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194二宮翁夜話巻の3【9】伊東発身、斎藤高行、斎藤松蔵、紺野織衛、荒専八らが先生のお側に坐っていた。皆中村藩士である。先生が諭してこうおっしゃった。「草を刈ろうと欲したら、草に相談するには及ばない。自分の鎌をよく研ぐがよい。髭を剃ろうと欲する者は、髭に相談はいらない。己が剃刀をよく研ぐがよい。砥石に当って、刃の付かない刃物が、しまっておいて刃が付いたためしはない。古語に、教えるに孝をもってするは、天下の人が父を敬するゆえんである。教えるに悌を以てするは、天下の人の兄を敬するゆえんである。教えるに鋸の目を立てれば、天下の木を伐るゆえんである。教えるに鎌の刃を研げば、天下の草を刈るゆえんである。鋸の目をよく立てれば天下に伐れない木でなく、鎌の刃をよく研げば、天下に刈れない草はない。だから鋸の目をよく立てれば、天下の木は伐れたの同じだ。鎌の刃をよく研げば、天下の草は刈れたのと同じだ、秤があれば、天下の物の軽重は知れない事はなく、桝(ます)があれば天下の物の数量は知れない事はない。だから私の教えの大本は、分度を定める事を知れば、天下の荒地は、皆開拓できたのと同じだ。天下の借財は、皆済がなったと同じだ。これが富国の基本であるからである。私は往年貴藩のために、この基本を確固と定めた。よく守るならばその成るところは量ることができない。あなたがたはよく学んでよく勤めるがよい。二宮翁夜話巻の3【9】伊東発身、斎藤高行、斎藤松蔵、紺野織衛、荒専八等(ら)、侍坐(ぢざ)す。皆中村藩士なり。翁諭して曰く、草を刈らんと欲する者は、草に相談するに及ばず、己が鎌を能く研ぐべし、髭を剃(そ)らんと欲する者は、髭に相談はいらず、己が剃刀を能く研(と)ぐべし、砥(と)に当りて、刃の付かざる刃物が、仕舞置きて刃の付きし例(ためし)なし。古語に、教ふるに孝を以てするは、天下の人の父たる者を敬する所以(ゆえん)なり、教ふるに悌(てい)を以てするは、天下の人の兄たる者を敬する所以なり、といへり、教ふるに鋸の目を立つるは、天下の木たる物を伐れたる所以なり、教ふるに鎌の刃を研ぐは、天下の草たる物を刈る所以也、鋸(ノコギリ)の目を能立れば天下に伐れざる木なく、鎌の刃を能く研げば、天下に刈れざる草なし、故に鋸の目を能く立れば、天下の木は伐れたると一般、鎌の刃を能く研げば、天下の草は刈れたるに同じ、秤(はかり)あれば、天下の物の軽重は知れざる事なく、桝(ます)あれば天下の物の数量は知れざる事なし、故に我が教への大本、分度を定むる事を知らば、天下の荒地は、皆開拓出来たるに同じ、天下の借財は、皆済成りたるに同じ、是れ富国の基本なればなり、予往年貴藩の為に、此の基本を確乎と定む、能く守らば其の成る処量るべからず、卿等能く学んで能く勤めよ
2025.10.13
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31 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 186~189ページ「全体、私は、わが経済上で、輸入品を国内で補う第一策として、台湾で砂糖を製造して、内地の需要を満たすようにすることを、もっとも希望している。それで、この仕事に熱心でもあり経験もある鈴木氏に、その局に当ってもらって、大いに製糖業を発達させて、金貨の流出を防ぐ一手段にしたいものであると、切望している次第であります。 それには従来の台湾人の習慣によった製法でなく、よりよい方法で製造しなければならないので、まず新式の機械をすえ付ける必要がある。また、甘蔗の種類も、従来の習慣的に作っているものでははなはだ不利益であるから、新たに改良方法を立てって良種を植え付け、なお良い肥料も施すようにしなければならない。これまでやるには、まず土地を買入れる必要があるということは、まことに理の当然であると思う。 また、ただ機械だけをすえ付けておいて、本島人の耕作した甘蔗を買入れて製造しようとすれば、将来必ずほかにも同様な組織の会社や、原料の買入れ人を生じて、自然に競争になるのは必然である。それ故、いま力の及ぶ限り土地を買い入れておいて、原料である甘蔗を良種に改良したほうが宜しかろうと忠告したわけである。 なお私は、官有地払下げについても、できるならば、およそ5千町ばかりの払下げを受けて、これを漸次に開墾し、甘蔗を植え付けさせる必要があると考えたので、このことを、児玉総督や後藤民政長官に尋ねて見たところ、『台湾で未開墾地の5千町歩はなんでもない』ということであった。そこで、発起人諸君にも、未開墾地の買入れの必要であることを説いて、目論見書中にも書き入れさせたのである。 ところが、鈴木氏が実地に調査した報告を聞くと、本島人が実験によって耕作している土地は、すべて甘蔗に適した土地であるということである。また、官有地の払下げを得られる土地を実査されたところによると、決して甘蔗に不適当と申す訳ではないが、本島人の耕作している土地よりは、よほど劣っておるそうである。鈴木氏は、『もしこれを開墾するとして、自分が胸算を立てて見ると、開墾費のほかに、小作人を見つけて小作させるとしても、あるいはハワイの米国製糖業者のように、労働者を使って耕作させるとしても、それだけの費用がいる。また本国から農民を移住させるとすれば、住まわせる家屋は、不完全な物でもこしらえてやる必要がある。それであるから、これらに1反歩あて、安く見積もっても30円以上の費用は、どうしてもいるであろう』といっている。だが、これだけ出す積りならば、既耕地が買えるのである。 そこで、鈴木氏は、当社の機械工場を設けようとする予定地の橋仔頭、曾文渓の弁務署に、甘蔗を耕作している主な者達を集めて、新式機械で製造するのが有益であることを、詳しく話して聞かせたところ、本島人らは、大いにこれを歓迎して、ただ今では両地とも、各々製造場の設置を希望して、ほとんど競争のような有様になっているとのことである。 鈴木氏のいうのには、当会社で、土地すなわち甘蔗耕作地を1,500町歩ばかり買入れたいが、価格は、どのくらいであろうかと、本島人の主なものに問うてみたところ、一反歩およそ20円から25円位ならば、手に入るであろうとのことであった。今後、他人では、とうていこの代価では買い入れることはできないが、今回は、日本人が進んで台湾に巨費を投じて事業を開発してくれることを、彼らも喜んでいるからであると申していた。なお彼らは、その土地代で、株主になりたいと希望した者もあったので、山本悌二郎氏を彼の地に残して、この点について十分調査中であるとのことである。 このような次第であるから、新たに土地を開墾するよりは、むしろ現在の耕作地を買い入れる方が得策であろう。第一に開墾した土地を買入れたならば、小作は本島人で十分で、他から移民させる必要がない。鈴木氏は、先ごろの当社重役会で詳細にこのことを報告されて、まず1,000町歩の土地を、橋仔頭か曾文渓に買入れることを内定したそうであるが、私の希望を申せば、まず曾文渓と橋仔頭に、各1,500町歩以上3,000町歩位の既墾の甘蔗耕作地を、競争者のいない今のうちに、買入れておく必要があろうと考える。 第二の鈴木氏の計画になる機械は、一日20トンの製糖をなし得るとのことであるから、1か年の原料高は、およそ500町歩にできる甘蔗の産額に相当するということである。甘蔗畑は3年輪作をする必要があるので、もし1,000町歩だけ買入れるとすれば、1か年330余町歩の甘蔗が採れるだけであるから、百何十町歩分が供給不足となる。だが、1か所1,500町歩ずつの土地さえ所有していれば、1年に500町歩使えるから、いく人の競争者が来ても、当社は決して心配する必要はなくなるのである。 第三に、従来台湾における事業中で、真に大資本を投じて工業を起そうとする者は、日本人中ほとんど稀である。だから、当社が率先して百万円の資本を募って、この事業を起したことは、台湾総督府や弁務署はもとより本島人等までが非常に歓迎して、できるだけ親切に保護をして成功させようとしている。しかし、その事実に甘えて、いつまでも他人に依頼しようとするのは宜しくない。また後日、ほかにも資本家が、この事業を計画することは必ずあることで、その時に官庁としてはこれに厚く彼に薄くするというようなことができないのは当然であるから、この保護と便宜を有している間に、当社の耕地を3,000町歩にとどまらず、できる限り買入れておく必要があると信じている。これも日本経済のために、この事業の発展と成功を心から希望しているからである。」 ※「植民地企業経営史論」久保文克著 49~51ページ より抜粋特別株主協議会 原料甘蔗の安定供給のため、会社自らが甘蔗栽培を行う必要があるとの創立総会における鈴木の報告にもとづいて事業計画を変更し、株式の追加振り込みを株主に要請する目的で、1901年1月5日に開催されたのが、100株以上の大株主が集った特別株主協議会であった。同会の冒頭挨拶に立った井上は、まず「斯業ノ有望ナルコト並ニ之ヲ大ニシテハ吾国経済上ニ大関係ヲ有スル事業ニシテ是非共成功セシメンコトヲ希望」すると、台湾製糖創立に対する希望の大きさを述べた上で、1,500~3,000町歩の甘蔗栽培用の社有地を購入することの重要性を指摘した。その理由として、いまだ競争者が存在せずコスト面や資金面の利点が十分に活用できる現段階こそ、安定した甘蔗供給を確保する上で不可欠な社有地購入の絶好のチャンスであることがあげられる。とりわけ、「土人ノ耕作セル甘蔗ヲ買入レ製糖セントセバ将来必ラズ他ニモ同様ナル組織ノ会社又ハ原料ノ買入者ヲ生ジ自然競争者ヲ生ズルハ必然ナリ」と井上は発言した。・・・ 井上が台湾製糖創立に期待していたものは単に台湾製糖業界の牽引者的役割といった限定的なものにとどまらず、より大きな目的を見据えた上でのものであったことは以下の発言からもうかがわれる。「総テ日本ノ商工業ハ日ニ月ニ進歩シツツアルモ多クノ会社ハ借財政略ヲ以テ業ヲ始メ総テ配当ノ夥多ナル事ヲノミ望ミ其基礎鞏固ト否ハ少シモ頓着セザルノ感アリ畢竟会社ノ基礎ヲ薄弱ナラシムルノ結果ニ至ラン豈ニ憂フベキノ極ナラズヤ」と。 井上にとって当時の実業界とは、目先の短期的利益にばかり翻弄され、将来の有事に備えて堅実な社礎を確立することを忘れがちな憂慮すべき状況であったようである。こうした風潮の中にあって、台湾製糖の経営に井上が期待した内容とは、長期的かつ安定した利益の確保という営業原則を実践するゴーイング・コンサーン(企業が永続的に事業を続けることを前提とする会計上の考え方)としての理想の企業像を目指し、日本経済全体の模範になってほしいというものであった。・・・井上は協議会における発言の最後に、「余ハ今日ヨリ永遠ノ利益ヲ計リ該業ヲ充分鞏固ニナシ以テ確実ナル営利ヲ期セラレン事ヲ只管希望ニ堪エズ」とも述べている。・・・この井上の精神は「国益志向的実業のエートス」という形で歴代の経営者に浸透し、とりわけ堅実主義という当該社の経営理念の主柱を純粋培養に近いままに後々まで支えていく。
2025.10.13
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194二宮翁夜話巻の3【8】尊徳先生はおっしゃった。「太古の交際の道は、互いに信義を通ずるのに、心力を尽し、四体を労して、交りを結んだものだ。なぜかというと金銀貨幣が少なかったためだ。後世になって金銀の通用が盛んになって、交際上の手段として贈答に皆金銀を用いるようになった。金銀は、通用が自在で便利この上ない。これから賄賂という事が起って、礼を行うとか、信を通ずるとかに、ついに賄賂に陥いるようになった。このために曲直が明らかでなくなり、法度が正しからず、信義がすたれて、賄賂が盛んに行われるようになった。百事賄賂でなければ用がたせなくなった。私が始めて、桜町に至ったとき、かの地の奸民は争って私に賄賂しようとした。私は塵ほども受けなかった。これから善悪や邪正が判然として信義や貞実の者が初めてあらわれた。もっとも恐るべきはこの賄賂である。あなた達は誓ってこの物に汚される事があってはならない。」二宮翁夜話巻の3【8】翁曰く、太古交際の道、互(たがひ)に信義を通ずるに、心力を尽し、四体を労して、交(まじわり)を結びしなり。如何(いかん)となれば金銀貨幣少きが故なり、後世金銀の通用盛んに成りて、交際の上音信贈答皆金銀を用ふるより、通信自在にして便利極れり、是より賄賂と云ふ事起り、礼を行ふといひ、信を通ずるといひ、終に賄賂に陥り、是が為に曲直明ならず、法度正しからず、信義廃れて、賄賂盛んに行はれ、百事賄賂にあらざれば弁ぜざるに至る。予始めて、桜町に至る、彼の地の奸民争ふて我に賄賂す、予塵芥だも受けず、是より善悪邪正判然として信義貞実の者初めて顕れたり。尤も恐るべきは此の賄賂なり、卿等誓ひて、此の物に汚さるゝ事なかれ。
2025.10.12
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 願の話 その2 ある羅漢果を得た和尚が、あるとき龍宮から招待を受けた。椅子にかけたままでドロンドロンと龍宮へゆくのであるが、これを聞いた小僧が、コッソリ椅子の下にかじりついて和尚のあとについていった。いよいよ龍宮に着いてから、小僧は椅子の下からヌーとでた。和尚は不意打ちを食らってビックリしたが、「貴様何しにここへきた」と叱れば、「和尚さんばっかり、いつも御馳走よばれんとおれにもたまには御馳走よばれさしてくれ」とのことであった。 いよいよ御馳走がでた。ところが、和尚にはすばらしくおいしい御馳走が出たが、小僧には二三段下のお振舞いだ。これを見た小僧は非常に怒った。「よし、おぼえていろ、おれの家は僧侶だぞ、これから仏道修行をして、悟りを開いて龍宮の大将になってやる。龍宮の馬鹿ども、仇はきっとうってらるぞ」ということになった。 この小僧、ある時、経行(きんひん)していると、願が成就して足の先から水がでるようになった。そこでお袈裟をパッとかぶって、池の中に飛び込んで龍になったという話がある。これは悪願が成就した話である。 ときどき男にだまされた女が、男というものは不届きなやつだ。わたしも男を手玉にとって、弄(なぶ)り物にしてやろうというので女郎になった。そうして男を手玉にとって、悪辣に男をだました。こうして己れの無念ばらしはしたものの、そのあげくには、からだ中にボツボツができて、しまいにはボソッと鼻が落ちてしまった。これも悪願の成就である。 善願にもいろいろあって無漏(むろ)の願もあれば有漏(うろ)の願もある。社会事業だ保育事業だ、あれをやろうの、これをやろうのと願はさまざまである。無漏の願とは、漏は煩悩のことであるから、つまり煩悩の漏れない「願」である。われわれはほおっておけば朝から晩まで六道輪廻である。戸棚へいってちょっとつまみ食いすると餓鬼道におちる。ガンガン腹が立ってくると修羅道におちる。あるいは畜生道におち、地獄道におちる。その六道に輪廻する自分を、六道輪廻させまいとするのも願である。また一切衆生が六道輪廻するのを救おうとするのも願である。私が坐禅を勧めるのも願である。人がやろうがやめようが、私は生涯坐禅をやめぬ。誰でもよく言う。「沢木のように、坐禅をやれやれと言うても誰がそんなことをするものか」と。しかし、やるぞと言うたら誰がせんでも。おれがやったらよい。人に勧めて人がやらなんでも自分だけで坐禅する。 ある寺にでもはいって一人で坐禅をする、賽銭は一文もあがらん、和尚もはいったなり、でてこない、何の音もせぬ、人々は、はじめは、和尚は毎日寝ているんじゃないかなーと思っていたが、そのうちに、ソーッと隙に来る者もできるだろう。三年経ち、五年経ち、十年、二十年とつとめていれば、みな人は動かされてしまう。すなわち「願」が成就するのである。 私なども、坐禅をして20年余年、今では自分一人では回りきれんほどあちらこちらで坐禅をやっている。広告でも同じことでする。広告を一年間したが、どうも効き目がないと言ってやめるとダメになるそうである。一年やってきかなんだら二年やる。それでもきかなんだら五年やる。十年やる、そのうちにその広告が人間の頭に慢性になってしまって、それからボツボツ年数の経つにしたがって買いに来るのだそうだ。それと同じで、我々の願でも、そんなにいきなりは成就せぬ。(『禅談』p.48-50)
2025.10.12
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 願の話 その3 どの仏でも、どの菩薩でも「願」のないものはない。必ず「願」がある。阿弥陀如来には四十八願があり、薬師如来にも十二願があり、釈迦如来には五百の大願がある。しかしこれは別願です。別願とは四弘誓願以外のこうした菩薩や如来の誓願をいう。もし願がなかったらどうなるかというと、それは善でも悪でも気まぐれだ。つまり計画的にやらなければ善でも功徳が薄いわけである。まぐれ当たりにちょっと出来心で善いことをした。気まぐれにちょっとしたというのは功徳もあまりないわけである。悪いことでも、出来心でちょっと悪いことをしたやつなら、裁判に出されても罪が軽いわけだ。出来心でやったのと計画的にやったのでは同じ殺したにしても罪が違う。 これは鹿児島の判事から聞いた話だが、薩摩の人間が二人で焼酎を飲んでいた。なにかの拍子に、一人のやつが急に腹を立てて刀を抜いて斬りつけた。人を斬ったというので裁判所にひっぱられた。だが、出来心で腹が立ってやりましたといってワイワイ泣いて後悔した。そこで、これは計画的にやったのではないからというので、罪も軽かったそうだ。ところが、計画的にピストルを持っていったっり、毒薬を用意したりやったのは非常に罪が重いそうである。 『願』もその通りで、計画的にやるのでなければならぬ、仏道修行も計画的にやるのでなければ、気まぐれになってしまう。よくあることですが、ちょっと坐禅してみようか、別に銭が要るわけでなし、沢木さんが坐禅せいと言いよるから、ちょっと行って坐ってみようか。窮屈でなければ、ちょっとやってみよう。資本(もとで)は要らん。会費も要らんというので、ちょっとやってみる人がある。それでは気まぐれだ。嫌になるとこういうのは、いつでもやめてしまう。ところが我々は、一生涯坐禅で身を立てなければならん。それだから他人(ひと)様が坐禅するよりも一生懸命であり、それだけ人より功徳が多いような気がする。仏教の行の中に願がなかったら、どこに行くという方針が定まらんわけです。ただ修行さえすればよいと、それに違いないけれども、その修行をどっち向いてするか、これがなければ「行」がはっきりしないのである。 仏道に『願』が大切だということを、昔の人が「遠近(おちこち)に走り追うて、落ち着かむ行く末は思い設けられたり」と言うている。願がなければどこに落ち着くやら取りつくしまがないわけである。ちょっと好きになってちょっと嫌になる。足が宙に浮いている。そんなことではつまらん。それこそ命懸けでせんならんという一つのものがなければならぬ。願というものが、本当に決まっていなければ、どんなに骨を折っても訳がわからぬ。もしそんな人間なら、折角坊主になっても、やっぱり金糞坊主だけが偉いように見えて、清貧に安んずる坊主がどんなによいのか、わけがわからずに終わってしまう。どっちも願のない者同士なら、金を持って貸している方が偉いように見える。願のない者同士なら博士号でも持っているとその方が偉そうに見える。願のない者同士なら、従二位と正八位では正八位の方が偉くないに決まっている。金でいえば金の多い少ない、位でいえば地位の高い低い、また腕力でいうなら、柔道五段と段に入っていない奴と比べたら五段の方が断然強いに決まっている。しかし力の強い弱いで決まるなら獣(けもの)と同じことである。(『禅談』p.50-52)
2025.10.13
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「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 願の話 その1仏教には「願」というものが、どうしてもなければならぬ。『大般若経』の魔事品(まじぼん)の中に「行あって願なきものは菩薩の魔事なり」ということがある。修行しても「願」がなかったならば、ハンドルのないオートバイみたいなものでフニャフニャである。行、行と言ってもヒョロヒョロの行では、あっちへ行ってはぶつかり、こっちへ来てはぶつかり、ついにはコロコロと崖へ転げ落ちてしまう。そのときに、この「願」というものがあって、我々の「行」をまとめるのです。左に行けば右にハンドルを回す、右へ行けば左にハンドルを回す。そうしてちょっとも狂いのないところへ我々の「行」を運ぶことができる。ここが「願」の有難いところである。道元禅師の御歌に、 愚かなる心一つの行く末を六の道とや人のふむらんとあるが、我々の心というものには、しっかりした目標がなければいかん。最も正確に目標をつけて、こうした時にはこう、ああした時にはああと、目標に向かって時々刻々巧くハンドルを回してゆかなければならぬ。それには「願」がなければならぬ。 「願」には総願と別願がある。仏教者たる以上誰でも必ず持っていなければならぬ願が総願で、四弘誓願がそれである。四弘誓願の第一は「衆生無辺誓願度」・・・・・これは利他である。第二は「煩悩無尽請願断」・・・・・自利である。道元禅師には、 草の庵に寝てもさめても祈ること 我より先に人を度さんという「願」がありますが、これは第一の「衆生無辺誓願度」である。 自分の煩悩は、誰でもよく知っていなければならんはずだが、実は持ちかねて、持ちあぐんでいるものが自分というものです。たばこをやめようと思ってもやまらん。酒をやめようと思ってもやまらん、あんな女に好かれたらどうもならんと思っても、いつまでも食いついておって、ネチネチしてどうしても離れられん。 わしもたばこ好きであったんであるが、坊主になってから、不便だからやめたんです。酒も五升ぐらいは飲んだんだけれども、坊主はどうしても酒を飲まんならんというわけはない。忙しくて、忙しくて、酒を飲んで酔っ払ってる暇がない。誰でもやめればやめられるものではあるけれども、たばこぐらい、酒ぐらい、という調子でたくさんの煩悩を持ち込んでしまう。「煩悩無尽請願断」もやろうと思えばやれるんだ。刑務所に放り込まれたら、いかなたばこ吸いでも一服も吸わんで入っている。どんな酒飲みでも刑務所に入ったら酒は飲めぬ。第三は「法門無量誓願学」である。煩悩が無尽であるから、したがって法門も無量である。この無量の法門を次から次へ求めて行くものは一生青年である。常に新しく生きることが肝要だ。どの瞬間も完全に生きる。この意味において仏教では絶えず旺盛に生きていくのである。 第四は「仏道無上誓願成」である。我々人間は生涯限りない衆生を度し、限りない煩悩を断ち、限りない法門の上において、仏道を完成して行こうという誓願である。我々はこの誓願のために飯を食うのだ。この誓願を成就するために薬を飲んで養生するのだ。この道を成就するために着物を着て風邪をひかぬようにするのだ。この誓願に役立たぬものはやめたらよい。 この四つの願は善であるが、時々悪の願もあって成就することがある。「魂魄この土に留まりて。恨み晴らさでおくべきか・・・・・・」というわけで、ドロンドロンと化けて出るなどは悪願の方である。(『禅談』p54-56)
2025.10.11
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佐々木朗希の球は「スプリットではない」 元ヤ軍右腕が称賛した「643」…球界屈指のワケ10/12(日) 元ヤンキースやメッツでプレーした救援右腕アダム・オッタビーノ氏「これは宇宙人の投球です」「アダム・オッタビーノがポストシーズンの出来事を全て解説」「ロウキ・ササキの36球を全て振り返りましょう」フィリーズとの地区シリーズ第4戦で、8回から3イニングを完全投球で抑えた佐々木の好投を分析。「最大の修正点はメカニックです。(それによって)ストライク率が増えました」特に注目したのはフォークボールの回転数の低さだった。「(ハーパーの打席で投じたスプリットの回転数は)僅か643回転/分です。混乱しないでください。スプリットではないです。800回転/分を切っているので、これはフォークです」「スペシャルと言われる所以です」「(フォークは)通常87、88マイルではなく、82、83マイル。だから、(もっと正確に言うと)パワーフォークなんです」「インクレディブル」「軌道が不規則です。カット、スライド気味だったりしますが、常に落差は大きいんです。打者目線で言えば、目元を狂わされる球なんです」「時にナックルボールのような変化をしています」「コウダイ・センガ(メッツ)のお化けフォークに少し似ているでしょうか。唯一無二とも言える投球です。球速があって、回転数が少ないので、(打者は)捉えることがとても難しいです」「ほぼ誰も持っていない球」制球が難しいながらも操っている「これは宇宙人の投球です」
2025.10.12
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連合、立・国協調に期待感=連立拡大機運の低下受け公明党の連立政権離脱という新たな展開を受け、連合は支援先の立憲民主、国民民主両党が共同歩調を取れる余地が広がるとみて期待を強めている。国民民主の与党入りの可能性が当面低くなったためで、これを好機として立・国双方に歩み寄りを求める方針。政局の行方は予断を許さず、手探りの対応が続きそうだ。 連合の芳野友子会長は8日の定期大会で続投が決まり、3期目に入った。源流を同じくする立・国の連携をかねて重視しており、今後の方針として「大きな固まりに向けて取り組みを強化する」としている。 傘下の産業別労働組合(産別)のうち、自治労や日教組は立民に、UAゼンセンや自動車総連は国民民主にそれぞれ組織内候補を送り込んでいる。連合関係者が「最悪の事態」と呼ぶのが、立・国が与野党に分かれるパターンだ。 自民党に高市早苗総裁が誕生し、衆参両院で過半数割れの状態から脱するため連立政権の枠組み拡大へ国民民主に照準を定めると、連合に危機感が高まった。高市氏と国民民主の玉木雄一郎代表は積極財政などで親和性がある。幹部は「こちらも割れる」と焦りを口にした。 その後、公明が政権を離れたことで状況は一変。玉木氏は連立参加について「あまり意味のない議論になってきている」と語り、ブレーキをかけた。立民は、玉木氏を首相指名選挙の野党統一候補とする案を提起した。 ただ、玉木氏は公明との連携に意欲を示し、情勢を見極める姿勢だ。11日には記者団に「政策が一致する政党となら組めるが、現在の立民とは組めない」と明言。立・国協調の展望は開けていない。 3期目の芳野体制では要のポストである事務局長に、国民民主を支持する電機連合の神保政史氏が就いた。立民を支援する産別からは「玉木氏を抑え込めない」と不安の声が漏れており、連合も正念場を迎える。
2025.10.13
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ハマスが新たに人質13人解放、生存者全員が引き渡される10/13(月) イスラム原理主義組織ハマスは13日午前(日本時間午後)、イスラエルで拉致し、パレスチナ自治区ガザで拘束していた生存中の人質13人を新たに赤十字国際委員会に引き渡した。イスラエルメディアが速報した。すでに解放された7人を含め、生存者20人全員が解放された。イスラエルとハマスが合意したトランプ米政権によるガザ和平案の「第1段階」が前進した形だ。合意では、イスラエル軍がガザ内で一定のラインまで引いた後、72時間以内にハマスが人質全員を解放すると決まり、13日正午(日本時間午後6時)が期限とされていた。ガザには人質48人が残されていた。28人は死亡しているとみられており、遺体の引き渡しは遅れる可能性がある。イスラエルとハマスのガザでの戦闘は2023年10月に開始。約2年に及ぶ戦闘でガザ側の死者数が6万7千人を超えるなど、人道危機が深まっていた。(中東支局)2年ぶりの「再会」に歓喜の涙、人質解放のイスラエル ガザでは支援物資搬入が本格化10/13(月) パレスチナ自治区ガザでイスラム原理主義組織ハマスに拘束されていた人質が13日、イスラエルに引き渡され、現地では約2年ぶりの「再会」に歓喜の声が上がった。人道危機が深刻化していたガザでは、これまで制限されていた支援物資の搬入が本格化。食料や医薬品を積んだトラックが相次いで到着した。イスラエルメディアによると、西部テルアビブの広場や人質が移送されたガザ近くの南部レイムには13日早朝から大勢の人が詰めかけ、国旗や人質の写真を掲げながら解放を見守った。最初の7人が解放されたとの一報が伝わると、現場は歓喜に包まれ、目に涙を浮かべる人もみられた。ハマスは直前に解放する人質20人の名前を公表した上で、赤十字国際委員会を通じてイスラエル側にまずは7人を引き渡した。イスラエル側も拘束していたパレスチナ人1900人以上の釈放を開始し、双方が合意した米和平案の「第1段階」が前進した。ガザでは10日正午(日本時間同日午後6時)の停戦発効を受け、12日から人道支援物資の搬入が拡大された。中東メディアは国連や支援団体のトラックがエジプト側から次々とガザに入る様子を報道。北部や南部で温かい食事や医薬品などが配給されたという。国連世界食糧計画(WFP)によると、当面は毎日約600台の援助トラックがガザ入りする見通しだ。
2025.10.13
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科学者がメントールとアルツハイマー病の意外な関連性を発見「私たちは、免疫および中枢神経系における嗅覚系の役割に焦点を当てており、メントールが動物モデルの免疫刺激臭いであることを確認しました。」言った結果が発表されたとき、スペインの応用医学研究センター(CIMA)の免疫学者JuanJoséLasarte。「しかし、驚くべきことに、私たちは6か月間この物質への短い曝露が、アルツハイマー病によるマウスの認知機能低下を防ぎ、最も興味深いことで、健康な若いマウスの認知能力を改善したことを観察しました。」持っている以前に観察されたマウスの免疫応答を高めるメントール吸入、ここでチームは、研究室での一連の実用的なテストで観察されるように、動物の認知能力も改善できることを示しました。アルツハイマー病のマウスでは、6か月間のメントールのコースは、マウスの認知能力と記憶能力を劣化させるのに十分でした。さらに、メントールはIL-1βタンパク質を脳の安全なレベルに戻したようです。研究者が免疫系を抑制するのに役立つことが知られているT調節(TREG)細胞の数を人為的に減らしたとき、同じ効果のいくつかが観察され、将来の治療がとる可能性のあるルートを開きました。「メントール曝露とTreg細胞遮断の両方が、これらのモデルで観察される認知機能低下の背後にあるタンパク質であるIL-1βの減少を引き起こしました。」言ったCIMAの神経科学者Ana Garcia-Provision。「さらに、いくつかの自己免疫疾患の治療に使用される薬物とのこのタンパク質の特定の遮断は、アルツハイマー病で健康なマウスとマウスの認知能力も改善しました。」科学者はすでに確立しています臭いと私たちの免疫系と神経系の間。これらの関係は完全に理解することは困難ですが、私たちの嗅覚システムが脳に強く影響を与えることができることを知っています。特定の臭いは脳内の特定の反応を引き起こし、記憶、感情などに影響を与える化学反応につながる可能性があります。
2025.02.22
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安居院義道 報徳日めくり 15日 嘉永六年正月七日に平岩佐兵衛は江戸の相馬侯中屋敷で二宮先生に運よく面会できた。二宮先生「遠州には先頃から我が報徳の道を唱えるものがあると聞く、誰がその先達か、また報徳の道には次第がある、徒らに口説法だけでは世の人をあやまる事になるからその世話人達は一度当方へ参るように取り次げ」と言われた。平岩氏は急ぎ遠州に帰って、岡田佐平治に報じた。「現代語訳 安居院義道」七四~七五頁
2024.05.15
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漫画家の大和和紀(やまと・わき)さんの「『あさきゆめみし』と『源氏物語』」に「源氏物語」を漫画にした経緯が書かれています。「円地(えんち)文子先生訳『源氏物語』、あとは谷崎潤一郎訳と対訳本を参考にしました。 まず、描く章の現代語訳を何回か読み、対訳本でも読み、最終的には原文を音読する。音読するとすごく情景がわかるんですよ」「不思議なことにそれをやるとやらないのでは奥行きが違ってくる。」とあります。 私たちの読書会もまた「報徳記」の原文と現代語訳を輪読することから始めました。その時のテキストにしたのが、『報徳要典』です。『報徳要典』の良さは何よりも全ルビ付きということです。現代人は漢語の素養がなくなって、個人によって漢字の読解力も大幅に違います。20年で日本語は変る。『報徳記』は富田高慶が1856年(今から168年前)10月の尊徳死後に書き上げ、11月2日に成稿、のち8巻に編成しました。1880年(明治13)に天覧に供され、1883年(明治16)宮内省、1885年(明治18)農商務省、ついで大日本農会から出版され広く読まれました。140年前になります。ルビがついていないと、とても音読ができません。しかし「音読すると富田高慶の熱意がすごく伝わってきます」「音読をやるとやらないとでは奥行きが違ってきます。」森信三先生も「報徳要典」を珍重された話が「森信三先生随聞記(ずいもんき)」51頁に載っています。「昭和40年、初めて先生のご自宅を訪問した時、「ああ、いいところに来た」と言って一冊の本を私にくださった。それが「報徳要典」という、「報徳記」「報徳論」「二宮翁夜話」など尊徳の主要な文献を一冊にまとめた本でした。 先生は本の扉に、 これ正に古今に通ずる 永遠の真理なり 不尽とサインしてくださいました。」とあります。それほど「報徳要典」という本は実にしっかりした本です。今回、鷲山恭平先生の事蹟を調べるなかで、実は「報徳要典」は鷲山恭平先生の労作であることがわかってきました。鷲山恭平翁と『安居院義道伝』 大日本報徳社副社長 八木繁樹 に次のようにあります。「このたびの取材中、私はもう一つの発見をいたしました。それは先生が、明治40年ごろから『報徳要典』という貴重な一書を編集しておられたということです。 実は、昭和9年1月1日、内外書房から舟越石治編の同名の本が刊行され、昭和5年までに5版をかさねておりますが、どういうわけか、この内外書房版は、先生の稿本とほとんど同じものであります。 先生の稿本では、○報徳記 ○二宮翁夜話 ○報徳論 ○二宮翁道歌解○報徳訓・貧富訓・鍬鎌の辞 ○報徳分度論 三才報徳金毛録 ○二宮先生年譜 百種輪廻説 万物発言集が集録されているのに対し、内外書房版では○印のものだけになっております。 この『報徳要典』についても、先生はぜひ上梓したいという情熱に燃えておられたことが、当時の手簿や往復書翰から十分察せられますが、価額が高くなること、内容的にみてむつかしい、などの理由から、周囲の反対が多かったために、修正を加えたり、内容削減をしたりして、ずいぶん工夫されたのですが、ついに上梓に至らず、そのうちに内外書房が前記の『報徳要典』を刊行し、版をかさねたものであります。内外書房版には、序文も跋文もありませんので、刊行の経緯は全く不明ですが、私の勝手な推量を許していただけるならば、先生の本書刊行が中止されていることを知った内外書房が、コマーシャル・ベースに照らして、先生のご指導を仰ぎながら刊行に漕ぎつけたものではないかと思います。『報徳要典』のタイトルは、決して偶然の一致ではあるまいと想像されます。まして当時の大日本報徳社が、報徳界、思想界に占める重大なウェートと考えれば、同書刊行には先生が大きくかかわっておられたと推量するのが自然ではなかろうかと思うのであります。」将来、大日本報徳社において、鷲山先生が構想された「○報徳記 ○二宮翁夜話 ○報徳論 ○二宮翁道歌解 ○報徳訓・貧富訓・鍬鎌の辞 ○報徳分度論 三才報徳金毛録 ○二宮先生年譜 百種輪廻説 万物発言集」が出版されることを、また瀬戸内寂聴さんがいわれた「現代の若い人たちが最も新しく自分の話し言葉に近い『報徳記』の現代語訳が作られんことを願い、また安居院先生、鷲山恭平先生の偉業が後世に伝えられることを願って、本講演を終えさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
2024.11.04
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ゴスペラーズがモニタリングに登場!石井竜也のおなじみのモニタリングに登場甲府の居酒屋で 石井さんは店の常連客に農家に扮しゴスペラーズは店員や酒屋の納入業者や客にまぎれこみいきなり店のあちこちから美声が聞こえてきたら「驚くか? 驚かないか?」「モニタリングでした」と正体をばらしたあとのゴスペラーズの「ひとり」の歌がよかった。歌詞が心に届く「愛してる」って最近 言わなくなったのは本当にあなたを愛し始めたからwith ゴスペラーズ ♪やさしさに包まれたなら ♪浪漫飛行 ♪ひとり 歌の力は無限大! 2025年もよろしくお願いいたします!💛先日、夢を見た。前日、静岡の友人が近くに来るので付き合ってほしい と連絡実は それまで2回歯医者の予定とかあって断っていたその日も妻とバイオリンコンサート(無料)に行く予定だった。電話すると「コンサートの予定じゃないの?」と言われ、そうだったと連絡してコンサートをキャンセルした。すると「私に断らないで」とプンプン怒られた。友人との探訪は非常に有益でそれはそれでよかった。夢で クローバーの草むらで🍀のクローバーを見つけて、四葉のクローバーを妻にあげよう と夢の中で思った眼が覚めるといつのまにか妻の怒りは収まっていたこれって無意識に🍀「幸せ」をあげようと無意識から思うことが大切なのかも(^^)それ以来、できるだけ 出会う人に 🍀「幸せ」をあげよう と思うことにしている
2025.01.03
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194二宮翁夜話巻の3【7】尊徳先生はまたおっしゃった。「世に忠諫というものは、おおよそ君の好むところに随って甘言を進め、忠言に似せて実は阿諛し、自分を取り入ってもらおうとするもので、そのため君を損なう者が少くない。主人は深く察してこれを明らかにしなければならない。ある藩の老臣がかって植木を好んで多く持っていた。ある人が、その老臣に語つて言った、『なにがしの父は植木を好んで、多く植えいぇいたのを、その子が釣りを好んで、植木を愛さないため、せっかく植えたのを抜き取って捨てようとしました。私はこれを惜んで止めました』と、単なる世間話のついでに語った。老臣はこれを聞いて言った。「なにがしの無情は甚しいものだ。樹木ぐらい植え置いたままで何の害があろうか。それなのに抜いて捨てようとはいかにも惜しいことではないか。彼が捨てるというなら私は拾おう。汝がよろしく取り計らってもらいた。」ついに自分の庭に移した、これはなにがしという人が、老臣に取り入るためのはかりごとであって、その老臣はその謀計に落し入られたのである。そして老臣はなにがしを、忠義がある者と称し、信ある者と称した。おおよそこのようであれば、節儀の人も、思わず知らず不義に陥ることになる。興国安民の法に従事する者は恐れなくてはならない。」二宮翁夜話巻の3【7】翁又曰く、世に忠諫と云ふもの、大凡(おほよ)そ君の好む処に随ひて甘言を進め、忠言に似せて実は阿諛(あゆ)し、己が寵を取らんが為に君を損なふ者少からず、主たる者深く察して是を明にせずんば有る可(べ)からず。某藩(それのはん)の老臣某(それ)氏曾て植木を好んで多く持てり。人あり、某氏に語つて曰く、何某(なにがし)の父植木を好んで、多く植ゑ置きしを、其の子漁猟のみを好で、植木を愛せず、既に抜取つて捨んとす、予是を惜んで止めたりと、只雑話の序に語れり、某氏是を聞きて曰く、何某の無情甚しいかな、夫れ樹木の如き植ゑ置くも何の害かあらん、然かるを抜いて捨つるとは如何にも惜き事ならずや、彼捨てば我拾はん、汝宜しく計らへと、終に己が庭に移す、是れ何某なりし人、老臣たる人に取入らん為の謀(はかりごと)にして、某氏其の謀計に落し入られたるなり、而て某氏何某をして、忠ある者と称し、信ある者と称す、凡そ此の如くなれば、節儀の人も、思はず知らず不義に陥るなり、興国安民の法に従事する者恐れざる可(べ)けんや。
2025.10.11
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10月12日天嶽院坐禅会に3回目の参加前2回は毎度「頭と背筋を真っすぐ顎を引いて」と注意をされていた今回は頭を天井に真っすぐ、顎を引いてを意識して何事もなく終了した毎朝都合2〜3時間程坐っているが一人だと片寄やすい、こうしてたまに坐禅会に参加して参禅の皆と一緒に坐り、声を揃えて読経する有難山(^^)10/18(土)には清水寺管長の森和上の講演会がある。日時:令和7年10月18日(土)開場 12:30/開演 13:30(終了予定 15:30)会場:天嶽院 本堂講師:森 清範 和上(清水寺貫主、北法相宗管長)演題:「今日の希望は あすの力」参加費:無料(定員200名、自由席)申込方法:お電話にて受付(0466-22-0151)テレビのワイルドライフ 命の輝き で テッポウウオ の特集をやっていた獲物の昆虫をみつけると、直角に狙いを定めて水流を発射して獲物を水面に落とす!動物界の狙撃兵であるアーチャーフィッシュは、決してショットを無駄にしません。アーチャーフィッシュは正確に狙いを定めた水流を空中に発射して狩りをし、小さなトカゲと同じくらい大きな獲物をノックダウンし、水に落ちたらそれらを飲み込みます。調査員は、これらのショットは固定力の爆発であると考えていましたが、今では科学者はターゲットのサイズに基づいて使用する水量を調整して、より洗練されたアーチャーフィッシュを見つけました。各爆発の力を測定するために、ドイツのエルランゲンニュルンベルク大学の動物生理学者Stefan Schusterと彼の同僚は、高速ビデオを使用して、5,000フレーム/秒で画像をキャプチャするアーチャーフィッシュショットの速さを記録しました。通常、テレビや映画は24フレーム/秒で画像を表示します。同時に、研究者は、ビスコースとして知られる吸収性材料で満たされたボウルに魚を発射させて、各ブラストがどれだけの質量を放出するかを測定し、液滴が反射しないことを確認しました。時間の経過とともに水が発射される質量と速度に基づいて、Schusterと彼の同僚は各ショットの力を決定できました。ハエやトカゲなどの生き物の中で、それぞれが表面にくっつくために使用する力の量は、そのサイズに密接に比例します。研究者は、任意のサイズの獲物に対して、アーチャーフィッシュが本能的に攻撃を調整し、獲物がそのサイズで保持できる約10倍の力の動物で攻撃されることを発見しました。各ショットを発射するにはかなりのエネルギーが必要なため、アーチャーフィッシュは攻撃を調整します。それ以外の場合、「魚がすべてのターゲットに最大パワーのショットを発射するのが最善かつ最も簡単です」とSchusterは説明しました。💛坐禅も「魚がすべてのターゲットに最大パワーのショットを発射する」ように姿勢を正しくし、吐く息を細く長く、呼吸に集中していけば、「何十人一緒におっても全体が透明になる。一歩進めば、大円鏡智といって、広く大きな鏡の如く、時間空間が透明になる。そこに自己を見出だせば、これはいつもの自己とまた別の自己である。」(沢木興道)を獲得できるかもしれない(^^)
2025.10.13
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BSプレミアム 孫のナマエ~鴎外パッパの命名騒動7日間~鷗外パッパが愛娘茉莉(マリ)の子に付けた名は𣝣(ジャク)、雀に由来し盃にも由来。西欧の “ジャック”(Jacques)にも通ずると。難しいと異体字に難色を示す婿のフランス文学者 の 山田珠樹に「分解すると 木+四+艮+寸 で子供にも難しくない」などと、長大な手紙を書いて名前の大切さを示す。山田珠樹と森茉莉ドラマで見る 鴎外の該博な知識と人間力に圧倒される。ちなみに山田 𣝣(やまだ じゃく、1920年11月3日[2] - 1993年6月21日)は、日本のフランス文学者。東京大学名誉教授。フランス文学者の山田珠樹と、後に作家となる森茉莉の長男として東京に生まれる。旧制成蹊高等学校卒業後、東京帝国大学仏文科を1944年9月に繰り上げ卒業。1946年同志社大学勤務の後、1948年から第一高等学校、東京大学教養学部勤務、1964年東京大学文学部仏文科に配置換え、教授を務める。1981年定年退官、名誉教授、成城大学教授。1991年退職。1993年死去。満72歳歿。・ギュスターヴ・フローベールが専門で、蓮實重彦の師としても知られ「お前ら、感情教育を知ってるか。感情教育ってのは終わらねえんだ」と言ったとされる。・鹿島茂も“山田𣝣先生の授業はたいへんな名調子で、その声を聞き、顔を眺めているだけで気持ちがよかった。話の最後を「......なのであります」と終えるくせには大きな影響を受け、いまでも講義をしている知らず知らずのうちに「𣝣調」が出てくる”と書いている。名前の「𣝣」は母方の祖父・森鷗外の命名によりフランス語の男性名 “ジャック”(Jacques)を写したものである。山田家所蔵資料 山田珠樹、同茉莉宛 森鷗外書簡集鴎外の書簡400点見つかる 差出人は夏目漱石や与謝野晶子など著名人ぞろい鴎外パッパの命名騒動7日間 の頃、森鴎外は奈良で正倉院の調査に携わっていた林太郎は1917年(大正6年)12月、宮内省が所管する帝室博物館と図書寮(ずしょりょう)のトップへの就任を受け容れます。帝室博物館のトップは総長、図書寮のトップは図書頭(ずしょのかみ)と言いました。 図書寮は律令制の時代から日本にありましたけれど、林太郎がトップに就いたころの図書寮は1884年(明治17年)に宮内省に設置されたもので、おもに皇室にかかわる記録を編集・作成し、関連する書物などとともに保存する部署でした。 帝室博物館は東京、京都、奈良の3つの国立博物館からなり、総長はふつう東京の博物館に出勤します。林太郎のばあい、月・水・金の3日は午前8時から午後4時まで博物館で勤務し、火・木・土の3日は午前8時から午後1時まで図書寮で勤務しました。博物館総長と図書頭との兼務は、1918年1月から死去するまでの4年半でした。 ここでは森林太郎の図書頭としての業績。①『天皇皇族実録』の編修 『天皇皇族実録』の編修は1915年(大正4年)に始まり、その後の4年間でわずか4名の皇族分を仕上げただけでした。森図書頭は、就任するや、計画を立て直し、担当職員を増やし、服務規程を定めて膨大な事業の推進を図りました。②『帝諡考』(ていしこう)の執筆・刊行 帝諡とは、天皇崩御後に送る称号のうち、人格をほめたたえる意味をもつもののことです。 林太郎が「図書館に就任した当時、図書寮では帝諡考を編輯するや否やが問題になってゐたさうであるが、兄は就任後直に編輯する事に決定した。これは歴代天皇諡号の出典を考察したもので、自ら筆を執って僅一年半で完成し、今回完成されるに至ったのである。」 つづいて林太郎は『元号考』の執筆にとりかかり、大化から大正までの元号について、改元の時期と理由、典拠とされた文献などを調べ始め、この努力は死の数日前までつづけられましたけれど、完成には至りませんでした。 腎臓と肺をわずらって体力が衰えつつあった林太郎は、妻の志げや子どもたちが頼んでも、親友の賀古鶴所が勧めても、医師の診察を受けようとしません。 そして1922年(大正11年)7月6日、亡くなる3日前に、最後の遺言を口述して枕元の賀古鶴所に代筆してもらいます。要旨は、 一切の秘密なく交際した友人に{遺言を}代筆してもらう。誰も口出しをしてはならない。 どのような官憲威力であっても、死という重大事件には反抗できないと信ずる。 自分は石見の人、森林太郎として死にたい。 だから、縁故のある宮内省や陸軍の栄典は絶対にやめてもらいたい。 また、墓には「森林太郎墓」以外に1字たりとも彫ってはならない。💛山田 𣝣さん、立派な一生を終えられ、森鴎外の期待にそむかなかった。「......なのであります」という名調子の講義を聞きたかったものだ(^^)ドラマの中で、森鴎外の潔癖ぶりと偏食ぶりも活写されて面白かった。鴎外はドイツ留学をして衛生学、細菌学を学んでいた。彼は作家でありながら陸軍軍医で、このことが彼の偏食に拍車を掛けてしまった。生ものへの極度の警戒心から潔癖症となり、水は沸かさなければ決して口にせず、食事にも神経質になっていたドラマでは、トイレに入る時も決して手でドアを触らず、懐紙でノブをつかんでいた。また、鴎外は「甘いものとご飯を一緒に食べるのが好き」という味覚の持ち主だった。このため、甘いあんこの入った饅頭を4つ割にしてそのひとかけを白米の上に乗せ、煎茶をかけた饅頭茶漬けが大好物だった という場面が描かれていた。果物に砂糖をかけるのも好きで、決して白砂糖を用いず、角砂糖をわざわざ砕いて載せた。
2023.03.01
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「技術力のある国」ランキング・トップ15 米誌Jan 8 2023◆1位:日本技術的専門知識スコア:100.0 日本の技術的専門知識のスコアは100.0となり、調査対象の全73ヶ国のなかで唯一満点を獲得した。「イノベーション」「熟練した労働力」「デジタルインフラの発達」でも100.0のスコアを確保したほか、「教育人口」「(物理的)インフラの発達」でも99点台を記録しており、高いレベルを誇っている。 これらの属性を含む「起業家精神」のサブカテゴリ全体では96.9点となり、こちらもドイツとアメリカに次ぐ世界第3位の高さとなった。ランキングを発表したUSニューズ&ワールド・リポート誌は、日本は東洋の伝統と西洋の文化を生活様式に取り入れて融合させており、また、世界で最も識字率が高く、技術的にも最も進んだ国の一つだと評価している。◆2位:韓国技術的専門知識スコア:97.3◆3位:中国技術的専門知識スコア:96.2◆4位:アメリカ技術的専門知識スコア:92.7・日本の産学官を合わせた研究開発費、研究者数は主要国(日米独仏英中韓の7か国)中第3位・日本のパテントファミリー(2か国以上への特許出願)数では世界第1位、・ミディアムハイテクノロジー産業貿易収支比においても、日本は主要国の中で第1位・注目度の高い論文数は中国がカウント法によらず全ての論文種別で第1位(5万4405編)ただし、中国の動向については自国からの被引用の影響も大きい・2位は米国(3万6208編) 3位は英国(8878編) 日本は13位(3767編)
2023.08.14
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白亜紀前期1億500万年前、九州最古の翼竜の化石…熊本県天草市の地層で発見7/21(金)熊本県天草市立御所浦白亜紀資料館は20日、同市・御所浦島にある白亜紀前期の地層から見つかった化石が、約1億500万年前の翼竜の骨の化石と判明したと発表した。翼竜としては九州最古で、白亜紀前期の地層で翼竜が発見されたのは九州初という。7月21日から資料館で展示する。発表によると、骨は、砂岩に五つの断片的な状態で含まれている。内部は空洞で、骨の厚さは1~2ミリ。飛行に適した軽い構造となっている。大きさは最長約7センチで、翼を支える指の骨に似ているという。 1997年に「御所浦層群・烏帽子層」から見つかった後、もろくて調査できずにいた。昨年から福井県立恐竜博物館と共同でCTスキャンで分析したところ、翼竜と判明した。断片のため翼竜の種類は不明という。 翼竜化石は国内では石川や岐阜県などで見つかっており、今回で13か所目。資料館の黒須弘美学芸員は「九州では白亜紀後期からしか見つかっておらず、白亜紀前期から翼竜が国内に分布を広げていたことを示す重要な資料となる」と話した。
2023.07.22
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来月2日からノーベル賞発表 英情報調査会社が日本人2人含む有力候補23人を発表9/19(火) 来月(10月)2日から今年のノーベル賞の発表が始まるのを前に、イギリスの情報調査会社が受賞が有力視される研究者を発表しました。日本人研究者は2人が選ばれました。 イギリスの情報調査会社「クラリベイト」は、世界で発表された約5800万本の研究論文から引用された回数などを分析し、ノーベル賞受賞の有力候補として「引用栄誉賞」を毎年発表しています。 今年は、各国から23人の研究者が新たに選ばれました。 日本人では生理学医学賞の分野で、筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構・機構長の柳沢正史さん(63)、化学賞の分野でナノ医療イノベーションセンター・センター長の片岡一則さん(72)の2人が選ばれました。 柳沢さんは睡眠の謎を研究し、睡眠のリズムをコントロールする「オレキシン」というホルモンを発見するなど、不眠症の治療薬の開発に大きく貢献しています。 片岡さんは患者の体内の必要な場所に必要な量の薬をピンポイントで届ける「ドラッグデリバリーシステム」を研究し、抗がん剤の効果を高める治療法などを開発しました。 「クラリベイト」が受賞の有力候補として選んだ研究者のうち、これまでに71人がノーベル賞を受賞しています。💛不眠症の治療法、おおいに関心がある(^^)睡眠が健康にとって大事だといわれるが、どうしたらよいかで運動が勧められたり食事の改善が提唱されるが、それでよくなったというエビデンスはないようだ。加齢によって睡眠がとりにくくなる原因に向き合って対応しないと改善されないように思われる。たとえば加齢によって、睡眠を促すメラトニンが減って睡眠しにくくなり、中途覚醒でより、睡眠不足の感覚に陥る。ならばメラトニンを食材やサプリで摂ればと思うが、食材では必要な量は確保できず、またメラトニンはサプリとしては日本では認められていない。トリプトファンとして摂取し、体の中で、セラトニン→メラトニンへと変化する仕組みを利用する方法があるという。最近、睡眠の質をよくするといううたい文句の食材が多く出回っていてグリシンやLテアニンもその一つで、テアニンは抹茶などの旨み成分で安心できるので自分の体で試し、よければ家人や知人にも勧めてもいる。そういうわけで「睡眠のリズムをコントロールする「オレキシン」というホルモン」にも興味がわく。オレキシン オレキシン (orexin) は、1998年に発見された神経ペプチド。視床下部外側野に存在する神経細胞が産生しているオレキシンは、食欲や報酬系に関わるほか、睡眠や覚醒を制御する。オレキシンをつくる神経細胞が消滅すると、ナルコレプシーという睡眠障害になる。オレキシンは、覚醒、覚醒(目覚め、wakefulness)、食欲を制御していることで知られる。ヒトの脳にはオレキシンを生産するニューロンが1~2万個あるのみで、主にperifornical areaと外側視床下部に分布している。そのニューロンは中枢神経系全体に広く投射しており、覚醒・食欲・そのほかの行動を制御している。「眠気」の正体が見えてきた~1万匹のマウスと向き合い、睡眠の謎に迫る~2020.01.30柳沢さんは「世界的に見て日本は最も睡眠不足な国であることは間違いありません」と危機感を訴える。「特に、日本では、幼児も就寝時刻が遅くなっていて、睡眠不足は子どもの頃から始まっています。これは人生に大きな影響を与えてしまうでしょう」「疫学的には、睡眠と健康は関係があることははっきりしています。しかし、なぜ、そのようなことが起こるのかというメカニズムは、ほとんど何も分かっていません」「眠っている間も脳の代謝率は低下しないので、単に休んでいるわけではなく、コンピューターに例えれば、オフライン・メンテナンスのモードだと考えられますが、そこで具体的に何が起こっているかは分かっていません」「睡眠の制御と密接に関係しているのが眠気です。長く起きていたり、睡眠が足りなくなったりしてくると、眠気が増して、最終的には眠ってしまいます。ただ、この眠気が脳内でどのように制御されているのか、そして、睡眠と覚醒を切り替える脳内のスイッチとどのように結びついているかは、まったく分かっていないのです」柳沢さんはマウスをモデル動物として、睡眠に関するこれら二つの謎に挑んでいる。「ヒトやマウスに限らず、中枢神経系を持っている動物はすべて眠ります。より小さくて単純なショウジョウバエや線虫を使って睡眠の研究をする人たちもいます。しかし、それらは脳波を測ることができません。そのため、行動学的に動いていないことを睡眠とみなして判断することになり、正確性に欠けます。その点、マウスは脳波を測ることができるので、人間と同じように睡眠状態を脳波で見極めることができるという利点があります」柳沢さんは研究テーマとして「オーファン受容体」に着目。「オーファン受容体は宝の山のようなもので、オーファン受容体が受け取る物質を調べることで、まだ知られていない新しい物質が発見できると考えたのです」脳の抽出物中に含まれるたくさんの物質の中から、あるオーファン受容体に結合する物質として発見されたのが「オレキシン」だった。オレキシンは脳の中心部分に位置する外側視床下部で作られる神経伝達物質。この視床下部という場所は食欲に関与している場所であったことと、実際、脳にオレキシンを投与するとマウスの食欲が増したり、空腹時にオレキシンの産生量が上がったりすることから、最初は食欲に関係する物質だと思われていた。「ところが、オレキシンを作る遺伝子を壊したマウスでも、食べる量はあまり変わらず、痩せもしませんでした。神経細胞で発見される物質は、機能がなかなか特定できないものが数多くあって、オレキシンもそのような物質の一つになってしまうのではないかという心配もありました」マウスの夜間の行動を確認するを思いついた。マウスは夜行性なので、夜間の行動を観察することで異常が見つかるのではないかと考えた。予想は的中し、暗視カメラで撮った映像に、活発に動いていたマウスが突然動かなくなる様子が映っていた。調べてみると、このマウスは「ナルコレプシー」だということが分かった。ナルコレプシーは、日中に突然強い眠気が出現して、眠り込んでしまう睡眠障害で、世界では2000人に1人、日本では600人に1人が罹患しているナルコレプシーはオレキシンの欠乏によって引き起こされることや、オレキシンは覚醒状態を維持するのに重要な働きをしていることなどが分かってきた。「オレキシンは、睡眠の制御に大きく関わっている物質でした。この物質の発見によって、睡眠学が私の研究の大きな柱になっていったのです」柳沢さんの研究は、その後、オレキシン受容体に働きかけオレキシンの作用を阻害する物質を有効成分とする睡眠薬の開発につながった。この薬は2014年11月に医療現場で使われるようになり、効果を上げている。💛なるほど柳澤教授は睡眠の制御にかかわるオレキシンの役割を発見し治療薬に生かしたということかな。
2023.09.20
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NHK野口葵衣アナ「じいさん報われました」タモリ「3代で」10月28日(土)NHK総合放送の「ブラタモリ」タモリさんは山口県岩国市の錦帯橋を訪れた。錦帯橋は1673年、岩国藩の三代目藩主・吉川広嘉が架けたといわれている。錦川は城下を二分するように流れていたが増水時は水流が激しいため橋が押し流されてしまう。「流れない橋を架けたい」というのが歴代藩主の悲願。広嘉は明の帰化僧が持っていた「西湖遊覧誌」に載っていた挿絵を見て「これだ」と思った。島伝いに石橋が架かっていたのだった。石を積み重ねた橋台、その上に乗ったアーチ型の木橋。築城技術と木組みの技法を最大限に生かした希代の名橋が完成した。長さ193メートル、幅5メートル、水面からの高さ11メートル。タモリさんは、中学校の修学旅行以来の錦帯橋訪問。橋を渡ってみると、まずは平らな木組み。続いて、橋脚部分は石。アーチの部分は階段になっていました。※もとの橋は、洪水によりすぐに流失。改良を加えて翌年に再建された橋は、1950年の台風による洪水で流失するまで、276年間威容を保ちました。葛飾北斎や歌川広重をはじめ、多くの絵師が錦帯橋を描いています。タモリさんは、葛飾北斎の絵と同じ角度から、錦帯橋を見ます。錦帯橋は、岩国城の城下町を二分した錦川の両岸を結ぶ役割を果たしました。【告知】11月1日(水)から『現代語 安居院義道』 出版のクラウドファンディングを開始しますご支援ください!・昭和28年(70年前)出版の鷲山恭平氏(現・大日本報徳社社長鷲山恭彦氏の祖父)著『報徳開拓者 安居院義道』が入手困難で文体も現在では読みづらいため現代語に訳し出版します。・近年秦野で発掘された『相州大住郡北秦横曽根村仮趣法帳』と伊勢原市史続大山編史料並びに『報徳開拓者 安居院義道』収録の農書2編について原文と現代語訳を併記し収録します。・本のサイズはA4版で、ページ数は240頁程度です。800冊限定出版で印刷費見込40万円、目標金額45万円です。・令和5年11月1日~令和6年1月13日までの期間限定のプロジェクトです。一般の書店では販売しません。・Campfire for Social Good(社会貢献プロジェクト)です。出版した本は大学図書館、静岡県内公共図書館に寄贈します。 本会がクラウドファンディングで支援者を募り、出版した『技師鳥居信平著述集』、『訳注静岡県報徳社事蹟』は既に多くの静岡県内公共図書館、大学図書館で蔵書となっています。(参考:『技師鳥居信平著述集』は東京大学・京都大学図書館など75の大学図書館(2023年10月30日現在)で所蔵されています)報徳運動の偉大な先人の記録を次の世代へと繋ぐために、ぜひ多くの方が本プロジェクトをご支援くださるようお願い致します。 ・1千円以上支援者に「現代語 安居院義道」1冊を郵送します。・5千円以上支援者に「現代語 安居院義道」を1冊の他、出版記念絵葉書(秦野視察)10枚1組を郵送します。・1万円以上支援者に「現代語 安居院義道」(2冊以内)、出版記念絵葉書を郵送すると共に、ご希望により本書の巻末にご氏名を記名します。
2023.10.30
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旅客機「撃墜」巡りロシア釈明 死亡機長に責任転嫁12/28(土) 中央アジア・カザフスタン西部で38人が死亡した旅客機墜落について、ロシア航空当局は27日、本来の目的地である同国南部チェチェン共和国の空港周辺が、ウクライナによるドローン攻撃で着陸が「非常に困難」な状況だったと釈明した。通信アプリ「テレグラム」で声明を出した。 声明は、航空会社があるアゼルバイジャン側が訴える「ロシア軍の防空システム誤射」には触れていない。空港周辺は濃霧が立ち込めていた上、墜落したカザフ西部への行き先変更は「機長の判断」と主張しており、責任転嫁を図る姿勢がにじみ出た。機長も副機長も死亡している。 アゼルバイジャンの航空会社は27日、「外部からの影響」が墜落の原因になったという暫定情報を発表した。 「撃墜説」を巡り、ロシアのペスコフ大統領報道官は「調査結果が出る前に仮説を立てるのは間違いだ」とコメントを避けている。不信感を示すように、アゼルバイジャンやイスラエルなどの航空会社はロシア便の運航停止を決めた。 💛ウクライナのミサイルやドローンの届くロシアにおいて民間航空機にとって安全な空域は存在しない、ことの影響は大きいかも?管制官とパイロットの交信の暴露と、なぜカスピ海の対岸で墜落?英雄のパイロット。アゼルバイジャン機事件アゼルバイジャン航空の旅客機が、カザフスタンのアクタウ市付近で墜落。少なくとも38人が死亡した。ロシアの防空システム「パーンツィリS」の地対空ミサイルによるものだとの見方が一般的になっている。機長は、GPS信号を失ったと報告した。彼は出発地点であるバクー(アゼルバジャンの首都)に戻ることを決めた。その時、午前8時16分、機長は鳥との衝突による激しい衝撃を報告した。その直後に、パイロットは機体の操縦困難と油圧システムの損傷を報告した。パイロットは隣接するロシアの2つの空港、ミネラルニエ・ヴォディ空港とマハッチカラ空港への着陸許可を何度も求めた。生存者の一人が、濃霧だったグロズヌイ上空で、飛行機は2度着陸を試みたが、三度目に何かが爆発した、という証言と一致する。その後、J2-8243便は、カスピ海を越えて、隣国カザフスタンに向かっている。パイロットはそこに進むように指示されたと考えるのが、自然である。しかし、対岸にあるアクタウ空港は、450キロも離れている。前述のロシアの2つの空港はもっと近い。ミネラルニエ・ヴォディ空港は240キロ、マハッチカラは140キロだ。アゼルバイジャンの軍事専門家で、ソ連のSu-24大型戦闘爆撃機の元パイロットのアギル・ルスタムザデ氏は、同紙に述べた。「間違っていることを望みますが、大破した飛行機をカスピ海上空に送るという命令は、証拠を隠滅するという緊急性によるものです」機体の操縦に使われていた油圧システムが急速に劣化した中で、パイロットたちは時間との戦いになった。ルスタムザデ氏は、「機体がコントロールを失うのは時間の問題でした。パイロットが人命を救うことができたのは、彼らの英雄的な行為の証しです」もし機体が海に落ちていたら、ブラックボックスの回収も機体の回収も、困難を極めただろう。パイロット二人は、本当に立派だった。悲惨なことに亡くなってしまった。乗務員は5人。機長のイゴール・クシュニャキンさん、副操縦士のアレクサンドル・カリャニノフさん、パーサーのホクマ・アリエワさんの3人は、不時着の際に死亡してしまった。しかし、不幸中の幸いで、他の2人の客室乗務員、ズルフガル・アサドフ氏とエイダン・ラヒムリ氏は生き残り、26日に病院で治療を受けている
2024.12.28
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宇宙の果てまで色鮮やかに撮影、世界最大デジカメで…日本人研究者「驚異的な能力」米国主導で南米チリに設置された「ベラ・ルービン天文台」のチームは、地球から数千光年離れた星雲などの観測画像を公開した。世界最大のデジタルカメラを備えた望遠鏡によって、宇宙を漂う星の材料となるガスやちりを鮮明に捉えた。 同天文台は、チリ中部のセロパチョン山頂に米国立科学財団などの支援で建設され、今年、観測を始めた。口径8・4メートルの光学望遠鏡と32億画素のデジカメを備えており、チームが23日、観測画像を初公開した。 そのうち、いて座にある星雲を捉えた画像は、7時間かけてデジカメで撮影した678枚の写真を合成。鮮やかなピンク色に輝く星雲を浮かび上がらせた。このほか、太陽系内で未発見だった2104個の小惑星を観測することも成功した。 観測には、日本の研究者も参加している。そのうちの一人で、国立天文台の内海洋輔准教授(可視光天文学)は「宇宙の果てまで記録できる驚異的な観測能力が実証された。(地球がある)天の川銀河の構造の解明など、天文学の多くの問いに答えられるようになるだろう」と話す。【宇宙の息吹を32億画素で体感】7時間観測で小惑星2,000個発見!「ヴェラ・ルービン天文台」が超高精細画像を初公開!「写真を拡大するたびに新たな興味深い発見がある」(ヴェラ・C・ルビン天文台広報担当クレア・ヒッグス氏)南米アンデス山脈のふもとに設置された32億画素の地上最大カメラを搭載した天体望遠鏡、ヴェラ・ルービン天文台が観測画像を初公開した。米国立科学財団(NSF)の国立光赤外線天文学研究所(NOIRLab)は23日午前11時(日本時間24日午前0時)、YouTubeでのライブ配信を通じて歴史的な観測画像を公開するイベントを開催した。公開された画像には、いて座にある数千光年先の2つの星雲が鮮明に映し出されている。三裂星雲と干潟星雲と呼ばれるこれらの星雲は、星を生み出すガスと塵の雲塊だ。4種類のカラーフィルターを使用して7時間かけて撮影した678枚の画像を合成したもので、満月約60個分の領域を捉えている。青い領域は若く高温の星からの光、ピンク色の領域は励起された水素原子、それらを取り巻く黒い筋は塵の帯だ。ヴェラ・ルービン天文台のカメラには、近紫外線から近赤外線までの光(320~1050nm)を捉える6つのフィルターが搭載されている。もう1枚の画像は、5,500万光年先のおとめ座銀河団の一部だ。5月初めの4夜にわたる撮影から抜粋したもので、手前には天の川銀河の星々が明るく輝き、奥には宇宙膨張とともに高速で遠ざかる銀河が見える。青い領域は若い星が存在する星形成領域だ。今回公開された各画像は、望遠鏡が撮影した全体画像のごく一部に過ぎない。南米チリ・セロパチョン山の標高2,647m地点に構えたヴェラ・C・ルービン天文台は、これまでの望遠鏡の中で最大の視野(3.5度)を持ち、3夜ごとに南半球の空全体を観測できる。1回の観測で満月の45倍の領域を捉えられる。ハッブル宇宙望遠鏡が満月の1%、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が満月の75%の視野を持つことと比較すると、その規模の大きさが想像できるだろう。天文台の建設責任者であるワシントン大学のジェリコ・イヴェジッチ教授(天文学)は公開イベントで「ルビン天文台は史上最大の天体発見マシン」と述べ、「観測される天体の数が初めて地球の人口を上回るだろう」と語った。
2025.06.25
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イスラエル軍、ガザ市で「前例のない武力」行使へイスラエル軍は19日、パレスチナ自治区ガザ地区の最大都市ガザ市に対し「前例のない武力」で作戦を実行すると警告し、住民への避難を呼びかけた。
2025.09.20
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遠州アカデミーでは 以下の要領で、「第12回報徳講座」を開催いたします。是非 この機会にご参加願います。〇日時 11月9日(日) 10時~12時〇場所 袋井市袋井北コミセンホール〇講演内容 ①報徳で現代を考える 大日本報徳社社長 鷲山恭彦様 ②堀越報徳社の歩みと課題 堀越報徳社理事長 山本克宏様 ③報徳と我が企業活動 (株)オフィスホリウチ代表取締役 堀内善弘様〇会費 無料〇申込 10月22日(水)より 当メール返信にて
2025.10.08
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194二宮翁夜話巻の3【6】尊徳先生はおっしゃった。「ある藩の人が藩の要職であった時、私は礼譲と謙遜を勧めたが用いなかった。後についに退けられた。今や困窮がはなはだしく、今日をしのぐこともできない。その人はその藩が、衰廃で危ないときに当たって功績があった。そして今このように窮乏している。これはただ要職に登用された時に、分限の内で生計を立てない過ちがあったからである。官威が盛んであって。富有が自在である時は礼譲と謙遜を尽し、官を退いて後に遊楽したり贅沢であれば害はない。その時は一点のそしりもなく、人もその官を妬むこともなく、進んで勤労に励み、退いて遊楽しても、昼に働いて夜休息するようである。逆に、進んでは富裕にまかせて遊楽や贅沢にふけって、退いて節倹を勤めるのは、たとえば昼休息して夜勤労するようなものだ。進んで遊楽するならば誰もがこれをうらやましく思うであろう、そしてこれを妬まないものがいようか。雲助が重荷をかつぐのは、酒食をほしいままにするためである。遊楽や贅沢をするために、国の重職にいるのは、雲助等がするところに遠くない。重職にいる者が、雲助のするところに同じようなことをして、よく久安を保つことができようか、退けられたのは当然であって、不幸にあったわけではない。二宮翁夜話巻の3【6】翁曰く、某藩(それのはん)某氏老臣たる時、予礼譲謙遜を勧むれども用ひず、後終(つひ)に退けらる、今や困乏甚くして、今日を凌ぐ可からず。夫れ某氏は某藩、衰廃危難の時に当つて功あり、而して今斯(かく)の如く窮せり、是れ只登用せられたる時に、分限の内にせざる過ちのみ。夫れ官威盛んに富有自在の時は礼譲謙遜を尽し、官を退きて後は、遊楽驕奢たるも害なし、然る時は一点の誹(そしり)なく、人其の官を妬まず、進んで勤苦し、退きて遊楽するは、昼勤めて夜休息するが如く、進んでは富有に任せて遊楽驕奢に耽り、退きて節倹を勤むるは、譬へば昼休息して夜勤苦するが如し、進んで遊楽すれば、人誰か是を浦山(うたやま)ざらん、誰か是を妬(ねた)まざらん。夫れ雲助の重荷を負ふは、酒食を恣(ほしいまま)にせんが為なり、遊楽驕奢をなさんが為に、国の重職に居るは、雲助等が為(す)る所に遠からず、重職に居る者、雲助の為す処に同じくして、能く久安を保たんや、退けられたるは当然にして、不幸にはあらざるべし。
2025.10.10
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31補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 173~178ページ 藤三郎の妻のことは、典型的に内気な性格であった。決して自分を外へ現わすことを欲しない人であった。藤三郎は極端に進取的で強かったが、ことは極度に内省的で優しかった。藤三郎の性格は、まるで獅子のようであったが、ことのそれは、全く羊のようであった。藤三郎は強さに徹底していたが、ことも、また弱さに徹底していたから、両極端は一致するように、家庭的には、まことに工合よく行っていた。ことの弱さに徹底した態度-性格的な無我の忍従は、『柳に雪折れなし』というように、一種の強さにまでなっていた。東京へ出て来た当時のこと、癇の強い児であったみつは、よく夜になると泣いて眠らなかった。ようやく負ぶって寝かしつけても、床に入れると、すぐ眼を覚まして泣き叫んだ。そのころ、新工場の指図や、機械のくふうや、砂糖精製法の研究やで、ほとんど連日、眠る暇もないほど忙しい藤三郎の思考や休息を妨げることを恐れて、ことはいく月もの間、毎晩のように、みつを背に負ぶったままで夜を明かした。ある時、藤三郎が、「おれは、このごろ、月のうちで、夜は15日と眠ったことはない。」というと、ことが、「私も夜なんか、このごろでは、半月はおろか、ひと月まるで眠りはしません。」といって笑った。「あの時分は、若かったとはいいながら、朝、お父さんが仕事に出かけられたあとで、一、二時間横になるだけだったが、よく続いたものだった。」と、ことは老年になってから、子供達に時々そんな思い出話をして聞かせた。ことはごく小柄ではあるが、病気を全く知らなかった。ある保険会社から、「あなたなら、何万円の保険でも引受けます」と、いわれたこともあったくらいに丈夫だった。しかし、これは、当時、藤三郎をはじめ家族から社員に至るまで、いかに緊張していたかを物語るものである。ことが後妻として嫁入りして来たのは、藤三郎が33歳の時で、東京へ工場を移転する際であった。当時、郷里では、藤三郎は、もう偉ら者といわれていた。東京へ出て来たからの彼の名声は、飛躍的に発展した。10年ほどの間に、『森町の鈴木』からから『日本の鈴木』になってしまった。それだけに、事業、事業、事業と、明けても暮れても事業に追われ通したと藤三郎は、家庭を顧みる暇がなかった。彼には、自分と同じような社会人として、妻を教育している暇もなければ、ことはまた、自分から社会に飛び出して行って、そうした訓練を、摂取して、自主的に社会人として成長してゆくというような性格ではなかった。藤三郎が『日本の鈴木』となっても、ことはヤッパリ『森町の質屋の娘こと』であった。そのことを自覚し、その運命に忍従していた彼女は、藤三郎が社会的に進出すればするほど、自分の不つつかのために、夫の名声を少しでも傷つけては申し訳ないという心遣いから、いよいよ家庭の奥深くひっこんでしまった。結婚当初からそうした環境におかれたので、ことが藤三郎を愛する気持は、非常に深いものであったけれども。家庭生活では愛するというよりは、畏敬するという形になって現われていた。たとえば食事などでも、藤三郎は広い座敷で、ことの給仕で晩酌をやりながらひとりで食べた。晩酌は一本ときまっていた。彼の膳には、川向こうの『釜長(かまちょう)』という料理屋から取り寄せた物がのった。今の夫の口に合うようなものは、自分には造れない。ことはアッサリと、そう思い込んでしまっていた。外から帰った藤三郎は、古風ではあったが、立派な車寄せに式台の付いている表玄関から上がって、長い畳廊下を通って裏の座敷へ行く。子供達は、内玄関から入って、反対側の板廊下を通って、それぞれの部屋へ行く。こんな訳だから、同じ家に住んでいても、子供達が父と顔を会わせる機会は、ほとんどなかった。また、子供達が父といっしょに食事をするということは、正月の元日の朝、紋付羽織に袴で座敷に四角くすわらされて、藤三郎が洋行から帰ったときに感謝慰労の記念品として、日本精製糖会社から贈られた三つ組の金杯で、お屠蘇(とそ)を祝うときだけだった。こんなに父との接触が薄かったから、子供達は父の前に出ると、何か改まった気持になった。それに、相当な年配の社員達が呼びつけられて、激しい語調で頭から叱責されているところなどを、時々かいま見るものだから、自分達も、何か失策をして叱られはしまいかと、父の前にいる間はビクビクしていた。こんな調子だから子供達はみんな、父はこわいものだと思っていた。よその子供が、その父に甘えているのを見ると、不思議に思えた。そして「父」という神聖な存在を冒涜しているように思って、そうした家庭を軽蔑するような気にさえなった。藤三郎は絶対者であり、タブーである。これは、家庭内で妻や子供達が思いこんでいたばかりでなく、彼の事業に、部下として従事していた人々全部の信仰であった。人々は、これを疑いもしなければ、これに不満もなかった。自分達の考えや力は、とうてい、藤三郎のそれに及ぶものではない。自分達は、ただ彼の命のままに無条件に従うことが、最上の道であるのだ。船が、どこへ行くのかというようなことは、考える必要はない。自分達は、命じられた部署を正直に守っていたら、船は藤三郎という名船長が、もっとも安全に、もっともすみやかに、そして、もっともいい港に舵を取って連れて行ってくれるのだ。この十数年間の実績は、みんなに、それを思わせるに十分であった。それであるから、ことに郷里からついて来た人々にとっては、そうした考えは信仰そのものになっていた。人心を統制して、まっしぐらに事業を進行してゆく上には、全体の上に、そうした信念がゆきわたっているということは、有効であった。それがあったから、藤三郎の事業は驚異的に伸びた。驚異的に伸びたから、益々その信仰は強まった。そして、その信仰を無条件で受け入れて、絶対的帰依者となっていたのが、ことと子供達-藤三郎の家族であった。藤三郎の事業も、ようやく第一の峰は、頂にまで登りついた。今までは、頂上へという気持が一杯で、周囲を顧みる余裕もなかったが、頂上へ登りついて見ると、自然に周囲を眺める気にもなる。藤三郎が、自分の周囲を振り返って見たときに、そこには、自分を神のように信じ、敬い畏れてくれる妻や子供はあったけれども、自分を人間として甘え抱いてくれる家族はなかった。それは、もうびんに白髪の見え初めた藤三郎としては、寂しくも物足りなくも思ったに違いない。しかし、いまさら、そうした雰囲気を家庭内に作るには、あまりに家族の間にスパルタ的教育が浸透し過ぎている。藤三郎からそう仕向けるには、あまりに奉られ過ぎている立場上、ややテレ臭いし、ことからそうさせるには、あまりに母性型でありすぎる。藤三郎は自分の心に余裕ができてみると、もう少しくつろげる場所が欲しくなった。これは女性から見れば、男性の横暴かもしれない。しかし、人間性としては、無理のない欲求だともいえるのではあるまいか?そこへ、32歳、女盛りのおしげの爪の先まで磨き上げた白い手が、しなやかに伸びて来たのである。それに、もう一つ具体的な理由があった。それは藤三郎も、今では製糖王といわれるくらいな実業家になった。したがって社会的な交渉も多くなり、人との応接もしげくなった。元老の井上伯とも膝を交えて語りもすれば、三井物産の専務理事の益田孝の訪問を受けることもある。日本精製糖の仕事だけのうちは、砂村に住んでいても、用は足りたが、台湾製糖まで引き受けるとなると、そうはいかない。当時は、東京でも交通機関といえば、自動車はもとより電車もまだなく、ようやく中心部だけ鉄道馬車があったという時代だから、砂村などへは人力車よりほかに乗物はなかった。藤三郎は車の上で安心して考えごとのできるようにといって、いつも綱ひきをつけた二人びきの人力車を用いていたが、それでも砂村から日本橋まで行けば、往復するだけに3時間はかかった。これでは、仕事が出来るはずがない。自分のためにも、人の訪問を受けるためにも、どうしても東京市内に住む必要が起ってきた。 しかし、本宅を砂村から移転することは、なかなか急にできることでもないし、また移転すれば、たださえ自分が台湾製糖に関係することで、日本精製糖のほうがおろそかにしないかと、不安がっている人々の疑惑を、さらに増すことになる。また、一方、それらの懸念を無視して移転しても、極度に内気な性格のことに、頻繁に出入りする社会的地位の高い人々の接待をさせるとことは、どう考えても無理である。その点からは、市内に控家を持って、だれかに、それを任すよりほかに仕方がない。そこへ、後藤伯の愛妾として、また花屋の女将として、どんな高位高官でも富豪紳商でも扱い慣れている、おしげが出現したのである。だから、これを世話して、それらのことを任せるということは、事実上やむをえない一つの必要事として、藤三郎自身にも、内心の道徳的非難に対する、大きな自己弁護となったことだろう。そうした気持は、十分に想像もできるし同情もできる。彼は中洲の箱崎町に、中村棟梁の手で家を造らせて、おしげを住まわせ、自分も月の大半は、そこで暮すようになった。また訪客には、すべてそこで会っていた。 当時は、婦人の人格というようなものは、まだまるで無視されていたといってもよい時代であった。ことに実業家の私的生活は、全くルーズなものであった。藤三郎くらいの地位になれば、妻以外の婦人を、一人や二人世話することは当然のこととして、だれも不思議とも思わなかった。実業界の神様のようにいわれた人で、自分も口を開けば孔孟の道を得意としていたような老人でさえ、その私生活では、そうした婦人を3,4人も持っていた。それで一代の人格者とたたえられて、自他ともに怪しまなかった時代である。だから、今まで藤三郎が、あの地位で、あの若さで、浮いた噂一つなかったということは、感心されるよりは、むしろ変り者扱いされていた位のものであった。
2025.10.10
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31「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著183~186ページ 井上馨と後藤新平 台湾製糖会社の事業目論見書は、前にも書いた通り総督府技師の山田?(ひろし)の意見に基づいたものが、製糖原料の甘蔗は、すべて農民から買入れる予定だった。したがって会社としては、耕地は一坪も所有しないことになっていた。ところが、藤三郎が実地に視察して来た結果、耕地を今のうちに所有しておくほうが、会社の将来のためであると考えて、創立総会でも、その意見を述べたものであった。また、井上馨にも、このことを報告したところ、井上も大賛成で、「それでは、土地を買入れる資金が、新たにいる訳だから、予定より早く、第二回の払込みをさせなければなるまい。至急に大株主を開いて、その了解をうるようにしなさい。わしも出席して、助言してあげよう」といった。それで、創立総会から1か月も経たない明治34年(1901年)1月5日の午後1時から、三井集会所で大株主会を開いて、このことを懇談することになった。それには、井上と台湾民政長官の後藤新平も特に出席した。 この『台湾製糖株式会社・特別株主総会』の司会は、例によって益田孝がした。彼は、こういう会合には慣れ切った物柔かな態度で立ち上がると、こういった。「諸君、今日は、当会社の協議会でありまして、100株以上の大株主だけにお集まり願った次第でありますが、便宜上、鈴木氏に会長となっていただいては、いかがでしょうか?」「賛成・・・・賛成・・・・。」の声が、二、三人の口から勢いよく呼ばれた。「どうぞ・・・・。」益田に、こういわれて、藤三郎が立った。そして、会長席に進んで、一礼した。彼は、井上や後藤のような高位高官の前で話しをするのは初めてなので、少し固くなった調子で、こう口を切った。「今日、大株主諸君に御来会を願いました主旨を申し述べます。元来、当会社の発起した当時のもくろみは、まず最初は工場と機械だけを設置いたしまして、原料の甘蔗は本島人から買入れて営業をする見込みでありました。ところが、先ごろ、私がかの地に参りまして実地に踏査いたしました結果、甘蔗の耕作をするのには、種子や肥料などに大いに改良を加える必要を悟ったのであります。しかし、この改良をするのには十分の施設がいります。それには、とうてい、他人の事業に、会社が干渉するだけでは効を奏することができません。それで、会社自身が、まず地主となって、本島人を小作人として、これに適当の方法を教えてこそ、初めてこの目的を達することができるでございましょう。私は、そうした考えの下に、工場に適当な場所を地として2か所を選定いたしました。一は曾文渓、一は橋仔頭であります。この地は、将来事業を拡張いたしますのに、至急有望の土地でありますから、今日、この付近に耕地を買入れておくことは、会社のために利益であろうと存じます。その概略は、創立総会のおりの調査報告中にも申し述べておきましたが、なお今日は、このことにつきまして、とくと御協議を申し上げたいのでございます。これにつきましては、井上伯爵下にも、御意見のあることを承りましたから、ただ今から閣下の御意見を、お聞かせ下さるようにお願い申し上げます。」 藤三郎は、こういうと、井上馨の前にいって、「どうぞ・・・・。」と、低く頭を下げた。井上は、「ふむ・・・・。」と、軽くうなづくと、いかにも大政治家らしいゆったりとした態度で、演壇に立った。そして、幕末維新のころにはいくたびか白刃の下を潜って、その傷あとがまざまざと眼尻や下あごのあたりに残っていて、『ひと癖ある面魂(つらだましい)』という言葉がピッタリする顔で、じっと一同を見わたした。その気魄に押されて、一座は水を打ったようになった。井上は、しばらく考えていたが、やがて静かな口調で語り出した。「諸君、私は当会社の株主でもなく、また役員でもないのであるから、本日、当社の大株主の協議会の席上で、当社の利害について、とやかく、申す必要はないようであります。しかし、最初、当会社の発起人諸君に向かって、この事業の有望なことを申し述べたことでもあり、また、これを大にしては、わが国の経済上に大関係を有する事業であるから、ぜひとも成功させたいものと希望しております。それで、いろいろの点について大いに勧告したこともあるから、徳義上、当社の成立した上は、本来の希望などについて、いささか考えていることを、本日、この席上でひと通り申し上げてみようと思うのであります。 およそ人間の生活程度が進むに従って、日常消費する物も、また増加するということは免れないことであるが、中でも飲食物中の砂糖のごときは、1か年の消費額が優に3,000万円前後になっておる。そのうち、およそ2,000万円ばかりは外国から輸入された物である。また卵のような物でも、実に100万円ばかり輸入しておる。これらを、ことごとく内地で消費しておるのであるが、まことに驚くべき現象と申さなければならない。 また、その上に、日本人は旧来の習慣として、藩政時代から上下ともに紙幣を便宜とする習慣があって、今日の兌換紙幣が危険に陥りはしまいかというようなことを、心配する者はほとんどないと申してもよいのである。 ここにある年々の輸出入の表を見ると、さる28,9年以来、常に輸出品の増加は僅少であるのに、輸入品は急激な増加をしておる。昨年来の輸出入の差、すなわち輸入超過額は1,322万5千円余であるのに、日本銀行の引換準備金額は金6千6,700万円に過ぎない。これでは、もし将来も依然として輸入超過が続くものとすれば、ついに兌換紙幣は不換紙幣となって、札の購買力は無くなるようなことにもなろう。実に心配に堪えない次第であります。それであるから、このように正金が海外に流出するのを防ぐには、内地の生産事業を極力奨励し発達させて、輸入品を内地で製造するよりほかに良策はないと考えるのである。」 わが国の政治の中枢にいて、日ごろ、国家の前途について頭を悩ましていた井上としては、ここでもわが国の財政の弱点と、その救済の根本策とから説き出さない訳にはいかなかった。そして、いよいよ本論に入った。
2025.10.11
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報徳記 巻之六【8】草野正辰先生に謁し國家の政體を問ふ その2[報徳記&二宮翁夜話] 197「安居院庄七と鷲山恭平」を本年2月出版しました。本書は安居院庄七の生誕地・秦野市及び足柄上郡各町の教育委員会を通して、秦野市立図書館・同公民館図書室・全小学校・中学校に寄贈し、図書館・公民館図書室では「貸出中」となっています。神奈川県では伊勢原市、相模原市、平塚市、藤沢市、松田町等の各図書館で閲覧できます。 また安居院庄七が主に報徳活動を行った遠州各地の図書館でも多く所蔵されています。終焉の地、浜松市の全図書館にも寄贈し、浜松市立中央図書館と11の図書館で貸出ができます。静岡県内では御殿場市、富士宮市、沼津市、袋井市、湖西市、森町の各図書館で閲覧できます。また東京都立図書館の蔵書にもなっております。 なお「安居院庄七と鷲山恭平」の本は、大日本報徳社で販売しています。報徳記 巻之六【8】草野正辰先生に謁し國家の政體を問ふ その2草野は言った。「誠に先生の教えは、古今の仁道です。政を行うにこの本源を失わなければ、国家の永安は疑いありません。領中数千町歩の荒地を開く方法はどのようにすればよいでしょうか。」先生曰く「およそ細を積んで大をなし、微を積んで広大に至るのが自然の道です。たとえば天下の耕田のようなものです。幾億万町とあっても、春は耕し、秋は収穫し、一畝(うね)の余すことがないのはなぜでしょう。他でもありません。一鍬(しゅう:くわ)を重ねて、もって耕し、一鎌(けん:かま)を重ねてもって刈り怠らないからです。いわんや荒地を一鍬(しゅう)を積んで、怠らなければ幾万の廃地であっても挙げるのに何の困難なことがありましょうか。廃地を開くのに廃地をもってする。これが開田の道です。」草野が言った。「廃地をもって廃地を起こすとはどういうことでしょうか」先生は言われた。「一反(たん)の廃田を開いて、その実りを来年の開田料とします。年ごとにこのようにする時には、用財を別に費消することなく何万の廃田であっても開きつくすことができるでしょう。」家老(草野)は大いに感動して、先生の教示のかたじけなさを感謝して帰った。家老(草野)は、退出して感嘆して言った。「私は、壮年から極老に至るまで国家を再興し、百姓を安じようとし、身命をなげうち、肺肝を尽くしてきたが、志が達成しないで終ってしまうことだけを歎いてきた。思わざりき、野州にかくのごとく傑出の仁者あらんとは。この人を知らないで数十年空しく心力を尽くしてきた事が残念なかぎりだ。しかし、晩年にこの人に逢rたことは私のまごころが空しくなかったところだ。私が二宮先生の道を国家(相馬藩)に開いて、その規則を立てる時は、国の再復永安の道は疑いない。そのる時は、我がたとえ倒れても始めて安んずることができよう」と心中愉快な気持ちに満たされた。草野はその時に年は既に74歳、実に世にもまれな忠臣であると人々は感嘆した。尊徳先生もまた一回面会して言った。「私は、草野が忠臣であることをかってこれを聞いていた。今、その人となりを見るに、内は誠直であり外は温和である。それだけでなく、度量は抜群であり、識見ははなはだ高い。私の言葉を、水をもって水に投ずるように貫通することもともと知っていたかのようだ。卓見ある者でなければ、どうしてこのようであろうか。この人があってて国政を執り、加うるに私の道をもってすれば、相馬の復興することは困難ではない」と歎賞された。報徳記巻之六【8】草野正辰先生に謁し國家の政體を問ふ草野曰く、誠に先生の教へ古今の仁道なり。政(せい)を行ふにこの本源を失はざれば國家(こくか)の永安疑ひなし。然して領中數(すう)千町歩(ちやうぶ)の荒地を開かんこと其(そ)の道如何(いかん)。先生曰く、凡(およ)そ細(さい)を積みて大をなし、微(び)を積みて廣大(くわうだい)に至るもの自然の道なり。譬(たと)へば天下の耕田の如し。幾億萬町(いくおくまんちょう)といへども春耕(しゆんかう)秋収(しうしう)一畝(そ)の餘(あま)すことなき者何ぞや。他(た)なし。一鍬(しう)を重ねて以て耕し一鎌(けん)を重ねて以て苅(か)り怠らざるに在る而已(のみ)。況(いは)んや荒蕪(くわうぶ)の地一鍬(しう)を積みて怠らざれば、幾萬(いくまん)の廢地(はいち)といへども之を擧(あ)ぐるに何の難きこと之あらん。廢地(はいち)を開くに廢地(はいち)を以てす。是れ開田の道なり。 曰く、廢地(はいち)を以て廢地(はいち)を起すとは何ぞや。曰く、一反(たん)の廢田(はいでん)を開き其の實(みのり)を以て來歳の開田料となし、年毎に此の如くする時は、用財別に費(ついえ)ずして何萬(まん)の廢田(はいでん)も開き盡(つく)すべし。大夫大いに感じ教示(けうし)の忝(たかじけな)きを謝して歸(かへ)る。大夫退きて歎じて曰く、我壮年より極老(きよくらう)に至るまで國家(こくか)を再興し百姓を安ぜんとし、身命をナゲウち肺肝(はいかん)を盡(つく)すと雖も、志(こころざし)の達せずして終んことを而已(のみ)歎(なげ)きたり。思はざりき野州に此の如く傑出の仁者有らんとは。此の人を知らずして數(すう)十年空しく心力を勞(らう)せる事、遺憾(いかん)の至りといふべし。然れども晩年此の人に逢(あ)ふこと我が赤心(せきしん)空しからざる所なり。我先生の道を國家に開き其の規則を立つる時は國(くに)の再復永安の道疑いなし。然る時は我斃(たふ)るゝとも始めて安んずることを得んと心中快然(くわいぜん)たり。時に年既に七十有四、實に希世の忠臣なりと人々之を感じたり。先生も亦一面して曰く。我、草野の忠臣たること嘗(かつ)て之を聞けり。今、其の人となりを見るに、内誠直にして外温和なり。加之(しかのみならず)度量抜出識見甚だ遠し。我が言、水を以て水に投ずるが如く貫通すること元より知るものゝ如し。卓見あるにあらずんば、何ぞ能く此の如くならんや。此の人有りて國政を執り、加ふるに我が道を以てせば相馬の興復せんこと、難きにあらず と歎賞せり。
2025.06.10
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195二宮翁夜話巻の2【36】私(福住正兄)が尊徳先生に帰国(小田原の温泉宿に養子となった)の暇乞いした。尊徳先生はおっしゃった、「二三男に生れる者が、他家の相続人となるというのは、則ち天命である。その身を天命として、養家に行って、その養家の身代を多少なりとも増やしたいと願うのは、人情であって、誰でも見える常の道理である。このほかにまた一つ見えがたい道理がある。他家を相続するべき道理で、他家へ養子にいく、往く時は、その家に勤むべき業がある、これを勤めるは天命通常の事である。その上に、また一段骨を折って、一層心を尽して、養父母を安んずるように、祖父母の気持ちに違わないようにと、心を用い力を尽す時には、養家において、気が安まるとか、よく行き届くとか、祖父母父母の心に、安心の場ができて養父母が歓びの心となる。これが養子である者の積徳の初めである。親を養うは子である者の常で、頑夫であっても、野人であっても養わない者はない。その養ううちに、少しでもよく父母が安心するように、気に入るようにと心力を尽す時は、父母は安心して百事をまかせるにいたる。これがその身の、この上もない徳である。養子である者が徳を積んだその報いといえよう。この理は凡人には見えがたい。これを農業の上にたとえてみると、米麦雑穀何であっても、肥しは二度やり、草は三度取るとか、およそ定まりはあっても、その外に一度も多く肥しをやり、草を取り、一途に作物の栄えのみを願って、作物の為に尽す時は、その培養のために作物が思うままに栄えるであろう。そして秋に熟するときに至るならば、願わなくても、収穫は多く、産出の多きことで自から家を潤す事は、しらずしらず疑いもないようなものだ。この理は人々家産を増殖したいと思うのと、同じ道理であるけれども、心ある者でなければ理解しがたい。これはいはゆる理解の難しい理である。二宮翁夜話巻の2【36】予暇(いとま)を乞(こ)ふて帰国せんとす。翁曰く、二三男に生るゝ者、他家の相続人となるは、則ち天命なり、其の身の天命にて、養家に行き、其の養家の身代(しんだい)を多少増殖し度(た)く願ふは、是れ人情にして、誰にも見ゆる常の道理なり。此の外に又一つ見え難き道理あり、他家を相続すべき道理にて、他家へゆく、往く時は、其家に勤むべき業あり、是を勤むるは天命通常の事なり、而して其上に、又一段骨を折り、一層心を尽し、養父母を安んずる様、祖父母の気に違(たが)はぬ様にと、心を用ひ力を尽す時は、養家に於て、気が安まるとか、能く行き届くとか、祖父母父母の心に、安心の場が出来て養父母の歓心を得る、是れ養子たる者の積徳の初なり。夫れ親を養ふは子たる者の常、頑夫といへども、野人といへども養はざる者なし、其の養ふ内に、少しも能(よ)く父母の安心する様に、気に入る様にと心力を尽す時は、父母安心して百事を任ずるに至る、是れ其の身の、此の上もなき徳なり、養子たる者の積徳の報と云ふべし。此の理凡人には見え難し、是れを農業の上に譬れば、米麦雑穀何にても、肥は二度為し、草は三度取るとか、凡そ定りはあれども、其の外に一度も多く肥しを持ち、草を去り、一途に作物の栄えのみを願ひ、作物の為に尽す時は、其の培養の為に作物思ふ儘(まま)に、栄ゆるなり、而して秋熟するに至れば、願はずして、取実(とりみ)俵数(へうすう)多く自から家を潤す事、しらずしらず疑ひなきが如し。此の理は人々家産を増殖したく思ふと、同じ道理なれども、心ある者にあらざれば解し難し。是れ所謂(いはゆる)難解(なんげ)の理なり
2025.10.02
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北川氏にノーベル化学賞 多孔性材料を開発 化学賞、6年ぶり10/8(水)スウェーデン王立科学アカデミーは8日、2025年のノーベル化学賞を極小の穴が無数に開いた「多孔性配位高分子(PCP)」を開発した北川進・京都大特別教授(74)らに授与すると発表した。 日本人のノーベル賞は6日、生理学・医学賞受賞が決まった坂口志文・大阪大特任教授(74)に続き、米国籍取得者を含め30人目。化学賞は19年、吉野彰・旭化成名誉フェロー(77)が受賞しており6年ぶり9人目となる。 授賞式は12月10日、ストックホルムで開かれる。賞金1100万スウェーデンクローナ(約1億7600万円)が、3等分で贈られる。 💛「今年のノーベル化学賞北川進さんだって!!」「誰?北川さんって?」「知らない」「さも知ってるかのように言うから…」「日本人だもの・・・それに 進 も・・・」北川進日本の無機化学者博士京都大学物質-細胞統合システム拠点長特別教授有機物と金属を組合せた多孔性材料である配位高分子を研究京都市下京区出身
2025.10.08
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194二宮翁夜話巻の3【5】矢野定直が来て、「私は今日は思いもよらず、結構なことをうかがって有り難し」と言った。尊徳先生はおっしゃった。「あなたが今の一言を忘れないで、生涯一日のようであれば、ますます貴くますます繁栄することは疑いない。あなたが今日の心を分度と定めて土台とし、この土台を踏み違えないで生涯を終るならば、仁であり忠であり孝である。その成就するところは計ることができない。おおよそ、人々は事が成るに当たってすぐに過ってしまうのは結構におおせられたというのを当たり前のように思ってしまい、その結構を土台として、踏み行うためである。その始めの違いはこのとおりである。その末は千里の違いとなることは必然である。人々の身代もまた同じだ。分限の外に入ってくる物を、分内に入れないで、別に貯へ置く時は、臨時の物入りや不慮の入用などに、差しつかえるという事は無いものだ。また売買の道も、分外の利益を分外として、分内に入れなければ、分外の損失は無いであろう。分外の損というのは、分外の益を分内に入れるからである。だから私の道は分度を定めることをもって大本とするは、このためである、分度が一たび定まるならば、譲り施こす徳が積み重なって、勤めなくても成就するであろう。あなたが今日は思いがけず、結構なことをうかがって有り難いという一言を生涯忘れてはならない。これが私があなたのために懇(ねんご)ろに祈るところである。二宮翁夜話巻の3【5】矢野定直来りて、僕今日存じ寄らず、結構の仰せを蒙(かうむ)り有難しと云へり。翁曰く、卿今の一言を忘れざる事、生涯一日の如くならば、益々貴く益々繁栄せん事疑あらじ、卿が今日の心を以て、分度と定めて土台とし、此の土台を蹈み違へず、生涯を終らば、仁なり忠なり孝なり、其成る処(ところ)計(はか)るべからず。大凡(おほよ)そ人々事就(な)りて、忽ち過(あやま)つは結構に仰せ付けられたるを、有り内の事にして、其の結構を土台として、踏み行ふが故なり、其の始めの違ひ此の如し、其の末千里の違ひに至る必然なり。人々の身代も又同じ、分限の外に入る物を、分内に入れずして、別に貯へ置く時は、臨時物入不慮(いりふりよ)の入用(にふよう)などに、差支へると云ふ事は無き物なり。又売買の道も、分外の利益を分外として、分内に入れざれば、分外の損失は無かるべし、分外の損と云ふは、分外の益を分内に入るればなり。故に我道は分度を定むるを以て、大本とするは、是を以てなり。分度一たび定らば、譲施の徳功、勤めずして成るべし。卿(きみ)今日存じ寄らず、結構に仰付(おほせつ)けられ有難しとの一言、生涯忘る事勿れ、是れ予が卿の為に懇祈(こんき)する処なり。
2025.10.09
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ノーベル経済学賞に米大教授ら3氏、技術革新と成長の研究スウェーデンの王立科学アカデミーは10月13日、2025年のノーベル経済学賞をジョエル・モキイア氏、フィリップ・アギオン氏、ピーター・ホーウィット氏の3人に授与すると発表した。「イノベーション(技術革新)主導の経済成長の解明」が授賞理由。「3氏は、持続的な成長を当たり前と考えてはならないことを教えてくれた」と述べた。「人類の歴史の大半は、成長ではなく経済停滞が常態化していた。彼らの研究は、成長継続に対する脅威を認識し、それに対処しなければならないことを示している」とした。モキイア氏は、米ノースウェスタン大学の教授。アギオン氏は仏コレージュ・ド・フランス、INSEAD、英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の教授。ホーウィット氏は米ブラウン大学の教授。ノーベル委員会のジョン・ハスラー委員は、「モキイア氏は、イノベーションに基づく持続的な成長に必要な要因を、歴史的な観察から明らかにした」と述べ、「アギオン、ホーウィット両氏は、新しく優れた製品が古い製品に取って代わる終わりなきプロセスである創造的破壊の数学的モデルを生み出した」とした。賞金は1100万スウェーデンクローナ(120万ドル)。半分がモキイア氏に授与され、残り半分をアギオン氏とホーウィット氏が分け合う。〇モキール教授は、「長期的な持続的成長を可能にした社会的・文化的前提条件」を明らかにした。アギオン&ハウィット教授は、「創造的破壊(creative destruction)による持続的成長理論」を体系化した。過去200年間、世界はかつてないほどの経済成長を経験してきました。その基盤は、絶え間ない技術革新の流れにあります。新しい技術が古い技術を置き換える「創造的破壊(creative destruction)」の過程によって、持続的な成長が生まれるのです。今年の経済学賞受賞者たちは、この現象がなぜ可能になったのか、そして今後も持続的成長を続けるために何が必要なのかを、異なるアプローチで説明しました。モキールの理論:「技術進歩を支える社会の土壌」ジョエル・モキールは経済史の専門家で、産業革命を中心に「技術が社会に広がる条件」を研究してきました。🔹 主な主張経済成長の鍵は知識と技術の蓄積にある。そのためには「知識を共有し、革新を奨励する文化」が必要。特に17~18世紀ヨーロッパで広がった「科学的思考・実験精神・発明家ネットワーク」が、産業革命を引き起こした基盤になった。🔹 一般的なたとえたとえば、同じ発明があっても「それを奨励する社会」と「抑える社会」では結果がまったく違います。モキールは、「技術の種を育てる“土壌”」が成長を決めると説明しました。持続的な経済成長を生み出すものは何でしょうか?今年の受賞者たちは、この問いに答えるために異なる方法を用いました。経済史における研究を通じて、2025年のノーベル経済学賞を受賞したジョエル・モキールは、有用な知識の継続的な流れが不可欠であることを実証しました。この有用な知識には2つの部分があります。第一は、モキールが命題的知識と呼ぶもので、何かがなぜ機能するかを示す自然界の規則性についての体系的な記述です。第二は、処方的知識であり、何かを機能させるために必要なことを説明する実用的な指示、図面、またはレシピなどです。モキールは、持続的成長が新たな常態となった原因を明らかにする手段の一つとして、歴史的資料を用いました。彼は、イノベーションが自己生成的なプロセスで次々と成功するためには、何かが機能することを知るだけでなく、なぜそうなるのかという科学的説明も必要であることを実証しました。後者は産業革命以前にはしばしば欠けており、そのため新しい発見や発明を基盤として積み重ねることが困難でした。彼はまた、社会が新しいアイデアに対して開かれ、変化を許容することの重要性も強調しました。アギオン&ハウィットの理論:「創造的破壊モデル」2人は、経済成長のエンジンを「イノベーションによる創造的破壊(creative destruction)」として数学的にモデル化しました。この理論は、経済学では「Aghion–Howitt model(内生的成長理論)」として非常に有名です。新しい企業や技術が登場すると、古い企業や技術は淘汰される(=破壊)。しかし、その「破壊」が新しい価値と雇用を生み出し、経済全体を押し上げる力になる(=創造)。この連鎖が続くことで、経済は停滞せず「持続的に成長」する。🔹 数式より簡単に言うと…経済成長 = (イノベーション × 競争 × 再挑戦)競争があるからこそ企業は新しい発明を目指し、その発明が社会全体の生産性を引き上げるという好循環が生まれる、という考え方です。
2025.10.13
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