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磐田郡における耕地整理の起因 名倉太郎馬(大日本報徳学友会報第二十一回二四頁)第十八回の続き明治八年一月より着手して同年十二月に至りてことごとく竣功せり。而して当彦島も、これと同時に、右悪水路をはじめ道路及び畦畔溝渠等に至るまで、同年十二月地租改正の際、土地丈量とあわせて、これが竣功を告げたり。而して耕地整理のために増歩すること、実に十町八反余歩に達せり。これかくの如き多大なる増歩地を生じたるは、ひたすら当村は、水害多き所とて、不毛の地多く、沼沢等、かや又はその他の雑草叢生する所、多かりしによるべしと雖も、その増歩一割五分以上に達し、またこれが改良によって、爾後水害を免がるる事を得る等は、実にその効の大なるものありて存するなり。然して以上の如く、彦島区耕地悪水路修正に関する、諸費総額は、ハ百余円に及びしも、当時困窮の事とて、これが費用は一切徴収する事なく、これをことごとく県より無利息年賦償還をなせり。爾来水害のうれいなく、農産の術も進歩し、村民皆勉以てその業につとめたりしを以て、十分なる秋収を見るに至り、十ヶ年の見積仕法も、僅かに五ヶ年、すなわち明治十一年十二月に至り、十数年渋滞の公私の借財並びに、耕地整理費の借入金等合計四千余円は、これをことごとく償還し、なお八百余円の剰余を生ずるに至れり。 それ、耕地整理の効たるや、かくの如し。これら実況を他町村有志の聞知するところとなり、遠近各地より当村悪水路及び耕地区画の修正状況並びに報徳結社方法及び困窮村落回復の方法につき、来訪するもの日々多かりし。 今日静岡県において、報徳結社の隆盛を致せると共にまた耕地整理の盛大を極むる、また故なきにならず。(完)
2026.09.06
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大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(二)その3【開爐(二)】 風頭稍硬大家知 (風頭稍硬し大家知る)且聽商量暖處歸 (且く聴す商量暖処に帰ることを)般若如同大火聚 (般若は大火聚に如同す)近前燒郤兩莖眉 (近前すれば焼郤す両茎の眉) だから、例えば戒法を持つ。戒法を持っているという。しかし戒法を持っておるといっても、どういう具合に持っておるかということが大変な問題である。戒法を持っておるのは悪いのではないが、戒法を持っておると、そう思うておることがもう早や般若の傷である。『正法眼蔵私記』の中に修忘(しゅうぼう)ということがある。修行をしながら修行をしておるということを忘れておる。戒法を持ちながら、戒法を持っておるということを忘れておる。 悟りを開きながら悟りを開いておるということを忘れておる。これで初めて本当に悟りを開いておるのである。悟りを開いて、「おれは悟りを開いておるのを、ワイラ知っておるか。おれは悟りを開いておる」これがちょうど、今の学士院の会員になったとかいうように、悟りというものが社会的になって、つまり制度的になって、その組合に、どこの何某は悟りを開いておるという触れが回っておる。あにハカランや、それを見ると、実物を間違うておるのをしばしば見る。 何某は悟りを開いておるというと、そういう組合ではそのことが分っておる。何某は、どこそこの会下で悟りを開いたという。その悟りを開いたという人が迷うておる。十のうち九分九厘九毛われわれの知っておるところでは迷うておる。その悟りという実相般若は悟りながら悟りを忘れ、修行しながら修行を忘れる。だから「正戒の相も取らず、又邪念の心もなき」この正戒の相も取らず、邪念の心もなく、そういうことを象徴するのがこの大火聚である。悟りにも入らず、迷いにもズベリ込まず、そこのところをよう間違う。真宗の後生願いが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。悪人正機の御本願、ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」という。ところが、善いことをしたら仏さんから救うて貰えんから、なるたけ悪いことをしよう。朝暗いうちにお寺詣りをするのに、よそのうちの茄子を一つちぎってはナンマンダブツ、二つちぎってはナンマンダブツ。「この悪人なればこそ如来様のお救いいただきます。ありがたいことでございます。ナンマンダブツ、ナンマンバブツ」両方の袂に茄子をいっぱい入れて戻ったという。それは正戒の相はないが、邪念の心がある。 律僧が蟻一匹を殺してももったいないというのは、正戒の相を取らず。だが、青瓢箪の栄養不良になって、お粥のズルズルをすすって、鰹節のだしもあがらん。そして「わたしは一生精進物で飯を食うた。生まれてから雑魚一匹食うたことはない。鰹節のだしも食うたことはない」という。そりゃ結構、まことに結構じゃけれども、それが忘れられんというのは、一つのまた煩悩である。そんなら「おれはもう鰯に限る」これもまた煩悩である。そこのところの間もむずかしいのである。 ここに般若は大火聚に如同す。正戒の相なく、邪念の心なく、うっかりすると正戒の相を取る。うっかりすると邪念の心を取る。うっかりすると半善人になり、本当の悪人になる。「近前すれば焼郤す両茎の眉」両茎の眉、うっかりすると、眉を焼く、眉を怪我をする。息を吸いも出来ん。ちょうどいい塩梅というのは、これは非常にむずかしい。『宝鏡三昧』に「大火聚の如し」今開炉は大火聚に如同す。 この大火聚の如し、これは今開炉であるから、大火聚の如し。近前すれば焼卻す両茎の眉。二つ眉が焼けしまうぞよ。眉が焼けるように進めば、正戒の相を取る。退けば邪念の心を取る。進むも、退くも、どうにもこうにも、二進も三進もならん。 色を以て見、音声を以て我れを求めば、この人邪道を行ず。それかといって、求めねばなんにもならん。求めれば邪道を行ず。どこにこれは開炉をすべきものであるか。ここが大いに参究せねばならぬところである。 次が三首目。(大智禅師偈頌講話p.178-180)
2026.09.06
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「相馬市史6資料編3近世2」八―二三に、岩子村の村長渡部才兵衛が御仕法に深く感動して、米四十俵を仕法の資金へと上納し、生活に分度をもうけ、年々有余を推譲いたしますので他の困窮の家々を復興してくださいと申し立てたので、報徳役所が「推譲米無利五ヶ年賦貸附報徳米附雛形」を六十年分組み立てた書付に、誠明先生(二宮尊徳)の教えを再述し丁寧に記す。相馬仕法において仕法の趣意がどのように伝えられたかを知る上で興味深い。(現代語訳の試み)「推譲米無利足五ケ年賦貸付報徳米附雛形誠明(二宮尊徳)先生の至教に基いて、一村平均、中庸の教えによってて、家株分限を改正し、分外の田畑からの収穫した米十五俵を、永久の推譲米と定めて、別冊に取調べたところ、なおまた先生の至教に基いて、推譲米を無利息五ケ年賦として繰り返し貸付する報徳冥加米についての雛形を組み立てましたところ、六十か年の貸付高は三万二千五百四十俵、幾百家、幾千人の困苦を除いて推譲する元米九百俵が備わり、報徳冥加米六千五百八俵と増しました。前に記したとおりです。先生の教えに言う。「無利息の功徳は、なお太陽が国土を照したまい、観音菩薩が衆生の苦悩を除き、無量の福徳を与えたもうようなものである」と、太陽は世界を観じて、もろもろの苦悩を消し除き、もろもろの福徳を与えたまい、衰村の貧民に、借財があれば、利足や諸雑費の苦しみがある。質地があれば、収穫が不足するの苦しみがある。家株が不足すれば、食料が不足する苦しみがある。家が破れ、屋根が破れれば、風や雨や雪の苦しみがある、衣食が不足すれば、餓えや寒さの苦しみがある。農具や肥料がなければ、生育が不十分で収穫の不足の苦しみある。農馬がなければ、しろかきはもちろん重荷を負う苦しみがある。家財がなければ、万事不自由の苦しみがある。おのおのその苦しむところうぃ観察して、無利息五か年賦に貸し渡す時には、あるいは借財を償い、利息が出れ廃たる分の利益を生じ、あるいは質地を受け戻して、収穫物の利益を生じる。家株を得れば、暮し方に余裕がでる利益を生じる。家小屋を修理できれば風雨をしのぎ、また勤業安楽の利益を生じる。農馬を得るならば諸物運送の利益を生じる。家財を得れば、日々の生活の利益を生じる。おのおのその憂苦するところを免れて、その利益を得て、仰いでは父母を養い、俯しては妻子を育てて、一家が安心して相続する道が立つ。60年で循環するに及んでは、極難貧者が幾百、家の生産を安んじ、もし永久に取り行う時には、循環が極りなく、幾億万家の貧苦を除き、幾憶万人を相続させ、永安を得ること極りがない。実に先生の言われる日月の行く道に同じく、観音菩薩の無量の功徳に等しいとのたまわれた。またその通りである。人倫の道、何物をかこれに加えるものがあろうか。よって先生の至教に基いて、文学書算も手に取らない女子共にも呑み込みやすいように、雛形を組み立て、無利息の大徳を顕わした件、才兵衛の子々孫々に至るまで、慎んで遵奉し、分限を堅く守り、余米を年々推し譲り、雛形の通り取り行うように、以上 文久元辛酉年正月 報徳役所 岩子村 渡部太四郎殿、才兵衛殿、太右衛門殿 親類 小野田庄三郎殿 子孫、親類 中再び述べる経に曰く、願わくはこの功徳をもって一切に施し及ぼし同じく菩提心をおこし安楽国に往生せんことを。先生はこれを解して言われた。この無利息米をもって、一切の貧者に貸し与え、貧者が返納の志をおこすならば、貧富ともに永安の至楽を得るとおっしゃられた。富むものは、数千万余を積んでも、更に足ることを知らない、有るが上にも願い求めて、利欲に迷い、高利を貪って、他の者を省りみることなく、己一人の奢りに長じて、無慈悲の所行に陥って、遂に一家滅亡の禍いとなり、貧しいものは、家業を怠って、他の財を借りて、元利を返済する道を失い、いったん借用をもって、困苦を補い、助かった恩義を忘れることなく、ついに祖先以来の家株の退転となる、こように貧富とも、道を失い、利を失い、禍いを招くものは、凡情に通ずる患いである。先生はこれを富む者は驕り、貧しい者の惰弱の二つの弊害とし、富むものは自然の分にとどまり、驕奢の弊害を省みて、余分を生じ、貧者に譲り施して、貧しいものは怠惰の弊害を改めて、勤めてその徳に報じて、貧富が和する時には、財宝はその間に生じ、貧富は共に永安の地に至るとおっしゃった。才兵衛、このたび一村平均の中庸の天分にとどまり、驕奢を戒めて、倹約を守り、年々米十五俵の余分を生じ、推譲いたします。誠意の米穀は、得難い奇特というべきである、これを借用するものは、一粒たりとも如意宝珠のように尊敬し、それぞれ不足を補い、貧苦を免れ、五か年賦に返納致すならば、年二割の利息に当り、元来助成に預ったのと同じである。一家暮し方が整った上は、その恩義を理解しなければならない。恩を受けて恩を報じないものは、人ではない。父母の恩を報じる、これを孝という、主君の恩を報じる、これを忠という、もとより才兵衛は、報恩謝徳のために、差出した推譲米について、借用の面々は年賦を皆済した後に、冥加米を納めることはもちろん、その余、才兵衛の勤倹、推譲にのっとって、できるだけわきまえ、暮し方の中庸の節度を立てて、天分にとどまり、驕奢を戒めて、倹約を守って、年々余分を生じて推し譲る。これまた前書の雛形の通り取り行わなくてはならない。先生は「常に分外の有余を推し譲り、無利足に貸し出すものを称して菩薩界とし、借用して助かるものを称して衆生とする、そして衆生で、困苦のために無利足の米財を借用して助かり、年賦返納する時には、返納米をすぐに他の貧者に循環し、もろもろの艱苦を除くために、一たび年賦を納めるものは、たちまち衆生を出離して、菩薩界に入る」と教えられた。そうであればこの推譲米を借用して、一家の暮し方が整い、才兵衛同様に、天分にとどまり、余米を推し譲る分は、共に天地と功を同くする。観音と経を同じくするようになろう。才兵衛一人この道を行うときすら、60年三万有余俵の功徳を顕わす、借りる者数百家、同じく推し譲るに至っては、その功徳、計算できる数量にも及ばない。日月の照らすところ、霜露のおちるところ、あまねく人民の窮苦を救済し、大小の貧富ともに至道にかない、貧賤の者は危亡の禍いを免がれ、富貴安存これを得る。国家永く安楽に至るであろう、あにふかく信じないでよかろうか。どうして勉め行わなくてはならない」(一〇三三―四一頁)「推譲米無利足五ケ年賦貸付報徳米附雛形誠明先生の至教に基き、一村平均中庸の教えに因て、家株分限改正致し、分外田畑作徳米十五俵、永久推譲米と相定め別冊取調遣し候処、猶又先生の至教に基き、推譲米無利五ケ年賦繰返貸付報徳冥加米附雛形組立候処、六十ヶ年貸付高三万二千五百四十俵、幾百家、幾千人の困苦を相除き推譲元米九百俵相備り、報徳冥加米六千五百八俵と増益致し候処、前記の如し。先生の教えに曰く、無利足の功徳は、猶日陽の国土を照し給ひ、観音衆生の苦悩を除き、無量の福徳を与へ給ふが如しと、夫れ日陽は世界を観じて、諸の苦悩を消除し、諸の福徳を与ひ給ふ、衰邑の貧民、借財あれば、利足諸雑費の苦あり、質地あれば、作徳不足の苦あり、家株不足なれば、夫食不足の苦あり、家破れ屋根破るれば、風雨雪の苦あり、衣食不足なれば、餓寒の苦あり。農具糞直なければ、麁作して取穀不足の苦あり。農馬なければ、代掻(しろかき)は勿論重荷を負ふの苦あり、家財なければ、万事不自由の苦あり。各其の苦む処を観察して、無利五ケ年賦に貸し渡す時は、或は借財を償ひ、利足出廃の利益を生じ、或は質地受戻し、作徳の利益を生じ、家株を得れば、暮方有余の利益を生じ、家小屋修覆を得れば風雨を凌ぎ、又勤業安楽の利益を生じ、農馬を得れば諸物運送の利益を生じ、家財を得れば日用自在の利益を生じ、各其の憂苦する処を免れ、其の利益を得仰いで父母を養ひ、俯して妻子を育し、一家安心相続の道立つ一固度循環するに及びては、極難貧者幾百、家の生産を安んじ、若し永久取り行いし時は、循環極りなく、幾億万家の貧苦を除き、幾憶万人の相続、永安を得ると極りあるべからず、実に先生日月の行く道に同じく、観音無量の功徳に等しと宣ふに、又宜(むべ)ならずや、人倫の道、何物か此に加ふるものあらんや、依て先生の至教に基き、文学書算も手に取らざる女子共にも呑込易き様、前書雛形組立て、無利足の大徳を顕し置候条、才兵衛子々孫々至る迄、慎んで遵奉致し、分限堅く相守り、余米年々推譲り、雛形の通り取り行い申すべく候、以上 文久元辛酉年正月 報徳役所 岩子村 渡部太四郎殿、才兵衛殿、太右衛門殿 親類 小野田庄三郎殿 子孫、親類 中再述経曰願以此功徳施及於一切同発菩提心往生安楽国先生之を解して曰く、此の無利足米を以て、一切の貧者に貸し与ひ、貧者返納の志を発せば、貧富ともに永安の至楽を得と宣ふに、夫れ富むるものは、数千万余を積むといへども、更に足るを知らず、有るが上にも願ひ求め、利欲に迷ひ、高利を貪り、他の者を省りみず、己一人の奢りに長じ、無慈悲の所行に陥り、遂に一家滅亡の禍となり、貧きものは、家業を怠り、他の財を借り、元利返済の道を失ひ、一旦借用を以て、困苦を補ひ、相助り候恩義を忘却致し、遂に祖先以来の家株退転となる、此の如く貧富共、道を失ひ、利を失ひ、禍を招くもの、凡情の通患なり、先生是を富驕惰弱の二弊とし、富むるものは自然の可分に止まり、驕奢の弊を省みて、有余を生じ、貧者に譲り施し、貧しきものは怠惰の弊を改め、勤めて其の徳に報じ、貧富相和する時は、財宝其の間に生じ、貧富共に永安の地に至ると宣ふ、才兵衛、今般一村平均、中庸の天分に止まり、驕奢を戒め、倹約を守り、年々米十五俵の有余を生じ、推譲候誠意の米穀は、得難き奇特と云ふべし、是を借用するもの、一粒たりとも如意宝珠の如く尊敬し、銘々不足を補ひ、貧苦を免れ、五ヶ年賦に返納致し候はゝ、年二割の利足のみに相当り、元来助成に預り候同様なり、一家暮方相整い候上は、其の恩義を解せずんばあるべからず、夫れ恩を受て恩を報ぜざるは、人にあらず、父母の恩を報ずる、是を孝と云ふ、君の恩を報ずる、是を忠といふ、素より才兵衛、報恩謝徳の為、差出し候推譲米に付、借用の面々年賦皆済後、冥加米相納候儀は勿論、其の余才兵衛の勤倹、推譲に法り、可分を弁ひ、暮方中庸の節度を立て、天分に止まり、驕奢を戒め、倹約を守り、年々有余を生じ推し譲り、是又前書雛形の通り取行い申すべく候。先生常に分外の有余を推し譲り、無利足に貸出すものを称して菩薩界とし、借用して助かるものを称し衆生とす、然して衆生にして、困苦のために無利足の米財を借用し相助り、年賦返納する時は、返納米即他の貧者に循環し、諸々艱苦を除く故に、一たび年賦を納るものは、乍(たちま)ち衆生を出離して、菩薩界に入ると教え給ふ、然ば則ち此の推譲米を借用して、一家暮方相整い、才兵衛同様、天分に止まり、余米を推し譲る分は、共に天地と功を同ふし、観音と経を同ふするに至らん、才兵衛一人此道を行ふすら、一周度三万有余、俵の功徳を顕す、借る者数百家、同じく推し譲るに至ては、其の功徳、算勘数量にも及ぶべからず、日月の照す処、霜露の墜る処、偏く人民の窮苦を済救し、大小貧富共に至道に濠洽し、貧賤危亡の禍を免れ、富貴安存之を得、国家永く安楽に至るべし、豈可不暮信乎哉、豈可不勉行行乎哉」(一〇三三―四一頁)
2026.09.06
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「ユマニチュード」という革命p.118 ユマニチュードは人間性を取り戻すための哲学です。誰かをもの扱いするとき、そうしている人もまた人間性を失います。相手から人として認められ、自分も相手を人として認識する。それがユマニチュードの理念であり、そこに価値があるのです。・・・・・・ユマニチュードの定義と日本における普及の歩み優しさを伝えるためのケア哲学と造語の起源ユマニチュード(Humanitude)とは、フランスの体育学専門家であるイヴ・ジネスト氏とロゼット・マレスコッティ氏によって1979年頃に提唱された、知覚・感情・言語に基づく包括的なコミュニケーション・ケア技法です。この言葉はフランス語の造語であり、「人間らしくあること」を意味しています。その根底には、認知症や身体機能の低下によって人間らしさが脅かされている人々に対して、「あなたは大切な存在である」という敬意を伝えるケアの哲学が存在しています。医療や介護の臨床現場では、業務の効率化を優先するあまり、患者や施設利用者の反応を待たずにケアを進めてしまうことが少なくありません。フランスの介護施設を対象とした調査では、入室の際にノックをしないスタッフが半数を占め、残りの半数もノックをしたものの返事を待たずに入室していたという実態が報告されています。こうした環境では、言葉を話さない患者に対して一方的なケアが行われがちになり、結果として患者の心を閉ざしてしまう原因になります。ユマニチュードは、このような一方的なケアを「強制的な介入」と位置づけ、150以上におよぶ具体的な技術を通じて、双方向の良好な関係性を再構築することを目指しています。日本への導入と普及のタイムライン日本への本格的な導入は、独立行政法人国立病院機構東京医療センターの総合内科医である本田美和子医師が、2011年秋に渡仏して創始者であるジネスト氏のもとで研修を受けたことから始まりました。翌2012年から日本国内での普及活動が開始され、全国の医療・介護機関で研修会が開催されるようになりました。日本におけるユマニチュード普及の歴史的歩みは、以下のタイムラインのように、専門職の口コミやメディアの報道、自治体による先進的な取り組みを通じて急速に拡大してきました。ケアの根幹を支える「4つの柱」とその生理学的意義ユマニチュードを特徴づけるのは、抽象的な精神論にとどまらず、対象者の五感に訴えかける具体的な行動指針として「見る」「話す」「触れる」「立つ」という4つの柱を定義している点です。これらの技術は、認知機能が低下した人々が世界を認識するプロセスに基づき、生理学的な妥当性を持って体系化されています。各技術の生理学的特性と具体的アプローチ1. 「見る」技術認知症が進行すると、視野が狭窄し、周囲の状況を瞬時に把握することが困難になります。突然視野の外から触れられると、介護者を襲撃者と勘違いし、恐怖から暴言や暴力が生じることがあります。● 具体的技術: 相手の正面から、同じ目の高さ(水平線上)で、約20cmほどの非常に近い距離から、長く視線を合わせ続けます。● 生理学的意義: 水平な視線は「平等」、正面からの接近は「正直さ」、近距離でのアイコンタクトは「親密さ」を大脳へ直接伝達し、不安を取り除きます。見下ろす姿勢は支配的なメッセージとなるため、介護者は膝をつくなどして視線を低く保つ工夫が求められます。2. 「話す」技術言葉を返さない相手に対して、つい無言でケアを行ってしまう傾向がありますが、無言でのアプローチは「あなたの存在を無視している」という否定的なメッセージとして受け止められます。● 具体的技術: 低めの落ち着いたトーンを用い、歌うように優しく穏やかな口調で語りかけます。返事がない場合には、介護者が現在行っている動作(「背中を温かいタオルで拭きますね」など)を言語化する「オートフィードバック」を行います。● 生理学的意義: 聴覚情報と実際の体験を一致させることで、状況理解を促進し、突発的な刺激による驚きを和らげます。3. 「触れる」技術人間にとって、皮膚への刺激は情緒の安定に深く関わっています。しかし、介護の現場でよく見られる「手首を上からつかむ」といった接触は、自由を奪われる体験として恐怖を呼び起こします。● 具体的技術: 指先でトントンと叩くような接触を避け、手のひら全体を広げて広い面積で包み込むように下から支えます。また、顔や手、唇といった感覚が敏感な部位にいきなり触れず、背中や肩、上腕などの感度が比較的鈍い部位から優しく触れていきます。● 生理学的意義: 広い面積で包み込むような「面での接触」は、安心感と包容力を伝え、対象者の筋肉の緊張を緩めます。4. 「立つ」技術人間は直立して行動することで、身体のあらゆる生理機能が最適に働くように設計されています。寝たきりの状態が続くと、廃用症候群が急速に進み、認知機能の低下も加速します。● 具体的技術: トイレへの移動や洗面、着替えなど、日常生活の動作の中に立つ場面を自然に組み込み、1日に合計20分間立つ状態(立位)を確保します。● 生理学的意義: 骨に加重をかけることで骨粗しょう症を予防し、心肺機能や血液循環の改善、筋肉量の低下を防止します。また、視線が高くなり視野が広がることで脳により多くの情報が取り入れられ、認知症の周辺症状改善にもつながります。4つの柱における具体的技術と期待される効果関係性を築き上げる「5つのステップ」と日常生活への適用ユマニチュードでは、1つのケア行為を最初から最後まで流れるようなストーリーとして構成します。この手順は、人が親しい友人宅を訪ねて歓談し、次の約束をして帰宅するまでの自然な流れを模倣したものであり、認知症を患う人々との間に心理的障壁を作らない仕組みになっています。5つのステップのプロセス詳細ステップ1:出会いの準備(来訪の事前通知と脳の覚醒)認知機能が低下していると、音や気配に反応して「他人が入ってきた」と認識するまでに時間がかかります。● アプローチ: ドアを3回ノックし、3秒待ちます。反応がなければ再度3回ノックして3秒待ち、それでも反応がない場合は1回ノックして入室します。ベッドに近づいた際も、足元のボードや手すりを優しくノックして存在を知らせます。● 狙い: 段階的に聴覚を刺激することで、本人の脳が人と会う準備(覚醒水準の上昇)を調える時間を確保します。ステップ2:ケアの準備(関係性の構築と同意の獲得)部屋に入ってすぐに「お風呂に行きましょう」「オムツを替えます」と用件を伝えると、警戒心から拒否反応が起こりやすくなります。● アプローチ: 挨拶を交わし、「あなたに会えて嬉しい」という喜びを態度や笑顔、穏やかな言葉で表します。いきなり体に触れたり、ケアの話を切り出すことは厳禁です。会話を通じて徐々に距離を詰め、3分以内にケアに対する合意を得ることを目標とします。● 狙い: もし3分経過しても同意が得られない場合は、無理にケアを続けず「一度あきらめて出直す」という選択を行います。これにより、相手の中に「嫌なことを無理やりされた」という不快な記憶が残るのを防ぐことができます。ステップ3:知覚の連結(調和されたケアの実践)合意を得た後に実際のケアを行う段階です。● アプローチ: 「見る」「話す」「触れる」の感覚情報を連動させ、矛盾のないメッセージを送り続けます。例えば、「優しく声をかけながらも、手首を強引につかんで引っ張る」といった不一致があると、相手の脳は強い不安と抵抗感を引き起こします。● 狙い: 感覚の一致により状況把握を助け、安心した状態のままケアに協力的な姿勢(協調動作)を引き出すことができます。ステップ4:感情の固定(ポジティブな感情記憶の定着)ケアが終わった直後は、その心地よい余韻を本人の脳にしっかりと刻むための重要な時間です。● アプローチ: 「さっぱりして気持ちが良くなりましたね」「今日はお話がたくさんできて本当に楽しかったです」など、肯定的な言葉を掛け合います。● 狙い: 事実としての出来事(ケアを受けた内容や介護者の名前)は忘れてしまっても、「この人と一緒にいて心地よかった」というポジティブな感情の記憶は長期間保持されます。ステップ5:再会の約束(将来の安心感の担保)その場を離れる際に、別れの寂しさや孤立感を与えないようにするためのケアの締めくくりです。● アプローチ: 「またお話ししましょうね」「次の12時にお食事を一緒に行いましょう」と具体的な約束を伝えます。握手を交わしたり、予定を書いたメモやカレンダーを目に入りやすい場所に残すことも有効です。● 狙い: 「親切にしてくれた人がまた来てくれる」という安心感は、次回の訪問時に介護者が「心地よい時間を共有した人」として歓迎される関係性を作り出します。5つのステップと「友人宅への訪問」に例えたプロセス対比現場での具体的課題に対するアプローチ事例認知症ケアにおいて最も介護者が頭を悩ませるのは、入浴拒否や排泄ケア(オムツ交換)時の強い介護抵抗です。ユマニチュードの技術を適切に組み込み、相手のこだわりや認知特性に配慮することで、これらの困難なケースも劇的に改善することが実証されています。入浴拒否に対する実践事例入浴を拒む要因として、浴室の慣れない構造による混乱、衣服を脱がされる恐怖、また「風呂」という言葉そのものがもたらすストレスなどが挙げられます。 ある特別養護老人ホームでの取り組みにおいて、入浴エプロンを着用した介護スタッフを見ただけで激しく入浴を拒否していた利用者に対し、以下の方法が試みられました。● アプローチ: 介護スタッフは入浴用エプロンを着用せず、普段のユニフォームのままで「出会いの準備」と「ケアの準備」を行いました。また、本人が愛着を持っている人形を抱かせたまま浴室に誘導し、浴室には自宅の風呂に近い家庭的な構造の浴槽を使用しました。さらに、「シャワー」や「脱衣」といった直接的な言葉を使わず、好きな音楽を脱衣所から廊下にかけて流し、スタッフが手を握ってリズムを取りながら楽しく歩行を促しました。● 結果: 対象者は入浴中も笑顔を見せるようになり、入浴そのものに対する前向きな発言が聞かれるほど大きな変化を遂げました。オムツ交換時の抵抗に対する実践事例オムツ交換はプライベートな領域への介入であり、本人にとっては見知らぬ人から突然ズボンを脱がされ、臀部に冷たい刺激を与えられるなど、恐怖心が生じやすい場面です。● アプローチ: 訪室時にステップ1に沿って段階的に覚醒を促し、寝ている本人と同じ目線まで姿勢を下げてアイコンタクトを確立します。いきなり臀部に触れず、「おはようございます、良いお天気ですね」と挨拶を行い、手や顔などの敏感な部位を避けて上腕や肩へ手のひら全体を乗せます。これから行うケアの同意を得てから開始し、拭き取る際も「温かいタオルで拭きますね、気持ちが良いですよ」と動作の実況(オートフィードバック)を徹底しました。● 結果: これまで毎回抵抗のあったオムツ交換において、時間を置いて再チャレンジする回数が月を追うごとに減少し、利用者が自ら柵をつかんで体を横に向ける協調動作が見られるようになりました。科学的エビデンスと将来技術の展望ユマニチュードの有効性は単なる経験則にとどまらず、国内外の豊富な研究によって確認されています。1,000以上の文献を網羅的に検証したシステマティック・レビューでは、ユマニチュードの実践が認知症患者の不穏や興奮(アジテーション)を有意に軽減し、同時に介護スタッフの「燃え尽き症候群(バーンアウト)」を低減させる効果があると結論づけられています。さらに将来的な展望として、人工知能(AI)を用いたコーチング技術の導入が始まっています。介護スタッフが撮影した実際のケア動画をクラウド上にアップロードし、専門の指導者が動画上で軌道やタイミングを可視化して指導する動画ツールの活用が進められています。将来的には“ケアの棋譜化(見える化)”により、個人の感覚に頼らない技術の学習・継承が可能となり、家族介護者に対する学習サポート支援や負担軽減へ向けた革新が期待されています。結論およびこれからの展望超高齢社会を迎えた現在の日本において、認知症に伴う課題はもはや個人の問題ではなく、社会全体で支えるべき最も重要なテーマの一つです。ユマニチュードは、誰もが実践できる再現性の高い技術体系でありながら、認知症患者を「ケアの対象」としてだけではなく「意思と感情を持つ一人の人間」として尊重し直すという、本質的なパラダイムシフトをもたらします。現場でユマニチュードを導入する際は、すべてのスタッフが一度に完璧な実践を目指そうとすると現場に混乱を招きかねません。まずは「特定の対象者1人から実践を始める」こと、そして「実践前後の行動変化を客観的に記録し、チーム内で共有する」ことが成功への鍵となります。また、福岡市が「国境なきユマニチュード」の国際推進本部を開設したように、専門職や家族介護者だけにとどまらず、地域住民や子供たち、ひいてはデジタルテクノロジーを巻き込みながら「優しさが伝わる社会環境」を構築していくことが、今後の共生社会における極めて強力な一歩になることは間違いありません。ユマニチュードの哲学と実践的な技術は、これからの介護業界、ひいては社会全体の福祉水準を根幹から支え、より豊かで尊厳のある関係性をもたらしてくれることでしょう。
2026.09.06
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札幌農学校教授・宮部金吾 その3四 松浦竹四郎と宮部家(一六頁) 私たちがまだ駿府の代官屋敷に住んでいた時、松浦竹四郎氏が、明治元年閏四月六日付で京都大総督宮より「急々上京仰付」の命を拝し、京都往復の際、往復とも静岡の役宅に立ち寄られた。ことに御用を果たした帰途には数日間滞在されていった。松浦氏は当時における蝦夷(エゾ)地探検の第一人者であり、また著述家として令名のあった人で、後に開拓使の判官となり、北海道の国境を確立した。明治元年の御召の際にも京都滞在中に「蝦夷開拓基本献白書」を提出申し上げた。駿府に滞在中、徒然のままに唐紙にアイヌの絵を数枚書いて残していかれた。そのうちの一枚は今なお北海道帝国大学図書館にあり、一枚は故新渡戸稲造氏に贈呈し、アイヌが昆布を採っている絵のただ一枚が私の手もとに残っている。この絵は非常によくできているため、先年来朝した米国シカゴ大学教授スタールが札幌に来た時、これが複写を熱望され、数枚の複写をとったが、その一つは故河野常吉氏の所に蔵された。松浦家と宮部家とは極めてじっこんの間柄であり、江戸下谷の寓居は松浦家にごく近かった関係から、両家のゆききも相当に繁しかった。したがって数多い氏の名著はその都度我が家に寄贈された。このため、書物の中のアイヌや、蝦夷地の草花類や鳥獣などの絵を見ており、子ども心に早くも遠い蝦夷地に対し一種の親しみと憧れを持っていた。なお松浦氏は私に眼をかけられて、私を養子に懇望された由を、後になって、母から聞かせられた。けれどもこの話は父も母も進まなかったので取りやめになったという。しかし尽きせぬ縁というか、松浦氏が心血を注いだ北海道に、私は今日まで一生を捧ぐべき研究ひとすじの生活を送り来ったのである。五 修学のはじめ(一七頁)七歳(慶応二年)の時、私は初めて下谷仲御徒町岩村田藩儒者宮崎右膳氏に就き、漢学を修め始め、また近所の寺子屋にも通った。八歳の八月、父に従って駿府に移ってから九歳の一二月駿府を去る日までは同地の寺子屋に通っていた。一〇歳(明治二年)の二月、東京府にて全市を六学区に分かち、その各々に小学校が創設され、建物には皆大きな寺院を使用した。下谷と浅草の者は三味線堀に在った西福寺という寺を使用した。これが当時の東京府第五小学校である。寺小屋とほとんど同じで、学科は漢籍の素読、習字、珠算等であった。私は袴を着し、木刀を腰にして御徒町からそこに通った。その頃、父はまた私に手習いの先生として下谷長者町の服部随庵氏を選んでくれた。始めて先生の所にあがった時、父は「長兄は樋口逸斎氏に、次兄は高斎単山氏にご厄介になっていますが、この子は是非あなたのご指導に預かりたい」と申し述べた。随庵氏は大いによろこばれて直ちに快諾された。私は小学校に通う時、この随庵先生のお手本を持っていき、習字の時間にはこれを手本としていた。この年五月、生まれて始めて写真を撮る。この頃はいまだ写真の極めて珍しかった時である。父が烏帽子、直垂を賜った記念であったらしく、当時一流の名声をはせていた池の端橋本写真館に行き、父は一人で、私は文臣兄と二人で撮影してもらった。一一歳(明治三年)の初春、東京各小学校から四、五人の者が選ばれ、城内のある御邸に参上、書初めをした事がある。自分も幸にその選に入ったので、羽織、袴にお行儀よく、身を固めて御邸にあがり、帰りには扇子二本をご褒美としていただいて帰った。これは随分嬉しかったことの一つである。この一一歳の春の頃、ごく一時的であったが、外国語学校の前身と考えられるような学校ができた。建物は麹町の大きな旧旗本屋敷にあったように記憶する。各小学校において洋学希望のものでその学校に行きたいものは申し出よとの事に、父に願って、私も届け出た。入学の願いがかない、出頭の命に従って登校したところ、集まる者約七〇名。私はその中の最年少組であった。三味線堀の小学校から志願した者の内には、岡胤信者(後の工学博士)、原田鎮次君(後の工学博士)、が一緒であった。この学校には英独仏の三科があり、それぞれ希望する所を書けというので、英語を志願した。ところが英語志望者が大多数であったので、私はドイツ語の組に回された。ここで「アー、ベー、ツエー」の読み方が始まったのである。教師には西洋人が二人ほどいたらしく、屋敷内に住み、また見え隠れに陣笠を被った護衛の士も若干ついて同じ邸内に住み込んでいた。彼ら洋人は外出に際し、いつも乗馬を用い、護衛の士も騎馬でその前後を護って行った。一一歳の少年にとって登校は相当な道程であったが、ただ一人で御徒町から本郷の切通を通り、飯田橋を渡って麹町へ往復した。これより先、既にその前半頃から私は洋学修行の志を持っていたらしく、時の流れを考え、自分の発展を期して父もまた洋学修行をさせたかったらしい。後年父が石賀作助氏に宛てた手紙(明治二年四月九日付)が発見され、その事が明らかになった。石賀氏は祖父が自分の養子として石賀家を継がせた人で、父の義弟に当たり、当時横浜に在住していた。ところが当時横浜の高島学校はいまだ開校の運びに至らず、かつ適当な機関もなかったので、その話はまずそのままとなったのである。
2026.09.05
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札幌農学校教授・宮部金吾 その4六 父の死と小学校(二〇頁)維新前後非常に繁雑であった駿府代官時代を終え、更に過渡の江戸に帰った父は、生来の虚弱に心身の疲労も出たのであろう、健康はすぐれなかったようである。そして退官後、ことに私が一一歳(明治三年)になった初夏から病床に親しみがちであった。病あらたまるや、父はその死を覚って、病床に肉親を呼び色々と遺言されたが、自分にはただ一言「金吾しっかり勉強せよ」と言われただけである。この一言は少年の肝に深く銘じた。父のいまわの際の言葉に添うような自分を築きあげたく、私は一生涯を通じて、この父の・言葉を真実に守ろうと堅く誓ったのである。父の逝きしは七月二五日の事である。享年五二歳。 一二歳(明治四年)の時、東京府下の六小学校を以て文部省の直轄となし、新しい教科規則下に近代的小学校の教育が始まった。その結果として、私の通っていた外国語の学校は閉鎖された。建物は在来の六校をそのまま使用することとなった。私は再び三味線堀の西福寺に戻って来た。しかし今度は文部省直轄となったので前とは全く総てが変っていた。寺小屋風の小さな机は既に姿を消し、テーブルとベンチが用いられ、黒板も用意されていた。習ったものは、かな使い、習字、単語、読方、洋法算術、学問のすすめ、究理図解、世界国尽等がある。自分の上級は一組あっただけで、それも生徒がたった一人、後に水産界に貢献した下(しも)啓助氏がいたのみである。下氏とは氏の逝去まで交友を続けたが、下氏はよく「君が、自然科学者になろうとはあの頃にはちっとも思わなかったよ。多分政治家にでもなりはしないかと考えていた。」と述懐された。私は小学校では首席を占めていたので時の村上校長から将来を嘱目され、非常に愛されていた。ところが、一三歳(明治五年)の夏、横浜高島学校に入学の希望が達成したので、退学の手続きを取るべく兄が村上校長の所にお願いに出頭した。この年に文部省の教育新制度が発布され、小学校より中学校、更に大学に進む過程が確立された。私の退学の件に関して村上校長は反対で「私立で洋学を修めたいとは以てのほかと憤慨し、かつ「官立で学業が進めば洋学は自然修めることとなるべく、敢えて好んで私立学校に進む必要はない。退学は許可しない。もしも断じて退学を望むならば将来官立学校に再び入れないようにする」と申し渡された。兄は逃げるがごとく引き下がって来た。一家額を集めて相談したが、他日官学に入る場合を顧慮し、横浜にいる間は宮部家の別姓である外松を名乗る事とし、ここに宮部金吾は外松金吾となり、横浜高嶋学校の生活は始まった。七 横浜高嶋学校(二二頁) 一三歳(明治五年)の八月下旬、私は始めて家を離れ横浜に遊学する事になった。忠僕に伴われ、品川を後に汽車で横浜に向かった。 新橋―横浜(現今の桜木町)間の京浜鉄道開通式は明治五年一二月に挙行されたもので、それ以前は便宜上、乗車を許可していたものと思われ、私が横浜へ行った当時は乗客の始発駅は品川であった。客車は用意されておらず、貨車内のベンチをならべ、別に車窓もなく扉が二尺くらいあけてあった。それでも始めて乗った私には非常に快適なものであり、風を切って進む速さに驚嘆したものである。横浜の学校へ行くようになったのは亡き父の友、神奈川県の高官の高木氏が保証人となってくれたためで、氏が一切の監督をしてくれる旨を申し出られ、母も安心して手離されたのであろう。それに文臣兄も同氏のお世話で神奈川県属官に採用され、同市戸部町の官舎に引き移っていたからである。高嶋学校は、この前年明治四年八月高嶋嘉右衛門氏が欧米の学問をわが国に普及させようと金三万円を投じて設立したものである。敷地として野毛山下のガス局の隣地(今の花咲町五丁目)に約一万坪を下し、そこに生徒数百の名を収容するに足る広大な校舎並びに寄宿舎を建てた。この建築は白ペンキ塗りの西洋風の建物で、正面(南北)に一三個、側面(東西)に一八個の西洋窓があり、かつ広中庭を囲んで廻り廊下があり、これに沿って寄宿生の室が並んでいたが、階上の窓には鉄色に塗った木製の格子が入っていた。平屋建ての附属小学校が廊下つづきに本校舎の西北に在った。学校の組織はいわゆる「正則学校」で、初級より英語の教科書を用いて米人の教師から読み方、文典、算術、地理、歴史等を教えられ、まるで米国の学校の観があった。この「正則学校」に対し、翻訳式の教法を「変則学校」と称していた。高嶋学校には当時数人の米人がいたが、西洋人の教師の組に入る前に附属小学校の一室で約一ヶ月間日本の先生から英語の初歩の教授を受けた。それから私達の級は始めモーリスという教師に、後にはバラー兄弟に就いた。バラー兄弟は宣教師であり、日曜日には兄のジェームス・バラーの自宅でバイブルクラスが開かれ、私も誘われて一、二度行った事がある。高嶋学校在学中、私は寄宿舎にいた。寄宿舎は既に記したようにこの校舎の大部分を占め、居室は畳を敷いた日本間であった。普通一室に舎生二人、大きな室に舎生四、五人いた。寄宿舎には随分多数の生徒がおり、後に知名の士となった人も少なくないと思うが、当時在舎していた者の名簿が手に入らないので残念ながら一向に判明しない。友人として一緒に写真を撮っている者に、横浜豪商の令息添田君と、高嶋家に関係のあった富田君の二人がある。この二人はいずれも通学生であった。日曜日にはよく高木氏の豪華な邸宅や文臣兄の野毛町官舎に行き、いろいろの厚遇を受けた。また居留地のあたりから海岸、さんばしにかけて散歩にも出かけた。時には郊外を散策したが、春早き山野に咲いていたタンポポの紅花や、シュンランの清楚な花は今も心に残っている。しかしまた、急に親の膝下を離れ、大人びた青年達の間に放り込まれたので、自分ながらその時の生活を思い出すと穴にでも入りたい気がしてくる。一四歳というのに喫煙の悪癖を覚え、煙草入を腰にさげていた。また芝居の味も知り、劇場に友達と足を運び、銭湯に行ってもすぐに風呂場に飛び込まず、年上の友だちと一緒に二階にあがって一休みした。牛肉屋にも出入りした。私の環境はあまり好かったとはいえない。そのままで行けばあるいはませた、ひどく生意気な者ができあがったかもしれないのである。明治七年(一五歳)の一月、朝授業が始まって間もなく東北隅教室のストーブから火を発した。折悪しくその教室には授業がなかったので誰も室におらず、そして誰も知らない間に天井裏に燃えぬけ、往来の通行人によって燃え上がった火が始めて発見され大騒ぎとなった。各室には石油ランプと石油入のガラスビンが置いてあったので、火の廻りは速く、また無風で小雨が降っていたため、煙が中庭や廊下にモウモウと停滞し、息苦しく廊下にはグズグズしていられなかった。それに階段は南側と西側のみであって、出口は東側の玄関と小学校へ続く廊下のみであり、下の室は窓が太い鉄格子なので、これを破ることは容易でない。生徒の大部分は僅かな手荷物を持ち、ほとんど身をもって煙が渦巻く玄関から避難した。私の居室は二階の西側すなわち野毛山に面した大きな室で四人おり、私を除いては皆二〇前後の青年であった。火事となるや一同室に帰り、窓の木製の格子を破壊し、窓の下の便所の屋根に下り、それより更に地上に飛び降りてどんどん避難してしまった。既に火の廻りが速く、煙は玄関は勿論小学校への入口にも満ち満ちて、階下の廊下は歩行困難となっていた。私は非常に困ってしまった。窓から下の屋根に降りてみたものの、小柄であった少年の私にはそこから下がいまだ相当の高さであり、かつ地上には窓から投げ出された本や机の引出しが雑然と打ち重なり、もしその上に飛び降りればケガをすること請け合いである。それで飛び降りることはできず、思案にくれたが、急に思いつき再び室に入り、夜具布団を全部窓から放り出してその上に飛び降りた。おかげで私はケガをしなかったばかりか、寄宿生中夜具布団を全部出し得たのは私一人であったかも知れない。この室は野毛山から眼下にみおろせる所にあったので、沢山の見物人がこれを見ていた。そして子供(私)が一人便所の屋根の上でまごまごしている様を見て、「早くハシゴを持って行ってやれ」とわめきたてた人もいた。ところがそのうちに布団を投げ下ろしてその上に無事飛び降りたので一同やんやの歓声を挙げて安全を祝ってくれた。私はその夕方野毛町の銭湯に入っている時、声高にかく語る人の話を聞いたのである。奇縁とでもいうものか、火事の際の同室の二人までがその後札幌で遭っている。一人は碇山晋君で、後札幌に来り、予科に英語を講じ生徒監となり、また更に後年、その有する語学の才もかわれて横浜居留地の加賀町署長となり、外人にも名署長の名声をはせた。またもう一人は川口宗晴君で、札幌農学校一年目の時、聴講生として入って来たが、一年余で退学の止むなきに至った。高島学校は火事後廃校となり、横浜在住の生徒はドクトル・ブラウンが教えていた修文館に転校することとなった。私もそこに転校した。この修文館は老松町上の元の十全病院の隣にあったように記憶する。その三月東京外国語学校英語科の入学試験を受け合格したので、私の横浜遊学はこれで終止符を打たれ、外松金吾は再び宮部金吾に帰って東京の生活に戻ったのである。思えばこれはまた私に非常に幸いであったので、もし私が思慮分別のない生意気盛りを、その上、気ままにひとりで横浜の寄宿生活を続けていたら、私はどうなっていたであろう。私はただわきの下に冷たい汗の湧き来たるのを覚えるのみである。
2026.09.06
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鈴木おさむ氏「僕の中ではいまのところ、今年1位」の映画とは?「激しく心が震える」と絶賛9/5(土)鈴木氏は「映画『時には懺悔を』渋谷、12時から.満席。家族のカタチについて考える。本当に.激しく、心が震える映画」と投稿。 「宮藤官九郎さんがあの役を演じていることで救われるし 素晴らしすぎました。僕の中ではいまのところ、今年1位です」と絶賛していた。 「告白」「嫌われ松子の一生」などで知られる中島哲也監督の約8年ぶりとなる新作。打海文三氏の小説「時には懺悔を」を原作に、障がいのある子供との出会いをきっかけに変わっていく大人たちの姿を描く。脳性まひの13歳が俳優に「彼の笑顔には、生きることを楽しむ力を感じる」…映画撮影後の卒業式では変化が重い障害のある子どもを誘拐した犯人や、事件に関わった人たちの人間模様を描いた全国公開中の映画「時には 懺悔ざんげ を」に、子ども役として東京都内に住む重症心身障害児のしんすけさん(13)が出演している。しんすけさんは寝たきりで話せず、表情で演じた。母親(53)が取材に応じ、「感じたことを誰かと話してほしい。その積み重ねが社会の変化につながると思う」と語った。 しんすけさんは先天性の脳性まひで、特別支援学校に通っている。人工呼吸器をつけ、意思疎通は難しい。 映画出演のきっかけは2023年秋。制作陣が、障害児支援に取り組む理学療法士の安田一貴さん(40)に紹介を依頼。安田さんが、以前に関わりがあったしんすけさんとつないだ。 出演依頼を受けた母親は当初、「息子にどんな影響があるかわからない」という不安から断った。だが、その後もアプローチは続き、同年末には、監督の中島哲也さん(67)が自宅へ来た。「彼の笑顔には、生きることを楽しむ力を感じるんです」その言葉に、母親は「障害があれば誰でもいいわけではなく、息子を探してくれている」とうれしく感じた。原作小説の作者、打海文三さん(2007年に59歳で死去)が障害のある子を育てた親だったこともあり、「当事者の複雑な感情を表現していて、リアリティーがある」。夫、しんすけさんのきょうだいとも相談し、出演を決めた。撮影は2024年3~5月に行われた。しんすけさんは「感情を表情に出すのが得意」で、笑顔やキョトンと驚いた顔など、多彩な表情を見せた。 共演した西島秀俊さんは事務所を通じた取材に、「お互いに『プロの俳優』として向き合い、やりたい表現を一緒に作り上げていきました。しんすけ君は演出を受けると、まっすぐに応えようとします。本番で時折見せる笑顔や、戸惑いの表情に本当に魅了されました」とコメントした。 しんすけさん出演の橋渡し役となった安田さんは制作スタッフとして障害児への接し方を監修した。「俳優さん、カメラマン、メイクさん、みんなが撮影が進むうち、しんすけさんと自然に話すようになっていった。障害のある人たちとの共生は頭で考えるより、一緒に仕事をしていく中で理解できる」と話した。撮影後、しんすけさんに変化があった。 以前は、学芸会などの学校行事に参加しても「状況をわかっていないようだった」という。だが、昨春の小学部の卒業式では、先生から名前を呼ばれると、「はー」と返事をした。中学部に入った後も、学校へ行く時間になると、母親に「あーあーあー」と訴えかけてくるようになったという。 母親は「映画出演という環境の力は大きく、数ミリずつかもしれないけど、変わってきている」と喜ぶ。「自分の主張がうまくできない子こそ、いろんな経験をさせてあげてほしい」と語った。 映画は、探偵の佐竹(西島秀俊)と助手の聡子(満島ひかり)が、同業者の米本(佐藤二朗)が殺された事件を調べるところから始まる。2人は、米本が生前調査していた明野(宮藤官九郎)と重い障害がある少年、 新しん (しんすけ)の父子を追う中、9年前の新生児誘拐事件にたどり着く。新を巡り、周囲の大人たちの心が大きく揺れ動いていく――。 劇中では、「この子は生まれてこない方が幸せでした」と過激なセリフも飛び交う。母親は、明野が「ああ、どこにも行けない」とこぼしながら、新の世話を続ける場面が印象に残ったという。「きれい事じゃない現実を描きつつ、愛情にあふれた作品」と話した。
2026.09.06
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五 第二期の二 明治三十四年より三十五年に至る ○洋行中の鈴木君 君渡航せんとするとき、ある人その任務の重大であるから信任する通訳者の同行をすすめる者があった。君はこれに答えて、この事業に関しては予の眼識はよくその巧拙を識別し、予の頭脳はよくその良否を判断することができるから、任務についての通訳の有無のごときは論ずべき事ではない。器械の購入に至っては彼れを制する唯一の利器である財を携えるから少しも心配することを要しないと言われた。このようにして君は横浜を出航してハワイに寄港し、同地の製糖所を視察し、それよりアメリカのサンフランシスコに上陸し、シカゴ、ワシントンを経てフィラデルフィアに行き、到る所有名な精製糖所を視察し、あるいはこの業界の第一人者を歴訪した。一日ブロクリンにおいて世界第一の精製糖所を視察するとき、会社の重役及び技師等は三十余種の見本を出し、その産地及び糖分の検定を求められた、君は熟視することしばらくして、一々指摘し終り、彼らがあらかじめ器械をもって検定した表を出して対照したところ、ほとんど符節を合わせるようであったので、彼らは大いに驚嘆してその眼識の高さに敬服したという事であった。このようにして君はアメリカの視察を終り、イギリスにわたりロンドンに到着し、各地の精製糖所を視察し、また器械製作所をも巡覧し、同国内地の旅行を終り、それから欧州大陸にわたり、ドイツ・フランス二国を巡回し、同年十二月二五日ロンドンに帰着した。君はアメリカ大陸上陸以来十五旬の間、汽車汽船に在るときの外は、日として製糖所及び器械工場の巡視をしないことなく、その足跡の到らない所なく、かつ知名の実際家学者を歴訪して研究したことから、各国の長所短所得失は胸中にはっきりとした。そこで君は各国の萃をぬき華をあつめて最新式の機械を選択して完全な精糖所の設計を立案し、これに要する諸器械の購入を為すこととした。この時にあたって各地の器械業者は皆な君の旅宿に集まり、その引請をなさんとし、君にくらわすに利をもってし、希望をとげようとするに至った。君はその卑劣をしかり一物の徴といえどもこれを受けなかったので、彼らもその手段を施すこともできず、遂に君を疑って会社の代表者ではないというに至った。このようにして君は一種の器械ごとに数工場に命じて競争入札をなさしめる事と定め、彼らが最上とするものに対し、詳細な説明書を作らせ、次に代価を入札させ、これを比較しその最優等のものを選んでこれを劣等品の代償にて買う注文をなした。彼はその注文を受けるやその品質を降さんことを請うもこれを許さず。その代償を増さんと乞うもまたこれを諾せず、彼をして最低の製造費をもって契約するの止むを得ざるに至らしめ、稀有の廉価で精良の器械を購入し、翌年二月十日イギリスのサウザンズトンを出航し、シンガポールに到着し、南洋ジャワに航海し内地の調査をし、それよりサイゴンを経て香港に来たり、南シナの産糖地を調査し、更に台湾に入り、同地における糖業の実況を調査し、五月帰京する事となった。
2026.09.05
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牧野富太郎の最初の妻は猶!二人目の妻寿衛子はやり手の経営者だった?牧野富太郎の最初の妻は、牧野猶(まきの なお)猶は牧野富太郎の従妹で、実家の造り酒屋を手つだっていた。牧野富太郎の2番目の妻が小沢寿衛子牧野富太郎の東京麹町の下宿から大学に通う道に菓子屋があった。牧野富太郎は菓子が大好きで、その菓子屋に目を止め、そこにいた美しい娘小沢寿衛子に一目ぼれをした。「らんまん」では浜辺美波さんが演ずる二人は明治23年に結婚。新婚当初は生活にも余裕があり、牧野富太郎はこれまで通り研究費と実家をあてにし、贅沢に暮らしていた。舶来の生地の洋服を着、人力車を乗り回していた。しかし実家の造り酒屋が破産。そして牧野富太郎の給料だけでの暮らしになり、そのうち牧野家には子供が次々と生まれ(13人、うち育ったのは7人)、食費にも事欠くようになった。牧野富太郎は植物の研究のためならどんな高い本でも購入したから、ますます貧乏になり借金も増えていった。寿衛子が大正10年頃、渋谷花柳界の荒木山というところに「今村(寿衛子の姓)」という待合の店を出した。牧野富太郎「この待合は私自身が開業したものではなく、・・・・・・私の妻がやった事であって、その店は私とは世帯が別になっていた・・・・・・私の妻が事もあろうに何ゆえこんな恥も外聞も構わぬ大それた芸当をしたのかというと、それは当時私一家が貧乏のどん底に陥っていたので早く金を得て焦眉の急を救い、我が家の経済を立て直さんとするのが唯一の目的であって、それには待合が一番早く金を得るのに都合がよいとの事でこれを選んだわけだ。そして妻は素人ながらも待合業を経営するぐらいな天才的手腕は持合せていた。故に何の臆するところなく大胆にその業をはじめ、渋谷花柳界での荒木山に妻の姓〔別姓〕である「今村」の看板を掲げた」小学校の臨時教員として働く傍らで高地師範学校教諭・永沼小一郎から欧米の植物学に触れた彼は、次第に東京の最新の植物学に関心を示すようになりました。明治17年(1884年)、22歳の時牧野富太郎は上京します。小学校中退と言う学歴もあってか、学生にはならなかったようですが、帝国大学理科大学の矢田部良吉*の研究室の利用許可を得て、植物学者の道をスタートさせました。*宮部金吾安政7年閏3月7日江戸生れ。昭和26年3月10日歿。明治14年札幌農学校卒。在学中受洗、内村鑑三、新渡戸稻造等と親交。北海道開拓御用掛となり、矢田部良吉に師事して植物分類学を修めた。東京大学時代 1 東京大学へ 明治14年7月11日、学校を卒業して東京への帰省の途についた。その頃、札幌から東京に行くには小樽から汽船で横浜に着き、そこから汽車の便をかりたものだが、私は道南地方の植物景観に接して置きたかったので、陸路函館に行くことにした。札幌から小樽までは汽車に乗り、小樽から余市、岩内、磯谷、潮路(ウショロ)、黒岩、森と旅寝を重ねて函館に着いた。岩内と磯谷の間は有名な難所である雷電峠であったので船の便をとった。和船であったが幸いに静かな日であったので、おだやかな航海であった。後は駅逓から駅逓の旅で、馬子が先頭にたち、後に3,4頭の引馬をして、客はそれぞれその上に乗った。この時の旅行はひとりのことでもあり、かつこんな条件でもあったので、植物はあまり採集が出来なかった。函館から宮城県荻之浜までは船で行き、仙台に出て、当時宮城県庁に奉職していた長兄美勲を訪れ、数日間滞在して、それから人力車で白石、福島、郡山、宇都宮を経て東京に帰った。上野御徒町2丁目15番地の生家では母が次兄文臣と住んでおり、母はことさら自分の卒業を喜んでくれた。 これより先、明治13年の春、明治13年の春、ある日森校長から『話したいことがあるから宅へ来てくれるよう』との伝言があったので、早速その夜、おたずねしたところ、『卒業の上は君を本校の植物学教官にしたい。その準備として、明年卒業後に直ちに東京大学へ送り、植物学をまず2ヵ年専修させ、そのうえ機を見て更に洋行もさしてやるから、そのつもりで健康に充分注意して、よく勉強するように』と申し渡された。私にとってこんな嬉しいことはなかった。これで私の一生の方針がはっきりきまったのだ。私は、その夜、寄宿舎に帰室すると、すぐ内村君から『何かうれしいことがあるな。きっとすばらしくうれしいことがあるにちがいない』と幾度か言われた。堅く校長から口留めされていたが、生涯のこの友にだけは口を割らざるを得なかった。内村君は『よかったな、よかったなあ』と連呼して、私の肩を幾度かたたいてくれた。学校を卒業すると、それが実現され始めたのだ。そして東京遊学に対する長官の了解はあったのだが、東京大学での研究の辞令がなかなか下りず、手続きが面倒であったようで、正式に辞令が下りたのは明治14年11月14日付である。辞令には 東京大学ニ於テ植物学専修申付候事但シ修学中ハ月俸金ノ外別段日常ハ不給候事月俸金拾六 円被下候事とあった。ただし月俸は半分となったから、物価のやすかった当時とはいえ、自家から通ってどうにかこうにか過ごせた程度であった。8月から11月にかけて、私は道灌山を主として東京近郊に数回の採集を試みた。 東京大学 これより先、明治10年4月12日、東京開成学校及び東京医学校を合併して東京大学が設立され、法、理、文、医の4学部が置かれ、法理文の三学部は神田一ツ橋通の元東京開成学校の校舎を用いた。そして生物学科が理学部内に置かれ、植物の方では教授に矢田部良吉氏が、また員外教授に伊藤圭介氏が嘱託された。動物学の方はエドワード・モールス氏が担当し、矢田部教授は植物学の講義及び実験を担当し、共に生物学科の設立に努力された。明治14年東京大学職制制定と共に、両教授は任官された。そして矢田部教授は引き続き植物学を講じ、伊藤教授は授業に関係なく専ら植物園において植物調査に従事しておられた。
2023.04.19
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40年ぶりに名人とクイーンが同時交代 競技かるた日本一1/11(土)競技かるた日本一を決める「第71期名人位・第69期クイーン位決定戦」(全日本かるた協会主催)が11日、大津市神宮町の近江神宮近江勧学館で開かれた。男子の名人位は九州大大学院1年の自見壮二朗七段(23)=福岡市=*が4年ぶり2回目の挑戦で獲得し、女子のクイーン位は初挑戦の関東第一高3年の矢島聖蘭八段(18)=東京都=が制して、40年ぶりに名人位とクイーン位が同時に交代した。競技かるたは小倉百人一首のうち、50枚の札を25枚ずつ自陣と相手陣に並べて取り合い、先に自陣の札がなくなった方の勝ち。相手陣の札を取った場合は、自陣の札を相手に送ることができる。決定戦は名人、クイーンとそれぞれの挑戦者が対戦し、先に3勝した方が勝者となる。 名人位戦は3年連続の防衛を目指した会社員の川瀬将義六段(30)=横浜市=と自見さんが対戦。自見さんが初戦からの3連勝で勝ち取った。3試合中2試合が、互いの陣の札が残り1枚になる「運命戦」となったが、自見さんが落ち着いた試合運びを続けた。自見さんは「お手つきの後や劣勢の場面でも前向きに取ることができた」と振り返り、「幼い頃からの目標を達成できた。1年ごとにレベルアップした姿を見せられるような選手になりたい」と意気込みを語った。 川瀬さんは「1、2戦でスピードをセーブしてしまった所が反省点だが、永世名人を目指す気持ちは変わらないので、自分の取りを磨いていきたい」と決意を新たにした。連続5期か通算7期で「永世名人」、通算5期で「永世クイーン」の資格が与えられる。 クイーン位戦は、初防衛を狙うシステムエンジニアの井上菜穂六段(25)=東京都=と矢島さんが対戦し、3勝1敗で矢島さんが勝利。1、3試合は運命戦までもつれる大接戦となったが、いずれも矢島さんが制した。高校生がクイーン位を獲得するのは史上4人目で、楠木早紀さん以来17年ぶりとなる。矢島さんは「ずっと憧れていた場所でうれしい気持ちでいっぱい」と涙を流し、「1、2試合目は緊張で体が固まったが、運命戦を制したことで最後は自分の力が発揮できた」と笑顔を見せた。 井上さんは「音を聞いてきれいに払いのけることはできたが、やはり最終盤で勝ちきれない所は課題だった。そこを克服し、来年も挑戦したい」と前を向いた。*自見壮二朗今の練習環境・練習相手は?地元福岡の仲間と切磋琢磨できる環境現在の所属は九州大学かるた会です。本会は昨年4月に新設されたかるた会なんです。現役学生のほか、九大OBもいて。もとは福岡かるた会でしたが、規模が大きくなってしまったので会を分けたんですね。なので、九大でも練習しますが、元福岡かるた会だった方々とも練習しています。福岡は県の結びつきも強くて、国文祭などでも一緒になりますし、先日クイーン戦で解説されていた益満さん(益満亮子 六段・福岡ゆうつづかるた会)や、第67期準クイーンの三笘さんとも練習しています。―福岡は、みなさん仲良しなイメージがあります。例えば楠木永世クイーンが自見さんをとてもかわいがっているというお話も伺います。タイトル戦の前や大きな大会の前にこの人と練習していますという方はいますか?みなさんお忙しいこともあり最近は取れていない方もいるのですが、A級優勝を何度もされている強い選手で、指宿さん(指宿立 六段)にお相手していただいたり、鶴田紗恵さん(鶴田紗恵 七段・第61期クイーン・福岡ゆうつづ会)や、楠木永世クイーンにもご指導いただくこともあります。**矢島聖蘭○…今夏、競技かるたの高校日本一を決める大会に出場し、個人・団体ともに2連覇を果たした。先月には女性日本一・クイーン位獲得まであと一歩にせまる東日本予選を通過し代表に。西日本代表との対決を控える。「初めての舞台で緊張しますが、練習を積み重ねて力を発揮したい」と現クイーンとの対決まで見すえる。 ○…かるたとの出会いは小学5年生の時、先に始めていた姉の大会を見に行った時だった。100枚の札をすべて暗記する必要があり、「覚えるのが面倒くさいなと思っていたけど、大会に臨んでいる選手の姿がかっこよかった」と振り返る。それから札を覚え始めると上達し、小学生で学年チャンピオンになり、中学生でも日本一に輝いた。「どうして勝てるのか不思議なんですけど練習は絶対に欠かせない」と練習量は裏切らないという自負がある。 ○…市内で生まれ育つ。自宅近くの幼稚園に通い、第二小、和田中を卒業後、競技かるた奨学生として関東第一高校に入学、2時間かけて学校に通っている。「小さいころはテニスやピアノ、体操も習っていたけど飽きてしまう性格でやめちゃいました」と笑う。息抜きには友人とテーマパークに出かけるなど高校生活も謳歌している。 ○…高校卒業後は大学に進学する。「競技かるたについて研究したい」と語る。大会で実績を重ねていくうちに声をかけられたりすることも増えた。しかし、どうして強いのかという質問に明確に答えることができないという。「強くなるにはどのような要素が必要なのか。そこを言語化できるようになればコーチング技術にもつながると思うんです」。奥が深いかるたを追究し、競技の普及にもつなげたいというかるた愛にあふれる。
2025.01.12
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4月1日のNHK「ブラタモリ」は汐留!2023年4月1日19時30分~20時15分内容:「ブラタモリ#231」で訪れたのは東京・汐留。旅のお題「汐留は江戸東京のフロンティア?」を探る▽汐留という住所はない!?その由来は江戸の町づくりにあり▽川の痕跡を遡ってたどり着いたのは…溜池!溜池と汐留の驚きの関係とは?▽現在の汐留エリアを生んだ江戸時代の埋め立て工事は“しがらみ”だらけだった?▽京の公家も驚いた!浜離宮庭園の最先端技法とは?▽汐留から世界へ!?かつての汐留起点の線路が空港に直結!ブラタモリで『しがらみ』が話題に!・海に面していた大名屋敷は敷地を広げるために湾岸開発を行った。そのために使われたのは竹を利用したしがらみ。発掘調査で見つかったしがらみの列は圧巻。仙台藩だけで東京ドーム2個分。・「柵」しがらみって汐留の埋め立てに使われてたのか、、、竹で作られた柵の隙間に貝殻を入れて土砂が流れないようにしたと…めっちゃ勉強になる。。。・「柵」(さく)と書いて、“しがらみ”。これ、漢字検定準1級の問題でもありますね。●汐留遺跡の発掘調査は平成4年からはじまり、9年がたつが、今年度で調査が終了する。汐留遺跡では、江戸時代の大名屋敷跡と明治時代の旧新橋駅の停車場跡が発掘された。大名屋敷跡は、龍野藩脇坂家屋敷跡、仙台藩伊達家屋敷跡、会津藩保科家屋敷跡があった。柵(しがらみ)柵と書いて「しがらみ」と読むシッカリと打ち込んだ柱の前後を交互に縫っていくように、スラロームのように、主に竹を横に渡しながらこれまた前後のパターンを交互に積み上げながら高さを出して行く柵(さく)の事。しがらみは、古くから川岸を保護する護岸や土が落ちて来るのを抑える土留めなどに使われていて、いわゆる土木工事ではよく使われていた工法でした。写真では割った竹を使っていますが、別に割っていなくても、そもそも竹では無くても一向に構いません。杭の前後を交互に曲げながら納めて行かなければならないので、曲げやすい部材が適している筈です。竹は繊維が強く、経年劣化しても腐って崩れにくい利点がありますので、土留めなどに使ったら二度と交換が効きそうもないような場所ではうってつけなのかもしれません。作り方ですが、文字にするといたって簡単。ある程度等間隔で打込んだ柱杭に端から当てて前へ後ろへと編み込みながら下へ下へと仕込んでいきます。
2023.04.02
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「富田高慶日記抜粋 (表紙の裏) 覚一 金一七五両為替金手形。 右は先生より受取阿部氏方に預け帰国の上会所(役所)へ差出受取申すべき事。一 一村のうち百姓や給金の人が入り交ればきっと世法があろう、区別や故障もあろう。御仕法の意義は廃を挙げて開闢の古えを思って一円に起す法であるから、一村のうちどのような面々が入り交っても、皆平等に仕法を取り扱わなければならない。もし村中が平等に取り扱っては迷惑というのが少しでもあれば、この村はまず差し置くべきである。上の威厳で命令を下すならば随うようだが、その命令はその好む所に反するから、必ず手を引いて見合すことになろう。青田を威令で赤くしようとしてもこれは成らない事である。一 両村の仕法を始めるに当り、その開発用資金をその国から出させると上下の人情は穏かではない。ことに仕法が成就するかどうか計りがたくなる。だから仕法役所から年々村方で積み立てた米や金、縄ないの代金を倍増にして遣わし、村で積み立てた平均外の資金と合わせて、仕事に精出す人のうち入札の一番札から三番札まで金を貸し付け難渋の者を救い、そのほかは鍬一、二枚あたりを施し、その他の一同には鎌でも施して村の模様を見れば人情が進んでいくのではないか。一 翌年から領中一体の平均外が出るならば、そのうち両村土台外ばかりは年々仕法役所の仕法金と同様に取り扱って、一体の土台外の収入については当方の引き受けていないところであるから、もし成田村・坪田村の二村が立ち直ったと聞き及んで、ぜひ自分たちの村にも仕法を実施してほしいという村もあるだろうから、その時には諸郷の代官がそれぞれに村で入札した上で一村へ仕法を施そうとも、また分度外が多くなく諸郷へ及ぼすことができなければ、諸郷の中でくじを行い平均外の米金の引受を取扱う一村を興そうとも、その時・場所に従って実施すればよい。そうであれば諸郷からの仕法でそれぞれの村が立ち直るであろうし、両村が立直った上はこれから他村へ推し及ぼし、最後は領中に及ぶべきである。一 百姓が年来の困窮に陥って、ただ不足の事ばかりで人情が卑しくなる。だから、井戸の水を汲むように無尽の米金を年々差し出し取り扱わなければ、どれほど世話しても人情が一変しない。このため当方から年々繰入れる場合は、一同の怠惰の心を除くべきことが肝要である。一 村の者の一同の目鑑(めがね)で入札し、高札の者から三番まで五両、四両、三両も褒美として無償支給して村の気風がよくなるようであれば無償支給でもよい。しかし恩義になれて後々のためにいかがかということであれば金額を増して五年賦、十年賦で貸し付けたほうがよい。かつ一人、二人の落札した人には鍬一枚とか鎌一枚とか褒美として与えてよい。一 入札を二、三度も行えば村の気風もたいてい分ってくる。勧善の道も自然と説かなくても顕れてくる。一 村の極難の者で雨露の凌ぎもできない者は、ワラでもよいから当面のしのぎとして屋根を葺き替えたり、家の修繕を一同の入札をもって実施するべきである。一 特別の働きで複雑で多岐に取扱っては相馬藩復興という大望のことであるから、よろしくない。ただ単に善人を賞したくらいの事では人々も報徳仕法もこんなものかと思い、あれくらいは誰にでもできるなどと言い立てることであろう。後々はいろいろと起っていたしかたが無いほどになるであろうから、特別の働きは無い方がよい。一 扶持給(給与)は何ほどでも下されたら残らず村の仕法金に差し出すがよい。領中に余っている物はただこの扶持だけで、このように余っている物を計らうならば村は立ち直ることであろう。余分にあるほど村は早く立ち直るであろうから辞するに及ばない。一 立派な男だからできる仕法で、できないものと心得えて見切った後に手を下すのだ。仕法を行う者が間違いないといえば、人はその手違いを言い立てる。自分から手違い者といって始めれば人は嘲らない。人が嘲るものを自分から唱える、これが手違いが無い証拠である。恩義を受ければ人々の気風は不穏であるばかりでなく、内外の嘲りがある。それだけでなく事のもつれとなる。手を引き離し一金も受けなければ全て安らかだ。難しい事があればすぐに手を引けば、誰も可不可を論ずる事がない。(略)一 人は富む時は内が豊かだから善心があり恥を知る。困窮する時は内が豊かでないから善心が隠れ恥を忘れる。恥を忘れる時は至らない所はない。このような人情の所で外に恥を知らしめる道がない。だから入札をして善を褒めれば、人は皆方角を知って進む。テンビンのなかばを一分よればその重い方に傾く。一村で百軒あれば五十一、二軒善を知れば残らず恥を知る。恥を知らない時は年貢を納めていない事を表に言い立て大声で年貢がないことを話す。米がないと罵り借りる。これは皆恥を知らないからである。恥を知れば年貢を納めていないことを恥じ、米がないことを恥じ、ひそかに言ってこれを借りる。内外表裏してこのようである。百軒残らず入札が終らなくても人情は恥を知る。村五十軒よい者があれば四、五人入札してよい方に加えるならば残りは皆恥を知って善心がおこる。一 国を治めるのは譲にある。今公用をおいて私国を先にするのは先生が選ばれる道にあたらない。人は一盃の酒を譲る。ましてや国を起すのはなおさらである一 今の時に始める理はないようであるが、白米を飯にたき、書をそのまま置く時は空しくなる。この飯だけでなく、郡中米飯をたく思いを損じるであろうか。一 大井村の姿は、たとえば屋根屋が来るを知って何の用意もしないで坐して待っているようなものだ。屋根屋がどうしてこようか。村を起すそうだと見物している村へどうして求めてこちらから仕法を下そうか。一 帰国の際、まず村は差しおいて、役員一同と諸帳面をじっくり開いて見た上で、どのようにも差支えが無いか相談し、文言等も御国で通用している文体を用い、いよいよ決したところで村に仕法を始めるべきである。
2026.09.05
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代表的なアルカリ性の飲み物をまとめた一覧。 飲み物 pH値の目安 特徴アルカリイオン水8.5〜9.5 胃酸を和らげ、体内のpHバランスを整える効果が期待される豆乳 約7.2〜7.5 植物性たんぱく質とイソフラボンを含み、弱アルカリ性で美容にも良い緑茶 約8.0 抗酸化成分カテキンを含み、リラックス効果も高いレモン水 約9.0(代謝後) 飲むと酸っぱいが体内でアルカリ性に変化する代表的な飲み物野菜ジュース 約8.0前後 食物繊維・ミネラルが豊富で手軽に摂取できる炭酸水(無糖) 約7.0〜7.4 中性に近く、胃腸を刺激して代謝を促す効果も期待できる見た目や味では酸っぱいものでも、体内でアルカリ性に変化する「代謝アルカリ性食品」もある。レモン水や梅干し水がその典型で、健康法として取り入れやすい。体をアルカリ性に整える飲み物に共通しているのは、「ミネラルが豊富で糖分が少ない」こと。ナトリウム・カリウム・カルシウム・マグネシウムといったミネラルは、体内の酸を中和する働きを持っている。反対に、砂糖が多い清涼飲料水やカフェインの強い飲み物(コーヒー・エナジードリンクなど)は酸性に傾ける要因になる。健康のためにアルカリ性を意識する場合、まずは「甘くない・自然由来・無添加」を基準に選ぶのが基本。💛胃酸過多を感じたら、豆乳を飲むかな、アルカリイオン水も買って来よう(^^)
2026.09.05
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「人工網膜」国内初の治験開始、電極チップ使い物の形を判別可能に…難病「網膜色素変性症」の失明患者目の難病「網膜色素変性症」で失明した患者を対象に、大阪大などが「人工網膜」装置の国内初となる治験を始めた。小型カメラを備えた眼鏡や目に埋め込んだ電極チップを使い、物の形を判別できるようにする。これまでの研究で一定の効果が確認されており、治験の結果を踏まえ、2028年度にも国に医療機器としての製造販売を承認申請する。 目が捉えた映像は通常、眼球の奥にある網膜の「視細胞」で電気信号に変換されて脳に伝わるが、この病気は視細胞が徐々に減る。国内には3万人以上の患者がいるが、有効な治療法はない。 装置は、小型カメラが捉えた映像を体外の画像処理装置で電気信号に変換。手術で網膜の近くに埋め込んだ約7ミリ四方の電極チップに信号を送り、脳に伝える。先行研究では、患者が物の輪郭や動きを捉えることができた。 治験は今年から始まり、阪大、愛知医科大、杏林大の3施設で、失明した患者計6人に実施する計画だ。1年間、経過観察し、安全性や視力の回復度合いを検証する。阪大の森本 壮(たけし) 准教授(眼科学)は「色の判別は難しいが、物の存在が分かるだけでも生活水準は飛躍的に向上する。患者に光を届けるため、実用化を目指したい」と話す。💛凄い!将来目の見えない人に適用できますように
2026.09.06
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「二宮翁逸話」80 二宮翁と柴田順作より 抜粋柴田順作は静岡県庵原郡の人で報徳を信奉し庵原村付近に報徳の種子を蒔き、庵原村のごとき良村を作った事について非常の功績のある人で、柴田は尊徳より教えを聴いて庵原郡に帰って報徳の道を説き、庵原村字杉山の片平信明に報徳の趣旨を伝え、片平信明はその付近に報徳の種子を播いたのみならず、稲取の前村長田村又吉にもこれを伝えた。稲取村は報徳の主義を根拠として村政の改革を行った。庵原村の西ヶ谷可吉もやはり柴田順作、片平信明から報徳の道を聴いて後世にまで感化を残した。柴田家の先祖はこの製紙の事業に勤勉努力して身代を造ったので、順作は3代目に当たる。父祖の勤勉で造り上げた身代がどうしてつぶれるようになったか、順作が破産をした経緯を尋ねると米相場に手を出した結果である。そこで親類が集まってどうにかしてこれを仕法すべきかを協議した。ところが証文を取って貸した金が約800両あったが取れない。そこで「御鉢判」をもって取りに行けば必ず取れるに相違ない、親類一同も同意してこの方法で旧貸金を取り立てようとした。しかし以前「御鉢判」で取り立てられた老人が井戸に投身して死んだことがあった。今、自分が旧貸金を「御鉢判」で取り立てると、その人数が180人ばかりあり、2人3人自殺する者があろう。そういう無慈悲をするに忍びない、順作は親類にその実行を延期してもらい、伊豆に入湯に行く名義で竈新田の小林平兵衛を訪れた。平兵衛は熱心な二宮翁崇拝家で「俺が二宮翁の所へ連れて行って、仕法の道を聴かせてやろう、明日行こう」と言った。順作が迷うと「お前は庵原で死んで俺の家で生きよ」と説諭した。翌朝、順作が「今一遍宅へ手紙が出したい」と頼むと、平兵衛は「俺の家で生き返った者が家へ手紙を出す必要はない。直ちに行こう」と野州まで引っ張っていった。平兵衛が尊徳に順作を紹介すると、尊徳は平兵衛に向かって「お前はなぜこういう迷い者を連れて来たか」と叱り、面会を謝絶された。順作は21日間、隣の垣根から尊徳がその辺の百姓に説得されるのを立ち聞きして非常に感服した。21日目初めて尊徳に面会を許された。順作28歳、尊徳56歳である。尊徳は「お前はそれほど立派な家であったのに、どうしてそういうふうに零落したのか、またこの場合どういうふうに、仕法をする積もりか」と聞かれ、順作が次第を述べると、尊徳は「お前の先祖が家を繁栄ならしめた原因があろう、何かお前の家に宝物として秘蔵されている物はないか」と言われ、順作が「紙を買出しに行くために用いました背負い縄があり、これが家を栄えしめたものですから、桐の箱に納めて秘蔵しています」と答えた。尊徳は「お前は祖先の足跡を踏んでゆかなければなるまい。背負い縄を秘蔵しないでそれを取り出して毎日働くべきだ。使用すべきものを宝物としてしまっておくから今日のような大失敗を来たしたのだ。早く帰って背負い縄をもって稼げ」と言われ、なお「直ちに帰国し、先祖の足跡を踏んで働け」とさとされた。その時今一つの教訓として「貸金を取り立てようということはこの際もっての外だ。そういうやり方は春収穫すべきものを冬の間に取らんとするのと同じことだ。たとえば畑の中にある芋種を掘り出して食うようなもので、親芋を取ってしまえば子はできない。そういうことは全くよして一途に先祖の足跡を踏んで稼げ」と言われた。順作が思うにいったん国へ帰れば決心が崩れるに相違ない。尊徳の台所にいる浦賀の宮原氏の助手になり、内緒で3年間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。ついに尊徳の黙許を得て時々その給仕に出た。ある時、尊徳が「お前はこういう人間だからいけない」と言って香の物の切れかかったのを箸ではさみ「この通り全く切れていない。切るならばシッカリ切るがよし、切らぬならば切らぬがよし、切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりしておるから失敗するのである」と言われた。その後順作は「あの時ぐらい辛かったことはなかった」と話したという。
2022.09.24
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筋肉を落とさず、体型を維持する|モデル・ShogoさんのBig35/8(水) 「職業柄、筋肉を落とさず、体型を維持することを目標に鍛えています。ただ、コロナ禍を契機に車移動やデスクワークが増えたら、坐っている時間が長くなり、お尻の筋肉が目に見えて落ちてきた。ですから、いまは自宅でもジムでも、お尻を鍛える筋トレを優先して行っています。服を着こなすうえで引き締めたいお腹はトランクツイスト、二の腕はリバースプッシュアップでトレーニングしています」「祖父母が兼業農家で幼い頃から土いじりが好きでした。仕事を始めてから出会いがあり、数年前から山梨県道志村で遊休農地を1.5反(約1500平方メートル)ほど借り、化学肥料や農薬を使わない有機農法で野菜を育てています。耕運機での作業以外はすべて手作業ですから、農業はトレーニングのようなもの。逆にカラダを鍛えていたから、野良仕事もこなせている。カラダを変えたいなら、農業もお薦めです!」① ブルガリアンスクワット* with メディシンボール(左右各40秒キープ×3セット)両手でメディシンボールを胸の前で持ち、片足の甲を後ろの椅子かベンチに乗せる。そこから大股1歩分離れる。後ろ脚の膝を床に近づけるようにしゃがみ、前脚の膝を90度曲げる。上体を床と垂直に保ち、ゆったりと呼吸しながら40秒間キープする。「前足の踵に全体重をかける気持ちで行うと、お尻により効きやすくなります」また、通常のダンベルスクワットのように足を左右に配置するのではなく、前後に配置して動作することで、よりアンバランスな動作となり、体幹もしっかりと鍛えることが出来ます。*ブルガリアンスクワットは、ブルガリアの女子体操チームにより発案されたと言われており、現在ではスクワットの種目の一つとして認知されています。ブルガリアン・スクワットは、両脚を前後に開き、後ろ側の足をベンチや椅子などの台の上に置くことで、片足立ちの状態を作り動作していく、スクワットの一つです。前側の脚のお尻の筋肉である、大臀筋・中臀筋に強い負荷を与えられる上、大腿四頭筋・ハムストリングにも負荷の高い効果を与えることが出来るため、非常に効果的なスクワットとして知られています。お尻の小さな筋肉までも鍛えることができるので、ヒップアップにも非常に効果の高い種目です。高い効果が期待できる分、やり方も通常のスクワットに比べて難しくもなってきますので、しっかりと正しいフォームを意識していきましょう。② トランクツイストwithメディシンボール(10往復+10回×3セット)床に坐り、両手でメディシンボールを胸の前で持つ。上体を後ろに傾け、両膝を曲げて揃え、床から浮かせる。その姿勢を保ったまま、体幹を捻ってボールを左右の床に近づける。10往復終えたら、真上にボールを投げてキャッチ。10回繰り返す。③ リバースプッシュアップ(15回×3セット)椅子の座面を背中側で両手で摑んで両腕を床と垂直にし、両脚を腰幅でまっすぐ前に伸ばし、全身を床から浮かせる。背すじを伸ばして胸を張る。肘を閉じて90度曲げながらお尻を床に近づけたら、肘を伸ばして元に戻る。
2024.05.09
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大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉 その1【開爐三首】 十月正當初一日 (十月正当初一日)霜風吹葉滿空階 (霜風葉を吹いて空階に満つ)今朝喚作開爐節 (今朝喚んで開炉の節となす)道火何曾燒口來 (火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん) 禅寺にはこの開炉の式というものがある。道元禅師の語録にも開炉上堂というものがある。炉を開く。それは十月の一日に炉を開いて、それから着物を着換える。夏物から冬物に換える。そうして涼簾(りょうれん)を暖簾(だんれん)に替える。それから、麻の衣を木綿の衣に換える。それが「十月正当初一日」この時、道元禅師にも「有時の巻」というのがあるが、いつでもこの時という参究は大事なところである。アア時なるかな。この時、シュンをはずれてはならん。飯を食うシュンをはずれてはならん。飯のシュンをはずれて、身体だけ飯を食うて仕事をするのか、勉強するのかー。 シュンをはずれてはならん。その時、その時のすべきことがある。今、これが、十月当初一日、これが開炉の節なんである。(大智禅師偈頌講話p.171-172)
2026.09.01
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大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(二)その2【開爐(二)】 風頭稍硬大家知 (風頭稍硬し大家知る)且聽商量暖處歸 (且く聴す商量暖処に帰ることを)般若如同大火聚 (般若は大火聚に如同す)近前燒郤兩莖眉 (近前すれば焼郤す両茎の眉) それが且く聴す商量―というのは、問答ということで、昔はかけ値があった。「これ幾らか」「百円」「百円は高い、五十銭なら買おう」「馬鹿いえ、十円にしておこう」「十円は高い、一円出そう」「一円はべら棒な、一円五十銭出せ」「それでは一円五十銭で買うておこう」こういう理屈に商売するのを商量という。そこで、われわれはどこがよかろうか、商売せんならん。安全地帯はどこか、チャンと自分は自分で問わんならん。 これは、安全地帯はこの寺が一番いい。虫の音を聞いて、麦飯を食うておる。一番安全地帯、風邪も引かんというておる。電話もかからん。ラジオも喧しからず、これくらいいいところはない。こういう安全地帯を、ここに暖処という。これは安全地帯である。われわれはこの安全地帯がなければならん。というのは、風邪も引かんところである。「アア寒い、寒い」且く聴す商量暖処に帰ることを。一番安全地帯のよいところへ帰らんならん。「般若は大火聚に如同す」さて、この般若(智慧)というのは、いったいどんなものが般若か。われわれはこの般若をもとめなければならんが、般若はどこにあるのか。般若は大火聚に如何同すとある。大火聚というのは、火が燃えておる。そこでまず般若を文字般若、観照般若、実相般若の三種に分ける、まず文字般若、それから、われわれ般若の正味を観察し、その般若を意識し、般若というものはこんなもの、あんなものであると知る。 般若は口でいえんものである。あるいは、心で思えんものである。それだからむずかしい。般若でなくなってしまう。 ようわたしがいう『金剛般若経』の中にも「もし色を以って我を見」―われというのは仏のことだが、今は般若である。金剛般若のことである。「音声を以って我を求めば」―般若というものを声で求めるならば「この人は邪道を行じ、如来を見たてまつること能わず」とある。 この般若を今実相般若というのは、人格化してここに説法しておることは申すまでもない。色を以って我を見、音声を以って我れを求めば、この人は邪道を行じ、如来を見たてまつること能わず。そうすれば、如来をなへんに拝みたてまつるかということの参究である。如来を拝みたてまつるということは、自分が如何に修行するか、ということの問題である。(大智禅師偈頌講話p.176-178)
2026.09.05
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「技術力のある国」ランキング・トップ15 米誌Jan 8 2023◆1位:日本技術的専門知識スコア:100.0 日本の技術的専門知識のスコアは100.0となり、調査対象の全73ヶ国のなかで唯一満点を獲得した。「イノベーション」「熟練した労働力」「デジタルインフラの発達」でも100.0のスコアを確保したほか、「教育人口」「(物理的)インフラの発達」でも99点台を記録しており、高いレベルを誇っている。 これらの属性を含む「起業家精神」のサブカテゴリ全体では96.9点となり、こちらもドイツとアメリカに次ぐ世界第3位の高さとなった。ランキングを発表したUSニューズ&ワールド・リポート誌は、日本は東洋の伝統と西洋の文化を生活様式に取り入れて融合させており、また、世界で最も識字率が高く、技術的にも最も進んだ国の一つだと評価している。◆2位:韓国技術的専門知識スコア:97.3◆3位:中国技術的専門知識スコア:96.2◆4位:アメリカ技術的専門知識スコア:92.7・日本の産学官を合わせた研究開発費、研究者数は主要国(日米独仏英中韓の7か国)中第3位・日本のパテントファミリー(2か国以上への特許出願)数では世界第1位、・ミディアムハイテクノロジー産業貿易収支比においても、日本は主要国の中で第1位・注目度の高い論文数は中国がカウント法によらず全ての論文種別で第1位(5万4405編)ただし、中国の動向については自国からの被引用の影響も大きい・2位は米国(3万6208編) 3位は英国(8878編) 日本は13位(3767編)
2023.08.14
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日米対抗戦の初戦は日本が劇的サヨナラ勝利 6回まで無安打も最終回に連続安打放ち相手のエラー誘う 【女子ソフトボール】7/4(木) 日米対抗戦の初戦は日本が劇的サヨナラ勝利 6回まで無安打も最終回に連続安打放ち相手のエラー誘う 【女子ソフトボール】試合日程日時試合会場詳細情報は下記リンク先またはQRコード先をご覧ください第 1 戦 7月4日(木)19時試合開始バンテリンドーム ナゴヤ 詳細はこちらからご覧ください▼公益財団法人日本ソフトボール協会サイトhttp://www.softball.or.jp/nichibei2024softball/第 2 戦 7月6日(土)14時試合開始富士山スタジアム(静岡県ソフトボール場)第 3 戦 7月8日(月)19時試合開始横浜スタジアム日米対抗ソフトボール2024の第1戦が行われ、日本は6回まで無安打と抑えられましたが、最終回に連続安打を浴びせ、サヨナラ勝利しました。日本の先発は後藤希友投手。2回までランナーを3塁に進めるピンチを招くも、無失点とします。さらに3回には2者連続三振。3人目の打者に四球を与えるも、続く打者をセカンドゴロに打ち取り、アメリカ打線に得点を許しません。後藤投手は3回68球を投げ、6奪三振をマークし、マウンドを降りました。4回からは山下千世投手がマウンドに上がります。先頭打者に死球を与え、続く打者に送りバントされるも、ファーストの下山絵理選手がすぐさま捕球し送球、2塁でランナーを刺す好プレー。山下投手を助けます。再び死球を与えてしまう山下投手でしたが、後続を三振とフライに打ち取りピンチを脱しました。5回も引き続き山下投手がマウンドへ。しかし、先頭打者に出塁を許した所で降板。3番手として三輪さくら投手がマウンドに上がりました。三輪投手は迎えた打者を併殺打に打ち取ると、続く打者に右方向にライナーを打たれますが、これをファーストの下山選手が飛びつきキャッチする好プレー。3アウトとしました。6回にも三輪投手がマウンドに上がり、先頭打者に四球を許すも、後続を打ち取り無失点。7回には初めて日の丸を背負ったマウンドとなる鹿野愛音投手がツーベースヒットを浴び、さらにゴロの間に3塁まで進塁を許します。ここでリエントリー制度を使用し、後藤投手が再登板。打者を三振に打ち取り、ピンチを脱しました。しかし、対するアメリカ代表の先発・マックスウェル投手が好投。日本は6回まで無安打に抑えられます。それでも迎えた最終の7回、日本は初めてのヒットで出塁。連続安打を浴びせ1、2塁のチャンスを作ります。ここで相手バッテリーにエラーが生まれ、その間に2、3塁とします。その後、ピッチャーゴロをマックスウェル投手が捕球できず、後逸。その間にランナーがホームに生還し、日本はサヨナラ勝利しました。💛オリンピックの種目から、野球とソフトボールがはずれた。まず日本とアメリカから世界へとその魅力をアピールする(^^)
2024.07.05
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「永平家訓抄話」沢木興道 その3 そこでその道理を「兄弟見ずや、石頭の道うことを」と、これから以下を起こすのである。石頭大師の『参同契』の文句をあげるために兄弟見ずやと。石頭大師は何とおっしゃったか。『参同契』というのは、石頭大師の御一代の代表的著作である。このほかに石頭大師には『草菴の歌』というのがある。よく石頭大師の結語は引用されるが、わずかにこの二つしか残っていないのである。石頭草菴の歌の中に「世人の住処にわれ住せず、世人の愛処をわれ愛せず」というような言葉がある。 この歌は昔からわたしの好きな歌だ。石頭大師はもと高要の人、高要とはシナの広東の西方二十里位のところで、今の肇慶である。香港から水路によって西江を遡るとたいへん便利である。六祖大師の郷里は、そこから西南十里ぐらいであまり遠くない。それで六祖大師の弟子になったのであるが、この石頭大師という人は、どんな身分であったかもわからんけれども、シナのような革命国のことじゃから、いろいろ変遷があって、かなりな人の末じゃろうということである。石頭大師を孕(はら)んだときにはお母さんの性格が変ったという。こんなことは、古い仏教の伝説ではよくあることで、たとえば舎利弗尊者がお腹に入ったらお母さんがむやみに聡明になって、その兄さんがどうしても議論に勝てなかったという妙なこともある。ここでもそれと同じで、お母さんは石頭大師を孕(はら)んでいる間は自然に精進潔斎であった。大師は子供のときには。お守役をちっとも困らすようなことがなかったというから、非常におとなしい子供だったに違いない。それからかなりになってからは、何でも物はわかっておるというような顔をして、同じ年頃の子供の相手にならなかったという。わたしの幼いときもそうだった。わたしは子供と遊んだことがなかった。私は子供のくせに、だいたい、子供というものはろくでないことをやるもんだと思うておったからである。 そのころ大師の村の漁師たちには、迷信があって淫祠に牛のいけにえを捧げ、お神酒を供して拝む習慣があった。それが子どもの石頭大師には気に食わなかったものと見える。そこへ出かけて行って、淫祠を壊し、牛を奪って帰った。その数は年に数十頭にも及んだが、郷老がそれをやめさせることができなかったということである。子どものくせによほどの自信があったものと見える。つまり石頭大師は、子どものときから全然迷信というもののなかった人らしい。そしてついにそのいけにえの風習をなくしてしまったということである。わたしは子どものときに、スリがお稲荷さんを拝んでどちらへ行ったら商売がございましょうかと伺うのを見た。すると「巽(たつみ)の方へ行け」「何里ばかり行くのですか」「二里半ばかり行け」その時そちらの方に市があった。観音様の会式であったか何かで、そこへは昔のことじゃからニッキ水売りや、覗き眼鏡などがガチャガチャやっておった。つまりその盛り場へ行ってスリに商売をして来いというのである。わたしは稲荷さんといえば神さまと思っておった。神さまが盗人の指図をする。こん畜生、神もへったくれもあるものか。この時分わたしの頭には、正直の頭に神宿る、これだけのことが入っておった。そうすると、不正直なこの稲荷は神じゃない、ど狐か、ど狸か知らんけれども、こんな者はろくな奴じゃない。よし屁をかましてやろうと思って、そこの人がある間にそんなことをやったらどつかれるから、お稲荷さんだけのときに、「コラッ、稲荷、貴様、スリの指図をするとは不届き千万、神でも何でもなかろう。おのれはおれの屁でもくらえ。罰を当てるなら当ててみろ」プッ、と屁をかました。ところが今日まで罰が当らん、いいことばかり。稲荷おろしの婆さんは、わしが後になって坊主になってからも、わたしをたいへん信頼していた。だからこっちは、お稲荷さんをだましてしまったわけである。 わたしが今日まで功利的なことにみじんの狂いもなく来たのは、このお稲荷さんがわたしを証明してくれたからである。石頭大師もそんな理屈で淫祠邪教は信じなかったのであろう。やがて大師は曹渓に行って六祖大師の弟子になった。ところが得度をして具足戒を受けないうちに、六祖大師がなくなった。もうおなくなりになるというときに、「私はあなたがおなくなりになったらどうしたらいいのですか」とたずねた。そうすると「尋思去」と六祖は答えられた。尋思ということは、ハテ何じゃいな、ゴーゴーいうておる、あれは飛行機かいな何じゃいなと分別することで、つまり仏教心理学のうちにある名称である。そこで六祖大師がなくなられてから、石頭大師は文字通りに尋思去しようと思って坐禅ばかりしておった。そうすると南嶽懐譲禅師がやって来て「お前は師匠がなくなったのに何をしておるのか」「尋思去とおっしゃったからわたしは坐禅しておる」といった。尋思去ということは、考えることと思うたのである。ところが南嶽は、「いや、そうじゃない。お前の兄弟子に青原におる行思和尚というのがある。だから尋思去というのは、青原行思を尋ねて去れということじゃ。自分で考えろということじゃない」といった。そこでサッパリした。それからまっすぐに青原に行って修行し、ついに青原行思大和尚、石頭希遷大和尚と、こう並び称されるようになったわけである。
2026.08.30
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「永平家訓抄話」沢木興道 その4 雪舟が石頭大師の顔を描いたのが今も残っておる。それはカンカン干しの痩せたえらい顔である。行思大和尚の歿後は南嶽の南台へ行かれた。ところがその南寺の東には石台があったので、その石の上に、草菴を建てて住んだということである。それから世の中の人が、石頭和尚と呼ぶようになったといわれている。唐の貞元六年になくなり、今でも塔があって、その銘に見相宝塔とある。いくつでなくなられたかはわからないが、石頭大師というのは、こういう非常に偉いお方であった。その石頭大師の代表的な著作がこの『参同契』である。 そこで「兄弟見ずや石頭の道うことを」と。何と言われたか。「当に明中に暗あるべし、暗相を以て遇うこと勿れ。当に暗中に明あるべし。明相を以て覩(み)ること勿れ」と。『参同契』には明暗ということについて「霊源明(れいげんみょう)に皎潔たり。技派(ぎは)暗に流注す」「暗は上中を合するの言、明は清濁を明すの句」と三回この明暗ということが出ておる。明暗というてもこれはただ目で見る明暗ばかりではない。仏教を字の通り読んでは困る。どうも口でいえないことをいうのじゃから、そこに詩が生まれる。口でいうものだけなら、ただ読めばそれで済むのじゃろうけれども、口でいえないことは、詩の余韻で翫味するより仕方がない。そこで明というても何を意味しておるか、暗というても何を意味しておるかを味わうのである。『般若心経』でいうなら「明中に暗あるべし」ということは「色即是空」ということじゃないか。「暗中に明あるべし」とうことは「空即是色」ということじゃないか。 そこで『参同契』には「回互(えご)不回互(ふえご)」とある。回互ということは平等ということである。たとえば夫婦の間は回互しておらんならん。夫婦の間に回互なしでは困る。わたしの知っておる和尚のところで、丘宗潭老師が一泊されて翌朝お立ちになるとき、朝飯を差上げて送り出そうと、和尚はそのつもりでおった。ところが九時になっても十時になっても、細君がいっこう飯の用意をせん。和尚ジリジリして台所へ行って「オイ婆さん、飯は」というと、「飯は私の分だけあったから私が食った」「後は」「もうない」こんな婆さんをもらったら困る。不回互である。かかあはかかあで勝手なことをしておる。あるじはあるじで勝手なことを考えている。そうしてめいめい巾着も別なら生活も別、不回互ぎりならそれは夫婦ではない。それならというて、交替で赤ちゃんにおっぱいをやるとか、飯炊きは一日おきに交替でやるとか、いつもくっついて回互ばかりでもいかん。爺さんは山へ柴刈りに、婆さんは川へ洗濯に、これは不回互の方である。ところが一方では爺さんは婆さんの焚き物を取って来るし、婆さんは爺さんの糞のついた褌(ふんどし)を洗うておるからこれは回互である。回互と不回互と互い違いにちょうどうまく行く。明暗とか、有無とか、是非とか、善悪とか、色とか空とかあるけれども、一切諸法はみなこれ因縁生である。因燃生であるから無自性である。無自性であるから無相である。無相であるから皆空である。今「当に明中に暗あるべし」「明中の暗」であるから見た通りではない。だから「暗相を以て遇うこと勿れ」これは梟に聞いただけではいかん。鶏に聞いて見なければならん。われわれから見るとちゃんと鶏と梟と両方がわかるから「暗相を以て遇うこと勿れ」と、いつもちゃんとこれがなければいけない。 夫婦喧嘩をするのを見ても、それを岡目八目で見たら勝手なことをいうておるのがよくわかる。あまり夫婦が心易いものだから勝手なことをいうておるので、「暗相を以て遇うことなかれ」お前のいうのもごもっとも、どっちもごもっとも、どっちも嘘。そこに回互と不回互と。だから暗中に明あるべしは夜半正明。明中に暗あるべしは天暁不露。そこでこの道理をよく知らねばならん。 一切有為法は相似相続といって、一切の世界は似たものが相続しておる。ちょうど滝が落ちるようなものである。電気はついておるが、あれも時時刻刻消滅している。消滅しているけれども、これは同じものが続いておるように見える。すなわち相似相続しているわけである。今日の一切世界は昨日とは違うのだけれども、昨日と同じようなものが相続しておる。わたしの顔もその通りで、同じような顔でお目見えしておるようだけれども、去年よりは白髪がふえておる。これは一遍にふえたのではない。ぼつぼつふえた。そうして見ると、この人生はいつも初対面である。瞬間瞬間が初対面の人生であり、瞬間瞬間が御暇乞いであるわけである。それから瞬間瞬間に変って行くのが真実かといえば、永遠に変わらない一つのことを隆蘭渓は「諸仏衆生平等の自性」といい、指月禅師は「諸仏自住の本実」といわれた。こんな符牒がよけいにあるから人生もめんどうになる。また符牒があってくれるから話もしよいわけである。その自住の本実というのを事実にすいていって見れば「当に暗中に明あるべし、暗中を以て遇うこと勿れ、当に暗中に明有るべし、明相を以て覩(み)ること勿れ」こんなふうにいわんならん。ずいぶんめんどうくさいわけだが、仕方がない。
2026.08.30
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高木美帆さん、東京科学大で特別講演会 鉄人の土台は幼少期から磨き続けた「体にセンサーを張り巡らせる意識と感度の高さ」9/2(水)スピードスケートで日本女子最多の五輪メダル10個を獲得した高木美帆さん(32)が2日、東京科学大湯島キャンパスで同大学の教職員、学生に向けて特別講演会を開催約1時間マイクを握り、現役時代の体との向き合い方について語った。五輪に4度出場し、31歳で臨んだ2月のミラノ・コルティナ五輪で3つの銅メダルを獲得した高木美帆さんは、自身の強みのひとつとして「ケガをしにくかったこと」を挙げた。その背景にあるのは、体への理解度の高さ。最初のきっかけは、小学5年時に少年団のコーチから「ハムストリングを意識して滑りなさい」と声を掛けられたことだった。聞きなれない筋肉の名前に「当時はチンプンカンプンだった」と笑うが、以降はどれだけ急いでいても、階段を上る際は「一段飛ばしせずに、一段一段ハムストリングを意識した」。小学生の頃から特定の筋肉を動かす感覚が養われ「体にセンサーを張り巡らす意識と感度の高さが身についた」と振り返った。高校時代はケアを受けながら理学療法士に「クイズを出して」とお願いし、「ここは?」と直接触れられながら筋肉の名前と動かし方を勉強。それぞれの筋肉が連動して動いていることを身をもって学び、「体の構造を立体的に理解できるようになった」と語った。「自分の体の変化に気が付けるようになった。そして、いろいろな引き出しを持てるようになった」。若い時期に自身の体への理解を深めたことが、後の競技力向上やケガしない体づくりにつながった。若手アスリートに向けて「自分の体を知って損はない」と力説し、医療スタッフには「アスリートに体を見つめる機会を」と呼びかけた。 「スポーツ医学にできること」 「スケートを始めたのは5歳。四つ上の兄が始めたのがきっかけです。留守番が苦痛で兄について行き、練習を始めました。当時は外のリンク。寒いし、足も腰も肌も痛い。あんまり楽しくないと思った記憶があります。練習で会える友達やお菓子が楽しみでした」その後、水泳、ヒップホップダンス、サッカー、陸上と幼少期から多くのスポーツを体験。「結果的にスピードスケートに進みましたが、いろいろやってよかったと思います。小学2年生で始めたサッカーでは心肺機能や体力が鍛えられました。ダンスではリズム感、柔軟性、けがにつながりにくい体の動かし方を学んだと感じます」整形外科医の山下学長「スピードスケートは前傾姿勢で腰を痛める人が多い。どうでしたか長高木「腰が痛くて動けなかったことはありません。私はむちゃな体の使い方はしない、体を大切に扱うことを大事にしていました。スピードスケートは臀筋(お尻の筋肉)が大きくなり、よく使います。その上部が硬くなると腰の不快感につながるのでテニスボールを使ってほぐしていましたね」渡辺教授「指導者から『美帆さんは他の選手と違う』と聞いたことがある。自身はどう思うか」高木 「比べたことがないので難しいですね。でも、もし私が小中学生に伝えるとしたら、若い頃から自分の体に興味を持つことを勧めたい。私は高校生の頃から、筋肉の名前や働きを覚えたり、トレーナーさんに問題を出してもらったり教わったりしていました。自分の体がどうなっていて、どう動かしたらいいか。その蓄積が後の開花につながったと思うからです」トップ選手としての心得と取り組み。高木さんが冬季五輪4大会に出場し獲得したメダルは10個。どう心身を整えてレースに臨んだか。高木「レース当日に何かしてばたついても結果は変えられない。過去の失敗から学んでいます。甘い世界ではありません。週末の金土日にレースがあれば、最低でも月曜日から木曜日まで行う練習の流れの中で必要なことに淡々と取り組んでいく。次第に集中力が高まりレースに挑んでいました」疲労回復、睡眠や食事への対応高木「アスリートとして最大のパフォーマンスを出すため、いろいろな情報を探し、実践しては反省の繰り返しでした。食事は血糖値の乱高下が良くないと言われているので野菜から食べるように。眠れなかったら体が必要としていないんだ、と受け入れました」高木「私の中で姉はどこまでいっても姉です。2学年上で学ぶことが多かった。スケートの技術だけでなく選ぶ道も。こういう所に進むとこういうことがあるんだと。姉なくして自分の選択は生まれなかったと思いますね」今後やりたいことや目標「多くの方の応援や支援で現役を全うできました。まずは北海道や全国を巡ってお礼を伝えたい。同時に、将来につながる自分の学びも深めたい。スポーツが体や健康に与える影響は大きい。脳にいい影響があると、現役中に読んだ本で興味を持ち、そういうスポーツ医学の活動に関われたらいいなとも思っています。私が考えるスポーツは競技スポーツと違い、生活に溶け込んでいるもの。スポーツの可能性は大きい。皆さんもきょうから新しいスポーツに取り組んでもらえたらうれしいですね」
2026.09.03
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札幌農学校教授・宮部金吾 その11 誕生(『宮部金吾』十二頁)「私(宮部金吾)が生まれたのは万延元年である。万延元年といえば、正月、安藤信正老中が始めて西洋に我が使節を送り、三月三日井伊大老の桜田門外の変が起った時で、国内では一方に尊王攘夷の論が起り、一方には佐幕開港の議があり、国内騒然としていた時代である。この年、東亜大陸においては、英仏の東洋進出の機が熟し、七月英仏連合軍北京に進み、八月には早くもこれを陥れ、九月には天津条約が成立し、ロシアはウラジオストク東岸の地を得た。植物学の方面ではこの年にロシアの植物学者マキシモウィッチが函館に渡来し、日本の植物に対して徹底的に採集研究し始めたのである。また生物学界を見るに一新紀元を劃したダーウィンの有名な「種の起源」の発表がその前年に当っている。 生まれた日は、閏三月七日、その巳刻(午前十時)に誕生した。この時、父四二歳、母三二歳、その五男として、祖父母、父母、兄姉揃える中にココの声をあげた。父の自筆になる金吾誕生記と臍の緒並びに産毛が保存されている。文久三年に更に妹、三女の甲子が生まれたが夭折したので、私は末子として一家の寵愛を一身に集めた。 生れた場所は江戸下谷和泉橋通御徒町で、後に御徒町二丁目一五番地となった。これは現在上野広小路松坂屋南側に通ずる青石横町を和泉橋通に出た所から程近く、大震災後は昭和通の道路となってしまった。その頃の御徒町は名の示すように徒士の人が多く住んでいたが、伊予大津加藤の屋敷があり、また文人、書家、画家等が住む者も多く、閑静な住宅地であった。そして我が家は加藤の屋敷の西南隅に面した角屋敷であった。
2026.09.03
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札幌農学校教授・宮部金吾 その2二 祖父の死(同一三頁) 四歳の一二月六日祖父が急逝した。この日ちょうど家はすす払いで、祖父は朝早くより他出、知人の家を一回りして帰宅。既に掃除を終えた一室のみは、コタツの火もいれられ、祖父を待っていた。祖父はそのコタツの上に大きな鮨の皿をのせて、好みのものを食べていたが、突然起った脳溢血のため、そのまま急逝した。すす払い当日であり、大工左官その他大勢の手伝い達がいたこととて騒ぎは一層であった。そして江戸式のにぎやかな通夜がその夜行われた。 祖父の慈愛の程は、幼い私の脳裏にも深く刻まれている。ある時はお馬となって私を背にのせ家中を這い回ってくれた。祖父はまた来客が見えると客間に通し置き、居間の方からタバコ盆を下げておもむろに出ていくのを常とした。その時私は三番叟(さんばそう)のかぶる烏帽子をつけ、鈴を手に持っていつも祖父の後ろに付いていった。客の前に出ると、祖父は客に「まあまあ待って下さい。これを済ましてから」と手で制しつつ、煙草盆をキセルでたたいて、拍子をとりながら、「トッパヒアロ、トッパヒアロ」と囃し立てた。私は得意になって、それに合わせ舞ってから引き下がった。誰いうとなく、「宮部の三番叟小僧」という名が知人の間にひろまっていたそうである。三 駿府往還(同一四頁)八歳(慶応三年)の八月、父が駿府紺屋町代官陣屋に赴任したので、家族もこれに従って江戸を立った。もちろん駕籠(かご)の旅である。私は母と共に大きな私用の駕籠に乗った。随分あちらこちらで泊ったような気もするが、恐らく四五日のものであったろう。子供心に箱根山の険しかった事、所々母親に手をひかれて歩いた事なども記憶に残っており、湖水や大きな杉木立、また関所などおぼろげながら印象に残っている。父は代官の手附元締であったので紺屋町の役宅は大きかった。庭も広く、中にひょうたんの形の池があった。一方の池は湧水のため、水が極めて清冷で、庭の小石も一つ一つはっきり数えられた。大きな緋鯉が心地よさそうに泳いでおり、時折大きな音を立てて勢いよく跳ねかえった。ひょうたんのくびれの所には小橋がかかっており、またそこに魚の逃げないよう塞(せき)がしてあった。一方の池はアオミドロがいっぱい生じていて、どんよりとよどんでいた。それから水は流れはじめ、その小川にはメダカやフナやコエビがたくさんいて、池を中心とした水辺のあらゆるものが少年の日をゆたかに楽しくしてくれた。役宅は代官陣屋の一番奥のはずれにあり、すぐ近くの小高い所に社(やしろ)があった。社をめぐってこんもりとしげった大木のしげみがあり、季節季節にいろいろの鳥がやってきたが、特に群れてやってきて、盛んに鳴く百舌(もず)の声は今も忘れ難い思い出の一つである。屋敷の裏はうち続く水田で、裏木戸を開けて畦に出ていくとたくさんのイナゴがいたのも珍しく、またこれを捕らえるのも江戸育ちの少年には楽しい遊びであった。軒から軒へ、繁華な所狭い大江戸から急にひなびた自然に飛び込んだ私は、自然の美しさ、広さ、大きさに心をゆすぶられた。私はあらゆるものに驚きを感じ、また自然の中の楽しさを非常に豊かに感じた。後年自然科学に向かった私の意志は、あるいはこの時代に知らず知らずにしっかり培われていたのかもしれない。ここで九歳の初春を迎えたが、これが実に明治元年、即ち王政復古の新春である。しかし当時には色々な評が巷を飛び、正月二五日私は母等と共に避難のため江戸に帰された。三月すっかり平穏になったので私達は再び駿府に呼び返された。この時は父は朝臣となっていたのである。一二月ごろ同地に在住、一二月二日に完全な引上をなすべく東京(明治元年七月より江戸は東京となった)に向かって出発。そしてその帰途一同うち揃って江ノ島に一泊したことを記憶している。1 明治元年正月二日、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いに敗れ、海路で江戸に帰城した。正月五日官軍は先鋒総督橋本少将実梁が京都を出発し東海道を下る。二月六日、総督の使番が駿府に来て勅命を伝えた。二月一一日、代官は桑名で総督に謁見し、勘定所より勅命を遵守すべしとの許可を得て京都に上った。三月二条城で朝臣を命ぜられ、宮部金吾の父も田上駿府県令のもとで付属元締を拝命した。
2026.09.04
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「ユマニチュード」という革命p.110 ユマニチュードは自律に関する定義を広げたいと思います。 あなたが何を志向しているかを伝えられる。あるいはそれを私たちが理解できる状態であれば、あなたは自律しています。伝える手段は必ずしも言葉だけではありません。ケアする側があなたの伝えようとすること、その志向性を把握できる状態であれば、あなたの自律は尊重されなければいけないのです。 私は、人はどんな状態になっても何を欲しているか、自分にとって何が好ましいかを伝えることができると思っています。ですから、最期のときまで自律は尊重されなければならないと提唱しています。 ある病院で撮影された映像に、アルツハイマー型の認知症の女性のシャワー介助の模様が記録されています。看護婦が、「温かいですよ」「気持ちいいですよ」と優しく声をかけています。けれども彼女は、「なんでこんなことするの!」「温かくないよ!」と絶叫しています。 ケアを行っている看護師たちはとても困惑して、悲しげな表情をしています。よかれと思ってやっていることがまったく受け入れられず、自分たちのケアが拒絶されているからです。 この女性は、自分の年齢が13歳だと思っています。彼女は、自分がシャワーを浴びていると理解しているでしょうか?体が汚れているから看護師が体を洗ってくれるのだということも理解していないでしょう。むしろ、彼女たちが看護師であることさえわかっていないし、ここがどこかも理解していません。 彼女にとって、これはいいことでしょうか。望んでいることでしょうか。違います。彼女はちゃんと表現しています。「そんなことはしてほしくない。嫌だ」 もしも彼女がきちんと言葉を話せたなら、おそらくこう言うでしょう。「いますぐ止めてください。私はシャワーを浴びたくありません」 看護師たちは、絶叫している彼女に対して申し訳ないと感じる表情を浮かべています。だからといって、シャワーを止めることはしません。 嫌がることをやり続けるのは拷問です。けれども、もちろん看護師たちはこのシャワーを拷問とは思ってはいません。ケアする側がすべての権利を持っていることへの自覚がないからです。 つまり、自覚を尊重するとは何かがわかっていないのです。彼女がこのケアを望んでいないことは、誰の目にも明らかなのにもかかわらず。 彼女のようなアルツハイマー性の認知症高齢者がこのような言動をするとき、私たちはこう考えています。「この人の認識が間違っている。彼女が思い込んでいる現実とケアする私たちの現実では、私たちのほうが正しい」。つまり妄想と現実の違いだと結論づけます。・・・・・・ 彼女の訴えはおかしなことであり、ケアする側の私たちのほうがまともだという見方はとても強固です。高齢者の現実が変なのではありません。私たちが「これが現実だ」と思っていることのほうがおかしいのです。 現実とはなんでしょう。「これをやらないといけない」「これはダメだ」といった考えで組み立てられたものではないでしょうか。そうであるならば、まず私たちが正しいと思っている現実を変えないといけません。自分を疑わない人間たちが、彼女の自律と自分らしく生きる権利を奪っているのです。この現実は、私たちの頭がつくった狂った世界です。 フランスでは毎日2万5000人の高齢者が強制的にケアを受けています。ケアを行っている人は、自分が虐待を行っているとは思っていません。ケアをするする人は、自分がよいことをしていると信じています。ケアをする人の現実にとって重要なことは、予定通りに仕事を終え、他のスタッフに迷惑をかけず、家族の要望に応えることです。 しかし、ケアを受ける高齢者の現実は違います。先ほどの高齢の女性の場合、彼女はシャワーを浴びたいと思っていません。彼女の現実では、自分は暴行を受けており、恐怖を感じ、助けを求めているのです。彼女の感情は恐怖でいっぱいとなり、この恐怖から逃れるためにできる限りのことをしているのです。だから叫んだり、外界との接触を自ら断ち切り、目を閉じて手足を縮めて黙り込む。これらは彼女が自分の身を守るための防御なのです。 ユマチチュードのケアにおいては、強制的なケアは絶対に行わないことを原則とします。 ユマニチュードは彼女の現実に即します。彼女は多大なる苦痛を受けており、それについて、「嫌だ」とはっきり態度で示しています。ケアする側に、相手の自律を奪う権利はありません。 認知症高齢者の認識を尊重すれば、「仕事ができなくなる」と思うかもしれません。けれども彼女の現実に即するとは、ケアの必要性を放棄することではありません。なぜなら体を清潔に保つことは大事だからです。 念頭に置いてほしいことはがります。ユマチチュードではその人の選択、自主性を尊重します。それに対して、私たちは真摯であらねばなりません。 だからこそ、彼女がシャワーを穏やかに浴びることができるような方法を考案するのです。彼女に合意してもらえ、順調に進行するような方法を私たちが見出さないといけないのです。なぜなら、私たちにはこれまでのやり方とは違う、人間的なやり方で行う可能性と力があるからです。 アプローチする技術を変える。担当の看護師を変える。シャワーの時間帯を変える。日中が無理なら夜間にケアする。相手の自律と自主性を第一に考えます。 つまり、シャワーを浴びたいという意思が、まず彼女になければならないのです。そのためユマニチュードでは、看護師が事前にきちんと計画し、ケアを準備します。 先ほどの高齢女性の話を続けましょう。後日、ユマニチュードの研修を受けた看護師が彼女にシャワーのケアを行いました。「お湯の温度はどうですか?」と問いかけると、「ちょうどいいです」「以前あんなに泣いたのはね、怖かったからなんです」と話し始めたのです。彼女は重度の認知症患者です。しかし、自分の身におきていること、起きていたこと、自分の周りの現実がどういうものか、感情に伴った記憶とともに、彼女はちゃんとわかっていたのです。『急に具合が悪くなる』を生んだユマニチュードと演出の結節点――濱口竜介監督インタビュー「基本的にはこれまでの演出方法をそのまま使いながら、黒崎(煌代)さん演じる智樹という役に関しては、少し例外的な方法を使いました。というのも、智樹は重度の自閉スペクトラム症を抱えている設定なので、他の役のように「本読み」を繰り返すための台詞はありません。代わりに、身振りや発声を基調とする彼独自の台詞をつくっていく必要があり、まずは黒崎さんやスタッフと一緒に自閉スペクトラム症の方々が入居する施設に通い、入居者のみなさんと接しながら、智樹の「台詞」をつくっていきました。それと、自閉スペクトラム症の智樹の動きを映画としてどう描いていくかについては、ダンサーで振付家の砂連尾理(じゃれお おさむ)さんともいろいろと相談をしました。砂連尾さんとはこれまでもたびたび一緒に仕事をしていて、特別養護老人ホームで高齢者や認知症患者と踊る「とつとつダンス」を実践していたり、ダウン症や障害のある方々と一緒にダンスをする、という試みをされている方でもあります。この映画では、我々が「足裏ダンス」と呼んでいた身体表現の振り付けもお願いしました。これはどの登場人物に関しても言えることですが、必ずしも脚本に台詞を書き、それを俳優が覚えることだけが役をつくるうえでのゴールではありません。台詞に代わる身振りや声を決めていきながら、同時に、智樹がどういう精神性を持っている人であるのかを、他の人物とはまた別のアプローチで黒崎さんと一緒に考えていきました」「ある時期、医学書院から出版されている『ケアをひらく』というシリーズをよく読んでいたんです。以前に手がけた『寝ても覚めても』(2018)でALS(筋委縮性側索硬化症)を扱うことにつながる、川口有美子さんの『逝かない身体―ALS的日常を生きる』を読んだり、熊谷晋一郎さんの『リハビリの夜』を読んだりするうち、ケアというものはどこかしら演出と近しいものがあるのでは、という印象が芽生えてきた。そして出会ったのが、別の出版社から出ていた『「ユマニチュード」という革命』という本でした。「ユマニチュード」の開発者であるイヴ・ジネストさんとロゼット・マレスコッティさんの技法や理念を日本で紹介するために出版された本なんですが、その本を読み、ここに書かれているケアの理念は、本質的に映画の現場での演出とも通ずるという印象を持ちました」
2026.09.04
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デカフェでもいいの?毎日5杯のコーヒーで「肝臓がんリスク47%減」英研究が示す真実9/4(金) 肝臓は体内のフィルターとして機能し、500以上の重要な働きを担う、私たちが全力でサポートすべき臓器だ。コーヒーと肝臓の結びつきは少し意外に思えるかもしれないが、実は肝臓の専門医たちは何年も前からコーヒーの利点を高く評価してきたのだ。最新の研究結果と、コーヒーが肝臓の健康をなぜ後押しするのか、そのメカニズムを見てみよう。専門家の紹介:ヒョンソク・キム医師(医学博士、シダーズ・サイナイ医療センターの移植肝臓専門医であり本研究の筆頭著者)、ラフィ・カラゴジアン医師(タフツ医療センターの移植肝臓専門医)、マリー・L・ボラム医師(ジョージ・ワシントン大学消化器・肝疾患部門責任者)この研究は、医学誌『Clinical Gastroenterology and Hepatology』に掲載されたもので、長期間にわたる生物医学データベース「UKバイオバンク」に参加した約35万5,000人の成人の食事と全体的な健康データを分析したものだ。研究チームは約13年間にわたり参加者を追跡調査し、肝硬変(肝臓の線維化)や肝臓がんなどの合併症、さらに肝臓関連の疾患による死亡リスクを調べた。その結果、コーヒーを飲む人は全体として、時間の経過とともに肝臓の合併症を発症しにくいことが判明した。具体的には、コーヒーを毎日5杯以上飲む人は、コーヒーを飲まない人と比較して、肝硬変のリスクが32%、肝臓がんの発症リスクが47%、肝疾患による死亡リスクが42%も低いことが分かったのだ。さらに驚くべきことに、これらのメリットはレギュラーコーヒーでも、カフェインレス(デカフェ)でも同様に見られ、1日あたりの摂取量が少なくても健康効果が確認されたという。また、コーヒーを飲む人は飲まない人に比べて、肝臓の炎症レベルが低く、健康な肝機能を示す特定のタンパク質レベルが高いことも明らかになった。研究チームは結論として、「無糖のコーヒーを適量飲むことは、肝疾患を予防するためのシンプルで効果的な戦略である」と述べている。今回の研究結果は、肝臓を保護する主な理由が「カフェインではない」可能性を示している。「デカフェのコーヒーにも、ポリフェノールやクロロゲン酸など、多くの生物活性化合物がそのまま含まれています」とキム医師は指摘する。「つまり、カフェイン以外の成分こそが、肝臓に良い影響を与えている可能性が高いのです」カラゴジアン医師も「カフェインに敏感な人にとって、デカフェは健康的な選択肢であり続けます」と同意する。ボラム医師も、「デカフェのコーヒーも、その潜在的な抗酸化作用や抗炎症作用により、肝臓を保護する可能性があります」と述べている。ただし、ボラム医師は「コーヒーが肝臓に与える有益な効果を完全に理解するためには、さらなる研究が必要です」と慎重な姿勢も見せている。肝臓のために無理にコーヒーを飲み始める必要はないが、もしあなたがコーヒー好きなら、毎日の1、2杯のコーヒーが「肝臓の健康を守ってくれているかもしれない」とポジティブに楽しみ続けてみよう。
2026.09.04
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「日本人が急いで本気で考えたほうがいいこと」 84歳、養老孟司さんが語るモノサシの重要性8/26(金)養老さん最近、「老人本」ともいえる本を出した。『年寄りは本気だ』――生物学者、池田清彦さんとの対談だ。養老さんが現在84歳、池田さんが75歳。虫仲間の二人は何を「本気」で語ろうとしたのか。「まあそのタイトルは出版社がつけたんですけどね。池田さんも後期高齢者だけど、私とは世代が違って、いわゆる団塊の世代にあたります。私は団塊嫌いみたいに言われることもあるのですが、妻も団塊の世代ですし、この世代の友人は多いんですよ。 池田さんは、テレビの視聴者にどう見られているかはわからないけれど、ものごとの本質をつかんで、ずばりと表現ができる人です。ことの良し悪しを言うのに必要な『モノサシ』を持っています」(養老さん)「たとえば、日本の食料自給率が低いことがよく問題にされます。一時期、農林水産省がすごく取り上げました。そういう時には、『日本の食料自給率は4割程度』などと言われるのですが、これはカロリーベースの計算で、穀物主体の数字なので、ここには家畜の飼料も含まれています。最近、飼料を除いた数字が発表されて、そちらはもう少し自給率が上がっているようですが。 この数字とは別に生産額ベースで見ることもある。その場合、自給率は7割以上となっているんですが、それは国産品のほうが値段が高いからです。 単純に数字で実態を知ろうとしても、いろんなトリックが入っているからなかなか難しい。 食料自給率の問題は大切だ、というのは誰もが言うことでしょう。ところが、それを把握する際、何をモノサシとして測ればいいのかよくわからない。そこに合意が無いからです。日本を実質的に捉えるための基準がはっきりしていないのです。 だから、そのことについて議論しても宙に浮いたようなものになってしまう。 そもそも、そういうモノサシは誰が考えるべきなのか。政治家なのか、経済学者なのか、そこもよくわかりませんし、定まっていません」「コロナ禍は大きかったでしょうが、今後もいろんなショックがやってくるでしょう。首都圏直下型地震もあるでしょう。南海トラフ地震に至っては、近い将来、来ることがはっきりしている。知り合いの尾池和夫さんの説では、2038年頃だと予測されています。あと16年と考えると、やるべきことも見えてくるというもの。 そのときどれだけの損害が出て、何をちゃんとしておけばいいのか。この前の戦争みたいに東京が更地になったとき、最初に手をつけるべきことは何なのか。 そのことを考えていくには、根本的にこの国が何に依存しているかを絞り込んでおかなければいけない。優先順位を決めなければいけないのです。 そうでないと、国民の間に大きな枠組みでの合意ができませんし、いざというときの自給自足も成り立ちません」
2022.08.26
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エドガー・ケイシーの「人生を拓く7つのステップ」1 今の自分の状況を受け入れる「今、自分が置かれている環境は、今の自分にとって、もっともふさわしい状況である。たとえ困難な状況にあったとしても、自分の魂にとってはもっともふさわしいところである」ということを受け入れる。2 魂の理想を知る人生をより建設的にするには、自分自身を知ったら、次は魂の理想を知ることが重要です。「自分はこの人生で本当は何をしたいか」ということです。さらに「自分には本当にしたいことを実現できる能力が備わっている」のを信じること。3 魂の理想を実現する努力を始める4 手元にあるものを使う「手元にあるものを使う」別の言い方をすると「今、自分の立っている地点から出発する」ことが重要です。ケイシーは何度も「Use what you have in your hands」と言っています。「今ある能力をどう使う?」とか「今の状況で何をしよう?」と考える。そして今ある能力を、宇宙に恥ずることないように使います。「どうかこの能力を役立ててください。」というつもりで使うならば、その能力は何倍にも増えます。宇宙は必ずそこに祝福をこめてくださるということを信じることです。5 機会を大事にする手元にあるものを使えるようになると、宇宙は機会をくれます。「機会は宇宙の感謝の印(しるし)」ケーシーの言葉です。6 感謝する、讃える機会を活用しはじめると、人生にさまざまな良いことが起こります。そのときに自分の実力だとか、手柄だとか考えずに、宇宙が与えてくださった機会に感謝をしましょう。たとえ 困難だと思えても、「私を高めるために、あえて設定してくださった」と受け止め、その困難すら讃えて取り組むのです。すると困難と思えていた状況が、より良いかたちで転換していきます。このように行動していくと「自分の人生が、宇宙と正しく共鳴して営まれている」という喜びを感じるようになります。7 宇宙と深い親交をもって生きる「私の意志ではなく、宇宙のご意志が私の内に私を通して行われますように」という信条をもって生きると、さまざまな困難や障害は背後に退いていきます。そういう信条をもっていると、宇宙も讃えるし、宇宙が備えてくださる機会も讃える。また宇宙が引き合わせてくれる人々も讃えるし、自分の状況を讃えることができます。*日本エドガーケイシーセンターの光田秀さんの「エドガー・ケイシーの霊的哲理と仏教」ブッダの教えの究極の目標は何であろうか?・・・私の理解するところでは、それはブッダの教えを実践する人々をして「悟り」に至らしめることである。より正確には「阿羅漢の悟り(ニルバーナ)」に至らしめることである。阿羅漢とは何か?それはあらゆる煩悩と執着を断じ、カルマを越え、輪廻転生から解脱した人をいう。したがって、仏教本来のゴールは、人々をして輪廻転生とカルマを越えさせることにあるはずである。そしてその目標を達成する具体的な方法として、ブッダはさまざまな修行法を人々に示されたのだ。私たちが貪・瞋・痴(トン・ジン・チ:貪り、怒り、愚かさ)の3毒を克服しようと努力するのも、そのゴールを達成せんがためであり、それによって人格の向上がはかられるとしても、それは本来的な意味からいえばあくまでもゴール途中の成果であって、それ自体が目的ではない。八正道を実践するのもその一事のためである。(以下略)エドガー・ケイシーは生涯で1万5千件近い透視リーディングを行ったが、そのうち約2千件が依頼者の前世を透視するライフリーディングと呼ばれるものであった。(キリスト教圏でありながらケイシーが前世を語ったことから、後に教会から破門される)ケイシーからライフリーディングを受けた1200人中18人が「今回の転生をもって輪廻の束縛から離れる」ことを明示された。この18人中14人が女性であった。さらに既に転生を超えた人々が、人々に奉仕するためにあえて肉体に入るケースをリーディングは認めている。そのような人々を「使命をもって転生する人(reincanation with a mission)」と呼ぶことがあったが、そういう人が数人は認められる。仏教でいう「菩薩道」であろうか。しかし、ケイシーのリーディングによれば、使命を持って転生しても、彼らが再び地上の煩悩に捕らえられる危険性が常にあることを示唆している。(光田氏はそうしたリーディングの一つを紹介される)このリーディングは本人の母親の依頼によって、1927年2月26日にフロリダ州マイアミのハルシオンホテルで実施された。(ケイシー夫人が1906年3月27日フロリダ州に生まれたこの人の過去生について催眠状態に入ったケーシーに質問する。ケーシーは催眠状態のまま質問に答える。眠れる預言者と言われるゆえんでもある)ケイシー 過去生については次のようである。 この人はフランスの宮廷の人々のアイドルで、名をブリードラといい、人々に喜びと平和、幸福を与えることによって進歩を遂げた。それによって楽しい生活と贅沢に囲まれた地位を得たが、それを誤用することがなかった。この人は言葉においても、行いにおいても、常に人々に捧げつくしたからである。たくさんの人にとってこの人は注目すべき存在となった。言葉と行動によって自分を表現したいという願いが、当時からの衝動となって今に現れている。人々の生活に多大な影響を与えるような仕方で教え、訓練し、朗読する能力があるのはこのためである。(さらにギリシャ時代、エジプト時代の前世について語られる。いずれの時も奴隷にも喜びを与え束縛から解放したり、その信仰が人々に喜びを与えたことが示される)十字架へ導くあの道にしっかり留まりなさい。主の中にこそ光はあるからだ。この実体の努力を通してその光を身に現すならば、今回の人生をもって地上での転生を超える境涯に到達するという無上の喜びを、この実体は得るであろう。というのもこの実体は多くの人々をしのぐあの向上の領域に至っているからである。善用せよ、さればすべては益になる。光田氏はケイシーの転生論を仏教の輪廻と比較してこう述べる。ケイシーの転生論の中で、ブッダの転生論における「渇愛」に相当するものは「原罪」である。ケイシーの解釈する「原罪」とは「自己(self)」である。「自己」が諸悪の根源であるとケーシーは見る。・・・ケーシーのリーディングでは、「自己を失え(lose self)」ということが強調される。自己を失うとは、アイデンティティーを放棄することではない。自らの意思をより高次の存在原理に合致させるという意味で、自己を失うのである。。わたしたちは低位の自己を失うことで、本来の自分を自由にすることが可能になる。ケイシーは、より高次の存在原理がキリストにおいて体現されているという認識に立って、「主のうちに自己を失え(lose self in Him)」という言い方をすることもあった。またケイシーは、仏教で言う真言・マントラに相当する祈りの言葉(アフォメーション)を依頼者に与えることがしばしばあった。その代表的なものとして次のものがある。「私の意思ではなくおお主よあなたの御心が私のうちに私を通して行われますように私の為すことがすべてあなたが私に望まれるものと等しくなりますように」☆この祈りの言葉はマザーテレサの次の祈りの言葉と同じである。 わたしを通して輝いてください Shine Through Me親愛なる主よわたしがどこに行こうとあなたの香気を放つことができますようにお助けくださいわたしの魂をあなたの霊といのちであふれさせてくださいわたしの人生のすべてがただあなたの光の輝きだけとなりますようにわたしの全存在に染み込み捕らえ尽くしてくださいわたしを通して輝きまたわたしの中においでくださいわたしの出会うすべての魂がわたしの魂においてあなたのみ姿を感じられますように主よ人びとに目を向けさせもはやわたしではなくあなただけを見させますようにわたしの中におとどまりくださいそうすればわたしはあなたのように輝いて人びとの光となるように輝き始めるでしょう主よ光はすべてあなたからのものその一閃もわたしのものではありませんそれはあなたなのですあなたがわたしを通して人びとの上に輝いているのですあなたが最も愛される方法であなたを賛美させてくださいそれはわたしの周りの人びとの上に輝くことです説教せずにあなたを宣教させてください言葉ではなくわたしの生き方によって人をひきつける力によってわたしの行いが人びとに共感をもたらすことによってわたしの心があなたに抱いている愛の明らかな充満によってあなたを説くことができますようにアーメン
2023.10.22
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After Putin's talk. I found Mongolian historic map. Don't worry. We are a peaceful and free nation.モンゴルエルベグドルジ元大統領「プーチンの話の後。私はモンゴルの歴史的な地図を見つけました。 心配しないで下さい。私たちは平和で自由な国家です」モンゴル元大統領 “モンゴル帝国”の地図をSNSに プーチン大統領の主張を皮肉る「ウクライナは歴史的にロシアの領土だ」などとしてウクライナ侵攻を正当化するプーチン大統領の主張に対し、モンゴルの元大統領がモンゴル帝国時代の地図を引き合いに出して当てこすりました。 ロシアのプーチン大統領は8日に公開されたアメリカのFOXニュースの元司会者、タッカー・カールソン氏とのインタビューでウクライナは歴史的にロシアの土地だったなどと主張し、ウクライナ侵攻を正当化しました。 これを受けてモンゴルのエルベグドルジ元大統領は12日、モンゴル帝国時代の地図をSNSに投稿しました。 地図では現在のロシアがモンゴル帝国の一部として描かれています。 エルベグドルジ元大統領は「モンゴルの歴史的な地図を見つけました。心配しないで下さい。私たちは平和で自由な国家です」と皮肉交じりのコメントを添えています。 ウクライナメディアは「モンゴルの元大統領がプーチン大統領に歴史の教訓を教えた」「プーチン大統領の主張に沿えばロシアを支配しているのが誰なのかを示唆している」などと報じました。 また、ロシア政府寄りの一部メディアもこのニュースを伝えていますが、モンゴル帝国の地図は載せていません。
2024.02.13
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信仰集めた6体セット現存、唯一の例 京都・大報恩寺の六観音菩薩像、国宝に4/2(火) 国の文化審議会の答申で、京都府内では千本釈迦堂の通称で親しまれる大報恩寺(上京区)が所有する木造六観音菩薩像と木造地蔵菩薩立像が新たに国宝に指定されることになった。六観音菩薩像はいずれもカヤ材で造られ、仏高95・5~181・8センチ。地獄や餓鬼など六道から人々を救う仏として平安から鎌倉にかけて篤く信仰された。光背から台座にいたるまで制作当初のものが6体セットで完全に残る唯一の例で、保存状態の良好さも貴重という。貞応3(1224)年の制作と推測される。作風と台座の形式などから、慶派の流れをくむ仏師の肥後定慶(じょうけい)を統率者とする6人の仏師によって制作されたとみられる。肥後定慶は運慶風を基調にふっくらとした顔の形や、細かい衣の線などの装飾性が加わった作風が特徴という。大報恩寺の菊入諒如(きくいりりょうにょ)住職は「手を合わせて心のよりどころにし、文化財に興味をもっていただけたら」と話した。このほか重要文化財に指定されることになったのは、金蓮寺(こんれんじ)(京都市北区)所有の「紙本著色遊行(ちゃくしょくゆぎょう)上人絵伝」や清水寺(同市東山区)所有の狩野山雪(1590~1651年)筆の絵馬「板絵金地著色繋馬(つなぎうま)図」など4件。紙本著色遊行上人絵伝は時宗の開祖、一遍らの行状を描いた原本の写し。14世紀初頭に成立した原本は残っていないが、複数存在する写しの中でも同作品は細緻な描写や画面構成が優れているとされる。府内の国宝美術工芸品は186件に、重要文化財は1729件になる。
2024.04.02
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「瞑想」でストレス軽減、長寿遺伝子が活性化して寿命も延ばせる!?/根来秀行教授×高野山大学・松長潤慶副学長「密教の瞑想を医学する」4/26(金)ハーバード大学、ソルボンヌ大学他で客員教授を務める根来秀行さん×高野山真言宗僧侶で密教博士の松長潤慶さん松長 現実の世界ではさまざまな対立があり、現在も戦争が続いていますが、密教では自我意識をなくせば対立は存在しないと考えます。そのための精神統一の修行が密教における瞑想です。空海の思想も自らの瞑想体験に深く根ざしているんです。根来 密教の瞑想は自我のとらわれを解放するための修行なんですね。松長 自分の中にも宇宙があって、自分自身も仏である。この真理に辿り着くことが密教の瞑想が目指す最終形態です。真理は万人に平等に示され、自身を高めることによってすべての存在が仏を感じられるのです。ちなみに仏教では瞑想のことを「瑜伽(ゆが)」と言います。サンスクリット語の「yoga」が由来で、健康法の「ヨガ」はこれを英語読みしたものです。根来 松長先生は高野山大学の副学長で、科学や医学、芸術、哲学など、多角的に密教を検証する試みを積極的に行われているんです。僕も昨年9月に開催された高野山特別講演会で「最先端医療と瞑想」というテーマでお話ししました。松長 その節は、はるばる高野山まで来ていただいてありがとうございました。根来 初高野山だったんですけど、降り立った瞬間から心地よくて、特別な“気”を感じました。松長 高野山は人と自然がつながりやすいエネルギースポット、今風に言うとパワースポットですね(笑)。1200年前、お大師さまが真言密教の瞑想の道場として高野山を開かれました。1000m級の山々に囲まれた山上の盆地で、蓮の花のような地形をしています。松長 密教では「人間は自然の中の一生物で、自然に即して生きていかないといけない」と考えます。お大師さんも、晩年に近づく頃から高野山におこもりに。ついには「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きなん」(この世の全ての物が消滅し、仏法の世界が尽きるまで、私は人々が救われることを願い続ける)という深い祈りを持って、永遠の瞑想「入定(にゅうじょう)」に入り、即身成仏(そくしんじょうぶつ)されました。松長 勘違いされている人が多いのですが、即身成仏は現実の体のまま、現世において悟りを得て仏となることで、自己の本質にある「仏性(ぶっしょう)」に気づくことを言うんですよ。松長 人間ですから体は当然死を迎えますが、空海も瞑想の果てに高野山の大自然の中に溶け込んで仏になられた。高野山の奥之院の霊廟(れいびょう)には、今も深い瞑想に入られているお大師さまのために、朝夕2度の食事が運ばれています。お大師さんは見えないけれど、いてはるということです。根来 四国のお遍路さんの笠などの装束には「同行二人(どうぎょうににん)」と書かれていますが、あの“二人”とは自分と弘法大師だそうですね。松長 ええ。しんどいお遍路道を常にお大師さんがそばについてくれてはるということです。根来 目に見えないけれど、何か大きな働きを感じることはありますよね。松長 最先端医学の第一線でご活躍の根来先生からみると、空海の入定はどうとらえられます?根来 「究極の抗加齢」ということに近いのかなと思います。ヒトは生殖細胞から分化して分裂を繰り返し、体を構成する体細胞ができてくるわけですが、組織や臓器の細胞のもとになる体細胞の根幹には、様々な細胞となりえる幹細胞があります。この幹細胞のように、何にでも分化できるようなピュアな細胞に戻れたら、究極的な抗加齢ということになります。最先端医学的に細胞レベルで入定というものを考えると、そんなイメージです。もちろん生物学的には完全に加齢に逆行して元に戻ることはありませんが、老化細胞など体に不要な部分を排除したり、細胞分裂を遅らせたりすることによって、寿命を延ばすことができるかもしれません。根来 例えば「命の回数券」と呼ばれるテロメアは、遺伝子の端っこにあって細胞分裂するごとに短くなる。でも、寿命を制御する長寿遺伝子を活性化して、体を冬眠しているような静かな状態にもっていくと、不要な分裂が抑えられ、テロメアの短縮が防げるんですよ。松長 体験的には瞑想が深まると細胞から体が鎮まる感じがします。根来 テロメア関連の発見でノーベル賞をとったJack Szostak(ジャック・ショスタク)先生はハーバード大学の教授仲間で親しい友人のひとりですが、テロメアの長さを維持する一番のポイントはストレスの軽減だと言っています。その彼が精神安定のために習慣にしているのも瞑想なんです。実際、瞑想によってストレスが軽減されると、テロメアが延伸することがわかっています。松長 最先端科学を研究するノーベル賞受賞者も瞑想にハマっているのは興味深いですねえ。💛「瞑想によってストレスが軽減されると、テロメアが延伸する」かわからないが、暮に心臓の手術をしてから、毎晩坐禅をする。数息観でせいぜい100回呼吸する程度だけだが、姿勢を正して深い呼吸するのは心臓の手術後の回復にもよかったように思う。ほぼ4か月続けているから習慣化したといえるかもしれない。
2024.04.26
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ルース・ガネットさん死去 「エルマーのぼうけん」著者6/14(金) 米国の児童文学の名作「エルマーのぼうけん」の著者ルース・スタイルス・ガネットさんが11日(現地時間)、米国で死去した。100歳。日本の関係者が明らかにした。日本語版のシリーズ累計発行部数は約780万部に上る。 1923年、ニューヨーク生まれ。48年、動物たちに捕らえられていた竜の子どもを、男の子が機転を利かせて助ける物語「エルマーのぼうけん」を刊行し、各国で人気に。続編「エルマーとりゅう」「エルマーと16ぴきのりゅう」と合わせた3部作は63~65年に邦訳版が刊行され、読み継がれてきた。 昨年から翻訳版刊行60周年を記念して「『エルマーのぼうけん』展」が日本各地で開かれている。
2024.06.15
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クルスク越境攻撃の後「南方でのロシア軍の攻撃が停滞?」報道官の見解は意外なものだった8/24(土) ウクライナ国防省の公式メディア「アーミーインフォーム」は2024年8月20日、ロシアのクルスク州への越境攻撃の後、ロシア軍の攻撃が南部で弱まっている理由について報じました。報道によると、連日ロシア軍と激しい戦闘が行われていたザポリージャ地方のオリヒウ方面とグリャイピルスケ方面で、3日間ほど攻撃がないとのことです。 この状況について、同地で作戦を指揮している「タヴリア部隊」のドミトロ・リュホヴィ報道官は、「(前線で)戦闘行為がゼロというのは、最近としては異例の状況といえる」と見解を述べました。 ただ、ウクライナ軍が抑えているドニプロ川左岸の一部では、ロシア軍が追い出そうと散発的に攻撃を加えているとのことでした。 この方面でのロシア軍の大規模な攻撃の停止とクルスク方面への越境攻撃の因果関係についてドミトロ報道官は「私はこれをクルスク作戦と結びつけようとは思わない」と話しました。ただ、慎重論というよりは、以前に指摘していたことが現実になっただけという考えで「私は1か月前に、ロシアには複数方面に同時に効果的な攻撃を行うための資源がないと言った」と強調しました。ウクライナ軍の「SNS」「クラウドファンディング」「市販ドローン」による三位一体攻勢8/24(土) ノルウェー軍司令官ルナール・スパンスヴォル氏は英シンクタンク、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)の論文集に「SNSとクラウドファンディングとドローンの武器化」と題し「デジタル時代のパンドラの箱が開き、戦争の性格に予期せぬ変化がもたらされた」と指摘している。 SNS、クラウドファンディング、市販ドローンという三種の神器が現代の戦争とその性格に変化をもたらし、強力な「三位一体」へと収れんした。ウクライナは西側諸国から武器弾薬だけでなく、大量の市販ドローンを受け取り、武器化している。 「戦争の性格は時代の技術的・社会的・文化的・政治的変化によって形成され、絶えず進化している。SNSの接続性とオンライン決済システムの効率化によってグローバルな水平ネットワークが出現し、民間人と兵士がつながるようになった」 スパンスヴォル氏によると、ドローンの多くは高火力兵器を搭載し、以前はハイエンドの精密誘導弾に限られていた精度で敵に投下される。その効果は記録され、SNSを通じてほぼリアルタイムで世界中の視聴者に届けられ、継続的な財政支援の強固なサイクルを生み出す。スパンスヴォル氏「クラウドファンディングの規模と範囲は過去に例を見ないものであり、戦争の金融兵器に急成長した。これは市販ドローンの大規模な取得と武器化に拍車をかけた。最も普及しているドローンの単価は350~1000ドルとかなり安価である」ロシアのウクライナ侵略開始から2年半、終結見えず…ゼレンスキー氏「我々は占領者を追い出す」8/24(土) 露国防省は22日、東部ドネツク州で新たに集落を制圧したと発表した。ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は23日、式典の演説で「我々は占領者をウクライナから追い出す」と改めて強調した。 一方、インドのナレンドラ・モディ首相は23日、キーウを訪れ、ゼレンスキー氏と会談した。印首相の訪問は1992年の外交関係樹立後初めてだ。モディ氏は「この危機を脱する道を見つけるため(協議の)席に着くべきだ」と述べ、両当事国に対話を促した。プーチンが激怒…ウクライナがクルスク原子力発電所に対する攻撃を試みたと主張22日(現地時間)、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はウクライナがクルスク原子力発電所に対する攻撃を試みようとしたと非難した。クルスク州はロシア西部の国境地帯に位置し、ウクライナ地上軍が6日に越境攻撃を仕掛けて以来、激しい戦闘が続いている。ロシアの国営通信社「タス通信」などによると、プーチン大統領はロシア国境地帯の状況について議論するためにオンラインで行われた高官会合で、「敵が夜間に原子力発電所への攻撃を試みた」とし、「国際原子力機関(IAEA)にも状況を報告し、彼らは専門家を派遣して状況を調査すると約束した」と話した。そして、「IAEAが約束を果たすことを期待している」と付け加えた。越境攻撃以降、ロシアはクルスク原子力発電所が攻撃される恐れがあると繰り返し訴えており、IAEAのラファエル・グロッシ事務局長は来週原発を視察する予定だ。ロシアのウクライナ侵攻が開始してから2年以上が経過し、両国の原子力発電施設の安全に対する懸念も高まっている。11日には、ロシア軍の占拠下にある欧州最大の原子力発電所であるザポリージャ原発の冷却塔で火災が発生した。そのため、IAEAは両国に「原子力発電施設を保護するための5つの基本原則を尊重しなければならない」と指摘した。💛ソ連はなぜアフガニスタンから撤退したのか?なぜソ連は解体しロシアになったのかを分析する必要がある。ウクライナが「我々は占領者ロシアをウクライナから追い出す」ために日本が来るべきロシアの侵略に備えるためにソ連のアフガニスタン侵攻1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻決定は、その後のソ連の運命を決したことだけでなく、イスラーム原理主義運動の世界的な活動の基点となった点でも、重大な決定であったが、その時点ではことの重大さは認識されていなかったようだ。ソ連の介入決定は12月12日の政治局会議でなされたが、そのときすでにブレジネフは病気がちでアフガニスタンで何が起きているか知らず、まかせっきりであった。実質は5名で決定された。短期介入を主張したのは、アンドロポフKGB議長であり、軍のウスチノフ、グロムイコ外相が支持し、決定された。しかし短期解決の見込みはもろくも崩れ、以後10年にわたる泥沼の戦いとなり、結局ソ連の命取りとなったのだった。ゴルバチョフはこの時はまだ政治局員ではなかったので決定には関わっていなかった。この内戦中にアフガニスタンの全農村の約半分が廃墟と化し、200万人ちかくが死亡したと見られている。全土で600万人、北西辺境州(パキスタン隣接地域)だけで270万人にのぼる難民が発生した。1979年の意味 アフガニスタンに侵攻したソ連は、国際的な非難を浴びただけでなく、現地の激しい抵抗を受け、手詰まりとなり解決に苦慮することになる。内政・外交に渡るソ連体制の硬直化が明らかとなり、80年代後半に改革が必須となる中でゴルバチョフが登場し、結局はソ連の解体につながっていく。しかも、ソ連軍に抵抗するゲリラ組織から,イスラーム原理主義集団ターリバーンが生まれ、後のアルカーイダなどイスラーム過激派のテロが世界を動かすこととなっていく。★あるいは、ロシア軍に抵抗するロシア周辺のゲリラ組織から あらたな テロ が生み出されることになるのかも1979年のアフガニスタン侵攻以来、アフガニスタンの事態の収拾に失敗、長期化した駐留は当初の予測を裏切って10年に及び、その間、イスラーム勢力の激しい抵抗を受けると共に、国内の経済情勢の悪化をもたらした。 ソ連経済を圧迫し、またイスラーム原理主義ゲリラとの戦闘は犠牲者を増加させていった。ソ連兵の死者1万5000人、負傷4万人以上とされるが正確には不明である。ゲリラ側の死者は約60万と推定されている。 1985年に登場したゴルバチョフ政権は、新思考外交に転換し、膠着した状況を打開することにつとめ、アフガニスタンの人民民主党カルマル議長を退陣させ、ナジブッラーを新たに政権に据えた。1986年にはゴルバチョフはウラジヴォストークで演説して、アフガンからの8000名の兵力撤退を表明した。ついで1988年に国連の仲介でジュネーヴ和平協定の合意を得て完全撤退を決定し、5月から撤退を開始し、翌89年までに全部隊の撤退を完了させた。アフガニスタンにおいては、ソ連軍の撤退は平和をもたらすことはなく、無秩序状態が深刻化して、部族対立が激化、パキスタン、イランなどの介入もあってアフガニスタン内戦が深刻化していった。その中でイスラーム原理主義のターリバーンが急速に台頭し権力を掌握することとなる・ヘリコプターや航空機がエンジンから発する熱を追尾する米国製スティンガー・ミサイルをゲリラが入手したことで、ヘリコプターが相次いで撃墜され始めた。ゲリラに渡ったミサイルは、ソ連軍にとって大きな脅威となり、ソ連軍によるアフガンの空の支配が崩れ始めたのである。
2024.08.24
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村山富市元総理が死去、101歳10/17(金) 村山富市元総理が17日午前、大分市内の病院で、老衰のため亡くなった。101歳でした。村山元総理は1924年3月3日に11人きょうだいの6男として、大分市に生まれました。38年に上京しますが、その後召集され、熊本で終戦を迎えます。戦後、明治大学を卒業して大分に戻ったあと、日本社会党に入党。大分市議会議員や県議会議員を務めました。72年に衆院選に出馬し、初当選を果たします。党では衆議院予算員会の理事や国対委員長を歴任し、93年に日本社会党の委員長に就任しています。そして94年6月29日、村山氏は81代内閣総理大臣に就任し、自民・社会・さきがけの連立政権が誕生しました。一方、村山氏が総理に就任したことにより、日米安保の堅持や、自衛隊合憲、日の丸・君が代容認へと、これまでの社会党の方針を大きく転換することになります。また総理大臣時代、阪神淡路大震災を経験し、初動対応の遅れから、危機管理の在り方を厳しく問われることになりました。戦後50年目を迎えた95年には、けじめをつけるのがこの内閣の役割であるとして、いわゆる村山談話を発表しました。「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」総理在任期間は561日。大規模災害や凶悪事件、多くの政治的課題に向き合った激動の総理時代であったといえます。その後、2000年に政界を引退。2024年に100歳を迎えた際、村山元総理は「100歳の実感はないが、無理をせず、自然体で暮らすことかな。1日1日家族と過ごせることを幸せに思っている」とコメントを寄せていました。
2025.10.18
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「0534770507」からの電話に出てはいけない理由!世論調査を装う自動音声の正体と安全対策携帯電話に着信が入っていた。発信地は浜松とある。浜松は縁がないわけではない。待てよ、調べてみよう!「「0534770507」からの謎の電話、実は“世論調査”を装った自動音声による情報収集が疑われており、無防備に出てしまうと個人情報が抜き取られるリスクもある」とあった。かけなくてよかった!「急増する「0534770507」からの着信の正体この番号は、市外局番「053」から始まっており、静岡県浜松市周辺の地域からかかってきているように見えます。しかし、実際にはIP電話やクラウド電話を利用して、全国どこからでも発信可能な仕組みになっています。つまり、「静岡からの電話かな?」と思って出てしまうと、予期せぬトラブルのきっかけになる可能性があるのです。」「この電話の特徴は、自動音声による質問が流れ、番号を押して回答する形式になっていることです。「郵便番号を入力してください」「年齢層を教えてください」といった一見無害な質問に見えますが、これは属性情報(居住地域や年代など)を収集するための手口です。」代表的な3つのリスクを整理しました。リスク 説明 危険度有効番号として登録される 出ただけで「生きている番号」と判断され、営業リストに載る ★★★☆☆属性情報の収集 郵便番号や年齢を入力すると、地域やターゲット層が特定される ★★★★☆音声の悪用 声で回答すると録音され、詐欺に利用される恐れがある ★★★★★出てしまった直後に取るべき3ステップまず最初に行うべきなのが、次の3つのアクションです。ステップ 内容① 通話をすぐ終了する ボタンを押さず、声も出さずにすぐ切る② 着信履歴を記録する スクリーンショットかメモで記録を残す③ 番号を着信拒否に設定 スマホの設定でブロック機能をオンに💛出なかったけれども、ブロックにした(^^)
2025.12.09
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春高バレー女子は大阪・金蘭会が2冠達成!男子は京都・東山が2度目の優勝…髙橋藍を擁した初優勝以来1/11(日)春高バレーは男女の決勝戦が行われ、女子は大阪の金蘭会がインターハイとの2冠達成です。金蘭会は、2大会ぶりの優勝を狙う岡山の就実と対戦しました。試合序盤から金蘭会の持ち味、ブロックがさえ渡り、高い壁となって就実の攻撃をシャットアウト。さらに攻撃では、1年生・西村選手の強烈なスパイクなどで得点を重ねた金蘭会がストレート勝ちをし、7年ぶり4度目の春高制覇で、インターハイとの2冠達成をしました。一方男子は、京都・東山と、大阪・清風の関西勢対決となった決勝。東山は、2年生エース・岩田選手を中心に攻撃を展開しました。日本代表の髙橋藍選手を擁した2020年以来6年ぶり、2度目の優勝を果たしました。春高バレー 金蘭会優勝の裏にあった池条義則監督の元日の誓い「ジャパネット杯 春の高校バレー」JVA第78回全日本バレーボール高等学校選手権大会決勝(11日、東京体育館)金蘭会(大阪)が、就実(岡山)にセットカウント3-0で勝利。7年ぶり4度目の優勝を果たした。今年の元日にチームを率いる池条義則監督が選手に伝えた一言が、チームの雰囲気を一気に変えた。7年ぶりに頂点に立った池条監督は、選手の手で2回に分けて3度ずつ。計6度、センターコートの脇で宙に舞った。「明けましておめでとうございます。今年の俺の目標は楽しく、笑顔でバレーがしたい。絶対にそうするから」春高バレー開幕を控えた今年の元日、指揮官は選手たちにこう約束した。「激しい言葉を頑張れという意味で出していても全然、雰囲気が良くならない。こんなに怒っていてはダメだな。じゃあ選手の前で宣言をしよう」大会前の練習試合などでも結果が出ず、落ち込んでいるチームを見て動いた。「『え、そんなこと言うんや』と思った」とは石橋光(3年)。いつも愛がありながらも、厳しく指導をする64歳の名将の意外な一言に「楽しく(バレーを)したいと言われて、『そんなん、まかせろや』って思ったし、楽しむしかないやんと思った」。その石橋は決勝では第2セットに途中出場すると、相手に4連続得点を許し、15-20とリードされた苦しい場面でスパイクを決めて嫌な流れを断ち切った。「池条先生がこんなに楽しそうにやるんやっていうのを見て、自分たちもそこについていった」と石橋。たとえ、先に相手にセットポイントを握られる展開でも笑顔を絶やさなかった金蘭会の優勝の裏には、選手も驚きの名将の約束があった。
2026.01.11
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67報徳外記(現代語訳)第五 盛衰 盛衰の理は天の寒暑と同様であるといっても、いまだかつて分度を守ることを失うことによらないものはない。分を守るならば盛んになり、分を失えば衰えることは、もとより必然の理である。そもそも国君であって分を守るときには倹約・推譲が行われ、倹約・推譲が行われるときに、国用に余り有る。国用に余り有るときには、仁沢は民におり、仁沢が民におりるときに、民は農に務め、民が農に務めるときには、米穀の収納が増す。米穀の収納が増せば民は飢えることがなく、凍えることもない。国君がますます分を守って、仁沢をしけば、民はますます農を努めてその徳に報いる。国君が民を愛することはその赤子に対するようであり、民が国君に親しむことはその父母に対するようである。君臣が互いに和して国家は治まる。聖人は上を損じて、下を益することを益となす。天の気が降り、地の気があがるのを泰とする。天下の盛衰は、どうしてこれに加えるものが有ろうか。国君が分を失うときには、国用が節制されることがなく、国用が節制されないときに、民かから租税を取って度があること無く、民から取って度が無いときには、民が手足をおく所が無い。聖人は下を損じて上に益することを損とし、天の気が上がり、地の気が下ることを否とする。国家が衰退することは、これより大きいものはない。そもそも人民が農業に精出すときは、盛夏、厳冬に体をさらし、暑熱、寒凍を避けない、土地を耕し草切して収穫する、木を伐って薪として雑役に努める、毎年勤労してしばらくも休息することができない。ああ、辛苦艱難を尽して得た穀物が、役人のむごい収奪するところとなるならば、その年が豊作であってもお腹を満たすに足らないくなる、衣服も肌をおおうに足るない、仰いでは父母を養うに足りず、俯しては妻子をやしなうに足りない。その年が凶作であれば死亡を免れない。老人や弱者は溝に転んで、元気な者は四方に逃げ去り、餓死者が累々と道にみつ。ああ。人生の痛感はこれより甚だしいものがあろうか。君臣は一つである。譬えば一木のようなものだ根と幹は互いに養って一木が全うする。一枝が有るものは必ず一根が有る。十葉が有るものは必ず十根が有る。い未だその根が無くて、その枝が有るものはない。だから根をきればその木は必ずしぼむ、全ての根を断てば幹根は共に枯れる。民は根である。君は幹であって臣は枝や葉である。だから民盛んであれば、君臣はしたがって盛んになり、民が衰えるならば、君臣は必ず衰える。一人の民流亡すれば一人の民の田は荒れ、一人の民の田が荒れれば一人の民の租税は失われ、一人の民の租税が失われれば君はその弊害を受けるのである。百民を亡えば一村の田は荒れて一村の租税は失われ、千民を亡えば一郡の田は荒れて一郡の租税は失われ、万民を亡えば一国の田が荒れて一国の租税が失われる。一国の民を亡ぼし一国の租税を失うときに、君臣だけが独り存することができようか。末世の君臣は、そのことに気づかない。君は分を失って奢侈に流れ、臣はひどく民から税をとりたててその奢りを益する。奢侈・聚斂が一たび行われれば、暴虐な政治が至らない所はない。暴虐な政治が行われれば、人民は流亡する。人民が流亡して田は荒蕪する。田が荒蕪して租税は失われる。租税が失われて借入金が生ずる。借入金が生じて利息が増す。利息が増して還すことが出来なければそのあげくは一年の歳入を尽しても、またこれを償うことができなくなる。内には国民を失って租税の取る所が無く、外には負債を償還できずに借入金の道がふさがる。ああ、国の急もまた極ってしまう。分度を守ることを失うことによって盛衰・興亡をなすものは、このようにはっきりと明らかではないか。これによってこれを観れば、分を守って国を興し、分を失って国を亡ぼすのは必然の理である。だから分を失えば、国君が賢であってもその盛を保つことができない。分を守るならば、国君がすぐれていなくても、その衰を興すことができる。その衰を挙ようと欲して、その方法を得ないのは、なお水を底が無い桶で汲むようなもので、力を用いても成功することはできない。民からひどく収奪して、その廃を興そうと欲するのは、なおその根を断って枝葉を盛んにすることを求めるようなものだ。曰く、そうであればその衰を挙げ、その廃を興そうと欲する者は、まさに何を先とするか。曰く、明らかにその天命を弁えて、慎んでその分度を守ることにある。第五 盛衰 盛衰の理は天の寒暑に於けるが若しと曰ふと雖も、未だ嘗て分度の守失に因らざるもの非ざるなり。分を守れば則ち盛り、分を失へば則ち衰ふること、固より必然の理なり。夫れ国君にして分を守るときは則ち倹譲行はれ、倹譲行はるときは則ち国用余り有り、国用余り有るときは則ち仁沢民に下り、仁沢民に下るときは則ち民農に務め、民農に務むるときは則ち米粟水火の如し。米粟水火の如くんば而して民飢へず、寒からず。君益々分を守りて以て仁沢を布き、民益々農を努めて以て其の徳に報ゆ。則ち君の民を愛すること赤子の如く、民の君を親しむこと父母の如く、君臣相和して国家治まる。聖人は上を損して下に益するを以て益と為し、天気降り地気の騰るを以て泰と為す。天下の盛衰、豈に此れに加ふるもの有らんや。国君にして分を失ふときは則ち国用節せらるる無く、国用節せらるる無きときは則ち民に取りて度あること無く、民に取りて度無きときは則ち民手足を措くに所無し。聖人は下を損して上に益するを以て損と為し、天気の上がり地気の下るを以て否と為す。国家の衰替、此れより大なるは莫し。夫れ民の稼穡に於けるや、盛夏厳冬に暴露し、暑熱寒凍を避けず、耕耘穫蔵、樵薪徭役、修歳勤苦して暫くも休息することを得ざるなり。嗚呼、辛苦艱難を竭尽して得る所の粟、暴歛の奪ふ所と為らば、年豊かなりと雖も糟糖も腹に満つるに足らず、敝衣も膚を敝ふに足らず、仰いでは以て父母を養ふに足らず、俯しては以て妻子を畜ふに足らず、年凶なれば則ち死亡を免れず、老弱は溝壑に転び、壮者は四方に散り、餓孳累々として塗に盈つ。嗟乎、人生の痛感焉れより甚だしきもの有らんや。君臣は一なり。譬えば一木の若き然り、根幹互養して一木全し、一枝有るものは必ず一根有り、十葉有るものは必ず十根有り、未だ其の根無くして其の枝有るもの有らざるなり。故に一根を伐れば則ち心穂必ず凋む、全根を断てば則ち幹根共に枯る。民は根なり、君は幹にして臣は枝葉なり。故に民盛んなれば、則ち君臣随って盛んにして、民衰ふれば、則ち君臣必ず衰ふ。一民流亡せば則ち一民の田蕪れ、一民の田蕪れば則ち一民の租失はれ、一民の租失はれば則ち君其の弊を受くるなり。百民を亡へば則ち一邑の田蕪れて一邑の租失はれ、千民を亡へば則ち一郡の田蕪れて一郡の租失はれ、万民を亡へば則ち一国の田蕪れて一国の租失はる。一国の民を亡し一国の租を失ふときは則ち君臣独り存す可けんや。叔世の君臣、慮ひ此に及ぶこと能はず、君は分を失ひて奢侈に流れ、臣は聚斂して其の奢を益す。奢侈聚斂一たび行はれば則ち虐政至らざる所莫し。虐政行われて民流亡す。民流亡して田荒蕪す。田荒蕪して租税失はる。租税失はれて仮貸生ず。仮貸生じて利息益す。利息益して還す能はざれば則ち其の極は一歳の入を尽すも亦焉れを償ふ可からざるに至る。内には則ち国民を失ひて租税取る所無く、外には則ち負債償はれずして仮貸の道塞がる。嗚呼、国の急も亦た極まる。分度の守失に因りて盛衰興亡を為すもの、昭然として明らかならずや。是れに由りて之を観るに、分を守りて以て国を興し、分を失ひて以て国を亡ぼすは必然の理なり。故に分を失はば則ち君賢なりと雖も其の盛を保つ能はず、分を守らば則ち君不肖なりと雖も其の衰を興す可し。夫れ其の衰を挙げんと欲して而も其の法を得ざるは、是れ猶ほ水を底無きの桶に汲むが如く、力を用ふること至れりと雖も而も功を成すこと能はず。聚斂して以て其の廃を興さんと欲するは、猶ほ其の根を断ちて而も枝葉の盛を求むるが如きなり。曰く、然らば則ち其の衰を挙げ其の廃を興さんと欲する者、将に何をか先とするや。曰く、明らかに其の天命を弁へ、慎みて其の分度を守ると。
2026.07.16
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トマトジュースと血糖値トマトジュースはリコピンと食物繊維の作用により、血糖値の上昇を緩やかにし、糖尿病予防の補助として活用できます。血糖値への影響トマトジュースに含まれる赤色成分のリコピンは強い抗酸化作用を持ち、インスリンの働きをサポートすることで血糖値の急上昇を抑える効果が期待されます。また、水溶性食物繊維や有機酸が糖の吸収速度を緩やかにするため、食後の血糖スパイクを抑制することが報告されています。実際に、糖尿病患者が無塩・無糖のトマトジュースを1日200ml、1年間継続して摂取した研究では血糖値の低下が確認されています 適切な摂取量とタイミング血糖値管理のためには、1日あたり200ml程度を目安に摂取するのが推奨されます。特に効果的なタイミングは朝食の30分前で、空腹時に摂取することでリコピンの吸収率が高まり、食後血糖の上昇を抑えやすくなります 製品選びのポイント無塩・無糖の100%トマトジュースを選ぶこと果糖ぶどう糖液糖などの添加物が入っていないことを確認糖質量は100mlあたり約3.3g、200mlで約6.6gと比較的低めであることを目安にする効果を高める工夫リコピンは油に溶けやすいため、オリーブオイルや乳製品と一緒に摂取すると吸収率が向上します。また、トマトジュースをスープやリゾット、ドレッシングに活用することで、毎日の食生活に無理なく取り入れられますトマトジュース 血圧トマトジュースには血圧を下げる効果が期待でき、特にリコピン、GABA、カリウムの成分が作用します。血圧を下げる成分トマトジュースには以下の成分が含まれ、血圧改善に寄与するとされています:リコピン:強い抗酸化作用があり、血管の老化を防ぎ、血管を収縮させるホルモン(アンジオテンシンII)の働きを抑制することで降圧効果が期待されます GABA(ギャバ):交感神経の働きを抑え、血管を広げる作用があり、血圧を下げる効果があります カリウム:体内の余分なナトリウムを排出し、血圧を正常に保つサポートをします効果の実証日本国内の研究では、無塩トマトジュースを1年間毎日飲んだ場合、収縮期血圧が平均約4mmHg、拡張期血圧が約2mmHg低下した報告があります海外でも、トマトエキスやリコピン摂取による血圧低下が確認されており、軽度高血圧の方に効果が期待できるとされていますまとめトマトジュースは血圧コントロールの補助として有効で、特に軽度から中等度の高血圧の方に向いています。リコピン、GABA、カリウムのトリプル効果により、毎日適量を継続して摂取することで、ゆっくりと血圧を改善する可能性があります。
2026.08.05
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「ユマニチュード」という革命P.88 私たちの暮らしを支えている重要な価値は何でしょうか。それは私が私として尊重され、ひとりの市民として生きることです。それには自由と自律が不可欠です。「世界人権宣言」はこううたっています。「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」 ユマニチュードもまた、この価値観に基づいています。民主主義を支える自由と自律を尊重します。人が自律した自由な社会はどんなものでしょう。強者がすべてを決めて、それに服従すればいい。「それは間違っている」と思っても意見を言えない。少なくとも、そういう社会でないのは確かです。恐怖心をもって強者に平伏し続けることは、ユマニチュードの考えとは相容れません。 ユマニチュードの哲学においては、すべての個人に尊重すべき価値があると考えています。したがって、患者も、看護師・介護士も等しく価値があります。病院や介護施設だから、その価値が損なわれていいはずがないのです。 患者をどうしても拘束しなければいけないとき、フランスではその決定権は医師ではなく、裁判所にあります。しかしながら、実際は病院の判断で行われています。本来ならば、それは違法行為です。 私たちはこう考えています。「人権が尊重される」という価値に基づけば、病院であれ介護施設であれ、その施設にいる人は自宅同様の生活の継続を約束されている。したがって、施設に入ったからといって、何も失うものはないはずだ。まして拘束などありえない。 現実はどうでしょう。認知症高齢者が病院や介護施設で抑制されることは珍しい話ではありません。そのとき、私たちの暮らしを支える人権という価値が損なわれています。しかしながら、こうした自由を失っていく体験を味わうのは、認知症に限った話ではなく、高齢者全般に見られることです。私たちの社会は誰を強者に据え、誰を弱者として排除しているのでしょう。フランス発祥で36年の歴史のある『ユマニチュード』は、哲学とその実践技術から成るケアメソッドだ。認知症をはじめ、あらゆる対人援助の場面で活かすことのできる本技法は、かつてない超高齢社会に直面し、コミュニケーションに悩む医師にどのような示唆を与えるのだろうか。超高齢社会において、認知症患者の増加は避けて通れない。しかし、コミュニケーションが取れない、ケアが拒絶されるといった理由で、適切な診療やケアが提供できなければ、本人や家族はもちろん、虚脱感を抱えて離職に追い込まれる医療・介護職にとっても不幸なことに違いない。今、こうした現状を打開する「画期的な」認知症ケアとして注目されているのが、フランス語で「人間らしさ」を意味する『ユマニチュード』だ。これは、体育学教師だったイヴ・ジネスト氏とロゼット・マレスコッティ氏が、病院職員の腰痛予防指導のために派遣されたさまざまな病棟・診療科で「もっとも対応に苦慮する患者」と向き合うなかから編み出した実践的なケア技法であり、ベースには「人間とは何か」「ケアする人とは何か」を問う哲学が存在する。フランス国内では四百を超える病院やケア施設が導入しており、国外においても日本を含む数か国で実践されている。創始者の一人であるジネスト氏は「ユマニチュードでは、『ケアする人』を、心身に問題を抱える人をケアする職業人(プロ)と定義しています」と語る。さらにその目標には、①回復、②機能維持、③最期まで寄り添う、という3つのレベルがあり、「健康に害を及ぼさない」ことを絶対条件とする。すなわち、個々の健康状態や能力に合ったケアを選択することが重要で、患者に不安を与え、病状を悪化させる強制的なケアや睡眠妨害、身体抑制といった行為は一切排除すべきとの考えだ。彼らが当初より取り組んでいる「立位による清拭」も、立てるはずの人を寝たきりにしてしまわないための「合理的かつ最善のケア」といえる。ユマニチュードでは、「見る」「話す」「触れる」「立つ」を4つの柱に据え、ケアを行なう際の原則としている。これらは、「あなたのことを大切に思っている」ことを伝えるための技術であり、「人間らしさ」を取り戻すためのはたらきかけでもあるとジネスト氏は説明する。「生まれたばかりの仔羊が親羊に舐められることで種に迎え入れられるように、人もまた、生物学的な『第一の誕生』を果たしたのちに、優しいまなざしや言葉かけ、ふれあいの形で周囲から愛情を注がれることによって社会学的な『第二の誕生』を迎え、立てるようになることで人間としての尊厳を確立していきます。心身の健康を損ねたり、認知機能が低下することで失いかけた尊厳を取り戻すことで『第三の誕生』を迎えるためには、『見る・話す・触れる』といった、人ならではの包括的なコミュニケーションと、自己の尊厳を実感できる『立つ』ことの援助が必要なのです」(ジネスト氏)ポジティブなイメージを直接感情記憶に届け、定着させる日米で内科医の臨床経験を持つ本田美和子氏が、ジネスト氏らのもとを訪れたのは、「熱意も技術もある医療者が気持ちを上手に伝えられずに『拒絶』され、途方に暮れている状況」にジレンマを感じていたからだ。「ケアを通じて『あなたは大切な存在だ』という気持ちを伝えることができるようになると、患者さんの反応が劇的に変わるのを目の当たりにし、何としてもこの技法を日本にも広めたいと思いました」(本田氏)渡仏の翌年(平成24年)の夏から、日本でのトレーニングがスタートした。ユマニチュードでは「患者」ではなく「人と人の関係、絆の質」をケアの中心に置く。その核ともいうべき関係性を築くために、すべてのケアは「見る・話す・触れる・立つ」という4つの要素を用いて、出会いの準備→ケアの準備→知覚の連結→感情の固定→再会の約束という5つのステップを一連の流れのなかで行なっていく(図表1)。視覚、聴覚、触覚により得られた刺激や情報は、まず扁桃核で「情動、直感」に当たる単純分析が行なわれたのちに大脳皮質に届き、詳細かつ「理性的な」分析を経ることによって感情が制御される。ところが、認知機能の低下は大脳皮質の脳細胞の変性によって起こり、情動のブレーキがはたらきにくい状態にある。そこで、ユマニチュードにおいてはポジティブな感情をダイレクトに届け、定着させる手法をとる。「最期の瞬間まで唯一、正常に機能するのが感情記憶です。感情記憶のなかでは、私たちの行動すべてが意味を持ちます。間違ったメッセージが伝わることのないよう、きちんとした技術を身につけることが大切です」(ジネスト氏)「技術なのです。学んで身につけたら、それは職業人として一つの動作になります」(ジネスト氏)二人で行う場合には役割を分担し、一人が「見る」「話す」ことで注意をひき(=マスター役)、もう一人が「触れる」ケアに徹する(=黒衣役)。【見る】 マスター役の仕事は相手の「まなざしを捉える」ことから始まる。目線の高さを同じにして、正面からゆっくりと相手を見つめる。「お母さんが赤ちゃんに話しかけるのと同じように、相手が私の息づかいを感じるくらいまで近づきます」(ジネスト氏)「相手を見ない」ということは「あなたは存在しない」というメッセージを発していることに他ならない。ユマニチュードでは相手を「見る」ためには0・5秒以上のアイコンタクトが必要だとしている。「目が合うと、前頭葉が情報を直接受け取り、扁桃核のネガティブな反応を抑えます」(ジネスト氏)その間、黒衣役が清拭などのケアを黙々と進めていく。【話す】 話しかけるときの声のトーンは「優しく、歌うように、穏やかに」。相手の反応が得られない場合には、黒衣役が何をしているのか「ケアの実況中継と予告」を行なうことで、不安を感じることのないよう、語りかけを絶やさぬよう努める。反応がないからといって話しかけないということは、「見ない」と同様、相手が「存在しない」というメッセージを発していることになる。【触れる】 ケアの途中で「右手を挙げてください」など、本人に協力を仰ぐことで関節や筋肉を動かし、脳に刺激を与える。ただし、サポートが必要な場合の「触れる」という行為には慎重さが求められる。「親指をかけて鷲づかみにしたり、指先だけで触れると、認知症の人には『攻撃』のメッセージが伝わってしまいます」(ジネスト氏)広く、柔らかく、ゆっくり、撫でるように、包み込むように触れることで、「愛情」を伝える。また、いきなり、プライベートゾーンである手や顔、陰部のそばに手を置かない。【立つ】 3万人以上の患者のケア経験を持つジネスト氏は、「病院や施設で寝たきりになっている人の多くは、レベルに応じたケアが受けられなかったことによるもの」と感じている。ケアを受ける人が40秒間立っていられるなら、立位を含んだケアが可能。清拭、着替え、歯みがき、洗顔を合計すると、一日20分のリハビリ時間が確保できる。ただし、立位介助の際は、からだを持ち上げて足の裏にかかる体重を減らさないこと。大脳に誤った知覚情報が届き、筋肉への力の入れ方、関節の動かし方がわからなくなるためだ。同様に背中を支えることも避ける。
2026.08.31
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鈴木藤三郎君立志画談 山田露洲生(大日本報徳学友会報第三一、三三、三四、三八、四〇回(一九〇四年十二月~〇五年九月)収録)一 第一期の一 生年より明治九年に至るまで▲諸言 鈴木君は日本の実業家、殊に糖業界の偉人とし衆議院議員として最も有名な方で、報徳界のためには始終尽力され、昨年遠江国報徳社で特別精業善行者の賞与式を行ったときには特別賞を贈られた方である。この画談に用いる材料は君が自筆の歴史画で自ら半生の経歴を描かれたもので、他に得べからざるの好材料である。殊に君は深く二宮先生を尊信し、報徳の訓言を服膺して成功され、常に「余の今日ある、報徳の教えを守り、実業に応用したことによる」と公言され、また将来の日本はおおいに実業的大和魂を養成しなければならない、実業的大和魂とは、報徳心をもって実業に応用するにほかならないのであると言われている。その言や服膺するべく、その行いや模範とするに適する、しかもその材料はただ一つの経歴画である。▲日本一の砂糖製造場 東京の小名木川に雲をつくばかりの煙突そびえ黒煙渦をなして天につきあたるを見る。これぞ本邦唯一の砂糖製造場で輸入糖と対抗しつつある、日本精製糖会社の煙突である。この大製造場こそ、鈴木君が苦心惨憺たる丹精によって生み出されたので、君は現に会社の専務取締役としてすべての責任を帯びて経営されつつある。▲鈴木君はいずれの人か 君はこの会社を経営されるために東京小名木川治兵衛新田に家をかまえておられるが、元は東海道鉄道袋井停車場より三里ばかり北へ入りこみたる、森町といえる小さな町の、とある菓子屋の養子であるが、実は同町太田平助といえるものの二男である。太田氏には二人の子どもがあったが、鈴木氏には一人の子どももなかったから、極めて幼年のときに貰われ、鈴木氏の家で生長したのである。実家も豊かな家ではないが、養家もまた細い資本で営業する菓子屋のことであるから、君は少年の折より菓子製造に販売にできる限りの働きをなして養父母を助けられ、父の没後にはその業をついで営業されたのである。君は養父母によく孝養を尽されたと聞いているが、これは君の天性にも出たるものであるが、また生母の賢たる感化にもよるだろうと信ずる。これは君の成功談には直接関係はないようであるが、母の感化が少年子弟には偉大の関係がある故に、ちょっと話しておこうと思う。君が鈴木氏に養われてのち、実家は不幸が打続き、父も病没し、兄もまた早世され、老いた母はひとりわびしく暮らすこととなった、人々その不幸を憐れみ、殊に旦那(だんな)寺の和尚(おしょう)来たり、君を貰い返してはいかんとすすめるも母は義を守りて許さないだけでなく、ある日、君を膝下に招き、事の始終を語り、かつ父在世の日、汝をば鈴木家の養子として遣わし、汝は養父母の丹精によりかく生長したものなれば、その恩義は生みの父母に異ならない、ひたすら心を尽くし養父母に孝養せよと深く諭されました。君はその教えを聞き、母の意中を察し、これより一層孝養を尽されたと聞いております。実に母の高義は感ずるに余りある次第で、この母にしてこの子ありと言わなければならない。 遠州の国には嘉永の初年、相模(さがみ)の人、安居院(あぐい)義道先生が始めて報徳の教えを伝えられ、それ以来各地に行われ、この森の地も早くより信ずるものの多い所で、報徳の参会なども古くより行われておったから、君もいつとはなしにその教えの感化を受け、報徳の談話をも聞き、報徳書をも読まれるようになった。君一日報徳四要の文といって、故富田高慶翁のものとされる、以誠心為本。以勤労為主。以立分度為体。以推譲為用。(誠心をもって本と為す、勤労をもって主となす、分度を立てるをもって体となす、推譲をもって用となす)のいう語を見て、非常に深く感じられ、昼は家業に従事し、夜は孤灯の下に報徳書をひもとき、もって精神の修養につとめられた。これ実に明治初年の頃の事で、君が今日あるその原因は全くこの時代の精神修養にあったので、恐らくは君は成功の秘訣はこの以誠心為本。以勤労為主。の二句にありと、感じ、この語を実際に活用し、現実になしたならば天下何事か成らざらんと大決心をされたのであろう。 報徳の四要を誦する人は多いけれども、君のごとく実際に活用する人の少なきは歎ずべきの至りであると言わなければならない。君の言われるとおり将来の日本は実業的大和魂の振起を要する場合であるから、諸子もまた君のごとく、現実にこの語を活用されることを二宮先生在天の霊はご希望をされているであろうと思う。
2026.09.01
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「ユマニチュード」という革命p.96 ケアの世界でも、「尊厳は大事だ」と口にはします。しかしながら、ハンディを負った高齢者から権利を奪っているのが実情です。ユマニチュードは自由と自律に関するすべての権利を尊重します。 ケアをする人にはある種の革命が必要です。気持ちを完全に入れ替え、既成概念を捨てなければなりません。自由と博愛の本当の意味を理解しないと、権利の尊重は達成できません。 多くの施設では、就寝時間が大体夜8時か9時に決まっています。そのような既成概念を壊した新しい介護施設もごく稀にあります。 あるフランスの介護施設には100人の入居者がいます。夜には静かになるので、他の施設と同じく夜8時に就寝と決まっているように見えます。けれども何やら図書室から笑い声が聞こえてきます。夜の料理教室が開かれているのです。集まったメンバーは早く寝るのが嫌いな人たちで、今日はアップルパイをつくっているようです。教室は朝の5時まで開催されています。 いつも朝3時に寝る人をどうして夜8時に寝かせないといけないのでしょうか。とてもナンセンスです。 集まった人のほとんどが認知症です。認知症を含む入居者のうち20%の人が、夜になると不安に襲われます。夕暮れ症候群と呼ばれるもので、陽が落ちるにつれて神経が昂り、不安によってさまざまな認知症の行動心理症状がでます。不安を解消するために徘徊する人もいれば、同じ歌を歌い続ける人もいます。恐怖心に囚われて動けなくなり、ソファで身じろぎもせずじっとしている人もいます。不安でたまらないときに孤独になるのは嫌だし、ましてひとりで寝たくもありません。そういうときに料理教室に来れば、必ず誰かと一緒に過ごせます。集まった人の中には、「何を作っているんですか?」と聞かれても、「さあ、知らないよ」と言う人もいます。料理自体にはあまり関心がないのかもしれません。 けれども、それでもまったく問題ありません。みんなと過ごすのが楽しいのですから。料理が進むにつれ、だんだん眠くなる人がいます。そういう人をスタッフは部屋だけでなく、近くのソファに案内します。必ずしもベッドに寝かせる必要はにのです。 この施設では自由と自律が尊重されています。残念ながら、こういう介護施設はまだまだフランスでも珍しいのです。しかしながら、ここで行われているのは、極めて普通のことだと思いませんか?・・・・・・高齢者だからといって、すべての人が夜8時に寝るものだと決めつけるのはおかしくないでしょうか。・・・・・・決まった時間に寝たい人もいれば、寝たくない人もいます。お互いに邪魔しないようにすみ分ければいいだけのことです。 ユマニチュードを導入している施設では、強制ケアはしません。犬を飼いたければ一緒に暮らせます。恋人と同じベッドで寝ても大丈夫です。24時間のうち好きなときに食事ができます。ほとんどの人は同じ時間に食堂で食べますが、人によっては、深夜にお腹が空いたと感じる人もします。そういう人には夜に食事を出します。夜中の2時にシャワーを浴びたければ介助します。これを実現しているフランスの介護施設の入居者に対する夜間勤務の職員の数は、日本よりも少ないのです。 自律を尊重すること。それは組織の取り組み次第で実現可能です。そのためには従来のケアを支える考え、哲学を見直す必要があります。〇認証の種類原則、介護系・医療系ともに共通の基準となっており、それぞれ「ブロンズ」「シルバー」「ゴールド(国際認証)」3段階で認証します。ブロンズ:基本の理解と導入ユマニチュードに組織を挙げて取り組む体制が出来上がっており、職員がユマニチュードの基本を理解し、実践に取り組んでいる組織医療法人博愛会頴田病院 地域包括ケア病棟福岡県飯塚市口原1061-1地域医療支援病院定員 36名頴田病院は地域の方々を支え、地域の皆様を幸せに出来る病院を目指しています。当病棟では2019年度からユマニチュードを導入し、入院生活の中でもその人らしい生活が送れるような環境、雰囲気作りに取り組んでいます。患者さんに途切れることなく優しさを伝えられるように、スタッフ全員で関わっていきます。
2026.09.01
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【バレー】タイ女子代表の日本人コーチが誹謗中傷を受け声明「事実とは異なる認識をもとに批判」就任の経緯を説明8/31(月)昨年まで日本代表のアナリスト兼通訳を務めて、今年からタイ代表のコーチとなった吉田伸氏(30)事実とは異なる内容について誹謗(ひぼう)中傷を受けていると明かし、「一度だけ自分の言葉で事実をお伝えさせてください」と現在の思いをつづった。 皆さんへ、一度だけ自分の言葉でお伝えさせてください。最近、SNSのコメントやDMなどで、「自分の意思で日本代表を離れ、タイ代表へ移った」という内容を目にすることが増えました。また、事実とは異なる情報や臆測をもとにした誹謗中傷にあたるようなメッセージをいただくことも増えています。事実とは異なる認識をもとに批判や誹謗中傷を受け続けることは、私にとって決して簡単なことではありません。 何もお伝えしないままでいることが難しいと感じるようになったため、誰かを批判したり責めたりするためではなく、誤解されている部分について、一度だけ自分の言葉で事実をお伝えさせてください。 私は2025年、女子日本代表でアナリスト兼通訳として活動していました。当時は契約期間が定められた契約で、その契約期間が満了した後、次の契約は更新に至りませんでした。ここについて、明確にお伝えしたいことがあります。私自身が日本代表を離れることを希望して決めたわけではありません。 ただ、具体的な理由については説明を受けていないため、私自身も、なぜ更新に至らなかったのか、その理由をお伝えすることはできません。 その後、私の状況を知ったタイバレーボール協会、そして監督から声をかけていただき、タイ代表で仕事をする機会をいただきました。つまり、私自身が日本代表を離れることを選択し、タイ代表へ移ることを決めた、という経緯ではありません。日本代表との契約期間が満了し、その契約が更新に至らなかった。そしてその後、タイ代表から新しい機会をいただいた。これが、私からお伝えできる事実です。 同時に、もう一つ誤解していただきたくないことがあります。私は日本バレーボール協会や日本代表に対して、ネガティブな感情を持っているわけではありません。日本代表で仕事をさせていただいた時間は、私にとって本当に大切な経験です。そこで出会った選手、スタッフの皆さんから、本当に多くのことを学びました。特にコーチングスタッフの皆さんは、今でも困ったときに手を差し伸べてくださる素敵な方々です。私が理想とする先輩方です。一緒に仕事をさせていただいた方々への感謝は、今も変わっていません。 現在、私はタイ代表のコーチとして仕事をしています。日本と対戦するときは、対戦相手として、タイが勝つために自分の仕事を全うします。それが今の私の仕事であり、プロとしての責任だと思っています。 ただ、コート上で全力で戦うことと、日本のバレーボールに対する敬意は、私の中ではまったく別のものです。今回、このことをお伝えしたのは、誰かを批判したいからでも、誰かと対立したいからでもありません。ただ、事実とは異なる認識によって誹謗中傷を受け続ける中で、自分自身の言葉で事実をお伝えする必要があると感じました。 日本代表で過ごした時間への感謝も、日本のバレーボールへの敬意も、今も変わっていません。そして今は、私を必要としてくれたタイ代表への感謝と責任を持って、自分にできる仕事を全力でしています。今回お伝えしたことを、一つの事実として受け取っていただけたら嬉しいです。 吉田伸 Shin Yoshidaバレー日本3位の裏で…誹謗中傷が物議 日本人コーチに寄り添ったタイ選手「あなたは最高です」8/31(月)主将のポーンプン・グーパート「シン、あなたは最高です。タイ代表のために本当に一生懸命頑張ってくれてありがとう。心から感謝しています」中国戦で10得点のピンピチャヤ・コクラム「どれだけ大変な思いをしながら乗り越えてきたか、私は分かっています。自分の人生にとって最善の道を選んだのですね。オリンピックに行きますよ!!!!」
2026.09.01
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報徳参会説話 故岡田無息軒翁 現代語訳本年(明治9年)2月11日常会の折に、誠をもって陰陽の働きをほどよく制して、世のため国のため人のためにと、家職を精勤したいものですと、説話いたしました。これは、ほどがよいということは、世間においていずれも善とする事で、物事をよくいたしたいものです。中道の中の意味、また竹の節を程がよいと申しまして、古人も竹を愛しております。竹の節は、本が繁り、中は延びて、末はまた繁り、しまってはのび、しまってはのび、太さや細さに随って、善い加減に生じたもので、一年の季節も、節分とか正月の節とか、節と唱えて、竹のふしという字を用いています。人の世もこのとおりで、日曜に休むとか、暮れに取り遣りをしないとか、節を立てるために、だらしなく締まりがないようにならずに、節なしという事は必ずないです。陰にしまって陽にのびて、固すぎてもいかず、のびすぎてもいかず、陰陽の理は、ケシの一粒より、九天の外までも同じ訳で、至って広いのです。学校へ入って、幼年から修行すれば、その理を極めるのでしょうが、差当り急務とするところは、人の世が立ち行く道の相談が大切です。大先生(二宮尊徳)のご教諭に、「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは、報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と仰せられております。誠と申す意味は、うそがない事で、誠を離れては、何事もたちゆきません。そうではありますが世の中は種々で、どれが先でどれが後と、先後・終始がわかりません。先生は「これを道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」とおおせられました。この文章は分度を立てると申す一句が、道の本体であり大変大事です。これがすなわち人の世が盛んになる土台であり、正業はどうのようにするのかというに、家政調べをもって、家の分をわきまえるです。十俵の収入の家が、十二俵にて暮らせば、二俵のうそで、誠ではありません。百円の収入の者が、百二十円で暮らす。二十円のうそ、そのうそが積もると分散退転してしまいます。この所へ誠をしかと用いたいものです。古人が、徳満と名付けた、まん丸い水を入れる器を製作し、水をいっぱい入れると、その器がくつがえってしまい、八分ではちゃんとしております。これは満ちればくつがえると申すたとえの教訓です。この理は古から今まで申す事で、珍しくはない事ですがそのとおりです。そうであれば十俵の収入の者は、八俵で暮らすのが誠の至極の場合で、大先生が分内の図をもってご教訓されました、十俵の収入の者は五俵、百両の者は五十両で暮し、何でも半分で暮し、半分は譲るべきであると仰せられました。また中道の分度に止まるというご教訓ですが、この中と申す意義は、かたかたによらない、かたよらない、大変程よい事になります、中は古人も困難とする所です。なぜかというと、一尺のまん中は、これは中には相違ありません。物によってかたよってて中になりますと、中は容易に得がたいものです。大先生にご理解に、ナスを作って五つもなったら、まず三つも取り、そして肥しをやるべきだ。霜の降るまでナスがなるぞ、この理は間違いないぞと仰せられました。五つなったら、きっと三つとれとはおっしゃいません、まず三つとおっしゃいました。三つ取るのも二つ取るのもあり、その程を見てとる事ですから、きっといくつというような決まりはない。朝と晩とは違う、この中道のご理解はいきいきとしていて、古今かつてなかったところで、誠に極妙です。このご理解に基づいて分度を立てると財宝が余り、身体は必ずよくなるです。身体さえよくなるならば、よしとばかり決定しては、心得違いとなります。積善がなければ災いが来ます。災害が来るとどれほど大身代も水の泡となります。積善は誠です。ですから積善がないならば、人に生まれた甲斐はないのです。積善の第一は譲りです。農家は作物の肥料、作工は素人の及ばない所を入念にし、家を手がたく作り、商家は正直に商売し、世界の融通をよく付け、相互に譲り、助け合う、それにてよいのですが、病難火難水難そのほか不慮の天災はのがれがたい。貧窮に陥るものも多いのですが、この貧窮は人事の大患です。貧にせまられると本性の人心をくらましてしまい、悪念を生じ悪事をかもし、五倫の道を守らないようになり、この上もない皇国に生れて、有り難いという事を思わない。恐るべき事です。この大きな憂いを救う仕法を窮民撫育と申しまして、報徳善行のまっ先に行うところです。ですから結社を結んで分度外に報徳善種金を積み立て、これを種として社中はもちろん、国に貧窮の者がないようにすす仕法です。諺に棒ほど願えば針ほど叶うと申します。往々貧窮のもの無くなりましたら、なんと愉快ではございませんか。当国報徳社中に次第に増して、大いに盛んな事に成り、歴々の皆さん方中にも、たんと見えます。この社中が奮発致したならば、どのような善行もできるわけですから、愛国のご教則にちゃんと叶い、めでたい事はこの上ありません。ですから、報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまう同様の意味に、大先生が仰せられました。自他の宝は、実に大切です。大日本報徳学友会報第二十回二頁報徳参会説話 故岡田無息軒翁本年(明治九年)二月十一日常会の節、誠を以て陰陽の働きを程よく制し、世のため国のため人のためと、家職を精勤いたしたきと、説話に及びましたが、これ程よいという一義、世上一統善とする事にて、物ごとよくいたしたきものでござる。中道の中の意味、また竹の節を程よいと申して、古人も竹を愛したまいしなり。竹のふしは、本しげく、中程延び、末また繁く、しまりてはのび、しまりてはのび、太さ細さに随い、善き加減に生じたるものにして、一年の季節も、節分とか正月の節とか、ききめ節と唱え、竹のふしという字を用い、人の世もこのとおり、日曜に休むとか、暮に取り遣りをしまうとか、節を立てるゆえ、しだらくにならず、節なしという事必ずないでござる。陰にしまり陽にのび、固すぎていかず、のびすぎていかず、陰陽の理は、ケシ一粒より、九天の外までも同じ訳にて、至って広い事ゆえ、学校へ入り、幼年より修行いたしたならば、その理を極むるでもござろうが、差当り急務とするところ、人の世の立ち行く道の、ご相談肝要なり。大先生(二宮尊徳)ご教諭、「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道とは、報徳の事なり。また誠の一つをもって貫くのじゃ」と仰せおかれ、誠と申す義は、うそのなき事にて、誠が離れては、何事もゆきませぬ。さりながら世の中種々、いずれが先いずれが後と、先後終始わかりませんが、先生「これを道と為すなり、誠心を以て本となす、勤労を以て主となす、分度を立てるを以て体となす、推譲を以て用となす」と、この御文は分度を立つると申す一句、道の本体にて至極大事、これすなわち人の世の盛んになる土台にて、正業いかんというに、家政調べを以て、家の分をわきまえるでござる。十俵徳の家、十二俵にて暮らす、二俵のうそ、誠ではござらぬ。百円徳のもの、百二十円にて暮らす、二十円のうそ、そのうそが積もると分散退転、この所へ誠をしかと用いたきものでござる。古人、徳満と名付けたる、まん丸き水を入れる器を製し、水をいっぱい入れると、その器くつがえり、八分にてはちゃんと致しおりまする。満ちればくつがえると申すたとえの教訓、この理は古今沙汰致す事にて、珍しからぬ事なれどもそのとおり、然れば十俵徳のもの、八俵にて暮らすが誠の至極の場合、大先生分内の図をもってご教訓、十俵徳は五俵、百両は五十両にて暮し、何でも半分にて暮し、半分は譲るべしと仰せおかれ、また中道の分度に止まるとのご教訓でござるが、この中と申す義は、かたかたよらず、かたよらず、至極程よい事、中は古人も難(かた)しとする所、なぜなれば、一尺のまん中、これは中には相違なし。物によりてかたよりて中になりますれば、中には容易に得がたし。大先生ご理解、ナスを作り五つもなったら、まず三つも取り、そして肥しをやるべし。霜の降るまでなる、この理は間違いないぞと仰せられたり。五つなったら、きっと三つとれとは仰せられぬ、まず三つと仰せられたり。三つ取るのも二つとるのもあり、その程を見てとる事ゆえに、きっといくつ決まりたる事なし。朝と晩とは違う、この中道のご理解はいきいきして、古今未曾有、誠に極妙なり。このご理解に基づき分度を立つると財宝余り、身体は必ずよくなるでござるが、身体さえよくなれば、よしとばかり決定いたしては、心得違いとなります。積善がなければわざわいが来ります。災害が来ると、何程大身代も水の泡となるでござる。積善は誠なり。故に積善がなければ人に生まれたる甲斐はないでござる。積善の第一は譲りなり。農家は作物の肥料、作工は素人の及ばざる所へ念を入れ、家を手がたく作り、商家は正直に致し、世界の融通をよく付け、相互に譲り助け合う、それにてよろしきなれども、病難火難水難そのほか不慮の天災のがれがたく、貧窮に陥るものも多いでござるが、この貧窮は人事の大患でござる。貧にせまると本性の人心をくらまし、悪念を生じ悪事をかもし、五倫の道を守らざるようになり、上もなき皇国に生れて、有り難いという事を思わず、恐るべき事でござる。この大いなるうれいを救う仕法を窮民撫育と申して、報徳善行のまっ先なり。故に社を結んで分度外に報徳善種金を積み立て、これを種として社中はもちろん、国に貧窮のものこれなきように致す仕法でござる。諺に棒ほど願えば針ほど叶うと、往々貧窮ものこれ無くありたらば、なんと愉快ではござらぬか。当国報徳社中おいおいあい増し、大いに盛んなる事に相成り、歴々の衆中、たんと見えます。この社中奮発致したなら、どのようなる善行もできるわけでござるから、愛国の御教則にちゃんと相叶い、めでたき事の上なし、よって、報徳善種金は恐れ多くも、日月の世界を照らしたまう同様の意味に、大先生仰せおかれ、自他の宝、実に大切の場合でござる。
2026.09.02
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大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉 その2【開爐三首】 十月正當初一日 (十月正当初一日)霜風吹葉滿空階 (霜風葉を吹いて空階に満つ)今朝喚作開爐節 (今朝喚んで開炉の節となす)道火何曾燒口來 (火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん)「霜風葉を吹いて空階に満つ」まあ霜がおりる。そこで、ここに開炉ということをよく参究せねばならん。炉を開く。火、これはいつでもいう通り、火というてただ字のとおりに火を火といえば、それはなんでもない話である。火というものは、なにを象徴するか。火という奥に意味がなければならん。火という字の外に、なにも意味がない。これでは、まことにつまらん。 火、炉を開く。ここにわれわれ火をおこす。火といえば光るものである。光るといえば、いったいなにをいうか。われわれの光るもの、あるいは温かなもの、冷たいものでも光るもの、温かいもの。この温かい光るものを、ここに開く。いったいいうたら、日々是れ好日ではあるけれども、日々是れ好日でなければならんが、特に光る日が好日でなければならん。温かいものを開くということが、好日でなければならん。 ここに開炉、それが十月当初一日というのは、この開炉の火である。霜風葉を吹いて空階に満つ。サア、霜がおりた、葉がパラパラと散る。このデコボコの石段の上に葉が落ちて、どこがどことも見当が分らずに、すべってころぶ。霜風葉を吹いて空階に満つ。 「今朝喚んで開炉の節となす」そこで、今日この十月当初一日を開炉の節とする。今日はこれ開炉の節である。これが叢林の開炉の節である。これが叢林の開炉の節という参究なのである。サア、炉を開く。「火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん」ここにわれわれが参究せねばならんのは、口でいうだけではいけない。火というたら口が熱いか。ここに教外別伝、不立文字。禅宗の坊んさんが参究するのは、火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん。火というたらどうか。一向口が熱くない。 そうすれば真如を真如といいながら発明する。悟りという字を書きながら迷うておる。悟って迷うておる。これは非常に微妙な模様である。火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん。火というても口は焼けんぞよ。火そのものだぞよ。その火だぞよ。 ゆえに道元禅師は『普勧坐禅儀』に「須らく言(こと)を尋ね語を逐うの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし」とある。言葉ではない。口で火というても駄目だぞよ。(大智禅師偈頌講話p.172-173)
2026.09.02
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二 第一期の二 明治十年より二十一年に至る △氷糖発明の苦心 君は暇があれば常に二宮翁の伝記を読んではその成功の跡を慕い、報徳四要の文を誦してはその精神のあるところを考え、至誠勤労の二句は成功の秘訣であることを悟り、炎々たる胸中の熱火は些々たる菓子製造業に満足することを許さない。この業界に雄飛しようとの大希望を起し、これより後の君は報徳活用のために奮闘的態度をもって家業に従事された。この時、君の境遇を察すれば、めざす境地は千里のかなた、思えばはるかな行く手の空や、見渡すかぎりは幾重の霞、とでもいうべき感があったであろう。しかし君は成功を確信し、第一着手として氷砂糖製造をなそうと思い立ちました。その事業たるや、新規の事業に属し、相談すべき人もなく、また自身とても少しの経験もなく、全く自己の胸中より製法を案出しなければならないので、その困難はとても筆紙の尽すべきところではなかった。しかし君は一たび決心した後は、ほとんど睡眠や食事を廃し、その考案に従事された。このようにして方法を案出し、実験に付すれば、事は予期に反し、試験も成功せず苦心は水泡に帰してしまうような場合で、更に考案をめぐらし再実験すれば、またまた失敗に帰し、このようなことが幾十回。意志の薄弱な者であれば、失望落胆遂にその事を廃するに至るべきであるが、君の剛健な一敗は、一敗より勇気を増し、この秘密を見出すのでなければ倒れてもやめないと、かの欧米の陶工バリッシーが陶器製造の方法を発明した時のように、百折不撓の熱誠をもって考案に重ねるに考案をもってされた。しかし容易に成功するに至らないで数年を経過した。 ある年君は野州今市二宮神社に参詣せんと旅装を整え旅程はるかに宇都宮に着し、旅亭某に投宿された、孤灯影暗いところに旅日記をしたため終り、例の氷糖製造方法を熟考しつつあった、たまたま隣室投宿の書生数人学術上の談話をなし、化学の事に及んだ。君はこれを耳にし、大いに興味を感じ、これを聞いていたが、ふと感ずるところあり、手をうって喜び疑問氷解の時至れりと、帰国し、旅中得た考案により製造を試み、翌朝これを見るに果然一種の結晶糖を得たれば、夢かとばかり喜び、再三その実験をなすに一回は一回より次第に好成績を得たれば、その方法を基礎とし、改良に改良を加えて遂に完全なる氷糖製造法を発明する事になった。これ実に明治十年より同二十一年頃までのことで、十余年の間、苦心経営の結果ようやくその目的を達する事を得られた。君はこの発明をもって二宮神霊の加護によるものと信じられているということであるが、いかにも感心な事と申さなければなりません。これより君は製品の販路を東西各地に求める事に尽力しましたが、製造高の少なさと土地の僻在なると、その他多くの不便を感じられたが、殊に身深く糖業界に入って見ると更に大計画を立てるの急を認められ、奮って第一期の三時代の事業を企てる事となった
2026.09.02
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静岡社会健康医学大学院大学の研究グループが高血圧と大腸がんの関係を示す研究結果を報告しました。同研究グループによると、静岡県の医療データを用いた大規模な調査で、高血圧の人は正常血圧の人に比べて大腸がんを発症するリスクがやや高い可能性があると分かった。前島先生静岡社会健康医学大学院大学の研究員らは、県内の医療保険データと健診データを用いた研究で、高血圧の人は正常血圧の人に比べて大腸がんになりやすい傾向があり、そのリスクは約1.15倍だったと発表しました。研究では、降圧薬を使っていない正常血圧の人(約11万人)と高血圧の人(約8万5000人)を対象に、背景をそろえて比較する統計手法(傾向スコアマッチング)を用いて、平均4年ほどの追跡期間中の大腸がんの発生率を比較しました。この傾向は特に男性で、また降圧薬を使っている人では女性で見られました。一方、生まれつきの体質による血圧の上がりやすさ(遺伝的リスク)を、別の追跡調査データを用いて調べたところ、大腸がんとの明確な関連は見られませんでした。この食い違いから、高血圧と大腸がんの両方に関わる、まだ知られていない生活習慣や環境の影響がある可能性が考えられます。大腸がんの発生には、喫煙、飲酒、肥満、高身長といった生活習慣が関わっているとされ、女性では加工肉や赤肉の摂取も危険性を高める可能性があります。また炎症性腸疾患や、家族性大腸腺腫症・リンチ症候群などの家族歴も発生の危険性を高めるとされています。予防には禁煙や節酒、バランスのよい食事、適度な運動、適正な体重の維持が効果的で、特に運動はほぼ確実に有効とされています。がん検診は40歳以上を対象に年1回、問診と便潜血検査で行われ、「要精密検査」となれば大腸内視鏡検査などを受けます。便に血が混じるなど気になる症状があれば、検診を待たず早めに医療機関を受診しましょう。日頃から生活習慣を見直し、毎年がん検診を受けてください。今回の研究は、日本人約20万人の実診療データから、高血圧と大腸がん発症との関連を示した点で意義があります。リスクが約1.15倍という結果だけで、高血圧が大腸がんを直接引き起こすと断定することはできません。遺伝的に血圧が上がりやすい体質との明確な関連が示されなかったことからも、肥満、運動不足、飲酒、食生活、糖尿病など、両者に共通する生活習慣や健康状態が影響している可能性があります。一方で、今回の結果は、高血圧を指摘された人が大腸がんを含めて自分の健康を見直すきっかけになるという点で、前向きに捉えられます。 血圧を適切に管理し、適正体重の維持、運動、禁煙、節酒、バランスのよい食事を心がけることは、心臓や血管の病気を防ぐだけでなく、大腸がんのリスクを下げることにもつながります。また、大腸がんは早期に発見できれば、内視鏡治療や手術によって根治を目指せる可能性が高い病気です。高血圧の有無にかかわらず、40歳以上は年1回の便潜血検査を受け、陽性の場合は症状がなくても必ず精密検査を受けましょう。血便や便通の変化、腹痛などが続く場合には、検診を待たず早めに医療機関を受診することが大切です。
2026.09.02
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1 二宮先生巡視の方針及び巡視中の逸話 曾根文七、沢井義栄(「大日本報徳学友会報第六十五号」) 子(午前〇時)に臥し寅(午前四時)に起きるは先生のご家法にて、巡視される時は、いつも宵の握り飯を腰にして、未明に門出されるのが例なり。その村に入れば、まず第一に、村民起床の早い遅い、道路橋梁の修否等を検せられ、その村民一般の勤惰、富の度を査察され、そしてその精勤する者があれば、直にこれを賞し、惰民があればこれをねんごろにいましめられる。又先生は、民家に立ちよられれば、必ずまず厠(かわや:便所)を検することを例とする。ある人、これを先生に尋ねければ、厠の潔否、肥料の肥桶は農家勤惰の試金石なりと仰せられた。誠に左もあるべきであろう。 ここに一つ面白い話がある。元平ヶ崎村に某という惰農があって、ある朝のこと、賭博に敗けて、襦袢一つとなったので、家にも帰れず、寒さは寒し、困り果て、田んぼの中をうろうろさまよっていた。たまたま先生が例のごとく未明にその傍らを過ぎて、その様を熟視され、「汝は何を為しつつあるか」と問われると、彼はすかさず「ハイ私はこの村の貧農ですが、普通の働きではとても生計も立ちません故、かく早朝より耕作に出ました訳です」と言い逃れたのに、先生その実を察せられたけれども、わざと知らないまねをして、「それはそれは、感心の者である、申し渡すことがあるから、今夕予が役宅に来れ」と命じて、行き過ぎた。こうしてその夕方、かの者が約束どおり来たので、先生は農業に出精することを賞し、多くの金品を与えて、将来を励まされたので、さすがの無頼漢もこの賜物を拝領するや、顔色が土色のように変わり、自らその罪を悔い、かつ高恩に感泣して退いて、これより彼は大いに心を改めて、日夜その業を励み、順良な農夫となったという。今もその子孫は中産以上の農家である。当時この事を聞くもの、皆先生の機智宏量を感じたという。 また先生が巡視中、農夫・人夫どもにその主義を鼓吹されるには、よく卑近の例を採られた。その推譲の徳を諭される例の如きは、「かのタライの水を見よ。少し傾け、水を前方に送れば、その反動の結果、再び元に還るは必然の理である。故におよそ物を得んと思うならば、必ずまず人に物を与えよ」と、仰せられた。今も二宮先生のタライの訓示として、伝わって有名である。 ある時、開墾人夫、作業の休みにヤカンをかけた焼火を囲んで、多く休んでいたところへ、たまたま先生が巡視されて共に休まれ、フト沸騰したヤカンの底に手をあて、これはいかなる理があるかと質問された。人夫はただ不思議な顔で、誰も答えるものがなかった。先生はにっこりと仰せられるには、すべて液体は熱を得れば必ず蒸騰しようと欲するものであるから、下底は自ら熱を覚えないものだ。液体だけではなく、人間にもままこれに似たものがあるのには困る。かの小人を見よ。僅かの小金ができ、少しの名誉の地位を得ると、直に上を見始め、それより次第に奢りを始め、衣服、住居、諸道具類より、唐物、和物を好むに至れば、遊芸、茶の湯、俳諧、生け花などの業をする所々の遊客寄り集まり、それより家業は次第に不精になり、飲み食いと色欲の増長とて、貧乏不如意という魔物が、足もとに襲い来ても悟らないようになるものである。浅ましいことではないかと。これは己が分度を守るべきことを諭されたものである。 また先生は、雷雨を非常に喜ばれて、この時にには必ず数十人の人夫に休みを与えられた。その歌に 夕立と姿を変えて山里を めぐみたまふかはげしかりける
2026.09.03
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大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉 その3【開爐三首】 十月正當初一日 (十月正当初一日)霜風吹葉滿空階 (霜風葉を吹いて空階に満つ)今朝喚作開爐節 (今朝喚んで開炉の節となす)道火何曾燒口來 (火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん) 火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん。言(こと)を尋ね語を逐うの解行を休すべし。仏法は言葉ではない。実物である。この実物は空砲射撃ではない。 宗教がもし世の中から馬鹿にされることがあるとするならば、それは空砲射撃をやっておるからである。極楽というても空砲射撃をやっておる。糞でもなんでもない。坐禅というても空砲射撃である。糞でもない話である。 学者が空砲射撃をやっておる。実弾射撃ではない。「そらドンというぞ」というても屁でもない。子供が射つ鉄砲なら、屁でもない。糸でくくってあるコルクがポンというだけじゃ。サア射ってみい。それはコルクに紐がついておる。それならなんでもない。ところが、実弾なら大変だ。「しまった」といっても、ちょっとさわったら、ドンと行ってしまう。 そこで、今も禅は空砲射撃であってはならん。今も火のない開炉であってはならん。火という必要はない。ここに、この実物、音を尋ね語を逐うの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし、黙ってヌクタイ。この黙ってヌクタイ火にあたる。黙ってヌクタイ仏法にあたる。理屈を言わん。左右前後へかたむかず、黙って坐る炉である。 火というてもちょっともヌクウない火もある。火といわんでも黙ってヌクタイ。ただ炉を開きさえすればー。開炉の節は火という必要もなければ、ヌクタイという必要もない。ヌクタイという言葉も要らん。火という言葉も要らん。ただ炉を開いて、そこに真っ赤な火をおこしさえすれば、ただ黙ってホッとする。 一月二月の、鼻の先に凍傷が出来るような寒い時に、寺へ来て坐る。そしてお粥のあついやつを、腹の中へ入れると、細胞のすみずみまで熱がグッと行きわたる。それはホッとする。「そろそろヌクタイぞよ」そんなことはいわん。 炉のそばへ行ってあたっても、黙ってヌクタイ。言葉ではない。これが教外別伝、不立文字である。実物は言葉のほかにある。言葉ばかりあって、実物のないものはない。実あって名のないものじゃ。そこで、今朝喫んで開炉の節となす。なんでも開炉しなければいかん。ホッとするところがなければいかん。火と道って何ぞ曾て口を焼き来たらん。火と言うても口は焼けんぞよ。それは言葉ではないぞよ。それは実物であるぞよ。サア、ヌクタイかどうか。 それで次の「風頭稍硬し大家知る」と。(大智禅師偈頌講話p.173-174)
2026.09.03
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1 今市町における二宮先生の生活及び清廉 曾根文七、沢井義栄(「大日本報徳学友会報第六十七号」) 二宮先生が、幕命を奉じて当地(日光)に赴任されたのは、六十七歳の時で、既に先生が各所において、永年の間、報徳の大道を実行され、功成り名遂げ、富もまた子孫を潤すに足るという境遇であった。尋常の人であれば、隠退自適、余生を過ごすべきに、いわんや当時大病の後であり、いまだ衰弱旧に復しない時であった。しかし、先生は志操が堅牢であり、その老衰の身を挺して公命を奉じ、その主義のために身を犠牲に供されたご決心のほどは、実に欽仰の情にたえない。 今、古老の伝えるところによれば、先生が平素自ら節倹を行われたのは、実に驚嘆するほかはない。衣服の如きも、平素は勿論、たとえ、高貴の前に出る時にも、木綿の外は決して身に着けられる事はなく、食物に至っては更に甚だしいもので、朝食は必ず茶漬け、その他一汁一菜は平生の常食である。先生は老体の上に、病後なお衰弱が甚だしいので、家人はこれを憂えてしきりに摂養を勧めるも、先生は頑としてこれをしりぞかれて、「いやしくも公命を奉じて、民衆をひきいるものが、たとえ、病を養うとはいえ、安眠美食をむさぼるのは、予が主義ではない。予は倒れて後止むものなり」と仰せられたという。先生が衆人に示さんとして、玄関の正面に、書かれた歌に 楽しみは木綿着物にめしとしる その余は我れをせむるのみなり 以て先生の平生を推知すべきである。先生はことに皮付き芋を嗜好されたが、決してその皮をむかせられなかった。これは農夫の辛苦を思いやって、捨てるに忍びない、とされたからという。 また先生が巡視中、時に民家に一泊されたことがある。当時、農民の官吏に対する取扱いは、極めて尊重していて、先生に対しても、また他の官吏の如く相当の膳部を供するものがあれば、先生はいかにも不興の体で、「予はもとより、農夫は一汁一菜に甘んじるべきことを奨励している。以来予に対してはこのような馳走を設けるに及ばない」と仰せられて、その一菜にのみ箸をつけられて召しあがられない。しかし、村民は先生の意を察しないで、一時の辞譲の言葉として、其の後再び前の如き膳部を供しければ、先生は大いに怒り、その不心得をせめ、始末書を徴されたという、奇談さえある。
2026.09.04
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