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「ユマニチュード」という革命p.138 講演の際に、認知症高齢者へのケアを撮影した資料映像を見てもらいます。最初は音声だけを流すのですが、女性はひたすら絶叫し、「やめてくれ」と言っています。これまで多くの看護師・介護士に同じ質問をしました。「何をしているところだと思いますか?」そう尋ねると、間違いなく、「拷問です」といった答えが返ってきます。 今度は映像も流します。実は看護師がシャワーのケアをしているのです。続けて「あなたが看護師でないと仮定して、この光景を見たら、何をしているところだと思いますか?」と尋ねると、ほとんどの人がこの行為を「暴力」や「虐待」といった語を用いて表現します。 ケアをする人は意図的に拷問しているわけではありません。けれども、この高齢の女性にとっては自分が殺されかけているとしか思えないのです。それが彼女の現実です。ケアをする人は、自分の子供や家族に、「私はこういう仕事をしています」と誇らしくこの映像を見せることができるでしょうか。おそらくは躊躇するでしょう。しかしながら、この映像のような場面は、病院や介護施設では非常にありふれた光景です。 ケアをする人は、拷問を加え、虐待する人であってはなりません。こういうことが起こらないようにするには、「ケアをする人とは何者か」を定義する必要があります。私たちの仕事は何であり、介入する範囲はどこまでか。ユマニチュードの哲学は、その質問に答えようとします。 ケアをする人とは、職業人であり、健康に問題がある人に次のことを行います。 レベル1 回復を目指す レベル2 現在の機能を保つ レベル3 上のいずれもできないときは最期までそばに寄り添う まずレベル1の「回復を目指す」です。たとえば、あなたは肺炎と診断されました。医師が薬を処方します。幸いなことに、あなたの肺炎は治りました。ここで行われたケアは、あなtの健康が改善することを目指す、これはレベル1のケアです。 次のレベル2の「現在の機能を保つ」ケア。脳梗塞で右半身が麻痺しました。完全に前の状態に戻すことは不可能です。しかし、右半身の麻痺があるからといって、ベッドに寝たきりになると、今は問題がない左半身が筋力を失い、立てなくなる可能性があります。そのような状態になるのを防ぎ、今ある機能をできるだけ保つために、リハビリテーションなどのケアを行います。 最後にレベル3の「最期までそばに寄り添う」ケアです。日を追うごとに症状が悪化し、健康の回復も機能も見込めないことがあります。たとえば、がんが全身に転移し、積極的な治療ができない場合です。そうなったときには、穏やかに苦痛なく過ごしてもらえるための優しさと思いやりの寄り添うケアを行います。レベル3の寄り添うケアは、亡くなる前の数か月に行われる緩和ケアに限ったものではありません。5年や10年寄り添うケースもあります。 ここで重要なのは、どんなに素晴らしいケアでも、本人のレベルに合っていなければ意味がないということです。腕を折ったので病院へ行きます。医師が「足のマッサージはとても気持ちがよいから、それを処方しましょう」と言ったとします。この医師が提供するケアのレベルはどうでしょうか。もちろん足のマッサージは気持ちいいでしょう。しかし、これはこのレベル3の心地よく寄り添うレベルのケアです。でも私が病院へ行くのは腕を直してもらうため、すなわちレベル1のケアが、私が必要とするケアです。本人が必要とするレベルと提供されるケアのレベルが一致していないのです。まずは相手の状態と提供しようとするケアのレベルが一致したものかどうか、そこを問わなければいけません。 私の経験では、ケアを受けている人の90%は、適切なレベルのケアを受けていません。たとえばこういうものです。本人をベッドで清拭し、そして経営栄養のチューブを本人が引き抜いてしまわないように身体抑制をします。リハビリテーションの時間になったので、リハビリ室まで車いすに乗せて運び、着いたら歩いてもらいます。リハビリが終わったら、また車いすに乗せて病棟に運び、ベッドに寝かせて縛り、すべてのケアをベッドの上で行います。 いったい歩行訓練は何の役に立つのでしょう。自分で洗面台まで歩いたりするためにするはずです。エンジンに問題のある車を修理に出したのに、エンジンには手をすけずに、洗車してピカピカに磨いて戻してくるようなものです。全然エンジンは直っていません。正しい目標設定ができていないから、そういうことが起きてしまいます。、 ベッドでの清拭を例にとりましょう。ベッドに横たわっている状態で清拭するのは、レベル3の寄り添うケアです。けれども40秒以上立てる人なら、ベッドボードにつかまってもらい、立って体を拭きます。40秒あれば、陰部を拭くことができます。拭いたら座る。立ったり座ったりすることを組みあわせて清拭をすれば、この人は寝たきりにはならなくて済みます。立位の姿勢を1分30秒ほど保つことが可能になれば、歩いて洗面所に行くための歩行介助ができます。心地よさを第一に考えて、寝たままで清拭を行うレベル3の寄り添うケアを続けていては、近い将来、この人はもう自分で立つことができなくなります。私たちはその人が現在持っている「立つ」という能力を。そうとは自覚しないまま「奪ってしまっている」ことになるのです。「相手の能力を奪ってしまう」というゴールは、レベル1「回復を目指す」、レベル2「現在の機能を保つ」、レベル3「最期までそばに寄り添う」のいずれにも属しません。 さて、この人のケアをもう少し見てみましょう。初日は立って清拭をし、2日目も同じように立って清拭を行いました。これは、昨日と同じく立って清拭を行う「機能を保つ」ためのレベル2のケアです。そこにとどまらず、3日目はベッドの周りを回って洗面台まで介助しながら歩いていきます。毎日少しずつ歩く距離を延ばすケアを行えば、これはレベル1の「回復を目指す」ケアになるのです。 かつて私が研修を行っていた施設では、約3割の入居者がベッドで清拭を受けていました。ユマニチュードをスタッフが学んだ結果、ベッドでのケアはゼロになりました。つまりスタッフが「この人に必要なケアはどのレベルか」と自分たちに問い、実践したのです。 適切なレベルのケアを行うには、ケアする人は、「いま自分が何をしているのか?」と目的意識を明確にしておかないといけません。繰り返しますが、ケアをする人とは「相手の能力を奪わない人」でもあるのです。濱口竜介「急に具合が悪くなる」カンヌ会見で“濱口メソッド”に俳優陣が感謝2026年5月17日「ドライブ・マイ・カー」でも話題を呼んだ「多言語での会話」と、“濱口メソッド”と呼ばれる「感情を排した本読み」について、濱口自身は「俳優が言葉の情報ではなく、体からあふれてくる感情の情報を使って演技ができるのではないか。俳優の集中力を非常に高めてくれるものだと期待して取り入れています」と説明。黒崎は「“濱口スペシャルメソッド”でトレーニングメニューを組んでくれて、乗っかれば自然とたどり着いている、魔法のような演出を受けたという印象でした」と述懐し、長塚も「フランス語のテキストを書き写し、書斎に貼ってその前を通るごとに黙々と読むことを日課にしました。そうやってセリフを覚え、一言一句間違えずに、そのまま、ただ声にするという。『ああ、演技というのはまだこんなにも奥深く、新しい発見があるものなんだな』と思いました」と謙虚に振り返った。日本語での演技に挑戦したエフィラは「まず『ひらがな』を読むことから習得するように言われました。大変な作業でしたが、これは単なる撮影ではなく、別の世界へ連れて行かれるような、人間としての深い経験でした」と述べる。一方、フランス語での演技に挑んだ岡本も「言語の壁を越えて、身体的・エネルギー的に『本当に通じ合えている』と感じられる瞬間が多々ありました」と手応えを口にした。
2026.09.10
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(三)その4【開爐(三)】 世界火爐闊一丈 (世界火炉闊きこと一丈)不知古鏡闊多少 (知らず古鏡闊きこと多少ぞ)落葉不禁霜後風 (落葉は禁えず霜後の風)獼猴怕寒永夜叫 (獼猴は寒を怕れて永夜に叫ぶ) ここに起こって来るものが、この差別と平等、有限と無限、凡夫と仏、悟りと迷いの交錯。悟りながら迷う。迷いながら悟る。喜びながら悲しむ。悲しみながら喜ぶ。ここに仏教の懺悔がある。「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」―だが、これも軽う聞いて、それで罪が滅びると思うていたら、それは気楽じゃ。それも間違うておる。 懺悔が真実であるならば、成仏も真実である。「もし人、懴悔せんと欲せば、端座して実相を思え」その実相とは、この差別と平等の交錯である。迷いながら悟る法、悟りながら迷う法。仏教という無限な深々とした限りのない大きな信仰は、そういうところにある。それは、一面人間の信仰であり、人間の宗教であるからー。だから「捨てはてて身はなきものと思へども雪の降る日は寒くこそあれ」風邪も引く。動悸も起こる。悩みもある。 だから、「落葉は禁(た)えず霜後の風」寒い風が吹いて来て、木の葉がパサパサと散る。差別ばかりの商量でもいかん。平等ばかりの商量でもいかん。「獼猴は寒を怕れて永夜に叫ぶ」この古鏡を猿が背負っておる。これは雪峯の会下に、作務の時に猿がギャアギャアと鳴いておる。そしてこの猿が古鏡を背負っておる。畜生が仏性を具えておる。迷いながら悟っておる。悟りながら迷っておる。そこで、寒を怕れて永夜に叫ぶ。この猿が鳴いておるという象徴は、凡夫の丸出し。古鏡そのままが猿、猿を離れて古鏡はない。これが世界火炉の闊さの参究である。火炉の参究というは、この前にあった実相般若の参究である。実相般若の真っただ中にこの差別、平等の交錯がある。これをここに火炉と詠われた。 それから「雪」。
2026.09.10
下石田村報徳連中議定下書では「三河の藤川宿菱屋長右衛門方で談話したとき、長右衛門が言うには、遠州浜松に住む下石田村に神谷与平次という信仰に厚い者がいる。我らを定宿にし、よく知っている方ですから、立ち寄られて相談されたら、あなた様のご志願が成就し、遠州方面に広めるようになるでしょうと話した。そこで二先生は神谷与平次方を尋ねていき、志願の旨を話し、二宮金次郎様がお始めになった報徳の説明をした。よくよく聴聞し、人道の大本であると感服した。そこで両人にお伴して、伊勢太神宮の神楽を執行に行き、神前で報徳の善非、当村で取り行ってよいか、くじを願ったところ、奇なるかな、善なるかな、大吉のみくじが出て、いよいよ決心憤発し、帰路共に説明を聞いて、再度私宅へ同伴され、自ら親しい者を招いて説明されたところ、一同恐れ服して報徳の心の不動の者たちが結集して、報徳の教えに随従する義定書を差出して、天道人道の正理・大本に基いて本業余行怠慢無く勤め、驕奢弊風を省いて余財を積み立て、報徳善種金と名付け、窮民を救助すると発願し、弘化四年から安政三年まですでに十か年に及んで、ますます人心は厚くし、いよいよもって有難い次第、子々孫々に至るまで忘れてはならない。」(「静岡県史資料編15」九八〇‐九八三頁)「報徳社の元祖 下石田村報徳社の由来」(「大日本報徳学友会報第五十九号」) そもそも当報徳社の発端は、相州大住郡蓑毛村安居院庄七殿、浅田勇次郎殿の両人、普く万人のため、伊勢皇大神宮太々講厚く御世話なされ、休泊取定め置き諸国御取弘め遊ばされ候処、惜しいかな、遠州において知人なく、為に取弘め候義相成らず候段、三州藤川宿菱屋長右衛門に向い物語られしにより、長右衛門答えて言う。遠州浜松住下石田村神谷与平治と申す信者あり。伊勢両宮参拝のため長上講と称し、我ら定宿仰せ付けられ、知音のお方に候えば、彼方に訪問ご相談遊ばされなば、ご志願たる遠州筋取り弘めの義成功致し申すべき由を陳述ありしを以て、両氏大いに喜び、弘化元年、当村神谷与平治方へご訪問、段々ご志願の旨趣御頼談これ有り。御滞在中相州足柄上郡栢山村二宮金次郎先生、ご発起有られ候報徳善種のご理解これ有り聴聞仕り候処、いずれも人道の大本にて大いに感服仕り随気少なからず候。然る処、両先生共、相州御帰路の事故、来春を約して同家を辞し帰途に就かる。その翌弘化四丁未年早春、両先生共再び同家を訪問せらる。前回同様ご講話を拝聴しなお感佩し、直ちに長男丑太郎君をして両先生に随伴致させ、伊勢皇大神宮太々講御神楽執行に罷り出、奏楽を了して後、御神前において、報徳の道当国に施行の善否御くじを伺い奉りしに、奇なるかな、善なるかな、大吉の御くじを得たるを以て、丑太郎君大いに喜び欣喜置くあたわず、両氏に請い私宅へ御同伴仕り、村内同志の者を集め、二宮先生報徳の旨ご理解拝聴致させ候処、一同感服仕り、ここにおいて熱心不動の者僅かに取り結び、善門に随従し、いよいよ天道人道の大本に基づき、本業余業怠る無く勤行致し、驕奢を省き弊風を改め、余財を積み報徳善種金と称し、窮民撫育致すべき段前約致し、弘化化四丁未年三月、勤行義連印帳を作り、記名調印して一社を設立す。その時与平治森之歌を詠じて曰く 花さかは蕾のうちに気をつけよさくとおもへばちると思へよ と、これを当社の創始とす。
2026.09.10
「相馬市史6資料編3近世2」八―二三に、岩子村の村長渡部才兵衛が御仕法に深く感動して、米四十俵を仕法の資金へと上納し、生活に分度をもうけ、年々有余を推譲いたしますので他の困窮の家々を復興してくださいと申し立てたので、報徳役所が「推譲米無利五ヶ年賦貸附報徳米附雛形」を六十年分組み立てた書付に、誠明先生(二宮尊徳)の教えを再述し丁寧に記す。相馬仕法において仕法の趣意がどのように伝えられたかを知る上で興味深い。「推譲米無利足五ケ年賦貸付報徳米附雛形(現代語訳のこころみ)誠明先生(二宮尊徳)の至教に基いて、一村平均中庸の教えによって、家株の分限を改正し、分外の田畑作徳米15俵を、永久推譲米と定めて、別冊に調査してやったところ、なおまた先生の至教に基いて、推譲米無利5か年賦繰返貸付報徳冥加米附雛形を組み立てたところ、60か年の貸付高は3万2540俵、幾百家、幾千人の困苦を除いて推譲元米900俵が備わり、報徳冥加米6508俵と増しましたのは、前に記したとおりです。 先生の教えにいう。「無利足の功徳は、なお太陽が国土を照し、観音菩薩が衆生の苦悩を除き、無量の福徳を与えるようなものである」と、そもそも太陽は世界を観じて、もろもろの苦悩を消え除いて、もろもろの福徳を与える、衰村の貧民は、借財があるとば、利足や諸雑費の苦しみがある。質地があれば、収穫の不足の苦しみがある、家株が不足であれば、食糧が不足するという苦しみがある。家が破れ屋根が破れれば、風・雨・雪の苦しみがある、衣食が不足すれば、餓えや寒さの苦しみがある。農具や肥料がなければ、作柄が悪くなり収穫が不足する苦しみがある。農馬がなければ、しろかきはもちろん、重荷を背負わなければならない苦しみがある、家財がなければ、万事不自由の苦しみがある。それぞれその苦しむところを観察して、無利五か年賦に貸し渡す時には、あるいは借財を償い、利足が出て廃れる利益を生じ、あるいは質地を受戻し、収穫の利益を生じ、家株を得るならば、暮し方にいくらかの利益を生じ、家小屋の修繕ができれば、風雨をしのぎ、また業務に勤め安楽となる利益を生じ、農馬を得るならば諸物を運送する利益を生じ、家財を得るならば日用自在の利益を生じ、おのおのその憂苦するところを免れて、その利益を得て、仰いで父母を養い、俯しては妻子を育て、一家安心相続の道が立つ。60年循環するに及んでは、極難貧者幾百、家の生産を安らかにし、もし永久取り行った時には、循環して極りなく、幾億万家の貧苦を除いて、幾憶万人の相続させ、永安を得ること極りがない。実に先生は日月の行く道に同じく、観音菩薩の無量の功徳に等しいとおっしゃったのも、またその通りではないか、人倫の道は、何かこれに加えるものがあろうか、よって先生の至教に基いて、文学や計算もできない女、子どもたちにものみやすいように、前に書いた雛形を組み立て、無利足の大徳を顕わしおきた条、才兵衛の子々孫々に至るまで、慎んで遵奉し、分限を堅く守って、余米を年々推し譲り、雛形の通りに取り行うように、以上 文久元辛酉年正月 報徳役所 岩子村 渡部太四郎殿、才兵衛殿、太右衛門殿 親類 小野田庄三郎殿 子孫、親類 中再述する経に曰く、願わくはこの功徳をもって一切に施し及ぼし同じく菩提心をおこし、安楽国に往生はせんことを先生はこれを解して言われた、「この無利足米を以て、一切の貧者に貸し与え、貧者が返納の志をおこすならば、貧富ともに永安の至楽を得る」とおっしゃられた。富めるものは、数千万余を積んでも、更に足ることを知らない、有るが上にも願い求めて、利欲に迷い、高利を貪って、他の者を省りみないで、己れ一人の奢りに長じて、無慈悲の所行に陥って、遂に一家の滅亡の禍いとなり、貧しいものは、家業を怠って、他の財を借りて、元利返済の道を失い、いったんは借用して、困苦を補って、助った恩義を忘れ、遂に祖先以来の家株の退転となる、このように貧富共に、道を失って、利を失って、禍いを招くものは、凡情の通患である。先生はこれを「富驕惰弱の二弊」とし、「富めるものは自然の分度に止まり、贅沢の弊害を省みて、有余を生じ、貧者に譲り施して、貧しいものは怠惰の弊害を改めて、勤労してその徳に報いて、貧富が互いに和す時は、財宝はその間に生じて、貧富ともに永安の地に至る」とおっしゃった。才兵衛、このたび一村平均、中庸の天分に止まって、驕奢を戒め、倹約を守り、年々米15俵の有余を生じ、推譲した。その誠意の米穀は、得難い奇特な行いというべきだ。これを借用するものは、一粒といえども如意宝珠のように尊敬し、それぞれ不足を補って、貧苦を免れて、5か年賦に返納するならば、年2割の利足に当り、もともと助成に預っているのと同様である、一家の暮方が整った上は、その恩義を理解しなければならない。恩を受けて恩を報じないのは、人ではない、父母の恩を報じる、これを孝という、君の恩を報じる、これを忠という、もとより才兵衛、報恩謝徳のために、差し出した推譲米につき、借用の面々は年賦を皆済した後に、冥加米を納めることはもちろん、そのほか才兵衛の勤労・倹約、推譲にのっとって、分度をわきまえ、暮し方中庸の節度を立てて、天分に止まり、驕奢を戒め、倹約を守り、年々有余を生じて推し譲り、これまた前に書いた雛形の通りに取り行わなくてはならない。先生は「常に分外の有余を推し譲り、無利足に貸し出すものを称して菩薩界とされた。借用して助かるものを称して衆生とされた。そして衆生であって、困苦のために無利足の米財を借用して助り、年賦を返納する時には、返納米は即ち他の貧者に循環して、諸々の艱苦を除くために、一たび年賦を納めるものは、たちまち衆生を出離して、菩薩界に入る」と教えられた。そうであれこの推譲米を借用して、一家の暮方を整え、才兵衛同様に、天分に止まり、余米を推し譲る分は、共に天地と功を同くして、観音菩薩と経を同くするに至るであろう。才兵衛一人がこの道を行うことですら、一周度(60年間)三万有余俵の功徳を顕わす。借る者数百家が、同じく推し譲るようになれば、その功徳は計算できない数量となる。日月の照すところ、霜露のおちるところ、あまねく人民の苦境を救済し、大小貧富共に至道にかない、貧賤滅亡の禍いを免れ、富貴安泰となり、国家が永く安楽に至るようになる、どうして信じないでいられようか、どうして勤めて行わないでいられようか」「推譲米無利足五ケ年賦貸付報徳米附雛形誠明先生の至教に基き、一村平均中庸の教えに因て、家株分限改正致し、分外田畑作徳米十五俵、永久推譲米と相定め別冊取調遣し候処、猶又先生の至教に基き、推譲米無利五ケ年賦繰返貸付報徳冥加米附雛形組立候処、六十ヶ年貸付高三万二千五百四十俵、幾百家、幾千人の困苦を相除き推譲元米九百俵相備り、報徳冥加米六千五百八俵と増益致し候処、前記の如し。先生の教えに曰く、無利足の功徳は、猶日陽の国土を照し給ひ、観音衆生の苦悩を除き、無量の福徳を与へ給ふが如しと、夫れ日陽は世界を観じて、諸の苦悩を消除し、諸の福徳を与ひ給ふ、衰邑の貧民、借財あれば、利足諸雑費の苦あり、質地あれば、作徳不足の苦あり、家株不足なれば、夫食不足の苦あり、家破れ屋根破るれば、風雨雪の苦あり、衣食不足なれば、餓寒の苦あり。農具糞直なければ、麁作して取穀不足の苦あり。農馬なければ、代掻(しろかき)は勿論重荷を負ふの苦あり、家財なければ、万事不自由の苦あり。各其の苦む処を観察して、無利五ケ年賦に貸し渡す時は、或は借財を償ひ、利足出廃の利益を生じ、或は質地受戻し、作徳の利益を生じ、家株を得れば、暮方有余の利益を生じ、家小屋修覆を得れば風雨を凌ぎ、又勤業安楽の利益を生じ、農馬を得れば諸物運送の利益を生じ、家財を得れば日用自在の利益を生じ、各其の憂苦する処を免れ、其の利益を得仰いで父母を養ひ、俯して妻子を育し、一家安心相続の道立つ一固度循環するに及びては、極難貧者幾百、家の生産を安んじ、若し永久取り行いし時は、循環極りなく、幾億万家の貧苦を除き、幾憶万人の相続、永安を得ると極りあるべからず、実に先生日月の行く道に同じく、観音無量の功徳に等しと宣ふに、又宜(むべ)ならずや、人倫の道、何物か此に加ふるものあらんや、依て先生の至教に基き、文学書算も手に取らざる女子共にも呑込易き様、前書雛形組立て、無利足の大徳を顕し置候条、才兵衛子々孫々至る迄、慎んで遵奉致し、分限堅く相守り、余米年々推譲り、雛形の通り取り行い申すべく候、以上 文久元辛酉年正月 報徳役所 岩子村 渡部太四郎殿、才兵衛殿、太右衛門殿 親類 小野田庄三郎殿 子孫、親類 中再述経曰願以此功徳施及於一切同発菩提心往生安楽国先生之を解して曰く、此の無利足米を以て、一切の貧者に貸し与ひ、貧者返納の志を発せば、貧富ともに永安の至楽を得と宣ふに、夫れ富むるものは、数千万余を積むといへども、更に足るを知らず、有るが上にも願ひ求め、利欲に迷ひ、高利を貪り、他の者を省りみず、己一人の奢りに長じ、無慈悲の所行に陥り、遂に一家滅亡の禍となり、貧きものは、家業を怠り、他の財を借り、元利返済の道を失ひ、一旦借用を以て、困苦を補ひ、相助り候恩義を忘却致し、遂に祖先以来の家株退転となる、此の如く貧富共、道を失ひ、利を失ひ、禍を招くもの、凡情の通患なり、先生是を富驕惰弱の二弊とし、富むるものは自然の可分に止まり、驕奢の弊を省みて、有余を生じ、貧者に譲り施し、貧しきものは怠惰の弊を改め、勤めて其の徳に報じ、貧富相和する時は、財宝其の間に生じ、貧富共に永安の地に至ると宣ふ、才兵衛、今般一村平均、中庸の天分に止まり、驕奢を戒め、倹約を守り、年々米十五俵の有余を生じ、推譲候誠意の米穀は、得難き奇特と云ふべし、是を借用するもの、一粒たりとも如意宝珠の如く尊敬し、銘々不足を補ひ、貧苦を免れ、五ヶ年賦に返納致し候はゝ、年二割の利足のみに相当り、元来助成に預り候同様なり、一家暮方相整い候上は、其の恩義を解せずんばあるべからず、夫れ恩を受て恩を報ぜざるは、人にあらず、父母の恩を報ずる、是を孝と云ふ、君の恩を報ずる、是を忠といふ、素より才兵衛、報恩謝徳の為、差出し候推譲米に付、借用の面々年賦皆済後、冥加米相納候儀は勿論、其の余才兵衛の勤倹、推譲に法り、可分を弁ひ、暮方中庸の節度を立て、天分に止まり、驕奢を戒め、倹約を守り、年々有余を生じ推し譲り、是又前書雛形の通り取行い申すべく候。先生常に分外の有余を推し譲り、無利足に貸出すものを称して菩薩界とし、借用して助かるものを称し衆生とす、然して衆生にして、困苦のために無利足の米財を借用し相助り、年賦返納する時は、返納米即他の貧者に循環し、諸々艱苦を除く故に、一たび年賦を納るものは、乍(たちま)ち衆生を出離して、菩薩界に入ると教え給ふ、然ば則ち此の推譲米を借用して、一家暮方相整い、才兵衛同様、天分に止まり、余米を推し譲る分は、共に天地と功を同ふし、観音と経を同ふするに至らん、才兵衛一人此道を行ふすら、一周度三万有余、俵の功徳を顕す、借る者数百家、同じく推し譲るに至ては、其の功徳、算勘数量にも及ぶべからず、日月の照す処、霜露の墜る処、偏く人民の窮苦を済救し、大小貧富共に至道に濠洽し、貧賤危亡の禍を免れ、富貴安存之を得、国家永く安楽に至るべし、豈可不暮信乎哉、豈可不勉行行乎哉」(一〇三三―四一頁)
2026.09.10
ラスカー賞に睡眠研究の筑波大・柳沢正史教授ら 中外製薬3人も米国で最も権威ある医学賞で、米国版ノーベル賞ともいわれる「ラスカー賞」の基礎医学部門に、睡眠の研究で知られる筑波大の柳沢正史教授と米スタンフォード大のエマニュエル・ミニョー教授が選ばれた。 また臨床医学部門でも、中外製薬(東京都)で血友病の治療薬を開発した服部有宏・元シニアフェロー、井川智之研究本部長、北沢剛久研究副本部長の3人が選出された。米国のラスカー財団が9日発表した。部門ごとに25万ドル(約3800万円)が授与される。睡眠のメカニズムを解明 ミニョー氏は同時期に犬の遺伝性ナルコレプシーの原因遺伝子を調べ、オレキシン受容体にたどり着いた。睡眠のメカニズムを解明した両氏の研究は、新たな不眠症治療薬や、ナルコレプシー治療薬などの成果につながった。血友病Aの治療薬に貢献 臨床医学部門に選ばれた服部さんら3人は、血液の凝固に必要な二つの異なる物質の橋渡し役を担う特殊な抗体を開発。血が固まりにくい疾患、血友病Aの治療薬「ヘムライブラ」の創薬に貢献した。 この独創的なアイデアは抗体医薬の発展に大きく寄与し、これまでに11種類ものがん治療薬に応用された。 また公共奉仕部門で、米映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで知られる米俳優マイケル・J・フォックスさんが選ばれた。フォックスさんは98年にパーキンソン病を公表。患者の声を社会に届け続けてきたことに加え、病気の研究のための基金を創設し、研究を加速させた功績が評価された。 柳沢氏は1998年、「オレキシン」と名付けた神経伝達物質を体内で作れないようにしたマウスが、突然眠気に襲われる病気「ナルコレプシー」に似た症状を示したことに着目。オレキシンが脳内で覚醒の維持に関わっていることを明らかにした。◎米ラスカー財団は9日、米国最高の医学賞「ラスカー賞」の今年の受賞者を発表した。基礎医学賞に睡眠と覚醒を調節する神経伝達物質を発見した柳沢正史・筑波大教授(66)ら2人、臨床医学賞に血友病の治療薬を開発した中外製薬の服部 有宏(くにひろ) ・元シニアフェロー(66)ら3人を選んだ。日本が2部門で受賞するのは初めてとなる。柳沢氏は、米テキサス大サウスウェスタン医学センター教授だった1998年、動物の脳の抽出物から神経伝達物質「オレキシン」を発見。その欠乏が、強い眠気に襲われる睡眠障害「ナルコレプシー」の原因だと突き止めた。柳沢氏の研究は新しい睡眠薬の開発を加速させたほか、武田薬品工業のナルコレプシー治療薬「オベポレクストン」(商品名オーゼイフル)も今年8月に日米で承認された。 米スタンフォード大のエマニュエル・ミニョ教授との共同受賞となった柳沢氏は、取材に「睡眠科学分野が評価されるようになってうれしい」と述べた。 服部氏と、北沢剛久・中外製薬研究本部副本部長(57)、井川智之・同本部長(49)は、血が止まりにくい血友病Aについて、血液の凝固を助けるたんぱく質の働きを抗体で代替する治療薬「エミシズマブ」(商品名ヘムライブラ)を開発した。3人は2000年に服部氏が着想したアイデアを基に研究を進めた。動物実験で止血効果を示せず開発を中断したこともあったが、約4万種の抗体から有望な候補を見つけ、10年にエミシズマブとなる抗体を選定した。従来の治療では頻繁な静脈注射が必要だったが、エミシズマブは月1回の皮下注射で効果があり、全世界で3万人超の患者が使用してきた。 服部氏は取材に「『世のため、人のため、患者さんのため』を合言葉に研究を続けてきた。栄誉あるラスカー賞をいただけるとは思っていなかったが、大変光栄に思う」と述べた。 ラスカー賞は、受賞者がその後、ノーベル賞を受賞することも多い。日本では今年7月に亡くなった利根川進氏と、山中伸弥・京都大教授(64)が受賞後にノーベル生理学・医学賞を受賞した。日本のラスカー賞受賞は14年の森和俊・名城大教授(68)以来となる。 また、公益事業賞には、パーキンソン病患者として病気への理解を広め、治療法研究を支援してきた、米映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で知られる俳優のマイケル・J・フォックス氏(65)が選出された。
2026.09.09
腎臓病には、急性腎臓病と慢性腎臓病があります。熱中症による脱水、尿路結石、細菌やウイルス感染など、特殊な原因によって急激に症状が進む急性腎臓病は、その原因を取り除けば治癒が見込めるので、さほど重要な課題ではありません。問題は、早期にはまったく症状がないため発見が難しく、気づいたときには多くの人が手遅れになってしまう慢性腎臓病です。「手遅れ」とは、透析に入るしか手立てがなく、その後、5年ほどの余命に陥ってしまうことです。慢性腎臓病にはもともと、糖尿病性腎症、慢性糸球体腎炎など、原因によっていろいろな病名がつけられ、進行した状態は慢性腎不全と呼ばれていました。近年では、腎障害の存在と糸球体濾(ろ)過量(GFR=Glomerular Filtration Rate)というものに基づき、慢性腎臓病(CKD=Chronic Kidney Disease)として包括的に捉えるようになりました。たとえば、糖尿病の患者さんが腎臓を悪くしたときに、単純に糖尿病の合併症だけが原因なのか、高血圧などほかの原因も関わっているのかを明確にし、細かく「病名」をつけるためには、背中から細い針を刺して腎臓の組織を採取する、「腎生検」という危険な検査が必要です。しかし、「そうまでして細かい病名をつけることに意味があるのか」というと、答えは「NO」です。原因はなんであれ、「腎臓が悪くなっている」という重大な事実があり、それに対して行なうべき治療は同じだからです。そうだとしたら、できるだけ包括的に捉えたほうが一般の方に周知する意味でもわかりやすいし、行政での取り組みも効率的に行なえます。現在、その腎臓病の患者が激増しています。2017年段階の日本人の腎臓病患者は2100万人。成人の5人に1人が腎臓病だという計算になります。これは、糖尿病の1000万人よりずっと多く、まさに「国民病」ともいうべき事態です。がんは、一生のうちに2人に1人がかかる病気になっていますが、早期発見・早期治療で治る人もうんと増えています。早期発見できるのは、「がんは怖いから」と、多くの人が理解して検査を受けているからでしょう。しかし、腎臓病は、よほど本人の意識が高くないと早期発見できません。今の健康診断システムにまかせていたらできません。その証拠に、日本には現在約35万人の透析患者さんがいます。そして、毎年約4万人が新たに透析になり、約4万人が亡くなっています。この事実は、すでに危機的状況にある日本の医療制度を圧迫しています。厚生労働省は、2028年までに、新たに透析に入る患者さんが年3万5000人以下になるようにという目標を掲げていますが、難しい状況といわねばなりません。厚生労働省が発表している日本人の死亡原因は、2023年時点で、1位がん、2位心疾患、3位老衰、4位脳血管障害……と下のグラフのようになります。また、肺炎と誤嚥性肺炎を合わせれば、脳血管障害よりも多くなるのがわかるでしょう。年齢とともに小さくなっていく腎臓老化にともなって腎臓は小さく、軽くなります。腎臓の表面にある皮質という部分が萎縮し、これにともない、老廃物を除去するための糸球体という組織が減少します。これには皮質を通っている葉間動脈・弓状動脈・小葉間動脈などの動脈硬化が関係しています。動脈に血液が通りにくくなるために、腎臓全体の血流量が低下して酸素や栄養が不足します。こうして原尿の再吸収などを行う尿細管が萎縮して、間質が拡大すると同時に線維化が進行します。そのため、見た目だけでなく機能についても変化が起こり、再吸収能力の低下なども起こります。また、塩分を排出する能力も衰えるため、同じ量を排出するさいに若年者よりも高齢者は時間が長くかかります。高齢者では、尿の濃縮力だけでなく、希釈力も低下します。ですから、体液の量や濃度をコントロールしにくくなり、ホメオスタシスを保つ能力が低くなります。サーチュイン遺伝子と腎臓の機能との関係を調べた研究を見てみましょう。まず、尿の元となる原尿の再吸収を行っている腎臓の近位尿細管のサーチュイン1(SIRT1)に細胞保護作用があるとわかりました。また、ラットの腎障害が、カロリーを60パーセント制限することで改善したという報告もされています。カロリー制限以外に、サーチュイン遺伝子を活性化させる方法についての研究も行われています。その一つがポリフェノールです。ポリフェノールは、植物に存在する苦味や色素の成分です。緑茶のカテキン、大豆のイソフラボン、ブドウの果皮のアントシアニンなどが挙げられます。ポリフェノールを摂取するとサーチュイン遺伝子を活性化させるスイッチが入ることが報告されています。とくに、ポリフェノールの中でも、ザクロやベリー類、ナッツ類に含まれているエラグ酸は、その効果が高いといわれています。ポリフェノールの多くは水に溶けやすい形で含まれているので、効果は摂取した約30分後に出はじめ、3〜4時間で消えるとされています。ただ、ヒトにおいてどれだけの量のポリフェノールを摂ればサーチュイン遺伝子を活性化できるのかは、まだわかっていません。もう一つが、オートファジーです。オートファジー(autophagy)は、ギリシア語で「自ら」を意味する auto と、「食べる」を意味する phagy を組み合わせた造語で、自食作用と呼ばれています。オートファジーは、細胞が自らのたんぱく質や細胞小器官などをアミノ酸に分解し、エネルギー源にしたり、新しいたんぱく質を作る材料にしたりという、体のリサイクルシステムです。このしくみの発見者は、大隅良典博士(東京科学大学栄誉教授)で、この発見によりノーベル生理学・医学賞を受賞しています。オートファジーはおもに体の飢餓状態によって起こり、老化や代謝で傷ついたミトコンドリア、そして細胞内の老廃物、余分な脂肪などが分解されます。このようなオートファジーのはたらきが低下すると、細胞の中に傷んだミトコンドリアや老廃物などがたまって機能が低下し、細胞の老化につながります。腎臓でも、細胞内のホメオスタシスを維持するために、オートファジーが重要な役割を果たしています。サーチュイン遺伝子とオートファジーは、細胞が栄養不足になったとき、つまり飢餓状態で活性化します。一般的に12時間以上の空腹状態が続くとオートファジーがはじまり、とくに16時間の断食は、オートファジーの時間的な目安として知られています。腎臓のアンチエイジングについては、老化細胞除去薬の研究も進んでいます。老化細胞とは、加齢や紫外線、薬剤などのストレスによってDNAが傷つき、細胞分裂を停止し本来の機能を十分に果たせなくなった細胞です。体内に残ってしまったこれらの細胞は、老化を促進する物質を分泌して炎症を起こし、周囲の細胞に悪影響を及ぼすため「ゾンビ細胞」とも呼ばれています。この老化細胞を選択的に取り除く物質としてセノリティクスという化合物群が、いくつか報告されています。代表的なセノリティクスが、タマネギ、とくに皮に多く含まれているポリフェノールのケルセチンです。高脂肪食などで引き起こされた腎臓の細胞老化が、ケルセチンで抑制され、腎臓の濾過機能を高めることで血清クレアチニンの低下、腎臓の線維化などが改善されたという研究結果が出ています。また、ケルセチンと、白血病の治療に使われるダサチニブという薬をマウスに投与したところ、糖尿病とアルブミン尿が改善したという報告があります。「腎臓のための運動」効果が減る"残念な落とし穴"腎機能を改善させたり腎臓寿命を延ばしたりするには、多くの血液を腎臓に巡らせてたっぷりの酸素や栄養を届けていくことが重要なポイントであり、そのためには、「息切れするかしないかのレベル」の運動強度を保って歩かなくてはなりません。そして、そうした効果をもっとも効率よく引き出せるようにつくられたのが「腎活性ウォーキング」であるわけです。「腎活性ウォーキング」の歩き方まず、大事なのは歩くフォーム。次の①~⑦のポイントを守ったフォームで早歩きをするのが腎臓を守る効果を最大に引き出す方法と考えてください。① あごを引き、正面を見て視線はやや遠めに② 背すじを伸ばして、肩の力を抜く③ 腕をL字に構えて前後に大きく振る④ 下腹に力を入れて胸を張る⑤ 後ろ足のひざをしっかり伸ばしながら歩く⑥ つま先で蹴り出してかかとから着地する⑦ 歩幅を広めにとって、リズムよくスピーディに歩く歩く時間と回数の目安は「1日30~60分のウォーキングを週3~5回」。1週間の目標はトータルで150~180分です。この目標はそんなに高いハードルではありませんが、年齢的・体力的に不安がある方は、短い時間からスタートして、徐々に時間や回数を増やしていくようにしてください。とにかく、これらのポイントを守って歩くと、ほんの10分程度で全身の血行がよくなって体が内側からポカポカしてくるはず。このように、血流をしっかり促進させるウォーキング習慣が腎機能を守り、腎臓寿命を延ばすことへとつながっていくのです。
2026.09.09
脳科学者・中野信子が検証。日本人の脳内物質から、生存に有利な性格や個性がわかってきた!セロトニンは集団形成に大きく関係する物質です。生命体は、その基本的な性格から、集団を形成したほうが個体として生き延びるにも、種としての存続を目指すうえでも有利です。集団をつくろうとする本能に関係する神経伝達物質はほかにもいくつか種類があるのですが、ここではセロトニンに着目して説明していきます。セロトニンは、生物に利用されてきた歴史が長く、真核細胞の時代からすでに重要な機能を担っていることがわかっています。真核細胞である酵母やカビにも、セロトニン受容体が見つかるのです。これらは8億年以上も前から存在していることから、セロトニンが非常に長いあいだ、細胞内/生物の体内で重要な機能を担ってきた物質であるということがわかります。セロトニンは、人体ではあらゆる脳神経に影響する物質です。さらに、セロトニン神経は脳全体を調整する役割を持つことから、オーケストラにおける指揮者のような役割にたとえられることもあります。このセロトニン神経は、脳の中心部にある脳幹のさらに奥の縫線核(ほうせんかく)という場所にあります。縫線核は、「左右の脳が正中で縫い合わされたところにある神経核」ということでこのような名で呼ばれています。これが大脳新皮質をはじめ、情動の座である大脳辺縁系、生命維持のための脳領域である視床下部、脳幹、小脳、脊髄など、ほとんどすべての脳神経系に影響を及ぼし、意識レベルや、やる気の状態などをコントロールしているのです。それでは、セロトニンが出ていれば出ているほど良いのか、というと、そうとも限りません。セロトニンをはじめとした、モノアミン類と総称される神経伝達物質の脳内での動態にかかわる遺伝子についての研究で、私たちの性格はより不安が強くなる方向に進化してきたことが示唆されたのです。私たちの性格や個性は、神経伝達物質の動態によってかなりの部分が影響を受けています。東北大学のグループによる研究結果は、人類の進化過程で、遺伝的な変化をともなったセロトニンの動態の抑制が起こっている可能性を示すものでした。この研究報告は、それまでの研究と考え合わせると、人類は進化の初期過程において、不安やうつ傾向が高まる方向に環境圧力を受けながら進化してきたのではないかという考え方を支持するものです。つまり、セロトニン濃度が高いより低めで不安の度合いがある程度強いほうが、少なくとも人類進化の初期には、生存に有利であったということを意味していると考えられるのです。バッタによる大被害はセロトニンが原因セロトニンが生物に与える影響をもう少し解説しましょう。自閉症ヒト型モデルマウスで脳内の異常を詳しく調べると、発達期において脳内のセロトニン濃度が減少していることがわかりました。また、飼い鳥では社会的・感覚的な行動の自由が奪われる――つまり群れ構造が損なわれたり、飛行させてもらえない、食物探しの時間が与えられないなどの制限があると――毛引き症になる恐れが生じます。これは、脳内の重大な部位でセロトニンの濃度が最適でないことによって起こる可能性が示唆されています。集団行動や感覚的な行動を阻害されると、セロトニン異常が起こる、ということではないかと考えられています。ヒトでは、やはりセロトニン(とドーパミン)の代謝障害が、チック症状・自傷症と関連の深いトゥレット症候群にかかわっていることが知られています。興味深いことにセロトニンは、生物の個体としての行動ばかりでなく、個体同士のかかわり、つまり集団としての振る舞いに大きく影響を及ぼすということもわかってきました。2009年、オックスフォード大とケンブリッジ大の研究チームが、サバクトビバッタが、一個体でいることを好む「孤独相」から、仲間でいることを好む「群生相」に相転換するのは、脳内の神経伝達物質セロトニンが原因であることを突き止めました。サバクトビバッタは数十年に一度大量発生し、西アフリカからインドにわたる乾燥地帯の作物を食べ尽くしてしまいます。いわゆる蝗害(こうがい)です。このサバクトビバッタは、一生のうちおよそ90%の時間を砂漠の中で孤独に散在してすごしますが、そのとき、彼らはほかの仲間を避け、たがいにできるだけ接触しないようにしています。ただし、特定の刺激があるとそれがきっかけとなって群生行動のスイッチが入るのです。そのうちのひとつは、長期間ほかの仲間の姿を見て、そのにおいをかいだとき。そしてもうひとつは、後脚を継続的に刺激されたときです。このバッタの後脚を絵筆で根気よくくすぐると、2時間後その個体は作物を食い尽くす巨大な群れを構成する一員となる準備が整ったと勘違いして、自分の体を変え始めます。後脚をくすぐって刺激するのは、通常は一匹で行動するバッタが、食糧不足のために集団にならざるを得ない過密な状態で体がぶつかり合うのと同じ状況をつくり出すためです。相転換が起きると、体色や体の様子まで変わります。孤独相ではきれいな緑色であったのが、群生相では翅が発達し、黄色と黒の強そうな姿になって、筋肉も増強し、長時間の飛行や仲間の活動的な捜索が可能となります。そして、数十億匹規模の大集団をつくって、餌を求めて約100キロメートルの距離を何時間も飛ぶことができる体になるのです。研究チームによると、環境の変化に応じて個体を冷ややかな敵対関係にある孤独相からたがいに引きつけ合う群生相に変えるのは、セロトニンが原因だということがわかりました。集団志向の群生相状態に移行したとき、バッタの体内のセロトニンの量は、急激に増加していました。群生相のバッタのセロトニン水準は孤独相のバッタより3倍も高かったのです。また、孤独相のバッタにセロトニンの生成を抑制する物質を注入しておくと、後脚を刺激したり、仲間と長時間一緒にいたりしても、その個体は落ち着いたままで、群生相には転換しませんでした。一方、セロトニンの分泌を刺激する物質を注入されたバッタは、きっかけとなる刺激がなくても群生相へと変化を遂げたというのです。セロトニンは人間の行動や他者とのかかわりに大きく影響を及ぼすということがよく知られている物質ですけれども、同じ物質が、内気で孤独を好む昆虫を大集団に団結させ、その振る舞いばかりか体にまで変化を及ぼしてしまうということを、研究チームは驚きのまなざしとともに報告しています。人間にも、環境における個体群密度センサーがどこかに備わっていて、その機構がセロトニン濃度の調節を行い、私たちの行動を変えてしまう可能性が、もしかしたらあり得るのかもしれません。
2026.09.09
卓球中国女子に波乱...世界4位蒯曼&5位王芸迪が初戦敗退<WTTチャンピオンズマカオ>9/9(水)◇卓球 WTTチャンピオンズマカオ(9月8日~13日、マカオ)女子シングルス1回戦が9日に行われ、中国のトップランカーの2人が初戦敗退世界ランク5位の王芸迪選手は、同35位エジプトのメシュレフ選手に1-3(7-11、7-11、11-9、7-11)で敗戦。サウスポーのメシュレフ選手の前に序盤から流れに乗れずに敗れました。また同4位の蒯曼選手は、同17位ドイツのハン・イン選手に2-3(11-6、8-11、3-11、12-10、6-11)のフルゲームの末に敗戦。カットプレーが武器のドイツの43歳ベテランに屈しました。今大会は、孫穎莎選手や王曼昱選手ら世界1、2位の中国トップ2が不在。そんな中、中国のトップランカー2人が初戦で姿を消す波乱の1日となりました。日本勢は前日までに張本美和選手(同3位)と大藤沙月選手(同11位)が初戦を突破。早田ひな選手(同6位)や橋本帆乃香選手(同14位)は10日に初戦を予定しています。
2026.09.09
友人がドライアイで困っていたのですぐラインで教えてあげたドライアイの権威有田先生によるとドライアイは油不足(マイボーム腺)が原因油の質が悪いコレステロールが高い涙にはボーム腺1 コレステロールの上昇などでボーム腺から油の質が悪くなった女性の場合はアイメイク残りにダニが増殖して、炎症の場合もドライアイは油不足(50%)が原因。目薬で良くならない!温めた(40度)タオルを瞼の上に置き(必ずビニール袋に包む)油を溶かす瞼の洗浄内側から外側に一方向一日2回ドライアイや緑内障 40代からの目の不調とケア方法公開:2026年9月9日(水)午前11:45NHK目の乾きやかすみを「年齢のせい」と後回しにしていませんか。今回の「あさイチ」では、ドライアイの意外な原因や、自覚しにくい緑内障、効果的な目薬のさし方など、40代から知っておきたい目の不調と自分でできるケア方法をお伝えしました。テレビ画面を使った緑内障のセルフチェックは、片目ずつ中央の印を見つめ、周囲を動くイラストの見え方を確認することで、眼科受診を考える手がかりになります。また、ドライアイの原因が涙の油不足である仕組みや、その油不足が高コレステロールやアイメイクの残りによって引き起こる実態をお伝えしました。さらにドライアイを劇的に改善させるホットタオルを使った「まぶたの温め」、「まぶたの洗浄」も紹介しました。緑内障のセルフチェックや、効果的な目薬のさし方は見逃し配信でも確認できます。セルフチェックをするときの注意点や専門家の解説と合わせてご覧ください。
2026.09.09
「二宮先生語録 : 読み下し全ルビ原文・現代語訳」が、現在57大学図書館で蔵書となっている。「報徳記を読む」シリーズ第5集として、出版し寄贈したもので、先日、入手したいという問い合わせがあったが、「寄贈用に作成したもので、残念ながら手持ちはありません」とお断りした。大学図書館所蔵 57件 / 全57件会津大学 情報センター (附属図書館)岩手大学 図書館宇都宮大学 附属図書館図大分大学 学術情報拠点(図書館)沖縄国際大学 図書館小樽商科大学 附属図書館鹿児島県立短期大学 附属図書館鹿児島大学 附属図書館金沢学院大学 図書館九州大学 中央図書館九州産業大学 図書館京都大学 附属図書館図岐阜大学 図書館敬和学園大学 図書館図高知工科大学 附属情報図書館高知大学 学術情報基盤図書館 中央館国学院大学 図書館国立研究開発法人 水産研究・教育機構 水産大学校駒澤大学 図書館静岡県立大学 附属図書館 草薙図書館静岡文化芸術大学 図書館・情報センター周南公立大学 図書館信州大学 附属図書館 中央図書館図聖心女子大学 図書館西南学院大学 図書館図聖隷クリストファー大学 図書館高崎経済大学 図書館図拓殖大学 八王子図書館玉川大学 教育学術情報図書館大東文化大学 図書館千葉大学 附属図書館図東海大学 付属図書館中央東京大学 総合図書館東北学院大学 中央図書館東北大学 附属図書館本館鳥取大学 附属図書館図豊橋創造大学 附属図書館同志社大学 図書館獨協大学 図書館図長崎大学 附属図書館奈良大学 図書館図南山大学 ライネルス中央図書館図日本女子大学 図書館図書館八戸学院 図書館図弘前学院大学 附属図書館図弘前大学 附属図書館本館福井大学 附属図書館福島大学 附属図書館法政大学 図書館市図北海学園大学 附属図書館図北海道教育大学 附属図書館松山大学 図書館三重大学 附属図書館武庫川女子大学 附属図書館図酪農学園大学 附属図書館図立命館大学 図書館和歌山大学 教育機構学術情報センター 図書館☆2021年8月17日『二宮先生語録』を蔵書としている大学は55大学だったので、2大学図書館で新たに蔵書としていただいていることになる。大学図書館所蔵 55件会津大学 情報センター (附属図書館)、岩手大学 図書館、宇都宮大学 附属図書館、大分大学 学術情報拠点(図書館)、沖縄国際大学 図書館、小樽商科大学 附属図書館、鹿児島県立短期大学 附属図書館、鹿児島大学 附属図書館、金沢学院大学 図書館、九州大学 中央図書館、九州産業大学 図書館、京都大学 附属図書館、岐阜大学 図書館、敬和学園大学 図書館、高知工科大学 附属情報図書館、高知大学 学術情報基盤図書館 中央館、国学院大学 図書館、駒澤大学 図書館、静岡県立大学 附属図書館 草薙図書館、静岡文化芸術大学 図書館・情報センター、周南公立大学 図書館、信州大学 附属図書館 中央図書館、聖心女子大学 図書館、西南学院大学 図書館、聖隷クリストファー大学 図書館、高崎経済大学 図書館、拓殖大学 八王子図書館、玉川大学 教育学術情報図書館、大東文化大学 図書館、千葉大学 附属図書館、東海大学 付属図書館、東京大学 総合図書館、東北大学 附属図書館本館、鳥取大学 附属図書館、豊橋創造大学 附属図書館、同志社大学 図書館、獨協大学 図書館、長崎大学 附属図書館、奈良大学 図書館、南山大学 図書館、日本女子大学 図書館図書館、八戸学院 図書館、弘前学院大学 附属図書館、弘前大学 附属図書館本館、福井大学 附属図書館、福島大学 附属図書館、法政大学 図書館、北海学園大学 附属図書館、北海道教育大学 附属図書館、松山大学 図書館、三重大学 情報教育・研究機構 情報ライブラリーセンター、武庫川女子大学 附属図書館、酪農学園大学 附属図書館図、立命館大学 図書館、和歌山大学 附属図書館、
2026.09.09
札幌農学校教授・宮部金吾 その73 ウィリアム・エス・クラーク(四〇頁)札幌農学校創立者であるドクトル・ウィリアム・エス・クラーク(William Smith Clark)の名は、北海道大学が存在する限り、日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう。クラーク先生は、一八二六年七月三一日北米マサチューセッツ州アッシフィールドに生まれ、一八四八年二二歳の時アマスト大学を卒業し、次いでドイツ・ゲンッチンゲン大学に留学、専ら鉱物学及び化学を修め、一八五二年二六歳で哲学博士の学位を得た。帰米後、母校アマスト大学に一五年間化学の教授として勤続された。その間に当時米国において最も完備した化学実験室をつくり、そのため再度ヨーロッパに渡った。一八六〇年南北戦争が起ったため、志願士官として二年間、北軍の兵役に服し、抜群の武勇を現して大佐にまで昇進した。一八六三年にモーリル法令という議案が国会を通過した。その法令により、米国各州に州立農科大学を設定することになった。マサチューセッツ州では、ボストンに建つことになったが、位置問題に関しては非常な競争が各地に起った。その際先生はアマストをもって最も適当なる地であることを盛んに唱道したばかりでなく、アマスト市民をして、このために特に五万ドルの市債を起させ、遂に同地に州立農科大学を設定せしめた。これは全く先生の努力の結果である。そして一八六七年一〇月二日開校の際には、先生はその学長として、創立経営の任に当たられたのである。これより一一年間、校長としてその職に尽瘁されたが、この期間内一八七六年(明治九年)に日本政府の招へいに応じ、一年間の賜暇を得、在職のまま来朝し、北海道に本邦における最初の農学機関たる札幌農学校創設の大任を見事に果たされ、その基礎を築いたのである。札幌に滞在した期間は、わずかに八ヶ月、その間に遺した所の感化、及び新設された農学校の大方針は、今なお先生の面影を止めている。そして先生は州立農科大学を一八七八年(明治一一年)に辞職し、Floating College(洋上大学、汽船内において大学の設備をなし講座と研究を行い、世界を巡洋航海し、各重要地点で上陸し、その国の風物物産を始め、動植物その他の天然資源に至るまで実地に生きた学問をする)を設立する事を発起したが、不幸にして、資金その他の事情によって中断された。かくて一八八六年(明治一九年)三月九日にアマストの邸宅において死去された。先生の一生を顧みるに、先生は卓越せる教育家であり、また非凡な経世家であった。そして経営の才能にとみ、その計画を実行する力量を豊富に有しておられたのである。性質と人格 私は札幌農学校の第二期生として明治一〇年に入学したので、クラーク先生に直接師事したことはないが、多年欽慕する先生の性質、人格、その他逸事等について、あらゆる方面から収集した材料により、その人となりを考えてますます尊敬の念を深からしめたのである。先生は少年の頃から負け嫌いで、非常に勝ち気であった。例えば競技においても必勝を期するため非常な努力と練習とを重ね、常に負けた事がない。またケンカをしても負けた事がなかった。この性質が終生の行動に現われ、何事に対しても成功するまで忍耐し、これを貫き、徹底的に処理されたのである。競争場裡に勝ちを占めんとするその精神が、全生涯を通じて最も重要な部分であった。かかる性質があったために、南北戦争の際には一隊を指揮し、すべての困難に打ち勝ち、武名を高からしめ、戦功を立てた。この精神があったために日本政府の依頼に快く応じて、はるばる異郷に来たって永遠朽ちざる功績を遺して行かれた訳である。かかる不撓、奮闘的精神はまたその体格にも現われ、中背でもあるけれども筋骨たくましく、一種冒すべからざる威厳があった。それと同時に親しみやすい温かみと人をひきつける魅力を備えていた故に、教育家としても、士官としても、その学生や部下に及ぼす感化は顕著なるものがあった。最もよく先生のこの性質を現わしたものは垂下せる黒く太き眉の下に輝く碧眼である。時には鋭い眼光は人を射るがごとく、また時には柔らかい温情に満ち幼児をさえ近づき慕わせる程であった。先生は老年に至るまで子供らしい無邪気な所が残っていて何事に対しても非常に熱心で、時には少し激高しやすい程であった。常にユーモアに富み、また座談に長じ、しばしば青年を集め、驚異に満ちた冒険談、興味ある経験談、逸事等の物語のうちに、彼らに鞭撻教訓を与えた。青年らは先生を愛墓し、彼らのヒーローとして尊敬した。先生は正義を愛し、正義のためには全力を尽くして戦い、妥協を嫌い、否を否として是を是とし、禁酒禁煙の人であった。つまり主義のひとでもあったのである。学者としてのクラーク先生 先生はアマスト大学に在学中、地質学教授エドワード・ヒッチコック(E.Hitchcock)氏の感化を最も多く受けている。地質学、鉱物学、化学等に頗る興味を有し、卒業後特に鉱物学、化学を研究するためゲッチンゲン大学に学び、「隕石の化学的成分」という論文を提出して哲学博士の学位を得た。しかし先生は化学を研究しているうちに、植物学に対しても非常な興味を持ち、ことに植物学と化学との関係つまり植物生理学の方面に興味を抱いていた。あたかもこの時、一八五〇年ドイツへ留学の途次、ロンドンに数週間滞在中、ロンドン市外のキュー王立植物園の温室内に、その年初めて咲いたビクトリア・レジアという南米アマゾン河に産する大睡蓮の記事を新聞紙上で読み、これを見に行かれ、その雄大な葉と花を見て、植物界における驚くべき生活現象に直面し、その瞬間一種いうべからざる感動と畏敬の念に充たされた。そしてキューには匹敵しないにしても帰国後いつの日か植物園を造り、雄大なかの睡蓮をも植え、植物界の神秘を人々に知らしめたいという希望を起こすと同時に、植物学に対する愛着心と研究心とが強烈となったのである。そして一八七二年(明治五年)「植物学と農学との関係」という演説を試み、その中にキュー植物園で抱いたヴィクトリア・レジアの夢を、アマスト州立農科大学における温室栽培で実現したことを報じている。州立農科大学の創立当時は教官僅かに四人で、校長クラーク氏は植物学及び園芸学の教授を兼ね、なお植物園長をも兼ねたのであるが、その当時の園なるものは単に名義のみであって、実際は紙の上に存在していたガーデンに過ぎないけれども、それを光栄としていたことは余程面白い点である。そして先生は時勢に先んじて植物生理学に関する実験を企て、今日ドイツの生理学者をしてその結果を引用させるような有益な発見をしている。この実験は共同研究によって行われたもので、当時他においてあまり見る事のできなかった方法である。これらの研究中次の二つは最も有名なものである。第一は一八七二年(明治六年)に実験された「植物体における液汁の循環と同液汁の圧力」であるが、この研究方針はすべて先生によって計画され、全校一致で学生や助手等がそれぞれ分担を決め、この研究に従事し、かつこれを完成させたのである。第二は一八七四年(明治七年)における実験で、それは一層規模の大きなものであって、「植物の生活現象についての観察」であり、これも全校をあげて研究に従事したといってよろしい。面白いことにはこの実験を手伝った人々のうちに札幌農学校の教師になったペンハロー(Penhalow)、ブルックス(Brooks)両先生の名があり、またクラーク先生の長男アセルトン・クラーク(Atherton Clark)氏の名もある事である。この生活現象というもののうちには、ことに植物の盛んに生育している所の器官が外囲の圧力に抵抗していく膨張力を試験したのである。更にまた春季における植物根圧の試験をなし、その他いろいろな現象を研究した。これらに対してハーバート大学の有名な動物学者ルイ・アガシー(Louis Agassiz)は讃辞を呈して左の如く言っている。「かくのごとき研究をなし、またこれをかく明確に報告し得るものは既にその仕事の報いは受けているのであって、他人からこれに対する讃辞がなくても自ら心に満足を感じていると思う。この論文によってアマストの州立農科大学は学界のうちに一つの確固たる位置を占めたのである。学術界においては何か貢献するにあらざれば、その学校は存在の意義を認められないわけだ。この論文は植物生理学に取っては実に驚くべき所の発見である。かくてこの学校が今日までに消費された経費は、これによって全く償われた。」先生はこの論文によりアマスト大学より名誉博士(L.L.D)の学位を得た。先生は農学に取って各種の科学はみな密接な関係をもっているが、特に植物学は科学的農学の基礎をなしているものであろうと考えられていた。植物学に対する研究において名をなした人でもある。
2026.09.09
「ユマニチュード」という革命p.133 ユマニチュードでは、ケアする人とケアを受ける人のあいだに距離を置きます。私はそれを、「哲学的な距離」と呼びます。・・・・・・ ここでいう「哲学的な距離」とは、「相手は私の所有物ではない」ということであり、その人を人として尊重することです。 適切な距離感を保つとき、相手は私の所有物になり、私の一部とみなされています。適切な距離感があるがゆえに、私は相手を一方的に操作し、管理します。つまり、私は他者の独自性を認めていません。 それに対し、「哲学的な距離」を置くとき、相手は歴然とした個人です。その距離があるからこそ愛情を持って近づいても大丈夫なのです。そのとき、適切な距離感という操作の概念は消えます。これは、従来言われてきた距離感の保ち方とmったく違います。 非常に攻撃的な人の清拭をするとします。私の触り方がよくなけれb、身を硬くして叫びます。私がケアするたびに、相手はネガティブな感情を持っています。 私の方はどうでしょうか。私の手が感じ取る情報が、「この人は私に触れられるのを嫌がっている」であるとき、私は何か悪いことをしているようだと、自らの行いについて否定的な感覚を持ちます。私もネガティブな感情を自然と有するようになるのです。 そのあと私は現場を離れ、同僚に合います。「今日の〇〇さんはどうだった?」「うん、大丈夫。仕事はちゃんとできたよ」 知的には「うまくやれた」と思っています。点滴を交換し、点滴のラインを本人が抜いてしまわないように手の抑制もできた。知的にはポジティブです。でも感情的にはネガティブです。自分が考えていることと感じていることが違うのです。「うまくいったよ」と言っているけれども、心は「違う」と感じています。私自身が分裂しているのです。 そうなるとエネルギーがどんどんなくなります。それを避ける唯一の方法は何でしょう。「優しくしたい」とか「ちゃんと仕事をしたい」といった価値観を掲げ、それを実行することです。そのためには指針となる哲学と、それを実行する技術が必要です。 自由と自律と自主性を尊重する。この価値観を私自身が大事に思い、それを実際に行ったとき、倫理の道のりができます。「私はいい看護師になります」とポジティブな価値観を掲げます。技術的にもいいことをしていると思える。患者はリラックスしてくれる。そうなると、私もいい感情を持てます。 私が考えていることと、実際にやっていること。自分が大切に思っている価値と自分の行動が生み出す価値が一致するとき、「私のしていることは、世界で最も美しい仕事だ」と思えるわけです。 もしも相手に対して悪いことをすれば、自分に対して悪いことをしたのと同じになってしまいます。私が相手にいことをしたら、私にとってもよいことをしたことになります。 言っていることと行いが一致する。倫理とは一貫性への道です。かつて私が、褥瘡の処置のために麻酔なしで体を切り刻まれている高齢の女性を羽交い絞めにしていたとき、私の本来持っている価値観と、私の行動が生み出している価値観とには非常に大きなギャップがありました。矛盾していました。だから毎晩泣いていたのです。 私たちのケアの目的は何でしょうか。体を洗うのはその健康な部分をよりよいものとし、病気を治すことのできる状態にしたいからです。本人の中の健康な部分が、病気の部分を治してくれます。 自分に権力がある限り、その人に近づき、その人を好きになることはできません。しかし、権力をすべて放棄したとき、絆が生じ、相手を本当に好きになることができるのです。好きな相手が亡くなる。それは悲しいことです。しかし、治ることも死ぬことも、それはケアを行った人のせいではありません。その人が何かを失うのではないのです。 高齢者になったから。それは、老人になったから。さまざまな理由を持ち出して、私たちの社会は人間らしく自律した生活を放棄するよう促します。あたかも、それが当然であるかのように。 人は生まれて死ぬまで変化し続けます。若いころにできたことが年をとるとできなくなる。それも変化です。しかし、その人が人間であることは変わりません。変化の中に一貫性があります。権力を通して人間を見たとき、その一貫性は見えません。高齢者は何もできない、ただの老人です。しかし、生きることに注目したとき、たとえできないことが増えたとしても、その人は変わらず人間であり続けます。誰かに依存したとしても、死ぬ瞬間まで自律した一個の人間なのです。各界を代表する著名人12名より本作へ寄せられた絶賛コメントが到着‼俳優の西島秀俊氏からは「私たちが直面しながらも考えることを諦めてしまった問題と、この映画は静かに向き合い、解きほぐそうと試みている」「凄まじい傑作」と圧倒的な賛辞が寄せられたほか、映画監督の三宅唱氏は「映画が終わったあとも、なんだか新しい日々が続いている感覚があります」とその深い余韻を絶賛。さらに、ライターのブレイディみかこ氏や哲学者の國分功一郎氏、声優の池澤春菜氏らから、本作が描く「人間の尊厳」や「からだを通した他者との関わり」、そして「眠れぬ夜に、静かに手を握ってくれるような」温かな希望に対する深い共感の声が相次いでおり、ジャンルを超えた著名人たちの心を強く揺さぶりました。生きる意味、死、老い、社会の構造的問題、労働、理想と現実、そして魂。混迷する複雑な世界の中で、私たちが直面しながらも考えることを諦めてしまった問題と、この映画は静かに向き合い、解きほぐそうと試みている。真理を辿る全ての過程に信じられないほど美しい光が射している。道のりの先に微かな希望が見える。凄まじい傑作。西島 秀俊(俳優)本と映画、両方に強く感銘を受けました。どうしてこんな世の中になったのか。なぜこんな目にあうのか。怒り、傷つき、消耗し、あまりにも悔しくてこらえきれなかった涙が、いつか不意に、せめて祝福の涙に変わる、そういう可能性が未来にほんの少しでもあるなら。どうすればいいのかと真剣に生きている人が、真剣に生きている人とたまたま出会い、たがいの話を聞きあい、ともにつくりあげていく映画。相手の話を聞くヴィルジニー・エフィラのその顔に、勇気を持って未知の他者に開かれていこうとするあの顔に、強烈に惹かれた。真剣に聞きあうことの難しさを、面白さがはるかに上回る。人生を賭けた本気の彼女たちに心から夢中になり、最後には、映画ってこんなに面白かったっけと呆気にとられて、映画が終わったあとも、なんだか新しい日々が続いている感覚があります。三宅唱(映画監督)これは出会いという凡庸な奇跡の延命についての壮絶な試みであり、延命ということばが引く残酷で劇的な一線を軽やかに越境し、劇場の外に赴こうとする勇敢な試みである。畠山丑雄(小説家)医療福祉業界の人手不足、低賃金、ケアの質、ケア側のケアなどどこの国も同じ問題を抱えている。現場での理想と現実のギャップを不可能を可能に少しずつ変えていけるかもしれない。人間の尊厳、寄り添いとはなにか確認と理解ができる温かく希望の詰まった作品でした。安藤なつ(メイプル超合金)別れも驚きも、小さな言い争いも、すべてやさしく受け止めて、どの場面も愛おしい。自分ではない他人と、どうやって共によく生きるのか。人と違う、ということの同一性について、深く考えさせられる。藤野千夜(作家)私はこの映画を奇跡だと感じた。こんな映画をどれほど待ち望んでいただろう。資本主義という巨大な流れのなかで、世界中が怒りと無力感を抱えているこの時代に、監督は、私たちが今立っている場所から何ができるのかを語る。互いに身体を預け、互いの足に触れ、相手を具体的に見つめながら夜通し対話を重ねることで、この映画は、限界のなかにあっても私たちは別の方向へ進むことができるのだと、ささやくように宣言する。映画を観ているあいだずっと、届いても届かないように思えた叫びが、ようやく応答されたような、この世界を生きながら感じてきた悲しみの一つひとつが、丁寧に数え上げられていくような、そんな感覚を覚えた。この温柔で巨大な映画『急に具合が悪くなる』を観終えたとき、観客はきっと感じるだろう。私たちは、つながることと愛することをやめてはならないのだということを。資本主義が求める「正常性」を遂行する機械ではなく、人間になるための切実で緊急な生の権利を、これ以上先延ばしにしてはならないのだということを。キム・ボラ(映画監督『はちどり』)今正に、身近な人たちの病と死と認知症を目の前にしている。だから、この映画を見るのが怖かった。生きるのも死ぬのも、なんて難しいんだろう。だったら少しでも、愛する人の人生が美しいものと、誇りと、尊厳で充たされていて欲しい。眠れぬ夜に、静かに手を握ってくれるような映画だった。池澤春菜(声優)登場人物みんなが幸せでいられるようにと祈りたくなるような映画だ。もしかしたらダイジェスト版を観たのではないかと一瞬本気で思ってしまったほど、本当に3時間16分が一瞬に感じた。U-zhaan(タブラ奏者)
2026.09.09
小野江善六翁小伝 山田霞洲(「大日本報徳学友会報」第五十四号)▲遠江国報徳社 副社長小野江善六、諱(いみな)は豊長、遠江国周智郡森町山中豊平氏の六男、幼名を六郎と呼びき。七歳にして慈母を亡くし、十一歳にして厳父を喪し、不幸孤児となり、つぶさに艱難を極めらる。十三歳出でて同国浜名郡浜松駅小野江善六氏に仕え、商業に従事すること十五年、才敏にして商事に熟達し、主命を重んじ、主家に尽くすこと己れがためにするがごとくなりしかば、主人の鍾愛極めて深く、妻すに一女を以てし、家督を譲らんとせらる。君深くその厚意を謝し敢てうけがわず。主人遂にその実家に懇請して止まず。家兄これを許さんと欲す。君去就に惑い、決するあたわず。一日、報徳先生安居院義道氏を親戚某に訪い教えを乞う。先生曰く、昔し舜は堯帝の譲りを受けて天下をたもてり。然して与(あずか)らずと言えり。いわゆる与らずとはその位にありと雖も、その位を我が物となさず、驕慢の所為無く、一点私心をはさまざるの義なり。かつ賢を貴べば惑わずとの金言あり。これを遵守せば主家の養子となり、その譲りを受くるとも何の難き事かこれあらん、と教諭懇切を極む。君教えを聞き、疑惑とみに消し、意を決して主家の望みに応じたりき。後、家名を襲用し、百事先生の教訓に従い、養父母に孝事し、義弟を慈しみ、家道を正し、宿老を任用したれば、商業日に栄え、富、市中に冠たるに至り、舅氏の鑑識果たして違わざるを見る。▲君、爾来安居院先生を以て師父と仰ぎ、常にその門に侯し、先生また翁の家を訪い、常に報徳談をなす。君教えを聞くごとに、信念ますます堅く、造次転沛(ぞうじてんぱい)その教えに違わざらん事を勤め、先生歿するの日に至るまで奉養怠らざりき。然して歿後追慕の情は更に切なるものあり。去歳先生頌徳碑落成式の時のごときは、病を押して碑前に立ち、滔々数千言盛んに先生の徳を頌し、来会者皆その病中なるを知らざりきという。以て翁が先生に対するの至誠を看取するに足らん。然してこの大演説こそ翁が最後の講演となりしぞ哀しけれ。▲文久2年領主命あり。田町町年寄に推挙せらる。君、報徳法により、負債償還の法を設け、私金百両を差し出して無利息金となし七ヶ年にして功を奏しき。この年たまたま夫人元子病にかかり名医の治療も家人の懇篤なる看護もその寿を延ることあたわず。遂に黄泉(よみ)の客となりき。翁悲傷すること限りなく、その冥福のために私財を投じて道路修繕工事を起こし車馬行通の便をはかりたりき。この年たまたま二宮先生七周年に該当するを以て、その追善のためにとて同駅田町南裏の濠筋に石橋を架し「二宮先生追善小野江善六寄付」と刻し不朽に伝えたりき。▲ついで浜松伝馬所副問屋を命ぜられたる事ありしが、劇務にたえずとて固辞して受けざりければ、領主は更に勝手方用達を命ぜられき。この時領主の財政すこぶる豊かならざりしかば、まず積穀の方法を設け、武備及び藩士の手あてその他荒地開墾費等調達の法を建言し、勝手向再興の方策を策し、自費を投じて倉庫を作り、官米数千俵を備え、大いに金融の便を与えたりき。これより勝手向漸次回復の端を開き、功を以て苗字帯刀を許され、大いに面目を施したり。後、維新の際、商兵隊を組織するや、その隊長を命ぜられしかば、町内守備をなし、玄忠寺に鉄砲的場及び撃剣道場を設け、師を聘(へい)し、壮者を集め、或いは暁天、或いは夜更、商業の暇あるごとに武技を練磨せしめ、鉄砲五十、竹槍百を置き、不時の用に備えき。一日領主当国敷知郡三ヶ日村警備として出陣の事あり。勝手方用達一同小荷駄方を命ぜらる。衆、逡巡あえて応ずる者なし。君、慨然として曰く、我が曹、平日帯刀を許され、俸禄を給わり、領主の優遇をこうむる。而して領主出陣の日に当たり逡巡命を拒まば、何の面目ありし。主君にまみえ、また世人に対するを得んと独り命に応ず。僚友大庭源助、感激行いを共にし、領主に随従す。功を以て手鉾一筋を賞賜せられたりき。後、領主より勤王説諭係を命ぜられ、奔走最もつとめ、幸いに不軌の徒なからしむるを得たり。維新に及び、静岡県知事より用金改め方を命ぜられ、功を以てまた苗字帯刀を許されたりき。▲君、常に思えらく、時勢の変遷は家政上においてもまた旧態を保持するを許さず。すべからく大改革を断行せざるべからずと。業を義弟吉次郎に譲り、脱然としてその開墾地に隠棲し、別に一家を創立し、後夫人と共に専ら農業を営み、かたわら報徳伝道につとめられき。而してその農事を営ずるや、先生の遺法に則り、田区秩然畦畔正整、茶園のごときは肥培周到一望緑をみなぎらし、製出するところ宇治の芳茗に劣らず、その園、当時国中右に出るものなかりしとう。これより先き嘉永初年の頃、翁は同士を誘導し浜松町に報徳社を結び、専ら同士と共に勤行怠りなかりしかば、後ち当国報徳社重世話人の班に列する事となりぬ。然して明治八年我が遠江国報徳社結社の許可を得るに及び、選ばれて幹事となり、大いに社務に参画する処ありき。明治十六年君等主唱して報徳館建築の提議をなし、議容れらるるに及び、建築係に推薦せられ、第一館の工事を督し功を奏したり。越えて十八年、社員の請により居を新築会館に移し、家事の係累を絶ち、専ら斯道(しどう)に従事することとなり、本社の柱石を以て目せらるるに至る。居ること十余年亡弟伊藤七郎平氏に代わり、本社副社長に累進し、死に至るまでその任に尽くされき。君や八十の高齢に達するも、しかもよく杖をひいて徒歩するを厭わず、西、濃三二州より東、駿州に及び、各社を巡回し、社員の教導ほとんど虚日なし。所説言々肺腑より出で、至誠聴く者を感動せしめ、社員の信頼その倫をともにするものなかりき。さきに遠江国報徳社社は君の熱誠を感謝し、感謝状に三つ組銀杯を贈呈し、眉寿万年を祈りしが、天寿かぎりあり。今ここに六月十八日八十一歳を以てにわかに逝去せらる。越えて七月三日社葬を以て玄忠寺畔、安居院先生の墓側に葬る。ああ君の如きは、至誠一貫道のために尽したるの士と謂うべし。 われと云う こころを捨てゝ 老ぬまで 勤め励まん 道のまことをという自詠はよく翁が畢生の覚悟を吐露せられたるものと云うべきか。
2026.09.09
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(三)その3【開爐(三)】 世界火爐闊一丈 (世界火炉闊きこと一丈)不知古鏡闊多少 (知らず古鏡闊きこと多少ぞ)落葉不禁霜後風 (落葉は禁えず霜後の風)獼猴怕寒永夜叫 (獼猴は寒を怕れて永夜に叫ぶ) わたしは哲学者というものはどういうものか知らんが、よそ事をいうておって、いや、カントがどうやたら、ヘーゲルがどうやたら、ベルグソンがどうやたら、よそ事ばっかり。それが自分の問題であれば大いに結構だが、なんやら倫理学者にしても本を読んで調べておるような気がする。自分の問題であるならば、それは大いに結構じゃが。 宗教家もまた、自分の問題を抜きにして、歴史とか、国漢のお調べとかをしてござるような気がする。それならなんでもない話である。宗教でもなければなんでもない。国漢でもちょっと下手くそ、歴史でもちょっと下手くそ。釈迦の年代を調べて、「わしの調べたところでは、三年間違っておる。二千五百三年経っておる」とか、そんなものが三年多かったって、少なかったって、自己の問題にそう関係がない。われわれこの自己の問題、自己の問題とすれば、この無限というものを参究すればするほど、有限である自己とのつながりを、これをいかにせんということが問題となる。ここに古鏡の闊きこと多少ぞ。 こう押してくると、これも昔話ならいい。仏壇に祀ってある仏さんならー。また、昔の坊んさんの話ならいいが、生きた人間とすると、色気もあり、食い気もある。風邪も引く、動悸もする。肺病も患う。肋膜に水もたまる。入院したいが金がない、泣けて来る。ひがむ。根性が悪うなる。盗人をする。それで、どうも、この人間の問題となるというと、これがなかなか問題である。 この人間の無限というものと有限というものとの、この交錯点が、わたしは仏道という宗教だと思う。 例えば、真宗の後生願いが、「仏様は助けるに間違いない。凡夫は堕ちるに間違いない。地獄、餓鬼、畜生、三悪道より行き場所のない婆だ」という。「仏さんは助けるに間違いない。あんたは堕ちるに間違いない。どっちが本当や」ヒョロッとしておる。「仏さんは助けるに間違いない。それはもう如来様も行も願もお立て下さって、五劫思惟、兆載永劫の御修行、それでこの身このまま助けて下さるぞよ」これは間違いない。ところが一方「貪欲、瞋恚、愚痴、の三毒煩悩を持つゆえ、地獄、餓鬼、畜生、この三悪道より行き場所のない婆じゃぞよ」これも間違いない。そうしたら、「あんた地獄、餓鬼、畜生、三悪道より行き場所がないのでございますか」と聞くと「ヘエー」といって、自分のことにせん。言葉だけ別々に憶えている婆。また言葉だけ別々に説教師。これはなんやら気楽にー。 この地獄に堕ちる者と、堕ちる物を救う仏とのつながり、この一番終いの肝心な一押しのところを聞きもせず、説きもせず、梅干しは酸いまま、辛子は辛いまま、凡夫はそのみそのままだけー。それでナンマンダブツ、別々に言葉を憶えておって、それで有難い、賽銭を投げておる。いったい結局どうなるのか。それをわからずにおる。(大智禅師偈頌講話p.183-184)
2026.09.09
「プーチンの“聖域”が燃えた」黒煙に包まれたソチ、ウクライナが突いた“意外な弱点”ウクライナが9月に入り、ロシアの黒海沿岸のリゾート都市ソチを集中的に攻撃しており、その背景に関心が集まっている。ウクライナメディアのユナイテッド24など現地メディアは6日(現地時間)、ウクライナ軍が自爆ドローン(無人機)でソチ国際空港にあったロシア軍の攻撃ヘリコプター「Ka-52」と「Mi-28」を完全に破壊し、ヘリコプター「Mi-8」を一部破壊したと報じた。今回のウクライナによる攻撃は4日、ソチにある空港や石油施設などを標的に同時多発的に行われ、ロシア側の被害も相当な規模に上るとみられている。まずKa-52はロシアのカモフ社が製造したもので、1機当たりの価格が少なくとも1,600万ドル(約24億4,900万円)を超える高価な最新鋭ヘリコプターだ。Mi-28は米国の「AH-64・アパッチ」に対抗するために開発された全天候型の攻撃ヘリコプターで、こちらも1機当たり1,600万ドルを大きく上回る。特にこの日のウクライナによる攻撃で、ソチの空は黒く染まった。ソチ空港近くのロスネフチの燃料貯蔵施設など2か所の石油精製施設で、計9基の燃料タンクが爆発し、大規模な火災が発生した。この影響で巨大な黒煙が立ち上り、ソチの空は昼間にもかかわらず夜のように暗くなり、航空機の運航は11時間にわたって全面的に停止された。これに先立ち、3日にもソチ港に停泊していた多目的支援船「ネフリト」が、ウクライナの水上ドローンによる攻撃で破壊された。ソチはウクライナ領から560km以上離れているため、ロシアはこれまで主要な軍事資産をクリミア半島からソチへ移してきた。しかし、ウクライナの長距離攻撃能力が向上するにつれ、ソチも新たな攻撃対象として浮上している。特にソチは2014年冬季オリンピックの開催地で、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が最も愛する保養地であるとともに、公邸もあり、外国首脳をたびたび迎える権力の象徴的な場所でもある。こうした地域の沖合と領空への侵入を許したことは、プーチン政権にとって政治的・軍事的な屈辱になる。
2026.09.08
「安居院庄七と鷲山恭平」が新たに金城学院大学図書館の蔵書となり30大学図書館蔵書となっている大学図書館所蔵 30件 / 全30件宇都宮大学 附属図書館図沖縄国際大学 図書館鹿児島県立短期大学 附属図書館鹿児島純心女子短期大学 図書館鹿屋体育大学 附属図書館図関西国際大学 メディアライブラリー三木九州大学 中央図書館九州産業大学 図書館京都大学 教育学部 図書室金城学院大学図書館神戸学院大学 図書館 有瀬館駒澤大学 図書館静岡県立農林環境専門職大学 図書館図静岡産業大学 藤枝図書館信州大学 附属図書館 中央図書館図高崎経済大学 図書館図大東文化大学 図書館東海大学 付属図書館 静岡図書館東京農業大学 生物産業学部図書館生産図東北大学 附属図書館本館豊橋創造大学 附属図書館長崎大学 附属図書館日本女子大学 図書館図書館浜松学院大学 図書館図弘前大学 附属図書館本館北陸学院大学 ヘッセル記念図書館北海道教育大学 附属図書館大和大学 図書館酪農学園大学 附属図書館図立命館大学 図書館
2026.09.08
札幌農学校教授・宮部金吾 その6九 札幌農学校生徒時代(明治一〇年―一四年)1 東京より札幌へ(三二頁)官費生応募 東京英語学校一級在学中、明治一〇年六月一四日、開拓使九等出仕堀誠太郎氏が英語学校の我が一級の教室を訪れて札幌農学校の官費生募集の演説をした。堀氏は植物分類学者理学博士中井猛之進氏の厳父で、クラーク先生が校長だった米国アマスト市の州立農学校に学び、帰朝して、クラーク先生の通訳をしていた。氏はその時、初めに北海道の開拓を説き、更に進んで北国の風物を興味深く面白く話され、終りに官費制度の事を詳細に語られた。学費の乏しかった士族の子弟が多かったので、官費であるという点が特に注意をひき、一二名も志願する結果となり、時の校長、服部一三氏を驚かす事となったのである。当時、私は前にのべた松浦竹四郎氏の著書や直話で蝦夷(えぞ)を知っており、遥かなるその土地をなつかしく思っていた時の事とて、堀氏の演説で、蝦夷植物の探求心はますます燃え、帰宅して直ちに母に許しを乞うた。私は前年にも志願する資格は有ったが、兄が二人共(長兄美勲は宮城県庁に、次兄文臣は神奈川県庁に勤めていた)不在のため許されなかった。しかしこの年には横浜にいた次兄が農商務省山林局へ転勤になって帰宅していたので、晴れて札幌遊学を許された。そしてその翌日、喜び勇んで登校したところ、やはり親の許しを受けて内村鑑三、太田〔新渡戸〕稲造の二君が、雀喜して登校してきた。この時からこの三人は生涯にわたる最も親密な友情関係を結んだのである。英語学校の一級、二級の生徒は無試験入学を許されていたので、体格検査を受け、これも無事通過して、私は明治一〇年七月二七日付で「開拓使付属札幌農学校官費生を申付」という辞令を受けた。当時の入学者は次の如くである。東京英語学校より入学(一二名)足立元太郎、藤田九三郎、伊藤英太郎、伊藤鏗太郎、岩崎行親、毛受駒次郎、宮部金吾、永井於莵彦、太田稲造、佐久間信恭、高木玉太郎、内村鑑三、工部大学予科より入学(四名)広井勇、町村金弥、南鷹次郎、諏訪鹿三、長崎英語学校より入学(二名)村岡久米一、西村規矩 計一八名。この一八名は東京に家があるなしにかかわらず、皆、芝区新橋五丁目の植木屋という開拓使御用宿に集合を命じられ、約一か月間、同処の二階を占領し、元気極めてハツラツたるものがあった。この時、私と内村鑑三、太田稲造、岩崎行親の四人は六畳の間に陣取って四人組を組織し、立行社(身を立て道を行うの意)と名付けていた。藤田九三郎君の遺された日記によれば、八月一日に開拓使より、金一〇円と服等(上着、ズボン、帽子、シャツ、ズボン下、靴、靴下)を受け取り、2日には雨着、カラー、襟飾り、ズボン吊り等を受け取るとある。八月一〇日は立行社の仲間と共に芝日蔭町の玉松という写真館で新調の制服を着用して一同並びに各自の記念写真を撮った。私はちょうどその時、一七歳六か月であった。なお植木屋に滞在中、開拓使の特別の交渉により、開会前に第一回内国勧業博覧会の縦覧を許され、掛員引率の下に、2台の乗合馬車にて上野の会場へ行った。出品物がだいたい陳列済になった時であったため、ゆるゆる充分に縦覧ができて一同大いに満足した。たまたま一行の一人、足立元太郎君が、日蔭町の古本屋で、A.GRAY著Field,Forest and Garden Botany と CHAPMAN著の Flora of Southern States を買ってきた。この本は純粋な分類学書で科や属の検索表や種類の記載が記してあるが、足立氏は使途が判らず、つまらぬ本を買ったと後悔していたので札幌に来てからそれを譲り受けた。これより先、英語学校在学中、神田の聖堂にあった書籍館に通って植物書を漁っていた私は既にA.GRAY著Lessons in Botany や How Plants Grow を読んでいたので、グレーの本の面白さをよく知っていた。後年これらの本は、私の植物学研究初歩の時代にどれほど、役に立ったかわからない。札幌へ(三五頁) 笈(きゅう)を負(お)うて〔(史記蘇秦伝から)勉学のために故郷を離れる意味〕、青雲の志を抱き、いよいよ故郷東京に別れを告げ、明治一〇年八月二七日、品川より開拓使の御用船玄武丸にて出帆した。玄武丸は六四四トンの蒸気船で、今日でこそ、小さな船であろうが当時としては鄙には稀な豪華船であった。もっともこの豪華船は非常に動揺しやすく、一名ゴロタ丸の別名を有していたほどである。中央部甲板の下にホールがあり、このホールは食堂兼談話室であった。ホールを中心にして一等室があり、各室とも定員二名、二等は舷側にあって定員四名、ベッドは上下に位置していた。三等室は舳(とも:船首)にあって、荷物が輻輳(ふくそう)すると積荷はその室にまで溢れて来た。私たちの乗船した時は、幸いに船客が極めて少なく、一行は一等室もしくは二等室をあてがわれた。この引率者は幹事であり、予科で英語の教師を兼ねていた井川冽氏である。途中大分荒れて一行にも船酔いを催すもの多く、町村金弥君はその時の船酔いの旗頭であった。八月三〇日函館に入港、九月二日まで停泊した。蝦夷の関門にいよいよ上陸第一歩をしるし、さわやかな陽の光に、感銘深い永き憧憬の地の初秋を感じた。暇を得て、函館山に上り、さまざまな珍しい植物に眼を惹かれ、また碧血之碑〔函館戦争で旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑。碧血とは「義に殉じて流した武人の血は三年たつと碧色になる」(荘子)という中国の故事によるもの〕なども訪れてみた。町は思ったより相当殷賑(いんしん)であったが、やはり東京から来て見ると異郷に渡って来た思いがした。すれちがう女の魚売りの「さかなかはにしかね、さかなかはにしかね」と聞こえる呼び声や、「ぞにもつ、するこもつ」(雑煮餅、汁粉餅)などの看板に遥かに来た道の遠さが思われた。九月三日早朝つつがなく小樽に入港、海路は極めて平穏であった。直ちに下船、入船川のほとりの海に面した宿で朝飯をしたためる。当時、手宮はまだ漁村で、入船町のあたりが港の中心であった。食後、馬二〇頭、鈴の音をひびかせて、いよいよ一同札幌に向かう。国道は海浜に沿い、銭函までは漁村が散点していた。ただ張碓(はりうす)に近いカムイコタンだけは、道路が未完成で、高い断崖下に岩礫がるいるいしていた。好天に恵まれ、海も静かであったため、波浪の洗礼もうけないで馬上無事通過、なお海沿いに銭函に進み、小坂をあがった所の宿で昼食をとり、鄙びた饅頭を食べる。この饅頭は銭函名物なりし酒饅頭の前身である。これから道は海にわかれ、鬱蒼たる森林を縫って軽川から琴似(ことに)に向かった。この間、所々に農家が散在していた。琴似で始めて屯田の建物らしい建物を見、ぽっかりと人里のあたたかさを感じ、またことに屯田の事務所や小学校などが爽かに眼についた。一行は遂に渡嶋通り、すなわち南一条から北二条西二丁目の薄暮の寄宿舎に着いた。布団もない荷物を両側に付けた駄鞍にのって来たので、尻は勿論、始めて乗った馬とて体の節々も痛く、気鋭の若者も一同大いに疲労した。玄関はひっそりとして一人の出迎えてくれる上級生もなく、全然空屋のような静けさであった。ただ遠くの室で、何か集会があるらしく、歌の声などが聞こえてきた。後でわかったことであるが、その時、上級生一同は復習室に集まって、ちょうど祈祷会を開いたところであったのだ。まず食事をとり、風呂に入る。二人ずつ既に割り当ててあり、各室のドアーの側に名札が掛っていた。実に偶然といえば偶然、私と内村君は同室になっていたのだ。ほの暗いランプの下で、虫の音を聞くともなく聞いていると、遥かに来た旅愁を身にひしひしと感じた。当時寄宿舎の規定で、各学年ごとに室をかえ、また同時にコンビネーションもかえることができるようになっていたが、私共両人は室は変っても離れることなく、四年間一緒にいて、最も平和な楽しい生活を共にすることができた。2 札幌農学校(三七頁)札幌を北海道の首府とし、市街を形成したのは、明治五、六年のことである。明治二年六月、中納言議定鍋島直正を蝦夷開拓総督に、ついで同八月東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)が開拓長官に任ぜられた。更に明治三年五月、黒田清隆が東久世長官の下に開拓次官となった。黒田次官は明治七年八月長官となり、明治一五年一月まで在任、「開拓使の黒田、黒田の開拓使」とうたわれた本道開拓の一巨星である。黒田長官が本道開拓政策中特に讃えられるものに二つある。その一は外人の招へいであり、その二は人材の養成である。彼は開拓使顧問兼頭取として米国農務卿ケプロン将軍を初めとし、実に七〇有余名、うちアメリカ人四〇名を招へいし、開拓万般の科学的建設を勇猛果敢に断行させた。当時の国情よりすれば驚異すべき高額であったが、その結果より見れば、実に僅少なる犠牲に過ぎない。知識を広く海外に求め、従来の独善的、島国的根性を離れ、断乎たる新政策を行ったところは今日も大きな訓戒がある。しかし、いつまでも他力本願に甘んずべきではない。ここに第二の大きな手が打たれた。それは邦人人材の養成であり、留学生派遣と学校の建設の二途である。黒田次官は、明治四年正月、海外視察に赴く時、七名の青年をともなって、開拓使から留学させた。内に後の東京、九州、京都の帝大総長となった山川健次郎男爵の名も見える。その後、前後あわせて三〇余名を送り出し、更に人材養成の根本は、女子にありとの見解の下に五人の女子留学生を出した。それは一六歳を年長とし、最幼、津田梅子九歳の少女であるから驚かざるを得ない。開拓使の遠大な抱負も、中途で断絶するに至ったけれども、大学男女共学は七〇年後に実現した。たとえこの第一の方法において成功を見なかったとしても、第二の学校建設においては、それを補填して余りある成功をおさめたのである。ケプロン卿は、開拓使顧問として、北海道の拓殖産業及び教育上に貢献するところが多かった。明治五年に提出した第一年報に「開拓使は科学的、組織的、かつ実用的な農業を起すために全力を傾注しなければならない。この目的を達するには、東京及び札幌の官園に連結して学校を設け、その内において農学の重要なすべての部門を教授することを最も有効にして経済的な方法とする。」と建言している。かくて、明治五年四月まず東京芝増上寺内に開拓使仮学校を設けるに至った。これがわが国で拓殖に必要な人材養成を目的とする学校の最初のものである。北門開拓の基地、札幌は、明治二年島判官が創設にかかった時は、人家わずかに二戸に過ぎなかったが、その後着々建設され、人口二五〇〇名を数えるに至ったので、明治八年八月に学校をこれに移し、札幌学校と称した。これらの学校は普通学を授けたもので、その生徒の学力も進んだので、さらに専門学科を設けることとなり、ここに明治九年八月一四日札幌農学校の創設となったのであって、これすなわちわが大学の真の前身であり、芽生えであった。札幌農学校開設のため、黒田次官はその指導経営の任に当たる人物の選定を、時の米国駐在公使吉田清成氏に依頼して、マサチューセッツ農科大学長ウィリアム・エス・クラーク博士を得た。博士はホイラー、ペンハローの両卒業生を伴って来朝し、母校の組織にならって、教則を編み、教育を始めた。クラーク博士がいかなる方針と意気をもって教育に当ったか、これを知るには、クラーク博士が八月一四日の開校式に当って開拓使長官、調所校長に続いて行った演説を見るべきである。まず「この最初の農学校の盛典にあずかり、胸の内に満足と感動がある」と前置きし、「今より数年を出ないで北海道の農業を勃興し、大いに生産を開くことにおいて、この学校のあずかって力あることを疑わない」と自信あるところを示し、「黒田閣下が北海道において農学校建立をもって着手の第一とする。盛挙というべきである。願わくは他日この学校の偉功が自ずから今日の公の画策が卓越であったことを表明することを」と述べ、「我輩は、まさに自ら模範となり、また教授となって学生諸子の心思の中において人生有用の器であるために、特に適合する才能を勉めて発揚させたい」と、学生の才能を啓発せんとする、自主的教育法を説き、さらに「回想すれば、数百年間、東洋諸国民を多年暗雲のように包蔵した階級、門地と因習の暴君の手から、この驚異すべき解放は、将来、教育を受けるところの学生の胸中に必ずや崇高なる志を喚起覚醒させるであろう」と、維新大業の性格を明らかにしている。かくて、学生を戒めて「君らはよろしく自国において、勤労と信任及びこれから生ずる栄光の最上地位に適するよう努力せよ。健康を保し、情欲を制し、従順と勉強との習慣を養い、時機の学ぶべきに遭うならば、学術の何かを論ぜず、力の及ぶ限り、その知識と熟練とを求めよ。・・・・・・重要の地位は常に正直で聡明剛毅の人材を渇望している」と説き、「遂にひとり北海道人民だけでなく、日本全国の尊敬と支持とを受け、かつ、これを受けて恥じないようになるであろうことを私は予め潔く信ずる」と結んでいる。この言葉一つ一つを玩味するとき、今日の私たちに、多くの考慮と示唆を与えることを認めざるを得ない。
2026.09.08
20歳以上の5人に1人が慢性腎臓病。患者増加の最大の要因とは。専門医「健康診断では<腎臓を壊す四悪きょうだい>の数値に要注意」上月正博先生「慢性腎臓病はいまや新国民病と言っても過言ではありません。発覚してからではなく、日頃から腎臓をいたわる生活を続けることが何よりも大切です」慢性腎臓病は、腎臓が慢性的な機能低下状態におちいるさまざまな病気の総称です。慢性腎臓病の定義が国際的に導入されたのは2002年のことでした。それからわずか20年ほどの間に、患者数は急激に増えています。日本国内における20歳以上の推定患者数は、05年の時点では1330万人でした。それが15年には1480万人まで増加。24年の統計ではさらに増えて、2000万人という数字が出ています。これは20歳以上の国民の実に5人に1人が患っているという計算です。患者数が増えた背景15年から24年の間に500万人以上も患者数が増えた背景には、いったい何があるのでしょうか。慢性腎臓病を引き起こす主な疾患として、糖尿病や高血圧といった生活習慣病がありますが、治療薬は進化していますし、近年になって著しく数が増えているわけでもありません。急増している主な原因、それは、年をとること。いわゆる加齢です。ネフロンは年齢を重ねるにつれて数が減っていきます。それにともなって、腎臓の機能も自然に衰えて、原因となる疾患を抱えていなくても、慢性的に腎機能は低下してしまうのです。慢性腎臓病を患うリスクは高齢になるほど上昇し、患者の約2000万人は大半が高齢者です。成人全体では5人にひとりですが、70代では3人に1人、80代以上では2人に1人という高確率で慢性腎臓病を患っています。長生きが当たり前になったことで、高齢になるほど患うリスクが高まる慢性腎臓病に直面する人も増えているというわけです。もはや、慢性腎臓病は誰もが目を背けることができない問題であり、新しい国民病といっていいでしょう。高血圧・高血糖・高尿酸・高LDLコレステロールの“四悪きょうだい”が腎臓を壊す腎機能の低下は、そのスピードにかなりの個人差があります。80歳や90歳になっても腎臓が元気に働いている人もいれば、40代でだいぶ弱っている人もいます。なぜこれほど大きな差が生まれてしまうのでしょうか。ここで浮上するのが高血圧、高血糖、高尿酸、高LDLコレステロールという4つの危険因子です。これらは、腎臓を痛めつける四悪きょうだいともいうべき存在。腎臓に大きな負荷をかけ、加齢とともにゆっくり進むはずの機能低下を加速させてしまうのです。高血圧や高血糖は血管にダメージを与えることが知られていますが、大量の血液をろ過するネフロンの糸球体も、毛細血管の集まりです。そのため、腎臓もまた、高血圧や高血糖の悪影響をダイレクトに受けてしまうのです。高血圧や高血糖は、腎臓内の血管にダメージを与えて慢性的な炎症や動脈硬化を招くとともに、糸球体のろ過機能も壊します。毛細血管のかたまりである糸球体のまわりには網の目のように細胞が絡みつき、フィルターの役目を果たしています。しかし、高血圧や高血糖の状態が続くと、過剰な圧がかかることで細胞がはがれ落ちてしまいます。その結果、ろ過機能は低下し、本来は体に残すはずのものが尿として出てしまうようになります。こうなると、腎機能はみるみる悪化していきます。尿酸値が高くなっている場合も、腎臓にとっては大ごとです。尿酸はプリン体を摂取した際に分泌されますが、尿酸値が高いと痛風になります。痛風といえば美食家がかかる病気で、足の親指の付け根などが激しく痛むイメージが強いかもしれません。これは痛風結節と呼ばれるもので、足などの関節内で尿酸が結晶化し、炎症化することで起こりますが、同じように腎臓にも尿酸の結晶ができてしまうのです。これは痛風腎と呼ばれ、炎症も起こして腎機能を大きく低下させてしまいます。もうひとつ、LDLコレステロールも要警戒な存在です。悪玉コレステロールとも呼ばれるLDLコレステロールは、過剰になると血管に沈着し、悪影響を及ぼします。腎臓内でも糸球体などの血管に沈着し、動脈硬化を進めてしまうのです。もし、健康診断でこれらの数値が正常値の範囲から逸脱していたら要注意です。改善しないままだと、そのうち腎臓にも異常が生じます。もちろん、これらは腎臓以外にとっても厄介者です。高血圧や高血糖は生活習慣病を招く大きな要因ですし、尿酸やコレステロールの異常は、腎臓より先に心臓に障害を与えます。全身の健康のためにも、腎臓を壊す四きょうだいを暴れさせないよう気をつけましょう。◎今注目されているのが**「腎硬化症」です。これは主に高血圧**によって腎臓の血管が硬くなり、機能が低下する病気です。現在、透析導入原因の第2位となっており、急速に増えています。特に深刻なのは、高血圧疑いがある人の受診率の低さです。高血糖(糖尿病)疑い:受診率 53.6%高血圧疑い:受診率 36.2%糖尿病に比べて、高血圧は「まだ大丈夫だろう」と放置されがちです。しかし、腎臓を守るためには、適切な血圧コントロールと禁煙が何よりも重要です。2027年度から健康診断が変わる!「血清クレアチニン」の義務化腎臓病の早期発見のために、大きな制度改正が進んでいます。2027年度(令和9年度)から、職場の一般健康診断の項目に「血清クレアチニン(腎機能検査)」が追加される予定です。これまで、健康診断で腎機能を詳しくチェックしていなかった方も、今後はより早期に異常に気づけるようになります。また、異常が見つかった際に、かかりつけ医と専門医がスムーズに連携できるよう、「CKD協力医(連携医)」という制度の構築も進められています。専門医不足という課題に対し、地域全体で患者さんを支える仕組み作りが始まっています。
2026.09.08
「大腸がん」は「内臓脂肪の老化」から始まる!?すべての病気の原因「老化」を遅らせる科学的な方法とは【京都府立医大・内藤先生が解説】9/7(月)――昨今老化研究の分野では新しい領域「ジェロサイエンス」というものが登場したと聞きました。従来は基礎的な老化研究と、病気ごとの臨床医学は別々に進められてきました。しかしジェロサイエンスという医学新領域では、すべての病気の根本原因である老化プロセスそのものを標的とし、がんや代謝疾患、運動器疾患などをすべて加齢関連疾患として遅延・予防・治療することを目標としています。ジェロサイエンスの登場によって、一つの症状や病気を抑え込んでも別の場所やタイミングで新しい不調や症状が出てくる病気のもぐら叩きから脱却し、老化スピードを遅らせることで健康寿命を延伸し、長く社会貢献を目指すことができると期待されています。――何かしらの病気にかかったときに、大元の原因の一つが老化だったということもあるんですね。そうですね。たとえば日本人女性の死因第1位である大腸がん。これは大腸の粘膜に発生する悪性腫瘍ですが、実は近年の研究で大腸がんは単なる大腸の問題だけではなく、内臓脂肪の老化が最初に起きていることがわかってきました。このように体の一部の老化が全身の臓器とも深く関わっている臓器連関という仕組みがあるため、病気を患った場所だけを注視しても解決できないこともあるのです。――老化研究はここ数年で急速に進んでいるんですね。そうです。よく実年齢とは異なる体の若さについて『体内年齢』と聞きますが、これは体重や体脂肪率、筋肉量など体の構成成分が同年代の平均値と比べてどの程度か示したものです。しかし最新の研究では血液検査によって遺伝子の状態(DNAメチル化)から細胞レベルの老化を科学的に測るエピゲノム年齢というものも2013年に登場しています。簡単な採血でどの臓器がどのくらい老化しているのか、生物学的年齢は何歳なのかがわかる時代になってきました。そしてこの生物学的な老化を細胞レベルで測定することで細心の長寿研究で裏付けられた効果的な若返り方法を実践することが可能になっています。――ほかに老化を測る指標のようなものはあるのでしょうか。2013年にオランダで生み出されたAGING HALLMARKS(エイジングホールマークス)というものがあります。これは老化の根本的なメカニズムを特定する枠組みで、2013年に9つでしたが、2023年には12の老化要因として定義づけられました。極めて複雑な老化研究において、研究者や科学者が使用する共通言語となり、このエイジングホールマークスによって老化研究はさらに加速しています。なお12の項目はミトコンドリア機能障害や細胞老化、栄養感知の調節不全などさまざまあり、それぞれ関連し、互いに影響し合って全身の老化を進行させます。中でも私が注目しているのが2023年に新しく追加された項目の一つであるディスバイオシス(腸内の細菌バランスが乱れ、善玉菌と悪玉菌の比率が大きく偏る状態)。私が2017年から長寿研究をしている京都府の京丹後市の高齢者においても、腸内環境が大きく関わっていることがわかってきました。――京丹後市を含む丹後地域は、100歳以上の高齢者の割合が全国平均の約3倍に達する有数の長寿地域ですよね。はい。京丹後と東京の65歳以上の高齢者を比較し、最新のDNAメチル化プロファイル解析をすると京丹後の高齢者はエピゲノム年齢が明らかに若いことがわかりました。また京丹後の高齢者の持っているビフィズス菌を研究すると、善玉菌であるビフィズス菌を多く保持しています。赤ちゃんの頃は腸内細菌の大部分を占めるビフィズス菌は加齢に伴い減少していくのが一般的。しかし京丹後の高齢者の腸内には炎症を起こす菌が少なく、健康を維持する善玉菌や酪酸など短鎖脂肪酸を作り出す菌が優位に保たれていることがわかりました。また認知機能がしっかりしている人ほどビフィズス菌が多かったです。――その要因は何なのでしょうか。調査研究では京丹後の高齢者は主に野菜、海藻、豆、芋などを食物繊維を豊富に含む食材を多く食べているようです。やはりこれらの発酵性食物繊維や水溶性食物繊維がビフィズス菌や酪酸菌のエサとなっているのでしょう。逆に肉など動物性タンパク質はあまり食べず、豆や魚など日本人が昔から親しんできた食生活をしている高齢者も多いです。腸内環境は食事の栄養で変化するわけですが、外的なストレスが腸に影響を与え、善玉菌の減少や悪玉菌の増加といった腸内細菌叢の乱れであるディスバイオシスを引き起こすとも言われています。また腸内環境の果たす役割は認知症など脳の健康においても非常に大きいことも明らかになっていますよね。京丹後の高齢者は日本食中心の食生活、ストレスを緩和する運動や地域コミュニケーションによってビフィズス菌や酪酸菌などの善玉菌を豊富に含む腸内環境を保持しているからこそ、体も脳も若く健康で長生きできているというのが現在までの見解になっています。
2026.09.08
奉祝詞 小野江善六(「二宮先生五拾年祭紀念号」p57-58)遠江国報徳社副社長小野江善六頓首頓首謹みて二宮先生五十年の霊祭を慶祝し奉る。夫れ神は人の敬するに由て威を増すと聞けり。敬とはこれを尊信するの誠あるをいう。朝廷さきに二宮神霊に贈位あり。なお社格を県社とせらる。その尊信を国民に宣命したまうなり。あに奉祝せざるべけんや。 そもそも善六生れて二十七歳にして初めて報徳学に入る。今年八十歳。この学に従事する事五十四年、今かくの如き皇恩をうけ、霊祭の典を観るに至れり。つらつら既往の閲歴を回顧すれば、文政九年丙戌(ひのえいぬ)年、善六生まるの時は報徳学の開祖二宮先生師荒蕪をひらき善種を下し、良根を培養し、人心を改良するに千辛万苦心力を尽したまい、桜町の興復ようやく緒につかんとするの時なりき。善六志し、もとより実行にあって文才なし。長ずるに及んで幸いにこの道正しく実践の容易なるを知り、信仰を他に求めず。一意専心生涯をここに托するに至れるなり。質性愚鈍文盲、もとより効績の見るべきなく、ただ徳を尊び教えを信ずるの志、老いて益々厚しといえども、身体衰え気力うせり。またこれをいかんせん。善六一度報徳の教えを知ってこの道を信ぜしより今に至るの間、世の乱れ、時の変にも動かされず。これを楽しみ、かつ養われて年を保ち、余生を終らんと。皆これ先生の恩徳によると感謝常にやむことなし。ここに本日の盛典に列しことに深し。国民の敬信日に厚く在天の神霊益々光を放ち、我が道の隆盛を下したまわん事を謹み敬い恐れみかしこみ申す。 明治三十八年四月二日 遠江国報徳社副社長小野江善六 敬白
2026.09.08
今市町における二宮先生の生活及び清廉 曾根文七、沢井義栄(「大日本報徳学友会報第六十七号」) 二宮先生が、幕命を奉じて当地(日光)に赴任されたのは、六十七歳の時で、既に先生が各所において、永年の間、報徳の大道を実行され、功成り名遂げ、富もまた子孫を潤すに足るという境遇であった。尋常の人であれば、隠退自適、余生を過ごすべきに、いわんや当時大病の後であり、いまだ衰弱旧に復しない時であった。しかし、先生は志操が堅牢であり、その老衰の身を挺して公命を奉じ、その主義のために身を犠牲に供されたご決心のほどは、実に欽仰の情にたえない。 今、古老の伝えるところによれば、先生が平素自ら節倹を行われたのは、実に驚嘆するほかはない。衣服の如きも、平素は勿論、たとえ、高貴の前に出る時にも、木綿の外は決して身に着けられる事はなく、食物に至っては更に甚だしいもので、朝食は必ず茶漬け、その他一汁一菜は平生の常食である。先生は老体の上に、病後なお衰弱が甚だしいので、家人はこれを憂えてしきりに摂養を勧めるも、先生は頑としてこれをしりぞかれて、「いやしくも公命を奉じて、民衆をひきいるものが、たとえ、病を養うとはいえ、安眠美食をむさぼるのは、予が主義ではない。予は倒れて後止むものなり」と仰せられたという。先生が衆人に示さんとして、玄関の正面に、書かれた歌に 楽しみは木綿着物にめしとしる その余は我れをせむるのみなり 以て先生の平生を推知すべきである。先生はことに皮付き芋を嗜好されたが、決してその皮をむかせられなかった。これは農夫の辛苦を思いやって、捨てるに忍びない、とされたからという。 また先生が巡視中、時に民家に一泊されたことがある。当時、農民の官吏に対する取扱いは、極めて尊重していて、先生に対しても、また他の官吏の如く相当の膳部を供するものがあれば、先生はいかにも不興の体で、「予はもとより、農夫は一汁一菜に甘んじるべきことを奨励している。以来予に対してはこのような馳走を設けるに及ばない」と仰せられて、その一菜にのみ箸をつけられて召しあがられない。しかし、村民は先生の意を察しないで、一時の辞譲の言葉として、其の後再び前の如き膳部を供しければ、先生は大いに怒り、その不心得をせめ、始末書を徴されたという、奇談さえある。
2026.09.08
米制裁のICC赤根所長「私は諦めない」 オンライン講演で支持訴え9/7(月)米国のトランプ政権から制裁対象に指定されている国際刑事裁判所(ICC、オランダ・ハーグ)の赤根智子所長が6日、東京都内で開かれたイベントでオンライン講演した。制裁について「法の支配に対する違法な脅しだ」と指摘したうえで、「大国の圧力に沈黙することは、力による支配を是認することになる。私は諦めない」と訴えた。ICCは2002年、ローマ規程に基づき、各国政府や国際機関から独立した常設の国際裁判所として設立された。集団殺害犯罪(ジェノサイド)、人道に対する犯罪、戦争犯罪、侵略犯罪について、個人の刑事責任を追及する。米国は加盟していない。 今年7月、米国務省は「米国の主権に対するICCの脅威を取り除く」として、ICCの「解体」を目指す方針を示した。8月18日には、赤根氏らを制裁対象に指定した。 赤根氏は講演で「どんなことがあっても私たちの信念は揺らがない。今まで通りICCの業務である捜査や訴追、裁判の業務を続けていく」と強調。制裁の即時撤回などを訴えるオンライン署名に14万筆以上が集まっていることに言及し、「私とは比べ物にならないほど苦しんでいる世界の被害者たちへの大きな声援として受け止めている」と語った。 イベントは、公共訴訟支援に取り組む認定NPO法人「CALL4」が企画。会場には約100人が集まり、赤根氏は「ICCに興味を持ち、支持してほしい。法の支配の重要性を自分事として考え、自分自身ができる行動をしてほしい」と呼びかけた。
2026.09.07
実写『ルックバック』出口夏希&蒔田彩珠らベネチア到着 レッドカーペット前に緊張と期待【第83回ベネチア国際映画祭】9/7(月)現地時間6日、実写映画『ルックバック』の主演を務める出口夏希と蒔田彩珠が、コンペティション部門に正式出品されている、第83回ベネチア国際映画祭に参加するため、子役の七瀬ふうりと岡田六花、是枝裕和監督と共にイタリア・ヴェネチアに到着した。無事に現地へ降り立った一行は、さっそく“水の都”ヴェネチアへ。名物のゴンドラに乗って運河を巡り、歴史が刻まれた美しい街並みを堪能し、出口は「水上タクシーを見て『ヴェネチアに来たな』と実感が湧いてきました」と目を輝かせ、蒔田も「建物が全部可愛くて、街並みがとにかく綺麗です」と初めて目にするヴェネチアの街に感激の表情を見せた。 また、出口演じる藤野の子ども時代を演じた七瀬は「空港が大きい!(笑)これまであんまり船に乗る機会がなかったので楽しかったです!」と興奮した様子。蒔田演じる京本の子ども時代役を務めた岡田も「島の方に手を振ったら、みんな振り返してくれるので楽しかったです!」と笑顔を見せ、キャスト陣の喜ぶ姿に、是枝監督は「みんな船に乗って、もうすでにだいぶ満足している様子なので……(笑)僕も満足です!」と満面の笑みを見せた。 さらに一行は、口々に現地で食べたジェラートの美味しさを絶賛するなど、映画祭を前にヴェネチアならではの時間を満喫した様子。明日に迫った公式上映に向け、出口は「色んな人に『ルックバック』を知ってもらう機会でもあるのですごく楽しみです!」と語り、蒔田も「念願の海外映画祭なので、ようやくレッドカーペットを歩けるんだと思うと楽しみです!」とコメント。一方、子役の二人は少し緊張しながらも、七瀬は「レッドカーペットを初めて歩くから緊張するけど、楽しめたらいいなと思います」、岡田は「とにかく緊張しますが、レッドカーペットで転ばないように頑張ろうと思います」と期待を口にする。そして、7年ぶり4度目のベネチア映画祭参加となった是枝監督は「頑張ってくれた4人と一緒に来れた事が嬉しいですが、スタッフもたくさん来てくれたので、皆で上映を楽しみたいと思います」と公式上映への思いを明かした。 現地ではメディアや映画関係者へのスクリーニングがそれぞれ行われ、合計約2,000人の座席は満員になったとのこと。終盤にはそこかしこからすすり泣きが聞こえ、終演後には、拍手が響きわたった。現地の期待も膨らむなか、監督や、キャスト、スタッフとともにワールドプレミアを迎える。『ルックバック』は、2021年に読切として発表され、2024年の劇場アニメ化も話題を呼んだ、藤本タツキによる同名漫画の実写映画化作品。漫画の腕に絶対の自信を持つ藤野(出口)と、彼女に憧れる圧倒的な画力を秘めた京本(蒔田)。漫画へのひたむきな思いで結ばれた二人の青春の日々と、ふりかかる思いもよらぬ出来事を描く。実写映画『ルックバック』は9月11日より全国公開
2026.09.07
札幌農学校教授・宮部金吾 その5八 東京英語学校(二六頁) 明治7年3月東京外国語学校英語科の試験を受けて合格し、最下級なる英語学下等六級の丁組に編入された。学校は神田一ツ橋に在って、現在の学士会館前に当り、元の商科大学敷地内に位置していた。この外国語学校の英語学の部門はその年の一二月に分離して東京英語学校となり。旧校舎の筋向いの榊原邸に移った。その敷地は開成学校(後の東京大学)の敷地の隣接地である。東京英語学校は明治一〇年に廃せられ、大学予備門に変った。英語学校の教育方針は全部英語のいわゆる正則主義で、教師は英米人が主となり、下級には邦人が加わり、最下級は邦人のみで担当した。英語学校の学級は一級から六級にわかれ、一級から三級までは一組、四級は甲乙の二組、五級は甲乙丙の三組、六級は甲乙丙丁の四組から成っていた。最下級六級の丁組を振り出しに、各級担任教員監督指導のもとに、毎月もしくは二、三か月ごとに小試験が行われ、その成績の優良なものは抜擢進級させる制度であった。私は入学当時は、六級の丁組にいたが、同年五月には級のもの四、五名と共に丙組に進級、六月には乙組に、九月には甲組に、同月重ねて五級の丙組に、一一月には五級の乙組に、翌八年の三月には五級の甲組に、七月には四級の乙組に、一〇月には四級の甲組に、更に翌九年の三月には三級に、九月には二級に、一〇年の三月には一級に進んだ。このようにほとんど試験のたびごとに進級を続けた。入学当時、同校に在学していた札幌に関係のある士、または知名の士を、明治七年三月発行の「東京外国語学校官員並生徒一覧」により、その若干を採録してみよう。下等一級―伊藤鏗太郎(札幌農学校第二期生)、柳壮蔵(北大医学部柳教授の厳父)、真崎健 吉(北大医学部真崎教授の厳父)下等二級―橋口文蔵(札幌農学校長をした人)、飯島魁、下等三級―中島信之(札幌農学校第一期生)、藤田四郎(藤田九三郎氏の弟、元農商務次官)、加藤高明、下等四級―末松謙澄、野村龍太郎(工学博士)、内村鑑三、下等五級甲組―土方寧、下等六級甲組―田中館愛橘、下等六級乙組―石川千代松、下等六級丙組―広井勇(札幌農学校第二期生)、下等六級丁組―宮部金吾(札幌農学校第二期生)この頃を考えると、教育の制度がちょうど一つの大きな過渡時代にあったように思う。生徒は多く東京で正則教授をしていた神田の共立学校からか、横浜の高嶋学校から入って来た。一級全科目を通じ一外人が算術、読み方、綴り方、地理、歴史等皆英語の教科書を使用してこれを担当していたが、明治九年頃には漢学が課程の中に加わった。また翻訳の組も出来た。私がやったのは、MurryのPhysical Geographyで、二月位で卒業と認められた。この組の受持は教諭下条幸次郎氏であった。教師についての思い出は散漫になっているが、その二、三を記してみよう。六級の頃にポート(POAT)がいた。彼は歯医者志望の英人で、米国遊学の途中日本に立ち寄っていたものである。私の前歯二本が虫歯になっているのを見て、直してやるから来るようにと誘われたまま、彼を訪問した所、前歯の穴にゴムを埋めてくれた。一通りの治療器具が揃っていて、それが美しく清潔に見えた。五級の甲組にいた時はマッカーサー(MACARTHUR)という酒飲みの英人がいた。商人あがりらしく、数学も加減乗徐くらいしか判らなかった。彼は生徒をよくかわいがり、しばしば生徒に遊びに来ないかと誘いかけた。私は級友と共にそこに算術を教わりに行き、分数のことを聞いたら、「分数?そんなことは判らないさ」と平然と答えた。四級の甲組に進んだ時にはマイヤー(MEYER)というフランス人の太った教師がおり、彼は私の試験点等評に“A good hard working boy”「宮部君は頗る出精なり」との評を与えてくれた。四級を終った時、彼を中心として撮った記念写真が今私の手許に残っている。その中には穂積八束(後年法学博士、東大教授)、近藤仙太郎(後年工学博士)、松田武一郎(後年工学博士)、伊藤悌蔵(後年控訴院判事)、市嶋謙吉(後年早稲田大学教授)、梅岩誠太郎(後年早稲田大学予科教授)、高木甚平、横井左久、内藤信一郎、鶴見次昌、曾我鼎三郎、山田義容に諸氏がいる。三級の時の教師のフェントン(FENTON)はイギリス人で昆虫学者だった。私が札幌に来た翌年石川千代松君を助手として札幌に蝶類の採集にやって来たことがある。二級の時の教師レーシー(LECEY)はアメリカ人である。彼は金星が太陽の前を通過した時の観測班に加わって来たまま、居残って教師となったので、数学が得意であり、また音楽にも趣味を持っていた。彼は私の点等標に“A model pupil, would make a fine teacher of Arithmetic”なる評をくれた。一級の教師はスコット(Scott)という米国の教育家で、英作文を教えることが非常に巧みであった。この組に入ってから英作文の上達は飛躍的であったと思われ、それが非常に後年のためになった。スコットは後ハワイの中学校長になっていた。一級の時の同級生中には後年有名になった人も少なくなかった。その中でも抜群なのは穂積八束君や酒井佐保君であろう。穂積君は級中での秀才で、特に同君の英作文は卓越したものであった。同級生の奇才として根岸錬次郎君がいる。同君は長岡藩士であり、河井継之助や森源三氏の一族であって非常な論客であった。ある時スコット教師はアメリカ人は一般に発音(pronunciation)が良くないがケンタッキー人は正しい。自分はケンタッキー州の産であると言うや否や、根岸君は直ちに“Yes, your pronunciation is very clear” と大音で誉めたので、スコット教師は赤面し、級友一同どっと爆笑した。同君は永らく日本郵船会社のロンドン支店長をしていた。戦前ロンドンを非常に親しみ「おらが村」と呼んでいた。この英語学校時代は母の膝下で全く勉学に専念した。学校は一時の油断も許さぬ進級試験制度であったので、夜はうす暗いランプの下で一一時過ぎまで勉強し、時には深更に及んだ。このために視力を弱めた。勉学に急がしかったから交友も少なく、多くは御徒町方面から通う連中と往復を共にした位のものであるが、一級上の高田早苗君とは家の近かったため特に親交があり、同君とは竹馬の交を深くし、時には上野の山を散歩し、球投げに仲間の四人高田早苗、梅若誠太郎、伊藤悌蔵の三君と私で撮影した記念写真が残っている。高田君は当時御徒町三丁目にあった母堂の令弟にあたる富田冬三氏の家に身を寄せていた。富田氏は後年農商務省の商工局長まで勤めた人で、旧幕時代から幕命を帯びて洋行をし、また維新になってからも二、三度西洋へ赴き、岩倉大使の欧米巡遊に際しては随伴したという経歴があって時勢に通じていた。いつも高田君に向かって、「何でもこれからは英語を学び、まず世界の大勢に通じなくてはならぬ」と教えていた。高田君と共に富田氏方に世話になっていた梅若誠太郎君は私と同級であった関係から親しく交わった。同君はのち文学士となり、宮城県書記官を勤め更に早稲田大学予科の教授となられた。なお球投げの仲間の一人伊藤悌蔵君は、私と同級で学校の往復によく一緒になった。同君は法学部を卒業され後大審院の判事になった。
2026.09.07
【卓球】平野美宇が3年ぶり復活優勝! 決勝で同い年の早田ひなに4―1で勝利 ダブルスとの2冠達成…WTTコンテンダー・アルマトイ 9/6(日) ◆卓球 ◇WTTコンテンダー・アルマトイ(カザフスタン) 女子シングルス決勝が行われ、21年東京、24年パリ五輪団体銀メダルで世界ランク38位の平野美宇が、同じ2000年生まれ“黄金世代”で、24年パリ五輪女子シングルス銅メダリストで同6位の早田ひな(日本生命)を4―1で破って優勝した。決勝で世界ランク1位の孫穎莎(中国)を破った23年7月のWTTコンテンダー・ザグレブ以来、WTTシリーズでは3年2か月ぶりの復活Vとなった。 同日に決勝が行われた木原美悠(トップ名古屋)と組む女子ダブルスでは、インドペアを3―0で破って優勝し、2冠を達成した。 一方の早田は、7月のスターコンテンダー・サン・ジョゼ・ドス・カンポス(ブラジル)に続く今季3勝目に届かなかった。 男子は戸上隼輔(井村屋グループ)が決勝でベテランのシモン・ゴジ(フランス)を4―0で退け、優勝。日本勢の男女アベック制覇となった。💛美宇ちゃん、何度も復活凄い!!👏
2026.09.07
【フィギュア】17歳、島田麻央が衝撃のシニア国際大会デビューV! トリプルアクセル、4回転着氷で逆転優勝 北京五輪銀のトルソワに10点差つける9/6(日)◆フィギュアスケート チャレンジャーシリーズ木下グループ杯 最終日(6日、東京・田中貴金属アイスアリーナ)女子フリーが行われ、世界ジュニア4連覇で今季シニアデビューの島田麻央(木下グループ)が152・48点、合計231・32点で1位。ショートプログラム(SP)2位から逆転優勝した。ジュニア時代の国際大会連勝記録をシニアでも更新し、20とした。ミラノ・コルティナ五輪銅メダルでSP1位から出た中井亜美(TOKIOインカラミ)は、127・45点、合計207・72点で4位。青木祐奈(日本建物管財)は合計181・79点で7位だった。 島田はシニアで初となった国際大会のフリーで、冒頭からトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)、4回転トウループと大技を続けて成功。完璧な演技を披露し、22年北京五輪銀メダルのイグナトワ(旧姓トルソワ)に勝って衝撃の国際大会デビューVを果たした。【フィギュア】トルソワ復帰戦は2位 4回転4種5本の構成は「冗談で言ったりするけど…厳しい」9/6(日) 4年前の北京五輪はフリーで4回転ジャンプを4種5本降り切り、一躍注目を集めた。その後は結婚、出産を経て競技会に復帰。約4年ぶりの国際大会となったフィギュアスケートのチャレンジャー・シリーズ(CS)木下グループ杯最終日(6日、東京・田中貴金属アイスアリーナ)のフリーは4回転ルッツを着氷させるなど、146・14点をマークし、合計221・06点で2位に入った。 演技後には昨年8月に出産した長男を抱きながら、報道陣の取材に対応。「練習してきたことをすべてを滑りきることができてうれしい」と満面の笑みを浮かべた。ただ、出産前に戻るのは現実的に難しいとの見解。北京五輪と同様の構成は「時々冗談で言ったりするけど、厳しいと思う。以前のようなコンディションに戻すのは簡単ではないし、今のルールや格付けを考えても、そこまでする価値があるとは言えない」と断言。その上で「今の自分ができることを着実にやって、あとは様子を見ていくのがベストだと思っている」と語った。 現在のモチベーションは「自分が取り組んできた成果がしっかりと出すこと。他人の成功を見て刺激を受ける段階はもう過ぎた」と苦笑い。「当のモチベーションになるのは、周りのみんなが出産して、また跳び始めた時くらいですかね(笑い)」と冗談を飛ばす場面もあった。 最後には「今回積み重ねてきた努力が形になって、本当に満足しています。それが私にとって一番の成果」と充実の表情。自然体を貫くイグナトワは、日本勢の脅威となりそうだ。
2026.09.07
千葉市中央区の国道16号のアンダーパスを冠水前に全面通行止め 全国初の予防的な事前通行規制を実施9/7(月)千葉国道事務所は千葉市のアンダーパスについて、冠水前に全面通行止めとする全国で初めて予防的な事前通行規制を実施しました。千葉国道事務所は、千葉市に「レベル4大雨危険警報」が発表されたため、午前0時半から千葉市中央区の国道16号のアンダーパスを冠水前に全面通行止めとする全国で初めての予防的な事前通行規制を実施しました。このアンダーパスでは先月、千葉県を襲った記録的な豪雨で車が水没し1人が亡くなったことを受け、冠水前でも「レベル4大雨危険警報」が発表された場合などには通行止めにする事前通行規制が全国で初めて導入されていました。この辺りは8月13日の記録的豪雨で冠水したのですが、7日午前6時現在、雨はあまり激しく降っていないため、冠水は確認されていません。しかし、レベル4「大雨危険警報」が発令されているため、この先にあるアンダーパスは7日午前0時半から通行止めとなっています。
2026.09.07
【テニス】大坂なおみ 全米OP16強! 2時間38分の熱戦制す「正直、勝てたなんて信じられない」9/7(月) ◇テニス全米オープン第7日(2026年9月5日 ニューヨーク・ビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニスセンター) テニスの全米オープン女子シングルス3回戦が5日に行われ、第13シードの大坂なおみ(28=フリー)が第23シードのエリーズ・メルテンス(ベルギー)に6―3、3―6、7―5で競り勝ち、2年連続で4回戦に進んだ。第2シードのエレーナ・ルバキナ(カザフスタン)が勝ち、次戦で大坂と当たる。女子ダブルス2回戦では柴原瑛菜(橋本総業)ランラナ・タラルディー(タイ)組、内島萌夏(安藤証券)王欣瑜(中国)組が敗れた。 2時間38分の激闘の末に16強入りを決め、大きく息を吐いた。大坂は苦境で元世界ランキング1位の真価を発揮し「正直、勝てたなんて信じられない」と目を潤ませた。第3セットは2―4と劣勢になったが、サービスゲームをキープした後、左脚の治療を受けている間に「守備的に返球を続ける。この状況では、それが安全な選択肢」と戦術を整理。再開直後にブレークに成功し、4―4にすると、その後はラリー戦で辛抱強くプレーした。相手より多い凡ミスを記録しながらも2戦連続でフルセットを制した。💛大坂なおみさん、素晴らしい👏「守備的に返球を続ける。この状況では、それが安全な選択肢」冷静な状況判断と苦難を乗り越えた情熱
2026.09.07
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(三)その1【開爐(三)】 世界火爐闊一丈 (世界火炉闊きこと一丈)不知古鏡闊多少 (知らず古鏡闊きこと多少ぞ)落葉不禁霜後風 (落葉は禁えず霜後の風)獼猴怕寒永夜叫 (獼猴は寒を怕れて永夜に叫ぶ) ここに「世界火炉闊きこと一丈」これは、仏法のことを引いて、世界火炉闊きこと一丈、というた。この炉は幾らか、中国には白髪三千丈という言葉もある。「知らず古鏡闊きこと多少ぞ」日本でいえば八咫の鏡、中国では古鏡という。人人一面の古鏡がある。この古鏡のことを『涅槃経』では悉有仏性というであろう。この古鏡のことを『法華経』では諸法実相というであろう。この古鏡のことをめいめいなんと参ずるか。 ここに、世界火炉闊きこと一丈、知らず古鏡闊きこと多少ぞ、お前の背は世界いっぱい、澤木興道は五尺五寸六分、そうすれば、世界は何寸あるか。お前の名は釈迦牟尼仏という。そうすれば、世界の高さはどのだけあるか。世界火炉闊きこと一丈、世界は幾らか。物差しを以て世界を測る馬鹿はいない。この一丈の炉が世界である。眼科の医者は眼の中を覗いて、それが世界である。偕老同穴には海綿の巣の中に二匹のエビがいる。それが世界である。蝸牛は家を負うている。それが世界である。そうすれば、島の世界もあれば、モグラモチの世界もある。世界火炉闊きこと一丈。ここにわれわれは火炉を参究する。(大智禅師偈頌講話p.180-181)
2026.09.07
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(三)その2【開爐(三)】 世界火爐闊一丈 (世界火炉闊きこと一丈)不知古鏡闊多少 (知らず古鏡闊きこと多少ぞ)落葉不禁霜後風 (落葉は禁えず霜後の風)獼猴怕寒永夜叫 (獼猴は寒を怕れて永夜に叫ぶ) 闊いということはいったいどういうことか。知らず古鏡の闊きこと多少ぞ。古鏡にはどれだけの幅があるか。われわれは寝ても覚めても古鏡の闊さを知るべく努めねばならん。阿弥陀さんの大きさはどれほどか。仏教を参究する時に、いつでも無限ということをいう。だが、大きいばかりが無限じゃない。小さいものも無限である。仏というのは大きい小さい、長い短い、善くも悪くも、偉いも偉くないも、一切のところにどこにも引っ掛からない。それが尽十方であり、無礙光であり、無量無辺である。それでこの仏を、どういう具合に自分の生活の上に参究するか、というのが禅僧の行持、修行である。 ここに、世界火炉闊きこと一丈。世界いっぱい、それを料理番は包丁に拈ずる。会計係は算盤に拈ずる。書記は筆端に拈ずる。ここにめいめい自分の拈じ方があるわけである。知らず古鏡の闊きこと多少ぞ。それは大きゅうもない。小そうもない。極大は小に同じ、極小は大に同じ。一即一切、一切即一というのは、この古鏡の寸法書である。ようもない、悪うもない、好きもない。嫌いもない。うもうもない、味のうもない。諸法は因縁生、無自性皆空という。これも、この古鏡の寸法書である。 そいつを自己に持って来れば、諸法は無我である。だから、古鏡の闊きこと多少ぞ。サア、古鏡の寸法はどれだけあるか。ここに火炉のついでに古鏡が出て来た。ここに道というものと、人間というものと、無限というものとの、この交錯点に、永久に悩みがある。そしてその悩みをわが身に感ずるのが、この行者の常なのである。 良寛は死ぬ時に、眼をむいて死んだという。悩みなしに、苦しみなしに坐禅して死んだ人と違う。眼をむいて死んだ。 ここに無限というものがよくわれわれに飲み込めれば、有限に生きるわれわれに強味が生ずる。無限というものは、人が腹が減っておる。それが無限のものであるから、人が腹が減っておるのが、自分が腹が減っておるのである。宇宙は続きである。人が腹が減ったら、おれが腹が減ったんじゃ。人が飯を食うと思うと、焼餅が焼けてよだれが出て来る。その理屈は分っておる。 けれども西行が、 捨てはてて身はなきものと思へども雪の降る日は寒くこそあれ ハックションとやったという。ここに、古鏡が風邪を引くことがなかったら、われわれは面白くない。(大智禅師偈頌講話p.181-183)
2026.09.07
二宮先生巡視の方針及び巡視中の逸話 曾根文七、沢井義栄(「大日本報徳学友会報第六十五号」)(現代語訳の試み) 午前0時に寝て、午前4時に起きるは先生のご家法でした。先生が巡視される時は、いつも前日夕方の握り飯を腰にして、朝暗いうちに門を出られました。その村に入ると、まず第一に、村民起床の早い遅い、道路や橋が補修が必要かどうかなどを点検され、その村の村人の一般の勤労か怠惰か、富裕の度合いを査察されました。そしてその精勤する者があるば、直ちにこれを賞し、怠惰な民があると、これをねんごろにいましめらます。また先生は、民家に立ちよられると、必ずまず便所を点検することが定例でした。ある人が、このことを先生に尋ねますと、便所が清潔か汚いか、肥料の肥桶は農家が勤労か怠惰かの試金石であると仰せられました。誠にそのとうりでございましょう。 ここに一つ面白い話があります。元平ヶ崎村になにがしという怠惰な農民があって、ある朝のこと、賭博にまけて、ふんどし一つになったので、家にも帰れず、寒さは寒い、困り果てて、田んぼの中をうろうろさまよっていました。たまたま先生がいつものように朝早くにそのかたわらを過ぎて、その様子を熟視されて、「なんじは何をしているのか」と問われますと、彼はすかさず「ハイ、私はこの村の貧農ですが、普通の働きではとても生計も立ちませんから、このように早朝から耕作に出ましたわけです」と言い逃れようとしました。先生はその実を察したのですが、わざと知らないふりをして、「それはそれは、感心な者だ。申し渡すことがあるから、今夕、予が役宅に来い」と命じて、行き過ぎました。こうしてその夕方、その者が約束どおり来たので、先生は農業に出精することを賞して、多くの金品を与えて、将来を励まされました。さすがの無頼漢も、この賜物を拝領するや、顔色が土色のように変わって、自らその罪を後悔して、かつ先生のご高恩に感泣して退いて、これから彼は大いに心を改めて、日夜農業に励んで、順良な農夫となったといいます。今もその子孫は中産以上の農家です。当時この事を聞くものは、皆、先生の機智と度量の大きいことに感激したといいます。 また先生が巡視中に、農夫や人夫たちにその主義を教えられるときには、よく卑近の例を採られました。その推譲の徳をさとされるようなときには、「あのタライの水を見てみよ。少し傾けて、水を前方に送るならば、その反動の結果、再び元にかえるのは必然の理である。だからおよそ物を得ようと思うならば、必ずまず人に物を与えよ」と、仰せられました。今も二宮先生のタライの教訓として、伝わって有名です。 ある時、開墾の人夫が、作業の休みに、ヤカンをかけた焼火を囲んで、多く休んでいたところへ、たまたま先生が巡視されて、共に休まれました。フト沸騰したヤカンの底に手をあてられ、これはどういう理があるかと質問されました。人夫はただ不思議な顔で、誰も答えるものがありません。先生はにっこりされておっしゃるには、「すべて液体は熱を得ると、必ず蒸騰しようとするものだから、下底は自ら熱を覚えないものだ。液体だけではないぞ、人間にもよくこれに似たものがあるのには困る。あの小人を見てみよ。僅かの小金ができて、少し名誉の地位を得ると、直ちに上を見始めて、それから次第に奢りを始め、衣服や住居や諸道具類から、唐物、和物を好むようになり、遊芸、茶の湯、俳諧、生け花などのなりわいをするいろんな遊客が寄り集まって、それから家業は次第に励まなくなり、飲み食いと色欲が増長して、貧乏で思う通りにならないという魔物が、足もとに襲って来ても、悟らないようになるものだ。浅ましいことではないか」と。これは自分の分度を守るべきことをさとされたものである。 また先生は、雷雨を非常に喜ばれて、この時には必ず数十人の人夫に休みを与えられた。その歌に 夕立と姿を変えて山里を めぐみたまふかはげしかりける二宮先生巡視の方針及び巡視中の逸話 曾根文七、沢井義栄(「大日本報徳学友会報第六十五号」) 子(午前〇時)に臥し寅(午前四時)に起きるは先生のご家法にて、巡視される時は、いつも宵の握り飯を腰にして、未明に門出されるのが例なり。その村に入れば、まず第一に、村民起床の早い遅い、道路橋梁の修否等を検せられ、その村民一般の勤惰、富の度を査察され、そしてその精勤する者があれば、直にこれを賞し、惰民があればこれをねんごろにいましめられる。又先生は、民家に立ちよられれば、必ずまず厠(かわや:便所)を検することを例とする。ある人、これを先生に尋ねければ、厠の潔否、肥料の肥桶は農家勤惰の試金石なりと仰せられた。誠に左もあるべきであろう。 ここに一つ面白い話がある。元平ヶ崎村に某という惰農があって、ある朝のこと、賭博に敗けて、襦袢一つとなったので、家にも帰れず、寒さは寒し、困り果て、田んぼの中をうろうろさまよっていた。たまたま先生が例のごとく未明にその傍らを過ぎて、その様を熟視され、「汝は何を為しつつあるか」と問われると、彼はすかさず「ハイ私はこの村の貧農ですが、普通の働きではとても生計も立ちません故、かく早朝より耕作に出ました訳です」と言い逃れたのに、先生その実を察せられたけれども、わざと知らないまねをして、「それはそれは、感心の者である、申し渡すことがあるから、今夕予が役宅に来れ」と命じて、行き過ぎた。こうしてその夕方、かの者が約束どおり来たので、先生は農業に出精することを賞し、多くの金品を与えて、将来を励まされたので、さすがの無頼漢もこの賜物を拝領するや、顔色が土色のように変わり、自らその罪を悔い、かつ高恩に感泣して退いて、これより彼は大いに心を改めて、日夜その業を励み、順良な農夫となったという。今もその子孫は中産以上の農家である。当時この事を聞くもの、皆先生の機智宏量を感じたという。 また先生が巡視中、農夫・人夫どもにその主義を鼓吹されるには、よく卑近の例を採られた。その推譲の徳を諭される例の如きは、「かのタライの水を見よ。少し傾け、水を前方に送れば、その反動の結果、再び元に還るは必然の理である。故におよそ物を得んと思うならば、必ずまず人に物を与えよ」と、仰せられた。今も二宮先生のタライの訓示として、伝わって有名である。 ある時、開墾人夫、作業の休みにヤカンをかけた焼火を囲んで、多く休んでいたところへ、たまたま先生が巡視されて共に休まれ、フト沸騰したヤカンの底に手をあて、これはいかなる理があるかと質問された。人夫はただ不思議な顔で、誰も答えるものがなかった。先生はにっこりと仰せられるには、すべて液体は熱を得れば必ず蒸騰しようと欲するものであるから、下底は自ら熱を覚えないものだ。液体だけではなく、人間にもままこれに似たものがあるのには困る。かの小人を見よ。僅かの小金ができ、少しの名誉の地位を得ると、直に上を見始め、それより次第に奢りを始め、衣服、住居、諸道具類より、唐物、和物を好むに至れば、遊芸、茶の湯、俳諧、生け花などの業をする所々の遊客寄り集まり、それより家業は次第に不精になり、飲み食いと色欲の増長とて、貧乏不如意という魔物が、足もとに襲い来ても悟らないようになるものである。浅ましいことではないかと。これは己が分度を守るべきことを諭されたものである。 また先生は、雷雨を非常に喜ばれて、この時にには必ず数十人の人夫に休みを与えられた。その歌に 夕立と姿を変えて山里を めぐみたまふかはげしかりける
2026.09.07
「人工網膜」国内初の治験開始、電極チップ使い物の形を判別可能に…難病「網膜色素変性症」の失明患者目の難病「網膜色素変性症」で失明した患者を対象に、大阪大などが「人工網膜」装置の国内初となる治験を始めた。小型カメラを備えた眼鏡や目に埋め込んだ電極チップを使い、物の形を判別できるようにする。これまでの研究で一定の効果が確認されており、治験の結果を踏まえ、2028年度にも国に医療機器としての製造販売を承認申請する。 目が捉えた映像は通常、眼球の奥にある網膜の「視細胞」で電気信号に変換されて脳に伝わるが、この病気は視細胞が徐々に減る。国内には3万人以上の患者がいるが、有効な治療法はない。 装置は、小型カメラが捉えた映像を体外の画像処理装置で電気信号に変換。手術で網膜の近くに埋め込んだ約7ミリ四方の電極チップに信号を送り、脳に伝える。先行研究では、患者が物の輪郭や動きを捉えることができた。 治験は今年から始まり、阪大、愛知医科大、杏林大の3施設で、失明した患者計6人に実施する計画だ。1年間、経過観察し、安全性や視力の回復度合いを検証する。阪大の森本 壮(たけし) 准教授(眼科学)は「色の判別は難しいが、物の存在が分かるだけでも生活水準は飛躍的に向上する。患者に光を届けるため、実用化を目指したい」と話す。💛凄い!将来目の見えない人に適用できますように
2026.09.06
札幌農学校教授・宮部金吾 その4六 父の死と小学校(二〇頁)維新前後非常に繁雑であった駿府代官時代を終え、更に過渡の江戸に帰った父は、生来の虚弱に心身の疲労も出たのであろう、健康はすぐれなかったようである。そして退官後、ことに私が一一歳(明治三年)になった初夏から病床に親しみがちであった。病あらたまるや、父はその死を覚って、病床に肉親を呼び色々と遺言されたが、自分にはただ一言「金吾しっかり勉強せよ」と言われただけである。この一言は少年の肝に深く銘じた。父のいまわの際の言葉に添うような自分を築きあげたく、私は一生涯を通じて、この父の・言葉を真実に守ろうと堅く誓ったのである。父の逝きしは七月二五日の事である。享年五二歳。 一二歳(明治四年)の時、東京府下の六小学校を以て文部省の直轄となし、新しい教科規則下に近代的小学校の教育が始まった。その結果として、私の通っていた外国語の学校は閉鎖された。建物は在来の六校をそのまま使用することとなった。私は再び三味線堀の西福寺に戻って来た。しかし今度は文部省直轄となったので前とは全く総てが変っていた。寺小屋風の小さな机は既に姿を消し、テーブルとベンチが用いられ、黒板も用意されていた。習ったものは、かな使い、習字、単語、読方、洋法算術、学問のすすめ、究理図解、世界国尽等がある。自分の上級は一組あっただけで、それも生徒がたった一人、後に水産界に貢献した下(しも)啓助氏がいたのみである。下氏とは氏の逝去まで交友を続けたが、下氏はよく「君が、自然科学者になろうとはあの頃にはちっとも思わなかったよ。多分政治家にでもなりはしないかと考えていた。」と述懐された。私は小学校では首席を占めていたので時の村上校長から将来を嘱目され、非常に愛されていた。ところが、一三歳(明治五年)の夏、横浜高島学校に入学の希望が達成したので、退学の手続きを取るべく兄が村上校長の所にお願いに出頭した。この年に文部省の教育新制度が発布され、小学校より中学校、更に大学に進む過程が確立された。私の退学の件に関して村上校長は反対で「私立で洋学を修めたいとは以てのほかと憤慨し、かつ「官立で学業が進めば洋学は自然修めることとなるべく、敢えて好んで私立学校に進む必要はない。退学は許可しない。もしも断じて退学を望むならば将来官立学校に再び入れないようにする」と申し渡された。兄は逃げるがごとく引き下がって来た。一家額を集めて相談したが、他日官学に入る場合を顧慮し、横浜にいる間は宮部家の別姓である外松を名乗る事とし、ここに宮部金吾は外松金吾となり、横浜高嶋学校の生活は始まった。七 横浜高嶋学校(二二頁) 一三歳(明治五年)の八月下旬、私は始めて家を離れ横浜に遊学する事になった。忠僕に伴われ、品川を後に汽車で横浜に向かった。 新橋―横浜(現今の桜木町)間の京浜鉄道開通式は明治五年一二月に挙行されたもので、それ以前は便宜上、乗車を許可していたものと思われ、私が横浜へ行った当時は乗客の始発駅は品川であった。客車は用意されておらず、貨車内のベンチをならべ、別に車窓もなく扉が二尺くらいあけてあった。それでも始めて乗った私には非常に快適なものであり、風を切って進む速さに驚嘆したものである。横浜の学校へ行くようになったのは亡き父の友、神奈川県の高官の高木氏が保証人となってくれたためで、氏が一切の監督をしてくれる旨を申し出られ、母も安心して手離されたのであろう。それに文臣兄も同氏のお世話で神奈川県属官に採用され、同市戸部町の官舎に引き移っていたからである。高嶋学校は、この前年明治四年八月高嶋嘉右衛門氏が欧米の学問をわが国に普及させようと金三万円を投じて設立したものである。敷地として野毛山下のガス局の隣地(今の花咲町五丁目)に約一万坪を下し、そこに生徒数百の名を収容するに足る広大な校舎並びに寄宿舎を建てた。この建築は白ペンキ塗りの西洋風の建物で、正面(南北)に一三個、側面(東西)に一八個の西洋窓があり、かつ広中庭を囲んで廻り廊下があり、これに沿って寄宿生の室が並んでいたが、階上の窓には鉄色に塗った木製の格子が入っていた。平屋建ての附属小学校が廊下つづきに本校舎の西北に在った。学校の組織はいわゆる「正則学校」で、初級より英語の教科書を用いて米人の教師から読み方、文典、算術、地理、歴史等を教えられ、まるで米国の学校の観があった。この「正則学校」に対し、翻訳式の教法を「変則学校」と称していた。高嶋学校には当時数人の米人がいたが、西洋人の教師の組に入る前に附属小学校の一室で約一ヶ月間日本の先生から英語の初歩の教授を受けた。それから私達の級は始めモーリスという教師に、後にはバラー兄弟に就いた。バラー兄弟は宣教師であり、日曜日には兄のジェームス・バラーの自宅でバイブルクラスが開かれ、私も誘われて一、二度行った事がある。高嶋学校在学中、私は寄宿舎にいた。寄宿舎は既に記したようにこの校舎の大部分を占め、居室は畳を敷いた日本間であった。普通一室に舎生二人、大きな室に舎生四、五人いた。寄宿舎には随分多数の生徒がおり、後に知名の士となった人も少なくないと思うが、当時在舎していた者の名簿が手に入らないので残念ながら一向に判明しない。友人として一緒に写真を撮っている者に、横浜豪商の令息添田君と、高嶋家に関係のあった富田君の二人がある。この二人はいずれも通学生であった。日曜日にはよく高木氏の豪華な邸宅や文臣兄の野毛町官舎に行き、いろいろの厚遇を受けた。また居留地のあたりから海岸、さんばしにかけて散歩にも出かけた。時には郊外を散策したが、春早き山野に咲いていたタンポポの紅花や、シュンランの清楚な花は今も心に残っている。しかしまた、急に親の膝下を離れ、大人びた青年達の間に放り込まれたので、自分ながらその時の生活を思い出すと穴にでも入りたい気がしてくる。一四歳というのに喫煙の悪癖を覚え、煙草入を腰にさげていた。また芝居の味も知り、劇場に友達と足を運び、銭湯に行ってもすぐに風呂場に飛び込まず、年上の友だちと一緒に二階にあがって一休みした。牛肉屋にも出入りした。私の環境はあまり好かったとはいえない。そのままで行けばあるいはませた、ひどく生意気な者ができあがったかもしれないのである。明治七年(一五歳)の一月、朝授業が始まって間もなく東北隅教室のストーブから火を発した。折悪しくその教室には授業がなかったので誰も室におらず、そして誰も知らない間に天井裏に燃えぬけ、往来の通行人によって燃え上がった火が始めて発見され大騒ぎとなった。各室には石油ランプと石油入のガラスビンが置いてあったので、火の廻りは速く、また無風で小雨が降っていたため、煙が中庭や廊下にモウモウと停滞し、息苦しく廊下にはグズグズしていられなかった。それに階段は南側と西側のみであって、出口は東側の玄関と小学校へ続く廊下のみであり、下の室は窓が太い鉄格子なので、これを破ることは容易でない。生徒の大部分は僅かな手荷物を持ち、ほとんど身をもって煙が渦巻く玄関から避難した。私の居室は二階の西側すなわち野毛山に面した大きな室で四人おり、私を除いては皆二〇前後の青年であった。火事となるや一同室に帰り、窓の木製の格子を破壊し、窓の下の便所の屋根に下り、それより更に地上に飛び降りてどんどん避難してしまった。既に火の廻りが速く、煙は玄関は勿論小学校への入口にも満ち満ちて、階下の廊下は歩行困難となっていた。私は非常に困ってしまった。窓から下の屋根に降りてみたものの、小柄であった少年の私にはそこから下がいまだ相当の高さであり、かつ地上には窓から投げ出された本や机の引出しが雑然と打ち重なり、もしその上に飛び降りればケガをすること請け合いである。それで飛び降りることはできず、思案にくれたが、急に思いつき再び室に入り、夜具布団を全部窓から放り出してその上に飛び降りた。おかげで私はケガをしなかったばかりか、寄宿生中夜具布団を全部出し得たのは私一人であったかも知れない。この室は野毛山から眼下にみおろせる所にあったので、沢山の見物人がこれを見ていた。そして子供(私)が一人便所の屋根の上でまごまごしている様を見て、「早くハシゴを持って行ってやれ」とわめきたてた人もいた。ところがそのうちに布団を投げ下ろしてその上に無事飛び降りたので一同やんやの歓声を挙げて安全を祝ってくれた。私はその夕方野毛町の銭湯に入っている時、声高にかく語る人の話を聞いたのである。奇縁とでもいうものか、火事の際の同室の二人までがその後札幌で遭っている。一人は碇山晋君で、後札幌に来り、予科に英語を講じ生徒監となり、また更に後年、その有する語学の才もかわれて横浜居留地の加賀町署長となり、外人にも名署長の名声をはせた。またもう一人は川口宗晴君で、札幌農学校一年目の時、聴講生として入って来たが、一年余で退学の止むなきに至った。高島学校は火事後廃校となり、横浜在住の生徒はドクトル・ブラウンが教えていた修文館に転校することとなった。私もそこに転校した。この修文館は老松町上の元の十全病院の隣にあったように記憶する。その三月東京外国語学校英語科の入学試験を受け合格したので、私の横浜遊学はこれで終止符を打たれ、外松金吾は再び宮部金吾に帰って東京の生活に戻ったのである。思えばこれはまた私に非常に幸いであったので、もし私が思慮分別のない生意気盛りを、その上、気ままにひとりで横浜の寄宿生活を続けていたら、私はどうなっていたであろう。私はただわきの下に冷たい汗の湧き来たるのを覚えるのみである。
2026.09.06
鈴木おさむ氏「僕の中ではいまのところ、今年1位」の映画とは?「激しく心が震える」と絶賛9/5(土)鈴木氏は「映画『時には懺悔を』渋谷、12時から.満席。家族のカタチについて考える。本当に.激しく、心が震える映画」と投稿。 「宮藤官九郎さんがあの役を演じていることで救われるし 素晴らしすぎました。僕の中ではいまのところ、今年1位です」と絶賛していた。 「告白」「嫌われ松子の一生」などで知られる中島哲也監督の約8年ぶりとなる新作。打海文三氏の小説「時には懺悔を」を原作に、障がいのある子供との出会いをきっかけに変わっていく大人たちの姿を描く。脳性まひの13歳が俳優に「彼の笑顔には、生きることを楽しむ力を感じる」…映画撮影後の卒業式では変化が重い障害のある子どもを誘拐した犯人や、事件に関わった人たちの人間模様を描いた全国公開中の映画「時には 懺悔ざんげ を」に、子ども役として東京都内に住む重症心身障害児のしんすけさん(13)が出演している。しんすけさんは寝たきりで話せず、表情で演じた。母親(53)が取材に応じ、「感じたことを誰かと話してほしい。その積み重ねが社会の変化につながると思う」と語った。 しんすけさんは先天性の脳性まひで、特別支援学校に通っている。人工呼吸器をつけ、意思疎通は難しい。 映画出演のきっかけは2023年秋。制作陣が、障害児支援に取り組む理学療法士の安田一貴さん(40)に紹介を依頼。安田さんが、以前に関わりがあったしんすけさんとつないだ。 出演依頼を受けた母親は当初、「息子にどんな影響があるかわからない」という不安から断った。だが、その後もアプローチは続き、同年末には、監督の中島哲也さん(67)が自宅へ来た。「彼の笑顔には、生きることを楽しむ力を感じるんです」その言葉に、母親は「障害があれば誰でもいいわけではなく、息子を探してくれている」とうれしく感じた。原作小説の作者、打海文三さん(2007年に59歳で死去)が障害のある子を育てた親だったこともあり、「当事者の複雑な感情を表現していて、リアリティーがある」。夫、しんすけさんのきょうだいとも相談し、出演を決めた。撮影は2024年3~5月に行われた。しんすけさんは「感情を表情に出すのが得意」で、笑顔やキョトンと驚いた顔など、多彩な表情を見せた。 共演した西島秀俊さんは事務所を通じた取材に、「お互いに『プロの俳優』として向き合い、やりたい表現を一緒に作り上げていきました。しんすけ君は演出を受けると、まっすぐに応えようとします。本番で時折見せる笑顔や、戸惑いの表情に本当に魅了されました」とコメントした。 しんすけさん出演の橋渡し役となった安田さんは制作スタッフとして障害児への接し方を監修した。「俳優さん、カメラマン、メイクさん、みんなが撮影が進むうち、しんすけさんと自然に話すようになっていった。障害のある人たちとの共生は頭で考えるより、一緒に仕事をしていく中で理解できる」と話した。撮影後、しんすけさんに変化があった。 以前は、学芸会などの学校行事に参加しても「状況をわかっていないようだった」という。だが、昨春の小学部の卒業式では、先生から名前を呼ばれると、「はー」と返事をした。中学部に入った後も、学校へ行く時間になると、母親に「あーあーあー」と訴えかけてくるようになったという。 母親は「映画出演という環境の力は大きく、数ミリずつかもしれないけど、変わってきている」と喜ぶ。「自分の主張がうまくできない子こそ、いろんな経験をさせてあげてほしい」と語った。 映画は、探偵の佐竹(西島秀俊)と助手の聡子(満島ひかり)が、同業者の米本(佐藤二朗)が殺された事件を調べるところから始まる。2人は、米本が生前調査していた明野(宮藤官九郎)と重い障害がある少年、 新しん (しんすけ)の父子を追う中、9年前の新生児誘拐事件にたどり着く。新を巡り、周囲の大人たちの心が大きく揺れ動いていく――。 劇中では、「この子は生まれてこない方が幸せでした」と過激なセリフも飛び交う。母親は、明野が「ああ、どこにも行けない」とこぼしながら、新の世話を続ける場面が印象に残ったという。「きれい事じゃない現実を描きつつ、愛情にあふれた作品」と話した。
2026.09.06

「ユマニチュード」という革命p.118 ユマニチュードは人間性を取り戻すための哲学です。誰かをもの扱いするとき、そうしている人もまた人間性を失います。相手から人として認められ、自分も相手を人として認識する。それがユマニチュードの理念であり、そこに価値があるのです。・・・・・・ユマニチュードの定義と日本における普及の歩み優しさを伝えるためのケア哲学と造語の起源ユマニチュード(Humanitude)とは、フランスの体育学専門家であるイヴ・ジネスト氏とロゼット・マレスコッティ氏によって1979年頃に提唱された、知覚・感情・言語に基づく包括的なコミュニケーション・ケア技法です。この言葉はフランス語の造語であり、「人間らしくあること」を意味しています。その根底には、認知症や身体機能の低下によって人間らしさが脅かされている人々に対して、「あなたは大切な存在である」という敬意を伝えるケアの哲学が存在しています。医療や介護の臨床現場では、業務の効率化を優先するあまり、患者や施設利用者の反応を待たずにケアを進めてしまうことが少なくありません。フランスの介護施設を対象とした調査では、入室の際にノックをしないスタッフが半数を占め、残りの半数もノックをしたものの返事を待たずに入室していたという実態が報告されています。こうした環境では、言葉を話さない患者に対して一方的なケアが行われがちになり、結果として患者の心を閉ざしてしまう原因になります。ユマニチュードは、このような一方的なケアを「強制的な介入」と位置づけ、150以上におよぶ具体的な技術を通じて、双方向の良好な関係性を再構築することを目指しています。日本への導入と普及のタイムライン日本への本格的な導入は、独立行政法人国立病院機構東京医療センターの総合内科医である本田美和子医師が、2011年秋に渡仏して創始者であるジネスト氏のもとで研修を受けたことから始まりました。翌2012年から日本国内での普及活動が開始され、全国の医療・介護機関で研修会が開催されるようになりました。日本におけるユマニチュード普及の歴史的歩みは、以下のタイムラインのように、専門職の口コミやメディアの報道、自治体による先進的な取り組みを通じて急速に拡大してきました。ケアの根幹を支える「4つの柱」とその生理学的意義ユマニチュードを特徴づけるのは、抽象的な精神論にとどまらず、対象者の五感に訴えかける具体的な行動指針として「見る」「話す」「触れる」「立つ」という4つの柱を定義している点です。これらの技術は、認知機能が低下した人々が世界を認識するプロセスに基づき、生理学的な妥当性を持って体系化されています。各技術の生理学的特性と具体的アプローチ1. 「見る」技術認知症が進行すると、視野が狭窄し、周囲の状況を瞬時に把握することが困難になります。突然視野の外から触れられると、介護者を襲撃者と勘違いし、恐怖から暴言や暴力が生じることがあります。● 具体的技術: 相手の正面から、同じ目の高さ(水平線上)で、約20cmほどの非常に近い距離から、長く視線を合わせ続けます。● 生理学的意義: 水平な視線は「平等」、正面からの接近は「正直さ」、近距離でのアイコンタクトは「親密さ」を大脳へ直接伝達し、不安を取り除きます。見下ろす姿勢は支配的なメッセージとなるため、介護者は膝をつくなどして視線を低く保つ工夫が求められます。2. 「話す」技術言葉を返さない相手に対して、つい無言でケアを行ってしまう傾向がありますが、無言でのアプローチは「あなたの存在を無視している」という否定的なメッセージとして受け止められます。● 具体的技術: 低めの落ち着いたトーンを用い、歌うように優しく穏やかな口調で語りかけます。返事がない場合には、介護者が現在行っている動作(「背中を温かいタオルで拭きますね」など)を言語化する「オートフィードバック」を行います。● 生理学的意義: 聴覚情報と実際の体験を一致させることで、状況理解を促進し、突発的な刺激による驚きを和らげます。3. 「触れる」技術人間にとって、皮膚への刺激は情緒の安定に深く関わっています。しかし、介護の現場でよく見られる「手首を上からつかむ」といった接触は、自由を奪われる体験として恐怖を呼び起こします。● 具体的技術: 指先でトントンと叩くような接触を避け、手のひら全体を広げて広い面積で包み込むように下から支えます。また、顔や手、唇といった感覚が敏感な部位にいきなり触れず、背中や肩、上腕などの感度が比較的鈍い部位から優しく触れていきます。● 生理学的意義: 広い面積で包み込むような「面での接触」は、安心感と包容力を伝え、対象者の筋肉の緊張を緩めます。4. 「立つ」技術人間は直立して行動することで、身体のあらゆる生理機能が最適に働くように設計されています。寝たきりの状態が続くと、廃用症候群が急速に進み、認知機能の低下も加速します。● 具体的技術: トイレへの移動や洗面、着替えなど、日常生活の動作の中に立つ場面を自然に組み込み、1日に合計20分間立つ状態(立位)を確保します。● 生理学的意義: 骨に加重をかけることで骨粗しょう症を予防し、心肺機能や血液循環の改善、筋肉量の低下を防止します。また、視線が高くなり視野が広がることで脳により多くの情報が取り入れられ、認知症の周辺症状改善にもつながります。4つの柱における具体的技術と期待される効果関係性を築き上げる「5つのステップ」と日常生活への適用ユマニチュードでは、1つのケア行為を最初から最後まで流れるようなストーリーとして構成します。この手順は、人が親しい友人宅を訪ねて歓談し、次の約束をして帰宅するまでの自然な流れを模倣したものであり、認知症を患う人々との間に心理的障壁を作らない仕組みになっています。5つのステップのプロセス詳細ステップ1:出会いの準備(来訪の事前通知と脳の覚醒)認知機能が低下していると、音や気配に反応して「他人が入ってきた」と認識するまでに時間がかかります。● アプローチ: ドアを3回ノックし、3秒待ちます。反応がなければ再度3回ノックして3秒待ち、それでも反応がない場合は1回ノックして入室します。ベッドに近づいた際も、足元のボードや手すりを優しくノックして存在を知らせます。● 狙い: 段階的に聴覚を刺激することで、本人の脳が人と会う準備(覚醒水準の上昇)を調える時間を確保します。ステップ2:ケアの準備(関係性の構築と同意の獲得)部屋に入ってすぐに「お風呂に行きましょう」「オムツを替えます」と用件を伝えると、警戒心から拒否反応が起こりやすくなります。● アプローチ: 挨拶を交わし、「あなたに会えて嬉しい」という喜びを態度や笑顔、穏やかな言葉で表します。いきなり体に触れたり、ケアの話を切り出すことは厳禁です。会話を通じて徐々に距離を詰め、3分以内にケアに対する合意を得ることを目標とします。● 狙い: もし3分経過しても同意が得られない場合は、無理にケアを続けず「一度あきらめて出直す」という選択を行います。これにより、相手の中に「嫌なことを無理やりされた」という不快な記憶が残るのを防ぐことができます。ステップ3:知覚の連結(調和されたケアの実践)合意を得た後に実際のケアを行う段階です。● アプローチ: 「見る」「話す」「触れる」の感覚情報を連動させ、矛盾のないメッセージを送り続けます。例えば、「優しく声をかけながらも、手首を強引につかんで引っ張る」といった不一致があると、相手の脳は強い不安と抵抗感を引き起こします。● 狙い: 感覚の一致により状況把握を助け、安心した状態のままケアに協力的な姿勢(協調動作)を引き出すことができます。ステップ4:感情の固定(ポジティブな感情記憶の定着)ケアが終わった直後は、その心地よい余韻を本人の脳にしっかりと刻むための重要な時間です。● アプローチ: 「さっぱりして気持ちが良くなりましたね」「今日はお話がたくさんできて本当に楽しかったです」など、肯定的な言葉を掛け合います。● 狙い: 事実としての出来事(ケアを受けた内容や介護者の名前)は忘れてしまっても、「この人と一緒にいて心地よかった」というポジティブな感情の記憶は長期間保持されます。ステップ5:再会の約束(将来の安心感の担保)その場を離れる際に、別れの寂しさや孤立感を与えないようにするためのケアの締めくくりです。● アプローチ: 「またお話ししましょうね」「次の12時にお食事を一緒に行いましょう」と具体的な約束を伝えます。握手を交わしたり、予定を書いたメモやカレンダーを目に入りやすい場所に残すことも有効です。● 狙い: 「親切にしてくれた人がまた来てくれる」という安心感は、次回の訪問時に介護者が「心地よい時間を共有した人」として歓迎される関係性を作り出します。5つのステップと「友人宅への訪問」に例えたプロセス対比現場での具体的課題に対するアプローチ事例認知症ケアにおいて最も介護者が頭を悩ませるのは、入浴拒否や排泄ケア(オムツ交換)時の強い介護抵抗です。ユマニチュードの技術を適切に組み込み、相手のこだわりや認知特性に配慮することで、これらの困難なケースも劇的に改善することが実証されています。入浴拒否に対する実践事例入浴を拒む要因として、浴室の慣れない構造による混乱、衣服を脱がされる恐怖、また「風呂」という言葉そのものがもたらすストレスなどが挙げられます。 ある特別養護老人ホームでの取り組みにおいて、入浴エプロンを着用した介護スタッフを見ただけで激しく入浴を拒否していた利用者に対し、以下の方法が試みられました。● アプローチ: 介護スタッフは入浴用エプロンを着用せず、普段のユニフォームのままで「出会いの準備」と「ケアの準備」を行いました。また、本人が愛着を持っている人形を抱かせたまま浴室に誘導し、浴室には自宅の風呂に近い家庭的な構造の浴槽を使用しました。さらに、「シャワー」や「脱衣」といった直接的な言葉を使わず、好きな音楽を脱衣所から廊下にかけて流し、スタッフが手を握ってリズムを取りながら楽しく歩行を促しました。● 結果: 対象者は入浴中も笑顔を見せるようになり、入浴そのものに対する前向きな発言が聞かれるほど大きな変化を遂げました。オムツ交換時の抵抗に対する実践事例オムツ交換はプライベートな領域への介入であり、本人にとっては見知らぬ人から突然ズボンを脱がされ、臀部に冷たい刺激を与えられるなど、恐怖心が生じやすい場面です。● アプローチ: 訪室時にステップ1に沿って段階的に覚醒を促し、寝ている本人と同じ目線まで姿勢を下げてアイコンタクトを確立します。いきなり臀部に触れず、「おはようございます、良いお天気ですね」と挨拶を行い、手や顔などの敏感な部位を避けて上腕や肩へ手のひら全体を乗せます。これから行うケアの同意を得てから開始し、拭き取る際も「温かいタオルで拭きますね、気持ちが良いですよ」と動作の実況(オートフィードバック)を徹底しました。● 結果: これまで毎回抵抗のあったオムツ交換において、時間を置いて再チャレンジする回数が月を追うごとに減少し、利用者が自ら柵をつかんで体を横に向ける協調動作が見られるようになりました。科学的エビデンスと将来技術の展望ユマニチュードの有効性は単なる経験則にとどまらず、国内外の豊富な研究によって確認されています。1,000以上の文献を網羅的に検証したシステマティック・レビューでは、ユマニチュードの実践が認知症患者の不穏や興奮(アジテーション)を有意に軽減し、同時に介護スタッフの「燃え尽き症候群(バーンアウト)」を低減させる効果があると結論づけられています。さらに将来的な展望として、人工知能(AI)を用いたコーチング技術の導入が始まっています。介護スタッフが撮影した実際のケア動画をクラウド上にアップロードし、専門の指導者が動画上で軌道やタイミングを可視化して指導する動画ツールの活用が進められています。将来的には“ケアの棋譜化(見える化)”により、個人の感覚に頼らない技術の学習・継承が可能となり、家族介護者に対する学習サポート支援や負担軽減へ向けた革新が期待されています。結論およびこれからの展望超高齢社会を迎えた現在の日本において、認知症に伴う課題はもはや個人の問題ではなく、社会全体で支えるべき最も重要なテーマの一つです。ユマニチュードは、誰もが実践できる再現性の高い技術体系でありながら、認知症患者を「ケアの対象」としてだけではなく「意思と感情を持つ一人の人間」として尊重し直すという、本質的なパラダイムシフトをもたらします。現場でユマニチュードを導入する際は、すべてのスタッフが一度に完璧な実践を目指そうとすると現場に混乱を招きかねません。まずは「特定の対象者1人から実践を始める」こと、そして「実践前後の行動変化を客観的に記録し、チーム内で共有する」ことが成功への鍵となります。また、福岡市が「国境なきユマニチュード」の国際推進本部を開設したように、専門職や家族介護者だけにとどまらず、地域住民や子供たち、ひいてはデジタルテクノロジーを巻き込みながら「優しさが伝わる社会環境」を構築していくことが、今後の共生社会における極めて強力な一歩になることは間違いありません。ユマニチュードの哲学と実践的な技術は、これからの介護業界、ひいては社会全体の福祉水準を根幹から支え、より豊かで尊厳のある関係性をもたらしてくれることでしょう。
2026.09.06
磐田郡における耕地整理の起因 名倉太郎馬(大日本報徳学友会報第二十一回二四頁)第十八回の続き明治八年一月より着手して同年十二月に至りてことごとく竣功せり。而して当彦島も、これと同時に、右悪水路をはじめ道路及び畦畔溝渠等に至るまで、同年十二月地租改正の際、土地丈量とあわせて、これが竣功を告げたり。而して耕地整理のために増歩すること、実に十町八反余歩に達せり。これかくの如き多大なる増歩地を生じたるは、ひたすら当村は、水害多き所とて、不毛の地多く、沼沢等、かや又はその他の雑草叢生する所、多かりしによるべしと雖も、その増歩一割五分以上に達し、またこれが改良によって、爾後水害を免がるる事を得る等は、実にその効の大なるものありて存するなり。然して以上の如く、彦島区耕地悪水路修正に関する、諸費総額は、ハ百余円に及びしも、当時困窮の事とて、これが費用は一切徴収する事なく、これをことごとく県より無利息年賦償還をなせり。爾来水害のうれいなく、農産の術も進歩し、村民皆勉以てその業につとめたりしを以て、十分なる秋収を見るに至り、十ヶ年の見積仕法も、僅かに五ヶ年、すなわち明治十一年十二月に至り、十数年渋滞の公私の借財並びに、耕地整理費の借入金等合計四千余円は、これをことごとく償還し、なお八百余円の剰余を生ずるに至れり。 それ、耕地整理の効たるや、かくの如し。これら実況を他町村有志の聞知するところとなり、遠近各地より当村悪水路及び耕地区画の修正状況並びに報徳結社方法及び困窮村落回復の方法につき、来訪するもの日々多かりし。 今日静岡県において、報徳結社の隆盛を致せると共にまた耕地整理の盛大を極むる、また故なきにならず。(完)
2026.09.06
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(二)その3【開爐(二)】 風頭稍硬大家知 (風頭稍硬し大家知る)且聽商量暖處歸 (且く聴す商量暖処に帰ることを)般若如同大火聚 (般若は大火聚に如同す)近前燒郤兩莖眉 (近前すれば焼郤す両茎の眉) だから、例えば戒法を持つ。戒法を持っているという。しかし戒法を持っておるといっても、どういう具合に持っておるかということが大変な問題である。戒法を持っておるのは悪いのではないが、戒法を持っておると、そう思うておることがもう早や般若の傷である。『正法眼蔵私記』の中に修忘(しゅうぼう)ということがある。修行をしながら修行をしておるということを忘れておる。戒法を持ちながら、戒法を持っておるということを忘れておる。 悟りを開きながら悟りを開いておるということを忘れておる。これで初めて本当に悟りを開いておるのである。悟りを開いて、「おれは悟りを開いておるのを、ワイラ知っておるか。おれは悟りを開いておる」これがちょうど、今の学士院の会員になったとかいうように、悟りというものが社会的になって、つまり制度的になって、その組合に、どこの何某は悟りを開いておるという触れが回っておる。あにハカランや、それを見ると、実物を間違うておるのをしばしば見る。 何某は悟りを開いておるというと、そういう組合ではそのことが分っておる。何某は、どこそこの会下で悟りを開いたという。その悟りを開いたという人が迷うておる。十のうち九分九厘九毛われわれの知っておるところでは迷うておる。その悟りという実相般若は悟りながら悟りを忘れ、修行しながら修行を忘れる。だから「正戒の相も取らず、又邪念の心もなき」この正戒の相も取らず、邪念の心もなく、そういうことを象徴するのがこの大火聚である。悟りにも入らず、迷いにもズベリ込まず、そこのところをよう間違う。真宗の後生願いが、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。悪人正機の御本願、ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」という。ところが、善いことをしたら仏さんから救うて貰えんから、なるたけ悪いことをしよう。朝暗いうちにお寺詣りをするのに、よそのうちの茄子を一つちぎってはナンマンダブツ、二つちぎってはナンマンダブツ。「この悪人なればこそ如来様のお救いいただきます。ありがたいことでございます。ナンマンダブツ、ナンマンバブツ」両方の袂に茄子をいっぱい入れて戻ったという。それは正戒の相はないが、邪念の心がある。 律僧が蟻一匹を殺してももったいないというのは、正戒の相を取らず。だが、青瓢箪の栄養不良になって、お粥のズルズルをすすって、鰹節のだしもあがらん。そして「わたしは一生精進物で飯を食うた。生まれてから雑魚一匹食うたことはない。鰹節のだしも食うたことはない」という。そりゃ結構、まことに結構じゃけれども、それが忘れられんというのは、一つのまた煩悩である。そんなら「おれはもう鰯に限る」これもまた煩悩である。そこのところの間もむずかしいのである。 ここに般若は大火聚に如同す。正戒の相なく、邪念の心なく、うっかりすると正戒の相を取る。うっかりすると邪念の心を取る。うっかりすると半善人になり、本当の悪人になる。「近前すれば焼郤す両茎の眉」両茎の眉、うっかりすると、眉を焼く、眉を怪我をする。息を吸いも出来ん。ちょうどいい塩梅というのは、これは非常にむずかしい。『宝鏡三昧』に「大火聚の如し」今開炉は大火聚に如同す。 この大火聚の如し、これは今開炉であるから、大火聚の如し。近前すれば焼卻す両茎の眉。二つ眉が焼けしまうぞよ。眉が焼けるように進めば、正戒の相を取る。退けば邪念の心を取る。進むも、退くも、どうにもこうにも、二進も三進もならん。 色を以て見、音声を以て我れを求めば、この人邪道を行ず。それかといって、求めねばなんにもならん。求めれば邪道を行ず。どこにこれは開炉をすべきものであるか。ここが大いに参究せねばならぬところである。 次が三首目。(大智禅師偈頌講話p.178-180)
2026.09.06
「相馬市史6資料編3近世2」八―二三に、岩子村の村長渡部才兵衛が御仕法に深く感動して、米四十俵を仕法の資金へと上納し、生活に分度をもうけ、年々有余を推譲いたしますので他の困窮の家々を復興してくださいと申し立てたので、報徳役所が「推譲米無利五ヶ年賦貸附報徳米附雛形」を六十年分組み立てた書付に、誠明先生(二宮尊徳)の教えを再述し丁寧に記す。相馬仕法において仕法の趣意がどのように伝えられたかを知る上で興味深い。(現代語訳の試み)「推譲米無利足五ケ年賦貸付報徳米附雛形誠明(二宮尊徳)先生の至教に基いて、一村平均、中庸の教えによってて、家株分限を改正し、分外の田畑からの収穫した米十五俵を、永久の推譲米と定めて、別冊に取調べたところ、なおまた先生の至教に基いて、推譲米を無利息五ケ年賦として繰り返し貸付する報徳冥加米についての雛形を組み立てましたところ、六十か年の貸付高は三万二千五百四十俵、幾百家、幾千人の困苦を除いて推譲する元米九百俵が備わり、報徳冥加米六千五百八俵と増しました。前に記したとおりです。先生の教えに言う。「無利息の功徳は、なお太陽が国土を照したまい、観音菩薩が衆生の苦悩を除き、無量の福徳を与えたもうようなものである」と、太陽は世界を観じて、もろもろの苦悩を消し除き、もろもろの福徳を与えたまい、衰村の貧民に、借財があれば、利足や諸雑費の苦しみがある。質地があれば、収穫が不足するの苦しみがある。家株が不足すれば、食料が不足する苦しみがある。家が破れ、屋根が破れれば、風や雨や雪の苦しみがある、衣食が不足すれば、餓えや寒さの苦しみがある。農具や肥料がなければ、生育が不十分で収穫の不足の苦しみある。農馬がなければ、しろかきはもちろん重荷を負う苦しみがある。家財がなければ、万事不自由の苦しみがある。おのおのその苦しむところうぃ観察して、無利息五か年賦に貸し渡す時には、あるいは借財を償い、利息が出れ廃たる分の利益を生じ、あるいは質地を受け戻して、収穫物の利益を生じる。家株を得れば、暮し方に余裕がでる利益を生じる。家小屋を修理できれば風雨をしのぎ、また勤業安楽の利益を生じる。農馬を得るならば諸物運送の利益を生じる。家財を得れば、日々の生活の利益を生じる。おのおのその憂苦するところを免れて、その利益を得て、仰いでは父母を養い、俯しては妻子を育てて、一家が安心して相続する道が立つ。60年で循環するに及んでは、極難貧者が幾百、家の生産を安んじ、もし永久に取り行う時には、循環が極りなく、幾億万家の貧苦を除き、幾憶万人を相続させ、永安を得ること極りがない。実に先生の言われる日月の行く道に同じく、観音菩薩の無量の功徳に等しいとのたまわれた。またその通りである。人倫の道、何物をかこれに加えるものがあろうか。よって先生の至教に基いて、文学書算も手に取らない女子共にも呑み込みやすいように、雛形を組み立て、無利息の大徳を顕わした件、才兵衛の子々孫々に至るまで、慎んで遵奉し、分限を堅く守り、余米を年々推し譲り、雛形の通り取り行うように、以上 文久元辛酉年正月 報徳役所 岩子村 渡部太四郎殿、才兵衛殿、太右衛門殿 親類 小野田庄三郎殿 子孫、親類 中再び述べる経に曰く、願わくはこの功徳をもって一切に施し及ぼし同じく菩提心をおこし安楽国に往生せんことを。先生はこれを解して言われた。この無利息米をもって、一切の貧者に貸し与え、貧者が返納の志をおこすならば、貧富ともに永安の至楽を得るとおっしゃられた。富むものは、数千万余を積んでも、更に足ることを知らない、有るが上にも願い求めて、利欲に迷い、高利を貪って、他の者を省りみることなく、己一人の奢りに長じて、無慈悲の所行に陥って、遂に一家滅亡の禍いとなり、貧しいものは、家業を怠って、他の財を借りて、元利を返済する道を失い、いったん借用をもって、困苦を補い、助かった恩義を忘れることなく、ついに祖先以来の家株の退転となる、こように貧富とも、道を失い、利を失い、禍いを招くものは、凡情に通ずる患いである。先生はこれを富む者は驕り、貧しい者の惰弱の二つの弊害とし、富むものは自然の分にとどまり、驕奢の弊害を省みて、余分を生じ、貧者に譲り施して、貧しいものは怠惰の弊害を改めて、勤めてその徳に報じて、貧富が和する時には、財宝はその間に生じ、貧富は共に永安の地に至るとおっしゃった。才兵衛、このたび一村平均の中庸の天分にとどまり、驕奢を戒めて、倹約を守り、年々米十五俵の余分を生じ、推譲いたします。誠意の米穀は、得難い奇特というべきである、これを借用するものは、一粒たりとも如意宝珠のように尊敬し、それぞれ不足を補い、貧苦を免れ、五か年賦に返納致すならば、年二割の利息に当り、元来助成に預ったのと同じである。一家暮し方が整った上は、その恩義を理解しなければならない。恩を受けて恩を報じないものは、人ではない。父母の恩を報じる、これを孝という、主君の恩を報じる、これを忠という、もとより才兵衛は、報恩謝徳のために、差出した推譲米について、借用の面々は年賦を皆済した後に、冥加米を納めることはもちろん、その余、才兵衛の勤倹、推譲にのっとって、できるだけわきまえ、暮し方の中庸の節度を立てて、天分にとどまり、驕奢を戒めて、倹約を守って、年々余分を生じて推し譲る。これまた前書の雛形の通り取り行わなくてはならない。先生は「常に分外の有余を推し譲り、無利足に貸し出すものを称して菩薩界とし、借用して助かるものを称して衆生とする、そして衆生で、困苦のために無利足の米財を借用して助かり、年賦返納する時には、返納米をすぐに他の貧者に循環し、もろもろの艱苦を除くために、一たび年賦を納めるものは、たちまち衆生を出離して、菩薩界に入る」と教えられた。そうであればこの推譲米を借用して、一家の暮し方が整い、才兵衛同様に、天分にとどまり、余米を推し譲る分は、共に天地と功を同くする。観音と経を同じくするようになろう。才兵衛一人この道を行うときすら、60年三万有余俵の功徳を顕わす、借りる者数百家、同じく推し譲るに至っては、その功徳、計算できる数量にも及ばない。日月の照らすところ、霜露のおちるところ、あまねく人民の窮苦を救済し、大小の貧富ともに至道にかない、貧賤の者は危亡の禍いを免がれ、富貴安存これを得る。国家永く安楽に至るであろう、あにふかく信じないでよかろうか。どうして勉め行わなくてはならない」(一〇三三―四一頁)「推譲米無利足五ケ年賦貸付報徳米附雛形誠明先生の至教に基き、一村平均中庸の教えに因て、家株分限改正致し、分外田畑作徳米十五俵、永久推譲米と相定め別冊取調遣し候処、猶又先生の至教に基き、推譲米無利五ケ年賦繰返貸付報徳冥加米附雛形組立候処、六十ヶ年貸付高三万二千五百四十俵、幾百家、幾千人の困苦を相除き推譲元米九百俵相備り、報徳冥加米六千五百八俵と増益致し候処、前記の如し。先生の教えに曰く、無利足の功徳は、猶日陽の国土を照し給ひ、観音衆生の苦悩を除き、無量の福徳を与へ給ふが如しと、夫れ日陽は世界を観じて、諸の苦悩を消除し、諸の福徳を与ひ給ふ、衰邑の貧民、借財あれば、利足諸雑費の苦あり、質地あれば、作徳不足の苦あり、家株不足なれば、夫食不足の苦あり、家破れ屋根破るれば、風雨雪の苦あり、衣食不足なれば、餓寒の苦あり。農具糞直なければ、麁作して取穀不足の苦あり。農馬なければ、代掻(しろかき)は勿論重荷を負ふの苦あり、家財なければ、万事不自由の苦あり。各其の苦む処を観察して、無利五ケ年賦に貸し渡す時は、或は借財を償ひ、利足出廃の利益を生じ、或は質地受戻し、作徳の利益を生じ、家株を得れば、暮方有余の利益を生じ、家小屋修覆を得れば風雨を凌ぎ、又勤業安楽の利益を生じ、農馬を得れば諸物運送の利益を生じ、家財を得れば日用自在の利益を生じ、各其の憂苦する処を免れ、其の利益を得仰いで父母を養ひ、俯して妻子を育し、一家安心相続の道立つ一固度循環するに及びては、極難貧者幾百、家の生産を安んじ、若し永久取り行いし時は、循環極りなく、幾億万家の貧苦を除き、幾憶万人の相続、永安を得ると極りあるべからず、実に先生日月の行く道に同じく、観音無量の功徳に等しと宣ふに、又宜(むべ)ならずや、人倫の道、何物か此に加ふるものあらんや、依て先生の至教に基き、文学書算も手に取らざる女子共にも呑込易き様、前書雛形組立て、無利足の大徳を顕し置候条、才兵衛子々孫々至る迄、慎んで遵奉致し、分限堅く相守り、余米年々推譲り、雛形の通り取り行い申すべく候、以上 文久元辛酉年正月 報徳役所 岩子村 渡部太四郎殿、才兵衛殿、太右衛門殿 親類 小野田庄三郎殿 子孫、親類 中再述経曰願以此功徳施及於一切同発菩提心往生安楽国先生之を解して曰く、此の無利足米を以て、一切の貧者に貸し与ひ、貧者返納の志を発せば、貧富ともに永安の至楽を得と宣ふに、夫れ富むるものは、数千万余を積むといへども、更に足るを知らず、有るが上にも願ひ求め、利欲に迷ひ、高利を貪り、他の者を省りみず、己一人の奢りに長じ、無慈悲の所行に陥り、遂に一家滅亡の禍となり、貧きものは、家業を怠り、他の財を借り、元利返済の道を失ひ、一旦借用を以て、困苦を補ひ、相助り候恩義を忘却致し、遂に祖先以来の家株退転となる、此の如く貧富共、道を失ひ、利を失ひ、禍を招くもの、凡情の通患なり、先生是を富驕惰弱の二弊とし、富むるものは自然の可分に止まり、驕奢の弊を省みて、有余を生じ、貧者に譲り施し、貧しきものは怠惰の弊を改め、勤めて其の徳に報じ、貧富相和する時は、財宝其の間に生じ、貧富共に永安の地に至ると宣ふ、才兵衛、今般一村平均、中庸の天分に止まり、驕奢を戒め、倹約を守り、年々米十五俵の有余を生じ、推譲候誠意の米穀は、得難き奇特と云ふべし、是を借用するもの、一粒たりとも如意宝珠の如く尊敬し、銘々不足を補ひ、貧苦を免れ、五ヶ年賦に返納致し候はゝ、年二割の利足のみに相当り、元来助成に預り候同様なり、一家暮方相整い候上は、其の恩義を解せずんばあるべからず、夫れ恩を受て恩を報ぜざるは、人にあらず、父母の恩を報ずる、是を孝と云ふ、君の恩を報ずる、是を忠といふ、素より才兵衛、報恩謝徳の為、差出し候推譲米に付、借用の面々年賦皆済後、冥加米相納候儀は勿論、其の余才兵衛の勤倹、推譲に法り、可分を弁ひ、暮方中庸の節度を立て、天分に止まり、驕奢を戒め、倹約を守り、年々有余を生じ推し譲り、是又前書雛形の通り取行い申すべく候。先生常に分外の有余を推し譲り、無利足に貸出すものを称して菩薩界とし、借用して助かるものを称し衆生とす、然して衆生にして、困苦のために無利足の米財を借用し相助り、年賦返納する時は、返納米即他の貧者に循環し、諸々艱苦を除く故に、一たび年賦を納るものは、乍(たちま)ち衆生を出離して、菩薩界に入ると教え給ふ、然ば則ち此の推譲米を借用して、一家暮方相整い、才兵衛同様、天分に止まり、余米を推し譲る分は、共に天地と功を同ふし、観音と経を同ふするに至らん、才兵衛一人此道を行ふすら、一周度三万有余、俵の功徳を顕す、借る者数百家、同じく推し譲るに至ては、其の功徳、算勘数量にも及ぶべからず、日月の照す処、霜露の墜る処、偏く人民の窮苦を済救し、大小貧富共に至道に濠洽し、貧賤危亡の禍を免れ、富貴安存之を得、国家永く安楽に至るべし、豈可不暮信乎哉、豈可不勉行行乎哉」(一〇三三―四一頁)
2026.09.06
代表的なアルカリ性の飲み物をまとめた一覧。 飲み物 pH値の目安 特徴アルカリイオン水8.5〜9.5 胃酸を和らげ、体内のpHバランスを整える効果が期待される豆乳 約7.2〜7.5 植物性たんぱく質とイソフラボンを含み、弱アルカリ性で美容にも良い緑茶 約8.0 抗酸化成分カテキンを含み、リラックス効果も高いレモン水 約9.0(代謝後) 飲むと酸っぱいが体内でアルカリ性に変化する代表的な飲み物野菜ジュース 約8.0前後 食物繊維・ミネラルが豊富で手軽に摂取できる炭酸水(無糖) 約7.0〜7.4 中性に近く、胃腸を刺激して代謝を促す効果も期待できる見た目や味では酸っぱいものでも、体内でアルカリ性に変化する「代謝アルカリ性食品」もある。レモン水や梅干し水がその典型で、健康法として取り入れやすい。体をアルカリ性に整える飲み物に共通しているのは、「ミネラルが豊富で糖分が少ない」こと。ナトリウム・カリウム・カルシウム・マグネシウムといったミネラルは、体内の酸を中和する働きを持っている。反対に、砂糖が多い清涼飲料水やカフェインの強い飲み物(コーヒー・エナジードリンクなど)は酸性に傾ける要因になる。健康のためにアルカリ性を意識する場合、まずは「甘くない・自然由来・無添加」を基準に選ぶのが基本。💛胃酸過多を感じたら、豆乳を飲むかな、アルカリイオン水も買って来よう(^^)
2026.09.05
札幌農学校教授・宮部金吾 その3四 松浦竹四郎と宮部家(一六頁) 私たちがまだ駿府の代官屋敷に住んでいた時、松浦竹四郎氏が、明治元年閏四月六日付で京都大総督宮より「急々上京仰付」の命を拝し、京都往復の際、往復とも静岡の役宅に立ち寄られた。ことに御用を果たした帰途には数日間滞在されていった。松浦氏は当時における蝦夷(エゾ)地探検の第一人者であり、また著述家として令名のあった人で、後に開拓使の判官となり、北海道の国境を確立した。明治元年の御召の際にも京都滞在中に「蝦夷開拓基本献白書」を提出申し上げた。駿府に滞在中、徒然のままに唐紙にアイヌの絵を数枚書いて残していかれた。そのうちの一枚は今なお北海道帝国大学図書館にあり、一枚は故新渡戸稲造氏に贈呈し、アイヌが昆布を採っている絵のただ一枚が私の手もとに残っている。この絵は非常によくできているため、先年来朝した米国シカゴ大学教授スタールが札幌に来た時、これが複写を熱望され、数枚の複写をとったが、その一つは故河野常吉氏の所に蔵された。松浦家と宮部家とは極めてじっこんの間柄であり、江戸下谷の寓居は松浦家にごく近かった関係から、両家のゆききも相当に繁しかった。したがって数多い氏の名著はその都度我が家に寄贈された。このため、書物の中のアイヌや、蝦夷地の草花類や鳥獣などの絵を見ており、子ども心に早くも遠い蝦夷地に対し一種の親しみと憧れを持っていた。なお松浦氏は私に眼をかけられて、私を養子に懇望された由を、後になって、母から聞かせられた。けれどもこの話は父も母も進まなかったので取りやめになったという。しかし尽きせぬ縁というか、松浦氏が心血を注いだ北海道に、私は今日まで一生を捧ぐべき研究ひとすじの生活を送り来ったのである。五 修学のはじめ(一七頁)七歳(慶応二年)の時、私は初めて下谷仲御徒町岩村田藩儒者宮崎右膳氏に就き、漢学を修め始め、また近所の寺子屋にも通った。八歳の八月、父に従って駿府に移ってから九歳の一二月駿府を去る日までは同地の寺子屋に通っていた。一〇歳(明治二年)の二月、東京府にて全市を六学区に分かち、その各々に小学校が創設され、建物には皆大きな寺院を使用した。下谷と浅草の者は三味線堀に在った西福寺という寺を使用した。これが当時の東京府第五小学校である。寺小屋とほとんど同じで、学科は漢籍の素読、習字、珠算等であった。私は袴を着し、木刀を腰にして御徒町からそこに通った。その頃、父はまた私に手習いの先生として下谷長者町の服部随庵氏を選んでくれた。始めて先生の所にあがった時、父は「長兄は樋口逸斎氏に、次兄は高斎単山氏にご厄介になっていますが、この子は是非あなたのご指導に預かりたい」と申し述べた。随庵氏は大いによろこばれて直ちに快諾された。私は小学校に通う時、この随庵先生のお手本を持っていき、習字の時間にはこれを手本としていた。この年五月、生まれて始めて写真を撮る。この頃はいまだ写真の極めて珍しかった時である。父が烏帽子、直垂を賜った記念であったらしく、当時一流の名声をはせていた池の端橋本写真館に行き、父は一人で、私は文臣兄と二人で撮影してもらった。一一歳(明治三年)の初春、東京各小学校から四、五人の者が選ばれ、城内のある御邸に参上、書初めをした事がある。自分も幸にその選に入ったので、羽織、袴にお行儀よく、身を固めて御邸にあがり、帰りには扇子二本をご褒美としていただいて帰った。これは随分嬉しかったことの一つである。この一一歳の春の頃、ごく一時的であったが、外国語学校の前身と考えられるような学校ができた。建物は麹町の大きな旧旗本屋敷にあったように記憶する。各小学校において洋学希望のものでその学校に行きたいものは申し出よとの事に、父に願って、私も届け出た。入学の願いがかない、出頭の命に従って登校したところ、集まる者約七〇名。私はその中の最年少組であった。三味線堀の小学校から志願した者の内には、岡胤信者(後の工学博士)、原田鎮次君(後の工学博士)、が一緒であった。この学校には英独仏の三科があり、それぞれ希望する所を書けというので、英語を志願した。ところが英語志望者が大多数であったので、私はドイツ語の組に回された。ここで「アー、ベー、ツエー」の読み方が始まったのである。教師には西洋人が二人ほどいたらしく、屋敷内に住み、また見え隠れに陣笠を被った護衛の士も若干ついて同じ邸内に住み込んでいた。彼ら洋人は外出に際し、いつも乗馬を用い、護衛の士も騎馬でその前後を護って行った。一一歳の少年にとって登校は相当な道程であったが、ただ一人で御徒町から本郷の切通を通り、飯田橋を渡って麹町へ往復した。これより先、既にその前半頃から私は洋学修行の志を持っていたらしく、時の流れを考え、自分の発展を期して父もまた洋学修行をさせたかったらしい。後年父が石賀作助氏に宛てた手紙(明治二年四月九日付)が発見され、その事が明らかになった。石賀氏は祖父が自分の養子として石賀家を継がせた人で、父の義弟に当たり、当時横浜に在住していた。ところが当時横浜の高島学校はいまだ開校の運びに至らず、かつ適当な機関もなかったので、その話はまずそのままとなったのである。
2026.09.05
鹿児島出身の河東祐大が公式戦A代表デビュー 絶妙トスで得点演出【バレーボール 男子アジア選手権】9/4(金)鹿児島市出身のセッター河東祐大(J愛知)が17―12とリードした第2セットの途中から出場し、公式戦でA代表デビューを果たした。高橋藍(ルブリン)の強烈なバックアタックをトスで演出したほか、同セット奪取を決めた小野寺太志(サントリー)にも右手一本で絶妙な配球。五輪への切符が懸かる大会の初戦で、きっちりと役割を果たした。男子バレーアジア選手権日本代表に鹿児島商業出身のセッター・河東祐大選手が選出4日から福岡で行われる男子バレーボールのアジア選手権に出場する日本代表メンバーに、鹿児島商業高校出身のセッター、河東祐大選手(28)が選ばれました。河東選手は鹿児島商業高校から日体大に進み、現在はSVリーグのジェイテクトSTINGS愛知でプレーしています。河東選手は8月に鹿児島・薩摩川内市で行われた日本代表チームの合宿にも参加していて、紅白戦では地元鹿児島のファンにファイトあふれるプレーを披露していました。河東選手はウルフドッグス名古屋の深津英臣選手とともに日本代表のセッターとしてチームの司令塔を担います。河東選手をはじめ石川祐希選手、高橋藍選手らが出場する男子バレーボールのアジア選手権大会は9月4日から13日まで福岡・北九州市で開かれ、優勝すれば2028年ロサンゼルス五輪の切符が得られます。
2026.09.05

「ユマニチュード」という革命p.116 私の現実が正しくて相手の現実が正しくないと判断するとき、物事を決定する権利はどちらが持っているでしょうか。 私の現実を基準に判断するとき、彼女には権利がなくなり、両者には一方的な力関係が成立します。つまり、「支配するか・支配されるか」しかありえなくなります。ユマチチュードは自由を尊重します。それは自分より強い者に従うことからは生まれないからです。 ではどうすればいいでしょうか。力関係に陥らずに済む方法が、たったひとつあります。 ケアを受ける人とケアをする人とのあいだに絆を結ぶことです。それがあれば入浴に来てくれます。なぜでしょうか?ケアを受ける人がケアをする私のことを好ましいと思っているからこそ、一緒に風呂場まで来てくれるのです。それがポシティブな依存関係がもたらす絆です。 これから行うケアを好ましく思っていない人に、「あなたのためですよ」と強制的にケアをしたら、相手は私のことを好きだと思うでしょうか。優しく接しないと好きになってくれないでしょう。 歩きましょうと誘っても「嫌だ」と拒む高齢の人に私たちはどうしたらいいでしょうか。まずは自分の足で立つことの大事さを説明します。そして「私のためにやってほしいな。嬉しいから」と言います。でもどうしても本人がその気にならない場合もあります。「寝たきりになってしまうかもしれないからです。あなたにとって残念なことだと思うし、私の心はつらいです」と言います。けれども強要する権利は私にはありません。あくまで本人が選択するのです。だからこそ、私と一緒に立ちたいと思ってもるためにすべてのことをします。それが依存関係における、その人の自律と自主性の確保です。「すべての人は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」 ユマチチュードにおいては、この世界人権宣言は絵空事の理想ではなく、技術を伴う哲学によって実現されるべき目標なのです。人間はものではありません。しかし、認知症高齢者はもの扱いされる局面が多々あります。濱口竜介が考えるケアと資本主義──映画『急に具合が悪くなる』ロングインタビュー濱口竜介が考えるケアと資本主義──映画『急に具合が悪くなる』ロングインタビュー「資本主義は、ケアという誰かに配慮する時間や関心を向ける時間を食い潰していく構造を持っている」と濱口は語る。哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂による往復書簡集『急に具合が悪くなる』(晶文社)を原作にした本作は、異なる物語でありながら、原作と温度と核を共有する作品だ。介護施設長のマリー=ルーと演出家の森崎真理。同じ名前の響きを持つ二人の偶然の出会いと関係を通して、ケアと時間、そして思うようにはならない身体の問題に触れる。『ドライブ・マイ・カー』の各国での公開や、世界の映画賞・映画祭でのノミネーションにまつわる怒涛のプロモーションで体験した感覚が、本作の根底に流れ込んでいるという。過去作を振り返りながら、映画作家としての現在地を語る。──今回の作品『急に具合が悪くなる』について、プロデューサーの松田広子さんから企画をもらった際、どうやって映画にすればいいかわからないまま動かされたとおっしゃっていました。そういう「わからない」状態に対して、いつもどう向き合っていますか?基本的には、放っておきます。よく言えば「発酵させる」ということだと思います(笑)。その時々のさまざまな興味のあることをやっていると、何かしらの刺激が次々と入ってきます。どうやってそういうことが起きるか、その条件は未だにわかりませんが、ある時にふと「この方向でまとまるかもしれない」ということが起こります。今回は、フランスのプロデューサーからの依頼という、道が開けたわかりやすいきっかけがありましたが、それだけではなくて、読んでいる本や日常のものごとによって、「おや?」と、これまでとは違う道が開けるきっかけをもらうこともあります。──本作は、効率や速さが優先される社会に対して、人間として当たり前の感覚を取り戻そうとする映画だという印象を受けました。今回は、どんな社会への「おや?」が作品の根底にあったのでしょうか。そうですねえ。遡ると、『ドライブ・マイ・カー』で評価をいただいて、各国で劇場公開されました。これ自体は当然ありがたいことなんですけど、ちょうど『偶然と想像』の公開のタイミングと重なってしまったために、ほぼ1年間ずっと日本と海外でプロモーションをしなくてはならなくなった。当時はコロナ禍で、海外への移動に付随するホテル隔離なども重なって、精神的・肉体的な疲労が溜まる状況にありました。海外に行かないとしても、「30分か1時間、オンラインでインタビューできませんか?」という依頼が各国から来るようになりました。できないことはない。でも、ネット環境の安定した場所にいなければならないし、その時間以上に拘束されるわけです。時差があればそれは早朝か深夜になる。本当にじわじわと自分の時間が奪われていくような感覚がありました。「奪われる」というと言葉が強いですが、多くの人が、自分一人の有限な体力や時間から、できる限りのものを取っていこうとしているような感覚があったんです。どうやらこの状況において、一人一人には何の悪意もないようだ、と。それぞれの仕事を誠実に果たしているだけなのですが、しかし、この奪われていく感じは何なのか。自分の体に降りかかるものとして、システムの暴力のようなものを感じるところがあったわけです。それがシンプルに、おそらく『急に具合が悪くなる』にも『悪は存在しない』にも、ある種の「こんちくしょう」という気持ちとして流れ込んでいるところはあると思います(笑)。──「こんちくしょう」が映画になっているというのは、健康的な昇華法ですよね。ユマニチュード(フランスの体育学者イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティによって1979年に開発されたケア技法)を導入しようとしながら、必ずしもすべてが上手くいかない施設長の姿が直接の着想源になったそうですが、理想と現実の間で動く人間は、ご自身が監督として携わった映画の現場での体験とも重なるものですか?長らくそういう思いはあったと思います。完璧なものを作ったことは全くないので、もっとこうだったら、という気持ちは常に、随所にあります。ただ、それをどうすればいいかはやっぱりわからないという地点にいつも戻っていく。非常に愚かに、あちらを立てればこちらが立たず、ということをずっとやっています。ただ、「右往左往する力が身についた」というところはあるかもしれません。よく言えば(笑)。──これまでのフィルモグラフィーを振り返り、酒井耕さんとの共同監督である東北記録映画三部作、東日本大震災の被害者へのインタビューから成る『なみのおと』(11)『なみのこえ』(13)、東北地方の民話の記録『うたうひと』(13)、神戸に移り住み、年月をかけ、即興演技ワークショップから誕生した『ハッピーアワー』、商業映画デビュー作となった『寝ても覚めても』(18)、アカデミー賞®国際長編映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』、石橋英子さんとのコラボレーションから派生した『悪は存在しない』(23)などの作品がありますが、今振り返ってみたときのターニングポイントがあればお聞きしたいです。結局はどれも決して外せないものばかりですが、特に大きいものは二つだと思います。震災後にドキュメンタリー、東北記録映画三部作を撮ったこと、そしてその経験をフィクションとして『ハッピーアワー』に昇華させたこと。この二つがターニングポイントとして非常に大きい気がします。──特に、どんな側面で変化したと思いますか?人との関わり方、という面ですね。例えば、20代の頃、フィクションで俳優に出てもらうというのは、ある種のギブアンドテイクであると思っていた。向こうは演じたいという気持ちがあって、演じる機会を欲している。それをこちらが提供する代わりに、彼らの力や時間をもらう。でもドキュメンタリーの場合、そこに非対称がある、ということを強烈に意識するわけです。被写体が出てくれるとして、その理由やモチベーションは基本的にはこちら側にしかほぼない。特に被災体験を語ってもらう、というのは色々なリスクがあります。しかし、インタビュイーに還元できるものはほとんどありません。そうなると、その体験を語ることに歴史的な、もしくは未来にとっての意義を感じてもらえるか、ということが一つ。もう一つは、こちらが「どんな話でもあなたのことを聞きたい」という関心を、できる限り示すということが、被写体にカメラの前に立ってもらううえで必要になります。そのうえで、その語りが映画になるためには、その人が自由に話しているときにのみ出てくる、その人自身の人間性や魅力が溢れてくるような時間を捉える必要がある、というふうに考えていました。その人の本質を見せてもらうためには、安全な空間を作らなければならない。そういったことを共同監督の酒井耕とも話し合いながら、自分たちの方法を作っていきました。──どのように、安全な空間を作っていったのでしょうか?まず、自分たちがその話を心から聞きたいと思っているということを言葉でも伝えるし、肯定的な雰囲気を態度からも発していく。特に『なみのこえ』以降は、「どんな話でもしてもいいのだ、それが被災体験でなくてもいいのだ」とインタビュイーの方たちに安心して話してもらうために、撮ったものを編集段階で本人に見せると約束をして、撮影しました。編集で実際に話してもらったことの順番を変えたり、時間をものすごく圧縮するわけなので、本人が言った意図とずれていないか、この提示の仕方は許容できるかどうかを確認して許諾をもらう。「許諾をもらえるまでは世に出しません」と撮影時に約束することで、安心して話してもらう。そしてこのカメラの前に立つ人にとっての「安心」の重要性は、劇映画の制作においても同じだろうと気づきました。俳優が輝きを放つかどうかは、単なるスキルの問題ではなく、その人が自分自身を表現してよいと感じるに足る安全な環境がなければ、観客を深く引きつけるような在り方にはならない、と。ただ、演じることを完全に安全な環境にすることもできません。だとしたら、俳優が飛び込む価値を感じられるような役柄や、そこに込められた感情が必要になるだろうと。おそらくそうした考えが、『ハッピーアワー』の制作を通じて作られていったのだと思います。──『不気味なものの肌に触れる』(13)の振り付け・演出や、『ハッピーアワー』(15)のワークショップ・演劇指導をされている砂連尾理(じゃれお・おさむ)さんが本作にも関わっていますが、彼との対話でダンスとケアについて考えたことがあればシェアしていただけますか。友人でもある砂連尾さんとは月1回の勉強会のようなものをずっとやっていて、共通の映画を観たうえで、動きをひたすら観察するということをしています。砂連尾さんは、手の動き一つとっても、動きのノイズすべてを捉え尽くすような観察をします。何でそんなところを見てるんだ、と。「物語、本当にわかってます?」と聞くこともあるぐらい(笑)。自分にとって砂連尾さんの、人と物をあまり区別しないという見方、そこにあるもの全てを等しく感じとるという感覚は、是非とも学びたい、映画の中にも取り入れられるならそうしたいと常々思っているものです。今回の映画は、自分だけの手に負えないと思ったので、久しぶりに直に参加をしてもらいました。我々が「足裏ダンス」と呼んでいた足裏マッサージのシーンは、元々は砂連尾さんのレパートリーです。自分ひとりではまだまだその境地には行けないけれど、砂連尾さんに手伝ってもらえば、そういうものが映るかもしれないという信頼がありました。──本作は、ケアをする側、される側の分断を超えていく可能性についての映画だと感じました。最後に、濱口さん自身のケアに対する考え方を聞かせてください。私自身の考え、というほど大層なものは持ってはないです。ただ、脚本執筆時に参照したナンシー・フレイザーが、資本主義というのは、まず社会の中のケアを食い潰していくシステムだと指摘しています。つまりその部分に賃金を払わない、ということですね。このことは介護産業における資金不足だけを指すのではなくて、家庭内で主に女性が担わされる家事労働、高齢者や子どものケア、そして仕事先から帰ってきた人間の感情的ケア、そういうものが無料で行われることが慣例となって、社会がそこに対価を払わないまま、ただ乗りしている事態を指しています。私が、さっき言ったような自分の経験も踏まえて感じるのは、資本主義的な社会システムは何よりも、人間を人間として扱う余裕や、本来なら「ケア」の根本にあるべき他者への関心そのものを奪ってしまう、ということです。関心というのは、ただ持っていればいいというものではありません。関心を寄せるとは実際に、誰かを見つめたり、耳を傾けたり、ときに触り合ったりする、そういう具体的な行為を通じて伝えられるものです。つまり、それには時間が必ず、一定程度かかるということです。そして、肉体は主に食事と睡眠によって、そして疲弊した精神は特に他者の関心を得ることで回復するように、私には思えます。この、他者への関心を表現するための時間や余力を、社会システムそのものが奪ってしまう。こうした状況で、多くの人が人間関係を維持できずに苦しむ、ということも当然、頻繁に起こります。なので、現代の社会で最も欠乏している資源は、実のところ「関心」であるという実感を持っています。劇中で真理が、資本主義のシステムの中で「外部」に置かれた人たちの怒りに正当性を認める箇所があります。SNSを追っていると、人びとがどこで強烈な反駁を始めるか、人びとの怒りが特にどこで火がつくかを見ることができます。それは特に知的・道徳的に劣っている、というジャッジを受けたときです。そして、この知的・道徳的なジャッジがある程度妥当であることも多いとは思っています。ただし、ジャッジする側が知識において、必ず劣っているものが一つあるとも思っています。それはジャッジを受けるその人の人生についての知識です。ジャッジする側は、それを受ける側の人生についてはほとんど無知です。例えば、「ネトウヨ」や「陰謀論者」としての平板な生しか想像しない。批判されるような「その意見」を持つに至る過程は、その当人にとっては合理的なものであるはずです。でも、そう考えるに至った人生のプロセスに、ジャッジする側はほとんど「関心」がない。無関心だからこそ、相手の人生に無知であることにもほとんど頓着しないわけです。ここで生じる怒りは、私もまた一定の正当性があると思っています。それが、自分自身の生への無関心に対する、根源的な怒りだからです。この怒りは簡単には解きほぐしがたいものだと思います。これは映画の中でのマリー=ルーと看護師のソフィのあいだに生じているわだかまりとも近いものです。自分自身が物語の語り手として、いったいどうすれば、この状況を解きほぐす糸口があるか、というのは必死に考えました。でも、できることはほとんどない、というのが結論です。魔法のような解決策はない。ただ、それこそが、映画でマリー=ルーが認めることとも言えます。自分の能力の限界を認める、ということ。自分の無知や無能力を認め、さらには敬意のなさを相手に謝罪をし、許しを乞うこと。そして改めて敬意を示し、相手の人生を、無知な自分に教えて欲しいと願うこと。これはもちろんフィクションだからこそできる振る舞いかも知れません。でも、自分の中ではマリー=ルーの中で真理と出会ったことから生じた変化として、納得できるものがありました。そしてソフィの側にも「このぐらいのことは起こるかもしれない」と思える変化を描けたと感じています。それが自分の人生でも常にできる振る舞いかと言われたら、そうではない、と言わなくてはなりません。でも、偶然を引き受けて、新たな自分になる、新たな「私たち」になるという原作に描かれた道筋は、こういう想像力を与えてくれました。おそらく「想像もしなかった偶然」という各々の人生に訪れる、個別具体的なできごとのなかに、「不可能を可能にする抜け道」があるのではないか。と言うか、あるとしたら、そこにしかない、と今は考えています。──カンヌでのお披露目を終えて、恐怖心はありますか。各国で公開され、多忙を極める日々がまた始まるという。ありますね(笑)。これはとてもありがたいことではあります。だからこそ、そこで制作と、身近な人との関係を第一とする自分のバイオリズムをどう守っていくかはとても難しい。ただ、最近は「No」と言うことを意識しています。ただし先方に、単に「拒絶された」と思われてしまわないように、その背景にある事情も、ある程度丁寧に伝えるようにしています。相手にとって、その事情まで読むことも一つの負担だとは思ってはいますが、これは相手との関係のもう一端を占める自分を守るための「No」であって、単純な「No」ではない。むしろ根本にあるのは関係性そのものを長く続けたいという「Yes」なのだという、そういうニュアンスまで伝えることが、今の自分にできる最善のコミュニケーションなのかなと、考えています。原作の中に、がん患者である宮野さんの荷物を持ってあげたいけれど、どうしたらいいのかという磯野さんの逡巡に対して、そういう簡単にはわりきれない関わり方でいいのではないか、と宮野さんが書いています。そうやって、簡単には決めきれないような関係性っていうのは、要するに人間的な関係性を結ぶっていうことです。これはシステムが決める「役割」からは零れ落ちる部分を拾うように、絶えず揺れながら、相手と関係を結ぶということです。それを仕事の場なんかでやるのは、とても面倒くさいことですよね。でも、どうもそれをやらないとあまり幸せになれなそうだということもわかってきました。常にそれができるわけでもない。けれど、無理をしなければ少しずつ、色んな人と、ある程度は作っていけるのではないかと、そういうわずかながらの希望を、今は持っています。
2026.09.05
五 第二期の二 明治三十四年より三十五年に至る ○洋行中の鈴木君 君渡航せんとするとき、ある人その任務の重大であるから信任する通訳者の同行をすすめる者があった。君はこれに答えて、この事業に関しては予の眼識はよくその巧拙を識別し、予の頭脳はよくその良否を判断することができるから、任務についての通訳の有無のごときは論ずべき事ではない。器械の購入に至っては彼れを制する唯一の利器である財を携えるから少しも心配することを要しないと言われた。このようにして君は横浜を出航してハワイに寄港し、同地の製糖所を視察し、それよりアメリカのサンフランシスコに上陸し、シカゴ、ワシントンを経てフィラデルフィアに行き、到る所有名な精製糖所を視察し、あるいはこの業界の第一人者を歴訪した。一日ブロクリンにおいて世界第一の精製糖所を視察するとき、会社の重役及び技師等は三十余種の見本を出し、その産地及び糖分の検定を求められた、君は熟視することしばらくして、一々指摘し終り、彼らがあらかじめ器械をもって検定した表を出して対照したところ、ほとんど符節を合わせるようであったので、彼らは大いに驚嘆してその眼識の高さに敬服したという事であった。このようにして君はアメリカの視察を終り、イギリスにわたりロンドンに到着し、各地の精製糖所を視察し、また器械製作所をも巡覧し、同国内地の旅行を終り、それから欧州大陸にわたり、ドイツ・フランス二国を巡回し、同年十二月二五日ロンドンに帰着した。君はアメリカ大陸上陸以来十五旬の間、汽車汽船に在るときの外は、日として製糖所及び器械工場の巡視をしないことなく、その足跡の到らない所なく、かつ知名の実際家学者を歴訪して研究したことから、各国の長所短所得失は胸中にはっきりとした。そこで君は各国の萃をぬき華をあつめて最新式の機械を選択して完全な精糖所の設計を立案し、これに要する諸器械の購入を為すこととした。この時にあたって各地の器械業者は皆な君の旅宿に集まり、その引請をなさんとし、君にくらわすに利をもってし、希望をとげようとするに至った。君はその卑劣をしかり一物の徴といえどもこれを受けなかったので、彼らもその手段を施すこともできず、遂に君を疑って会社の代表者ではないというに至った。このようにして君は一種の器械ごとに数工場に命じて競争入札をなさしめる事と定め、彼らが最上とするものに対し、詳細な説明書を作らせ、次に代価を入札させ、これを比較しその最優等のものを選んでこれを劣等品の代償にて買う注文をなした。彼はその注文を受けるやその品質を降さんことを請うもこれを許さず。その代償を増さんと乞うもまたこれを諾せず、彼をして最低の製造費をもって契約するの止むを得ざるに至らしめ、稀有の廉価で精良の器械を購入し、翌年二月十日イギリスのサウザンズトンを出航し、シンガポールに到着し、南洋ジャワに航海し内地の調査をし、それよりサイゴンを経て香港に来たり、南シナの産糖地を調査し、更に台湾に入り、同地における糖業の実況を調査し、五月帰京する事となった。
2026.09.05
大智禅師偈頌講話 澤木興道 開炉(二)その2【開爐(二)】 風頭稍硬大家知 (風頭稍硬し大家知る)且聽商量暖處歸 (且く聴す商量暖処に帰ることを)般若如同大火聚 (般若は大火聚に如同す)近前燒郤兩莖眉 (近前すれば焼郤す両茎の眉) それが且く聴す商量―というのは、問答ということで、昔はかけ値があった。「これ幾らか」「百円」「百円は高い、五十銭なら買おう」「馬鹿いえ、十円にしておこう」「十円は高い、一円出そう」「一円はべら棒な、一円五十銭出せ」「それでは一円五十銭で買うておこう」こういう理屈に商売するのを商量という。そこで、われわれはどこがよかろうか、商売せんならん。安全地帯はどこか、チャンと自分は自分で問わんならん。 これは、安全地帯はこの寺が一番いい。虫の音を聞いて、麦飯を食うておる。一番安全地帯、風邪も引かんというておる。電話もかからん。ラジオも喧しからず、これくらいいいところはない。こういう安全地帯を、ここに暖処という。これは安全地帯である。われわれはこの安全地帯がなければならん。というのは、風邪も引かんところである。「アア寒い、寒い」且く聴す商量暖処に帰ることを。一番安全地帯のよいところへ帰らんならん。「般若は大火聚に如同す」さて、この般若(智慧)というのは、いったいどんなものが般若か。われわれはこの般若をもとめなければならんが、般若はどこにあるのか。般若は大火聚に如何同すとある。大火聚というのは、火が燃えておる。そこでまず般若を文字般若、観照般若、実相般若の三種に分ける、まず文字般若、それから、われわれ般若の正味を観察し、その般若を意識し、般若というものはこんなもの、あんなものであると知る。 般若は口でいえんものである。あるいは、心で思えんものである。それだからむずかしい。般若でなくなってしまう。 ようわたしがいう『金剛般若経』の中にも「もし色を以って我を見」―われというのは仏のことだが、今は般若である。金剛般若のことである。「音声を以って我を求めば」―般若というものを声で求めるならば「この人は邪道を行じ、如来を見たてまつること能わず」とある。 この般若を今実相般若というのは、人格化してここに説法しておることは申すまでもない。色を以って我を見、音声を以って我れを求めば、この人は邪道を行じ、如来を見たてまつること能わず。そうすれば、如来をなへんに拝みたてまつるかということの参究である。如来を拝みたてまつるということは、自分が如何に修行するか、ということの問題である。(大智禅師偈頌講話p.176-178)
2026.09.05
「富田高慶日記抜粋 (表紙の裏) 覚一 金一七五両為替金手形。 右は先生より受取阿部氏方に預け帰国の上会所(役所)へ差出受取申すべき事。一 一村のうち百姓や給金の人が入り交ればきっと世法があろう、区別や故障もあろう。御仕法の意義は廃を挙げて開闢の古えを思って一円に起す法であるから、一村のうちどのような面々が入り交っても、皆平等に仕法を取り扱わなければならない。もし村中が平等に取り扱っては迷惑というのが少しでもあれば、この村はまず差し置くべきである。上の威厳で命令を下すならば随うようだが、その命令はその好む所に反するから、必ず手を引いて見合すことになろう。青田を威令で赤くしようとしてもこれは成らない事である。一 両村の仕法を始めるに当り、その開発用資金をその国から出させると上下の人情は穏かではない。ことに仕法が成就するかどうか計りがたくなる。だから仕法役所から年々村方で積み立てた米や金、縄ないの代金を倍増にして遣わし、村で積み立てた平均外の資金と合わせて、仕事に精出す人のうち入札の一番札から三番札まで金を貸し付け難渋の者を救い、そのほかは鍬一、二枚あたりを施し、その他の一同には鎌でも施して村の模様を見れば人情が進んでいくのではないか。一 翌年から領中一体の平均外が出るならば、そのうち両村土台外ばかりは年々仕法役所の仕法金と同様に取り扱って、一体の土台外の収入については当方の引き受けていないところであるから、もし成田村・坪田村の二村が立ち直ったと聞き及んで、ぜひ自分たちの村にも仕法を実施してほしいという村もあるだろうから、その時には諸郷の代官がそれぞれに村で入札した上で一村へ仕法を施そうとも、また分度外が多くなく諸郷へ及ぼすことができなければ、諸郷の中でくじを行い平均外の米金の引受を取扱う一村を興そうとも、その時・場所に従って実施すればよい。そうであれば諸郷からの仕法でそれぞれの村が立ち直るであろうし、両村が立直った上はこれから他村へ推し及ぼし、最後は領中に及ぶべきである。一 百姓が年来の困窮に陥って、ただ不足の事ばかりで人情が卑しくなる。だから、井戸の水を汲むように無尽の米金を年々差し出し取り扱わなければ、どれほど世話しても人情が一変しない。このため当方から年々繰入れる場合は、一同の怠惰の心を除くべきことが肝要である。一 村の者の一同の目鑑(めがね)で入札し、高札の者から三番まで五両、四両、三両も褒美として無償支給して村の気風がよくなるようであれば無償支給でもよい。しかし恩義になれて後々のためにいかがかということであれば金額を増して五年賦、十年賦で貸し付けたほうがよい。かつ一人、二人の落札した人には鍬一枚とか鎌一枚とか褒美として与えてよい。一 入札を二、三度も行えば村の気風もたいてい分ってくる。勧善の道も自然と説かなくても顕れてくる。一 村の極難の者で雨露の凌ぎもできない者は、ワラでもよいから当面のしのぎとして屋根を葺き替えたり、家の修繕を一同の入札をもって実施するべきである。一 特別の働きで複雑で多岐に取扱っては相馬藩復興という大望のことであるから、よろしくない。ただ単に善人を賞したくらいの事では人々も報徳仕法もこんなものかと思い、あれくらいは誰にでもできるなどと言い立てることであろう。後々はいろいろと起っていたしかたが無いほどになるであろうから、特別の働きは無い方がよい。一 扶持給(給与)は何ほどでも下されたら残らず村の仕法金に差し出すがよい。領中に余っている物はただこの扶持だけで、このように余っている物を計らうならば村は立ち直ることであろう。余分にあるほど村は早く立ち直るであろうから辞するに及ばない。一 立派な男だからできる仕法で、できないものと心得えて見切った後に手を下すのだ。仕法を行う者が間違いないといえば、人はその手違いを言い立てる。自分から手違い者といって始めれば人は嘲らない。人が嘲るものを自分から唱える、これが手違いが無い証拠である。恩義を受ければ人々の気風は不穏であるばかりでなく、内外の嘲りがある。それだけでなく事のもつれとなる。手を引き離し一金も受けなければ全て安らかだ。難しい事があればすぐに手を引けば、誰も可不可を論ずる事がない。(略)一 人は富む時は内が豊かだから善心があり恥を知る。困窮する時は内が豊かでないから善心が隠れ恥を忘れる。恥を忘れる時は至らない所はない。このような人情の所で外に恥を知らしめる道がない。だから入札をして善を褒めれば、人は皆方角を知って進む。テンビンのなかばを一分よればその重い方に傾く。一村で百軒あれば五十一、二軒善を知れば残らず恥を知る。恥を知らない時は年貢を納めていない事を表に言い立て大声で年貢がないことを話す。米がないと罵り借りる。これは皆恥を知らないからである。恥を知れば年貢を納めていないことを恥じ、米がないことを恥じ、ひそかに言ってこれを借りる。内外表裏してこのようである。百軒残らず入札が終らなくても人情は恥を知る。村五十軒よい者があれば四、五人入札してよい方に加えるならば残りは皆恥を知って善心がおこる。一 国を治めるのは譲にある。今公用をおいて私国を先にするのは先生が選ばれる道にあたらない。人は一盃の酒を譲る。ましてや国を起すのはなおさらである一 今の時に始める理はないようであるが、白米を飯にたき、書をそのまま置く時は空しくなる。この飯だけでなく、郡中米飯をたく思いを損じるであろうか。一 大井村の姿は、たとえば屋根屋が来るを知って何の用意もしないで坐して待っているようなものだ。屋根屋がどうしてこようか。村を起すそうだと見物している村へどうして求めてこちらから仕法を下そうか。一 帰国の際、まず村は差しおいて、役員一同と諸帳面をじっくり開いて見た上で、どのようにも差支えが無いか相談し、文言等も御国で通用している文体を用い、いよいよ決したところで村に仕法を始めるべきである。
2026.09.05

バスケ女子W杯 日本が劇的第4Q逆転勝ちで白星発進 林が圧巻連続3P、チームトップ27得点「決めるのが私の仕事」マリとの激闘制す チームで大会新記録1試合20本の3P成功9/4(金) 日本は序盤からフィジカルに勝るマリに苦戦。第1Qを21-25でリードを許すと、その後も差を詰め切れず。第3Q終了時点で71-73で最終第4Qを迎えた。 残り5分までリードを許していたが、林の3点シュートで逆転すると、さらに林が連続で3点シュートを決め、さらに渡嘉敷も3点シュートを沈めて突き放して、そのまま逃げ切った。 林がチームトップの27得点をマーク。3点シュート15本中9本を沈める活躍でチームをけん引した。試合後「決めることが私の仕事。最初良い流れをもってこれなかったので絶対決めようと。1本入ると、入ることが多かったので、自信をもって打っていた。最初は緊張したが勝ちたい思いが強くて。みんなで勝ちきった1勝。本当によかった」と笑顔で振り返り、今後に向けて「しっかり前を向いて全員で勝ちに行けたら」と見据えた。 日本はこの試合で20本の3点シュートを成功。FIBAによると新記録を樹立した。 日本は5日にドイツ、7日にスペインと対戦する。
2026.09.04
中国批判を続けてきた中国系カナダ人学者「中国人に謝罪せねば」「米国はあまりに異常」中国メディアの観察者網は3日、中国系カナダ人学者、教育者の江学勤(ジアン・シュエチン)氏が「米ロサンゼルスに3日間滞在して、中国の人々に謝らなければならないと思った」と発言した。・・・・・・江氏は英国の著名司会者ピアーズ・モーガンが8月18日に配信したネット番組に出演し、米国の報道記者アニー・ジェイコブセン氏、英国セント・アンドルーズ大学教授フィリップス・オブライエン氏と共に、核戦争、生物兵器、人工知能(AI)など、世界規模の災害につながる可能性のあるリスクをテーマに議論した。「私が今、本当にとても心配しているのは『ゾンビ・アポカリプス』だ。過去20年間、私は中国を批判し続けてきた。しかし、ロサンゼルスに3日間滞在している今、帰国したら中国の人々に謝らなければならないと思っている」ロサンゼルスについて「本当にハリウッドのスリラー映画の中に入り込んだようだった。まるでSFディストピア映画のようだった」と評し、超有名人が山の上の2000万ドル(約31億円)の豪邸に住んでいる一方、スキッド・ロウではホームレスや薬物使用者があふれていると説明。「私からするとこれはあまりにも異常な光景だ。人類史上最も豊かな国に、これほど絶望的な貧困が存在しているのだから」「米国人は国内の腐敗や格差に目を向けることなく、海外に出て愚かで意味のない戦争をすることを選んでいる。だから私は、核戦争や生物兵器による戦争よりも、国内からの衰退をより心配している」「私は今、サンタモニカのホテルに泊まっている。高級ホテルだ。ところが夜になると、ホテルの外にはホームレスが大勢いる。一晩中そこで大声で叫んでいて、ホテルが耳栓を用意してくれていた。これが私たちの生きている世界だ。私たちはこの問題に正面から向き合うのではなく、耳栓をして、自分たちの要塞の中で暮らし続けている。これこそが今日、人類を本当に脅かしているものなのだ」司会者「ここで目にした状況は、現在の中国と比べてどのような違いがあるか」江氏「中国では家族を大切にし、コミュニティーも大切にしている。だから実際のところ、これほど深刻なホームレス問題はない。私たちはもし自分の兄弟が困難な状況に陥ったら、家に迎え入れて一緒に暮らし、面倒を見て、立ち直るまで支える。しかし米国では、基本的に誰もが自分の力だけで生きていかなければならない。一度でもつまずけば――例えば、それまで問題なく暮らしていたのに突然病気になり、医療費の請求に押しつぶされ、破産してしまえば、その先には路上生活が待っている」「考えてみてほしい。世界で最も豊かな(米国)社会で、何百万人もの人々がこのように取り残されている。到底受け入れられることではない。この国では250ドル(約4万円)の急な出費さえ負担できない人が半数もいる」
2026.09.04
デカフェでもいいの?毎日5杯のコーヒーで「肝臓がんリスク47%減」英研究が示す真実9/4(金) 肝臓は体内のフィルターとして機能し、500以上の重要な働きを担う、私たちが全力でサポートすべき臓器だ。コーヒーと肝臓の結びつきは少し意外に思えるかもしれないが、実は肝臓の専門医たちは何年も前からコーヒーの利点を高く評価してきたのだ。最新の研究結果と、コーヒーが肝臓の健康をなぜ後押しするのか、そのメカニズムを見てみよう。専門家の紹介:ヒョンソク・キム医師(医学博士、シダーズ・サイナイ医療センターの移植肝臓専門医であり本研究の筆頭著者)、ラフィ・カラゴジアン医師(タフツ医療センターの移植肝臓専門医)、マリー・L・ボラム医師(ジョージ・ワシントン大学消化器・肝疾患部門責任者)この研究は、医学誌『Clinical Gastroenterology and Hepatology』に掲載されたもので、長期間にわたる生物医学データベース「UKバイオバンク」に参加した約35万5,000人の成人の食事と全体的な健康データを分析したものだ。研究チームは約13年間にわたり参加者を追跡調査し、肝硬変(肝臓の線維化)や肝臓がんなどの合併症、さらに肝臓関連の疾患による死亡リスクを調べた。その結果、コーヒーを飲む人は全体として、時間の経過とともに肝臓の合併症を発症しにくいことが判明した。具体的には、コーヒーを毎日5杯以上飲む人は、コーヒーを飲まない人と比較して、肝硬変のリスクが32%、肝臓がんの発症リスクが47%、肝疾患による死亡リスクが42%も低いことが分かったのだ。さらに驚くべきことに、これらのメリットはレギュラーコーヒーでも、カフェインレス(デカフェ)でも同様に見られ、1日あたりの摂取量が少なくても健康効果が確認されたという。また、コーヒーを飲む人は飲まない人に比べて、肝臓の炎症レベルが低く、健康な肝機能を示す特定のタンパク質レベルが高いことも明らかになった。研究チームは結論として、「無糖のコーヒーを適量飲むことは、肝疾患を予防するためのシンプルで効果的な戦略である」と述べている。今回の研究結果は、肝臓を保護する主な理由が「カフェインではない」可能性を示している。「デカフェのコーヒーにも、ポリフェノールやクロロゲン酸など、多くの生物活性化合物がそのまま含まれています」とキム医師は指摘する。「つまり、カフェイン以外の成分こそが、肝臓に良い影響を与えている可能性が高いのです」カラゴジアン医師も「カフェインに敏感な人にとって、デカフェは健康的な選択肢であり続けます」と同意する。ボラム医師も、「デカフェのコーヒーも、その潜在的な抗酸化作用や抗炎症作用により、肝臓を保護する可能性があります」と述べている。ただし、ボラム医師は「コーヒーが肝臓に与える有益な効果を完全に理解するためには、さらなる研究が必要です」と慎重な姿勢も見せている。肝臓のために無理にコーヒーを飲み始める必要はないが、もしあなたがコーヒー好きなら、毎日の1、2杯のコーヒーが「肝臓の健康を守ってくれているかもしれない」とポジティブに楽しみ続けてみよう。
2026.09.04
“BTS・Vの紹介で話題”中国の人気小説「十六夜膳房」初の映像化 中村蒼が日テレドラマ初主演2026/09/04中国・韓国で話題の人気小説『十六夜膳房(いざよいぜんぼう)』が日本テレビ系月曜プラチナイト枠DRAMA DEEP枠にて初めて映像化(10月12日スタート/毎週月曜24時24分~)されることが決定した。俳優の中村蒼が主演を務め、渋谷凪咲、秋谷郁甫が共演する。◆「十六夜膳房」初の映像化決定原作は、連載1億Viewを突破した中国の人気小説『十六夜膳房(いざよいぜんぼう)』。2017年に中国で、2019年に韓国で出版されると、BTSのVがSNSに投稿、「人生の一冊になる」とメンバーに推薦し、中国・韓国を中心に話題に。日本でも11月に出版されることになった小説の著者・毛無が、現在日本テレビの社員ということもあり、世界初の映像化が決定した。物語の舞台は、亡くなった人が死後訪れる黄泉の世界。そこには、現世に残した後悔や未練を手放すための“最後の一皿”を振る舞う『黄泉の食堂』がある。毎回の客(死者)を、料理と言葉で癒やしていく主人公の料理人を実力派俳優・中村が、食堂を仕切る白猫の声を俳優としても活躍中の渋谷が、食堂を統括する閻魔王を『仮面ライダー』最新作主演の若手俳優・秋谷が演じる。◆「十六夜膳房」個性豊かな実力派俳優陣出演中村蒼、主人公の料理人を演じる2006年のデビューから20年、常に第一線で映画、ドラマ、舞台と数多くの話題作に出演し、幅広く活躍し続ける実力派俳優が、日テレドラマ初主演。今回演じるのは、死者を迎える食堂の料理人・孟婆。孟婆とは、中国の伝承では、記憶を忘れさせるスープ“孟婆湯”を飲ませるお婆さんだが、今作では男性となっている。毎回訪れる様々な後悔を抱えた死者を、おいしい料理と優しい言葉で包み込み、来世へと送りだす役どころだ。温かい空気感と包容力が魅力の癒やしの料理人を、持ち前の穏やかさと確かな表現力で演じる。渋谷凪咲、喋る白猫の声を担当食堂を取り仕切るしっかり者の白猫・白無常が、メインキャラクターとして登場する。生成AIで実際に話しているように動く白猫の声を、俳優として数々の作品に出演し、昨年、日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞した渋谷が担当。のびのびとした関西弁で、ワガママ、毒舌、姫気質の白無常をチャーミングに演じる。秋谷郁甫、日本とはひと味違う“閻魔様”を演じる“閻魔様”といえば、日本では、天国に行くか地獄に行くかを判定するイメージが一般的だが、今作の閻魔王は、パンクロッカーの風貌に軽い語り口。自由で明るいお調子者のキャラクター。連続ドラマ『良いこと悪いこと』、『人間標本』などに出演し、『仮面ライダー』最新作では主演を務める、若手俳優・秋谷が、魅力的に演じる。(modelpress編集部)◆「十六夜膳房」登場人物紹介孟婆(もうば)/中村蒼黄泉の食堂の主。料理人。毎晩、客のために“最後の一皿”を振る舞い、その魂を見送っている。穏やかで、すべての命を愛し尊ぶ。実は、自分が何者なのか分からないまま、100年もの間、この世界にとどまっていて…。白無常(しろむじょう)/渋谷凪咲(声)白猫。黄泉の食堂のバイトリーダー的存在。客の生前の情報や食事に関する思い出を収集し、資料にまとめるのが仕事。ドライで、マイペース、自己中心的だが憎めない。閻魔王には塩対応。閻魔王(えんまおう)/秋谷郁甫3000もの黄泉の食堂を統括するエリアマネージャー的存在。いわゆる“閻魔様”のように、人生の判定はしない。明るいお調子者。白無常をこよなく愛し、つれなくされても、めげない。◆中村蒼コメント私の演じる孟婆がいる黄泉の食堂には、生前、間違った選択をした人、愛する人に思いを伝えられなかった人など後悔や愛情、喪失を抱えた人がやってきます。今回の脚本を読んだ時、多くの人が人生に何かしら後悔を抱えているのではないかと思いました。ご多分に漏れず私もその一人です。でも人間はとても複雑で後悔や失敗も含めてその人の一生なんだと思います。だからこそ『自分の人生捨てたものじゃない』と改めて価値を見いだすきっかけとなる作品になったら良いなと思います。◆渋谷凪咲コメントこの度、猫の白無常役を演じさせていただきます渋谷凪咲です。オファーをいただいた時は猫の役と聞いて、ちょっぴり驚きましたが、元々猫を飼っていて大好きだったのでとてもうれしく、小学生の頃は毎日猫に生まれ変わりたいと思っていたので、同時に夢もかなってわくわくしています!作品のテーマは亡くなった方が訪れる死後のお話ではありますが、生涯の忘れられない食事を通して、人生の美しさや輝きに気づかせてくれる作品です。ファンタジーの世界に浸りながら、皆さまにとっての大切な食事も一緒に感じていただけたらうれしいです。よろしくお願いいたします!◆秋谷郁甫コメント閻魔王を演じさせていただきます。秋谷郁甫です。ビジュアルからも感じていただけるほど、パンクな閻魔王!一つの見方にとらわれず、軽やかでチャーミングな閻魔王ですが、中村さん演じる孟婆と、渋谷さん演じる白無常を見守らせていただいております。とにもかくにも、楽しく演じながら、作品を盛り上げる1人になれたらうれしいです!楽しみにしていて下さいませ!◆毛無(原作者)コメント原作者の毛無(マオ・ウー)です。この物語は、2015年、中国の医学部時代にICUで数々の命が散っていく最期に立ち会った経験から生まれました。人生の終わりに人がいちばん食べたいと願うものは、フォアグラでもフカヒレでもありませんでした。ワンタンや、甘酸っぱいりんごなど、そのほとんどが、人生の大切な思い出と結びついた食事だったのです。中国には「十五的月亮十六圆(満月は十五夜ではなく、十六夜にこそ本当に円くなる)」という言葉があります。悔いの残る人生こそ、円満な人生。その思いを込めて、この作品を『十六夜膳房』と名づけました。『十六夜膳房』は2017年に中国で出版され、2019年には韓国でも翻訳出版されました。けれど当時は花開くこともなく、小説家として食べていけないと感じた私は日本に渡り、日本テレビに入社して、大好きな「月曜から夜ふかし」などの制作に携わり、これ以上ないほど満ち足りた日々を過ごしました。転機は突然、訪れました。日本テレビでのドラマ化が実現したのです。現代の中国小説がリメークではなく直接ドラマ化されるのは、とても珍しい試みだと聞きました。中国で私を応援し、この一冊を世に出してくれたStoryBookの皆さん、ポプラ社の皆さん、そして10年間この小説を読み続けてくださった皆さん。感無量です。ドラマの制作チームは、私が全力で信頼する仲間たちです。原作者として、これほどうれしく心強いことはありません。『十六夜膳房』は中国の民俗と神鬼をめぐる物語で、日本の皆さまには少し遠い文化かもしれませんが、食と愛は天下大同です。私も一視聴者として、ドラマ『十六夜膳房』の食と愛に包まれる日を、楽しみにしております。感謝感激、謝謝です。◆鈴間広枝(日本テレビプロデューサー)コメント会社の後輩・徐ちゃんが、こんなに素敵な小説を書いていたなんて!中国の原作を読みながら、何度も何度も胸がきゅっとなり、目頭が熱くなりました。欠点も失敗も後悔も、人生ごと包み込み肯定してくれる。そんな主人公・孟婆を中村蒼さんが演じて下さることになり、本当に心強く嬉しく思います!そして、渋谷さんが話すキレッキレの関西弁の白無常が、秋谷さん演じる閻魔王にツッコむ場面は、きっとほっこりすること間違いなしです。このあと発表になる食堂の仲間たちや毎回のゲストにも、本当に素敵な俳優の皆さんが集まって下さっていて、今からワクワクしています。素晴らしいキャストの方々と共に、スタッフ一同、力を合わせ、丁寧に大切にお届けいたします。秋の夜長、この作品が、皆さまのほんの少しの息抜きに、明日を頑張るちょっとした活力になれたら幸いです。◆「十六夜膳房」原作StoryBook(SNSフォロワー100万超)にて「地獄膳房」シリーズとして連載されたもの。連載期間中に累計閲覧数1億回を突破し、読者数は600万人を超えるなど書籍化される前から注目度の高かった作品。2017年に中国にて書籍を出版、2019年には韓国でも翻訳出版され、発売後は人気アーティスト「BTS」のVが紹介したことで一気に話題に。現在、台湾でも繁体字版の出版や台湾版ドラマ企画も進行中。
2026.09.04
中田璃士が圧巻首位発進!SP96・48点「自信をもって挑めた」「100点狙っていたので悔しい」もシニア国際大会デビューで自己ベスト大幅更新 佐藤3位、三浦11位9/4(金) ISUチャレンジャーシリーズが開幕。世界ジュニア2連覇王者で今季からシニアに転向した中田璃士(17)=MFアカデミー=は自己ベストを大幅に更新する96・48点で首位発進を決めた。これまでのベストは3月世界ジュニアでの89・51点だった。ミラノ・コルティナ五輪銅メダリストの佐藤駿(22)=エームサービス・明大=は85・71点で3位、ミラノ・コルティナ五輪代表の三浦佳生(21)=明大=は68・44点で11位だった。冒頭の4回転サルコー-3回転トーループを軽やかに成功させると、続く4回転トーループもきっちり成功。最後のトリプルアクセルを決め、拳を握った。ステップ、スピンもミスなくまとめきり、演技を終えると、右拳で豪快にガッツポーズを繰り出した。 演技後は「この試合は自信をもって挑めた。練習通りのプログラムができたかなと思います。意外と緊張しなくて、やっぱり練習したから今回は自信があったので」と充実した表情で汗を拭い、得点に関しては「100点を狙っていたので出なかったのは悔しいですけど、レベルの取りこぼしもあると思うので後でジャッジスコアをみて改善できたらいいかなと思います」と、うなずいた。日本でのシニア国際大会デビュー。「名前を呼ばれた時の声援も大きくて、力になった。自分も頑張ろうと思った」と笑顔で明かし、フリーに向けては「明日のフリーは4回転3本。しっかり自分のやるべきことをやって、そのあと結果がついてくるので、とりあえずやることをやりたいと思います」と見据えた。
2026.09.04
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