もずやの『一期一会』

もずやの『一期一会』

2009.02.16
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2005
光文社
岡本 太郎

 岡本太郎は独特のキャラクターで変人、あるいは天才のように思われていますが、彼の作品の良し悪しは別にして、評論は読むべきものがあると私は思っています。とくに物をそのまま見る、という点においては本来あるべき芸術家の姿を示していて、クリエイターであると同時におおいなる知識人であると私は評価しています。

今回もこの本の中の一節を紹介したいと思います。
(抜粋)
素人こそ本当の批評眼をもっているはずです。玄人はいろんなことを知っています。約束事、イワク因縁、故事来歴。そんなものを知っていればいるほど、彼らはそれにひっかかり、本質に触れなくなる。つまり彼らは鑑定家であるにすぎないのです。名所旧跡の立て札係には結構ですが、そのまま芸術の領域にまで立ち入られたのではかなわない。
 ある屏風が宗達作であるか、あるいは伝えられているけれどもニセモノなのかというような事は、その作品の芸術的価値とはぜんぜんかかわりがない。ほんものであろうがなかろうが、よければよい、わるければわるいのです。


 この部分は柳宗悦の『モノを直観でとらえる』という意見と共通していますね。私は、染織品を見るときに、技法をほとんど排除して見ることにしています。花織、絣、いろんな技法がありますが、それがどんなに駆使されていようとも、その作品の価値が上がるとは考えません。大切なのはその作品を見た時の心の揺らぎです。ですから、私から技法的な注文を受けた作家はいないはずです。いつも指図書には『楽しく、力強く、踊りあがるように、元気がでるように』としか書きません。その魂の投入があってこそ、誰もまねのできない輝くような作品ができるのだと思うからです。ですから、いくら売れ筋だからといって、他の作家に模造品を作らせても、全くいいものにはなりません。そこのは楽しさや喜びがないからです。河井寛次郎が『民藝とはモノでなくてコトである』と言ったのは、その意味では当たっています。染織を芸術と位置付けるなら、その評価には直観的美が最重要視されるべきであり、技法的なことは、それを裏付けるものとして評価されるべきものだと私は思います。
 そういう意味で、絵画や彫刻にたいする評価で作者の創作当時の状況や心理を紹介する番組をよく見かけますが、どうも納得がいきません。そんなことが、この作品の芸術性にどう関係があるのか、理解できないのです。関係あるとしたら、無名作家の作品は作家自らが自分の心境をいちいち個展で鑑賞者にはなさねばならないということになってしまいます。すくなくとも工芸の世界では考えられないことです。作品を通じて喜びや悲しみ、怒りが、にじみ出てくる。それを鑑賞者が感じる事が大事なのであって、『あぁ、やっぱりそうなのか』『なるほど』というのは、無垢な鑑賞眼を曇らせるだけだと思うのです。そして、それを説明する画商は値を高く釣りあげるためにそういう説明をするのだとしか商人の私にも思えません。
 染織の世界にも作品よりも文筆の達者な人がたくさんいます。そういう人の作品に限って、下らない温かみのない作品が多いものです。『巧言令色すくなし仁』とはよく言ったものです。私たち商人でさえ、いかに言葉を少なくしてお客様の心を捉えるかを考えているのですから。





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Last updated  2009.02.16 23:01:31
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