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杉浦日尚子さん死去 2005.7.25 この頃眠れなかったり、寝すぎたりしていて日にちの感覚があまりない。一昨日はマンションの夏祭りそで、バリ島の素晴らしい民族舞踊が披露されて、感動したのだったが、それからすぐ日数が経つ気がする。 何だか楽天広場の編集が日記以外すべてシャットアウトされて、7日ほど経つし、その間パスワードを何回も再設定しても、編集画面にログインできない。やっと来たメールには「あなたのホームページのURLを調べたが、楽天市場にも楽天広場にも会員登録がない。だから会員登録した後、パスワードを再設定しログインして下さい」との返事。これは不思議だしストレスがたまる。会員登録は既に済んでいる。それなのに「再設定」の要請ばかり。 それでここ7日ほど再設定したパスワードは8種類。自分でも混乱してきた。パスワード恐怖症になりそうだ。 ところでこんなことをしていられるのは、幸せなほうだ。新聞を朝眠たい目でぼんやり眺めると、なんと! あの江戸文化情報の大御所、杉浦日尚子(ひなこ)さんが46歳の若さで亡くなってしまったというのである。 彼女は東京の呉服屋の生まれ。江戸文化に日本の真髄を見出していた、数少ない教養人のひとりだった。 彼女は時代考証をきちんと学んでから、漫画家になった。あまり杉浦さんの漫画は読んだことが無い。けれども 線の柔らかな、きっちりした江戸の風俗が描かれていた。杉浦さんの興味や才能は、漫画に留まらなかった。 漫画をあまり描かなくなってからは、随筆家として活躍した。 江戸時代に関する書を何冊も出していた。それほどだから、ついにNHKに招かれ、コメディー「お江戸でござる」 の舞台のあと、江戸文化に関する知識を、独特のおっとりした口調で、丁寧に解説していた。そこで、父はそれを 見て「あれだけ話せれば、大学の講師だってできるよな」と言ったものだった。 杉浦さんの亡くなった原因は癌だったらしい。若くして亡くなるというのは本当に切なく虚しい。また本人にしても まだまだ、やりたかったことが山ほどあったのでは、と思う。私は働き盛りの著名人の訃報に触れると、涙が出るほどのショックを受ける。私の知る働き盛り(30代から50代くらい)の人たちが、また亡くなったらどうしよう、とまで 感じる。それは友人を失うような虚しさに襲われるからかも知れない。でも...杉浦さん、お疲れ様でした。どうかどうか、ご冥福をお祈り致します。
2005年07月25日
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ホームページ編集に汗流し・・・・ 2005.7.24 世間では夏休み。私も夏休み。でもそれまで手をつけなかったこのサイトの編集がほとんど できなくなった。何とかならないのかな。それでここ4日でパスワードを何回も変えて、編集画面に ログイン(アクセス)しようとしてもエラーになる。 日記だけ書けるのだけれども、他にも企画していたコーナーがおじゃんになって、 残念至極。「私の好きな女優~」のページは文字が白地に黄色で悲惨。ただし、これはどのパソコンにも ある上のツールバーの「編集」⇒「すべてを選択」の順に押すと、掲載写真は薄れるが、文字が青く反転 して、一応読めます。サイトのお客様、皆様試して下さい。(^^;)
2005年07月24日
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file:///C:/Documents%20and%20Settings/%82%CD/My%20Documents/My%20Pictures/CNI12913-%89p%8D%91%83%8D%83C%83%84%83%8B%81E%83o%83%8C%83G%92c%81w%83V%83%93%83f%83%8C%83%89%81x-2005.7.7.jpg 僕は英語が話せない 2005.7.23(土) 私は前期で何回出講したんだろうか。出講簿に印鑑を押すことになっているので、7月20日の前期最終日、数えてみた。そうしたら55回、印鑑を押していた。週に4日通勤し、一日に2クラス講義をするのだが、それが1回のハンコ分。とすると、55×2で、110回講義をしたことになる。自分でも驚いた。本当に今年の前期は通勤が大変だった。4月25日にJRの脱線事故が起きてから、体が疲れた。明後日、事故から3ヶ月の日が訪れる。でももう遠い昔のようだ。しかし事件を風化させたくないので、当時の新聞は保存してある。 ところで、大学では英語のクラスで2回、15行程度の英文を書く課題を出す。皆、英文科ではないのだが、本当に立派な英文を書いてくる人が多いのに驚いている。でもその中に一人(他にもいるかもしれないが)I Cannot Speak English と書いてある人がいた。内容は「僕たちはもう7年間も英語を勉強しているのに、英語を話せない。これは一重に教える側の先生たちの責任だと僕は思う。僕たちに英語を話すという機会を何も与えてくれなかったからだ...」というもの。これは新聞でも英会話学校の宣伝文句でも何回も見聞きしたので、慣れているけれど、こう堂々と英文を「課題」として書いてくると、こちらの気分も「はて?」となる。 不思議だ。この人は「僕は英語が話せない」ということを、その原因や結果をきちんと英語で表現しているではないか。 ということは、もうすでに英語が話せる力が十分に備わっている、ということなのだ。「英語が話せない」というのは、一種の思い込みだ。「僕は人前で話すのが苦手だ」と同じようなもの。かくいう私も「私って英語が話せないから」という考えをずっと引きずってきた。でも職場では英語を母国語とするNative の先生方がおられる。私は彼らと話す前に、頭の中で 話したい内容をさっとまとめる。ちょうど今から英文を1~2行書く準備をするように。そして、あとは臆せず、声に出して話しかければ良いのだ。"Excuse me, Mis..., but I have a question."とか"Excuse me, Sir, but today is also your final class of this semester, isn't it?" とか。その話す途中で多少文法が間違うことは十分有り得る。 だから「英語が話せない」というのは思い込みだと、その青年に伝えたい。例えば怪我をしたあと、リハビリをする。 その時患者の多くは「以前のように歩けないんじゃないか」という恐れだ。でも物は考えようで、そんな考えを捨ててしまえば、ある日突然すっと歩ける。それと同じなのではないかと思う。思い込みは思い込み。ほんの一握りの努力で どんな日本人も英語は話せるようになっている。少なくとも中学を出た時点から。その証拠に私の甥は、英語が大好きで、英語を話すのはもう得意な中学3年生なのだ。 これはもう笑い話になっているが、海外旅行をする日本人は多い。でも日本にいても、今では街頭で外国人に話しかけられる機会はよくある。そんな時、相手から"Excuse me, but...can you speak English?"と尋 ねられる。その時の日本人の対応は、驚く無かれ、英語である。日本人の決まり文句はこうだ。"No, no, I can't speak English!"こう言って足早に立ち去ってしまう。相手の 外国人は驚く。「英語が話せませんって...あの日本人はそう英語で話していたじゃないか?」または、英語がなぜ日本人は話せないか、を長々と英語で説明するという日本人もいる。 "We cannot speak English at all. Because Japanese English teachers never let us speak English. The Japanese English education system is so poor, that we cannot English." 相手のNative の人はこの理論と現実のギャップに声も出ない。 "Japanese are curious people as they can speak English very well, they fiercely believe themselves that they cannot speak English." (日本人は実に奇妙だ。上手に英語を話せるのに、自分たち自身で「英語が話せない」と信じ込んでいるんだから)と、外国の人に思われても仕方が無い。
2005年07月23日
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僕は英語が話せない 2005.7.23(土)(改訂版) 私は前期で何回出講したんだろうか。出講簿に印鑑を押すことになっているので、7月20日の前期最終日、数えてみた。 そうしたら55回、印鑑を押していた。週に4日通勤し、一日に2クラス講義をするのだが、それが1回のハンコ分。 とすると、55×2で、110回講義をしたことになる。自分でも驚いた。本当に今年の前期は通勤が大変だった。 4月25日にJRの脱線事故が起きてから、体が疲れた。明後日、事故から3ヶ月の日が訪れる。でももう遠い昔のようだ。 しかし事件を風化させたくないので、当時の新聞は保存してある。 S ところで、大学では英語のクラスで2回、15行程度の英文を書く課題を出す。皆、英文科ではないのだが、本当に立派な 英文を書いてくる人が多いのに驚いている。でもその中に一人(他にもいるかもしれないが)I Cannot Speak English と書いてある人がいた。内容は「僕たちはもう7年間も英語を勉強しているのに、英語を話せない。これは一重に教える側の 先生たちの責任だと僕は思う。僕たちに英語を話すという機会を何も与えてくれなかったからだ...」というもの。これは新聞 でも英会話学校の宣伝文句でも何回も見聞きしたので、慣れているけれど、こう堂々と英文を「課題」として書いてくると、 こちらの気分も「はて?」となる。 不思議だ。この人は「僕は英語が話せない」ということを、その原因や結果をきちんと英語で表現しているではないか。 ということは、もうすでに英語が話せる力が十分に備わっている、ということなのだ。「英語が話せない」というのは 一種の思い込みだ。「僕は人前で話すのが苦手だ」と同じようなもの。かくいう私も「私って英語が話せないから」という考えを ずっと引きずってきた。 しかしある時、大学院を出て銀行系の職場に勤めながら、英詩の論文を書いて、母校の学会に投稿した。すると、その 論文を読んだ先輩から、大学での勤務のお話を突然頂いた。大学での勤務、すなわち教壇に立つことは、私にとっては 大変な冒険だった。銀行の前に、家庭教師や小学生の塾の先生をしたことはあるが、「大学で先生だなんて」と焦った。 何故かと言うと、「私は人前で満足に話せない」と思い込んでいたからだった。 しかし1年もやると、何とかできるようになった。そしてここ数年はリラックスして談笑も交えながら、英語を教えることが できるようになった。それでも「英語の先生なのに、英語は私は話せない。これでいいんだろうか?」という不安は講師を始めて 7年間は引きずっていた。しかしそれは、私の引っ込み思案から来る「思い込み」に過ぎなかったのである。 職場では英語を母国語とするNative の先生方がおられる。私は彼らと話す前に、頭の中で話したい内容をさっとまとめる。 ちょうど今から英文を1~2行書く準備をするように。そして、あとは臆せず、声に出して話しかければ良いのだ。 "Excuse me, Mis..., but I have a question."とか"Excuse me, Sir, but today is also your final class of this semester, isn't it? Please take care and have a nice summer holiday!" とか。その話す途中で多少文法が間違う ことは十分有り得る。 だから「英語が話せない」というのは思い込みだと、その青年に伝えたい。確かに彼は中学・高校と英語は話す授業はなく、 お決まりの「英文法」「読解」「英作文」といった授業しか受けて来なかったのだろう。でも、彼が入学してきた大学では、 日本人講師によるReading Skill & Writing Skill の授業の翌日には、Native の先生方による English Speaking or Communication Class (based on various cultural contents) がある。週に2回も、1日おきに英語を話す授業があるのだ。 それらのクラスで彼は、英語を話そうと努力したのだろうか?それとも「僕には話せない。というのも高校までの日本人の 先生がひどい授業だったからだ」と心の中でつぶやき、外国人の先生に"Please answer it to me or explain it to me. Oh, can you say nothing in English?"などと言われて、英語で"Yes, so." などと答えていたのだろうか? 例えば怪我をしたあと、リハビリをする。 その時患者の多くは「以前のように歩けないんじゃないか」という恐れだ。でも物は考えようで、そんな考えを捨ててしまえば、 ある日突然すっと歩ける。それと同じなのではないかと思う。思い込みは思い込み。ほんの一握りの努力で どんな日本人も英語は話せるようになっている。少なくとも中学を出た時点から。その証拠に私の甥は、英語が大好きで、 英語を話すのはもう得意な中学3年生なのだ。 これはもう笑い話になっているが、海外旅行をする日本人は多い。でも日本にいても、今では街頭で外国人に話しかけられる 機会はよくある。そんな時、相手から"Excuse me, but...can you speak English?"と尋ねられる。その時の日本人の対応は、 驚く無かれ、英語である。日本人の決まり文句はこうだ。"No, no, I can't speak English!"こう言って足早に立ち去ってしまう。 相手の外国人は驚く。「英語が話せませんって...あの日本人はそう英語で話していたじゃないか?」または、英語がなぜ 日本人は話せないか、を長々と英語で説明するという日本人もいる。 "We cannot speak English at all. Because Japanese English teachers never let us speak English. The Japanese English education system is so poor, that we cannot English." 相手のNative の人はこの理論と現実のギャップに声も出ない。 "Japanese are curious people as they can speak English very well, they fiercely believe themselves that they cannot speak English." (日本人は実に奇妙だ。上手に英語を話せるのに、自分たち自身で「英語が話せない」と信じ込んでいる んだから)と、外国の人に思われても仕方が無い。
2005年07月22日
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ついに夏休みに突入! 2005.7.20 急に楽天広場の機能が停止し、日記などが書けなくなってしまった。画像を埋め込んだり、どうするんだろう。 つい昨日まではできていたのに、残念でたまらない。夏休みになったから HPは一休みしろとの天の声かな。 しかし知人や学生諸氏にHPの宣伝をしたばかりだった。小説も別にコーナーを作って書き始める予定だったのだが。こういうページはIDとかPWとかログインなどがうまくいかないとお手上げだ。どこで間違って転んだのかな。 ところで夏休みになったというのに、おばあちゃんが息子に宿題のことで口うるさく、それを止めて貰いたい私は、 ここ数日ほとんど言い争いになっている。私は母にお願いをしているのだが、母は「叱られている」と思い込むらしい。それで私はストレスがたまり、なぜか手足のあちこちに青あざができている。息子によると、ストレスで血管が破れて、内出血をおこしているとのことだ。私は10歳の主治医の意見にほぼ賛成だ。うちの子はお医者向きなのかもしれない。 今日の新聞の広告に『ナルニア国物語―ライオンと魔女』「ファンタジーの傑作!C.S.ルイス作」というのがあった。私がこれを読んだのは13才の時。箪笥の中には別世界に通じるドアがあって、雪国が広がっていた。そこでの魔女との出会い。プリンを全部食べないと殺される少年が出てくる。あの年齢まではその世界の住人になれた。今はなれない。だから10歳前後からの子供の心というのは大人と異なり、無垢なのだ。今の私は母と息子の宿題のことでもめている毎日なだけの人生なのだ。私は息子にはこういう本を読んでもらいたい。決して宿題を完璧にしなくってもいいから。
2005年07月22日
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明日で前期は終わりだが、まだ風邪がこじれて咳がひどい。休暇に入ったらすぐさまダウンしそうだ。しかし前期の成績を8月3日までに結果を出さねばならない。ほとんど出席しなかった亡霊学生以外はみんな、何とか単位は出せそうだ。 ところで私はこの頃懐かしのサイモン&ガーファンクルにはまっている。彼らの『コンドルは飛んで行く』が好きだと言ったのは、息子が2年前の8才の時だ。「好きでたまらないから、MDに録音して。それ聞きながら宿題するんだから」などと言うのだった。坊や専用のMD再生カセットなど無く、私専用のしかない。「ママが聴くのをぼくも聴くからいいの」というので、彼の好きな曲はあらかた集めてMDにした。それがほとんどがS&Gなのには驚いた。彼らの歌には幼い子供をも惹きつける何かがある。 私は常々、こういう曲は英語の勉強になると思っていた。そこで前期の終わりに講義で歌詞対訳付きで「ひとりぼっちのメリー」と「コンドルは飛んで行く」を紹介した。まあ、BORING だったかもしれない講義の最後のおいしい味付けのつもりで。もっと、講義にENGLISH SONGS を紹介すれば良かったと思う。とにかく彼らの歌は何がいいかというと、まずメロディーが素晴らしい。その次に歌詞が美しい。そして何よりもsimple な内容がすごい。 私は現代美術はあまり好かないのだが、それでもこの頃ははっとするほどしゃれたビルやモニュメントに出会うと惚れ惚れとする。それらに共通しているのは「モダンさ」といったものよりも、simplicity、簡潔さだ。プロは技を深めると簡潔さに辿り着くものだ。しゃれた家や宝石や家具などはすべてそうだ。ごてごてしていない。フランスのベルサイユ宮殿は、それに比べるとごてごての代表かも知れない。しかし...あれはあれで魅力的だ。 S&Gの素晴らしさはニューヨークの知性の香りを漂わせているところだ。彼らの歌を聴いているとニューヨークに行ってみたくなる。ニューヨークは華やかさとモノクロの世界だ。東京とはまた違う。東京もいろんな外国人が住むようになったが、ニューヨークのような哀愁はない。あの哀愁は、ニューヨークに多く住むユダヤ人のものではないだろうか。 それにしても1970年代というのは映画・音楽・漫画...すべてに傑出した時代だった。映画も、今のように原題をカタカナで紹介したりはせず、奥の深い日本語に訳出していた。それで、よく500円を握り締めて、大阪のフェスティバルホールの地下の映画館に、旧ソ連やインドやジプシーなどの珍しい映画を観に行ったものだ。漫画も、萩尾望都・文月今日子・森川久美が最盛期を迎え、次々と傑作を発表していた。岩館真理子も円熟期を迎えていたし、大和和紀も『N.Y.小町』や『あさきゆめみし』(源氏物語)など代表作を世に送っていた。そして何よりも、1975年から手塚治虫氏の永遠の金字塔『Black Jack』が10年間に渡って連載が開始されていた。 1990年頃から、私の私生活は変わってしまった。結婚したり、坊やが生まれたり、引越ししたり、病気になったり。そんな中で昔好きだったものがすべて遠い記憶の中に埋もれて行った。今、その古い記憶を掘り起こしている。すると、私という人間は寂れていったが、宝物は未だに輝いている。それは私の20代の心の糧のすべてだったのだ。それらに生きがいを感じていた当時と私の今の心は同じである。こういう時、生きていて良かったなあとつくづく思うのである。
2005年07月19日
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私は21歳の頃から31歳まで書き溜めた小説がある。ずっとパレスチナ問題に関心があったので、主人公はパレスチナの若者である。彼は踊り子だった母の血を受け継いで、ウードの天才的な奏者である。しかしイスラエルの侵略により、幼い頃から難民キャンプで育つ。16歳の時、キャンプを出て、レバノンに向かう。レバノンは「東洋のパリ」と言われた美しい都だったが、イスラエルとの紛争や内部抗争で荒れ果てた街となっている。 彼がレバノンに向かった目的は、そこに有名な音楽院があったからだった。しかしお金もなく、泊まる場所も無い彼はどうすればいいのか。そんな彼を救ったのは安ホテルのウエイターの青年だった。彼は謎めいた美しさで少年を圧倒する。明るく振舞う青年だったが、彼には知られざる過去があったのだった... 時代は1960年。パレスチナ紛争の真っ只中という時代背景の中、人生をあらん限り生きようとするふたりの若者、アルブラートとムカール(ムジャヒリヤ)の物語だった。それを再び小説として完成したいとこの頃思うようになった。それだけ心に余裕ができたということなのだろう。
2005年07月16日
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6月の降水量は皆無に等しかった。しかし7月になって雷雨がよく続くようになった。その合間に真夏の日差しが脳天を直撃する。私は京都に勤めている。京都の暑さは並大抵のものじゃない。それでも楚々として着物を着て歩く女性がいる。その中を祇園祭りのコンチキチン♪が流れるとほっとする。 それでも若者パワーはすごい。雑踏の中をすごい格好で歩いている。特に男性よりも女性のファッションはすごい。銀ラメのベルトで決めたGパン、腰の肌を露出したノースリーブのシャツ。そこまでは誰でもやってることかも知れない。 でも私の前を歩く女性は、腰の肌に堂々と花柄の入墨をして歩いていた。ああ...ついにここまで来たか。入墨だなんてファッションと誤解しているからかも知れないけれども、あれはやっぱり普通の人のすることじゃない。だから、この女性は一体どんな人なんだ?と思ってしまった。年は、職業は、家は...? もちろん髪はド金髪。マニキュアにマスカラ。こんな格好は昔はバーのホステスか、街娼がやっていたものだ。今はこれに加えて入墨。以前、100歳になるあるお寺の住職のおじいさんが、テレビのインタヴューに答えて、一筆。「金髪はやめろ!」私は100歳じゃないけれど、私もこう言いたい。「入墨はやめろ!」
2005年07月07日
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ようやく長かった大学の前期もあと2週間と3日となった。その間、パソコンやHP作成に対する意欲が、あまりの通勤の疲労から、すっかり削がれていた感じがする。でも、この「パンドラの小箱」は長い間、日記も更新していなかったし、英語コーナーも閑古鳥が鳴いていたというのに、いつの間にかアクセス数が3000を超えていた。何だかそういうのはとても嬉しい。もうすぐ夏休みなので(8月9月まるまると、7月の末10日間、10月の最初の3日間)つまり73日はお休みなので、また英語コーナーなどを充実させて行きたいと思います。どうぞVIEWR の皆さん、お付き合いお願いします。 さて先日大学のテキストで現代音楽に関するCHAPTER があった。その名も"Sound Sculptures: Ancient Voices and Modern Music" と言うのだった。「音の彫刻:古代の声と現代音楽」―このタイトルと内容が気に入って、このCHAPTER を選んだ。私は音楽が大好きなのだ。「古代の声」というのは、昔は今のように楽器が発達していなかったから、人間の声も楽器と成り得たのだろう。このテキストで現代音楽のトップを飾るのは、Harry Partch という、1950年代に活躍して70年代に亡くなった人だ。今の大学の1回生は1985年生まれの人が多いから、50年代とか60年代とか聞くと、昭和の人が「大正」時代を感じるような古臭さを感ずるのじゃないかと思う。今のhigh-teens には2000年代が青春なのだ。ここに、generation gap を感じてしまう。 Harry Partch は、natural bamboo (竹)や polished woods (磨いた木材)とかknotty tree branches(こぶの多い枝)など、自然の素材を使って音楽を作る。勢い、普通の音階、scale は当てはまらない。ぜんぶ自分のオリジナル。でも英文で読んでたって、ピンと来ない。私も学生も。だからネットでHarry Partch のサイトを探し当て、札幌の現代音楽専門店が輸入盤を取り扱っていると言うので、早速取り寄せた。聴いてみると、なるほどなるほど。前衛的だ。アヴァンギャルドだ。現代音楽だ。しかし、中にはイランなどの伝統音楽などを取り入れていて、そこはかとなく神秘的だった。んー、聴いていた学生さんたちはどう感じたかな。 私は家でHarry Partch を聴いた後、アンデスの有名なグループ、ロス・インカスの「コンドルは飛んで行く」を聴いた。それから、サイモン&ガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」も聴いた。すると、Partch の実験的な曲よりも、こちらの方が耳に心地良く馴染んでくる。私はイランやユダヤの伝統音楽も未だに好きで、昔収集していた曲をMDに編集しようと思ってはいる。でも欧米のポップスや古典音楽も好きだ。Harry Partch には申し訳ない?けれど、やはり昔から馴染んで来た音楽の方が身体全体、五感に訴えるものがある。まあ、人さまざまかな。
2005年07月02日
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