全2482件 (2482件中 1-50件目)

港区正徳町2の神明社を後に、350mほど西に向かい、正徳四・五・六丁目集会所を目指します。写真は正徳五丁目の交差点角にある集会所で、時間にして5分ほどで到着できる距離にあります。 集会所の入口には「正徳町四・五・六丁目町内会集会所」とあります。目指す正徳町5の神明社はこの集会所の左に鎮座します。赤のマーカーが鎮座地で、明治時代からほぼ現在までの地図を見てみましたが、ここに鳥居の印が記されることはありませんでした。 正徳町四・五・六丁目は、荒子川を挟んだ両岸と、東岸では正保公園あたりから百曲街道までが大まかな範囲となります。 集会所敷地の左側が神明社の社地として設けられており、右側に幟立て、左側に社標が立てられています。 正面には銀色に輝く金属製の蕃塀が建てられており、道路から境内の様子を見ることはできない。神明社の社標後方から境内に入ってみます。 社標右手の幟立てに目をやると、側面に「平成6年改修」と刻まれていました。更に背面には「昭和31年明徳温泉」の銘が刻まれていました。 二つの年代にわたる記録が残る寄進物は、あまり見かけないものかもしれない。これだけ見ても、この神明社の歴史を感じ取ることができます。 この正徳町5の神明社について調べてみました。 愛知県神社庁には登録されておらず、名古屋市史にも記載がないため、詳細はつかめませんでした。蕃塀の先の境内には、「遷宮記念」と刻まれた二本の石柱が立ち、その先には角の取れた石を高く積み上げ、その上に社殿が祀られています。 遷宮記念の石柱には「昭和50年」と「平成6年」の年が刻まれており、正徳町の変貌にともない、地内で二度遷座した可能性があります。幟立てに「平成七年修復」とあるので、この頃に現在の神社の形が整えられたのだろう。 過去の地図を見ると、このあたりに住宅が現れるようになるのは昭和に入ってから。昭和22年頃の航空写真で見ると、田畑が広がる環境の中、この一帯だけ規則正しく複数の建物が見られます。 現在の正保公園北側まで建物が続き、それより南側には、まだ田畑が広がっています。これが社宅なのか、団地なのか分かりませんが、その頃から一帯の宅地化が進んでいるようです。 住民が増えると、集会所や公民館が建てられていきます。人が寄り合う地域の施設に神社を祀る例は珍しくなく、遷座の歴史は分からないものの、周辺の宅地化が進んだ昭和期になって祀られたものではないかと推測します。本殿は神明造で6本の鰹木と内削ぎの千木が付くもので、供えられた榊も新しく、町内でお世話する仕組みがあるのだろう。 祭神は天照皇大神と思われ、正徳町四・五・六丁目に住む人々を見守っているのでしょう。境内社は見られません。神明社 (港区正徳町5)創建 / 不明祭神 / 天照皇大神氏子域 / 不明祭礼 / 不明境内社 / なし所在地 / 名古屋市港区正徳町5-100参拝日 / 2026/08/21正徳町2神明社から正徳町5神明社への徒歩アクセス / 正徳町2神明社から西に350m、徒歩5分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)
2026.09.05
コメント(0)

前回掲載した川間町龍神社から、あおなみ線を越えて高架沿いに少し北上すると港区正徳町2に鎮座する神明社を訪れた。正徳町2の神明社全景。 あおなみ線西側に位置し、龍神社から徒歩15分ほど、港北駅から直接向かっても10分ほどで辿り着ける。港区の町名の由来によれば、町名の正徳町は、昭和36年に南に隣接する正保町と東の明徳町の頭文字を取って正徳町となったという。 正保町は熱田新田が開発された年代の「正保」からきているとされます。そのため正徳町も開発時の元号から付けられたと思いがちですが、そうではないようです。大正時代の地図(左)にも当時すでに鳥居の印が描かれており、明治まで遡ってもこの辺りに鳥居らしき印が見られます。 当神社の由緒については後ほど記載するとして、愛知県神社名鑑によれば創建時期は不明で、「尾張志」にも記述が残るとしています。神明社の記録を留めた尾張志は天保14年(1843)に編纂されたとされます。 上の絵図は、更に遡った寛政年間(1789-1801)頃描かれた熱田新田村全図です。地図と同じ向きになるよう天地を反転したもので、左隅が庄内川、中央に荒子川、右が中川運河が描かれています。 荒子川左岸の四角の赤枠部分の廿一・廿二あたりに神明の文字が見えます。絵図の番割と位置にズレは否めないが、二十二番割の氏神、正徳町2の神明社を指していると見えます。中央の二つの赤丸で、上の赤丸は天年寺と神明の文字が見られ、これが恐らく中川区昭明町2の神明社ではないかと思われます。 下の赤丸の神明は、十八 九と読め、番割からすると、20番割りの氏神・正徳町1の神明社を指しているように見えます。位置はしっくりこないが、絵図が書かれた寛政年間以前に創建という可能性もある。境内全景の眺め。 南北に長い社地の南側に鳥居を構え、北側に社殿を構えており、ゆとりを感じさせる。社頭正面からの眺め。 白い神明鳥居と石灯籠を包み込む柵、神木を支える金属製の柱が印象に残る。境内中ほどの狛犬と左側の社務所、正面の社殿の眺め。 社殿左には境内社が祀られている。 くろずんだ外観の狛犬はベルトまで付けられている。 大正十三年(1924)に寄進されたものでした。先ほどの神木、灯籠、この狛犬、拝殿など、地震に対して相当意識しているのがうかがわれる。拝殿は切妻妻入りの瓦葺でモダンな拝殿額が掛けられている。 愛知県神社名鑑には正徳町2の神明社について、以下のように記載されています。『十五等級 神明社 旧村社鎮座地 名古屋市港区正徳町二丁目五三番地祭神 天照皇大神由緒この地は熱田二十二番割で神明ノ社は氏神なりと「尾張志」にみえ、村内の安全と五穀豊穣を祈り尊崇する。明治五年七月、村社に列格した。神徳 火伏せ、厄除け例祭日 十月五日(第一日曜日)社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所』本殿左の覆屋にはこの地域の火伏の神、秋葉神社を祀る。 拝殿から幣殿、鞘殿の眺め、天照大神を祀る本殿は到底垣間見ることは出来なかった。 神明社 (港区正徳町2)創建 / 尾張志に神明の名が残る祭神 / 天照皇大神氏子域 / 正徳町祭礼 / 10月第一日曜日境内社 / 秋葉神社所在地 / 名古屋市港区正徳町2参拝日 / 2026/08/21龍神社から神明社徒歩アクセス / 龍神社からあおなみ線を北上、約1km・15分。関連記事・龍神社 (港区川間町)
2026.09.04
コメント(0)

八月に入り二回目の港区徘徊。 前回はあおなみ線稲永駅周辺の神社を巡りましたが、今回は一駅手前の港北駅で降車し、駅周辺から南にかけて神社巡りをしてきました。このあたりも新田開発で生まれた土地で、開拓の歴史を感じさせる地名が残る。 龍神社が鎮座する川間町は、昭和三十六年に制定された比較的新しい町。港区の町名の由来によれば、「明徳土地区画整理事業の完成に伴い、当時、現・西名古屋港線(あおなみ線)から東海橋まで流れるオタラク川と、中部鋼板(株)の工場の南側にあった川の間にはさまれた土地であるところから名付けられた。」 上は大正時代と現在の地図に青色マーカーで龍神社の位置を示しています。地図では切れていますが、中川運河と荒子川などを結ぶ運河網の一環として計画された小碓運河や、マーカーの上方には昭和32年(1957)になると中部鋼鈑の中川工場が現れます。 物流が水運から陸運に移り変わるとともに、運河の利用価値は低下し、小碓運河も平成8年(1996)から埋め立てが始まり、平成10年(1998)には大部分が南郊公園となりました。また、公園沿いには鉄道貨物輸送の増加を見込み、名古屋貨物ターミナルと笠寺・大府方面を結ぶ南方貨物線が計画され、昭和42年(1967)に建設が始まりました。 しかし工事は途中で中断され、国鉄の財政難や鉄道貨物輸送需要の減少などから昭和58年(1983)に建設が凍結され、現在もその高架の一部が残されています。龍神社は港北駅から東に750m、10分ほど歩いた川間公園内の北西角に鎮座します。写真は、平成三年(1991)に整備された川間公園の東側から眺める龍神社の全景。玉垣で区切られた神域には鬱蒼と木々が生い茂り、杜を形作っています。玉垣の外側に幟立てと鳥居が立てられ、公園そのものが神域といってもいいのかもしれない。 この龍神社の由緒や創建時期について、愛知県神社庁の資料から調べてみましたが登録されておらず、『名古屋市史 社寺編』(1968)にも記載がなく、残念ながら詳細は全く掴めませんでした。社頭全景。 詳細が分からないとなると、寄進物から推測するしかありません。右手の幟立ての寄進年は平成八年(1996)、鳥居の寄進年は確認し忘れました。龍神社参道から社殿を望む。 切妻の拝所とその先の本殿が主なもので、狛犬の姿はみられなかった。参道左の手水鉢と、その先の常夜灯は昭和36年(1961)に寄進されたものです。拝所に掲げられている額は「龍神社」。 現在の川間町からは、ここに龍神が祀られた動機を察することはできないかもしれません。一帯は海抜も低く、立地は西に荒子川、東は中川運河、北には小碓運河、南にはオタラク川の名残もみられ、四方を川に挟まれた場所にあります。 そうした立地ゆえに、水を鎮めるために龍神が祀られたのかもしれません。龍神を祀る本殿は神明造で、5本の鰹木に内削ぎの千木が施されています。昭和36年(1961)に制定された川間町であること、そして灯籠も同年に寄進されていることから推測すると、町の誕生とともに町の安寧を願って祀られたのかもしれない。龍神社 (港区川間町)創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明祭礼 / 不明所在地 / 名古屋市港区川間町2-134参拝日 / 2026/08/21公共交通機関アクセス / あおなみ線港北駅から東に750m、川間公園内
2026.09.03
コメント(0)

木本神社から北に向かい、笛吹橋を越えると熊野古道松本峠に向かう登り口があります。大泊から熊野古道松本峠を越え、峠の西麓に位置する木本集落に辿り着く。 砂礫を敷き詰めた平坦な七里御浜が現れ、花の窟を経て熊野大神が降臨したとされる神倉山に向け延々と続いています。写真は木本集落北端に位置する松本峠登り口で、ここから先は樹々に包まれた登り坂が続きます。 進んでみたい気持ちはあったが、この日は花火鑑賞が目的。汗だくにはなりたくないうえ、入口付近には「熊注意」の貼り紙まであり、潔く諦めた。登り口から左の市街地に向かう道すがら、写真の鳥居が目に止まり立ち寄ってみた。山の西斜面に立てられた石鳥居があり、境内に続く石段脇には解説板も立てられている。境内に続く石段からの眺め。 参道脇には古い梅の樹もあり、鳥居の前の境内の奥行きに余裕はないようだ。参道の右上に長方形の石の水槽らしきものが見えています。神社解説板かと思っていたが、これは境内にある水槽石の解説だった。「熊野市指定文化財 有形民俗文化財 宝暦の水槽石(四基) 新田天神社新田天神社手洗水船として使用されている水槽石は、もともと西川町の元八百屋の隣に据えられており、住民の飲料水を確保する水槽であった。 作成 寛政十一年(1799)正月、石工 玉助 長さ 3.39m、幅1.22m、高さ1.13m木本浦は海辺にあることから、地中が砂礫層に覆われ井戸を掘ることが困難で、人々は谷川まで水を汲みに往復しなければならず、水の便が悪い土地であった。 正徳二年(1712)、濱地太右衛門は、永年の水不足に耐えかね、切立奥の谷郷の水源地から木本浦に水を引く工事を起こした。松の木を縦に割り、中をくりぬき、再び合わせ、地中に埋めて水を引き、木製の水槽に水を溜め、飲料水の確保に努めた。 宝暦年間(1751〜1764)に、この地方では、最も堅牢な岩質(花岡斑岩)として知られる曽根石の大きな一枚岩をくりぬいた水槽を全四基が作られた。その後も水槽石は場所を変えながらも現に残り、活用されている。 昔の水の不便な生活の苦労を偲ぶ貴重な民俗資料である。他の三基は次の通り。1.木本神社 宝暦七年作2.新出町稲荷神社 宝暦9年作3.天理教紀大教会 宝暦9年作」熊野市史には「天保の旱魃の際は水一荷(60liter)を200文で販売した記録」も残るという。 江戸時代の物価で考えると蕎麦が約20文、酒だと一合4文に相当したとされる。今時、水1literはコンビニで160円とすると、1万近い金額になる。 温暖化で水源に雪は積もらず、各地の水がめが底をつき、取水制限が行われ、作物に与える水に苦慮する報道が流れる。都市では局地的な豪雨が発生しても、その多くは十分に活用されることなく海へ流れていく。 そう考えると、これからは都市部での雨水貯留についても考える必要がありそうだ。捻れば出てくる水も大切な資源と捉え、一人一人が節水を心がける時代が訪れている。これが水槽石。 小さな子供なら水遊びが出来るほどの大きさで、側面には二箇所穴があけられています。もともと八百屋の横にあったとか、この時期ならスイカも冷やされていたのかもしれない。 側面に開けられた穴は、水槽からあふれる前に別の水槽や水路へ水を分けるためのものだろうか。水事情の悪いこの地だけに、一滴たりとも無駄にはしなかっただろう。 側面には寛政十一年、石工 玉助の銘も読み取れ、江戸時代中期には既に簡易水道のような仕組みが整えられていたことになる。木本神社の長い手水鉢も、そうした目的から作られた水槽石で市内に置かれていたのだろう。 水事情が改善され、本来の目的を終えた水槽石も、神社の手水鉢として新たな役割を担っている。用が無くなれば捨てる現代において、先人達の思いを今に伝えている。 これは江戸時代の人々が築いた、町の小さなダムだったのかもしれない。松葉山天満宮 社頭全景。 Gマップでは松葉山天満宮として表示されるが、上の解説板に「新田天神社」と書かれている。当ブログでは松葉山天満宮と表記します。 因みに熊野市史には天神社として表記されていました。資料によって名称に違いはあるものの、いずれも同じ天満宮を指しているようである。鳥居の先には撫で牛が安置されており、天満宮らしさが漂う。 本題のこの松葉山天満宮、三重県神社庁には登録されておらず、創建等の詳細は記されていなかった。熊野市史に目を通すと、水槽石の記述と天神社として以下の記述を見付けた。「言い伝えによると、昔当地に狸が住んでいて、よく漁師について困るからそのために天満宮を祀ったといわれている。 御神体は天神木像を納めている。7月24日が祭日で西川地区が中心となって祭りを行う。」別の資料では、「御神体は熊野市指定文化財の天神画像で、大和絵の傾向をふまえ、鎌倉時代に流行った「似せ絵」の画風を偲ばせるもので、昔、京都より来住していた水谷善吉の蔵品だったが、宝暦年間(1751~1764)西川久兵衛がこれを譲り受け、私山山の松葉山に祭祀し木本天神社のご神体として伝えられてきた。」とあった。創建時期は宝暦年間、菅原道真をお祀りするもので、Gマップの松葉山天満宮、解説の新田天神社、どちらも正しいようである。社殿全景、社殿は随分傷みが目立つ状態だった。 松本峠の麓にあたるこの場所では、漁師について困るという伝承からも、昔から狸が身近な存在だったのだろう。実際に狸による何らかの被害があり、それを鎮めるため神が必要だったのだろう。 菅原道真を祀る天満宮には、雷神・天候の神、さらには災厄を鎮める神としての性格もあるが、狸との直接的な関係は見当たらない。 しかしなぜ狸除けに天神様だったのか、その理由は今となっては分からない。境内から鳥居と木本集落の眺め。小高い高台に築かれた石積みも当時からのものだろうか。松葉山天満宮創建 / 宝暦年間(1751〜1764)祭神 / 菅原道真例祭日 / 7月24日所在地 / 三重県熊野市木本町1584参拝日 / 2026/8/17関連記事・ 2026熊野大花火・ 木本神社過去記事・「神倉神社」熊野権現降臨地ゴトビキ岩は神秘的・「花の窟(はなのいわや)神社」三重県熊野市
2026.08.30
コメント(0)

熊野大花火で訪れた熊野市木本町、打上げまでには時間もあり、熊野市木本町地内を少し歩いてみました。上は打ち上げ会場の七里御浜から鬼ヶ城の眺め。 七里御浜から山側に入った木本町は、熊野灘に面した熊野市の中心市街地。現在は静かな町並みですが、かつては熊野地方の政治や経済の中心として栄えた町です。 江戸時代、この地には紀州徳川家の本藩公領地として「奥熊野代官所」が置かれ、熊野川以東から現在の紀北町に至る広い地域を管轄していました。そんな木本町の一角に鎮座するのが、今回訪れた木本神社です。木本神社は、もともと木本町字新田に鎮座していた「若一王子権現」と称する神社がその始まりと伝えられています。 「若一王子」は天照皇大神を意味するとされ、現在の祭神にも天照皇大神が祀られています。創始の年代は詳らかではありませんが、慶長13年(1608)12月に新田地区から現在地へ遷座したことを記す棟札が現存しており、この頃にはすでに祭礼も行われていたとされています。その後、明治41年(1908)には、境内社の若宮神社二座、大国神社、恵比須神社をはじめ、新田町の稲荷神社、字切立の新田神社を合祀。 昭和26年(1951)には木本御靈神社が創設され、稲荷神社と菅原神社(旧・新田神社)は飛地境内社として、それぞれ旧鎮座地に分祀されています。現在の木本神社は、長い年月の中で周辺の神社を合わせながら、木本の町の鎮守として現在に至っているようです。社頭の「吉田大明神石祠」、熊野市指定文化財。 「安政2年3月、木本側の27か村(紀州藩領)と、有田側の5か村(新宮藩領)の「領地の入れ替え」が発表された。すると木本など27か村は、200年も仕えてきた紀州藩主から離れることを喜ばず、さらに新しい領主のもとで重い年貢を課されると予想して強く反対し、一揆のような状態になった。これが「安政の村替騒動」である。 このとき、江戸勤めの勘定組頭・吉田庄太夫が命を受けて木本へ来て説得にあたった。しかし村人の意思が固いことを悟り、ついには庄太夫が独断で「村替は据え置く」とする誓紙を渡し、江戸へ戻って村替を中止させた。 こうして三年に及んだ騒動は民衆の勝利となったが、庄太夫は独断の責任を負い、自ら命を絶ったと伝えられる。その後、熊野27か村では吉田大明神の祠を建て、村を鎮める神として祀った。 ここにある祠はその一つである。」 昨今の政治を見ていると、民意とは程遠いところで物事が決められているように思う。 海外旅行やリホームに勤しむ者ばかり、民を向いて舵取りはされていないな。今の世にも庄太夫のように、民の側に立って決断する政治家がいてほしいものだ。熊野市指定文化財 彫刻 木本神社の木造狛犬「狛犬は神社や寺の社やお堂の内や外などに守護と装飾をかねておかれる一対の獅子形をした像である。 素材は石や木が普通であるが、熊野市内では石造が多く、木造の狛犬は少ない。狛犬の起源は、インドの仏寺や中国の宮門、陵墓の前などに獅子に似た動物像を並べたのが始まりとされる。 日本でもこの風習をまねて平安時代からおかれている。木本神社の狛犬の伝来は明らかでないが、鎌倉時代作のものとされる木造狛犬の高さは四十センチで、材質はスギと思われ、一つの材から制作した一木造である。」熊野市指定文化財 木本神社の棟札。「木本神社の棟札は106枚あり、一番古い物は慶長13年(1608)のもので、時の奉行中次兵衛・辻久右衛門・与三右衛門・濱地茂兵衛・口地七太夫・宮地太郎兵衛の名が列せられている。裏側には経費(米)の43石5斗5升を出し合った216名の名が記されており、木本の殆どの人が出し合ったとされる。他にも時の代官野村平之丞の一石、大阪・松阪など他地方からも寄進されている。」鳥居から先の境内の眺め。 右手に御神輿庫、左手の社務所、正面の社殿が主なもの。木本神社を語るうえで外せないのが、例大祭で行われる勇壮な神輿渡御です。 その祭礼は熊野神が神倉山に降臨したことを起源とするとされ、かつての祭日は9月9日。祭典を終えると御神体を神輿へ移し、本殿前の白州に安置した後、町へと繰り出します。 行列の先頭に「稲荷山車」、その後に「御神輿」「六法」「よいや」「子供みこし」「元宮太鼓」が続きます。なかでも「六法行列」は、紀州藩の直轄地となった木本の住民が、そのことを喜んで大名行列を模したものと伝えられ、勇壮な行列として知られています。 そして祭りの主役ともいえるのが神輿で、総重量は約1トン。お旅所の稲荷神社を出発すると神輿を台車から外し、町内を練り歩きます。 住民から振る舞われる酒が神輿にかけられることから、いつしか「暴れ神輿」と呼ばれるようになったという。神輿は七里御浜に向かい荒波に浸けて清める「浜担ぎ」が行われ、その後、神輿は再び町内を巡り、深夜になって木本神社へ戻り、渡御を終えます。 熊野の祭りというと、山深い熊野古道や神倉神社のような山の信仰を思い浮かべますが、海辺の町、木本ならではの祭礼です。境内右の大きな手水鉢。 赤く染まっているのは清水に含まれる鉄分が多いのか。鉢の側面には宝暦七年(1757)の銘が刻まれていました。拝殿正面の眺め。 切妻平入の拝殿に切妻向拝が付くもので、左右の開けられた格子戸の先には、本殿域に祀られた境内社の拝所があり、右側には吉田庄太夫の碑が祀られている。三重県神社庁の解説によれば祭神は天照皇大神、天兒屋根命、天布刀玉命、大己貴命、事代主命、大山祗命、埴山姫命の七柱を祀る。拝殿前の狛犬は風貌に年季を感じさせるが昭和に入って寄進されたもの。 拝殿脇や道路側ともに奥に控える本殿域の様子は見られなかった。境内から社頭の眺め。 手前の道路は県道204号線で、堤防沿いを走るのが国道42号線、その先の堤防を越えると溢れんばかりの花火見物客と屋台が連なる七里御浜です。堤防の先の喧騒とは別世界のように境内は静まり返っていました。社地右側の道路から本殿の屋根がちらりと顔を出してくれた。 木本神社創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、天兒屋根命、天布刀玉命、大己貴命、事代主命、大山祗命、埴山姫命例祭日 / 体育の日の前日春祭 / 2月17日秋祭 / 11月23日境外末社 / 稲倉稲荷神社(木本町332)、菅原神社所在地 / 三重県熊野市木本町95参拝日 / 2026/8/17関連記事・ 2026熊野大花火過去記事・「神倉神社」熊野権現降臨地ゴトビキ岩は神秘的・「花の窟(はなのいわや)神社」三重県熊野市
2026.08.29
コメント(0)

何でもかんでも値上げのご時世、9月から生活道路での車両法定速度が引き下げになる。 下がると聞くと嬉しいような気もしないでもないが、生活道路での重大事故抑制のため、最高速度の標識がなく、中央線などの車両通行帯がない生活道路では、これまでの法定速度60km/hから30km/hに引き下げられる。 施行は9月1日。上が警察庁のPOP、既にWeb上で公開され、町内広報板に掲示されていたり、コミュニティーの回覧板でも周知が進んでいる。 普段どの程度の速度で走る「習慣」なのか個人差もあるだろう。施行後に一般的な速度で走っていると、重い罰則が待ち構えている。 今から心の準備と生活道路走行時の自車の速度を確認しておくべきだろう。上が違反時の減点と罰金。 ご存知のように、制限速度は「その速度で走らなければならない」という意味ではなく、その道路で許される最高速度を示すもの。道路状況や交通状況に応じて、それより低い速度で走ることも当然あります。普段から制限速度一杯で走り、前車に追いついて「遅い」と感じ、感情に任せて追い越せば、その瞬間に速度違反となる。 飛ばし屋からみて前車が遅いと感じるのは、あなたが法を守っていないだけのこと。追い越し頻度の多い方は運転習慣を改めないと、生活道路で捕まれば一発免停となる可能性が高い。 高速やそれに準じる道路で30km/h超過は、ハードルも高く罪悪感もあるだろう。法定速度30km/hとなった生活道路では、30km/h超過などいともたやすく、罪悪感もないまま、免停・罰金・講習が待っている。 よくできた改正だと思う。交通違反の取り締まりを厳格化すれば、財源の宝庫だろう。 単に罰金だけでなく、免許更新時の講習区分や自動車保険料だけでなく、無事故・無違反を条件とした優待などにも影響する。無駄な出費に悲鳴をあげる前に、自分の運転を見つめるといいだろう。それにしても生活道路をMTで走るとしたら3速までしか入らないのでは。 近所に生息する跳ね馬や暴れ牛も静かになるかな。
2026.08.28
コメント(0)

前回掲載した天王明神社、そこから西に出て、車道を北に向かい稲永交差点に向かう。 交差点の西門に鎮座するのが今回掲載する稲永 神明社。天王明神社からだと徒歩6分ほどの位置になります。あおなみ線稲永駅から歩きはじめ、この日最後の訪問地になります。 例によって大正時代の地図と現在の地図から、地域の変貌ぶりを見ています地名の稲永は、稲富新田と永徳新田が合併して稲永新田となり、稲富の「稲」と永徳の「永」を取って命名されたという。 鎮座地を見ると、左右に伸びる道と北に伸びる道が交わる辻に位置しています。車で金城ふ頭方向に向かう際、稲永交差点角に立つ稲永神明社の鳥居が目につき、昔から気になる存在だったものの、参拝駐車場がなく、いつも通り過ぎていたが、今回ようやく訪れることができた。稲永交差点の西角に鎮座する稲永神明社の眺め。平成11年に寄進された神明鳥居から境内の眺め。 右に大正四年の銘が刻まれた神明社の社標が立っており、境内左側に手水舎、社務所、正面の社殿が主なものです。手水舎は長い柱を用いず、高い基礎のそれぞれに親柱を立て、その上に冠木が横に伸ばされ、その上に梁を渡し、そこから斜めに副柱を降ろし、大きな切妻屋根を支える一手間かけたものです。 その下に置かれた手水鉢には大きな龍口がある。境内右側に忠魂碑と当社に祀られている神社名と祭神を刻んだ石碑が立てられています。 社名・祭神は秋葉社 加具土神、神明社 天照大神、龍神社 水波能賣神。残念ながら境内に由緒書きはなく、愛知県神社庁の情報サイトと神社名鑑、港区HPの記述から記載します。愛知県神社名鑑『十五等級 神明社 旧村社 鎮座地 名古屋市港区稲永5-1-4祭神 天照大御神 由緒創建は明らかでない。 稲富新田と永徳新田が合併して明治九年稲永新田に改称した。何れも文化、文政(1804~1829)に開発した新田で村内鎮護のため産土神として奉斎した。 明治五年七月、村社に列格する。昭和二十年四月、空襲により被害、同二十二年本殿を復旧、同三十四年伊勢湾台風で度被災、同三十五年本殿復興す。 同六十一年五月四日、社殿・社務所を造営。社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所、祭器庫』港区HPの稲永神明社の紹介は以下のように簡潔なものだった。『祭神は天照大神。村の氏神として嘉永6年(1853)勧請した』 簡潔ですが、勧請年が記載されており、個人的にも調べてみたが嘉永6年勧請の引用元は定かにはならず、当ブログでは神社名鑑の創建不詳として記載します。主祭神の天照大御神は御存知の通り、八百万の神々の最高神で、ご利益は全てといってもいい。 加具土神は防火・防災、家内安全にご利益が得られる。水波能賣神は水源の川・池・井戸・水田を守護し、農業や水害除け、安産・縁結び・清めのご利益があり、新田として生まれた土地柄を守護するには十分な神々ではないだろうか。 拝殿正面全景。 木造の切妻造瓦葺き、平入りの拝殿と狛犬。狛犬は昭和61年に寄進されたもので、眼光鋭く、巻き毛を強調した姿をしている。拝殿斜景と後方の本殿域の眺め。 拝殿は後方で幣殿とつながっています。本殿域は高く積まれた石垣の上に透かし塀と神門が設けられ、本殿を取り囲んでいる。本殿前を守護する狛犬は拝殿前のものより古そうですが、銘を見忘れました。本殿域の眺め。本殿域には神明社本殿、左が秋葉社、右に龍神社の三社を祀る。稲永神明社社頭左に二つの地蔵堂があります。 神社と関わりがあるのか定かではないが、左の堂には6体、右の堂には2体の地蔵が祀られています。左側には御嶽講の山丸三の紋が刻まれた手水鉢が置かれています。上が右側の堂内の地蔵尊で銘が確認できず年代は不明ですが、立地を考えると辻の地蔵として安置されたものかもしれない。 下の六体の地蔵を含め、般若心経の教文が書かれた黄色の前掛けが掛けられています。山丸三の紋とこの地蔵、つながりが良くわからない。稲永神明社創建 / 不明祭神 / 天照大御神境内社 / 秋葉社、龍神社 氏子域 / 稲永例祭日 / 10月第一土曜日所在地 / 名古屋市港区稲永5-1-4天王明神社から稲永神明社まで / 北西の稲永交差点西角の社地まで450m・徒歩6分。参拝日 / 2026/8/7関連記事・二名社(にみょうしゃ)・荒子川水神社・錦神社・天王明神社
2026.08.24
コメント(0)

前回は稲永遊郭に祀られた錦神社を掲載しました。 今回はそこから徒歩数分の港区錦町3に鎮座する「天王明神社」を掲載します。まずは鎮座地を地図から見てみよう、上の地図の左は大正時代の鎮座地。 稲田ばかりの当地に四角く区画された部分が稲永遊郭。前回使用した稲永遊郭の拡大図ですが、赤いマーカーが天王明神社の鎮座地に相当します。 まず最初に天王明神社について調べてみたが創建時期など詳細は分からなかったことを書いておこう。この地図から推測すると、遊郭施設群の中に位置するように見えます。区画の北西角に鎮座する天王明神社の全景。 現在は道路が新たに整備され、周囲は住宅地へと姿を変えたものの、社地周辺の町割り自体は往時から大きく変わっていない。大正期には貸座敷を中心とした遊郭が立ち並んでいたが、今は更地や駐車場が点在している。 こうした歯抜け状の景観は、売春防止法の全面施行に伴う廃業などが影響しているのかもしれない。緑の少ないこのあたりにあって、濃い緑に包まれた境内は特別な空気感が漂う。鳥居正面から眺める天王明神社境内。 額には「天王明神」と刻まれている。天王社は見かけるが、この社名はあまり馴染みがなく、先に書いたように詳細は分からず祭神もわからないが、牛頭天王または建速須佐之男命ではないかと想像する。 参道脇の狛犬。 寄進年は見ていないが、集落の成り立ちから見ると古いものではなさそうだ。参道左の不明社。参道の先には二社祀られています。左の社は、天王社や津島社をイメージさせる赤で塗られている、右の社も社名札がなく不明。 愛知県神社庁に登録はなく、港区のHPにも紹介されておらず、不明ばかりでモヤモヤするが致し方ない。寄進物の裏側を見ていくとおぼろげながら歴史がみえてくるかもしれないが、この時期は蚊の集中攻撃に耐えなければならない。天王明神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明氏子域 / 不明例祭日 / 不明所在地 / 名古屋市港区錦町3-18錦神社から天王明神社まで / 錦神社から北西に220m・徒歩4分。参拝日 / 2026/8/7関連記事・二名社(にみょうしゃ)・荒子川水神社・錦神社
2026.08.23
コメント(0)

8/17、ツアーバスで三重県熊野市で行われた2026熊野大花火を見に行ってきました。 ツアーは9:00頃に名古屋駅を出発、途中休憩をとりながら会場となる熊野灘に面した七里御浜海岸で花火鑑賞後は取って返して、翌朝5時に名古屋駅に戻ってくるもの。以前からかみさんのリクエストがあったものの、車は帰り道の規制・渋滞、電車なら長蛇の列と苦手なことばかり。 昨年のきほく燈籠祭花火のときは、駐車場で車中泊ができたので、酒も飲め、翌日は混雑もなく観光も楽しめた。メジャーな花火大会は宿泊形態はなんでもいい、車で訪れ、現地泊まりが個人の理想、そんな自分向けに選んでくれたのがバスツアーだった。13:00、会場に到着。写真は熊野灘に面した七里御浜海岸から世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産である鬼ヶ城の眺め。 細かい小石が堆積する砂礫海岸が南の紀宝町まで延々25キロ続き、周辺には獅子巌や花の窟神社などがある。 ツアーは団体エリアにバスごとに区割りされ、紐で一名ごとに区画が用意されているので、場所取りの心配はない。ただ、16時まで立ち入りできず、それまでは鬼ヶ城まで歩く予定でいたが、手荷物を持ったままなので、市内散策や食べ歩きで時間を潰すことになる。 会場の沖には既に飛鳥Ⅱ・飛鳥Ⅲ・三井オーシャンフジのクルーズ船が停泊していた。 この3隻のほか、夕刻にはダイヤモンド・プリンセスも停泊し、船上では食事をしながら花火鑑賞となるようだ。クルーズの途中、熊野灘から優雅に花火鑑賞。 天気さえ良ければこれが一番いいのだが、雨に祟られたクルーズは意外に飽きてくる。とはいえ、海上から見る花火は経験がなく、どんな感じに見えるのか、こうした場合、右舷と左舷で価格設定が異なるのか、興味は尽きない。 少なくともイカ焼きや焼きそばの屋台がないのは確かなことだ。会場に帳が降りる頃、船には明かりが灯り、海岸には続々と花火見物に訪れた観光客が席に陣取り、打上げ開始予定の19時を今か今かと待ち焦がれるが上空には怪しい雲が漂いはじめる。 打上げは鬼ヶ城付近と海上の台船、獅子巌付近の三か所がメインで、舟を使った海上自爆など行われる。鑑賞場所が指定で、写真を撮るスポットがどこがいいのか分からないので、今回は嵩張るカメラは持ってこなかった。 三脚を立てじっくり撮影するなら花の窟あたりから撮ると三か所で打ちあがる花火を一枚に収められるかもしれない。しかし、この浜から眺める花火は迫力がある。 空気を揺るがし、背後の山々に反響する炸裂音とともに、頭上いっぱいに花開く光景、そして目の前で炸裂する海上自爆。まさに感動ものだ。三か所から同時に打ち上げられるスターマインは一枚に収まり切れないスケール感がある。 寝転がって上空を眺めるのが、いいかもしれない。この日は一時小雨に降られたり、風がなくなり連続的に打ちあがる花火の煙が滞留し花火が隠れ条件は良くなかったのではないだろうか。 クライマックスの鬼ヶ城大仕掛けは煙の切れ目から見えるような感じだった。しかし全長600mとも云われる三尺玉海上自爆は、遮るものなくクリアに見ることができ満足できるものだった。こうした海上自爆を体験するには浜席が一番適している。 浜には無料エリアがありますが、既に場所取りされており競争率は高そうだ。自分なら屋台や迫力あるこの光景は諦めて、獅子巌方向に逃げていくだろう。 打ち上げ終了後は混む前に市内から出たいものですが、打ち上げ終了の21:00~22時までは国道42号線は歩行者用として封鎖され、24時まで市内各所は一般車の通行が制限され、市内各所に停められたツアーのバスが優先的に移動できるように規制されます。無理に動かずに、駐車場で時間を潰し、日付が変わってから動くのがいいと思われます。 自分なら釣竿出して釣りを楽しむか、そのまま車中泊の二択だろうか。列車なら名古屋行きの上りが24:15が最終で一時間毎、下りは新宮行きで23:36を最終として約30分毎に運行されていたようです。 いずれにせよヨーイドンで一斉に動くので、混雑は避けられない、気長に行動するのが一番だろう。もうひとつの情報。 市内の笛吹橋を渡った先の熊野古道松本峠口に熊出没注意のポスター、道の駅マンボーにも同様のポスターを見かけました。今夜の海岸は香しい香りが漂っているので、誘われて熊も降りてくるかもしれない。2026熊野大花火訪問日 / 2026/08/17走行ルート
2026.08.22
コメント(0)

稲永駅から南西に徒歩10分ほどの港区錦町地内に鎮座する錦神社、今回はこちらを掲載します。左は大正時代、右は現在の錦町周辺の地図の比較で、かつては稲永新田と呼ばれていた地域に鎮座します。 当時のこの周辺は見渡す限り稲田が広がる一帯で住居などは皆無だった。その稲田の中にポツンと整地された区画がある。 この一画は明治45年(1912)、市街地にあった熱田遊郭が移転し、稲永遊郭として開かれた。 地の利の悪さから、中村遊廓に比べリーズナブルな歓楽街で港湾労働者も多かったという。町名の錦もそうした雅名からきている。色と欲にまみれた稲永遊郭も、昭和20年(1945)、空襲で焼失して以降、再興されることなく、戦後に赤線地区に指定されていた名楽園・城東園・八幡園・港陽園などに散っていったという。その中心に位置するのが錦神社。 錦神社のはじまりは、熱田遊郭がこちらに移転した際、熱田神宮と津島神社を勧請したことにある。社頭の全景。 鳥居は、この社標の立つ北側と、左の道路沿いの二箇所にある。 昭和三十七年寄進の社標と鳥居。 社殿はこの先の右側に纏められています。社殿全景。 高く積まれた基壇の上に三社、基壇左に稲荷社が祀られている。神社の歴史が遊郭誕生とともにはじまることから、新田の鎮守目的で祀られたものではなく、遊郭の鎮守のために祀られたもの。 愛知県神社庁に登録されており、愛知県神社名鑑では以下のように解説されています。『十五等級 錦神社(にしきじんじゃ)鎮座地 名古屋市港区錦町一丁目三六号 祭神 熱田皇大神由緒 この地はもと稲富新田と称し、文政三年(1820)熱田の社人粟田兵部の開拓にかかる。 明治九年(1876)、隣接の永徳新田と合併して稲永新田となり、愛知郡寛政村に属し、同四十年七月、名古屋市に編入し、昭和五年九月錦町と改称した。大正元年より熱田からの移住者増え錦町の新住者、町内安全を願い奉斎する。 時に昭和七年九月なり。同三十四年九月、伊勢湾台風で被災、同三十八年本殿を造営、平成二年に改築した。 例祭日 十月十二日社殿 本殿 神明造、社務所』とある。港区HPの錦神社解説は以下。 『明治43年頃、建立されたもので、中央に伊勢神宮と熱田神宮が、右に津島神社、左に秋葉神社がある。御神体はなく、毎年御札を迎えている。 日本武尊、素戔嗚尊を勧進し、後に商売繁盛のためお稲荷さんも建立されました。』と紹介されているが何れも熱田遊郭については触れてはいない。創建時期は港区HPでは明治43年頃の建立とされる一方、愛知県神社名鑑では昭和七年に奉斎されたとされ、資料による相違が見られ、本ブログでは神社名鑑の昭和七年と記載します。本殿前を守護する狛犬は色町らしく化粧が施されている。上は狛犬の台座。 寄進年は昭和七年で寄進者には大吉楼・八開楼と楼主名が刻まれ、かつての遊廓の名残を留めている。この年号の寄進物は常夜灯や東側の鳥居などにも見られるが、明治・大正の元号を記した寄進物は見かけなかった。 このことからも、神社名鑑の昭和七年というのは説得力がある。本殿域には、中央に伊勢神宮と熱田神宮の相殿、右に津島神社、左に秋葉神社がある。本殿は三社ともに神明造で右の津島神社を除いて、千木や鰹木の欠落が痛々しい。境内の手水鉢(寄進年未確認)。境内左の錦稲荷大明神。 創建時期や祭神など詳細は不明です。本殿正面の東参道口。 鎮座地の周辺は住宅街に変貌し遊廓の建物の名残は見られないかもしれないが、居酒屋やシャッターを下ろした店舗を見るとかつての歓楽街の香りは漂ってくる。東側の鳥居から眺める境内。 鳥居の右に「国威宣揚」と刻まれた石標があった。この神社が創建された時代を思うに、出征を前にここで思いを遂げ戦地に向かったのだろうか。稲永遊廓の中心で、錦町の鎮守と商売繁盛を願い祀られた錦神社、今は歓楽街の面影はない。錦神社創建 / 昭和七年(1932) ※神社名鑑による 祭神 / 熱田皇大神境内社 / 津島神社、秋葉神社、錦稲荷大明神氏子域 / 港区錦町例祭日 / 10月12日所在地 / 名古屋市港区錦町14-22公共交通機関アクセス / あおなみ線稲永駅から南西に徒歩約10分。参拝日 / 2026/8/7関連記事・二名社(にみょうしゃ)・荒子川水神社
2026.08.18
コメント(0)

荒子川水神社。 あおなみ線稲永駅から北東へ徒歩約5分の十一屋川緑地東園北側に鎮座する。十一屋川緑地東園は、名古屋市港区の十一屋川沿いに整備された細長い緑地帯。 南側に片側3車線の県道227号線が並行するように続いており、南北は住宅地が広がる地域。埋め立てにより生まれた土地なので緑に乏しく、十一屋川沿いに続くこの緑地は、県道と生活域の緩衝帯の役割を果たすとともに、木陰が続くこの公園は遊歩道や休憩スペースもあり憩いの場でもある。 赤のマーカーが荒子川水神社の鎮座地。 過去の地図を遡ってみても、鳥居の姿が記されるのは昭和になってからです。Gマップでは神社の鎮座地はどんぐり児童遊園地内と表示されますが、敷地には遊具らしきものも見当たらず、児童遊園地としては実感がない。南北に長い社地で、目の前の十一屋川に向かって社頭が設けられており、左右は住宅に挟まれている。 右側に昭和28年に寄進された「荒子川水神社」の社標があり、平成7年に寄進された白い明神鳥居を構えている。鳥居から境内の眺め。 境内には正面に本殿があるだけで、手水鉢や由緒を記したものなどは見られなかった。高く積まれた石垣の上の本殿、祀られているのはこの社のみでした。 いつ頃創建されたものか愛知県神社庁の神社情報を調べてみたが、当神社は登録されておらず、港区のHPからも創建・祭神などの詳細は分からなかった。鎮座地の稲永の前身は、文政三年(1820)、熱田の粟田兵部らが開発した「稲富新田」と、同九年(1826)、大喜下総らが開発した「永徳新田」が、明治九年(1876)に合併して稲永新田となった地域。 地名の十一屋は江戸末期、呉服商十一屋の主人 小出庄兵衛の所有地であったことに由来するという。寄進物や地図だけで判断するのは安直だが、少なくとも昭和初期の当地には、現在の県道の南に競馬場はあったものの、集落は見られない。 水を司る神を祀る動機を考えると、かつては田畑の鎮守として祀られたのではないだろうか。そのはじまりが幕末なのか、近代に入ってからなのかを明確に示す記述は見られなかった。本殿には社名や祭神を表す木札は見られなかった。本殿側面の眺め。 この石垣の高さは、何を物語っているのだろうか。境内からは、今ではほとんど流れのない十一屋川と、十一屋川緑地東園が望める。 その先は車の流れが多い県道が迫っている。荒子川水神社創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明例祭日 / 不明所在地 / 名古屋市港区十一屋1-24公共交通機関アクセス / あおなみ線稲永駅から北東へ徒歩約5分。参拝日 / 2026/8/7関連記事・二名社(にみょうしゃ)
2026.08.17
コメント(0)

毎日毎日体温越えの気温が続き、炎天下のなか神社巡りも熱中症のリスクが伴う昨今、外出する機会は極端に少なくなりました。 この日はアジア競技大会のボランティア研修が金城ふ頭で開催されるため、久しぶりに外へ出ることになった。写真はあおなみ線「荒子川公園駅」 この日は横着して、自宅から車で荒子川公園駐車場に向かい、車を荒子川公園駐車場に停め、駅近の神社に参拝してからあおなみ線で会場に向かうことにした。 その候補に挙がったのが、駅から北に400mほどの距離にある二名社(にみょうしゃ)。 荒子川を越えたところにも善進神明社はあるが、二社巡るほど余裕はないので今回は諦めた。上の地図は左が大正9年の地図で、当時でも一面に水田が広がる地域だったが、僅か100年で水田は消え、住宅地が広がる地域に変貌した。往古の東海道以南は、遠浅の海岸が続く一帯で、石高を増やすには絶好の条件が揃っていた。 正保四年(1647)の熱田新田の干拓以降、寛政十二年(1800)には熱田奉行津金文左衛門の主導により熱田前新田の開発が始まり、突貫工事によってわずか6か月後の享和元年(1801)に完成、文化二年(1805)には検地が行われた地域。 しかし後の安政二年(1855)には、暴風雨のため新田堤防が決壊して大きな被害を受け、藩の財源不足から一時は放置されていたそうです。 荒子川と中川運河に挟まれた立地なので標高は1mほどだろうか。今回掲載する二名社は、この熱田前新田の歴史と深い関わりを持って誕生した神社と言ってもよいだろう。所在地はあおなみ線荒子川公園駅から北に6分程の港区寛政町6-1-2に鎮座します。 町名の由来は新田が開拓された寛政から付けられています。当地は明治二十二年(1889)町制施行で寛政村として設立し、明治三十九年(1906)には明徳・寛政・宝田が 三村が合併、小碓村となり、翌年には名古屋市に編入され同市熱田前新田となる。 大正十年(1921)愛知郡小碓村大字寛政、昭和12年に南区寛政町となった。二名社社頭全景。 鳥居左の社号標(1915)は「村社 二名社」と刻まれています。境内左に祭器庫と手水舎がある。コンクリート造り手水舎と拝殿方向の眺め。 そろそろ盆踊りの時期なんだろうか。拝殿は切妻平入のコンクリート造りで後方で幣殿と鞘殿が一続きになっています。 左右には社殿を優に超えるほどに成長した二本の楠木が聳えています。境内に由緒は見られず以下の二つの資料から情報を得る。 ひとつは港区の史跡散策路の解説で内容は以下のように記されている。「祭神は天照大神・日本武尊。安政六年(1859)2月15日勧請した。 昔は善進町の神明社と一つになっていたが、土地を中ノ割、社を西ノ割というように分けた。」勧請・祭神までは「なるほど」なんだが、それ以降の内容の捉え方が分からない。愛知県神社名鑑の解説は以下となっている。 「十三等級 二名社(にみょうしゃ)旧村社鎮座地 名古屋市港区寛政町六丁目一番二号 祭神 天照皇大神、倭武命由緒 創建は安政六年(1859)三月十五日と伝う。 明治五年、村社に列格する。昭和三十四年九月伊勢湾台風により社殿被災したが氏子の尽力により復興した。 同三十七年一月十六日港区港北町二丁目四十七番地を購入する。社殿 本殿 神明造、拝殿、社務所、祭器庫」 というものだった。創建は安政六年(1859)とあることから、新田堤防決壊後の再興に際し、当地の鎮守を願って二柱を祀るために建立されたのではないかと考えています。 拝殿右の「創始100周年碑」が立てられています。創建が安政六年(1859)とすれば、100周年は昭和34年(1959)で、奇しくも伊勢湾台風の年に当たります。 被災からの再興と合わせて建立されたものだろうか。社名の二名は馴染みがないが、思うにその二柱を表したものかもしれない。拝殿前の狛犬。 拝殿額。天照皇大神、倭武命を祀る本殿方向の眺め。拝殿右の忠魂碑。幣殿と棟持柱が見える鞘殿、鰹木は6本、内削ぎ千木が付くもの。社殿後方の社務所側から社殿の眺め。拝殿前から社頭の眺め。 かつては稲田を吹き抜ける風も心地よかったことだろう。盆踊りの時間ともなれば、涼しい風が吹き抜けたものだが、今では地表は覆われ熱風の吹き抜ける町になった。 二名社(にみょうしゃ)創建 / 安政六年(1859)祭神 / 天照皇大神、倭武命氏子域 / 港区寛政町例祭日 / 10月第2月曜日所在地 / 名古屋市港区寛政町6-1-2公共交通機関アクセス / あおなみ線荒子川公園駅から北に400m、徒歩6分参拝日 / 2026/8/7
2026.08.16
コメント(0)

専修寺と津四天王寺を訪れるため津を訪れた。 もともと津には縁もあり度々訪れていたが、今回は津に来るとよく立ち寄る鰻屋を紹介しようと思う。津駅の西口前に暖簾を構える「大観亭支店 津西口店」 津を訪れると良く立ち寄る店です。津は海が近いこともあり海産物が豊富で、この界隈では新鮮なビンチョウマグロなど販売する店も多かったが、今では様変わりしてそうした店も見られなくなった。 そんな中、昔から西口で鰻を焼く香ばしい煙を漂わせているのが大観亭である。間口は広いとは言えず、見窄らしい外観ですが、味は名の知れた店には負けてはいない。 名古屋の某店を考えると価格も安い。メニューは鰻丼、鰻重、ひつまぶしの他にも一品料理もある。 鰻丼は並丼・中丼・上丼があり、写真は蒲焼きが4切れ乗った上丼。肝吸いも付き、この味とボリュームで価格は1,400円〜2,500円。この店は三重の日本酒もあり、而今が飲める店でもあります。 よく耳にする銘柄だと一合1,000円以内、而今は2,000円とかなりお高いが、普段目にしないだけに飲むことが多い。飲み比べると香りや喉越しの違いは明確。 かみさんが目を離した隙にグラスを入れ替えても「変えた?」とすぐに分かるほどだ。美味しい鰻と美味しい酒を手軽に味わえるのが大観亭だと思います。大観亭支店 津西口店所在地 / 三重県津市大谷町261近鉄名古屋線津駅(西口)より徒歩1分営業時間 / 11:00~20:00(LO.19:30)不定休
2026.08.13
コメント(0)

日本一短い駅名として知られる津駅。 駅から南へ徒歩10分ほどの津市栄町に今回掲載する塔世山 四天王寺が鎮座します。歩道を歩いていると、写真の文化財解説と鐘楼門が見えてくれば四天王寺到着。 門に続く参道には松尾芭蕉の文塚や地蔵堂跡・平影清鎧掛松の碑がありますが、門は閉じられており、左側の山門から境内へ向かいます。四天王寺山門全景。 聖徳太子によって建立されたと伝わる曹洞宗のお寺で、境内には織田信長の母 土田御前や、津藩藩主の藤堂高虎の正室久芳夫人のお墓があり、歴史上の権力者から庇護をうけてきた。門前左側に四天王寺を訪れた坂村真民が記した大きな歌碑が置かれている。 この碑文には、長い歴史を紡いできた四天王寺と、本尊である薬師如来像への思いが込められています。四天王寺のはじまりは、6世紀の日本が仏教受け入れをめぐり、蘇我氏と物部氏の対立が深まり、やがて丁未の乱へと発展した時代に遡ります。 聖徳太子(厩戸皇子)は蘇我氏に与し、仏教を支持する立場にあったが、戦況は物部氏が優勢で、蘇我氏は三度退却を余儀なくされる。四度目の決戦を前に、聖徳太子はヌルデの木で四天王像を刻み、「勝利したなら四天王をまつる寺を建てる」と誓願して戦いに臨み、丁未の乱(587)は蘇我氏の勝利に終わり、物部守屋が討たれる。 太子は誓いどおり各地に四天王寺を建立したとされ、その一つが津市の「伊勢国 四天王寺」になります。創建年は明確ではないようですが、境内から奈良時代の瓦が出土するなど、1000年以上前には寺が建立されていた痕跡が見られるという。 聖徳太子によって建立された四天王寺は、ときの権力者から庇護をうけてきました。それを物語るように、境内には織田信長の母 土田御前や、津藩藩主の藤堂高虎の正室 久芳夫人のお墓があります。山門は江戸時代の寛永18年(1646)に建立された切妻瓦葺の四脚門で、派手な意匠の少ない落ち着いた佇まいで市の指定有形文化財になっています。 四天王寺は、その歴史の中で幾度か兵火にかかり伽藍を焼失し再興されてきた、昭和20年(1945)の空襲でもこの山門と鐘楼門を除き伽藍を焼失していますが、本尊の薬師如来坐像は、市郊外の蔵に避難させていたことから、空襲の被害を免れることができたという。四天王寺の現在の宗派は曹洞宗ですが、幾度か改宗を繰り返し、平安中期は律宗、その後天台宗へと改宗、室町時代には正海慈航禅師によって現在の曹洞宗に改められています。山門をくぐった右側に祀られている四天王寺稲荷大明神。中門は入母屋瓦葺の四脚門で二層は擬宝珠付きの高欄が付くもので、2代目藩主 藤堂高次により建てられたもので、正面と背面には花頭窓が施され、津市の有形文化財に指定されています。中門には應供客と記された額が掛けられている。中門から本堂の眺め。中門と山門方向の眺め、ここから写真左に向かうと冒頭の鐘楼門に続きます。 鐘楼門と右側の堂は琥珀観音堂、堂内には琥珀で作られた観音様が安置されていました。鐘楼門。 正徳三年(1713)に再建された鐘楼門で、上層は瓦葺の入母屋屋根の四脚門で左の階段から上層に上がることができる。梵鐘は、延宝8年(1680)、津の鋳物師・辻越後守陳種によって鋳造されたものであることが銘文に記されています。 この梵鐘の他、本堂軒下に同時期に鋳造された半鐘がある。本堂全景、現在の伽藍の大半が戦災以降に再建されたものです。 推古天皇の勅願により聖徳太子が整備したと伝わる津四天王寺。戦国時代の兵火によって多くの堂宇を焼失し、一時衰退しましたが、津城主となった織田信包によって再建されました。 本能寺の変の際、安土城にいた母・土田御前(花屋寿栄禅尼)を信包が引き取り、没後は当寺に葬られています。 関が原の戦いでは津城も戦場となりその兵火により再び焼失。 元和5年(1619)に津藩主となった藤堂高虎により再建。寛永14年(1637)に2代藩主藤堂高次が寺領を寄進しています。 本堂左の高台には藤堂高虎の正室 久芳院の墓もある。 上は本堂の配置図と拝観順序で、堂内の撮影は許されています。 訪れた時は聖徳太子像図、藤堂高虎公像図を所蔵する右側の間が個展開催中で立ち入り難い雰囲気で見てはいません。堂内の全景。 正面に釈迦如来坐像、右が薬師如来坐像、左に豊川稲荷大明神と三面大黒天像が安置されている。四天王寺の本尊「薬師如来像」 平安時代に生き、蘇我氏と対立した物部氏の物部美沙尾が自身の病気平癒を願って薬師如来像の造立を発願したことに始まります。物部美沙尾は仏像の完成を見ることなく亡くなり、思いを継いだ僧・定尋によって承保4年(1077)に完成しました。 この経緯は、仏像の胎内から見つかった紙に記されており、他には平安時代の鏡や櫛などが入れられており、当時の人々が物部美沙尾が生前愛用したものを納め、安寧を祈ったのではないかと思われます。 像高は65cm、一木割矧造、彫眼、漆箔で、仏師定朝の作とされています。祭壇右側に穏やかな表情が印象的な如意輪観音像が安置されています。中央の釈迦如来坐像と脇侍の馬頭観音像と阿弥陀如来像。左の豊川稲荷大明神と三面大黒天。普段見かける大黒様の顔立ちとは違い、向かって右側に毘沙門天、左側に弁財天の顔が合わさったもの。 戦国時代に広まり、一節には豊臣秀吉の若い頃、常にこの像を懐に忍ばせ、勝負運・財運・良縁を願ったという。堂内左の令和の大観音像と救世主観音像(右)。 宝石が散りばめられた冠の内側には、人々を救うために姿を変えた化仏と呼ばれる小さな仏様が飾られています。本堂外陣の天井には、波と波がぶつかって龍神が生まれ、真ん中に月が浮かぶ「波龍円相図」と呼ばれる天井絵が描かれている。 本堂前の十三重石塔から朱塗られた橋を渡る。 塔世山 四天王寺は西国四十九薬師霊場の34番札所にもなっています。庭園に鎮座する不動堂。不動堂の右にある目洗い地蔵。 中央の岩のくり抜かれた部分に小さな地蔵さんの姿がある。古くから湧き出る泉のようでこんな言い伝えがあります。 目の病で仕事ができず困っていた職人が、四天王寺に助けを求めて参拝に来たところ、痛みに耐えているこの湧き水の音に気づき、その水で目を洗うと痛みが消え、視力も戻ったという。職人は薬師様に感謝して参拝し、その後は病も治り仕事に励めるようになったという。 以来、目洗い地蔵と呼ばれるようになったという。目洗い地蔵から墓地方向に進み、右の斜面の先に藤堂高虎の正室久芳院の墓と織田信長の生母・土田御前の墓があります。上が織田信長の生母土田御前の墓、法名は花屋寿栄禅尼です。 織田信秀の継室となり、信長・信行・秀孝・信包・お市・お犬を産んだとされ、本能寺の変の後は津城の織田信包を頼り、晩年を津で過ごした。下が藤堂高虎の正室で一色義直の娘久芳院の墓、法名は久芳院殿桂月貞昌大姉。 高虎は、7度も主人を変えたことや、築城の名人として知られますが、一方で愛妻家としても知られる戦国武将で、後に津藩初代藩主となった高虎は、戦火で荒れた津城や城下の復興、正妻の菩提寺である四天王寺の再興に尽力したという。四天王寺は西国四十九薬師霊場の34番札所の他、伊勢の津七福神巡りの大黒天の寺になっているようで、津市内の由緒ある七つの神社仏閣を巡拝する歩き方もあるようです。幾度もの兵火や戦災を越え、権力者の庇護を受けながら今日まで受け継がれてきた四天王寺。 その境内には、津の歴史を刻んだ人々の足跡が今も静かに残されています。津市栄町 「塔世山 四天王寺」宗派 / 曹洞宗創建 / 6世紀頃開山 / 聖徳太子本尊 / 薬師如来像中興 / 元和5年(1619)所在地 / 三重県津市栄町1-892参拝日 / 2026/7/13関連記事 ・三重の国宝二堂を訪ねて 一身田寺内町と高田山 専修寺・津市一身田町「一御田神社」
2026.08.12
コメント(0)

三重県津市の高田山 専修寺を訪れた際、太鼓門から東に進んだ一身田町地内に鎮座する「一御田神社」を見かけたので今回はこちらを掲載します。写真は高田山 専修寺境内の東側に建つ太鼓門、そこから東に続く生活道路が伸びています。 かみさんとの集合時間には少し余裕もあり、専修寺の環濠を探しに東に歩いてみました。太鼓門から80mほど進んだ左側に写真の一御田(いちみだ)神社を見かけ立ち寄ってみた。 道路から眺める境内は左に赤い鳥居を連ねる稲荷社と拝殿、更に右側に鳥居の姿が望める。 ここから道路を右に進むと一御田(いちみだ)神社の社頭があります。社頭全景。 右側に古びた「一御田神社(いちみだ)」の社標が立っています。よく見ると社名の上は文字が刻まれていたのを埋めた形跡が見られます。 旧社格が刻まれていたと思われます。石の鳥居に掛けられた銅製の額には一御田神社とあります。参道に入ると左に舟形の手水鉢が置かれ、笠木と島木の反りが大きな明神鳥居……あれぇ、貫が柱から出ていない。 これまであまり気にしていなかったのか、今回やけに目に止まる。神明系なんだろうか。境内にはこの他に三つの鳥居が建てられています。写真の常夜灯の竿には「梵天宮」と刻まれています・・・・・・梵天さまを祀るお宮さん? 調べてみたところ、この神社は、元は「天ツ宮」と称されていたが、寛文8年(1668)に高野山沙門の春深によって「梵天宮」と改称されたが明治政府の神仏分離を受け、往古の地名に因み現在の社名である「一御田神社」に改称されたということで、石灯籠寄進年は明治以前のものだろう。 境内の一御田神社神宝類の解説。 大半が室町時代(1336~1573)のもので、特に棟札は22枚残り、中には嘉吉元年(1441)のものがあり、専修寺が建立される以前からこの地に祀られていたことになる。参道正面の狛犬と木造神明鳥居。 正面の神門には「天満宮殿」と掲げられており、「殿」の文字を付した社号はあまり見かけない。狛犬と鳥居はこの天満宮のものだろう。境内右の木造神明鳥居は慰霊殿のもの。天満宮と慰霊殿の本殿、左に写り込んでいるのが一御田神社の社殿。 一御田神社拝殿前の鳥居は石造の明神鳥居で、切妻平入の拝殿の軒下には神仏習合の名残を感じさせる鰐口が吊るされています。拝殿左側に一御田神社の概説が掲げられていました。 概説から一部抜粋「この神社は原始時代に農業集落であったころからの鎮守で、農耕と水の神を主神とする。最古の棟札には36軒の農民が神社に奉仕していたことが記されている。」三重県神社庁は一御田神社について以下のように述べています。 『一御田神社 天満宮、花山稲荷神社、一身田区戦没者町功労者慰霊社(一身田町戦没者町政功労者121柱の神霊を祀る) 神社の創立年月日は不詳であるが、社殿創建前は本殿西隣の欅の古木が御神木であり信仰の対象であったと考えられている。棟札に嘉吉元年(1441)のものがあるので、創建はこれ以前と思われる。 寛文8年(1668)に天ツ宮と称してきた社名を高野山沙門の春深により梵天宮と改称された。その後、周辺に専修寺文教施設が設置された事から菅原道真公(天神)を祀る天満宮が勧請される。 官公が雷を境内井戸に封じ込めて以来当該地区には落雷が無くなったとの伝承が残っている。現社名である一御田神社は、明治期に往古の地名に因み改称された。特殊神事 御田植祭 往古より続く御田植祭は、毎年5月に催行される特殊神事で、板書に記された御田植歌の歌詞からも伊勢の神宮への御供米調進を行っていた関係を伺い知ることが出来る。現在は拝殿前に砂利で田の形を造り神職が歌を奉唱する間、稚子(女児)が松葉を苗に見立てて植栽して地域の豊作と平和を祈願する。主祭神 高皇産霊神、神皇産霊神(天ッ神)合殿 菅原道真公、大山祇神、大山津見神、大日霊貴神、猿田毘古大神、波迩夜須毘売神、金山毘古神、深淵之水夜礼花神、天宇受売命、火産霊神、豊宇気比売命、宇迦之御魂神境内地に一御田神社・天満宮・花山稲荷神社・慰霊殿が鎮まる。 祭祀 歳旦祭 天満宮祭 節分祭 初午祭 御田植祭 慰霊祭 例祭 七五三祭 大祓祭昭和34年には所蔵品27(能面、棟札、扁額、板書御田植歌等)が津市より歴史資料文化財に指定されている。』当社が伊勢神宮への御供米調達を行っていた由緒に因み、現本殿は遷宮後の神宮末社社殿を拝領されたもの。拝殿左側の花山稲荷神社の朱の鳥居。奉納鳥居の先は覆屋と切妻屋根の本殿が建てられています。御田植祭が行われる境内と社殿の眺め。 当初は専修寺の傍らに鎮座する小規模な神社という印象だったが、専修寺が建てられる以前より、一身田集落を見守り、村人が受け継いできた歴史のある神社だった。目的地であった国宝二堂を有する専修寺と、専修寺より以前に一身田に鎮座する一御田神社を訪れ当地を後にして津に戻ることにします。 一身田町にはこれらの他にも見どころの多い土地柄なので再度訪れたいと感じた。津市一身田町「一御田神社」創建 / 不明(嘉吉元年の棟札)祭神 / 高皇産霊神、神皇産霊神境内社 / 花山稲荷神社、天満宮、慰霊殿例祭 / 御田植祭他所在地 / 三重県津市一身田町679 参拝日 / 2026/7/13関連記事 / ・三重の国宝二堂を訪ねて 一身田寺内町と高田山 専修寺
2026.08.11
コメント(0)

名古屋から近鉄とJRを乗り継ぎ1時間15分ほど、三重県津市一身田町地内の高田山 専修寺を訪れてきました。津駅からJR紀勢本線で専修寺の最寄り駅一身田駅に降りたつ。 座れて良かったと安堵したが、たった一駅でしかも無人駅。駅舎の西側は長閑な景色が広がり、駅舎の外観と相まって味のある駅です。駅舎付近で見かけた一身田寺内町マップ。 駅の西側には旧伊勢別街道が伸びており、「いせみち」「参宮道」「山田道」などと呼ばれる。関宿東追分から津市芸濃町、津市一身田を経て、伊勢街道に合流する江戸橋までの総距離およそ18kmの街道です。 政治の中心が大和にあった頃、大和から伊賀を通り伊勢に至る主要ルートで幾つかの宿場町があり、江戸時代には京都方面からの参宮客で賑わったという。一身田駅から東に300mほど進むと、左手に檜皮葺でシックな色合いの唐門が現れます。唐門(重要文化財)。 如来堂の正面に建つ門で、文化6年(1809)に木挽きが始まり、文政10年(1820)に地築き、天保15年(1844)に棟上げをしている。屋根は檜皮葺で、正面と背面の軒に大きな唐破風があることから唐門と呼ばれる。 控柱4本が腰長押から下で、斜め外に踏みだした形になっているのは注目される。材料はすべて檜造りで、厳しく吟味された良材が用いられ、細部まで入念な仕事が施されています。 腰長押と飛貫との間、扉、その脇の小壁、欄間には勢いのある菊、ぼたんの透かし彫が彫られ、他の部分にも親子の獅子や力士の彫刻がされるなど、華麗で複雑な構造をした門である。造営時に配られたと思われる木版刷りの立面図が残っていて、それによると始めは檜皮葺と本瓦葺の2案が考えられていたらしい。 大工の棟梁は近江国八幡(滋賀県近江八幡市)の高木作右衛門光規、同光一の2代で、光規は如来堂を建立した人物の孫にあたる。唐門正面から如来堂の眺め。唐門から東へ約80m進むと、入母屋瓦葺の二層の山門が建っています。 高田山専修寺の総門に当たる重厚な門で、この門の南側には石畳の参道が伸びています。専修寺山門(重要文化財)。 御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたる。すぐ前には、道をへだてて石畳が伸び、その途中にある石畳や釘貫門、左右にある玉保院、智恵光院、さらに古い町並と一体になって、本山の門前にふさわしい雰囲気をつくっている。 2階建て、間口20m、奥行9m、高さ15.5mの大きな門である。正面の柱間は5間で、そのうち中の3間に扉を付けて入口とし、2階内部には釈迦三尊像を安置している。 下層の組物は大仏様の形式をとり、挿肘木という肘木が斗にのらず直接柱に挿し込まれる形になっている。全体の形式と組物の用い方は京都の東福寺三門(国宝)、応永12年建立(1405)とよく似ており、参考にしたと思われるが、裏側で3間分だけ屋根が張り出す裏向拝は他に例をみない珍しい手法である。 瓦の刻銘その他の史料によると、元禄6年(1693)ごろから建築にとりかかり、宝永元年(1704)頃に完成したものと思われる。柱などの部材の傷みや傾きが激しくなったため、平成5年より3年がかりで大規模な修理が行われた。大きな山号額さえ小さく見えるほどの威厳ある山門。山門から眺める御影堂(右)と如来堂。高田山 専修寺の伽藍配置。 広い境内、まずは真宗を開いた親鸞聖人を祀る御影堂に向かいます。境内から銅燈籠と山門、手水舎、唐門の眺め。銅燈籠(津市指定有形文化財) 江戸時代。この銅燈籠は、辻越後守陳種の代表的な作品で、笠には8個の蕨(わらび)手がのびやかにつけられ、笠の上には火焔の付いた宝珠がのせられています。基礎と中台は側面を8つに分けていて、基礎には唐獅子が浮彫りされ、全体に釣り合いのとれた、どっしりとした重厚な風格を感じさせる燈籠です。どちらも飯高郡名残町(松阪市新松ヶ島町)の小嶋角兵衛慶次等が3人の33回忌供養のために寄進したもので、この3人の供養が終った後の寛文11年(1671)と延宝7年(1679)に造られたものと考えられます。専修寺ではこの年の9月、御影堂の再建落慶法要をとり行っています。作者の辻氏は釜屋町に住んでいた鋳物師で、このほかにも津市内の寺院の梵鐘や銅燈籠など多くのすぐれた作品を残しています。専修寺には、辻越後守陳種の先代の辻越守重種とその一族氏種が鋳造した銅鐘(市指定文化財)が鐘楼(重要文化財)にあります。山門正面に鎮座する入母屋瓦葺の御影堂。 右側から眺める破風の意匠。三間の大きな向拝。 屋根を支える部分(尾垂木)の先端には龍・獅・麒麟・象の彫刻が施され、蛙股に中国の故事にちなんだ人物の彫刻が見られ、細部に手の込んだ意匠が施されている。御影堂(国宝)江戸時代。 専修寺伽藍の中心にある建物で、真宗高田派の開祖親鸞聖人の坐像と歴代住持の画像(これらの像のことを御影と呼ぶ)を安置しているので御影堂といわれる。正保2年(1645)の大火ののち、津藩2代藩主藤堂高次から土地の寄進を得て、境内地がそれまでの3倍の約3万坪に拡がった。 その境内地の中央に万治2年(1659)から建設が始められ、寛文6年(1666)に完成した。間口約42m、奥行約33mという大建築で、近世以前の国宝指定仏堂のなかで全国5番目の大きさを誇る。 屋根瓦は約19万枚使われ、中の畳も内陣の板の間をのぞいて729畳も敷かれている。外観は和様という日本的で重厚な建築様式になっているが、内部は金欄巻きの柱、極彩色の天井、欄間の牡丹の彫刻など豪快さが目立つ。 本体と向拝をつなぐ虹梁上の構造が長野の善光寺本堂などと同じ構造なのも特徴の1つである。大工の主棟梁は江戸坂本三左衛門であったと伝えられているが、この人物は江戸幕府の御用大工だったらしく、藤堂藩を介して専修寺御影堂の建設に加わったと思われる。 また脇棟梁のひとり森万右衛門は一身田の人で、その後幕府作事方の一員として活躍したことも知られている。御影堂の内部に入り、まず目を引くのは欄間に施された彫飾りの数々。 堂内は手前から奥に向かって長細い鞘の間、大間、中陣、内陣にわかれ、鞘の間と大間の境目の欄間には鳥や花、想像上の動物など様々な彫り物が施されています。写真は欄間を左から順に並べています。中央の大きな欄間三枚には、それぞれ、想像上の動物が描かれています。 上から麒麟、龍、鳳凰が細かく彫られ色鮮やかに彩色されています。その右側の欄間の意匠。 上は孔雀に雉だろうか、下のふたつは右が鷹のように見えるが左は良く分からない。大間から中陣の眺め。 天井から梁・柱・欄間など全面に文様や彩色が施され、黄金色の欄間や柱など実に荘厳な眺めです。内陣の空殿に安置されているのが真宗を開いた親鸞聖人の坐像。 金色に輝く勅額の「見真」は明治天皇から宗祖・親鸞聖人に贈られた「大師号」。如来堂(国宝)と通天橋(重要文化財)。通天橋は御影堂と如来堂を結び、切妻瓦葺の長さ31.9mの廊下です。棟札から、寛政12年(1800)に上棟され、大工棟梁は名古屋の伊藤平左衛門吉俊であったことがわかります。また、破風の鶴の彫刻には墨書があり、寛政10年(1798)の銘があります。瓦の銘書には享和元年(1801)の年号があり、この頃に竣工したと考えられます。上は如来堂から通天橋の眺め。 下は通天橋の屋根を支える柱、この一本だけ接手が施されていたので写真に収めました。竣工後の補修の過程で施されたと思われますが、それがいつなのか定かではない。如来堂の妻壁には左甚五郎作と伝えられる鶴の彫物が取り付けられています。専修寺如来堂(国宝)江戸時代 。御影堂の西にならぶ建物で、堂内中央に「証拠の如来」と呼ばれる専修寺の本尊阿弥陀如来立像(国指定重要文化財)が安置されています。「如来堂御建立録」によると、享保4年(1719)に建設が始まり、資金不足のために工事には30年近くを要し、寛延元年(1748)に落慶遷仏の行事が行われた。東南隅の礎石に「寛保三年(1743)七月十二日」「本覚道元信士 俗名勘六」という刻銘があり、勘六という老人が工事の成功を祈願して人柱になったという伝説が残る。屋根は2重になっていますが、2階部分はなく、下の屋根は裳階といって庇のような役目をしています。全体は禅宗様式で、組物が複雑で彫刻も多く、華麗な印象を受ける建物です。上は内陣の眺め。 欄間の上には煌びやかな笙、太鼓、琴などの雅楽器の彫刻が施されています。極楽浄土ではその音を聞く者は皆、三宝(仏・法・僧)を敬う心を起こすとされ、全てが美しく調和する浄土世界を表現したものという。下はご本尊の阿弥陀如来像を納めている金色の宮殿。 彫刻や金箔で華麗に装飾され、扉には元文六年(一七四一)に京都で制作されたと記されているという。本尊の阿弥陀如来像(証拠の如来)。かつて比叡山延暦寺は真宗の教えに対し、高田派に疑義を抱いた時代があったといわれています。高田派第10世、真慧上人はその疑義を解くべく、比叡山延暦寺の学僧に対し教えを詳しく伝えた結果、延暦寺はその教えが真宗正統であると認め、証として阿弥陀如来像を専修寺に贈られたそうです。そのことから尊像は「証拠の如来」と呼ばれ一身田本山専修寺の本尊となっている。製作年代は、鎌倉時代中期、13世紀後半頃とされ、衣全体に繊細な切金文様が施され、慶派仏師・快慶の様式を伝えるもので、足裏に仏足文を表し、手足の指の爪や蓮華座の蕊に金属を用い、本体を銅柱で台座に固定するなど特色ある造法のもの。如来堂全景。 東大寺大仏殿にも通じる外観は、入母屋平入で、三間の向拝の中央に唐破風が付く大建築。伽藍全体を通して組物の意匠は非常に精巧です。 如来堂左の太子堂と境内に置かれた無数の鉢植えの蓮。 当日は蓮の花が咲き始めていました。太子堂から左に進んだ先の御廟拝堂・御廟唐門。御廟拝堂・御廟唐門及び透塀(重要文化財)江戸時代。 正面の御廟唐門から御廟拝堂、石橋と続き、その奥に親鸞の墓「御廟」があり、それをとり囲むように専修寺歴代住持の墓が配置されています。御廟唐門は文久元年(1861)の建築で、屋根は檜皮葺、長押や柱の間や扉などは工芸品のように美しく隙々まで彫刻で埋め尽くされています。 左右に連なる透塀も同時に造られたもので、腰廻りにスイセン、ハス、タンポポなどの草花の彫刻が付けられています。御廟拝堂は江戸後期の銘文で安政5年(1858)の建築と考えられ、屋根の4面に千鳥破風を付け、正面軒に唐破風を付けています。 内部の床は瓦の接ぎ目を斜めにした、いわゆる四半敷で敷かれています。親鸞の墓「御廟」は寛文12年(1672)、専修寺に伝えられていた親鸞聖人の遺骨5粒を埋めて造られたものです。御廟唐門と透塀。御廟拝堂。 入母屋瓦葺で前後に千鳥破風が付き、正面に唐破風が付くもの。拝堂正面全景。 拝堂正面や唐破風向拝の意匠も手が込んだもの。上は拝堂内部から御廟の眺めと御廟の全景、親鸞聖人のお墓になります。 右手の切石が積まれ、石柵と石門で囲われた中に、四角形の石が置かれているだけで墓標もない。古目録に、寛文12年(1672)この墓を造営し、遺骨の一部を埋納したことが記されているという。 拝堂の右奥に雲幽園や安楽庵がありますが、当日は立ち入り禁止だったので、ここから再び御影堂に戻り、境内右側の伽藍を見てまわります。 専修寺鐘楼(重要文化財)江戸時代。 一般的な鐘楼建築と同様に1間四方で、入母屋造の屋根をのせている。4隅の柱は、先を内側に倒した四方転びという形式である。 その間には、八角形の柱が2本ずつ入れられている。肘木の先を大仏様風にするなど、全体的に奈良東大寺鐘楼に似たイメージを与える。 平成5〜7年に行われた大修理において、鬼瓦から正徳元年(1711)の刻銘が発見されたので、そのころに再建されたものと思われる。江戸時代中期の大型の鐘楼として質も高く、貴重な建物である。銅鐘(津市有形文化財)江戸時代。 専修寺第15世専朝の夫人高松院が専朝の7回忌を迎えるにあたって、慶安5年(1652)に辻雄佐守重種と一族の氏種に鋳造させたものである。高松院は初代津藩主藤堂高虎の長女である。 堯朝は江戸幕府より専修寺に伝わる親鸞自筆の文書を将軍家へ献上せよと、働きかけがあったことに対して抵抗したと言われており、正保3年(1646)江戸で切腹している。その時堯朝は32歳の若さであった。 作者の辻氏は津の釜師町に住んでいた鋳物師で、この地方にすぐれた作品を数多く残している。鐘には慶安5年の銘文がある。大玄関・対面所(重要文化財)江戸時代。 御影堂の北東にあたる対面所・大玄関をはじめとする建物は、天明3年(1783)の火災で焼失しており、対面所は天明5年(1785)に再建されました。桁行24.5m、梁間19.5m、入母屋造本瓦葺の建物で、召見殿とも呼ばれます。 本山寺院にふさわしい規模と品格を備えた建築で、3室5列の15間と、その周囲を廻る入側縁をもつ間取りは壮大です。大玄関は対面所から少し遅れて寛政2年(1790)に再建されたと伝えられています。 再建当初は対面所の東に位置し、正面を東にして建てられていましたが、明治11年(1878)に現在の位置に移築され、その際に正面を南向きに変更されました。大玄関・対面所の右側に建つ食堂、ここから奥に進むと宝物館 燈炬殿に至ります。食堂の右の太鼓門、この門から東側が境外になります。 平屋建ての長屋門の上に三層の櫓をのせ、最上階に大太鼓が吊られている事から「太鼓門」と呼ばれています。専修寺の外周は環濠が廻らされていますが、東側の濠は太鼓門より更に東に見られ、かつての寺領はかなり広大だったことが伺えます。参拝を終え山門から境内を後にします。 山門の先には石畳が伸び、その左右に玉保院、智恵光院が鎮座し、その先の釘貫門が境内と門前町を区切っています。三重の国宝二堂を訪ねて 一身田寺内町と高田山 専修寺宗派 / 真宗高田派 本山創建 / 文明年間(1469~1487)開山 / 真慧本尊 / 阿弥陀如来(証拠の如来)所在地 / 三重県津市一身田町2819参拝日 / 2026/07/13専修寺公式HP
2026.08.08
コメント(0)

うんざりする酷暑が続き、空調の効いた部屋から一歩も外に出たくない毎日が続く。 そんななか、外に出かけろとばかりにTDSのチケットが届いたので7/8から7/9にかけて東京に出かけました。今回の目的は前回未完成だったフローズンキングダムとTDSアニバーサリーイベントのスパークリング・ジュビリー・ナイトとシー・オブ・ドリームスを鑑賞、二日目は台場からレインボーブリッジを歩き、帰り際に明治神宮・靖国神社に参拝し、ごった返す観光地には近寄らないものだった。名古屋から遅めの新幹線に乗車し一路TDSへ。到着したのは昼頃。開園から今年で25周年を迎え、場内はジュビリーブルーをテーマカラーにした装飾が盛りだくさん。これもそのひとつ、よく冷えたビールが注がれたアルミ製のカップは手に持つだけで火照った体をクールダウンしてくれる。 入場後真っ先にフローズンキングダムの列に並ぶ、アトラクションに入ってしまえば涼しいのだが、並んでいる時間は陽射しから逃げようがない。予約システムもあるが、それのために映画一本分投資することになる。 炎天下の下、リスクを抱えながら並ばせるくらいなら、一般客のゲートに端末を読み込ませ、搭乗30分前に知らせるシステムを導入しないのだろうか。 姑息な者がいたりするので並ぶしかないのだろうが、回転ずしの席待ち対応の方が遥かに自由が利く。この日はフローズンキングダム・ネバーランドアドベンチャー・ヴェネツィアン・ゴンドラの三つを巡り夕刻を迎える。 このメディテレーニアンハーバーの海上とホテル外壁を使用した映像でショーが行われます。色々な仕掛けとキャラクターが乗った台船がハーバー内を航行し、30分ほどのショーでしたが、花火とともに存分に楽しむことができた。 尚、花火打ち上げについては大人の事情から夏季は中止になっており、8月に打ち上げ予定はなくある意味貴重な体験だったのか。 東京ディズニーシー所在地 / 千葉県浦安市舞浜1-13今回のホテルは有明の相鉄グランドフレッサ 東京ベイ有明、お任せで予約したら19Fのエグゼクティブスイートだった。 二人一泊のスペースとしては十分すぎるものだった。予定では、ここから歩いてレインボーブリッジの夜景を見がてら橋を歩くはずだったが、空調の効いた部屋に入るや外に出る気は失せ、ホテル内のコンビニで酒を買い求め酒盛りに変更。相鉄グランドフレッサ 東京ベイ有明所在地 / 東京都江東区有明3-6-6翌朝、夢の大橋を越えて台場公園まで片道約2.3kmの散歩。 もともと海だった所を埋め立てて造られた地域だけに、都心に比べれば解放感があり、風を感じられるが、自然の木陰などは皆無と言ってもいい。おだいばビーチからレインボーブリッジの眺め。 手前の石垣で囲まれた島は品川台場の第三台場と奥の小島が第六台場で左が鳥の島と呼ばれる堤防。今回の目的地はかみさんに全て任せ、リクエストはしなかったが、ここにくると聞いて、台場は一度見たい場所でもあり、橋に向かう前に第三台場を訪れた。お台場海浜公園の北側にある人工島、品川第三台場。 フジテレビや自由の女神像がある台場の由来となった建造物が品川台場。台場の名からも分かるように、ここは海上から江戸進入する船舶の侵入を阻止する目的から造られた人口の要塞跡で見所はこの石垣にあります。 鎖国を続けてきた日本、嘉永6年(1853)7月、突如現れた黒船の来航に危機を感じた江戸幕府は、江戸湾の海防強化のため6つの台場を築造しました。当初は南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の台場を築造する構想だった。工事は翌月の嘉永6年(1853)8月末から昼夜兼行で進められ、台場で使われた主な石材は、伊豆や房総半島から切り出された安山岩や凝灰岩、土丹岩が品川台場に送られ、翌年7月に第一・第二・第三台場、12月には第五・第六台場と途中で加えられた陸続きの御殿山下台場が完成した。築造時の絵図など残ります。重機のない時代、僅か1年で海上に築かれた台場(砲台)は、将軍家に近い大名によって、慶応4年(1868)の幕府崩壊直前まで江戸湾警備の拠点として機能した。その台場の一部が現在残る第三台場と第六台場になります。台場は全周を土塁で囲み、その中に砲台・玉薬置所・火薬庫・陣屋・竈が設けられたが、礎石が残るのみで砲台などは後に復元されたものという。海に浮かぶ台場は、第三・第六台場を残して埋め立てや撤去により姿を消したが、石のみ跡が残る石垣は当時をしのばせてくれる。現在の第三台場は、都立台場公園として無料開放されています。台場からレインボーブリッジ遊歩道へ。 やはりここは夕涼みがてらに夜景を見に訪れるのがいいだろう。P29橋脚から先の眺め、左下に写り込んでいるのが第六台場、渡るかと思っていたがここからUターン。朝の散歩には結構あるか。 ここからP31橋脚に戻り、サウスルートの歩道から台場方向に向かう。サウスルートP29橋脚から眺める第三台場、夜では見えないかなぁ。P29橋脚のお台場海浜公園解説。 この後、お台場海浜公園駅からゆりかもめに乗車し有明駅に戻り、ホテルを後にして明治神宮参拝に向かった。台場公園 所在地 / 東京都港区台場1-10-1都心に造られた広大な杜の中に鎮座する明治神宮。 初詣参拝者数全国一位を誇り、明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社。写真は三ノ鳥居から南神門。明治神宮所在地 / 東京都渋谷区代々木神園町1-1靖国神社、護国の英霊を祀る神社。 みたままつりの準備が進み、日本人として一度は参拝に訪れるべき神社だろう。両社ともに参拝者の8割近くがインバウンド客だったのに驚いた。靖国神社所在地 / 東京都千代田区九段北3-1-1皇居東御苑。 一度は一般参賀の列に加わってみたいと思いながらも叶わない。今回は北桔橋門から天守台の石垣を眺め、大奥跡の木陰で横になり休憩の後、皇居東御苑を横断し大手門から東京駅に向かう。江戸城天守台所在地 / 東京都千代田区千代田1東京観光(TDS・台場公園第三台場・明治神宮・靖国神社・江戸城天守台)2026/7/8~7/9
2026.08.07
コメント(0)

JR身延線「善光寺駅」から北へ約1km。また、中央自動車道「笛吹八代スマートIC」から県道313号線・国道411号線を経て約20分の場所に、甲府市善光寺に鎮座する甲斐善光寺があります。上は境内の観光マップで、場所は山梨県庁から東へ約3kmほどに位置します。 善光寺駅の東側にある「善光寺入口」交差点を北へ進むと、表参道にあたる善光寺通りに入ります。道の正面奥には、朱色の山門と金堂の屋根が遠くに見えてきます。約1kmほど真っ直ぐに伸びる善光寺通りの正面に、甲斐善光寺の二層の朱塗りの山門が堂々と聳えています。寺の入口となる朱塗りの堂々たる山門は、ほぼ南向きに建てられた桁行5間に梁間2間の入母屋銅葺き屋根の二層の門で、上層は擬宝珠高欄が廻され、両脇に火灯窓と連子窓が施され、中央に定額山の寺号額が掛けられています。 下層の正面3間は壁や扉のない吹放ちで、両の間に仁王像を安置しています。桁方向が約17mで梁方向は約7mにも及び、屋根までの高さは約23mにもなる巨大な楼門。両の間に安置されている仁王像、なにか違和感は感じないだろうか。 山門から金堂を望む。 山門をくぐって左に立てられている山門解説。 国指定文化財の山門は江戸時代中期の宝暦四年(1754)大火で本堂と共に焼失したが、明和四年(1766)金堂に先立って上棟供養が行なわれている。昭和34年の台風で被災したが、翌年に修理がはじまり、昭和37年(1959)に竣工したが、約70年を経た現在は朱も剥げ落ちており、次の修復が必要な時期にきているようだ。 その際は無数に貼られた千社札を一掃してほしいものです。境内から善光寺通りを望む。香炉台と金堂、左は手水舎の眺め、写真では切れていますが左に地蔵堂がある。上は栞の境内マップ・周辺マップと甲斐善光寺の文化財の解説。香炉台左の地蔵堂の眺め、後方に芭蕉翁月景塚がある。地蔵堂内の眺め。 祭壇には無数の水子地蔵が安置されています。澄み切った水を湛える庭園の脇に立つ芭蕉翁月景塚の石標。宝珠の付いた宝形屋根の下の手水鉢。金堂を左斜めから眺める。 二重の屋根の撞木(しゅもく)造と呼ばれる形式で、正面の三間の向拝には唐破風向拝、左右に一間軒唐破風が付くもので、何れの向拝も肘木や木鼻など意匠に拘りを感じます。信濃善光寺のシックな色合いに比較すると、朱に塗られた甲斐善光寺金堂は華やかで堂々とした大建築です。甲斐善光寺栞の由緒は以下のようなものです。 『当山は、開基武田信玄公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)、御本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まります。板垣の郷は、善光寺建立の大檀那本田善光公葬送の地と伝えられ、善光寺如来因縁の故地に、開山大本願鏡空上人以下、一山ことごとくお迎えいたしました。 その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、慶長三年(1598)信濃に帰座なさいました。甲府では新たに、前立仏を御本尊と定め、現在に至っております。 江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭を勤め、徳川家位牌所にもなっておりました。豪壮な七堂伽藍は、一度焼失いたしましたが再建され、東日本最大級の伽藍として広く知られております。 また、重要文化財五件・県指定文化財四件、市指定文化財八件をはじめとする文化財の宝庫として著名で、その一部は宝物館等で公開しております。』とある。現在の金堂は寛政8年(1796)に再建されたもので、総高27m、奥行49mという大建築で、内部は前寄りの二間が外陣、一間を中陣、三間が内陣、四間を内々陣、後方一間が後陣となっている。武田菱の下の懸魚に花をあしらった鰭と妻壁の装飾。正面の三間の破風にあしらわれている龍の彫飾り。 こちらは向かって左側。中央の龍の彫飾り。右側の龍の彫飾り。向拝から外陣、中陣の眺め。金堂正面厨子に安置される、本尊阿弥陀三尊像は、建久六年(1195) 尾張の僧定尊が、信濃善光寺の前立仏として造立したものという。 善光寺の本尊は、仏教伝来とともに将来された、生身すなわち、実際に生命が宿っている霊像として深く信じられており、絶対の秘仏のため、人々が拝むことは叶いません。そこで鋳造されたのが、本尊であるとされ、本像は、いわゆる一光三尊式善光寺如来像の中では、在銘最古、かつ例外的に大きな等身像として知られています。 御開帳は信濃善光寺と同様、七年ごと開催されます。次回は令和九年四月四日から六月十九日までの七十七日間の予定です。 (写真は栞の画像を加工したもの)向かって右側の脇向拝から中陣の眺め。 天井には、巨大な龍が二頭描かれており、中陣の廊下の部分のみ、吊り天井となっており、特定の場所で手を叩くと反響による共鳴が起こり鳴き龍と呼ばれます。各地に鳴き龍はありますが、共鳴の度合いは経験した中では一番のもの。 拝観料を収めると鳴き龍の他にも後陣にかけて安置されている仏像や金堂の地下に造られた戒壇廻りもあります。信濃善光寺、元善光寺ともに戒壇廻りでは鍵は見つけられず、かみさんに導いてもらったが、ここ甲斐善光寺で初めて鍵に触れることができました。 暗闇で実感はないが、内部は「心」の字をかたどっているとか。脇向拝の意匠。金堂右側の鐘楼堂に吊られる梵鐘(県指定文化財)は、「引き摺りの鐘」と呼ばれ信州から引きずって運ばれてきたと伝わっています。正面の鳥居の先には正一位稲荷社が祀られています。稲荷社社殿全景、額には「正一位王子稲荷大明神」と記されていますが創建等の詳細は不明。 荼枳尼天を祀り、後方にも複数の石の社が並んでいます。鳴き龍が描かれた御朱印。 今回金堂後方まで廻っていませんが、後方には薬師堂や阿闍梨の井戸、秀吉家臣加藤光泰の墓などがあり金堂を一周することができます。 甲斐善光寺は、参詣客や食べ歩きで賑わう信濃善光寺とは違って落ち着いて参拝できました。甲斐善光寺宗派 / 浄土宗本尊 / 善光寺如来創建 / 永禄元年(1558)開基 / 武田信玄所在地 / 山梨県甲府市善光寺3-36-1参拝日 / 2026/6/12関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(2)奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」・ほったらかし温泉に新たに勧請された『全国オートバイ神社第45号』・甲府市徳行「式内 笠屋神社」・甲斐國一宮 淺間神社・白須 若宮八幡神社
2026.08.06
コメント(0)

山梨県北杜市白州町白須の「道の駅はくしゅう」、その北側の杜の中に鎮座するのが白須 若宮八幡神社です。 道の駅に駐車し徒歩1~2分の距離になります。社地南側の細い通り沿いに若宮八幡神社は社頭を構えています。社頭脇の由緒。 仁徳天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、武田家代々崇敬された神社で、境内に町指定天然記念物のモミの巨木がある。若宮八幡神社社頭の全景。 小高い丘の入口から石段が伸び、その上の社殿に続く。鳥居の前を守護する狛犬は、毬持ち・子持ちのもので、平成2年に寄進された若いものです。阿形の背後に古そうな手水鉢があり、その奥に複数の石の社が祀られています。ここには社名不明の五社が祀られています。嘉永四年(1851)に寄進された鳥居には、「若宮八幡宮」の額が掲げられている。鳥居をくぐると、入母屋・銅葺の拝殿が建つ。拝殿に額はなく、比較的新しい三枚の奉納額が掛けられ、中央の額には信玄の姿が描かれています。境内は二段構成となっており、下段に拝殿・幣殿、上段には覆屋が建てられ、その右手に社名不明の石祠が祀られています。覆屋内の本殿は流造で、本殿左側の斜面にも石祠が祀られています。白州町誌(1986)の当社解説は以下。 「若宮八幡神社(旧郷社)鎮座地 白須1598番地 祭神 仁徳天皇・神功皇后・応神天皇祭日 九月二十三日由緒 『岐北神社誌』には、後醍醐天皇の御子・守邦親王の時代に勧請・創建されたと記されています。一方、『甲斐社記』では「勧請の時期は年暦が分からない」としつつ、伝承として、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光が任国の折に神主・石田道麿へ命じ、宮原の北側に白須八幡宮を鎮座させたとあります。 これ以降、武田家の祈願所として代々厚く尊崇されました。永禄年間(1558~1570)には、白須刑部少輔義政が馬場信房と協力し、現在地へ遷座して社殿を造営しました。 徳川氏の治世においても崇敬を受けたと伝えられています。明治四年に上知となり、明治六年には郷社に昇格して社勢は大いに栄えました。 しかし、明治四十年(1907)九月十六日の祭典で、提灯の失火により本殿・拝殿が全焼しました。その後、明治四十三年五月にようやく再建され、大正三年(1914)四月二日に神社財産登録の許可を受け、現在に至っています。若宮神主殿 社殿建造物 仮本殿・拝殿・石灯籠・石鳥居宝物 青銅神鏡一面、掛軸一軸(宗良親王白須松原を詠める御歌、阪正臣書)、額面三面。境内末社 琴平社・東照宮社・道祖神社・稲荷社・山神社・八坂社・熊野社・秋葉社・愛宕社・石尊社・春日社。その他 境内にモミの巨木がある。根回り6.5m、目通り幹囲5.84mの規模であったが、落雷で幹部は中断、南枝が伸びているが、幹の内部は空洞。町の天然記念物に指定されている。」創建時期や、当初の鎮座地とされる「宮原」が現在のどこにあたるのかは明確ではないが、永禄年間(1558~1570)当地に遷座したようだ。拝殿の向かいに聳えるモミの巨木。 落雷により主幹は途中で失われてしまったが、脇の枝から上に向け伸び続けている。樹齢は書かれていなかったが、落雷前の樹高がどれほどのものだったか知りたいところです。若宮八幡神社の社頭から左へ進むと、別の参道と思われる鳥居が立っています。 当初、脇参道かと思っていたが、石段を上ってみるとどうやら違うようだ。昭和17年寄進の鳥居をくぐると一対の常夜灯が立てられていました。この辺りは若宮八幡神社の境内にも繋がっていますが、参道は更に上へ伸びています。 参道左側に解説板が立てられていた。「旭嶽皇大神宮社前宮。祭神 天照大神・成田不動明王 由緒 口伝によれば、成田山不動明王のお告げにより、開祖酒井鉄次郎(天神霊神)崇敬者と計り地蔵嶽中腹旭嶽に社殿を建立、御祭神二柱を勧請し祭祀したが、老若者の参詣困難なため、昭和10年(1935)現在地に大教正伊奈波弘宜 前宮を造営し国家太平家内安全を祈願した。春宮祭 4月20日 末社 八方神社他6社。」昭和10年に建立された前宮とあるが、文中にある「地蔵嶽中腹旭嶽に社殿」がどこにあたるのか分からない。 「老若者の参詣困難」……?、この参道の方角には赤岳があるが、地蔵嶽は知らない。解説の後方に聳える甲斐駒方面には地蔵ヶ岳はあるが、向きが違うように思える、……良く分からない。上に続く石段の先の常夜灯、ブッシュの先に複数の石の社の姿が見られます。 それが前宮なんだろうか。確かめにいこうか? いやいやローカットのスニーカーでブッシュに分け入る度胸はない、ここまでにしておこう。諦めて道路に戻り若宮八幡神社の杜の全景を収める。杜の西側の田畑の先には甲斐駒方面の山々が迫る。白須 若宮八幡神社創建 / 諸説あり当地への遷座 / 永禄年間(1558~1570)祭神 / 仁徳天皇、神功皇后、応神天皇境内社 / 琴平社・東照宮社・道祖神社・稲荷社・山神社・八坂社・熊野社・秋葉社・愛宕社・石尊社・春日社例祭日 / 九月二十三日所在地 / 山梨県北杜市白州町白須1598 参拝日 / 2026/6/12関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」・ほったらかし温泉に新たに勧請された『全国オートバイ神社第45号』・甲府市徳行「式内 笠屋神社」・甲斐國一宮 淺間神社
2026.08.03
コメント(0)

前回掲載した圓通寺から、第十七回の最後の札所となる八十七番札所 鷲頭山長寿寺に向かいます。 私たちは圓通寺から東に向かい、愛知用水沿いを名古屋南JCT方向に進みました。 この日は大気が不安定で、雨雲レーダーではまもなく通り雨が降りそうなので、イオンモール大高に向かい食事を摂りがてらやり過ごすことにしました。 近頃は天気予報より雨雲レーダーの方が頼りになり、イオン到着とともに雲が沸き立ち、雨が降り出し辛うじて濡れ鼠を免れました。 このまま降り続けるようなら、JR南大高駅から帰ることも考えましたが、食事を済ませ外に出ると嘘のように晴れ上がり、長寿寺を目指すことにした。イオンモール大高から東海道新幹線をくぐり、県道50号線をJR大高方向に北上した約2km地点。 丸根砦を越え、名古屋市緑区大高町西丸根に鎮座する山神社が見えてきました。ここまでくれば長寿寺は目と鼻の先です。 山神社は過去に参拝しており、過去記録に参拝当時の様子を貼り付けておきます。山神社から500mほど先の緑区大高町鷲津山に鎮座する長寿寺に到着。長寿寺を象徴するといっても過言ではないコンクリート造りの鐘楼門。 右手の赤い鳥居は鎮守社の高蔵坊稲荷。その昔、住職の高蔵坊は寺が傷み修理ができず憂いていた、この山には一匹の狐が住んでおり、住職はこの狐をとても可愛がっていました。 狐は住職の嘆きを知り、住職に姿を変え、村々を巡ってこの寺の御利益を説いて廻ったという。その結果、各地からお参りの人々がつぎつぎ訪れる様になり寺は立派に修理できたということです。 村人はその狐を高蔵坊狐と呼び、お堂を建て祀ったのがはじまりという。こちらも過去記録に参拝当時の様子を貼り付けておきます。左の長寿寺の由緒は以下のようなものです。 鷲頭山と号し、臨済宗永源寺派。当山はもともと真言宗長祐寺と称したが、1560年(永禄3)鷲津砦の兵火で伽藍を焼失。 江戸時代、大高領主の志水忠継の母長寿院は黄檗宗への信仰が厚く、その臨終に際しこの地に禅寺の建立を孫忠時に遺命した。1682年(天和2)徳川光友の援助もあり伽藍が竣工し、春日井郡三淵村の臨済宗黄檗派(現在の黄檗宗)の「紫金山慈眼寺」を開山した越伝和尚を招聘し中興開山、この時宗派を黄檗宗へ改宗、寺号を長寿寺に改めた。 宗派が臨済宗になったのは、1691年(元禄四)の時。本尊は阿弥陀如来で知多四国霊場 八十七番札所。 その他に知多西国観音 二十六番札所、知多百観音の一番札所でもある。門前から境内の本堂の眺め、大棟の鴟尾が印象に残る。 参道左の手水舎と正面の本堂。 参道右手に庫裏、左に目指す弘法堂がある。本堂に掲げられている山号額。 まずは本堂を参拝してから、弘法堂に向かいます。堂内の眺め、本尊は阿弥陀如来。参道左手の弘法堂。弘法堂の額と鰐口。堂内の眺め。弘法堂左には西国三十三霊場石仏群が安置されています。みほとけの ふかきめぐみに おおだかの ながきよわいも ねんぶつのとく第十六巡目の歩いて巡拝 知多四国。 個人としては初めてだったが、2025年1月から1年半をかけて全十七回に参加・踏破した証がここに集結した。それに付き合ってくれたかみさんには感謝しかない。 歩いて巡拝 知多四国、第十七巡目も予定されているようです。飽きられないよう毎回コースを変え、その地域の見どころにも案内してくれる、歩きやすく参加しやすい企画だと思います。 願わくば強烈な暑さが訪れる前に回りきれるといいのだろうが、冬も暑いだけに難しい判断だろう。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 八十七番札所 鷲頭山長寿寺宗派 / 臨済宗永源寺派創建 / 不明開山 / 越博紹付開基 / 長寿院元操尼中興年 / 1689年(元禄2)中興 / 中興道雲石梯本尊 / 阿弥陀如来札所 / 知多四国霊場 八十七番札所、知多西国観音 二十六番札所、知多百観音 一番札所所在地 / 名古屋市緑区大高町鷲津山13圓通寺から長寿寺 / 圓通寺から東に向かい、名古屋南JCT方向のイオンモール大高へ、東海道新幹線をくぐり、県道50号線からJR大高方向に北上。3.9km・55分ほど。参拝日 / 2026/06/22関連記事・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 長草天神社・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 五番札所 延命山 地蔵寺・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 八十八番札所 瑞木山 圓通寺過去記事・丸根砦跡 ・『山神社』名古屋市緑区大高町・「高蔵坊稲荷神社」名古屋市緑区大高町・知多四国八十八箇所霊場 八十七番札所 「鷲頭山長寿寺」
2026.08.02
コメント(0)

前回掲載した五番札所 延命山 地蔵寺、西参道から一路北に向かい、県道23号線末広交差点を目指します。寺から北に進み、前屋敷、中屋敷と城の名残を感じさせる住宅街を抜けると、写真のように稲田が広がる長閑な田園風景となる。 舗装化された街中のうだる暑さから、水が張られた田んぼを吹き抜ける風は実に心地いい。写真は県道に出る少し手前で見かけた地蔵堂。 内部には三体の石仏が安置され、左に地蔵尊、中央は馬頭観音か、右側に一体の石仏が安置されていました。近付いて見ていないので、年代や像容など見ていません。末広交差点から右に向かい、10分程進んだ県道沿いに小さな地蔵堂が立っています。 以前訪れた際に像を写真に収めたものの、表情や年代は読み取れなかった記憶があります。今回も拝ませていただいたが、やはり年代や像容はよく分からなかった。県道は交通量が多く、歩道も整備されておらず、道路を歩く歩行者をかすめるように走り去っていく、・・・・・・教習所で何を学んできたのかと首をかしげたくなる。 そんな危険な県道を離れ、地蔵堂から右の田畑の中に続く農道を進み、正面の小高い丘に鎮座する万願寺の「圓通寺」を目指す。正式ルートでは歩道のない主要道を歩くこともあり、コースアウトばかりするのはそうした道を避けたい思いもある。地蔵堂から10分程、共和町小仏地内の小高い丘の上に鐘楼堂の屋根が見えてくる。 この先には「知多四国霊場第八十八番札所・満願霊場」と刻まれた石標が建っています。前回訪れた時は本堂の新築工事と重なり、本堂は見られず、この鐘楼堂と弘法堂だけしか見られなかった。令和五年(2023)に200年振りに本堂が再建され、火灯窓が象徴的な本堂と左の弘法堂を結ぶ渡り廊下も刷新され見違えるほど美しくなった。 落慶の年には、大府市指定文化財で平安時代に行基菩薩の手彫りとされる本尊 木造馬頭観音菩薩も御開帳されたという。圓通寺の開創は729年(天平元年)、行基菩薩が馬頭観音・子安准胝観音の両本尊を刻んだことに始まると伝えられる。 開創以来、法相宗・真言宗・臨済宗へと幾度も改宗し現在は曹洞宗の寺院。往時は七堂伽藍を有していたが、幾度も兵火に見舞われ、衰退していくが、1348年(貞和4)夢窓国師が中興開山、1593年(文禄2)昌山秀繁和尚が中興開基、1810年(文化7)の知多新四国開創に伴い、満願霊場88番札所に列する古刹。本堂は入母屋瓦葺の木造建築で、大きな向拝の先に掲げられた「圓通寺」の寺号額も新調されたもののようです。中央の本尊木造馬頭観音菩薩は脇侍に木造毘沙門天立像、木造不動明王立像を安置しています。 因みに中京競馬場の敷地に鎮座する馬頭観音堂は圓通寺住職により法要が営まれている。瓦の葺き替えなどの改修を受けた渡り廊下。弘法堂は寄棟瓦葺で向拝が付く。尾州瑞木山圓通寺観音縁起。『当寺は天平元年(729)、行基菩薩が六十二歳のとき、馬頭観音と子安観音の二尊を彫刻し、伽藍を建立して瑞木山圓通寺を創建したと伝えられています。 天慶二年(939)の平将門の乱では堂塔が焼失しました。嘉暦二年(1327)には堂宇の再建が始まり、観音開帳の法要が営まれるようになりました。 建武二年(1335)の兵乱により、堂舎は再び焼失しました。貞和四年(1348)、夢窓国師が七十四歳のときに伽藍を再建し、中興開山となりました。 応永八年(1401)には、小笠原尾張守道久禅定門が寺領布金の地に観音宝殿を建立しました。延徳年間(1489~1492)には、檀越であった浜島氏次郎左衛門が一族を率いてこの地へ移り住み、寺の外護に尽くしたと伝えられています。 弘治年間(1555頃)には、氏を山口と改めました。文禄二年(1593)、昌山秀繁和尚が諸堂を修復・整備し、中興開基となりました。 文化七年(1810)には知多新四国霊場第八十八番札所となり、満願霊場として広く信仰を集めるようになりました。当山は開創以来長い歴史を重ね、その間に法相宗・真言宗・臨済宗・曹洞宗へと法灯が受け継がれ、今日まで観音大士の霊験あらたかな寺として篤い信仰を集めています。』堂前の五色の紐は弘法大師と繋がっており、外陣に重軽石、重軽菩薩などが安置されています。瑞木山の山号額は以前同様かすれています。外陣天井は草花の絵が描かれていますが、退色と破損も当時のままで、弘法堂にも修復の手が入る日が遠くないのかもしれない。写真は圓通寺境内から南側を見下ろした先に鎮座する瑠璃山良徳禅寺。現在は無住の寺院で、こちらも圓通寺で管理されているようで、御朱印も圓通寺で頂けます。 曹洞宗禅ナビによると、『嘉永四年(1851) 、山口徳左衛門の娘ひさ(徳応妙久大姉)が、私材を投じて薬師堂を創庵。その後、三世の良貫尼和尚が伽藍を再興する。 1960年良貫尼和尚の「良」と開基戒名の「徳」を以って、「良徳寺」に改称した。2016年10月、伽藍整備に伴い、現在に至る。』とある。 「山口」の姓は、縁起に見える浜島氏が弘治年間に改姓した山口氏との関係を思わせるが、その関連については今後調べてみたい。じひぶかき だいしのめぐみ ありがたや きょうこのやまに のりのはなさく圓通寺で配布された梵字カード。これで全てのカードを揃えることができた。 第十六巡目を十七回で巡ったきましたが、次回は最終目的地 八十七番札所の長寿寺になります。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 八十八番札所 瑞木山 圓通寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 馬頭観世音菩薩、子安准胝観音開創年 / 729年(天平元年)開創 / 行基中興年 / 1348年(貞和4)中興開山 / 夢窓国師札所 / 知多四国霊場 八十八番札所、知多西国観音 二十五番札所、知多西国三十三所霊場25番、知多百観音札所2番所在地 / 大府市共和町小仏67番地 地蔵寺から圓通寺 / 地蔵寺脇参道から北に向かい、県道23号線末広交差点を右折直進。2.3km・32分ほど。参拝日 / 2026/06/22関連記事・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 長草天神社・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 五番札所 延命山 地蔵寺過去記事・知多四国霊場 八十八番札所「瑞木山圓通寺」・「全国餃子まつり2018in中京競馬場」に行ってきました
2026.08.01
コメント(0)

知多四国 五番札所 延命山 地蔵寺。 先回掲載した長草天神社の西に隣接する曹洞宗の寺院。県道249号線沿いに寺号標が立てられ、その先の山門に石段が続きます。江戸時代末期まで長草天神社は地蔵寺が管理していたこともあり、長草天神社境内から石段中ほどに繋がる参道があります。 長草天神社と延命山地蔵寺が鎮座するこの場所は、鎌倉時代の英比ノ庄の地頭 藤田民部の家人 藤次藤三左門がこの地に入り館(長草城)を築いたとされ、明応三年(1494)に勧請されたのが長草天神社。 地蔵寺は後の地頭 市村傳四郎が天正元年(1573)に建立した地蔵堂がはじまり。城址とはいいますが、遺構はなく、強いて言えばこの小高い丘陵くらいだろうか。切妻瓦葺の薬医門から袖壁が続き、長草天神の境内から眺める地蔵寺の伽藍はかつての館をイメージさせるものがある。薬医門から本堂を望む。 伽藍は正面の本堂と右の庫裏、本堂左の弘法堂が主なものになります。現在の本堂は平成十五年に建てかえられた入母屋瓦葺のもので、本尊の延命地蔵大菩薩は聖徳太子の作とされます。 地蔵寺も5年前に掲載しており、当時の姿と変わりはなく、その時の様子を過去記事にリンクを貼っておきます。下は知多四国ガイドブックからの引用です。『天正元年(1573)、地頭の市村伝四郎の勧進でこの地に地蔵堂が建てられたのが地蔵寺の起こりです。 ここ横須賀(現東海市)の長源寺から教岩玄珪和尚を迎え開創されました。慶長十九年(1614)には日山天朔和尚が伽藍を建立して開山した後、中興の祖とされる印宗定海和尚が延享四年(1747)に寺格を上げています。 なお隣接する天神社は、江戸時代末まで当寺が管理していました。本堂屋根の銅板葺きが昭和三十八年に完成。 同四十六年には庫裡が再建されました。この庫裡は、鉄筋コンクリートの平らな屋根の建物に仏教様式の大屋根をかぶせるという珍しい建築法が採られています。 平成十五年、新たに瓦葺きの本堂が落慶、白壁が美しく浄められた境内の庭に映えています。』本堂左の弘法堂と右の修行大師像の眺め。寄棟瓦葺の弘法堂は格子戸までの外陣が吹き抜けで、その先から内陣になっている。賓頭盧尊師から外陣の眺め。堂の左側に弘法大師が安置されています。 当日は格子戸が閉じられており、姿は拝められなかった。ろくどうの のうげをちかふみほとけの りやくながくさこのじぞうでら参拝を終え、境内西側の入口から北に向かい、大府市共和町に鎮座する八十八番札所 円通寺に向かいます。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 五番札所 延命山 地蔵寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 延命地蔵大菩薩開創 / 天正元年(1573)開山 / 日山天朔和尚開基 / 教岩玄珪和尚札所 / 知多四国霊場 五番札所、くるま六地蔵 一番札所、尾州大府霊場 十六番札所所在地 / 大府市長草町本郷40 長草天神社から地蔵寺 / 長草天神社から徒歩1分。参拝日 / 2026/06/22関連記事・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 長草天神社過去記事・「延命山地蔵寺」知多四国五番札 大府市長草町
2026.07.29
コメント(0)

第十七回 歩いて巡拝 知多四国。 コースではスタートの太田川駅から大府市長草に鎮座する5番札所地蔵寺まではバスでの移動になりますが、私たちは七社之社を経由しながら徒歩で長草まで訪れました。七社之社から3km、45分ほどで目的地の5番札所地蔵寺に到着です。 今回は地蔵寺の東隣に鎮座する長草天神社を掲載します。地蔵寺と長草天神社は5年前にも訪れています。地蔵寺門前から長草町の丘陵地に鎮座する長草天神社の眺め。 社頭は右の車道側に鳥居を構えています。社頭から境内の眺め。 左側に手水舎があり、正面の石段を上ると境内が広がります。石段の両脇にそびえる大楠は、5年前に訪れた当時のまま、今も相変わらずみごとなものです。境内の様子も当時と変わっていません。 当社の由緒について、5年前は愛知県神社名鑑を見ることができず、社頭の由緒を頼りにしましたが、改めて神社名鑑を読むと前回は気付かなかった由緒も見えてきた。『十二等級 天神社 旧指定村社鎮座地 大府市長草町本郷四四番地 祭神 菅原朝臣道真、天照大御神、豊受大神、誉田別命、大山祇命由緒 社伝によれば地頭 藤次藤三左門の勧請により、明応三年(1494)配祀せり。各付士官市村傳兵衛尉勝行崇敬せられ、社殿改築費若干寄付せらる。 尾張志に「天神ノ社 荒神ノ社 八幡ノ社 神明ノ社二所 山神ノ社 田神ノ社 八社共に長草村にあり」とある。明治五年、村社に列格し、同四十二年字八幡西無格社八幡社を合祀する。 同年十月二十六日、指定社となる。神徳 進学・就職 例祭日 二月二十五日に近い日曜日社殿 本殿 流造、拝殿、社務所 特殊神事 どぶろく祭 当社創祝の明治三年より、毎年どぶろく酒を例祭当日前に供え、祭典終了後、参拝者に振舞う神事。現在神酒醸造は氏子に六組の小部落があって、その一組が輪番で酒元奉納組となり、毎年一月に「どぶろく酒」を仕込み、一ヶ月余も身を清め昼夜奉仕して醸造する。』二回目ということで、5年前の記事へのリンクを貼っておきます。こちらの神社はどぶろく祭りで知られ、境内左に醸造所を設け祭り用のどぶろくを醸造し、祭りの際に振る舞われます。 歴史のある祭りですが、寛文五年(1665)から三年間、神酒醸造を中断したところ、村内に悪病が流行し、多くの村人が亡くなったという。人々はその原因を神酒醸造を中止したことによる神罰と恐れ、寛文八年(1668)から醸造を再開したところ、以後は凶事や凶作もなく平穏な村になったと伝えられています。 以来、途絶えることなく神酒醸造は受け継がれている。醸造所右側に見えている境内社は津島社と五社宮。 あれから5年が経っているが、社殿や境内は当時のままの姿を留めていました。五年ぶりに訪れた境内は、当時と変わらぬ静けさに包まれていました。 それでは隣接する知多四国第五番札所 地蔵寺へ向かいます。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 長草天神社創建 / 明応三年(1494)祭神 / 菅原朝臣道真、天照大御神、豊受大神、誉田別命、大山祇命境内社 / 津島神社、五社宮例祭 / 2月25日直前の日曜日氏子域 / 大府市長草町所在地 / 大府市長草町本郷44 七社之社から長草天神社 / 七社之社から東方のJR共和駅方向へ3km・徒歩45分。参拝日 / 2026/06/22関連記事・第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)過去記事・『長草天神社』大府市長草町
2026.07.28
コメント(0)

甲府盆地東部の笛吹川水系の金川右岸に葡萄や桃畑が広がる笛吹市一宮町。 視界を遮るもののない雄大な景観の中に鎮座する甲斐國一宮 淺間神社。山梨県庁からだと国道20号線を30分ほど東進した「一宮淺間神社交差点」までくると写真の大鳥居が現れます。鳥居の脇に「甲斐国第一宮 淺間神社」の社号標が建っており、鳥居の先に見える杜が淺間神社の杜になります。鳥居から北上し、京戸川に架かる赤い桜橋を渡った左側に淺間神社の境外末社天神社が鎮座します。 京戸川右岸堤に鎮座する天神社全景。 天神と言えば梅がつきものですが、社頭の二本の桜が境内に大きな影を落としています。黒光りする撫で牛は黒御影石製のもの。一本の梅の樹の先に祀られている天神社本殿と右にある大きな岩は蚕神。 今でこそ葡萄や果実の一大産地ですが、ひと昔前は養蚕も盛んな地域だったのだろう。左を流れる京戸川を遡っていくと、細い流れの山宮川が合流します。 その源に淺間神社はじまりの地、山宮神社(本宮)になります。この辺りで見かけたマンホールは桃がデザインされています。 山梨県・笛吹市は桃の生産量では日本一を誇る地域で、春ともなれば山々を背景に桃の花が咲き、桃源郷のような景色も見られる。南を向いて構える二ノ鳥居と随神門、右に「国幣中社淺間神社」の社号標がある。随神門は寛政元年(1789)に建立された切妻銅板葺の八脚門。随神門からニノ鳥居、大鳥居が建つ参道の眺め。 ニノ鳥居から左に進んだ境内に、淺間神社始まりの地とされる、神山に鎮座する元宮の山宮神社遥拝所があります。 境内の東外れに鎮座する山宮神社遥拝所。 垂仁天皇八年(BC22)、淺間神社から東南へ2kmほど、山宮川水源の神山の麓に、木花開耶姫命、大山祇神、瓊々杵命を祀る元宮を起源とする。後の富士山貞観大噴火では当地も大きな被害を受け、噴火翌年の貞観七年(865)に富士山の噴火鎮護の目的から当地に里宮を建立し、元宮より祭神の木花開耶姫命を遷座したことが淺間神社のはじまり。 遥拝所は神山に祀られている大山祇神と天孫瓊々杵命の二柱を遥拝するもの。淺間神社参拝後、山宮川を遡って山宮神社を探してみたが、容易に参拝できる場所ではなさそうで、入口を見つけられなかった。神山を背にして建つ遥拝所。 この左側には陰陽石が安置されています。当社周辺は「葡萄畑が織りなす風景」として日本遺産に指定されています。 葡萄に留まらず、今頃は桃がたわわに実る時期を迎えているだろう。下は栞に掲載されていた境内配置図。 鳥居や随神門、神楽殿の建つ方位は、富士山を仰ぐ南を向いて建てられているのに対し、社殿は神山のある東を向いて配置されているのが興味深い。随神門から境内の眺め。 門の左右の間には随神が安置されている。左右の間に随神を安置する随神門から社殿の眺め。 訪れた時は、茅の輪が設けられ、境内に入るためには作法があります。銘は見当たらず、文化財一覧に載っておらず、制作年代は定かではない。境内右側の手水舎、女神の井戸と呼ばれ、境内の井戸が枯れたため、新たに掘削された井戸で、手水鉢には享保十九年(1735)の銘が刻まれていました。 その左には大黒天像が安置されています。参道は左に向きを変え、東向きに入母屋銅葺屋根の拝殿・幣殿・本殿が建てられている。拝殿は平側に唐破風向拝を備え、寛文十二年(1672)に造営されたもの、市の有形文化財に指定されている。上は拝殿を守護する狛犬。下は拝殿から幣殿方向の眺め。 拝殿内には元禄七年(1694)に寄進された参拾六歌仙の額が掲げられています。淺間神社は武田信玄から篤い庇護を受け、宝物の中には信玄から奉納された国次銘の太刀(県指定文化財)を所蔵する。神楽殿。 拝殿右に建てられており、随神門の正面に南を向いて建てられている。四方吹き抜けの入母屋銅葺屋根の建物で、周囲は舞台造りのように高く上げられた位置に縁側がある。 舞台中心の下側は吹き抜けではなく部屋のようになっており、農村舞台の回り舞台のような仕掛けでもあるのだろうか。 神楽殿の右の裏参道口に、両部鳥居が建っており、かつての一ノ鳥居を移設したものという。神楽殿から左に進むと境内社の七社大神や護国社など祀られています。神輿庫の左脇の七社大神。 現在の社殿は平成十五年に改修されたもので、雨降大神、道祖神、稲荷大神、金毘羅大神、六所大神、加具土大神、天満宮が祀られている。護国社。この先の参道は本殿を回り込むように続き、十二支石像や冨士石、境内社の稲荷社に続く。境内社の稲荷社、左の丸い石は太陽神と呼ばれるもの。稲荷社本殿。 もともとは甲斐市の工場鎮守社だったものがこちらに移築されたもの。本殿左側から本殿の眺め。 梅の樹が遮って本殿の姿は良く分からなかった。かつては天然記念物の「夫婦梅」と呼ばれた梅の老木があったようですが、現在はその子孫に受け継がれ、小授け祈願に訪れた参拝者にお下がりとして夫婦梅の実を授与しています。上は「夫婦梅」の左に鎮座する神明社と真貞社(下)。 真貞社は貞観六年の富士山噴火の時の八代郡擬大領 伴直真貞を祭神に祀る境内社。幸いにして、甲斐国と駿河国の淺間神社が富士の鎮護を祈り続け、富士は長く静穏を保っています。 その静穏が当たり前ではないことを改めて感じます。 甲斐國一宮 淺間神社創建 / 貞観七年(865)祭神 / 木花開耶姫命境内社 / 七社大神、護国社、稲荷社、神明社、真貞社境外社 / 天神社、山宮神社祭礼 / ---所在地 / 山梨県笛吹市一宮町一ノ宮1684参拝日 / 2026/06/10関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(2)奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」・ほったらかし温泉に新たに勧請された『全国オートバイ神社第45号』・甲府市徳行「式内 笠屋神社」
2026.07.27
コメント(0)

甲府昭和ICから北に1.6kmほどの甲府市徳行に鎮座する「式内 笠屋神社」、今回はこの式内 笠屋神社を訪ねます 最初に、神社へは県道5号線から、細い生活道路を西に入ったところに鳥居を構えており、参拝者用駐車場はないため、歩いて向かうことをお勧めします上は明治期の地図と現在の地図を比較したものです。 甲府市街地から西に約2.5kmほど、甲州往還道の南の徳行地区に鎮座します。社地は西隣の徳行公園と隣接しています。県道から25mほど西に進んだ右側に「式内 笠屋神社」の社号標が建っています。その左に石造りの明神鳥居が建てられ、その先に境内が広がっています。 笠木にはかなり大きな石が幾つも乗せられている。誰からともなく鳥居の上に石を乗せると、幸せになるとか、願いが叶うとか言われ、子供の頃に悪ガキと競い合って石を投げて遊んだ記憶がある。 うちの息子たちの時代には身近にあった神社も姿を消し、彼らからそうした言葉はでなかった気がする。鳥居の額には「笠屋神社」、額束の裏側に元号が刻まれているが、写真では読み取れなかったが、かなり古そうな感じがします。笠屋神社狛犬。台座の銘は読み取れず寄進年は不明ですが、垂れ耳で彫りの深い額や尾の形に特徴があります。境内右の石の社群と地蔵。 ここへ向かう途中、こうした石の社を見かけました、周辺の開発に伴いここに遷されてきたものだろうか、いずれも社名や詳細は不明。入母屋銅葺屋根の拝殿全景。傍らの笠屋神社由緒。『鎮座地 甲府市徳行5-1-1(巨摩郡徳行村) 祭神 大己貴命(医薬・国造り・醸造)、事代主命(商売繁盛)例祭日 十月十七日 由緒・沿革勧請鎮座は、雄略天皇四年(460)庚子十一月(甲斐国社寺記)。 笠屋神社 【延喜御式風土記】笠屋神社、【甲斐国志】の笠懸明神である。黒印神領高一石八斗、反別四反余り、社地四百八坪を有す。(現在八百六十坪) ・明治維新で上知、八年一月村社になる。・度々の河川の氾濫による旧跡の喪失。 ・昭和二十年七月七日戦災による社殿の焼失。・昭和二十六年氏子により社殿・境内を整備、神社健之。 ・平成九年氏子の寄付により神社を新築。』山梨県神社庁。『甲斐国社記寺記に勧請鎮座、雄略天皇四年庚子十一月とあり、又延喜御式風土記所載笠屋神社と記されている。 甲斐国志に云ふ笠懸明神である。黒印神領高一石八斗反別四反余、社地四百八坪を有していたが、明治維新で上知し同八年一月村社に列せられている。 度々の河川の氾濫による旧跡の喪失、戦災による社殿の焼失と幾多の苦難を越え、社殿境内を整備し今日に至る。』神社覈録 下(1971)からの抜粋。 『式内笠屋神社については、等刀村の諏訪明神と徳行村の笠掛明神の二社が事代主命を祀る点で共通し候補として挙げられるが、決め手となる資料がなく、旧跡も失われており、どれが式内社に当たるか確定には至っていない。』また、「式内社調査報告」でも「度重なる河川の氾濫により旧跡は現存せず、空襲による社殿の焼失などから笠屋神社を論社から外した」旨の記述もあり、現在の笠屋神社は徳行村笠掛明神に比定されるものの、式内笠屋神社の論社としては確定していないようです。祭神は大己貴命、事代主命。由緒には「昭和二十六年整備」とありますが、その後も改修されているのか綺麗な外観を維持しています。徳行公園から望む社殿全景。 拝殿・幣殿・鞘殿がひとつに連なっています。笠屋神社は式内笠屋神社との比定は未確定ながら、度重なる河川の氾濫や戦災を乗り越え、氏子によって守り継がれてきた古社です。甲府市徳行「式内 笠屋神社」創建 / 雄略天皇四年(460)祭神 / 大己貴命、事代主命境内社 / ・・・例祭日 / 10月17日所在地 / 山梨県甲府市徳行5-1-1参拝日 / 2026/06/11関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」・ほったらかし温泉に新たに勧請された『全国オートバイ神社第45号』
2026.07.24
コメント(0)

名鉄主催の歩いて巡拝 知多四国、全17回で知多四国の札所を巡るものです。 今回で第十七回となり、最後の知多四国を巡ってきました。長かったゴールも今回で終わりを迎えます。上が今回のルートです。 スタートは名鉄常滑線太田川駅でルートはここからバスで長草バス停に向かいます。私たちはゴールをJR大高駅へ変更し、太田川駅前から長草方向を目指し、歩いて5番札所地蔵寺➡88番札所円通寺➡87番札所長寿寺➡ゴールのJR大高駅に向かう、10.6km・約2時間半を歩き、三つの札所を巡るルートとしました。 相変わらず、決められたルートからコースアウトばかりしている。今回取り上げる七社之社は、太田川駅から東に約3kmほどの県道243号線の長田交差点から北に向かった先の富木島町貴船の微高地に鎮座する神社。社地南側に「村社 七社之社」の社号標と鳥居を構え、緩やかな石段を上った先に境内が広がっています。境内の全景。 左に手水舎かあり、ニノ鳥居の先に社殿、右側に富田稲荷社の赤い鳥居を構えています。ニノ鳥居から社殿の眺め。 一段高く積まれた社地に社殿が建てられています。拝殿前を守護する子持ち・毬持ちの狛犬は昭和13年に寄進されたもの。狛犬の右側の手水舎、手水鉢には文政11年(1828)の銘が刻まれています。切妻瓦葺の木造平入拝殿は幣殿とつながっており、大棟の鬼瓦や軒先の飾り瓦には魔除けの桃が載せられています。境内 七社之社御由緒。『鎮座地 東海市富木島町貴船11番地御祭神 天照皇大御神・素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・大山衹命・建稲種命・軻遇突知命 末社神明社・金毘羅社・津島社・富田稲荷社・八幡社・山之神社。境外社貴船神社・社口社・御嶽神社・大峯山・秋葉神社。由緒古記録の中より桃之宮を氏神とされた。寛永二年(1625)奉造立七社大明神宮一宇。明治初年現在の七社之社に改称。昭和二年本殿を神明造に改築。昭和三十八年拝殿を新築、夫々魔除けの為鬼瓦に桃の紋が入っている。昭和五十八年社務所を新築。昭和六十三年手水舎を新築。現在に至る。棟札寛永二年(1625) 奉造立七社大明神宮一宇享保九年(1724) 奉造七社大明神宝暦九年(1759) 奉遷宮七社大明神文化九年(1812) 奉遷宮七社大明神』愛知県神社名鑑 十ニ等級 七社之社 旧村社『鎮座地 東海市富木島町貴船11番地祭神 天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・大山衹命・建稲種命・軻遇突知命 由緒創建は明らかでない。寛永二年本殿修復の棟札がある。尾張志に「七社明神ノ社 神明ノ社、山神ノ社 貴船ノ社 八幡ノ社 しゃぐじの社七社ともに富田村にあり」とある。明治六年村社に列せらる。昭和十二年、当村無格社八幡社、雨宮社、貴船社を合祀する。例祭日 十月第一日曜日社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所』拝殿左側から幣殿本殿の眺め、本殿は神明造で5本の鰹木と外削ぎの千木が付くもの。 左側には境内社三社が祀られています。左から津島社、金毘羅社、神明社が整然と並ぶ。境内右側の富田稲荷社社頭、右手の富田稲荷社の石標は平成5年のものです。参道の先には三社祀られています。左から山之神社、八幡社、富田稲荷社が祀られています。 尾張志に記された境内社は見られるが、富田稲荷社について調べてみたが、詳細はわからなかった。富田稲荷社から見る七社之社本殿、高い塀で囲われており、本殿域に他の社が祀られているかはわからなかった。 創建時期こそ明らかではないが、桃之宮として地域の人々に守り継がれてきた歴史は、境内の佇まいからも十分に伝わってくる。第十七回 歩いて巡拝 知多四国 七社之社(富木島町)創建 / 不詳祭神 / 天照大御神・素戔嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・大山衹命・建稲種命・軻遇突知命 境内社 / 神明社・金毘羅社・津島社・富田稲荷社・八幡社・山之神社境外社 / 貴船神社・社口社・御嶽神社・大峯山・秋葉神社例祭 / 10月第1日曜日氏子域 / 富木島町所在地 / 東海市富木島町貴船11太田川駅から七社之社 / 名鉄常滑線太田川駅から東へ2.7km・約40分。参拝日 / 2026/06/22関連記事
2026.07.23
コメント(0)

ほったらかし温泉の所在地は山梨県山梨市矢坪1669-18。 山梨市街地の北側の山腹に位置し、施設からは甲府盆地が広く見渡せる。晴天時は正面に富士山が見え、露天風呂やテラスからの絶景の眺望が望める。 温泉までは山梨市駅から車で約10分。中央自動車道の勝沼IC、一宮御坂ICからは約25分ほどで、道中は果樹園地帯を抜けて山側へ入る。 駐車場は未舗装ですが広く、バイクの利用者も多い。写真はほったらかし温泉入口の眺め。 施設は「あっちの湯」「こっちの湯」の2つの露天風呂があり、どちらも眺望が良い。日の出前から営業しているため、朝の時間帯は近くのキャンプ場利用者や一般客の利用者が多い。 売店や軽食のスペースがあり、テラスからも甲府盆地を見下ろせる。オートバイ神社は温泉駐車場の一角のバイク専用駐車場に鳥居と祠が整備されてます。 たまたま、車を止めた後方にこの神社が祀られていました。鳥居は木造の両部鳥居で、その先の覆屋の下に社が祀られるだけの簡素な造り。 温泉利用者の動線から外れた静かな場所に祀られ、交通安全祈願の絵馬やステッカーの案内がある。額には「交通安全 オートバイ神社」と記されており、外観は非常に新しい印象を持った。 それもそのはず、当神社は2026年5月26日に創建されたものです。傍らの由緒。 『全国オートバイ神社認定第45号ほったらかし温泉オートバイ神社 正ノ木稲荷 稲積神社 御分霊御祭神は伏見稲荷を本宗と仰ぎ、商売繁盛の御神徳を持つとともに、伊勢神宮外宮と同一神と言われ、衣 食住をはじめとする生活の守護神としての御神徳を持つ。 相殿として祀られるのは稲積神社、境内社に祀られる猿田彦神社の神である。御祭神 猿田彦大神 御祭徳 みちひらき(物事の始まりを良い方向へ導く)、方位除け・方災除け、交通安全・旅行安全例祭日 五月二十六日』 今年5月の創建ということで、まだ例祭日も迎えていない。 オートバイ神社として取り上げたのは今回初めてで、調べてみると全国に67箇所あり、その多くは道の駅や観光地に鎮座するようで、中には訪れたことのある道の駅の名もあります。 全国オートバイ神社、これから地方に出かけた際の道の駅もそうした目線で見ていこう。 バイクに限らず、旅の安全を導いてもらえるように祈願しようと思う。全国オートバイ神社第45号創建 / 2026年5月26日祭神 / 猿田彦大神参拝日 / 2026/06/11所在地 / 山梨県山梨市矢坪1669-18関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(2)奥宮登拝・ほったらかし温泉」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3 「甲州街道台ケ原宿の水信玄餅・山梨銘醸」
2026.07.22
コメント(0)

前回掲載した七十九番札所 白泉山 妙楽寺、その向かいに鳥居を構えるのが古見神明社。 小高い丘陵に向け参道が続いています。今回の第十六回歩いて巡拝知多四国、私の徘徊も古見神明社を参拝し終わりを迎えます。妙楽寺の入口正面に県道256号線を挟んで社頭を構える古見神明社。社頭から参道の眺め。 左に社号標があり、鳥居の先から杜の中に長い石段が続きます。最初に愛知神社名鑑による当社の由緒を下に掲載します。『十等級 神明社 旧指定村社 鎮座地 知多市新地字権一番地祭神 国常立尊 由緒 創建は明徳三年(1390)という。 本社は昔古見村字森下に鎮座されていたが、明暦三年酉年(1657)現在地に遷座された。尾張誌に「神明ノ社 冨士ノ社 シャグシノ社 山神ノ社四社共に古見村にあり」とある。 「寛永十二年(1636)三月奉造古見惣中」の棟札がある。明治五年村社に列格、同四十年十月二十六日、指定社となる。 例祭日 十月第一日曜日社殿 本殿 神明造、神門、拝殿、社務所、祭具庫、宝蔵』知多郡史、尾張志に少し目を通したが、愛知神社名鑑の記載以上のものは見当たらなかった。 ひとつ尾張名所図会に「古見の一本松」の記述に目が止まる。それによれば「古見の山上に一本松があり、海を行き交う船の山当てに使われた」とあった。 山当てと言われても、現在の古見からはピンとこないが、昭和以前のこのあたりはこの丘陵の西側に海岸が迫っていたので不思議ではない。海岸沿いの丘陵地に聳える一本松は絶好の目標物になったであろう。境内の狛犬は大正七年寄進のもの、後方には神馬像も安置されています。境内に続く正面の石段、これを上ると参道は右に向きを変え再び石段が現れます。最初の石段を上ると左に手水舎があり、左に進むと徳松稲荷社の参道の中ほどに通じています。最後の石段とニノ鳥居。 この鳥居は昭和三年に寄進された神明鳥居。境内全景。 正面の拝殿は切妻瓦葺の妻入りで、拝殿と幣殿を兼ねているようで、他に境内右に社務所がある。境内の由緒書き。 神社名鑑では明徳三年(1390)とあったが、ここには明徳二年(1389)とある、当記事では由緒書きを尊重します。祭神は国常立尊で、末社の祭神は、菊理姫神、伊奘冉尊、大日霊神、日本武尊とあるが社名は不詳。社殿は明治二十一年に改修を受けたようです。 拝殿左から本殿域の眺め。 本殿域は玉垣で囲われ、狛犬が守護する神門に続く。その先に神明造の本殿と左右に神明造の摂社の姿がある。境内右の社務所は渡廊で拝殿と結ばれている。 先に訪れた妙楽寺は明徳元年(1390)の開創とされ、神明社はほぼ同時期に佐布里池の西側に創建された古社であるが、佐布里からこの地に遷座した理由は定かではない。古見の丘陵地の深い杜の頂に鎮座する古見の氏神です。古見神明社の社頭に隣接して祀られている徳松稲荷社の社頭。 こちらが境内社にあたるものかは定かではない。奉納鳥居をくぐり、山の斜面に向け参道が伸びる。社殿全景。 覆屋の下の本殿、狛狐の前まで近づいてみたかったが、頭の中で蛇が横切るイメージがあり近寄れず、ここで参拝させて頂く。 由緒や祭神など詳細は良く分からなかったが、地域の事業者から崇敬されているようです。神明社の手水舎から稲荷社参道口の眺め。 枯れ葉が地表を覆い、滑りやすく、色々と想像が湧き立つ参道でした。以上で古見神明社の参拝を終え、県道に出て徒歩2~3分ほど先にある古見駅に向かいます。社頭の右側の古見児童遊園地にも鳥居があり、先に進んでみましたが、これは脇参道のようです。名鉄常滑線古見駅から古見神明社の杜の眺め。 長かった歩いて巡拝知多四国第十六巡目、次の第十七回を回れば自分としては初のコンプリートになる。古見神明社創建 / 明徳三年(1390)祭神 / 国常立尊、末社祭神 / 菊理姫神、伊奘冉尊、大日霊神、日本武尊 境内社 / 徳松稲荷社氏子域 / 新知、新知西町、新知東町例祭 / 10月第1日曜日所在地 / 知多市新知椿1妙楽寺から神明社 / 妙楽寺の向かい。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉神社(新知東町)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十八番札所 寶泉山 福生寺・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十九番札所 白泉山 妙楽寺
2026.07.19
コメント(0)

第十六回 歩いて巡拝 知多四国も次の七十九番札所 白泉山 妙楽寺で終わりとなります。 福生寺から妙楽寺へは、国道155号線を北上、浜脇信号交差点で左折、県道156号線を直進した右側になり、移動距離は約1.2km・約15分ほどになります。 妙楽寺から西に2~3分も歩けば、帰りの最寄り駅の古見駅に至ります。県道から妙楽寺全景。 伽藍は左の本堂と右に向かって弘法堂、開山堂、庫裏が主なもの。以前は寺号標のある辺りに山門があったようですが、今はその姿はなく、県道から伽藍が見通せます。 本日最後の札所という事と、古見駅着の電車の時間調整か、出店に立ち寄る参拝客も多く見られた。境内に入った正面が庫裏で、左に見えているのが開山堂で、中央の二体の像は右が修行大師、左が亮山阿闍梨。妙楽寺の由緒は以下のようなもの。『明徳元年(1390)に創建された古刹で、本尊は大日如来。 後花園天皇の勅願所として開創され、七堂伽藍を備え、広大な寺領を有したと伝えられています。戦国時代の天正八年(1578)、兵火にかかり、仏師春日の作である本尊の大日如来ほか、薬師如来、地蔵菩薩、大黒天、白山権現は守られたものの、堂宇をことごとく焼失。 さらに豊臣秀吉の時には、寺領が没収され、末寺も転散、しかし、江戸時代に入って寛永十二年(1635)、現在地に再興された。当山の十三世住職亮山阿闍梨は、知多四国霊場の開創を発願し成し遂げた。 境内には、亮山阿闍梨をまつる開山堂が建てられ、その遺徳もたたえている。境内には400年以上前に地蔵池から現れた「いぼ地蔵」が安置されており、いぼやできもの、がん封じにも御利益がある。』本堂は木造寄棟造で、右側の方形造りの建物が弘法堂になります。 「いぼ地蔵」は本堂に続く参道右側に安置されています。白泉山の山号額を掲げる本堂、右側に賓頭盧尊者が安置されています。亮山阿闍梨像と弘法堂の眺め。 知多四国を開創した亮山阿闍梨の晩年は、直前に訪れた寶泉山 福生寺に移り入寂しました。今回の梵字カードは右手の開山堂前で配布されており、堂前は普段見られないほど参拝者が絶えず、開山堂の写真は撮っていません。弘法堂向拝と光明殿の額。本堂左の古い石塔と鎮守社白山大権現、秋葉大権現。参拝と納経印を頂き県道に戻ると、向かいは緑濃い杜を持った古見神明社の社頭。 急いで帰る事もない、ここを参拝し、木陰で涼んでから駅に向かおう。磯辺ふく松風の音も妙楽寺 波はしつやか光るたのしさ。第16回梵字カード、あと一枚揃えば歩いて巡拝 知多四国もコンプリートだ。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十九番札所 白泉山 妙楽寺宗派 / 真言宗豊山派本尊 / 大日如来開基 / 不詳 開山 / 賢秀上人創建 / 明徳元年(1390)札所 / 知多四国霊場開山所、第七十九番札所、知多百観音八十六番札所境内社 / ---所在地 / 知多市新地下森29 福生寺から妙楽寺 / 福生寺から国道155号線を北上、浜脇信号交差点で左折、県道156号線を直進、約1.2km・約15分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉神社(新知東町)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十八番札所 寶泉山 福生寺
2026.07.18
コメント(0)

甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day3。8:25。ホテルシーラックパル甲府を後にして諏訪湖方面に向かい、甲州街道・台ヶ原宿を目指します。その前に、近くのコストコ南アルプス店に寄り道してガソリンを満タンにしてから向かいます。9:10。コストコガスステーションで満タンにしたのち、国道52号線、県道42号線、韮崎から国道20号線で白州方向へ約一時間ほど先の甲州街道・台ヶ原地区の市営 台ケ原宿 駐車場へ。10:20。市営 台ケ原宿 駐車場に到着。 駐車場から南に向かうと集落内を東西に延びる道にでます、それが日本橋から下諏訪を結ぶ旧甲州街道の台ケ原宿になります。江戸時代は甲州街道の宿場として栄えた台ヶ原宿、今でも少ないながら街道の趣を感じさせる建物が点在しています。 写真は街道から諏訪方向の眺め。目的は街道を歩くことではなく、和菓子屋と酒蔵を訪れる事にあります。 最初の目的地は水信玄餅や生信玄餅で知られる金精軒、こちらで水信玄餅を食べるのが目的。街道沿いの旅籠のような趣きを感じさせる外観の金精軒。この建物は台ヶ原宿の旅籠のひとつで、明治35年に旅籠から菓子店となり、現在も受け継がれています。こちらの名物は信玄餅、生信玄餅で、この時期には水信玄餅が販売されます。 この水信玄餅目当てに訪れました。店内は黒光りした梁や柱、使いこまれた木型などが飾られた昔の作りそのままで、落ち着いた雰囲気が漂う。水信玄餅。 事前に知らされていなかったが、どうやら甲斐駒ヶ岳の水の恵みを食べるものらしい。店の前のテーブルでしばし待つと、水晶玉のような透き通ってプルンゝの水信玄餅が出てきた。 空の色と雲が映り込んで、キラキラと輝く水信玄餅、かみさんが必ず寄ると言っていたのも分かる。食べ方は、添付のきな粉と黒蜜を絡めながら食べるのが作法の様です。 それを知らず、上からかけたものだから透明感が一瞬にして隠れてしまった。この水信玄餅は、水に固まるギリギリの片栗粉を混ぜて作られるものらしい。 もちもちの信玄餅とは別の食感で、口の中で水に戻る感覚。今日のように暑いときに食べるには絶好かもしれない。 家用に生信玄餅を買い求め金精軒を後にする。台ヶ原金精軒木曜日定休所在地 / 山梨県北杜市白州町台ヶ原2211金精軒の向かいにある酒蔵七賢の創業者北原家の住宅。 主屋と文庫倉・文化倉の他四棟が県の有形文化財に指定されていて、寛永3年に大中屋の屋号で酒造りをはじめ、幕末には諏訪高島藩、伊那高遠藩の御用商人を務め、脇本陣を兼ねる豪商としてしられた。表門。 明治13年、明治天皇巡幸の際に北原家母屋の奥座敷がご宿泊所として使われた。甲州街道台ヶ原宿で寛延3年(1750)の創業以来酒を醸す山梨銘醸。 建物全体が山梨県指定有形文化財に指定されています。七賢の名の由来は、天保6年(1835)に初代蔵元の母屋竣工祝に、高遠城主より贈られた「竹林の七賢人」の欄間に由来するという。 その欄間は今も母屋に残されています。暖簾をくぐった店内の眺め。 レールが敷かれた土間の左右は、直売所や左側に神棚を祀った事務所や座敷が広がる。店内奥に甲斐駒の伏流水が注がれ、試飲もできる。 周辺には豊かな水を求め、大手の醸造所や天然水の製造工場などが点在します。王道の大吟醸をはじめ多様な日本酒の他、海外向けを意識したスパークリングなど幅広いラインナップを揃えており、にごり酒をブレンドし瓶内で二次発酵を促したスパークリング日本酒を推しているようだ。上の写真は古酒貯蔵庫と右が敷地内にある醸造用水源泉。 醸造施設はこの後方、市営 台ケ原宿 駐車場の向かいに門を構えています。店内には店頭販売所もあり、利き酒も可能。下の写真は七賢スパークリング・山ノ霞。 うすにごりのスパークリング日本酒。瓶内で二次発酵が進み、開けた瞬間きめ細かい泡が弾け、スパークリングならではの爽やかな舌触りで刺身やチーズにもあう。 この他に活性純米花水香を買っていくことにした。山梨銘醸(株) 直売店所在地 / 山梨県北杜市白州町台ヶ原228310:40、台ヶ原宿を後に諏訪に向け国道を走りだす。11:20、道の駅はくしゅうに立ち寄る。 施設内に澄んだ小川が流れ、水辺にはクレソンが自生する。橋の袂に天然水の水汲み場があり、観光客や地元の人が水を汲みに来る姿が絶えない。 橋を渡った先の施設には地元野菜や銘菓を販売しており、立ち寄った目的は澤田屋の黒玉を手に入れること。探し求めるものはあったが、4個入りの商品は売り切れで大容量のものしかなく、諦めたかみさんは普段の買い物モードになる。道の駅はくしゅう所在地 / 山梨県北杜市白州町白須1308白須若宮八幡神社。 かみさんが買物している間、道の駅の北側にある神社を見かけ訪れてきた。元弘年間(1331〜1334)に創建された神社で祭神は仁徳天皇、神功天皇、応神天皇をお祀りする神社。 武田氏から代々崇敬され、永禄年間(1558〜1570)にこの地に遷された。社地左側にも鳥居があったが、詳細はわからないので調べてみる必要がありそう。白須若宮八幡神社。山梨県北杜市白州町白須159811:40、買い物を済ませ再び国道20号線で諏訪ICから中央道に乗る。12:50、諏訪湖 サービスエリアで昼食。 諦めていた馬刺しがあり、迷わずオーダー。上はかみさんオーダーの信州サーモン定食。 諏訪湖を眺めながら堪能する。このSAでかみさんが探していた澤田屋の黒玉の4個入りを見付け、かみさんの目的も満たされた。 さて諏訪湖を眺めながらSAの温泉に浸かろうかなと思ったが、利用者が少なく昨年閉館したらしい。山やキャンプの帰りに良く利用したが、なんてこった、閉館とは知らなかった。当てが外れやむなく帰途に就く。 高速は相変わらず工事による車線・速度規制。渋滞が見えてくると早目に減速、後続の車が速度を緩めるか確かめながらの走行、追突だけは勘弁してほしい。 速度規制区間の意識はなく一向に右足を緩めない、速度取り締まりがあってもよいと感じる。 この日は瑞浪IC〜恵那ICの上り区間でトラックが炎上、通りかかった時は閉鎖となっており、火災現場付近の下りは工事渋滞、しかも強引に割り込みをして、追い越し車線上で接触事故を起こしたばかりで、二車線ともほとんど動く気配がなかった。 インターの流入車線から事故渋滞は迂回できたが、車間を詰め過ぎた車は左にも出られない状況となっていた。車両火災はともかく、渋滞の中、二人のドライバーの意地の張り合いは、周囲を巻き込むだけで迷惑だ。16:55、守山スマートインターから下り、コストコ守山店で買い物を済ませ、三日間の旅を終えることができた。 三峯での熊への不安は確かに恐怖だったが、渋滞の中で見た身勝手な行為の方が、むしろ恐怖を感じさせる存在だった。 この日の走行ルートはこちら関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(2)奥宮登拝・ほったらかし温泉」
2026.07.17
コメント(0)

前回掲載した新知東町の秋葉神社から北に進み「新知東町1丁目」信号交差点に向かいます。 交差点の北側正面に見える小高い丘が目的地の七十八番札所 寶泉山 福生寺になります。秋葉神社から約0.35km・約5分の距離になります。交差点から七十八番札所 寶泉山 福生寺鎮座地の眺め。つい最近まで丘陵地ばかりで集落も少なかった土地柄でしたが、今は造成され住宅地となり、縦横無尽に道路が整備され、かつての面影は皆無といってもいい、当時の名残はこの高みくらいだろうか。 正面の細い道の先に寺の入口はあります。本日二つ目の札所となる七十八番札所 寶泉山 福生寺入口全景。境内に入ると正面に大きな蘇鉄とコンクリートの大黒天像があります。 伽藍は寄棟瓦葺の本堂と右に庫裏がある。本堂に掲げられている山号額、真言宗のお寺で本尊に不動明王を祀る。当寺の由緒は以下のようなもの。 『宗派 真言宗豊山派開基 不詳 開山 精真法印本尊 不動明王 由緒 福生寺は永禄三年(1560)、精真法印によって開創されました。 しかし大正二年の火災より過去の記録、古文書の一切を焼失しており、古くの変遷については不明です。 この火災では、本堂、庫裡などすべて焼き尽くす猛火のなか、木造の大黒天像が無事な姿で見つかり、直ちに堂裏の宝珠池に安置すると、突然大雨が降り出し猛火が鎮まった。 以来、防火・厄除・開運の守護神「やけん大黒天」として厚い信仰を集めております。 本堂は、昭和元年の再建で、やがて大黒天は堂内に安置されています。 境内には信者の寄進のやけん大黒天像も建立されています。 なお、知多四国霊場開創の亮山阿闍梨は、弘化四年(1847) 三月十八日、当寺で入寂されています。』堂内の弘法大師像。当日は大正二年の火災で焼けずに残った「やけん大黒天」が間近で拝観できた。 その像は、煤けてしまって全身漆黒のもので、にこやかに微笑む大黒様の表情が印象に残る。境内西側から伽藍全景、本堂と弘法堂がひとつになっています。 お世辞にも広いとは言えない境内、本開催のこの日は多くの参詣者が訪れ賑わいを見せていた。さちよきを いのりかいあるふくしょうじ ふどうのこころゆめなわすれじ第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十八番札所 寶泉山 福生寺宗派 / 真言宗豊山派本尊 / 不動明王開基 / 不詳 開山 / 精真法印創建 / 永禄三年(1560)札所 / 知多四国霊場第七十八番境内社 / ---所在地 / 知多市新知東町1-8-3秋葉神社から福生寺 / 秋葉神社から北の新知東町1丁目信号交差点まで約0.35km・約5分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉神社(新知東町)
2026.07.14
コメント(0)

前回掲載した三峯神社から続きとなる今回、三峯神社奥宮への登拝を中心に二日目の行程掲載します。 まず最初に所々に書いた時刻は撮影機器の内部時計を基に表記しており、ペースは普通より遅いものです。8:10。身支度を整え駐車場を出発し、5分ほどかけて三つ鳥居の近くの奥宮参道入口から出発。 杉が聳える簡易舗装された参道をしばらく歩いて行きます。8:30。 奥宮 二ノ鳥居に到着。ここで登山届を提出し。鳥居をくぐり、歩きはじめる、鳥居の額には「奥之宮」と記されている。 ここまでは整備された簡易舗装が続きましたが、ここから先は杉の根が地表に現れる登山道になります。濡れた根や岩に足を乗せると滑りやすく、転倒のリスクがあるので足を置く場所を選ぶべき道が続く。 最初は杉林の中を緩やかな登りが続きます。 コース全般比較的緩やかで、急登と感じるところは途中の階段の上り下りと、奥宮直下の鎖場くらいか。例によって「熊出没注意」の看板を至る所で目にします。 役には立たないが熊鈴や音の出るものを持って入るべきところだろう。因みに、見通せない場所では、ポール同志を互いにぶつけ、不規則な金属音をたてながら上っていった。8:46。 三ノ鳥居に到着、ここで少し水分補給のため小休止。鳥居は木造の両部鳥居で額には「奥宮」とある。 ルートには目印となるカラーテープやこうした鳥居が建っているのでわかりやすい。ここでまた水分補給。 下で気になっていた朝霧はここまでは思ったほど酷くはないので先に進む。ここからしばらくの間、地表をヘビのように這う木の根と岩が露出する登拝道になる。8:55。 稜線に出たところで麓から舞い上がる霧が立ちはじめ、見通しが悪くなる。ここまで下山する人も、上ってくる人の気配はない。 周囲の熊の気配の有無、足元の根っこ、ヘビや獣の足跡、樹の上のクマ棚など探しながら歩いてきたが、霧で見通しが悪くなると尚更厄介だ。9:12。 稜線に立てられて案内板に到着。ここから左手方向に向かいますが、道の状況と視界を確認するため一人で様子を見に行く。 ある程度視界が利くので先に進むことに、登拝道は左手が急斜面で、狭い箇所もあり、甘く見ていると痛い目に遭う。9:22。 四ノ鳥居到着。石の明神鳥居で額は「奥宮」霧で登拝道はよく見えないが、幅1.5メートルほどの尾根道。 余談になるが、下山時にこの尾根筋で四人連れの日本人を見かけた。少し上で待っていたが、谷側に岩を蹴落としているだけで、登る気配はなく待つだけ無駄と降りることにした。 挨拶を交わし、去り際に「ここ、国立公園ですよ」と一言残して降りた。9:40。 霧の先に階段が現れる、これが見えてくれば奥宮は近い。このあたりに古い鎖が見られ、整備以前はここを越えていったのだろう。 この先、長い下りの階段がありますが、気を抜いて踏み外すとただでは済まない。9:45。 目の前の岩肌に古い石段が現れ、ここで一気に標高を上げる。この前で後続がやってきた、写真も撮りたかったので道を譲る。 自分たち以外に人がいることで気持ちが落ち着く。ポールを片付け登りはじめる。9:47。 次は足の掛けどころが少なく、てれんとした岩場。鎖も降ろされ、脇に鎖も張られ、手摺もあるが、倒れた石柱を見ると頼りない。 登りはともかく、下りは厄介だ。 9:50。 標高1329m、妙法ヶ岳山頂の奥宮到着。鎖場の前のお立ち台の右に「妙法」と書かれた石標があります。 この状態では眺望は望めない。まずは呼吸を整えるが、この程度で息が切れているようでは、他の山深い奥宮に行こうなんて思わない方がいいようだ。切り立った岩峰の頂に鎮座する奥宮、玉垣の中には、狼が守護する石の祠が建てられています。 まずは、ここまで無事にこれたことに感謝を伝え、無事に下山できるように願いをかけた。左側には秩父宮殿下登山記念碑があり、右には奥之宮社殿改築記念碑が建てられています。創建は寛保元年(1741)とされ、現在の社殿は昭和41年に改築された、流造で軒唐破風に千鳥破風、千木や鰹木も施された石造社殿。 奥之宮社殿改築記念碑。 ここから左奥に進むと見通しの効く断崖に出ます。9:55。この雲さえなければ三峯神社の奥宮遥拝殿も見えるはずだが、周囲真っ白のこの光景も神秘的でいいかもしれない。 一時は視界も悪く、戻ることも考えたが、熊にも遭わずここまでこれたことに感謝するしかない。さて、下山するか。下山途中に4組ほどすれ違った。 女性一人、軽装で登る姿も見られたが最低でもトレッキングシューズに雨具くらいは持っていた方がいいだろう。10:52。 三ノ鳥居到着、ここまで来ればあと少し。神社で御朱印を頂いて、境内の興雲閣で昼ご飯としよう。11:55。 下山のご報告と御朱印を頂き興雲閣に向かう。小教院。 「天平八年(736)、全国で痘瘡が流行し、天皇は諸国の神社に病気平癒を祈願した。皇后は各地の霊山に観音を祀り、その際三峯神社にも別殿を建てて観音像を安置した。 これが現在の「小教院」の起源である。この別殿は後に「三峯山本堂」となり、天台宗の「高雲寺」、真言宗の「観音院」、さらに「平等坊」と称された。 明治の神仏分離により、この本堂は閉ざされ、政府による国民教化、大教宣布運動にそって「小教院」と呼ばれ、この運動の終了後は、宿坊として老朽化するにまかされていた。現在の建物は元文四年(1739)、当山再中興 日光法印の代に再建されたもの。 平成三年歴史的建造物として保存・改修工事を行い、内部は二十四畳の「広間」、十二畳の「仙人の間」、八畳の「金の間」がある。」興雲閣は温泉など完備した参拝者の宿坊。 ホテルレストラン風の食堂で一般にも食事が提供されています。かみさんがソースカツ丼orシイタケ丼で決めかねていたが、結局二人とも写真のシイタケ丼をオーダー。 甘辛く煮た肉厚のシイタケをカツにしたもので、ありきたりなものより新鮮味があって美味しかった。12:30。 帰り際奥宮遥拝所に立ち寄ってみた。やはり、妙法ヶ岳山頂は雲に包まれたままだ。13:07。 駐車場に戻り、着替えと靴を履き替え、冷たいコーヒーで一休み。今回は幸運にも熊に出逢うことはなかったが、訪れる前は親子熊、最近も駐車場手前の道路を横断する熊が目撃されています。 都会でも出るのだから、いるのが普通、「いるか・いないか」ではなく、「出逢うか否か」の話だろう、その答えは誰も持っていない。できれば複数、単独ならば他のグループに付かず離れずついて行くのもいいかもしれない。 山の食物連鎖の頂点に立っていた狼は絶滅し、熊がその座に着き、食性や生息域も変えて進化している。全国規模で速やかな頭数制御をしないと山間部の生活や森林保全、屋外レジャーや観光にも影響が出ている。今回事前に調べた熊情報サイトは以下の通り。・三峯神社公式熊情報・秩父市公式 大滝地区出没情報いろいろ考えさせる秩父の山を後に甲府方面に向かいます。14:17。道の駅みとみ。 三峯から国道140号線を甲州方面に約一時間ほど下った広瀬ダム付近にあり、盛んに鳴く春ゼミが印象的な道の駅だった。こちらで小休止、地酒と漬物を買い求める。山梨県笛吹市のスズラン醸造工業の辛口獨酒「日本男児」、甘口の「濁酒」もあるようです。 甲斐一ノ宮の近隣にあり、県内で唯一濁酒製造免許を持つ1905年創業の酒蔵。濁酒表記で妙な添加物表示もないので買ってみた。道の駅みとみ。所在地 / 山梨県山梨市三富川浦1822-1 15:07。 山梨市矢坪にある温泉施設「ほったらかし温泉」に到着。ここで汗を流し、足腰の疲れを癒す。すぐ後方に「ほったらかしキャンプ場」があり、過去には何度か候補に挙がったが行く機会はなく、下見がてら訪れた。 甲府盆地を眼下に望み、遠く富士を望むロケーションの良さで知られる。施設はあっちの湯とこっちの湯のふたつあり、夜景や日の出など湯船から絶景が望める。 写真右手の建物がこっちの湯で、左の方に進むとあっちの湯に続きます。こっちの湯は日の出が望めるためか、クローズ時間は早いようで、この時間にして、あっちの湯へ行く事を勧められた。あっちの湯建屋の眺め。街並みが良く見渡せる方向に湯舟が向いています。泉質は無色透明で、多少ぬるっとした感じで、湯温は温めで長時間入っていられる。夜景を眺めながら湯に浸かるにはもってこいかもしれない。 しかし、キャンプ場は高台を整地したもので、サイト間は遮蔽物がなく、日差しを遮る樹も少なくてイメージしたものとは違っていた。ほったらかし温泉名物、外はサクサク中はトロリとした温玉あげ。ほったらかし温泉。所在地 / 山梨県山梨市矢坪1669-18それではここから甲府昭和IC付近の二日目の宿ホテルシーラックパル甲府に向かう事にする。 移動距離は約20km、30分ほど。17:35。 国道20号線と県道5号線が交差する付近にあるリーズナブルなビジネスホテル。夕食は馬刺しを目当てに地元の居酒屋へ。 ホテルから徒歩10分ほどの「我が家」で晩御飯。 目指す馬刺しがなく、牛たたきに変わってしまったが、そこそこ美味しく、酒やワイン・焼酎など品数もそこそこあり満足できた。地元の酒の品揃いが少ないのが残念だった。 今日は普段使っていない筋肉を使った気がする、遅れてやってくる筋肉痛が怖いかも。day2移動距離約100km、移動ルート甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社奥宮登拝・ほったらかし温泉」関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社(1)」
2026.07.13
コメント(0)

慈雲寺の参拝を終え、県道252号線海渡交差点を右に進み、北上して中部中学校南交差点に到着しました。 ルートは僅かに上る坂を更に北上し中部中学校西交差点で左に進むのですが、それが嫌で中部中学校南交差点を左に入り、住宅街を斜めに歩いて新知東町1の交差点を目指しました。 今回は住宅街の一角で見かけた秋葉神社を掲載します。とはいっても神社に関する情報が見つからず、ここに記す程度のものです。鎮座地は慈雲寺から1.7kmほどの知多市新知東町2の新東集会所の横になります。 白い幟が目に止まり、正面にきて見ると地蔵堂のような祠が祀られていました。外見から秋葉神社を思わせるものは幟の文字と羽団扇の紋くらいで、これがなければ地蔵堂に見えるだろう。 生花が供えられ、この区域の火伏の神として祀られたのだろう。この地域は昭和期に造成され住宅地となったので、推測としてはこの時期に祀られたものと思います。格子戸の内部は恐らく地蔵さんだろうか、一体の石像が安置されていた。 地域住民が集まる集会所に隣接して秋葉神社が祀られる例は珍しいものではないと思います。しかし、祠内に社は見られず、地蔵さんが祀られているのは珍しい。 とはいえ、住宅が増えた区域の火伏を担っているのがこの秋葉神社だ。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉神社(新知東町)創建・祭神 / 不明 所在地 / 知多市新知東町2-20-49慈雲寺から秋葉神社 / 海渡交差点を右に進み、中部中学校南交差点を左折した新知東町2地内の秋葉神社まで1.7km・約25分ほど。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺
2026.07.12
コメント(0)

第十六回歩いて巡拝知多四国。 今回は新舞子から5.7km先の知多市岡田を目指し、ひたすら歩きます。最初の目的地七十二番札所 白華山 慈雲寺は、五郎坊信号北側の山を背にして鎮座します。前回掲載した多聞天からだと5分もあれば到着します。多聞天から東に直進すると、左に五郎坊の交差点が見えます。 コースアウトしてここに来たので、途中参詣者に会う事はなかったが、ここからルートに沿って歩きます。太郎坊の三叉路、山を背にして鎮座する七十二番札所 白華山 慈雲寺。 その入口に威厳のある書体で刻まれた山号と寺号の石柱が立っている。参道は日長川に架かる誠橋を渡り山門に続きます。山門から境内の眺め、意外と参詣者は少ないのか?。 山門は瓦葺の四脚門。山門の正面がこの観音堂になります。 室町時代初期の建築とされ、江戸時代には観音堂が慈雲寺本堂で、尾張名所図会の挿絵に当時の伽藍が描かれています。弘法堂はこの観音堂の左にありますが、堂前の人波が絶えず写真に収めていません。 2022年に訪れており、境内の白山妙理大権現、秋葉山大権現、行者堂大権現など過去記事にリンクを貼っておきます。そちらをご覧ください。慈雲寺の寺宝には範光公愛用の「兼光の刀」、「一色禅門悼文」などがある。 慈雲寺には伝承が伝わり、田植えが終わっても雨が降らず、村人から相談を受けた和尚が、壺を携えて観音堂の裏の池から水を汲み、観音堂で雨乞いをしたところ、たちまち雨が降ったという。 その壺は「雨乞いの壺」と呼ばれ、今も大切に守られているという。本堂全景。 この日最初の札所ということもあってか、境内は多くの巡拝者で賑わい、長い距離を歩いて来たこともあり、日陰で涼む巡拝者の姿が見られた知多四国のガイドブックから慈雲寺の解説を引用すると以下。「妙心寺派十刹のひとつに数えられる慈雲寺は、観応元年(1350)、宮山城主一色修理大夫源範光が開基し、夢窓国師を開山として創建されました。 御本尊の千手千眼観世音菩薩は、範光公の念持仏で、恵心僧都の作と知られています。観音堂は室町時代初期の代表的な建築といわれています。 また、当寺からは京都大徳院館長となった松岡寛慶老師、妙心寺四派の筆頭霊雲院に従事した柴田慈孝老師など多くの傑僧が輩出されています。門前の両脇に建てられた石柱の文字は、草書の大家として知られた当山第十一世虎渓文快(白水)老師の大作が刻まれたものです。 江戸時代の『尾張名所図会』には、名勝名跡のひとつとして書かれており、当寺の山を背景にした美しい景観は、古くから多くの人びとを魅了してきました。平成十八年には本堂の屋根の葺き替え等の修復が完成し、ますますその風格を高めています。」本堂の眺め。 4年振りに慈雲寺を訪れましたが、岡田の町を見守るように鎮座する姿は当時の印象のままです。うれしくも じうんたなびく てらにきて みなをとなふる のりのこえごえ次の七十八番札所 寶泉山 福生寺へは、日長川沿いを下流に向かい、2.4km先の新和東町1丁目交差点に向かいます。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 七十二番札所 白華山 慈雲寺宗派 / 臨済宗妙心寺派本尊 / 千手千眼観世音菩薩創建 / 観応元年(1350)開山 / 夢窓国師 開基 / 一色修理大夫範光札所 / 知多四国霊場第七十二番、知多西国三十三所霊場第十九番札所境内社 / 白山宮・秋葉社・行者堂所在地 / 知多市岡田字太郎坊108番地多聞天から慈雲寺 / 多聞天から直進し太郎坊信号まで約0.35km・約5分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)過去記事・知多四国霊場第72番 慈雲寺 (1) ・知多市岡田太郎坊 (慈雲寺2) 「白山宮・秋葉社・行者堂」
2026.07.09
コメント(0)

知多市岡田高見多聞天。 前回掲載した日長の山之神から農道を直進し、東海知多新線、県道46号線を越えた岡田高見まで小一時間ほどひたすら歩きます。岡田に入れば最初の札所もあと僅か。 岡田は江戸時代初期の慶長11年(1606)、日長郷の奥・中・里の3つの村が統合され、岡田村として誕生しました。田畑の多い地域で、伊勢から伝わった木綿栽培と機織りが盛んになり、農家の副収入となった。 特に享保年間(1716~35)になると、岡田村の中島七右衛門と竹内源助が江戸の木綿買継問屋(鑑札)を取得し、海路を活かして知多木綿の販路を拡げました。江戸時代から昭和中頃にかけては、「知多木綿」として全国有数の木綿生産量を誇り、生産に携わる女工達も多く集まったという。 その中心地として繁栄したのが岡田で、町の中を歩くと繁栄していた当時のなまこ壁の蔵やレトロな建物が今も残ります。今は岡田といえば・・・ビールかな。岡田高見75に鎮座する多聞天。 奥から石垣が続く毘沙門天坂を歩いてきて、右側が開けた一角の片隅に多聞天と刻まれた石標を見かけ立ち寄ってみた。入口には岡田街並保存会の多聞天解説が立てられていた。 「正徳年間(1711~)、中村に住んでいた徳左衛門という百姓がある日、海岸で肥料にする海藻を採っていたところ、不思議な光で輝いている多聞天の尊像が流れついたのを見つけ、拾って家に持ち帰った。尊像を安置して毎日お祈りを続けていたところ、そのご利益は絶大であった。 徳左衛門が亡くなって、この尊像を中村の毘沙門堂に移して祀ったのが由緒である。●現在も岡田二区中組の年寄衆が交代で堂守を勤め、融通念仏を伝承している。」石標から先の境内は、右に手水があり、正面に毘沙門堂がある。堂の側面に由緒が掲げられていました。「昆沙門堂の由来 創建・享保九年(1724)、本尊は多聞天 ○当初は萱葺で、九尺四面の本堂であった。 ○天明八年(1788)、石燈明一対建立。 ○文久元年(1861)、拝殿建立。 ※彫り物は、山車の彫師と同じ、瀬川治助。 ○明治七年(1874)、百五十年忌ご開帳。 ※この年に、諸仏像と建物がすべて調えられた。 堂守(日常のお勤めと御堂の管理) ○創建当初から堂守が置かれていた。(由来記) ※現在までこの制度は引き継がれている。 ○融通念仏の開祖、良忍上人ゆかりの念仏講も、宗派にとらわれず中組衆によって受け継がれている。」知多郡史で毘沙門天を調べてみたが、これ以上の情報は得られなかった。参道右側の手水と古井戸。鉢には「寛延2年 十王堂 中村若者建立」と刻まれています。 今から約300年前の若者衆が寄進したものです。堂は入母屋瓦葺の妻入りで妻側に向拝が付くもので、向拝の先は吹き抜けの外陣と内陣に分かれています。昆沙門堂で特筆すべきところは破風の手挟や海老虹梁に施された龍の彫飾りだろう。外陣の格子天井には薄くなってよくわからないが草花が描かれている。 内陣は左から大黒天・禅尼師童子・毘沙門天・吉祥天・弁才天が安置されています。左から眺める毘沙門堂。堂の左に背の高い山車庫と隣に堂が建てられています。中組山車(雨車) 「現在の山車は、天保十年(1839)に藤田佐右エ門、藤原雅房が製作。岡田では一番大型で最も古い山車。 力神、獅子等の彫刻師は瀬川治助重定。神前では、上山でからくり人形「綾渡り」、前台で、人形「三番叟」「弥津志」「尾弥間」が奉納される。」 毎年4月岡田地区の神明社、白山社の祭礼である春祭りが行われます。 奥組、中組、里組の3台の山車がお祭り広場に引き出され、木偶やからくり人形の奉納が行われます。山車庫左の堂の内部。 薄暗い堂内中央に金色の厨子、左に弘法大師らしき姿が見えます、更にその左右には複数の像の影があるようです。手水鉢に十王堂と彫られていましたが、もしかするとこの影が十王かもしれません。 さて本題の知多四国七十二番札所慈雲寺に向かいます。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 多聞天(知多市岡田)創建 / 享保九年(1724)本尊 / 多聞天境内社 / ---例祭日 / ---氏子域 / ---所在地 / 知多市岡田高見75山之神から多聞天 / 山之神から農道を直進、東海知多新線、県道46号線を越え、岡田町内の岡田二区中組会所へ。約2.6km・約40分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)
2026.07.08
コメント(0)

道の駅 大滝温泉で迎えた二日目。 今日は今回の目玉といえる三峯神社と奥宮登拝です。6/11 5:55。 昨晩は正面の駐車場に車中泊の車が多かったが、朝起きてみれば一台もいなかった。三峯神社の玄関口となる市営駐車場に入るのに渋滞が発生すると聞く、ここで仮眠を取って夜明け前に向かう人もいるのかもしれない。 私たちは道の駅入口にあるコンビニで朝食を買ってから三峯神社に向かう。途中、長い待ち時間の二瀬ダム信号までは後続車もなかったが、信号待ちの間に一台後続車がやってきたため、ダムを渡ってすぐに道を譲り、先に走ってもらう。「なんで譲ったの?」と聞かれるが…。 山道の運転は嫌いじゃないが、ここからクネクネ道が続くだけに、クネクネ大嫌いなかみさんが隣にいるので、後から先の状況を見ながら走る方がスムーズに走れる。昨年の秋、鹿が路肩から飛び出してきたこともある、ここなら恐らく熊の親子も出てくるだろう、見通しの効かない山道は、ついて行くに限る。7:10。 クネクネ道を30分ほど登り、標高1100メートル付近の三峯神社駐車場に到着。山霧が湧き立つ山深いこの地に立つと、ようやく三峯へ来た実感が湧いてくる。 すでに多くの車両が駐車しており、参拝へ向かう人の気配がある。三峯神社の社殿は前方に見える建物の奥になります。 尚、この時間であれば料金所も解放されていました。まずは車内で朝食を済ませ、三峯神社に参拝し奥宮登拝の安全を祈願することに。駐車場向かいのビジターセンター前に立てられていた案内板。 三峯神社まで約500m。そして奥宮までのコースマップ。 ビジターセンターの右から奥宮までは約70分の道のりのようだ。7:18三峯神社正参道に立つ白い鳥居に到着。 よく見かける鳥居ではなく、明神鳥居の柱の両脇に鳥居が連なるもので、三輪鳥居とか三ツ鳥居と呼ばれるもの。その前には三峯神社のシンボルともいえる阿吽の狼が安置されています。 三峯神社は狼(大口真神)を眷属とするため、境内に見慣れた狛犬は存在しません。こうした狼信仰は三峯神社に限らず全国で見られますが、関東圏では秩父や奥多摩に多く、秩父三社のうち三峯神社と宝登山神社、さらに奥多摩の武蔵御嶽神社で狼の姿を見られます。農耕社会では狼が田畑を守る神の存在として見なされ、食物連鎖の頂点に立つ捕食者として生態系の一部に関わっていたとも考えられる。 頂点捕食者であった狼が姿を消し、山の生態系が変化したことに加え、職業猟師の減少も重なった結果、熊・猪・鹿などが人の生活圏へ近づきやすくなり、食害が目立つようになったともいえる。犬の起源はオオカミの家畜化にあり、人の生活圏で狩猟・警護などの働きを担いながら、人と共に暮らしてきた。 昨今のペットブームを見ると、外で神域を守る狼像とは対照的に、現代の犬は室内で人に寄り添い、本能は薄れ“人化”が進んでいるようにも見える。7:20、鳥居から社殿に向かう参道の眺め。 杜に入ると山霧が一層濃さを増してくる。随身門。 神仏習合時代の江戸時代に仁王門として建立されたが、明治に入り随身を安置する随身門に改められたもの。随身門は元禄4年(1691)に建立され、その後の寛政4年(1792)に再建された八脚門で、昭和40年(1965)に改修を受けた。 切妻造で軒唐破風を持ち、魔除けの朱、連子窓は緑で塗られています。また正面の破風回りや妻壁には極彩色の装飾が施されています随神門前で守護する狼。平成14年に彩色復元が行われたこともあり、鮮やかな色彩が保たれています。 「三峯山」と書かれた大きな扁額は、江戸時代中期の文人大名として知られる増山雪舟の筆跡とされる。ここに安置されていた運慶作とされる仁王像は、明治15年、埼玉県鴻巣の勝願寺の消失に伴い、大正9年に再建された仁王門へ移設された。随身門から先の参道は緩やかに下りとなる、参道脇は見上げるばかりの杉が聳えている。 ここから拝殿前の石段まで2・3分ほどだろうか。途中の左側に三ツ鳥居の左から続く道沿いから境内に入る脇参道がある。拝殿に向け直進を続けた先の狛狼。石段下から拝殿を見上げる。 正面に銅鳥居を構え、左に手水舎、右に八棟木灯台が建てられています。八棟木灯台。 安政4年(1857)の建立で、四つの切妻破風がクロスし、一つの屋根となる、手の込んだ八棟造の灯台で、一つ一つの切妻破風の下には軒唐破風が付くもので、どの角度から屋根を見ても同じ見え方をする。屋根から下も手が込んでいて、屋根を支える4本の柱には龍が飾られ、柱を支える部分は円筒形。 最下層は四角柱となり、細かい彫が施された手挟上の部材が上層を支えている。手水舎。 切妻屋根で平側に軒唐破風が付くもので、こちらも全周に龍や獅子など煌びやかな装飾が施され、柱や梁まで紗綾形の紋が刻まれる細かい細工が施されている。嘉永6年(1853)の造営とされ、鮮やかな発色は平成16年(2004)に彩色復元が行われたようです。左奥の建物は神楽殿。八棟木灯台付近の解説。明治41年(1908)にダム建設で消えた大滝村滝の沢地区に伝わる滝の沢神楽を奉納するために建てられたもので、現在は催されていないと聞きます。 山霧に包まれる三峯神社拝殿の眺め。 寛政12年(1800)に建立された入母屋銅葺屋根で、千鳥破風と唐破風向拝が付く権現造。妻壁はじめ壁面、向拝に至るまで極彩色の装飾が施され見応えがある。 拝殿左側に興雲閣と呼ばれる宿泊施設もあり、早い時間帯から祈祷が行われています。埼玉県神社庁の概説を以下に記載します。 「秩父多摩甲斐国立公園内標高約1100mに鎮座する三峯神社。約1900年前に日本武尊が甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中、この地を訪れ、伊弉諾尊・伊弉册尊をお祀りしたのが始まりと伝わる。 この時、尊を道案内したのが狼(山犬)であったとされ、神様の使いとして一緒にお祀りされています。江戸時代には、猪鹿除け・火難除け・盗難除け・病気除けの霊験あらたかと、「お犬様」と呼ばれる御眷属信仰が遠い地方まで広まり、以来その名は全国に知られています。」とあります。拝殿左から本殿を望む。 当日は本殿の改修工事中、遠目から見た本殿は外削ぎの置き千木と2本の鰹木が載る春日造のように見えます。では、奥宮登拝の安全を祈願しに向かいます。向拝柱の梁には、鮮やかに彩色された彫り飾りが施されている。正面の「三峯神社」の大額は有栖川宮熾仁親王の染筆によるもの。 祭神は伊弉諾尊と伊弉册尊の夫婦神を祀ります。拝殿は平成16年に彩色復元され、霧の中に包まれても鮮やかさは際立っています。拝殿から銅鳥居と灯台、手水舎の眺め。 鳥居は弘化2年(1845)の建立で、荒川を筏に載せてここまで運ばれたという。拝殿から右に境内社が連なります。 左から祖霊社、右が国常立神社。国常立神社。 平成18年、彩色復元され、向拝回りの意匠が煌びやかで、国常立尊をお祀りする。宝暦11年(1762)の再建で、明治維新前は十一面観音と不動明王を安置した護摩堂だった。 日本武神社。 明治維新前は役小角を安置した行者堂と呼ばれていた。嘉永6年(1853)の再建で平成28年に彩色復元を受けた。更に右に進むと多くの社が祀られている。 ・・・ますます霧が濃くなってきた。覆屋に収められた神明造の社は伊勢神宮。同じ作りの社がその先の東照宮まで16社連なっています。 月読神社、猿田彦神社、塞神社、鎮火神社、厳島神社、杵築神社、琴平神社・・・小銭をたくさん用意したほうがいい。16社最後の祓戸神社の隣が東照宮。東照宮の右隣の3社は春日神社、八幡神社、秩父神社、狼が守護する右の社は大山祇神社。大山祇神社の狼。境内社の参拝を済ませそのまま直進すると奥宮遙拝所に至ります。奥宮遙拝所入口。 鳥居の先の遥拝殿から妙法ヶ岳(標高1332m)の頂に鎮座する奥宮の岩肌が見えるはず。これから奥宮を目指すのでここはスルー。8:10。 足慣らしを終え駐車場に到着、南の前白岩山、雲取山方向はガスっている。奥宮のある妙法ヶ岳はどうなんだろう、視界が悪ければ諦めるとして、足拵えと雨具・水・飴玉・ナイフをリュックに放り込み、役には立たないが熊鈴二重連で奥宮参拝道に向かいます。甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day2 「三峯神社」創建 / 景行天皇41年祭神 / 伊弉諾尊、伊弉册尊境内社 / 祖霊社、国常立神社、日本武神社、伊勢神宮、東照宮、大山祇神社など所在地 / 埼玉県秩父市三峰298-1参拝日 / 2026/06/11道の駅 大滝温泉から三峯神社 / 距離15km・約30分関連記事・甲斐國一宮・三峯神社・奥宮参拝 Day1 「武田神社・甲斐善光寺・淺間神社」
2026.07.07
コメント(1)

日長神社を後にして、常滑街道を東へ、日長川に架かる新城見橋を渡り、国道155号線の交差点を直進した先の左側が今回取り上げる不明社。 日長神社から距離にして約0.8km、移動時間は10分少々。上は不明社の鎮座地。 戦国時代、日長神社の北東丘陵地に日長城があったとされ、元禄元年に書かれた「日永大明神略縁起」には、匹田氏、駒沢氏と云う武将が砦を築いたとある。城の全体像は不明で、現地は樹々が生い茂る小高い山で遺構などはないという。 不明社が鎮座する日長堀田地区、日長川右岸の城見坂地区など城の名残を伝えるようだ。訪れた当日、不明社の前の水田ではちびっこ達が泥と格闘しながら田植えを行っていた。こちらが今回取り上げる不明社。 田圃と畑が広がる一帯にこんもりとした森が残されています。子供のころ、身近にこんな景色は普通にあったものが、住宅やビルに代わり消えていった。 こうしてポツンと残る森は古墳か、神社が祀られているもので、ここには日本の原風景ともいえる光景が残っています。田植えに忙しいちびっ子たちを横目に農道を歩き森に向かう。こんもりと盛り上がった高みは円墳のように見えなくもないが、解説板もないことから古墳ではなさそうだ。 森の南側に石段が作られ、頂に小さな社が祀られています。社の主は「山之神」。 自然崇拝のひとつで農民から崇敬される神で、春になると山から里に下りてきて、田の神となり稲を育み、収穫が終わると再び山に戻り山の神となる。農業を営む者にとって一番身近な存在かもしれない。 こうしたロケーションの場所には水神が祀られていることもある。食糧自給が問われ、人口減少が進む現在でも、農地は宅地となり家は建てられる。 こうした社のある光景も見られなくなるのだろう。 山之神を祀る森を後にして、かつて田んぼであっただろう農地の中に伸びる細い農道を進み、岡田の町を目指します。 随分怪しげな道ですが、車道を歩くよりは安全で心地いい。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 山之神(日長堀田)創建 / 不詳祭神 / 不詳境内社 / ---例祭日 / ---氏子域 / ---所在地 / 知多市日長堀田35-7日長神社から山之神 / 日長神社から常滑街道を東へ、日長川に架かる新城見橋を渡り、国道155号線の交差点を直進した左側。約0.8km・12分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社
2026.07.04
コメント(0)

新舞子の白山神社から次の目的地「日長神社」に向かいます。 国道155号線を北上、神田交差点で右折し常滑街道を進みます。目の前の日長川に架かる参宮橋を渡り前方を眺めると小高い山が見えます、そこが日長神社の鎮座地です。参宮橋を渡り左に進むと日長神社一ノ鳥居が建つ参道がある。上は尾張名所図会(1838~1841)知多郡の挿絵に描かれた日永神社。 地名の由来は日本武尊の時まで遡るようで、日高から日永に変わっていったとされる。現在は日長と書かれる。一ノ鳥居から日長神社の眺め。参道中ほどに小さな堂が建てられています。入口にかなり古びた手水鉢が置かれています。大峯山大権現。 奈良県吉野村にある山上ヶ岳の頂に役小角が開祖の大峯山寺の神仏。この大峯山大権現が単独で建てられたものか、参道向かいの福田寺と関係あるか定かではない。 つい最近まで奈良国立博物館で「大峯山寺の秘仏蔵王権現展」が開かれ秘仏蔵王権現が展示されていた。折しも、かみさんが旅行中で留守番が続き、行きたいなとは思いながらも行きそびれてしまった。山の入口にニノ鳥居が立っており、頂の境内まで石段が続く。明治初期に寄進されたニノの鳥居、右脇に日長神社由緒が立てられている。 右に「郷社 日長神社」の社号標があり、石段左に玉垣で囲われた境内社が祀られている。社名札はなく、常夜灯からも社名は分からなかった。長く続く石段から三ノ鳥居の眺め。石段中ほどに安置されている狛犬、台座には「明治拾年」とある。 細部まで彫られた大量生産前のもの。石段の先に大正七年寄進の三ノ鳥居と神門。鳥居の左側手水舎。 鉢には石造りの龍口と五七桐紋が施されている。神門。 軒唐破風が着く切妻瓦葺の四脚門で重厚感が漂う。神門前の狛犬、寄進年は見なかったが、風貌は先に見たものより古そうだ。 左右の袖壁の連子窓に神社の由緒と伝説を記した木札がありますが、文字が薄く全文読み取れなかった。神門正面の拝殿はコンクリート製の入母屋造。愛知県神社名鑑(1992)の当社解説は以下。 『九等級 日長神社 旧郷社鎮座地 知多市日長字森下四番地 祭神 日長命、日本武尊、倉稲魂命由緒 社伝によれば、延喜十四年(914)、寛徳元年(1044)創建ともいうが、戦火により古記録が灰燼に帰せしにより明らかでない。上古蕃賀郷の総社として祀られた。 本国帳には従三位日長天神とある。江戸時代には日永天神社、江文大明神とも称せられ、日長七村の総社であった。 本殿は天正九年(1581)十二月、造営の古い社である。明治五年九月、郷社に列格せらる。 昭和四十八年、幣殿、拝殿を造営した。 社殿 本殿 流造、幣殿、拝殿、社務所。特殊神事 祈年祭 二月第二日曜日 新嘗祭 十一月第二日曜日 奉射祭 四月第二日曜日・弓道大会を行ない、金的を奉納する。 御馬頭神事四月第二日曜日・飾馬四頭が出る。』境内の由緒より一部抜粋。『境内末社神明社、八幡社、薬祖社、風宮社、恵比寿社、八剣社、山神社、天満社、金刀比羅社 例祭日 四月第二日曜日由緒 創立年月日は明らかでありません。日本武尊は、「東夷征伐の折この地に立ち寄られたご縁」により、日長命は、「この地方を開拓された神」として倉稲魂命は、「農業や諸産業の発展と守護の神」としてお祭り申し上げています。 古代には蕃賀郷(知多西北海岸地方と云われている)の総社として崇敬されたと云われています。後鳥羽天皇文治年中(約八百年前)に従二位日永天神を賜り、近世には、日長七村(森村、鍛冶屋村、松原村、大草村、羽根村、岡田村)の総社として崇敬されました。 文政頃より日長神社と称するようになりました。』拝殿額と神紋。拝殿内から幣殿本殿を望む。本殿域内の右側にある磐境。 古代祭祀形態の磐座と伝わっている。拝殿右に南向きに境内社が纏められています。 左から薬祖社、風宮社、神明社、八幡社。こちらは西を向いて五社が祀られています。 左から山神社、八剣社、恵比寿社、天満社、金刀比羅社。境内右側の東に続く参道の先に、日本武尊が東征の際に当地に立ちより、村人に掘らせたと伝わる「手水池」があります。 名のとおり、参拝前にこちらで手を洗い清めたとされます。日照りが続いても干上がることはなく、水が澄んでいると平和、濁ると争いが起こると伝わり、四年に一度氏子達により池さらえが行われているという。境内左から拝殿全景の眺め。境内左の社務所。境内から神門を眺める。 昭和四十八年に幣殿、拝殿造営とありますが、この神門も同時期のものだろうか。三ノ鳥居から見下ろす社頭方向の眺め、ルートは社頭から山裾に沿うように東に向かって進んでいきます。 第十六回 歩いて巡拝 知多四国 日長神社創建 / 不詳、(延喜十四年(914)・寛徳元年(1044)とも)祭神 / 日長命、日本武尊、倉稲魂命境内社 / 神明社、八幡社、薬祖社、風宮社、恵比寿社、八剣社、山神社、天満社、金刀比羅社例祭日 / 4月第2日曜日氏子域 / 旭桃台、旭南、新舞子、新舞子東町、長浦、日長、日長台、日長東田、緑浜町、南浜町所在地 / 知多市日長字森下4番地白山神社から日長神社 / 白山神社から国道155号線を北上、神田交差点を右折・直進、日長川に架かる参宮橋を渡り直進。約1km・15分。参拝日 / 2026/05/16関連記事・第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社
2026.07.03
コメント(0)

名鉄主催の歩いて巡拝 知多四国、全17回で知多四国の札所を巡るものです。 今回で第十六回となり、5月16日本開催の知多四国を巡ってきました、長かったゴールもみえてきました。上が今回のルートです。 スタートは名鉄常滑線新舞子駅。駅前から一路東に向かい72番札所慈雲寺➡78番札所福生寺➡79番札所妙楽寺・開山所妙楽寺➡ゴールの名鉄常滑線古見駅に戻る約9km、4つの札所を巡るもの。既に一巡したかみさん、今回は姉妹でフランス旅行中で参加できず、おやじ一人での参加。 ということで、スタートからコースアウトして参加者とは別の方角に歩き出します。新舞子駅東口から住宅街に伸びる常滑街道を北に向かうこと約5分ほど、国道155号線の西に鎮座する白山社に到着。白山社の鳥居前から境内を望む。切妻瓦葺の妻入りの拝殿とその前に掲げられた白山社由緒。白山社由緒。『神社名 白山社 鎮座地 知多市新舞子字北屋敷七番地御祭神 菊理媛命 イザナギが、なくなったイザナミを連れ戻そうと黄泉国に赴くが、イザナミの変わり果てた姿を見て逃げ出した。黄泉平坂で追ってきたイザナミに追いつかれ論争となる。 この時二人の間に立ち、言葉を取り伝え、相互の主張を聞き入れ和解させた神。『日本書紀』。この説話から、二人を仲直りさせたとして、「夫婦和合」・「縁結び」の神とされている。 また、「くくりひめ」から「くくりむすび」につなげ「産霊」と書いて「むすび」と読むことから、「あらゆるものを産みなす霊力」を現す神として、諸願成就の信仰が篤い。境内末社 秋葉社、山神社、駒嶽社、金刀比羅社、御鍬社、金峯社例祭日 七月第四土曜日由緒 社伝によれば、創建は慶長十九年(1614)という。その根拠は、元禄十一年(1698)の棟札に「慶長年中の末、長雨の為大きな洪水があった時、浜辺に社が流れ着いたので里人が集いこの所に安置し祀った・・・」とあることによるものと思われる』愛知県神社名鑑(1992)では当社を以下のように記している。 『十四等級 白山社 旧無格社鎮座地 知多市新舞子字北屋敷七番地 祭神 菊理姫命由緒 社伝によれば、創建は慶長十九年(1614)という。尾張志(1843)には、白山ノ杜山神社松原村にありしとある。 明治六年、据置公許となる。例祭日 七月第三土曜日 社殿 本殿 流造、拝殿、社務所、山車庫』境内左の眺め。 ここに手水舎、社務所、山車庫が集約されており、正面の山車庫には天保年間の築造とされる、漆塗りと金箔で仕上げられた山車が保管されています。小堂と手水舎。堂内には役行者(役小角)像を安置する。拝殿は普段は四方の戸板が付けられ、内部の様子を垣間見ることは出来ない。 後方の本殿域の右側には境内社が建てられています。拝殿額は「白山神社」。本殿域は一段高く盛られており、冠木門から玉垣が廻らされています。 本殿域には本殿の他、左右に複数の境内社が祀られています。流造の白山社本殿、頭貫の上の龍の彫飾りは手がかかっています。本殿左の境内社四社。 右から金峯社、駒嶽社、山神社、御鍬社。右の秋葉社と白山社本殿。本殿左の境内社、御鍬社、金刀比羅社。本殿域右の境内社は霊神碑が纏められた御嶽神社。境内から社頭の眺め。 交通量の多い国道から一本入っているため、騒音は気にならない。第十六回 歩いて巡拝 知多四国 白山神社創建 / 慶長十九年(1614)祭神 / 菊理媛命境内社 / 秋葉社、山神社、駒嶽社、金刀比羅社、御鍬社、金峯社、御嶽社例祭日 / 7月第4土曜・日曜氏子域 / 新舞子、新舞子東、日長、日長東田所在地 / 知多市新舞子北屋敷7名鉄常滑線新舞子駅から白山神社 / 新舞子東口から700m北上した北屋敷地内。参拝日 / 2026/05/16関連記事
2026.07.02
コメント(0)

6月10日から12日にかけ、一ノ宮巡りで山梨県・埼玉県を訪れてきました。 今回は甲斐國一宮の淺間神社を参拝するのが目的ですが、県境を少し超えて埼玉県秩父市の妙法ヶ岳(標高1332m)の頂に鎮座する秩父三社のひとつ三峯神社奥宮に登拝するため、二泊三日で巡ってきました。おりもおり、日本各地で毎日のように熊被害や目撃情報を耳にするだけに、熊と天気の動向を見ながらの山行です。 今回は初日に訪れた武田神社、甲斐善光寺、甲斐一宮淺間神社のtopixを掲載します。当日は6:00に名古屋ICから新東名で一路静岡方面に向かい、第二東海自動車道、中部横断自動車道を経て甲府に向かいました。10:40、山梨県甲府市古府中町に鎮座する武田神社に到着。 甲府盆地の北端にあたり、興因寺山(855)と東山(885)の谷筋が盆地にかけて広がりを見せはじめる緩やかな丘陵に位置し、南側には広大な甲府盆地が一望できる相川の扇状地。当日は社頭に一番近い駐車場に空きがなく、社地西側の駐車場に駐車し、水堀沿いを歩き社頭にやってきた。神橋から一ノ鳥居を望む。 水堀の周囲は二段に石垣が組まれ城を思わせる外観。武田神社の鎮座地は甲斐国守護武田氏の居館跡に創建されたもので、境内には当時の遺構が今も残されています。社頭の武田神社由緒。 武田信玄を祭神とする神社で、郷土の英雄を祀る神社創建の声は明治時代からはじまり、大正8年(1919)に武田氏館跡のこの地に創建されたのがはじまり。躑躅ヶ崎館とも呼ばれ、永生16年(1519)、信玄の父信虎が平等川右岸の石和から当地に館を移したことからはじまり、以降武田家当主の居館として使われた。 当時はこの館から南にかけて城下町として栄えていた。武田神社一ノ鳥居。 鳥居前で胸板が厚い凛々しい姿の狛犬が守護する。鳥居をくぐると広大な主郭が現れる。かつての主郭に鎮座する武田神社社殿。 大正時代創建の神社ながら、外観は檜皮葺の屋根に唐破風向拝が付き重厚感のある趣が漂う。向拝下の武田神社の額、神紋は武田菱。拝殿から本殿方向を望む。 祭神は甲斐の英雄 武田晴信(信玄)。上は躑躅ヶ崎館配置図で写真左側が鳥居のある社頭にあたる。 社殿から左に進んだ先の西曲輪は、御屋形様の散歩道と呼ばれるようで、信玄もここで朝の散歩を楽しんでいたのだろう。鳥居から南の甲府市内を望む。 まっすぐに続く武田通り、その先に武田氏滅亡後に秀吉により築城された甲府城跡に続きます。武田神社(躑躅ヶ崎館)祭神 / 武田信玄創建 / 大正8年(1919)所在地 / 山梨県甲府市古府中町2611次の目的地は武田通りを南下して、武田交差点を左折し、10分ほど走った先の甲斐善光寺に向かう。11:40、甲府市善光寺3に鎮座する甲斐善光寺山門に到着。 入母屋造の楼門で宝暦4年(1754)に消失したが明和4年(1766)に再建されたもの。上層には手摺が巡らされ、下層の両の間に金剛力士像が安置されています。長い参道の先の金堂。甲斐善光寺は浄土宗の寺院で正式な名称は定額山淨智院善光寺。 永禄元年(1558)武田信玄が川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、本尊の善光寺如来像のお前立を奉遷するために開基したのがはじまり。金堂正面全景。 信濃善光寺に通じる造りで撞木(しゅもく)造と呼ばれる形式で、棟の高さは約27m、奥行49mの大建築で、現在のものは寛政8年(1796)に再建されたもの。三方に向拝が付き、正面には唐破風向拝が付く。向拝前から金堂内の眺め。 金堂の中陣天井には巨大な二匹の龍が描かれており、中陣で手を叩くと天井の龍が共鳴する日本一の鳴き龍と称されています。 いろいろなところで鳴き龍は経験していますが、共鳴の度合いは確かに一番かもしれない。内陣の奥には戒壇廻りもあり、距離はともかく、なかなかの暗闇で、その道筋は「心」の形を模しており、手探りで慎重に進まないとぶつけたり、踏み外すことになる。 戒壇廻りでどこに行ってもお決まりの鍵はしっかりと触ったことがなかったが、甲斐善光寺で初めてしっかりと触ることができた。甲斐善光寺宗派 / 浄土宗開基 / 永禄元年(1558)・武田信玄本尊 / 善光寺如来所在地 / 山梨県甲府市善光寺3-36-112:30甲斐善光寺の参拝を終え、甲州市勝沼町に昼御飯を食べに向かおう。 「ピンポンパンポーン、只今○○町でクマが目撃されました・・・ご注意ください」のアナウンスが境内に流された、詳しく聞き取れなかったが、後日webでこの日の情報を調べると甲斐善光寺から西に2kmほどの市街地に現れたようだ。宇都宮では全国区で大騒ぎになるのだが、ここでは日常の出来事なんだろう。 大都会では未だ、やれ「殺すな、可哀想」とかの意見がある、熊さんがスクランブル交差点に現れる可能性すら捨てきれない世の中になってきて、現実に直面した時に慈悲に満ち溢れた対応を取れるだろうか。明日は三峯神社から妙法ヶ岳の奥宮へ登拝予定。 長い人生で熊と遭遇したのは一度だけ、蛇との遭遇は心配しても、熊との遭遇を心配したことはなかった、明日はどうしたもんだかね。13:10、甲州市勝沼町に店を構える「ほうとう処 いしはら」に到着。 国道20号線から一歩中に入ったブドウ畑の中にポツンと店を構えており、外観は田舎の古民家そのもの。店内は今どきのリノベされた内装ではなく、梁に電線が這う、昔ながらの古民家そのもの。 鏡のように磨かれた廊下に庭の緑が映り込み、開け放たれた窓から心地よい風が吹き抜ける。 エアコンなしでも実に快適だ、座敷で大の字になろうものなら睡魔に襲われそうだ。店名にあるようにメニューは「ほうとう」、この暑い時期に「ほうとう」ですか。 とはいっても、涼しいくらいの店内で食べる熱々の「ほうとう」はこれで結構いける。ボリュームが有り、晩御飯もいらないくらい。ほうとう処 いしはら所在地 / 山梨県甲州市勝沼町藤井928定休日 / 火曜日営業時間 / 11:00~15:0013:50、いしはらを後にして、国道20号線を右折し、2kmほど先の「一宮淺間神社交差点」を右折し「甲斐國一宮 淺間神社に向かう。14:00、「一宮淺間神社交差点」を右折した目の前が淺間神社の大鳥居で右に「甲斐国第一宮 淺間神社」の社号標が建っており、鳥居の先に見えている杜が淺間神社の杜になります。 淺間神社二ノ鳥居はここから300m先の正面です。社頭から眺める二ノ鳥居と右に「国幣中社淺間神社」の社号標があり、その先に神門を構えている。 所在地は笛吹市一宮町一ノ宮。左右の間に随身を安置する随神門から社殿の眺め。社殿はこの拝殿と後方の本殿、境内右の神楽殿が主なもので、本殿外周は一周でき、境内社の七社大神や護国神社など祀られています。 また、神楽殿から右に進んだ裏参道口に、かつての一ノ鳥居が移設されています。祭神は富士山を神格化した神とされる木花開耶姫命を祀る。 由緒は古く、垂仁天皇八年(BC18)、現在地から約3km程南の神山の山中に、山宮神社(現在の摂社山宮神社)として大山祇神と天孫瓊々杵命、木花開耶姫命をお祀りしたことにはじまる。富士山貞観大噴火(864~866)を契機に、朝廷から甲斐國にも祠を立て官社に列し、祭祀をおこなわせるという勅が下った。 噴火翌年の貞観七年(865)、山宮神社の木花開耶姫命を里宮にあたる当社に遷座、淺間神社としたとされる。鳥居や随神門は全て富士山方向の南を向いていますが、社殿は東向きに建てられています。 これには訳があり、富士の噴火被害を受けないよう、富士を望めぬこの地を意図的に選び、社殿も富士に対し90度東に向け建てられている。 境内の南東角には神山を背にして建てられた社(山宮遥拝所)があります。当社周辺は「葡萄畑が織りなす風景」として日本遺産に指定されています。 山梨を訪れるにあたって、「キャンプしがてらワイナリー巡り」を提案したが採用に至らず、今回ワインは飲めずに終わる。甲斐國一宮 淺間神社創建 / 貞観七年(865)祭神 / 木花開耶姫命所在地 / 山梨県笛吹市一宮町一ノ宮168414:45、淺間神社を後にして、一路北上し甲府市方向に向かい、市内のスーパーを巡り、晩御飯や地元食材、酒や肴を調達する。 このあと、国道140号線を約90分かけて、山深い秩父方向に向け、今夜の車中泊地「道の駅大滝温泉」に向かいます。この先には食事処や食材を調達する所がなく、道の駅の営業時間も早いので、ほうとうで満たされた状態の食材選びでした。16:40、「道の駅大滝温泉」に到着したが、そこから3kmほど下った埼玉県秩父市大滝の三峯神社大輪表参道一ノ鳥居まで足を伸ばす。 国道沿いに鳥居が建てられ参道は荒川を越え山深い山中に消えていく。かつては三峯神社に登拝する玄関口として賑わったようですが、現在は参道沿いの旅館や茶店は閉ざされ寂れた印象が漂う。 燈籠の先には三峯神社の特徴でもある狼の狛犬が安置されている。荒川に掛けられた登竜橋。 ここから三峯神社までは概ね2時間半ほどの参拝道が続きます。橋の袂には「熊出没注意」「登山道」「滑りやすい」など注意勧告がされており、身支度や熊除け対策など整っている人はともかく、軽い気持ちで踏み込むところではない。登竜橋から荒川の眺め。 若い頃は一人でフライを振って釣遡っていたが、もはや体力・視力ともに過去の話だね。今では野生動物、特に蛇が横切っただけでもそれ以上進めなくなる、実に臆病になったもんだ。 無謀だったのか、守るものがなかったのか、よくやれたものだ。ここからいよいよ登山道、本社までは五十三丁あります。 かつて、この先にロープウェイもあり、参拝客で賑わいを見せた大輪表参道も、今は訪れる人影も少ない。 明日はここからではなく、三峯神社駐車場から奥宮を目指します。三峯神社 大輪表参道一ノ鳥居所在地 / 埼玉県秩父市大滝7317:00、「道の駅大滝温泉」に到着。 写真の駐車スペースと、コンビニ駐車場の下に駐車場があり、後者に駐車して車中泊の準備を整える。道の駅後方から眺めた荒川の流れ。施設は左手の大滝歴史民俗資料館と右の大滝温泉游游館、施設左に大滝村食文化センター郷路館がある。 温泉施設を除き17:00が終了時間で、温泉は20:00まで営業しています。周辺観光マップ。ジオパーク秩父観光マップ。奥秩父山地・上武山地、外秩父山地に囲まれた秩父盆地、周辺にはダイナミックな地球の営みによる造形や観光名所があり、多様なみどころがある。 秩父三社と称される三社があります。盆地の中央に鎮座する秩父神社、荒川右岸の寳登山に鎮座する寳登山神社、そして妙法ヶ岳の頂に奥宮を祀る三峯神社もこのエリアに分布しており、三社のなかでもっとも険しく、山深い地となります。道の駅の施設をひと回りし温泉に浸かり今日一日の疲れを癒す。やや茶色を帯びた湯で、泉質は肌に滑らかなもので、内風呂と階段を下りた先の半露天風呂のふたつあり、サウナもあります。 料金は800円ですが、施設には休憩所やウォーターサーバーもあり20:00まで滞在できます。温泉で体を癒し車に戻る、後方の壁面にはこのような貼り紙。 山梨初日の宴をはじめる。 キンキンに冷えたビールからはじまり、スーパーで買った日本酒で晩御飯というより居酒屋か。ポータブルTVは受信できず、今日の出来事はwebで見るしかなかった。 就寝中は近くの車がエアコンをかけはじめ、快適とは言えなかった。営業マンの話では、車購入時にウェザーシールドを付けない人もあると聞く、付けておけば窓を少し開けておくだけで寒いくらいだったのだが。 ※埼玉県は条例で駐車時または停車時のエンジン停止が義務付けられています。 道の駅 大滝温泉所在地 / 埼玉県秩父市大滝4277−2定休日 / 木曜日営業時間 / 10:00~17:00大滝温泉 遊湯館定休日 / 木曜日営業時間 / 10:00~20:00day1移動ルート走行距離331km、運転時間6.5H、平均燃費25.9km/l
2026.06.29
コメント(0)

吉祥寺から岩倉街道を250mほど北に向かった右側に社頭を構える神明生田神社。 今回の岩倉徘徊もこちらを参拝し終わりとなります。岩倉街道と五条川に挟まれた下本町下市場に位置し、岩倉城跡から旧五条川を辿るように歩いて行くと神明生田神社の脇参道に至ります。前回掲載した吉祥寺からだと街道沿いの赤いポストが正参道の目印になるだろう。街道から見る社頭。 石柱門の右に「神明生田神社」の社標が建っています。参道は、鳥居をすぎると五条川に向け境内が広がり、南向きに社殿が建てられています。参道脇の神明生田神社の概説。 当神社は山内一豊の誕生地とされ、境内に石標と記念碑が建てられています。鳥居手前に下本町の山車庫。『昭和49年11月15日市指定下本町山車は寛永2年(1625)に製作された、尾張地方で最古級の山車である。 その後、文化10年(1813)に剣村の覚四郎によって作り直され、現在の姿となった。木製三段組立で漆塗りの豪華な山車で、別名「杉山」と呼ばれ、祭礼では上段の柱に杉の枝を立てる習わしがある。 からくり人形は「ざい振り」「菅丞相」の糸からくりと、連台に逆立ちして鉦を打つ唐子の離れからくりがあり、天明5年(1785)に隠居吟笑が制作したと伝わる。かつては旧暦6月16日の祇園祭で、中本町の神明太一社を中心に曳行された。岩倉市教育委員会』岩倉には大上市場、中本町、下本町にそれぞれ三台の山車が受け継がれており、毎年春と夏に引き出され、神明太一社まで曳行されます。 昭和に入り戦争などから中断されていたようですが、桜まつりを契機に平成4年から復活したそうです。山車の高さは8mほどで、狭くて電線が張り巡らされた岩倉街道を曳行される。鳥居前から境内の眺め。 境内左に手水舎と社務所があり、正面は拝殿の側面に出る。拝殿は切妻瓦葺で四方吹き抜けの木造で写真右側に脇参道の入口があります。 この地域にあって比較的大きな拝殿です。拝殿の先の境内には児童館と左側は桜祭りのグルメスポットお祭り広場になっています。 鳥居から境内左の眺め。 左に手水舎、赤い鳥居は境内社の白髭大明神、右に神明生田神社幣殿と鎮座します。写真は手水舎後方に安置されている鬼板。 平成九年に拝殿を修復した際のもので橘の紋が入れられている。白髭大明神社頭、本殿に向け多くの奉納鳥居が建てられている。白髭大明神本殿。 後述する岩倉市史(1985)の境内社一欄にこの白髭大明神の社名は見られなかった。本殿右に「正一位稲荷大明神」が祀られている。 こちらは岩倉市史にも稲荷社として記述されています。愛知県神社名鑑による神明生田神社の解説は以下内容。『七等級 神明生田神社 旧指定村社 鎮座地 岩倉市下本町下市場五番地祭神 大日霊命、稚日女命 由緒 社伝に永正年間(1504-21)祠官増田兵部太夫の奉仕し、三代増田助太夫の時、尾張上四郷の領主織田伊勢守より百石の封をうけた。 千秋村に鎮座の式内生田神社より稚日女命を勧請し、字丸の内鎮座の神明社に合祀し岩倉城の守護神として祀る。永禄二年(1559)織田信長の兵火にかかる。 一時真光寺に難を避け、文化六年(1809)但馬守盛豊の宅跡に社殿を再建、現在に至る。明治五年五月村社に列格。 大正八年三月十五日、神明社を神明生田神社と改称した。同十三年十月十四日供進指定をうけた。 例祭日 十月十五日社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所』 お祭り広場の脇に五条川に架かる真光寺橋がありますが、橋を渡った対岸に真光寺が広がっています。難を避けるため遷座したという現地にはその痕跡を残すものは見られません。岩倉市史(1985)から一部抜粋。 「当社の創始としては天文二十三年(1554)の棟札に「天文二十三寅稔 奉造営神明生田神社正殿八月。岩倉村 山内但馬守盛豊 武運長久祈所」とある。このことから山内但馬守盛豊(一豊の父)が天文二十三年(1554)に造営したと取れる。 伝承によれば、当初は小字丸之内にあり、岩倉城落城後に真光寺へ遷座したとされ、現在地に変わったのが文化七年(1810)という。現在地への遷座に関しては文化六年に小牧代官所へ出した願書が残る。 また、当社の社名は地誌により神明、生田明神と記される。生田と称する社名は全国的に珍しく、神戸市生田の生田神社が知られるが、岩倉市域では大山寺生田明神社と当社のみという。 境内末社は八幡社(応神天皇)、天神社(菅原道真)、津島社(須佐之男命)、市神社(市杵島姫命)、金峯社(金山彦命)、稲荷社(倉稲魂命)」創建時期については双方隔たりがあり、一方で当社は生田神社、生田明神社、生田社、神明生田神社と並び、延喜式神名帳(927)の尾張国丹羽郡22座 大1座 小21座にある「生田神社」に比定されることがある。 市史では延喜式神名帳について触れてはおらず、現地正参道、境内南側にある脇参道の社標にも式内と記されたものは見られなかった。創建時期は定かではないが、写真付きの棟札は説得力があり、永正年間から天文にかけて創建されたものと思われます。 幣殿前を守護する狛犬。幣殿左脇に祀られているのは天神社と津島社。境内右から社殿の眺め。 右側にも境内社が祀られている。左が市神社、右が八幡社、金峯社。社殿右側のこんもりと盛られた一画があり、その高みに大きな石碑が建っています。入口に掲げられている山内一豊誕生地解説。 『昭和49年11月15日市指定山内一豊は天文14年(1545)、岩倉城家老・山内但馬守盛豊の二男としてこの地に生まれた。 大正8年(1919)の神明生田神社遷座式で棟札が発見され、これが誕生地の有力資料となったため、山内家は沼田頼輔博士に調査を依頼し、この地を一豊誕生の地と認めて記念碑を建立した。 父盛豊は永禄2年(1559)の岩倉城落城で戦死し、一豊は15歳で家臣五藤浄基に伴われて母や弟妹とともに浅井新八郎政高のもとへ身を寄せ、その後牧村政倫、山岡景隆に仕えた。永禄10年(1567)頃からは織田信長に仕え、天正12年(1584)に長浜五千石、同18年(1590)には掛川六万石の領主となる。 秀吉没後は徳川家康に与し、慶長5年(1600)に土佐二十万二千六百石の領主となり高知城を築いた。慶長10年(1605)9月12日没、享年61歳。』昭和九年山内一豊公誕生碑が建立された。碑には細かい字で随分と長い碑文が刻まれており、岩倉住民の一豊に対する思いが伝わってくる。 一豊の出生地は岩倉の他に木曽川町黒田が出生地とすることもあり、実際のところ記述として明確なものは残っていないようです。石碑から社殿側面の眺め、こうして見ると本殿は神明造のように見えます。石碑から右側は社叢が生い茂っており、その前には一豊の家紋土佐柏紋が刻まれた石碑が建てられています。 これは平成18年に放送された大河ドラマ「功名が辻」を記念して建てられたもの。境内右のお祭り広場側から眺める神明生田神社全景。 桜祭りの時には、普段人影の少ないお祭り広場も多くの屋台が並び花見客で賑わいます。アルコールの販売価格に関しては、堤沿いよりリーズナブルな価格で販売されており、我家はいつもここの売店で買い求め花見酒を楽しんでいます。 にもかかわらず、お祭り広場から奥に立ち入ったことがなく、今年の花見で初めて神社の存在に気付きようやく訪れることになった。境内南側の脇参道から拝殿正面の眺め。 社標と蕃塀を備えており、社殿の向きからこちらが正参道のように見えなくもない。神明生田神社は岩倉城、岩倉街道の歴史とともに歩んできた神社であり、山車や一豊誕生地の石碑など、地域の歴史を今に伝える場所でもある。神明生田神社 (岩倉市下本町)創建 / 不明(天文二十三年造営の棟札)祭神 / 大日霊命、稚日女命境内社 / 八幡社、天神社、津島社、市神社、金峯社、稲荷社、白髭大明神例祭日 / 10月15日氏子域 / 下本町、旭町、栄町、下本町、昭和町、本町所在地 / 岩倉市下本町下市場25吉祥寺から神明生田神社 / 岩倉街道を北に。約250m・徒歩4分程。参拝日 / 2026/6/5関連記事・稲荷社 (岩倉市稲荷町)・曽野神明社 (岩倉市曽野町)・大市場神明社 (岩倉市大市場町)・縣明神社 (岩倉市大市場町)・岩倉城趾(岩倉市下本町)・黒龍神社(岩倉市下本町)・護国山 吉祥寺(岩倉市下本町)
2026.06.28
コメント(0)

旧五条川の痕跡を留めた黒龍神社から西に向かい、岩倉街道を横切り、さらに奥へ進むと、今回の目的地である護国山・吉祥寺の山門に至ります。上の赤枠が吉祥寺で、岩倉街道から一歩西に入った岩倉集落の西外れに位置します。街道から吉祥寺山門方向を望む。山門前には右に「曹洞宗 護国山 吉祥寺」の寺標と左に「桜講本部」石標、「秋葉大権現」と刻まれた常夜灯が建てられています。吉祥寺山門。 切妻瓦葺の薬医門で、屋根を支える組物に視線が行く。山号額と複雑に組まれた組物。山門入口から本堂境内の眺め、右側に鎮守社の朱の鳥居が見える。境内右側には地蔵堂、稲荷殿が鎮座します。稲荷殿(左)と地蔵堂。 鳥居の額には「豊明稲荷大明神」とあります。堂内の眺め。地蔵堂内に安置されている地蔵尊。 素朴な像容で、銘はないかと目を凝らして見るも分からなかった。境内左の観音堂。霊場や年代はわからないが、石仏が三十三体安置されている。 本堂。 入母屋瓦葺木造で、右側は庫裏に接続しています。吉祥寺は釈迦牟尼仏を祀る曹洞宗の寺院。 岩倉市本町の名鉄線路沿いに位置する龍潭寺の末寺で、創建年代は地史や資料により諸説あり、吉祥寺過去帳(1801)には大永元年(1521)とすべしとあるようです。 創建当初は宝蔵庵と称されていたようです。※吉祥寺HPから引用岩倉市史下巻から一部抜粋した内容は以下のように書かれています。 本尊 薬師如来。開山は本寺三世桂峯、開基は全公と伝わる。 草創年代は尾張志、尾張徇行記では明応五年(1496)、元禄元年(1558)など様々。桂峯の寂年からの推定、吉祥寺過去帳から大永元年(1521)を執るべきだろう。 当寺の鎮守は秋葉三尺大権現で稲荷大明神も奉祭されている。秋葉堂は尾北一円に信者が広がる桜講の中心道場である。本堂寺号額と龍の彫飾り。木鼻は獏と獅子。秋葉堂全景。 吉祥寺は嘉永七年(1854)に、本堂・庫裡を全焼、隣接する民家にも延焼する火災に見舞われたが、本堂と軒を連ねる秋葉堂だけは消失を免れた。 その霊験を目の当たりにした信者は桜講社を結成し、毎年春に秋葉信仰の根本道場である遠州可睡斎に参拝するようになりました。これが桜講の起源です。町内を縦断する岩倉街道は、清須と犬山を結ぶ街道として江戸時代の寛文8年(1667)に整備されたとされるが、それ以前から主要地点を結ぶ、物流や戦略の道として存在した。 時代も周囲の環境が変わった岩倉にあって、車のすれ違いにも気を使う細い道は、今も街道の趣が残ります。吉祥寺はその街道から一歩入ったこの地に室町時代から鎮座する古刹といってもいい。護国山 吉祥寺(岩倉市下本町)宗派 / 曹洞宗開山 / 桂峯開基 / 全公創建 / 大永元年(1521)・諸説あり本尊 / 薬師如来所在地 / 岩倉市下本町下市場157黒龍神社から吉祥寺 / 黒龍神社の社頭を西に直進、岩倉街道を越えた突き当たり。約120m・徒歩2分程。参拝日 / 2026/6/5関連記事・稲荷社 (岩倉市稲荷町)・曽野神明社 (岩倉市曽野町)・大市場神明社 (岩倉市大市場町)・縣明神社 (岩倉市大市場町)・岩倉城趾(岩倉市下本町)・黒龍神社(岩倉市下本町)
2026.06.27
コメント(0)

前回掲載した岩倉城趾から北に続く細い路地があります、今回は路地を150m程進んだ三叉路の突き当りに鎮座する黒龍神社を取り上げます。上の明治24年当時と現在の地図の赤枠が黒龍神社の位置を示します。 下本町に鎮座する黒龍神社は、昭和に入り付け替えられた五条川右岸堤に位置しており、鎮座地から東、現在の五条川堤は左岸にあたり、現在の天神塚の一部だった。付け替えにより右岸となり、旧五条川は埋められ、路地となり生田神明社に続いています。 その細い路地を境にして、西が下市場、東は天神塚の地名が残されています。 岩倉市下本町下市場に鎮座する黒龍神社の社頭全景。 高く積まれた石垣は、旧五条川堤の名残を示すものです。その堤の上に鎮座するのが黒龍神社。 ここを右に入り、建物脇に伸びる細い道が旧五条川で、この先の生田神明社、お祭り広場まで続いています。この高みこそ、かつての旧五条川堤の断面で当時の名残を留めるものです。 下流の城跡橋まで、この高さの堤が弧を描いて続いていたのでしょう。西側から見た堤と黒龍神社社殿全景。 当時の河川床の高さは分かりませんが、ここを越水すると平坦な立地の岩倉集落は水浸しになる。道路から境内に続く石段の先に、常夜灯、鳥居、本殿を収める覆屋が建てられています。堤の上を社地とするため横幅は広くはない。参道左の手水鉢。普段は使われることがないのか、鉢には蓋がされ、龍口だけが現れています。覆屋は手前が吹き抜けの拝所で、三方を囲んだ奥に本殿が祀られています。拝所内から本殿の眺め。黒龍大権現 『五条川に四百年以上棲み続けて、神通力を得たという大蛇が、ある夜下本町○○氏の夢枕に現れ、私を祀れば願いを叶えてやるという。 後日、再度同じ夢をみたことに由来して、昭和5年11月に創建された。平成29年から神名生田神社の管理下になり、毎年11月になると秋季大祭が執り行われる。 本殿内には玉を銜えた黒龍の像が安置されていて、何度もお参りすれば、黒龍となった大蛇の霊験により願いが叶うと云われている』岩倉市史(1985)「信仰と伝承」に龍神さまとして黒龍神社について記載されていました。 それによると、江南から岩倉の五条川沿いには、昔から幾つかの伝説が伝わるようで、黒龍神社の龍神さまもそのひとつ。その多くは、大蛇を見て病んだり、命を落としたとする話が少なからずあるようです。 市史では黒龍を祀るきっかけは解説にあるような内容ですが、面白いのは夢枕に現れた大蛇の言葉。「我は幼川に400年も前から棲みつく大蛇だが、以前は川岸の藪がよく茂り住みやすかった。 しかしこのごろはすっかり切り開かれ姿を隠す事さえできなくなった。たびたび人に見られはしたが、人に危害を加えた事は一度もない。 時に姿を見て病む者もあったが、それはその者の恐怖心からくるもので致し方ないもの。我は自由に大きくなったり、小さくなれる神通力を持っている、祈願すれば何事も叶えてやろう。なんとか神として祀ってもらえないだろうか」と懇願したというもの。 町人は「一度でいいから全身を見せてもらいたい」と頼むと、蛇はむくむくと大きくなり長さ8mほどとなり、絵に書かれ龍の姿のように、色はどす黒く、肌は松の木肌そっくりだったいう。大蛇は頭をもたげると、爆音とともに天に昇って行った。 町人は妙興寺の老師に相談したところ「正夢として信じ祀ったらどうか」との返事をもらったという。昭和5年11月、町人は下市場の東堤北側に社を建て神官に祝詞を納めてもらうと、一本橋の方から祝詞と玉を口にくわえた大蛇が現れ、その祝詞を村人に授け姿を消したという。 神官によれは黒龍神社に厨子を納める際、急に持ちかねるほど重くなり、無理やり社の傍まで運ぶと、厨子は急に軽くなったという。大蛇をお祀りしてからは二度と姿を見たものはいないそうだ。昭和5年の出来事で複数の個人名も記されており、単なる昔ばなしでは片づけられないかもしれない。 大蛇が住みにくいと訴えるほど、この頃から五条川周辺の環境が様変わりしたということだろう。因みに「一本橋」を調べてみたが、一豊橋はあるが該当する橋は見当たらなかった。黒龍大権現を祀る本殿は神明造、小振りながら杮葺きで、6本の鰹木と内削ぎの千木が付くもの。 自然素材を用いた屋根は趣があっていいものです。風雨にさらされる屋外の社などは、概ね30年ほどで屋根の寿命を迎え、葺き替えが必要になります。 覆屋は耐用年数を延ばすためにも必需品だろう。縣神明社でも書いたが、かつてのこの地には社殿の葺き替え用の萱畑もあったという。 今や堤沿いに住宅が立ち並び、春ともなれば、堤沿いの桜並木が咲きほこり、庭から花見酒も楽しめる住みやすい町に変貌しました。まだ新しい神社ながら、堤跡に鎮座する黒龍神社は、かつての岩倉の姿を今に伝える存在といえる。堤の上から岩倉城跡方向の眺め。 かつては大蛇が身を隠せるほどの鬱蒼とした藪が広がっていたのだろう。黒龍神社(岩倉市下本町)創建 / 昭和五年祭神 / 黒龍大権現所在地 / 岩倉市下本町下市場 岩倉城趾から黒龍神社 / 県道166号線を越え、約150m程進んだ突き当り、徒歩2分程。参拝日 / 2026/6/5関連記事・稲荷社 (岩倉市稲荷町)・曽野神明社 (岩倉市曽野町)・大市場神明社 (岩倉市大市場町)・縣明神社 (岩倉市大市場町)・岩倉城趾(岩倉市下本町)
2026.06.24
コメント(0)

前回掲載した大市場の縣明神社を後に、県道166号線を西に向かいます。200mも進めば五条川(幼川)に架かる城址橋に至ります。 写真は城址橋から護岸整備された上流の眺め、堤沿いは尾北自然歩道が伸び桜並木が続きます。春ともなれば多くの花見客が訪れるところです。下流側の眺め、なんとなく護岸の様相が上流側と違って見えます。 行儀よく流れる五条川ですが、川の付替が行われた昭和以前は、この橋を境にして西に大きく蛇行していました。今回からは付替が行われる以前の旧五条川を辿るように歩いて行くことになります。 目的地は城址橋を越え、下本町城址交差点の先にある岩倉城趾です。下本町城址交差点から県道166号線沿いを1分ほど西に進むと、左側に写真の岩倉城趾が現れます。 歩道沿いの一本の大木が目印だろうか。歩道沿いに建てられた岩倉城跡の石碑。 岩倉には丸之内や市場など、かつての城下を忍ばせる地名が残ります、岩倉城跡の所在地は岩倉市下本町城址、そのまま地名として残っています。上は明治時代とほぼ現在の地図の比較で、右の赤い線が付替前の五条川になります。 明治時代には、まだ城址橋はなく、右岸河川堤防上に城址の碑が建てられているだけで、城を思わせる地割や堀跡などは見られません。城跡の全景。 左に「日露戦役記念碑」、中央に大きな不動明王、右に「織田伊勢守城址」の石標が建てられています。かつての岩倉城本丸跡のこの地に、安政七年(1860)から立っているもの。岩倉城は落城時期ははっきりするが、築城時期については幾つかの説があります。 以下は歩道沿いにある岩倉城跡の解説。『岩倉城跡 昭和四十九年二月十五日市指定 岩倉城は、文明十一年(1479)に織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・采葉・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智田・海東・海西)を支配する清州城の織田大和守俊定に対し武威を示し、当時の尾張では清州城と並んで最も重要な城であった。 城跡は、東西約91m、南北約171m、標高10mの台地上にあって、内外二重掘があったとされ、城址の南側には外堀や丸の内といった地名も残る。岩倉城は弘治三年(1557)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(織田信長の弟)と同盟を結んでいたことから信長に攻められ、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、翌年の三月に落城した。 本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政七年(1860)に建てられたもの。』尾張名所図会には浮野合戦で敗走し岩倉城に逃げ戻る織田信安・信賢の姿が描かれています。 この後、信長は兵の消耗を避けるため、城を包囲する戦略に出て、持久戦に追い込まれた岩倉城は落城、城は信長により徹底的に破壊されたという。それ以降再興されることなく、城跡は水田や宅地に変わったものの、大規模開発が行われること無く今に至っています。写真は岩倉城の復元図。 1990年頃、城跡の発掘調査が行われ、車輪跡や堀跡などの遺構の手掛かりが見つかり、それらを基に復元されたのがこの復元図。調査では五条川右岸に6本の堀に囲まれた堅固な城で、五条川は水運として、第7の堀として利用したようだ。 また、城下の範囲もかなり大きく、対岸の大市場や北側の下市場、南側の曽野神明社付近の字名居屋敷が屋敷地として大手口や武家屋敷が広がっていた。 城内に籠城する織田伊勢守方の軍勢は、信長に火をかけられ、燃え落ちる城下を見届けるしかなく、昼夜問わず弓や鉄砲で生け殺しにしてくる信長勢に休む暇すら与えられなかったようだ。岩倉城の落城により、尾張上四郡を手中に納めた信長は尾張支配に大きく前進した。現地ではあまり遺構は見られないかもしれないが、県道から眺める「織田伊勢守城址」の石標が、ここに城があったことを伝えている。岩倉城趾石標から県道を渡ると、微妙に曲がりながら北に延びる小道があり。 突き当りを右に向かい、すぐ左の小道を進めば神明生田神社に至ります、その道が付替前の旧五条川です。岩倉城趾(岩倉市下本町)築城 / 文明11年(1479)頃築城主 / 織田敏広廃城 / 永禄2年(1559)所在地 / 岩倉市下本町城址121 縣明神社から岩倉城趾 / 縣明神社の社頭から県道166号線を約300mほど西に向かい、城址橋を越えた県道左側、徒歩5分程。参拝日 / 2026/6/5関連記事・稲荷社 (岩倉市稲荷町)・曽野神明社 (岩倉市曽野町)・大市場神明社 (岩倉市大市場町)・縣明神社 (岩倉市大市場町)
2026.06.23
コメント(0)

大市場神明社の社頭から細い路地を北へ約200m進むと、県道166号線の信号交差点に出る。 その交差点の向かい側に、大市場町の縣明(けんめい)神社の社頭が見えてくる。神明社から僅か3分ほどの距離に位置します。交差点の角から鳥居に向け参道が伸びるこの光景には見覚えがあり、調べると5年前に参拝していたことが分かった。 今回も改めて参拝していくことにした。社頭から境内の眺め、蕃塀と鳥居の先に瓦葺の切妻拝殿が見える。 右手に縣(けんめい)明神社の社号標があります、前回の記録では「あがた」と表記していましたが、神社庁の登録によれば「けんめい」と読むようです。と言われても、この辺りでは犬山の大縣(あがた)神社の読みの方が馴染みがあり、住民でもない限り「けんめい」とは読みにくいものです。石の蕃塀。 前回はあまり気にもしなかったが、今回この石の表面に目が止まった、よく見かける御影石とは違い、多孔質の石材で大谷石を使っているのだろうか。境内の全景、5年前の光景と変わりはないようです。 前回は『愛知県神社名鑑』を確認できず由緒が分からなかったが、今回は同書に記載される縣明神社の概要を引用する。『十二等級 県明神社(けんめいじんじゃ)旧指定村社 鎮座地 岩倉市大市場町順喜一番地祭神 大荒田命 由緒 創建は明らかでないが元禄三年(1690)十二月社殿再建の棟札に残る。 「尾張志」に「あがた明神社、いわくらむらにあり」と残る。明治五年五月村社に列格し、大正十一年十二月二十二日供進指定をうけた。 例祭日 十月二十日社殿 本殿 流造、幣殿、拝殿、社務所』とある。岩倉市史(1985)には、社名について次のように記されている。 「最初に神社の名称について、この神社は『けんめい』神社ではなく、『あがた明神社』とよぶべきである。としている。神社の起源について「大市場以前の村名、大円寺・小木市場のうち、北側の村落大円寺の鎮守として創建された神社と考えられる。」としている。 創立年代を伝えるような記録はないが、土地神的な性格を持ち、古くから当地に所在した神社であると思われる。また、「万治二年(1659)の龍潭寺文書にある大円寺廃寺の鎮守長谷大明神が、位置的にみて当社に該当するように見られ、同文書にみられる社守順喜が、鎮座地の小字名「順喜」と一致する点などから現在の縣明神社を指すものと考えられる。」ともしている また寛文村々覚書、尾張徇行記にも記され、尾張志には「縣大明神、末社天満宮、弁天宮」と記されており、その後、御嶽社が登録されている。棟札についても貞享五年(1688)のものをはじめ、各元号のものが残るようです。前回掲載した大市場神明社ともつながりがあり、往古は両社の屋根の吹き替え用に葭を育てる社地があり、ここからすぐ東に流れる屋戸川端にあったようです。拝殿から本殿域の眺め。 大棟の鬼板には「縣」の一字が入ります。拝殿妻壁の龍の彫飾り。本殿域の眺め。 切妻で平入の幣殿、両脇に棟を下げた小さな建屋が一体となり、単純な平入の切妻より重厚な印象を受ける。寄進年は未確認だが、狛犬が一対置かれている。大荒田命を祀る本殿は扉に「縣」の文字の入る流造。本殿右側に境内社が纏められており、左が天満宮社、御嶽社、霊神碑が並ぶ。その右側に小さな堀が作られ、厳島社が祀られています。厳島社の右には稲荷社が祀られています。本殿域から大市場神明社方向を望む。縣明神社 (岩倉市大市場町)創建 / 不明祭神 / 大荒田命境内社 / 天満宮社、御嶽社、津島社、稲荷社例祭日 / 10月第2日曜日氏子域 / 大市場町所在地 / 岩倉市大市場町順喜1-1 大市場神明社から縣明神社 / 大市場神明社社頭を北に200mほど先の交差点まで徒歩3分。参拝日 / 2026/6/5関連記事・稲荷社 (岩倉市稲荷町)・曽野神明社 (岩倉市曽野町)・大市場神明社 (岩倉市大市場町)過去記事・『縣明神社』 岩倉市大市場町
2026.06.22
コメント(0)

前回掲載した曽野神明社、曽野町宮前交差点を北に向かい五条川に架かる大市場橋を渡り左折、一本目を右折した正面が今回の目的地大市場神明社。大市場神明社は旧岩倉村大市場集落の西外れに位置し、集落の氏神として創建された神社。 江戸時代初期に編纂された寛文村々覚書の岩倉に「神明二社」と記され、神明生田神社と当社がそれにあたるとされる歴史のある神社。橋を渡り堤沿いに左折し、一本目の路地を右折すると正面に大市場神明社の社殿が見えてきます。社地西側から眺める社殿側面全景。 どうやら、鳥居が立つ社頭ではなく脇参道にきてしまったようです。脇参道から境内に入ると右側に写真の津島社が祀られています。津島社向かいの舞殿、左側の常夜灯の先が社頭になります。軒先の飾り瓦と「北」と入れられた降棟の鬼板。妻側から社頭の眺め。拝殿とその前を守護する狛犬の眺め。 愛知県神社名鑑には幣殿、拝殿とありますが、この切妻の建物は内陣と外陣に分かれており、拝殿と幣殿を兼ねていると見えます。岩倉町史では祭文殿として書かれており、以降祭文殿と表記します。寄進年は見ていないが、黒ずんだ狛犬の外観は歴史を刻みつつある。祭文殿の格子戸越しに見る本殿、祭神は国常立尊と菅原道真公を祀る。 愛知県神社名鑑(1992)『十二等級 神明社 旧指定村社 祭神 国常立尊鎮座地 岩倉市大市場町郷廻190番地 由緒 創建は明らかでないが、元禄三年(1690)屋根葺替の棟札を残す。 尾張志に神明社、二社岩倉村にありと記される。明治五年五月村社列格。 同二十四年十月地震により社殿倒潰。同三十二年十月再建する。 同四十二年九月一日供進指定をうけた。例祭日 十月二十日。 社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿。』創建は定かではないようですが、祭神の国常立尊と共に菅原道真之命お祀りしており、大市場神明社の最も古い棟札には、元禄十二年(1699)の「奉還天満天神頭康栄村中安全所」とあり、裏書には「此天神社元禄拾弐年当社に奉遷」と記されたものが伝わるようで、天満天神はそれ以前は別の場所に祀られていたようです。 尾張徇行記には「神明社、末社天王」、尾張志史には「神明宮社 祭神 国常立尊・相殿天満宮 祭神 菅原道真公・末社 天王社 祭神 素戔嗚尊」と記されています。境内には御鍬社、津島社と鳥居右側に御嶽社が祀られています。岩倉町史(1955)によれば現在の本殿は大正二年・祭文殿は大正十一年に改修されたとある。それら外観は100年を過ぎたとは思えぬほど綺麗なもので、その後も手が入れられていると思います。祭文殿の虹梁には手の込んだ彫飾りが施されています。 写真は中央の龍。左右には牡丹と獅子が彫られ、この二枚が一対として彫られているようだ。祭文殿と本殿域の全景。本殿域右の境内社御鍬社。舞殿から社頭の眺め。 写真右には小高く盛られた御嶽社と思われる一画があります。頂きに霊神碑や高下駄を履いた修験僧の石像と庚申塔が立てられています。境内から舞殿の眺め。 社頭から境内の眺め。 右手に大正九年寄進の神明社社標があり、参道は舞殿から右に向きを変え祭文殿に続いています。大市場神明社 (岩倉市大市場町)創建 / 不明祭神 / 国常立尊、菅原道真境内社 / 津島社、御鍬社、御嶽社例祭日 / 10月第2日曜日氏子域 / 大市場町所在地 / 岩倉市大市場町郷廻1901-1曽野神明社から大市場神明社 / 曽野町宮前交差点を北に向かい五条川に架かる大市場橋を渡り左折、一本目を右折した正面が目的地。距離650m、徒歩10分。参拝日 / 2026/6/5関連記事・稲荷社 (岩倉市稲荷町)・曽野神明社 (岩倉市曽野町)
2026.06.19
コメント(0)

前回の稲荷町の稲荷社から東の五条川方向に向かい、約500m先の曽野町宮前交差点角の岩倉市曽野町に鎮座する曽野神明社に向かいます。鎮座地の曽野は五条川右岸の自然堤防上にあり、戦国時代より伝わる古い地名。 地内を流れる五条川は、現在は行儀よくに流れているが、明治の頃でもウネウネと蛇行していたのが分かります。曽野は川が大きく蛇行する右岸にあたり、これが付け替えで行儀よく流れるようになったのは昭和になってからの事です。曽野町宮前交差点から見る曽野神明社。 信号を右に進み社頭を目指します。社地は道路に接しているため、社殿の様子が良く見通せ、玉垣の先には智重神社の白い奉納幟がはためいています。道路脇に注連柱と村社 神明社の社号標がありますが、少し先を左に向かうと鳥居を構えた正参道があります。この向かいに浄土宗神清院が鎮座しており、道路脇に複数の石像があり立ち寄ってみました。寺号標横に写真の石像が安置されており、姿から役行者のように見えます。山門から境内の眺め。山門脇の石仏、全体像は良く分からないが、右側に元禄12年(1699)の銘が刻まれていました。三十三体の石仏を安置する観音堂。 一体一体見なかったが、元禄を越えるものもあったのかもしれない。社頭に向かおう。南北に長い社地の南に鳥居を構え、右には曽野公会堂が隣接する。神明鳥居をくぐった先の境内の眺め。 左に境内社の鳥居が見える。鳥居の先には二つの社が祀られていますが、鳥居の束に社名は刻まれていなかった。手前の社は社名札がなく不明ですが、岩倉市史の曽野神明社の境内社から恐らく洲原社と思われます。洲原社の奥に鎮座するのは稲荷社。曽野神明社拝殿と蕃塀。 拝殿は棟が高く、軒先に流れ下る屋根勾配の曲線が美しい。本殿域の左右には境内社を祀るようです。蕃塀は大正元年(1912)に寄進されたものです。拝殿前から蕪の形をした懸魚と鬼板を見上げる、四方吹き抜けの切妻拝殿に額はないが、両側の妻壁には手の込んだ彫が施されています。拝殿内から本殿方向の眺め。 愛知県神社名鑑による曽野神明社の由緒は次のようなもの。『十二等級 神明社 旧指定村社 鎮座地 岩倉市曽野町宮前一番地祭神 大日孁命由緒 創建は明らかでないが、天正十二年(一五八四)社殿再建の棟札あり。尾張志に「飯綱権現社曽野村にあり」と記されている。 飯綱社は本神社の境内社に祀る。明治五年七月村社に列格。 昭和十二年三月三十日供進指定をうけた。例祭日 十月十日 社殿 本殿 流造、幣殿、拝殿、社務所』記載にある棟札には次のように記されている。 『尾劦丹羽郡曽野村時之庄屋河村喜左衛門信心当村中諸人願主 奉再建飯綱権現社当一宇広瀬新左衛門豊楽氏子繁昌処 天正拾二甲申年五月吉祥日』ここには飯綱権現として天正十二年再建とあることから、はじまりは更に遡る。 神明社の名は尾張徇行記などの地史には飯綱権現末社神明社として現れ、勧請年月不明とある。棟札としては天保3年(1832)のものがあるようです。 末社の神明社がどの時代に、いかなる理由で末社から主神になったのかは定かではない。本殿域の左の境内社。 鳥居の額には「智重神社」とあり、その先には「白龍大明神」の社標が立てられている。更に奥にも社標が立っている。鳥居から先の眺め。 見えていた社標は智重神社のもので、正面の社が本殿のようだ。白龍大明神は、左側の太い切株そのものが御神体で本殿はないようです。写真の解説は歩道際に立てられていたもので、見えていた社が白龍大明神と思ったが違ったようだ。 白龍大明神の由来(解説板)は以下のようなもの。『時昭和三十六年春、当村河村はな様 夢枕に一人の白衣の行者が立たれ、「我は当村神明社に住む白龍大明神也。伊勢湾台風の折、住いとする大杉が中途に折れ、雨の降る度に難儀をしている者也。 心あれば杉にふたをしてくれ」とたのみ立ち去れりとの話を私の元にされましたので、早速信者をつのり館を造った次第。以来毎年四月第一日曜日を命日とし、大祭を行っています。 御利益牧与にいとまなし。願わくば皆様の御参拝を乞ふ。』これによれば館とあるが、蓋をされた大杉の切株以外に見当たらなかった。偶然だろうが、道路の向かいに役行者がこちらを向いて安置されています。奥に祀られている社が智重神社本殿。岩倉には多くの昔話が伝わっており、蛇のように曲がりくねる五条川の龍にまつわるものや、ここ智重社にまつわる昔話もあります。 『智重社はもと郷東の道角にあった。当時村の子供らがそこに集まり遊び場となり、絵馬を持ち出す、井垣を壊すなど絶えなかった。 それを見かねた村人が祠の戸締りを厳重にし子供らが寄り付けないようにしたという。その後、村には流行病が起き、多くの村人が寝込んだという。 あるとき、村人の一人が智重社の夢を見た。「わしは子供の神様で子供が好きだ、それを近寄れないようにしてなにが嬉しいだろうか、戸締りを解き、もとに戻してくれたら流行病は即座に治してやろう」とお告げがあった。村人はそれに従い、戸締りを解いたところ村の流行病はたちどころに治ったという。そうしたことから、智重社は胎毒(子供の病気)の神として広く知られるようになり、今以上の奉納幟がはためいたという。祭礼は二月七日である。』 岩倉町史(1985)にはそうした昔話がまとめられており、現在も伝わるのか定かではないが、そうした昔話や土地の成り立ちなどを伝える話は、岩倉に限らず、自分の住む町にもあります。町の変貌、町名変更、住民の入れ替わりなどから消え去っていきますが、こと地名だけを辿っていくと、自分の住む地域がどんな環境で、どんなリスクを抱えていたのかを先人たちが教えてくれることがある。曽野神明社幣殿の眺め。 本殿域をぐるりと板塀が取り囲み、本殿域の様子は見通せない。幣殿の左右にそれぞれ社が祀られています。 どちらも社名札の文字が脱色し読み取れなかったが、ニ社のうちどちらかが飯綱権現社と思われます。幣殿前の狛犬。 なかなか凛々しい顔立ちをしています。幣殿右側の社。本殿右の境内社、手前は水神さまで奥は御嶽神社のようです。小高く盛られた高みに岩が組まれ、そのものが御嶽を表しているのだろう。 覚明霊神碑の奥には石像が安置され、頂上には御嶽神社が祀られています。右側から眺める神明社社殿、本殿の姿は望めないが、神明造ではなく流造と思われます。拝殿北側から社頭の眺め。その上の妻壁には正面同様に見事な彫が施されています。 拝殿から手水舎、社頭の眺め。 少し前まで鳥居の先は水が張られた田んぼが広がり、カエルの大合唱や豊年エビが泳いでいたのだろう。 曽野神明社 (岩倉市曽野町)創建 / 創建不詳(明暦元年の棟札)祭神 / 大日孁命境内社 / 智重神社、洲原社、稲荷社、御嶽神社、水神、白龍大明神、不明社例祭日 / 10月祝日スポーツの日氏子域 / 曽野町所在地 / 岩倉市曽野町宮前1-2稲荷社から神明社 / 稲荷社から東に向かい、曽野町宮前交差点を右折した左側、0.5km・徒歩10分。参拝日 / 2026/6/5関連記事・稲荷社 (岩倉市稲荷町)
2026.06.18
コメント(0)

五条川の桜並木で知られる岩倉市。 名古屋駅から名鉄犬山線で20分ほどの距離にあり、電車でのアクセスもいい。写真は今年3月に撮影した五条川にかかる千亀橋から下流の眺め。 この時期は多くの花見客で賑わう岩倉も、オフシーズンは静かな街道の佇まいを感じられます。6月に入り、キャンプだ、一ノ宮巡りだと行きたいところですが、毎日のように届けられる熊情報を見ると、軽い気持ちで山に向かおうという気にはなれない。 さりとて、6月のネタもなく、手近な岩倉の神社を巡ることにした。以前から岩倉街道周辺を巡っていますが、岩倉駅南側は訪れていなかったので、しばらくは岩倉駅南部の神社を掲載します。 上は明治時代と現在の岩倉駅周辺の地図の比較です。明治時代にはまだ岩倉街道沿いに集落が集まる程度、鎮座地は岩倉羽根集落の西外れにあたり、ここから先は水田が広がる一帯。 現在は水田は姿を消し区画整理された住宅地となり、社地西側を名鉄犬山線が南北に伸びています。稲荷社へは、駅から線路沿いに名古屋方向に向かい、2つ目の踏切を渡った先の稲荷町に鎮座します。踏切を渡ると左に社殿が見えてきます。 その向かいに石の明神鳥居が立っており、更に右手に参道が伸びており、そこには写真の朱塗りの木製の明神鳥居が立てられています。鳥居の前は住宅が建ち並び、この鳥居が稲荷社社頭になる。踏切を渡った先のこの鳥居は二ノ鳥居となります。二ノ鳥居から先の境内の眺め。 石柱門の左に「村社 稲荷社」の刻まれた社号標、正面に石造の蕃塀を構えています。意匠の少ないシンプルな蕃塀と拝殿の眺め。拝殿と本殿域の眺め。 木造瓦葺きの妻入りで四方吹き抜けのもので、近年補修の手が入ったようで傷みも少なく綺麗な拝殿です。拝殿から本殿域の眺め。 愛知県神社名鑑の稲荷社の由緒は以下のように記されていました。『十四等級 稲荷社 旧村社 鎮座地 岩倉市稲荷町稲荷西一七三番地祭神 倉稲魂命 由緒 創建は明らかでないが、明暦元年(1655)8月、屋根葺替の棟札がある。 「尾張志(1843)」に「いなりのやしろ岩倉羽根村にあり」と記されている。明治五年村社に列格する。 同二十四年十月の地震により社殿倒潰、同二十八年六月復旧した。例祭日 十月十九日 社殿 本殿 流造、拝殿、社務所』というもの。本殿域正面からの眺め。本殿域を守護する狛狐の後方に稲荷社由緒書きが立てられています。『明暦年代(1655~1658)に創設され、倉稲魂命を祭神として祀られている。 神宝には御鏡一面がある。明治24年10月28日の濃尾大震災で社殿倒壊、明治28年復元された。 末社は本殿左の津島社(素佐鳴命)と右に神明社(大日命)が祀られている。』出典先は定かではないが、神社名鑑に江戸時代初期の「明暦元年(1655)に屋根葺替」とあることから、岩倉街道の整備が始まる1655年以前には既に鎮座したと思われます。本殿域の眺め。 ここにも一対の狛狐が祀られており、中央の本殿並びに左の津島社、右の神明社を守護しています。本殿域左の大きな岩が組まれた一角には、山岳信仰の秋葉山大権現、御嶽山大権現、覚明霊神など集約されています。古い時代の名残を感じさせる地名が多い岩倉市。 稲荷町は、明治以降にこの稲荷社から付けられた町名なんだろう。稲荷社 (岩倉市稲荷町)創建 / 創建不詳(明暦元年の棟札)祭神 / 倉稲魂命境内社 / 津島社、神明社例祭日 / 10月祝日スポーツの日氏子域 / 稲荷町、稲荷町羽根所在地 / 岩倉市稲荷町稲荷西173名鉄犬山線岩倉駅から稲荷社 / 岩倉駅から南下、0.8km・徒歩12分。参拝日 / 2026/6/5
2026.06.17
コメント(0)

第十五回 歩いて巡拝 知多四国も篠島の三十八番札所正法禅寺の巡拝を終え、出発地の師崎で終わりを迎えました。 師崎のフェリー乗り場から南を眺めると、羽豆岬の先端に続く小高い丘が見えます。この丘には式内社尾張国知多郡羽豆神社が鎮座します。 こちらを参拝し締めくくりたいと思います。羽豆神社への参道口は丘の北側に鳥居を構えるこの社頭と岬先端の待合浦に立てられた赤い大鳥居から境内に向かう参道の二か所あります。 ここから左に向かい、立体駐車場方向に向かい大鳥居から境内に向かいます。 羽豆神社には応安3年⁽1370⁾、宗良親王が奉幣を捧げ、徳川家康や徳川義直など歴史上の多くの人物も参詣に訪れた古社。待合浦の前に立てられた大鳥居、その先の海原には篠島や日間賀島が浮かぶ。 鳥居の額は「羽豆宮」と記されています。羽豆と幡豆は同じ読みですが、幡豆は三河湾の奥、吉良吉田方面で三河の国になります。 社名の羽豆の由来は諸説あるようです。一説に羽豆神社祭神の建稲種命が日本武尊東征の際に「幡頭」を務めたことに由来すると云われる。これが鎮座地羽豆のマップ。 フェリー乗り場が中央で西にあたる上の緑の部分が羽豆神社の社叢、南側の岬先端が待合浦になります。岬先端の小高い丘の頂に小さな社が祀られています。 羽豆岬玉姫様。羽豆神社祭神の健稲種命は、日本武尊の東征際に水軍の幡頭を務め出征する直前、妻の玉姫と師崎に住み、風光明媚な羽豆岬を毎日のように散策しました。 やがて健稲種命が出陣すると、玉姫はこの浦で夫の帰りを待ち続けた、しかし、健稲種命は出征途上、駿河の海で亡くなった。玉姫が夫の帰りを待ち望んだこの浦を、いつしか待合浦と呼ぶようになり、待合浦を見渡せる小高い丘に玉姫を祀る祠が安置された。 建稲種命の遺体は渥美半島と知多半島にはさまれた吉良町宮崎海岸に流れ着いたとされます。幡頭神社にもそうした伝説が伝わります。羽豆岬玉姫様の社殿。社が見つめる先に羽豆神社南参道が上に続いています。小高い丘とはいえ、周囲は切り立った断崖状になっており、そこに造られた石段は手ごわいかもしれない。 やがて石段の先に鳥居の姿が見えてきます。石段脇には所々石垣が組まれ、城を感じさせる趣がある。丘の頂に立てられた石の両部鳥居、この先が幡豆神社境内です。参道左の手水舎。 社叢に包まれていた参道は、このあたりから南側が開け、伊勢湾を望む展望が広がります。矢穴石。 名古屋城築城の際、石垣に用いた石は篠島から切り出されとされ、その痕跡を示す矢穴の残る石が置かれています。石材運搬に伴う航海の安全を祈願し清正が羽豆神社に奉納したと伝わる。境内にある神社由緒。 下は愛知県神社庁の解説。「九等級 羽豆神社 旧郷社鎮座地 知多郡南知多町大字師崎字明神山二番地祭神 建稲種命由緒 延喜式内社の知多郡羽豆神社である。 本国帳には従一位羽豆名神とあり。社伝には白鳳年間(六七二)鎮座。 文和四年(一三五五)波津城主 大宮司 摂津守昌能、康応元年 (一三八九) 蜂屋光経修理、永享六年(一四三四)加賀守盛貞、明応九年(一五〇〇)田原城主戸田憲光、天文八年(一五三九)佐治八郎次郎、慶長六年(一六〇一)千賀氏修復等の棟札があり、代々の幡豆城主の崇敬を受けた。寛永十八年(一六四一) 社殿火災焼失、宝暦十年 再造営 明治五年郷社に列せられる。例祭日 旧八月十四日 社殿 本殿 流造、幣殿、拝殿、社務所、覆殿特殊神事 左義長祭 旧一月二日・大漁安全祈願・やっこ行列 旧八月十五日 」参道には由緒以外にもこうした解説が立てられています。 「祭神は、尾張国造平止与命長男、健稲種命です。妹の宮簀媛が熱田神宮を建立したことから、神宮との関係も深く、中世には、羽豆崎城主でもあった熱田大宮司千秋氏が社殿を建立したと伝えられています。 現在の本殿は今から300年ほど前に建て替えられたものです。」三ノ鳥居前から境内の眺め。参道両脇にはこうした境内社が祀られています。 写真は参道左側の境内社で、右相殿は月読社、厳島社、春日社、住吉社、両皇大神宮と祀られている。拝殿正面全景。拝殿前の狛犬。 年代は不明、垂れ耳で尻尾が目立たないもの。拝殿から幣殿の眺め。本殿を収める鞘殿は流造のようにみえます。拝殿右の八幡宮。参道右側の境内社。 手前から三ノ鳥居にかけて津島社、天神社、八王子社、三狐社、蛭子社、海上社が祀られています。鳥居正面は海原と岩礁地帯に立つ羽豆灯標が望める。 鳥居を出て右側に進むと羽豆岬最南端の展望台に続きます。展望台から南を眺めると、伊勢湾に浮かぶ島影と行き交う船が一望できる。 ここから再び両部鳥居に戻り、尾根沿いに北へ伸びる参道を進みます。羽豆崎城址碑。 この尾根には中世の頃、羽豆崎城が築かれ、伊勢湾海上交通の要衝となっていたが、江戸時代に入り城は解体されたとされます。北側の鳥居に続く参道と海風を受けて成長した社叢の様相。社叢全体が国指定天然記念物に指定を受けている。羽豆岬北展望台から師崎港、日間賀島と左にかけて三河湾方向を望む。尾根道からやや急な参道を下ると、冒頭写真の鳥居に至ります。鳥居から海岸線に出ると、海岸から隆起した岩の岬が、城壁のように先端に向け聳える姿が一望できる。 自然の計り知れない力と、そこに根を張る植物の生命力を感じられる場所だろう。第十五回 歩いて巡拝 知多四国 式内社 羽豆神社創建 / 白鳳年間(六七二)祭神 / 建稲種命境内社 / 羽豆岬玉姫様、月読社、厳島社、春日社、住吉社、両皇大神宮、津島社、天神社、八王子社、三狐社、蛭子社、海上社例祭日 / 旧8月14日氏子域 / 師崎所在地 / 知多郡南知多町師崎明神山2フェリー乗り場から羽豆神社 / 徒歩3分・200m先。参拝日 / 2026/04/18関連記事 ・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十六番札所 天永山 遍照寺・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十七番札所 魚養山 大光院・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十九番札所 金剛山 医徳院・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 帝井・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 寂静山 西方寺・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十八番札所 龍門山 正法禅寺過去記事・『幡頭神社』西尾市吉良町宮崎宮前
2026.06.14
コメント(0)

今回の第十五回 歩いて巡拝 知多四国、最後の札所は三十八番札所 龍門山 正法禅寺が最後の訪問地となります。 西方寺から正法禅寺まで距離にして150m、所要時間2分ほどの距離にあります。相変わらずGマップは遠回りを指示しますが、山門を出たら右に降りて行って下さい。漁師町の細い小道を進むと写真の正法禅寺山門に至ります。 境内参道正面に本堂と秋葉堂、右手に庫裏、左に瓦葺きの大師堂が主な建物になります。手入れの行き届いた境内に複数の石仏が安置されています。正法禅寺は、静岡県袋井市の名刹・可睡斎の直末門葉寺院で、貞治元年(一三六二)の開創。 開山の鳳山仙麟大和尚は、駿府で今川義元の人質になっていた松平竹千代(徳川家康)を救い出し、七十日間世話をしたという逸話が残されています。以来、家康の帰依は深く、大和尚は十万石の大名待遇を受け、可睡斎の十一世住職に、さらに当山一世の土峰宋山大和尚、二世の道仲雲達大和尚も可睡斎の十三、十四世の住職になられています。曹洞宗のお寺で、本尊は釈迦牟尼仏。 正面の本堂には南知多町の文化財に指定された雲版や梵鐘が吊るされています。 正法禅寺は明治六年に寺小屋・龍門学校が設けられ、篠島での学問発祥の地にもなっています。これらは正法禅寺の寺宝で、雲版は寛永16年(1639)、梵鐘が正保2年(1645)に鋳造されたものとされ、当時の篠島が伊勢国に属していたことを示す銘文が刻まれており、篠島の歴史を物語っている。本堂の左の秋葉堂(写真中央)と左の大師堂(写真左)。大師堂は切妻瓦葺き平入りの木造で「新四国 第三十八番札所」と書かれた蟇股が特徴。堂内中央の黄金色の厨子に大師像が安置されている。左手に念珠、右手に五鈷杵を持つお馴染みの姿、五鈷杵を握る右手首の向きに違和感を感じたことはないだろうか。 この向きには意味があり、握りを真似しても結構難しい持ち方です。修行の末に悟りを開き、得たものを外に向け広げようとする現れだとか。御仏の 救世の船に 棹さして わたる篠島 正法の寺これで第十五回のすべての札所を回り終え、港に戻り師崎港に戻ります。第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十八番札所 龍門山 正法禅寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 釈迦牟尼仏創建 / 貞治元年(一三六二)開山 / 鳳山仙麟大和尚 開基 / 説宗讃大和尚札所 / 知多四国 三十八番札所境内社 / ---所在地 / 南知多町大字篠島字神戸219番地西方寺から正法禅寺 / 西方寺境内から右に向かい、徒歩2分・150m先。参拝日 / 2026/04/18関連記事 ・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十六番札所 天永山 遍照寺・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十七番札所 魚養山 大光院・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 三十九番札所 金剛山 医徳院・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 帝井・第十五回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 寂静山 西方寺
2026.06.13
コメント(0)
全2482件 (2482件中 1-50件目)