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東大入試がただ一度なかった時がある。
昭和44年学生運動の東大紛争のため、私の現役入試の時、東大入試は行われなかった。
別に東大を受ける訳でもないので関係がなさそうであるが、それが多いにその後の私の人生に関係していた。
東大を受ける筈であった人は志望を京大に切り替え、京大の志望者の一部は阪大に切り替えた。
結果的にすべての大学の合格点が大幅に上昇した。
私の知り合いの優等生は京大が第1志望であるところを2段階下げて神戸大に切り替えたが、神戸大も不合格で浪人と言うことになった。
彼氏は予備校に行き出した間もなく自殺の道を選んだ。
小中高とずっと学年トップを続け、勉強一途であったので、自信を消失したためだろうと思われた。
厳しい親父であったとも聞いている。
さて私の場合、志望は阪大であったが、のん気な私は合格点が上がるなど想像もつかず、そのまま阪大を受験した。
その結果、例年の合格点に達したと思ったが、あとで発表された合格点はその年だけ大幅に上がっていた。
浪人時は医学部志望であったが、これ以上浪人出来ないよという姉の厳しいお達しで、一期校は絶対合格圏の薬学部にして、二期校で医学部を受験する作戦を取った。
当時の合格発表はネットで見ることが出来ず、神戸新聞のローカル版掲載を見るか、合格電報を頼むか、合格書類を待つかであった。
神戸新聞で見たらいいという安易な判断で合格電報を頼まなかったが、発表日に新聞を見ると、何とその年だけどういう訳か合格発表自体が掲載されていなかった。
ローカル大学なので見に行くのも大変であったので合格書類が届くのを待ったが、結局来たのはそれから3日後、第1志望入試日の前々日であった。
不合格であった用に、第3志望大学の受験対策をずっとしていたので、明後日に迫った第1志望大学入試、それも地方の国立大学であったので、今更行く気がしなくなり、結局いろいろ考慮の上、受験をしないという決断をした。
その時の判断が私のその後の一生に大きく影響することになった。
現役の年に嫁さんはその薬学部に合格していたので、嫁さんは1年先輩ということになった。
テニス部で知り合いその後結婚をして現在に至るのであるが、もし東大紛争がなく無事阪大に合格していたら、今の生活は根底からない訳で、現在の子供も孫も存在しなかった訳である。
それは単なる合格発表電報を頼まなかった偶然にも掛かっているし、敢えて頑張って第1志望の医学部を受ける判断をし合格していてもまったく違った人生になっていた訳である。
今が大変幸せなので結果よしと思っているが、結論は死ぬまで分からない。
それにしても阪大入試に落ちたことで幸せになっている訳であり、人間の人生は本当に塞翁が馬であると思う。
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