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病弱は少しも良いことを行う妨げとはならない。これまで最も偉大な仕事を成し遂げたのは、むしろ病弱者であった。それに完全な健康を持っていると、必ずとはいわないが、精神的感性の繊細を欠くようになることが実際少なくない。あなたが健康に恵まれているなら、神に感謝しなさい。しかし健康でなくても、そのことにできるだけ心を労せず、また妨げられないようにしなさい。 ヒルティ 『眠られぬ夜のために』 3月4日 岩波文庫版
2007年06月30日
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昨日は96歳をお過ごしになったお祖母様を見舞いました。ショートステイ先のホームで転び、頭に大ケガをし、治療を受けていましたが、抜糸も終わって、一時滞在のホームから、明日は一人暮らしの町営住宅にお帰りになるとのことです。お見舞いをすると喜ばれて、ケガの時の様子などを話して下さいました。自分は神様に守られているから、周囲の人たちも驚くほどに早く回復ができたこと、一人でも多くの人に、この神様のことをお伝えしたい、と話されました。「じゃぁ先日の礼拝で読んだ聖句を・・・」聖書を手短に開き、短いお祈りをすると、その方は、もっと長いお祈りを、ていねいにして下さいました。このホームには、この人よりもご高齢の方は少ないような気がします。そしてこの方のようにお元気で、キラキラ輝いている人も少ないと思いました。
2007年06月30日
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「国際聖書フォーラム」という集まりに出ました。ボクが出たセクションは「初期キリスト教文献で隅に追いやられた弟子たちの復権」~疑り深いトマス、マグダラのマリア、イスカリオテのユダ~という副題付きです。「福音書」はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つ。「聖書」を買っても、ほかの福音書は載っていません。しかし「聖書」の中に加えられなかった福音書がほかにもあり、それが「トマスによる福音書」「(マグダラの)マリアによる福音書」「(イスカリオテの)ユダによる福音書」と呼ばれるもの。これらの「聖書に加えられなかった福音書」を受容することが、現代にどんな意味があるのかが語られました。「トマスの福音書」「聖書の4つの福音書」とは内容が違う。しかしこれを受け入れることによって、正統とか異端の枠を越えて、各宗教の対話を促進する。「マリアの福音書」キリストの弟子の中の女性の地位を高める。ひいては性差や制度的な男女差別の問題に光を当てる。「ユダの福音書」ユダへの激しい憎しみの感情は、反ユダヤ主義、ユダヤ人排撃思想に高まった。ユダの受容は世界の向上への貢献である。聖書が「正典という枠」が取り去られ、自分の信仰を養うために、キリスト教文書を自由に選択して「自分の聖書」を持っても良い、と言うような時代が今に来るのだろうか?もしそんな時代がほんとうに来たら、いったい世のキリスト教はどうのように変質するだろうか、と、そんなことを考えながら、帰途につきました。
2007年06月28日
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あれれ~ debujyanaiさんへのレスを書いていたら「算数」と「使徒信条」が心の中で合わさったわたしは天地の造り主全能の父である神を信じますわたしはその独り子イエス・キリストを信じます主は聖霊によって宿りおとめマリアより生まれ・・・・これを解くのは難問だぞ
2007年06月27日
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「正答」に、こだわらなくていい計算式を筋道立てて、整然と書く正答が浮き出てくる
2007年06月26日
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3日にわたる葬儀日程を終えて家に帰り綿のようにぐったりしていると斎場から電話があって携帯電話を忘れていませんか?とそう言えば葬儀のあと講壇の上に置いたまま帰ってしまった「よろしければお宅に届けます」「お願いします」と言ったが夜の8時近くになって葬儀を一緒に進行してくれた職員が帰り道だと言って雨中に届けてくれたこんな遅くまで後かたづけをしていたのか仕事とはいえグリーフワークは気疲れするだろうなんと言っても愛する者の突然の悲報に遺族は困惑し、泣き悲しみ、憔悴しきっている喪主は昨日は寝ていないと言っていたし一人の死はたくさんの人の心も体も動かすものだ人の命はそれだけ大切なんだ死は厳粛であり尊いが生きることは死ぬことよりもはるかに尊い生きる人がんばれよ
2007年06月25日
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叱られる・・・・その時は、頭に来たり、鬱の引き金になったり逆恨みになったりするしかしあとあとまで残りそうか、(叱られたことは)適切だったんだと思うようになるそんな叱り方をしたいよ確信と愛がなければ怖くてできないよそんな叱られ方をもう一度されたいちょっぴりはそう思う
2007年06月25日
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「北風と太陽」イソップ童話あるとき、北風と太陽が、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をする。まず、北風が上着を吹き飛ばそうとする。しかし旅人が上着をしっかり押さえてしまい、北風は旅人の服を脱がせることができなかった。次に、太陽が照りつけた。すると旅人は暑さに耐え切れず、今度は自分から上着を脱いでしまった。これで勝負は太陽の勝ちとなった。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参考)これだから北風より太陽の方がまさっているとは言えない。北風は太陽のように振る舞うことはできないし、太陽は北風にもなれない。北風は北風の役割があり、太陽は太陽の役割がある。この童話は単純すぎて、現実を反映していないと思うのだが・・・・
2007年06月24日
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午前中は喪の家にとどまりました。明日とあさって、葬儀を司ります。心をこめて、天にお送りすること、思いはそれだけ。明日の礼拝の準備を何とか終え、これから葬儀の式辞を考えます。主の憐れみ今はこの者に注いでください。明日は遺族への慰めあふれますように。
2007年06月23日
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息子アブサロムに反逆され、城が戦場になることを恐れたダビデは部下と共に城をあとにします。逃げ延びるダビデ一行に罵声をあびせる、前王サウルの関係者がありました。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」サムエル記下16:7-その時のダビデは弱り切っていて、返す言葉もありません。「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。」16:11 弱っていた時の言葉の方が、覇気あふれる時の言葉より人の心を打つことがあります。死に臨んだダビデの、最後に言い残した言葉が記されています。「しかし今、あなたは彼の罪を不問に付してはならない。・・・・あの白髪を血に染めて陰府に送り込まなければならない。」列王記上2:9かくも深き怨み! 呪いの言葉に反応する力がなかっただけで、その怨みは心に深く秘められていました。しかしボクたちは、十字架の上で祈られたキリスト様の言葉を目当てに進むことがゆるされています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(キリストの言葉)ルカ23:34
2007年06月23日
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ダビデはシンガーソングライターです。詩を詠みそして歌いました。心の病を得た王様の前では琴を奏でて歌いました。「ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり・・・・」 サムエル記上16:23神をたたえる心、祈り、自省、迫害に耐える心ダビデにとっては、すべてが詩(うた)となりました。それらは後にまとめられて旧約聖書「詩編」に入れられています。「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。 ほむべき方、主をわたしは呼び求め 敵から救われる。」 詩編18:2ー4(新共同訳聖書)
2007年06月22日
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純白のカーテンを付けた純白のカーテンの側(そば)では天国にいるような気持ちになる今に薄汚れてくるだろうやっぱり現世だ
2007年06月21日
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人の上に立って得るものと人の上に立って失うものを考えていたつまらないことを考えると思った
2007年06月20日
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ホームレス氏が訪ねてきて、身の上話をしていった。ホームレスだから天涯孤独な者かと思うと、国に帰れば、親も兄弟もいるという。親や親類がいてもきっと孤独や生きづらさを感じていたのだ。どうせ孤独なら、自由に生きる孤独を選んだのかも知れない。笑顔を見せてくれたが、寂しそうな笑顔だった。
2007年06月19日
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変わらないこと~変わらない心で、神様と生きること~~愛すべき人を、愛し続けること~「当たり前」と思えるなら、それは天からの賜物。ボクには困難です。神に委ね、祈りながら、すがりつきながら、「神に当たり前」と歌いながら、ぶ厚く凍った年の諏訪湖を歩くように、日々歩むことデス。だんだん氷が薄くなってきた。そんな心の季節あれれ~ どっぼ~ん
2007年06月18日
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「戒律は確かに重荷ではあるが、しかしそれは、戦場にある兵士にとっての銃や重い弾薬入れにも等しいもので、なんとしても失いたくないものだ。」 「神の命令はなるほど重荷である。しかしこの重荷には、霊と肉にとっての祝福が結びついていて、それはほかでは得られないものであり、また他の仕方では補えないものである。」 「とにかく、なにびとも、たとえ最高の地位にある者でも、一切の制限と命令から解放されて、ただ勝手気ままに生きることはできない。神に聞き従わないものは、通常、それだけ人間の奴隷となるものである。終わりに言いたいのは、真の生きた信仰には常に多くの喜びが与えられるので、神の命令は軽いものだが、人間の命令にはそれがないので、重苦しいのである。」 ヒルティ『眠られぬ夜のために』第一部(草間平作他訳、岩波文庫)面白いので、かえって目が覚めてしまった。
2007年06月17日
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「造物聊(いささ)か疑うべし」(神様がなさることはわからない)禅僧だった良寛の詩の一句。洪水で田圃が流され、農民が困っているのを見て詠む。
2007年06月16日
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木曜日は東京出勤日です。本務のほかに幾つかの用事を済ませたのですが、電車の乗り継ぎが悪く帰ったのは午前1時でした。
2007年06月15日
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息子アブサロムに反旗を翻され、危険を察知したダビデが都を離れる場面です。「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った。」サムエル記下15:30そこに、ダビデの古くからの友人や臣下が、落ち行くダビデの列を待っていました。「ダビデが山頂を少し下ったときに、メフィボシェトの従者ツィバが、ダビデを迎えた。彼は二頭の鞍を置いたろばに、二百個のパン、百房の干しぶどう、百個の夏の果物、ぶどう酒一袋を積んでいた。」16:1ここまで読むと、不覚にも涙があふれました。「心が結びつく」とは、こういうことなんですね。「損得勘定」で生きることが、いちばん損だとわかります。愛によって生きる。その愛が、まずボクたちの真実の救い主キリスト様に向かい、それから主が大切にされている魂一人一人に、無心な心で向かう事が、心からの願いです。それからダビデの兵隊と、息子アブサロムの兵隊との、国を2分しての戦争が始まります。
2007年06月14日
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あなたが怒ることは、正当だと思います。筋道立てて考えても、きっとそうです。でも怒りの感情を、明くる日まで持ち越したとしたら、それはあなた自身の問題です。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」 エフェソの信徒への手紙4章26節(新共同訳聖書)
2007年06月13日
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昨日は仲間の牧師たちに会いに浜松へ。東名道路を西へ西へ。新緑の林や新茶畑の間を西へ。みんなと会って祈り合い帰りは東へ。夕日を背にして東へ。
2007年06月12日
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駐車場の端のわずかな花壇からわっと顔を出していた紫蘇伸びやすいように間引きをしていたが紫がかったべろべろの葉に成長みそ汁にはかぐわしい紫蘇の香
2007年06月11日
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(ローマの信徒への手紙5章12~21より) 「一人の罪(注・アダム)によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。」ローマ5章17節「一人の人によって罪が世に入り」(12) アダムとエバがエデンの園を追われる以前は、人間には「死」はなく、神様の家族の一員として永遠に生きる存在だったらしい。 創世記第3章は、最初の人類が罪に染まったさまを描いています。エデンの園の中央には「試みの木」が置かれ、「試みの蛇」も地を徘徊していた。蛇はエバに声をかけます。エバは蛇の誘いに無心に従い木の実を食べ、一緒にいたアダムにもそれを与えます。 「罪がない」と言うことは、簡単にだまされると言うことなのかな? とにかくこの時から、罪が2人の男女の中に入り、彼らはエデンの園を追放されるのです。 まじめな人も、努力の人も、犯罪者や殺人者と同じように、「人はみな罪人」とまとめられるのは、いやだな。でも、家庭や学校教育の力で、人の生きる道を躾(しつけ)ることはできても、心の草むらを分け入ってみると、そこにはアダム以来の罪が住み着いているのが現実なのでしょう。「一人のイエス・キリストを通して生き」 (17) あの時・・・・「キリストの誕生、十字架の死、復活、昇天、聖霊降臨」~歴史上の出来事のあと、人類の始祖がアダムからキリストに取り替えらたというのが、パウロの論調です。事実、歴史の数え方も、キリスト以前はBC(Before Christ), キリスト以降は、AD(Anno Domini=in the year of our Lord)となりました。今年は、「新しい命に移り変わって2007年目」と数えられます。 神様を知らない時、ボクたちの心と体は、アダムの罪にたえず脅かされていました。主イエスをボクたちの新しいルーツとしてからは、罪の赦しの恵みに生きます。 以前は良いことに励んでも、「それでホントにいいのかい?」と言う心の声が聞こえました。今は、ボクたちの力足りず、十分でなくても、「キリストの血潮によって赦しを受けたあなたは、それでも無罪」という天からの判決が、聖書を通して聞こえています。終わりの日の裁きの時の判決文の写しを、もうすでにいただいているのです。 無罪とされる理由は、ボクたちがまだ主に従う力がなかった時、主イエスは弱いボクたちのために天の父の御心に従って十字架の道を歩み、神の義を満足させて下さったことによります。 でもボクたちはイエス様を信じたって、いったいいつどこで罪を犯してしまうか見当も付かないなぁ。いいえ!主はボクたちが罪を犯さないようにお守り下さるという保証を下さるし、たとえ罪を犯してしまったとしても、赦しと愛の十字架はボクたちの胸に、そして聖餐のテーブル上に輝いている。うれしいなぁ!「その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」ヨハネ福音書1章12~13(新共同訳聖書)
2007年06月10日
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皆様、暖かいお言葉を感謝いたします。これだから、やめられません。(笑)人生と同じなんです。(微笑)
2007年06月10日
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今日はブログ開設5年目だったんです。楽天様、長い間ありがとう。みなさまこれからもマイペースでこつこつやっていきますのでまた見てやってください。 ~やまひで~-----------------------------「ブログデータ」 ブログ名:やまひで牧師の心の窓総アクセス数:189279 アクセス (平均 104 アクセス/日)開設日数: 1827日 (開設日:2002/06/09)日記記入率:81.8%-----------------------------
2007年06月09日
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こちらはまだ晴れていた朝県西部の浜松では横殴りの雨だと映していた「こちらにもすぐに雨が来るね 早く新聞を出してしまおう」今朝は子供会の新聞集め9時になると子供たちががらがらと台車の音と一緒に近所から古新聞を集めて廻るやはり雨は間もなくやってきた妻も犬の散歩から早めに帰ったようだ新聞紙を出しておいた道端をのぞくともう運び去られていた雷も鳴り本降りとなりご奉仕のお母さんたちはそろって「水も滴るイイ女」子供たちの笑い声はいつまでも聞こえている
2007年06月09日
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自分が自分として生きるそれ以外にはないたどりつく所はここに
2007年06月09日
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死を希求する者にとっては生きることそれ自体が神を希求すること。はいずってでも、神が殺しなさるまでは生きる。生き恥をさらしても。そのように生を肯定しよう。
2007年06月08日
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明け方ごろ、妻が寝床で声をかけた「雨が降っている?」起き出して戸外を見るとたれ込めた雲の下道路は乾き始めていた「耳鳴りなのねぇ」そんなものボクにだって聞こえる夏の初めのようにセミが静かに鳴いているよ
2007年06月08日
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「わたしは油を注がれた王であるとはいえ、今は無力である。」サムエル記下3:39☆ダビデはサウル王の将軍アブネルに深い敬意を持っていました。やがてアブネルはサウル家を見限って、ダビデの元にやってきます。サウル王に仕えるアブネルの姿に若い時からにあこがれていたダビデは、この日を心待ちしていました。しかしアブネルは、ダビデの軍の長ヨアブに殺されてしまいます。王の落胆ぶりは、全国民の心に痛く響いたことが記されています。ああ人生はなんと思い通りには運ばないのでしょう!王様だって、しもべだって同じなんです。
2007年06月07日
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主がそこにおられる御国への道をひた走ろうとしているのならキミと一緒に行きたいいつもキミのそばにいたいボクとキミとどんな違いがあってもきっと乗り越えられると信じるそのこれからの道がたとえ短かろうと長かろうと問題ではないいつか一人になる時が来てもいま一緒に行く喜びを感じるだけ明日は明日の風が吹くさ
2007年06月06日
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息子アブサロムに背かれ、泣きながら王宮を後にするダビデ。これまで王として流した血また過ちが、否応なく彼の脳裏をかすめます。神の御手を重く感じながら、赦しを請いつつシオンの山をくだります。ダビデは赦しの道を歩いた人でもあります。喜びも悲しみも神様の御手から受け取った人です。ダビデは、神の御前の詩人であり、たくさんの詩を残しています。最後に一つの詩をここに掲げて、ダビデのお話を終えることとします。神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しくあなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてくださいあなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず咎をことごとくぬぐってください。神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けずあなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ自由の霊によって支えてください。わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、わたしの救いの神よ流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、わたしの唇を開いてくださいこの口はあなたの賛美を歌います。もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。御旨のままにシオンを恵みエルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも 焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれそのときには、あなたの祭壇に 雄牛がささげられるでしょう。 詩編第51編全文-----------------------------------------------聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会Executive Committee of The Common Bible Translation(c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2007年06月05日
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信仰にあふれ、凛々しく、国民の敬慕の的だったダビデは、若き時代です。権力を掌握することが人をどのように変えるか、ダビデはその見本と言えるでしょう。ダビデの情に厚い性格は、女性に対する弱さに結びつきます。忠実な部下を敵の最前線に送り戦死させ、王の不倫のつじつま合わせをします。神様の御前に悔い改め、預言者から罪の赦しの宣言を受けても行いの結果は消しようもなく、人妻を奪って形作った家庭は、凍りつくようなものだったと想像できます。その子供たちは、兄弟を殺し、さらに父王に離反して王位をねらいます。これが、「ダビデの御代」と謳われた王国の裏側です。聖書はこれらすべてを克明に記し、ボクたちの目を真実の救い主イエス・キリストに導くのです。
2007年06月04日
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ローマの信徒への手紙5章1~11節「希望はわたしたちを欺くことがありません」「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(2) 神に託された人生の先に、神の栄光にあずかるという希望を持っています。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(5) 「神の愛が注がれている」という保証が付いているから、与えられた希望は、揺るぐことがありません。試練や、かん難もますますこの希望に堅く結びつけるように働きます。 神の栄光にあずかる希望を確信することができた今、ボクたちがすることは、心おきなく主にお仕えして喜びの道を生きることなんです。ただそれだけ!
2007年06月03日
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若い頃の苦しみは、後の人生にどんな影響を及ぼすのでしょう。ダビデは軍人として頭角をあらわすと、全国民の目はダビデに注がれました。時の王サウルは、ダビデに対する嫉みの余り錯乱し、ダビデを亡き者にしようと計ります。だれよりも王に忠誠を誓いたかった青年ダビデは、苦しみます。王を手にかけることができる場面にも遭遇しても、ダビデは王を守ります。一時は和らげられたように見えても、王の心には、たちまちに憎しみが燃え始め、追っ手を差し向けるのです。 憎しみに取り憑(つ)かれること勿(なか)らしめよ「サウルとその兵はダビデをねらって出て来たが、ダビデはその知らせを受けると、マオンの荒れ野の岩場に行き、そこにとどまった。サウルはそのことを聞き込み、マオンの荒れ野にダビデを追跡した。サウルは山の片側を行き、ダビデとその兵は山の反対側に行った。」サムエル記上23:25.26(新共同訳聖書より)
2007年06月02日
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「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。」マルコ11:40キリストが生まれる前のイスラエルでは、ダビデ王の時代が「理想の国」と考えられていました。BC11世紀、まだ少年の頃、国を伺う敵の軍人ゴリアテを、石投げを使って一撃で倒し、ダビデはすい星のようにイスラエルの歴史に登場します。一途な信仰とあふれる勇気が相まって、戦勝に継ぐ戦勝、国民はこぞってダビデを愛しました。ダビデは英雄です。王子ヨナタンもダビデを愛し、王女ミカルも、そして全国民がこぞってダビデを愛しました。------------------------------「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」サムエル記上18:1「イスラエルもユダも、すべての人がダビデを愛した。彼が出陣するにも帰還するにも彼らの先頭に立ったからである。」18:16「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた。」18:20
2007年06月01日
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