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テレビ放送が始まる寸前の、5年間くらいラジオのドラマが、大ヒットした時期があり映像ではないのに じーっとラジオを見つめている。そして 動画は、自分自身の想像で、作成したのです。数えられるくらいのラジオドラマは、聴取率は、80%を超えていたはずです。ちゃんばら(剣劇)放送も 何本かあったので男子やお父さんは、熱くなり 白熱電球の下で立ち回りなどを、放送と同時進行でやっていました。ラジオの内部には、真空管が入っていて、時間の超過や、台風 雷 などで割れてしまいお父さんや男子が、電気屋さんに買いに行って軽い火傷をしながら 交換していたのですね。その後、真空から逃れるように、トランジスタラジオが出現したのです。ラジオと編み物、図式がピッタリですね。映像を見ないので、作業は捗ります。昭和30年代 お母さんだった女性は、編み物が見事に上手で、家族のセーターなど ラジオを聴きながら、大量に仕上げていたのです。別れの場面には、大粒の涙を垂らしながら。テレビ 一般家庭普及の寸前、アメリカからのデザインで上のようなラジオが生産されました。今までのラジオとは、形相が かなり違います。今見ても あまり古臭さは感じませんね。この瞬間が、昭和の子供たちの、虚栄心を奮い立たせる契機になったのです。「ラジオ 変えようよ! 人が来たら あんな木のじゃ、みっともないよお。」
2018.01.19
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場末の本当の意味は、街はずれ 市街の中心からはずれた所なのですが、たとえば 場末のバー というエリア名詞は、差別用語になってしまっています。差別用語を意識することなく使っていた昭和です。紆余曲折を生きてきた感じのする上の女性のような方、性分は良いのですが、お堅い職業の方には、囁かれちゃっていたのですね。昭和55年頃から、セーラー服を改造して、ツッパル少女 見かけました。スカートは、長ければ地面を掃くくらいな感じの、生い立ちや境遇にダークな部分があったりすると上の少女のような感じに。だけど、生まれてから15年くらいしか人生やってないので短い過去の境遇などをバネにして、とっても素敵な女性になっていく子が多いのでした。学校制服は、この頃を機に セーラー服から、改造しにくいといわれるブレザーに転換していったのですね。昭和40年代中頃、アメリカにヒッピー族が出没し始めました。既成の価値観を否定し、長髪 奇抜なファッションを身につける、すぐ日本にも流行として入ってきました。ファッションに貪欲になり始めていた若者は、すぐ真似ました。サイケ調の服を着、ジーンズを穿き 路上で手作りアクセサリーを売ります。謎めいた表情で、通りをゆっくり闊歩する。強烈な思想は、無かったようですから、ヒッピールックというファッションの流行りのひとつだったと思います。その際疾く奇抜なルックスに、世の中年以上の大人は阿婆擦れ と、決め付けたのですねえ。このヒッピーファッションは、現代も根付いていますね。
2018.01.11
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昭和では、お正月が来るから 床屋 パーマ屋さんに行き新しい服を買って、その行事に備えたのですね。普段着と余所行きを、完全に分立させていました。余所行きと書いてよそゆきと読むのですが、てっきり最近まで装行きと書くと思っていました。(笑)余所行きの服は、タンスに畳んで収納しておきます。数回着ただけで 小さくなってしまい、後に親戚にリサイクルです。普段着といえば押入れ収納です。下の段の継ぎ接ぎの衣類が入っているのは、行李竹や柳で出来ていて、通風性を狙ったものなのですが、竹製は、カビが生えやすくてNGでした。上の段は、ブリキの衣裳箱、考案した人は湿気を防げるということで、作ったのでしょうが、開け閉めの音の大きさ、触れた感覚の冷たさ、などで持て囃されませんでしたね。平成の人たちが、お出掛けする昭和の母子を見ています。昭和の子供は、クリスマス お正月 お祭り(余所行きを着るとき) など空気が変わると信じ込んでいたため、顔に 緊張が 諸に表れたのでした。上の母子は、上流階級のお宅へ贈答品を持って ご挨拶に行くところでしょうか。上流家庭の奥様は、普段家にいるときでも 余所行きの服装でいることを、子供は不思議に思いました。子供は母親に聞くと、「いつ どんな偉い立派な方が、訪れても応対しなければ ならないからよ」と。昭和では、遥かに今より 身だしなみに重点性をおいていました。
2018.01.03
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