全18件 (18件中 1-18件目)
1
今回の目的地、津島神社は御船町山屋敷に鎮座します。現地へは、前回掲載した青木原神社から県道11号線を約1km北上、御船こども園の前で左折し、園の西隣に鎮座します。園の前の道は幅員の狭い一方通行で、駐車余地がないので、こども園の駐車場に止めさせてもらいました。上は使い回しの明治と現在の御船町の地図で、鎮座地は赤枠部分になります。この御船町、室町地時代には北を流れる御船川右岸に御船城が築かれ、江戸時代には御船村の南部を東西に飯田街道、南北に岐阜県柿野や明智に繋がる街道が通るなど、戦略・物流の要衝でした。これからの時期、香嵐渓の紅葉が見頃を迎えると名古屋方面からの車が増えますが、昭和47年に開通した猿投グリーンロードは当初片側1車線で、足助から力石周辺は酷く渋滞したものです。当時、渋滞を避けて矢作川沿いの県道11号線を走ると、御船町で名鉄三河線の踏切が唐突に現れ、滅多に降りないはずの遮断機が下りたりすると、とても残念な思いをしたものです。猿投から枝下、広瀬を経て西中金まで結んでいた名鉄三河線ですが、2004年には廃線となり踏切はなくなりましたが、津島神社の西にある「ふれあい公園」には当時の「三河御船駅」のプラットホーム、津島神社のすぐ南には線路が残されており当時を忍ぶ事も出来ます。津島神社前の細い道は一方通行なので、参拝後は道なりに西に進みますが、その途中の左側にその線路を見ることができます。こども園の西隣に津島神社へ続く参道があり、神社はこども園の裏側に鎮座します。北側に御船川を見下ろす高台にある社頭は、石の明神鳥居を構え、鳥居左に手水舎があり、右に広がる境内の奥に社殿が建てられています。扁額は「津島神社」。鳥居は平成元年(1989)に寄進されたものでした。社殿全景。切妻屋根の覆屋は、手前の軒に柱が追加され伸びやかに延長されています。境内には由緒はなく、愛知県神社庁や西加茂郡誌に目を通しましたが、創建時期など詳細は分かりません。鳥居が寄進された平成元年(1989)に創建された神社かなと決め込んでいましたが、昭和39年(1964)の航空写真を見ると、当時はこの辺りの雑木林の造成が進み、昭和54年(1979)に園の姿が現れ、園の西隣に参道らしき道と、正面に少し開けた場所が見られるだけで、園の後方は造成前の状態でした。平成元年以前から、参道の正面に神社は鎮座していた可能性があります。この園の建設時期を調べていた際、津島神社の記述を見付けました、下がその内容です。「津島神社は、御船町山屋敷の御船こども園に隣接した高台に祀られ、古くから住民に「お天王さん」と呼ばれ親しまれている。祭神は、須佐之男命(すさのうのみこと)。昭和58年(1983)に御船保育園(御船こども園)園舎改築に伴い、現在の位置に移し、新たに本殿を新築した。祭礼は毎年7月に盛大に行われている。」とありました。園の建設時期や神社の創建時期は分からなかったが、改築に伴い社殿が動かされたようで、それが落ち着き、鳥居が寄進されたのが1989年という事だろう。覆屋正面の眺め。軒が延長され、向拝柱の提灯屋形があることで、普通の切妻屋根に比べると優雅に見えます。神社の創建時期は定かにはなりませんが、少なくとも昭和以前から、御船の除災のため祀られた神社のようです。向拝柱の木鼻飾り。覆屋内の流造の本殿。祀られるのは須佐之男命、神仏分離後の創建だろうか?覆屋側面から境内の眺め。7月の祭礼には、赤い提灯を手にした町内の子供達による、ちょうちん行列が催されるそうです。祭礼を通じて子供なりに神社と接し、地域の子や大人とも交流が芽生えていくのだろう。境内から社頭の眺め。少し前まで、正面に見える藪の中を、山線の電車が西中金に向け走っていました。県道の踏切は埋められ、味のある矢作川橋梁を渡る電車の姿も見られなくなると、車ばかりで一度も電車乗らなかった者が言うのもなんですが、それはそれで残念な思いもあります。名鉄三河線山線が足助まで伸びていたとして、廃線の流れは止まらなかっただろう。橋梁のその後や枝下や広瀨の廃駅巡りでもしてみようかな。津島神社創建 / 不明祭神 / 須佐之男命境内社 / ・・・祭礼 / 7月:ちょうちん行列所在地 / 豊田市御船町山屋敷参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 青木原神社から県道11号線を約1km北上、御船こども園方向に左折、こども園北側の津島神社まで移動時間1~2分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社・前田公園 勘八稲荷大明神・波岩(ハイワ)神社・枝下(しだれ)川神社・青木原神社
2024.11.27
コメント(0)
枝下神社から県道11号線を400mほど北上すると、左側の分譲地の中に取り残されたような森が見えてきます。この森の奥に鎮座するのが、今回の目的地青木原神社です。写真は県道11号線から見た青木原神社の全景です。こんもりとした森には神社あり、典型的な姿かもしれません。杜の入り口には、社標と石碑が建てられ、立派な石の明神鳥居を構えています。上は明治時代とほぼ現在の地図で鎮座地は赤枠の部分になります。明治頃は飯田街道沿いの四郷や上郷に集落ができており、鎮座地周辺は丘陵地に樹林が広がる一帯で当時の地図には鳥居の記は見られません。社頭全景。左に「青木原神社」社標、右手の石碑は青木原神社由緒でした。参道は鳥居をくぐると、右に向きを変え拝殿に続いています。参拝者駐車場は見当たらず、駐車余地もなく、車は境内に乗り入れさせて頂きました。青木原神社由緒、内容は以下です。「祭神 豊受大御神昭和16年(1941)支那事変の真只中、そして同年12月、第二次世界大戰へと突人し、日本国民の食程不足により国の施策として、この青木原台地に開拓農民を各地より集め、地区の守り神として、弥栄神社を祀り毎朝崇拝を重ね、開拓精神に燃へ食糧増産へと励みました。その後、昭和40年(1965)9月、地区の一層の発展と生活の向上を願って衣食住の神である豊受大御神を伊勢神宮の外宮より分祀して戴き祀りました。地区の発展と共に逐次境内地も整備され、宗教法人として、昭和48年認可されました。青木町の高台地にある、この青木原神社は地区住民の氏神として、住民を護り幸せを授け賜うことを願う人々の崇敬を受けております。祭儀歳旦祭 1月1日春祭(祈年祭) 2月17日例大祭 4月第2日曜日大祓(夏越の祓) 6月30日秋祭(新嘗祭」10月23日大祓 12月31日除夜祭 12月31日」参考までに愛知県神社庁を確認すると、青木原神社として登録があり、具体的には以下の内容にとどまり参考にもならなかった。「祭神:天照皇大御神・豊受姫神氏子域:青木町例祭日:4月第二日曜日」由緒に昭和16年(1941)「食糧増産のため青木原台地開拓に伴い創建」されたとあるので、明治の地図に印が載らないのも無理はない。上の地図の上段左が大正9年、右が昭和34年。下段左が昭和57年、右が2007年の地図。由緒に記された年代に近い地図を並べ、当地の移り変わりを見ています。右上の昭和57年では山林は開拓農民により開墾された畑が広がっています。大正13年に開業した三河鉄道猿投駅(名鉄三河線猿投駅)を中心に住宅が広がりを見せ、戦後には田畑や山林は急速に宅地に変わって来たのが分かります。鳥居扁額は青木原神社。開墾当時から今日まで、氏子とこの地を見守り続けてきた神社。境内全景。一対の狛犬の先に、南西向きに舞殿、その先に拝殿・本殿を収めた鞘殿が一つになった社殿、右側は社務のようです。白い狛犬と舞殿。創建時期が新しい事もあり、狛犬の白さが際立っています。舞殿から拝殿方向の眺め。これは?舞殿脇に置かれた木彫りの像は、何を現したものだろうか。祭神の豊受姫神に見えなくもない、ここに賽銭を供えさせてもらいました。拝殿内の年間予定表をみてふと感じたことがあります。近隣との係りを避け、町内会や子供会に係わらず生活できていた街から、郊外に転居してくると街以上に多いコミュニティーへの参画依頼は想定していないことかもしれない。そのひとつが神社を維持するための清掃や協力金かもしれない。土地の一員として溶け込んでいくには、こうしたコミュニティーも必要なものだと思いますが、新たな転居者が増えていくと、そうしたものもうまく回らなくなるものです。やがて、維持費もままならず、清掃活動も衰退し、荒廃・消えていく神社もあります。私の住む街は集合住宅が多くなり、世帯数も多いのですが、大人の事情で小さな祠ひとつ維持できず、それにともない、子供ながらに楽しみだった祭や子供神輿も、息子達に経験をさせることなく消えてしまいました。今では生気のない街になりました、開発が進むこの町に、神社を中心としたコミュニティーが存続することを願いたい。本殿全景。入母屋瓦葺の妻入りで、拝殿と鞘堂を兼ねています。格子戸から内部の様子。奥に祀られた本殿の姿は良く分からなかった。愛知県神社庁、社頭の由緒からすると、創建当初は内宮の天照皇大御神を祀った事にはじまり、後に外宮の豊受大御神が祀られたようです。舞殿から境内の眺め。右手に手水舎があり、正面に大きな石碑が立てられていました。開拓碑。碑文をアップで撮ったものの、手振れが酷く読み取れず詳細は分かりませんが、恐らく由緒の前段で書かれていた内容だろうか。街からこの地を訪れると、緑も多く、田畑が広がるいい環境だなぁと感じますが、地の人から見ると青木原台地も変わって来たなと感じているのかもしれない。青木原神社創建 / 昭和16年(1941)祭神 / 天照皇大御神・豊受大御神境内社 / ・・・祭礼 / 4月第二日曜日所在地 / 豊田市青木町1-12参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 枝下神社から県道11号線を400m北上した県道左側。移動時間1~2分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社・前田公園 勘八稲荷大明神・波岩(ハイワ)神社・枝下(しだれ)川神社
2024.11.24
コメント(0)
勘八稲荷神社や波岩神社が鎮座する波岩地区、今回はそこから車で2.3分程の場所に鎮座する枝下川神社を掲載します。鎮座地は赤枠部分。矢作川右岸にあたり、矢作川を見下ろす小高い山の頂に神社は鎮座します。現在の地図で勘八稲荷神社から県道11号線に出て右折、青木町1丁目信号の手前100m先で斜め右に進み、民家裏の右方向の突き当りが現地になります。県道から神社に続く入口が見つけにくいかもしれませんが、制限速度で走っていれば見付けられるはずです。民家裏の細い道の突き当りが写真の枝下川神社社頭になります。石段が小高い山の頂に立つ鳥居に続いています。石段右の「枝下(しだれ)用水と枝下川神社」解説。「米作りに必要な水は、昔から変わりません。明治時代取水は、主に溜池でした。安定した取水に向け枝下用水の開削に乗り出し、農民の要望に応え中心として尽力したのは、西澤真蔵です。西澤眞蔵は弘化元年(1844) 近江の国に生まれ、家業の麻布問屋を営み財を成します。明治20年(1887)枝下用水の工事許可が下りると、出資者としてこの事業に参加しました。枝下用水の工事は、西枝下村の矢作川から取水することから始められました。工事は人力で行われ、岩石の破壊、撤去など難工事です。また、毎年の大雨による土砂崩れや明治24年(1891)の濃尾地震で、工事のやり直しが続きました。そのため、工事費は計画の予算を越え、ほかの出資者は手を引いてしまいます。西澤真蔵は農民に安定した水を与えるという使命のもと、最後まで枝下用水の完成に精魂と私財を投じるのです。明治23年(1890)第1回水路祝賀式典で「全財産は使い果たし、借財も多額に残ったが悔いはない、水田が増える喜ばしいことだ。」と自分に言い聞かせるように話しました。しかし、明治30年〈1897〉労苦が重なり、生涯を閉じました。明治27年(1894)高岡村駒場までの竣工を記念し、ここに枝下川神社が創建され、 昭和43年(1968) 西澤真蔵命を合祀しました。枝下用水の開削に身を投じた西澤真蔵と関係者に感謝を込めて、毎年4月16日に例大祭及び始水式が行われています。」枝下用水は豊田市越戸町内で矢作川から取水し、豊田市南西部へ供給する農業用水で、水路の延長は幹線・支線合わせて約110kmに及びます。灌漑用水の計画は明治9年(1876)頃から計画され、越戸、花本、荒井の有力者らが幾度となく愛知県へ開削計画を提出しましたが、県や国からの許可は下りませんでした。当初は官民共同事業として進められ、県は西枝下村から四郷村唐沢川までの水路の試掘などを行いましたが、現在のような土木機械での作業ではなく、人力の鍬による難工事で、自然災害により工事費用は当初計画の二倍(現在の価値で約6億程)に膨らんでいきました。膨れ上がる工事費用のため、県は事業から撤退、以後は民間事業として行われました。民間事業として支えていた実業家もやがて撤退しました。その後は西澤真蔵と農民有志により進められ、明治27年(1894)に枝下用水の全幹線が完成しました。その功績により、大正9年(1920)には約1,200ヘクタールの土地が開墾され、畑から水田に変わりました。私財を投げ打って完成させた枝下用水ですが、下流の明治用水との取水権問題や、昭和に入って越戸ダム建設に伴い取水口がダム湖に没するまでの39年間、当地に水を供給し続けました。現在は枝下水力発電所から分水された水が枝下用水に導かれています。石段左の社記、内容は以下。「神社名 枝下川神社鎮座地 豊田市平戸橋町波岩86-8祭神 大水上祖神、西澤真藏命例祭 4月16日由緒本社は西加茂郡西枝下村の矢作川を水源として、岩海群高岡村に至る枝下用水十二里三十一町二十間の竣工を記念して明治27年創建された。主神に大水上祖神を勧請し報賽の誠を捧げると共に、更に一層の加護を祈請して奉祀したものである。枝下用水は明治17年、愛知県の補助を得て越戸・花本・荒井の農民の手により、水源から越戸までがまず開鑿され、次いで同20年 滋賀県愛知郡八木荘の西澤真藏大人外が本格的延長工事に着手し、同27年迄に幹線水路・東用水・中用水・西用水が順次開鑿された。同事業の困難は、筆舌に尽し難く多くの人士と資材を投じ、十有余年の歳月を要し1700町歩にわたる一大灌漑事業はここに完成した 。爾来、枝下用水は営々と改修・改良が続けられて今日に至るが、身命を賭して水路開塾にあたった西澤大人の鴻恩に報いるべく、昭和43年、用水の守護神として合祀した。社殿は昭和63年枝下用水通水百年を記念して、四月新たに造営されたものである。昭和63年4月16日 」鳥居へ続く石段の眺め。手摺はないけれど、途中に踊り場もあって、見た目ほど急ではありません。最後の石段から鳥居と境内の眺め。石の神明鳥居を構え、その先の境内の右に手水鉢、正面の社殿と至ってシンプルです。境内の周りは、濃い緑に包まれ、西側の県道を走る車の騒音、近隣の民家からほどよく遮断された静かな環境です。手水鉢から社殿の眺め。社殿正面全景。玉垣に囲まれた本殿域に本殿以外の社の姿は見られません。静かな境内の最深部に佇む社殿の姿が印象的です。祭神は社記にあるように、大水上祖神。川の守護神で、矢作川の水で潤う周辺の守護神。そして、私財を投じてこの地に矢作川の恵みをもたらし、神となった西澤真藏命が祀られています。安城市東栄町の明治川神社には明治用水の守護神として同神が祀られています。本殿全景。昭和63年(1988)に新たに造営された流造のこぢんまりとした社ですが、細部には寄進者の思いが感じられます。向拝柱を結ぶ水引虹梁の上には中備の龍が入れられています。木鼻の像。脇障子には矢作川の流れを昇る鯉の姿が描かれています。川の守護神と矢作川の水の恵みをもたらした西澤真藏命らしい意匠ではないだろうか。本殿域から境内の眺め。創建が新しいとはいえ、手前の松の剪定や雑草が見られない境内から、地元の人から親しまれているのが伝わってきます。境内の鳥居から南の眺め。鳥居の寄進年は昭和8年4月と刻まれています。〆の子の先には矢作川と平戸橋を眼下に望みます。間近に水源がありながら、旱魃に苦しんで来たこうした土地は、なにも当地に限らない。こうした大事業に拘わらず、山奥の沢から里に導く小さな導水路などはどこでも見られます。耕作放棄地や宅地化され、田畑は消え導水路の有難味を肌で感じる事はないかもしれない。そうした当たり前の水が先人達の智恵と情熱の結晶の賜である事を忘れてはいけない。枝下川神社創建 / 明治27年(1894)祭神 / 大水上祖神、西澤真蔵命境内社 / ・・・祭礼 / 4月16日所在地 / 豊田市平戸橋町波岩86-8参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 波岩神社から移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社・前田公園 勘八稲荷大明神・波岩(ハイワ)神社
2024.11.23
コメント(0)
波岩(ハイワ)神社。波岩神社へは、前回掲載した勘八稲荷大明神から、枝下用水沿いに5分程上流の越戸発電所の東側に向かいます。鎮座地は赤枠の位置になり、越戸発電所の東側の発電用取水口付近に鎮座します。波岩神社から徒歩5分程で社頭に至ります。波岩神社の詳細について以下に目を通しました。大正15年(1926)出版の西加茂郡誌、昭和46年(1968)猿投町誌に目を通してみましたが、波岩神社の記述は見つけられませんでした。地図上からも鳥居の記はみられず詳細は不明です。越戸発電所全景。左のフェンスが枝下用水で、矢作川から取り込んだ発電用取水口から分流し灌漑用に導いています。施設後方右手の森が波岩神社の社叢になります。ここから導水路の橋を渡った右側が社頭になります。橋から取水口の眺め。枝下用水はここから分流され、下流の田畑を潤しています。昔は矢作川上流の枝下から取水していましたが、水力発電施設完成後の枝下用水はここが源流となります。波岩神社社頭正面全景。社地後方には杜若高校があり、神社は発電施設と学校の施設に挟まれるように、小さな杜の中に祀られています。社頭には石の明神鳥居と左に手水鉢がありますが社標は見られなかった。寄進年は未確認ですが、特徴のある手水鉢。冒頭詳細は不明と書きましたが、ただ、境内の鳥居、常夜灯の寄進年が昭和8年(1933)11月となっていました。ここからは推測になりますが、昭和8年は、地元実業家前田氏により前田公園が整備された年で、寄進者名は確認していませんが、恐らく公園整備に伴い創建されたか、越戸ダム・発電所の運転が昭和4年(1929)なので、この施設の建設・運用に伴い祀られたものかもしれません。或いは、波岩の地名を冠するだけに、前田公園から平戸橋にかけての地域の鎮守の可能性もあるかもしれませんが、寄進物に昭和以前のものが見当たらずその可能性は低いのかな。鳥居扁額は「波岩神社」鳥居の先の本殿。外から見た社叢は鬱蒼として暗い印象を持ちましたが、程よく伐採され以外に陽光が入る明るい境内です。本殿は見世棚造で鰹木4本の外削ぎの置き千木が付くもので、これをもって祭神が男神・女神かを問う人はいないと思います。時代はジェンダーレスです。境内から社頭の眺め、道路の先は発電所敷地のため、周囲はこうしたフェンスに囲まれています。波岩神社社頭全景。由緒がなく、詳細が分からない神社ですが、境内は定期的に手入れされているようです。帰り道はフェンス沿いに発電所をひと回りすれば、枝下用水に続きます。波岩神社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・祭礼 / 不明所在地 / 豊田市平戸橋町波岩参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 勘八稲荷大明神から移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社・前田公園 勘八稲荷大明神
2024.11.22
コメント(0)
11月12日。名古屋から近鉄電車に揺られ、奈良県桜井市の安倍文殊院を訪れ、周辺を歩いてきました。今回はその時のトピックスを掲載します。最寄駅は近鉄桜井駅、名古屋からだと伊勢中川で乗り換えないと桜井には止まってくれません。車窓から見える山々は、紅葉にはまだ早かったです。それでも途中の長谷寺駅では、海外から訪れた親子連れなどが秋の奈良を目当てに連なって降りる姿が見られました。私たちも秋の装いに包まれた磐余の道と山の辺の路をのんびり歩き、安倍文殊院と三輪山近くの今西酒造を訪れ、季節限定の酒を買い求めるために訪れました。・・・と多少紅葉を期待しましたが、車窓から眺める山々はその気配すらなかった。桜井駅から約15分弱歩いた桜井市谷地内の三叉路で見かけた「左 土舞臺(台)、右 安部文殊院」とある道標。(道標の位置)ここは道標に従い100㍍ほど先の三叉路で左の緩やな登り坂を進んでいきます。小さな溜池を右手に見ながら、心細くなるような細い道を道なりに進んで行けば安部文殊院までは近い。道標から10分程で、写真の安部山文殊の石標に辿り着きます。ここを先に進めば文殊院の駐車場に至ります。G先生は山門まで導いてくれなかったが、まぁ良しとしよう。桜井駅からここまで1.5km程、途中Google先生を信じられずに遠回りしたため、移動時間は30分程かかりました。安部文殊院と文殊池。所在地は奈良県桜井市阿部645。安部丘陵の西端に鎮座する華厳宗の寺院で、山号は安部山、院号は文殊院。正式名称は安倍山崇敬寺文殊院で、別名「知恵の文殊」、学業成就の寺として知られ、獅子に乗った国宝の文殊菩薩像を本尊とする寺。また、平安時代の陰陽師、安倍晴明の出生地といわれる寺で、境内東の文殊池を見下ろす高台には晴明が天体観測を行った「天体観測の地」があります。そこから西の眺めは伽藍を一望でき、その先の藤原京跡や、耳成山、畝伏山、遠く二上山が一望できます。境内の伽藍は安倍倉梯麻呂、安倍晴明、開運弁財天を祀る金閣浮御堂霊宝館と本堂、礼堂、清明堂、稲荷社、白山堂、不動堂が主な伽藍です。拝観料は、金閣浮御堂前の発券所で浮御堂と本堂の共通拝観券1200円を買い求め、最初に本堂から参拝するルール。本堂の祈祷所で記念品として文殊菩薩像のポストカードと落雁、御守りを頂いて本堂拝観の流れです。この日は、幸運にも奈良四寺を巡る団体様御一行と一緒になったため、個人拝観ながら御祈祷もして頂けました。御祈祷を終えると内陣手前から本尊の文殊菩薩像を拝むことができます。ツアー客は慌ただしく拝観を終え本堂を後にしていきます、 個人拝観の自分達は静まり返った本堂でじっくり鑑賞できます。こちらが騎獅文殊菩薩像(HPから引用)。何かで見た記憶があり、実物を見るのは今回が初めて。内陣中央の獅子に乗る文殊菩薩は高さ7mの日本最大といわれます。仏師快慶が建仁3年(1203)~承久居委2年(1220)の17年をかけ作られたもので、国宝に指定されています。文殊菩薩の両脇でお供するのは、右側が優填王(左)、善財童子、左側が仏陀波利三蔵(右)、最勝老人です。群像は、文殊菩薩が乗る獅子の手綱を優填王が持ち、善財童子が先導役を務め、仏陀波利三蔵と最勝老人が左に付き添う姿で構成されています。この姿は、雲海を渡り、衆生の魔を払い、智恵を授けるための説法の旅に出かけている様子を表しています。この姿が本来の姿です。しかし2024年7月~2025年5月の期間だけ、文殊菩薩が約15年ぶりに獅子から降りている姿を拝観できます。上記期間だけ、獅子から降りた文殊菩薩が公開されています。獅子の上から降りて、訪れた者と同じ目線で進むべき方向へ導いてくれます。今回も天眼鏡を忘れたため、脇侍の表情や光背の細部まで見る事はできなかった。御真言はオン・アラハシャ・ノウ。堂内には、大化の改新で談合の地多武峰に鎮座し、廃仏毀釈で廃寺となった妙楽寺(現談山神社)の本尊釈迦三尊像(重要文化財)も安置されています。文殊池に浮かぶ金閣浮御堂。こちらの境内は四季折々の花に包まれます、この時期はピークは過ぎていましたが秋桜が境内を彩っていました。対岸にはこの時期にコスモス迷路が作られますが、大部分がピークは過ぎており、浮御堂右側の花が比較的綺麗に咲いていました。秋桜迷路が見下ろせる天体観測の地から眺める浮御堂と境内、遠く耳成山と二上山を望む。安倍文殊院は孝徳天皇の勅願によって大化改新の時、左大臣となった安倍倉梯麻呂が安倍一族の氏寺として建立した「安倍山崇敬寺」が始まりです。当所の安倍寺は、現在地から南西約300メートルの地にあり、法隆寺式伽藍配置の大寺院だったようです。この地へは鎌倉時代に移転し、塔頭寺院二十八坊を有する大和十五大寺の一つとして栄えました。永禄6年(1563)、松永弾正の兵火により伽藍を焼失。寛文5年(1665)、現在の入母屋造りの本堂(文殊堂)を再建し、本堂前に礼堂(能楽舞台)が建てられました。また、京都府の知恩寺の切戸の文殊、山形県の大聖寺の亀岡の文殊、そして安倍山文殊院の安倍の文殊は、日本三文殊として称されます。手前の浮御堂内陣には、安倍倉梯麻呂はじめ、阿部清明、大和七福神の一つ開運弁財天像が安置されており、なかでも秘仏十二天軸は春夏秋冬において3幅ずつ公開され、4月末の弁財天大祭では全てが公開されます。拝観は受付時に七枚のおさめ札を頂く事から始まります。ひとつ祈願をしては浮御堂を一周、おさめ札を1枚ずつ納め、全7周した後に内陣拝観する。祈願の仕方は「〇✖にならないように」と祈願するもので、「〇✖になりますように」とお願いするものではないらしい。境内の白山堂左にある東古墳。飛鳥時代に造立されたもので、「閼伽井(あかい)の窟」と呼ばれています。閼伽井とは「閼伽水の井戸」の意で、横穴式石室や横穴墓など、玄室と外部を結ぶ通路の中程に、古来より枯れることのない泉があったことに由来しています。この他に浮御堂前の境内に西古墳があります。飛鳥時代に造立されたもので。国の指定史跡の中で特に重要でとされる「特別史跡」に指定されています。古墳の特別史跡指定は明日香の石舞台古墳、キトラ古墳、高松塚古墳と共に、当山の境内の二か所が指定を受けています。内部は、大化元年(645)当時のまま保存されており、巨大な花崗岩を加工し、左右対称に石組みがされています。また玄室の天井岩は一枚の石で、大きさは15㎡あり、中央部分がアーチ状に削られ、築造技術の美しさは日本一の定評があります。内部には弘法大師が造られたと伝わる「願掛け不動」がお祀りされていますが、本来は大化元年に初の左大臣となり当山を創建した安倍倉梯麻呂の墓と伝えられています。まだまだ見所の多い文殊院ですが、御祈祷や七参りやらで、間もなく正午になろうとしていました。文殊院は改めて別の機会に纏めることにして、磐余の道から山の辺の道に向かいます。安倍山文殊院山号 / 安倍山院号 / 文殊院宗派 / 華厳宗開基 / 安倍倉梯麻呂本尊 / 大化元年(645)境内社 / 稲荷社、白山大権現、清明堂所在地 / 奈良県桜井市阿部645近鉄桜井駅から文殊院 / 南に1.4km、約20分強文殊院を後にして東に向かい、艸墓(くさはか)古墳を横目に寺川方向の等彌(とみ)神社を目指します。写真はそちらに向かう途中の桜井市河西で見かけた村社 天満神社。寺川左岸の住宅が立ち並ぶ中、古墳のように小高い山があり、参道はその頂に続いていました。かみさんには少し待ってもらい、社殿を写真に収めてきました、由緒はなく今のところ詳細は分かりません。天満神社所在地 / 奈良県桜井市河西373目的地の等彌神社は寺川を越えた県道37号線沿いになります。文殊院から1.5km、約25分程で旧縣社 等彌神社社頭に到着。こちらの参拝を済ませ食事の計画ですが、こちらの神社は三輪山の南にある鳥見山の西麗に鎮座し、往古は鳥見山山中に鎮座していたようです。延喜式神名帳に大和国城上郡等彌神社に比定される神社で、広大な境内には下津尾社・上津尾社など鎮座しており、そこまでは参拝しましたが、山頂にある庭殿や霊畤まではとてもじゃないが廻れなかった。等彌神社下津尾社社殿の提灯には昼でも灯りが入れられていました。ここはモミジの色付きを期待して経由地にしましたが、残念ながらモミジは青々としていました。等彌神社創建 / 不明上津尾社祭神 / 天照大神下津尾社右殿祭神 / 神武天皇、応神天皇、右殿祭神 / 高皇産霊尊、天児屋命境内社 / 黒龍社、弓張社、鳥見山稲荷社、愛宕社、金毘羅社、恵比須社、護国神社、桃神社所在地 / 奈良県桜井市桜井1176さて、随分遅れてしまいましたが昼食に向かいます。一語一笑。等彌神社から約10分程県道37号線を北進した薬師町交差点の角にある活魚・ちゃんこのお店。当初はラーメンを予定していましたが、歩いて火照った体はラーメンの気分でもなくこちらに立ち寄りました。ランチの時間はとうに過ぎていましたが、店内は結構賑わっていました。お昼の献立。ラーメン一杯1000円越えが当然の様になり、観光地にあって比較的良心的な価格か。二人が選んだのは六角弁当1500円なりと瓶ビール。六角形の重に二段で6品が盛られ、これにそぼろ御飯に吸い物が付いてきました。昼にしてはボリューム満点、味付けもしっかりしており、煮物と刺身が美味しかったです。11月ながら上着なしでも暑いほどの陽気、冷たいビールがうれしく感じます。今回の社寺巡りはこれにて終了、あとは三輪神社方向に向かい、目当ての酒を買い求め、かみさんリクエストの団子屋を目指します。一語一笑奈良県桜井市桜井565-1次の目的地今西酒造本店まで、Gマップでは戻れのルートしか作れませんが、一語一笑の前の国道157号線を越えて細い路地を2km程北に進みます。今西酒造本店。酒造り発祥の地、酒の神が鎮まる三輪で、万治3年(1660)に創業を始めた三諸杉で知られる蔵元。我家との相性がいいのか、何を飲んでも美味しいお酒を造っています。この時期になると、ほぼ毎年訪れ買うお酒があります、昨年は既に売り切れで飲めなかったけれど、今年はどうかな。このために奈良を訪れたようなもので、期待に胸を膨らませ店内へ。11月中旬、手に入れたかった「三輪のどぶろく」を手に入れることができました。良し、これで来た甲斐があった。今西酒造本店所在地 / 奈良県桜井市三輪510番地後は近鉄大和八木駅付近の団子屋をクリアすれば今回の奈良行も目的達成だ。酒蔵から最寄り駅JR三輪駅まで徒歩5分程と一歩きだ。JR三輪駅。ローカル感に溢れた駅舎ですが、山の辺の路を散策するハイカーや大神神社の最寄り駅として乗降客は多く、一本の巨木が駅のシンボルだろう。ここから大和八木に向かいますが、電車は一時間に1本と少なく、直前に過ぎ去った後だった。次の電車まで1時間、歩くか、待つかどうしたもんだか。ダイヤを確認し振り返ると駅の向かいに見慣れた暖簾が目に入る。今西酒造 駅前店 Cafe 三輪座。こんな店があったとは知らなかった、考えて見れば電車で三輪を訪れたのが初めてなので知るはずもない。店舗前にテーブルと椅子もあり、これは一時間楽しめる、ここで次の電車を待つことに。ラインナップにはどぶろくもあるではないか。しかし、どぶろくは家での楽しみとして、他のお酒にしておこう。写真は純米吟醸ハーフ(左)とかみさんが選んだ鬼ごのみ無濾過生酒ハーフ。純米吟醸は米の旨味を感じるすっきりとした飲み心地で自分には合っていた。鬼ごのみ無濾過生酒は金色に色付き、まろやかな雑味のあるまったりとしたお酒。胡瓜の奈良漬けを肴にちびちび時間調整。二杯目も同じ大吟醸、一合にサイズアップ。店内につまみもありますが、駅前の精肉店が出すアツアツのコロッケは美味しかったな。味のある駅を眺めながら、屋外で美味しい酒が飲めるとは、何と羨ましい環境だろう。次から電車で来よう。少し早めにホームに入り、大和八木行の電車に乗り込みました。目的の団子屋は大和八木駅から徒歩5分程南のだんご庄 八木店。こちらの、きな粉団子が最終目的でしたが、当日火曜日が定休日のようでシャッターが下りていました。事前に調べなかったことが悔やまれますが、またのお楽しみです。参考までに。だんご庄 八木店所在地は奈良県橿原市内膳町1-3-8それにしても、この時期に遠出すると、すぐに陽が落ちて動ける時間が少ないのが困りもの。名古屋に戻ると、とっぷりと日も暮れてしまい、気分まで一日終わりモードに入るのが嫌だね。これから寒さが増すと歩きはつらくなりますが、11月とは思えぬ暖かい陽気のせいか、節々の痛みを感じないのがありがたい。国宝も拝観し、充分歩き、美味しい御飯や酒も味わえ、いい一日を過ごせました。爆発もさせず、無事自宅に戻り、二年振りの再会。以前とラベルが変わった気もするなぁ。上が今年手にしたどぶろくのラベル。下が2021年のもの、こじゃれたデザインに変わったようですね。保管している間にも発酵が進むので、開栓時は要注意。900ml瓶に750mlしか入れていないところなど見るからに恐ろしい。しばし冷蔵庫で寝かしてから飲む事にします。訪問日2024/11/12過去記事・ほんとに注意「三緒杉 濁酒」
2024.11.21
コメント(0)
胸形神社から平戸橋西交差点を北進、県道11号線を200㍍ほど進んだ先で右折、枝下用水沿いに続く細い道で豊田市民芸館方向の前田公園内に鎮座する勘八稲荷大明神に向かいます。所在地は豊田市平戸橋町波岩86。昭和8年、地元実業家前田氏により整備された前田公園に勘八稲荷大明神が鎮座します。公園内は越戸発電所取水口から取水された灌漑用の枝下用水が流れており、社殿は用水右岸の丘陵地に鎮座します。周辺は矢作川右岸にありながら、高い台地の上に平野が広がるため、矢作川の恵みを直接得られず旱魃に見舞われていた。枝下用水は明治9年(1876)西澤眞蔵を始め、民間主導で着手された灌漑用水で、それまでは溜池に頼っていたものが、矢作川の恵みを授かれるようになった。現在は近隣の越戸発電所より取水していますが、当初は上流の枝下の取水口から引かれていました。写真は洞ヶ峯前田公園の入口。用水に架かる橋の先から長い石段が森の中へ続いています。入口付近の公園マップ。園内は石仏など安置され散策ルートがあるようです。勘八稲荷神社はマップの赤丸の位置に稲荷大明神として表記され、石段手前の左に常夜灯が連なる参道先に鎮座します。石段前の全景。訪れた時は森は色付いていませんが、石段脇にはモミジが多くみられるので、ハイシーズンには綺麗な紅葉が見られるでしょう。石段脇にある前田栄次郎翁(1874-1961)の胸像。当地出身の前田栄次郎は、前田組として土木・建築事業で成功した実業家であり、私財を投じて当公園や神社等の復興に尽力しました。越戸天満宮(越戸町松葉)、灰宝神社(越戸町松葉)、前回掲載した胸形神社など、多くの神社の復興や各地への寄進を行った人物です。「我が富は我が富にあらず、社会より預かりし富なり。これを効ある社会に還元することは、現時の我が使命なり」として、故郷に報うために尽力しました。胸形神社の鳥居や社標などにも、彼の名が刻まれています。この公園内の聖観世音菩薩像や三十三観音石像、銅像などの寄進物はすべて彼の寄進によるもので、銅像などは戦時中に供出させられ、台座だけが残されています。胸像の左側には石灯籠が連なる参道があり、その参道は杜の中へと続いています。石灯籠が連なる参道の先には石段があり、その先は大きく開けているようです。左に石塔と朱色の建物が見えてきます。石段を登り切ると、再び石灯籠が続きます。正面には銅像があり、右手に朱色の勘八稲荷大明神の社殿が現れます。境内の左側にも燈籠が続いており、その先の六角堂は前田家記念堂(昭和8年建立)と呼ばれ、法隆寺夢殿をモデルに造られたものといいます。左の塔は祖先感謝の碑です。六角堂前の狛犬の外見は犬そのもの、前田家の愛犬トンがモデルになっているという。境内正面には、聖徳太子の銅像が建っています。当初は大山巌像、東郷平八郎像、伊藤博文像などの銅像がありましたが、これらは戦時中に供出され、現在は台座だけが残され、当時の面影を忍ばせます。勘八稲荷大明神全景。縦長の鳥居と茶色の狛狐が印象的です。社殿は切妻妻入りの拝殿と平入の覆屋が連なったものです。ピンと立った大きな耳が特徴の茶色に塗られた狛狐が社殿を守護しています。拝殿の蟇股は白狐が描かれています。拝殿から本殿の眺め。愛知県神社庁には登録はないようで、勘八稲荷大明神の祭神、創建時期については不明。過去の地図から、昭和8年に前田氏が前田公園として開園する以前には、鳥居の姿もないこと、寄進物の多くが昭和のものであることから、公園化に伴い創建されたものと思えます。あの石段から境内に繋がっていたようで、写真の鳥居が立っていました。石段付近の民主記念碑の台座。ここには伊藤博文の胸像があったそうですが、戦時中に銅像を始めとして台座の銅板すら剥ぎ取られ、銅像は武器に形を変えていった。石段から勘八稲荷大明神の明神鳥居の眺め。鳥居の正面が前田家記念堂、左手に社殿が鎮座します。鳥居前から石段の上を眺める、この石段脇や上には見所もあり、一通り見ていくと結構時間がかかりそう、今回はこれ以上登らなかった。この山全体が祈りの山として整備されているように見られますが、一種独特な宗教感が漂う某所とは違って、散策道も程よく整備されており抵抗感はない。10月も下旬ながら、陽を浴びた樹々の緑が鮮やかでした。ここが赤く染まるのはいつ頃だろうか。次の神社は石段を下り、歩いて越戸発電所がある左に向かいます。勘八稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ・・・祭日 / 不明所在地 / 豊田市平戸橋町波岩86-100参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 胸形神社から平戸橋西交差点北進、県道11号線を200㍍ほど先で右折、移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社・豊田市平戸橋町 胸形神社
2024.11.18
コメント(0)
四郷八柱神社から平戸橋に向かい、橋の手前の平戸橋西交差点を右折した左側に鎮座する胸形神社。今回はこちらを掲載します。因みに多少場所は離れますが、矢草ICから東方向の猿投山西山麗にも同名の胸形神社が存在します。県道58号線沿いの歩道から見る社地。南北に長い社地を持ち、県道沿いに社標を構えていますが、ここから境内に降りることはできません。少し南側の住宅地の裏側に矢作川の堤沿いに道があるため、そちらを進むと境内に繋がっています。鎮座地は矢作川に架かる平戸橋右岸下流100㍍程の平戸橋町波岩の川沿いに鎮座します。矢作川沿いのこの辺り、かつて下流の越戸町にかけて、港を中心に水運の要衝として賑わったようで、現在の川沿いは公園として整備され、川を身近に感じられる憩いの場になっています。明治当時は丘陵地が広がっていたこの辺りも、山は造成され住宅地となっています。一説には延喜式内社に格付けされるともいう、胸形神社の社標。社頭から石の明神鳥居の眺め。鳥居から境内の眺め。社地左は県道58号線が南北に伸びており、社地は県道沿いにあります。結構頻繁に車の往来があります。鳥居の扁額は胸形神社。参道右の神橋。モミジが色付くには少し早かった。鳥居から先の境内。幹線道側に手水鉢、その先に砲弾で囲われた一画がある。拝殿は四方吹き抜けで入母屋瓦葺の拝殿と神楽殿が一つになったもので鬼には二つ巴の紋が入っています。拝殿から本殿域の眺め。拝殿から弁天池に架かる神橋の眺め。モミジが色付くと艶やかな趣に変わるのだろう。境内東側の石碑。本殿域全景。綺麗に積まれた石垣の上に本殿と左右に境内社祀られ、それぞれに石段が設けられています。本殿域正面全景。石段左に解説がありますが脱色して読みにくく、祭神の解説は記されていましたが、創建時期や境内社についての記述はありませんでした。内容は以下。「平戸橋胸形神社の祭神 市杵島姫命は漁業、開運の神様で宗像三神の美人トリオの中でも抜きんでていたため弁天様に見立てられたという事です。これらのことから往古に栄えた越戸港がしのばれます。」祭神の市杵島姫神とは、須佐之男命と天照大御神の誓約により生まれた五男三女神で、田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神の三姉妹を宗像三女神として呼ばれ、市杵島姫命は三女にあたります。寛文年間に編纂された【三河志】に目を通すと、胸形神社と思われる興味深い記述を見つけました、現在の言葉使いに置き換えた内容は以下。「越戸村の東の川端に波岩(ハイワ)社という小さな南向きの社があります。この社は昔、川の中の中州にあったが、後に西岸に移されました。これを灰宝の社と村人はいい、現在は弁天を祀っており、波岩の弁天と称します。」とありました。平戸橋の下流に非常に大きな一枚岩が露出していますが、現在でも「波岩」と呼ばれています。明治の地図には中洲があり、その昔はここに祀られていたのでしょう。中洲は徐々に縮小し、昭和43年の地図からは姿を消しています。具体的に、いつ頃現在地に遷されたのか分からなかったが、遷座は明治以降なのかもしれません。大正5年に出版された【西加茂郡誌】の灰寶神社として三河志同様の記述が見られました。面白いことに平戸橋南傍らの波岩辨天(当社)は、明治元年挙母藩が式内社と定め、社号を灰寶神社と復したとあり、式内社灰寶神社とする説があるようです。式内社灰寶神社は、豊田市越戸町松葉に現存しており、真意は良く分からない。【愛知県神社庁】の胸形社記載内容はつれないものでした。祭神 市杵島比咩命祭日 7月第2日曜日本殿域の前を守護する狛犬は昭和8年寄進のもの。因みに拝殿前の常夜灯、社頭の明神鳥居の寄進年も昭和8年で、社標は昭和9年に寄進されたものでした。本殿右の神明造の境内社。ここは銀杏の宝庫だね、酒のつまみに最高だが、食べられるようにするのに手間がかかる。踏まないように注意しないと・・・本殿左の境内社、一間社流造で軒唐破風が付くもの。けっして大きな社ではないですが、各所の彫飾りはしっかり彫られたものです。一間社流造の胸形神社本殿。この社殿は細分まで手が掛けられた彫が見事。向拝中備えの宝珠を握りしめる龍の彫刻。向拝柱の木鼻は獅子と獏(象かも)。綺麗な曲線の海老虹梁と波が描かれた手挟、妻壁の青海波や波間を駆け抜ける兎など手の込んだ彫は見事です。脇障子は牡丹と獅子が施されています。パッと目には目立たないが、よく見ると作り手の拘りが感じられます。境内から見る平戸橋と波岩。小さな神池に架かる神橋、渡って渡れない事もないが、眺める橋と捉えた方がいい。市杵島姫命を祀る波岩の弁天とも呼ばれた胸形神社らしい光景です。矢作川堤から見る胸形神社社地全景。赤い神橋は県道からでも目立つ存在ですが、杜のイチョウも色付き、間もなくモミジが赤く色付くと主役の座も譲る事になる。胸形神社の参拝者駐車場は矢作川堤のこの辺りに止めることができました。堤を下りれば境内から見えていた波岩まで行く事も出来ます。胸形神社創建 / 不明祭神 / 市杵島姫命境内社 / 本殿域に不明社2社祭日 / 7月第2日曜日所在地 / 豊田市平戸橋町波岩1参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 四郷八柱神社から東へ平戸橋西交差点右折、移動時間5分。関連記事 ・豊田市 四郷町東畑 四郷八柱神社過去記事・胸形神社・椀貸し池・白龍王大明神
2024.11.17
コメント(0)
これまで猿投山周辺の神社を巡って来ましたが、今回から籠川以東の矢作川方面の神社を巡ります。訪れたのは10月22日、少しは紅葉が始まっているものと期待したものの、まだ山々は青々としていました。四郷八柱神社の鎮座地はマーカーの位置になります。四郷は江戸時代、名古屋と飯田方面を結ぶ飯田街道(中馬街道)や矢作川の水運など物流の要衝で、古くから城も築かれた地域。神社は四郷町東畑地区の県道58号線南側に鎮座します。西参道全景。境内へ続く参道は県道沿い、社地西側、同南側の三か所あります。ナビが西参道へ誘導したため、車は参道脇に駐車させて頂きました。西参道は石の明神鳥居があり、境内手水舎脇に繋がっています。社地南側に正参道がありますが、境内へは石段を登る必要があるので、石段を避けたい向きにはこちらか、県道沿いから訪れるといいかもしれません。西参道鳥居扁額は「八柱神社」西参道の「四郷八柱神社と棒の手」「以前は八王子神社と称して、籠川左岸の宮下河原にあった。 その辺りの籠川はたびたび氾濫をおこしていたため、明暦5年(1656)に神社は一旦四郷村予茂田の八幡神社に仮に移されていたが、天保4年(1833)になって現在地に移った。御神体が天忍穂耳命を始め、八柱であることから、明治7年に名称が八柱神社となった。 慶長5年(1600)に、尾張岩崎村の城主が伊保村の城主に移った際、岩崎村を発祥地とする棒の手が、伊保村に伝わり四郷村へと伝わった。毎年八柱神社の祭礼には、盛大に奉納されている。」自分はここから社地沿いに正参道へ向かいました。後から紹介しますが、県道58号線の四郷町東畑交差点を平戸橋方向に進むと右側に北参道があり、車で境内に入れるようです。社地南側の正参道全景、こんもりとした杜の入口に明神鳥居を構え、石段が境内に続きます。鳥居から石段の眺め。鳥居右に八柱神社の社標がある。石段を上りあがると広い境内が広がります。当日は祭礼を控えていたのか、正面に資材が置かれていました。境内左の手水舎と社殿全景。手水鉢。写真から昭和の元号は読めますが年度が飛んでしまい分からなかった。手水舎脇の四郷「棒の手之碑」と社務所。豊田市内では猿投地区や足助地区、藤岡地区にも伝わり、県の無形民俗文化財に登録されている地区もあります。棒の手は、戦国時代に農民が自衛のために身に付けた武術が起源とされ迫力ある演武が特徴。四郷地区では5自治区に3流派が伝わっており、保存会員により毎年10月に神社に奉納されます。社務所から東方向の境内の眺め。社地周囲は鬱蒼とした杜に包まれていますが、社殿に対しとても広い境内を持っており、ここで棒の手警固祭りが奉納されるのだろう。社殿は南西を向いて建てられており、一段上がって拝殿、更に一段上がって本殿域があります。入母屋瓦葺で近年補修されているのか比較的綺麗な拝殿です。拝殿は入母屋瓦葺で、平成に入り建立されたことから全体に綺麗な印象を受けます。鬼板には八柱の文字が入り、蟇股には波と左巴紋が彫られています。拝殿内から中門方向の眺め。【愛知県神社】庁の八柱神社解説は以下。「氏子地域 豊田市四郷町 例祭日 10月第2日曜日祭神 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、滝津姫命、田心姫命、市杵島姫命」とつれない回答でした。【西加茂郡誌(1926)】の四郷八柱神社記載内容は、祭神 八王子、創建 不詳としか記載がなかった。西参道の解説にある当初の鎮座地の「宮下河原」、現地は確かに籠川が氾濫をおこせばすぐに影響を受ける立地でした。「明暦5年(1656)に四郷村予茂田の八幡神社に移された」とありましたが、この八幡神社の所在が掴めませんでした。付近の八幡神社としては、伊保町宮本に八幡神社があり、創建も応安2年(1369)となっていたので、年代的にはおかしくはないが少し西に離れており、四郷八柱神社は創建どころか、予茂田の八幡神社も分からなかった。機会をみて、四郷町予茂田交差点付近を探して見るかな。因みに御神徳は五穀豊穣、無病息災、家内安全、商売繁盛、縁結び、厄除け。中門前を守護する狛犬は昭和11年(1936)に寄進されたもの。本殿域左側の眺め。本殿は三つの大きな扉が付く神明造で、5本の鰹木と内削ぎの千木が付くものです。左側に5社祀られていますが社名は不明です。本殿域右側の眺め。こちらには4社祀られていますが社名は不明です。拝殿左から回り込んで本殿域の眺め。拝殿から正参道方向の眺め。毎年10月に棒の手が奉納されるとあるので、祭礼用の資材が置かれていました。境内右の忠魂碑。左の碑文は以下。「昭和6年(1931)9月。満州国奉天市(現中国瀋陽市)郊外柳条湖の南満州鉄道爆破事件から満州事変が勃発、その後、日中戦争、太平洋戦争へと戦火は拡大していった。 この戦争に、当時の猿投村より、859名の方が召集されされ極寒の満蒙、広漠果てしない中国大陸をはじめ北太平洋、東南アジア、インド洋を転戦され、ひたすら祖国の興隆と同朋の安泰を念じながら奮戦されたが、悲しいかな234柱の方が武運つたなく散華された。惜しみても余りある痛恨の極みである。 この碑はこれらの霊に対し衷心より感謝の誠を捧げ、永遠に鎮まり賜えと祈念するために建立されたものである。現在平和にして幸せな社会はこうした尊い犠牲によってもたららされたことを深く認識し、ここに子々孫々に至るまで、手を携えて平和への努力を続けることを誓うものである。 この碑は昭和13年、前田栄次郎氏を以って旧猿投村役場地内に建立され、この度の豊田市猿投コミュニティセンター増築に伴い遺族会と協議し四郷区出身戦没者の英名を録し、この地に移築した。」忠魂碑から広々とした境内・社殿の眺め。稲刈りも終え、空はすっかり秋の様相です。右手に写り込んでいる鳥居が県道から直接出入りできる北参道です。境内から北参道の眺め。鳥居は平成5年に寄進された白い鳥居、舗装も新しく新たに造られた参道なんだろうか。個人的な印象ですが、猿投山周辺には八柱神社が多く見られます。この神社の歴史は良く分かりませんが、こうした八柱神社の多くは、神仏分離・廃仏毀釈以前は八王子と呼ばれ、社地には古い社標も残されている場合があります。自分で見た限り、当社でそうしたものは見かけなかった。今年は猿投山一帯の八柱神社を巡っていますが、まだまだありそうです。八柱神社創建 / 不明祭神 / 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲樟日命、滝津姫命、田心姫命、市杵島姫命境内社 / 本殿域に不明社9社所在地 / 豊田市四郷町東畑192参拝日 / 2024/10/22車アクセス / 猿投グリーロード八草から一般道で保見方向へ約25分。過去記事・八幡神社(伊保町)
2024.11.16
コメント(0)
豊川城山稲荷。高山城は、高山市街の東部丘陵地の城山(臥牛山)に、金森長近により天正16年(1588)から築城された城で、北に平湯街道、西に白川街道や益田街道を見下ろせ、戦略的にも絶好のロケーションにあります。現在は城山公園として遊歩道など整備されており、市街の混雑から逃れ、しっとりとした雰囲気を味わうには良い場所で、これからの時期は紅葉も綺麗に見られるはずです。今回の豊川城山稲荷は案内図の赤丸部分になり、二の丸の金森長近像から徒歩2・3分程の照蓮寺東隣に鎮座しています。青紅葉の先に石の明神鳥居と朱の奉納鳥居が連なる豊川城山稲荷。今頃は紅葉に染まって趣のある姿を見せてくれているでしょう。豊川城山稲荷由緒がありましたが脱色と汚損の為内容が読み取れません。一部の記述から分かったのは、「本尊 豊川叱枳尼真天」〇✖稲荷神社と呼ばれ、奉納鳥居の連なる伏見系の神社を思い浮かべますが、こちらは多くの奉納幟と狐が見られる豊川稲荷(妙厳寺)と同じ寺となるので神社は付きません。とはいえ、こうして朱の奉納鳥居が連なることから、外観は稲荷神社の趣が漂います。右側の建物は真宗寺院中野照蓮寺。高山市街には高山別院照蓮寺とここ中野照蓮寺の二つの照蓮寺がありますが辿っていくと元は同じ寺です。建長5年(1253)白川郷で照蓮寺として創建された寺院で戦禍で焼失し、後に白川郷中野に光曜山照蓮寺として復興され、天正16年(1588)金森長近により、伽藍の多くは現在の高山市鉄砲町に移設されたのが高山別院照蓮寺です。本堂などの一部は白川郷中野に照蓮寺掛所心行坊として残されていましたが、それも御母衣ダム建設に伴い、昭和36年(1961)に高山城二の丸跡に移設されたのが中野照蓮寺です。境内には浄土真宗寺院としては日本最古(1588)で国指定重要文化財の本堂があります。豊川城山稲荷について当所隣接する中野照蓮寺の鎮守?のように見え、高山市史から照蓮寺を調べて見ましたが記載は見られなかったが、当地の五穀豊穣・招福・商売繁盛を祈願し創建されたものと思われます。上が由緒なんですがほぼ読み取れません、その中で豊川城山稲荷の創建は明治11年(1878)、現在の主管は雲龍寺のようです。創建時期と本尊が分かっただけでも良しとしますか。本堂全景。大棟には豊川稲荷の稲荷紋が入れられています。花頭窓のあたりに照蓮寺の外壁が来ており、照蓮寺とひとつながりになっているのだろうか。本堂正面全景。向拝柱の木鼻や梁の白狐など彩色された彫飾りが施されています。向拝の額は注連縄で隠れてしまいましたが、豊川城山稲荷ではなく本尊の銘が入っていました。稲穂を担いだ豐川吒枳尼眞天は、白い狐に跨って現れたと云われるだけに、豊川稲荷では狐の姿を見かけますが、豊川城山稲荷で見かけた白狐はこれだけでした。木鼻の獅子。鳥居や注連縄、なんとなくお寺ぽくない豊川城山稲荷です。豊川城山稲荷創建 / 明治11年(1878)本尊 / 豊川叱枳尼真天所在地 / 岐阜県高山市堀端町8大雄寺から飛騨豊川城山稲荷 / 南の城山公園二の丸まで徒歩15分程関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)・秋葉神社(大門町)・秋葉神社(吹屋町)・海蔵山 雲龍寺 (若達町)・大雄寺(愛宕町)
2024.11.15
コメント(0)
前回掲載した海蔵山雲龍寺の南隣の愛宕町67に鎮座する大雄寺、今回はこちらを掲載します。写真は平湯街道(国道158号線)に架かる歩道橋から見た大雄寺(だいおうじ)の仁王門。雲龍寺の脇参道から直接大雄寺本堂横の境内に繋がっており、今回は立ち去る時に門前を撮影しています。門前左には愛宕町の秋葉神社、その上には六角形の屋根を持つ観音堂、石段正面が大雄寺仁王門になります。こちらの仁王門も重要文化財に指定されているものです。今回はコースと外れていたため、門や仁王像を間近に見る余裕はなく外観のみですが、別の機会に再訪したい寺です。歩道橋から見た大雄寺仁王門と本堂方向の眺め。二層の入母屋銅板葺の門で重厚感が漂う外観です。境内から見る仁王門。高山市街東方の東山地区と呼ばれる丘陵地の裾に鎮座しており、東山寺院群の一角をなす寺院です。門からは城下町を一望できます。大雄寺山門解説。「大雄寺山門(県指定重要文化財) 所在地 高山市愛宕町67番所有者 大雄寺 指定年月日 昭和47年9月18日構造形式 重層入母屋造銅板葺 大雄寺は、もと吉城郡上広瀬村(国府町)にあったが、金森氏入国後 現在地に移され、浄土宗の道場となった。上広瀬には「大雄寺屋敷」 という地名が残っている。 市内唯一の楼門造で、法華寺、宗猷寺の本堂と共に東山寺院群伽藍の代表的な建物である。十二本の丸柱は太く、カツラ材である。通常のヒノキやスギではなく、カッラやクリ、マツなど多彩な木材を使うことも、木材を知り尽くした飛騨匠の技の大きな特徴である。 落し込み板で囲まれた仁王座前の南北が、透し菱形欄間になっている。透しを通して東山景観を見せようとの配慮からである。 両脇に仁王像を安置している。二層柱間は下層より狭く、柱頭の二手先和様斗組が深い飛檐軒を支える。 下層屋根上に三斗組腰組で縁を張り出し、高欄で四面を囲む。ここからの市内の眺めはすばらしい。 寛政3年(1791)の大風で倒壊したが、17年後の文化4年 (1807)、飛騨権守宗安の流れをくむ近世の名工水間相模の手で再建された。」仁王像や細かな細工は間近から見ていないので語れませんが、解説のようにこうした規模の仁王門は見た記憶がなく、雲龍寺の特徴のある山門とこちらの仁王門は高山にあって象徴的な建物と言えます。また境内には元禄2年(1689)に建てられた飛騨地方最古の鐘堂もあります。大雄寺は、元々国府町上広瀬にあったものを天正14年に金森長近公により移された浄土宗の寺院です。飛州志(明治42)によれば、大雄寺の開創・開基時期は未詳。中興は源誉受徳上人で浄土宗に改宗、浄土宗京都知恩院末寺、天正14年上広瀬村から移し東林山と改める。本尊の阿弥陀如来像は慈覚大師、勢至菩薩像は聖徳太子の作、鎮守愛宕権現と記されていました。写真の本堂は宝暦12年(1762)の建立でしたが、昭和44年(1969)に焼失し、現在の本堂は昭和46年(1971)に再建された新しいもので、本尊は阿弥陀如来。本堂左に十王堂があり、更に奥に進むと雲龍寺に繋がっています。方丈前の薬師如来石仏(イボの仏様)の眺め。年季の入った石仏で、薬師如来と云われるまで分からなかった。石仏の前には岩を削った器が置かれています、この器の用途は解説を読むと分かってきます。「石仏「薬師如来」(通称イボの仏様) 元禄13年(1700)造立。昔、疫病が流行った頃、地元の庶民は薬を手に入れることが出来ず、代わりにこの仏様が手に持つ薬壺(やっこ)を少しずつ削って飲むことで病を免れたと伝えられています。(そのため前腕部が無くなっています) 仏前の石台のくぼみ「菩薩の足跡」に溜まる水をイボにつけてお参りするとよく治ることから「イボの仏様」として地域の人達に厚く信仰されています。《お参りの仕方》イボには水をつけた後、境内にある蜘蛛の糸を巻く。目もらいには水に浸した小豆をよく拭いて、上まぶたは患部に挟んで下へ、下まぶたは挟んで上向きに落とす。」 医療技術の発達した現在ではありえない療法ですが、昔はこうした御呪い療法が当たり前のように信じられていたのでしょう。しかし像の変貌ぶりは御呪いの域を越えたものです。方丈全景。境内右にあり、むくり屋根の向拝が付くもの。上は高山城二の丸に建てられた長近像。金森長近(1524-1608)、別名 五郎八。美濃国土岐氏の一族で信長、秀吉に仕え、越前大野城に居住、天正年中には高山一円を治めた初代高山藩主、天正16年(1588)、飛騨国高山に高山城を築城・居住、城下町高山の基盤はじめ寺社を整備した。慶長13年8月12日、京都に於て85歳で没し、墓所は京都の大徳寺塔頭龍源院で、法名は金竜院殿要仲素元。今回はイベントに参加しながらで、時間に追われていましたが、ゆっくりと見て回りたいところです。大雄寺宗派 / 浄土宗山号 / 東林山院号 / 香荘厳院創建 / 不詳中興 / 天正14年(1586) 源誉受徳本尊 / 阿弥陀如来札所 / ・・・所在地 / 岐阜県高山市愛宕町67雲龍寺から大雄寺 / 徒歩10分程参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)・秋葉神社(大門町)・秋葉神社(吹屋町)・海蔵山 雲龍寺 (若達町)
2024.11.12
コメント(0)
インバウンド客で賑わう市街から、東方向の東山地区と呼ばれる一帯には桜山八幡宮や多くの社寺が鎮座しています。今回は先に掲載した桜山八幡宮から徒歩10分程の若達町1に鎮座する雲龍寺を掲載します。桜山八幡宮から江名子川沿いを若達町方向に進みます。左側に石標の立つ細い参道があり、そこを進むと前方に雲龍寺の特徴のある鐘楼門が現れます。上は江戸時代末期に描かれた高山町絵図で、東山地区の桜山八幡宮(左)から江名子川沿いの若達町方面を切り取ったもので、多くの寺社が鎮座するのがわかります。この絵図が描かれた当時は右手の高山城も取りこわされ、二之丸や空町にあった武家屋敷は既に畑になっており、宮川に架かる筏橋の先にあった海老坂も真っすぐな通りになっています。雲龍寺は丸の部分になります。雲龍寺鐘楼門全景と参道左の東山遊歩道久昌寺石標。……雲龍寺ではないのかい?右手の解説板は雲龍寺の由緒ではなく雲龍寺鐘楼門の解説でした。「雲龍寺鐘楼門(市指定文化財) 所在地 高山市若達町1丁目86番地所有者 雲龍寺 指定年月日 昭和44年2月19日 構造形式 重層四注造鋼平板葺 高山城破却の際、城内の「黄雲閣」という建物を当寺へ下げ渡されたと伝えられる雲龍寺鐘楼門は、天正10年(1582)本能寺の変に際し二条城において19歳で戦死した金森長近の長子忠郎長則の菩提寺として長近が修営した。屋根はゆるやかな曲線をもち、頂部に露盤と宝珠をのせる。 初層中央通路の両側にふところを設け、南東側に階段がある。上層外廻りに戸溝があり、中央通路の両側が入り込みとなっていることなどから、元は寺院の鐘楼門ではなかったことが分かる。 慶長6年(1601)、金森長近より「黃雲閣」という建物を賜り、のち鐘楼門となったと『高山市寺院由緒記』には記される。享保14年(1729)の大火にも、羽目板の一部に焼痕をとどめただけで焼け残った。 東山白山神社は、雲龍寺の鎮守として祀られてきた。塔頭(境内にある小寺)に栄鏡院、久昌寺がある。」海蔵山雲龍寺は高山市街東部の東山地区に鎮座する曹洞宗の寺院で、創建は養老4年(720)とされます。奈良時代に白山を開山した泰澄大師が当地に東山白山社を勧請した際、別当として開かれたのがはじまりと伝わります。当初は妙観寺と称す天台宗の寺院でしたが、応永2年(1395)、総持(現総持寺祖院:石川県輪島市)4世竹窓智厳和尚により再興され曹洞宗に改宗、雲龍寺に改めています。境内には応永6年(1399)に天神堂、稲荷社、同10年塔頭の久昌寺、宝徳2年に栄鏡院が建てられた。方形屋根が特徴の雲龍寺鐘楼門。銅平板葺の重層四注造で、桁行4.15m、梁間3.7mとされ、梵鐘を吊る二層部には高欄が付いています。今はない高山城、数少ない遺構の一つです。門前から境内の眺め。楼門に架けられた山号額は「海蔵山」境内から伽藍の眺め。飛騨三十三観音霊場第三番札所(十一面観世音菩薩)で御詠歌は「父母の 恵みも深き 雲龍寺 仏の誓い 頼もしの身や」で本尊は十一面観世音菩薩。寺宝には、円空が彫刻した如来像や橋本閑雪作の観世音菩薩の軸などを所蔵すると云われています。入母屋銅葺屋根の木造平屋建ての本堂は、外壁は白漆喰仕上げで妻壁側に花頭窓が施されています。境内南から鐘楼門、久昌寺方向の眺め。宝珠が載る方型の楼門は、雲龍時を象徴する建物です。天明4年の大火ではこの門の手前まで延焼していたようです。海蔵山 雲龍寺宗派 / 曹洞宗山号 / 海蔵山創建 / 養老4年(720)再興 / 応永2年(1395)本尊 / 十一面観世音菩薩札所 / 飛騨三十三観音霊場第三番札所所在地 / 岐阜県高山市若達町1-86桜山八幡宮から雲龍寺 / 徒歩10分程参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)・秋葉神社(大門町)・秋葉神社(吹屋町)
2024.11.11
コメント(0)
前回掲載した大門の秋葉社から、今回は大門の秋葉社から江名子川沿いを上流に徒歩3分程の吹屋町に鎮座する秋葉神社を掲載します。これは前回使用した昭和10年の江名子川沿いの周辺地図。鎮座地は現在の吹屋町、かつての空町にあたり、空町は高山城に向け続くえび坂一帯の地域で、東山と呼ばれる社寺が多く鎮座する地域を指します。因みに吹屋町の由来は安政時代、この辺りの山間部の鉱山から産出した鉱石から、銀や鉛などを吹き分ける吹屋があったことに由来しています。かつての空町一円は、現在は馬場町、吹屋町、愛宕町、天性寺町と町名がついていますが、吹屋の名は今も町名として残っています。町を歩いていると空町の名を冠する商店や駐車場の名が見られますが、現在空町は存在していません。鎮座地は江名子川左岸沿いの吹屋町東端の江名子川沿いに鎮座(矢印)しています。当時の地図には橋はありませんが、小さな人道橋の脇に秋葉神社が鎮座しています。訪れたのは10月16日、秋の高山祭も終わり、見た目は紅葉のこの字も感じられない状況でした。今こうして写真を改めてみると桜の葉などが色づいており、秋は深まっていたようです。写真は吹屋町の秋葉神社全景で右側に人道橋が架けられています。玉垣で囲われた社地に、大きな覆屋、玉垣の左に一基の常夜灯が建てられています。覆屋内の本殿。大きな自然石の上に基壇が乗せられ、その上に5本の鰹木と外削ぎの千木が飾られた神明造の三社相殿の社が祀られています。昭和28年(1953)発行の高山市史(神社)から、創建時期・祭神など調べて見ましたが、当神社に該当するものは見つからず詳細は不明です。市内の秋葉社は古いもので天文(1532 - 1555)、享保(1716 - 1736)、延享(1744 - 1748)、明和(1764 - 1772)、安永(1772 - 1781)、天明(1781 - 1789)、寛政(1789 - 1801)、文化(1804 - 1818)、文久(1861 - 1864)と様々な年代のものがあり、一般的な祭神は迦具土神、天照大御神が祀られています。三柱となると地元、名古屋の屋根神様ならともかく、高山となると見当がつきません。いずれにしても我が町から火は出したくない、そんな火伏と平安を願い祀られている。上は社地左の常夜灯、竿には文政12年(1829)己丑と彫られています。かつての空町にあって、当時の空町一円を物理的に守っていた火消し組は東組でした。現在の吹屋町の精神的な火伏の拠り所はこの秋葉神社が担っています。秋葉神社(吹屋町)創建 / 不明祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市吹屋町180参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)・秋葉神社(大門町)
2024.11.10
コメント(0)
アーア、長年持ちこたえていた有線ルーターが、ここにきてご機嫌斜めの時が増えてきた。直近ではかみさんのPCの接続が日に一回程度接続が切れており、都度電源を入れ直し一時的に立ち直って来たものの、遂に自分のPCも繋がらなくなった。10年以上使ってきただけに代替を買う必要に迫られました。当時の無線ルーターは積極的に買う気はしなかったが、そろそろ無線ルーターも・・・・・ありか。とはいえ、それなりの値段もするので、少ない小遣いではとても買えず、かみさんの決済をもらわなければならない。ならばこれまで使って来た後継機とばかりに探して見たらこの機種に辿り着く。送料は付くが、この価格なら小遣いでなんとかなる価格。当面は電源を入れ直し様子を見守るとして、後継機の選定だけは確定しておこう。時代遅れ?の有線ルーター、この先どうなるか分からないけれど、今回はこれでいこう。10年は望まないまでも、5年も持てば納得できる価格だ。・・・これで今月は千べロ無理だわなぁ。BUFFALO(バッファロー) BBR-4HG(有線ブロードバンドルータ) BBR4HG [振込不可]価格:2,670円(2024/11/09 18:49時点 )感想:0件今度はキッチン水栓か・・・【11/25(月)限定!エントリー&抽選で最大100%還元のチャンス!※上限あり】SF-HM451SYXU リクシル LIXIL/INAX ハンドシャワー付シングルレバー混合水栓 エコハンドル 一般地仕様 送料無料[]価格:21,928円(2024/11/20 13:54時点 )感想:0件
2024.11.09
コメント(0)
高山市大門町秋葉社。前回記載した若達町1の秋葉神社から葵橋を渡った突き当りに鎮座しています。若達町1の秋葉神社から徒歩で1分程、消防団詰所の左に大門の秋葉社が祀られています。こうして消防団詰所の傍らに火伏の神、秋葉さんが祀られているのは良く見かける光景です。城下町高山は木造の長屋が連なり大きな火災を経験してきました。そうした経験から火に対する意識や火災予防・消火体制が築かれていきました。そのなかでも重要な役割を担うのが火消組になります。以下は高山市史より抜粋した火消し組の起源。「古くは天明3年(1783)、大原郡代は、大工や木挽職の152人に火消の役を勤めさせ、木製の御用印鑑を持たせた。 文化11年(1814)には夜廻りが始まり、文政13年(1830)には5つの火消組と「講」も合わせて10組となった。嘉永4年(1851)には陣屋前で火消組が駆け出しを行い、当地の出初式の始まりといわれる。」明治12年当時でも消防組として10組存在し、各組毎に固有の記が描かれた纏いを持っていました。現在、高山市内にはこうした分団が39組織されているようで、消防団詰所と火伏の神さまのツーショットが他にも見られるかもしれません。上は昭和10年当時の地図上に、これまで確認した秋葉神社を示しています。昭和13年(1938)発行の「ひだびと 第6年12号」から参照しており、記載されている町名や橋名に合わせるため当時の地図上に示しています。その後架けられた橋や道筋もあり、現在と一部異なります。秋葉神社は主に古い町並みとして賑わう一之町から三之町、宮川、江名子川沿いに多く見られます。赤の矢印が今回の大門の秋葉社になり、人で賑わう場所は避けている傾向が明らかです。市内だけでも60社近く鎮座するとされるので、これまで参拝した秋葉社を合わせても、まだまだ一口かじった程度で道のりは遠いけれど、高山を訪れる動機付けにもなり、少しずつ訪れていきたい。大門町秋葉社全景。市内の秋葉社としては広い社地が与えられ、定番の一基の常夜灯とその先に大きな覆屋が建てられています。その下には大きな岩の上に神明造の相殿が祀られています。軒下には秋葉社の額が掛けられ、奥には白馬の奉納額が見られます。神明造の社は三社相殿で、5本の鰹木と外削ぎの千木が付いています。創建時期や祭神の詳細は不明ですが、この社殿や境内は街で見かける同様の社とは異なり、今も人々の手が入って火伏の神さまとして親しまれています。秋葉神社(大門町)創建 / 不明祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市大門町39参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)・秋葉神社(若達町1)
2024.11.09
コメント(0)
若達町2丁目の秋葉神社の社頭から右手の東山遊歩道を直進し、国道158号線を右に曲がり宝橋方向に向かいます。ウオーキングコースは江名子川に架かる宝橋から左に向かいます。写真はその入口で見かけた白山神社御旅所。御旅所とあるため祭礼の巡行の際に神様がこちらに立ち寄る場所と思われます、解説は掲げられていません。東に東山白山神社が鎮座しており、そちらで調べてみましたが詳細は掴めず、観光協会にも伺いましたが、この立派な蔵造りの御旅所について何も分りませんでした。御旅所後方の全景。ここに若達町1丁目の秋葉神社が鎮座しています。前回使用した高山町火災図に若達町1の秋葉神社を落として見ました。明治28年の火災では、大雄寺の西から若達町1の秋葉神社鎮座地の一画が類焼していることがわかります。上は大雄寺の山門全景ですが、山門に続く石段左側、ここにも秋葉神社(愛宕町)が祀られています。若達町1の秋葉神社はそちらを向いて見据えるように祀られています。老松の脇に常夜灯と石積の基壇が作られ、三方を腰板で囲み、腰板から上はガラス張りの覆屋の中に社が祀られています。祭神は迦具土神。社の扉は、一枚のものや、二枚・三枚の相殿のものがあり、そうした相殿の多くは天照大御神が配祀される場合が多いようです。昭和13年(1938)発行の「ひだびと 第6年」に高山市街の秋葉神社25社のリストがあります。創建時期・祭神が記載されていますが、若達町の秋葉社は1社しか記載がなく、当神社ついてなのか、若達町2の秋葉社なのか定かではなく、どちらにしても、記載内容は創建不詳、祭神は軻遇槌神、天照大神までしか書かれていませんでした。神社左に石段があり、江名子川の堤に降りることができます。写真はそこから秋葉神社後方の眺めで、立派な覆屋の基礎の一部は迫り出すように作られています。後方の橋は葵橋で、橋を渡った突き当りに大門町の秋葉社が祀られています。細い流れの江名子川、汚く淀んで蓋をされた街の流れとは違い、生活の中で澄んだ流れを見るのはいいものです。昨今の尋常でない雨の降りかたは、住む側から見ればそんな気分ではないのかもしれない。秋葉神社(若達町1)創建 / 不明祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市若達町1-31-5参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)・秋葉神社(若達町2)
2024.11.06
コメント(0)
飛騨高山、軒を連ねた町屋や造り酒屋が点在する城下町の風情漂う三町伝統的建造物群保存地区は国内外から訪れる観光客でいつも溢れるところです。先に掲載した桜山八幡宮参道脇の秋葉社もそうした場所に鎮座していましたが、桜山八幡宮から寺院が多く鎮座する右方向の東山遊歩道方面はしっとりとした静かな高山を感じられます。桜山八幡宮の南を流れる江名子川沿いに5分ほど遡ると道路左側に若達町2の秋葉神社が祀られています。こうした町角の秋葉神社は高山市内だけでも約60社近くも祀られ、規模の大小や社の造りなど様々のものがあります。それらは親しみを込め「秋葉さま」と呼ばれ、現在も各町内の当番制で大切に守られる身近な神さまです。城下町の趣漂う高山の町角に小さな社が祀られているのには、そこに住む者しか分からない過去の戒めがあります。過去の記事から引用すると、「奈良時代には飛騨の中心として栄えていた高山ですが、現在の城下町の礎が築かれたのは、金森長近による高山城の築城より形作られたといっても過言ではないでしょう。木造家屋が軒を連ねる事から、高山の町は江戸時代からでも幾度も大火を経験しています。享保14年(1729)には975軒、天明4年(1784)には2342軒を全焼する大火を経験しており、一度火が出れば延焼を防ぐために周囲の建物を壊すことが当時の消火のセオリーだったはず、火に包まれなくとも火元近くの我家は壊されていく。城下町に住む者は運命共同体として火に対する意識は高くなって行き、意識だけで補いきれない不安は火伏の神を祀る事で心の安心を得た。高山市内には多くの秋葉さんが祀られ、それらは今も変わることなく身近な存在として大切に護られています。地元名古屋の旧城下町も同様で、火伏の神は減ったとはいえ、四間道などでは屋根神として軒下に祀られる姿が残ります。」上は大正15年に発行された高山町火災図。左は天明4年(1784)3月20日の火災範囲と、寛政8年(1796)7月6日の火災。中央が天明7年(1787)、天保3年(1832)、嘉永3年(1850)、明治、大正時代の類焼図。右が享保7年(1722)、天保元年(1830)、明治、大正時代の類焼図。類焼範囲が赤で記されており、中央の図の青丸が今回訪れた秋葉社の位置になります。こうして見ると宮川右岸の城下町はほぼほぼ大火に見舞われていることが良く分かります。時代も変わり、住宅の建築様式や消防技術は向上しても、古い町割が変わる訳ではないので、住民の防火意識や禍除けを祈願する気持ちは今も変わりません。若達町2の秋葉神社全景。社地の四方を壁で囲い、覆屋の妻壁に秋葉神社の額が掛けられています。自然石の基壇の上に神明造の社が祀られています。社地に一基の燈籠が建てるのが一般的な様で、夕方になると灯りが灯されます。こうした秋葉社の例祭日は1月、5月、9月の各17日に行われてきたそうですが、今では4月、9月の彼岸に行う組もあるようです。時折インバウンド客も通り過ぎますが、見向きもされず通り過ぎていきますが、小さな神社にも意味があり、その土地の歴史を語る存在です。秋葉神社創建 / 不明祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市若達町2丁目参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)・櫻山八幡宮(高山市桜町)
2024.11.05
コメント(0)
高山市桜町鎮座「桜山八幡宮」宮川沿いの朝市を下流に向け歩いて行くと宮前橋に立つ大鳥居。櫻山八幡宮へ導く象徴的な存在、この大鳥居からはじまり、ニノ鳥居、三ノ鳥居の三つを構えていますが、海外の観光客にとって鳥居は絶好の記念撮影スポットなのか、どこも人で溢れています。参道中ほどの交差点の角に立つ桜山八幡宮の大きな社標。ニノ鳥居。参道脇の由緒内容は以下。「桜山八幡宮祭神 八幡大神、熱田大神、香椎大神 仁徳天皇の御代(377年頃)、両面宿儺(りょうめんすくな)誅伐征のため難波根子武振熊命が応神天皇を祀って奉告祭を斎行された斎場といわれる。清和天皇の御代、この地を八幡宮の神域と定められたと伝えられている。 大永年間、石清水八幡宮より神霊勧請し産土神として祀られた。元和9年、領主金森重頼公 社殿を造営し神領を寄進し高山府の総鎮守社とし祭事を統括、北半分の地を氏子と定められた。 天領となってから代官・郡代の崇敬厚く奉行祭が行われた。明治以降、郷社、縣社、戦後別表社に加えられ郷土の守護神、特に文化神として広く崇敬されている。試楽祭 10月7日 例大祭 例祭 10月9日、神幸祭 10月10日」岐阜県神社庁の当社解説は以下。 「創建は遠く仁徳天皇即位(377)の御代にさかのぼると伝えられる。当時飛騨山中に両面宿儺という蛮勇豪猛の凶賊がおり、天皇の命に叛き猛威を振るい人民を脅かしていた。 この両面宿儺討伐に、難波根子武振熊命が朝廷より征討将軍に任命された。武振熊命は官軍を率いて飛騨国に入り、先帝(御父君)応神天皇の尊霊を奉祀し、戦勝祈願せられたのが桜山の神域であったといわれている。 その後、聖武天皇の御世と清和天皇の御世に諸国に八幡宮が祀られたとき、飛騨ではこの神域を八幡宮境内と定め御社殿は整えられたといわれる。室町時代の大永年間、京都の石清水八幡宮を勧請し更に郷人の敬神思想は高められたが、その後戦乱の時代が続き一時荒廃していた。 元和9年(1623)高山の領主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡宮旧跡の桜山老杉の傍らに応神天皇の御神体として奉安し社殿を再興、神領を寄進し、高山の安川以北を氏子と定め、神事を管理高山府の総鎮守府とした。飛騨が天領となってからも、地域住民をはじめ代々の郡代の篤い崇敬を集めて興隆の一途を辿った。 明治4年(1871)郷社に指定。同8年に高山の大火にあい、惜しくも秋葉社を除いてほとんど類焼した。 同33年に社殿を復興。昭和7年に県社に指定、同26年に式年大祭再興。 昭和43年屋台会館完成。同51年総檜造りの本殿並びに拝殿・神門・瑞垣の御造営し、別表神社に加列。 同55年社務所参集殿を改築。同56年5月飛騨国中300余社の神社を招請して式年大祭を再興し今日に至る。 当桜山八幡宮は、氏子崇敬者の信仰にささえられ、当神社の例祭は「秋の高山祭」として全国からの参拝者で賑う」と書かれていました。日本書紀では一つの体に二つの顔を持ち、それぞれに手足がある朝廷に背く怪物扱いの両面宿儺。しかし、この地方では両面宿儺の印象は異なります。位山に潜む鬼を退治する英雄伝説や、丹生川町には両面宿儺が開山した千光寺(高山市丹生川町下保1553)があり、そこには円空作とされる両面宿儺像が祀られるなど、豪族として讃えられている側面もあります。伝説では宿儺の生誕の地は、千光寺から更に小八賀川上流にある飛騨大鍾乳洞の手前の両面宿儺洞とされ、鍾乳洞へ向かう麓の善久寺にも宿儺像が安置されています。表参道ニノ鳥居から三ノ鳥居の眺め。木造の明神鳥居で昭和48年に建立されたようです。境内マップでは一ノ鳥居となっています。手前左に高山祭屋台会館と正面に三ノ鳥居(ニノ鳥居)。青銅の社号額を持つ石造明神鳥居で享保15年(1730)、飛騨代官長谷川忠崇の寄進によるもの。往古は数百本の桜が境内を彩ったとも言われます。櫻山八幡宮HPの境内マップ。鳥居から神門の眺め。手水舎。明治十一年に寄進されたもので、大岩を刻んで作られた手水鉢には寒澄清徹と彫られています。現在の社殿は昭和51年(1976)~55年(1980)にかけ造営とあり、全体的に綺麗な印象を受けます。神門から拝殿の眺め。扉には金色の八重山桜の紋が輝いています。拝殿正面全景。入母屋銅葺で千鳥破風と大きな唐破風向拝付く堂々たるもので、主祭神は応神天皇、相殿神に熱田大神、香椎大神を祀ります。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社に掲げられています。境内左の照前神社と天満神社照前神社(左)祭神は浪速根子武振熊命。両面宿儺討伐の戦勝祈願に應神天皇の御尊霊を奉祀され、当宮を創祀された神。武勇の神・歯の神。年の数だけ煎った豆を御供えすると歯痛が治ると言われている。社殿は平成二年に新築造営。例祭日 四月二十四日天満神社(右)祭神 菅原道真公宝暦四年(一七五四)、京都の北野天満宮より勧請。学業成就の神。例祭日 七月二十五日傍らの筆塚。使い込んだ筆の供養をすると書道が上達するといわれます。稲荷神社。祭神 倉稲霊神、相殿 猿田彦神、松尾神伏見稲荷大社より勧請。五穀豊饒・商売繁盛・養蚕・各種産業の神。相殿の猿田彦神は、導きの神、松尾神は国土建設と酒造の神。明治以前は庚神堂として境内に祀られていたもの。社殿は平成10年に改築造営。例祭日 三月二ノ午日(これに近い日曜日)例祭日は団子撒きで賑うようです。社殿全景。ウオーキングイベントの途中に立ち寄ったため境内全域は回っていませんが、境内にはまだ琴平神社、秋葉神社や高山祭屋台会館もあり見所は多いと思います。桜山八幡宮創建 / 仁徳天皇の御代(377年)祭神 / 御祭神:主祭神 応神天皇相殿 熱田大神、香椎大神境内社 / 照前神社、天満神社、稲荷神社、琴平神社、秋葉神社祭礼 / 10月9日・10日(秋の高山祭)所在地 / 岐阜県高山市桜町178参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加・秋葉神社(鳳凰台組)
2024.11.04
コメント(0)
10月16日、バスツアーで高山の町を訪れた際、市内の町角に鎮座する秋葉社を何社か写真に納めました。今回はその中から大新町1に鎮座する秋葉社を掲載します。鎮座地は宮川に架かる宮前橋の大鳥居から、正面の桜山八幡宮方向に向かう参道右に鎮座しています。高山の歴史は古く、奈良時代には国分寺と国分尼寺など建てられ飛騨の中心として栄えていました。現在見る城下町の礎が築かれたのは、戦国時代の金森長近(1524~1608)が高山城の築城して形作られたといっても過言ではないでしょう。参道中ほどの交差点の角に立つ桜山八幡宮の大きな社標、その右側が鎮座地になります。大新町の秋葉社社頭全景。石の明神鳥居と常夜灯を構え、町角で見かける社としては規模は大きなものです。綺麗に剪定された一本の大きな松が御神木です。鳥居脇に立てられてた解説、内容は以下になります。 「鳳凰台組秋葉社秋の高山祭(十月九日十日)には、祭りの華ともいうべき屋台が十一台出ます。 この一台一台の屋台を維持管理するのが屋台組と呼ばれる町内組織です。屋台組には組内の火防鎮護と町内安全を願って、古くから秋葉神を祀る風習があります。 この秋葉神は鳳凰台組内の火伏せの神として、遠州秋葉山本宮よりご分霊を勧請して深く尊崇され、篤い信仰を集めてきました。祭神は迦具土神。 又の名を火産霊神とお呼びします。 鳳凰台組。」高山祭は、春と秋の年二回開催されます。春の高山祭(4月14・15日)は日枝神社の「山王祭)」、秋の高山祭(10月9・10日)は桜山八幡宮の「八幡祭」として行われ、春と秋の二つの祭を指して高山祭と呼ばれています。祭の起源は当地を治めた金森長近の時代⁽1585-1692⁾とされ、屋台は享保に入ってからの起こりと言われています。古都飛騨高山の町を絢爛豪華な屋台が、からくりを奉納しながら巡る光景は高山の風物詩と言えます。高山の町は江戸時代だけでも幾度か大火を経験し、享保14年(1729)には975軒、天明4年(1784)には2342軒を全焼する大火に見舞われています。一度火が出れば、周囲の建物を壊し延焼を防ぐことが当時の消火のセオリーだったはず、火元近くの我家は火に包まれなくとも壊されていったことでしょう。城下町に住む者は火に対して意識が高くなり、それだけで補いきれない不安を火伏の神を祀り、崇める事で心の安心を得てきたのだろう。その火伏の神や屋台を維持管理するため発足したのが屋台組という町内組織で、屋台や秋葉社の存在が町民の結びつきを強めてきたのかもしれません。我々が住む街からなくなったものかもしれませんね。大新町秋葉社の扁額。境内全景。高く積まれた基壇の上に覆屋が建てられ、その下に神明造の社が祀られています。鰹木は5本、千木は外削ぎで扉が複数ある相殿。岐阜県神社庁による解説は以下。「当社の創始は享保二十年、欠ヶ上甚五郎なる者が遠州秋葉山本宮より勧請、大工布目屋幸三郎により三社造りの社を祀ったのがはじまり、明治八年炎上に依り、現在地に遷された。」とあります。当時のものとは違いますが、シンプルな神明造ながら、側面から棟持柱を注視すると昇り龍が彫られています。町角の小さな社ながら飛騨の匠の拘りが感じられます。観光客の多い時間帯の撮影は難しいですが、時間帯をずらし、こうした町角に佇む社を巡るのも高山の楽しみ方の一つかもしれません。鳳凰台組秋葉社創建 / 享保二十年(1735)祭神 / 迦具土神所在地 / 岐阜県高山市大新町1-100参拝日 / 2024/10/16関連記事・「ONSEN・ガストロノミーウォーキングin飛騨高山 」参加過去記事・高山市内の秋葉神社
2024.11.03
コメント(0)
全18件 (18件中 1-18件目)
1