更に流布」しなければのことである。わたしは子供のときにおかしいなと思った。わたしは真宗の南無阿弥陀仏じゃったが、十くらいからこもっちゃくれて三銭で数珠を一つ買うて、南無阿弥陀仏というて歩いた。そうして説法を聞くと、長歳永劫その身そのまま助かる、ありがたいありがたいと。ところが「救い尽さずんば正覚を取らじ」というのに、わたしは疑いを起した。何だ、阿弥陀というやつは不取正覚と、うまい口でだましておいて、自分だけ仏になりやがって、おれはこの通り毎日ばくちの張り番をしたり、提灯の張替えをしたり、苦心艱難しておるのをほったらかしにしておいて、自分だけうまくやってやがる。こいつ、嘘かしらんと思った。それはこちらから眺めた凡夫根性、この眼鏡が悪い。ちょうどあの双眼鏡を一方から見るのと、逆にして見るのと違うようなものだ。『ガリバー旅行記』の序文にも書いてある。こう見れば大入道が出て来る。こう見れば小さな者が出て来る。凡夫から眺めたら仏様を見てもだめである。そうすると、苦とか楽とかいう相場が違う。ケタが違うのである。だから仏様を見ても、バラモン教徒は商売敵に見たろうが、仏様から見れば一切衆生悉有仏性である。そこで「途中顛倒して更に流布せば」仏の方から見たら迷いの衆生は一人もいない。凡夫の方から見たら、みな迷いである。そこに百尺竿頭一歩を進めて、双眼鏡をグルッとまわして見れば、「大地山河清浄身、谿声広長舌、山色豈清淨身」ならざらんやである。(「永平家訓抄話」p.322-324)
2026.05.11
187二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替えた。11 男沢(おざわ)家の翁の木像小田原の城北に当たって藪のあたりに一家屋がある。その表札を見ると男沢高柔とある。余(留岡)は先年、その家に行って二宮先生の木像を見たことがある。同家ではナカナカ珍重して容易に他人には見せないそうであるが、幸いに小田原の二見初右衛門氏の紹介によってその木像を見ることができたのである。それは二宮先生が左手に扇を持ち、右手に「大学」を捧げて熱心に誦読(しょうどく)しておられるところの像である。しかしその当時の言い伝えを聞くと二宮先生の持たれたのは扇ではなく小柄(こづか)である。何ゆえに二宮先生が小柄を持っておられたかというと、もし孔子が「大学」の中に間違ったことでも言っておったならば早速そのところを切り抜いてやろうというので、孔子の誤謬を発見せんために小柄を持って「大学」を読まれたということである。この高柔氏の父君に当たる方はかねて二宮先生に随身せられておったのでその時に渡邊久清という仏師屋を呼んで障子の隙間からその光景を木像に取らせたのであるが、仏師屋だけに小柄ではどうも殺気を帯びていかぬというて扇にかえたということである。それだから木像も仏様流に実際よりは耳が非常に大きくできておる。この木像は男沢家の第一の宝であって、先代からも火事のあった時は第一にこの木像を持ち出せといわれておるくらいで、金銭などでは人にこれを譲ることはできないというておる。それを見ても、いかに先代から現代の男沢氏までが二宮先生を崇信しておられたかがわかるのだる。ところで二宮先生は孔子の誤謬を発見されたかというと眼光紙背に徹するまで読んでも、一言半句も「大学」に間違ったことがないというので、ついに小柄をなげうって降参されたということである。二宮先生の降参されたのはこれが生涯にたった一度であったということである。二宮先生語録【214】「私は年少のときから四書を読み、これを儒者の行うところに照らし合わせてみて、はなはだその食い違いを疑問とした。そこでひそかに巻中どこかにきっと道にそむいた言葉があるに違いないと思い、もし仮に一字一句でも道にそむいた言葉があったならば、天下の書籍をあげて、その不純な箇所を削り、純粋な部分だけ残してやろうと考えた。(原文の読み下し文は「若シ夫レ一字一句道に乖(そむ)ク之語有ラバ則チ将(まさ)ニ天下ノ書籍ヲ挙ゲ以テ其ノ雑ヲ削リ其ノ粋ヲ存セント欲ス」)ところが終篇金科玉条であって、ついに1箇所も小刀を下すことができなかった。(略)」こうした紙背に徹する読み方は後年も同じであり、夜話には大学や中庸のここのところは違うと二宮先生が指摘する箇所がある。
2026.05.11
1深山木【7】この4月2日から野州の領地のうち、物井村の畑の土地改めを始めました。数年荒地が多く亡所同様になっておりました場所が開墾されておりましたことから、持主などは潰れて、あとかたもなく、シカと知ることができません。広狭などにかかわらず次第に開墾しており、およその見当はつきますが、ことごとく入れ乱れて、それぞれ困難であったという話を聞きました。このたびはどれほど骨が折れても是非とも調査したいという心持で、去年の秋以来引続き、村役人どもが特別に骨折って調査しましたけれども、仕法以前の村役人どもの不届きな行いで、土地台帳などにもいろいろ不正の改竄を働いていて、現在の村役人は誠意のある者たちですが、非常に困難であったということを聞いておりました。しかしながら、村の小作の者たちまで一同の気配がいたってよろしく、相互に畔を譲り合って論判するばかりでした。検地用の間竿などでも自身の方が損をするように持って、それぞれ私欲がましいことは少しも無く、ただただ永続の道を心懸けるようになっておりました。特に村役人とも一致一和して励んでおり、腹蔵なく相談し、誠実な取り計らいで、その人情には自然と一同感心したことでございました。全て金次郎が数年丹精したことが顕われて、小作の者たちに至るまで申し諭すことが行き届いていることと思われました。【7】当四月二日より野州御知行所之内、物井村畑方地改相始候所、数年荒地多く亡所同様ニ相成候場所発返し候事ニ付、持主等及潰式、跡方も無御座、聢と不相知、広狭等ニも不抱追々起返し、凡見当は附置候得共、悉く入居、銘々難渋致居候趣ニ相聞、此度は何程骨折候ても是非共見分相願候心得ニて、去秋以来引続、村役人共格別に骨折取調罷在候得共、御趣法以前村役人共不埒ニて、水帳等ニも種々旧弊相働置候事ニ付、当時村役人実体之者共に付、甚以難渋仕候旨申聞候。乍去、村方小前之者共迄一同気配至て宜敷、相互ニ畔を譲合候論判計仕候。間竿等ニて自身と持損し、銘々私欲ヶ間敷儀少々も無、只々永続之道心懸候場合ニ至り、別て村役人とも一致一和致シ相励、無腹蔵申談、実意之取計、其人情自然と一同感心仕候事ニ御座候。全金次郎義数年丹精相顕、小前小前ニ至迄申諭方行届候義と奉存候。☆「畦(あぜ)を譲る」抜粋(「尊徳の裾野」佐々井典比古著)「小田原の藩主大久保忠真は、和歌に優れ、京都所司代の時は、光格上皇の仙洞御所の築山において「にぎわえる都の民の夕けぶり 冬ものどかに霞立つ見ゆ」と詠んで「霞の侍従」ともてはたやされ、また、「見渡せば心にかかるくまもなし 月にまされる雪の曙」「見ぬ世までかわらじものと詠(なが)むれば 心も霞む春の曙」の2首で「曙の侍従」との異名をとった。 豊田正作の「報徳教林」に姫路藩家老と河合隼之助から、年寄の郡(こおり)与惣左衛門(そうざえもん)を介して、「国元に仁寿山学問所を開設するのでその教学の指標になる品」をと頼まれて、「国を祝う」という詞書とともに書いて渡した歌が 治まれる国のためしを何にみん 畔を譲れる道なかりせばである。これは文政4年(1821)の頃であったという。「畔を譲る」とは、「史記」の周本紀(ほんぎ)に出てくる。後に文王といわれた周の西伯は、ひそかに陰徳を積んで、諸侯にも人望があった。だから揉め事があると、みな文王のところに来て公平な裁決をしてもらっていた。山西省の虞(ぐ)の領主とゼイの領主も、境界争いがどうしても片づかないので、そろって周に出かけたが、国境を入ったとたん、耕す者がみな畔を譲り合い、若い者がみな年長の者に譲る、美しい民風を見た。彼らは大いに反省して、「これでは西伯に相談しても、恥をかくだけだ」と言い合い、そこから引き返して国へ帰ると、互いに境界を譲り合って別れた、というのである。 それから15年後、天保6年(1835)6月の鵜沢作右衛門の復命によれば、昔あれほどすさみきって、土地争いの激しかった村民が、今度の境界査定では、相互に畔を譲り合う論判ばかりで、私欲がましいことは少々もなく、自ら間竿(けんざお)を持ち抑えして測量を促進したという。あの金次郎が、わしの念願、聖王の治世をこの世に実現してくれたと、忠真は激賞した。」 これはむしろ、鵜沢作右衛門が大久保忠真の「畔を譲る」の歌を知って「相互ニ畔を譲合候論判計仕候」と報告したのかもしれないが、「間竿(けんざお)等にて自身と持損(もちへら)し、銘々私欲がましき儀少々も無く、ただただ永続の道心懸け候」という報告には深く満足したに違いないと思われる。
2026.05.10
1深山木【6】東沼村の長百姓の潰れ新右衛門・惣兵衛と申す者は、村で一、二を争うほどの旧家でございました。両家は昔は、屋敷内に門前百姓といって、家来同様の者たちは8,9軒ずつも住居いたしておりまして、田畑を耕作しておりました。世の中が次第に贅沢になっていくようになって、とにかく門前百姓といわれていることが残念に思われた頃合なのか、元禄9年の頃桜町で新規に一戸を建てて世話をするというので、門前の者でも望む者へは屋敷地並びに田畑ともに下されて、本百姓に取り立てて下さるということでした。行末のこと少しも分からないことながら、それぞれ引越ししましたところ、地面が悪い場所に引越して、自然と引越した者も困窮するようになり、また両家なども大家として暮していて、急に耕作などを自分で作るということができかね、自然と潰れてしまいましたとのことです。これによって惣兵衛の跡へは東沼村の名主弥兵衛と申す者の娘に聟を取って相続させました。新右衛門の跡へは長蔵と申す者を相続させました。両家共に新規に屋敷を作り、普通より念入りにこしらえてやり、昔持っていた土地も有りましたので、荒地を開墾し、家相応にしてつかわしてやり、相続させました。さてまた現在でも、名主役でも勤めるほどの家筋の者は、多くは困窮に及んでおります。前世の悪業が嵩んだせいかと、たびたび厳しく説諭した上で、米や金を遣わし、借財なども帳消しにしてやってもなかなか立直ることが難しく、既に今年の春までに横田村常右衛門と申すもの、名主役を勤めるほどでしたが、次第に困窮して行くようになり、やむなく退役を申し付けました。ついては、家財・屋敷・田畑までも差し出させ分散させるよう取り計うように聞きましたから、あまり手荒では無いかと尋ねましたところ、とても当人どもは、先祖からの因果でどれほど世話してやっても、借財が倍増することに成りますから、一たん家財・家屋敷までもそれぞれ借用の方へ引き取らせるよう申しつけ、その後ではありますが、その血筋あるいは息子や娘が有れば、親切に世話を致して、朝夕因果の道理などをたびたび申し聞かせ、いよいよ承伏致したのを見届けて、その家柄の程度に応じて家を新規にこしらえてやるのです。そのようにすれば不浄を清浄に取り替えるのと同じく、旧家の者どもを取り立てても永続するわけにはまいりませんとのこと。その実意の取り計らい方はなかなか一通りではないことでございます。 ☆この段は少し難しいところで、 報徳記でも、どれだけ世話してもかえって借財が増えるだけだ、更生の見込みがないと判断すれば退役させたり、あるいは進んでは援助等しないで、潰れてから子供や親戚の優秀な者を取り立てるとやり方を途中からとったため、藩からの出張役人にはいかにも露骨な切捨て政策とも見えて、「恐れながら・・・」と藩主へご注進がなされ、それが直接のきっかけで尊徳先生の成田山への断食祈誓へとつながって」いく。 この成田山の修業で 一円観 に達したともされ、その後桜町陣屋における報徳仕法は順調に推移するのであるが、 この成田山へのお籠りも 小田原藩に対するレジスタンス であって、それによって、桜町陣屋における施策のフリーハンドを得た政略的パフォーマンスに過ぎないといわゆる精神的深化に重きをおかない見方もあるのである。 最晩年の日光仕法の際には、こうしたやり方はみられないことを見ると、尊徳先生が生涯誰にも語られなかったという、成田山開眼のなんらかの悟りがあったと思いたい。 【6】東沼村長百姓潰新右衛門・惣兵衛と申候ては、一二を争ひ候程之旧家ニ御座候所、右両家は往古、屋敷内え門前百姓と申候て、家来同様之者共八九軒ツゝも住居致居、田畑作立候処、世の中次第ニ奢強く相成、兎角門前百姓といわれ候歟残心ニ存込候折柄、元禄九年之頃桜町新規建御世話有之、門前之者ニても望之者えは屋敷地并田畑ともに添被下、本百姓ニ御取立可被下旨。行末之義は少も不奉存、夫々引越候所、地面悪敷場所引越、自然と引越候者も及困窮ニ、又両家抔も大家ニて暮し居、急に耕作等自分として作り兼候哉、自然と及潰候由。依之右惣兵衛跡式えは東沼村名主弥兵衛と申者之娘ニ聟を取相続為致、新右衛門跡式えは長蔵と申者相続為致、両家共に新規建家作、並々より念入拵差遣、往古之持地も有之候ニ付、荒地起返し、家株相応ニ差遣、相続為致候。扨又当時ニても、名主役ニても相勤候家筋之者は、多分は及困窮、前世の悪業相嵩居哉、度々厳敷及理解、米金差遣、借財等も棄捐ニ申付ても何分難立直り、既ニ当春迄横田村常右衛門と申もの、名主役相勤居候得共、追々難渋相嵩、無余義退役申付候。右ニ付、家財・屋敷・田畑迄も差出分散ニ取計候様相聞、余り手強ニは無之哉と相尋候処、迚も当人共は右之因果ニて何程世話致遣候ても、倍増之借財と相成候事ニ付、一旦家財・家屋敷迄も夫々借用之方え為引取可申旨申渡、其後ニ候得共其血筋或は倅娘有之候得は、懇ニ世話致置、朝夕因果之道理等を度々申聞せ、弥承伏致候を見届、其家柄之分限ニ応し家作新規拵差遣候。然ル上は不浄と清浄と取替候趣、左候ハゝ旧家之者共取立候ても永続仕候義ニ御座候段、其実意之取計中々一通り之儀と奉存候。
2026.05.10
「殖民世界」1908年6月号p44-47有望なる醤油輸出事業 日本醤油醸造会社長 鈴木藤三郎 由来醤油は、日本特有のもので、支那の醤油や、西洋のソースなどは我が国の醤油に比すれば、実に劣等極まる。ソースは勿論の事、支那醤油ですら、寧ろ醤油に非ずというてもよい。であるから、日本の醤油はその品質に於ては、世界に競争者がないが、支那醤油も、ソースも、品質劣等というよりは一面からいうと性質の違ったものであるから、日本醤油を外国に売り出すとしても、外国人は直ちにこれを賞用するかどうかということは、『醤油輸出』について最初に起って来る問題である。 西洋人は醤油を用いるか聞くところによれば、『ソース』は元来『醤油』の意味で、その昔オランダ人が長崎で通商していた時代に、日本から醤油を持って帰ったのが初めてだそうだ。そしてソースという名は、醤油の発音が訛ったのだということ、現に西洋のソースの原料は、今日なお、支那劣等醤油を使っている。で、現に西洋人がソースを使っている以上、ソースが醤油と以上の如き関係を有している以上、醤油は彼らの一般食料となさしめるのは、蓋し余り困難なことではあるまい。勿論、彼らには彼らの嗜好があって、香などに少しは在来の醤油と変った注文があるとしても、そんな事はちょっと工夫すれば直ぐに出来る事である。ちょうど、ドイツのビールが、日本で製造され、日本の人の嗜好に適したものとなって、本来のドイツビールとは、少しく趣を異にしていると同じ事である。理論の上からもそうなくてはならぬことだが、更に実例として、少しづつは西洋にも日本醤油が行っているし、殊に注目すべき醤油製造会社すら起っているとの事である。 詳細の調査をしておかぬから、確然とした事は解らぬが、以前我が工科大学に、講師として来ていたドイツ人であるらしい。その人が、日本にいるうちには、度々野田や銚子に出張して、日本醤油の製造方法を研究していたが、任期が終って帰国してから、向うでだいぶ大規模の醤油製造会社を作って、盛んに醸造をやっているとの事である。まだその製品をも見ないから、よくは解らぬが、動物性のものをいくらか混じて、日本在来の醤油とは少しく毛色の変ったもののように聞えている。が要するに醤油は醤油なので、これらも西洋人が醤油を使用するという例証として充分な事であると思う。 東洋人の醤油歓迎 西洋人の方は如上述べたようであるが、東洋諸国人、即ち菜食人種間に於ける醤油の評判はどうであるかというと、これは支那なり、南洋なり、彼らの間に既に醤油があったので、品質優等な日本品が評判の悪いはずはない。サンフランシスコに於ける支那人や、南清あたりの支那人には、我が会社からもだいぶ送っているが、悉く好評を博している。 在来醤油の二大欠点由来日本醤油の優等である事は、優等である事は、近来漸く認められたのではなく、既に余程前から知られていたのではあるが、認められていながらなぜに外国に輸出しなかったかというと、これには二個の理由がある。第一には日本在来の醤油は、カビやすい。で外国に送るということになると、船に積んで熱帯地方を通らなければならぬ。よし熱帯地方を通らぬにしても、幾分気候の変化に逢うのはやむを得ない。かく気候の変化に逢えば、在来のものは直ぐにカビを生じてしまう。いや日本内地に於てすらも、醤油のカビはほとんど免れ得ないことになっていた。日本人はこれを余り気にもしないが、外国人は非常にいやがる。よしさまで害のない事は解っていてたにしても、カビのできた食物を食うということは、到底彼らのよくせぬところだ。第二には、従来日本の醤油産額が頗る少ない。まず二石も作れば大醸造家であった。で外国人が、折角販路を見付けるか作るかして、日本の醸造元に送品を申し込んでも、醸造元では品物がないから送る訳にはいかぬ、というぐあいでこれが発展を見るに至らなかったのである。現にニーロップ商会などは、余程前から日本醤油に目をつけて、見本を南洋に持って行ったこともあるそうだが。途中にカビを生じて困ったとの事、それになにぶんにも沢山の申込みに応じてくれるところがなかったために、有望な事業を、みすみす捨てて置いたので、今度我が会社の広告を見て支配人が来たのも、一つは醸造の工場設備を見て、多額の醸造が出来るかどうかを確かめに来たのであった。カビの事については、自分の発明は全くこの憂いをなくしてしまったので、これまで諸方に送った品物で、この点に故障のあったものは一つも無い。先年伊集院中将が米国から欧州の方に回って来られた時にも、軍艦に瓶詰めを5ダース送って、実験を乞うたことがあった。中将が帰朝せられてのお話しには従来軍艦に醤油を積んでいく事は、途中で腐敗してしまうところから、絶対に不可能であったが、この醤油は少しもその憂いがなく熱帯地方も通り越したので、船員が醤油を欲しがって仕方がない。折角実験に持ってきたものであるから、世界中を回らぬうちに無くしてしまっては何もならなぬと思って、自分の室にしまっておいたが、いずれの地に行っても、遂に腐敗の憂いを見なかったとの事で、非常に悦ばれて、そのビンを会社に記念として返して下された。こういうような次第だから、ニーロップ商会なども非常な意気込みで欧亜両大陸の一手販売を申し込んだくらいであった。が今本社の第一工場で醸造せられる石数は、僅かに6万数石限であるので尼ケ崎の第二工場が出来るまでは、オランダ領インドとオランダ本国だけにつづめた。一手販売にすらも応じられむ有様である。 腐敗を防げ、産額を多くせよ要するに外国行の醤油は、非常な有望なものである。それに日本の輸出としては、多くは未成品であるのに、完成品が外国に売り出されるということは、貿易品全体の上から見ても大いに注目すべきであろう。しかしこれも、日本の在来醤油では、前にのべた二個の欠点から、その発展の見込みがないのである。自分の発明は特許を受けてあるが、外に外国行の醤油を醸(つく)らんとするならば、腐敗を防ぐ事と醸造額を多くする事さえ出来れば、その発展は疑いない。(文責在〔殖民世界〕記者)
2026.05.10
「永平家訓抄話」澤木興道 4-19 その次の則はほとんど一緒であるが、頌だけが違う。これは『永平広録』では巻四になっている。「擧す、竺尚書、長沙に問ふ、蚯蚓、斬つて両段と為す、審(いぶか)し、佛性、阿那箇頭(あなことう)にか在る」沙曰く「莫妄想。書曰く、動くを奈爭(いかん)せん。沙曰く、只だ風火未散の為なり。乃至、癡人、喚んで本來人と作す」二空二無我が仏法の大意であるが、この二空二無我でない以上は、必ず無始劫来生死の本で、そこには何かカスが残っている。人我というのは、ここでいう識神のことである。われわれは日常、自分が考え、自分が意識していると、本気で思い込んでいる。この慮知念覚のことを識神というのである。また法我といっても、結局はこの慮知念覚が、無条件に、本当にあるものときめこんで問題にしているからのことである。 われわれは、生きている限りはこれをやっている。そこでこれを無始劫来生死の本といわれた。つまり一切衆生は無始無終に迷うているわけである。諸仏は無始無終に悟ることで、仏法というものは、無始無終の仕事である。 あるところで、儒教だけしか知らない人が、始めあり終りなしという偈をつくったのでわたしは「それはいかん、仏法にはそんな法はない。仏法では、これをいうなら始めなく終りなし、諸神もしかり、衆生もしかり、無始無終でなければならん」といったことがある。その無始無終の凡夫は、ただ迷いづめで、人我、法我と独断の生活に終始一貫して、その独断を、自分で勝手に決めているとも知らないで、もともとこの通りと思い込んでいる。これが高祖には気の毒でたまらなかったのであろう。そこでこれを「癡人、喚んで本來人と作す」とおっしゃったのでらおう。そこのところを誰やらが「急行列車のすれ違い」といっていた。たしかに極楽参りの御安心でも、急行列車のすれ違いで、ほんのちょっととしたところから、とんでもない安心のはきちがえがある。 この間つばめで旅行中にあったことじゃったが、あれは時とすると、西に行くのやら、東に行くのやらわからんことがある。一番隅におった人が買い物に降りたり便所に行ったりしているうちに、こっちの隅の人がおったのが向こうの隅へ行って「ここがわたしの場所です」といって、坐っている人に立ち退きさせようとして、もんちゃくをおこした。そして車掌さんにいいつけた。キップを見たところが、その箱に間違いはない。その箱には指定客ばかりだから、余分な者が入っておる気づかいはない。 ところが、反対側の隅に一つ空いておる。ここにおいでの人はどうしたんですか、と聞くと「いや、どこやら小便しに行ったまま、一時間ばかり帰って来ない」という。なあに箱の中で前後がわからなくなって、うろうろ席を探して大騒ぎをしていたのである。 汽車でさえそうじゃもの、われわれがどっちを向いて餓鬼道に行っておるのやら、畜生道に行っておるのやら、地獄と極楽と方角を間違えることのあるのも当り前である。実に考えてみるとおかしなことである。車掌さんはなれたもので、そういう馬鹿をたくさん見なれておるものとみえる。他人がてっきり席を奪ったようにきめこんで、一時間もうろうろして、とうとう車掌さんに訴えたのだが、自分の降りる場所、自分の方向、これにとんでもない間違いをしていただけだった。(「永平家訓抄話」p.320-322)
2026.05.10
187二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替えた。10 翁と芋コジ会芋コジ会というとなんだか変な名であるようだが、一名芋洗会というのである。芋洗会というのはどういうことをするのかというに、青年が互いに相集まって互いに錬磨しかつ懺悔しあうのである。つまり何もかも洗うという意味であろう。この会を監督する者は報徳者の世話人達であったが、思うに青年夜学会に道徳修養団を加えたような会であって、これは二宮翁の創設にかかるものだと今に言い伝えられている。「成田開眼につづくニ宮哲学の成立」加藤仁平より報徳における指導教化法ならびに学習法としての『芋こじ』についてーある人の質問に答えてー質問 芋こじの概念、どういうことか、説明ねがいます。答え芋こじというのは、第一は、桶の中に里芋と水とを入れて、長い板でこじる方法です。この時の芋は少量で桶も小さく、こじる人は地上に立っております。第二は、ニ本の棒を交叉させた形の芋こじ棒を用います。芋が少なく桶の小さい場合は、地上で、芋が多く、桶の大きい場合は、桶の植えに乗ってこじたものです。・・・芋こじ棒で具合よくこじると、芋と芋とぶつかって、どの芋も傷つかずに、きれいになります。もしとび出る芋があれば拾って入れてやります。これが集団的な懇談や討論による研さんの原理を示すものとして、今日でも報徳教育で重視されているわけです。質問出典について教えてください。答え1 今までのところ『ニ宮尊徳全集』巻の1~35巻をはじめ、先生自身の文章からは発見されていません。2 福住正兄の『ニ宮翁夜話』や斎藤高行の『ニ宮先生語録』にもなく、また豊田正作の『報徳教林』や川崎屋孫右衛門の『報徳見聞記』の先生の言葉にも見えません。3 高弟の著したものでは、福住の著書である『富国捷径』初編第三会議弁(明治6年刊)に次のように見えるのが、最初です。あるいはこれが唯一かもしれません。 社中折々集会して。身の修め方世間の附合。家業の得失。農業の仕方。商法の掛引。又心配筋の事。自分に決し難き事など。皆打明けて相談して。夫よりは此の方がよい。是よりはあの方が宜しい。又是より此の方が徳だ。夫より此の方が便利だと。相互に相談するのでござる。又教導職に説教を頼み。又学者に正講をも頼み。聴聞して益善心を。固くするが宜いでござる。此集会を為す事を。ニ宮先生は。芋こじと常に申されたでござる。是は集会に度々出るは。芋こぢをする様なもので相互にすれ合て。汚れが落て。清浄になると云。譬でござる。(全集36巻503~4頁、カタカタをひらがなで表記した。)ここに「此集会を為す事をニ宮先生は。芋こじと常に申されたでござる」とあるから、ニ宮先生の用語であったことは間違いありません。質問 誰がはじめたのですか。答え 日露戦争の頃から、報徳運動の先頭に立った内務省嘱託、留岡幸助氏の『ニ宮翁逸話』は明治41年8月発行されたものですが、そのなかに翁と芋『コジ』会芋コジ会というとなんだか変な名であるようだが、一名芋洗会というのである。芋洗会というのはどういうことをするのかというに、青年が互いに相集まって互いに錬磨しかつ懺悔しあうのである。つまり何もかも洗うという意味であろう。この会を監督する者は報徳者の世話人達であったが、思うに青年夜学会に道徳修養団を加えたような会であって、これは二宮翁の創設にかかるものだと今に言い伝えられている。福住の記録に比べると不徹底なものですが、留岡氏の講演や著書は、当時、相当の影響力がありましたからこの頃から「芋こじ」の名が広まっていったことが想像されます。留岡氏のことばの中に「二宮翁の創設にかかるものだと今に言い伝えられている」とありますが、ニ宮先生の創設といいうるか否かは、明確ではありませんん。というのは石門心学の仲間でも使っていたかと思われるからです。 先年、故石川謙博士と話し合った時、江戸時代の石門心学の本に、桶の上にのって、里芋をこじている絵が掲載されたのを見せてもらったことがあります。・・・心学連中が「芋こじの方法」を教化の上で考えていたことはわかります。二宮尊親談尊親先生は言われた。集会は「芋コジ」である。その意味は土のついた芋を洗うときに、桶に入れて掻き回せば、一個ずつ洗わなくても、みな清浄となるのと同じく、人も一人一人に教えなくても、寄り合って説話を聞き、また互いに談話を交換すれば、自然に智恵を進め、土のついた芋が清浄となるにひとしい。そうであれば集会は精神修養の一義として、まことに軽じてはいけないもである。 また言われた。土地の開墾よりも心田の開墾は急務であると。その方法はどのようによいか。容易にその道を得ない。まずもって移民については、平常に注意すると同時に、一面には何度も「芋こじ会」を開いて、修養に努めるようにはからった。 しかし目前に横わる土地の開墾を置いて、ひんぱんに集会を催すことは、いきおい行われがたいので、月一回にとどめて、晴雨にかかわらず、農繁を問わず、持続して来た。 会合する場合は、出席者の配列は、農業に精出し行の篤い者を上席とし、以下組ごとに席を設けて、規律正しく着席し、社長始め事務員が出席して、もっぱら報徳教育、農業談話または一般の道徳・経済・日常の心得等について、その場合に適した事項について講演し、終って協議にあたるを常とした。 このような趣旨でこの集会は開かれつつあるが、心田開墾は一つの成化事業であって、土地の開墾よりも至難であるはもちろん、わずか月一回の集会にすぎないので、よく事理を解する者が見るに、ただ義務に出席するものが多いというのはまたあやしむに足らない。 しかし毎月怠らずよく出席するものは、その志を賞するに足るので、去る明治38年から毎月無欠席の者にはその精勤を賞して鎌二枚を与えることとし、合せて他の奨励とした。
2026.05.10

カーグ島沖で石油流出拡大 回収困難、環境破壊に懸念5/9(土) 米メディアは8日、衛星画像に基づく分析で、ペルシャ湾内にあるイランの主要石油積み出し拠点カーグ島沖で石油流出が拡大していると報じた。専門家は流出量が約8万バレルに及び、今後2週間で対岸のアラブ諸国に到達する可能性があると分析。軍事的緊張が続く中、回収は困難とみられ海洋生態系の破壊や漁業への悪影響が懸念される。 原因は明らかになっていない。米紙ニューヨーク・タイムズは、専門家らの分析として(1)損壊したイランの石油貯蔵施設からの漏えい(2)イラン本土の油田とカーグ島をつなぐ海中パイプラインの破損(3)貯蔵施設が満杯になりつつあるイランが意図的に放出―といった可能性が考えられると報じた。 AP通信などによると、今月5日に衛星画像でカーグ島西岸の沖合で油膜が海面に広がっているのが確認された。ペルシャ湾の対岸に位置するサウジアラビア領海に向かって南方向に流れている。マングローブや野鳥といった生態系のほか、住民生活を支える海水淡水化施設や漁業などにも被害が及ぶ可能性がある。
2026.05.09
1【5】川副勝三郎様の領地は常州(茨城県)真壁郡青木村、高850石でございます。以前は元禄から宝永の中頃まで、幕府の代官、中川吉右衛門様が治めていました時代までは、年々桜川の用水工事用の金をたくさんくだしおかれました。右桜川用水場は、高さ1丈2,3尺余りもしめきって、工事人足ならびに竹木や土俵そのほかいろいろ必要なものは、近郷の村々へ仰せ付けられ、用水工事ができまして、百姓も相続することができたということです。その後、川副勝三郎様の領地になりまして、堰は難しい場所にあり、工事ができず、次第に用水が田の方へ引き渡すことができなくなり、荒地は増えていきました。やむを得ず近くの村へ奉公に出て、多くの者が離散して、貧乏な者たちは、小児を養育することができなくなり、間引きと唱えて、産所で出生した小児を夭殺し、人が少くなり困窮するようになり、ついには一村が亡所同様になって、多年困窮いたしておりました。去る文政十一年、同州同郡の隣村の地続きの高森村において、荒地がたくさん出来て、人が少なくなり困窮しておりました。代官田口五郎左衛門様の治める所になり、村を取直し、取り立てようという方針によって、新入百姓どもを入植させ相続させるため、先年越後国から新百姓に取り立てられました西沼村の丈八と原村新田の勘兵衛と申す両人へ、右の領地の村々の地味と土地柄を下見するように仰せ付けられ、廻村の際に、高森村と青木村と地続きで荒地が一円になって、カヤが生い茂り、田畑はもちろん村境もはっきりと分かりかねる次第で、冬枯れになると野火がついて、防ぐことができず、たびたび家が焼失いたしているような極難の村でございました。高森村のところは畑が多く、百姓を入植させても、しばしば相続もできなくなり、右両人並びに高森村名主の伊七郎と申す者が連れ立って、青木村へ来て申しますには、荒田となっているところを新百姓たちへ、持たせられれば永続もできましょうと、代官田口五郎左衛門様まで内々申し上げ、相談をいたしました。村役人たちは申すに及ばず、貧乏な者ども一同が喜び、すぐにそのことを川副様へ願い出る旨を申して、それから右の次第を申し出ました。もとより大破亡所同様の難村で、従来から取り立てたいという志願がありましたので、すぐに依頼したいとのことでした。その時、収納米が10か年平均で850石余りの村で、米80俵・畑が永35貫文に当り、右の収納だけで荒地を開発し、堰の修築いたし、用水を引き渡し、村が立ち直るまで依頼したいということを、お聞き入れくださいましたが、大きく破損した堰を修築し、そのほか開発料もたくさんかかることについては、川副様からも出資するよう相談していましたが、収納米も数年非常に減じていて、意のままにならないため当惑されて、どうにかして村で借用するよう申し付けられました。ほかに方法もなく、やむをえず桜町陣屋へ参って、ご仕法金を借用したい旨を、西沼村の丈八をもって願い出ましたが、断わられたとのことです。そうしているうちにその後、代官の田口五郎左衛門様が転勤になり、役所の元じめの内田金兵衛殿が死去され、そのままこの話は流れておりました。天保4年から西沼村の丈八を以て(正しくは天保2年11月末青木村名主勘右衛門以下37名の連名で嘆願した)嘆願いたしました。是非とも荒地を開発いたしたい旨、小作などの農民までこぞって願い出ました。再び対応した金次郎も断わったのですが、何分にも押して願い出たので、やむを得ず承知して、ともかくも荒地を調査しようと彼の地へおもむいたところ、家屋の敷ぎわからカヤなどが生い茂り、亡所同様に成っていることに相違なく、これによって青木村の役人ども並びに小作など百姓の者ども一同が申し出るには、用水の堰のこと並びに荒地開発いたしたい旨を、こもごも嘆願いたしました。そうした所、金次郎から申し聞かせましたことは、荒地開発はにわかにはできない。金を借用して当座を凌ぐ手段とするつもりではないのか。何ともはっきりしないからと再び断りました。ぜひとも荒地を開発したいという願いは、一同が嘆願したところに相違はありませんと、繰り返し押しかけて嘆願いたしたところ、そうであればまず揚水用の堰や川の工事を行うより、それぞれの家屋敷前に有るカヤを刈り取るべきだ。その働き次第によって考えもしようということを申し聞かせたところ、5,6日の内にカヤ1,778駄刈り取りましたと申出ました。そうであればカヤは、1両で120駄ということで残らず買い取ろうと申して、金16両3歩2朱を渡しましたとのことです(正しくは14両3分1朱、銭26文が天保2年12月16日支払いされている)。このカヤは、すぐに村の者一同へ遣わされて、それぞれの住宅に必要なだけ引き取ってよいと申し渡したとのことです。その上は寺や神社を始めそれぞれ屋根の修理をともども行う必要があろう。しかしながら縄もたくさん必要になるので、すぐに縄をなうよう申し渡したところ、青木村家数36軒(天保2年の「家株人別取調帳」では39軒・185人)で男女に限らず昼夜励んだところ、4,5日の間ですぐにできたとのことで、ぜひとも調査していただきたいと申し出ましたが、参るにも及ばないでいたところ、寺や神社並びにそれぞれの家のあら絵図を引いて、持参いたすよう。そうすれば屋根を葺きかえる費用について考えてやろうと申したところ、絵図面を持参いたしました。これによって金15両3分2朱・扶持米15俵を遣わして、早々に屋根の工事に取り掛るよう申し渡しましたが、余りに年の暮れでしたので、正月が開けてから早々に工事に取りかかり、残らず出来ましたと申し出ました。ついては荒地を開発いたしたいので、厚くご考慮いただきたいと申し出ました。すると金次郎が申しますには、「屋根の修理はそれぞれの努力によってすぐにできても、荒地を開発するのは容易ではなく、なかなか一同の努力が薄くてはできるかどうか覚束ないから、先に見合わせておいたほうがよかろう」ということを申し聞かせました。すると、毎日のように催促に及び、「そうであればまず揚水用の堰の工事を実施してもよいが、荒地もたくさんあるので開墾してみるがよい。」いよいよ一同、力を尽して働きますので、開発に必要な食糧をお貸しくだされば、荒地の開墾を始めたいと申しましたので、食糧の米を貸し渡されたそうです。次第に畑の分も開墾が進んでいると聞こえてきましたので、そうであれば揚水用の堰を視察してみようと申して、その揚水堰を調査しました。堰はいたって難しい場所にあり、出水のたびに揚水堰が切り流され、困っているとのことでした。金次郎もとくと工夫いたしましたが、昔は工事に必要な金160両余りもかかったとのこと、大変と思われるけれども、ともかくも工事にとりかかろうと、木を寄せ、大きな石など取り寄せました。揚水堰の工事の工夫は、木の枠を入れ置いて、土台から大丈夫にこしらえ、途中まで手堅く築き立て石を詰めてこしらえ、中程から出水の時には取りはずして残らず、上の方は水を切流す仕組みで大変便利にできておりました。村の者一同が心を合わせ、工事に必要な開発金400両ほどを遣わして、去る巳年から荒地開発に取りかかって、昨年春までにたくさん開発ができ、去年の秋は米2,000俵余りも村で作り出したということです。そのうち川副勝三郎様へは、10年の間、米80俵・永35貫文の年貢上納の契約を締結して、残りの米は村の仕法米と致したとのことです。村に貸し付けた米は、残らず払い、村の借金もそれぞれ返納されたとのことです。残金で今年の春になって新規に家を建てたもの3軒、並びに村の高台へ貯水池を2か所、25間四方くらいの貯水池ができ、そのために畑も田に直したとのことです。いずれも収穫米の余徳でできたことについて、皆々感心して、近在近郷にも響いているように聞いております。【5】川副勝三郎様御知行所、常州真壁郡青木村、高八百五拾石御座候所、以前元禄より宝永年中中頃、御代官中川吉右衛門様御支配所之時分迄ハ、年々桜川用水普請金多分被下置、右桜川用水場、高サ壱丈弐三尺余も〆切、普請人足并竹木・土俵其外諸色入用之義は、近郷村々え被仰付、用水普請出来仕、百姓相続罷在候由。其後 川副勝三郎様御知行所ニ相成、右難場にて堰普請難出来、追々用水田方へ引渡り兼、荒地増長仕、無余義近村え奉公ニ出、多分離散いたし、小前之者共小児養育致し兼、間引候と唱へ、於産所出生之小児を致夭殺、人少困窮仕、終ニ一村亡所同様ニ相成、年来難渋罷在候処、去ル文政十一子年、同州同郡隣村地続高森村之義、荒地多分ニ致出来、人少困窮仕、御代官田口五郎左衛門様御支配所ニ相成、村柄取直し御取立之御趣法ニ付、新入百姓共取付相続方之為、先年越後国より新百姓ニ御取立有之候西沼村丈八・原村新田勘兵衛と申者両人え、右御支配所村々地味・土地柄下見被仰付、廻村之砌、高森村と青木村と地続ニて荒地一円ニ罷成、山萱生茂り、田畑ハ勿論村境も聢と相分兼、冬枯ニ至り候得は野火付、防兼、度々家居消失仕、極難之村方ニ有之候。高森村之義は畑勝ニて、入百姓被仰付候ても、往々相続も相成間敷、右両人并高森村名主伊七郎と申者同道ニて、青木村え罷越申談候は、田荒之内新百姓共へ、持添為致候得は、永続も可仕段、御代官田口五郎左衛門様迄御内意申達候趣、掛合有之候所、村役人共は不及申、小前一同相歓、直ニ右之段川副様え相願可申旨申答、夫より右之次第申出候所、素より大破亡所同様の難村、兼々御取立被成度よし御志願ニ付、直ニ御頼被成度旨。其節御収納米永拾ヶ年平均〆高八百五拾石余之村方ニて、米八拾俵・畑方永参拾五貫文ニ相当り、右之御収納辻を以荒地発返し、堰普請致出来、用水引渡り、村柄立直り候迄御頼ニ相成候所、御聞済有之候得共、大破之堰普請其外開発料も多分相掛候ニ付ては、川副様よりも御出金有之候様御掛合ニ相成候処、御収納も数年夥敷減居、御不如意中御当惑被致、如何様ニも村方ニて借用致呉候様被申付候得共、致方無之、無余義桜町御陣屋え罷越、御趣法金拝借仕度旨、西沼村丈八を以願出候得共、及断置候よし。然ル処其後御代官田口五郎左衛門様御場所替ニ相成、御役所元〆内田金兵衛殿被致死去、其の儘相流居候所、天保四巳年より右西沼村丈八を以て又候頼入有之、是非とも荒地開発仕度旨、小前之者共挙て相願候由、再応金次郎義も及断候得共、何分ニも押て相願候義に付、無余義致承知、兎も角も荒地見分可致旨彼地え罷越候所、家屋敷際より山萱等生茂り、亡所同様ニ相成居候ニ相違無之、依之青木村役人とも并小前之者共一同申出候は、右用水堰場ヶ前并荒地開発仕度段、混相歎申出候。然ル所金次郎より申聞候は、荒地開発は偽ニ可有之、金子借用致当座を相凌候手段ニは有之間敷哉。何とも無覚束ニ付再応及断候所、是非とも荒地開発相願候趣、一同申談候ニ相違無之候間、呉々も押て相願申出候ニ付、左候ハゝ先揚ヶ前堰川普請致候より、銘々家屋敷前に有之候山萱苅取可申候。其働之次第ニ寄、勘弁も可致旨申聞候処、五六日之内ニ山萱千七百七拾八駄苅取候段申出、左候ハゝ右之山萱、両ニ百弐拾駄替ニて不残買取可申趣申渡、金拾六両三歩二朱差遣候由。右之山萱、直ニ村方一同え差遣候て、夫々居宅入用丈ケ引取可申旨申渡候由。然上は堂社を始銘々屋根普請共々可致候。乍併縄も多分之入用ニ付、早々縄ひ可申趣申渡候所、青木村家数三拾六軒ニて男女ニ不限昼夜相励候に付、四五日之間直に出来致候趣、是非共見分仕呉候様申出候ニ付、罷越候ニも不及候間、堂社并銘々居宅之麁絵図引、持参可致候。左候ハゝ葺手間積立可申旨申遣、絵図面持参致候。依之金拾五両三分弐朱・扶持米拾五俵差遣、早々家根普請に取掛り候様申渡候所、余り押詰に付来正月早々普請ニ取懸り、不残出来致候由申出候。依ては荒地開発致度旨、厚勘弁致呉候様申出候。然ル所金次郎申候は、屋根普請は銘々丹精ニて早速出来候ても、不容易荒地ニて、中々一同之勢力薄く候ては出来道無覚束ニ付、先々見合候方可然之旨申聞置候所、日々之様及催促、左候ハゝ先つ揚ヶ前普請も宜敷候得共、荒地も多分付発返し見可申。弥一同勢力を尽し働相見へ候ハゝ扶持米御貸被下候ハゝ、荒地発返し相始申度旨申参候付、扶持米貸渡申候由。追々畑之分も起返し候様相聞候ニ付、左候ハゝ揚ヶ前見分致可申と申遣、右揚ヶ前見分致遣候所、至て六ヶ敷場所ニて、出水之度ニ揚ヶ前切り流し難渋致候趣ニ付、金次郎義も篤と工風致見候得共、往古ハ右入用金百六拾両余も相掛り候由ニ付、手重ニハ存込候得共、兎も角も拵懸り可申と、木寄并大石等取寄、右揚ヶ前普請之工風は、枠を入置、土台より大丈夫ニ拵、途中迄手堅築立石詰ニ拵、中程よりは出水之節ハ取迦し不残、上ハ水切流し候仕懸ニて、至て便利宜敷出来、村方一同打はまり、右二付開発金400両程追々差遣候所、去ル巳年より荒地開発ニ取掛り、昨年春迄ニ多分開発出来、去秋は米弐千俵余も村方ニて作り出し候由。右之内川副勝三郎様えは、拾ヶ年之間、米八拾俵・永三拾五貫文之年貢上納御分定相立、残米ハ村方趣法米ニ致候趣。村方扶持米差遣、残米之分は不残相払、村借用も夫々及返弁候由。残金を以当春ニ至り新規建屋作三軒、并村方高台え水溜弐ヶ所、弐拾五間四方位之水溜出来、追て畑方之分田方ニ捲直し候由。右何れも作徳ニて出来致候段、皆々感心致し、近在近郷も相響候段、相聞候。
2026.05.09
佐々井信太郎略伝「会津の報徳運動と佐々井信太郎先生」262頁~概略 福島 斎藤 輝雄会津の報徳運動の歴史は、明治の初めに大沼郡西川村大登の渡部禎三氏が衰微甚だしい地域の開発をいかにしようかと心を痛め、その具体的方法を模索していた。明治10年代に岡田良一郎氏が、農商会報に報徳の方法をもって、時世を救済し、人民の生活を安定する方法を発表された。これを読んで渡部禎三氏は初めて報徳の一端を知った。そして衰貧救済の方法はこれ以外にないと決心し、先進地の視察と先師の指導を受けるべく、まず相馬中村に二宮尊親氏を訪ね、数日滞在してその教えを受けた。更に箱根湯本に福住正兄氏を訪ね、報徳結社による一村の更生方法を学び、更に遠州掛川に岡田良一郎氏を訪ねて、新時代に即応すべき報徳による村づくりと、郷土更生の方策を学んで、感激と確信を得て帰村した。これにより馬場庄平氏、渡部良碵氏、馬場幸十氏、馬場順蔵氏等同志に語らい、近隣・近郷の村人たちに道を説きまわって、ついに同志30数名をもって、明治13年8月に大登報徳社を結成した。これが会津の報徳運動の初まりである。報徳主義思想は全会津に及び、明治27年8月に会津報徳社連合会を結成した。会津報徳社創立者で初代社長は矢部善兵衛氏は、まだ東京一橋大学在学中、思想的煩悶に陥り、これを解決する手段方法を報徳に求めて、昭和4年、佐々井信太郎氏の「二宮尊徳研究」を見つけた。この時の喜びを「砂漠でオアシスを見つけた感があった。しかも社会問題研究叢書第4編とあり、社会問題で悩んでいた自分にとって嬉しくてたまらなかった」と日記に書いている。矢部は掛川の先生宛に手紙を出したところ、佐々井先生から用紙10枚くらいの懇切な返書をいただいた。昭和5年矢部は大学を卒業し、掛川に佐々井先生を訪ねた。先生は図書館にこもって「二宮尊徳全集」の編纂に全力を傾注しておられている時である。矢部は先生にあって「明鏡止水というか、私のあらゆる質問に対し、私のあらゆる内容が先生の胸中の明鏡に映じ、反射的に報徳の指導精神よりする根本的な指導が行われた。夜話や報徳記において二宮先生が教化された様が、今眼前に展開してくる感があった。私はスッカリ感に打たれ、報徳によってこそ日本は救い得る。皇国精神の権限は即ち報徳生活である。更に来るべき世界文化は報徳文化であるとの確信を得ることができた」と日記に書きとめた。矢部氏は、自家の商店経営を報徳様式に改革することから始めた。この改革にあたって、掛川へ何十回も往復して、家計内容、経営全般について報告し指導を受けた。昭和8年2月には、掛川本社の長期講習を受講し、矢部氏は佐々井先生の指導のもと、国民生活更生運動、経済更生運動へと発展させていった。それは上高額報徳社の結社、会津報徳振興会の創設へと展開された。昭和10年10月13日には会津報徳振興会が創設されたが、昭和12年の北支事変、太平洋戦争へと拡大し、自然と報徳も停滞した。終戦後、矢部善兵衛氏を中心に会津報徳振興会の同志が、ただちに佐々井先生の指導を受け、国民生活更生と食糧対策に東奔西走した。昭和22年3月13日から3月22日まで報徳指導者講習会を開催し、会津報徳振興会を改組し、会津報徳社が誕生した。ところが矢部社長が公職追放となり、後任者渡部英一氏もやがて思想的煩悶に陥り、会津報徳社の活動は昭和35年以降一時停滞する。昭和41年「会津村造り再検討幹部研修会」を昭和41年1月31日~2月4日の5日間、大倉精神文化研究所で開催した。同年2月15日には、会津報徳社の再建総会が各方部代表39名参加し、会津坂下町役場大会議室で挙行された。更に同年8月27日28日佐々井先生を招き、「会津町造り報徳講習会」を会津柳津町公民館で開催した。佐々井先生93歳であった。
2026.05.09
1「深山木」【4】金次郎は、ご領地の村々の永続のため、槻(つき:ケヤキ)の木の実などを拾い集めて、陣屋の内へ植えておいて、あるいは杉・苗等はご領地の村々の荒地を開墾した所へ多量に仮植えしておいて、小作人などが自然と家の囲いなどにも用いたい旨を願い出ると、望み次第に何本でも持参してよいぞと、丁寧に申しました。さてまた家を新規に建てる時には、家を作るのに必要な材木をそろえ、下ごしらえをしておき、竹や山カヤまで残らずそろえ、建設の時になると、地所を見立てるなどすべてに心を配って、たびたび現場に行って、村役人や当人や5人組の者を呼び出し、ほかによい場所は無いかと聞いて帰宅いたしました。決して金次郎からこの場所がよかろうとは容易には申し出ることなく、日を送りました。そうすると村役人や5人組までもがあれやこれや論議して、誰々が開発した場所も便利がよく、その場所に家を建ててくださるよう申し出ることがありました。時期にあったためか、ますます末代まで相続の障りにもならず、物干場の木陰にもならず、また往き還りの道筋の善し悪しまでもじっくり考え抜いて、地所を取りきめ、家を建てるよう申し付けました。さてまた縄張りやその外の工事の早いことや指図には、一同感心いたしました。そこで私が尋ねましたところ、どこであれ新規の工事に取りかかるときは、まず地所の善悪を見立て、その上で工事に取りかかる事を手順と心得ております。取り計る次第がなぜそうするのかよく分からなかったと聞きますと、金次郎が答えますに、そういう疑問があるのは一応もっともですが、ご領地は往々永続の道を計って、また家を立てる場所が荒地であっても、遠い昔は何れの場所でも持主が有り、人々の情として盛んに成れば何となく羨んで、いずれ故障も出てこないとも限りません。現在は潰れ家で荒地に成っていても、何か遠縁の者があったり、あれこれ後年に至って、村内で申し立てる者があっては、住居している者も心もちが悪いでしょう。ですから時間を費やして遠きを計って、村役人は申すに及ばず、小前小前に至るまで熟談の上で申し出るまで待って、家を建て始めているのですと金次郎は申しました。 人は遠き慮りが無ければ必ず近き憂いが有ると申す事にも相当いたしましょうと聞きました。【4】金次郎義、御知行所村々為永続、槻木実生等拾い集メ、御陣屋内え植付置、或ハ杉苗等は御知行所村々荒地発返候所々へ多分雇置、小前之者共自然と家囲等えも致度旨願出候得は、望次第何本ニても持参可致旨、懇に申聞候。扨又屋敷新規建候節、家作入用之材木相揃、下拵申付、竹・山萱ニ至る迄不残取揃置、建前之時節ニ至り、地所見立候事悉く心配致し手間取、度々其場へ罷越、村役人并当人・五人組之者呼出、何分能場所無之趣申聞候て帰宅いたし、決て金次郎より此場所可然旨容易ニハ難申出、日を送り申候。然ル所、村役人とも・五人組迚も彼是申談、誰々開発致置候場所も便利宜敷、右之場所家建致呉候様申出候。其節ニ至り、弥末代相続之障ニも不相成、往々物干場之木陰ニも不相成、又往還道筋之善悪迄も篤と勘弁いたし、地所取極、家作建方申付候。扨又縄張其外普請之早業及差図候義、一同感心仕候。依之私より相尋候は、何れニても親規之普請ニ取掛り候ニは、先つ地所之善悪を見立、其上ニて普請ニ取掛り候事手順と心得居候所、取計之模様何分不相分之旨申聞候所、金次郎申答候は、何様一通りニは尤ニ候得共、御知行所之義は往々永続之道を計り、又土台荒地ニは候得共、往古ハ何れ之場所ニても持主有之、人々盛ニ相成候上ハ何となく羨ミ候事ニ付、末々故障出来可致哉も難計、当時は潰家ニて荒地ニ相成居候ても、何歟遠縁之者も有之、彼是後年ニ至り村内ニて申立候てハ、住居致候者も心持悪敷可存。依之隙を費し遠きを計り、村役人を不及申ニ、小前小前ニ至迄熟談之上申出候を相待、家建相始候趣、申聞候。 人無遠慮必有近憂と申事にも可相当哉之由、申聞候。
2026.05.09
これは後で分ったことでありますが、その時分私は下積みで、元気はいいが月給も安く支店長にもなっていない身分であるから、上層の重役間に暗流があるかないかなぞということは分っていなかったのであるけれども、後に聞くと井上さんと益田さんとが児玉さんから頼まれて台湾に製糖会社をつくる約束が出来ていた。当時の百万円は今の一億円にも匹敵する大金である。三井物産そのものが百万円の資本金で、三井銀行から五万円以上の当座の貸越を断られるという時代に、台湾で百万円の会社を興すということは三井でも危険視され、三井の整理をし三井銀行を立ち直らしめて三井中興の士といわれ、三井の金融の全権を握っていた中上川さんは、そんな危険な仕事には金は出せぬと反対をしていられたのだそうであります。私は慶応義塾出身で中上川さんの紹介で三井銀行に入った者であるが、どうしてか益田さんの気にいったので、益田さんに貰われて三井物産の方に変った。つまり中上川さんの子分から益田さんの子分になった訳であります。そういう関係であったから、この小僧を使って中上川を説こうというのが益田さんのはらだったのであります。中上川さんも損はせぬと言われてみれば反対する理由もないので、不承不承賛成をして、そこで、いよいよ会社を創立するに決まりましたが、三井が全部出すことは大金であるから半分近く出して、残りは毛利家や村上吉兵衛さん、その他に小さな株主が出来て、この台湾製糖会社が生まれました。これがこの会社創立の際のないしょ話でありますが、もし益田さんや中上川さんが達者であれば、このないしょ話は諸君に申し上げられなかったと思います。 ☆「黎明日本の一開拓者」では、この藤原と児玉総督の会話が印象深く綴られている。台湾総督府が台湾に一割程度の補助金を出す話がこの藤原・児玉の会話で決まったかのように書かれているのだが、台湾製糖株式会社では、児玉・後藤と井上・益田で決まっていたように書かれて??と思っていた。藤原の晩年の回想のように、実は藤原銀次郎の役どころは三井の実力者中上川を説得することのようであるらしい。
2026.05.09
「永平家訓抄話」澤木興道 4-18 このごろどこへ行っても「ヤソ教を見てごらんなさい。あの通りはなやかにやっておる。あなたたち若いのじゃから大いに活動してもらわねば」という。それならば、それでみな真を得るならいいけれども、なかなかこれはむずかしい、そうざっと物を言ってもらっては困る。 昨年だったと思うが、鹿児島でヤソ教が大挙して東京から一流の雄弁家を呼んできて伝道をやったことがある。ヤソ教のことじゃから、トラックや自動車に乗って拡声器で「どうぞ皆さん神様の福音を…」とやったに違いないし、ポスターも立て看板も新聞もビラもうんと配ったに違いない。非常な元手を入れたので、公会堂での講演会では立錐の余地もないほど人が集まった。それから弁士がわたしらみたいな下手くそとは違うて、立て板に水を流すような抑揚タップリで、二時間やら二時間半やらの講演をやって、いよいよ終わったところで割れるような拍手があった。 講演を大成功に終えた弁士がゆうゆうと壇をおりようとすると、坊主が一人チョコチョコと登って行って、横面をパンと張った。弁士はビックリして「何をするか」と、あわてていると、坊主の方はきわめて冷静な顔をして、「いや、ただいま先生のお言葉に右の頬っぺたを張られたら、左の頬っぺたを出せとおっしゃった・・・・・・。まことにどうも結構なことで、わたしも坊主をやめてあなたのお弟子になって、クリスチャンに改宗してもいいと思って、ちょっと実験しました」といった。こちらは計画的じゃからきわめて冷静である。「ばかなことをするな」「いや、ばかではない」とやる。そうすると取巻き連中が出て来て、聴衆の方を向いて、「諸君、どう考えますか」ところが無責任な野次馬連は「それは坊主のいう通りじゃ。ワーッ」と、せっかく牧師さんたちが一生懸命になって、伝道をやって、さあ、あとは帳面を出して、手分けして献金を集めるというところであったが、ワー、ワーでとうとうめちゃくちゃになってしまった。そうして坊さんは、何やら溜飲の下ったような顔をしていた。 これはいったい何と何の対立じゃ。これもやはりわたしにいわしたら、真を知らない坊さんのやったことで、仏法から見るととんでもない。まことに無慈悲な話といわなければならない。「三界はわが有、この中の衆生悉くこれわが子」牧師さんたち、よくやってくれたとお礼をいって、それでいいわけである。それを商売敵で横面を張って・・・・・・道元禅師やお釈迦さんが、そんなことをなさるじゃろうかとわたしはいいたい。けっしてそんなことなさらんに違いない。ところが、いつの間にかこの商売敵と信仰とに、どこからどこまでという境目を忘れてしまっている。そこで何というても「千万年中一人も莫し」と、いかにもこれがいいやすいか、そしてこれほどむずかしいことはないのである。こんなことを大量に望むことは不可能であるが、しかし少しでもいいから、そこに真実を静かに噛みしめて行かんならん。わたしはこういいたい。(「永平家訓抄話」p.318-320)
2026.05.09
188二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替えた。9 翁ある人の母親を戒む二宮先生はしばしば福住(箱根塔之沢温泉)に行かれて入湯されたが、福住家には子どもがたくさんあって、先生が行かれた時に子どもが畳の上に小便するのを見て言われるのに、「女たる者はその子どもに小便はしばしばさせるものである」といって正兄の細君を戒められたということである。妻君もよほど感じたものと見えて後年しばしばこのことを他人に話されたということである。
2026.05.09
1「深山木」(天保6乙未年6月 小田原藩鵜沢作右衛門」) 【3】右同様に、私ども始め一同で田畑を視察しましたときに、東沼村の組頭で喜太郎と申す者の畑1反歩もございました。その畑に菜種を蒔きつけてありましたが、半分はそれなりに生育しておりましたが、半分は4,5寸ばかりの生育で、花も咲かないほどの不作となっておりました。その折に喜太郎本人が案内に出ていたので、これはどういうわけかと尋ねましたところ、同人が申しますに、この畑は私の畑でございますが、去年の秋に菜種を蒔きつけました際に、半分蒔いた時に、よんどころなく用事が入って、半分は15日も遅れて蒔きつけました。その後寒気がひどくなり生育しかね、また天気がちで潤いが無く、こういうふうに行き違いがあって不作になってしまいましたと申しました。また物井村の字白銀と申す所へ麦作がとてもよい中に、麦作・小麦作りの畑が2,3反見えましたが、外の畑と違って、大変不作に見えましたので、その近辺で耕作いたしておりました物井村の百姓の定吉と申す者へ金次郎が尋ねましたところ、物井村にて1,2を争う耕作に熱心に勤める直右衛門と申す者の畑でございますが、去年の秋以来、流行病にかかって、肥料を入れることができないで作り立て、その上に日後れも生じて、近所の者が助け合って蒔き付けてやりましたとのことで、このように不作になってしまいました。それから次第に畑を視察いたしましたところ、金次郎が申しますに、「この所は誰々が作った畑で、困窮している者の畑で、向こうに見えます潰れ家同様の屋敷と引き比べて見えるとおり、自然と作がらも衰え、手薄に見え、まことに寸分の違いもありません。正業に当っては天道の正理、春夏秋冬の移り替り、片時も待つことなく、一日も後れれば一日だけ後れ、10日後れれば半分の収穫となり、20日も遅れれば半分の収穫も得られません。物によっては、皆無同様にもなります。村で境界論争や喧嘩沙汰がありましては自然と困窮してしまいます。このような御用向きのもめごとがありますと、時節がら悪いことだと、百姓どもを呼び出して、やはり同様の事を説諭しております。 事を敬して信あり、用を節して人を愛す、民を使うに時を以てする という論語の言葉にも相当しましょう」と、金次郎が申しておりました。【3】右同様、私共始一同田畑見分罷越候節、東沼村組頭喜太郎と申者、畑壱反歩も可有御座候。右之内菜種蒔付有之、半毛ハ相応ニ生立居候得共、半毛ハ四五寸計ニて、花も咲不申程ニ不作仕居候、其砌同人義も為案内罷出候ニ付、如何致候事哉と相尋候所、同人申聞候は、此畑私之畑ニ候得共、去秋蒔付之節、半作蒔付候節、無拠隙入、半作は十五日も後レ蒔付候所、其後寒気甚敷生立兼、又天気勝ニて潤ひ無之、彼是行違不作仕候段、申聞候。又物井村字白銀と申所え麦作至て宜敷中に、麦作・小麦作り候畑弐三反相見へ、外々之畑と違、至て不作相見候付、其近辺ニ耕作致居候物井村百姓定吉と申者え金次郎相尋候所、物井村ニて一二を争ひ耕作出精人直右衛門と申ものゝ畑ニ御座候得共、去秋以来流行病相煩、肥し入レ不申作り立、其上日後ニも相成、近所之者助合蒔付遣候よし、如此不作仕候。夫より追々畑見分致候所、金次郎申聞候は、此所は誰々之手作、困窮人共ニて、向に相見候潰家同様之屋敷と引競見可申旨。何様自然と作柄衰へ手薄ニ相見へ、寔以寸分違不申。正業に当、天道之正理、春夏秋冬移り替り、片時も不相待、一日も後レ候得は一日丈ケ後レ、十日後レ候得は半毛ニも至り、廿日後レ候得は半毛ニも不至。物に寄、皆無同様ニも可相成候間、村方ニて境界・出入致居候てハ自然と及困窮候。右ニ付御用向御座候節、時節柄悪敷、百姓共御呼出し等有之候ては、矢張同様之事ニ奉存候由、申聞候。 敬事ヲして信あり、節用愛人、使民ヲ以時と申事にも可相当哉之由、申聞候。
2026.05.08
大きなフライを打たれて、考えるショウタ今永昇太4勝目 99球で150キロなしの“投げる哲学者”が“ちょっと試した”6回を元担当記者が分析5/8(金) カブス・今永昇太投手(32)が7日(日本時間8日)、レッズ戦に先発し6回1失点毎回の10奪三振を奪う好投で、自身4勝目(2敗)を手にした。チームもこれで9連勝、本拠地で15連勝とし快進撃に左腕は貢献した。今日のレッズ戦をライブ映像で初回から全99球見届けた。中4日の登板でもあり、省エネ投球が必要なのかもしれないが、99球中1球も「150キロ超え」はなし。最速は148キロだった。今永らしさを感じたのは、1失点した6回の投球だ。 今永はこの回の投球について「ちょっと点差もあったので、自分でこう試したいことをやったんですけど、ちょっとうまくいかなかった。でもこの試合でしかできないものがあった」先頭打者の4番・スチュワートに被弾した左越えソロは、真ん中高めの146キロ。打たれた瞬間、今永は打球を見ながら「やっぱりかあ」という表情を見せた。 そして、無死一塁からスティーブンソンに、134キロの甘いスプリットを大飛球の中飛とされると、画面にはしばらく考え込む表情が映った。この回には、さらに投球間に空を見上げて考え込んでいる表情が何度も映った。現在の今永は、いかに疲労をためずに「中4日」で1年を過ごすかを最優先課題としている。 ドジャース戦(4月26日)で6回途中5失点の2敗目を喫したときに、「ストライクゾーンで勝負していくことが大事だと改めて感じだ」と話していたとあり、6回の今永は直球も変化球も大胆な「ゾーン勝負」でどれだけ結果に結びつくかを試していたとようにも思えた。その結果の1失点は収穫の部類。今後の大きな材料になったに違いない。
2026.05.08
『風、薫る』バーンズ役のエマ・ハワードって何者? 朝ドラお馴染みの“厳しい教師”を体現マーガレット・バーンズ(エマ・ハワード)ブロンドに碧眼の白人女性で、襟の詰まった黒いドレス、白い襟とカフス、きっちりと結い上げた髪にヘアバンドと、写真で見るナイチンゲールに近い出で立ち。『風、薫る』のバーンズは、生徒たちにシーツ交換と掃除ばかりさせる。生徒たちが自分たちなりにやってみると「This is not nursing(これは看護ではない)」と言って、「Try again(もう一度)」とやり直しを命じる。ダメな理由を語らないことに憤慨したりんが「何がいけないのか」と聞くと、「Think to yourself(自分で考えなさい)」と返されてしまう。ドラマでは一気に飛ぶのだが、答えをもらえないまま、生徒たちはこれを1カ月も続けていく。そしてある日ついに、バーンズは、微笑みとともに「This is nursing(これが看護です)」とお墨つきをくれる。歴代の朝ドラ女学校の先生との対立に比べると、和解はやや早い印象ではあるが、その表情には温かみがある。ある日、養成所でコレラの感染者を看護する模擬授業が行われる。りんが、コレラに感染し亡くなった父・信右衛門(北村一輝)との過去を思い出していると、バーンズはりんに“不必要に顔を近付けない。感染の危険が高まります”と指摘。さらにバーンズから家族をコレラで亡くしたことを見抜かれたりんは、他の生徒たちの前で感染した信右衛門を一人きりで死なせてしまったことを告白する。 話を聞いたバーンズは“患者は家族ではありません。あなたは看護婦になるんですよ。恥ずかしい”と言い放つ。この言葉に、直美が英語で“恥ずかしいとはどういう意味ですか?”と食い下がるのだった。 授業のあと、落ち込むりんを励ます生徒たち。そんな中、直美は「自分の親、看病するみたいに看護してたら、りんさんきっとすぐに死んじゃうよ」とりんを優しく気遣う。 そして迎えた翌日。改めて模擬授業に挑んだりん。彼女の姿を見たバーンズは明るい表情で“これが看護です”と評価。“何を考えて看護したか?”を問われたりんは「まず私自身を感染させないように努めました。私を大事に思う人たちのために」と答える。 りんの返答に対して、バーンズは“先日、あなたが見捨てたのは、この先、あなたが看護するはずの大勢の患者です。あなたが病に倒れてしまえば、その患者はあなたの看護を受けられません”と説明。そして“あなたたちの手は家族の数百、数千倍の人を助ける手なんです。あなたが看護婦になれば、家族を失い、あなたと同じ思いをする人を減らすことができます”と他の生徒にも語りかける。 この言葉を聞いたりんが「もしそんなことができんなら、私にとってこれ以上、向いてる仕事はないかもしれません」と微笑み涙をこぼす“青い本”は近代看護の原点『 看護覚え書』(フローレンス・ナイチンゲール著)であり、最終章に書かれている内容は「看護とは技術ではなく共感である」という極めて本質的な思想。「看護とは決して機械的な作業ではなく、患者の感情を読み取り、言葉にできない苦しみを理解する力である。」「この本は看護からあらゆる詩的な要素を奪い去り、それを人間にとって最も世俗的(散文的)なものにしてしまう、と言われることでしょう。親愛なる姉妹よ、この世に、おそらく教育を除いては、これほど世俗的ではないもの、あるいは、自分が経験したことのない他人の感情に自分を投影するためにこれほどの力を必要とするものは他にありません。*1そして、もしあなたにこの力が全くないのであれば、看護には手を出さないほうがよいでしょう。看護師の基本中の基本(いろは)とは、患者に自分がどう感じているかを言葉にするという負担をかけさせることなく、その顔つきに現れるあらゆる変化を読み取れるようになることです。*2もし患者がただの家具や病気の牛であったなら、多くの看護師は(今とは)違った振る舞いをするでしょうか。共感する力がなければ、看護師は昇降機やほうきと変わらないと私は考えます。」*1 My dear sister, there is nothing in the world, except perhaps education, so much the reverse of prosaic—or which requires so much power of throwing yourself into others' feelings which you have never felt,*2 The very alphabet of a nurse is to be able to interpret every change which comes over a patient's countenance, without causing him the exertion of saying what he feels.
2026.05.08

【MLB】カブス・今永が6回10三振1失点の好投で今季4勝目 カブスは9連勝 鈴木誠也は休養日で出場なし5/8(金) カブスがカード頭から3試合連続でサヨナラ勝ちして迎えるレッズとの4連戦の4戦目に、今永昇太が先発登板した。今永は序盤から決め球のスプリッターで三振を量産しレッズ打線を寄せ付けなかった。3者凡退のイニングこそなかったものの走者を背負っても崩れない投球で、今永は6回10三振1失点の快投を披露。味方の援護にも恵まれ、今季4勝目を挙げた。カブスは今季2度目の9連勝に到達。本拠地の連勝も「15」に伸ばした。レッズは中盤に投手陣が崩れ、7連敗を喫した。 今永は初回、先頭のデーン・マイヤーズを外角低めの直球で3球三振に仕留めると、2死一塁から4番のサル・スチュワートを低めへのスプリッターで空振り三振に抑える上々の立ち上がりを見せる。続く二回も先頭のスペンサー・スティアーにヒットこそ許したもののその後は高めの直球を効果的に使い2三振で無失点に抑えると、その後も単打や四球で走者こそ出すものの要所で三振を奪い、四回まで二塁を踏ませない投球で6三振を記録した。 今永の好投に応えたいカブス打線は二回、6番のマイケル・コンフォートがレッズ先発のレット・ローダーの初球の変化球を捉え、逆風切り裂くライトへのホームランで先制点を挙げる。さらに四回、ローダーが制球を乱して2者連続四球の後右肩の違和感で降板すると、代わって緊急登板したコナー・フィリップスの代わり端を攻め立てた。無死満塁からコンフォートの押し出し四球、そしてダンズビー・スワンソンのサードゴロ、ピート・クロウ=アームストロングのタイムリーヒットで1点ずつ加えると、ミゲル・アマヤの2点タイムリー、ニコ・ホーナーのタイムリー二塁打、モイゼス・バレステロスの犠牲フライも続きこの回一挙に7点を挙げ試合の大勢を決定づけた。 大量援護をもらった今永は五回、安打と四球で二死一、二塁とこの日初めての得点圏に走者を背負うが、ここは3番のエリー・デラクルーズのライトへの飛球をコンフォートがフェンス際で捕球し事なきを得た。さらに六回、先頭のスチュワートに左中間へ10号ソロ本塁打を許し、さらにエラーと四球、バント安打で1死満塁のピンチを招いた。しかしここでも今永のスプリッターは健在だった。この試合ここまで2安打を浴びていた9番のキブライアン・ヘイズをスプリッターだけで3球三振に抑えると、マイヤーズもテンポよく追い込んで最後は低めのスプリッターで三振に仕留めこの場面を乗り切った。今永はこの回までで降板し、2度目の2桁奪三振を記録した。 今永の降板後は、2番手トレント・ソーントンが七回、2死一、三塁のピンチを背負うも無失点に抑えた。しかし3番手のギャビン・ホロウェルはレッズの8番ブレイク・ダンに1号ソロを許し、九回にも四球が絡んで1失点すると満塁の走者を残して降板し、代わった抑えのダニエル・パレンシアが代打のナサニエル・ローを三振に抑えて試合を締めた。カブスは連勝中ながら、中継ぎ陣に不安を残す一戦となった。 カブス・鈴木誠也はこの日は先発を外れ、出場はなかった。ベンチスタートで最後まで出場しないのは、負傷者リストから復帰後では4月29日以来今季2度目となる。鈴木の今季のここまでの打撃成績は打率.303、本塁打6本、OPS.945。カブスは次戦から、敵地でレンジャーズと3連戦を戦う。
2026.05.08
「二宮尊徳とその風化」自序よりもし余(留岡幸助)に二宮翁を研究せんと志せた導火線があるとすれば、内務省参事官の井上友一君の勧誘は、確かにその重要なものの一つである。井上君は地方行政に深い知識を有し、かって余に静岡県の報徳社を視察することを勧めた。余はその勧めに従って、明治36年の春、友人相田良雄君とともに、旅装を整えて、静岡県に出発した。行く行く庵原、静岡、掛川、袋井、見付、浜松等の各地を巡察し、終に伊豆の稲取村に出て、くわしくその状況を観察することができた。この旅行で得たものは、実に山河の美、風俗の雅なことだけではなかった。それは人に関することで、戸々立つところ、一村一郡自ら有機体を組成して、民政の実績は自ずから他にぬきんでていた。余はこの旅行の最後に至って、偉人二宮尊徳翁に思いいたった。地の底、見えざるところに力あり。天の上、達せざるところに光ありて、これらの諸々の村が、全くこれによって風動するものがあることを悟った。帰りの途中静岡で、報徳に関する数十の書籍を購入し、ひまがあれば必ずこれを読んだ。さらに「報徳記」と「二宮翁夜話」を見るにいたって、堂々たる二宮尊徳翁の姿が、我が眼中に映り、渇仰の念、日に日に増すばかりであった。ひまをみつけては、翁の生誕の地である小田原の栢山に遊び、時に栃木の桜町、今市の付近を歩き回り、機会があれば古老を訪ねて、翁のエピソードを聞いて、折に触れては先輩を煩わして、翁に対する考えを聞き、こうして集めた資料も決して少なくなかった。しかし余が最も翁を敬愛する念を深めたのは、単に以上の理由だけではない。井戸は掘るにしたがって清水が湧くように、余は研究を積むにしたがって、更に深く、更に広く翁を知り、翁を学ぶ必要があると認めた。これに関して余は少なくとも数個の理由を挙げることができる。1 余は今も昔もキリスト教徒である。将来もキリスト教徒である幸福を享受するのは信じて疑わない。しかし大胆にいうならば、余は我が国のキリスト教界の社会制度にあきたらないものがある。キリスト教の伝播は日が浅いから評論するのは酷のようであるが、星霜すでに40年を経た今日において、なおその西洋臭いものがあるは、わがキリスト教の普及が遅々として進まない理由の一つである。キリスト教のいわゆる相愛の道、犠牲の教えは、もとより至大至高、至美至善、これに過ぎるほどの偉大な教えがあると思えない。しかしこれを実行する社会機関を欠いており、よく救世済民の効果を挙げることができない。これは疑いなくキリスト教の一欠点である。いな、あるいはキリスト教社会制度の欠所であろう。ひるがえってこれを報徳社に見るに、二宮翁の遺訓は、あえて心を驚かすような教えではない。かかる報徳社がよくよく町村を潤沢する理由は、報徳社という社会組織が存立しているからである。報徳社は天地人三才の徳に報いるをもってその大本とし、至誠、勤労、分度、推譲の4つを実行することで、その大本に報いる方法としている。この方法こそ施すところに応じてよくその効果を奏するものである。だからもし余が報徳制度を研究することによって、キリスト教界の欠陥に寄与することができれば、至幸これにすぎるものはない。2 わが国における社会主義の発源はいかん、またその傾向はいかん。ひそかにこれを考えるに、私は報徳制度を度外視できない。わが国の社会主義は理論よりも多く感情に傾いて、建設的よりむしろ破壊的に流れ、貧者のためには菩薩となり、富者のためには夜叉となっているのではないか。もしも万一このような傾向があるとすれば、真正の社会主義の目的は達せられないだろう。これに対し二宮翁の説く所は、貧富両存にある。両存でなければ両全にある。すなわち貧者は貧者としてその位置に安んじ、その勤めを全うさせ、富者は富者としてその富を保って、貧者を保護させようとする。これが二宮翁の主義であって、いわゆる夫婦相和して子孫が栄え、貧富相和して財宝を生ずるというのが翁の理想とするところであった。(略)二宮翁は農民に教えて「この鍬すぐに楽の種」といい、また「天つ日の恵み積み置く無尽蔵、鍬で掘り出せ、鎌で刈り取れ」と説いた。さらに富者に対しては、「貧者及び人民より多く物を取るべからず、奪うは損害であり、恵むは幸福である。」との福音を伝えた。簡単に言えば、彼は貧者に羨望してはならない、羨望することは醜く、勤労することは高貴な業(わざ)であると教えた。また富者には奪わないで与えよ、掠め取らないで恵めよと説いた。翁の教えは実に貧富両階級の調和にあった。(略)3 報徳社の社会的地位を研究するは、最も興味のあることである。これを産業組合制度と比較すれば、その組合制度は中産以下の個人を救うことをその主眼とするが、報徳社はその一歩を進めて、ただちに社会そのものを救おうとする。難村の復旧、貧農の救済、富者の推譲及び心田の開発等は、その最も重要なものである。この点において報徳社は広い意味での社会救済事業である。しかもその救済は、まず精神を救うことを専らにして、物質上の救助などは末とする。この点からすれば二宮翁の主義は、優に一個の精神教養ともいうべく、もし翁を太陽に照らして、その背後を見れば、あるいは菩薩の浄体ながらに、鋤・鍬を持てる農業聖人といってもよい。ことに「荒地の開発」に加えるにさらに「心田の開発」をもってするのは、翁の元来の理想であって、いまや伝えられて報徳社の主義となった。4 余は数年来、自治団体、即ち郡市町村を視察して、しばしば困惑した。市制町村制の発布してすでに20年になり、実際は予想に反して萎縮し振るわないものにそもそも何の原因があるか。その困惑はようやく解けた。「我が国民は自治独立の観念に欠如しているからである」ここにおいて、心に一つの公案が来た。「我が国人に独立自営の精神を鼓吹しない間は、自治制度において何の効果があろう。」ひるがえって我が二宮翁を見るに、なんと自治独立の精神に富んでいることか。これを奇跡といわず何と言おう。もし桜町宇津家の領地を荒廃から、堕落から、瀕死の状況から救い出したことを思うと、彼は奇跡に等しい偉大な事業をなしたのであった。そして彼をここに至らしめた力は何か。「不覇独立の精神」これのみ。「自治自営の観念」これあるのみ。この精神を自ら学び、かつこれを人に学ぶように勧めるのは、ああなんと幸福で貴重なことか。私が二宮尊徳翁を唱導する理由は、死せる「市制町村制度」に向かって、活きた精神、すなわち自治自営の観念を注入しようとすることにある。これによって死んだ制度は活動し、眠った市及び町村は覚醒するであろう。5 産業組合制度の設置は、近来わが国の一部の潮流となった。これは喜ぶべきことである。なぜならば産業組合制度は、中産以下の生活難を除去する一つの安全弁だからである。しかし産業組合制度は西欧諸国の必要から発生したもので、彼に適合した法律、制度であって、日本に必ずしも適合していない。(略)これに反して報徳制度は、わが国において必然のうちに産出したものである。ことに農業部落の状態を改善しようと欲するならば、この制度によるのが近道といえる。この故に私は産業組合制度を歓迎すると同時に、我が国に発生した報徳制度を研究し、更に改善を加えて、時勢の必要に応ぜしめようとするものである。
2026.05.08
1「深山木」(天保6乙未年6月 小田原藩鵜沢作右衛門」) 【2】金次郎が申しますには、「ご領地の開発については、亡所(田畑が荒廃し住民が離散した亡村)同様の場所で、仕法の資金として、米200俵・金50両が交付されましたが、言ってみると、ご陣屋の運営に必要な分だけでしかありません。最初、仕法に取りかかりました時には10ヵ年平均で、契約で定めました年貢米1,005俵はなんとか出来ましたけれども、荒地までもは一通りでなく、山林同様の場所で、開発する農具や開発専門の土木技術者の雇い入れもできなかったため、仕方なく3,4ヵ年の間は少しばかり開発に取りかかった程度でした」と申しました。その後、金次郎も深く考えをめぐらして、開発無尽蔵の方法によって順を追って荒地を開拓し、なおまた、宇津家への年貢の内から米200俵を引き去って、村において特別に使えるようにお願いして、この余分の米で繰り返し荒地を開拓し、その上報徳金等も村々から次第に納めるようになりました。今年の5月には、東沼村の名主格の仙右衛門という者が、米の値段がよくて高く売れましたので、報徳のために金15両を納めたいという願い出がありました。このようにして荒地が開拓され、新しく家を作ってやったり、堰や川々の修築工事などもいたしました。しかしながら、ご領地はいたって地面が悪く、よその開発と違って、荒地ばかり余分に開拓しても、また耕作する者が無くては成功しないことから、荒地の開発も自分が思っていたよりもはかどりかねていると申しました。また生活の便りのない困窮した民へは、村役人どもへもとくと諭しておいて、時々米・麦などを支給いたしました。また困窮している者で、恥かしく思うためか、自分から困窮を申し出ないこともありました。さらに救いようも無い者へは、屋敷内にある竹や木を、特別に値段を高く買い求めてやったりもしました。また東沼村の百姓の勝次と申す者は、困窮が極まった者で、今日の営みにも差し支えるほどで屋敷内に竹・木も無く、どうにも救う方法に困って、同人の屋敷、家の囲いに柘植(つげ)の垣根があったのを求めて、米2俵を遣わし、当座の難儀をしのがせたこともございました。この柘植は、御陣屋の垣に植えたそうです。人によって様々な救う方法や工夫をしております。また耕作に精出す者には、村々近郷までも響くように、米や金ならびに農具等までも遣わし、人々を愛することは特別であるように聞いております。【2】金次郎申聞候は、御知行所開発之義、亡所同様之場所、御趣法為御入用米弐百俵・金五拾両御差出被成候ても、申さは御陣屋御入用ニ遣払候ても凡済候様成るものニて、最初御趣法ニ取掛り候節は拾ヶ年平均ニ〆、御分定米千五俵相立候得共、荒地迚も不一通、山林同様之場所ニて、起返し候農具其外破畑人足迚も雇人出来兼、無余義三四ヶ年之間は少々宛開発取掛り申候よし。其後金次郎儀も深勘考いたし、開発無尽蔵之術を以追々荒地起返し、尚又、御分定之内米二百俵御引去被成候付、村方ニて格別ニ存込厚奉恐伏候様相成、右余米を以繰返し荒地起返し、其上報徳金等も村々より追々相納、既ニ又候当五月東沼村名主格仙右衛門と申者、米直段宜敷相捌候ニ付、為報徳金拾五両相納度之旨願出候。右様之事共ニて荒地起返し、新家作、堰・川々普請等も致候趣、申聞候。乍去、御知行所之義は至て地面悪敷、外之開発と違、荒地計余分ニ起返し候ても、又作人無之候ては不相成、開発地と家作・人別増之模様を深勘考いたし、過不及無之様不仕候ハてハ不相成候趣、夫故何分荒地開発も自分存寄ハ果敢取兼候段、申聞候。又便なき窮民えは、村役人共えも篤と申諭し置、折々米麦等差支候。且困窮候者、恥かしく相心得候哉、何共不申出も有之、何分ニも身情不宜候者えは救様も無之、無拠屋敷内ニ有之候竹木ニても、格別ニ直段宜敷相求遣置候。又東沼村百姓勝次と申者、極困窮人ニて、今日之営ニも差支候趣ニ相聞候得とも、屋敷内ニ竹木も無之、何分救ひ方ニ困り、同人屋敷、家囲ニ柘植之垣根有之候を相求、米弐俵差遣、当難為凌候趣ニ御座候。右柘植、御陣屋之垣に植候よし。人ニ寄、様々救ひ方之工風仕候。又出精人えは村々近郷迄も相響き候様、米金并農具等迄も差遣、其人々を愛し候事共、格別之様相聞候。
2026.05.08
その時、総督の言われるには「お主の見たところはどうだ」。そこで私はいけませんと答えました。すると「なにがいけないのか」と言われる。私は巡査に護衛され、食糧を持って歩き、交番に泊りピストル携帯でなければ旅行も出来ないような所で会社など起しても、銭儲けは出来ない。ソロバンに合わないからいけませんと申しました。ところが総督は「治安を維持することは俺の方の商売であるから、2、3年のうちにはやっつけてみせる。その後なら引き合うか」と問われる。その後なら引き合いますと答えると、「それなら会社を興してやってみてはどうか」。「それではいけません。土匪を征伐し治安が維持されてからならやりましょう。きれいにしてやるから今から来てやれと言われても、そんなことでは仕事は出来ません。話が前後しておりますと元気よく反駁を加えました。総督はそれを聞いて「よく分った。お主のいうことも満更道理の無いこともないが、然らばどうしたら会社が出来るか」、それは簡単明瞭な話です。われわれに損をかけないようにしてくれれば出来ます。どうせ今から始めれば損をするのが当り前だから、その損は全部総督府が負担してやるといえば簡単です。「その通りだ。その損はいくらぐらい負担をしたらよいか」。まず百万円の資本金で年一割の十万円を少なくて3年長ければ5年補助して下さい。それなら東京へ帰って努力しましょう。「そのくらいの金でよいか」よろしい「では引き受けるから東京へ帰ってその事は言え」と、こう言われました。しかし総督は軍人でサーベルだから、いかに私と即座に約束しても、後からあんなことは言うのではなかった、いやだぞといわれると困ると思い、失礼だけれども、あなたは他の局長等と相談なさらなくてもいいですかと申しますと、「よろしい」、益田孝にそのまま報告してもよろしいですか、後で私の立場がなくなるようなことはないでしょうなとダメを押しますと、総督は「よろしい」ときっぱり言われました。そこで、ではよく分りましたからこの話を成立するようにしますといってお別れして東京に帰り、その事を益田孝さんに報告しました。益田社長は面白いといって大変よろこばれ、そしてお前、井上馨侯の所へ行ってその話をせよということで、井上さんを訪ねてその話をしますと、井上さんも大変ご満足で今度は中上川に話せと言われました。中上川さんだけは余り機嫌はよくなかったが、私はありのままを話し、損がいけば全部総督府が負担するから、創立した方がよいでしょうと申し上げると、中上川さんは笑っておられたことを記憶しております。・・・・・・ 藤原銀次郎伝 水谷啓二著その1その2 児玉総督は、「お主の見たところはどうだ」と聞いた。「いけません」と藤原はハッキリ答えた。「なにがいけないのか」「巡査に護衛されて食糧を持ってあるき、派出所に泊り、ピストル携帯でなければ旅行もできないような所で会社など起しても、銭もうけができるはずはありません。ソロバンに合わないからいけません」「治安を維持することは俺の方の商売であるから、今後2、3年のうちには必ず台湾全土を平和にしてみせる。その後なら引き合うか」「その後なら引き合います」「それなら、今から会社をおこして、やってみてはどうか」。「それではいけません。土匪を征伐し、治安が維持されてからならやりましょう。2、3年のうちにきれいにしてやるから、今から来てやれといわわれましても、それでは仕事はできません。お話が前後しております」藤原は恐れ気もなく、児玉総督の意見に反駁を加えた。児玉総督はそれを聞いて「うむ、よくわかった。お主のいうこともまんざら道理のないことでもない。しからばどうしたら会社ができるか」と聞いた。「それは簡単明瞭です。われわれに損をかけないようにして下されば会社はできます。どうせ今から始めれば損をするのが当り前です。だから、その損は全部総督府が負担してやる、ということであれば話は簡単です」「なるほど、それではその損はいくらぐらい負担をしたらよいか」「百万円の資本金として年一割の十万円を少くて3年、長ければ5年補助して下さい。それなら私も東京へ帰って努力しましょう」「そのくらいの金でよいのか」と、児玉総督はすこぶる大まかである。「けっこうです」「では、補助のことは俺が引き受けるから、お主は東京に帰ってそのことをいえ」総督は純粋の軍人で、お金のことはよくわかるまいから、年一割の補助金を出すのはいやだ、などといわれてもこまる、と藤原は思った。それで、「失礼ですが、閣下は他の局長などとご相談なさらなくてもよろしいのですか」と念を押した。「よろしい」、「では、益田孝にそのまま報告してもよろしいですか、あとで私の立場がなくなるようなことはないでしょうな」とさらに駄目を押したが、総督は「よろしい」とキッパリいった。「ではよくわかりましたから、この話が成立するようにします」といって総督と別れた。東京に帰り、益田社長にそのことを話すと、益田は「それは面白い」といって非常によろこんだ。そして「すぐ井上侯のところへ行ってその話をせよ」といった。井上に話すと、井上もすこぶる満足して、こんどは「お前から中上川に話をせよ」といった。そこで中上川に会って報告すると、中上川だけはあまり機嫌がよくなく、渋い顔をしたが、「損がいけば、全部総督府が負担するのですから、創立した方がよいでしょう」と進言すると、中上川はそれに反対する理由もないので苦笑いしていた。藤原は製糖会社創立の話をまとめあげたことによって益田の顔を立てたが、一方中上川の顔もどうやらつぶさずにしんだのであった。つまり、普通なら中上川のいうように採算のとれないところを総督から補助金を出させることによって採算のとれるようにした、という形になったからである。こうして創立されたのが、台湾製糖会社である。・・・・・・
2026.05.08
「永平家訓抄話」澤木興道 4-17 祖師の生活には「祖師未だ弄せざる、識と神と」六識、神我というものを持ちだすこともないし、それから動かされることも絶対にないのである。だから仏教者というものは決して、何からもおどしのきかんものでなければならない。おどしのきくような人間は、方位がどうとかというと、大騒ぎをやらかす。方位、それはある。便所を真南にすれば臭いし、真東でもいかん。真西も風が多い。真北も風が多いから、それでなるべく東南の隅の方にするということが自然に原則となる。そして、その地勢によって、いろいろな変化があることは当り前のことである。それでそれがどうということはない。 ところがわたしは、アパートで参禅会をやったことがあるが、その部屋の四方が便所と見えて、坐禅していると上の方でガチャンとやりよる。バタバタ・・・・・糞の塊が流れるのがよくわかる。そんなところでは方角も何もあったものじゃない。「尚書たとい今上と稱するも」その身そのままのお前が仏じゃというと、世間ではいとも簡単にそのまま口まねをするものがある。それをここに、尚書、書記官がそのまま今上天皇じゃと称するも・・・・・・といわれたのである。だいたい、即心是仏というようなことを、ソラで読んで簡単にいうものだから、話が早くなる。だから「当流の安心は死んでから極楽へ行くというのではない、即身是仏といってな・・・・・」というものがある。そんな阿呆な・・・。わたしならば、そのあとで、「このみこのまま糞凡夫でな」とつけ加えなければならん。また「何とかして仏になる法が、仏法というもので、こいつがなかなか凡夫の嫌いなものでな」といわんならん。それはそうだ、仏法が好きな者はない。仏法が、もしパチンコくらい好きなら、去年の七月から十一月まで、東京でパチンコ屋が毎日三十戸ずつふえているようだから、それと同じようにわたしの支店がふえすぎたらしょうがない。 仏法は、夏は暑いし、冬は冷たい。居眠りすればパチンと警策のお見舞いがある。あまりいいものじゃない。だから、「尚書たとい今上と稱するも」、凡夫がそのまま仏じゃというてもなんでもないことで、「千萬年中、一人も莫し」尚書は尚書、今上は今上、仏は仏、凡夫は凡夫である。「千萬年中、一人も莫し」というのはいくら呪え(ママ)ごとをいったって、真を得ることとは関係がないので、そんなことはほとんどあり得ないことだというのだ。すなわち分別ばかりでは、この本来無自性、従来無所得というものに徹するものは一人もないと、こう力強く結んでおられるのである。(「永平家訓抄話」p.316-318)
2026.05.08
188二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替えた。8 翁少しも政治にくちばしをいれずあれほど縦横に言論されたところの二宮先生が政治だけにはくちばしをいれなかったというのはチョット面白いと思う。自分が言わないばかりでなく、弟子にも政治論は禁じてあった。もし弟子のうちに政治にくちばしをいれようとする者があれば、「お前などの知ったことでない。ただ一心に自分の仕事を忠実に励め」と叱ったということである。がただ一遍、翁は政治のことをいわれたことがある。(略) 外国との交易は家康公の禁制であるから、厳重に守るがよい。しかしはるばるアメリカから交易に来ることを思えば、何か彼に不足するところのものがあるのであろう。わが国は寒暖よろしきを得て少しも不自由はない国柄である。不足あるがためにはるばる来たりしものを「二年無く打ち払え」などというのは余り道理のつんだることでもなかろう。広い世界を相手として、先方が不足するものをことごとく与えるということは、今のところ不可能のことである。しかし我が国を見渡せば、開墾の出来ないところも沢山ある。これらを開墾して、その出来上がったものの余分を譲ってやるならば、外国人といえども必ず満足するであろう。無暗に打ち払うことは良くないことだ。しかし目下は外人に与えるだけの物がないから、交易はしばらく待てといって返したらよかろう。それをも待たずして、無理無体に交易を迫るようなことがあったならば、それこそ打ち払ってよろしい。わたしが宇津家の仕法に行った時も、桜町の者でわたしに対して敵対する者がないではなかったが、わたしは家のない者には家を建ててやり、厩(うまや)のないものには厩を与えてやった。その恩人に対して、一本参るという者は一人もなかった。人情は万国同じである。ある俗謡に「なんぼ蝦夷松前(えぞまつまえ)でも人の心は変わりやせん」とあるが、この歌は最もよく人情をうがっている。この道理を広めれば、土地がらの変わった米国といえども、好意を表すわが国に刃(やいば)をもって向かうわけはあるまい。しかるを「二念無く打ち払え」などといって立ち騒ぐはよろしくないことだ。☆嘉永6年(1853)の春、水戸藩士加藤木賞三は懇意にしていた剣客斎藤彌九郎から、「二宮尊徳先生が、幕府から日光東照宮の神領(89ヶ村、4064町歩)の荒蕪地(神領の約4分の1)開墾、その他領内の荒廃した農村復興対策実施を命ぜられ、今年8月には現地に住み着き事業着手の予定である。ついては自分と共に働く適当な人物を見つけてほしいと、尊徳先生から頼まれ色々と考えた末、貴殿を推薦したい。3、4年も尊徳先生に従って働けば、開墾その他農村復興事業について会得する処があろうし、その後故郷に帰れば水戸藩領のため、大いに役立つことになろう」という話があった。加藤木賞三は、このような仕事はかねて自分の希望するところであると、直ぐにも応諾したかったが、藩のため江戸で働く身分ゆえに、当時国元に居た経験に富む目上の人々(戸田忠敝・藤田東湖・桑原治兵衛等)と相談の上、答えることとし、水戸に問合せたところ、何れからも賛成の返事があった。その結果、二宮先生から、ともかく面談をということで、斎藤氏の紹介状を持ち、嘉永6年4月17日先生宅を訪問した。色々話し合った後に、自分に随行尽力してくれと望んだ。折りから当日は、東照宮の大祭日にあたり、お神酒を一献やろうと引き留められ、質素な肴(鰹節を削ったのに醤油をかけ、豆腐と蕗の煮付けの三品)で、酒を酌み交した。その後再三先生を訪ね、その都度有益な話を伺い、先生に随行の決意を、いよいよ固くした。ところが、この年6月3日ペリーの率いるアメリカ艦隊の浦賀入港によって、天下騒然となり、水戸から要求される情報の蒐集とその報告のため、賞三は極めて多忙となった(藤田と戸田が、幕府の防海参与となった斉昭に召されて、江戸に入ったのは7月19日であった)。しかも水戸からは、情勢の急変を理由に、二宮尊徳随行の件を断るよう指示してきた。己むを得ず、賞三は水戸よりの書面を見せ、二宮先生も最後は余儀ないことと了承された。この時二宮尊徳は、賞三に対し大要次の通りに説いた。「国家の一大事に際し、余儀ないことではあるが、既に懇意となった貴殿に、この際私の考えを率直に申したい。貴殿が水戸藩にて、どのような身分かは詳しく知らないが、その職務が貴藩の進退を左右するほどのものではあるまい。世の成り行きは、誰がどう思っても、勢の赴くところに落ち着くもので、藩の家老職とても思うようにはならない。私は幕府の小吏に過ぎないが、現在の任務に専念して他事を顧みず、事業を成功させたいの一念である。もっとも国防のため馳せ参じよとの命があれば、開墾の仕事を放棄して、それに従うが、そのようなことはありえない。あの天下分け目の関ケ原の戦いに際しても、検地に従事していた武士は、そのまま仕事を続けていたという。現在のように、誰も彼もが、戦いにかかわったのではない。」賞三は以上の尊徳の心添えを想起して、大要次の通り述べている。当時自分は、未だ40歳前で思慮も浅く、先生の懇切なお話も肝に銘じることなく「事あらば今にも出陣して醜慮(外国人を卑しめていう語)を鏖殺(おうさつ)(みな殺し)せん等の空言」を唱えた。しかし年を経るに従って尊徳先生の見識・才能・力量の偉大さを深く感じ、あの時「先生の意見に従ひ候て事業に勉励するに年あらば、如何に不肖の我等(自分)にしても、その器量だけには得るところもあり、いささか邦家へ利益を施す事もあるべきものをと、昔年を顧みて慙愧後悔すること毎々なり」と言い「なにひとつ世になすこともななそじに、あまるよはひと老い朽ちにけり」との一首を書き添えた。加藤木賞三は、明治維新後、静岡藩(後に県)の士族授産(開墾)事業に従事した後、大蔵省勧農寮、茨城県に奉職したが、「職を辞したるも尚ほ宿志を廃せず、栽桑養蚕を精励して以て大にこれを奨励」したと言う。死の前年の明治25年5月、賞三は藍授褒章を授与された。その善行表彰の理由は、天保飢饉の際の、貯穀の放出による窮民救済のほか「桑苗を頒(わか)ち、飼育法(蚕)を授けて産業を増進する等公衆の利益を起し成績著明なる者」というのであった。おそらくは、後年になるにしたがって、二宮先生の教えが身にしみて、わずかでも民・百姓のために働きたいと願いを実現しようとしたものであろうか。
2026.05.08

大谷翔平に6試合&26打席ぶりの安打 チャンス演出の右翼線二塁打で左足キックの“新パフォ”も披露 自己ワーストのトンネルから抜け出す待望の一打…ド軍ナインも歓喜5/7(木)1回表 ドジャースの攻撃1番 大谷 カウント1-2から空振り三振 3回表1番 大谷 無死走者1塁5球目を打ってライトへのツーベースヒット ランナー:2、3塁2番 F.フリーマン 無死走者2,3塁暴投: L.マクラーズ ドジャース得点! HOU 1-2 LAD ランナー:3塁暴投: L.マクラーズ ドジャース得点! HOU 1-3 LADカウント3-2から四球 ランナー:1塁4回表1番 大谷 四球 2番 F.フリーマン 二死走者1塁盗塁成功: 大谷 ランナー:2塁4球目を打ってレフトへのタイムリーツーベースヒット ドジャース得点! HOU 1-7 LAD ランナー:2塁5回表1番 大谷 二死走者1,3塁5球目を打ってレフトへのタイムリーヒット ドジャース得点! HOU 1-10 LAD 7回表1番 大谷 無死走者1塁2球目を打ってセカンドゴロドジャース・大谷翔平投手(31)が6日(日本時間7日)、敵地・アストロズ戦に「1番・DH」で先発出場し、2打席目に26打席ぶりとなる待望の安打を放った。同点の3回無死一塁の場面で、カウント2―2から外角のスイーパーに食らいつくと、打球は一塁頭上を越えて右翼線へ。悠々と二塁に達し、塁上では歓喜に沸くナインに向けて左足を蹴り上げる新パフォーマンスも披露した。初回1打席目は空振り三振に倒れ、自己ワースト25打席連続無安打となっていたが、ようやく長いトンネルを抜け出した。 大谷は前々日4日(同5日)の試合前に異例の屋外フリー打撃調整をするなど、試行錯誤の日々。同日のアストロズ戦には「1番・DH」でフル出場。5打席で2四球を選んだが3打数無安打に終わり、自己ワーストとなる先発5試合、24打席連続安打なしとなっていた。 打撃を不振を受けて、急きょ今季3度目の投手専念となった前日は、7回4安打2失点、8奪三振の好投を見せたが2敗目(2勝)。試合後には打撃について「ヒットが出てないからと言って、みなさんが思ってる以上に悲観してることもない。生活の一部に野球がある。長いシーズン、1試合1試合切り替えながらやりたい」と淡々と話していた。〇4月27日のマーリンズ戦の最終第5打席で二塁打して以降、野手出場5試合、24打席で聞かれなかった快音。この試合も、初回はアストロズ先発右腕のマクラーズに対し、空振り三振に倒れていた。1―1の同点で迎えた3回無死一塁の第2打席。マクラーズのカウント2ボール2ストライクからの5球目のスライダーを、右翼線に運んだ。26打席ぶりの安打が二塁打となり、大谷は二塁ベース上で、左足を振り上げるポーズを決めた。 この好機から暴投で三塁走者のフリーランドが生還。さらに暴投が出て大谷も生還。この回5得点のビッグイニングにつなげた。 試行錯誤を重ねてきた。4日(同5日)のアストロズ戦の試合前には屋外でのフリー打撃を実施。屋外でフリー打撃をするのは4月1日(日本時間2日)のガーディアンズ戦前以来、今季2度目で敵地では初めてだった。 5日(同6日)の同戦では投手に専念したが、試合後に大谷は打撃不振について問われ「一番は軌道。良い軌道に入っていれば、打つべくして打てる。良いところに飛ぶようにできている。良い軌道に入っていないのが構えの問題と思っていたけど、いくつか要因があると思う。ヒットがないからと、多分皆さんが思っている以上に悲観していることもない」と話していた。ロバーツ監督「あれは彼が本当にいい状態の時の姿。速球にタイミングが合って変化球にも対応できていた。四球も選べて翔平にとっていい1日だったと思う」👏
2026.05.07
11「深山木」は小田原藩の鵜沢作右衛門が天保6年2月から6月まで桜町陣屋に出張して二宮金次郎の事業とその成果を大久保忠真侯に報告した復命書である。(「尊徳門人聞書集」(報徳博物館を底本とし、現代語訳を試みた。※は同書の注による。)「深山木」(「天保6乙未年6月 小田原藩鵜沢作右衛門」)【1】今年(天保6年)の春に野州の宇津?之助様の御領地へ出張し、一同各家と田畑を視察してまいりました。物井村の百姓で弥五郎(※)と申す者の耕地へまいりました折に、金次郎が申しますには、この者は御仕法以前から御領地で第一の耕作に精出す人物ですと話しました。「なんともこの者の畑に蒔きつけた菜種や麦の生育は特別によく、すみずみまで手が行き届いて、畔(あぜ)も真直ぐで見事で、できばえもよく、年貢を納めるにも縄・俵等も格別に念入りで、人より先に納め、前々から暮し向きも苦しむことがなく、お百姓を続けております」と金次郎は申しました。この者の外にも手回しがよく蒔きつけた者は、一畔違いで見事にできておりました。右、弥五郎を始め耕作していた者へは、人々の精励次第でていねいに諭し、その仕事ぶりをほめたり、耕作に精出すよう申し聞かせるなど、しばらく耕作の模様を視察して通りました。【1】当春野州 ?之助様御知行所え出役仕、一同軒別並田畑見分罷越候所、物井村百姓弥五郎と申者、耕地え罷在候砌一同参懸候処、金次郎申聞候は、同人義は御趣法以前より御知行所第一之耕作出精人之由、相咄候。何様同人畑ニ蒔附候菜種・麦作等、生立格別宜敷、隅々迄手も届、畔作真直ニして見事ニ、出来栄も宜敷、御年貢相納候ニも縄・俵等も格別ニ念入、人先ニ相納、前々より暮向難渋も不仕候御百姓相続仕居候者之由、申聞候。其外ニも手廻宜敷蒔附候者は、一畔違ニて見事ニ出来、右弥五郎を始メ耕作致居候者えは、人々之次第ニ寄懇ニ申諭し、其業々を賞し、耕作出精可致旨申聞、暫く耕作之模様致見分、罷通候。※弥五郎は仕法開始の文政5年(1822)9月、出精者投票で一番札となり、翌年春には領主直書の賞詞と1年間年貢免除の恩典を得た(全集3-2.28)☆尊徳先生が、巡回の際に「人々之次第ニ寄懇ニ申諭し、其業々を賞し、耕作出精可致旨申聞(人々の精励次第で丁寧に諭し、その仕事ぶりをほめたり、耕作に精出すよう申し聞かせる)」様子について、日光仕法の晩年のときのことであるが、登山信三郎氏が「二宮尊徳先生の逸話」で次のように伝えている。
2026.05.07
前商工大臣藤原銀次郎氏御講演「台湾糖業創始時代の思出」(台湾製糖株式会社)抜粋 昭和16年1月10日、屏東本社に於て挙行せる財団法人武智記念財団発会式に於ける御講演 台湾創立準備調査(p3-9)(その1)まず基隆に着き、第一に児玉台湾総督にお目に掛りました。その場所は今度参りまして、あれはどの辺だったかと探してみましたけれども、どうも判らないのですが、なんでも廟のような支那風の家でベランダみたいのようなものがあって、総督は椅子に座っておられた。総督の住居としては、いかにも貧弱で、東京から来て考えるとずいぶん質素なものであると思ったことを覚えております。三人一緒で総督といろいろ話がありましたが、一番最初私一人でお目にかかった時、私はまだ31、2歳の元気盛りで、相当威勢よく応対しました。その時の話は細かいことはよく覚えておりませんが、記憶に残っていることを申しますと、まず児玉さんの言ったことが面白い。長州の言葉で「お主はなにに来たか」と言われたから、私は台湾に製糖会社をつくるが良いか悪いか調査に来たと答えました。すると「そんな馬鹿なことがあるか」と言われるのです。初めてお目にかかった人からとんでもないことを言われたので、けしからぬことを言う人だと、児玉さんの顔をジロジロ見ていますと、今度は笑いだして「台湾に製糖会社を建てることは決まっているのだ。お主は台湾で製糖をやるにはどうしたら巧くやれるか調べに来たのだ」と言う。その通りですと答えると「それなら行け」とこうです。大変なことを言う人だと思ったが、そこが児玉総督の偉いところであるとも感じました。そうして別れる時に総督は「お主は帰りに俺に会ふて帰らんといかんぞ」と言われたので、承知しましたと答えて、それから三人は基隆から船に乗って安平に向かいました。当時基隆と台北との間は汽車があるにはありましたが、山のまん中に行くと汽車は止まって、乗客は汽車から降りて後押しをするという具合の汽車でした。基隆から汽船に乗って澎湖島を経て安平に着きますと、2里も3里もある沖合いに本船がとまって、そこから竹イカダに乗って上陸しました。安平から台南までは人力車だったか、トロだったのか、とにかく四春園という所へとまったのでありますが、それは支那風の家に畳を敷いてあるような宿でありました。 それから面白いのは、警察の人と打ち合わせましたところ、まず私ども一人に警察官が一人付いて鉄砲をかついで護衛してくれる。私どもも内地から用意したピストルを持っていく。その頃、台南市内は安全であったが市外は危険で、耕作地からは土匪が出てくるし、水牛なども恐れられたのであります。パンも無いのでソーダやビスケット、ミルクというようなものを仕込み、それを支那籠に入れて食糧として携帯し、これで大丈夫というので、甘蔗畑の間を通って警官派出所へ行って泊る。そこには警官が5人ばかりいるが夜具も飯もなくお茶ぐらいを沸かしてくれる。そこで三人は一室を借りてゴロリと寝て、翌朝は携帯の紅茶やミルクなどを飲んでまた出発し、その晩もまた辿り着いた交番に泊る。台南を出て奥に入ると嘉義までは宿屋というものはなかったのであります。もっとも私は嘉義までは出ず、嘉義の少し手前まで行って、たいていこれで様子が分ったというので私だけは還りましたが、鈴木さんや山本さんは専門家でありますから、もう少し視たいというので高雄までだったか鳳山までだったか行ったように思います。当時は鳳山が都会で、高雄は大した所ではなく小さなジャンクの港で重きを置いていなかったのであります。お二人はそういう所まで視て行きたかったのでしょうが、私は商売の方であるから、もうこれ以上は必要はないと二人にお別れして、安平に出てまた基隆に戻り、出発の際総督の命令がありますので、再び児玉総督にお目にかかりました。 藤原銀次郎伝 水谷啓二著P57-59(その1) さて三人の調査委員は、同じ船で台湾に渡った。基隆に着くと、まず児玉総督を訪問した。総督の官邸は、廟のような支那風の家で、総督の住居としてはいかにも貧弱なものであった。総督は竹の椅子に腰かけていた。三人は総督にあいさつしたが、総督は藤原が中上川の部下であったことを知って。いくらか警戒したものとみえて、藤原にむかって、長州弁まる出しで、「お主(ぬし)はなにしに来たか」と言った。「私は、台湾に製糖会社をつくるが良いか悪いか、調査に来ました」と答えると、総督は、「そんな馬鹿なことがあるか!」と一喝した。いくらこちらが弱輩でも、始めて会った者にたいしてはけしからぬことを言う人だ、と腹を立てて、藤原は無言のまま、児玉総督の顔を見つめていた。すると、児玉総督はとつぜん笑いだして、「台湾に製糖会社をつくることはもう決まっているのだ。お主は台湾で製糖をやるには、どうしたら巧くやれるか、調べに来たのだ」「その通りです」と答えると「それなら行け」と、まことに簡単明瞭である。しかも抑えるところはチャンと抑えている。児玉総督が、製糖会社をつくることは既定の方針として調査させることにしたのは賢明であった。別れるときにも、「お主は帰りに俺に会うて帰らんといかんぞ」と一本釘を刺すのを忘れなかった。「承知しました」と答えて、三人は総督府を出た。三人は、基隆から船に乗って、台南の近くの安平に向かった。澎湖島のそばを通り、安平に着いた。海が遠浅なので、本船は二里くらい沖合いに停泊し、そこから竹筏に乗って上陸した。安平から人力車で台南に行き、四春園という宿屋に泊った。そこは支那風の家に畳を敷いただけの殺風景なものであった。 台南で警察の人たちと打ち合わせた結果、調査委員一人について警官が一人ついて、鉄砲をかついで護衛してくれることになった。藤原たちも、内地から用意してきたピストルを持ってゆくことにした。そのころ台南市内は安全だったが、半里も市外へ出ると、土匪が出没したりして危険であった。食糧は、ビスケットやミルクなどを仕入れ、支那籠に入れて苦力に持たせた。これで用意はととのったので、調査隊は台南を出発し、ひろびろとした平野を嘉義の方に進んだ。このあたりは甘蔗(砂糖きび)がよくできるので、人間の背より高い甘蔗の畑がどこまでもつづいていた。調査隊はその間の田舎道を通り、夜は警察の派出所に泊った。そこには警官が5人ばかりいたが、夜具もなければ飯もなく、お茶をわかしてくれるだけだった。三人は、派出所の一室を借りて着のままでゴロリと寝て、翌朝は携帯してきた紅茶やミルクを飲も、ビスケットをかじってまた出発した。その晩もまた、たどりついた交番に泊るのである。台南を出て嘉義までは、宿屋などはなかった。藤原は、嘉義の少し手前まで行き、大体の様子がわかったので、台南に引き返した。鈴木藤三郎と山本悌二郎は専門家だから、台南からさらに南方の高雄や鳳山のあたりまで行って調査した。藤原は二人に別れ、安平から船に乗って基隆にもどり、出発のさいの約束があるので再び児玉総督を訪ねた。
2026.05.07
「永平家訓抄話」澤木興道 4-16 第二句で「祖師未だ弄せざる、識と神と」この識というのは、われわれの意識生活を倶舎とか唯識あたりでは眼耳鼻舌身意、それから末那識、阿頼耶識といったもので説明している。ところが世の中の大抵の人は、まあ六識でもいいが、この六識というものが本当にあるものだと思いこんでいる。また神、即ち神識というもので、世界の構造が説明してあると、本当にそんなものがあって、すべてを支配しているものだときめてしまっている。だからして、八卦を見てもろうたり、拝んでもろうたりして、何ぞあると思っておる。 八卦でどうなるのか。見てもろうて方角が悪ければどうなるのか、家移りでもするのか、わたくしが大中寺におるとき、わたしの人相を見た者があって、「大したものじゃ、年は九十くらいまで生きるし、出世する」とかいっていた。こっちはちょっとも出世してはいない。この間もあやまってわたしの手相を見た者がおった。この手がめったにない、いい手相だそうだ。そうでいうことにはやはり出世するとか、なんとかばかなことばかりいっていた。あなたのこの手のここのところに何があるとか、またこの手筋はあらゆる艱難を突破するとかいっていた。いったい、どんなのが突破というのか、こっちにはわからん、いつも当り前である。 ところが世の中の者は、何とかかんとかいわれると、何やら神様みたいなものがそこらにチラチラ見えるような気がして大騒ぎをする。ところが祖師たちには「祖師未だ弄せざる、識と神と」こういうことはけっしてありうることではない。祖師たちの例をあげても、お釈迦さまは出世も何もしてござらん。王位を捨てて乞食をして、しまいには跋提河(ばつだいがわ)のほとりで、体が痛い、しとねもつくってくれとおっしゃっている。野垂れ死にといえばちと何じゃけれども・・・・・。けっして王城の金殿玉楼の中でご入滅になったのではない。 それなら弟子たちはみな幸福かといえば、目連尊者はなぶり殺しにおうている。まったく目連尊者の神通第一はどうなりましたかといわなければならない。その神通力ということも、世間で考えているようなものとは違っておることはきまっておる。二祖大師は殺されておる。三祖は癩病患者である。実にこれらは人間の幸不幸で評価すべきものではない。 それなら仏教を信心するのをやめておこうかというならば、やめてもらっても差支えはない。やめて何ぞ幸福なことがあるなら、そっちへ行った方がよい。仏法を信心したからといって、金がもうかったり、いい嫁さんが授かるわけではない。またうまい物がよけい食えるようなものではない。わたしらも、在家で金もうけしておるなら楽をしておるのじゃけれども、年寄って毎日お腹が痛いか、くしゃみが出るか、微熱が出るかする。この間も旅行先で日に4時間も6時間も立って講演せんならんこともあった。そのときは腹を冷やして、講演しながら腹下しをやって往生した。その始末するのにこっそり自分でやらなければならない。それはあまりいいことではない。七十過ぎの年寄りになっても、きたないカバンを下げて・・・・・。これも仕方がない。楽をするつもりで坊主になったのではないし、出世しようと思って坊主になったのではない。坊主になりながら野垂れ死にしようと思ってなったのだからしようがない。(「永平家訓抄話」p.314-316)
2026.05.07
188二宮翁逸話 *本文中「翁」は「二宮先生」と読み替えた。7 学者は塗り盆のごとし二宮先生が富田高慶に面会を許さなかった時に、門人某にこう言われたそうである。「学者という者はちょうど塗り盆のようなものである。新しいうちはとかく水をはじいて吸収しない。それだからせっかく面会しても、話が水泡に帰するの恐れがある。塗りが剥げないうちは面会するも詮ない訳であるが、聞けばお前の家に半年もいるということであるから、もうだいぶ塗りが剥げたであろう」と言って遂に面会を許されたということである。この話は富田高慶が柴田順作翁に話されたというて静岡県庵原(いばら)村報徳社長西ヶ谷可吉氏が余(留岡幸吉)に語られたのである。☆富田高慶は、字(あざな)は弘道、任斎と号し、通称を久助と呼んだ。斎藤嘉隆の二子で文化11年の生まれ、幼い時から能力が優れ、文武の道を修めた。はじめ若殿の近侍(きんじ:側近くに仕える)となった。天明の大飢饉からほどない頃で、藩財政は窮迫を窮めていた。これを見て17歳の高慶は、藩財政を救おうと志を立てて、江戸に上り、成島氏の塾に入ろうとしたが、火災のため果たさず、屋島弘賢の門に入り、ついで昌平黌(しょうへいこう:江戸幕府の学問所。1632年、林羅山が上野の忍岡に孔子廟を営んだのが起源。徳川綱吉が1690年神田湯島に移転。林家が大学頭(だいがくのかみ)となり、官学としての昌平黌(湯島聖堂)が成立した。)の儒官依田、古賀等の塾生となって勉学すること約十年。この間、学費を家に仰ぐことなく、筆耕をもってあてた。そのため、帯を解いて床に入ることなく、常に机によって仮睡した。こうして勉学が大いに進み、師の屋島弘賢の代講をするまでになった。しかし、一藩の衰廃を復興する方法に関しては、なんら得るところがなかった。ところがたまたま病気となり、医者磯野弘道の診察を受ける機会があった。磯野は、読書をやめ、治療に専念することをさとしたが、富田は自分が学問に志すのは、国(相馬藩)を富ますためであって、病気のため年来の志を廃することはできないと答えた。磯野の門弟に、野州芳賀郡から来ている奥野公民という者がいた。彼が富田に「二宮金次郎という者が自分の近くの宇津家の領地で、荒地を復興して実績を挙げている」と告げた。これを聞いた富田は、これこそ求めていた師だと思い、書籍を売り払って金に替え、芳賀郡物井村に尊徳を訪ね、教えを請うた。天保10年6月1日、富田久助27歳の時であった。尊徳先生は儒学者には用はないと面会を許されなかった。そこで富田は小栗村の奥田の家に行き、近くの高田村の太助と、桜町陣屋に出入りしていた畳屋源吉の二人に頼んで先に入門を願い、医者の荒木と同道して尊徳先生の門をたたいた。ところが尊徳先生は「ひまが無い」と面会を許されなかった。6月3日、4日、9日、13日と訪問したが、面会を許されない。出入りの者に聞くと、ちょっとやそっとではだめだろうと言う。そこで彼はこれは自分の誠心が足らぬからだと考えた。昔、熊沢蕃山(くまざわばんざん:江戸前期の陽明学者。京都の人。中江藤樹に学び、岡山藩主池田光政に招かれ治績をあげた。著に「大学或問(わくもん)」、「集義和書」、「集義外書」がある。)は、中江藤樹に入門するとき、二昼夜、軒下に立って面会を待ったという。半年、一年くらい何であろうと、半里ほど離れた隣村の谷田貝村の農民の太助の家に仮住まいし、しきりに尊徳先生を訪れた。そして生活のため、小栗村に寺子屋を開き、かたわら尊徳先生を訪れた。先生は相変わらず面会を拒絶され、富田は、先生が門人にさとす教えを聞いて慰めていた。 季節は移り、秋となり、ある日尊徳先生は思い出したかのように「かの学者はまだ居るか」と聞いた。「あいかわらず入門を許されたいと待っております」と門人が答えると「会ってみよう」とここに初めて面会がかなったのである。時に天保十年(1839)9月27日実に4ヶ月弱である。喜んでまかりでた富田に尊徳先生は、「お前は豆の字は知っているか」と尋ねた。富田は言われている意味が分からず、紙に豆の字を書くと、尊徳先生は笑われて、「おまえの豆は馬は食わぬが、私の豆は馬が食う」と本当の豆を示されたという逸話が残る。 また、ある時、富田が「先生はこの法を行えば相馬藩は復興するとおおせられたが、わが藩の衰貧ぶりは並大抵のものではない、そう容易に復興できるでしょうか」と聞いた。尊徳先生は、「包装した樽は一見しては何であるかわからないが、錐(きり)をさして漏れる一滴を嘗めればわかる。あなたは相馬の一滴である。」そういって激励したのであった。
2026.05.07
バーン リンさん、コロリで家族を亡くしていますか?リン なぜ分かったのですか?バーン observationりん 教えてください。私、看護婦を見たことないんです。ここにいる誰も。みんな初めてだからわかんない。なんでシーツにこだわんのか、何が看護で、何が看護じゃないのか。バーン think yourselfバーン先生、りんの看護に合格を出す「あなたが病に倒れてしまえば、その患者をあなたの看護を受けられません。あなたが看護婦になれば、家族を失いあなたと同じ思いをする人を減らすことができます。」💛バーン先生が登場してから、急に面白くなってきた(^^)看護をめざす生徒、必見?
2026.05.06
前商工大臣藤原銀次郎氏御講演「台湾糖業創始時代の思出」(台湾製糖株式会社)抜粋 昭和16年1月10日、屏東本社に於て挙行せる財団法人武智記念財団発会式に於ける御講演 台湾創立準備調査(p3-9)明治33年に支那に義和団の乱という事件がありました。ご承知ない方もあると思いますが、そういう事件がありました。当時、私は漢口の三井物産におりました。三井物産はその頃から初めて漢口に出張員を置くことになり、私がその出張員として店を設けておったのであります。ところが、その騒動で在留の外国人は全部引き揚げることになり、私も日本に帰り身体があいていたので東京で休養しておりました。すると、三井物産の当時の社長であった益田孝さんが私を呼び出されまして、今度台湾に製糖会社を興そうという話が起きて来たが、引き合うかどうかいろいろ話があって相当面倒なことになっている。ついては製糖専門の技術の方は、大日本製糖社長の鈴木藤三郎君が日本に於ける砂糖技師として最も優れているから、鈴木君に委員長格でやってもらう。次に農業方面のことは、ドイツから帰って仙台の高校の教授や勧銀の理事をやってきた新帰朝、新進気鋭の山本悌二郎君にやってもらう。もう一人工業方面の知識を持っていて商売上の知識もあり、この事業が引き合うかどうか調べる人がほしいんだが、それには身体があいている君が行って三人でやってみてくれないかと言われたので、私は喜んで承諾いたしまして、やがて三人は同じ船で台湾に行きました。その船の名は覚えておりませんが、わずか千何百トンか二千トン以内の船だったと思います。 藤原銀次郎伝 水谷啓二著P57-59明治33年4月のこと、山東省の一角に外国人排斥を目的とする義和団という一団が現われ、それに飢饉のために飢えた民衆が加わって、各地で掠奪殺傷を行い、北京へ迫った。そこで日本をふくむ六か国が出兵して暴徒を撃退したが、中国全土は騒然となり、民衆の対外感情も極度に悪化した。上海や漢口の物産も、商売ができなくなったので、藤原は一時内地へ引き揚げた。藤原が内地に帰ると、新たな仕事が待っていた。それは台湾の製糖事業の調査であった。・・・児玉総督と後藤長官は、台湾にもっとも適した事業として製糖事業に目をつけ、資本金百万円で一大製糖会社を設立する計画を立てた。・・・台湾に調査団を派遣することになった。物産の益田社長は、中国から引き揚げて来たばかりの藤原を呼んでいった。「こんど、台湾に製糖会社を興そうという話が起きてきたが、事業として引き合うかどうか、いろいろ議論があって、相当面倒なことになっている。ついては、製糖専門の技術の方は、大日本製糖〔当時は日本精製糖株式会社〕社長の鈴木藤三郎君が日本では砂糖技師として一ばん優れているから、鈴木君にやってもらう。つぎに、農業方面のことは、ドイツから帰って仙台の高校の教授や勧銀の理事をやっていた新進気鋭の山本悌二郎君にやってもらう。もう一人工業方面の知識をもっていてしかも商売上の知識もあり、この事業が引き合うかどうか調べる人がほしいのだが、それには身体があいている君がやってもらいたい」銀行と物産の両部門における藤原の経験が、はからずも役に立つ機会が訪れたのである。しかもこの調査団は、事業として引き合うかどうかという結論を出すのが目的だから、藤原の役割はきわめて重要であった。調査委員の人選がきまると益田は直ちにそのことを児玉総督に連絡した。藤原が中上川の部下であったことも知らした。さて三人の調査委員は、同じ船で台湾に渡った。
2026.05.06
9森町報徳社の設立と山中家の仕法 1852年(嘉永5)閏2月、庄七の指導により森町報徳社が結成された。ただ「森町報徳社」という名称はこの時点では使われておらず、報徳を信奉しようとする仲間が数人集まったという程度の組織であったと思われる。1852年閏2月の「勤行義定連印帳」には「休」や「病死」の抹消を除くと、8人が銘記されている。そこには、里輔(里助)、常造(常蔵)の名も見える。連印帳によれば、彼らは毎月3日、13日、23日に集うこと(参会)にした。参会の日は、朝から心がけて7つ時(午後4時)には仕事を終えるようにし、暮れ前に余業を行って、夕飯後集まるようにした。参会では、重立った者が「御報書」の読み聞かせをしたり、「勤行之図」を見て感服したり、農業や家業の「勤方」などが話し合われたりした。また、「義定一札之事」として、無駄な出費をせず余業に励みできたものを日掛けにして積み立てておくこと、公儀法度を守ること、天照皇太宮ならびに氏神への拝礼、困窮者には「窮民撫育金」を入札により「無利足年賦」で貸し付けること、休日には早朝から昼まで村内の道造りをすることなどが決められた(資料編4、148号)。この「勤行義定連印帳」には、里助、常蔵のほかに「勘左衛門」の名が見える。山中勘左衛門である。山中家の当主は代々勘左衛門を襲名しており、この勘左衛門は9代目山中勘兵衛で、新村里助の兄にあたる。勘兵衛も里助同様報徳に熱心であった。勘兵衛は森町村の名主も勤めた人物である。そんな勘兵衛がなぜ報徳に熱心に取り組んだのか。ここで少し山中家のことにふれておこう。勘兵衛や里助の父豊平(とよひら)は『遠淡海地志』をはじめ多くの記録を残しているが、その中には当時の山中家の窮状が記されている。豊平の記録「書取の覚」によれば、豊平の実父庄左衛門の時代には「森町村に田地高七十石余、天宮村に同三十石余、深見村に百十三石余、其の外少々宛の田地・山林は、蓮華寺領・粟倉村・草ヶ谷村・黒石村・野部村・西山村・戸錦村・福田地村・鴨岡村等にも越石(こしこく)所持」していたが、庄左衛門の死後、親戚の借金の返済のため深見村田地を手放したり、借金の回収ができなかったりして「身上追々不勝手」になっていった。また、後見人の叔父も病死するなど「数度の厄難にて困窮」していたのである。とはいえ、豊平は組頭役や名主役を勤め、俳諧や和歌など多趣味であったというから、必ずしも今日明日の暮らしに困るという窮乏ぶりではなかったと思われるが、家運の傾きは明らかであり、豊平を継いだ勘兵衛が報徳に熱心になる理由は十分あったのである(山中真樹夫『遠淡海地志』)。勘兵衛が自家の家政改革のために立てた山中家家政仕法計画(表略)を見ると、「暮方入用」を35両2分におさえ、そうして生じた「賄増金」などを借金返済等にあてる計画であることが分かる。「分度」、「推譲」という報徳の考え方に基づいた計画であった。これは計画であり、実際の効果は明らかではないが、いずれにせよ勘兵衛は、報徳社だけではなく報徳を日常的に実践し家政の回復を図ろうとしたのである。尊徳との面会 1852年(嘉永5)の暮、佐野郡成滝村(現掛川市)の平岩佐兵衛は、旧主の病気見舞いのために江戸に向かったが、その際二宮尊徳が相馬藩の中屋敷に滞在していることを聞きつけた。佐兵衛はさっそく訪問したが会えず、二度目にも会えず、明けて正月7日3度目にして面会することができた。その時尊徳は遠州の報徳の重立った世話人たちを当方に呼ぶよう取り次ぐことを、佐兵衛に指示した。勇躍遠州に帰郷した佐兵衛は、それを遠州の報徳人に知らせたのである。1853年春の報徳大参会は山名郡高部村(現袋井市)の高山藤左衛門方で開かれた。ここで遠州報徳連中419人の総代として日光にいる尊徳のところにだれがいくかが議せられ、7人が選ばれた。佐野郡影森村(現掛川市)内田啓助、倉真村岡田佐平治、気賀郡竹田兵左衛門、同町松井藤太夫、森町村中村常蔵、同村山中里助、下石田村神谷久太郎の7人である。同年8月10日一行は安居院庄七に連れられ出発した。一行は二手に分かれ、佐平治、里助、常蔵、久太郎の4人は、途中十日市場にある安居院家を訪れたり、曽比村(現小田原市)の剣持広吉のところで報徳の資料を写したりして、尊徳のいる桜秀坊を訪ねたのは9月に入ってからだった。9月4日一行は揃って桜秀坊を訪ねたが、尊徳は多忙のため会えない。やむなく一行は仕法書を写しつつ逗留を続けた。待つこと1週間以上に及び13日にやっと面会することができた。庄七にとっても尊徳に直接会うのは初めてであり、一行の感慨はひとしおであったろう。一行は「報徳安楽談」(※)などの報徳書を頂戴して、面会の2日後帰途についた。桜秀坊では里助も多くの仕法書を写した。既述のように、報本社には多数の仕法書の写本が残されているが、その一部はこの時写されたものと思われる。 ※「報徳安楽談」とはどういうものだろうか?「森町史」の資料編4にはこうある。150 三才報徳現量鏡 慶応3(1867)・5 森町森 山中真喜夫氏所蔵「三才報徳現量鏡(序文之写) そもそも御良法の根元は去る嘉永5年(1852)相模国十日市場村安居院庄七殿、当国不入斗村庄左衛門殿方に御逗留中、当町常蔵・里助両人宇苅中村茂兵衛殿へ相願い候処、御断りこれ有り、再三歎願仕り、御門人の紙面持参、その侭不入斗村庄左衛門殿宅にて初めて尊顔を得奉り、御趣意の趣き伺い奉り候処、人たるの道は恩を知り、徳を報い候御趣意種々御教導に預かり、一々感服仕り、及ばずながら九牛の一毛も御恩徳を報い奉じたく罷り在り候折柄、嘉永6年(1853)御随身中様より御達しこれ有り、当国にて重立ち候者庄七召連れ、二宮大先生御元へ罷り出るべき旨仰せ聞えられ候につき、当国惣代倉真村岡田佐平治殿、影森村啓助殿、下石田村久太郎殿、気賀郡兵左衛門殿、同町藤太夫殿、森町里助・常蔵参上仕り候処、日光山桜秀坊へ 大先生を始め奉り、御随身御一統御逗留遊ばせられ、惣代の者へ御目見仰せ付けられ、大善道の御教諭の中、瓜の種を蒔けば瓜生じ、又茄子の種を蒔く時は茄子生じ、茄子実る世の中のありさま詳しく御教誨下し置かれ、その上報徳安楽談御教諭書 富田先生御手元より下し置かれ、重々冥加至極有難く朝夕拝見仕り、(以下略) 慶応3(1867) 重世話人 勘左衛門 同 常蔵 同 里助」つまり、「報徳安楽談」は尊徳先生その人からではなく、富田高慶が手元の本を渡したものらしい。 「報徳安楽談」(現代語訳:文責地福)むかし万物がまだ循環していない時、よい手づるによって村中にこれ以上ないという柿の種を求めて蒔いて育て次第に成木となり、花が咲き実がなって熟したのを秘蔵にしていた。囲の外からうかがう子供らはもちろん、大人まで珍しいとめでて、それぞれ自分の家に無いことを憂え、うらやみ好んで、ついに欲心を生じて奪おうと欲する時、厳しく制するならば王法を恐れ慎むようであるけれども、子ども心のあさましさ、折に触れ、時に乗じ野心をおこして奪うならば、わずかであっても泥棒となり差し支えがある。その人情を察して、願わくは自分が丹精を積んで余分に植え付けて実って熟したならばその珍しい物を譲り施し、蒔き植えさせたい旨を言って諭すならば、子供らはもちろんその父母兄弟に至るまですぐに欲心が変じて善心を生ずる。願わくは何度も何度も恵み施す時には、幼い子どもや田舎の人間でもその恩恵に服してどうして徳に報わないことがあろうか。これ、すなわち日月が照す所、風雨が循環する所で制しなくても境界が正しく道理が行われ、一村が一家のように内外睦まじく世々安楽国に疑いがない。経に曰く、願わくはこの功徳を以て平等に一切に施し、同じく菩提心を発して安楽国に往生せん事を。
2026.05.06
188二宮翁夜話巻の3【17】尊徳先生がおっしゃった。「孝経に、『孝弟の至りは神明に通じ、四海に光りおよばざる処なし、また東より西より、南より北より、思うて服せざる事なし』と。この言葉は俗儒の説くところは、何の事とも解りがたい。今わかりやすく引き下して言うならば、孝とは、親の恩に報いるの勤めである。弟は、兄の恩に報いる勤めである。すべて世の中は、恩を報わなければならない、この道理をよく心得れば、百事心のままになるものである。恩に報いるとは、借りた物には利を添えて返して礼を言い、世話になった人にはよく謝礼をし、買い物の代金はすぐに払い、日雇の賃金は日々払って、総て恩を受けた事を、よく考えてよく報いる時は、世界の物は、実に自分の物のように何事も欲するとおり、思うとおりになる、ここにに到って、神明に通じ、四海に光り、西より東より、南より北より、思うとして服さないことはないようになるのである。それなのに、ある歌に「三度たく飯さへこはしやはらかし思ふまゝにはならぬ世の中」と言う。大変間違っている。これは勤める事も知らず、働く事もしないで、人の飯を貰って食う者などの詠んだものであろう。この世の中は前に言ったとおり、恩に報いる事を厚く心得るならば、何事も思うままになるものである。それなのに思うままにならないというのは、代金を払わないで品物を求め、蒔かないで、米を収穫しようと欲するからである。この歌の初め句を「おのがたく」と直して、自分の身の事にすれば、少しはよかろうか。☆孝経「子曰く、それ孝は徳の本なり。教(おしえ)のよって生ずるところなり。・・・子曰く、親を愛する者は、あえて人を悪(にく) まず。親を敬する者は、あえて人を慢(あなど)らず。愛敬(あいけい)親に事(つか)うるに尽(つく)して、徳教百姓(ひゃくせい) に加わり、四海に刑(のっと) る。蓋(けだ)し天子の孝なり。 ・・・天の道を用(もち)い、地の利を分(わか)ち、身を謹み用を節し、以て父母を養う。これ庶人の孝なり、と。ゆえに天子より庶人に至るまで、孝に終始なくして、患(わざわ)いの及ばざる者は、いまだこれあらざるなり。曽子曰く、甚(はなは)だしいかな、孝の大なるや。子曰く、それ孝は天の経(けい)なり、地の義なり、民の行いなり。 ・・・人の行いは、孝より大なるはなし。・・・子曰く、孝子の親に事(つか)うるや、居(おる)にはすなわちその敬を致し、養(やしない)にはすなわちその楽(たのしみ)を致し、病(やまい)にはすなわちその憂(うれい)を致し、喪(も)にはすなわちその哀(かなしみ)を致し、祭(まつり)にはすなわちその厳(げん)を致す。五つのもの備わりて、しかる後よく親に事う。親に事うる者は上(かみ)に居て驕(おご)らず、下(しも)となって乱れず、醜(もろもろ)に在って争わず。・・・宗廟(そうびょう)に敬を致せば親を忘れざるなり。身を修め行いを慎むは、先を辱(はずかし)めんことを恐るるなり。宗廟に敬を致せば鬼神著(あらわ)る。孝悌の至りは神明に通じ、四海に光(み)ち、通ぜざるところなし。詩に云く、「西より東より、南より北より、思うて服せざるなし」と。【18】尊徳先生はおっしゃった。子貢は言った。紂(ちゅう)王の不善はこのようにひどいものではなかろう。これを以て君子は下流に居るをにくむ、天下の悪は皆これに帰する、とある。下流に居るとは、心の下った者とともにいることをいう。紂王も天子の友とするべき者、上流の人をだけ友となすならば、国を失い、悪名を得る事も有ることがなかろうに、婦女子が佞悪者だけを友としたために、国は滅びたために悪がこれに帰したのだ。ただ紂王だけのことではない。人々皆同じだ。常に太鼓持ちや、三味線引などとだけ交ったならば、たちまち滅亡に至るは必定である。それもごもっとも、これもごもっともと、錆付く者とのみと交わるならば、正宗の名刀であっても腐れて用いる役立てることができないであろう。子貢はさすがに、聖門の高弟である。紂の不善此の如く甚しからずといい、これをもって君子は下流に居る事を悪(にく)むと教えた。必ず紂の不善も、後世伝えるように甚しいことはなかったであろう。なんじらも自ら戒めて下流にいてはならない。【19】尊徳先生はおっしゃった。「堯(ぎょう)は仁をもって天下を治めた。民は歌って言った。井戸を掘って飲み、田を耕して食らう、皇帝の力ななんぞ我にかかわりが有ろうか」と。これが堯の堯であるゆえんであって、仁政が天下に及んで跡がないようであるためである。名宰相の子産のごときにいたっては、孔子は「恵人」と呼んだ。【20】尊徳先生がおっしゃった。論語に、孔子に問う時、孔子が知らずと答える事がしばしばある。これは知らないのではなく、教える場合ではないのと、教えてもためにならない場合がある。今日、金持の家に借用を申し込むのに、先方で折りあしく金がないというのと、同じ場合である。知らずということに大きな味わいがある。よく味わってその意味を解しなさい。
2026.05.06
「永平家訓抄話」澤木興道 4-15それならば、世の中には何ぞになることがあるのか。何ぞになることがあるなら教えてもらいたい。金をもうけたら何になるのか。金をもうけても何にもならんのだけれども、何かになっているようなつもりになっておるだけではないか。只管飯、飯を食うと何になる。何にもなりません。そのもっと根本からいうと、おれが生まれて何になる。偉そうな顔をしているけれども、別に何も大したことはない。そうすればわれわれは只管寝る。そして寝床の中まで内職は持ち込まん。寝るときはただ寝る。一切のものがこれ、何にもならない。これを無所得、あるいは不可得というのである。この無所得、不可得がすなわち法性真如の本体、仏法の正体である。お釈迦様を見てもわかるじゃないですか。出家なさって何をもうけられたか。国王の位まで捨てて・・・・・。あんな賢い方が国王をやって、近所の国と戦争したら勝つことはきまっておるのに。戦争に勝って一代の間に何倍になって金持ちになったところで、やがて子孫は、必ずちょろまかされて滅びるにきまっておる。何もたいしたことはない、近眼で見ていたら偉いような気がするだけのことである。どこやらに金をもうけたやつがあったが、別邸を作り自動車を乗り回し、妾を何人も作ったが、脳溢血でバタッと倒れて、それでおしまい。いったい彼が何をしたのか、何にもありゃしない。金に物をいわせて、できもせん子供を、いい学校へ入れてもろうたりしたって、阿呆な子供を着飾らすだけで、大したことはない。この無所得、不可得をどこにも「法として阿耨多羅三藐三菩提の得べき有ることなし」といってあるのは、まことに痛快といわなければならない。『正法眼蔵』供養諸仏の巻を読んでごらんなさい。何千何万、何億かの仏を供養した、いよいよどんづまりのところで「法として阿耨多羅三藐三菩提の得べき有ることなし」とある。この無所得というところに、記別があるわけである。この何もならんところまで体達しなければ、仏法も鉄砲もあったものではない。そこで沢木さんのところへ行っても、何にもならんならやめておこうかというなら、どんどんやめてください。本当にそれは何にもならないのだから。念仏申そうが、坐禅しようが、金をもうけようが、そんなことは人生に本当のところ用事のあることではない。この真に体達するだけが人生の眼目でなければならない。だからほかのことはどうかこうにかやっていさえすればよいわけである。わしらみたいなものは居候名人になってしまって、ただで飯を食っておるから米相場を知らんし、あくせくやって銭をもうける必要はない。着物は衣文竿みたいなもので、人の着せたものを着ておる。ようしたもので、寒くて困ったなと思っていたら真綿や、毛糸のパッチをもろうたりしてたすかった。世の中には相場の上がり下がりはあろう、そんなことには無関係で、わたしらはいつもただだから同じ相場である。(「永平家訓抄話」p.313-314)
2026.05.06
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