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31 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 189~191ページ 台湾製糖株式会社設立の根本計画についての井上の注意は、微に入り細をきわめていた。なお驚かされることは、この注意が、続いて将来の工場の建築材料から砂糖積出し港の築港にまで及んでいることである。「なお、工場その他の建築材料などについても、台湾で求めるのはすこぶる困難なので、これを内地から輸送するとして打狗タークー(高雄)港まで積み送らなければならない。しかし、同港は波風が荒いために陸揚げができないで、無益に引返すというような場合がしばしばあるので、運賃に非常な巨額を要する。私は、もっともこのことを心配しておったが、鈴木氏の説によれば、曽文渓の上流に、およそ5,000町歩ばかりの官林があるとのことである。それで、当局から、できることなれば5,000町歩のうち1,000町歩でも払下げを受けて、輪伐法によって植林をして、永遠に建築材料に使用したら利益であろうと想像した。そこで、後藤長官に会ったときに、この話をしたところ、同氏のいわれるには、あの地の山林伐採は、まだだれも試みたものがないから、当会社に払下げるとしても、後の利益について一応の研究を要するであろう。ちょうど、鉄道施設の設計に際して、右の木材を使用して見ようと思って取調べ中であるから、その結果、当社で必要とあれば、木材を払下げてもよし、あるいは、このうちの1,000町歩を払下げることもさしつかえなかろうとのことであった。また聞くところによると、台湾鉄道もすでに打狗タークー港に達したそうであるから、政府の援助を得て同港の築港をすることが、もっとも緊要であろうと思う。この点について後藤民政長官に話したところ、すでに設計中であるとのことであるが、台南地方の開発の第一着手として、一日も早く、この築港を成就されるよう希望するものである。このように話すのも、ただ国家経済のために、この事業の成功するように願うからである。これらの先見の明がないと、あとになっていろいろ無益の失費を要して、その時になって悔いても及ばないことであるから、目前の小利に走って、未来の基礎を強固にするのを誤まらないように、今自ら永遠の利益を図って確実な営利を期待されんことを、ひたすら希望に堪えない。私は、前に申したように、当社には徳義上の関係があるので、この席で一言、諸君に御注意を申し上げた次第であります。」(台湾製糖株式会社・特別株主協議会議事録) 話し終わって井上は席に帰った。一同は、熱狂的な拍手で、これに答えた。 近くロシアとの開戦を覚悟していた井上は、大蔵大臣としての最近の体験からも、当時、わが国の輸入超過の激増によって正貨が海外に流出して、万一に備える資力が薄弱になることを心の底から憂えていた。その唯一の救済策として、わが国の産業の発達に、彼の全精力を集中していた。その中でも新領土の新興事業としての台湾製糖会社に、彼が、どんな大きな期待をかけていたか、この演説でも十分に知ることができる。 ※ 「台湾製糖株式会社史」74-76頁 三 井上馨伯と当社創立計画 当時三井物産合名会社専務理事の要職にあった益田孝氏は、製糖会社設立の新計画に就て、常に井上馨伯に報告相談していた。伯は、夙(つと)に台湾糖業に着目し、曩(さき)に明治31年、児玉総督台湾赴任の際、特にその振興を説かれた程で、謂はば斯業(しぎょう)の発案者であるから、この計画には勿論大いに賛意を表され、「新規ノ製糖事業ヲ今日ノ台湾ニ創始シヨウトスルガ如キハ、全ク国家的ノ事業ニ属スル。普通一期半期ノ配当ヲ顧慮スル一般的株主ノ烏合ニテハ、事ヲ成ス所以デハナイ、宜シク予ガ三井家並ビニ毛利家ヲ説キ、此処ニ資本ノ中堅ヲ定メテ、三期、五期ノ損耗無配当ヲ予メ覚悟シテ当ラセヨウ」と、大いに激励すると同時に、自ら斡旋の労を取られた。資本金は明治33年5月には50万円と決定されていたが、後、井上伯は鈴木藤三郎氏を招致して、同氏の資本金増額の発案を委細聴取された結果、ここに百万円を以て台湾製糖株式会社創立の計画は決定した。かくて発起人としては益田孝、鈴木藤三郎、田島信夫、上田安三郎、ロベルト ウォルカー アルウィン、武智直道、長尾三十郎の諸氏が立ち、愈々創立発起人会の開催となったのである。 井上伯は、かくの如く当社創立の産婆役として、更に創立後に於ても事業の基礎を確立するため会社自ら耕地を所有することの必要を説かれ、また金融関係について力を致され種々懇切に斡旋される等、この後援はまことに容易ならぬものであった。武智現社長は、当社創立35周年を迎へた際、老侯の尽力、後援を偲びつつ 「井上老侯ハ当社ノ創立ニ非常ニ尽力サレマシタ、一製糖会社ノ為トシテデハナク全然国家的見地ニ立タレテ、亡クナラレルマデ一方ナラズ尽力サレマシタ、ソシテ、ドウモ日本ノ会社ハ繁昌スルカト思フト直グツブレテ困ル、台湾製糖ハドウカ株式会社ノ模範トナル様ニ仕度イモノダトノオ話ガ御座イマシタ。至極尤モナ事デ、コノ仕事ハ国家産業ノ為ニヤラウトイフ事ニナッタノデアリマス。又ソノ方針デ今日迄進ンデ来タノデアリマス。」と述べている。当社今日の隆盛は、会社当事者一同の不断の奮闘に因ることもさることながら、同時に井上侯の後援指導に負ふところまた極めて大なることを銘記せねばならぬ。※ 「植民地企業経営史論」久保文克著より 台湾製糖経営陣の誕生 久保氏は台湾製糖の創立について、「内山田の井上馨邸に集った台湾総督府側の児玉源太郎総督と山田煕、三井物産会社側の益田孝とロベルト・ウオルカー・アルウィン、それに井上を含めた5人こそが台湾製糖創立の青写真を作成した人々であり、この内山田の会合が『台湾新糖業誕生会』と後に称される」と記されている。(59頁) 「同会合に出席した5人の中に日本糖業史上あまり注目されていなかった2人の人物が含まれている。井上馨、益田孝、児玉源太郎とともに列席した山田煕とロベルト・ウオルカー・アルウィンである。」「山田煕は、台湾総督府の技師で、初代社長鈴木藤三郎の現地調査に先立って行った調査にもとづき、台湾製糖設立の目論見書を作成した人物として知られている。現地調査にもとづいて社有地主義を掲げた鈴木に対して、山田はあくまでも甘蔗作農からの買い上げによって原料を調達すべきであるとの考えを示し、台湾製糖第一工場の建設地をめぐって鈴木社長との間に大きな意見の食い違いを生ずるに至った。」「実はこの台湾総督府技師である山田こそが、台湾における新式製糖工場建設の可能性と重要性を児玉総督に説いた人物にほかならなかったのである。」(60頁)「そもそも内山田の会合とは、資本家遊説のため山田技師を伴って上京した児玉総督が三井家を説得するために井上のところに赴いた結果実現したもので、三井物産関係者である益田とアルウインが同席していたことからもこうした事情はうかがい知ることができよう。当時三井家における家政改革を引き受け、最優先課題として『三井家憲』の制定を推進しつつあった井上は、1900年7月の『三井家憲』の施行とともに『三井家憲施行法』によって三井家の修身顧問に就任し、三井家同族に対する監督権をはじめとした重要な職務・権限を与えられることになる。」 ※三井家憲施行法第12条 始メテ三井家憲ヲ施行スルニ際シ、其実行奨励スル為メ、特に伯爵井上馨殿ヲ以テ其終身間三井家顧問トス 「台湾製糖創立の決意を固めた井上は、三井物産の専務理事の職にあった益田孝に台湾総督府との具体的交渉に入るよう指示する。」(62頁)久保氏は井上馨と益田孝を引き合わせた人物こそが、ロベルト・ウオルカー・アルウィンであるとされる。「ロベルト・ウオルカー・アルウィンは1866年に来日したアメリカ人で、横浜にあった米国貿易会社ウオルシホールに勤めていた。時を同じくして横浜において商人を志し、ウオルシホールにも出入りしていた益田とは、まさにこの貿易会社において懇意の間柄となったのである。アルウィンは商売の関係上、当時大蔵大輔の職にあった井上のもとをしばしば訪ねており、その際同伴することを常としていた益田が井上の目にとまるに至り、一足飛びに紙幣権頭に登用されることになった。また、野に下った井上は三井物産会社の前身をなす先収会社を創立して自ら社長となるや、益田を副社長に抜擢した。そしてここに、三井物産会社の初代社長として益田は迎えられ、再び入閣した井上の分身として三井家に残るに至った。一方アルウィン自身も、三井物産会社顧問として迎えられ、後の台湾製糖の創立に発起人の一人として参画し、同社相談役として重要な役割を担うに至った。」
2025.10.14
194二宮翁夜話巻の3【10】尊徳先生はまたおっしゃった。「ここに物があるとする。これを売ろうと思う時は、飾らないわけにはいかない。たとえば芋や大根のごときも、売ろうとと欲すれば、根を洗って枯葉を去って、田んぼにある時とはその様子を異にする。これは売ろうと欲するためである。あなたがた(相馬藩士)はこの道を学んでも、この道をもって、世に用いられ、立身しようと思ってはならない。世に用られる事を願い、立身出世を願う時は、本意に違い本体を失うに至り、そのためにあやまる者は既に数名ある。あなたがたも知るところである。ただよくこの道を学び得て、自らよく勤めるならば、富貴は天より来たるなり、決して他に求めてはならない。古語に、富貴天にあり、というのを、誤解して、寝ていても富貴が天より来たる物と思う者がいる。大いなる心得違いである。富貴天に有りというのは、自分の行いが天理にかなう時は、求めなくても富貴の来たることをいうのだ。誤解してはいけない。天理にかなうとは、一刻も間断なく、天道の循環するがごとく、日月の運動するがごとく勤めて息まないのをいうのだ。二宮翁夜話巻の3【10】翁又曰く、爰に物あり、売らんと思ふ時は、飾らざるを得ず、譬へば芋大根の如きも、売らんと欲すれば、根を洗ひ枯葉を去り、田甫にある時とは其の様を異にす、是れ売らんと欲する故なり、卿等此の道を学ぶとも、此の道を以て、世に用ひられ、立身せんと思ふ事なかれ、世に用ひられん事を願ひ、立身出世を願ふ時は、本意に違ひ本体を失ふに至り、夫が為に愆(あやま)つ者既に数名あり、卿等が知る所なり、只能く此の道を学び得て、自ら能く勤むれば、富貴は天より来るなり、決して他に求むる事勿れ、偖(さて)古語に、富貴天にあり、と云へるを、誤解して、寝て居ても富貴が天より来る物と思ふ者あり、大なる心得違ひなり、富貴天に有りとは、己が所行天理に叶ふ時は、求めずして富貴の来るを云ふなり、誤解する事勿れ、天理に叶ふとは、一刻も間断なく、天道の循環するが如く、日月の運動するが如く勤めて息まざるを云ふなり。
2025.10.14
ノーベル経済学賞に米大教授ら3氏、技術革新と成長の研究スウェーデンの王立科学アカデミーは10月13日、2025年のノーベル経済学賞をジョエル・モキイア氏、フィリップ・アギオン氏、ピーター・ホーウィット氏の3人に授与すると発表した。「イノベーション(技術革新)主導の経済成長の解明」が授賞理由。「3氏は、持続的な成長を当たり前と考えてはならないことを教えてくれた」と述べた。「人類の歴史の大半は、成長ではなく経済停滞が常態化していた。彼らの研究は、成長継続に対する脅威を認識し、それに対処しなければならないことを示している」とした。モキイア氏は、米ノースウェスタン大学の教授。アギオン氏は仏コレージュ・ド・フランス、INSEAD、英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の教授。ホーウィット氏は米ブラウン大学の教授。ノーベル委員会のジョン・ハスラー委員は、「モキイア氏は、イノベーションに基づく持続的な成長に必要な要因を、歴史的な観察から明らかにした」と述べ、「アギオン、ホーウィット両氏は、新しく優れた製品が古い製品に取って代わる終わりなきプロセスである創造的破壊の数学的モデルを生み出した」とした。賞金は1100万スウェーデンクローナ(120万ドル)。半分がモキイア氏に授与され、残り半分をアギオン氏とホーウィット氏が分け合う。〇モキール教授は、「長期的な持続的成長を可能にした社会的・文化的前提条件」を明らかにした。アギオン&ハウィット教授は、「創造的破壊(creative destruction)による持続的成長理論」を体系化した。過去200年間、世界はかつてないほどの経済成長を経験してきました。その基盤は、絶え間ない技術革新の流れにあります。新しい技術が古い技術を置き換える「創造的破壊(creative destruction)」の過程によって、持続的な成長が生まれるのです。今年の経済学賞受賞者たちは、この現象がなぜ可能になったのか、そして今後も持続的成長を続けるために何が必要なのかを、異なるアプローチで説明しました。モキールの理論:「技術進歩を支える社会の土壌」ジョエル・モキールは経済史の専門家で、産業革命を中心に「技術が社会に広がる条件」を研究してきました。🔹 主な主張経済成長の鍵は知識と技術の蓄積にある。そのためには「知識を共有し、革新を奨励する文化」が必要。特に17~18世紀ヨーロッパで広がった「科学的思考・実験精神・発明家ネットワーク」が、産業革命を引き起こした基盤になった。🔹 一般的なたとえたとえば、同じ発明があっても「それを奨励する社会」と「抑える社会」では結果がまったく違います。モキールは、「技術の種を育てる“土壌”」が成長を決めると説明しました。持続的な経済成長を生み出すものは何でしょうか?今年の受賞者たちは、この問いに答えるために異なる方法を用いました。経済史における研究を通じて、2025年のノーベル経済学賞を受賞したジョエル・モキールは、有用な知識の継続的な流れが不可欠であることを実証しました。この有用な知識には2つの部分があります。第一は、モキールが命題的知識と呼ぶもので、何かがなぜ機能するかを示す自然界の規則性についての体系的な記述です。第二は、処方的知識であり、何かを機能させるために必要なことを説明する実用的な指示、図面、またはレシピなどです。モキールは、持続的成長が新たな常態となった原因を明らかにする手段の一つとして、歴史的資料を用いました。彼は、イノベーションが自己生成的なプロセスで次々と成功するためには、何かが機能することを知るだけでなく、なぜそうなるのかという科学的説明も必要であることを実証しました。後者は産業革命以前にはしばしば欠けており、そのため新しい発見や発明を基盤として積み重ねることが困難でした。彼はまた、社会が新しいアイデアに対して開かれ、変化を許容することの重要性も強調しました。アギオン&ハウィットの理論:「創造的破壊モデル」2人は、経済成長のエンジンを「イノベーションによる創造的破壊(creative destruction)」として数学的にモデル化しました。この理論は、経済学では「Aghion–Howitt model(内生的成長理論)」として非常に有名です。新しい企業や技術が登場すると、古い企業や技術は淘汰される(=破壊)。しかし、その「破壊」が新しい価値と雇用を生み出し、経済全体を押し上げる力になる(=創造)。この連鎖が続くことで、経済は停滞せず「持続的に成長」する。🔹 数式より簡単に言うと…経済成長 = (イノベーション × 競争 × 再挑戦)競争があるからこそ企業は新しい発明を目指し、その発明が社会全体の生産性を引き上げるという好循環が生まれる、という考え方です。
2025.10.13
ハマスが新たに人質13人解放、生存者全員が引き渡される10/13(月) イスラム原理主義組織ハマスは13日午前(日本時間午後)、イスラエルで拉致し、パレスチナ自治区ガザで拘束していた生存中の人質13人を新たに赤十字国際委員会に引き渡した。イスラエルメディアが速報した。すでに解放された7人を含め、生存者20人全員が解放された。イスラエルとハマスが合意したトランプ米政権によるガザ和平案の「第1段階」が前進した形だ。合意では、イスラエル軍がガザ内で一定のラインまで引いた後、72時間以内にハマスが人質全員を解放すると決まり、13日正午(日本時間午後6時)が期限とされていた。ガザには人質48人が残されていた。28人は死亡しているとみられており、遺体の引き渡しは遅れる可能性がある。イスラエルとハマスのガザでの戦闘は2023年10月に開始。約2年に及ぶ戦闘でガザ側の死者数が6万7千人を超えるなど、人道危機が深まっていた。(中東支局)2年ぶりの「再会」に歓喜の涙、人質解放のイスラエル ガザでは支援物資搬入が本格化10/13(月) パレスチナ自治区ガザでイスラム原理主義組織ハマスに拘束されていた人質が13日、イスラエルに引き渡され、現地では約2年ぶりの「再会」に歓喜の声が上がった。人道危機が深刻化していたガザでは、これまで制限されていた支援物資の搬入が本格化。食料や医薬品を積んだトラックが相次いで到着した。イスラエルメディアによると、西部テルアビブの広場や人質が移送されたガザ近くの南部レイムには13日早朝から大勢の人が詰めかけ、国旗や人質の写真を掲げながら解放を見守った。最初の7人が解放されたとの一報が伝わると、現場は歓喜に包まれ、目に涙を浮かべる人もみられた。ハマスは直前に解放する人質20人の名前を公表した上で、赤十字国際委員会を通じてイスラエル側にまずは7人を引き渡した。イスラエル側も拘束していたパレスチナ人1900人以上の釈放を開始し、双方が合意した米和平案の「第1段階」が前進した。ガザでは10日正午(日本時間同日午後6時)の停戦発効を受け、12日から人道支援物資の搬入が拡大された。中東メディアは国連や支援団体のトラックがエジプト側から次々とガザに入る様子を報道。北部や南部で温かい食事や医薬品などが配給されたという。国連世界食糧計画(WFP)によると、当面は毎日約600台の援助トラックがガザ入りする見通しだ。
2025.10.13
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 願の話 その3 どの仏でも、どの菩薩でも「願」のないものはない。必ず「願」がある。阿弥陀如来には四十八願があり、薬師如来にも十二願があり、釈迦如来には五百の大願がある。しかしこれは別願です。別願とは四弘誓願以外のこうした菩薩や如来の誓願をいう。もし願がなかったらどうなるかというと、それは善でも悪でも気まぐれだ。つまり計画的にやらなければ善でも功徳が薄いわけである。まぐれ当たりにちょっと出来心で善いことをした。気まぐれにちょっとしたというのは功徳もあまりないわけである。悪いことでも、出来心でちょっと悪いことをしたやつなら、裁判に出されても罪が軽いわけだ。出来心でやったのと計画的にやったのでは同じ殺したにしても罪が違う。 これは鹿児島の判事から聞いた話だが、薩摩の人間が二人で焼酎を飲んでいた。なにかの拍子に、一人のやつが急に腹を立てて刀を抜いて斬りつけた。人を斬ったというので裁判所にひっぱられた。だが、出来心で腹が立ってやりましたといってワイワイ泣いて後悔した。そこで、これは計画的にやったのではないからというので、罪も軽かったそうだ。ところが、計画的にピストルを持っていったっり、毒薬を用意したりやったのは非常に罪が重いそうである。 『願』もその通りで、計画的にやるのでなければならぬ、仏道修行も計画的にやるのでなければ、気まぐれになってしまう。よくあることですが、ちょっと坐禅してみようか、別に銭が要るわけでなし、沢木さんが坐禅せいと言いよるから、ちょっと行って坐ってみようか。窮屈でなければ、ちょっとやってみよう。資本(もとで)は要らん。会費も要らんというので、ちょっとやってみる人がある。それでは気まぐれだ。嫌になるとこういうのは、いつでもやめてしまう。ところが我々は、一生涯坐禅で身を立てなければならん。それだから他人(ひと)様が坐禅するよりも一生懸命であり、それだけ人より功徳が多いような気がする。仏教の行の中に願がなかったら、どこに行くという方針が定まらんわけです。ただ修行さえすればよいと、それに違いないけれども、その修行をどっち向いてするか、これがなければ「行」がはっきりしないのである。 仏道に『願』が大切だということを、昔の人が「遠近(おちこち)に走り追うて、落ち着かむ行く末は思い設けられたり」と言うている。願がなければどこに落ち着くやら取りつくしまがないわけである。ちょっと好きになってちょっと嫌になる。足が宙に浮いている。そんなことではつまらん。それこそ命懸けでせんならんという一つのものがなければならぬ。願というものが、本当に決まっていなければ、どんなに骨を折っても訳がわからぬ。もしそんな人間なら、折角坊主になっても、やっぱり金糞坊主だけが偉いように見えて、清貧に安んずる坊主がどんなによいのか、わけがわからずに終わってしまう。どっちも願のない者同士なら、金を持って貸している方が偉いように見える。願のない者同士なら博士号でも持っているとその方が偉そうに見える。願のない者同士なら、従二位と正八位では正八位の方が偉くないに決まっている。金でいえば金の多い少ない、位でいえば地位の高い低い、また腕力でいうなら、柔道五段と段に入っていない奴と比べたら五段の方が断然強いに決まっている。しかし力の強い弱いで決まるなら獣(けもの)と同じことである。(『禅談』p.50-52)
2025.10.13
連合、立・国協調に期待感=連立拡大機運の低下受け公明党の連立政権離脱という新たな展開を受け、連合は支援先の立憲民主、国民民主両党が共同歩調を取れる余地が広がるとみて期待を強めている。国民民主の与党入りの可能性が当面低くなったためで、これを好機として立・国双方に歩み寄りを求める方針。政局の行方は予断を許さず、手探りの対応が続きそうだ。 連合の芳野友子会長は8日の定期大会で続投が決まり、3期目に入った。源流を同じくする立・国の連携をかねて重視しており、今後の方針として「大きな固まりに向けて取り組みを強化する」としている。 傘下の産業別労働組合(産別)のうち、自治労や日教組は立民に、UAゼンセンや自動車総連は国民民主にそれぞれ組織内候補を送り込んでいる。連合関係者が「最悪の事態」と呼ぶのが、立・国が与野党に分かれるパターンだ。 自民党に高市早苗総裁が誕生し、衆参両院で過半数割れの状態から脱するため連立政権の枠組み拡大へ国民民主に照準を定めると、連合に危機感が高まった。高市氏と国民民主の玉木雄一郎代表は積極財政などで親和性がある。幹部は「こちらも割れる」と焦りを口にした。 その後、公明が政権を離れたことで状況は一変。玉木氏は連立参加について「あまり意味のない議論になってきている」と語り、ブレーキをかけた。立民は、玉木氏を首相指名選挙の野党統一候補とする案を提起した。 ただ、玉木氏は公明との連携に意欲を示し、情勢を見極める姿勢だ。11日には記者団に「政策が一致する政党となら組めるが、現在の立民とは組めない」と明言。立・国協調の展望は開けていない。 3期目の芳野体制では要のポストである事務局長に、国民民主を支持する電機連合の神保政史氏が就いた。立民を支援する産別からは「玉木氏を抑え込めない」と不安の声が漏れており、連合も正念場を迎える。
2025.10.13
10月12日天嶽院坐禅会に3回目の参加前2回は毎度「頭と背筋を真っすぐ顎を引いて」と注意をされていた今回は頭を天井に真っすぐ、顎を引いてを意識して何事もなく終了した毎朝都合2〜3時間程坐っているが一人だと片寄やすい、こうしてたまに坐禅会に参加して参禅の皆と一緒に坐り、声を揃えて読経する有難山(^^)10/18(土)には清水寺管長の森和上の講演会がある。日時:令和7年10月18日(土)開場 12:30/開演 13:30(終了予定 15:30)会場:天嶽院 本堂講師:森 清範 和上(清水寺貫主、北法相宗管長)演題:「今日の希望は あすの力」参加費:無料(定員200名、自由席)申込方法:お電話にて受付(0466-22-0151)テレビのワイルドライフ 命の輝き で テッポウウオ の特集をやっていた獲物の昆虫をみつけると、直角に狙いを定めて水流を発射して獲物を水面に落とす!動物界の狙撃兵であるアーチャーフィッシュは、決してショットを無駄にしません。アーチャーフィッシュは正確に狙いを定めた水流を空中に発射して狩りをし、小さなトカゲと同じくらい大きな獲物をノックダウンし、水に落ちたらそれらを飲み込みます。調査員は、これらのショットは固定力の爆発であると考えていましたが、今では科学者はターゲットのサイズに基づいて使用する水量を調整して、より洗練されたアーチャーフィッシュを見つけました。各爆発の力を測定するために、ドイツのエルランゲンニュルンベルク大学の動物生理学者Stefan Schusterと彼の同僚は、高速ビデオを使用して、5,000フレーム/秒で画像をキャプチャするアーチャーフィッシュショットの速さを記録しました。通常、テレビや映画は24フレーム/秒で画像を表示します。同時に、研究者は、ビスコースとして知られる吸収性材料で満たされたボウルに魚を発射させて、各ブラストがどれだけの質量を放出するかを測定し、液滴が反射しないことを確認しました。時間の経過とともに水が発射される質量と速度に基づいて、Schusterと彼の同僚は各ショットの力を決定できました。ハエやトカゲなどの生き物の中で、それぞれが表面にくっつくために使用する力の量は、そのサイズに密接に比例します。研究者は、任意のサイズの獲物に対して、アーチャーフィッシュが本能的に攻撃を調整し、獲物がそのサイズで保持できる約10倍の力の動物で攻撃されることを発見しました。各ショットを発射するにはかなりのエネルギーが必要なため、アーチャーフィッシュは攻撃を調整します。それ以外の場合、「魚がすべてのターゲットに最大パワーのショットを発射するのが最善かつ最も簡単です」とSchusterは説明しました。💛坐禅も「魚がすべてのターゲットに最大パワーのショットを発射する」ように姿勢を正しくし、吐く息を細く長く、呼吸に集中していけば、「何十人一緒におっても全体が透明になる。一歩進めば、大円鏡智といって、広く大きな鏡の如く、時間空間が透明になる。そこに自己を見出だせば、これはいつもの自己とまた別の自己である。」(沢木興道)を獲得できるかもしれない(^^)
2025.10.13
31 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 186~189ページ「全体、私は、わが経済上で、輸入品を国内で補う第一策として、台湾で砂糖を製造して、内地の需要を満たすようにすることを、もっとも希望している。それで、この仕事に熱心でもあり経験もある鈴木氏に、その局に当ってもらって、大いに製糖業を発達させて、金貨の流出を防ぐ一手段にしたいものであると、切望している次第であります。 それには従来の台湾人の習慣によった製法でなく、よりよい方法で製造しなければならないので、まず新式の機械をすえ付ける必要がある。また、甘蔗の種類も、従来の習慣的に作っているものでははなはだ不利益であるから、新たに改良方法を立てって良種を植え付け、なお良い肥料も施すようにしなければならない。これまでやるには、まず土地を買入れる必要があるということは、まことに理の当然であると思う。 また、ただ機械だけをすえ付けておいて、本島人の耕作した甘蔗を買入れて製造しようとすれば、将来必ずほかにも同様な組織の会社や、原料の買入れ人を生じて、自然に競争になるのは必然である。それ故、いま力の及ぶ限り土地を買い入れておいて、原料である甘蔗を良種に改良したほうが宜しかろうと忠告したわけである。 なお私は、官有地払下げについても、できるならば、およそ5千町ばかりの払下げを受けて、これを漸次に開墾し、甘蔗を植え付けさせる必要があると考えたので、このことを、児玉総督や後藤民政長官に尋ねて見たところ、『台湾で未開墾地の5千町歩はなんでもない』ということであった。そこで、発起人諸君にも、未開墾地の買入れの必要であることを説いて、目論見書中にも書き入れさせたのである。 ところが、鈴木氏が実地に調査した報告を聞くと、本島人が実験によって耕作している土地は、すべて甘蔗に適した土地であるということである。また、官有地の払下げを得られる土地を実査されたところによると、決して甘蔗に不適当と申す訳ではないが、本島人の耕作している土地よりは、よほど劣っておるそうである。鈴木氏は、『もしこれを開墾するとして、自分が胸算を立てて見ると、開墾費のほかに、小作人を見つけて小作させるとしても、あるいはハワイの米国製糖業者のように、労働者を使って耕作させるとしても、それだけの費用がいる。また本国から農民を移住させるとすれば、住まわせる家屋は、不完全な物でもこしらえてやる必要がある。それであるから、これらに1反歩あて、安く見積もっても30円以上の費用は、どうしてもいるであろう』といっている。だが、これだけ出す積りならば、既耕地が買えるのである。 そこで、鈴木氏は、当社の機械工場を設けようとする予定地の橋仔頭、曾文渓の弁務署に、甘蔗を耕作している主な者達を集めて、新式機械で製造するのが有益であることを、詳しく話して聞かせたところ、本島人らは、大いにこれを歓迎して、ただ今では両地とも、各々製造場の設置を希望して、ほとんど競争のような有様になっているとのことである。 鈴木氏のいうのには、当会社で、土地すなわち甘蔗耕作地を1,500町歩ばかり買入れたいが、価格は、どのくらいであろうかと、本島人の主なものに問うてみたところ、一反歩およそ20円から25円位ならば、手に入るであろうとのことであった。今後、他人では、とうていこの代価では買い入れることはできないが、今回は、日本人が進んで台湾に巨費を投じて事業を開発してくれることを、彼らも喜んでいるからであると申していた。なお彼らは、その土地代で、株主になりたいと希望した者もあったので、山本悌二郎氏を彼の地に残して、この点について十分調査中であるとのことである。 このような次第であるから、新たに土地を開墾するよりは、むしろ現在の耕作地を買い入れる方が得策であろう。第一に開墾した土地を買入れたならば、小作は本島人で十分で、他から移民させる必要がない。鈴木氏は、先ごろの当社重役会で詳細にこのことを報告されて、まず1,000町歩の土地を、橋仔頭か曾文渓に買入れることを内定したそうであるが、私の希望を申せば、まず曾文渓と橋仔頭に、各1,500町歩以上3,000町歩位の既墾の甘蔗耕作地を、競争者のいない今のうちに、買入れておく必要があろうと考える。 第二の鈴木氏の計画になる機械は、一日20トンの製糖をなし得るとのことであるから、1か年の原料高は、およそ500町歩にできる甘蔗の産額に相当するということである。甘蔗畑は3年輪作をする必要があるので、もし1,000町歩だけ買入れるとすれば、1か年330余町歩の甘蔗が採れるだけであるから、百何十町歩分が供給不足となる。だが、1か所1,500町歩ずつの土地さえ所有していれば、1年に500町歩使えるから、いく人の競争者が来ても、当社は決して心配する必要はなくなるのである。 第三に、従来台湾における事業中で、真に大資本を投じて工業を起そうとする者は、日本人中ほとんど稀である。だから、当社が率先して百万円の資本を募って、この事業を起したことは、台湾総督府や弁務署はもとより本島人等までが非常に歓迎して、できるだけ親切に保護をして成功させようとしている。しかし、その事実に甘えて、いつまでも他人に依頼しようとするのは宜しくない。また後日、ほかにも資本家が、この事業を計画することは必ずあることで、その時に官庁としてはこれに厚く彼に薄くするというようなことができないのは当然であるから、この保護と便宜を有している間に、当社の耕地を3,000町歩にとどまらず、できる限り買入れておく必要があると信じている。これも日本経済のために、この事業の発展と成功を心から希望しているからである。」 ※「植民地企業経営史論」久保文克著 49~51ページ より抜粋特別株主協議会 原料甘蔗の安定供給のため、会社自らが甘蔗栽培を行う必要があるとの創立総会における鈴木の報告にもとづいて事業計画を変更し、株式の追加振り込みを株主に要請する目的で、1901年1月5日に開催されたのが、100株以上の大株主が集った特別株主協議会であった。同会の冒頭挨拶に立った井上は、まず「斯業ノ有望ナルコト並ニ之ヲ大ニシテハ吾国経済上ニ大関係ヲ有スル事業ニシテ是非共成功セシメンコトヲ希望」すると、台湾製糖創立に対する希望の大きさを述べた上で、1,500~3,000町歩の甘蔗栽培用の社有地を購入することの重要性を指摘した。その理由として、いまだ競争者が存在せずコスト面や資金面の利点が十分に活用できる現段階こそ、安定した甘蔗供給を確保する上で不可欠な社有地購入の絶好のチャンスであることがあげられる。とりわけ、「土人ノ耕作セル甘蔗ヲ買入レ製糖セントセバ将来必ラズ他ニモ同様ナル組織ノ会社又ハ原料ノ買入者ヲ生ジ自然競争者ヲ生ズルハ必然ナリ」と井上は発言した。・・・ 井上が台湾製糖創立に期待していたものは単に台湾製糖業界の牽引者的役割といった限定的なものにとどまらず、より大きな目的を見据えた上でのものであったことは以下の発言からもうかがわれる。「総テ日本ノ商工業ハ日ニ月ニ進歩シツツアルモ多クノ会社ハ借財政略ヲ以テ業ヲ始メ総テ配当ノ夥多ナル事ヲノミ望ミ其基礎鞏固ト否ハ少シモ頓着セザルノ感アリ畢竟会社ノ基礎ヲ薄弱ナラシムルノ結果ニ至ラン豈ニ憂フベキノ極ナラズヤ」と。 井上にとって当時の実業界とは、目先の短期的利益にばかり翻弄され、将来の有事に備えて堅実な社礎を確立することを忘れがちな憂慮すべき状況であったようである。こうした風潮の中にあって、台湾製糖の経営に井上が期待した内容とは、長期的かつ安定した利益の確保という営業原則を実践するゴーイング・コンサーン(企業が永続的に事業を続けることを前提とする会計上の考え方)としての理想の企業像を目指し、日本経済全体の模範になってほしいというものであった。・・・井上は協議会における発言の最後に、「余ハ今日ヨリ永遠ノ利益ヲ計リ該業ヲ充分鞏固ニナシ以テ確実ナル営利ヲ期セラレン事ヲ只管希望ニ堪エズ」とも述べている。・・・この井上の精神は「国益志向的実業のエートス」という形で歴代の経営者に浸透し、とりわけ堅実主義という当該社の経営理念の主柱を純粋培養に近いままに後々まで支えていく。
2025.10.13
194二宮翁夜話巻の3【9】伊東発身、斎藤高行、斎藤松蔵、紺野織衛、荒専八らが先生のお側に坐っていた。皆中村藩士である。先生が諭してこうおっしゃった。「草を刈ろうと欲したら、草に相談するには及ばない。自分の鎌をよく研ぐがよい。髭を剃ろうと欲する者は、髭に相談はいらない。己が剃刀をよく研ぐがよい。砥石に当って、刃の付かない刃物が、しまっておいて刃が付いたためしはない。古語に、教えるに孝をもってするは、天下の人が父を敬するゆえんである。教えるに悌を以てするは、天下の人の兄を敬するゆえんである。教えるに鋸の目を立てれば、天下の木を伐るゆえんである。教えるに鎌の刃を研げば、天下の草を刈るゆえんである。鋸の目をよく立てれば天下に伐れない木でなく、鎌の刃をよく研げば、天下に刈れない草はない。だから鋸の目をよく立てれば、天下の木は伐れたの同じだ。鎌の刃をよく研げば、天下の草は刈れたのと同じだ、秤があれば、天下の物の軽重は知れない事はなく、桝(ます)があれば天下の物の数量は知れない事はない。だから私の教えの大本は、分度を定める事を知れば、天下の荒地は、皆開拓できたのと同じだ。天下の借財は、皆済がなったと同じだ。これが富国の基本であるからである。私は往年貴藩のために、この基本を確固と定めた。よく守るならばその成るところは量ることができない。あなたがたはよく学んでよく勤めるがよい。二宮翁夜話巻の3【9】伊東発身、斎藤高行、斎藤松蔵、紺野織衛、荒専八等(ら)、侍坐(ぢざ)す。皆中村藩士なり。翁諭して曰く、草を刈らんと欲する者は、草に相談するに及ばず、己が鎌を能く研ぐべし、髭を剃(そ)らんと欲する者は、髭に相談はいらず、己が剃刀を能く研(と)ぐべし、砥(と)に当りて、刃の付かざる刃物が、仕舞置きて刃の付きし例(ためし)なし。古語に、教ふるに孝を以てするは、天下の人の父たる者を敬する所以(ゆえん)なり、教ふるに悌(てい)を以てするは、天下の人の兄たる者を敬する所以なり、といへり、教ふるに鋸の目を立つるは、天下の木たる物を伐れたる所以なり、教ふるに鎌の刃を研ぐは、天下の草たる物を刈る所以也、鋸(ノコギリ)の目を能立れば天下に伐れざる木なく、鎌の刃を能く研げば、天下に刈れざる草なし、故に鋸の目を能く立れば、天下の木は伐れたると一般、鎌の刃を能く研げば、天下の草は刈れたるに同じ、秤(はかり)あれば、天下の物の軽重は知れざる事なく、桝(ます)あれば天下の物の数量は知れざる事なし、故に我が教への大本、分度を定むる事を知らば、天下の荒地は、皆開拓出来たるに同じ、天下の借財は、皆済成りたるに同じ、是れ富国の基本なればなり、予往年貴藩の為に、此の基本を確乎と定む、能く守らば其の成る処量るべからず、卿等能く学んで能く勤めよ
2025.10.13
佐々木朗希の球は「スプリットではない」 元ヤ軍右腕が称賛した「643」…球界屈指のワケ10/12(日) 元ヤンキースやメッツでプレーした救援右腕アダム・オッタビーノ氏「これは宇宙人の投球です」「アダム・オッタビーノがポストシーズンの出来事を全て解説」「ロウキ・ササキの36球を全て振り返りましょう」フィリーズとの地区シリーズ第4戦で、8回から3イニングを完全投球で抑えた佐々木の好投を分析。「最大の修正点はメカニックです。(それによって)ストライク率が増えました」特に注目したのはフォークボールの回転数の低さだった。「(ハーパーの打席で投じたスプリットの回転数は)僅か643回転/分です。混乱しないでください。スプリットではないです。800回転/分を切っているので、これはフォークです」「スペシャルと言われる所以です」「(フォークは)通常87、88マイルではなく、82、83マイル。だから、(もっと正確に言うと)パワーフォークなんです」「インクレディブル」「軌道が不規則です。カット、スライド気味だったりしますが、常に落差は大きいんです。打者目線で言えば、目元を狂わされる球なんです」「時にナックルボールのような変化をしています」「コウダイ・センガ(メッツ)のお化けフォークに少し似ているでしょうか。唯一無二とも言える投球です。球速があって、回転数が少ないので、(打者は)捉えることがとても難しいです」「ほぼ誰も持っていない球」制球が難しいながらも操っている「これは宇宙人の投球です」
2025.10.12
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 願の話 その2 ある羅漢果を得た和尚が、あるとき龍宮から招待を受けた。椅子にかけたままでドロンドロンと龍宮へゆくのであるが、これを聞いた小僧が、コッソリ椅子の下にかじりついて和尚のあとについていった。いよいよ龍宮に着いてから、小僧は椅子の下からヌーとでた。和尚は不意打ちを食らってビックリしたが、「貴様何しにここへきた」と叱れば、「和尚さんばっかり、いつも御馳走よばれんとおれにもたまには御馳走よばれさしてくれ」とのことであった。 いよいよ御馳走がでた。ところが、和尚にはすばらしくおいしい御馳走が出たが、小僧には二三段下のお振舞いだ。これを見た小僧は非常に怒った。「よし、おぼえていろ、おれの家は僧侶だぞ、これから仏道修行をして、悟りを開いて龍宮の大将になってやる。龍宮の馬鹿ども、仇はきっとうってらるぞ」ということになった。 この小僧、ある時、経行(きんひん)していると、願が成就して足の先から水がでるようになった。そこでお袈裟をパッとかぶって、池の中に飛び込んで龍になったという話がある。これは悪願が成就した話である。 ときどき男にだまされた女が、男というものは不届きなやつだ。わたしも男を手玉にとって、弄(なぶ)り物にしてやろうというので女郎になった。そうして男を手玉にとって、悪辣に男をだました。こうして己れの無念ばらしはしたものの、そのあげくには、からだ中にボツボツができて、しまいにはボソッと鼻が落ちてしまった。これも悪願の成就である。 善願にもいろいろあって無漏(むろ)の願もあれば有漏(うろ)の願もある。社会事業だ保育事業だ、あれをやろうの、これをやろうのと願はさまざまである。無漏の願とは、漏は煩悩のことであるから、つまり煩悩の漏れない「願」である。われわれはほおっておけば朝から晩まで六道輪廻である。戸棚へいってちょっとつまみ食いすると餓鬼道におちる。ガンガン腹が立ってくると修羅道におちる。あるいは畜生道におち、地獄道におちる。その六道に輪廻する自分を、六道輪廻させまいとするのも願である。また一切衆生が六道輪廻するのを救おうとするのも願である。私が坐禅を勧めるのも願である。人がやろうがやめようが、私は生涯坐禅をやめぬ。誰でもよく言う。「沢木のように、坐禅をやれやれと言うても誰がそんなことをするものか」と。しかし、やるぞと言うたら誰がせんでも。おれがやったらよい。人に勧めて人がやらなんでも自分だけで坐禅する。 ある寺にでもはいって一人で坐禅をする、賽銭は一文もあがらん、和尚もはいったなり、でてこない、何の音もせぬ、人々は、はじめは、和尚は毎日寝ているんじゃないかなーと思っていたが、そのうちに、ソーッと隙に来る者もできるだろう。三年経ち、五年経ち、十年、二十年とつとめていれば、みな人は動かされてしまう。すなわち「願」が成就するのである。 私なども、坐禅をして20年余年、今では自分一人では回りきれんほどあちらこちらで坐禅をやっている。広告でも同じことでする。広告を一年間したが、どうも効き目がないと言ってやめるとダメになるそうである。一年やってきかなんだら二年やる。それでもきかなんだら五年やる。十年やる、そのうちにその広告が人間の頭に慢性になってしまって、それからボツボツ年数の経つにしたがって買いに来るのだそうだ。それと同じで、我々の願でも、そんなにいきなりは成就せぬ。(『禅談』p.48-50)
2025.10.12
194二宮翁夜話巻の3【8】尊徳先生はおっしゃった。「太古の交際の道は、互いに信義を通ずるのに、心力を尽し、四体を労して、交りを結んだものだ。なぜかというと金銀貨幣が少なかったためだ。後世になって金銀の通用が盛んになって、交際上の手段として贈答に皆金銀を用いるようになった。金銀は、通用が自在で便利この上ない。これから賄賂という事が起って、礼を行うとか、信を通ずるとかに、ついに賄賂に陥いるようになった。このために曲直が明らかでなくなり、法度が正しからず、信義がすたれて、賄賂が盛んに行われるようになった。百事賄賂でなければ用がたせなくなった。私が始めて、桜町に至ったとき、かの地の奸民は争って私に賄賂しようとした。私は塵ほども受けなかった。これから善悪や邪正が判然として信義や貞実の者が初めてあらわれた。もっとも恐るべきはこの賄賂である。あなた達は誓ってこの物に汚される事があってはならない。」二宮翁夜話巻の3【8】翁曰く、太古交際の道、互(たがひ)に信義を通ずるに、心力を尽し、四体を労して、交(まじわり)を結びしなり。如何(いかん)となれば金銀貨幣少きが故なり、後世金銀の通用盛んに成りて、交際の上音信贈答皆金銀を用ふるより、通信自在にして便利極れり、是より賄賂と云ふ事起り、礼を行ふといひ、信を通ずるといひ、終に賄賂に陥り、是が為に曲直明ならず、法度正しからず、信義廃れて、賄賂盛んに行はれ、百事賄賂にあらざれば弁ぜざるに至る。予始めて、桜町に至る、彼の地の奸民争ふて我に賄賂す、予塵芥だも受けず、是より善悪邪正判然として信義貞実の者初めて顕れたり。尤も恐るべきは此の賄賂なり、卿等誓ひて、此の物に汚さるゝ事なかれ。
2025.10.12
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 願の話 その1仏教には「願」というものが、どうしてもなければならぬ。『大般若経』の魔事品(まじぼん)の中に「行あって願なきものは菩薩の魔事なり」ということがある。修行しても「願」がなかったならば、ハンドルのないオートバイみたいなものでフニャフニャである。行、行と言ってもヒョロヒョロの行では、あっちへ行ってはぶつかり、こっちへ来てはぶつかり、ついにはコロコロと崖へ転げ落ちてしまう。そのときに、この「願」というものがあって、我々の「行」をまとめるのです。左に行けば右にハンドルを回す、右へ行けば左にハンドルを回す。そうしてちょっとも狂いのないところへ我々の「行」を運ぶことができる。ここが「願」の有難いところである。道元禅師の御歌に、 愚かなる心一つの行く末を六の道とや人のふむらんとあるが、我々の心というものには、しっかりした目標がなければいかん。最も正確に目標をつけて、こうした時にはこう、ああした時にはああと、目標に向かって時々刻々巧くハンドルを回してゆかなければならぬ。それには「願」がなければならぬ。 「願」には総願と別願がある。仏教者たる以上誰でも必ず持っていなければならぬ願が総願で、四弘誓願がそれである。四弘誓願の第一は「衆生無辺誓願度」・・・・・これは利他である。第二は「煩悩無尽請願断」・・・・・自利である。道元禅師には、 草の庵に寝てもさめても祈ること 我より先に人を度さんという「願」がありますが、これは第一の「衆生無辺誓願度」である。 自分の煩悩は、誰でもよく知っていなければならんはずだが、実は持ちかねて、持ちあぐんでいるものが自分というものです。たばこをやめようと思ってもやまらん。酒をやめようと思ってもやまらん、あんな女に好かれたらどうもならんと思っても、いつまでも食いついておって、ネチネチしてどうしても離れられん。 わしもたばこ好きであったんであるが、坊主になってから、不便だからやめたんです。酒も五升ぐらいは飲んだんだけれども、坊主はどうしても酒を飲まんならんというわけはない。忙しくて、忙しくて、酒を飲んで酔っ払ってる暇がない。誰でもやめればやめられるものではあるけれども、たばこぐらい、酒ぐらい、という調子でたくさんの煩悩を持ち込んでしまう。「煩悩無尽請願断」もやろうと思えばやれるんだ。刑務所に放り込まれたら、いかなたばこ吸いでも一服も吸わんで入っている。どんな酒飲みでも刑務所に入ったら酒は飲めぬ。第三は「法門無量誓願学」である。煩悩が無尽であるから、したがって法門も無量である。この無量の法門を次から次へ求めて行くものは一生青年である。常に新しく生きることが肝要だ。どの瞬間も完全に生きる。この意味において仏教では絶えず旺盛に生きていくのである。 第四は「仏道無上誓願成」である。我々人間は生涯限りない衆生を度し、限りない煩悩を断ち、限りない法門の上において、仏道を完成して行こうという誓願である。我々はこの誓願のために飯を食うのだ。この誓願を成就するために薬を飲んで養生するのだ。この道を成就するために着物を着て風邪をひかぬようにするのだ。この誓願に役立たぬものはやめたらよい。 この四つの願は善であるが、時々悪の願もあって成就することがある。「魂魄この土に留まりて。恨み晴らさでおくべきか・・・・・・」というわけで、ドロンドロンと化けて出るなどは悪願の方である。(『禅談』p54-56)
2025.10.11
31「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 178~182ページ今度、藤三郎が、おしげを世話するようになったと聞いて、「奴も、ようやく一人前の実業家になった」「これからは、少しは話せるようになるだろう」と、一つ穴のムジナになったことを、歓迎こそすれ非難するような者は、実業家の間には、ほとんどなかった。明治30年代は、まだ、そういう時代であった。しかし、このことは、藤三郎にとっては大失策であった。この失策がなかったならば、彼の一生はどんな聖者・高僧の生涯に比べても、劣らないほどのものになったであろう。このことを考えると、藤三郎のために実に惜しまない訳にはいかない。彼は、この倫理的な失策のために、大人格者としての絶対至高な立場から、一事業者という相対比較的な立場へ転落してしまった。いかなる事業も及ぶことのできない、聖なる人格者(神の子)としての天的立場を捨てて、単に現世に貢献した事業の大小によって、その価値を量られるだけの地的立場に落ちてしまったのである。そして、藤三郎の場合には、この失策さえなければ、大人格者としての天的立場と、大実業家・大発明家としての地的立場とをかね備えて、古今東西の人間生活史上での稀有な例として、栄光に輝くことができたであろうことを思うときに、彼のためにふたたびも三たびも、これを惜しまない訳にはゆかないのである。 これが、藤三郎の生涯での最大の失策であったが、彼には、もう一つの欠点があった。それは、部下をあまりに激しく叱責したということであった。一つのものを見ると、すぐそこに、新しいやり方が反射運動的に心に浮かんだ藤三郎としては、部下の者のやることが、何にもよらず間が抜けていて、見るに堪えない感がしたものに違いない。部下としては一生懸命にやっていることであっても、藤三郎からは、そのやり方があまりに心がこもっていないように見えて、むしろ何か故意に事業を妨害しようとしてするかのようにさえ、錯覚するのであった。そこで、激しい叱責となる。藤三郎としては、こんな間抜けな、むしろ故意とさえ思われるほどの失策をすれば、叱責されるくらいのことは当然である。いや、こういう機会に、十分骨身にこたえるまでに叱責して、そうした根性骨をため直してやってこそ本当の親切であり、人の子を預かる者の義務であると考えた。だが、叱られるほうの身になると、そうは思えない。これだけ一生懸命にやっているのだから、大将の思う通りにやれなかったからといって、そうコッピドク叱らなくてもいいではないかと、ことに人中で叱られた場合などには、恨めしくさえなるのであった。けっきょくは、異常に事業に熱心な藤三郎と、これに追随ができない部下との間の食い違いであった。それが、事業は、ほとんど藤三郎の新工夫や新発明を基礎とした新事業であったから、いっそう、その間隙はひどかった。 しかし、藤三郎としては、自分にできないことを部下に強いたのでは決してなかった。石炭一つのたきようでも、火夫が心なくたき口へほうり込んでいるのを見ると、そのスコップをヒッタクッて「こうやるのだ」と、石炭をほうり込んで見せる。そうすると、今まで濛々と黒煙を吐いていた煙突から、薄い煙があがるだけになる。それは、石炭がたき口全体に平均にまかれたので、完全に燃焼したからである。こうした技術的なことまでを、藤三郎が、いつの間に修得したのかと、これを見た者は、あきれるほどに感嘆するのが常であった。 これだけで済めば、まことにいいのであるが、また、その火夫にやらせてみると、なかなか藤三郎が満足するようにはできない。「お前達、毎日やっていながら、このくらいのことができないで、どうするかッ!」と、どなられているうちはまだいいが、ついにはかんしゃくを起して、「馬鹿ッ、貴様のような奴、やめてしまえッ!」と罵声といっしょに、愛用の太い籐(とう)のステッキが飛ぶようになる。もうこうなると、殴られた当人はもとより、周囲の者にも、さっきの感心はどこかへ飛んでしまって、しらじらとした藤三郎への反感ばかりが残ることになる。 この無理も、事業が順調のときには押し切れていたが、一度つまずいたとなると、ふたたび立ち上がることのできない結果になった。後年、日本醤油醸造株式会社を失敗したときに、あれだけ大きな事業をして多くの部下を持っていたのに、藤三郎と運命をともにしようとした者が、きわめて少なかったのは、その大部分の原因が、ここにあったろうと思われるのである。 ぶどう糖の処分も、ラム酒としてではなく工業用酒精としたのであったら、劇場で宣伝をするというような派手な心も起らず、したがって前述のような間違いも起きなかったかもしれなかったが、同じアルコールを工業用としないで『酒』とすることを思いついたという、いささかの心の浮き上がりが、ついにこの結果を招いたものであるといったら、無理であろうか?ものごとは着手のときに、よほど反省もし吟味もして見なければならない。出発点で一歩の狂いは、先では千歩万歩の狂いになるものである。 ともかく、この『おしげ』の問題は、後年の日本醤油醸造会社の失敗とともに、藤三郎の生涯を通じての二大失敗であった。後者は発明は立派に成功していながら、外部の圧迫による経営上の失敗であって、見様によっては時の運とも、時代の犠牲であったともいえる。しかし、前者は精神生活上、人格上の失敗であって、ことに多年、報徳の教えを説いていた者としては、弁護の余地がないだけに、人間としての藤三郎の生活内容は複雑濃厚になったともいえるのではあるが、その失敗の影響は深刻であった。 この明治33年3月3日に四男の八郎が生まれたが、8月21日に肺炎で半歳の命を消してしまった。 ※ 「財界名士失敗談」朝比奈知泉(碌堂)編 明治42年鈴木藤三郎氏◎日本醤油醸造会社に関する問題は、いまだ成功不成功を公表すべき適当の機会でないゆえ、それはただ諸君の推断に一任するとして、過去における失敗の二三をお話し申そう。◎日本製糖会社の事業に付いて、明治29年頃に欧米へ糖業調査に出かけたその時製糖の副産物即ち糖蜜から酒に代わるべき飲料を醸造し得る事を発見した。◎この糖蜜の処分法については、どこでも困っておったので、これが酒の代用飲料に醸造し得るとすれば、国家の幸福であると信じたので、翌30年帰朝の際、これに対する諸器械を購入してきた。◎現今我が国で清酒を造るために、米の費やされる額は1年400万石以上である。もし糖蜜から日本人全部の飲料酒ができないにしても、そのうち100万石に代わるものを得られるれば、実に国家に大利益がある。米であれば輸出ができるが、日本酒では全然輸出ができぬ。この点から見てこの事業は、国家の生産に大関係があると信じた。◎酒に毒素のあることは、何人も知る所であろう。これは酒の中にフーゼルオイルというものが含蓄されているからである。ところがブランデー及びこの糖蜜から醸造さるべきラム酒の2種には、右のフーゼルオイルがない、即ち国家経済の上からばかりでなく、衛生上からいっても結構なことだと思った。◎それで明治32年に、自分で少し醸造して見て衛生試験所はもちろんその他について試験をした。ところが、非常な好成績を収め得たので、大蔵省に課税の事を聞くと、ラムの醸造は酒造税中に入らぬから無税であるとの決定を受けた。◎いよいよ明治33年の1月、50万円の株式組織を以て、南葛飾郡小名木川にラム製造株式会社を創立し、20万円の広告費用を投じて製造に着手した。◎然るにこのラム酒のため、他の酒造家は価格の点より大打撃を受けざるべからざる地位に立ち、大蔵当局に運動したかせぬかは知らぬが、3月になってから、ラム酒も酒造税として課税すべきものなりとの通告を突然に受けた。◎有税酒とせば、勢い価格も倍以上に引き上げざるべからざるのみならず、既に無税の積もりで、すべての準備をなしおわりし後なので、この課税問題について9月まで大蔵省と交渉を重ね、遂に屈服せざるべからざる事となって、同事業も一時中止の運命に会し、忽ち50万円以上の損失を招いた。◎今度は話題は違う。然し継続した失敗である。それは明治34年における日本製糖の失敗だ。◎時の内閣は伊藤内閣であった。その当時開会された議会に、砂糖消費税問題の提出を見、法律の実行期は明治35年10月1日よりと示された。然るに10月1日からの課税となれば、その間6ヶ月ある。この間に外国糖の見越輸入をされては、我が国製糖業者の大恐慌のみならず、外国無税糖と内地の有税糖との競争を生ずる。しかしてその結果内地糖業者の失敗に帰するというの故を以て、自分ら糖業関係者は、法律の実行期を明治35年4月1日に変更されんことを政府に要求した。◎政府もまことに然りと気付いたが、提出後の成案をちょっと撤回もできず、ソレゆえ自分らは議会に直接の運動をした。勿論外国品の輸入されるのは、国家経済の問題であるから、いかに議員が腐敗していても、いかに輸入商の運動が激烈であっても、正義に敵すべくもあらずと安心していたのが大失敗、議会はとうとう政府案可決という好名辞の下に吾人の主張は否決の運命に終わった。◎頼むは貴族院のみである。こっちでも熱心に運動をした。貴族院の方は我らの主張を是として修正する約束であった。ところが貴族院では予算全部に対し、大削減を加えんとしたので、ついに詔勅の渙発を見、ために貴族院も一字一句だに修正せず、政府案を可決することとなった。◎ここにおいて砂糖輸入商は万歳である。なんでも貿易表に示された砂糖の見越輸入額は莫大なものであった。これと同時に自分の関係せる日本製糖会社の如き、50円払込の株が20円に下落し、会社の欠損額27万円に達して、明治35年の春には将に破産に瀕せんとした。幸い三井の保護を受け、漸く破産だけは免るることを得、その後やや順境に向って自分ら重役は退職した。右の如く当時たとえ弱ったことがあったにしても、自分ら在職中における日糖の境遇は、決して今日の如き混乱の状態ではなかったと信ずる。◎人の一生は必ず千波万波の起伏がある。成功は成功にあらず、失敗必ず失敗でない。要するにいかなる事業に失敗しても、いやしくも前途有望である以上は、誠意誠心それを継続しさえすれば、必ずその失敗を償うことができる。◎部下を採択する事は非常にむずかしい。それは自分が使うものをえらぶように、使われるものも必ず使うものをえらぶであろう。然し何事業にも十人十種の人物を要する。あたかも一個の繕部に各種の料理を按排するがごとくである。然し腐敗したものは一も食らうことを許さない。腐敗人物をまじえた事業は、何事業によらずきっと失敗する。
2025.10.11
31「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著183~186ページ 井上馨と後藤新平 台湾製糖会社の事業目論見書は、前にも書いた通り総督府技師の山田?(ひろし)の意見に基づいたものが、製糖原料の甘蔗は、すべて農民から買入れる予定だった。したがって会社としては、耕地は一坪も所有しないことになっていた。ところが、藤三郎が実地に視察して来た結果、耕地を今のうちに所有しておくほうが、会社の将来のためであると考えて、創立総会でも、その意見を述べたものであった。また、井上馨にも、このことを報告したところ、井上も大賛成で、「それでは、土地を買入れる資金が、新たにいる訳だから、予定より早く、第二回の払込みをさせなければなるまい。至急に大株主を開いて、その了解をうるようにしなさい。わしも出席して、助言してあげよう」といった。それで、創立総会から1か月も経たない明治34年(1901年)1月5日の午後1時から、三井集会所で大株主会を開いて、このことを懇談することになった。それには、井上と台湾民政長官の後藤新平も特に出席した。 この『台湾製糖株式会社・特別株主総会』の司会は、例によって益田孝がした。彼は、こういう会合には慣れ切った物柔かな態度で立ち上がると、こういった。「諸君、今日は、当会社の協議会でありまして、100株以上の大株主だけにお集まり願った次第でありますが、便宜上、鈴木氏に会長となっていただいては、いかがでしょうか?」「賛成・・・・賛成・・・・。」の声が、二、三人の口から勢いよく呼ばれた。「どうぞ・・・・。」益田に、こういわれて、藤三郎が立った。そして、会長席に進んで、一礼した。彼は、井上や後藤のような高位高官の前で話しをするのは初めてなので、少し固くなった調子で、こう口を切った。「今日、大株主諸君に御来会を願いました主旨を申し述べます。元来、当会社の発起した当時のもくろみは、まず最初は工場と機械だけを設置いたしまして、原料の甘蔗は本島人から買入れて営業をする見込みでありました。ところが、先ごろ、私がかの地に参りまして実地に踏査いたしました結果、甘蔗の耕作をするのには、種子や肥料などに大いに改良を加える必要を悟ったのであります。しかし、この改良をするのには十分の施設がいります。それには、とうてい、他人の事業に、会社が干渉するだけでは効を奏することができません。それで、会社自身が、まず地主となって、本島人を小作人として、これに適当の方法を教えてこそ、初めてこの目的を達することができるでございましょう。私は、そうした考えの下に、工場に適当な場所を地として2か所を選定いたしました。一は曾文渓、一は橋仔頭であります。この地は、将来事業を拡張いたしますのに、至急有望の土地でありますから、今日、この付近に耕地を買入れておくことは、会社のために利益であろうと存じます。その概略は、創立総会のおりの調査報告中にも申し述べておきましたが、なお今日は、このことにつきまして、とくと御協議を申し上げたいのでございます。これにつきましては、井上伯爵下にも、御意見のあることを承りましたから、ただ今から閣下の御意見を、お聞かせ下さるようにお願い申し上げます。」 藤三郎は、こういうと、井上馨の前にいって、「どうぞ・・・・。」と、低く頭を下げた。井上は、「ふむ・・・・。」と、軽くうなづくと、いかにも大政治家らしいゆったりとした態度で、演壇に立った。そして、幕末維新のころにはいくたびか白刃の下を潜って、その傷あとがまざまざと眼尻や下あごのあたりに残っていて、『ひと癖ある面魂(つらだましい)』という言葉がピッタリする顔で、じっと一同を見わたした。その気魄に押されて、一座は水を打ったようになった。井上は、しばらく考えていたが、やがて静かな口調で語り出した。「諸君、私は当会社の株主でもなく、また役員でもないのであるから、本日、当社の大株主の協議会の席上で、当社の利害について、とやかく、申す必要はないようであります。しかし、最初、当会社の発起人諸君に向かって、この事業の有望なことを申し述べたことでもあり、また、これを大にしては、わが国の経済上に大関係を有する事業であるから、ぜひとも成功させたいものと希望しております。それで、いろいろの点について大いに勧告したこともあるから、徳義上、当社の成立した上は、本来の希望などについて、いささか考えていることを、本日、この席上でひと通り申し上げてみようと思うのであります。 およそ人間の生活程度が進むに従って、日常消費する物も、また増加するということは免れないことであるが、中でも飲食物中の砂糖のごときは、1か年の消費額が優に3,000万円前後になっておる。そのうち、およそ2,000万円ばかりは外国から輸入された物である。また卵のような物でも、実に100万円ばかり輸入しておる。これらを、ことごとく内地で消費しておるのであるが、まことに驚くべき現象と申さなければならない。 また、その上に、日本人は旧来の習慣として、藩政時代から上下ともに紙幣を便宜とする習慣があって、今日の兌換紙幣が危険に陥りはしまいかというようなことを、心配する者はほとんどないと申してもよいのである。 ここにある年々の輸出入の表を見ると、さる28,9年以来、常に輸出品の増加は僅少であるのに、輸入品は急激な増加をしておる。昨年来の輸出入の差、すなわち輸入超過額は1,322万5千円余であるのに、日本銀行の引換準備金額は金6千6,700万円に過ぎない。これでは、もし将来も依然として輸入超過が続くものとすれば、ついに兌換紙幣は不換紙幣となって、札の購買力は無くなるようなことにもなろう。実に心配に堪えない次第であります。それであるから、このように正金が海外に流出するのを防ぐには、内地の生産事業を極力奨励し発達させて、輸入品を内地で製造するよりほかに良策はないと考えるのである。」 わが国の政治の中枢にいて、日ごろ、国家の前途について頭を悩ましていた井上としては、ここでもわが国の財政の弱点と、その救済の根本策とから説き出さない訳にはいかなかった。そして、いよいよ本論に入った。
2025.10.11
194二宮翁夜話巻の3【7】尊徳先生はまたおっしゃった。「世に忠諫というものは、おおよそ君の好むところに随って甘言を進め、忠言に似せて実は阿諛し、自分を取り入ってもらおうとするもので、そのため君を損なう者が少くない。主人は深く察してこれを明らかにしなければならない。ある藩の老臣がかって植木を好んで多く持っていた。ある人が、その老臣に語つて言った、『なにがしの父は植木を好んで、多く植えいぇいたのを、その子が釣りを好んで、植木を愛さないため、せっかく植えたのを抜き取って捨てようとしました。私はこれを惜んで止めました』と、単なる世間話のついでに語った。老臣はこれを聞いて言った。「なにがしの無情は甚しいものだ。樹木ぐらい植え置いたままで何の害があろうか。それなのに抜いて捨てようとはいかにも惜しいことではないか。彼が捨てるというなら私は拾おう。汝がよろしく取り計らってもらいた。」ついに自分の庭に移した、これはなにがしという人が、老臣に取り入るためのはかりごとであって、その老臣はその謀計に落し入られたのである。そして老臣はなにがしを、忠義がある者と称し、信ある者と称した。おおよそこのようであれば、節儀の人も、思わず知らず不義に陥ることになる。興国安民の法に従事する者は恐れなくてはならない。」二宮翁夜話巻の3【7】翁又曰く、世に忠諫と云ふもの、大凡(おほよ)そ君の好む処に随ひて甘言を進め、忠言に似せて実は阿諛(あゆ)し、己が寵を取らんが為に君を損なふ者少からず、主たる者深く察して是を明にせずんば有る可(べ)からず。某藩(それのはん)の老臣某(それ)氏曾て植木を好んで多く持てり。人あり、某氏に語つて曰く、何某(なにがし)の父植木を好んで、多く植ゑ置きしを、其の子漁猟のみを好で、植木を愛せず、既に抜取つて捨んとす、予是を惜んで止めたりと、只雑話の序に語れり、某氏是を聞きて曰く、何某の無情甚しいかな、夫れ樹木の如き植ゑ置くも何の害かあらん、然かるを抜いて捨つるとは如何にも惜き事ならずや、彼捨てば我拾はん、汝宜しく計らへと、終に己が庭に移す、是れ何某なりし人、老臣たる人に取入らん為の謀(はかりごと)にして、某氏其の謀計に落し入られたるなり、而て某氏何某をして、忠ある者と称し、信ある者と称す、凡そ此の如くなれば、節儀の人も、思はず知らず不義に陥るなり、興国安民の法に従事する者恐れざる可(べ)けんや。
2025.10.11
「本当に信じられない」佐々木朗希、魂の3回完全投球! フィリーズ打線の圧倒に米記者も脱帽「『特別』と言うのも控えめな表現だ」10/10(金) 現地時間10月9日、ドジャースの佐々木朗希は、本拠地で行われたフィリーズとの地区シリーズ第4戦で、1-1で迎えた8回からリリーフ登板。緊張の投手戦が続く中でのマウンドだったが、3回(36球)を投げ、無安打、無失点、無死四球、2奪三振の“パーフェクトピッチ”を見せた。 今季のナ・リーグ本塁打王から始まるフィリーズ上位打線をビシッと締めた。先頭のカイル・シュワバーをわずか2球で抑えた佐々木は、3番ブライス・ハーパーと4番アレク・ボームをそれぞれ凡打に仕留めて三者凡退で1イニングを抑える。 そして9回もマウンドに立った背番号11は、危なげなく一死を取って迎えた強打の捕手J.T.リアルミュートは、徹底したスプリット攻めで空振り三振に仕留める。これでボルテージが一気に上がった球場内には、割れんばかりの「ロウキコール」がこだました。 その後も快投を続けて9回も投げ切った佐々木は、延長10回も続投。先制適時打を放っていたニック・カステラスノスを三ゴロに打ち取ると、続く9番のブライソン・ストットは98.9マイル(約159.1キロ)の4シームで空振り三振。そして、二死無塁で迎えた今季のリーグ首位打者であるトレー・ターナーには粘られたが、最後は99.7マイル(約160.4キロ)の真っすぐで右直に打ち取った。 強打のフィリーズ打線を4シームとスプリットでねじ伏せ、ロッテ時代を彷彿とさせる支配力を発揮した佐々木。まさしく魂の投球に現地記者も目を丸くする。 米メディア『Dodgers Nation』のノア・カムラス記者は、「この23歳のルーキーを『特別』と言うのは控えめな表現だ」と絶賛。「ドジャースがこの試合に勝てば、佐々木朗希がMVPだ。ロウキ・ササキは8回から登板し、3イニング連続でフィリーズを完全に抑え込んだ。このルーキーは本当に信じられない」と賛辞の言葉を並べた。 貫禄すら漂わせるパフォーマンスで3イニングを投げ抜いた佐々木。もう球速低下に悩み、悔しさからベンチで目を潤ませた怪物の姿は見られない。佐々木朗希の3回パーフェクトは「史上屈指のリリーフ登板の一つ」ロバーツ監督が激賞 米記者から賛辞止まず「PSを制するクローザーを得た」10/10(金) ドジャース専門メディア『Dodgers Nation』のノア・カムラス記者によると、デーブ・ロバーツ監督は佐々木について、「私が覚えている限り、史上屈指のリリーフ登板の一つだった。本当に特別な何かが見え始めている」と試合後の会見で賛辞を惜しまなかったという。 カムラス記者自身も、「この試合(そして地区シリーズ)のドジャースのMVPはロウキ・ササキだ」とXに投稿。「彼は第1、2戦でセーブを挙げ、4戦目では8回から10回までパーフェクトな投球を見せた。ドジャースはリーグ優勝決定シリーズに進出し、残りのポストシーズンを制するクローザーを得た」と断言。このシリーズで大きな収穫があったと説いた。 若き日本人右腕を称賛するLA記者は他にもいる。試合中に「もしこの試合でドジャースが勝ったら、息子の名前を『ロウキササキ・ハリス』にするよ』と話していたのはブレイク・ハリス氏。日頃からドジャースを追う敏腕記者は、「もし地区シリーズでMVPを授与するとしたら、それはロウキ・ササキに贈られるだろう」とコメント。「ルーキー離れした、なんて素晴らしいシリーズなんだ」と絶賛の言葉を続けたロバーツ監督 興奮冷めやらず「Shot for Roki!」勝利の立役者をシャンパンファイトで称える劇的勝利を収め、ナ・リーグ優勝決定シリーズ進出を決めた。指揮官はこの日の最大の功労者を、ナインの前で称えた。試合後のシャンパンファイト前のあいさつで「First off, We gonna give a lot of props to Roki tonight」(まず最初に今夜の朗希を称えないといけない)と切り出し、「Shot for Roki!」(朗希に乾杯!)と音頭を取った。試合後の会見で指揮官は興奮気味に振り返った。「あれは私が覚えている限りでも最高レベルの救援登板のひとつだと思う」と声を弾ませた。「1イニングどころか2イニング、そして3イニングも投げてあれだけのピッチングをしたのは、本当にチームに大きな力を与えてくれた」と絶賛は止まらなかった。2025/10/10
2025.10.10
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 最高の幸福 その10 むかし五武器という武道の達人がおった。五つの武道の達人である。弓と棒と槍と剣と長太刀(なぎなた)であったが、このどの武術にも達しておった達人であった。これはお経の中にあるが、この武士が諸国を武者修行して歩いた。あるとき山のふもとから峠へさしかかろうとすると、ふもとの里人が「アノお侍さん、お侍さん、この山には恐ろしい化け物がおって、どんな者でも取って食いますから、この山にはいらず、少々遠回りしても、もっとふもとを回ってゆきなさい」と注意した。 するとこの五武器の言うのには、「おれはどんなものにも恐れない修行をしたから、こんな山くらい構わない」「よしたがようございますよ」ととめるのもかまわず、五武器がその山へどんどんはいっていった。 すると向こうから恐ろしい化け物が目の玉をキラキラさせて大きな口を開いてやってきた。そうすると、こっちから弓に矢をつがえてピュッと射たところが、むこうの恐ろしい化け物にはその鋭い矢も刺さらない。しかも体に粘着力があってピシャッと矢がひっついてしまう。あるかぎりの矢を射たがみなピシャッとひっついてしまって、矢がなくなった。今度は、槍をピュッと突き出したが刺さらない。引抜こうと思ったところがこれまたひっついてしまって離れない。とうとう槍を取られてしまった。こんどは長太刀をふりまわして斬りかかったが、これもまた相手の向こうずねにピシャッとひっついてしまった。今度はしようがないから棒をふりまわしていったが、棒もまた相手の横腹へひっついてしまった。今度は剣を抜いていったが、剣も相手の体へひっついてしまった。今度はもうしようがないから拳骨をふりまわしていったが、拳骨がコツと当たるとまたピシャとついた。左の方もピシャッとついてしまった。今度は足でけったが、足も両方ともくっついた。最後に頭をごつんと打ちつけたが、頭もビシャッとくっついた。とうとうもちにひっついたハエのようにひっついてしまった。 そこでその化け物が、さあどこから食おうか、頭からかぶりつこうか、手を引抜いて食おうか、と見たところが、侍はじっとしている。ちょっともバタバタしない。化け物は不思議に思って、たいがいの奴はバタバタ最後までもがくのに、こいつはちょっともバタバタしない。何でバタバタしないのか、不思議でたまらぬ。そこで聞いた、「これ、木っ端、たいがいの者は助けてくれとか、ウワッとかいうのに、貴様はちょっともバタバタしない、何も言わない。いっこう張り合いがない。いったいどういうわけで落着いているのだ」 すると五武器が言うのに、「そうじゃ、貴様はおれを食おうと思っているが、おれというものは貴様の眼に見えるようなそんな小さいものではないのだ。おれというものは天地いっぱいのものだ。その天地いっぱいのものを食おうなんて……このおれの中に貴様があるんだ。そのまた貴様が天地と一体であるから貴様の中におれがいるんだ。貴様は食おうと思っているが、貴様の食うのは貴様の中のおれを食うことになるのだ。それはおれの中の貴様がおれの中のおれをくうので、何もべつに貴様がおれを食い終えるものではなし、おれがまた食われてしまうわけでもなし、例えていうならばタコが自分の足を食っているのとちょっとも違わない。貴様が食ったところでおれが減るんじゃなし、貴様が殖えるんじゃない。べつに得することじゃない。それを貴様は、愚かだからそんなことを考えているので、貴様がおれを食うからといって、おれは貴様に食われ切ってしまうようなわけのものではない」 化け物がびっくりしてしまった。「貴様の中におれがある、おれの中に貴様がある……気味の悪いことを言いおる。こんなやつは食わんでおこう」と言った。「いや、かまわん、食え」とうとう化け物から恐れられて、「もう食うのはよしておく」「そんなら武器をみな返せ」とみな返してもらって大道闊歩していったという。 この五武器は何をいっているかというと、仏道の体験、悟道の道を説いている。永遠に死なない自己を見出すことである。最上最高の幸福にありつくことである。本当の自分にすっかりなり切ったことである。動物の自己を滅亡して最上最高の久遠の自己を見出す、永遠に死なない人間になり切ることである。いまの「仏仏手をひいて眼前に入る、瑞を呈し山を覆う盈尺の雪」人を度し自を度し、一切をことごとく永遠の生命によみがえらせようとするのが、仏道のもっともめでたい尊いところである。 天地同根万物一体のわれここにあり、この宇宙いっぱいの自己を持ち切る、永遠に死なない自己があるとわかって、そこではじめて「おめでとう」ということになるのである。(『禅談』p25-28)この項終り
2025.10.10
31補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 173~178ページ 藤三郎の妻のことは、典型的に内気な性格であった。決して自分を外へ現わすことを欲しない人であった。藤三郎は極端に進取的で強かったが、ことは極度に内省的で優しかった。藤三郎の性格は、まるで獅子のようであったが、ことのそれは、全く羊のようであった。藤三郎は強さに徹底していたが、ことも、また弱さに徹底していたから、両極端は一致するように、家庭的には、まことに工合よく行っていた。ことの弱さに徹底した態度-性格的な無我の忍従は、『柳に雪折れなし』というように、一種の強さにまでなっていた。東京へ出て来た当時のこと、癇の強い児であったみつは、よく夜になると泣いて眠らなかった。ようやく負ぶって寝かしつけても、床に入れると、すぐ眼を覚まして泣き叫んだ。そのころ、新工場の指図や、機械のくふうや、砂糖精製法の研究やで、ほとんど連日、眠る暇もないほど忙しい藤三郎の思考や休息を妨げることを恐れて、ことはいく月もの間、毎晩のように、みつを背に負ぶったままで夜を明かした。ある時、藤三郎が、「おれは、このごろ、月のうちで、夜は15日と眠ったことはない。」というと、ことが、「私も夜なんか、このごろでは、半月はおろか、ひと月まるで眠りはしません。」といって笑った。「あの時分は、若かったとはいいながら、朝、お父さんが仕事に出かけられたあとで、一、二時間横になるだけだったが、よく続いたものだった。」と、ことは老年になってから、子供達に時々そんな思い出話をして聞かせた。ことはごく小柄ではあるが、病気を全く知らなかった。ある保険会社から、「あなたなら、何万円の保険でも引受けます」と、いわれたこともあったくらいに丈夫だった。しかし、これは、当時、藤三郎をはじめ家族から社員に至るまで、いかに緊張していたかを物語るものである。ことが後妻として嫁入りして来たのは、藤三郎が33歳の時で、東京へ工場を移転する際であった。当時、郷里では、藤三郎は、もう偉ら者といわれていた。東京へ出て来たからの彼の名声は、飛躍的に発展した。10年ほどの間に、『森町の鈴木』からから『日本の鈴木』になってしまった。それだけに、事業、事業、事業と、明けても暮れても事業に追われ通したと藤三郎は、家庭を顧みる暇がなかった。彼には、自分と同じような社会人として、妻を教育している暇もなければ、ことはまた、自分から社会に飛び出して行って、そうした訓練を、摂取して、自主的に社会人として成長してゆくというような性格ではなかった。藤三郎が『日本の鈴木』となっても、ことはヤッパリ『森町の質屋の娘こと』であった。そのことを自覚し、その運命に忍従していた彼女は、藤三郎が社会的に進出すればするほど、自分の不つつかのために、夫の名声を少しでも傷つけては申し訳ないという心遣いから、いよいよ家庭の奥深くひっこんでしまった。結婚当初からそうした環境におかれたので、ことが藤三郎を愛する気持は、非常に深いものであったけれども。家庭生活では愛するというよりは、畏敬するという形になって現われていた。たとえば食事などでも、藤三郎は広い座敷で、ことの給仕で晩酌をやりながらひとりで食べた。晩酌は一本ときまっていた。彼の膳には、川向こうの『釜長(かまちょう)』という料理屋から取り寄せた物がのった。今の夫の口に合うようなものは、自分には造れない。ことはアッサリと、そう思い込んでしまっていた。外から帰った藤三郎は、古風ではあったが、立派な車寄せに式台の付いている表玄関から上がって、長い畳廊下を通って裏の座敷へ行く。子供達は、内玄関から入って、反対側の板廊下を通って、それぞれの部屋へ行く。こんな訳だから、同じ家に住んでいても、子供達が父と顔を会わせる機会は、ほとんどなかった。また、子供達が父といっしょに食事をするということは、正月の元日の朝、紋付羽織に袴で座敷に四角くすわらされて、藤三郎が洋行から帰ったときに感謝慰労の記念品として、日本精製糖会社から贈られた三つ組の金杯で、お屠蘇(とそ)を祝うときだけだった。こんなに父との接触が薄かったから、子供達は父の前に出ると、何か改まった気持になった。それに、相当な年配の社員達が呼びつけられて、激しい語調で頭から叱責されているところなどを、時々かいま見るものだから、自分達も、何か失策をして叱られはしまいかと、父の前にいる間はビクビクしていた。こんな調子だから子供達はみんな、父はこわいものだと思っていた。よその子供が、その父に甘えているのを見ると、不思議に思えた。そして「父」という神聖な存在を冒涜しているように思って、そうした家庭を軽蔑するような気にさえなった。藤三郎は絶対者であり、タブーである。これは、家庭内で妻や子供達が思いこんでいたばかりでなく、彼の事業に、部下として従事していた人々全部の信仰であった。人々は、これを疑いもしなければ、これに不満もなかった。自分達の考えや力は、とうてい、藤三郎のそれに及ぶものではない。自分達は、ただ彼の命のままに無条件に従うことが、最上の道であるのだ。船が、どこへ行くのかというようなことは、考える必要はない。自分達は、命じられた部署を正直に守っていたら、船は藤三郎という名船長が、もっとも安全に、もっともすみやかに、そして、もっともいい港に舵を取って連れて行ってくれるのだ。この十数年間の実績は、みんなに、それを思わせるに十分であった。それであるから、ことに郷里からついて来た人々にとっては、そうした考えは信仰そのものになっていた。人心を統制して、まっしぐらに事業を進行してゆく上には、全体の上に、そうした信念がゆきわたっているということは、有効であった。それがあったから、藤三郎の事業は驚異的に伸びた。驚異的に伸びたから、益々その信仰は強まった。そして、その信仰を無条件で受け入れて、絶対的帰依者となっていたのが、ことと子供達-藤三郎の家族であった。藤三郎の事業も、ようやく第一の峰は、頂にまで登りついた。今までは、頂上へという気持が一杯で、周囲を顧みる余裕もなかったが、頂上へ登りついて見ると、自然に周囲を眺める気にもなる。藤三郎が、自分の周囲を振り返って見たときに、そこには、自分を神のように信じ、敬い畏れてくれる妻や子供はあったけれども、自分を人間として甘え抱いてくれる家族はなかった。それは、もうびんに白髪の見え初めた藤三郎としては、寂しくも物足りなくも思ったに違いない。しかし、いまさら、そうした雰囲気を家庭内に作るには、あまりに家族の間にスパルタ的教育が浸透し過ぎている。藤三郎からそう仕向けるには、あまりに奉られ過ぎている立場上、ややテレ臭いし、ことからそうさせるには、あまりに母性型でありすぎる。藤三郎は自分の心に余裕ができてみると、もう少しくつろげる場所が欲しくなった。これは女性から見れば、男性の横暴かもしれない。しかし、人間性としては、無理のない欲求だともいえるのではあるまいか?そこへ、32歳、女盛りのおしげの爪の先まで磨き上げた白い手が、しなやかに伸びて来たのである。それに、もう一つ具体的な理由があった。それは藤三郎も、今では製糖王といわれるくらいな実業家になった。したがって社会的な交渉も多くなり、人との応接もしげくなった。元老の井上伯とも膝を交えて語りもすれば、三井物産の専務理事の益田孝の訪問を受けることもある。日本精製糖の仕事だけのうちは、砂村に住んでいても、用は足りたが、台湾製糖まで引き受けるとなると、そうはいかない。当時は、東京でも交通機関といえば、自動車はもとより電車もまだなく、ようやく中心部だけ鉄道馬車があったという時代だから、砂村などへは人力車よりほかに乗物はなかった。藤三郎は車の上で安心して考えごとのできるようにといって、いつも綱ひきをつけた二人びきの人力車を用いていたが、それでも砂村から日本橋まで行けば、往復するだけに3時間はかかった。これでは、仕事が出来るはずがない。自分のためにも、人の訪問を受けるためにも、どうしても東京市内に住む必要が起ってきた。 しかし、本宅を砂村から移転することは、なかなか急にできることでもないし、また移転すれば、たださえ自分が台湾製糖に関係することで、日本精製糖のほうがおろそかにしないかと、不安がっている人々の疑惑を、さらに増すことになる。また、一方、それらの懸念を無視して移転しても、極度に内気な性格のことに、頻繁に出入りする社会的地位の高い人々の接待をさせるとことは、どう考えても無理である。その点からは、市内に控家を持って、だれかに、それを任すよりほかに仕方がない。そこへ、後藤伯の愛妾として、また花屋の女将として、どんな高位高官でも富豪紳商でも扱い慣れている、おしげが出現したのである。だから、これを世話して、それらのことを任せるということは、事実上やむをえない一つの必要事として、藤三郎自身にも、内心の道徳的非難に対する、大きな自己弁護となったことだろう。そうした気持は、十分に想像もできるし同情もできる。彼は中洲の箱崎町に、中村棟梁の手で家を造らせて、おしげを住まわせ、自分も月の大半は、そこで暮すようになった。また訪客には、すべてそこで会っていた。 当時は、婦人の人格というようなものは、まだまるで無視されていたといってもよい時代であった。ことに実業家の私的生活は、全くルーズなものであった。藤三郎くらいの地位になれば、妻以外の婦人を、一人や二人世話することは当然のこととして、だれも不思議とも思わなかった。実業界の神様のようにいわれた人で、自分も口を開けば孔孟の道を得意としていたような老人でさえ、その私生活では、そうした婦人を3,4人も持っていた。それで一代の人格者とたたえられて、自他ともに怪しまなかった時代である。だから、今まで藤三郎が、あの地位で、あの若さで、浮いた噂一つなかったということは、感心されるよりは、むしろ変り者扱いされていた位のものであった。
2025.10.10
194二宮翁夜話巻の3【6】尊徳先生はおっしゃった。「ある藩の人が藩の要職であった時、私は礼譲と謙遜を勧めたが用いなかった。後についに退けられた。今や困窮がはなはだしく、今日をしのぐこともできない。その人はその藩が、衰廃で危ないときに当たって功績があった。そして今このように窮乏している。これはただ要職に登用された時に、分限の内で生計を立てない過ちがあったからである。官威が盛んであって。富有が自在である時は礼譲と謙遜を尽し、官を退いて後に遊楽したり贅沢であれば害はない。その時は一点のそしりもなく、人もその官を妬むこともなく、進んで勤労に励み、退いて遊楽しても、昼に働いて夜休息するようである。逆に、進んでは富裕にまかせて遊楽や贅沢にふけって、退いて節倹を勤めるのは、たとえば昼休息して夜勤労するようなものだ。進んで遊楽するならば誰もがこれをうらやましく思うであろう、そしてこれを妬まないものがいようか。雲助が重荷をかつぐのは、酒食をほしいままにするためである。遊楽や贅沢をするために、国の重職にいるのは、雲助等がするところに遠くない。重職にいる者が、雲助のするところに同じようなことをして、よく久安を保つことができようか、退けられたのは当然であって、不幸にあったわけではない。二宮翁夜話巻の3【6】翁曰く、某藩(それのはん)某氏老臣たる時、予礼譲謙遜を勧むれども用ひず、後終(つひ)に退けらる、今や困乏甚くして、今日を凌ぐ可からず。夫れ某氏は某藩、衰廃危難の時に当つて功あり、而して今斯(かく)の如く窮せり、是れ只登用せられたる時に、分限の内にせざる過ちのみ。夫れ官威盛んに富有自在の時は礼譲謙遜を尽し、官を退きて後は、遊楽驕奢たるも害なし、然る時は一点の誹(そしり)なく、人其の官を妬まず、進んで勤苦し、退きて遊楽するは、昼勤めて夜休息するが如く、進んでは富有に任せて遊楽驕奢に耽り、退きて節倹を勤むるは、譬へば昼休息して夜勤苦するが如し、進んで遊楽すれば、人誰か是を浦山(うたやま)ざらん、誰か是を妬(ねた)まざらん。夫れ雲助の重荷を負ふは、酒食を恣(ほしいまま)にせんが為なり、遊楽驕奢をなさんが為に、国の重職に居るは、雲助等が為(す)る所に遠からず、重職に居る者、雲助の為す処に同じくして、能く久安を保たんや、退けられたるは当然にして、不幸にはあらざるべし。
2025.10.10
トキ(髙石あかり)のお見合いは、司之介(岡部たかし)と勘右衛門(小日向文世)のせいで、破談になってしまう。仲人の雨清水傳(堤真一)とタエ(北川景子)は、また司之介たちのせいで破談にならないよう、トキに嫁入りを勧める。借金のある松野家で婿を取るより楽で豊かな暮らしができると、トキの幸せを願っての話だが、トキは首を縦に振らない。「だって、つまらんですから」「みんなで幸せになって初めて幸せなので」と話すトキとのやり取りを司之介が部屋の外から耳をそばだてていた。トキの2度目の見合いの当日、司之介が理髪店でまげを落として現れた。悩んだ末に、トキを幸せにする武士になろうと思ったという。ところが、見合い相手の山根家は、鳥取藩の元士族で武士の心を忘れず、父も、息子の銀二郎(寛一郎)もまげを結っていた。「切るんじゃなかった」と落胆する司之介を、勘右衛門や傳が「落ち武者」と呼ぶと、銀二郎がたまらず噴き出した。それをきっかけに、笑いが広がっていく。しかし、トキは祝言が決まってしまう、その怖さから自ら襖を開けられずにいた。SNSでも関連ワードの「落ち武者」がトレンド入り。主演の髙石あかりもXで「落ち武者がトレンド入りしていて笑っています」視聴者からも「ビジュアルが想像以上」「これは反則」「笑い堪えるのに必死だった」という声のほか、トレンドを見て「めっちゃ気になるんですけど」「インパクトありすぎ」「目に飛び込んできた」といった未視聴者からの声も集まっている。
2025.10.09
キノコ採りをしていたらクマと目が合い急に突進…持っていたナタで応戦 福島・檜枝岐10/9(木)檜枝岐村の帝釈山の山中で9日午前11時過ぎ、キノコ採りで山に入った地元の男性(60代)が、クマに襲われて腕や足を噛まれるなどのケガをしました。男性は持っていたナタで襲ってきたクマと応戦し、クマの頭にナタがあたると逃げていったということです。男性は自力で下山し村内の診療所で治療を受けましたが軽傷で、命に別条はありません。男性は約30メートル先にいたクマと目が合ったところ、急にクマが突進してきたと話しているということです。
2025.10.09
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 最高の幸福 その9 これを次韻(じいん)されたのが道元禅師である。次韻というのは他人の詩の韻をふんで、べつに詩を作ることである。「師曰く大仏その韻を拝読せん――」大仏というのは禅師ご自身のことである。永平寺のことをむかしは傘松峰大仏寺といったものである。それが吉祥山永平寺と変わった。それはずっと後のことである。禅師のおられた時は大仏寺といったから、道元禅師のことを大仏といったのである。そこで大仏その韻を拝読せん、――この大仏がこれに次韻し、和韻をしてみようとおっしゃって「大吉歳朝喜んで坐禅す」といわれたのである。 これがまた大事なことです。自己の生活を冒涜しないことである。永遠の生命によみがえったことである。 さて今そのよみがえる法はどうするか、それには坐禅をするしかない。「大吉歳朝喜んで坐禅す」で、こいつを悲しんで坐禅したのでは何にもならん。これを「大吉歳朝坐禅を喜ぶ」と読んでもよい。坐禅をすることを喜ばなくてはいかん。つまり生命のふき返しを喜ぶ、本当の自己になることを喜ぶのである。 「時に応じて祐(ゆう)を納(い)れ自(おのずか)ら天然」――祐というのは幸福ということです。いかなる場合も、時に応じて幸福を受ける、というのが宗教的鍛錬です。小言をいうやつはどんな時でも小言をいう。年百年中ブツブツ小言をいっている者がある。われわれは時に応じて祐を納れ、永遠にこの幸福というものを取り失わない人間にならねばならん。そうすればどこにでも、天真爛漫のじつに朗(ほが)らかな世界が待っているわけです。 「心心慶快(けいかい)して春面(しゅんめん)を笑ましめ」――やれ嬉しいことだ、やれめでたいことだ、よう人間に生まれてよかった、これで一生人間に生まれた甲斐があったぞ。これが人間に生まれず馬に生まれたらどうか、牛に生まれておったらどうか、ロースが良いとか、悪いとかいって食われてしまう。動物並みでなかった、神さん並、仏さん並に一生を終わった、ここが「心心慶快して春面を笑ましめ」……おめでとうということである。 「仏仏(ぶつぶつ)手をひいて眼前(げんぜん)に入る」――四方八方から仏さんがこっちへこい、こっちへこいということになる。これが越前であるからやはり、今度も雪がでてくる。「瑞(ずい)を呈し山を覆う盈尺(えいせき)の雪」――山一杯の雪が降った、いわゆる瑞気がみちた、幅の知れん雪が満ちた、天地一杯に雪が満ちたわけである。 「人を釣り己を釣り魚を釣る船」――このめでたさによって、己を渡し人を渡して天地一杯がめでたい。このめでたいということは自分一人良いことをして自分一人内緒で盗み食いするような、虫のよいことではない。久遠にめでたい、絶対にめでたい、それがさとりというものである。(『禅談』p24-25)
2025.10.09
ドジャース・佐々木朗希の覚醒…米老舗メディア編集長が「“驚き”ではなく“必然”」と評するワケは? 日米メディア「ロウキ評」の決定的な差10/9(木) 現地10月4日(日本時間5日)、敵地シチズンズ・バンク・パークで行われたナショナルリーグのディビジョン・シリーズ第1戦。フィラデルフィア・フィリーズ戦で、ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平が先発として勝利を挙げ、最後のマウンドに立ったのは、かつては先発として未来を託されていた右腕・佐々木朗希だった。 リリーフとしての居場所を見つけはじめた若き右腕は、この日も終盤の緊張をものともせず、1イニングを1安打無失点。最速100マイルを超える直球も見せるなど、ポストシーズンでは初のセーブを手にした。 AP通信は「ドジャースはポストシーズンのクローザーを見つけたかもしれない」という見出しで記事を配信。救援転向後わずか4試目の新人が、短期決戦の重圧の中で冷静さを保ち、走者を背負いながらも無失点で試合を締めた事実を高く評価した。 記事の中では「新しいリリーフとしては上出来だ」という一文が印象的に使われている。ドジャースのアンドリュー・フリードマン編成本部長が「信頼の構築には時間が必要」「肩の回復を最優先にしてきた」と語ったと伝え、チームが佐々木の起用時期を見極めていた経緯を補った。米メディアのメインストリームではもともと「佐々木の素質への評価は揺らいでいない」という論調が多かった。 まだ23歳という年齢に加えて、決して高年俸でもない条件も相まって「健康と適応さえ整えば、いずれブルペンの軸になれる」という好意的な評価が関係者の間に共有されていたことがうかがえる。『スポーツ・イラストレーテッド』は、ディビジョン・シリーズ初戦後のデーブ・ロバーツ監督の慎重な言葉を拾い「ロバーツ監督は佐々木朗希の“守護神扱い”を否定」と題して報じた。ロバーツ監督は試合後、「まだクローザーを固定する段階ではない」と発言。佐々木の起用を“状況に応じた判断”として位置づけた。 この記事は、ブルペンの脆弱さと佐々木の肩のコンディション管理という現実を踏まえ、監督が「慎重さを装う理由」を分析している。ドジャースにとって佐々木は即席の救世主ではなく、長期的戦略の中で欠かせないピースのひとつであり、球団は過剰な熱狂を抑えることで、リスクを制御しようとしているということだ。MLB公式サイトは、物語の焦点をやや別の方向に当てていた。 大谷が勝利投手、佐々木がセーブ投手として並び立った事実を「日本人先発・救援コンビによるポストシーズン初勝利」と位置づけ、歴史的文脈に重心を置いた。記事は、佐々木の球威や制球よりも、この試合を“日米をまたぐ象徴的な瞬間”として描いている。他のメディアが実務的な起用方針を論じたのに対し、MLB公式は“記録としての価値”を優先した構成だった。 内容はそれぞれ異なれど、これらのメディアの論調は、いずれも日本でのこれまでの報道とは微妙に異なる共通の一点の要素を内包している。 それは、クローザーに転向した佐々木の存在が「驚きの新人」ではないということだ。もともと評価は高く、ポテンシャルは織り込み済みだった。その上で、ようやく実際に結果を出した夜が訪れた──それがこのポストシーズンだったということである。140年近い歴史を誇る老舗メディア『スポーティングニュース』で編集長を務めるベンソン・/140年近い歴史を誇る老舗メディア『スポーティングニュース』で編集長を務めるベンソン・テイラー氏はこう語る。「ササキについては、まさに“興味深いシーズン”と言えるでしょう。これまでにも、先発投手がさまざまな理由でブルペンやクローザーに転向するケースはありました。もっとも有名な例のひとつは数十年前、オークランド・アスレチックスのデニス・エカーズリーがクローザーとなり、伝説的存在かつワールドシリーズ制覇を果たしたケースでしょう。 ササキの場合もいくつかの要因がこの立場を生みました。故障からの復帰というだけでなく、ドジャースのブルペンが苦しんでいたという事情もあります。したがって、これは彼にとって良いチャンスとも言えます。ポストシーズンではブルペンの出来が勝敗を大きく左右しますし、ササキは新しい役割の中で輝き、試合を締める場面で大きなインパクトを残せるかもしれません」 テイラー氏の言葉は、的確に今季の佐々木への現地報道の論調を凝縮している。“興味深いシーズン”という表現には、驚きではなく大きな必然性が込められている。
2025.10.09
194二宮翁夜話巻の3【5】矢野定直が来て、「私は今日は思いもよらず、結構なことをうかがって有り難し」と言った。尊徳先生はおっしゃった。「あなたが今の一言を忘れないで、生涯一日のようであれば、ますます貴くますます繁栄することは疑いない。あなたが今日の心を分度と定めて土台とし、この土台を踏み違えないで生涯を終るならば、仁であり忠であり孝である。その成就するところは計ることができない。おおよそ、人々は事が成るに当たってすぐに過ってしまうのは結構におおせられたというのを当たり前のように思ってしまい、その結構を土台として、踏み行うためである。その始めの違いはこのとおりである。その末は千里の違いとなることは必然である。人々の身代もまた同じだ。分限の外に入ってくる物を、分内に入れないで、別に貯へ置く時は、臨時の物入りや不慮の入用などに、差しつかえるという事は無いものだ。また売買の道も、分外の利益を分外として、分内に入れなければ、分外の損失は無いであろう。分外の損というのは、分外の益を分内に入れるからである。だから私の道は分度を定めることをもって大本とするは、このためである、分度が一たび定まるならば、譲り施こす徳が積み重なって、勤めなくても成就するであろう。あなたが今日は思いがけず、結構なことをうかがって有り難いという一言を生涯忘れてはならない。これが私があなたのために懇(ねんご)ろに祈るところである。二宮翁夜話巻の3【5】矢野定直来りて、僕今日存じ寄らず、結構の仰せを蒙(かうむ)り有難しと云へり。翁曰く、卿今の一言を忘れざる事、生涯一日の如くならば、益々貴く益々繁栄せん事疑あらじ、卿が今日の心を以て、分度と定めて土台とし、此の土台を蹈み違へず、生涯を終らば、仁なり忠なり孝なり、其成る処(ところ)計(はか)るべからず。大凡(おほよ)そ人々事就(な)りて、忽ち過(あやま)つは結構に仰せ付けられたるを、有り内の事にして、其の結構を土台として、踏み行ふが故なり、其の始めの違ひ此の如し、其の末千里の違ひに至る必然なり。人々の身代も又同じ、分限の外に入る物を、分内に入れずして、別に貯へ置く時は、臨時物入不慮(いりふりよ)の入用(にふよう)などに、差支へると云ふ事は無き物なり。又売買の道も、分外の利益を分外として、分内に入れざれば、分外の損失は無かるべし、分外の損と云ふは、分外の益を分内に入るればなり。故に我道は分度を定むるを以て、大本とするは、是を以てなり。分度一たび定らば、譲施の徳功、勤めずして成るべし。卿(きみ)今日存じ寄らず、結構に仰付(おほせつ)けられ有難しとの一言、生涯忘る事勿れ、是れ予が卿の為に懇祈(こんき)する処なり。
2025.10.09
31 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 170~172ページ その花屋の女将(おかみ)を、水島しげといった。彼女は明治元年(1868年)の生まれで、若くから新橋で、太棹(義太夫)芸者として鳴らしてしたが、間もなく逓信や農商務の大臣をやっていた後藤象次郎にひかされて世話になっていた。その後、後藤のもと部下の三浦という軍人のところへ、その口添えで嫁にやられた。しかし、軍人かたぎは彼女の気性にあわなかったし、子供も生まれる見込みもなかったので、そこを飛び出して、上の姉のいる埼玉県の秩父へ行っていた。そして間もなく、中の姉の亭主が持っていた芝居茶屋の花屋の株を、後藤と別れるときにもらった金で譲り受け、その女将になった。しげは、太柄なふとりじしの、髪の濃い、眼鼻立ちのハッキリとした、日本の女としては珍しい位に体格のいい婦人であった。 藤三郎の家では、前から明治座で行きつけの芝居茶屋は、この花屋であった。狂言の替り日ごとに、唐桟(とうざん)の着物に博多の帯の尻端折(しょぱしょり)で、黒のパッチに紺足袋、白鼻緒の草履という意気な姿の男衆がはるばる小名木川の果まで、木板刷りの一枚番付を届けに来たものだった。このラム酒の宣伝劇のかかっていったひとと月ほどの間は、得意先や販売店を招待していたので、藤三郎も毎日のように花屋へ寄って、そこで食事をしたり、休んだりもした。今までは事業から事業で、ほとんど芝居などを見ている暇もない生活の藤三郎だった。それが、こうした事情で、ひと月近くも、工場や家庭とは全く違って花やかな芝居町の空気に、昼となく夜となくふれ続けた。おまけに、それが時代の成功者として、44歳という男盛りの実業家としてである。この濃厚な雰囲気が、彼の心に、なんらかの影響と変化を与えたであろうことは、考えられることである。どちらが誘ったか誘われたかは分らないが、その後、間もなく『おしげ』は、花家をやめて、藤三郎の世話になるようになった。 毎日、酒のお相手をしたり、お給仕をしたりしているけれども、2人の間はそれ以上に発展しない。 一般に「中村棟梁(とうりょう)」と呼ばれている請負師があった。中村政次郎といって、藤三郎が郷里の森町から上京して、最初の氷砂糖工場を小名木川岸に造った時からの出入りの大工であった。初めはごく小さい請負師だったが、仕事を誠実にやったので、藤三郎も信頼して、その後はすべての建築を彼に任せていた。 藤三郎の事業は、この10年ほどに、発展また発展で、正月の三カ日をのぞいては、新築か増築をやっていない時はないというくらいであった。工場の建築ばかりでなく、藤三郎や吉川をはじめ、社員達の住宅の普請(ふしん)もみな中村の手でやった。こういう風に、日本精製糖関係の工事を一部請け負っていたから、中村も今では、押しも押されぬ大棟梁となっていた。 それだけに中村は、藤三郎を徳として、彼のためなら水火も辞さないという風であった。藤三郎の家に何事かあれば、中村は真っ先に飛んできて、心からの忠義を尽くした。藤三郎の方でも中村には、他の人に頼めないことまで頼んだり、いいつけたりもした。利口なおしげが、それを見てとって、この棟梁に頼みこんだというのは、ありそうなところでもある。ともかく、二人の仲を、この棟梁が橋渡しをいたということは、事実であるらしい。おしげのほうから藤三郎の世話になることを、積極的に希望したのだという噂の出たのには、いくつかの理由があった。40台の若さで、一代の成功者とうたわれながら、今までに、浮いた噂一つない。しかも、たけこそあまり高くはないが、風采も恰幅も堂々と、男性的気魄も有り余る程あって、これから先、どれだけ伸びるかもしれない魅力がある。こうした藤三郎を、世の中の酸いも甘いも知り抜いた大年増のおしげが、どうせ世話になるなら、このように人にと思ったろうと、世人が想像したのも無理はない。おまけに、こうした事実もあった。それは、いよいよ藤三郎の世話になることになったとき、花屋をほかに譲った権利金や、そのほかに相当まとまった金が、おしげの手にあったが、その全部を藤三郎に託して、彼の事業に使ってもらっていた。もちろん、これには配当その他がつくのであるから、銀行へ預けておくよりは、はるかに有利であり確実でもある。当時では、藤三郎の郷里の親戚や知人達も、争ってその遊金を、彼の手に託して、事業に使ってもらったものである。藤三郎のやる事業には、絶対に間違いがない。それは、元老の井上馨までがそう思い込んだのであるから、そのころ、藤三郎を知る程の人々が、心からそう信じたのも当然である。おしげも、その当然なことを行ったまでであろうが、世間の口はウルサイものである。「大将も凄いねえ。世話になるのに、お妾さんのほうから保証金を入れてるって話じゃないか!」などと、精製糖会社や鉄工所の社員達は、昼休みのときなどには、煙草の煙といっしょに、こんな噂を吐き散らした。それに今まで、一年近くの洋行中にさえ、全くそんな形跡のなかった藤三郎、事業のほかには、全く女などには興味を持っていないように思われていた藤三郎であったから、粂の仙人が下界へ落ちてでも来たかのように、陰での噂は高かった。 ※畠山一清氏が「熱と誠」42頁で、藤三郎が氷砂糖発明にいたる過程を歌舞伎にしたものが演じられて、これに感動したおしげさんが鈴木藤三郎に惚れた旨を語っている。「氏は遠州の砂糖屋さんだった。非常に研究熱心な人で、亡くなられるまでにとった特許の数は、160件にも及んでいる。とくに氏は氷砂糖の研究に熱中し、苦心惨憺したようだが、ついにその製造に成功した。これにより、間もなく日本精製糖という会社を創立し、その会社で氷砂糖の製造をやるようになった。 そして、これを機会に、明治座で宣伝芝居をやった。外題は覚えていないが、氏をモデルにしたもので、ストーリーは、つぎのようなものであった。 氏が氷砂糖の製造に熱中し、真空中に蒸発する糖汁から氷砂糖の結晶ができる状況をみるために、毎日、真空の缶の中にはいって研究を続けたところ、日がたつに従って、氏のからだに異変が起こった。熱のためにだんだん頭髪が抜け、丸坊主になってしまったのである。それでも、氏は黙々と研究を続けたーという筋書きで、その熱情と非凡な発明はたいへん観衆に感動を与えた。 余談になるが、この芝居が縁で、ご本尊の鈴木社長に、ちょっとしたロマンの花が咲いた話をつけ加えておこう。 そのころ、芝居見物というのは、引手茶屋からくりこんだものだった。いまと違って、椅子席ではなく、桟敷、マス席になっていたものだ。もちろん土足は禁物。席にすわれば、赤い毛布に座ぶとんがおいてあり、たいへん風情があった。 また出前方の男衆や給仕の女性もおり、料理や酒は茶屋から運んでくれる。ともあれ、昔は芝居小屋全体が、風流な場所だったのである。 肝心の芝居のほうは人気上々。とくに、丸坊主になるシーンにくると、場内は水を打ったように静まる。連日、大入りの盛況ぶりであった。 らくが近くなったある日、ご本尊の鈴木社長が社員をつれて総見することになった。鈴木さんを迎える茶屋では、いま評判の芝居のモデルがくるというので、どんな偉い人だろうと、女将のおしげさんはじめ店の者はたいへんな張切りようであった。 いよいよ鈴木さんが乗り込んできた。まるで、有名な俳優を迎えるような大さわぎである。店の前は、一目、本物を見ようと芸者衆でテンヤワンヤ。茶屋の男衆は整理に大わらわだ。一方、鈴木さんのところの挨拶に出た女将のおしげさんは、一目見るなり、ボーッとなってしまった。芝居とちがって、ハゲ頭どころか、フサフサとした黒髪の聞きしにまさる男ぶり。風采といい、態度、物ごし、すべてが彼女の胸をこがしてしまったのだ。 すっかり感じ入ったおしげさんは、下にもおかぬ、行き届いたもてなしの限りを尽くした。据膳食わぬは男の恥とか。やがて、おしげさんの茶屋は売り払われ、日本橋の中洲に見越しの松の門構え、堂々たる別邸に、おしげさんが住むようになった。 以来、鈴木社長は、毎朝7時の出勤まえに、その別邸をたずねることに相成る。肥馬にムチ打って、未明の5時に出かけ、お茶の1杯ものんで、定刻の7時5分くらい前には必ず会社の門にはいる。私が小名木川の土手を歩いていると、よく朝がけの鈴木社長に出会ったものである。おしげさんは相当の女傑だったらしく、自分のカネを鈴木社長の事業につぎこんでいたらしい。社長と口喧嘩をした際に、『世の中に身許金を積んでお妾になるものがありますか』などといっていた。」 藤三郎が、なぜこうしたことになったのか?という心持や理由も、想像できないことはない。多年心身を傾倒して努力してきた事業が、ある程度まで成功したので、心にゆるみができたということも事実であろう。また、事業が手広くなるにつれて、外部との交渉も繁くなって、そうした必要が起ったということも、単なる口実以上の理由であったかもしれない。
2025.10.09
「また勧誘か」と思ったら…ノーベル賞北川進さん、吉報の瞬間明かす10/8(水)微細な穴に二酸化炭素(CO2)などを自在に分離・貯蔵できる「金属有機構造体」(MOF)を開発した京都大高等研究院特別教授の北川進さん(74)が8日、2025年のノーベル化学賞に選ばれた。北川さんは記者会見で「(受賞によって)一般の方に研究が認知されたことが非常にうれしい」と語り「新しいことにチャレンジすることは科学者の醍醐味(だいごみ)」と喜びをかみしめた。午後8時に京都大(京都市)で会見した北川さんは拍手で出迎えられると、開口一番「一緒に進めてきた同僚、学生の皆さん、海外を含めた研究者の皆さんに感謝申し上げたい。支えてくれた家族にも感謝している」と謝辞を述べた。 大学で仕事を片付けていた午後5時半に吉報を受けた。「最近、勧誘の電話がよくかかってくる。またかと思ったら(スウェーデン王立科学)アカデミーの選考委員長を名乗ったのでびっくりした」「非常にうれしいのですが、(歴代受賞者の)皆さんがどう応えていたのかなという思いがよぎった」などと関西弁で語り笑いを誘った。その上で「感謝の気持ちと、報われたんだな」とほっとした様子で話した。 米豪の研究者との共同受賞に「3人のチームワークで認められた。友達として非常にうれしく思う」とたたえ「ケミストリー(化学)はチームプレーが重要。それがうまく機能した時に、大きな成果が生まれる」と話した。 エネルギー問題や環境保全にも期待が集まり、社会への応用が進められている。「世界で多くのスタートアップもでき、利用が増えていくと思う。絶対無理だと思うことにチャレンジし、実現していきたい」と、一日も早い社会実装に向けて力を込めた。☆「勧誘の変な電話がかかってくるので『またか』と不機嫌にとったら、選考委員会の委員長でびっくりした。(電話に出た直後は)『本当かな? フェイクじゃないのかな?』と思いました。ちゃんと委員長らからお祝いの言葉をもらったので、これは本当だなとリラックスできた」 成功の秘訣(ひけつ)について尋ねられると「興味を持って、挑戦する姿勢。指導者にはそういう姿勢、ビジョンが必要」と述べた。 子どもたちへのメッセージとして、海外の細菌学者の言葉を引用して「幸運は準備された心に宿る」を挙げた。
2025.10.08
北川氏にノーベル化学賞 多孔性材料を開発 化学賞、6年ぶり10/8(水)スウェーデン王立科学アカデミーは8日、2025年のノーベル化学賞を極小の穴が無数に開いた「多孔性配位高分子(PCP)」を開発した北川進・京都大特別教授(74)らに授与すると発表した。 日本人のノーベル賞は6日、生理学・医学賞受賞が決まった坂口志文・大阪大特任教授(74)に続き、米国籍取得者を含め30人目。化学賞は19年、吉野彰・旭化成名誉フェロー(77)が受賞しており6年ぶり9人目となる。 授賞式は12月10日、ストックホルムで開かれる。賞金1100万スウェーデンクローナ(約1億7600万円)が、3等分で贈られる。 💛「今年のノーベル化学賞北川進さんだって!!」「誰?北川さんって?」「知らない」「さも知ってるかのように言うから…」「日本人だもの・・・それに 進 も・・・」北川進日本の無機化学者博士京都大学物質-細胞統合システム拠点長特別教授有機物と金属を組合せた多孔性材料である配位高分子を研究京都市下京区出身
2025.10.08
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 最高の幸福 その8 これを次韻(じいん)されたのが道元禅師である。次韻というのは他人の詩の韻をふんで、べつに詩を作ることである。「師曰く大仏その韻を拝読せん――」大仏というのは禅師ご自身のことである。永平寺のことをむかしは傘松峰大仏寺といったものである。それが吉祥山永平寺と変わった。それはずっと後のことである。禅師のおられた時は大仏寺といったから、道元禅師のことを大仏といったのである。そこで大仏その韻を拝読せん、――この大仏がこれに次韻し、和韻をしてみようとおっしゃって「大吉歳朝喜んで坐禅す」といわれたのである。 これがまた大事なことです。自己の生活を冒涜しないことである。永遠の生命によみがえったことである。 さて今そのよみがえる法はどうするか、それには坐禅をするしかない。「大吉歳朝喜んで坐禅す」で、こいつを悲しんで坐禅したのでは何にもならん。これを「大吉歳朝坐禅を喜ぶ」と読んでもよい。坐禅をすることを喜ばなくてはいかん。つまり生命のふき返しを喜ぶ、本当の自己になることを喜ぶのである。 「時に応じて祐(ゆう)を納(い)れ自(おのずか)ら天然」――祐というのは幸福ということです。いかなる場合も、時に応じて幸福を受ける、というのが宗教的鍛錬です。小言をいうやつはどんな時でも小言をいう。年百年中ブツブツ小言をいっている者がある。われわれは時に応じて祐を納れ、永遠にこの幸福というものを取り失わない人間にならねばならん。そうすればどこにでも、天真爛漫のじつに朗(ほが)らかな世界が待っているわけです。 「心心慶快(けいかい)して春面(しゅんめん)を笑ましめ」――やれ嬉しいことだ、やれめでたいことだ、よう人間に生まれてよかった、これで一生人間に生まれた甲斐があったぞ。これが人間に生まれず馬に生まれたらどうか、牛に生まれておったらどうか、ロースが良いとか、悪いとかいって食われてしまう。動物並みでなかった、神さん並、仏さん並に一生を終わった、ここが「心心慶快して春面を笑ましめ」……おめでとうということである。 「仏仏(ぶつぶつ)手をひいて眼前(げんぜん)に入る」――四方八方から仏さんがこっちへこい、こっちへこいということになる。これが越前であるからやはり、今度も雪がでてくる。「瑞(ずい)を呈し山を覆う盈尺(えいせき)の雪」――山一杯の雪が降った、いわゆる瑞気がみちた、幅の知れん雪が満ちた、天地一杯に雪が満ちたわけである。 「人を釣り己を釣り魚を釣る船」――このめでたさによって、己を渡し人を渡して天地一杯がめでたい。このめでたいということは自分一人良いことをして自分一人内緒で盗み食いするような、虫のよいことではない。久遠にめでたい、絶対にめでたい、それがさとりというものである。(『禅談』p24-25)
2025.10.08
遠州アカデミーでは 以下の要領で、「第12回報徳講座」を開催いたします。是非 この機会にご参加願います。〇日時 11月9日(日) 10時~12時〇場所 袋井市袋井北コミセンホール〇講演内容 ①報徳で現代を考える 大日本報徳社社長 鷲山恭彦様 ②堀越報徳社の歩みと課題 堀越報徳社理事長 山本克宏様 ③報徳と我が企業活動 (株)オフィスホリウチ代表取締役 堀内善弘様〇会費 無料〇申込 10月22日(水)より 当メール返信にて
2025.10.08
「願の話」沢木興道 大智禅師の『発願文』には「願わくば我れ此の父母所生の身を以て三宝の願海に回向し、一動一静法式に違せず、今身より仏心に至るまで、其の中間に於て生生処処広く衆生を度して疲厭を生ぜず、或は剣樹刀山の上、或は钁湯炉炭の中、唯だ是れ正法眼蔵を以て重坦となして随処に主宰とならん。三宝証明仏祖護念」とある。どうぞ一生の間にこの本当の自分を奪い返そう。悪魔から魅せられ、誤魔化されされている自己を奪い返して仏と共通した自己をにぎろう。これこそ私事ではいかん、公明正大に実行するために三宝証明、仏祖護念という願もでてくるのである。「願」こそわれわれの行にはどうでもこうでも、なければならぬ大灯明である。☆大智(だいち)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧。肥後国の出身。大智祖継(だいちそけい)とも。一般には大智禅師と呼ばれる。肥後国宇土郡長崎(現・熊本県宇城市不知火町)生まれ。幼名は萬仲。7歳の時大慈寺の寒巌義尹に師事し、義尹の没後は鎌倉建長寺・京都法観寺・加賀大乗寺などを訪れている。正和3年(1314年)、中国(元)に渡り、古林清茂、雲外雲岫(うんがいうんしゅう)らに学び、正中元年(1324年)に日本に帰国した後は、瑩山紹瑾の指示により明峰素哲のもとで参禅した。その後加賀国に祇陀寺を開創し、さらに肥後国に聖護寺を開創、また肥後菊池氏の帰依を受けて廣福寺を創建し、菊地氏一族に大きな精神的影響を与えた。正平8年/文和2年(1353年)には有馬澄世の招きにより肥前国加津佐(現長崎県南島原市加津佐町)に赴き、水月山円通寺を創建。正平21年/貞治5年12月10日(1367年1月10日)、同地で没した。大智という法名に関して、以下のような伝説が伝わっている。 齢七つの萬仲は、肥後大慈寺の寒巌義尹に弟子に入ることとなった。相見の時に寒巌が年齢を問うた「名前はなんと申す」「萬仲と申します」「幾つになる」「齢七つになります」そこで寒巌は手元の饅頭を勧めた。饅頭を食す姿を見て寒巌は問うた。「萬仲が饅頭を食べるとは、いかなる心地か」すると萬仲は澄まして答える。「大蛇が小蛇を食らうようなものです」その答えに甚く感心した寒巌は、川(大慈寺の傍を流れる緑川)を指差して言った。「この川は川舟の往来が激しく騒がしい、この場で舟の往来をとめて見せよ」萬仲座を立ち川を望む側の障子を閉て座に戻ると言った。「これで舟はとまりました」「ならば、その場を動かずにとめて見せよ」萬仲は黙って目を閉じた。七歳の智慧に甚く感心した寒巌は「なかなか知恵の回る小僧だ、出家したら小智と名乗るがよかろう」「いやでございます」「何故じゃ」「小智は菩提の障りとなります」寒巌は笑い、大智と名付けたという。
2025.10.08
「ヤンキース打線もお手上げだ」22歳ブルージェイズ新人右腕の衝撃PSデビューに米メディアも驚愕「打者にとってまさに悪夢」10/6(月)MLBア・リーグ地区シリーズ第2戦、トロント・ブルージェイズ対ニューヨーク・ヤンキースが現地時間10月5日に行なわれた。この試合でブルージェイズは22歳のトレイ・イェサベージが先発。ヤンキース打線を6回途中までノーヒットに抑えるという快投を繰り広げ、チームの連勝に貢献した。 2年連続ワールドシリーズ出場を目指すスター軍団を若き右腕が手玉に取った。レギュラーシーズン最終盤にメジャーデビューを果たしたイェサベージは、ヤンキース戦初登板となったこの日、打者18人に対し、6者連続を含む11個の三振を奪うという圧巻のピッチングを披露。長身から放たれる落差のあるスプリットが決め球となり、強打者たちのバットは面白いように空を切った。 打線も序盤から大量点を挙げ、一方的な試合展開となったことでイェサベージは5回1/3を投げ、ヒットを許さないまま、大観衆に見送られお役御免に。これ以上ない程のインパクトを残し、“この先”に備えるための交替が告げられマウンドを降りた。 初戦に続きこの試合も13対7でブルージェイズがヤンキースから勝利を挙げ、リーグ優勝決定シリーズ進出に王手をかけている。予想外のゲーム展開により、現地メディアでは当然、イェサベージのパフォ―マンスが大きな話題に。米紙『USA TODAY』は試合途中にもかかわらず、公式サイト上において、「トレイ・イェサベージとは何者なのか?」と銘打ったトピックを配信した。 アーロン・ジャッジ、ジャンカルロ・スタントン、コディ・ベリンジャーら、上位打線のバッターを次々と三振に斬って取り、強力打線を封じ込めた投球内容に同メディアは、「彼の代名詞であるスプリッターには、ヤンキース打線もお手上げだった」と評している。 さらに、150キロを上回る速球やスライダーが武器となり、独特のリリース角度も大きな特徴であるとして、今回のピッチングを振り返りながら、「打者にとってはまさに悪夢だ」などとその球威を強調。加えて、「イェサベージという名前を、これから誰もが知ることになるだろう」とさらなる活躍に太鼓判を押している。 この日がメジャーキャリア4試合目の登板となったイェサベージ。プレーオフでベールを脱いだ驚愕のポテンシャル💛ドジャースとトロント・ブルージェイズが順調に勝ち上がれば、決勝でみれるかも(^^)
2025.10.08
『ばけばけ』フミ(池脇千鶴)は何で「怪談」に詳しいのか?2025年後期のNHK連続テレビ小説『ばけばけ』は1890年に来日し、『怪談』『知られぬ日本の面影』などの名作文学を残した小泉八雲さん(パトリック・ラフカディオ・ハーン)と、彼を支え、再話文学のもととなる数々の怪談を語った妻の小泉セツさんの生涯をモデルにした物語です。モデルのセツさんと同じく、主人公「松野トキ(演:高石あかり/幼少期:福地美晴)」は怪談が大好きな少女として描かれています。その彼女が怪談を語って貰う相手は、主に母の「フミ(演:池脇千鶴)」です。父「司之介(演:岡部たかし)」がウサギの商売に失敗して巨額の借金を作り、学校に通えなくなったときも、悲しみのなかでトキはフミに怪談をねだっていました。 それにしても、なぜフミはあそこまで怪談に詳しいのでしょうか。劇中では特に語られていませんが、『ばけばけ』公式サイトを見てみると、フミは「出雲大社の上官の家で育ち、出雲の神々の物語や生霊・死霊の話、目に見えないモノの話に詳しく、トキにもよくお話を聞かせてあげる」と説明されています。 出雲大社といえば、6話で婿を探すトキが「どうかよき縁談を」と祈っていた「出雲の大社(おおやしろ)様」のことで、こちらは日本神話に登場する神々(国津神)のなかでも主宰神と呼ばれる「大国主(オオクニヌシ)」が祀られている、日本最古の神社のひとつです。 そこの高官の娘であれば、フミが不思議なものにまつわる話に詳しいのも納得がいきます。また、セツさんの母も、実際そのような人物だったそうです。 トキのモデルの小泉セツさんは、1868年2月4日に生まれ、生後7日で小泉家の親戚で子供のいなかった稲垣家に養子に出されました(1890年、小泉家に復籍)。その彼女を大事に育てたのが、養父の金十郎さん、養祖父の万右衛門さん、そして養母のトミさんです。トミさんは1843年生まれで、『ばけばけ』7話の1886年時点では43歳になっています。 トミさんは松江藩の北堀町に住む原忠兵衛さんという武士の家に生まれ、幼い頃に現在の出雲市の一部にあたる杵築町の高浜家の養女となりました。高浜家は出雲大社の社家(世襲の神職の家柄)で、トミさんもさまざまな神話や怪談を聞いて育ったそうです。 トミさんがセツさんに話した物語は、出雲の神話や人びとの生活に根差した生霊、死霊の話、祈祷や神楽にまつわる話など多岐にわたり、すっかり物語好きになったセツさんは、トミさん以外にも周囲のさまざまな大人に話をねだるようになったといいます。彼女の物語好きは20歳を超えても続き、その豊富な知識がのちに夫となるラフカディオ・ハーンさん(1896年に小泉八雲に改名)の創作活動に大いに貢献しました。
2025.10.08
31「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著168~170ページ ラム酒に浮いた花 この明治33年(1900年)は、北清事変のあった年である。日本の資本主義の発達は、欧米諸国のように大発明による産業革命によったものとは違って、主として先進国の発明と新技術の輸入によっていた。そして、その指導には、民間よりも、政府の上からの力が大きく働いていた。したがって、政治的な大事件を契機として、新技術へ飛躍的に発展するのが常であった。藤三郎は、この間にあって、政商という立場でなく、あくまで工業家の立場で自分の発明を基盤として、産業革命を本格的に完成した唯一の人であったから、こうした政府の援助を仰ぐことのもっとも少ないほうであったが、それでも政治的影響を受けない訳にはいかなかった。彼が氷砂糖製造に志したのが、明治10年の西南の役の年であって、工場を郷里から東京へ移転したのが、明治22年の明治憲法発布の時であり、日本精製糖会社を創設したのが、日清戦役の終った明治28年の暮れである。このように藤三郎の事業的発展は、わが国の政治的大事件と不思議なくらいに期を一にして、台湾製糖会社の創立も北清事変と同一であったということは、いかに彼が、産業革命初期のわが国の産業界の最先端を歩んでいたかということを証するものである。藤三郎は一昨年ごろから養母のやすに、腺病質で、とかく虚弱であったみつと五郎を託して、鎌倉町材木座の海岸にあった石井という船大工の家の二階を借りて住まわせていたが、昨年、ずっと山の手の東御門という所を手に入れて、別荘を造っていた。それが、この年の春にできあがった。この東御門は、頼朝の墓と大塔宮との中間にあって、海には遠かったが、鎌倉師範の付属小学校には近くて、子供達を通学させるにはつごうがよかった。あとでは茂も、この別荘へよこされた。 ※「鎌倉別荘物語 明治・大正期のリゾート都市」島本千也著の資料1別荘所有者一覧(明治45年)には、「相州鎌倉西御門770 府下、南葛飾、砂 会社員 鈴木藤三郎」(同340ページ)とある。 この明治33年という年は、藤三郎にとっては、日の出のような勢いの年であった。しかし、こうしたときには、自分も、このくらいのことは宜かろうと心がゆるむし、外から誘惑の手も多く、人はつまづきの因をつくるものである。彼も、ここで大きな失策をした。それは彼が、妻ならぬ婦人を世話するようになったということである。この年3月、明治座の春狂言の中に一幕、ラム酒の宣伝劇を上演した。ラム酒というのは、糖液中で砂糖として結晶しないぶどう酒(蜜)から造られる酒である。それは、藤三郎が洋行みやげの一つとしてくふうしたもので、昨年、小名木川に新工場を建て、日本精製糖会社の一事業として、大規模に造って売り出したのである。この時の座組は、左団次、権十郎、寿美蔵、小団次、源之助の一座で、狂言は一番目が「忠孝義筑紫仇討(つくしのあだうち)」(筑紫市兵衛)、中幕が「和睦論難波戦記(わぼくろんなんばせんき)」で、大切り浄瑠璃が『砂糖会社の製品にラム・ホールの開業』と添書きして、「花盛隅田賑(はなざかりすみだのにぎわい)」という竹柴其水(きすい)作の常磐津ものの所作事であった。これは花の盛りの向島でラム・ホールの開店祝いという場面で、若手俳優一同が給仕女になって総踊りをするというような、ただたわいもなく花やかに賑やかなだけのものであった。 明治33年2月25日の東京朝日新聞には、この配役は、この大切り浄瑠璃の配役を社長長尾三十郎(左団次)、専任取締役鈴木藤三郎(権十郎)、取締役松永福昌(寿美蔵)と本名で出ているが、実際の番付には、さすがに幾分の変名を用いたと見えて、田村成美篇『続々歌舞伎年代記 乾』の856ページには社長浜尾勘十郎(左団次)、専任取締役津々本正三郎(権十郎)、取締役増本富久蔵(寿美蔵)となっている。ラム酒の宣伝を、常磐津浄瑠璃の所作物でやったということは、いかにも明治中期の時代色を出していて、今から考えると噴飯ものであるが、ともかく、歌舞伎座とともに東京の二大劇場と称されていた明治座で、こうした劇を上演させるということは、当時としては破天荒な宣伝法であった。ことに一代の名優として、九世市川団十郎、五世尾上菊五郎とともに明治の演劇史上に、大きく光っている四世市川左団次までが出演するという、なかなか大がかりのもので、日清戦争の大勝で気が大きくなっていたさすが東京人も、「アッ!」といった。この時の芝居は、左団次の筑紫市兵衛が、天の橋立で7人を相手に乱闘をする大立回りが大受けで、3月7日から月末まで25日間、大入りを続けたのであった。※「砂糖と醤油」村松梢風では、明治座上演にいたる過程を次のように活写している。ラム酒は、トウモロコシ、又は砂糖キビから造る酒である。別にラム酒の製造工場を新設して、製造過程も理想通りに進んで優秀なラム酒ができたので、これを市場に売り出した。 しかし、ラム酒といっても、日本人には馴染みがなかったから、相当宣伝費も使ったが、思うほど売れなかった。第一酒屋が知らない。食料品店と酒屋が力を入れてくれなくては困るのだが、従来相手にして来たのは砂糖問屋ばかりだ。これには会社も弱って、しばしば会議を開いて宣伝方法を研究したが名案もなかった。すると外交員の福川某が面白いことを考えついた。「一つ、ラム酒の芝居を作ってみたらどうでしょう」「芝居を作るって、どうするのだ」「劇場へ交渉して、作者に頼んでラム酒の広告になる芝居を書いて貰うのです。そして上演したら、会社では毎日相当の総見を送るのです」「なるほど」「東京、横浜の酒屋を全部会社で招待して、その芝居を見させるのです。むろんラム酒の芝居だけじゃなく、他に面白い芝居のある中へ一幕くらいはさんで見せるのですから、お客は喜んで来ますよ」「劇場でそれを承知するだろうかな」「それは要するに金次第で承知するでしょう」専務の藤三郎にその話をすると、「それは名案だ」といった。早速福川が呼ばれた。「ラム酒の芝居をやらせるとしたら、劇場はどこがいいか」「それは明治座がよかろうと思います。歌舞伎座や新富座はちょっと面倒ですが、明治座は左団次が自分で持っている小屋で、経営もかなり困難だそうですから、相談の持ちかけようによってらくに話がつくと思います。「じゃ、君、至急その話を進めてくれたまえ」「承知しました」 この福川も森町の出身だが、福川泉吾とは何の関係もない。藤三郎は明けても暮れても事業事業で、芝居など見に行ったことはない。この件は一切福川に任せていると、どこでどういう風に交渉したか分からないが、福川は明治座との相談をすっかりまとめてしまった。 その結果、明治座では、明治33年3月、春狂言の中に一幕、ラム酒宣伝劇を上演することになった。そのころの芝居には、座付き茶屋というものがあって、劇場の両側に、こうした茶屋の数十軒が、ずらりと美しい軒幕や造花を飾りつらねて、まことに花やかなものであった。芝居は、午前中から始められるのに、今のように、劇場内に食堂というものがなかったし、幕間もなかなか長かったから、見物は茶屋へ帰って食事をしたり、派手な女は、そこで衣装をなんべんも着替えたり、化粧を直したり、また、ひいきの役者に会ったりしたものである。明治座にも、そうした芝居茶屋が何十軒もあったが、吉よろづ、日野屋、花屋、さぬきや、さるや、はし本、中村屋、和泉屋、むさし家、山本、尾張屋などが、おもなものであった。
2025.10.08
194二宮翁夜話巻の3【4】尊徳先生はおっしゃった。「世の人は富と名誉を求めて止まる事を知らないというのが、凡俗の通病である。それだから、永く富と名誉をたもることができないのだ。止まるところとは何か。日本は日本人の止まるところである。そうであればこの国(藩)は、この国の人の止まるところ、その村はその村の人の止まるところである。1000石の村も、500石の村もまた同じ。海辺の村、山谷の村も皆同じだ。1000石の村で家が100戸あれば、1戸10石に当たる。これが天命で、まさに止まるべきところである。そうであるのに先祖のお蔭で100石200石持っているのは、有り難い事ではないか。そうであるのに止まるところを知らないで、際限なく田畑を買い集める事を願うのは、大変あさましい。たとえば山の頂上に登って、なお登ろうと欲するようなものだ。自分が絶頂に在って、なお下を見ないで、ただ上だけを見るのは、危い。絶頂にあって下を見る時は、皆眼下である。眼下の者は、憐むべく恵むべき道理がおおずからあるのだ。そのような天命の有る富者がなお自分だけ有利であることを欲するならば、下の者はどうして貪欲にならないことがあろうか。もし上下互いに利を争そうならば、奪いとらなければ満足しないことは必然である。これが禍の起るべき元因である。恐るべきことだ。また海浜に生れて山林をうらやみ、山家に住んで漁業をうらやむなど、もっとも愚かである。海には海の利がある、山には山の利がある、天命に安んじてその外を願ってはならない。二宮翁夜話巻の3【4】翁曰く、世人富貴(ふうき)を求めて止まる事を知らざるは、凡俗の通病なり、是を以て、永く富貴を持(たも)つ事を能はず。夫れ止まる処とは何ぞや。曰く、日本は日本の人の止まる処なり、然らば此の国は、此の国の人の止まる処、其の村は其の村の人の止まる処なり、されば千石の村も、五百石の村も又同じ、海辺の村山谷の村皆然り、千石の村にして家百戸あれば、一戸十石に当る、是れ天命、正に止まるべき処なり、然るを先祖の余蔭(よいん)により百石二百石持ち居るは、有難き事ならずや、然るに止まる処を知らず、際限なく田畑を買ひ集めん事を願ふは、尤も浅間(あさま)し、譬(たとえ)ば山の頂(いただき)に登りて猶登らんと欲するが如し、己絶頂に在つて、猶下を見ずして、上而已(のみ)を見るは、危し、夫れ絶頂に在つて下を見る時は、皆眼下なり、眼下の者は、憐むべく恵むべき道理自からあり、然(さ)る天命を有する富者にして、猶己を利せん事而已を欲せば、下の者如何(なん)ぞ貪らざる事を得んや、若し上下互に利を争はば、奪はざれば飽かざるに到らんこと必せり、是れ禍の起るべき元因なり、恐るべし、且つ海浜に生れて山林を羨(うらや)み、山家に住して漁業を羨む等、尤も愚なり、海には海の利あり、山には山の利あり、天命に安んじて其の外を願ふ事勿れ。
2025.10.08
「並大抵じゃない」フリーマンが9回ピンチ救った佐々木朗希を大絶賛 PSで「ものすごく大きな武器」10/7(火) ドジャースは6日(日本時間7日)、敵地でのフィリーズとの地区シリーズ第2戦に勝利し、2連勝でリーグ優勝決定シリーズ進出に王手をかけた。3点リードの9回に救援陣が打ち込まれて1点差に迫られたが、最後は佐々木朗希投手(23)が試合を締めて逃げ切った。 4―3の9回2死一、三塁で佐々木はナ・リーグ首位打者ターナーの懐へ99・3マイル(約159・8キロ)の直球を投じた。力のないゴロが二塁手・エドマンのもとへ飛ぶと、一塁手・フリーマンへ転送。送球がワンバウンドとなり、やや逸れたため、最後はフリーマンが体勢を崩しながらもミットからボールをこぼさずアウトをもぎ取り、ゲームセットを迎えた。 試合後、フリーマンは「トミー(エドマン)の投げた球を幸いにもベースにとどまって捕球できた。白髪がもみあげまで伸びてるかも。それぐらいストレスのたまるイニングだった」と9回は緊張の連続だったと苦笑いした。 それでも絶体絶命のピンチを救った佐々木については「彼が今日のようなプレッシャーの場面で登板するのは本当にすごいことだよ。得点圏に走者を背負って2死一、三塁。敵地の9回裏で、あれほど冷静でいられるのは並大抵じゃない」とねぎらいの言葉。「初球のスプリットはすごく良かったし、ゾーン付近に決まっていた。それで落ち着いているのが分かったよ」と1球目で冷静だったと見て取れたと振り返った。 そして「今はマウンド上で本当に落ち着いていて、自信に満ちている。アウトを取った後の表情を見ても、“自分はやれる”と確信しているようだった。彼はこのポストシーズン全体を通して、ものすごく大きな武器になると思う」と今後も必要不可欠な存在だと断言した。
2025.10.07
ドジャース、大ピンチで驚きの”ブルドッグ”、ロバーツ監督「一度も練習していない」…敵を欺いたベッツの行動、「絵に描いたようなプレー」10/7(火) ドジャースが即興の”ブルドッグ”を決めて、フィリーズとの地区シリーズに2連勝。リーグ優勝決定シリーズに王手をかけた。1点差に迫られ、なおも9回無死二塁。相手打者はバントの上手いストット。ここでドジャースベンチは一塁手と三塁手が猛チャージして、遊撃手が三塁をカバーする通称「ブルドッグ」を仕掛けた。 ロバーツ監督は「あれは即興的なプレーだった。ストットはバントがうまいので、ブルドッグを仕掛けようとムーキーに指示した」と振り返った。監督によれば、あのプレーは一度も練習したことがないという。「あのプレーがなければ勝機はほとんどなかった。かなり難しいプレーだったが、彼らはそれを簡単にやってみせた」と絶賛した。 フィリーズベンチは、相手がブルドックを仕掛けた場合バントする予定はなかったという。だが、ベッツが三塁に向かうタイミングを遅らせ、ストットはブルドックと判断せず、バントを選択。二塁走者のカステヤノスが足が遅いため、ベッツもタイミングを遅らせやすかった。ロバーツ監督は「特にタッチプレーでのホイールプレー(ブルドッグ)なんてめったにない。でもムーキーは相手に動きを察知されなようにした。瞬発力もあるし、カステヤノスより足が速い。ベッツは野球選手そのもの」と絶賛した。 フリーマンも「マックス(マンシー)とムーキー(ベッツ)が完璧に決めた。本当に絵に描いたようなプレー。あれは見過ごされがちだが、あのアウトが本当に大きかった。あのアウトが本当に大きかった」と語った。
2025.10.07
米メディアも『守護神朗希・爆誕』に仰天、「もし9月に『PSで守護神は佐々木だ』と言ったら、周囲から『誰だ、それは?』と言われただろう」10/7(火) ドジャースの佐々木朗希投手(23)は、敵地でフィリーズとの第2戦に9回2死一、三塁から登板。首位打者ターナーを二ゴロに抑え、2試合連続セーブを挙げた。大谷翔平選手(31)は「1番・DH」で7回に右前タイムリーを放つなど5打数1安打、1打点。試合はドジャースが逃げ切り、2勝0敗としてシリーズ勝ち抜けに王手をかけた。 米メディアにとっても『out of the bule(青天のへきれき)』だったようだ。佐々木は4―3と1点差に詰め寄られ、なお2死一、三塁と一打同点の大ピンチで登板。しかも、いきなり迎えた打者はトレー・ターナー。今季は打率・304で4年ぶり2度目の首位打者に輝き、走者を置いて打率・343。2年前のWBCも打率・391、5本塁打の猛打で日本のファンに強烈な印象を残した。 1ボールから佐々木が投じた直球は内角ストライクゾーンぎりぎりの99・3マイル(約160キロ)直球。これにターナーが詰まらされ、打球はエドマン二塁手の正面へ。一塁送球がワンバウンドになり、ドジャースファンを凍り付かせたが、ブレーブス時代の2018年にゴールドグラブ賞を獲得したフリーマン一塁手がきっちりすくい上げ、27個目のアウトが完成した。 佐々木は9月の最終週に右肩インピンジメント症候群から4カ月半ぶりで復帰。初めてリリーバーを任されて2試合に投げると、ポストシーズン(PS)のロースター入りを勝ち取った。すると今シリーズ第1戦はPS初セーブ。この日も自身初の2試合連続登板でセーブを挙げ、崩壊しているドジャース救援陣の救世主となっている。 登録者数27万人超の米ユーチューブチャンネル、ファウルテリトリーのスコット・ブラウン・ホストは「もし9月に『PSでドジャースの守護神になるのは佐々木だ』と言ったら、周囲から『誰だ、それは?そんなヤツ覚えていないぞ』と言われただろう」ゲストのケビン・ピラー外野手(前レンジャーズ)「PSでロースター入りしたのさえ、かなりビックリだった。『そのまま3Aにいるんだろうな』と思っていたら、PSで連続セーブ。こんなのはクレージーだし、信じられない」
2025.10.07
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 最高の幸福 その7「心心絶待(しんしんぜったい)仏仏現前」―心心絶待ということは、自分、自己を発揮することである。何が運が悪いと言っても、何が可哀想と言っても、何が憐れむべきものと言っても、自己を冒涜する物以上のものはあるまい。金があるから立派な人間で、金がないから立派な人間でないという理屈は無い。これを「人人(にんにん)絶待」としてもよい。よく人々は位の高い人をたくさん並べて、だれがいちばん偉いだろうなどと言うが、そんなひがんだこと言わんでも良い。私はいつも「おれだ」という。「なんだ、あんな乞食袋をさげて…」と他人は言うかもしれないが、しかしおれは他人の鼻を借りて息をしておらん、おれはおれの鼻で息をしているんだ。自己を冒涜せず、自己を極度に発揮するのが成仏と言うのだ。成仏というのは、おれがおれになると言うことである。それを反対に「あいつ成仏しよった」と言うのは泣き寝入りしたものによく言う。「あいつ、もがきやがったが、とうとう往生しやがった」という。これは弱いやつである。少しも、もがかないのが成仏である。たいていの者は、どこぞうまい餌がないかと探し歩くが、一生幸福にあわずにグルグル舞をしている。本当に自分の個々の足場をグッと踏みしめるのが幸福であり成仏である。つまり自己を発明することである。肥前佐賀の肥前論語、一名葉隠論語、鍋島論語の中に「釈迦も孔子も達磨も楠公も武田信玄も上杉謙信も鍋島の藩でないから」と書いてある。釈迦も孔子も達磨も楠公も、と、こう並べたところが痛快である。武田信玄も上杉謙信も鍋島の藩じゃない。そうすれはドイツもフランスもイギリスもアメリカも、ムッソリーニもヒットラーも問題じゃない。そんなものはどうでもよい、そしてシンミリと自己に親しみ最高最上の自己を冒涜しないで、毛唐人にかぶれないで、本当の自己を見出すということが、これが何より、われわれの幸福というものである。「心心絶待」である。そこで「仏仏現前」する。絶対自己を冒涜しない、それがそのまま仏である。その身そのまま冒涜さえしなければ、目糞がついていたらついているまま、白粉がはげたらはげたまま、巾着が空っぽになったら空っぽのままで、仏様ぞ、という。そこが「仏仏現前」である。熊本の第五高等学校長の溝口という方は、土佐の人で、故首相浜口さんと中学時代に同窓であった。ある時学生が「先生、あなたは浜口総理大臣と同窓だったそうですが」と言ったところが、溝口校長は「浜口は政治はおれよりましじゃが、教育ではおれが上じゃ」と決め込んだものである。人間にこの肚(はら)がなければ生きている甲斐がない。私は誰にも遠慮しない。たとい西郷さんと並んでも、政治家や軍人では向こうが上じゃが、坊主じゃおれが上じゃ。これでよいわけである。どっしりと、自分と言うものを強く大地に落着ける。これがすなわち仏仏現前である。その下の句に「清白十分江上の雪、謝郎満意魚を釣る船」とある。これが坐禅である。自己と宇宙とのぶっ続き。我もなく宇宙もなく、天地とわれと同根、万物と一体と言うところを「清白十分江上の雪」といったのである。 謝郎というのは、むかし、玄沙の師備(しび)という人が、三十いくつまで、おやじと二人で魚取りをしておった。ところがおやじがドボンと河へハマった。アッと思っておやじを救おうと船竿を出そうとする瞬間、「ハアー、われわれは水の中の動物をひっぱりあげて親子がこうして暮らしているが、どうせおやじも死ぬ、おれも死ぬ、おれが嫁を貰えば子ができる。そして、また子を産む。何だ馬鹿らしい。もうこんなことは二度と繰り返すのは馬鹿くさい。やれやれ南無阿弥陀仏」といって水の中にハマったおやじをそのままに、頭をクルリと剃って坊主になった変り者である。これが三番目の息子であったから謝三郎といい、謝郎といったのである。今の、その場合のことを精いっぱいというのである。それが「満意」で力のありっきりである。前の句に「江上」とあるから「魚を釣る船」として、われわれが幸福を求めることを象徴したのだ。人生我ら一切衆生が天地一杯の大きい幸福を求める船、それを「魚を釣る船」とした。そうして宏智禅師は「参」といって、よくこれを参禅工夫せよと法語を詠まれたわけである。(『禅談』p21-24)
2025.10.07
31補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その72 ※鈴木藤三郎より岡田良一郎宛の書簡(「地方史静岡」第7巻62~66頁に山本義彦教授が発見された鈴木藤三郎の書簡が掲載されている。藤三郎の心事また岡田良一郎との志の違いを知る上で貴重なものである。)拝啓 ますますご清適と大賀奉ります。先日来ご多忙中を顧みず、あえて再三東京に出られることを請求しましたのは止むを得ない事情がありましたが、あなた様が東京に出ることができないと再び申されました。最後に本月(明治32年10月)5日発のお手紙で、かねてから申し上げていた件について氷が解けるように解決するようにとご説示をいただきましたが、さる7日重役会の際に出席した諸氏に先日来あなた様へ往復した手紙及び最後の手紙まで一同に見せたところ、森氏を始め外の重役諸氏も例の件は氷解したことはもとより、お手紙のとおり相違がない旨明言しました。この上は私においてもあえて詮索する必要もないので、お手紙の余白に各重役捺印を得て、ひとまずこの事件は無事終局となりましたのでご安心ください。(略) もし私が最初に提出した案で決議していれば、8月7日総会後、ただちに進行し、地価は高値でも実際にはその実現は金に換算するときはかえって安く、さらに年賦で償却するに便利であって会社の計算上利益であった。加えて工事もすぐにできることから来期にはこの営業から得た利益等を計算する時は地価ぐらいは一期をまたずに消却することは計算上明白である。如何にせん、これを悟る者なく、かえって間違っていると認める。なんという嘆かわしいことではありませんか。また第二の地であっても前に述べたように神谷氏が決議を重んじて先方の値段が25,000円より高価であるときは、すぐに去って私に任せればその時すぐに買収することが容易であったから今日まで空しく日時を空費することもなかった。これを実行できなかったのは、これもまた第二の失策と言わなくて何と言おうか。以上のように地所問題で道理と利益を度外視するような状況となったのは、ひとえに情実にこだわり、是非を明らかに分かつことができなかったのは、会社のために痛嘆せざるを得ない。それだけでなくかえって野卑な管の穴から見るような憶測で、私が選んだ土地がいいと主張するのは私利を謀るものであるとし、また工事を急ぐのも当を得ないと非難して、公然とこのことを私に詰め寄るにあたっては言語同断、沙汰の限りと言わないわけにいかない。ここにおいてやむを得ず職責上、是非を論ずる必要に迫られて各重役にあてて私が土地を選んだ理由書並びに比較利害得失表を送って、あわせて数回書面で尊意をうかがった理由である。およそ人は自分の心で他人をなぞえる。燕雀(えんじゃく)何ぞ鴻鵠(こうこく)の心を知ろうか。それようやく利害得失を悟るときは光陰は人を待たず。いわゆる(六日の菖蒲十日の菊)そもそも私が糖業の前途は将来に多くの希望があり、国家の一大事業としよう、自他の公益を計ろうと望んだ主な次第はかって日本糖業論に愚意をあらかた記したところである。いかんせん事業は活物ではない、活物はただ人にあるだけである。この人というのは会社にあっては重役である、それはそのとおりであるが、この人が道理にかなっているかどうか明らかではない。玉石が交わり、条理が立たず。いたずらに情実にこだわり、凡情に流れ、ややもすれば事業の進行を滞らせるものであれば、どうして前述の抱負を実現することを望めようか。トウトウとした天下、この種の会社皆同じである。浮ついた薄っぺらな者たちの集合体で甲は乙を疑い、乙は丙を疑いいたずらに目の前の小利を争って識見全体に及ばないものは枚挙にいとまがない。孫子曰く、三軍の弊狐疑に生ずと。そのとおりである。己を知らず人を知らない近視眼的な俗輩と大事を共にすること私が快くしない所であって、更に理由を株主に述べて潔く退くことを決心しようとしたが、最後の尊諭によってこれまで述べてきたように全く氷解し終局を結びました。私もまたあえて憤りを遷さず事柄の理がひとたび判明するときには、既往の繰り言も詮のないものであるから、更に工事に着手して一日も早く落成を期することを任とし、ますます勇奮尽力しようと思います。幸いに尊台の心配なさらないように願います。まずは長々しく雑言はなはだ恐縮の至りです。もとより私が学問がなく、誠意を尽くすことができませんが、私のまごころのあるところを洞察くだされたくお願い申し上げます。 明治32年10月17日 鈴木藤三郎再拝 追伸昔、私が氷砂糖事業を東京に移そうと計画して先生に可否を問うたことがありました。一 先生は言われました。「お前の営業は現在1年の利益はどのくらいあるのか。」 「純益1,000円です。」と答えました。 先生は言われました。「それならお前が一生に何万円の財産を望むのか明らかに答えよ」このとき私は笑って答えませんでした。一 その後、東京に転地して3年後、先生が来訪されました。お酒を呈しました席上で先生は言われました。「先年お前が転地する際には前途を憂慮したが、今日ますます盛んであるのは幸いだ。そこでお前は何十万円の資産が欲しいのか。」(私は笑って答えませんでした。)先生はまた言われました。「しからば何百万円かのう?」一 明治28年営業を挙げて株式会社としました。先生は来臨されました。食事の際に先生はひとり言をされました。「お前のこれまでの経歴から前途を想像すれば10年後は砂糖王、その10年後には華族だのう、ワッハッハ」と。 以上は先生が以前戯れに私の希望を想像されたものですが、その推測はお考えの一端を伺うに足ります。しかし私はこれまで一度も前途の希望を答えた事がないのは他でもありません。ただ先生の私を見ることが、私の志と異なっているからです。しかし私もすでに不惑(40歳)を越えました。ですから今回ついでながら、いささか前途に期する抱負と希望をここに申し述べます。 そもそも私は明治9年2月(23歳)始めて二宮尊徳翁の報徳の大道を拝聴しました。これより熱心に先輩について道を切実に求めました。そして翌明治10年1月1日をもって紀元として家事万端、報徳の道に準じて規則を立て、自ら行いを改め、そして先師の開国法則、すなわち荒地は荒地の力をもって開くとこの教えを法則とし、私の家業に応用し、実行する事5か年。ここにおいて大いに得るところがありました。まさしくこの法は一切の事業に応用できる大道であることを信じました。これから精糖業に志を立て、研究する事、数年。ようやく透明な氷砂糖を創造して営業しました。そして明治21年東京に転じ、更に精製糖を研究してまた一個の営業となすことができました。そして去る明治28年営業を挙げて株式会社としました。最初30万円から60万円とし、また本年更に200万円となりました。将来ますます順調に進捗して数百万千万円となるべき理由があります。これはすなわち糖業は糖業の力をもって開くという大道であると信じます。ですから天を仰ぎ地を伏しても恥じない自信を持っています。私は以前数金の資本で、今日ますます増加しても、全部この事業に投資するのは当然の道であって、将来ますますこの大道に基づいて誠心誠意国家の一大事業とし、上は皇恩に報いたてまつり、あわせて先師二宮神霊の徳に報いようとするほか他にありません。これによって先生が憶測されたような何万何十万何百万というような範囲の資産を築く凡俗の社会の通常の願いとは自ら守るべき基準を異にします。願わくは私の心事をご了解されんことを。 しかし生者は必ず死に、壮者は必ず老いるのが自然の定数ですから、ここに年令において範囲がなければなりません。すなわち私は以後20年間、享年65歳まで以上の方針をもって進行し、○○事業の大成を期しこの時になって一節を結ぶ予定です。この年に成否を問わず私は実業界の終わりとします。 一 この時にどれほどの資産があったとしても多少を論じないでこれを3分し、その2分を子孫に譲りその1分を以て自分は出家し一半で一寺院を建立しなお一半は永代寺院の基本財産に備え政府に管理を頼んで、この利子で寺院の経費とし、自らここに住んで以後命のある限りは自費自弁、報徳のため放言することを世を終わるまでの希望とします。もし幸いにして資産が豊富なときは、寺院の建築は一切鉄骨とし、屋根は鋼板張りとし、門塀は石造で万世不朽のものとします。 寺号は放言寺 自ら称す放言居士謹んで白(もう)す明治32年10月17日 岡田 渋山翁 机下私の拙い絵を3枚添えて貴覧に申し上げます。御一笑くだされますように。
2025.10.07
195二宮翁夜話巻の3【4】ある人が尊徳先生に問うた。「推譲の論が、まだ了解することができません。1石の身代の者が5斗で暮らし、5斗を譲り、10石の者が5石で暮し、5石を譲るというのは、行うことが難かしいようですが、どうでしょう。」尊徳先生はおっしゃった。「譲というのは人道である。今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るという道を勤めないのは、人であって人でない、10銭取って十銭使い、20銭取て20銭遣い、宵越(よいご)しの銭を持たないというのは、鳥や獣の道であって、人道ではない。鳥や獣には今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るという道はない。人はそうではない、今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲り、その上子孫に譲り、他に譲るの道がある、雇人と成って給金を取って、その半ばを使ってその半を将来の為に譲って、あるいは田畑を買い、家を立て、蔵を立てるのは、子孫へ譲るのである。これは世間で知らず知らずのうちに人々が行っているところで、すなわち譲道である。そうであれば1石の者が5斗譲るのもできがたいことではなかろう。なぜならば自分の為の譲りであるからである。この譲りは教えがなくてもできやすい。これより上の譲りは、教えによらなければできがたい。これより上の譲りとは何か、親戚・朋友のために譲るのである、郷里のために譲るのである、なおできがたいのは、国家のために譲るのである。この譲りも結局のところ自分の富貴を維持するためであるけれども、眼の前で他に譲るために難しいのである。家産のある者は勤めて、家法を定め、推譲を行うがよい。」ある人が問うた。「譲は富者の道です。1000石の村に戸数が100戸あったとして、1戸10石です。この貧でなく富でもない家であれば、譲らなくともその分であるとし、11石であれば富者の分に入るために、10石5斗を分度と定め、5斗を譲り、20石の者は同く5石を譲り、30十石の者は10石を譲る事と定めればどうでしょうか。」尊徳先生はおっしゃった。「それでもよい。しかしながら譲りの道は人道である。人と生れた者は譲りの道がなくてはならないのは、論を待たないといっても、人により家により、老幼が多いところもあり、病人があるものもあり、厄介があるものもあるから、毎戸法を立てて、厳に行えといっても、行われるものでもなかろう。ただ富有者によく教え、有志の者で能く勧めて行わせるがよい。そしてこの道を勤める者は、富貴・栄誉はこれに帰し、この道を勤めない者は、富貴・栄誉は皆これを去る、少し行へば少し帰し、大きく行えば大きく帰す、私が言うところは必ず違わない。世の富有者によく教えたいのはこの譲道である。ひとり富者だけではなく、また金穀だけでなく、道も譲らなければならない、畔(あぜ)も譲らなければならない、言も譲らなければならない、功も譲らなければならない、二三子(弟子達よ)よく勤めなさい。二宮翁夜話巻の3【4】或(あるひと)問ふ、推譲の論、未だ了解する事能はず。一石の身代の者五斗にて暮し、五斗を譲り、十石の者五石にて暮し、五石を譲るは、行ひ難かるべし、如何(いかん)。翁曰く、夫れ譲は人道なり、今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るの道を勤めざるは、人にして人にあらず、十銭取つて十銭遣ひ、廿銭取つて廿銭遣ひ、宵越しの銭(ぜに)を持たぬと云は、鳥獣(とりけもの)の道にして、人道にあらず、鳥獣には今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るの道なし、人は然らず、今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲り、其の上子孫に譲り、他に譲るの道あり、雇人と成つて給金を取り、其も半(なかば)を遣ひ其の半を向来(かうらい)の為に譲り、或(あるひ)は田畑を買ひ、家を立て、蔵を立つるは、子孫へ譲るなり、是れ世間知らず知らず人々行ふ処、則ち譲道なり。されば、一石の者五斗譲るも出来難き事にはあらざるべし、如何(いかん)となれば我が為の譲りなればなり。此の譲は教へなくして出来安し、是より上の譲りは、教へに依らざれば出来難し。是より上の譲りとは何ぞ、親戚朋友の為に譲るなり、郷里の為に譲るなり、猶(なほ)出来難きは、国家の為に譲るなり、此の譲も到底、我が富貴(ふうき)を維持せんが為なれども、眼前他に譲るが故に難きなり、家産ある者は勤めて、家法を定めて、推譲を行ふべし。或(あるひと)問ふ、夫れ譲は富者の道なり、千石の村戸数百戸あり、一戸十石なり、是貧にあらず富にあらざるの家なれば、譲らざるも其の分なり、十一石となれば富者の分に入るが故に、十石五斗を分度と定め、五斗を譲り、廿石の者は同く五石を譲り、三十石の者は十石を譲る事と定めば如何(いかん)。翁曰く、可なり、されど譲りの道は人道なり、人と生るゝ者、譲りの道なくば有るべからざるは、論を待たずといへ共、人に寄り家に寄り、老幼多きあり、病人あるあり、厄介あるあれば、毎戸法を立て、厳に行へと云といへども、行はるゝ者にあらず、只富有者に能く教へ、有志者に能く勧めて行はしむべし、而して此の道を勤むる者は、富貴・栄誉之に帰し、此の道を勤ざる者は、富貴栄誉皆之を去る、少しく行へば少しく帰し、大いに行へば大いに帰す、予が言ふ処必ず違はじ、世の富有者に能く教へ度(た)きは此の譲道なり、独り富者のみにあらず、又金穀(きんこく)のみにあらず、道も譲らずばあるべからず、畔(あぜ)も譲らずばあるべからず、言も譲らずばあるべからず、功も譲らずばあるべからず、二三子能く勤めよ。
2025.10.07
【速報】会見中に石破総理から電話 ノーベル生理学・医学賞の大阪大・坂口志文特任教授を祝う 「なぜ制御性T細胞があると思ったのでしょうか?」と″直接質問”も10/6(月)坂口さんは午後8時から記者会見を行っており「このような名誉をいただくのは光栄で驚き」「研究は一人ではできません。学生諸君、共同研究者の方々、そのような方々に感謝しています」と話していました。そんな中、会見途中に石破茂総理大臣から選出を祝う電話がかかってきました。 石破総理は電話で「このたびはおめでとうございます。個人では日本人で29人目、世界に誇る立派な研究をありがとうございました。制御性T細胞などあるわけがないと世のなかの人は思っていたそうですが、先生はなぜそれがあるはずと思ったのでしょうか?」と、祝いの言葉とともに直接質問を投げかけました。 坂口さんは「そういう細胞はあるという現象を見つけて、たしかに本当にあるということを長年やってきました。それがだんだんはっきりしてきて、人の病気の原因にもなるし、治療にもつながるということがわかってきました。それで今回このような形でそのような成果を認めていただいたんだと思います。ある意味頑固にやってきたことが今日に繋がってきたと思います」と返しました。坂口さんは石破総理に将来像を説明します。「ウイルスとか細菌に免疫反応が起こるように、自分から出てきたがん細胞、異常な細胞に対しても免疫反応が作れる。もしそれでがんが退治できれば、理想的な治療法になり、そういう方向へ進めるべきだと私たちは考えています」石破総理が「そういう夢のような時代は、何年後くらいにくるのでしょう」と問うと、坂口さんは、「20年くらいの間に来るんじゃないかと思います。私は生きてるか分かりませんけど、サイエンスは進んでいきますので、がんは怖い病気じゃなくて治せるものだという時代に必ずなると思っております。」と話しました。石破総理は、「政府としても先生方の研究をお手伝いしたいと思っています、ぜひとも先生、あと20年元気で宜しくお願いします。」とねぎらって、電話を終えました。
2025.10.06
同じ研究室で活動の妻と二人三脚で大発見 ノーベル生理学・医学賞の坂口志文さん10/6(月)免疫学の常識を破る大発見は医師夫婦の二人三脚で生まれた。ノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文さん(74)の妻、教子(のりこ)さん(71)は約30年間にわたって同分野で活躍し、支えあってきた。今も同じ研究室で活動している。出会いは偶然だった。坂口さんは昭和52年、愛知県がんセンター研究所で免疫学の研究を始めた。夏休みに研究室の見学会が開かれたとき、名古屋市立大の医学生だった教子さんがたまたま訪れたのが縁だ。坂口さんの第一印象は「まじめそうな人」。服装や髪形も質素で、華やかな雰囲気はなかった。だが研究中に見せるギラギラした目は、明らかに他の医師と違っていた。「こんなにハングリーな人がいるのかと思った。いろんな意味で新鮮だった」と教子さん。2人の距離は近づいた。結婚後の平成2年、教子さんは新天地を求める夫とともに渡米。「新しい場所に行くことは大好き。何の抵抗もなかった」米国では実験の手ほどきを受けながら助手として一緒に研究に取り組み、未知の世界をのぞき込む楽しさに魅了された。坂口さんの受賞対象となった制御性T細胞の研究でも、多くの論文で共著者になっている。渡米当初は、免疫を抑える細胞など存在しないという考え方が学界の主流だった「逆風の時代」。研究チームもごく少数だった。坂口さんは「家内と2人でやっていたようなもの。実験動物の世話や細胞の解析など、よくやってくれました」と感謝を口にする。教子さんも「私たちは正しいことをしているんだという強い信念。この気持ちを捨てることは一度もなかった」と明かす。帰国後も研究生活をともにした。世界トップクラスの成果しか載せない英科学誌ネイチャーに掲載された15年の論文では教子さんが筆頭著者に。一流研究者の仲間入りを果たしたが、本人は「まだまだです」と控えめだ。現在は坂口さんが創設したベンチャー企業で、制御性T細胞を使った細胞療法の実用化を目指している。制御性T細胞の研究はいまや飛躍的な発展を遂げ、坂口研究室(ラボ)は計約30人の大所帯に。明るい性格の教子さんは「ラボママ」(坂口さん)として、多くの学生から慕われている。京都市内の自宅で2人暮らし。暇を見つけては鴨川のほとりを散策し、安らぎの時間を過ごす。「うれしい驚きに尽きます」 ノーベル賞受賞決定の坂口特任教授が会見で10/6(月) 会見冒頭、今の思いを聞かれた坂口さんは第一声で「今回このような形でノーベル賞いただくことになって、非常に光栄に思っています。この間、いろんな方と一緒に研究して、学生諸君また共同研究者の方、いろんな方にお世話になってまいりました。深く感謝しております」と答えました。 また、受賞決定をうけて最初に抱いた感想を問われると「私たちの研究がもう少し人に役に立つ、臨床の場で役に立つ、もう少し発展してくると、何らかのそういうご褒美があるかもしれないと思いましたが、この時点でこのような名誉をいただくのは非常に驚きでありますし光栄です」と受賞のタイミングへの驚きも見せました。
2025.10.06
ノーベル生理学・医学賞に坂口志文氏ら 京都大学名誉教授、「制御性T細胞」発見10/6(月) スウェーデンのカロリンスカ研究所は6日、2025年ノーベル生理学・医学賞を京都大名誉教授で大阪大免疫学フロンティア研究センター特任教授の坂口志文氏(74)ら3人に贈る、と発表した。 日本のノーベル賞受賞は、21年に物理学賞に選ばれた真鍋淑郎氏に続き29人目。生理学・医学賞では1987年の利根川進氏、2012年の京大教授の山中伸弥氏、15年の大村智氏、16年の大隅良典氏、18年の京大特別教授の本庶佑[ほんじょたすく]氏に続いて6人目となる。日本人初のノーベル賞受賞者湯川秀樹をはじめ京都にゆかりのある受賞者は坂口氏で16人になった。 受賞者には賞金計1100万クローナ(約1億7千万円)が贈られる。授賞式や晩さん会は、12月10日にスウェーデン・ストックホルムで行われる。 坂口氏は、免疫システムが自己の細胞を攻撃するのを防ぐ仕組みの一端を解明した。1995年に攻撃を抑える特異なリンパ球「制御性T細胞(Treg)」の目印となる分子を見つけて論文に発表。現在、Tregがうまく機能せず、自己免疫疾患などの原因となる仕組みを調べる研究が進んでいる。臓器移植をした患者の免疫抑制やがん、アレルギー治療への応用も期待され、医療現場での使いやすさを念頭にヒトiPS細胞(人工多能性幹細胞)から効率的にTregを作製する技術の開発も進んでいる。 滋賀県びわ町(現長浜市)生まれ。76年京都大医学部卒。愛知県がんセンター研究所研究生や米ジョンズ・ホプキンズ大客員研究員、米スタンフォード大客員研究員などを経て、95年から東京都老人総合研究所免疫病理部門部門長を務めた。99年京大再生医科学研究所(現医生物学研究所)教授、2007~11年同所長。11年4月に大阪大免疫学フロンティア研究センター教授に就任し、現在は同センター特任教授。 15年にガードナー国際賞、19年に文化勲章、20年にロベルト・コッホ賞。
2025.10.06
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 最高の幸福 その6 そこで何がめでたいかを工夫参究する。正月の工夫です。一番めでたいものになりたい。めでたくありたい。めでたくしたい。わたしは道元禅師の歳朝の上堂、元日の説法を紹介したいと思う。 歳朝の上堂(サイチョウのジョウドウ) 挙す宏智古仏天童に住す(コす ワンシ コブツ テンドウにジュウす) 歳朝上堂していわく 歳朝坐禅万事自然(サイチョウのザゼン バンジ ジネン) 心心絶待仏仏現前(シンシン ゼッタイ ブツブツ ゲンゼン) 清白十分江上雪(セイビャク ジュウブン コジョウのユキ 謝郎満意釣魚船(シャロウ マンイ ウオをツるフネ) 参(サン) 師曰大仏拝読其韻(シ イワく ダイブツ ソのインをハイドクせん) 良久曰(リョウキュウしてイワく) 大吉歳朝喜坐禅(ダイキチ サイチョウ ヨロコんで ザゼンす) 応時納祐自天然(トキにオウじて ユウをイれ オノズカらテンネン) 心心慶快笑春面(シンシン ケイカイして シュンメンをエましめ) 仏仏牽手入眼前(ブツブツ テをヒいて ガンゼンにイる) 呈瑞覆山盈尺雪(ズイをテイし ヤマをオオう エイセキのユキ) 釣人釣己釣魚船(ヒトをツりオノレをツり サカナをツるフネ) 宏智(ワンシ)という大徳がシナ浙江省(セッコウショウ)の大きな寺におられた。これが有名な天童山である。道元禅師もここで修行あそばされた。この宏智禅師の歳朝上堂の第一のお言葉に「歳朝の坐禅万事自然」とある。これはありがたいお言葉である。坐禅とはどんなものかというに、どんな学者も学問を捨て、金持ちは金を捨て、智慧者は智慧を捨て、弱いものは弱さを捨て、貧乏人は貧乏を捨て、一切を投げ出して坐るのです。ただ坐るのです。私がよく言う言葉であるが、自分になり切る。私が私になり切る。あなたがあなたになり切る。山が山になり切る。茶碗が茶碗になり切る。一切の物がそれ自身になり切る。それが坐禅です。 出る息がフーと出る。入る息がスーと入る。澤木がこうしてスッと坐った切りである。そうして限りない宇宙と一緒になっている。坐禅は宇宙の全景を宇宙の全景のままにしておくものである。茫々として限りないものを限りないままにして置き、手は手で足は足、鼻は鼻、頭は頭、ヘソはヘソでそのままにしておくことである。 昔ある男が、雪の朝まだ寝ていると、男衆が雨戸をガラガラとくり出して「旦那様、今日はえろう雪が降っておりますよ」「そうか、どの位か」「深さは五寸ばかりですが、幅は知れません」といったという話がある。この幅の知れんのが宇宙の不可解であり、真理である。この幅の知れないのを幅の知れないままにしておく、それになり切るのが坐禅である。 その幅がなんぼあるかと、寸にとって歩くような愚かなことはしないわけである。その知れんままにしておるのが「万事自然(ばんじじねん)」だ。富士の山を高いままに眺め、雲がかかったらかかったままに眺めて、それをどうもしない。本分に安住している。かくかくのものが、かくの如く安住している。低いところが低く、高いところが高くて万事自然である。人間の体もこの通りで首は上に位し、足は下にいる。前後別あり左右定まる。こういうのが万事自然である。各々その持ち場持ち場をまもって、素直にして少しも不平を言わず腹も立てない、調子づいてもいなければ悲観もしていない。如法(にょほう)に安住し、本分に安住しているのである。これがいつも私のいう「打ち方止め」である。(『禅談』p19-21)
2025.10.06
31「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著162~167ページ 明治33年(1900年)12月10日の午後2時から日本橋区坂本町の銀行集会所で、台湾製糖株式会社創立集会が開かれた。そして、定款の確定、創立費の承認などがあったあとで、2か月に近い炎熱下の実地踏査ですっかり日焼けした顔の藤三郎が立って、台湾の現地について詳しい調査報告をした後、将来について次のように述べた。「さて将来の見込みについて申し上げますと、当初は一日二十噸の砂糖を製造することといたしておりますので、最初はそれが何か所くらい、台南県中に設立することができるかを懸念しました。しかるに実地を検分したところでは、予想よりも非常に有望であります。東の蛮界に接する山から西の海岸まで、幅はたいてい六,七里、長さは三十余里で、その間は大抵平坦であります。地味も良好で何作に適し、県下一般に大差はありません。また気候は、十月ごろから翌年の三、四月ごろまでは降雨なく、四,五月から九月ごろまでは雨季になるとのことです。それならば、甘蔗は三月に植付けるものですから水を要する時には雨が降り、水がいらない時には晴天となり、自然の灌漑が、その宜しきを得て、蔗作にはあつらえ向きであります。但し台北は、これと反対だそうでありますが、台南では、このように地味も気候も良好であります。 それならば、本島人が耕作する方法はどうかと申しますと、実に案外に進歩しております。初めは本島人の耕作方法は不完全であろうから、内地人を連れて行かなければ十分のことはできなかろうと思ったのであります。ところが、実際の畑の作り方は、たいてい何町歩という広大な区域に作りつけ、多くは水牛を飼っておいて、その力を利用しております。先ず土で鋤でおこし、さらに器械で耕やし、すべて種子を入れるまで、みな水牛の力を用いますから、その結果は、内地人のいく倍にも当りましょう。そのうえ12,3歳の幼童も、自由に水牛を使役するには驚きました。さらに生活水準を見ますと、鳳山地方で調べたところでは、一人一日の生活費は3銭5厘から5銭で足りて、その常食は、米、甘藷、其他豚肉であります。また衣服は、腰部にわずかばかりの布片をまとうだけで、裸体に炎天にさらされていても平気であります。しかも仕事の量は、内地人の倍もして、農事の様子もなかなかに巧みであります。 このように、地味も天候も良好である上に、労役者も前に述べた通りでありますが、かく三点とも満足でありますのに、なぜに、その産出する砂糖が、今日まで発達しなかったのでしょうか?これには二大原因があります。今日の砂糖の製法は二百五十年前、鄭成功が渡台したときに、これを伝えたものであります。その時代に用いた器具や設備を詳細に写しておいた図面が、台南の某寺に保存されておりますが、これを見ると、今日の製法も、その図面に描いてあるものと少しも違っておりません。しかも西洋諸国では、日進月歩の器械を利用して製造いたしますから、精良の砂糖を産しますが、台南では二百五十年前の製法を改めないばかりか、種子も、その時代から未だ一度も改良を試みたことがないという有様ですから、その製造の品質が粗悪で、ついて今日のような衰退を招いたのは当然であります。ですから、今、新たに資本と知識とを、この地に加えたならば、今日の産額の五倍から八倍を得るのも容易であります。 台南には、甘蔗の作付け反別が年々2万5千甲あります。これは現在の畑地の五分の一、または六分の一に過ぎません。そして、三年に一度の輪作方法を採るとしても、畑地は十五、六万甲(甲は町すなわち三千坪より六十六坪少ないだけ)ありますから、その三分の一としても、五万甲は植付けることが出来ましょう。本島人が、蔗作の利益あることを知ったならば、五万甲の作付けを見ることは、むずかしいことではありません。そして現今は、一甲につき五十ピコル(一ピコルは百斤)位の砂糖を得る割合ですが、いま製法を改良して百ピコルを得るとすれば、五万甲から五百万ピコルの砂糖が取れます。 そうすると、それだけの製造をするには、当社大の会社が百社位は設立できる余裕があります。そのうえ荒れ地にも甘蔗の植付けをするようになったならば、その倍額となりましょう。ですから、一千万ピコルの砂糖は、台南一県で産出する望みがあります。仮に一社五千万円の資本として、百社五千万円の資本を投下すれば、翌年から年々五百万ピコルの砂糖ができましょう。そして、今日、内地の需要は、年々五百万ピコルですから、台南県だけで一手にこれを供給することができるはずであります。 工場の敷地については、初めに四、五ヵ所を見定め、さらに取捨して三ヵ所を選定しました。できるだけ大工場を設置するのに適当な土地を目当てとして、いま調査中であります。」(台湾製糖株式会社創立総会報告書)藤三郎の報告は、これで終った。この事実が予想以上に有望なことを知った株主達は、大きな満足を掌にこめて、盛んな拍手を送って彼の労をねぎらった。すると三島通良が、すぐ立って質問した。「当社の事業の有望なことはよく分りましたが、なお台湾の衛生状態について伺いたいと存じます?」 藤三郎は、当時の台湾が、内地人から風土の悪い、疫病の巣のように思われていることを知っていたので、声に力をこめていった。「はい、内地人が、初めて彼の地に参りましたときは、宿舎の設備もなおざりにしたために疫病にかかりましたが、宿舎を注意すれば、その憂いはありません。ですから、当社の建築につきましては、いくぶん建築費は増加しても、なるべく設備を十分にしたいと思います。なお、工場地の選定についても、大いにこの点に注意をいたしました。」三島が、すぐまた聞いた。「食物は、いかがですか?」「野菜や牛肉もあり、日本食にはさしつかえありません。」藤三郎のこの答にも、三島は、まだ安心ができないというように、「飲料水は?・・・・」「飲料水は、概して不良であります。もっともこして使いましたら、たいして困難はなかろうと思います。但し曽文渓のほうは、いくぶんか宜しいようです。」藤三郎が、こう答えたときに、磯村音介が、「議長ッ!」と、精力のピチピチと溢れているような小柄な体で、勢いよく立ち上がったと思うと、かん高い声で、こう質問した。「重役の俸給については、発起人諸君の御意見がありましょう。それを伺いたいと存じます。」議長席の益田孝が、ゆっくりと立ち上がって、静かにこういった。「左様、いくぶんの考案もない訳でもありませんから、試みに申し上げて見ましょう。社長ほか重役一同の俸給を、総額で一ヵ年に金五千円以内といたしまして、その分配法については、取締役に一任することとしては、いかがでしょうか?」「賛成!」叫ぶように磯村がいった。すると、益田は、にこやかに議場を見回して、念を押すようにいった。「なお御意見があったら承りたいと存じます。」「異議なし!」という声が、2,3人の口から上がった。益田は、物慣れた調子で、間髪を入れずに、こういった。これで、創立総会は閉会となった。 支配人の俸給が、台湾を任地とするのではあるけれども、2,400円、副支配人が1,800円であるのに、内地にいる重役の俸給は、社長以下取締役5人と監査役3人の合計8人で、一ヵ年総額5,000円以内という申し出をしたことは、いかに重役達が国策に殉ずる覚悟で、この事業に着手したかがしのばれると思う。これに引続いて行われた重役選挙の結果、益田孝、田島信夫、陳中和、武智直道の4名と藤三郎が取締役になり、監査役には長尾三十郎、岡本良恷、上田安三郎の3名が当選した。またロベルト・ウォーカー・アルウィンを相談役に推薦することが、議決された。取締役会で互選の結果、藤三郎は、日本精製糖会社専任取締役を現職のまま当社の社長となって、わが国の製糖界の王者の地位を占めることになった。わずか12年前には郷里の氷砂糖工場で職工達といっしょに印半纏を着て働いていたことを思えば、いささか感慨なきを得なかった。だが、その時代の波は、そうした感慨にふけっている暇もないほどに多忙だった。この時、藤三郎は45歳の働き盛りであった。12月28日には、午後5時から台湾総督の児玉源太郎、民政長官の後藤新平、参事官の関谷貞三郎、総督秘書官の大島富士太郎を始め重役一同を、浜町の常盤家に招待して、社長に新任したあいさつとともに、今後の援助を願ったのであった。
2025.10.06
195二宮翁夜話巻の3【2】尊徳先生はまたおっしゃった。「世の中の人は、口には、貧富とか驕倹(きょうけん)を唱えるが、何を貧といい何を富とうか、何を驕といい何を倹というか、その理をつまびらかにしない。天下もとより大も限りがなく小も限りがない。十石を貧といえば、無禄の者がある。十石を富といえば、百石のものがある。百石を貧といえば五十石の者がある。百石を富といえば千石、万石がある。千石を大と思えば世の中の人は小旗本という。万石を大と思えば世の中の人は小大名という。そうであれば、何を認めて貧富大小を論じようか。たとえば売買のようなものだ。その物と価格とをくらべてこそ、安いとか高いと論ずることができよう。物だけで高い安いを言うことはできない。価格だけではまた高い安いを論ずることはできないようなものだ。これが世に中の人が惑うところであるから、今これをつまびらかに言おう。千石の村で戸数一百、一戸十石に当る、これが自然の数である。これを貧ではなく富でもない。大でもなく小でもない、どちらにも偏らない中というべきである。この中に足らないのを貧といい、この中を越えるものを富という。この十石の家において九石で営むのを倹といい、十一石で暮すのをこれを驕奢という。だから私は常にこう言っている。中は増減の源であり、大小の名の生ずるところであると。そうであれば貧富は一村一村の石高平均度をもって定め、驕倹は一己一己の分限をもって論じるべきである。その分限によっては、朝夕豪勢な料理に飽き、錦の刺繍をほどこした服をまとっても、玉堂に起き臥ししても贅沢とはいえない。分限によっては米飯も贅沢であり、お茶もタバコも贅沢となる。みだりに驕倹を論じてはならない。二宮翁夜話巻の3【2】翁又曰く、世人口には、貧富驕倹(けうけん)を唱ふるといへども、何を貧と云ひ何を富と云ひ、何を驕と云ひ何を倹と云ふ理を詳(つまびら)かにせず。天下固(もと)より大も限りなし小も限りなし、十石を貧と云へば、無禄の者あり、十石を富といへば百石のものあり、百石を貧といへば五十石の者あり、百石を富といへば千石万石あり、千石を大と思へば世人小旗本といふ、万石を大と思へば世人小大名といふ。然らば、何を認めて貧富大小を論ぜん。譬へば売買の如し、物と価(あたひ)とを較(くら)べてこそ、下直(したね)高直(たかね)を論ずべけれ、物のみにして高下を言ふべからず、価(あたひ)のみにて又高下を論ずべからざるが如し。是れ世人の惑ふ処なれば、今是を詳かに云べし。曰く千石の村戸数一百、一戸十石に当る、是自然の数なり。是を貧にあらず富(とみ)にあらず、大にあらず小にあらず、不偏不倚(い)の中と云ふべし。此の中に足らざるを貧と云ひ、此の中を越ゆるを富と云ふ。此の十石の家九石にて経営(いとな)むを是を倹といふ、十一石にて暮すを是を驕奢(けうしや)と云ふ。故に予常に曰く、中は増減の源、大小兩名の生ずる処なりと。されば貧富は一村一村の石高平均度を以て定め、驕倹(けうけん)は一己一己の分限を以て論ずべし。其の分限に依つては、朝夕膏粱(かうりやう)に飽き錦繍(きんしう)を纏(まと)ふも、玉堂に起臥するも奢(おご)りにあらず、分限に依つては米飯も奢りなり、茶も煙草(たばこ)も奢りなり。謾(みだ)りに驕倹(けうけん)を論ずる事勿(なか)れ。
2025.10.06
ロバーツ監督「私たちはまさに歴史を目撃し続けている」大谷翔平の歴史的1勝「こんなレベルでこんなことを」10/5(日) ドジャースのデーブ・ロバーツ監督「こんなレベルでこんなことを今までやった選手はいない」6回3失点で勝利投手となった大谷翔平投手に称賛を惜しまなかった。ポストシーズンで50発を経験した打者が勝利投手になったのはベーブ・ルース以来の快挙「私たちはまさに歴史を目撃し続けている」 ポストシーズンで初めて先発マウンドに上がり、投打同時出場。二回に3失点したが、以降は配球パターンをかえてフィリーズ打線から粘り強くアウトを積み重ねた。「私は切り替えという言葉を良く使うがそれを体現している。一つの試合でまるで2人の人間がいるかのような存在。打席では苦しんでいたが、それを切り離して投手としての役割に集中し、6回を投げて試合を作ってくれた」「打席での感情をどうやってマウンドに持ち込まずにいられるのか。私には想像もできない。私たちはまさに歴史を目撃し続けている」「6回まで自信を持って任せることができた。彼はどんどん良くなっていった。何も悪い兆候は見えなかったし、もう少しイニングを投げてくれればきょうだけでなく、今後の試合にもプラスになると考えていた」ロバーツ監督 佐々木朗希のクローザー起用は「任せた方がいいと感じた」 9回1死自軍攻撃中に決断10/5(日)デーブ・ロバーツ監督(53)はクローザーとして起用した右腕に対し、信頼感を口にした。 朗希に登板を告げたのは攻撃中の9回1死。9回が始まるまでは準備をしていなかった佐々木は慌ただしく準備を始めた。「あの場面の打順の流れを考えて、アレックス(ベシア)をもう1イニング行かせるより、朗希に任せた方がいいと感じた」 佐々木は自らの武器を最大限に生かして、強力打線に立ち向かった。先頭のリアルミュートを直球で追い込むと、高めからのスプリットで見逃し三振。次打者・ケプラーに右翼線二塁打を許した。8番・カステラノスをこの日最速の100.8マイル(約162.3キロ)直球で二ゴロ。最後はストットを100.0マイル(約160.9キロ)直球で三邪飛に仕留めて、試合を締めくくった。 投じた11球のうち、7球が直球で4球がスプリット。直球は7球中6球が160キロを超えた。相手を力でねじ伏せ、登板後はナインと勝利のタッチ。「前回より思ったようにいかなかったですけど、なんとかゾーンで強い球を投げて、結果的に押し込めたかなと思います」 DS前日の会見で佐々木「4点差でしたけど、9回に投げることができて、自分としても良かったと思いますし、自信にもなった。また次のシリーズで生きるのかなと思います」ロバーツ監督もクローザー起用の可能性について「もちろん使う」「どんな場面でも自信を持って送り出せる」〇ロバーツ監督はリリーフが本職のベシアを続投させ、トライネンを後ろに控えさせることも選択肢の1つだったことを明かし「打者の並びを見て、ベシアよりロウキの方がいいと思った」と佐々木の投入を決断した。 ただ、佐々木に登板を告げたのは、9回表の1死後だった。ロバーツ監督は「少し時間を稼いでほしい」と大谷に指示。2死から打席に立った大谷は、初球にセーフティーバントの構えで“時間稼ぎ”し、5球投げさせた上に四球を選び、佐々木に肩をつくる時間を与えた。 佐々木は「ちょっとビックリはしたんですけど。ただ、ランナーが1人出て、時間はあったので、自分のペースで(肩を)つくった」
2025.10.05
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)1 最高の幸福 その5 禅寺では十分この福と徳とを反省しなければならんというので、元旦にその儀式がある。まず午前三時に起きて坐禅するのがふつうである。それから祝聖(しゅくしん)といって天皇陛下の聖寿万歳を祝福する祈祷をやる。それからいろいろの行事があって三が日間の儀式がある。まず一番に修正会(しゅしょうえ)というのがある。これは国家の宝祚長久(ほうそちょうきゅう)を祝福する。奈良の大仏さんは修正会の祈祷の堂宇(どうう)である。そうして五日には事始め、説法はじめをする。また五日は達磨日だ。ことに元旦には上堂というのがあるが、これはおごそかな儀式で、この上堂の法語が古来たくさん残っている。 大智禅師の元旦の詩にこういうのがある。新年の仏法如何(いかん)と問わば(新年の仏法がいかなるものかと問えば)口を開いて他に説示することをもちいず(言葉に出して説明するまでもない)露出す東君真の面目(日の出に本来の面目があらわれ)春風吹ほころばす臘梅花(春の風が梅の花をほころばせる) この元旦の詩は非常に結構なもので、まだほかに二首『大智禅師偈頌(げじゅ)』に載っているが、この詩も動物としての人間、夢幻(ゆめまぼろし)、泡影(ほうえい)のような人間を、永遠の仏陀、久遠の我として生きさせようとするのであって、これが仏法の根本問題であり、しかもそれが一番めでたいのである。 ことに元旦われわれがもう永遠に死なない人間になるというのは、われわれの生活の大転換である。ぜひわれわれの行くべき道である。それがために元旦の上堂にも、元旦の説法にも、この仏道を本当に挙揚(こよう)し、仏道を説くということが、この上もないめでたいことである。人間はただ放っておけば一匹の動物で、色気と食気だけで、あとはゼロである。それから金が欲しい、家が欲しい、オモチャが欲しいという。このオモチャが成人するにつれて念がいる。はじめは母の乳房でよかったが、キャラメル、まり、写真機、自転車、だんだん年寄ると骨とう品を欲しがったり、掛け物を欲しがったり、それで最後はカンオケである。 食物にしても馬ならば草ばかり食っているが、人間は酒を飲み、刺身を食い、シナ料理結構、ウナギも結構、奈良漬けで茶漬け一杯も、なお結構という具合に、なかなか念が入っている。ただオモチャや食物に念が入っているだけでは、法界からよく見つめたら、ただ一匹の動物に過ぎない。科学者が言うように、生物の本能から見たら、ただ一匹の動物であって、また本能というやつが、どうせ消えてゆく夢幻のようなものである。この人間が永遠の生命、久遠の仏陀として生命を奪い返そうというのが仏教である。そこで元旦のめでたい事にちなんで、仏道というものを根本から説くというのは当たり前の話である。 長生きと言ったところで、何歳まで長生きできるものか知れたものじゃない。私は25の時、日露戦争に行って、首山堡(しゅざんぼう)で弾丸が左のほほから右のくびへ抜けて死んだようになって倒れていた。あの時死んでいたら30年も昔に満州の土になっていたわけだ。去年満州に行って首山堡に上り、自分が昔号令をかけたところを上から眺めて、あそこでやられたのだなアと思って、自分の墓参りしたような気がした。どうせあの時死んでいたところで損得なしじゃ。けれども、われわれのせんならん仕事は、動物並みの人間をこっちへこいといって、ウンと鼻面を一つ向け直し、我と彼と共に永遠に死なない人間にすることである。これがめでたいのである。元旦に人事行礼(にんじぎょうれい)といって、おめでとうと言う挨拶をする。方丈(ほうじょう)を前において香を焚いて「此の日改歳(カイサイ)の令辰(レイシン)謹んで嘉悰(カソウ)の儀を伸(ノ)ぶ、即日気運極めて寒し、恭しく惟れば(ウヤウヤしくオモンミれば)堂頭和尚尊侯起居万福(ドウチョウオショウソンコウキキョバンプク)」といってお辞儀する。「どうぞおまめさんで……」ということである。こんな肉体のごとき、体温計の上がったり下がったりする、垢(あか)のついた体を、べつに大切にというのではない。真に仏道につかえる身を大切にというのである。(『禅談』p16-19)
2025.10.05
テオ、ヘルナンデス逆点のホームラン👏大谷勝ち投手の権利👏7回表ドジャース3番 T・ヘルナンデス二死走者1,2塁 スリーランホームラン! PHI 3-5 LAD 42番 ベッツ サードポップフライ1番 大谷 見逃三振 (連続4三振)9番 スミス 死球8番 パヘス ヒット 6回裏フィリーズ5番 マーシュ 空振三振4番 ボーム ライトフライ3番 ハーパー 空振三振ドジャース 6番 K・ヘルナンデス レフトタイムリー二塁打PHI 3-2 LAD 5番 エドマン ライトへのヒット4番 フリーマン四球
2025.10.05
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